縮刷版2011年3月下旬号


【3月31日】 なぜだおかしい。既にして福島第1原発に戦車が投入されるというニュースを聞いてその存在を思い出しかけていたところに、今度は福島第2原発に不審な車が突入しては大騒ぎして撤退していったという報に、かの名作漫画にして名作アニメーション「ジオブリーダーズ 魍魎遊撃隊File−X ちびねこ奪還」の冒頭シーンを誰もが思いだして懐かしがってはいよいよもって連載再開はまだかと遠く綾金の地を仰ぎ臨むくらいのことをしても良いのに、そうした話題をしている人はほんとうに数えるほど。まだ12年くらいしか経っていないのにもう忘れられてしまったのかと嘆く一方で、こうした事態を背景にあの神楽総合警備のしっちゃかめっちゃかな活躍を、知ってくれるかもしれないと願いつつここにこうして記す。「乱戦突破」も含めたブルーレイボックス化はまだかなあ。まだだろうなあ。

 そんな日々を待ち望みながら読んだ「ヤングキングアワーズ」の2011年5月号。塩野干支郎次さんの「ブロッケンブラッド」は相変わらずに将軍たちが10人そろって活躍すれば裏将軍が最初は10人、それから10人加わってもうしっちゃかめっちゃかの中でひとり、ノイシュバンシュタイン桜子ちゃんだけが相変わらずの美しさを示して屹立してくれている。妙なところも屹立させてしまっているかは知らない。前週にようやく昔の細さに戻った天才子役も登場して健ちゃんと同じ事務所に入った模様。そんな新キャラ続々の脇で目立たなくなっているなあ、カッシュマッシュの誰かと誰か。ほらもう名前すら思い出せないよ。そういうものだよ人気って。

 やまむらはじめさんの「天にひびき」は天才少女指揮者候補の曽成ひびきの昔を見たという須賀川が語るその時の状況は、学校の楽団を指揮してそれなりになってもそこで気が緩んで高みに行かないもどかしさを覚えつつ、それでも楽しくやりたいと考えるひびきのスタンスが今も代わっていないことを伺わせる。戻って須賀川が指導していたオーケストラを指揮したひびきはとっても心地よい気分にさせたけれども、それが何かを彼ら彼女たちにもたらしのかといった問題が浮上し、プロフェッショナルを相手に指揮することの難しさを感じさせる。たとえいらだていても起こっていても、プロフェッショナルは上に行くことだけが生き残る道なのだから。難しいなあ。ひびきははたして目覚めるか。それともそのままで高みにたどり着いてしまうのか。ちゃんと続いて完結することを願おう。

 巻末の近況がのきなみ東日本大震災への弔意になっていたりするところを見ると締切は当然のように地震のあとだった模様。とはいえそれが作品にまで現れている人はあまりなく、宮尾岳さんの「並木橋アオバ自転車店」だけが地震に遭遇した人たちが自転車を利用するようになった時に起こる様々を描いている。普段から自転車で通っている人はそのまま帰り、会社に装備していた女性はそれを使って帰ろうとするけれども、途中で出合った子供を早く迎えにいきたいと願う女性に親切にも課してしまう。果たして返ってくるかの保証もなく。けれどもそんな女性を意気に感じた男性の申し出があり、それを受けてさらに返す女性の心意気もあったりしてとってもホット。そんな状況でも、というかそんな状況だからこそ育まれる愛がある。羨ましいなあ。

 一方でアオバ自転車店でも帰宅の足を求めてやって来た客が多数。スーパーの1万円の自転車に比べて高いアオバの製品に驚くものの、お金が足りなくても前金だけで売る母親の強気と、そして乗れば分かるメーカー品の完璧整備車の乗り心地をアピールしつつ、そうした心意気に打たれ全員が残金を支払ったという展開を掲載。信じることが信頼として返ってくる連鎖をともに描いてみせる。なるほど3万円のママチャリでも、メーカーの品でそれがちゃんと整備してあったらしっかり走るとうことか。自転車はだから素晴らしい。こういう事態になった根源にある多数の犠牲には弔意を示しつつ、そうした事態でも揺るがない信頼の大切さを浮かべて心を温める良い作品。これを咄嗟に描けるとは。すごいなあ。

 上を見上げてギラギラとしている話とか、あるいは上を見上げて呆然としている話なんかが多かったりする将棋の漫画の世界に今を見て少しだけ先をみてほこほことしている話が登場。南Q太さんってまるで将棋とは縁のなかったような漫画家が「コミックモーニング」で連載している「ひらけ駒」(講談社)は、母親がいてその息子がなぜか将棋に興味を持ちだし、道場やスクールに通ってめきめきと腕をあげていく。将棋祭りに行ったり将棋会館に将棋盤を見に行ったりもするミーハー気質は、同時に息子が興味を持つものだったらいっしょになって楽しんであげたいという母親心。そんな親と子のとっても良好そうな関係が描かれて、このギスギスとして世知辛い親子関係も多々あったりする時代にとっても温かい光をもたらしてくれる。これって実生活なんかを反映していたりするんだろうか。

 なにしろ母子家庭。父親の姿も存在の痕跡すらも見えない描写はそのパーソナリティなんかも会わせて考えてみたくなるけれど、知ってたりする人は脇に置いて読む人は今にありがちな母と子だけの関係の中に、こうやってコミュニケーションを芽ばえさせ、温かさを生み出せば良いんだと教えてもらえる作品と受け止めるかも。どんどんと強くなる息子に引っ張られるように母親も将棋のお勉強をして、そして段々とハマっていく姿も妙なリアリティ。ちょっとした関心がふくらんでいくってことはよくあることで、それが例えば母親が古い将棋雑誌を買ったら乗ってたランキング表に名があった、村山聖さんから敷衍してあの名著「聖の青春」を読んでいくような進み方も、なるほどあるあるって納得できうる。これはとっても良い進み方。読んで母親として何を思ったか。それは作者の南Q太さんに何を思わせたか。

 棋士の固有名詞が割と出てくるのも面白いところで、例えば将棋会館にいったらそこには田丸八段がいて優しそうな顔とあの長髪を見せてたし、将棋まつりにったらとっても美人の高橋和女流三段がいて、少年と将棋をさして負けつつ指導をして、その優しさと美しさに少年が鼻血を流すといたエピソードなんかも、高橋さんの美貌っぷりを見知る人間としてはなるほどあるあるって思えてくる。同時に大崎善生さんへのメラメラとした気持ちも燃え上がってくるけれど。プロになった当時は美少年だった郷田真隆さんの当時と今との絵なんか、書いて本当によかったのかなあ。まあでも“真実”だから仕方がない。それが気になるんだったら郷田さんは頑張ろう。羽海野チカさん「3月のライオン」も続いてこちらはこちらで親とうまくいかない寂しい少年と姉妹達との交流に心温められる。一方で親子のがっちりとした絆が描かれる。その上でゼロから将棋にハマっていく楽しさも味わえる。どんどん人気になって行きそう。その勢いで、来年あたりのマンガ大賞、とったら2年連続で将棋物、ってことになっちゃうかもなあ。


【3月30日】 カズカズカズカズゴー、カズゴー、カズゴーオーォル。って叫んで踊りたかったけれども場所は長居で遠く大阪。もしもあの場所にいていっしょに歓喜に震えられたらどんなに嬉しいかもと思ったけれども、そういう歓喜が実現したこと、そしてそれが歓喜として受け止められるに至った背景にある、とてつもない事態とそしてとてつもない痛ましさを考えると軽々には喜んではいられない。三浦和良選手の活躍が今はだから自分の歓喜ではなく、多くの逝ってしまった人たちのための鎮魂となり、そして残された人たちのための勇気となることを願って静かに黙しよう。

 それはそれとしてやっぱり凄い人だよなあ。花試合でそして相手にとってはリードしていた試合とはいえ日本代表という立場を考えるなら手抜きなんてもってのほか。そして誰もがそれを自覚いてやっていただろう試合の中で一瞬の隙から生まれたボールを確実に自分のものとして、ゴールキーパーの頭上を抜けてゴールに突き刺してみせたカズの判断力とスピードは、あの試合に出ていた少なくともJリーグ選抜の誰よりも上回っていたと言って良い。だて得点したのかカズだけなんだからそれは自明。そんなカズがいるリーグで試合ができるってことはだからジェフユナイテッド市原・千葉にとっても決して悪い事じゃあ……やっぱり1部が良かったな……でもカズが見られるんなら、それはそれで嬉しいと思い行こうニッパツへ、フクアリへ。いつ試合、あるんだろう?

