縮刷版2011年6月上旬号


【6月10日】 その1票、はさすがに奢りすぎだとしてもその100票が応援に結構な割合でつながると思えばこそ、100枚くらいのCDを買って投票する気力も起こったかもしれないけれどももはや1000票が1000票でも大勢を覆せないとなった時、それでも人は「好きだから」という気持ちだけで応援を続けるのかというと、そういう人も中にはいるかもしれないし、応援している自分に酔いたいという気持ちを内心に抱いてこれまでどうりCDを100枚でも買い続ける人もいつかもしれないけれど、でもやっぱり大半は、もう良いとなってそれなら次に繋がる誰かを応援したいと思い始めるような気がしてならないAKB48総選挙。

 前々回ならトップですら5000弱しかなくってそこに加わる100票は、押している誰かをそれなりに上位陣に食い込ませる効果を持っていた。前回ですらトップが3万超で100票でも下位ならやっぱり結構な比重をもって順位を動かす役目を果たせてた。それが今回は13万と文字通りにケタ違い。1万票を入れたところでトップと2位とを覆せないとなった時、それでも応援し続けられる人はいったい何を拠り所にしているのか、ちょっと理解が及ばなくなって来た。

 こうなってくるともはや上位は上位だから上位であり続けるというトートロジー的スパイラルに陥って、どれだけがんばってもメディア選抜より下に位置する人たちを、押し上げることが難しくなってくる。もっとメディアが下位にも気を配って押し上げてくれればって思うけれども、目先の数字を誰よりも尊ぶメディアこそが上位は上位だから上位なのだというトートロジー的スパイラルの総本家。数字の取れない下位には目もくれないで、上ばかりを取り上げそれが一般の薄い層の目に留まって知ってる名前を書けば良い的心理でもって、上位陣のさらなる押し上げをやる循環の、どこにももはや「僕たちのアイドル」というスタンスが入る余地はない。

 期待されているはずの松井珠理奈ですらSKE48ってことであるいは露出が足りないからなのか、上位にステップアップするどころか順位を下げているという状況。一方でメディア受けが良いのか指原がどんどんと順当に上をうかがう勢いで、これに目を付けさらに押しだそうとするメディアの引きを受けてきっと、次回があればさらなる上位へと食い込む可能性が現時点で既に見えている。もはや商業ベースでもってすべてが決まってしまうアイドルに、いつまでもついていくほどファンは従順なのだろうか。それとも引いてしまうのだろうか。

 うーん、分からないけれども岐路にあるってことだけは確か。ここで秋元康さんがなにを見据えてどう動くのか。もう結果の見えている総選挙なんてやめにして、新しい序列を作り出すような仕組みを作って延命ではなく活性化、そして拡大を狙うってのが秋元さんらしい気がするけれど、そうした勝手を許してくれるほど、もはやAKB48はパーソナルな存在ではなくなって来ているように見える。メディアと事務所と代理店とそして新しく入ってきたファンの結託で、市場を維持し続けなくては誰かが不幸になってしまう存在になってしまって、秋元さんの一存でどうにかできるレベルを超えてしまっているといった印象。揉まれ消費されてやがて……となるんだろう。それもまた一時代。乗れず乗らないで来た身には大勢に変化はないんで、その先に来る何かを想像して楽しもう。事務所を移籍した時東あみさんの復活を喜びつつ。

 何かやってるってんで広尾にあるカイカイキキギャラリーまで行って村上隆さんの新作という「黒田清輝へのオマージュ。『智・感・情』」という作品を見る。名前の通りに明治期の洋画家、黒田清輝が描いた3人が3様のポーズをとった裸婦像「智・感・情」を現代に取り出して、初音ミクを描いたKEIさん、ゲームとかイラストで活躍している大槍葦人、美少女イラストで人気のTonyさんという3人の絵師に描き直してもらったという大型インスタレーション。行くとなるほど現代の感性でもって描かれる多様な女性のフォルムって奴を見せてくれていて、今という時代だからこそともいえる豊穣で斬新な表現の可能性を示してくれていた。

 選び方が絶妙というか、3人が本当に3様で大槍葦人さんが描く女体はとても肉感があって黒田清輝が描いた時代の裸婦像が持っていた、肉と脂肪が肌の裏側に満ちた女性の姿って奴を、現代的な線の中に残してくれている印象。一方でTonyさんは、原型となった女性の姿をリファインして、スタイリッシュさを出した現代美少女イラストっていった雰囲気。9枚がそろった絵の中でも、もっとも見ていて美しいと思ったのもTonyさんが描いた「情」を写した作品で、すらりとした姿態のラインと程良い胸の膨らみ具合、そして吸い込まれるような表情に、美少女イラストのオーソドックスって奴が感じられた。

 対極がKEIさん。なるほど美少女ではあるんだけれど、そこに人体をそもまま写そうといったデッサン的な感覚はほとんどなく、デフォルメされたマネキンのように女体をある種、象徴化させたフォルムでもって描かれていて淫靡さとか猥雑さといったものを感じさせない。生命といったものとも違ったつるつる感。だからといってそれもしっかり女体であり、美少女だと認識してしまうこちらの感性こそが、すなわちKEIさんのような絵師を育み、そんな絵師から影響を受けて生まれてきた現代ならではのものだって言えるのかもしれない。顔立ちと目の塗りにKEIさんらしさも出ていて、それもまた現代ならではの美少女像って奴を象徴していた。

 傍目にはお題を与えられた絵師たちが黒田清輝を模写しただけってとらえられそうな作品だけれど、そうしたところになにがしかの問題意識を示し、こうするんだという企画を立ち上げた上で、絶妙な案配でもって大槍葦人さん、Tonyさん、KEIさんという3人の絵師を選び出し、描かせた上でトータルで展示して、そこに違いを垣間見せつつ製作過程もファイルにして公開してみせたところに、コンテクストをもって作品を生みだし提示してみせるアーティストとしての村上隆さんの意識が、ちゃんと反映されている。その意味でこれは完全に村上隆さんの作品って断言できる。

 かつてキャラクターという概念に着目し、それらを反映させたDOB君を作り展開した村上隆さん。やがてフィギュアという概念にも目を配り、BOMEさんという才能を引き入れKo2ちゃんという作品を作ってみせた。どちらにも感動し感銘した、僕が好きだった村上さんらしい作品ってことで、見て別に驚きもしないロッポンギルズ系キャラクターだの、高級ブランドに色の違いとワンポイントのアイコンを足すだけのコラボレーションだのを経て、昔の挑戦的であり吸収的でもある村上さんが戻ってきてくれたって嬉しさが浮かぶ。これからもこういう試みが続けば良いんだけれど、一方からは才能の剽窃だと非難され、一方に商業からの要求もあってなかなか難しいんだろうなあ。高級さと絡むことで挙がる名誉ってのもある訳だし。まあ今にこうしてこういう作品を作れるだけの才気を見せてくれた訳だから、また作ってくれるだろうと信じて待とう。


【6月9日】 ロックの日。超人ロックの誕生日、かどうかは知らない。「超人ロック」といえば興味を持ったきっかけのひとつに何かの雑誌かムックに載ってた「機動戦士ガンダム」絡みのモビルスーツ特集に、「少年キング」で連載が始まった際の最初のエピソード「炎の虎」に傭兵たちが体を接続させた装甲服を着ていた場面が挙げられていたことがあったなあ、と思い出す。その前から名古屋のいりなかにあった山洋堂書店に作画グループの単行本として置かれていたのは見ていたけれど、買わず読んでなかったものが「ガンダム」に繋がるものとして意識して、少年画報社版も含めて読み始めて読み込むようになって今に至る、という感じ。

