縮刷版2011年1月下旬号


【1月31日】 時間的に真下で中田英寿さんがコカ・コーラのCM発表会をやってたらしい六本木ヒルズにある森美術館で昨日見た、小谷元彦さんの展覧会ではやっぱり、最初の部屋に飾ってあった女の子が手を真っ赤にして寝っ転がったところを前上から抑えた写真のシリーズなんかが、小谷さんの作品として妙に印象に残ってて、ながめて無理矢理やれば立体視になるかなあと目を寄らせたり、遠くを見るよういんしたけどあんまりうまくいかなかった。立体にすればあるいは真下からのぞくと見えたりするのかな、って考えた自分が莫迦だった。写ってないものは写ってないのだ。それが写真だ。うんまったく。

 これが彫刻になるとちゃんと作ってあるようで、ホロウシリーズって人間とか動物とか植物とかが石化してカンナか何かで薄く削り広げられたようになっている作品で、ユニコーンにまたがった少女の立像がちゃんと前から見ると奧がのぞけたんだけれど、元が真っ白なんで履いているのかいないのかはちょっと分からず。同様に女性2人がワンピース姿で中空から吊り下げられている彫刻作品も、見上げれば奧がのぞけるんだけれどやっぱり真っ白で区別がつかず。じっと眺めていればあるいは心眼に写るものもあったかもしれないけれど、後ろで監視員の人がじっと見ている中でそれをやり続ける勇気は、僕にはちょっとありません。でも見たけどね。

 そうした目に響く作品は別にして例えば毛皮のワンピースとか、トゲトゲが生えたドクロとかいったものはインパクトはあってもどこか大仰さが残っていたという印象。あるいは遍歴を辿るように作品が並んでいたため、比べてしまってその大仰さが出てしまっただけで、これがシリーズとして固まっていただけなら、ヤン・ファーブルの玉虫彫刻を見た時のように、グロテスクなりの深遠さって奴を感じられたかもしれない。そのあたり、見る時の気分ってやつに左右されがちになってしまうところが、まだまだ美術を見る目が達していないってことなんだろう。鍛えてねば。

 骨の化石めいたシリーズは原型が何か分からない動物をその骨格から想像してみる楽しさがあるのと、骨格そのもののフォルムの美しさって奴が相まっていい感じ。それこそミニマル過ぎるって言われるかもしれないけれど、見てすぐ分かる奴の方が人間、安心できるものなのだ。中に入って滝のように流れる映像を360度ぐるりと眺める装置めいた作品は、下がガラスになっててスカート姿の人とか割と大変なことになったかもしれないけれど、その場にはおらずむしろ僕の3日間脱いでいない靴下から流れ出す香りが周辺に、どんな印象を与えたかがちょっと気になった。本人はあんまり気にならないものなんだけれど、他人はそいういうのに敏感だから。警備の女性がときおり消臭剤を持って中に入っていく理由も分かったよ。作品自体は上を向くと昇っていく感じ、下を向くと下降していく感じがしてとっても不思議。加重はなくとも目で世界を感じる人間の感覚って奴を、味わわせてくれる作品だった。次はミニスカ女子高生とかといっしょに入りたいなあ。

 「っていうか、接触禁止」っていつ言ってくれるんだろうと期待していたけれどもそっちの能登さんはいないみたいなんで聴けそうもなく残念。とはいえ何でああまで触れられることを嫌うんだろうって誰もが思っているみたいだけれど、サテライザ先輩はあれで眼鏡っ娘の時なんか割といじいじとしていたりするところから、たんに男性に触れられるのが苦手な純情っ娘なだけじゃんと、誰だってすぐに気づきそうなのにそうはならないのはやっぱり、普段からみせるあの圧倒的な強さが純情さに結びつかないからなんだろう。見た目で人は損をする。それにしてもアオイ・カズヤの傍若無人さはやっぱり許せないなあ。ノックして返事がない部屋に平気ではいって、日記を見たいと思ってしまうその心根。とても信じられないけれどもそういう好奇心が奥手のサテライザ先輩を動かしている訳だから、時に強引さは必要ってことで。勉強になるなあ。でも実行できないけど。できてたら今頃夜中にひとりで「フリージング」なんか見てないさ。ああ見てないさ。

 野球だったら「おおきく振りかぶって」とか「ザワさん」とかがあったりするし、サッカーだったら「GIANT KILLING」が人気になってたりと、スポーツをリアルに活写する漫画が割と流行っていたりするようで、妙に脚色しなくたってスポーツはスポーツとしれそれぞれに奥深いものがあって、関わる人間にもドラマがあるんだってことが、世間に広まってきた現れとして、それはそれで嬉しい限り。タレントが出てきて応援しなくたって、スポーツがどれだけ大変な労力の果てに成り立っていて、そして今現在行われているプレーが、どういいった意図とそして技術の上に成り立っているかを知らせるだけで、人はスポーツをちゃんと楽しめる。むしろしっかり楽しめる。

 とはいえ、そうしたリアル系ばかりが蔓延ってしまって、果たして楽しいかというとそうではないのが数々の、アンリアル系スポーツ漫画で育ってきた人間の性。「アストロ球団」のあの破天荒きわまりないプレーに、人間の限界を超えたところにある凄みを見たし、「リングにかけろ」で炸裂する必殺パンチの応酬も、それが繰り出される瞬間に向けて進むドラマの楽しみであったり、それらがかわされた先に待ち受ける試練といったものへの興味をかきたててくれた。「ドカベン」だって岩鬼の悪球打ちがあり、殿馬の秘打があったればこそのあの人気。ちょいと人間離れした技が現実を超えたところにある可能性への想像力を読む者にもたらす。

 竹山裕右さんって人の「サムライリーガーズ」(少年画報社、562円)も、そんな可能性を超えたところにある迫力って奴を、存分に味わわせてくれるスポーツ漫画。テーマは一応野球ってことになているけれど、アメリカのメジャーリーグならぬメジャーボールって競技を舞台に、限界なんてものを超えて突っ走る奴らが描かれ驚かせる。王斬源路郎という男がいて、メジャーボールで日本人だけのチームに所属して、快投快打で世間を驚かせていたけれど、メジャーボールでも屈指の強打者、ヴァルディス・カーンが150キロもの重さがあるバットではじき返したボールを真正面から受け、マウンドからセンターのフェンスへとたたきつけられそのまま絶命。以後、チームは低迷し解散の瀬戸際まで追いつめられていた時、海を越えて源路郎の弟、王斬一路太がやってきて、チームに参加したいとオーナーの女性に直談判する。

 その剛腕剛打ぶりを見てすぐさま入団を決めるものの、チームメイトたちは優勝と引き替えに絶命した源路郎の強烈さに、一路太がまだまだ及んでいないと認めようとはしなかった。本人は本人で比べられることへの反発を抱いていたけれど、そこはそれ、持ち前の実力でとりあえず解散の瀬戸際をはねかえし、鞭でボールを絡め取ってはスタンドへと運ぶバッターを投手として打ち取り、体から癒しの空気を発し色気も見せて打者を骨抜きにしたり、あるいは全身にプラズマを発生させてボールを6個操っているように見せかけるグラマラスなシスターの投手を打者として打ったりして、チームを勝利へと導いていく。そこに立ちふさがったのが兄の敵ともいえるヴァルデス・カーン。果たして勝負の行方は、ってところは既に発売中の「ヤングキングアワーズ」に書いてあるんだけれど、それはそれとしてその先も含めて、どんな技が繰り出されどんなライバルが現れるのか、ちょっと気になってきた。妙な女性の登場も雑誌の方ではあったしなあ。1巻が出たんだから2巻が出るくらいは続くかな。