 くるってないのにくるった言葉など書けなくって当たり前。意味が通じず思いをくみとれず狙いを見いだせないような言葉を連ねろと言われて書ければ、それはどこかくるっているからに他ならない。だったら絶対にくるった言葉はかけないのかというとそれに近い言葉なら書ける。それが才能というものだ。くるっているように見えて、くるっていないようにもとれて、それでいてやっぱりくるっているとしか考えられない、高度に統御された言葉。そんな言葉がいったいどんなものかを知りたかったら、滝本竜彦さんの「僕のエア」(文藝春秋)に続く新刊「ムーの少年」(角川書店)を読もう。そこに綴られる言葉はどれもが底知れない妄執にあふれているようで、どれもが粛然と論理的。相容れないはずの性質を備えた類い希なる言葉の芸を発見できるはずだ。

 母はとうに消え父も少し前にいなくなって今は祖母の年金だけを糧に暮らす中学生の少年は、学校でも目立たずむしろ沈みがちな日々をおくっているようだったけれどもそんなある時、学校の屋上へと上がってそこにいた教師と会話をはじめ、そこで弓子さんという少女と疾駆した日々を振り返る。オカルト雑誌の「ムー」を愛読してそこに描かれたビジョンにすっかりハマってしまった、というよりもハマッったふろをしたくって知識をため込み吐き出す態度を示していた少年だったけれど、そんな彼よりもより激しい非現実な言葉を弓子さんは吐いて少年をおののかせる。

 現実を忌避してオカルトの世界に身を潜める者たちの思考と言語が、それこそ怒濤の如くに繰り出されてくる文体は、人によっては嫌悪を忌避を覚えるかもしれないけれども読み込めばそれが決して無秩序な妄執ではなくしっかりと組み上げられた異質のビジョンだと分かるはず。読めば絶望の手前に立ちすくむ若者たちの不安と不満が、溜まり淀んであふれ出してその身を染め上げ、同じように未来を忌避して今に引きこもる人々の共感を誘って、大火となって焼き尽くすだろう。こんな高度に計算高くくるった文章を書けるのはおそらく世界にただ1人、滝本竜彦さんをおいて他にないんじゃなかろうか。

 魔法を世界にふりまく魔法使いの男が繰り出すさまざまな奇蹟を、受け取って吸血鬼になった少女のビジョンをぶっつぶそうとするエピソードや、魔法使いを倒して現実に戻り平々凡々として鬱屈した人生を送らざるを得なくなった少年が受ける絶望をシミュレートするようなエピソードを経て、現実に帰投して終わる物語は、読み手をも凡庸な日常へと送り込んで、どうしようもないんだと覆わせ哀しみをもたらすかもしれない。もとtも、染められた心に巣くったムーの日々、すなわちオカルトでカルトで電波で狂気の世界への憧憬は、やがて育ち身を染め外部へと溢れ出して、その目に見える世界を違ったものへと塗り替える。世界に突き刺すロンギヌスの槍が、救世への希望を貫き破壊する。そんな覚悟すら抱いて読む必用があるのかもしれない。「ムーの少年」、超劇薬、取り扱い要注意。

 他に比べるものなんてない小説だけれど、思いっきり無理矢理引き合いに出すなら、常識を絶対に逸脱しない乾いた言葉でこの日常を覆う薄膜の外側に、もしかしたらあるかも知れない世界をかいま見せつつ、この現実が向かうかも知れない不安を示し、そこに身を委ねるしかない虚しさを示そうとする「1Q84」の村上春樹が対極に位置しそう。そして滝本竜彦さんの「ムーの少年」は、常識なんれ軽々と突破する妄執にまみれた言葉でもって、この日常を生きるしかない絶望から逃れる術を、現実の中に求めるならば歪むしかないと残酷にも示してみせる。どちらも意義深いけれども、どちらかといえば逃げ場のない現実に求められるのは「ムーの少年」ってことになるのかなあ。売れ筋も違うだろうし読者層もまるで重ならないけれど、それでもこの時代に必用な小説として、同世代の中高生のみならず、広く大人にも女性にも読んでもらいたいなあ。最初の数ページで投げ出さないでととりあえずお願い。

 永田ガラさんの「信長の茶会」(メディアワークス文庫)を読んだらなべちゃんが可愛かった。あと犬のびすけも。本能寺の変で殺された織田信長も、そして殺した明智光秀も共に死んで地獄で再開してチームを組んで鬼たちをかわして楽しんでいたら閻魔様から現世に行って本能寺でやけのこった「つくもがたり」という茶器を焼いてくるように命じられ、今まさに光秀が攻め入ろうとしている本能寺にたどり着いたらそこで離ればなれになってしまうという導入。そこから何故か絵師の狩野元秀の話になって、兄に認められないと拗ねた元秀が堺にいって豪商の元でちんちくりんなお姫さまとその飼い犬と十兵衛という従者に出合って交流し、そして悟るという展開。信長どこ行った? でも存在としての信長の凄みが漂い茶器というものの不思議さも描かれ少女の強がりの奧にある絶望も見えて楽しめる。それから阿羅本景さんの「とわいすあっぷっ!」(スーパーダッシュ文庫)も読む。女系で能力が受け継がれる家に男子として生まれ役立たず扱いされていた少年に不思議な力が宿りそれが少女の魔王の貧乳に振れると発動し、豊満な勇者の丸尻を見ると収まるという話。わっはっは。


【3月29日】 もしもプルトニウムという言葉がプリキュウニウムだったらきっと世間の男子も女子も受ける印象が随分と違ったような気がしないでもないという昨今。その毒性がどうだとか臨界に達したときの危険性がこうとか言われ続けて幾年月、すっかり悪の元素の代名詞になってしまったプルトニウムという言葉は、聞けばその耳から脳へと達して戦慄を呼び起こす。ここに一気のパラダイムシフトを導入して、世にも希なる可愛さと強さを持った言葉を掛け合わせることによって、世間に妙に蔓延している不安を喜びへと喚起できるかもしれないという次第。あるいは政令でもって明日からプルトニウムをプリキュウニウムと言い換えると布告すれば、新聞に踊る文字もプリキュニウム検出、強力な放射線といった感じで読む人に何か強いアピールを放ちそう。これで日本も万々歳、ってならないよなあ、呼び方が変わろうとも属性が変わった訳じゃないからなあ。出すのもアルファ線じゃなくってこぶしパンチになれば良いのに。

 石原3倍段というか石原都知事に言われるとそれへの反発も3倍増しになるっていった現象もあったりしないでもない情勢下で、言われた戦時中を思い起こしてあんまり花見とかするんじゃないよ的な要請は、やっぱりとてつもない反発を持って受け止められている様子。実際に東京都下では戦時中でもちゃんと花見は行われていたらしいけれども、上毛新聞あたりが出していた「戦時下の花見訓」によると、群馬県あたりでは昭和17年だから1942年、戦争が始まって3カ月ちょっとの、いけいけどんどんな時期にはさすがに日没後はあんまりほめられはしないし、未成年の飲酒喫煙も検挙の対象になっていたけれども、昼間は酒を飲んで花を見ても良いんじゃないの的風潮があったらしい。気分的には遠い国での連戦連勝by大本営。その祝勝気分もあって花見も賑わったことだろう。ドーリットル空襲もまだ始まってなかったし。

 もっとも1943年あたりになると警報が出たら夜は営業を止めなさい、午後5時を過ぎたら酒を売るのは止めなさい、団体で騒ぐのもおよしなさい、一般の人を誘うこともやめときなさいと若干厳しさを増すようす。いよいよ物資も不足してきてその影響がじんわりと広がって、空気を湿らせていたのかも知れない。さらに進んで酒の持ち込みは止めようとか、芸者を早見の山に呼ぶのも禁止と言ったことになってそして1944年、サイパン島が落ちて本格的な空襲が始まるまでにはまだ少し間があるけれども、いよいよ切迫した空気が漂ってきたのか、花見よりも防空だって空気が増して警察も、浮かれている時ではないと言いだし始めていた模様。時局も時局だし当然か。

 それでも春になれば咲く桜に浮き立つ気持ちが花の下へと人を向かわせる。ましてや今は空から爆弾が落ちてくることはない。起こってしまったことへの悼む気持ちを持って、大勢が集まり浮かれ騒ぐことへの自重、というかそれがどういうことなのかを自分で考えることはあっても良いだろうし、そうした心理を持って欲しいといったことを、その言葉のどこかに知事も込めたかったかもしれないけれども、普段の行いが行いなだけに、心の問題をすっ飛ばして圧力ととられてしまうのも、また仕方がないところ。あるいは本気でケシカランと思っている節もあるだけに悩ましい。それなら自分も飯を食わずエレベーターにものらず冷暖房も切って過ごす気構えを、見せれば周囲も納得するけどそうした処は見せないんだよなあ、あの知事は。

 というわけで戦時下でも花見はご免となっていたかとうと、制度上はそうでもなかったらしいと判明。それでも人の気分はそっちに向かって、雁字搦めの中で反骨が見られたといった解釈もできそう。それはだから国の舵取りの曲がりがもたらした状況へのレジスタンスでもあって、なるほど関心納得と今の自在な時代から評価もできるけれども、今はまた状況が違う。それはレジスタンスにはなり得ない。ならばといって自重するのもまた経済にとって影響が大きく難しいところで、そこは徒党を組んで騒ぐおとはやはり避け、ひとりひとりが心に痛みを引きずり悼む気持ちを抱きつつ、咲く花たちに祈りつつ愛でる姿が集合体となって経済を動かすというのが、この春のひとつの形なのかもしれない。どっちにしたって花見なんかに誘われもしないひとり者には、あんまり関係のない話。隅田川に咲く桜を見上げ、東京スカイツリーを仰ぎながら心静かに祈ろう、未来を。

 ルミナ王女が美人過ぎた「レベルE」だったけれどもそんな健気な美少女を置いて逃げ出す王子に果たして理はあるのか。すべては来週明らかに、って4月に入っても放送されるんだなあ、改変期をまたぐ番組も多々ありそうでテレビ局もいろいろ大変そう。番組の派手な宣伝もできないし。内容的にアレだったけれども無事に放送された「これはゾンビですか!」の本編クライマックスは、あちらこちらからパーツになった相川歩を集めたらつながったけれども起きあがらない。だったらと現れた大先生がハルナちゃんを夢の世界へと送り込んでは殴る蹴るの大暴行。そして目覚めた歩たちはユークリウッド・ヘルサイズを迎えに東京タワーへと向かう。シリアス満載でバトルもたっぷりでツイン魔装少女のミストルティンキックもあって夜の王をどうにか撃退。そしてユーが発した言葉とは。あれは絶対命令にはならないのか。うーん。そして来週は水着だったか何だったか。楽しみにして待とう。そういやサラスバティっていつからどうやって戦列に加わったんだ?