 ある意味でガンダム様々であり、また同時に主題を横串にしてさまざまな作品を網羅的に紹介し、興味の幅を広げてあげるといった記事が昔は多かった。接続のきっかけを与え啓蒙していくことによってジャンルが豊穣になり、ファンの層も増えて盛りあがる。SFとか漫画とかアニメってそうやって大きく市場を広げていったんだけれど、今は特定の作品、特定のキャラクターをのみ深堀りして取り上げることで、そのファンをのみ引きつけ喜ばせる特集なり、記事が多いというか。まあ同じ主題を横に広げるのってそれを知っていないと出来ないことで、調べ直すのにも手間がかかる。1つの作品への思いを深く濃く綴るほうが書く側も楽だし読む側もそれで満足するとなったらそちらに傾いてしまうのも当然か。

 とはいえ関心を横に滑らせてあげ目を他へと向けさせてあげることによって視野を広げ、全体への興味を喚起させることによって得られた何かが、シュリンクしていっているのもまた実状。その結果が作品単位で盛りあがっては作品の終了とともにブームが消えて市場が冷え込むサイクルを真似ているのだとしたら、これはちょっと寂しいかもしれない。同じジャンルでも似た傾向のものを網羅しジャンルすら飛び越えクロスオーバーさせていくような記事なり特集が生まれ、一方でそれを楽しい面白いと許容するマインドが生まれて来るにはいったい何が必要か。好奇心、なんだけれどもそれが萎えているんだよなあ、今の時代。どうしたものかなあ。

 「ガンダム」が良かったから「イデオン」や「ボトムズ」といったシリアスが盛り上がり、カウンターとして「バルディオス」やら「ゴーショーグン」のようなスーパー系も盛りあがる横すべりがあの時代の喧騒を呼んだような印象があるけれど、やがてそうした他への好奇心が薄れこれで万全とばかりにひとつが持ち上げられ持てはやされた結果としてある「ガンダム」の絶対神話。新作が登場すると聞けばいったいどういう風になるんだと情報が飛び交い流言もささやかれるけれども、どうやら本当に近い話として、キッズ向けのものになりそうだって情報がネット上をあっちこっちへ。

 見たところ、ダンボールのガンダムがサッカーをするような、そんな印象すら受けるビジュアルにこれで果たして「ガンダム」のファンは満足するのか? といった懐疑も浮かぶけれどもそういう人には「ガンダムUC」があり、そうでないキッズに新しい入り口として新ガンダムが用意されるのだと思えば、とりたてて騒ぐことのほどではないのかも。「SEED」で盛りあがり「00」で増えた男性キャラ目当ての女性ファンがばっさり切り捨てられるのか、なんて心配もあるけれどもイレブンが稲妻している作品にだってすごい女性ファンたちがついている。それが何であれ腐らせる自信と覚悟を持った人の前に形態なんて関係ないのだきっとたぶん。しかし本当なのか。事実は月曜日に明らかに。

 しかしこれだけのビッグなプロパティともなると、いつかは自分もと思っているクリエーターも多そう。とはいえビッグ過ぎて新しい試みとか画期的な試みを行うのはもはや不可能に近く、サンライズというアニメ制作会社が作らなくてはいけないという制約もあって人脈もカラーも決まって来てしまう。それだから良いという意見もあるけれども根幹としてこれだけ揺るぎないものがあるプロパティを、もうちょっと楽しんでみるような企画があったら良いのにと、今回の一件なんかを見て思ってみたり。ひとときに1つか2つだから内容もしぼられ範囲内の人と範囲外の人が生まれてしまう訳だから。

 ちょっと前にタツノコプロが「キャシャーン」をマッドハウスで「キャシャーンSins」として作ってもらって、画期的なものが生まれたようなチャレンジ。あるいは「HALO Legends」のように複数のスタジオの様々なクリエーターが基本を抑えつつそれぞれの着想で「ガンダム」を作ってみるようなチャレンジ。あったらちょっと面白いかも。東映アニメーション的なガンダムにシャフト的なガンダムにテレコムアニメーションフィルム的なガンダムに4℃的なガンダムにプロダクションI.G.的なガンダム。有り得ないけど見てみたいなあ。

 すごいすごい。新しいプラレールが発売されるってんで駅のすぐそばにたつ高級ホテルの線路を見下ろせる部屋で開かれた発表会をのぞいたら眼下に新幹線がいっぱい見えてすごかった、じゃなくって新しいプラレールがすごかった。その名もプラレールアドバンスはサイズが今までおりぐっと小さくなっていてほとんど鉄道模型のよう。細部までしっかり作り込まれていて、それを見ているだけでも列車に近づいたような気分になれる上に、プラレールの青いレールの上を走らせて楽しめる。えっ、サイズが半分くらいなのにどーしてあの太い線路を? と思うのも当然。実はこのアドバンス、あの線路の半分だけを使って走らせることが出来るのだ。

 1本の線路があればその上を2両併走だってさせられる。すれ違いだって再現可能。世界に広がるプラレール資産を行かしながらも新しい客層を引き込めるという優れもの。だからすごい。実際のところ今のプラレールだって大昔に比べれば、ずいぶんと細部まで作り込まれていて、本物っぽさが出てはいたけどしょせんはやっぱり子供のおもちゃ。大人が触って満足できるものではなかった。かといって鉄道模型に向かうには資金もなければ場所もない。このプラレールアドバンスだったらそれほどつぎ込まず、子供に与えたレールの一部を拝借しつつ、自分の趣味として鉄道をもって走らせ楽しめる。新幹線の歴代に山手線にあといろいろ。これに名鉄のパノラマカーと近鉄のビスタカーが加われば、って思うけれどもそこは売れ行き次第なので、鉄道ファンは期して発売を待ち、買って楽しんだ上でその喜びとこれからの希望を、タカラトミーへと伝えたまえ。


【6月8日】 それは幾つかあった可能性の1つで、Jリーグのナビスコカップの試合が日曜日にフクダ電子アリーナで開かれて、それが夕方ではなく午後だったために昼時にいったん秋葉原を見物して、それから蘇我へと向かって我らがジェフユナイテッド市原・千葉の勝利に喜んだ3年前。もううちょっと早起きしていたら、あるいは試合が夕方からだったら、直接蘇我へとは向かわないで、ちょっと様子を見に行こうかと昼時に、秋葉原を歩いていて事件に遭遇した可能性もあった。むしろ当日の気持ちの中では、いったん秋葉原に行こういう思いが確かにあって、けれども間に合わないと諦め直接蘇我へと向かった。だから紙一重とまではいかないまでも、コインの裏と表の関係くらいには、あの事件は僕の人生に近いものがある。

 だから今日という日に僕は、秋葉原へと向かって交差点の角に立って手を合わせ、祈りを捧げずにはいられない。去年も、2年前もそうしたし3年前は事件のあとから1カ月、ほぼ毎日のように秋葉原を歩いて頑なになった空気がどうほぐれ、戻っていくかを身に感じようとした。1年経った日にはまだ、残っていた悲惨なできごとへの記憶も、2年目にはやや薄れ、3年目となった今年はいっそう、遠のいたような気がした。献花の分量。取り囲むメディアの数。どちらも確実に少なくなっているという印象。もちろん風化した訳ではなく、同情や関心といった感情だけではもう迎えない時期に入って、今もなお行かざるを得ない思いを抱いた人たちが、凝縮されて集まってきているのだと言える。その意味では、風化というより深化したのかもしれない。

 午前10時より前に到着した秋葉原のソフマップ前で、手を合わせて瞑目すること5秒ほど。出来ることはそれだけで、背後にカメラマンを感じながらその場を後に。その時は同じように祈る人の姿は見えなかったけれど、時間によてはそれなりに、人も集まって取り囲んでいた様子。道路側へと出て、下から見上げる写真を撮るカメラマンの一方に苦労をしのび、一方にそこまでしなくてもと訝りつつ、あといったい何年くらいこうしたメディアで取りざたされる状況が、続くのだろうかとも一方に思う。新宿バス放火事件の被害者に祈りを捧げる人たちの話を聞くことはないし、歌舞伎町での放火事件の被害者に、黙祷する人たちの話もあまり聞かない。心には深化してもメディア的に風化していく事件と平行して、それが起こった背景も忘れられ、秋葉原という地に満ちていた喧騒も別の賑やかさにすり替わって、別の日々が始まるのかもしれないけれど、それでもやっぱり僕は通い続けるんだろう、6月8日の秋葉原へ。