 そんな「ヤングキングアワーズ」では塩野干支郎次さんの「ブロッケンブラッド」にAKW47なる美少女アイドルユニットが登場。由緒正しい名家のお嬢さまたちで作られたグループで、同時期に発売の「チェンジH red」に収録の短編に登場しているメンバーの名前が大石だったりするところに、AKWがカラシニコフとかじゃなくって例のあの元禄に大騒動を繰り広げたユニットに由来するものだって分かりそう。いつか誰か考えてはくると思っていたけど塩野干支郎次さん、いちはやくKGB48を作品に出してきただけあって早いなあ。これからも出てくれると嬉しいけれども果たして。ノイシュバンシュタイン桜子ちゃんは今回もとってもキュートだったけれども、最後はやっぱり見えちゃったのかな、見せずにうまくごまかしたのかな。


【1月30日】 おお勝った。なるほど勝った。勝ってそりゃあ嬉しいけれどもその勝利が例えば同じコンフェデレーションズカップに出られるEUROの優勝に匹敵するだけの価値はあっても、内容として同じかどうかってところがどうにもこうにももどかしい。あのゆるゆるとしたパススピード。途中であっさりおいつかれカットされてしまうようなパススピードでは、テレビで時々やるプレミアとか、ブンデスとかの素早いパスをピタリと足下で止めてそれをけり出したら、ちゃんと走り込んでいる選手がいてぴたりと収まるような、そんな流れるようなプレーが普通に行われているリーグに行ってもも、とても通用しないんじゃないんじゃないのかなあ。そんなところで常日頃から試合している選手たちが集う代表が相手でも。

 オーストラリアがオセアニア代表を抜けたってのも、そんなところで王様やってたって上達もしないしプレーオフだって抜けられずワールドカップに出られないと思ったから。んでもやっぱりアジアの中では普通に勝ちあがれてしまう訳で、かろうじて日本が相手になる程度だけれども、ログボールで押し込めば勝ててしまえそうになる相手ではやっぱり上は狙えない。いっそだったら英国連邦ってことでEUROに名前を入れてくれ、ってことにはさすがにならないだろうけれど、そんなことを思いたくなても不思議じゃないくらい、アジアのレベルはやっぱりどこか足りてない。そこで優勝できたからって、価値はあっても可能性に果たしてつながるか。ってことでコパアメリカで軽く捻られ、水準を確認するのも一興。あるいはそこで本当の実力って奴を見せて、EUROから誘われるのも面白いけどどうだろう、日本代表。

 2話に短し1話に長しってことだったのか、アニメーション版「とある魔術の禁書目録2」はアドリア海の女王編が最後をまくるように一気に終息。あるいはビアージオ・ブゾーニ司教を演じる若本規夫さんが、これ以上長く演じさせたらビアージオなのか若本さんなのか分からなくなってしまうと危ぶんだ音響監督が、ストップをかけてまだかろうじてビアージオに聞こえなくもなかったりする辺り、で切ってつまんだら2話に足りなくなってしまった、なんてこともあったりするのかなかったりするのか。それくらいに豹変ぶりが凄かったビアージオ。でもあんまり強くなかったかな。死体の確認怠るし。

 ということはこれから学園都市へと戻って、御坂美琴と上条当麻との罰ゲーム編があってそれから前方のヴェント編があってオルレアンでの左方のテッラ編があって、またまた戻って学園都市で後方のアックアと闘って、そこで神裂ねーちんが堕天使エロメイドへと変身。アックアを蹴散らし当麻をメロメロにさせて大団円、とはならないけれども流石に英国編をやりきりそして、右方のフィアンマと闘う第3次世界大戦編まで進めるのは2ヶ月では無理だろうから、やっぱり神の右席の3人まで、ってところであとは続刊が貯まったあたりで一気に3期か、それとも1クールで第3次世界大戦編まで持っていくか。

 いずれにしても23巻+SS2冊ともなると流石にネタも豊富。アニメ化に苦労してオリジナルエピソードでつないだ挙げ句に、てんでバラバラになってそのままブームごと終息、ってならないくらいに強い作品になっているから素晴らしい。それここれもここまで積みかさねて来たからこそ。島崎一歩に代わってよく頑張ったと讃えたい。個人的にはあまりに破天荒過ぎて途中で半ば放り出していたけれど、アニメ化によって状況が整理できてキャラクターへの情が生まれたことで、一気に作品への興味がわいてきた。そして読み返すと本当に熱くそして分厚く世界観を作っていたってことが判明。そのテンションを何ら下げることなく23冊まで持っていってなお……といったあたりがやぱり才能ってことなんだろう。「ヘヴィーオブジェクト」も面白いしなあ。あと10年は天下が続くかなあ。

 そうかそれは最強だ。最強のプリキュア4人が合体して無限のプリキュアとなってしまってかなう相手なんかいるものか。おまけに放たれたのが「こぶしパンチ」。つまりはグーパンチ。女の子のグーパンチはもはや矢吹ジョーのコークスクリューブローでも、幕之内一歩のデンプシーロールでもかなわないというのが定説。ましてや無限プリキュアのこぶしパンチだ。そこにたとえ剣崎順のギャラクティカマグナムとギャラクティカファントムが同時に繰り出されようとも、高嶺竜児のブーメランフックからウイニング・ザ・レインボーまでが一気に繰り出されようとも、倒すどころか触れることすらかなわなかったに違いない。プリキュア。おそろしい娘。

 そしてBパートではすっかり戻った日常でもってキュアマリンの顔芸炸裂。わらったりきょどったりするその表情の様々ぶりはきっとやってる方も楽しかったに違いない。それだけでダレずに持たせてしまう密度って奴にも感心。まあそれもこれも1年をかけてそうしたコミカルな表情作りと、そして戦闘部分のシリアスさを作り分けては見る側に植え付けてきた製作陣のがんばりが、あったからなんだろー。とはいえさすがにああいった絵は子供に厳しかったのか、次のプリキュアでは他の女の子向けアニメにありがちな絵へと回帰。そこは動きによっていろいろ楽しませてくれるんだろうけれど、顔でっかく目がぎょろりな特徴的なレイアウトはしばらくお預けとなりそう。次に会えるとしたらどんな作品でなんだろう。期して待とう。

 廊下に落ちていたパンツの持ち主を探そうとしたら、幼なじみのツン娘が、嫉妬の炎を燃やして炎の力をぶつてて来たり、スク水常用の先輩が、嫉妬の氷で凍てつかせようとしたりして、これは死ぬと思い命からがら逃げ出したら、裏世界から来た少女が登場してくんずほぐれつという、そんなラブコメに見えた乙姫式さんの「表裏世界のソーマキューブ パンツは誰のもの?」(ファミ通文庫)だったけれど、読んでいくういに今の超常的な力が使える世界が訪れた裏にあった、なんともまあ非道な暴虐が露見するハードな展開へと進展。裏世界なる存在の古典SF的な設定が浮かび上がって来て、壮大さを醸し出しつつ慈しみで世界が救われる話になっていった。こいつはちょっと凄いかも。6人いるらしい最強の美少女のうちのまだ2人くらいしか出てないんで、続きではほかの面々もこれまた主人公の様々な形で愛情を注ぎ、そこから逃げだそうと苦闘する姿って奴を読ませて欲しい是非欲しい。


