縮刷版2011年2月下旬号


【2月28日】 それが本能でしかないのだったら、戦って死ぬことに恐怖は抱かず、相手を喰らうことに臆しもしない。本能だけの動物は、そうやって戦い喰らって生きている。けれども人間には心がある。知恵がある。だから、戦えば死ぬことへの恐怖を抱くし、戦って殺した相手を喰らうこともしない。けれども、もしもそんな心と知恵を持った人間が、本能として戦いを余儀なくされ、相手を喰らうことを求められたらどうするか。そこで生まれる葛藤が、五代ゆうさんの「クォンタムデビルサーガ アバタールチューナー1」(ハヤカワ文庫JA)という新シリーズの中で、真っ先に示される。

 その世界では、リーダーを中心に人々がチームを組んで戦い殺し合っていた。リーダーを殺害すれば戦いはそれで終了となって、相手の領地を手に入れられるという仕組み。ところがある時、光が輝いて世界にいる人たちのところに降り注ぎ、戦いの様相や世界の仕組みを大きく変えてしまった。リーダーのために戦うことが、無意識のうちに仕組みとして決めらていたはずの世界に、リーダーのために戦うという意識のようなものが生まれ、見方を仲間と感じる認識が生まれて、人々の関係を複雑にする。一方で、戦った相手を喰らわなければ滅びてしまう運命も与えられ、それを禁断と思う心を抱えながら、相手を喰らう行為に身を染めるおぞましさを、誰もが覚えるようになる。

 中には、それを当然と乗り越えていってしまうものもいたりと、千差万別。ともあれそれが良いか悪いかを判断する知恵や心をもってしまった人間たちにとって、世界はただ戦う場ではなく、戦って生き抜く場へと変わってしまい、その生き方にも大きな変化を与えていく。主人公の一派は、楽園にたどり着くための鍵の1つともいえる少女を抱えつつ、共闘を呼びかけ、みんなで楽園を目指そうとする。敵対する勢力は、今までどおりに戦って勝ち抜こうとする。そんなさまざまな価値観が価値観として存在する世界で果たして、主人公達は真っ当さを持ったまま戦い、生き抜いていけるのか。その戦いの果てにいったい何を得られるのか。興味を持って見ていきたいシリーズだ。

 「ハッアーイ!」とあいかわらず陽気で甲高い挨拶でもってファミレスに入ってきたヴェントの可愛らしさに耳引かれ目を向けた途端に「ぐっちゃぐちゃの塊にすんぞコラ!」ってな感じのヤンキー喋りになってハンマーとか向けてきたりする豹変に、もしも街なんかであったらその場で即座に振り向き逃げ出すか、しゃがみ込んで泣き出しそうなきょうふを覚えたりしたけれども、そこは百戦錬磨の上条当麻だけあって「とある魔術の禁書目録2」でもしっかり受けて立ち、ちょい敗れそうになった時には不幸な割にしっかり持ってる運も働き相手の吐血を誘って引き分け。このあとヒューズ・カザキリの発動からヴェントvs当麻とそして木原数多vs一方通行のそれぞれの戦いに答えが出た後、ひとまずの休息となってそいsて第3期へと続いていてくれたら五和にもまた会え、ワシリーサにも会えるんだけれど果たしてあるのか、第3期。

 バトルと言えば血を見るかわりに別のものがいろいろと見えてしまったらしい「フリージング」だけれど、地上波なんで細かいところは霞みがかかり、霧が散ってくっきりとは見えずやや残念。中華娘はふんどしだろうから別に見せたっていいじゃんというのは後付で、やっぱり中身は同じだとするならそれは大丈夫じゃないって判断が、あるいは働いたのかもしれない。ともあれあの佇まいでもってサテライザ先輩が、接触禁止を訴えるのは単に人見知りが激しくて引っ込み思案で恥ずかしがり屋だってことが露見してしまって、これからはむしろ衆人環視の中に放り込んで身動きとれないようにしてやれば、勝てるんじゃないかって思わせたかどうかが心配だけれど、切れれば相手が上級生だって叩きのめすサテライザ。無理強いはやっぱり止めた方が吉ってことで。そろそろ本ちゃんの戦いが始まるのかな。そろそろ単行本を買って読んでも大丈夫かな。

 フェーズが上がるとそのまま肉体が巨大化して身にサイバディがまとわりついていくような段取りなんだとしたら、フェーズがさらに上がればアプリポワゼした身は肉体そのものとなって巨大な銀河美少年な美少年やら美少女たちが、くんずほぐれつしてくれちゃったりしたらもうビジュアル的に最高なんだけれども「STAR DRIVER 輝きのタクト」。でもそれだとサイバディの意味がなくなってしまうから、身にビキニアーマーよろしく張り付くか、一体化したような感じになって屹立しては血が吹き出て肉が穿たれるような戦いを、繰り広げてくれることになるんだろう。とりあえずワコの気持ちは傾いたようだけれども、それで固まらないところが優柔不断な巫女さまだし、スガタだって許すとは限らないからまだまだ一波乱、ありそう。けどしかし、残る話数でいったいどれだけの世界を見せられるのかなあ。「フラクタル」に負けず劣らず要注目。

 カンニングなんてものはそれこそ試験が生まれた時からずっといっしょに裏表のようにあるもので、世界でも最難関と言われた中国の科挙の時にそれこそ四書五経がびっしりと書かれた下着を身につけ試験に臨むとかいった話が枚挙にいとまなく残ってたりするし、そんな証拠品もいくつか発見されていたりする。その手法も試験の内容とかテクノロジーの発展とかによって変化するのも当然で、無線だのカメラだのが発達すればそれを使ってカンニングしようとする輩は大勢出てきて、その度に監督する側もあの手この手で摘発をしていく鼬ごっこが続いてきた。フランスではそんな有様が映画にだってなって世界中で大人気になっていたりする訳で、カンニングそのもの「試験制度の根幹を揺るがす」とか何とかいって非難するのは、真っ当さを求める姿勢として間違ってはいないけれども、どこか虚ろな響きが漂って聞こえる。今更感というか。むしろそうしたテクノロジーの発達に、適応できなかった監督側の身を恥じてみせるのが先。その上で、不正は不正として糾弾し、二度とを起こらないよう厳然とした対策を練るが態度として鮮やかなような気がしてしまう。

 というかこっそり携帯で試験問題を撮影したか、その場でうったかしてそれをネットにアップするなりしてもらって、解答を求めるなんて公衆の面前で全裸をさらしているようなやり口で、試験にどうしても抜けたいって意欲よりもむしろこんなこと出来ちゃうんじゃね? 的スタンスが感じられて仕方がないんだけれど、今時の人だとそうした諧謔なんてあんまり考えず、むしろ手元にあるものを使えるんなら使ってやっちゃえば良いじゃん的な安易さが、やっぱりあったような気もしないでもない。どっちにしたって拙劣。これだけテクノロジーが発達しているんだから眼鏡の蔓にマイクロスコープを仕込んで試験問題を移しそれを電送、見た人たちが部屋に詰めてるあらゆる分野に長けた面々を総動員して解答し、内耳に仕込んだマイクロフォンへと通信するくらいのことはやっても不思議じゃない。もちろんそれは不正でいけないことだけれど、露見した時に何か時代って奴を感じさせ、新しいテクノロジーの可能性って奴を伺わせてくれる。掲示板で聞いてこたえてもらう行為のどこに未来が? 映画にすらなりゃしない拙劣なものを、青筋立てて怒ってみせる光景が、やっぱりこの国のこの社会の余裕のなさってやつを見せているようで嫌になる。楽しくやろうぜ楽しくさ。