 それにしても3年という月日は彼我の立場を大きく変えてしまったんだなあ。ドンキホーテ前にはAKB48の劇場の多分入場を待つかどうかしている人たちがたくさん並んでなかなかの賑わい。総選挙を控えてメディアには嫌と言うほどに情報が溢れて、咳をしてもニュースになるような人気者っぷりを見せているけれど、3年前にはまだそれほど知られていなかったAKB48。事件が起こったすぐそばで活動していことを、親たちが心配しているといった視点から書かれ、当人たちは事件のことを知らされないまま公演を続けていたと書かれてあって、誰がどんな気持ちを抱いたか、といった固有名詞ではまるで語られていない。もしも今の人気の中で、この事件が起こったらきっと凄まじい取材が、個別に押し寄せ言動が取りざたされることになっただろう。時間というものはやっぱり重い。3年後に果たしてあそこにAKB48はまだいるのか。時間というものはやっぱりすごい。

 あんまりすごいんでとりあえず、ベストアルバムとやらを買ってみたけれどもとらのあなでおまけについてくるブロマイドがまず誰だか分からない。ロリータなファッションをした人でジャケットにも写っているけれど、篠田じゃないし板野じゃないんで顔がまるで分からない。それから中を開いて入っていたブロマイドもやっぱり誰だか分からない。顔だけ見せられたってねえ、って体があってもわからないんだから仕方がない。歌は知っているものはないし踊りもあんまり知りはしない。それでどうして買ったかというと誰が出るか分からないブロマイドで誰が出るかを試したかったという体験を求めて。ガチャポンをとりあえず回してみる感覚だけれどこれでは複数枚は買わないから、相手の商売に乗ったといえるかどうなのか。とはいえ流石にアルバムでフルコン狙いのトップオタはいないだろうなあ。いないよなあ。いるのかなあ。いたりして。やっぱりすごい。

 例えば民主党が嫌いだとか、訳でも菅直人総理が大嫌いだといった言説は、公立中正を旨とするならばあまり歓迎できるものではないけれど、主義主張のない言説もまた意味がないと考えるならば、あって決して問題だとは言えない。けれども科学でもって立証されるべき歴史に対して、神話でありファンタジーを持ち出して、そこに書かれてある記述も正しい歴史だと強要するのはもはや宗教。それを政治の世界に関わる者が、知っておくべきだというのは政教分離の観点からあまり好ましいことではないし、日本人全員が知っておくべきだというのも、決して真っ当とはいえない。あるいは科学としての歴史をしっかり把握した上で、歴史の上に生まれるファンタジーとしての神話も知識として認識しておくのが、態度としてはベターなのかもしれないけれど、それ以上のものを望むのは、やっぱり筋が違う。幾ら難でも言い過ぎだと、誹られるのも当然だろう。

 そうした言説がいきなり出てきたのなら、まだ同情もできるけれども、直前にそいうした宗教的ファンタジー的認識を土台に、史実の延長としての歴史を問うて方々から疑問を提示された国会議員の言説を、情報として掲載して同様に疑問を呈された過去を持ちながらも、1面下のコラムという、ある意味でメディアの体面をそのまま現すコラムにおいて、そのまま引き合いに出して当該の国会議員を完全に擁護し、称揚するような言説を発しているのだから何というか。「南北朝時代もかなり昔というイメージだが、有史以来現代までの5分の4程度のころのできごとで、『ついこの間』のような気がしてくる」と書くからには、歴史の存在を神武天皇の登場に置いていると考えられるけれども、史実に存在が確認されていない人物を、歴史の始まりに置くことの何という不思議さに、書いている人は気付いているんだろうか。127歳で亡くなられたという人物の存在を、歴史の上に置いて良いということなんだろうか。何がなんだか分からない。

 神話も含めて歴史というなら、それこそイザナギイザナミが国を作ったところから有史と呼ぶなら潔い。むしろそうするのが本当の愛国というものなのに、まるですっとばしていたりするところに、愛国とかいったこととは無関係に、皇紀を題材にした質問に答えられない枝野官房長官および民主党の姿勢を、非難するための材料として、日本の歴史を引き合いに出してその愛国心を問うたんだってことが伺える。それのどこが愛国だ。どうにもやるせなさが募る。「日本の歴史の重要なことがらも『第何代天皇のころ』として見れば、ぐっと分かりやすく身近に感じられる」。へえそうかい。鉄砲伝来は第105代後奈良天皇のころ。関ヶ原の戦いは第107代後陽成天皇のころ。どうだい? ぐっと分かりやすく身近に感じられただろ? そんな訳はありません。考えればすぐに分かりそうなことを、一事が万事というか、言いたいことのためだけに引き合いに出してしまうその態度に、果たして皇統への敬意ってものがあるのか。どうにも胡乱さが漂う。

 とはいえしかし、1面コラムというある意味でメディアの言説を代表する場で問いただされたことであって、そこに連なる者たちはだからこれから一切の歴史的事実を、第何代の天皇の頃にあったかで憶え、書き記す必要が生まれてきそうだし、神武綏靖安寧威徳といった感じに歴代の名を憶えて毎朝暗礁できるくらいにしておかないと、聞かれた時に書いておいて何だと言われそう。かかって来た電話で第何代はと聞かれて即答できないと、言行不一致を咎められそうだからきっとこれから夜を徹して全員で、神話の本をひもとき百科事典を繰りネットを調べて歴代を書き記し、南北朝の頃の不安定さも含めて全部暗記して、明朝を迎えることになるんだろー。ご愁傷様。って言って良いのか。良いさもう。なあ。


【6月7日】 溜めてあった先週分から「戦国乙女」を見たら、明智ミツヒデがどんどんと暗黒面に落ちていったけれども、そこは多少の火ぐらい気合いで吹き飛ばしてしまう織田ノブナガだけあって、ミツヒデによる心中のための放火を襲撃と勘違い。刀を持ち弓矢でもって火を退け、ミツヒデを籠絡して結果、歴史のあったような「本能寺の変」とはならずに八方丸く収まったかに見えて、裏で暗躍していた伊達先生が赤い鎧甲を持って逃走したその先に、本性を現した徳川イエヤスが声まで変えて立ちふさがった。これを倒していよいよヒデヨシは現世に戻れるのか、それともやっぱりノブナガと共に天下布武への道をひた走るのか。乞うご期待。

 って感じで何故かほとんど溜めずに見てしまう「戦国乙女」。あらゆる漫画やアニメーションがパチンコになったりされたりするこのご時世に、パチンコから生まれて育ってアニメにまでなったコンテンツは、「海物語」もあるし「吉宗」もあって珍しいとはいえないけれども、これほどまでに現代的なアニメとなって普通に楽しまれるものになるとはちょっと予想外だった。どういう経緯で立ち上がった企画かは分からないけれども、キャラくらいしかなかっただろう元のパチンコに、物語が加わり動きがついて声が入るとこんなにも面白いコンテンツが出来るんだ。他人様のコンテンツを濫用して焼け野原にしているだけってともすれば見られがちなあの世界にあって、自身もコンテンツを生み出す力を持っているって分かってもらえる実例にもなっている。

 とはいえそれでパチンコの「戦国乙女」に向かう人がいるかどうかは果たして。すでにある知名度をパチンコに呼び込むのとは違って、すでに稼働しているマシンからスピンオフした場合、マシンのサイクルからずれて人気が盛りあがってしまうこともあるわけで、それだったらやっぱりありものを買って使い倒していく方が、楽だし便利ってことになりかねない。だから「戦国乙女」を気に入った人は急いでかけつけ、稼働している分を遊んで人気を盛り上げて、再びアニメが作られるような機運をつくるべきか、って言われるとそこはやっぱり迷いどころ。それだけやっぱりパチンコってどこか向かうに壁がある。ゲーセンじゃないんだよなあ。そんな心理の源を、探りわだかまりを解していくことが巧いコンテンツの脱出口になるんだとしたら面白いけれど、さて。