【1月29日】 ヴィクトリカは今回もゴロゴロとせずはっはっはと笑いもしないで拗ねてみせる程度でそこに偏愛は浮かばなかったアニメーション版「GOSHICK」だけれども、普通に情愛は湧いたんで良しとするか。でもやっぱりミディアムな髪型に勝ち気な性格の少女ってのが出てきて強引なことをするとやっぱりそっちに目が映りがち。根が怠惰で臆病なんでそうやって引っ張り回されるとどうしても従ってしまうのだ。でも心底から信じてなくって保険をかけようとしているところを見透かされて疎まれるという、そんな性格でやってきたから今の咳をしてもひとりっきりの自分がいるということで。なんのこっちゃ。

 えいやっと早起きをして渋谷へと向かいブックファーストの地下2階で佐々木中さんって人の小説の新刊とそれから「思想地図β」が仲良く平台にならんでいる様を見つつ上がって渋谷シネセゾンの前についたら行列ができていたしまった寄らずに行くんだった。でもしばらく待ったらちゃんと購入できた今敏監督のオールナイト。映画をまとめて上映するって企画でそりゃあなるほど映画もテレビも全部作品はDVDとかブルーレイで持っているけど、デカいスクリーンでCHAMの「愛の天使」を眺め大音響で「ロタティオン LOTUS2」を聞き真冬の東京で「東京ゴッドファーザーズ」の白さを浴びてそして「パプリカ」の奇天烈な世界を味わうなんて機会はなかなかなさそう。

 だったら行くしかないという訳で、たとえ前日に文化庁メディア芸術祭のシンポジウムがあり、当日も午後から2本も同じメディア芸術祭のシンポジウムがあっても、頑張って行って4本を見て「オハヨウ」を見て世界にオハヨウと叫ぶのだ。それに米アカデミー賞の方で今敏監督の「パプリカ」と「パーフェクトブルー」に何かリスペクトでもあるような「インセプション」と「ブラックスワン」が、ともに作品賞になている今だからこそ、やっぱり劇場でこれらを見ておきたいってのもあるしなあ。どうなるかなあ米アカデミー賞。どちらがとってもそこに絡めて今敏監督の名前が世界に改めて再認識されて欲しいなあ。いっそアカデミー賞から功労賞とか贈られたら嬉しいなあ。そうでなくてもダーレン・アロノフスキーはオスカーを今敏監督に捧げるくらいのことは言って欲しいなあ。言えよ絶対に。

 そこにはかれていたという事実が過去にあるだけで、パンツはパンツとしての価値を持ち続ける。集めて並べ手に取り香りを堪能し、形をながめ引き延ばしては元通りになる柔軟性を確認し、心に劣情の炎を灯して興奮の時間を堪能できる。もちろん実際に履かれているものを眺めることも決して悪いことではないが、それはまた別のフェティシズム。パンツがパンツとして単独で存在できることを何ら脅かさない。うん。

 だがしかし黒ストッキングはどうなのか。黒いストッキング。それが仮に単独で手に入ったとして、そこに何か力を呼び覚ますような情動の源は存在するのか。黒ストッキングが存在していてしかるべき場所。それを想像すれば自ずと、黒ストッキングを力に変えるシチュエーションというものも思い浮かぶはず。同じ身にまとう繊維製品であっても、ことほどさように存在してしかるべき場に差異が存在する。

 何が言いたいかというとメガミ文庫から刊行の内田俊さん作「倒錯クロスファイト」(学研)において、黒ストッキングの戦士となった少年が、すべきことが何かは最初から分かっていたということだ。けれどもそれに気づけなかった少年は、繊維どうしが至高を争うと始めた戦いの代理人として、ナイロンの精霊が現れ彼を黒ストッキングの戦士に任命しても、最初はうまく戦えないでニーソックスの戦士に苦戦する。相手は長いソックスに様々なものを詰めて振り回す。ブラックジャックならぬホワイトジャック。当たればのたうち回る痛さにひるんで当然だ。

 そこに現れたのがスパッツをはいたひとりの美少女。動きにフィットしなおかつ見せても安心という心理からそれを愛用する少女の思いが精霊につたわり、彼女をスパッツの戦士へと選び出した。身につければだから力も幾億倍。激しいケリを放ってニーソックスの戦士を撃退し、そして黒ストッキングの戦士となった少年をとある目的のために仲間へと引き入れる。その目的とは、見るもおぞましく口にするのもはばかられると女性なら思うショーツ仮面。歴史も重みもスパッツや黒ストッキングなど及ばないフェティシズムのパワーで他を圧倒し、因縁がありそうな少女を戸惑わせる。

 おまけに少年はなかなか黒ストッキングへのフェティシズムを力に変えられないでいた。被っても履いても若に力に悩む少年。だがしかし。そこに大きな勘違いがあったことは先にいったとおり。黒ストッキングがもっとも輝く場所。それが男子にもっとも力を与える場所。そして気づく。まるめた塊の黒いストッキングに意味などない。毛臑だらけの我が脚を通した黒ストッキングに魅力はない。そこに入るべきもの。それが形作るもの。考えればたどり着く。なるほど「やはり野におけレンゲ草とは」まさしく至言であった。

 ニーソックスは武器にはなりえた。けれども敗れ去った。なぜか。ニーソックスが輝くシチュエーションをニーソックスの戦士は作り出していなかったからだ。ファッションとフェティシズム。その関係をここまで深く考察させてくれるライトノベルなどかつてあっただろうか。モードと哲学についての研究をしている鷲田清一に是非とも読ませたい小説。きっとそこから何か新たな発見をしてくれるに違いない。問題が1つあるとすれば、ショーツとパンティーの違いか。一件、似た形をしていてどちらも男子の興味を誘いリビドーを高める。けれども言葉としてあるこの差にはやはり実態としての差もあるのだろうか。そこについてはやはりじっくり考えたいが、あいにくとサンプルが。どうするか。悩ましい。

 なんて本を読みつつ上野へと回って東京芸術大学の卒業制作展を見物。デザインとか見て表紙絵に使えそうなものがあったり彫刻とかみてどうしてこんなに先鋭的で格好いい彫刻が学生からは生まれているのに、日展二科展とかいった権威有る公募展にあつまる彫刻はどれもどうでもよさげな立像ばかりになるんだろうと、彼我の間にあるらし次元断層について思いを馳せる。でもって目的でもあった高橋昂也さんって人の大学院卒業制作「VESSELS」を観賞。地中で祈る巫女に従う男達に生まれた昂揚が破壊を生み天地の動転を生んで自然への畏敬を覚えさせるという、シャーマニックな雰囲気を持った不思議な映像になっていた。

 キャラはCGで作られているようだけれど天変地異なんかはどうやって描いているんだろう? とにかく不思議で迫力の映像。3日まで上映しているんで行ってみて損はなし。でかいスクリーンと良い音響で見られる機会なんてそはなさそうだし。京国際アニメフェアのクリエイターズワールドの中に再登場する予定もあるみたいだけれどそっちでも上映があるのかな。でもやっぱりアニメ好きならいち早く。東京芸大の美術館がある方とは道路を挟んだ向井のキャンパスにある大学会館の2階奧にて上映中。