【2月27日】 空気を読まないで暴走しては、周囲を危険にさらしたりするようなガキが嫌い。世間知らずなくせして、興味本位で突っ込んでいってすべてをぶちこわしにするようなガキが大嫌い。そんなガキが出てくるアニメはだから苦手で、その代表格とも言えそうな「交響詩編エウレカセブン」を、好きなアニメとどうしても言えないんだけれど、その癖に午前7時からの放送を、外出していた時は別にして、すべて同時刻に起きて見ていたりするくらいに気になっていたのは、やっぱり先に来る展開の見えなさだったり、レイトン以外のキャラクターが放っていた魅力だったりがあったから。そうしたものがある限りにおいて、キャラの好悪は別にして、僕はアニメーション作品を大いに支持するし、買いもする。

 じゃあ「フラクタル」はというと、レイトンならぬクレインの空気を読まず突っ走る性格が嫌いだし、見張りっていう大事な仕事を放り出して真夜中に出かけていく無責任さも大嫌い。もしもあそこで僧院が攻めてきて、一味が根こそぎやられるような展開になったら、そんなキャラクターを必然もなく設定したか、あるいは必然があっても、それをそう感じさせ理解させるようにし向けていない展開への嫌悪を示した可能性もあった。今のところはそういう風にはならいで、どうにか世界をかいま見せる方向で終息。いったいこの先どうなるのかと、いった興味を引き継ぎ、すっぽんぽんで突っ走るフリュネっていうビジュアル的なキャッチも乗せてみせたあたりに、まだパッケージへの感心を失わせない何かがある。

 でもこれでこの先、あまりに展開が進まないようだとちょっと考えてしまうかも。泣いても笑っても1ヶ月しかない残りに、いったいどんな決着を付けるのか。インダストリアルにやって来て、逃げ出してパッチと出合いハイハーバーへと向かい、オロたちと一戦交えたあとでインダストリアルへと渡って三角塔で決戦をし、ギガント落として大団円へと向かった古(いにしえ)の冒険活劇でいうなら、まだインダストリアルにすら着いておらず、ようやくジムシーと出合った程度の進捗で、残る話数で一気に畳みかけることができるのか。そんな綱渡りを見るような興味も抱えながら、これからの残りの始末っぷりを、じっくり観察していこう。フリュネの後ろ姿だけでとりあえず、パッケージをどうしようかという興味はわいた。あともう1つあればあるいは。次はネッサだ。

 いったいいつから始まっていたんだろうと、振り返ってみるのも悪くはないけれども、今はただ、それが完結してしまったという事実の方がより強く、そして重たくこの身にのしかかる。もう先が読めないのかという慚愧の念を一方に抱きつつ、これだけの壮大にして壮絶な物語を、よくぞここまで丁寧にまとめあげたという感涙に、むせびしばしの休息を、作者の長谷敏司さんには与えて差し上げたい気にもとらわれる。

 「円環少女」(角川スニーカー文庫)というタイトルからして魅力に溢れたシリーズは、電磁を操作してエネルギーを生み出す力もあれば、似たものは同じだという概念を操る力もあったりと、物理や科学にニュアンス的に似た力を魔法として操る面々が、そうした魔法の存在する世界で使い、使いすぎた挙げ句に追われ吹きだまったこの地球で、またしてもさまざまな事件を起こそうとするのを、地球の人間たちが押さえつけ、戦っているという設定が実に魅力的だった。

 その上に、神がおらず魔法の力を信じないが故に、魔法を消してしまうこの世界の人間が、魔法使いの側にいながら人間に協力することを義務づけられた面々とペアを組んで、事件の解決にあたるという設定があって、そこに武原仁という男の相棒として、実年齢はともかく見かけは小学生の少女が配置されたという状況が、何ともいえない興味深さを覚えさせた。そんな少女が相棒を呼ぶ「せんせ」という言葉の、何と蠱惑的なことか。耳元で言われた日には、戦慄の行為に出てしまいそうだけれども相手は最強クラスの魔法使いで、なおかつ生粋のサディスト。どんな反撃を喰らうか分からないから、やっぱり遠慮が重要かと。

 そんなペアが最初は他愛のない事件を解決していたこのシリーズ、途中から核兵器が絡んだり地球を大混乱に陥れるような力が絡んだりしてスケールアップ。そして最終局面では、未来からの干渉が世界をまるごと歴史事作り替えてしまおうとする動きとなったものに、武原仁と鴉木メイゼルのペアを始め選任係官と呼ばれる面々が、再結集して挑んでいく。のみならず、途中で潰えていったものたちまでもが、オールスターキャストで登場。一方で決して最強ではない少女の、己の正義を貫こうとする心意気が、か弱い人間の少女を救い、世界を救うための猶予を作り上げ、そして結末の救いへとつながっていったことに、その時にできる最大限の最良を選び尽くさなくてはならないんだと教えられる。

 その勇気に合掌しつつ、物語は、未来からの干渉によって変わってしまった世界をさらにひっくり返すために必要な手だてが示され、そこに絡むことによって大きく曲げられる人生ってのがあることにまず沈思。そこでいったどうするべきか、という問いかけがあって、答えを出してはみたものの、そうすることによって悲しむ存在が出ることへの慚愧がまずあり、またひとりだけではくもうひとりを、永遠とも言える時間に縛り付ける可能性もあったりして、それで良いのかという問いかけに悩む。強く悩む。

 当人は瞬間でも、そこへと至るまでのもうひとりの時間はいったいどれほど? それを思えば別にやらなくってもいーじゃん、ってなりかねないけどそんな無茶でもやってこそ、選ぶ価値があるのが己の意志であり、それぞれの意志によって決定される現在、そして未来。そんな意志への称揚を感じ、そのためにどう振る舞うべきかも教えられる帰結に、状況に流されないで、自ら切りひらいていくクリエーターの覚悟って奴も重なって見える。そんな決断が、一昨年の大著に現れ今年の完結に現れ、これからの活動に現れていってくれると期待しながら、全13巻の冒険に喝采を贈ろう。「円環少女」シリーズ、第13巻「荒れ野の楽園」にて幕。倉本きずなには「よくがんばった」の言葉を。

 お日柄もよく、花粉も舞い散る中を神保町へと出かけてデジタルハリウッドで、3DCGを使いながら2Dっぽいアニメを作り出してきたクリエーターの対談を見物。その前に三省堂書店に寄ったら、中古DVDを販売していたコーナーであの「銀盤カレイドスコープ」の6巻セットが1480円だなんて驚異的な値段で出ていて、興味がわいたけれども、すでに初回限定版を揃えているのでここは見送る。何しろ最終回をアラン・スミシーって世界的に活躍する覆面映画監督が担当したくらいの作品。その希少性の高さから、アニメーションを志すものは絶対に見て置いた方が良いって言われていたり、いなかったりするから、我もと思う人はこの機会に是非に手に入れ、スポーツアニメとはどういうものか、そしてスポーツを描くということはどういうことなのかを、深く考える礎にして欲しいもの。でも今日で終わりなのかなワゴンセール。どうだろう。

 そしてデジタルハリウッドのセミナーでは、あの傑作OVA「コイ☆セント」についての話があって、森田修平監督や同じチームで仕事をしている人からいったい、どんな感じにあの2Dっぽい3Dのキャラが作られているのかってことが明かされた。前も青海の方でメイキングのセミナーがあったんだけれど、その時は男性キャラを題材にして行われた、見て2Dっぽい動きや表情をしているキャラクターのモデリングが、別のカメラ位置からみるとどうなっているかといった紹介で、今回はヒロインを題材にして行われて、これがなかなかに傑作というか。見れば普通に見えるフリ向きの動きが、別のカメラ位置から見ると目の大きさも違えば口の位置も、偏っていたり歪んでいて、とてもじゃないけど普通に見えない。