 東京スカイツリーの開業が来年の5月22日に決まったとかで、思ったのが何でまたこんな脈絡のない日にってこと。やっぱり634メートルの高さにちなんで6月34日にオープンさせて欲しかった、っていつだよ6月34日って。来年だけ特例で6月を35日制にしてその分7月を減らすとかすれば面白いのに。サマータイムにするより影響は少ないんじゃないの、ってカレンダー作りとか大変だからやっぱり無理か。だから今の企業なんかがやってる私家版サマータイムと同様に、墨田区だけが6月34日を作るという方向でやれば良かったんだ。5月22日じゃあやっぱりよっと味気ない。あと展望台への料金が3000円とかで、高いって声もあるけれど、あの眺望あの体験を思うなら、Jリーグをちょっと良い席で見る料金だと思えばそんなに高いって気はしないかも。あるいは映画2回分か。そう思うとやっぱり高い? だからそれに見合った体験を。占拠されとらえられては開放されるハプニングとか。

 どんなものでもちゃんとそろう秋葉原の店には、話題の放射線量測定器もちゃんと打ってはいるけれど、7万8000円とかするとちょっと気楽には買えそうにもない。とはいえそこは人民解放軍御用達の放射線量測定器。なおかつニセモノが跋扈している世界にあって、本物であることを確認するためふたを開いて中身の電子部品の数とかちゃんと調べたお墨付きだから、ミリタリースペックならではの威力を発揮して、細かいところまで性格に調べてくれるだろう。でもやっぱり高いかな。6月11日にはガイガーガウンターミーティングってのが 秋葉原にある廃校跡を使ったギャラリー「3331」で開かれるみたいんで、買って持参してスペックとか確認したいところではあるけれど、その1発芸のために買うにはちょっとさすあに。というより本当に必要としている人もいる訳だからそういう人の手にちゃんと、届いて頂ければと願う限り。秋葉原だったらパーツ集めて自作とか出来ないのかな。

 まあだいたい分かってはいたけれど、それにしてもやっぱり意外性がたっぷりな「荒川アンダーザブリッジ」での村長こと河童の小栗旬さんと、星の山田孝之さん。顔が見えてなんぼな役者さんたちが全身を装い顔にはメイクとかして被り物もしてまるで表情とか分からないようにした上で、出演するんだからいったい何があったんだ、って反応が出るのも当然か。逆に言うならそうした顔だけ演技ではカバーしきれない全身の演技、声の演技でもってそれが村長であり、星でありなおかつ小栗旬という役者であり山田孝之という役者であることを、感じてもらえるだけの自信があって引きつけたんだろう。それだけ期待して良いってことなんじゃなかろうか。小栗さんは「岳」で山男をやってそして「宇宙京大」で難波田六太もやってと漫画原作続き。とくに六太は感じ違うって声が大勢だけれど、河童にだって挑む覚悟を見せた今では同じ人間、そして長身という部分でもハマってる六太だって万全にこなせるって思った人も多い……のかな、やっぱりいろいろ気になるなあ。ともに完成が待ち遠しいなあ。


【6月6日】 雨ざあざあ降ってこない。そして「日常」はだるまさんが転んだの必殺の勝ち方、って奴を教えられるけれどもどちらも忍耐力が大変そう。黒板消しってどう頑張ったってクラスに2つなのに前の扉に2つと脇の扉に1つの3つも用意とはなかなかにゴージャスな学校。それとも前の黒板に2つとそして後ろにも黒板があってそこに1つとか配置されていたんだろうか。電子黒板が完全に普及すると黒板消しのトラップも伝説になるんだろうなあ。次回予告はエリマキトカゲで声が悟空とは超豪華。てっきりスーパーの冷温棚が喋ると思ったけれどもかわされた。今日も楽しかったよ。

 宮崎駿監督によるアニメーション映画「ルパン三世カリオストロの城」のラストシーンが記憶に強く染みている。ルパンがクラリスの背中に回した手を、重ねようとして躊躇い逡巡し、懊悩した果てに離して抱きしめることなく、クラリスを諭し去っていく。その決して長くはない時間に通っただろう心情と、深く重なっているかもしれないと、日向まさみちさんの新刊「ロンリー・コンバット!」(角川書店)を読みながら考えた。塾の講師として社会を中心に文系を教えている主人公は、オタクで漫画が好きアニメが好きゲームも好き。なによりロリコンで、少女が可愛いと思う性向だけれどそれを決して表には出さず、心で思うだけで塾講師をしっかり勤めあげている。

 漫画やアニメが好きなオタクであることもキモがられると、生徒たちには言わなかった主人公に訪れた転機。それは、親が夜遅くなるのは心配だからと、塾を辞めさせた少女の家庭教師に、塾講師を兼任しながら就任したことだった。なおかつ主人公は少女に恋をしてしまったから大変。お下げで眼鏡の委員長風の少女が、実はとてつもない漫画好きでそれも黄金期のジャンプアニメが好きというから大人の男としてはたまらない。話も合って仲良くなって主人公は少女に、そして少女は主人公に恋心を抱くものの、そこに壁が立ちふさがる。親が娘を溺愛していて許すはずがない。講師と生徒との決して超えてはいけない一線を厳格に守らせようとする塾の決まりもあって、主人公は少女への思いを思いの中に留め置こうとする。

 そこにアクシデントが起こりすべてが暗転しかかるという展開の先に、待つのは犯罪者として糾弾されるバッドエンドなのか? それとも希望への道なのか。心の中で思うことに罪などなく罰もない。けれども、一線を越えてしまった時にカタストロフが起こるのも仕方がない。その事実を見せつつ、それでも生まれた恋心をどう昇華させるのかが主人公の懊悩と葛藤に描かれる。同時に、少女に自分を好きにさせる意味も問う。それは可能性。教師と教え子の時には夢を語り未来を語っていた少女が恋情を挟んでどうなったのか。それは正しい姿なのか。愛さえあればという理想を一方に愛だけではという現実も指摘する。

 人それぞれに無限にある可能性を奪う責任の重さが「ロンリー・コンバット!」で説かれる。クラリスを抱きしめて連れ出しスリリングな日々に耽溺させるても彼女は幸せだったかもしれない。けれども、それ以外にあった様々な可能性はそこで閉ざされる。回した腕を慚愧に耐えながら外し、突き放したルパンの心情を思うなら、「ロンリー・コンバット!」の主人公の決断も当然の結果。格好良すぎるけれど、そこで踏みとどまったからこそ彼はカリオストロ伯爵にならずに済んだのだ。ロリコンという観念を探求することの自由さと、ロリコンという実際を行うことの責任。その境界で葛藤し冒険し懊悩する。そんな物語である「ロンリー・コンバット!」を読んで、ロリコンは身と心を改めて問い直し、そしていっそう困難さを増すこの時代を生きる術を見つけだそう。

 次の「機動戦士ガンダム」がいよいよ始動するってニュースが飛び交って浮かぶ想像。この戦国ブームを受けて次のガンダムは「戦国GUNDAM」となって伊達が額に三日月の鉄甲機を操り、真田は6文合体で受けて立つ、バトルアクションストーリーになるんじゃないか。でも最強は本田忠勝。そこだけは譲れない。あるいは次の「機動戦士ガンダム」は、球体ロボットのハロから誘いかけられた契約を結んでモビルスーツをもらった少年たちが、地球を脅かす敵を倒し続けるものの、やがてダークマターに全身を冒され敵に変じて地球を襲う繰り返しをどう断ち切るかで1人が頑張る話になるんじゃないか。どっちだろう。どっちでもねえ。