 同じ大学会館の別室では、3面スクリーンを使った姫田梨瑛さんて人のアニメも上映されてて魔法使いの少女が少年に依頼されて薬を作ろうとして失敗して寝てしまうと夜にどうにかなるって話だけれど、CG超で絵本テイストに描かれた画面に登場するキャラが可愛く展開が楽しくついつい見入ってしまった。お昼に鳥をつかまえ丸焼きにして2口で食べてしまうところか最高。あと机の上で呼吸している丸い物体が動物として動き出すところとか。どういう活動をしてきた人なのかなあ。調べても出てこないけどちょっと興味。ウオッチしていこう。


【1月28日】 搾取されたり虐待されたりする者がいて、その上に安定した社会が築かれているなら管理社会はやっぱり打破されても当然だろう。表向きは恒久平和を歌いながらも、裏では犯罪が頻発するもので、それをとある海上都市では<ザ・ジャグル(手品師)>と呼ばれる舞台を作り、戦争の生き残りたちを集めて、密かに犯罪者を始末させている。人間を管理するのがどれだけ難しいかの現れとも言える訳で、それだけに、1000年もの長きにわたり、平和を維持してきた「フラクタル」のシステムは、やっぱりとてつもなく完璧なシステムだったってことになる。だからこそ、そうしたシステムにどうして不満を抱く面々が、現れたのかというところが、まずは気にかかったテレビアニメーションの「フラクタル」。

 のっぽにでぶの2人のメン・イン・ブラックというか、ブルースブ・ラザーズな2人を従えた女の子によってさらわれたクレインとネッサが、連れて行かれた先はどっかのコミュニティ。あの隙間だらけの網の中の、どこにお菓子が供えられていたとか、それが地上に落ちた際に、どこに散らばったのかといった謎はともかく、連れて行かれた先でクレインは住人達と邂逅する。彼ら彼女たちにはなぜかネッサの存在が見えなかったけれども、それには理由があって、どうやら主義からフラクタルの端末に連なる仕組みを体から除外していたみたい。おかげで医療も受けられないけど、それが自由なんだと主張するコミュニティの面々。その主義を貫くためか、フラクタルシステムが人々に恩恵を与える現場へと出向いていって一仕事するんだけれど、そこでどうして奪還ではなくオルグでもなく、虐殺へとつながっていったのかが分からなかった。

 あまりに軽視されがちな命。あるいはフラクタルを排除して自由を得たといっても、それまで長くフラクタルの恩恵の中に育ってきた面々、人間の生への執着に思いが及ばなくてああいった行動に出たのかもしれないと、そう考えないとあまりに傲慢過ぎてちょっと同意が浮かばない。そう考えると、フラクタルシステムに反意を抱いているように見えて、それすらも包含して小競り合いの中に対立を終息させ、トータルとしての安寧を保ち続けてきたのがフラクタルシステムといったことになるのかも。絶対の管理社会の中で突然にそれは抑圧だと感じ、革命だなんてことになる訳ないんだから。って言っても本当にそこまで考えられているのかが見えないのが、なかなかに悩ましいところかなあ。11話とかった短い話数とで描ける設定でもないしなあ。どう処理するんだろう? その意味からも最後まで見続けよう。

 もう最高の青春SFとしか言いようがない「千葉県立海中高校」(講談社バース)とか、これまた最高の数学ミステリーとしか言いようがない「浜村渚の計算ノート」(講談社バース)とか出してる期待の書き手、青柳碧人さんがこれまでのバースではないところから新刊を刊行、といってもどうやら昔に新風舎から出ていた本を直したものらしいけれど、すでに潰えて久しい新風舎版が手に入れづらい状況なだけに、これにて初読となる人も多いだろうからやっぱり新刊と言っても良さそう。その名も「双月高校、クイズ日和」(講談社)は名前の通りに双月高校ってところが舞台。そこに作られたクイズ同好会の「ヒポクラテス・クラブ」ってところに集う若い人たちの日々って奴が描かれる。

 まず登場するのはクイズ大会、といってもそれは同じ同好会のメンバーから、夏に行われる全国的なクイズ大会に出場できる人を選ぶための校内予選で、そこでまずは1人の少女の気持ちって奴が綴られ、そして話はしばらく彼女を中心に進んでいく。アリサという名の彼女は高校に入って中学から続けてきたテニス部に入ったけれど、友人は選手として嘱望され練習もいっぱいしているのに、自分はそこまでのところに行けそうもない。そもそもテニスが好きだったのかも分からない中で、本当にやりたいことはなんだろう、と模索した中で出合った先輩が、クイズ同好会を作って夏の大会に出たいと勧誘に歩いていたところから、入ってそこで頑張ろうと決意する。

 とはいえ人数が揃わなければ同好会として認められないのが学園物の常。そこでメンバー探しなんかへと乗りだし、続いて強化へと向かい、さらにリーダー自身の熱意とは裏腹に空回りする実力をどうするかって話になって、学生時代になにかに熱中する楽しさ大切さって奴が示される。加えてそこはクイズ研究同好会が舞台なだけあって、ふんだんに悔いずが繰り広げられてそれらを解いていく楽しさって奴も味わえる。テレビのクイズ番組を見ていると感じる、出題されてその答えを誰がいち早く答えるか、それが正解なのかそれとも不正解なのかといった緊張感が、読んでいて浮かんでくるところがなかなかの巧みさ。自らクイズ研究会に所属していた作者の経験が、存分に活かさされているって言えそう。

 美人だけれど男に興味を持たず、ひたすらクイズに熱血なアリサは、カルタをテーマにした末次由紀さんの漫画「ちはやふる」の千早に重なる無駄美人。そんな彼女を軸に繰り広げられる部活の楽しさ大変さも「ちはやふる」なんかと同様に青春の熱さってやつを味わわせてくれる。漫画にしても小説にしても部活物って増えていてそれなりに人気もあってその分競争も激しくなってはいるけれど、そんな中でも存分に魅力を放って多くのファンを引きつけそうな感じ。ラスト付近でのあの作意を認めるべきかそれともやっぱり否定するべきか。クイズというものへのピュアな意識と、熱中することへの敬意とのどちらをとるべきか。そんなことも合わせ考えながら今が青春のただなかにいるならそれをどうやって燃やすかを模索し、既に過ぎた人でもこれから何かに取り組む意識を高めるきっかけにしよう。

 「王下七武海」を仕入れに寄ったらあのボア・ハンコック様のポートレート・オブ・パイレーツが再販されるってあったんでついつい買ってしまったというこの体たらく。前に出たときに逃してそれが中古屋で倍近くになっててどうしようか迷ったものの見送った過去からすれば、定価で買えたのは嬉しい限りなんだけれども4万キロの彼方にあるオレンジ色の憎い野郎がちょっぴり沈みかかっていたりする余波が、4万キロを超えて来ないとも限らない時にこうした浪費はやっぱり避けておきたかったというのが一方の心情。とはいえ後に何か役立つかもしれないといった下心と、ないよりボア・ハンコック様のあの具ラマラスな肢体を間近に拝める僥倖を考えると、ここで拾っておくのもあるいは運命なのかも知れない。エースとルフィの兄弟舟は別にどうだっていいや。ちなみに七武海はモリヤにティーチに2つ目のドフラミンゴ。ハンコック様はいったい何処に?