 けれども1点から見れば実に可憐で、そして2Dっぽい人間味にあふれた表情で動いて見える。そのあたり、モデルを細かく1コマ1コマいじって調整していく作業があって、それがあってこそのあの2Dっぽさな訳だけれど、そうした動きや変化やニュアンスを、何枚も連ねた紙に描いた絵だけで表現してしまう2Dの凄さ、ってものもそこから浮かび上がる。それほどの手間暇をかけるなら、いったい3Dでやる利点がどこにあるのか、といった辺りを考えていくことが、2Dの強みや魅力を存分以上に行かした、3Dのアニメーションが増えていき、一般化していく上での鍵になるんじゃなかろーか。勉強になったなあ。そんな目で見ると「コイ☆セント」もまた違って見えるかも。DVDとブルーレイディスクが絶賛発売中。買って見て恋をしよう。


【2月26日】 日本と再会して英国が絡んできて中国が飛び込んできて仏国が迫ってきた展開を一気に乗り越え独国が接吻かまして織斑一花のABCD、じゃなかあJECFD包囲網はこれで完成。あとはそんな彼女たちを従えて、地球を脅かす敵と戦う大乱戦が幕を開けるかっていうとそうはならずに5人が5角形を作りながらひたすら取り合う展開が、続いていくということがもうすでに決まっている「IS」。東雲の姉って存在が出てきてウサギ耳のビジュアルと破滅的な性格でもって一同を大混乱に陥れるくらいだけれど、それもまだ謎めいたまま小説の方は現在進行形で、アニメはおそらくそこまでいかないまま、得体の知れない敵を相手に戦って退け「わたしたちの戦いはこれからよ」となって1期の幕を閉じそう。戦いとはもちろん一花争奪戦のことね。

 そんな感じに先までびっちり読めてしまっているにも関わらず、なぜか毎回ほとんどリアルタイムに見てしまうから何というかどうというか。途中シャルル変じてシャルロットとの入浴シーンに会話を妨げるような風景シーンがつながって、目にも悲しい思いをしたけどそういうシチュエーションの一方で、しっかりと細かくスピーディーに描かれた戦闘シーンの迫力とか、崩れずしっかり整ったままに描かれた女の子たちの可愛さとかを確かめるだけで、妙に安心してしまってあの作品が良く描けているなあって納得できてしまう。一方で評判の「魔法少女まどか☆マギカ」は展開の不気味さを見るのが恐くって、ついつい後回しにしてしまう。こんなあたりに挑戦的なオリジナルよりも、展開もビジュアルも分かっている作品が動いて喋っているのを目で確認できる原作物に人気が集まる理由があったりするのかもなあ。恐いもんなあ「まどか☆マギカ」。

 せっかくだからと初日に見ようと早起きをして豊洲まで出かけて劇場版「マクロスF サヨナラノツバサ」を観賞。その前に大行列に並んでパンフレットとグッズで気になったオオサンショウウオを買ったけれどもこれ、ストラップ穴とかついてないのにどーやって使えば良いんだろう、やっぱり尻尾にひもをまいてぶら下げるのがデフォルトか、うーん、ちょっと考えよう。ぐるっと見渡して中学生高校生といった層の男子だけじゃなくって女子も多そうに見えたのが意外というか、それだけランカとシェリルって歌姫の存在にあこがれ同期している世代がいるってことなのか。そんな未成年を引きつけて止まない作品を、未成年が近寄れない場所にコンテンツとして持っていくのはやっぱりちょっと違うんじゃないかなあ、なんて言ってみたり。いやそういう部分からの環流によって作品がちゃんと作り上げられるんだって意義は買うけど。でもなあ。やっぱりちょっと悩ましい。

 悩ましいといえば、そうした資金の環流によって完全復活を遂げて劇場版が生まれた「創聖のアクエリオン」が、今度は再びテレビシリーズになって戻ってくるみたいで「マクロスF」の上映前の予告でいきなり流れてひっくり返った。前のメンバーも出ては来るけど、主役とかヒロインとか代わってくるもようで前のシリーズのテレビなり映画なりからどういう距離をとった設定で、どんな話が繰り広げられるのかにはちょっと興味。そして司令のどんな莫迦が飛び出すのかにも。相変わらず胸をはだけて妙な文字を見せていたけれど、あれは前の映画か何かからの流用だったか違ったか。ともあれ期待するより他にない。その先が未成年御法度の鉄火場行きになるんだとしても。

 さあて劇場版「マクロスF サヨナラノツバサ」だ。前の「イツワリノウタヒメ」がどーゆーながれになってどーゆー終わり方をしたのかちょっと忘れかけていたけれど、まあだいたいの流れをおさらいする導入部があるからそれでだいたい思い出そう。そしてシェリルの3DCGモデルがナース服姿で踊って回る舞台の圧巻のシーンがあって、そんなシェリルをボディーガードするアルトブレラの姿があって、そこにランカも吶喊してトライアングルはどこまで続く。けれども迫るヴァジュラにめぐらされる陰謀。シェリルの喉が使いものにならなくなるのも間近ってところで、屹立した歌姫ランカに白羽の矢もあたって発動する陰謀がいろいろあって、さらにいろいろあるというその展開の二転三転ぶりに手に汗握らされる。

 17歳の人が演じたグレースさんの露わっぷりにも。とりわけ逆さ吊りになったシーンとか、中学生が見たらちょっとイっちゃいそうになるくらいの色っぽさだった。あれを色っぽいを感じる感性があったとしららそれはそれで将来有望だけれど。どういう方面にだ。その先ではさらにもっととてつもないビジュアルが待っていて、それを見るために劇場へあと54回は通っても良いって思えるくらいに素晴らしいものを拝ませてくれた。ありがとう河森正治監督。ロープを伝って富んでいくシーンとか、見えそうで見えない感じが良かったなあ。だから何がだ。それもアルトの何が見えそうだったのだ。答えは劇場で。

 そんな感じに進んだ展開の最終局面に起こった出来事についてはまあ、すでに覚えていないテレビ版のラストとはまるで違っていることは確かだけれど「マクロス」シリーズってのは基本、すべてのシリーズが後生に作られたドラマであったり映画であってすなわち歴史を題材にしたフィクションだとう解釈があって、そこではどうみたって20歳過ぎてる女が9歳とかのお姫さまを演じて無理過ぎだけれど誰もそれを突っ込まないように、歴史の厳密なトレースでなく、作り手の創意が入っても良いことになっている。だから映画のああいった終わり方もあり。だってドラマチックじゃん。見て喝采するのさその格好良さに。でもだからこそその先に、どんな紆余曲折があったかも知りたいなあ。とある場所で見初めたアルトの“歌姫”的可能性をヴァジュラが無理矢理伸ばそうとしていろいろさせちゃうとか。触手プレイ。うーん。作られそうもないけれど、同人とかで描かれそうな気もしないでもない。期待しよう。

 見終わってせっかくだからと有楽町あたりを回ってみたけれど当日販売はすでに売り切れ。秋葉原も同様。これは言い訳になるけれども色が黒と青しかなくって、ゲーム機だったらだいたいこれいするって決めてるピンクが用意されていないんで無理に是非にって気はあんまりしないんだけれど、それでもやっぱり新しいものを手に入れられるんだったらちょっとは欲しかったかも、って気分。その気の弱さが家とか買えるぐらいの貯金につながらないんだよなあ。反省。でもきっと明日には忘れてる。寒暖の差に体調も崩れ気味なんで帰ってサッカー。どうして日本のパススピードってあんなに遅いんだろう。それとも中継の具合でそう見えるだけなのか。本当にやっぱり遅いのか。ブンデスプレミアリーガとか見るとパスの速度も速ければ走る速度も速くって試合がスピーディー。ラン&ガンのバスケットボールみたいに進んでこりゃあ楽しいって思わせてくれるけれども日本は……。かつてはあったんだ。ベンゲルのグランパスとかオシムのジェフに。けど今は……。そんな差がきっと永遠の壁として立ちふさがるんだろうなあ。