【3月28日】 強いのかそうでもないのかサテライザー先輩。いよいよ迫るノヴァに操られた少女達を相手に戦うものの相手は学生でもトップクラスの者ばかり。かなわず粉砕されかかっている上に新手もやって来て、セントラルドグマじゃなかったサテライザーたちの力の元になっている遺骸に魔の手が伸びそうになったその時……ってそれは次回か。迫力ある戦闘シーンに時々のぞく白い三角。その配合が今回はまたたっぷりあって30分を楽しめた。黒い霧とか白い霞みあんまり裁たなかったし。ふんどし娘は強がっている割にはやっぱり1年生らしく相手にかなわず。もう1人は最初っから埒外。サテライザーとて同様の中でいったいどう戦う? やっぱり鍵は少年か。いったい何を持っている? 「フリージング」。期待して見よう。ちゃんとやるのかな来週も。

 宇野朴人さんの「スメラギガタリ 新皇復活編」(メディアワークス文庫)に登場する土御門晴美とそれから芦屋道代の2人の美少女陰陽師なんかを並べてみて、これを次のプリキュアにしたら一体どんな番組が出来るだろうかと考える。人読んで「オンミョープリキュア!」。ふだんは学園に通う中学生の女の子だけれど、事件がおこると手に呪いの藁人形と金槌を持ち、あるいは式神に使う半紙を持って現場へ駆けつける。もっともそこはプリキュアだけあって魔法だの呪術だのといった婉曲的で間接的なことは大嫌い。甲に五芒星がプリントされてちょっぴりパワーアップされた手袋をはめてひたすら敵をぶん殴るという、そんなバトルが繰り広げられてはマスコットになってる晴明や道満を嘆かせるという展開。見てみたい?

 読子・リードマンは紙を自在に組み合わせて戦うけれど、篠川栞子は本に関する知識で戦う。同じ本好きで巨大な胸元の持ち主だったりする美少女が主人公になっていても、倉田英之さんの「R.O.D」とは違って三上延さんの「ビブリア古書堂の事件手帖〜栞子さんと奇妙な客人たち〜」(メディアワークス文庫)に登場する篠川栞子さんは、いたって普通の人間で、鎌倉の片隅にある古書店を継いだ形になって、その本の知識をいかしてどうにかやりくりしていたけれど、とある事故で怪我をして入院をしてしまった。

 そんな栞子さんをたずねたのが、か6年ほど前にも1度、その古書店で働いている栞子さんをみかけたことがあった青年で、祖母が死んで家に残された漱石全集に1冊だけ混じっていた、夏目漱石というサインと見知らぬ男性の溜め書きが入った本がいったいどいういうものかを知りたくて、栞子さんをたずねていってそしてあっさりとその秘密が解き明かされる。それからもホームレスながら該博な本の知識を活かして、せどりを楽しんでいる男が、女子高生に奪われてしまった小山清の文庫からからたどる少女の一途さを探り出すエピソードがあり、クジミンの「論理学入門」を挟んだ夫婦の情愛の再確認を描いたエピソードが綴られる。

 そして太宰治の初版本をめぐるたたかいが、本編のように現れて来てはまったくもって本好きちう奴はといった感慨を覚えさせる「ビブリア古書堂の事件手帖」。病院のベッドに座りながら、状況を見てそうだと探り、本好きならではの作者や本そのものへの思考も織り交ぜ謎を解き明かしていく栞子さんの凄さに感嘆させられる。と同時にそれらを考え出した作者の三上延さんの意外な書き手っぷりにも驚かされる。だってライトノベルで異能とかファンタジーとか書いている人だよ。こんな芸もあったんだ。楚々として本が好きで古書店を営んでいて美人でスタイルも……って理想過ぎる女性が描かれているのは嬉しい限り。現実にいたら最高だけれど、そんな人を見たことがないのもまた現実だからなあ。なのでここはひとつ収まったところのある栞子さんに、更なる活躍を期待しよう。もちろん「偽りのドラグーン」の続きにも。休んでちゃイヤ。

 何か朝から野田秀樹さんが「AERA」の連載を降りるのどうのといった話題があちらこちら。もちろん例の防毒マスクをつけた人物のアップが掲載された表紙に赤々と「放射能がくる」と書いて不安を煽った誌面への抗議からの降板だけれど、そこで降りるくらいだったらむしろ残って状況にカウンターをぶち込むような話をどんどんと書いていけば良いんじゃない? とも思ってしまう人も割と良そう。なるほど1回の過ちは過ちだったとしても、それを自省して次に行かそうとする雰囲気だけは傍目には見て取れる。ならばそうした方向性を良しとするなり、だめならそこで内部から突き崩すような言葉を使っていけば、間違った方向へと行くのを防げるんじゃないのかなあ。でもここでやっぱり止めてしまうということは、かねてからそうした不安を煽るような体質が、あってそれにどこか腹を据えかねていたところがあったのかも。いずれにしても勿体ないから次はうちで、ってそんなお金ないんだうちは。

 そもそもが世紀の大悪人として他に比べる者がなく、仮に比べられた人がいたとしたらその非道な振る舞いに対して自分は絶対に違うと言い張り、相手を民事的のみならず刑事的にも訴え告発してわが身の潔白をはかるだろうアドルフ・ヒトラーを、こともあろうに現役の宰相でありまたかかる難局にいささか遺漏はあってもそれなりにやっている人物と重ね合わせて語るという、無理をやった上にそんな語り口の3分の2が歴史のお勉強いしかなっていないという不思議さ炸裂な文章が、堂々載っていたりするからなあ。流石にトリックスターの野田秀樹さんだって、そういう場所で道化として振る舞うのも苦しかろう。だから残念。いずれほとぼりが冷めたら「AERA」に戻っておいしいひつまぶしの作り方を今度こそは書いてくださいな。


【3月27日】 もしも宇宙戦艦ヤマトを率いていたのがキャプテンリリカで、クルーがリリカやその娘の茉莉香が率いる弁天丸のクルーや、白鳳学院ヨット部の精鋭や知り合いの私掠海賊船の面々だったら、どんな敵が掛かってきても気を抜かず細心の注意と大胆な戦略でことにあたって誰1人として失わず、船1隻すら傷つけないでイスカンダル星まで出むいては、ガミラスの追撃も交わして地球へと戻ってコスモクリーナーによって地球を甦らせたに違いない。少なくともラストで波動砲からミサイルくらい抜いていざという時に備えて、ガミラスの特攻を粉砕して最後の戦いでの無駄死にを防いだに違いない。

 何しろ長命な上に歴戦の海賊ギルドの女船長が率いる、真っ赤で強大な海賊船とそのギルドのメンバーを相手に、船を奪われ仲間を殺されるような敗北へと至らせず、船は持ち帰り見方も無事という難行を達成してしまったキャプテンリリカやその面々。笹本祐一さんの「ミニスカ宇宙海賊」シリーズ最新刊は、そんなリリカの圧倒的な采配ぶりと、そして面々の圧巻の活躍ぶりが描かれていて、頭の悪い奴らが繰り広げる頭の痛くなるような戦いに、頭を殴られたような気分を味わわずに済む。それが漫画へのリスペクトだからといって、現実に照らし合わせた場合にやっぱり宇宙戦艦ヤマトは、指揮官の指揮っぷりに抜けたところが多かったからなあ。

 もちろんいくら知恵を巡らせ頑張ったところで、相手の上手を行かれて敗れる戦いもあるだろうし、物量でおしあう艦隊戦なら、知恵より火力の中で見方が次々と粉砕され撃沈されていくようなシーンがあって、それが招く哀しみってものが物語のメーンになっていても仕方がない。けれどもそうではない、武力以上に知恵が尊ばれる世界が舞台の物語だけに、そこで繰り広げられるのは、パズルのような局面を鮮やかに解き明かしていく展開であるべき。そんな期待に見事に答えてくれた最新刊に喝采。とりあえずエピソードも一段落したけど、次はいったいどんな事件が持ち上がるのか。そして母親においしいところをぜんぶかっさらわれた茉莉香の雪辱はあるのか。次巻に期待。もう期待。