 個人的に見たいのは「機動戦士ガンダム24」かなあ。1年戦争の主要エピソードから重要な1日を選び、1話1時間のペースで24話かけて描くという展開。シーズン1はサイド7からの脱出、シーズン2は大気圏突入、シーズン3がガルマ散る、シーズン4はククルス・ドアンの島、シーズン5はランバラル特攻。ハモンさんの1時間だけで1話まるまる使っても良いですねえ。そしてシーズン6はジャブロー、シーズン7はサイド6でのララアとの邂逅、シーズン8はテキサスコロニーの攻防、シーズン9がソロモン戦でファイナルがア・バオア・クー陥落。シーズン8では24話のうち1話はまるまるセイラさんの入浴に費やされる。視聴率無茶苦茶高くなりそう。サンライズに決断を望む。

 人気を取りに行くなら「機動戦士ガンダムAKB48」ってのもありかなあ。メンバーがモビルスーツに扮して戦う実写ドラマで、ガンダム、ガンキャノン、赤ザク、赤ズゴック、赤ゲルググなどメーンは選挙で決定。AKBファンとモビルスーツファンの両方からの参加を見込めそうでセールス一気に爆発しそう。ただし背の高い篠田はビグ・サムが決まっているんで除外。あと指原にはコレジャナイロボをやってもらうんでやっぱり除外。ボールとジムにならないように頑張るんだメンバーたち。でも1番落ちつきそうなのがこの企画。「もしホワイトベース艦長のブライト・ノアがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」。冷静で部下の掌握も完璧なブライトの指揮でホワイトベースのクルーが一致団結してジオンを振り切る話。でもアムロは殴られず家出せず成長せず覚醒しないので連邦は最後に敗れます。駄目じゃんドラッカー。


【6月5日】 ドラマが一方で作られていて、そこでカティアとモーリスというクラフト夫妻のなれそめやら、業績やら雲仙での活動やらがドラマとして描かれているものを、当時のニュース映像と、関係者へのインタビューを加えて再構成したものがあるいは、夜にNHKの地上波で放送された番組で、だからこそいわゆる再現ドラマ的なチープさとはちょっと違った、役者の質も演技もそれなりのドラマが、ドキュメンタリー的なパートに挟まって、不思議な印象を醸し出していたんだろう。

 けれども、ドラマなんでやっぱりスペクタクルに描きたかったのか、ちょっとばかりケンカしていたモーリスのところに、後からカティアがかけつけて、そこで張り合うように撮影を行っていたところにまず1度、そして2度と火砕流が襲って、逃げるタイミングを逸したような展開と、そして迫る大火砕流に昔の特撮映画で、怪獣に追いかけられる市民のような構図でもって、クラフト夫妻が巻きこまれる映像が加わって、そこだけどこか作り物感が漂って、全体のトーンを凸凹としたものにしていた印象。

 むしろ徹底的にドキュメンタリーに徹して、火山を観測していた太田さんという教授の人が、どういう経歴から雲仙普賢岳に関心を抱き、観測を重ねその結果、あの噴火を感じ取り、そして初めて見る火砕流という現象をどう捉え、どう分析した上で何が起こるのかを予測して、島原市の鐘ヶ江市長に連絡し、それを鐘ヶ江市長がどういった理由から信じるに足るものだと判断し、避難を勧告してそれが結果として、無理に入り込んでいたマスコミと、それにつられていた運転手と、様子を見に戻っていた消防団員たちをのぞけば、住民にほとんど被災者を出さずにすんだ、今に思えば奇跡的ともいえる状況を、現出せしめたのかを、克明に分析して欲しかったという気もしないでもない。

 大事に関わる時に人は、どんな判断をするのか、それは知識か経験か、胆力が状況か、何によって左右されるのかといったことを、人間のメンタルな部分、状況のポリティカルな部分、知性のアカデミックな部分などから格子状に眺めてみて、どこが巧くかみあっていたか、あるいはズレていたかを報じてくれた方がいろいろと、参考になったかもしれない。今もなお続いている難局を、どうしのぐかといったことへも、存分に応用が利きそうだから。とはいえ、それもまたドキュメンタリーのスタイルとしてはありきたりで、見るに飽きるかもしれないとなれば、ああいった、ドラマ仕立ての部分で関心を引き寄せ、見続けさせるという手もあったと考えて良いのかも。とりあえずカティアの人は良く似てたって印象。あと本当に、モーリスの突出がカティアを巻きこむ形になったのか。その辺りはBSプレミアのドラマに任せた。

 我らがジェフユナイテッド市原・千葉がザスパ草津を相手に苦杯を喫したのを横目に、折角だからとJ2リーグの他の状況でも見てみようかと駒沢でFC東京と、愛媛FCとの試合が開かれるのを見物にゴー。途中、「タイヨウのした」って小林幹也さんがデザインした家具や、セレクトした雑貨、食器、ジャムなんかが販売されているショップに、書いた記事が掲載された新聞を届けにいったついでに、隣にある「P−KOEN」って雑貨屋をのぞいたら、先週あたりはまだ修理中だった丸石のゴールデンアロー号と、それからツノダのTU号のデラックスか何かが、完品となって値札も着けられ売られていたんで観察。ゴールデンアロー号はどちらかといえばジュニアスポーツに近い雰囲気で、1段ごとに動くシフトレバーがついているけどフラッシャーとかリトラクタブルのライトがついた1970年代のものとは違って、シフトも飾りもシンプルで、青いフレームともあってレトロモダンな雰囲気。こ洒落た人が街乗りに使うと結構受けそう。

 そしてツツンツノダでおなじみの、ツノダのTU号はシフトレバーがいわゆるスポーツ車と同様の、っても最近のはブレーキレバーに組み込まれたスイッチになっているから知らない人もいそうだけれども、三角形の斜めになったダウンチューブにつまみみたいに取り付けるタイプのものになってて、ほかに飾りも少なくってシンプルさと少しばかりのモダンさが、混じってこれは近所を軽快に走る時なんかに、使うととても格好良さそう。サドルも革製大銅鋲っぽいデザイン。そしてハンドルだけがセミドロップというかコの字型で前傾せずとも握って操作出来そうな形状ってのも、スポーツよりはサイクリングを楽しむ上で適当。そんな今は多分絶対に手に入らない自転車が、ともに6万8000円だかで並んでいるのは全国でも多分そこだけ。目がない人も興味だけの人も、行って眺めれば多分何かを感じるだろう。近所に住んでいれば欲しかったけれども遠いんだ我が家は。だから誰かにお譲り。いかがっすか。

 環7をちょい歩いて駒沢陸橋の下をくぐろうとしたら見えた赤と青のラインのバスに、乗っていたのはFC東京の選手たちか、長髪な選手が見えたけれどもあれは石川ナオ選手か、分からなかったけれどもそのまま走っていった後をくっついて歩いて駒沢競技場までやって来て、中に入ったら一平くんのTシャツが売っていたんでさっそく購入、そしてスタンドに陣取ると、一平くんが歩いてきては反対側へと行って、FC東京のドロンパを相手に戦って敗れて担架で運ばれようとして落とされて、その担架を自分で抱えて戻っていた。ちょっと新機軸。そして試合はFC東京が先制しながら、追いつかれてドローに。前戦までは送り込めてもそこからフィニッシュのアイデアがなく、固いブロックを敗れないで一進一退といった感じ。サイドで崩せないのが痛いのかなあ。とはいえ崩してもトップはちびっこばかりだし。つまりはちぐはぐ。選手層の問題なのか采配の問題なのか。結果は遠からず出るだろう。

 一線、というものがあるのかないのかと問われれば、やはりないと思いたいのが人情ではあるけれども、多くのことをしでかしてなお一切の自省自責を抱かない存在、というものも現実にいたりするのを目の当たりにすると、やはり門を超えた向こう側というのはあるのかそれとも、強靱な精神で超えたフリを続けているのか、いろいろ考えてしまった。小学館のガガガ文庫から登場の赤月カケヤさんによる「キミとは致命的なズレがある」を読みながら。1つダブった少年が周囲から距離をとられながらも同級生の少年と、少女の1人づつからは関心をもたれ友人としてつきあっている。優しい少年におせっかいさもちょっとある少女の間で日常を保ちながらも主人公の少年は、過去になにかあって失ってしまった記憶から沸いて出るようなビジョンに怯えている。それは少女を殺してしまったビジョン。