【2月25日】 「ストレンジボイス」ってどんな話だったっけ、って頭をめぐらしても浮かんで来ないけれども、江波光則さんの新刊「パニッシュメント」(ガガガ文庫)は「ストレンジボイス」で学校内での関係を描いてみせた手腕を引っ張りつつ、親子の関係へと広げて見せたところが興味を引きそう。時々凶悪そうな顔をする少年がいて、幼なじみの少女がいて仲が良いんだけれども2人にはちょっとした因縁があった。少女の母親が新興宗教にハマっていて家庭内は崩壊状態。そして少年の今は家を出てしまった父親が、その新興宗教の教祖をやってて、少年は苦しみ悩む少女を労りながらも肝心なことを言えずにいる。

 何ともいえないモヤモヤ感。そこに、学校内でタロット占いにハマって周囲を引きつけようと必至な少女がいたり、絵の道に進みたいとがんばっている同級生の少年がいたりして、それぞれに居場所を見つけようとがんばっているんだけれど、その裏側にうごめくみょうな動きがあって、主人公の少年を苦しめる。タロット占いにハマっている少女を目の敵にする、クラスの女の子たちのリーダー的な存在の少女もいたりするんだけれど、その少女までもが追いつめられてしまう展開は、どうしてそうなってしまうのかという裏側を探り、意外な真相が現れて驚かせるミステリー的な展開を楽しめる。すべてが繋がった果てに来る、その根源にあった理由に驚き迷う少年がとった行動とは? ライトノベルにはちょっと珍しい青春サスペンス。お試しあれ。

 やっぱりオリジナルを買い支えなきゃという気になって、森田修一監督のオリジナル作品「コイ☆セント」のブルーレイをとりあえず確保。前の「FREEDOM」と同様に、3DGCを使って2Dっぽい絵を見せるって手法を使ってはいるけれど、そのタッチに立体感がある大友調だった「FREEDOM」のキャラとは違って、より平面なアニメっぽい絵になってる「コイ☆セント」では、3Dのモデルをそのまま着色してトゥーンシェードするような、安易な絵作りはしていなくって、その場面場面でどうやったら2Dっぽく見えるのか、ってことを考えて、3Dのモデルを相当にいじくっているらしい、って前に青海で開かれたセミナーで森田監督が話してた。

 例えば横顔で、口があんぐりと明いて向こう側が見える様なシーン。2Dで描けば簡単だけれど、3Dでそれをやろうとすると人間のモデルをそのまま横にしただけでは、口が小さくなってしまうし、あんぐりとも明かない。自分の横顔を見てみれば分かる。だから「コイ☆セント」では、正面から見た時に口を片側に思いっきり寄せてあんぐりと開かせた上で、横を向かせるような作業を加えて、2Dっぽいデフォルメを出している。そんな作業をすべてのシーンで細々と行った結果、3DCGなのに2Dっぽいコミカルさを楽しめる作品へと仕上がった。

 そのストーリーも破天荒。平安遷都2000年だっけ、そんな未来の奈良が舞台になっていながら、どこか現代にも重なる風景。そこで出合った少年と、不思議な少女の運命は? 最後にほろりとさせられ、にこりとさせられる良い作品。オリジナリティがあって、先がどうなるか見えない楽しさがあって、メッセージ性もあって挑戦もある。それは昨日の「若手アニメーター育成プロジェクト」で見た4作品もそうだったっけ。こちらはしっかりと商業に乗せ、限定上映という形で広めてOVAを売るという、半歩進んだビジネスモデルから生まれた「コイ☆セント」。こういうのがもっと増えてくれると、OVAを買う気も起きるんだけれど、こういうのがもっと売れないと、次が作られないからアニメを愛する人たちには、是非に買い支えてくださいと伏してお願い。寿美菜子さんの演技も歌も可愛いんだから。本当に。

 設立の記者発表の時から、今敏監督は壇上に上がって、JAniCAが立ち上がることを喜んでいて、その後の運営にもいろいろと協力をしていたんだった。全体の技術を向上させ、また継承させることによってアニメ業界全体の底上げを計り、アニメのクオリティを高めて、アニメファンを増やしていくことをとても大切に考えていたところがあった今敏監督。そうしたことを業界がまとまってやるなら、これは嬉しいと思ったんだろう。だから若手アニメーター育成プロジェクトが立ち上がって、その後にいろいろあったときに、それを進める意義ってものを考えて、メッセージを出したんだろう。

 「スーパーナチュラル・ザ・アニメーション」のいしづかあつこ監督から聞いた話だと、会社でも周囲にいる若いアニメの演出家を集めて演出教室みたいなものも開いていたとか。それくらいに、若い才能を伸ばしていくことに感心を持っていた今敏監督が、まさしく若い才能の結集した「若手アニメーター育成プロジェクト」の成果を見られなかったということに、進めた側もきっと断腸の思いを抱いていることだろう。挑戦的なことに対して今敏監督が、何を言っただろうかという興味もアニメのファンであり、今敏監督の時に痛烈で、けれども深みのある言葉が好きだった人間として、興味が尽きない。今さら言っても詮無いことだけれど、3月5日から始まる上映の時には、その存在を改めて思いながら作品を見よう。

 始まった当初はなるほど悪徳警官だからこそ、悪辣な奴らを叩きのめせるんだという痛快感もあって喝采を浴びた「ワイルド7」だったけれども、最終章の「魔像の十字路」を経た今は、どれだけ組織の末端ががんばったところで、強大な国家権力の前には蟻に等しい存在かもしれないという絶望感と、そしてそうした国家権力が不安を煽り甘言を弄するなかから生まれ育まれていくんだという恐怖感なくしては、「ワイルド7」という物語は語れない。なおかつ時代はまさしく不安を煽り、甘言を弄する勢力が蔓延り、耳障りが良く勇ましい言葉によってこの国を、良からぬ方向へと引きずり込もうとしている。だからこそもし、今「ワイルド7」を映画化するならば、そうした風潮に挑み、敗れながらも蟻の一穴を穿って未来に希望を抱かせるような内容でなくてはならない。「魔像の十字路」編の映画化でなくてはならない。

 でもなあ、きっと瑛太さん主演の実写版「ワイルド7」は、乱暴きわまりないけれども正義感を持った警官たちが、国家そのものではなくそこに蔓延る些末な悪をえぐり、撃って快哉を浴びるような内容になってしまうんだろうなあ。バイクはひたすら公道を法定速度で走り、サイドカーにロケットランチャーを積んだりハンドルの間に対戦車ミサイルを取り付けるといった改造も御法度。というか「地獄の七人」編では対戦車ライフルも勇ましいドゥカティを駆るユキは登場しない。ワイルドでも屈指のビジュアルクイーンがいなくって、どうして映像を楽しめるのよ? やるならだから「魔像の十字路」を。ユキには栗山千明さんか黒木メイサさんか佐々木希さんあたりを。沢尻エリカさんでも迫力あるかな。まあ絶対に無理だけど。


【2月24日】 CDがついているそうだけれども、声だけでバルメを感じたところで、その腹筋とかそのわがまま過ぎるボディとかを、目の当たりにできる訳ではなし。だから、別に普通版の発売を待っても良かったんだけれど、一方でおまけがついているとどうしても心を引かれてしまうスノッブさから、買ってしまった高橋慶太郎さんの「ヨルムンガンド」第9巻は、理知的で冷静そうに見えるワイリが実は筋金入りの爆破魔で、海兵隊自体にいろいろやったし今もココ・ヘクマティアルを狙う者たちを逆に爆破して吹っ飛ばして、ココ以外で唯一FBIから目を付けられている凶悪犯だというから吃驚。その表に出さない強面ぶりに、ヨナが引いてしまうかと思ったら逆、に居住まいを正さなくちゃいけないと思われてしまうという怪我の功名。なるほど人は見かけによらないものである。