 まだ終わらんよ。といった感じだけれどもこれ1巻でも結構な読みでがあった宇野朴人さんって人の「スメラギガタリ 新皇復活編」(メディアワークス文庫)は陰陽寮が江戸時代も抜けて現代の1984年に至るまで存続し続けている架空の日本が舞台。安倍晴明の頃より続く土御門の家の直系として生まれ次代を担うことがほぼ約束されている土御門晴見という少女がとりあえず、陰陽寮を率いる形になっていたけれど、そこに挑戦してきた1人の少女あり。かつて晴明と争った芦屋道満の子孫で、今は在野の陰陽師として活動をしている芦屋家の娘として生まれが芦屋道代は、それなりの力も付けながらも土御門が率いる陰陽寮を絶対的な権威としたい守旧的な面々により、父母をないがしろにされたこと、なによりそうした絶対支配の影で苦しむ大勢の市民がいたことが許せず、陰陽寮に向かい呪力蜂起を宣言する。

 本当だったら晴美だって堅苦しくて硬直していて役に立たないところも出てきた陰陽寮なんてぶちこわしたいと思っていた革新派。つまりは道代と同類だったけれども、けれども国に弓引く道代を取り締まらなければならない立場もあって受けて立とうとするものの、まずは相手に出し抜かれて本当だったら皇室の姫をさらわれるところを晴美たちとは古くからの知り合いで、剣の腕も達者ながら今は分け合って腑抜けてしまっていた継実夜統という少年をさらわれ、そして道代のたくらみに利用されてしまう。そして始まった安倍×芦屋の1000年を越えての再選は、丁々発止の異能バトルに行くかと思いきや、そういった面も一方におきつつ、現代らしく権力側にいる陰陽寮への反感から、メディアと庶民を味方につけた芦屋への贔屓もあってどちらかといえばオープンな戦いとなっていく。

 そんな有様で、道代が企んだ加藤保憲も真っ青の陰謀に日本が耐えられるのか? って心配もこれありだけれど道代の企みはむしろ逆説的に平安へと日本を誘う方に向かっていって、それに晴美も対面はともかく内心では同意を見せる。そんな共闘によって平定されたものとは、ってのはまあ分かりきった話で、徳川家康なんかがくるよりはるか以前、板東一円を平定し、新皇と名乗ったものの討ち果たされた平将門のこと。物語ではそんな将門の生涯って奴が浄瑠璃の中で語られて、読んでいるうちに加藤剛さんの顔とか山口崇さんの顔とかが浮かんできて随分と懐かしい気持ちになる。

 そう「風と雲と虹と」。今でこそ幕末戦国ばかりになってしまった大河ドラマにあって、平安時代を舞台に描かれた数少ない作品で、藤原純友の乱も一方に起きながらあの時代に並び立った2人の男の生涯って奴を見せてくれた。「スメラギガタリ」にはそんな藤原純友も登場。こちらは緒形拳さんだったなあ。後に謀反物として誹られ怨霊として恐れられる2人の存在を、大河ドラマでは生き生きとして実直な人間として描いてあった。その影響が出ているって訳ではないけれども、大河ドラマで見せられた真面目で真っ直ぐな平将門と藤原純友が、30年の時を経て甦ってきたようで読んでいてちょっと嬉しくなったけれど、作者の人がそんなのを見ているとは思えないどころか1988年だから生まれてすらいないじゃん。是非に振り返ってみて欲しい。あれは良いものだった。ともあれいったん片づいたものの夜統の境遇とそして血筋には何やら訳がありそう。そんな辺りを引きずりつつ、晴美とそして道代の陰陽プリキュアがどんな活躍を見せてくれるのか、ってあたりを気にして続きを待とう。まだ終わらんよ。

 えっとでもしかしやっぱり気が付かないものなのか、あんな仮面1枚でそれが誰なのかってことに、誰も、全然、まったく、うーん。ナイスバディであの喋り、そして緑色の髪をしてればそれが仮面をつけていたって、ワタナベ・カナコだって見抜けるのが普通の感性。あるいはピンク色であの薄い姿態を見れば、スカーレット・キスの仮面の下にあるのは寮長ことシナダ・ベニオだって気づけるはず。なのに誰も気づかずいろいろあってそれがようやくそうだと気づく綺羅星十字団のメンバーって単に鈍いだけなんじゃ、って思ったりもしたけれど、それがイブローニュの場合だと普段は堅物の委員長で眼鏡で地味な暗い女の子、それが勝ち気になって衣装も体にピタピタのタイツとなれば、いっしょだと思わなくたって当然か。

 そして仮面を外して驚くツナシ・タクト。さらにはキングも仮面を外してシンドウ・スガタだと分かってしまって驚くワコほか一同。それはあの生真面目なスガタがあっんな珍妙な格好をしているからって驚きとはまた違った種類のものではあったけれども、そんなスガタがザメクを動かしタクトと最終決戦をするのかそれともしないのか、分からないけれどもまるで話は進まないまま、狭い島内での恋愛バトルに来週で終止符。そこから世界へ、そして宇宙へと広がる物語ってのが半年後なり1年後に用意されているのかいないのか、分からないけれどもまあとりあえず、ケリをつけてこの半年の綺羅星な時間に幕を閉じてくれればそれあそれでとっても綺羅星。「STAR DRIVER 輝きのタクト」、いよいよ次回最終回。綺羅星。


【3月26日】 これだけの強風だったら風に混じって飛んでくるなんやらかんやらも勢いを付けてどっか遠くに飛んでいってしまうんじゃないかと思う一方で、瞬間に浴びる風量の多さ故に体に当たるなんやらかんやらも増えるんじゃないかといった想像も浮かんで外に出るのもやや逡巡。とはいえ家に籠もっていたって何にも良いことはないんで支度をして家を出て新宿へと向かい、シネマート新宿でまずは「原恵一映画祭」の今番のチケットを確保する。

 本当だったらオールナイトが開かれていた土曜日だけれど東日本大震災の影響で中止となった代わりってことなのか、オールナイトで上映されるはずだった原監督の最初期の作品「エスパー魔美 星空のダンシングドール」が「カラフル」といっしょに上映されるとあってはやっぱり、見ておいた方が良いんじゃないか的発想。それがどれくらいに原恵一さん的に意義のあるものなのかはあまり理解していないけれど、これまでDVD化されていないって状況はやっぱりそれなりな価値を持っているって言えるのかも。

 あと「カラフル」は試写で見てないたけれども劇場公開は妙に行きそびれていた作品で、4月20日にDVDとブルーレイディスクも出るんでそれへのおさらいにやっぱり見て置いた方が良いんじゃないかと思ったことも、強風の中を外に出歩かせた理由の1つ。問題はそうした特別なプログラムに果たしてチケットが余っているかどうかだったけれど、そして到着した劇場で聞くとまだまだ余裕が在った模様。なおかつ原恵一映画祭って書かれて「カラフル」のプラプラも描かれた色紙までもらえたラッキー。それが印刷なのか手書きなのかはちょっと判然としなかったけれども、もらえて嬉しくないものではないんで飾って家宝にしよう。でもどうせだったらプラプラよりは佐野唱子の方が。あの黒縁眼鏡の怯え顔、嫌いじゃないんだ桑原ひろかと比べても。

 せっかくだからとバルト9にも寄って映画「攻殻機動隊 S.A.C. Solid State Society 3D」のパンフレットと発売された「攻殻機動隊ぴあ」を購入。映画の方はもうすでに試写で見ていて、電脳化された視線でもって見ている光景にデジタルなインジケータとかインフォメーションとかが浮かび上がったりするシチュエーションが、3Dとしてポップアップして見えるところに3Dならではの面白さって奴を感じた作品。大きなスクリーンでまた見たいって気もあるし、このどうしようもない状況を打破したいと暴走した政治家の思惑が一方にあり、また高齢化社会と子供への虐待といった社会が抱える問題への提案なんかもあってタイムリーな作品ってことも、見ておいて決して悪くない理由に挙がりそう。

 今のところ、そうした社会への啓発を越えて起こってしまった未曾有の事態に、作品が追い越されてしまったこともあってちょっと立ち止まってしまうけれども、いずれ遠からずくっきりと浮かび上がってくる問題を、そしてちょっと前に確実に社会問題化していた事案を数年も前に作品化して描いていたってところに、神山健治監督に凄みって奴を感じないではいられない。根元的で哲学的な問題だったら押井守監督が映像化するのを得意としているんだけれど、より現実的で社会的な問題だったらやっぱり神山監督の方が上手か。その力量をますます発揮してもらって、このギュウギュウと押しつぶされそうな状況を突破する道を示してもらいたいんだけれどなあ。

 押しつぶされそうな気分といえばやっぱり収まらない余震があったり、飛んでくるなんやらかんやらがあったりして、ただそこにいるだけでじりじりと溜まるストレスって奴があったりするのが今の多くの人の心情。安心だ安全だといくら自分を納得させたところで、こうした不安は決してゼロにはならず心をしばり体を縛って硬くする。そんな硬くなった心身をほぐすためにはやっぱり「プリンセスラバー」のブルーレイボックスを、買う必用があるんじゃなか、ってなことを考えてみたりする今日この頃。ってまあそれは言い訳で、「インフィニット・ストラトス」を見ていた時に流れたテレビCMに、わりと好きで見ていた番組のぼよんぼよんてぽいんぽいんなビジュアルを、存分にしっかりと見まくりたいと思っても、昨今の財布の事情が許さないところを無理矢理納得させる方便だったりする。そういうものだよ、買い物って。