【1月27日】 あっちもこっちもそっちもどっちも「ONE PIECE」。ってことでバンダイから「ONE PIECE」関連の商品が続々。前にラムネ菓子入りのフィギュアボックスを2つばかり買ったら、ゴムゴムのギガントミサイルを放ってるルフィとそれから、グラグラの実の能力を放って空間に日々を入れている白ひげのフィギュアが出て、本当は欲しかったナミは出ず。やっぱり大きさからいって、1番軽いのがナミだったかもと、思い秋葉原のコトブキヤで再び1つを選んだら、今度は見事にナミが出た。カットジーンズ姿でしゃがんで、天候を操る棒を構えるナミの可愛さよ。連載の方ではキャラ多すぎで最近ちょっと目立ってないんで、せめてフィギュアを眺めて心を和ませよう。

 そんなフィギュアの横に、これはまた違ったフィギュアのボックスが。「王下七武海」のメンバーが勢ぞろいしているっぽい箱で、中にボア・ハンコックがいてこりゃあ出すしかないと思ったものの、他に並ぶ面々がなかなかに強烈。そりゃあ七武海だから仕方がないとはいえ、ジンベイにモリアにバーソロミューくまに黒ひげティーチと巨体が並ぶ一方で、ドフラミンゴやミホークもいたりするから、ハッコックがどのあたりの重さに位置するかが分からない。重い方でもくまかモリアかジンベイかティーチか分からないから、それぞれに1つづつ、買ってあけたら1つがジンベエで、もう1つがドフラミンゴと狙いからちょいズレてしまった1回目。まあどっちも良い出来なんで手元に置いて愛でつつ、次は頑張ってくまとそれからハンコックを出そう。とかいってると同じのが並ぶんだ。ジンベエのジェットストリームアタックなんて見たくないよう。

 そして発売となったというか、明日発売なんだけれどもだいたい前日から売り出すってことでとらのあなで購入した「テイルエンダーズ」のブルーレイディスク。それはいったいどんな作品かと問われれば、あの傑作アニメ映画「REDLINE」に真っ向から挑んだレースアニメってことになるけれど、奇才の石井克人さんに天才の小池健さんというコンビが、7年もかけて作ったアニメに4人のクリエーターが作るスタジオが、いったいどうやって挑めるんだって話がまずは先に出る。そりゃあ確かに絵としてはかなうはずもない。マッドハウスの精鋭達が集まって作った「REDLINE」は、絵も凄い上に声にもスーパーな木村拓哉さんとか勢ぞろい。それで勝とうってのが土台無理な話だったりする。

 けれどもそこはそれ、4人だけでも存分に戦える物語と設定を徹底検討。そして出来上がった「テイルエンダーズ」の物語は、壊滅的な状況にある惑星を開拓し直すために行われるレースっていった設定があり、そのレースでかつてチャンピオンに輝きながらも消えた男の背中を追いかける若者っていったキャラクターがあって、そこにスタイリッシュな会話なんかも混ぜ込まれた、とてつもなく破天荒でとてつもなくクールなものになっている。見れば分かる「REDLINE」との違い。結末の破天荒さにはただただ驚くばかりだけれど、SFな人ならなるほどそりゃあ時くらい超えるよなって納得できるから大丈夫。笑いとともに感慨を噛みしめよう。

 ブックレットも充実。本編のどこに出てたの? ってキャラがいっぱい描かれていて、このキャラだったらもしも「テイルエンダーズ」がテレビになったら1話2話、割いてエピソードを見せて欲しいもの。とりあえずミニスカキャリアスーツで眼鏡でアホ毛アンテナのレイチェル・グラフをもっといっぱい出して欲しい。あとツインのお下げでジャージでニーハイでブルマの猪村ぼたんもやっぱりいっぱい出して欲しい。ソノシー・マクラーレンにだって負けないヒロインになるだろーなー。声は誰が良いかなあ。ちなみにとらのあなで購入するとバッジが5つにポストカードもせっとになったおまけが付いてくるから、是非にという人はとらのあなへゴー。バッジをジャラジャラ言わせて終末からの「REDLINE」のリバイバル上映に通うってのはクールかな。

 未来から来た人間が、そこで過去を変えたら自分のいた未来が変わるかというと変わらないという説が最近あって、変わるのはその過去のその後だけだという説がまかり通れば、タイムパラドックスは気にならなくなるというからこれは便利。でもそれだとどうやって冷や冷やとした物語にするんだろうかと思ったら、上月司さんが「レイヤード・サマー」(電撃文庫)で自分たちの未来は帰られなくても、過去にいた人々の未来を変えられるならそれで本望といった思いの強さを描き、慈しみの大切さを描く物語を仕立て上げた。少年が突然に出合った少女が言うには、見らから来て「子宮喰い(エッグイーター)」とかいう妊婦ばかりを狙った通り魔によって少年は殺されるとかで、そうした経緯がかつてあってそれならいったいどうすればってことで少年は周囲に気を配る。

 ところが、当のエッグイーターらしき少女とコンビニ前で出会ってしまって、相手の無邪気さにこれは放っておけないと思うようになるものの、相手は未来で散々な眼にあって人間の幸せを信じられなくなってしまっていたから大変。その凍って乾いた心を動かすために少年は、自らの思いをぶつけてみせる。時間と空間の関係がどうなっているのか1読では判然とできずやりなおしの効く過去が未来から眺めた時にどういった違いとなって映っているのかといった部分もやや理解不足。そのあたりを突き詰めつつ主人公の少年が幸運にも、あるいは努力の結果自らの生存を勝ちえまた、未だ事情を知らない少女のためにこれから何をするんだろうかと考えるのも面白い。ラブコメ全盛の中に浮かんだリリカルなSFストーリー。大切にしよう。

 手のひらサイズのプレイステーション。だからプレイステーションポータブルはゲームファンに驚きをもたらし、大勢のプレーヤーを生みだした。家でなければ出来なかったゲームが、いつでもどこでも出来てその上、通信対戦というネットワークゲームでしか出来なかったことまで出来る。だからプレイステーションポータブルはゲームボーイからニンテンドーDSへと続いた携帯ゲームの系譜とは違ったところでファンを得て、それなりに命脈を保ち続けた。

 けれども世界では性能の進化がどんどんと進み、デバイスの革新がどんどんと進んで手のひらサイズのプレイステーションをそこかしこに生みだしてしまった。なおかつプレーヤーの嗜好が、手のひらサイズのプレイステーションなんて不要、それこそ手のひらサイズのファミコンでも遊べれば十分、必要なのは暇つぶしの道具であり、またコミュニケーションのフックなんだと考えるようになって、ソーシャルゲームへと向かい、手のひらサイズのプレイステーションの優位性が崩れ傾いていってしまった。

 だったら次にどうするか、ってところで例えば任天堂は見え方に革新を加えた。それこそ遊び方に大革新をもたらしたニンテンドーDSのスピリッツを受け継ぐように、3Dの裸眼立体視というどこにもないテクノロジーを盛り込んで、3DSという新しい携帯型のゲーム機を作った。それがどれだけ必要とされているかは未知数だけれど、とにかく遊びに何か新しいものをもたらすことは確実。だから発売前に予約がいっぱいという現象が起こっている。