 しかしやっぱり凄いのは、そんなココたちに付き従って、トラックを運転しながら傭兵部隊と連絡を取り合い襲わせようとして、実は別の一派に与していて、あっさり傭兵部隊を裏切りそして現地から人質になりそうなのを引っ張って帰っていくというイラクの男。何と逞しい。けどそうでもしなければあの地では、暮らしていけないってことなんだろうなあ。そんな国に誰がした、っていえばもちろんフセインに責任が無いわけではないけれど、フセイン亡きあとの国を誰も真っ当に運営できない状況を、招いてしまった責任もどこかにある。けど誰かがそんな責任をとったといいう話を聞かないまま、無実で無力の人たちが死に、別に故国でもない国なのに外国から来た兵士が死んでいく。平和って口で言うのは軽いけれども手に入れるのはとてつもなく重たい。そして世界はそんな重たい平和を求めて様々な動きが起こっている。手に入れられるか。そして抱え続けられるか。平和を。

 新聞なんかが事故や災害で亡くなられた方々の顔写真を、ずらりと揃えて並べることに果たして意味があるんだろううかと、昨今のメディアのあり方なんかを考える時に、浮かんでしまう疑問がある。それはおそらくは日本のメディアが、理由とか目的とかを考えないでとにかく、顔写真を並べることが慣例なんだと、自動的で無情的にやろうとしてりすることがあり、また、他がやるならうちもやなければいけないといった、横並び意識でやることなんかに、ひとつの理由がありそう。そうしたメディアのスタンスに、内心どこか違和感を覚えた遺族の人たちの反発が、顔写真を取りに向かわされる若い記者なんかに、人格を否定されたといったダメージを与え、それが蓄積される。けれども、長じればそれが当然といった風潮の中で同じことをやってしまう繰り返しが、何十年か重なってしまった関係で、そのこと事態が目的化してしまていることに、誰もが感づ、居心地の悪さを感じているからなんだろう。

 けれども本来は、亡くなられた方たちのの追悼の念を示し、思い出を共有して、その生を讃え、その瞬間に止まった時間への悲しみを喚起するのが、顔写真を並べることによってもたらそうとしている心情。それぞれに人生があり、家族がいて未来があったといった思いを抱きつつ、他人への慈しみを心に醸成し、その後の生き方に資するという目的があるから、写真を並べることに誰も違和感を覚えないし、写真を出す方も前向きに応じてくれる。だからニュージーランドのクライストチャーチで亡くなられた方々の写真が、メディアにズラリと並んでいたりする状況にも、どこか共感を抱けるのだろう。大事なのは、何のために顔写真を並べるのかという目的であり、そこに並べられた人たちに対する慈しみの心情。かといって今の日本に、そうした心情が戻ってくるとも思えず、戻そうにも世間に信じてもらえないからなあ。立入禁止の病院に吶喊して捕まっている阿呆もいるらしいし。けどそれが英雄的と讃えられたりするから始末が悪い。全部焼け野原になってしまわないと、分からないのかもしれないなあ。

 今日も今日とて新宿へと出かけて、例の「若手アニメーター育成プロジェクト」の今日は完成披露試写を見る。やっぱり泣けるなあ、新美南吉の原作をテレコム・アニメーションフィルムがアニメーションにした「おぢいさんのランプ」は、司会に立っていた初音ミクの中の人として知る人ぞ知る声優の藤田咲さんを涙ぐませて、休憩の案内をする声を震わせてしまったほどの出来だった。あとでヤマザキオサムさんが解説してくれたけれど、固定カメラの前で大きさの変わらない人間が普通の動きをするというアニメーターにとってとても難しい作画で、「おぢいさんのランプ」には、それをしっかりやっていたりする巧みさがあるという。さらには、氷川竜介さんが解説したように、場目場面で色味を変えてランプや電球、太陽光に提灯といった様々なシチュエーションの違いから来る世界の色彩を、すべて勘案して描いてある丁寧さも、このアニメにはある。

 そんな作り手の思いが、画面に現れ見る人を物語の世界へと引きずり込んだ挙げ句に、パラダイムシフトを受け入れないで現状に止まり破滅するか、それとも受け入れ苦労は覚悟しながらも、その中で最善を目指し最良を生み出すべきかを問うた物語で、示された決断の潔さ、そして前向きさが、藤田さんをはじめ見た人たちを感動させたんだろう。とにかく藤田さん、じっくり見入っていたようで、見終わった後に急遽、コメントを求められても「1つ1つのシーンへの細やかな気配りが感じられる作品で、1本1本、純粋なものを伝えたいんだということが、企画の段階からかなり考えられて作られたのかなあ」と作品が持っていた繊細さについて的確なコメント。「このようなアニメーションがもっと出回れば良いと話し、このような作品にどんどん関わっていける声優になりたい」とも話してくれて、素晴らしいアニメーションが作られ続けることへの期待を示してくれた。

 とはいえ、そうは問屋がおろさないのがこの世界、オリジナリティよりも商業として載るかどうかといったところが重視され、畢竟売れやすくスポンサーも付きやすい漫画原作のアニメが増えていく。それ自体、ファンにとって悪いことではないけれど、例の事態でアニメがアニメとして判断したくても、そうはいかない状況に追い込まれてしまうこともある。だから、テレコム・アニメーションフィルムの竹内孝次プロデューサーは「アニメーションはアニメーションとして独り立ちしていかなくてはいけない」といった感じに、アニメの独立性をどう作り、保っていくかを考える必要性を訴えていた。

 そのためには、アニメ業界にお金が回ってくることも大事なんだけれど、オリジナルのアニメを見て喜んで讃えて、それに協賛するくらいのリテラシーを持ったアニメファンなりスポンサーが、多く生まれてくることが何よりも必要。代理店が抜くだのテレビ局がかっぱぐだのといった言説で、苦闘するアニメ業界の人たちをかばっている言説も多々あるけれど、それはそれとして、一方で生み出される高い意欲を持ったアニメを愛で、支え喜んであげることによって、同じような作品が次に生まれる状況を、ちゃんと作って上げることの方がより重要のような気がしないでもない。そうすることによって潤いが生まれ、ゆとりが生まれ、効率よりも内容が尊ばれ、ひとつところに人が集まり、時間をかけて作品が作られるようになる。その中でテクニックが継承され、思想が継承されていく。

 そう、共同作業で作られるアニメーションだからといって、その作業があちらこちらに散らばっていては、あまり良い物が生まれないという声が、作品を提供したプロデューサーたちの中に多かったのが、とても強く印象に残った。同じ釜の飯を食うじゃあないけれど、監督がいて原画の人がいて間にいろいろとやりとりをしながら作品を仕上げていく、そんな過程でベテランがここはこう表現すればこう見えるとかいった話をし、それならと真似てみてうまくいったらお楽しみ、みたいな関係が、かつてはどこのアニメスタジオでも普通にあったんだけれどいつのころから監督はいるけど原画の人はあちらこちらに散らばっていて、作画打ち合わせだって電話で済ませて振って帰ってきてはいそれまで。それをさらに調整するから時間もかかる上に、集まっていないからそこに一体感はなくどこか右わっついた感じが出てしまう。