 チケットを早々と抑えて時間があったんで、池袋へと回ってサンシャインでやっているという中古DVDの列を眺めて湯浅政明監督の「カイバ」の4巻セットを980円で購入、ほかに「ぺとぺとさん」とかもあったけれどもこれは持っているんで他に任せる。とってかえして時間を潰してからいよいよシネマートで原恵一映画祭のまずは「エスパー魔美 星空のダンシングドール」を観賞。「エスパー魔美」っていったらやっぱり画家の親父さんの前ですっぽんぽんになってみせるシーンでこれで心に萌えって概念を宿らせた人も大勢入るだろう、そんな原点を見に行ったらとんでもないものを見せられた。それは社会です。現実です。シリアスです。リアルです。

 何がってそれはストーリーから如実にくっきり。母親が死んでしまった娘が母親の姿を仮託していた人形を捨てられ泣いているところに現れた魔美が、直前に団員の離脱で困っていたところを助けた人形劇団のたすけを借りて少女を慰め母はおらずとも父はいるんだと気づかせる。現実に起こり得る離別って奴に臆し心を閉ざしがちな子供を揺さぶってはいるんだけれど、母親なり家族の死って奴を直裁的に見せて悟らせる展開はやっぱりなかなにシリアス。それを「エスパー魔美」って小学生とか中学生が見るアニメーションの劇場版でやってしまった原監督の、冷徹だけれど冷静でそして地に足を着けて前に歩ませようとする意気って奴が伝わってくる。

 おまけになおかつ原監督は、そんな人形劇団が地上げに合い食えないからと団員の離脱も相次ぐなかで、座長がもう諦めたと実家に帰ろうとする展開も入れて夢だけでは生きていけない社会の残酷さって奴も見せつける。子供には大人の怖さばかりが目に付くし、中学生とかだと社会って世知辛いなあと迷わせそして大人にも、夢なんてもう捨てろ、現実はそんなに甘くはないんだと改めて突きつけ形を落とさせる。でも、そんな現実を見せつつそれでも諦めないで頑張ることによって救われることもあるんだと示して、やり続ける意気ってものを感じさせてくれるストーリーにしているところは、やっぱり地に足を着け、1歩1歩踏みしめて進む大切さをさとそうとしているのかも。ノスタルジーに逃げようとしたり過去の改変にかけようとして果たせず、それでも生きていく人たちの前向きさを描いた一連のクレヨンしんちゃん映画にも繋がるテーマ。なるほど原恵一監督の原点がそこにあったって言えるのかも。しかしやっぱり見たかったなあ、魔美のヌード。空飛ぶところで白いのは見られたけどそれだけでは足りないよう。


【3月25日】 カンピオーネ、カンピオーネ、オーレオレオレー。って歌声も聞かなくなって久しいというか、どこのチームが歌っていたかそれとも歌っていたかも定かではないくらいにサッカー成分が不足気味。本当だったら今頃は3試合ほど終わって我らがジェフユナイテッド市原・千葉が上位をキープしているんだけれど得点力で湘南ベルマーレに上を行かれて一喜一憂なんて状況が、起こっていたんだろうけれどもそれもしばらくはお預けの様子。まあ仕方がない。待とう男子も女子もその復活を。TEPCOマリーゼには復活してもらいたいよなあ。YKKの頃からずっと苦労しているからなあ。

 そんなサッカー、大阪では何か日本代表とJリーグ選抜の試合が行われるみたいだけれどもこれで若手もいっぱいのJリーグ選抜に、日本代表があっさり粉砕されたら何か愉快っていうか、これからの代表に良い意味で刺激を与えられるんだろうけれども主催者側はチャリティモードでノスタルジー全開に前の代表クラスを並べてお相手させるって感じ。それがジーコジャパンの時代だったら頭の頓珍漢な監督に対する下克上的な楽しみもあったけれども今のザックジャパンにジーコジャパンをぶつけたって何のカウンターにもならないし、応援にだってならないような。スターは2人か3人で、あとは五輪代表あたりをぶつけてより一層の下克上とか、見せられたら未来につながったんだけどなあ。そういう時でもないのでこれも仕方がない。盛りあがることを期待。

 そうだ丈月城さんの「カンピオーネ」(集英社スーパーダッシュ文庫)の第9巻が登場してはあの女神さまアテアと我らがカンピオーネ、草薙護堂が最終決戦を迎えるの巻、ではあるもののそういやあアテナと護堂っていつ戦ったっけ、って記憶を探っても現れないのは記憶力(きおく・ちから)がダウンしている昨今の傾向、気にしないで前にもあったんだ、そして遺恨が残ってリベンジへと至ったんだとここは理解ておこう。っていうかそんな戦いに紛れ込んできた勢力があって話はさらに高みへ。アーサー王伝説に名を連ねるグィネイヴィアとそして騎士ランスロットが姿は美少女とそして鋼の騎士となって現れアテナを葬り護堂をも退け日本に眠る何やら得体の知れない強大な存在を目覚めさせようとしている様子。

 そんな状況にあってもアテナは気高く愚直に己の永遠のはずの生命すら脅かされそうになっているにも関わらず、日本へと飛来し護堂の前に立ちふさがって全力を振り絞って戦いを仕掛ける。見方を石に変えられ残る恵那も傷つきそして最強のランスロットの乱入まである中で護堂はアテナを退け仲間を救えるか、ってあたりからクライマックスに至る過程で浮かんでくる、本当に拳を交えたものたちだけに通う感情めいたものが見えてきて、思考にして究極の戦姫アテナに果たして相応しいのかといった懐疑の一方でこれこそがアテナらしいとの納得も得られながら、その出立を見届けることができた。これで1段落。けれども始まる次なる戦いはいよいよ最終決戦か。カンピオーネたちの動きも始まり日本が、世界が、地球がくんずほぐれつになる戦いを期待。大いに期待。

 定金伸治さんの「制覇するフィロソフィア」といい、宮沢周さん「アンシーズ」といい、学園を舞台にしてヒーローなのかヒロインなのか分からないけど、とにかくそんな可愛くって格好良くって全身にちゃかぽこちゃかぽこと震えが来るようなキャラクターたちが、激しく戦うストーリーが登場してはファンを喜ばせてくれる集英社スーパーダッシュ文庫だけれど、そんな戦列に加わってなおかつ現役として続刊を楽しませてくれそうな1冊が登場。伊藤ヒロさんによるその名も「百合×薔薇 彼女のための剣と、彼のための乙女の園」は、タイトルだけ見れば何というか耽美で煌めくような学園を舞台にした美男美女たちによるデュエルってそりゃあ「少女革命ウテナ」か、まあそんな感じのストーリーを想起させる。

 なおかつ設定究極に近いお嬢さま学校に通う姉になぜか引っ張られて弟だから当然男の子がお嬢さま学校に転校させられ、当然にして女装させられ通わされ、クラスでいろいろな目に会うっていったものだから、当然のように昨今割と流行っていたりする女装っ子だいめーわく的コメディなんてものを想像させられる。ところが。初っぱなから漂う異様な空気。女装つ子の弟はいきなり空間より剣を取り出し学園を支配すると言い、そしてそれをさせた姉の美しくて強引で頼りがいがありそうな裏側に潜む、一筋縄ではいかない腹黒さ、あるいはダークさって奴が示された上で、戻って支配を宣言した弟くんに対するバトルが仕掛けられる。それも異能の。

 学園異能バトル。そこは女性のごくごく一部に発現する力を持ってしまった少女たちを集めて学ばせる学校で、姉は2年生でもトップの実力を持っていながら何故か今は腕を骨折している境遇、そして引っ張り出された弟は男子であるにも関わらず、そんな不思議な力を浸かってクラスを締め上げ、そして不審に思った別のクラスに挑まれかつては姉を讃えていながら今は見捨てた感じになっている上級生すら気にしないで剣を取り出し、戦いを繰り広げて勝利していく。そんなはずがあるものか。何かいんちきをしているはずだと言った詮索も当然おこる。そんないんちきが暴かれるかもしれないスリルを楽しんだ向こう側に、仕掛けられた謎がこれからの展開に大いなる興味を持たせる。もう次を読まないと納得できないこのクライマックス。いったい何がどうなっているのやら。待つしかない。

 そんなメーンストーリーもさることながら、笑顔で蜻蛉の羽根を引きちぎるような酷薄さすら見せそうな姉の花村しらゆきのキャラクター造形といい、お嬢さま学校に通っている割にどこか貧乏そうな暮らしをしている花邑一家、といっても姉と弟しかいない境遇の秘密といい、ディテールの部分でもいろいろと楽しませてくれるのがこの作品の特徴。メンチカツを使った肉じゃがといい、豆腐にいろいろ混ぜ合わせてつくるチーズケーキ、みたいな何かといい貧乏くささ溢れた食生活からもこの姉と弟の得体の知れなさが伺える。だいたいが弟の名前が花邑べにおっていうのがもう最高。ある種の年代の少女に少年にはりんごんと響くというよりはそのたくましさでもって鳴る名前をどうして配したのか。意味があってもなくてもちょっと知りたいところ。可愛かったなあ、横沢啓子さん演じる花村紅緒さん。それはそれとしてやっぱり気になるいんちきの秘密。次はいつだ。待ってるから待たせるないでねお願いします編集長。