 プレイステーションポータブルの後継機はどうなるのか。その名も「ネクスト・ジェネレーション・ポータブル」だかいった仰々しい名前が付けられ、略して「NGP」というコードネームで呼ばれることになった次世代プレイステーションポータブルの概要が、ついに明らかになったけれどもそこに周知のアイデアの水平統合はあっても、革新と呼べるものはあまり感じられなかった。さすがにネオジオポケットよりは新しかったけれど、手のひらサイズのネオジオといった驚きに比べると、やっぱりどこか薄いような気がして仕方がなかった。

 有機ELの綺麗な画面はグラフィックの見た目を美しくはしてくれる。でもグラフィックそのものが複雑化して高度化している訳ではない。3Gの通信はいつでもどこでも誰とでも通信可能な環境を作り出してはくれる。でもそれらはすでにある。なおかつプレイステーションポータブルだから実現した、対面で集まり闘う狭いコミュニティを作り出し、保つ効果を壊して雲散霧消してしまう可能性がある。遠隔地にいる誰かと遊ぶことを果たしてゲームファンの多くは望んでいるのか。その機能をゲームの上で楽しさとして実現できるだけの提案を、コンテンツ側がしていく必要がある。

 リアルタイムへの情報へのアクセス。GPSなどと連携した地域におけるコミュニティの可視化。魅力的ではあるけれども、そうしたソーシャルなネットワーク機能を果たして人は携帯型ゲーム機に求めるか。iPhoneなりスマートフォンといったものからユーザーを奪えるか。そこが見えづらい。主体となるゲームがしっかりしていて、それで購入した人が付帯として使う機能ではあっても、それをメインに遊ぶ人はたぶんいない。いっそだったらスマートフォンに徹すれば良かったのに、そこはゲーム機発という出生が邪魔をして、特化を許してはくれなかった。

 タッチパネルを前面に使い、背面にもタッチセンサーを設けたことで手触りをゲームに反映させることが可能なになった。対面したキャラクターのお尻をなでて怒られることだって可能になった。それはちょっと楽しそう。でもそうした操作性の複雑化は、かえてゲーム離れを海はしないか。手で触って直感的に操作できるからiPhoneはヒットし、ニンテンドーDSも人気を保ち続けている。前で触るか触らないのか、後ろをこするかこすらないのか。その是非を直感ではなく思考によって判断させられることをゲームファンが受け入れるのか。すこし考えてみたくなる。複雑になって多機能になった次世代プレイステーションポータブル。その未来は。深く考えてみたくなる。考えよう。発売までの時間をかけて。


【1月26日】 出たところで本番では木っ端微塵に粉砕されたドイツ大会が一方にあり、出られなかったけれども本番ではグループリーグを勝ち抜いて決勝トーナメントに駒を進めることができた南アフリカ大会があったりする以上、コンフェデレーションズカップへの出場は必ずしもサッカー日本代表にとって、成長に大きな意味を持っているって言えないことは明白だったりするんだけれども、そこはそう言うことが「絶対に負けられない戦い」というキャッチフレーズにそぐう物だって意識もあるのか、ひたすらにアジアカップでの勝利を至上命題とするセルジオ越後さんの解説でもって見なくちゃいけなかったアジアカップ準決勝の韓国戦。とはいえ全体にそれほど煽りもせず静かに眺めていたようで、むしろ松木安太郎さんの叫びが日々ってなかなかに賑やかだったという印象。

 それでも延長戦後半終わり頃の、ディフェンスラインが団子になった挙げ句に突っ込まれハズされて得点を奪われたシーンでの、ラインを上げろ密集辞めろといった指示は実に的確で、聞いていたらああした失点はなかったに違いないんだけれど、同点に追いつかれたことで仕方なく行われたPK戦によって、日本代表に本来は生まれることのなかった妙なドラマが生まれたんだから、テレビ局的には怪我の功名だったのかもしれない。松木さんのことは聞くなって選手に通達でも出てたのかな、って聞きながらサッカーはやってないけど。

 問題はだから、結果として最終局面で追いつかれる程度でしかない実力を過信されるようになって挙げ句、成長を怠けて挙げ句に本番でこてんぱんにされるか、そもそも本番に出られないなんてことも起こりかねないことか。勝利は自信を生むけれども成長を呼ぶとは限らないのだ。けど日本は間抜けにもメディアが煽るからなあ。それで選手が図にのるからなあ。ザッケローニ監督には引き締めを願いたいもの。なにせ武士道が好きだから頭に乗る人をどつくくらいのことはやってくれるだろー。でもなあ、確かにエグザイルといっしょに会見はやってないけど、エグザイルの会見にゲストとして登場して祝福を送っているんだよなあザッケローニ監督。それは派手さを望まない武士の精神にはそぐうってことなのか。うーん。オレンジ色のニクいタブロイドの基準は僕には皆目検討がつかないや。いつまでそんな言説が跳び続けるのかなあ。このアジアカップが最後なんてことはないよなあ。

 さて試合を見ていた印象ではやっぱり本田圭佑選手がチームの中心だってことは間違いなさそう。得点のシーンで前にスルーを入れたりする場面のタイミングとい速度といい、相手の虚をつく動きをさらりとやってのけてみせたりするのがとにかく凄い。前もたぶんそうしたプレーをしていたんだろうけれど、周囲がまだ分からずついてこれなかったものが南アフリカ大会でのレギュラーを経てようやく、周囲にも伝わってこうすればこう来るって予想の元に動けるようになったんだろー。香川慎二選手もなるほど動きとか凄いけれども結局的にはもらってなにかを仕掛けるタイプ。それも意味があるけれども何かをしてなおかつ自分も何かしてしまうという10番には、やっぱり本田選手の方が相応しいと思うなあ。そしてそっちの方が圧倒的にユニフォームも売れたと思うなあ。誰よりも人気の選手に与える背番号、ってことを真っ直ぐとらえれば良かったのに。それが日本サッカー協会の限界ってことなんだろうなあ。

 アカデミー賞のノミネート作品が発表になってて、長編アニメーション部門では「サマーウォーズ」はノミネートされず結局は「ヒックとドラゴン」と「イリュージョニスト」と「トイ・ストーリー3」といった傑作3本が揃い踏み。どれがとってもおかしくないけれどもこれがラストということで「トイ・ストーリー3」にとってもらいたい気もあれば、名作との誉れも高い「ヒックとドラゴン」にこそ取ってもらいたいという気分もあったりと悩ましい。「イリュージョニスト」は見ていないけれどもちょっと難しそう。いずれにしても強敵すぎるよ。「イリュージョニスト」の変わりに宮崎駿さんの作品が入ってもこれはきっとやっぱりかなわなかったんじゃなかろうか。今敏監督だったら? 作品によるかなあ。