 そんな少年に謎の手紙が舞い込み、事態がぐっと動き始める。少年を昔おこった少女殺しの犯人と決めて襲ってくる赤鬼がいる。少年をそうした殺人者だと感じて怯える教師がいる。追いつめられる中で主人公の少年は、なぜか自分に関心を向けてくれていた、近所にいて高校に進まなかったという少女の存在にまで不安を抱きながら混乱し、真実を求めて探求に出た果て。恐るべき真実に気付いて慟哭する。その急展開ぶりがいささか唐突で、どうしてそこまで関係者がひとつ場所に集ったのか、といった不思議もあるにはあるけど、一方には自省自責を抱くならまだ救いようがあるもので、そうでない人間がいるという状況に人間はいったい、どうすればいいのかといった悩みを加持させられる。現実か。それとも空想か。近づいてきたなあ、6月8日が。


【6月4日】 夏なんです。にはまだ早いけれども数日前とは一変してのこの暑さに、環境省とかはどんどんアロハとかで通勤して、暑さを暑苦しさに変えてそこに熱を集中させ、ヒートスポットとする一方で周囲を寒気に冷えさせてやって頂きたいもの。「けいおん!」のアロハとか着ればなお最高。澪とか水着でプリントされているし。そういった系アロハだと永井豪さん系の奴とか「コブラ」の奴とか出ていてそれはそれでスタイリッシュではあったけれども、元が着物のエキゾチックな違和感で、世界に浸透していったアロハにイマドキのクールジャパン系ではちょっと及ばない。よりショッキングに。よりエキサイティングに。それにはやっぱり必要だ。白地にひしめくキュウべぇたちがいっぱいプリントされた「魔法少女まどか☆マギカ」のアロハシャツが。

 陽気にさそわれ秋葉原、へと向かってしまうのが青少年の性というか。青少年でもないけれど。到着するとまずゲーマーズの前に長蛇の列。何か新しいゲームのポスターを配るってことで、何十人もが列を作ってすでに列整理は終了で、つまりはそれだけの人気ソフトってことなんだけれどどんなソフトか分からないってところに非青少年ならではの哀しみが見える。折角だからと店内に入ってもりしげさんの「フダンシフル」(スクウェア・エニックス)を購入、「フダンシズム」の高校生編で新しく関西からホンマモンの関西人が来ていろいろと波風を立ててくれるかと思ったら、早々に失恋をしてあとは何だかモブ状態でちょっと可哀想。ここからの復活を期するけれどもそれだと数に数であることが必要になってくるからなあ。アアマネじゃなきゃあいやなんだよなあ。難しい。しかし今回も可愛いなあアマネさん。そしてとっても可愛いなあせんりたん。

 向かいのラジオ会館でもうすぐ終了となる店舗なんかを感慨にふるえながら見物。4階にある海洋堂のホビーロビーも4日でいったん撤退ということで、募っていたメッセージに「未来で待ってる」とか書いたけれども相手がいないとただの戯れ事、ちょっと寂しい。いろいろジャンク品とか安くなっていた中に、「ボイスラッガー」って声優さんが変身ヒーローになった特撮番組のフィギュアがあって、2つで8800円もするはずなのが800円になっていたんでついつい買ってしまう。顔出しもしっかりしていた番組だけあってフィギュアはリアル系の原型が得意な寒河江弘さんが担当。関智和さんもそして池澤春菜さんも、10年以上前の番組当時の表情を、フィギュアの上にしっかり残しているようであるいはちょっと貴重かも。当人に見せてサインとか欲しいけれども喜ぶのかな、嫌がるのかな、ちょっとたずねてみたいけれどもたずねるのだって嫌なら失礼か。うーん。

 あと前に見て迷っていた世界のBOMEさん原型の「マルチ」のガレージキットを990円で購入。1万円近くするものがこの値段ってのは嬉しいけれども、ガレージキットなんてきっと一生作らないから勿体ないと言えば勿体ない。でもオリジナルだし。BOMEさんだし。マルチだし。それはそれで意味もある品ってことでしばらく取っておこう。100年経った時に美田となるか。文字通りの瓦礫と化すか。ほかにもいろいろリボルテックとかあったけれども欲しいキャラとかなかったんでそっちはパス。出てしばらく歩いてドンキホーテが入っているビルの1階にあるパチンコ屋で「BLACK LAGOON」の総集編DVDとか配っていたんで1つもらう。どんなあたりがどういう風に入って居るんだろう? それでも格好いいから別に良いのか。パチンコはやらないけど。

 これは「どろんころんど」と地続きの世界の物語なのかそれとも好きなモチーフの幾つかを組み替えて使っているのか、記憶が定かでないんではっきりしたことはいえないけれども人類が滅びてしまった後にもその姿を真似る泥人形たちがいっぱい出てきた「どろんころんど」の世界から、ぐっと遡ってそうしたテクノロジーが生まれてきた、そして人類は衰退へと向かっている時代が舞台と思うとちょうど良さそうな北野勇作さんによる「かめ探偵K」(メディアワークス文庫)を読了。旧世界の遺物を集めた博物館を運営する女性のアパートだか建物だかに下宿人としてやってきた亀の探偵がいろいろと活躍する姿を、女性がワトソン役となって綴っていくという体裁はミステリーと言えば言えそうだけれど、起こる事件と解決の手管はSF的な設定が使われていて驚きの感性って奴をぐぐぐっと刺激される。

 とある工場にあったはずの巨大な機械が消えてしまったという事件は、人類の衰退した穴を埋めようとするテクノロジーって奴が示されて「どろんころんど」への流れを感じさせつつ、そういうどこか寂しくて切ない世界の訪れなんてものを想起させるし、川原から生首が現れた事件も記憶が形となっていくことによって現れる不思議な存在を示して、人類無きあとの世界の有様ってやつを想像させる。亀探偵の存在はそうした世界を案内して導く一種のナビゲーター。具体的に存在を規定されなくってもそういうものだと認め置くことによってそこを一種の窓にして、世界の有様を眺め、人類の明日を考えていける小説になっている。「メイド・ロード・リロード」とはまた違った、むしろ北野勇作さんの本領が存分に発揮されたSF掌編。だけどメディアワークス文庫ではいったいどういう人が手にとってくれるんだろうなあ。むしろやっぱりメイドの方がとっつき良かったかもしれないなあ。ちょっと興味。


【6月3日】 オープニングの腕を振って歩くアニメーションの動きっぷりがとっても気になる「まりあ+ほりっくあらいぶ」では、かなこさんんが口にバッテンで喋らずあのやかましさの速射砲に打たれずに済んだけれども、それはそれでちょっぴり寂しい気も。ゴッドの毒のあるささやきはたっぷり聞けたんでそれはそれで嬉しいんだけれど、2人そろっての「デ・ジ・キャラット」……、じゃなかった「まりあ+ほりっく」な訳だし来週こそは復活の口舌をたぷりと。一方で新登場のクワガタだいすきとうた君はくわがた好きを散々アピールして退場。最近あんまりコミック版を読んでないけどレギュラーキャラだったんだろうか。声は誰だったんだろうか。気になるなあ。

 なるほど揺れていた。ゆっさゆっさというかたっぷたっぷというかぼんよぼんよというか。言い方はいろいろあるだろうけれどもしっかり揺れて跳ねて弾んでいたその胸元だけで、料金分の感動は得られたから他がどうでもすべて良し、って言ってあげたい気持ちもあるけれど、でもやっぱりどこか寂しさも残った劇場版「プリンセス・トヨトミ」。旭・ゲーンズブールってキャリア女性の役を何故か男性の岡田将生さんが演じることになったてのは、その代わりにふとっちょ男性だった鳥居の役をたっぷんたっぷんな綾瀬はるかさんが演じることになったバーターとしてまあ許そう。でもそんな変更が、ストーリーの展開上でちょっとばかり影響を与えてしまったとなると、手放しで許すという訳にはいかない。旭・ゲーンズブールが女性だったからこそ起こったこの出来事。それと密接につながる大阪の女性たちの生き様って奴が、この劇場版からは何故かずっぽりと抜けている。