【3月24日】 あれで身長が184センチとかあって長身だったりする小栗旬さんが、ひょろりとした肢体と本来の天然パーマをよりもじゃもじゃに伸ばした頭でちょい、やさぐれた感じを醸し出せばなるほど南波六太にならないこともないんじゃないかと、「週刊コミックモーニング」の表紙に載った「宇宙兄弟」の実写版のキャスト写真を見て思ったり。岡田将生さんの日々人に関してはその凛々しい顔立ち知的な雰囲気がそのまま日々人で、そんな完璧ぶりが際だつが故に小栗さんが普段よりちょい崩すだけで、差異がぐっと浮かび上がってより六太らしくなるって言って良いのかも。

 問題はだから喋りと立ち居振る舞いか。それを問うならむしろ「岳」の島崎三歩の方が頑強な山男って役柄だけに、小栗さんとあんまり重ならないよなあ。こっちも映画を見るとそれなりに納得出来たりするのかも。だいたいがその凛々しい雰囲気から言えば「キサラギ」のオタクな青年だってあんまり合わなかったって言えそう。それを軽々と演じてみせた当たりから、演技派の片鱗はあったのかも。この勢いで次は「宇宙戦艦ヤマト」で古代進を演じ、「あしたのジョー」で矢吹ジョーも演じて過去の2人を一気に乗り越え、そのまま「ジョジョの奇妙な冒険」で全ジョジョを演じて見せるんだ。英国紳士のジョナサンも孫のジョセフも日本の2人もイタリア人も全部ひとりの小栗旬。できるってば小栗旬なら。

 たとえいろいろと検出された水道水だったとしてもそれを湯船にいっぱい溜めた上で、松井珠理奈さんに裸でもスクール水着でもいいからどっぷりと浸かってもらえばもうその瞬間から、どんなミネラルウォーターにも勝る飲み水になるんだと確信しているんだけれど果たして賛同は得られるだろうか。あるいは松井玲奈さんの方がより飲み水には適しているといった意見も出そうだけれど、いずれにしてもそうした冗句を言っていられるうちがまだ気楽。やがてどんな脱線も認められない窮屈さが、日本を覆って経済だけでなく文化までをも停滞させるんじゃないかって心配が、浮かんではなかなか消えずにいる。花火大会の中止とか。祭りの中止とか。

 まあ直近の祭りやスポーツイベントについては、警察の人たちが忙しくって警備に人手を割けないってこともあるんだろうけれど、夏の花火大会なんかはその頃にもまだ警備に人手を割けない事態を想定する方が一大事。日本はもはや立ち直れないところなで落ち込んでいるって現れとも言え、それをこの時期に早々に言い出してしまうことによって、世界に与える印象が悪くなってしまうんじゃないかって心配も浮かぶ。コミックマーケットの堂々開催で一気に吹き飛ばして欲しいけど。ワンダーフェスティバルについては当日版権の手配がなかなか難しくって、それらが除外されるって事態になりそうで、これもこれで変化球的な影響が出たって言えそう。

 個人的には絶対少年なんかがいるフライングメガロポリスの一角に集まる、オリジナル作品の人たちが好きだったりするんで、そうした人たちを肇として、独自の造形を追求するクリエーターたちが、もはや売り上げなんて気にしてる場合じゃないと造形の強化に走って並べる作品に、今から興味が津々。キャラクターに依存するのもひとつの形とはいえ、キャラクターに依存しない造形の神髄を競い合うイベントとして、その真価を極めるって意味でも1度くらいはこうしたオリジナルオンリーのワンフェスに、なっても悪くはなかったように思えなくもない。もっとも「ブラック★ロックシューター」のグッドスマイルカンパニーをはじめ、アリスソフトとか1日版権の申請を受け付けたり、ワンフェスに限ってはフリーにする権利窓口もいたりするから、そうしたところのキャラもいっぱい並んで、腕前を競い合うって事も起こりそう。それこそワンメイクレースに近い状況。面白い夏になりそうだ。その頃には一段落着いてると良いな。

 何かパルコに出来るってんで駆けつけたらゆうきまさみさんの30周年記念とか、「荒川アンダーザブリッジ」の原画なんかが展示してあったコーナーがまるっと「攻殻機動隊 S.A.C.」のコーナーになってOVAとして始まって、3Dの立体視が加わった映画の「Solid State Society」の原画とか、パネルなんかが展示してあるショップに変わってた。んでもって奧にはでっかいスクリーンが置かれて、その前であれやこれやと動き回る人。カヤックって会社がマイクロソフトのXbox360向けに提供しているキネクトの技術を、パソコン上でも実装できる仕組みを浸かって開発したアトラクションで、電脳空間にジャックインしてタチコマを追いかけるプレーを楽しめる。

 なるほど3Dの立体視みたいな迫ってくる感覚はないけれど、L字におかれたモニターの前に立ってプレーをすると、自分の動きがそのまま画面の展開に反映されて、何か引きずり込まれて言っている感じを味わえる、みたい。自分自身はその位置を1歩も動いていないんだけれど、手や体を動かした時のシンクロ具合と、それから展開される絵の動きなかに引っ張られ、自分が動いているような錯覚を味わう、といったところか。プレーしてないから詳細は不明だけれど。でも面白そう。今度行ったらやってみよう。

 本当はそうした遊びを丸くカーブしたシネラマのスクリーンなんかでやったら効果的なんだろうけれど、3台は映写機が必用だろうし、そもそもシネラマなんて絶滅しているからちょっと無理。あるいはガンダムの「戦場の絆」なんかで使われている半球状のモニターで遊んだら、もっと没入感を得られるかも。あの筐体も他に使えば良いのに、今のところガンダムだけなんだよなあ。売れるし確実だもんなあ。仕方がないか。4月の終わり頃までやっているんで、気が向いたら寄って見てはいかが。知らないうちに6階にコスパとか出来てるし。妙なTシャツ屋も出来てたし。パルコ始まったぞ。


【3月23日】 あれだけ開催に前向きでチャリティーまで呼びかけていながら宇都宮市での「デジタルまんが祭りinうつのみや」は4月3日の開催が延期となった模様。とはいえ流石に中止ではちばてつやさんの呼びかけに立ち上がった漫画家さんやクリエーターの人たちへの申し訳も立たないだろうから今のところは延期であって4月中の開催の方向で動いているといった印象。あるいはスポンサーに企業がついているってことも、この時期の開催にいろいろ言われてダメージを被る可能性を鑑みさせたのかな。

 とはいえ「被災者の心情」といった文言を中止の理由に入れているってことはつまりそれが残っている間はなかなか開けそうもないのが道理。そしていったいいつならそうした方面への配慮を越えてイベントという経済活動文化活動にいそしめるようになるのか、っていうとこれがなかなかに難しい。とりわけ今回は被害が大きすぎる上に範囲も広すぎる。はい終わりと言った雰囲気を出せないなかでズルズルと、こうした自粛自重の傾向が夏まで続いていきそうな予感もちょっとしてきた。

 なにしろ被災地から遠く離れて電力需要ではまるで逼迫とは無関係な四国の高知は四万十町までもが、4月29日に予定していた海洋堂ホビー館四万十のオープンを延期。四万十町ではそれだけでなく5月末までイベントを中止・延期するって決定をしていて、今すべきは復興に向けた協力が必用と書いているけど、そうした協力を果たして海洋堂ホビー館四万十のオープンを延期することで実現できるのか? ってあたりのロジックがちょっと見えない。むしろ堂々とオープンをしてそこに大勢の人を招き、楽しんで貰い安心して貰いつつ今はこっちが元気になる時と、四万十の経済や観光を盛り上げ日本全体を底支えするような意気て奴を、見せるのが良いような気もしないでもない。

 けどでもやっぱりここでも心情。分かるけれどもでもどうしてといった気分は被災地に近い宇都宮よりやや薄れる。ここが無理なら日本中のあらゆる祝賀が無理になる。祝賀でなくても行動そのものが無理になる。どこかで誰かがせき止めて、前向きさ上向きさを示すべきなんだろうけれど、それをできて不謹慎と言われない人はおそらくたったお一方、だからなあ。無理はさせられない。そしてそうした利用ももってのほかの尊いお方を、それでもこの国の象徴として立って欲しいと願うなら、いったいどういう筋が成り立つのか。そんなあたりから快復への道も見えてくるような気がしてきた。果たしてお立ちになられるか。仰ぎつつ見よう。