 さらに担当する人たちも、1つの仕事に関わっていられないからあちらこちらの仕事を掛け持ちでしてしまう。結果、いくら巧みでもそこに熱なり魂といったもが、真正面から込められるのかといった問題が生まれて来てしまう。プロだから大丈夫、という声もあるんだろうけど、実際に現場でアニメを作っている人たちが心配していることだけに、やっぱりいろいろとあるんだろう。そんな状況を改善するとまではいかないけれど、この若手アニメーター育成プロジェクトは、短期間にクリエーターを集めて監督の下で1つ作品に携わらせることによって、一体感を持って作るということはどういうことで、監督なりベテランクリエーターから受け継ぐことはどんなことかをその身に深く刻むことができた。

 こうした経験を積ませることこそがプロジェクトの目的であって、アニメ業界における構造的な問題をひっくり返すことが狙いではない。給料を倍にしたって仕事をする環境が前のようにバラバラでは、そこに一体感は生まれずノウハウは継承されず、やっぱりアニメは細っていってしまう。優先順位を付けて、今はノウハウの継承だという認識から進められたプロジェクト。その目的は、完成した4本の作品を見る限りに置いて、第一段階として存分に果たされたんじゃなかろーか。あとはだからこうした場の継続なんだけれども、それにはこうした環境から生まれた作品が良いものだとう評価をすること。そのために劇場に通うこと。3月5日から11日まで、バルト9ほか全国のティ・ジョイ系で公開されるんで、機会を作ってでも見に行って、プロジェクトを支持しオリジナルの作品が持つ意味を知ってその持続発展に何か出来ることはないかと考えよう。

 毎日放送が見られる人は、5日から毎週土曜日にテレビで放送されるっていうんだから羨ましい。流石はあの竹田青慈プロデューサーがいる会社だ。まだ作品が出来上がっていない段階で、これ放送せんの? そらいかんといった感じに放送枠を確保してしまったくらいにアバンギャルドでアグレッシブ。もう竹田△、って言うしか他にない。あの実力派の竹田ささんだから出来たんだ、ってこともあるんだろうけど、だったら東京でだってどこかがやっても決して罰はあたらない。あたらないんだけれども、やらないんだよなあどこも。そこにこそ構造的な問題があるんだと、代理店の抜き取り云々を指弾する人たちは突っ込んでいって欲しいもの。動かないだろうけどなあ。


【2月23日】 いよいよ発売された山本寛監督による実写映画「私の優しくない先輩」のDVDを購入、っていうかDVDしか出ないのか。やっぱり買うのは「完全生産限定版」の方だけれども、2枚組のDVDの本編ではない方に、どんな特典映像が入っているのかはまだ未確認。「MajiでKoiする5秒前」の違うバージョンなんかも入っているらしいけれども、基本ワンカメで1発撮りだっただけに、入っているのは別角度からとらえたバージョンってことなのか? だとしたらそこで高田延彦さんがちゃんと踊っているってことはないよなあ。それとも川嶋海荷さんの腹筋もしっかりとしたお腹がちゃんと見えているとか。あれはなかなか良いものだ。

 為政者の言葉が力を持っているのは当たり前だし、言葉に力のない政治家に存在価値がないのも当然。もっとも、それは別に言葉に言霊なるスピリチュアルな力が宿っている訳では決して無く、発せられる言葉によって伝えたことが実現される権能を為政者が持っていて、そして為政者の言葉を実現するためのシステムが現存するからであって、もしもその言葉に力が足りていないのなら、言葉を実行にうつすための力が足りていないとそのリーダシップを批判するなり、為政者の英明な言葉をどうしてシステムが実行に移せないのかを指摘するのが、政治を語る言論として真っ当だろう。言霊がなければそれは為政者として失格だという言論には、そうした段取りを積み上げ受ける人たちを説得する手順がかけている。雰囲気あることを言って、そうだよねってあおり立てるだけの言論で、ある意味そちらの方がよほど危険な言霊だ。古来よりさまざまな局面で、そうした雰囲気だけを尊ぶ言霊が、この国の進路を過たせて来た訳だから。

 なんてことを言ったところで、届くはずもない4万キロの彼方。まあ今時の人たちは、そうした論拠なき言霊に踊らされ、煽られるような間抜けさは持っていないし、逆に空虚さをつきつつ言葉に力を持たない為政者にも矛先を向け、ともに断じるだけの気概も知識も持っているから、心配することもないんだろう、って心配しないといけないんだけど本当は、お財布的に。いっそこういう雰囲気で為政者を断じる言説を繰り出すならば、オカルティックでスピリチュアルな言葉ではあんまり受けないから、もっと今時の表現でもって論じた方が良いと提案。為政者には言葉も必要だけれど、その佇まいもやっぱり大切で、他人を引きつけ従わせる魅力、すなわち“萌え”こそが為政者に不可欠なものだと論じ、そうした“萌え”を失った為政者は、やはり去るべきだと結べば、若い人たちも引きつけられるのではなかろうか。その時は言葉の語尾にも工夫をにゃん。した方がいいにゃん。にゃん。

 真夜中にリビアでカダフィ大佐が演説をしていたんだけれど、国民が見守る中で絶賛を期待して演説をしながら、激しいブーイングを浴びてその支持がもはやゼロと化していることを実感し、一方で国民にも見せつけてしまったルーマニアのチャウシェスク大統領が、そのまま逃げだそうとして捕まり、半ば虐殺されてしまった故事にならったのか、国民をあんまり前にせず、テレビに向かってひたすらに自説を開陳しただけの様子。そのあまりの弱腰っぷり、そして内容の自己弁護っぷりに、これでは国民は説得できない、だからあの急場において国民をそれでも戦場へと駆り立てた、ジオン公国のギレン・ザビ総帥の演説をカダフィ大佐も見習ったらという声が多く出た。

 ならばとカダフィ大佐、日本から情報を取り寄せ、ギレンの演説を真似てスピーチライターに演説を書かせ、これならアピールできると始めた演説。「わが忠勇なる兵士たちよ。今やデモ隊の半数が、わが銃撃によって地獄に消えた。この銃撃こそ、われらリビアの正義の証である! 決定的打撃を受けたデモ隊にいかほどの人員が残っていようと、それはすでに形骸である。敢えて言おう! カスであると!」。いやもう勇ましいのは勇ましいんだけれど、あまりに向ける矛先を間違えすぎている関係で、最初っから見放していた国民はもとより、リビアの軍部もそして傭兵までもが「こりゃだめだ」とカダフィ大佐を見捨て、そして反抗が始まりカダフィ大佐は退陣を迫られたという、そんな未来がちょっと見えたりするんだけれど、そうなるかどうかはこれからのカダフィ大佐次第。さて次はどんな演説を見せてくれるのか。

 鳶一槙奈、作家デビューの巻となった橘公司さんの「蒼穹のカル7」(富士見ファンタジア文庫)は、魔法の失敗で記憶を失い、赤ん坊へと退行した駆真を元に戻すべく、魔法のハンマーを振り下ろす役を担わされた駆真の同僚の鳶一槙奈が、が過去の恥ずかしい思い出すなわち学生時代の創作を、小説にして出版する羽目になる。そりゃあもう恥ずかしさ炸裂の設定は、技の名前もキャラクターの設定も、中学二年生的妄想と願望が炸裂していて、それをそのまま出すのは鳶一槙奈にとっては絶望するくらいに恥ずかしい。けどそんな恥ずかしさが魔法の力になると言われて従わない訳にはいかず、かくして過去の恥ずかしい創作を真っ当なレベルへと引っ張り上げ、出版することになっただけれどそこに割り込む嫌がらせ。何と100万部を出版し、その際に賞金1億円も贈られるとなって鳶一槙奈への注目はあつまり、比例するように内容へのさまざまな評判が乱れ飛ぶ。