 会計検査院として大阪に乗り込んだ一行が、OJOなる謎の組織に関わったことで妙なことに気付いてそしてそこから始まる大阪の秘密に迫る冒険の旅。一方に進んでいた中学生の少年が自分は女の子になりたいといってセーラー服を着て登校しはじめ、それで起こる諍いなんかのストーリーが、大阪市民たちが隠そうとしている秘密と絡み合ってきては一大スペクタクルへと至る展開の中で、父から息子へと受け継がれる物語が浮かび上がり、それを通して父と子の絆ってものを改めて意義のあるものとして見せようとする。そうした小説にも描かれている部分は確かに映画にも描かれているけれど、それでは足りない。どれだけ足りないかというとまるまる半分足りない。なぜって天の半分を支えているのは女性だから。その女性の物語がまるっと抜け落ちてしまっているから。

 血気にはやって立ち上がり、大阪を守ろうと頑張る男たちが男たちでいられるのは、すなわち女たちが裏で支えて見守っているから。そうした部分がほのめかされ、なおかつそうした裏方的な立場にちょっとばかり飽いた人間の暴走が、事件の発端になっていることが小説版「プリンセス・トヨトミ」の大きな骨子になっていて、そして物語のバランスを保っていただけに、半分だけではどこか落ち着かない気分になってくる。中学生の少年がセーラー服を着てはね回っているエピソードとのつながりも生まれなくなってくる。男たちがいて、女たちがいるその間をつなぐ中性としての存在が、あったからこそ物語はひとつの球体となって完璧を見せた。それなのに。

 まあそこまで描こうとすると2時間の映画では収まらないから、敢えて半分だけを描いて見せたというのも映画作品としては仕方がないのかもしれない。それだったら映画になんかしなければ良いとも言えるけれども、それだと綾瀬はるかさんのゆっさゆっさにもお目にかかれないのが辛いところ。あと沢木ルカさんていう超男前な女の子にも気付かないまま過ぎてしまった。そういったパーツを活かしながらもできれば亀山千広プロデューサーには、外伝としての女性編を作ってもらって、テレビなんかで放送してもらえれば心も落ちつくし、沢木ルカさんにもまた逢える。朴念仁なだけの綾瀬はるかさんではストーリーに絡めないから出せないのが残念といえば残念。というかどうせテレビにするなら今度は完璧に原作準拠で、旭・ゲーンズブールも元どおりに女性にして誰かに絵にさせれば、こんなに嬉しいことはないんだけれど。誰なら出来るか。長谷川潤さんなら出来るんじゃないか。ハワイ出身で外国人の血が流れていて関西弁だってしゃべれるというからもうピッタリなんだけど。なあ。

 笹舟といい巳弥といい、よくよく妖怪の類ってのは夏目にぶん殴られるのが好きらしいというか、美人なのに妙に恐い顔をして洗われては、そいういった脅しにまるで動じない夏目の鈍感さの魔に、グーで殴られ引っ張り下ろされ虐げられてしまうなり、ほだされてしまうから夏目もあれでなかなか罪な男。友人めいた顔をしながら上から目線でつきあっていた夏目レイコとのそこが大きな違いで、だから友人帳なんてなくてもいっぱい妖怪の知り合いが出来ていくんだろう。名前を返したって慕ってくるし。巳弥の方は白い仮面で顔を隠して本当の姿が見えなかったけれども、柊だってあれで仮面の下は美少女だし、人魚の笹舟も脅かそうとさえいなければなかなかにキュート。巳弥もだから仮面をぬいで全部をさらしても、八坂は認めてくれたと思うんだけれど果たして。きっと永遠に描かれない顔だけれどもいつか機会があったら見てみたい。あともっと柊も出して欲しいので3期に期待。

 転がってたんで2007年に出た、角川書店の元役員らしい人が書いた一種の社史めいた本「全てがここから始まる 角川グループは何をめざすか」にはちゃんと、メディアワークス分裂の話も出ていてそこに、もしかしたら社名が「桃太郎出版」になっていかもしれないというエピソードが載っていた。残念にもすでに登録されてて使えなかったそうだけれどもこれがもし、実現していたとしたら「電撃」という名前も使われないまま「桃太郎」を全面に打ち出した誌名が使われるようになって「桃太郎大王」だの「桃太郎プレイステーション」といった雑誌が横行、そして「ブギーポップは笑わない」(桃太郎文庫)という形になってあの、スタイリッシュな世紀末感も減殺されて世に広まらなかったかもしれないなあ、と思うとなるほど命名には気を付けるべきだと思ったり。「かめ探偵K」(桃太郎文庫)なむしろ雰囲気? かもね。


【6月2日】 エル・プサイ・コングルゥ、はまだ見てないんで脇において、学園へと戻ってきてすっかり和んでしまっているサーシャたち。それでも起こる諍いを解決するのは、ボウリングそらボウリングってことで何故か巨大なボウリング場が校内に建てられ、そこで対決したサーシャとジータだったけれども、そこは互いに粗忽者。ガーターの連続で0行進のなかをつーるぺーたーな御手洗史枷が頑張ってパーフェクトを成し遂げ、自分の欲望を果たそうとはしないで2人の仲を取り持とうとする。ああいたいけな。占い師をやってた辻堂美由梨さらに得体の知れなさを増し、くっついているエドガーは正体を明らかにし始めてそして次回は第9話。確かここだったっけお楽しみ満載のエピソードって。それが終わったら残りは数話。とくに引っかかりもないままスルリと終わっていくのかな。

 げらげらげら。そのどこか優柔不断で名は立てようとしても実の足りない言動に、どうしたものかといった思いを抱いている人たちがいっぱいいるのは確かなことで、だから不信任決議案といったものも出てきたんだろうけれども一方で、今のこの難局をさしおいて、政争に明け暮れるというのもやっぱり異常。とりあえず波風を立てないようにして挙党どころか挙国でもって今をしのぎ、未来への道筋を立ててからゆっくりと議論をするのが一般的な考えだ。そうした民の意向ってものを、選良といわれる国家議員が聞き逃して良いはずもなく、いざ投開票が始まったら、そこはどうにか収まると見ておくのもひとつの、そしてどちらかといえば有力な可能性だったんじゃなかろーか。

 それでなくてもよくよく情勢を観察すれば、決して一筋縄ではいかないこの政局、どちらに転ぶか曖昧模糊とした中で、可能性を極限まで突き詰めるのがそれを奉じるメディアの役割であるにも関わらず、1面のそれもトップから堂々と「内閣不信任案決議可決の公算」とぶち上げた挙げ句に、実際の投票ではダブルスコアに近い数でもって否決されてしまった新聞は、これについてどんな責任を果たし、言い訳を示すんだろう。たとえ情勢が見えづらかったとしても、他は一切そうした言質を示すことはせず、情勢を冷静に伝えている。その中で、堂々と結果として間違った情報を載せ、その間違いでもって世間を不安に陥れた罪は、果てしなく底知れず重くて深いとしか良いようがない。

 空前絶後の誤報をしてしまったメディアは、そうした誤報に至った経過を調べ、そこに願望があったなら願望でミスリードした要因を排除し、適正に戻す必要があるし、そこに誘導があったなら、誘導の意図を中立ではなくとも公正を旨とすべきメディアで最大の恥と認めて、潔い態度を示すべきだろう。そうでなくても以前いすでに、派手な誤報をやらかしていたりもするそのメディアが、信頼を回復してメディアとしてしっかりと認知されるために必要なこと。それはただひたすらに責任を果たすこと。総理に向かって責任を問う口が、自らの責任に口を閉ざせばそれはそのまま読者の信頼低下、信頼消滅へとつながっていく。だから即座に改めるべきなんだろうけれども、そんな気配がまるで見えないところに今、まさにゴロゴロと坂道を転げ落ちているメディアの状況の原因が、見て取れるような気もする。大変だなあ。だから他人事じゃないってば。