 何か東京の水道からいろいろと検出されたそうで上を下へのジレッタらしく店頭からミネラルウォーターが消えたとか。普段だって水なんて飲んじゃいないしミネラルウォーターだって飲んでない身には今更どうこうって考えはわかないけれども、赤ちゃんとかにミルクを飲ませる時にいろいろ考えてしまう人には大事。そういう人にしっかりと行き渡れば良いんだけれどそうもいかないのがこの国だからなあ。個人的には何が検出されようととも、それをコップに入れて「おみず……」と言って差し出してくれたのが、まだ幼い頃のカールを連れて遊んでいたクラリスだったら、僕はそれを即座に受け取り飲み干す覚悟がある。もう何杯だって飲み干す。そういうものだ。愛って。愛なのか。

 あるいはそれが東京の水道水であろうと、安田美沙子さんとか熊田曜子あんとかほしのあきさんが、谷間にコップを挟んで差し出してくれたものだったらもう何もいわずに飲み干すだろうなあ。コップを手に受け取るとかいったこともしないで顔を近づけごくごくと。果てはコップすらつかわず合わせて生まれたくぼみに溜まった水だったら、もう顔を埋めてごくごくと飲み干したはず。問題はそういうシチュエーションが絶対に起こり得ないことであって、かくしてやっぱり水にありつけないままお茶を飲んでビールを飲んでコーヒーを飲むのだ。ぴったりと閉じた両足の間に……ってそれはでも寝てないといけないし。何のこっちゃ。

 池辺葵さんという人の「繕い裁つ人」(講談社)という漫画の単行本を、表紙の雰囲気だけで買って読んだら素晴らしすぎた。もうマンガ大賞級。というかあらゆる面白いマンガに取って欲しい賞だけれど、そんな中でも賞が持つ無名を有名にする機能を考えるなら、今すぐに何かの賞をとってもらっても悪くないって思えてくる。それくらい素晴らしい。祖母が1人でミシンを踏んで営んでいた洋品業を継いだ孫の南市江は、デザインも縫製も素晴らしいと評判になっていながらも当人は極めて頑固者。百貨店の商業化の誘いに乗らず、1人でミシンを踏み続けている。

 百貨店では企画部の藤井という男性が市江の服に執心で、取り扱いを望み町まで出むいて近所の洋品店にだけ入る市江の服を買い、工房にも訪ねていって嘆願するものの、市江はデザイナーでもパタンナーでもなくお針子でもなく、すべてを手作りで行うことにこだわっていてそした誘いに応じない。仕事としてはそうした市江に手を焼くものの、一方で服にかける情熱と、その腕前に心引かれ、藤井は市江へとのめり込んでいく。市江はといえば、自分が作る物よりもむしろ町では祖母が作った服が長く着られていて、それを持ち寄り直してもらう人が多く、市江自身がオーダーメイドの服を作ることはあまりなく、それを当人は良しとしながらも内心に葛藤めいたものも抱えている。

 そんな市江は、リフォームしたいと持ち込んできたオーナーに横から完璧なフォルムを崩すのか、刺繍を切ってしまうのかと憤って言ってしまうくらい、強く市江の服を讃える藤井の熱意に感じ入り、祖母が多くの人を喜ばせたようなことを自分もできればと女子高生たちのために服を作りたいと言って、頑なに守っていた場所、あるいは遠慮して引っ込んでいた場所から1歩踏み出す。恩師から頼まれた死装束の替わりに普段から着られる服を作ったりもする。服への作り手としての思いの強さを描きつつ、服を着る人たちの服への思いの深さも示しながら、服とは何か、装うこととはどういうことなのかを派手ではなく、シンプルで淡々とした筆致の中に描いて読み手を誘い込んで話さない。そんな味わいを持った傑作って言えそう。

 絵的な雰囲気が重なる「虫と歌」の市川春子さんの淡々さは、SFという主題を得て異質なビジョンを日常にとけ込ませて、身に迫らせてくれた。池辺葵さんの淡々さもまた、日常に過ぎない衣服をテーマに据え、1人の女性の思いをそこに入れ込むことによって読む人に改めて服って何だろうと意識させる。振り返らせる。「繕い裁つ人」(講談社)を読めば誰もが装い立つことの意義を知るだろう。キャラクターの内面に迫る筆致も見事。淡々とした展開にしずしずとした展開だからといって、南市江の性格はあれでなかなか豪快で強引。普段着のだらしなさ、家事のできないずぼらさ、許嫁より工房を取る強情さが静かな描画の奧に燃えてハッとさせられる。そうした部分も踏まえ、心情を読みとり情熱を感じ取って読み込もう。何気なくまとっていた服への興味が、ぐっと増してくるはずだから。


【3月22日】 藤井美人過ぎるだろ藤井。野球部のマネージャー。でもって筋肉阿呆のキャプテンにぞっこんというそのギャップに、端から見ても心ときめくけれどももはや他人の嫁であって如何ともし難いというか、そもそもが二次元のキャラクターなのでどうしようもないんだけれどもそれを言ってはもはやおしまいも甚だしいので、ここは落ちついて藤井美人過ぎるだろう藤井と騒いでその見目麗しいボディラインと、方言たっぷりのしゃべり方のギャップに心躍らせることにしよう。

 そんなアニメーション版「レベルE」は高校野球の県大会決勝へと向かうチームが突然、甲子園に現れるという展開でそこに数々の消失事件が例示され、あああったなあそんなミステリーを読んだなあと懐かしむこと仕切り。たぶん学研あたりの本で読んだ静岡だかでの自動車消失事件の真相が、空間移動に伴うとばっちりで原子分解されてしまったものだったとは知らなかったよ。そんなことはない。そして真相は解明されて無事に戻った彼らは果たして甲子園に行けたのか。続編があればそのあたりも書いて欲しいなあ。そして王子のお見合いエピソードへと向かって残り1話で終了か。それともあと2話あったっけ。分からないけどまあいや。全体としてとてもまとまったシリーズだった。「スーパーナチュラル」みたいにボックス化されて1万5000円なら買いだよなあ。でも、そうはいかないのが日本のアニメ。難しいなあ。

 そして1回飛んだ「これはゾンビですか?」は前回に続いて割とシリアス回。ユークリウッド・ヘルサイズが消えてしまってしばらく。みんな探しているけど見付からないでいたところに突然現れた謎の男はユーを狙ってつきまとう。追いかけてもなかなかの強敵で吸血忍者も魔装少女もかなわない。大先生は出てこないなかで果たしてどんな展開を見せるのか、って原作を読めば分かるんだけれどそこはやっぱりリアルタイムでおっかけたいので読み直さずにテレビの成り行きを見続けよう。ハルナはあれで役に立っているのか役に立っていないのか。吸血忍者たちはみんな強いなあ。トモノリといっしょにいたあの美人は誰だったっけ。1回飛ぶともう記憶にない。歳だなあ。ともあれ楽しみ。最後までこのクオリティで突っ走ってくれ。第2期も見たいんで、ここはDVDかブルーレイ、買っちゃおうかなあ。

 前を行く人のお尻が気になって信号を走って渡ったらポケットワイファイを落としたらしく、電車に乗ってから気が付いてとって返して探して交番で回収、携帯電話と違い番号を言えないだけに証明が難しかったけれどもパソコンでパスワードを入れずして接続可能なところを見せてとりあえず納得して貰う。難しいなあ。そして秋葉原の様子を見てどうにも外国人が減ってきている印象をひしひし。角にバスが止まり中国人韓国人がわんさかいて、それから欧米の人がどっちゃりいたのがこの数日、雨ってこともあるのかあんまり見かけない。やっぱり逃げているのかなあ。たいしたことないのに。寒いけど。そんな秋葉原でプライズの景品になっていたらしい「BLACK LAGOON」のロベルタ復讐バージョンのフィギュアを回収。005になっているけど004って何だったんだ。バラライカか? ちょっと気になる。ロベルタはしかしパンツスタイルだとスリムだなあ。

 書店で見かけて表紙絵の見慣れなさにこれだれだって思って買った龍幸伸さんって人の「正義の禄号」(講談社)が何か面白かった。「月刊少年マガジン」連載? まるでノーチェック。そこにこんな漫画が載っていたとは。引きこもり気味の少年に警察やってる兄貴が持ってきたのが妙な機械。動くとロボットになって少年を引っ張り回しては、事件現場へと連れていってそこで少年の装甲めいた存在となって敵を倒す。おおヒーロー。けどそうやって夜な夜なヒーロー然として活躍するんじゃなくって、そんなパワードスーツを奪って逃げた発明者を相手にした戦いで少年はボコボコにされてしまう。

 やっぱり僕は駄目なのか。そうじゃない。でもそうなのか。そんな葛藤を見せるところが目新しさ。けれども頑張って、ひとつづつステップを上がった先に友人が見つかり、そしてきっと仲間も増えていくんだろう。あこがれを喚起されるより、自ら動いていこうって励まされる物語。けどしかし敵はいったい誰なんだ。表紙で目立っている少女は単に助けられただけの存在なのか。気になるなあ。これからも追っていこう。しかし絵柄も展開も「アフタヌーン」とか「イブニング」とか「ガンガン」「アワーズ」「GX」「ジャンプSQ」といった当たりに載ってて不思議がない感じ。それが伝統の「月マガ」に。時代も変わるもんだ。そして「月マガ」が調子の良い理由も見えるもんだ。