 ときけば12月に大ベストセラーになったあの本の影響もチラといったその展開。なおかつ本を出すには編集さんとの丁々発止のやりとりを乗り越えなくては成らず、満々な自信はへし折られ、かといって弱気は諫められるというその羞恥プレーを乗り越える辛さ苦しさとか、本を出したら出したでネット上に毀誉褒貶に罵詈雑言の言辞が書き連ねられ、それを見れば喰らうダメージは一生を3度は繰り返せるくらいというエネルギー。直撃をくらって落ち込みひしゃげる鳶一槙奈の姿に、およそ創作に励んでいる者たちはいったいどんな共感を抱くだろう。個人的には内容はともかくそのビジュアルの鳶一槙奈は悪くないと思うんだけどなあ。ずっとそのままでいれば人気も出るのになあ。そして物語は前巻から続く有紗の未来のリサとの戦いにとりあえず幕。けれども新たなキャラが加わって…といった感じで次巻に続く。さてどうなる。駆真の狂言回しっぷりが強くなってきたなあ。


【2月22日】 ニーツニーの日、って言ってすぐに分かる人はやっぱりまだいないかな。三島浩司さんの傑作大長編ロボット&ファーストコンタクトSF「ダイナミックフィギュア」(ハヤカワSFシリーズJコレクション)に出てくる絶対不可侵の物質だか何かの名前。あるいはATフィールドみたいなものとも言い換えられそうだけれど、あれほど人間個人には依存してなくってちゃんと宇宙からやって来た謎物質ってことにはなっている。どんな形をしていたかは覚えてない。っていうかそういうものだったっけ。1巡目はばっとストーリーだけ追ったんで2巡目をじっくり吟味して読んでみたい、時間があれば。

 ニーツニーですぐに通じるくらいなら、鳴滝調もえー、って言ったら共感の連呼があちらこちらで上がっても不思議はないけれど、未だネットでも注目語に上がってきていないところを見ると、「ダイナミックフィギュア」の浸透もまだまだこれから、って言ったところか。同様に公文土筆こえー、とか安並風花つえー、って言葉も。この2人とあとは香月純江に続初といった年齢差も大きな2人を交えたあたりが人気の出そうな女性陣。やっぱり個人的には鳴滝調なんだけれど、それが選ばれないとこに主人公の朴念仁っぷりってやつが強く現れているって言えるかも。もったいないもったいない。

 「レベルE」はそういやあそんな作品だったなあ、って記憶をたぐるのが面白いというか、おそらくは単行本からのアレンジはほとんどなくって、そのまんまの展開になっていうんだろうけれど、だとしたらあの展開あの密度、あのひっくり返しっぷりの凄さって奴を当時の冨樫義博さんは、とてつもなく持っていたんだってことになる。今は……読んでないんだ「HUNTER×HUNTER」。原色戦隊が引きずり込まれたRPG惑星で現れたお姫さまはやっぱり王子。そして迫る敵の将軍に身を差し出しつつ、イメクラプレーを強いている間に逃げ出し原色戦隊の元へとはせ参じる、その女性教師姿が何とも色っぽい。宇宙人が化けてる原色戦隊の担任も悪くないけど、どこか健康的な若さがある彼女とでは年期が違うっていうか。でも王子の方が若いのか。悪辣さが違うってことなのか。それが魅力にすり替わる女性の恐ろしさ。痛感せよ。

 聞くほどに色々なことがあったようだし、今も現在進行形で動いているらしいとは伝え聞くけれども、そうしたこととは関係ないところで、しっかりと未来を見据えた活動って奴が動いていて、その成果が遂に形となって現れたことに今は感動感激感嘆感涙。原作物でもないし流行のてんこ盛りでもない、既視感とは無縁に何か新しいところを持ったアニメーションが見られるんだというこのワクワク感は、アニメ好きとして生きてきて、やっぱり何物にも代え難い。評判だとか口コミだとかいったものに左右されがちな現代だけれど、その目で見て味わう感度うなり、逆の呆然なりも含めてすべてが経験いなる。そして糧になる。そこにはリスクなんてものはなく、すべてがポジティブに自分を成長させてくれる材料なんだと思えばこんなに楽しいことはない。そしてそんな楽しい時間がやって来た。

 これからを担うアニメーターを育成しようって意図のもと、文化庁が助成を行う形でアニメーションの短編を作らせようってプロジェクトがあって、日本アニメーター・演出協会がおそらくは窓口となって募った企画から、精査された4本が実際に制作ということで動き始めて幾歳月、ようやく仕上がってきた4本を見せる試写があったんで見物に言って、まず見せられたのはベテラン・本郷みつる監督による「キズナ 一撃」って作品。すげえ強い闘士として君臨する男に挑む子どもがひとり、って導入部分をどこの自主制作かと思わせるような絵で始めつつ、そこから格闘アクションを入れ、物語を積み上げ、絵柄や動きでバリエーションを広げていってそして、感動のドラマを示して終えるてんこ盛りの作品。関わった人たちは実に様々な体験を出来たんじゃんかあろーか。まさに育成プロジェクト。登場する爺さんが過去を妄想シーンでは、「けいおん」っぽかったり「マクロス」っぽかったりする絵やレイアウトが出ていて、そこで作画の人たちが思う存分腕前を見せたって感じ。場面場面で変わる絵を統合し、ストーリーにまとめ上げたのは本郷監督の手腕ってことになるのかな。声も豪華。とりわけ藤原啓治さんの使い方が贅沢過ぎ。

 そして老舗のテレコムアニメーションフィルムの「おぢいさんのランプ」は、新美南吉の童話を原作にしたアニメーション。文芸アニメって感じの丁寧な絵柄と、進取の気風を尊びながらもそれが既得権益と化した時に人はいったい何を考えるのか、といった部分を問うような、メッセージ性を持った展開で、見ればじんわりときて、情けないって気になって、ここから頑張ろうって気持ちを抱かされる。すべてが本当に丁寧で、描かれている人たちの表情がとても言い。心の中を実によく現した顔をする。俳優よりも巧いかな。声には神谷浩史さん。だからといって別に「絶望したっ!」とは叫びません。叫んでも悪くはなかったけれどもそれだと別のアニメになっちゃうよ。

 そして富山の丁寧なアニメ会社のピーエーワークスは、「万能野菜ニンニンマン」ってNHK教育とかでやっていそうな作品を提供。冒頭の少女が見る夢中のシーンで繰り広げられる軟体な作画が素晴らしい。そして日常の物語は、ニンジンだったり古い橋だったり、友だちとの関係といった、まだ苦手なものがいっぱいあって、それらと折り合いをなかなか付けられないでいる小学生の女の子が、ひとつづつ前に歩いていく中に、ファンタジックなキャラが絡むといったストーリーになっている。万能のヒーローとかが出てきて導き、全部を解決してくれる、とはいかないところにひとつの主張がありそう。早見沙織さんが幼女しっかり演じて。

 最後が話題騒然の作品。超絶アニメーター黄瀬和哉さんによる「たんすわらし。」で、あのプロダクションI.Gが誇る超絶アニメーターの黄瀬さんが監督するんだから、きっと超絶作画の超絶アクションが繰り広げられる超絶アニメかと思ったらさにあらず。コールセンターで働くOLの日常話で、そこにファンタジーが混じるという、実にほのぼのとした展開になっていた。その絵柄もハードコアではなくやっぱりほのぼのとした絵本系でイラスト系。丸顔で目の小さなキャラを歪みなく動かすのは大変だったのかもしれないけれど、そうした地味な作業を行うアニメーターたちを統括して、作品にまとめあげることによって、アニメっていうものがカッコイイシーンの連続ばかりじゃなくって、日常を普通に違和感なく描いてみせた上に成り立つものなんだってことを、若いアニメーターたちに教えて、鍛え上げようとしたのかも。