 でもそんな今敏監督の代わりに「レクイエム・フォー・ドリーム」でもって「パーフェクトブルー」への完璧なまでのオマージュとやらを捧げたダーレン・アロノフスキー監督が「ブラックスワン」でもって作品賞とか主演女優賞とか監督賞にノミネート。こちらは主題に「パーフェクトブルー」へのオマージュがあるとかないとかいった話題で持ちきりで、あるいは映画化権を買ってあるから良いんだという見方も出回っているけれども今敏監督自身は「結果としては契約に至らなかったそうな」ってアロノフスキー監督と話して聞いたから違うんだろう。「アロノフスキー監督は随分前向きに実現しようとしたようで、具体的な値段の交渉もしていたようだが、『アロノフスキー以外が監督することはない』という条件を盛り込めなかったことなどが原因で契約できなかったらしい」とも。だとしたらその主題のオマージュはつまり……ってことになるけれども、いずれにしても今敏監督好きに悪い人はいないと今敏監督も言っているんでここはにっこり笑って受け止めて、そしてオープニングでいっしょに「愛の天使」を歌うのだ。「恋はドキドキするけど、愛はLOVELOVEするなら」と。

 さかなクンが魚を食べるのはどうなんだといった謎はともかく今や時の人となったさかなクンが間近に見られるとあってのぞいたタカラトミーの発表会。今時こんな古いものをと手にハンディ型の釣り竿の根本みたいな物を持って釣りをするゲーム機を見て思ったのは瞬間で、そこに仕込まれた新しいテクノロジーなんかから温故知新という言葉の意味を再確認。そしてそれをさかなクンが楽しそうに遊ぶ様を見て、きっと遊べば面白いゲーム機なんだと思いまた、こういう場所で求められた役割を最大限に果たすさかなクンのプロフェッショナルな態度、あるいはそれが純粋さ故のストレートさなのだとしても、やっぱり素晴らしいと感心する。あの帽子の下がどうなっているかなんてもう、誰も気にしない。

 そんなタカラトミーの展示会で見て興味を持ったのは、カップの中にピンポンを放り込んで遊ぶ玩具。すでにビアポンっていってテーブルに並べたビールを注いだカップにピンポン球を振り込むゲームがあるみたいだけれども、こっちはハスブロ社がアメリカでもって展開している「CUPONK」って玩具の移入。ネットなんかに上がっている映像とか見るとそれこそピタゴラスイッチ的な仕掛けを経て遠くにあるカップにピンポン球を振り込んでガッツポーズをする子供やら大人たちがいて、始めればハマっていろいろと考える人とか出てきそう。東京から大阪まで運んでカップに叩き込むマラソンCUPONKとか。やれるかなあ。今後に注目。


【1月25日】 ラストスパートの相応しさに混ぜられてしかるべきだろうと、米澤穂信さんの「折れた竜骨」(東京創元社)を読み始めたら面白くって1日で読み切ってしまった。ハードカバーではないにしても、一般向けの小説でこれだけひっかからずに読めてなおかず味わい深いってのはなかなかなく、そこはあっぱりライトノベルのエンターテインメント性を存分にくぐり抜けて出てきた人ならではの文章力と、キャラクター力が働いているのかもしれない。

 昨今、ドラマも含めてとかく類型的なキャラばかりが並ぶ作品をラノベ的だのと呼びたがる節があるけれど、単に類型的なものをメタ的に楽しめる作品はごく1部。そうでないところでキャラクターの力とそしてストーリーの強さがあってライトノベルはファンを得て伸びていく。つまりはエンターテインメントの極意が現れているのがライトノベルって訳で、そこで揉まれた人にとってはこれくらい、何ともないってことなんだろう。素晴らしさと面白さの証明と、ラノベ的って言葉を使えるような時代が早く来て欲しいなあ。

 そんな「折れた竜骨」はリチャード王が十字軍の遠征に出かけていたりする時代が舞台の歴史ミステリー。辛気くさくなりそうなところを冒頭から領主の娘の美少女が現れ遠くから来た騎士を出迎える場面が描かれキャラクターへの興味を抱かせる。騎士は何でも同じ騎士団にいながら暗殺者となってしまったメンバーを抹殺するため旅をしていて、その途中で何やらそいつが関わっているっぽい事件があったと聞き及んでやって来たとか。そして領主と出会い探索に乗り出すもののそこでとんでもない事件が起こる。領主が何者かによって殺されてしまったのだ。

 とある魔術が使えたりもする状況を設定しつつそれが使えない条件なんかも示しつつ、海と断崖に隔てられて容易に近づけない領主の館の状況を設定してさていったい誰が殺害したのかと問いかけるのはミステリーの常道。領地に迫る危機を防ごうと領主が傭兵を集めていたこともあってそいつらも含めて犯人は誰かを探る推理が繰り広げられるけれどもそんな一方で、あの時代に騎士やら女性やらが置かれた状況を示し、また不思議な運命を背負わされたデーン人の存在を描いて幻想性を感じさせたりするところが小説としての味になっている。

 直接の犯人当て以外にもそこへと至る探索の過程で実に様々なヒントが投げかけられ、そして解答が示されてといった具合に頭の体操にもなるストーリー。そして迎える結末のとてつもない真相と、そしてその後の展開にもひたすらに驚かされる。そんな複雑な物語であるにも関わらず、すーっと読んでいけるところが段取りの巧さであり文書の柔らかさでありキャラクターの強さ。それが災いとなって賞レースから弾かれようとも読者は圧倒的な支持でもって答えることだろう。こういうのが本屋大賞に入って来たらあの賞も愉快なんだけれど。某サイゾーの論陣じゃないけどどうしても特定の香りが漂ってしまうんだよなあ、本屋さんコミュニティって感じの香りが。続編があるか分からないけど是非に読みたいあの続き。「折れた竜骨」の合い言葉が意味するものは? 気になるなあ。

 「変」のそれも最初のエピソードの短編版が大好きだったけれども大長編が始まってからあんまり読まなくなってしまっていたら「GANTZ」なんてものを描き初めてこれが大長編へと発展していって驚いた奧浩哉さん。実写による劇場版の映画まで出来てあのピタピタのスーツ姿で走る松山ケンイチやらを見られてどうせだったら栗山千明も見たかったけれどもその主演はなかったけれどもともあれ良さげな映画をさて、見に行くかどうか迷っている昨今。神保町にある集英社ミュージアムでもって「GANTZ展」ってのが始まっていたんで見に行ったらページの複製原画とか映画のプロップとか飾ってあって、昔と違って緻密になって美麗になった奧さんの画風に触れてやっぱり「GANTZ」を読んでみようなかあと思った次第。30巻あるけど「BLEACH」だって一気に揃えて読んだし「とある魔術の禁書目録」も20数巻を一気読みしたんで、その気になったら買いそろえてしまいそう。お金がまた減る。

 前島亜美さんが2011年を席巻することが決まったようだ、って誰だそりゃってSUPER☆GiRLSってアイドルユニットの一員で、エイベックスがオーディションで選んだ中から現れたらしくってタカラトミーが新しく立ち上げようとしている女の子向けのゲームからファッションまで包んだブランドの発表会見に、アニメーションのエンディングを歌うグループとして登場。たくさんいるメンバーの中から登壇した6人の中でただ最年少ってだけでなく、その声そのしぐさその表情そのツインテールぶりに存在としての完璧さを感じてしまったという仕儀。美麗だったり凛々しかったりしそうな面々の間に挟まり頼りなさげな妹属性を発散して、構ってあげたいとう気分を醸し出させる一方で、そのやんちゃぶりに引っ張り回され困らされ、それでも許してあげたい気分を感じさせるキャラはきっと、全世界のお兄ちゃんたちを元お兄ちゃんな人たちも含めて強く引きつけることだろう。前島亜美を見逃すな。