 しかし昨日と今日と国会の審議をストップさせて内閣不信任案決議のために時間を使わせたことについて、自民党の谷垣総裁はいったいどういった責任をとるのかっていったことも、これから取りざたされるんだろう。被災地への支援の遅れが問題になっている時に、自分からそれを遅らせるような真似をして、結果的には何の役にもたたなかった訳で、例えば海水の注入が1時間ストップしたことが前に取りざたされたけれども、そこからとりたてて問題が起こってはいなかったことを鑑みれば、国会を2日間止めたことの方が、実際的に影響があるって意味からも、ずっと罪なような気もしないでもない。その自覚をまるぜ見せずに、新しい言質を引き出したって自画自賛をしているんだからさらに始末に負えない。国会を人質にとり、その政策の延長にある被災者を人質にとって揺さぶって得たものと、まるで釣り合いがとれていないということを、誰かが言うべきだろうし当人だって自覚すべき。なんだけれどもそういった方向に向かわないのが政局にかまける政治とメディアって奴だからなあ。見捨てられる訳だよなあ。

 エル・プサイ・コングルゥ、とその中でつぶやけるのもあと何日か。秋葉原の駅前にそびえ立つラジオ会館も建て直し直前となって、中に入っている店にもいろいろと移動の季節。2階にあったコトブキヤのショールームは閉鎖となり、4階にある海洋堂のホビーロビーでも売り物の処分が続く。今日のぞいたところでは、あのBOMEさんが原型を担当した「To Herat」のマルチのガレージキットが、通常だったら9900円とかするもののわずか10分の1の990円くらいで販売。買ったところで作れるものではないけれど、世界がその造形に関心を抱くBOMEさんの原型ということで、たとえばあと100年とか経った時に、浮世絵とかと同程度の価値を持って取り引きされたりするかもしれないし、しないかもしれない。どっちにしたって貴重なガレージキットなんで、ここはひとつ買っておくかどうするか。いつかリタイアするなりさせられて、たっぷりの時間ができたらリムーバーで表面粗ってピンを打って手足をくっつけ下地を拭いて上に色塗って目を描き込んで組み立てるんだ。そう遠くない日に来るかもしれないなあ、そんな日も、あっなことやってりゃあそれも当然か、なあ。


【6月1日】 正真正銘の更木剣八が霊骸の更木剣八と戦っていたけれども、勝負の分かれ目になったのがいつも張り付いている草鹿やちるの存在だったってあたりに、だったら霊骸の方の更木剣八にも霊骸の草鹿やちるがくっついていたら、やっぱり霊骸の方が上をいったのかそれとも、そうした感情に流されない霊骸の更木剣八では、草鹿やちるの存在を活かせないまま正真正銘の更木剣八に倒されてしまったのか。考えてみたけれども結論は出ず。あれだけひろいろ調べ上げているんだから真犯人、更木剣八の力の源泉に草鹿やちるがあったりすることも、調べてくっつけていたって不思議じゃないのに、そーしなかったのはやっぱり草鹿やちるの力量を、見損なっていたのかそれとも、小さすぎて存在に気付かなかったのか。どっちにしたってひとつ完了。あとは卯之花烈隊長が霊骸の卯之花烈隊長とどう戦うか、ってところか。戦う草鹿やちるも見たことがないけれど、戦う卯之花烈隊長も見たことないもんなあ。笑顔だけで殺せる凄みの持ち主だし。

 2年前だったらそこまでやって来た継続性と、そこから生まれかけている何かへの可能性をプラスアルファに評価して、よく頑張ったと秋元康さんを讃えて、AKB48にデジタルメディア協会からAMD Awardのグランプリを与えても、決して流行にあやかりすぎだとは思わず、むしろ目のつけどころがシャープだなあと感じたに違いないけれど、これだけ世間にファンが溢れ、メディアに情報が溢れ、人気が人気を呼んでいるようなところで何かを表彰するってのは、その日の当たらないクリエーターに日を当てようと立ち上がった旧AMDことマルチメディア・タイトル製作者連盟が、クリエーターにスポットをあてて表彰するために作ったAMD Awardのスピリッツに、かなっているのかどうなのかって問われて、答えにちょっと窮しそう。

 そもそもが、握手券なり投票権を売るためのツールとして音楽CDをつけているかの如き超アナログな戦略を、デジタルコンテンツのために何かをしたものと捉えて表彰していいいものなのか。CDってデジタルコンテンツが売れたから良い? もしそんな答えが返って来たら、デジタルコンテンツの開発と普及に情熱を傾けた、デジタローグの江並直美さんは何と言っただろう。今なおデジタルの上でテキストをどう広めていくかに苦闘しているボイジャーの萩野正昭さんは、この状況をどう感じているんだろう。それがAMD Awardの価値向上につながるってんならまだしも、雨霰のごとくに出てくるAKB48関連の情報の波にもまれて、刹那のうちに流され消え去ってしまうのがオチ。その刹那のためにすべての価値をひっくりかえすような授賞を行ったことが、果たして将来どんな影響をもたらすのか。なんにももたらさないかもしれないなあ。結局のところ未だ知らずの賞だしなあ。

 元はアダルト向けのゲームかもしれいないけれども、そこではまるで登場していない舞台が、作品性の持つ良い部分だけを抜き出してアニメーション化されて、テレビで人気となった時に折角だからと使われて、ゲームとは無関係にアニメーションを見て興味を覚え、舞台をたずねていった人がいるということを、端からあげつらうようにして、そちらが今出ているアニメーションの原作は、アダルト向けのゲームだったんですよと当該の舞台の関係者に尋ねれば、そうなんですかとまずは驚くのが普通で、けれどもアニメとは無関係なんですよと誘導すれば、それなら大丈夫ですといった答えが得られるかもしれないにも関わらず、そうなんですかと出た驚きに、いかがなものですかと畳みかけてよろしくないかもしれませんといった言質を引っ張り出した上で、そんな言質にいかがなものかと識者とやらに言わせる記事の作り方が、正しいのかそれともどこかマッチポンプに近いのか、考えてみたいものである、いつか。

 気温がスーパークールビズ。これでいきなり半ズボンだとかアロハだとかを強制された日には、風邪をひいてしまう人だって出かねない霞ヶ関だけれども、そこは決まったことは決まったことだと粛々と従う国民性。環境省だかではアロハ姿の人がいたり、地方の役所では毛臑を見せての半ズボン姿の人もいたりと、見るからに涼しさをこえた寒々しさを感じさせてしまう服装に呆れつつ、愚かさを全面に出した愚直な硬直性って奴も垣間見せている。何とも締まらない話。決まったことなら理由なんて無関係に突っ走るのは政治も同様。何故今なのって理由なんてまるでないまま菅内閣に不信任案を出そうとしている野党ほか。この危急存亡の時に、いったい何をやっているのかと、天に神がいれば雷をお年、仏様が居れば4度目の顔を見せるだろう。憤怒の顔を。

 お前は引っ込んでろというなら、代わって俺ならこうするから俺に任せろというのが筋。なのにただ辞めろと言うだけで、その理由もおおまかに言うなら「あんたきらい」「あんたたるい」「あんたどんくさい」といった印象のみ。誰が多分やってたって、この状況は大きくは変えらず、むしろ誰かだというだけで、足を引っ張ってぱっている構図がすっかり見えているにも関わらず、それを棚に上げて相手ばかりを攻める態度にきっと、人はもう辟易としているんじゃないだろうか。とはいえ政治は国会で起こっているもので世間の辟易も蚊帳の外。そして起こる混乱の果てに来るのは、更なる日本の地盤沈下であり、国民の窮乏。困ったけれどもどうしようもないけれども、やっぱり困ったものである。そんな世間知らずの政局に、乗っかって政局ごっこに興じるメディアの未来も同様に、困ったものであるのだけれど。


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