 連絡が回ってきたんで見たらニコニコ生放送であのシンディ・ローパーのライブの生中継があるってんで飛んでいったら本当にシンディ・ローパーのライブの生中継だった。シソディ・ローパーとかいったフェイクでもインスパイアでもない本物。ただでさえ日本に来なくなるアーティストが多発している中で、堂々とやってきては余震の続く東京でライブを繰り広げてくれただけでも有り難いのに、それを今度はネットを通じて生中継。無料だからそれが寄付につながるってことはないけれど、元気を与えたいっていう目的を持っての無料公開だってことで確かにみんな元気づけられたみたい。

 だっていったいもう何歳? そんな人がステージ狭しと走り回り、日の丸を背負って歌ってくれる。こんなに嬉しいことはない。こんなに嬉しいことはない。これに刺激され、来日してくれるアーティストが増えればいいし、そうでなくても日本の多くの人たちが、見て何かを感じて一歩を踏み出せば、それが動きを呼び流れを生んで広がっていくに違いない。そのための一石を投じたこの活動、讃えたいなあ。でも本当はやっぱり生で見たかった。まだ学生だった時代に綺羅星の如く現れてスタートなっていったアーティスト。ヒット曲は沢山あったけれども最近は何やってるの的印象もあった。それが聞いた声は衰えずむしろキワモノ感は一切なくってシンガーとして円熟の歌声を聞かせてくれていた。これを現場で浴びられたら、きっと元気も出ただろうなあ。また来てくれたら、今度は行こう、来てくれるよね。

 それにしてもこういったイベントを即断即決でやってしまえるニコニコ動画ってメディアの機動力に改めて感心。これを例えば民放なりNHKなりがやろうとしたら、それなりのクオリティを求めて事前に準備をしなくちゃいけない関係で、明日さあやろうってことにはなかなかならない。あるいは権利関係だっていろいろ面倒そう。なにより枠がとれない。とれるはずもないのがネットだったら回線さえあればそこにぶっこんで配信できる。カメラは数台。音声さえしっかりしていれば何とかなるし、実際に聞いてちゃんと聞ける音声に仕上がっている。この辺もきっとノウハウなんだろうなあ。急な記者会見だって流してしまえるし、「ニコニコニーコ」のようなチャリティを目的として課金してみせることもできる。そんな機動力と企画力で突っ走るネットメディア、ストリーミングメディアに果たして放送は何ができるんだ? 考えさせられたけれど考えたって僕にはどうしようもないからなあ、既に死滅へと歩み始めた紙メディアの人間だし。テレビこっち来いって手招きしよう。


【3月21日】 キング登場、は良いんだけれどどうにも微妙なファッションセンスがいったい誰の手によるものなのかを考えて、やっぱり横に立っているイブローニュあたりのセンスなんだろうかと思い至る。だってほら、プロフェッサー・グリーンのあの見えまくり見せまくりな衣装を筆頭に、頭取もスカーレット・キスもそれなりに見栄えの良い格好をしている中でひとり、イブローニュだけは「超人バロム1」の戦闘員みたいな全身タイツに身を包んで、あんまりトキメキを感じさせてくれない。あれはあれで良い物ではあるんだけれど、横に立派な頭取とプロフェッサー・グリーンが立つとやっぱり見劣りしてしまう。

 そもそもが中身がひが日死の巫女なニチ・ケイトは今まで島から1歩も出たことのないローカルガール。アイドルになりたいと思い描いてもそれを昇華させられなかった経験は、華やかなファッションから身を遠ざけ日常の衣装を地味極まりないセンスに落ちつかせてしまっている。そんな初なところがあるいはシンドウ・スガタも気になって気に入って、ザメクのドライバーとして綺羅星十字団に入ることを決めたのかもしれないけれど、その誘いによって得られた衣装はきんきらきんな上にゴテゴテとして後ろに花だか羽根だかが飛んでいる。もはやヘッドのセンスすら越える悪趣味っぷり。けど横にいてイブローニュは澄まし顔。気に入っているって感じ。つまりだからあれはイブローニュのセンスってことで、見たツナシ・タクトやワコからいったい、どう突っ込まれるかが今のところの興味かな。

 そんなタクトはこれまでどこか上っ面だけで学校では過ごし、戦いでも外連ばかりを外に出して本心をあんまり見せてこなかった感じがあったけれど、近寄ってきたヘッドこと成長を止めてしまった父親に対して拳一閃、ぶちのめしてはいつくばらせた時に放った言葉が実に心がこもったもの、魂が燃えるものになっていた。あんな声も出せるんだ。というかやっぱり父親と知っていたんだろうけれど、そんな相手よりもさらに上手の、これまで勝てなかったスガタが立ちふさがった時にいったい果たして勝てるのか。勝てないとどうなるのか。なんてことも考えつつ残る話数を……ってあと何回? そして話は収まるの? うーん。まあ良いか。とりあえず早くプロフェッサー・グリーンのフィギュアを出してくれ。

 創刊から割に立つように思うけれどもようやく第1回の新人賞の本が出たって感じな一迅社文庫大正の入選作、水上貴之さんの「KNIGHT INSPECTOR 熾炎の狩人」は海外からやって来た美少女で怪物を専門に相手にする警察官みたいな役職の子が、日本で親を刑事に持つ息子と知り合いいっしょに怪物を相手に戦うところに息子とはクラスメートなんだけれども実は日本で古くから魔物を相手に戦ってきた一族の少女も絡んで三つどもえ。そして現れた強敵に誰もがヤバいって事態になった時に、発動したとある力がすべてをひっくり返して脇役だった少年を物語りの中心へと持っていく。オーソドックスだけれど読んでしっかり伝わってくる展開と、それからキャラクターの魅力が光る1冊。英国から少女にくっついてきた人物をもっとビジュアルで見たいなあ。

 メディア芸術創造センターの夢よふたたび、って訳ではなくってああした箱物を作るんじゃなくって、もっと世界に日本の漫画やアニメーションやゲームやメディアアートといったものを、紹介する仮想博物館構想ってものがあって、それがどうなったかを発表するシンポジウムがあったんで三田の慶應大学へ。福島がああなっている上京の下に雨が降りしきる休日、おまけに春休みってこともあってキャンパスにはまるで人がおらず、しんと静まりかえっていたけれど、漂う偏差値の濃度はそれに慣れない身には危険値に達して足がすくみふるえが来たけれども、ほどなくして始まった発表ではセーラームーンやらハローキティやら村上奈良のアートやらが繰り出され、それらが持つオタクゴンとサブカリウムが体をほぐして心を落ちつかせてくれた。なるほど文化は世界を和ませる。

 というのは半分は冗談だけれど半分以上は結構真面目。シンポジムの2時限目に、中国韓国欧米などで日本文化の研究や紹介に携わって来た人たちが、今回の地震を受けて日本がとった行動が、整然としていて統率がとれていて、いわゆるクール・ジャパンとは違った意味でとってもクールだったことを賞賛。そんな日本に世界の注目が大きく集まっているこの時期だからこそ、日本が世界に向けてその独自な文化を紹介していく意味があるっていったことが話された。中国から日本に来て法政大学で教えている王敏さんのように、宮崎駿監督の作品にあるような死生観なんかが、今回の日本人の災害に対する反応にも現れていると見る人もいて、文化に込められたそうした日本の独自性を、日本に注目が集まっている時に説明して理解してもらうような活動が、さらに日本への関心を読んでこれからの復興に役立つような気がしてる。

 もっとも本番にはいると皆厳しい。日本の政府がいくらクールジャパンだ何だと言っても、その政策は10年間、まるで変わらず問題点も解決されていない、もはや任せていたって何も変わらないといった意見も出て、メディア芸術祭のような場をつくってがんばって来た人たちにとって耳が痛い話だけれども、そうした文化的なアピールは出来ても現実に、商売として成功している日本初のコンテンツが少ないというのもまた事実。一方で韓国の映画なり音楽は、最初っから世界をターゲットに入れて組み立てられているから一気に広がっていきやすい。日本のそうした内向きぶりが性格によるものなのか、日本だけでどうにかなってきた時代の名残かは分からないけれども、この当たりでどうにかしないとやっぱり行き詰まりが見られそう。

 とはいえ世界標準に合わせたそれが面白いか、といったものもまたこれありで、世界標準と違ったところにある価値観に世界が注目しているってこともある。だからこれはそうした世界のニーズを取り入れる一方で、世界に語る言葉ってものをもっと持つ必用があるってことなのかもしれない。毀誉褒貶数あれど、村上隆さんが世界で知られるようになったのは、そのプロダクツの超絶的な素晴らしさってことよりはむしろ、それが持つ文脈なり意味性を、ちゃんと言葉にして語り説明して納得させたってことがあるから。それをもう10年以上も続けてきたから今がある訳で、最初っから口八丁と言ったところで、認められなければやっぱり意味がないし、手八丁だけでもやっぱり足りない。口八丁もあり手八丁もあってはじめて世界は認めてくれるってことを、ここで踏まえて次の時代の戦略を、練るってことがやっぱり必用なのかも。そしてそれは政府ではなくそれぞれがやるってことで。難しいけどやっぱりやらなきゃってことで。


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