 何より物語が良い。黄瀬和哉さんていう超絶アニメーターが原案として出したのがこの物語なのだって言われて、その絵描きとしての超絶ぶりしか知らない人間として、ただただ驚くよりほかにない。どこからあんな優しくて前向きな物語が出てきたんだろう? だってアニメーターだよ。不規則な生活をそれが日常だと割り切って暮らしているような人たちって印象があるけれど、そうした怠惰を納得して生きていては、やっぱり前向きなクリエイティブは生まれないってことを、言いたかったのかなあ。アートだとか大人だといって享受し妥協している人間の居住まいを、真っ直ぐに生きなさいってぴしっとたださせる物語。見てこんな生活してみたいと思う人の数は、おそらく万を下るまい。そして求めるに違いない。あれを。

 ヒロインの声がまた良い。能登麻美子さん。それが「フリージング」のサテライザー先輩みたいな、暗くてハードで時々純情な声でもなければ。「ケロロ軍曹」のアンゴル・モアちゃんのような、甲高くて素っ頓狂な声でもない。普通に普通のしゃっきりしたOLの声。それは「ウィッチブレイド」の若い母親の声ともやっぱり違ってる。能登かわいいよ能登って言われがちな人だけれど、実はとっても巧くて広い声優さんだってことを分からせてくれる。能登かっこいいよ能登。ともあれどれをとってもユニークで、そして考えさせられる作品ばかり。見ていてそうくるかそうなんだ、そうじゃないけけどそうかもね、等々いろいろと考えさせられる。そして学ばせられる。これがたったの1週間の限定上映とはもったいないけどそれが限界なのだとしたら、是非にもかけつけ見よう、若手アニメーターたちの今を、そして未来に開けた可能性の一端を。


【2月21日】 あれでも一応は「殲滅白書」のメンバーなんだから、トンカチだとかバールのようなもので殴れば壁だってぶっこわれるし、人の頭だったら木っ端微塵に粉砕できるはずなのに、まるで傷ついた風のないワシリーサのその超常性に、テレビで「とある魔術の禁書目録2」を見ていた人が気づいたのかどうなのか。その理由を示すならば第三次世界大戦へと向かってワシリーサが、司教のトルストイを相手にバトルにならないバトルを見せるシーンをテレビでも映画いてみせないど、単に丈夫な人だとかあそこだけはギャグなんだといった理解で通ってしまいそう。

 あるいはサーシャ・クロイツェフが手加減した? それはないない、あの根が真面目な上に機会があればワシリーサをぶっ殺そうと企んでいるサーシャちゃんが、トンカチにバールのようなものにドライバーに鋸を、手加減して振り回すなんてことはありませんてば絶対に。でもこの雰囲気だととりあえず、神の右席から前方のヴェントだけを相手に戦ってシリーズは終了となりそうで、そこにヒューズ=カザキリは出て来てもサーシャやミーシャ・クロイツェフは出てきそうもないんだよなあ、それはワシリーサもおなじか、ってことはあの一瞬のために本名陽子さんをキャスティング。贅沢なアニメだなあ。

 それをいうなら木原数多の藤原啓治さんにヴェントの平松晶子さんもいっしょか。とてつもないプロフェッショナルの2人がそれぞれに演じる悪役は、「荒川アンダーザブリッジ」で村長として藤原さんが見せた、ぞんざいさの中にちょい恐そうなところを秘めた演技を更に進めて徹底的な悪、というかそれを悪と意識もしないでふりまく木原数多ってキャラクターを、くっきりと描き出している。潰す殺すといった言葉の何と軽くてそして凄まじいことか。あの演技を出きる人はやっぱり藤原さん。若本規夫さんではそこにオーラが滲みすぎるんだ。だからエリート意識満々なピアージオが似合ってた。ほかに木原数多が出来そうなのはやっぱり山寺宏一さん? でもちょい優しさが出てしまうかな。だからやっぱり藤原さん。池田秀一さんだったらどんな感じになったかな?

 平松晶子さんは、何か悪辣なんだけれども言葉にキャハって雰囲気もにじんだ明るい悪辣さでもってヴェントを好演。アレイスターに向かってトランシーバーで「ハローッ!」って呼びかける場面の突き抜け方といい、「相手してくれると嬉しいんだけどなぁ」って語りかける場面で叩く言葉の可愛らしさといい、神の右席っていう存在が持つ自信というか、もはやそれを当然と感じている凄みってやつを存分に感じさせてくれる。これだけ愛らしいんだったら別に彼女を憎んで天罰を喰らう必要なんてなさそうなんだけれど、そこは敵意を向こうから向けることによって、反射的に返してしまう人間の愚かさ弱さ悲しさってことで。そんんあヴェントの軽快さが上条当麻とぶち当たって激しいバトルになった時、どう豹変して内に抱えた世界への怨みを言葉に吐き出すのか。その時の演技は。楽しみだあ。

 卑怯を咎めたというよりは、今はサイバディにアプリポワゼできない仲間がいるにも関わらず、核攻撃だなんてとんでもない事態を招きかねないフェーズの上昇を防ごうとしただけ、って感じの内輪もめにも助けられ、ツナシ・タクトはかろうじて今回も勝利できたけれども、敵のヘッドがどうやらまるで歳をとらない父親らしいと判明し、けれどもそんな記憶も失ってゼロ時間にとらわれたままのヘッドが次にいったいどんな行動を見せるのか、ってあたりがこれからの展開の大きな鍵になってくるのかな。というかそもそもヘッドがいったい何を目的にして、島で発掘されていたサイバディのプロジェクトに首を突っ込み、そこでそれなりの地位を得たのかってあたりも分からないところ。そんなあたりを整理しつつ、三角関係のもつれが2代にわたってツナシの家の者を苦しめ、挙げ句に何が起こるのかってあたりを見守りつつ、残る話数をみていこう。ニチ・ケイトで十分じゃん、という気持ちも引きずりながら。

 時には受賞者も出さないこともあったりするのは、選考料金をとっていながら何だという非難も甘受しつつ、それでもやっぱりダメなものはダメだという強い意識がそこにあってのものだろう。だから「ボイルドエッグズ新人賞」は信頼できるし、出てきたものも総じてしっかり面白い。そんな賞が「第12回ボイルドエッグズ新人賞」では新しく2人もの新人作家を送り出すことにしたというから、受賞した人は誰であろうと相応の自信を持って良いんじゃないだろうか。例えば石岡琉衣さんという人は、その正体を自ら漫画家だった石岡ショウエイさんだと明かしつつ、とても大変な状況にあって漫画家の道を断念しかかっている今、筆にかけているといった話もしているけれども、そうした事情を勘案して賞を出すような甘さはないし、当人もまるでかくして応募したもよう。そんなガチの戦いから生まれた受賞。誇って良いし、きっと作品も面白いに違いない。

 もう1人の徳永圭さんは、京大を出てメーカーに務めながら今は辞めてしまっているというあたりが「鴨川ホルモー」の万城目学さんとも重なるキャリア。名古屋在住ってあたりはやや違うもののそこから小説書きを目指して応募して、見事に受賞を果たしたってところから、あるいは万城目さんに連なる才能へと発展していってくれるのかもしれない。村上達朗さんが三浦しをんさんのデビュー作「格闘する者に○」を上げてその面白さの質、クオリティの高さを語っているところからも期待は持てそう。そんな2人が新たに鮮烈に加わる一方で、日向まさみちさんが「ロンリー・コンバット」とかいった新作を角川書店から出すらしく、また蒲原二郎さんんの「オカルトゼネコン」シリーズも万事快調のままおそらくは続刊となるに違いない。揃ってきた球があとは三浦さん万城目さんのようなベストセラー常連へと向かうか、滝本竜彦さんのような熱く愛され続ける作家へと向かうかは分からないけれども、ともあれ刻んだ第1歩を、しっかりと踏んで上がっていって欲しいもの。読者としてはひたすらに刊行を待ち、そして面白がろう。


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