【1月24日】 ってことはつまりツナシタクトはまだ若い頃に親友だった少年が、病魔に蝕まれ余命幾ばくもないとしりながらも、空を飛ぶことに情熱を燃やしていたその姿に感化され、自分も頑張らなくちゃいけないなってことで燃え上がった心でもって、どんな強大な敵でもうち倒していっているってことなのか。なるほどつまりは真面目に一心不乱に青春すれば世に阻むものなしって単純明快なメッセージをを、ロボットバトルだなんて要素を混ぜつつ描いてみせたのが「STAR DRIVER 輝きのタクト」ってことになるのかな。だって本編、まるで進まずただひたすらにタクトが買っていくだけだもんなあ。世界がどうなるって感じも今に至ってまだ見えないし。

 あれだけ大言壮語していた石田彰さん演じるヘッドですらあっさり撃退。自分も銀河美少年だぜって行った割には1話すら持たずに倒されるなんて、これではラスボスの立場はちょっと保てない。「ハートキャッチプリキュア!」だってラスボスは4人がかりになってなお、まだしつこく生き残っていそうな引きを見せてたし。その点、まるで引きのなかった「STAR DRIVER 輝きのタクト」ではいったい次にどんな敵が出てくるのか。まだ綺羅星十字団には活躍してない面々がいたりするからそのあたりが出てくるんだろうけれど、ヘッド以上に強そうなところを見せていた人はいないしなあ。やっぱりラスボスはシンドウ・スガタってことになるのかなあ。それもワコを取り合う戦いになるのかなあ。うーん。まあとりあえずエンディングで見られるプロフェッサー・グリーンあたりのお尻の具合が素晴らしいんで、それだけでも楽しみにして見続けることは見続けよう。

 見なくちゃやっぱりと思って取り寄せて見た「青い文学シリーズ」という、今となっては幻となってしまった日本文学をアニメで描くシリーズの中の「蜘蛛の糸・地獄変」を、ブルーレイディスクで見たらこれがなるほどなかなかに監督を担当したいしづかあつこさんのビジュアルが炸裂した作品になっていた。原作は言わずと知れた芥川龍之介作品。一方はどこともしれないアジアの国で、もう1本は平安あたりの日本が舞台になっているんだけれど、それがアニメではどちらの話も同じ国ということにして、中国の南か台湾か、あるいはチベットといったどこかに土着的な雰囲気を残した架空の地域に舞台が設定されていて、そこに生まれたカンダタという盗賊が悪さの挙げ句に地獄に落とされ、そこで「蜘蛛の糸」ならではの天罰を食らう物語がまずは描かれる。

 原作だったらいきなり地獄をお釈迦様がのぞいて、そこで喘ぐカンダタの過去から蜘蛛の糸を垂らすといった展開だけれど、アニメでは派手好きの王様に逆らうカンダタのドラマがまず描かれ、彼という人物が権威に刃向かい体制に逆らい人間らしく、あまりに人間らしく生きようとして壁にぶちあたって壊れていく様が描かれる。死なんて恐れないとおいながら、自分が自分によって殺されるような場面には戦慄する彼の姿は、強がっても緒戦は人間、やっぱり内に恐怖を秘めて居るんだろうと言うことを指し示す。人間の悪を描いたようで人間の本性に迫った作品。そして人間が落とされる地獄より、人間が生きている現世のほうがよほど地獄だという暗示を繰り出した作品ってことで。

 そんな主題は「地獄変」でさらに深化する。カンダタを処刑した王様は自分の治世はすばらしいと自画自賛するけれども、街ではそんな王様の横暴によって人が殺され焼かれ死んでいく。街一番の絵師と評判の吉秀は、そんな王様から廟に飾る極楽のような我が国の絵を描いて欲しいと頼まれ、けれども目の当たりにした現実をそのまま受けて地獄のような様を描いて王様の不興を買う。さらに王様にもっと地獄を見せろと願い出て、愛する娘を業火に焼かせてその姿を描写する。やらせる王様も王様だけれど願った吉秀も吉秀。そんな我欲が露わにされる状況こそがまさに地獄といったことを、描こうとしたのかもしれないなあ。

 そうしたテーマ的な深化に加えて両作では、例えば「蜘蛛の糸」では妙な生き物の模型が闊歩する祭りのビジョンなり、カンダタが落とされた地獄のビジョンといったところに、いしづかあつこさんらしい現代アートというかアートアニメーション的なビジョンがはめこまれていて、久保帯人さんデザインのキャラクターが跋扈する世界とはまた違った雰囲気を醸し出している。「地獄変」では地獄のビジョン。廟内にびっしりと描かれたそのおどろおどろしい絵は、過去に描かれてきた地獄絵図とはまた違い、人間の想念がはじけ燃えさかったような迫力をもって迫ってくる。そうした部分を描かせたいがためにいしづかあつこさんを起用したのだとしたら、マッドハウスのプロデューサーもなかなか考えたもの。とはいえそうした意図が浸透する間もなく、半年余りでパッケージが店頭から見られなくなってしまっている状況はやっぱり切ないんで、これをきっかけに探して買いそろえておくとしよう。またお金が尽きていく。

 生まれた時代の不幸を呪うより、むしろ同じ時期に生まれたことを幸運と喜び競い合い、高めあっていくのがなるほど描かれているテーマにもマッチしているなあ、「REDLINE」と「テイルエンダーズ」。前者はいわずとしれた天才アニメーターの小池健さんが天才クリエーターの石井克人さんと組んで作り上げたハイテンションレースアニメーション映画。そのスタイリッシュなビジョンとそしてサウンドと、木村拓哉さんの甘いボイスが劇場いっぱいにひろがって至福の時間を体験させてくれた。今度また六本木のシネマートだかで再上映があるんで行って是非に見よう、ソノシーのゴールシーンの歓喜の表情を。

 そして「テイルエンダーズ」。小池健さんみたいな絵でもってレースやったら格好いいジャン的発想もそこにあって練られた企画が、当の本人たちによって実現されていてそれも最高の人材が投入されていてひっくり返りそうになったけれども、なるほど絵ではおそらく太刀打ちできない、それだったら自分たちが出来る最大限の練り込みを設定なんかでやってしまおうと挑んで作って遂に完成。1月28日に発売される作品はきっと見る人たちに4人で作られた作品であることとは無関係に、限界を超えて挑む大切さって奴を教えてくれるんじゃなかろーか。パッケージが並んで見られる上に「REDLINE」まで劇場で見られるこの期間。そこから閉塞感なんかぶち破って進む素晴らしさって奴を味わおう。


【1月23日】 起きたら最終決戦が始まっていて、親父さんを消されて怒り心頭のゆりさんことキュアムーンライトが、憎しみを相手にぶつけようとしたらそこに割って入ったキュアブラッサム。憎しみではなく愛で闘うんですだなんて、いつもいつも堪忍袋の尾をブチ切らせている奴に言われたくないわってゆりさんが思ったかどうかは分からないけど、とりあえず踏みとどまってそれから2人で闘い、そこに加わるマリンにサンシャイン。4人でたった1人をボコボコにした挙げ句に、現れた巨大な人までもが拳を叩き付けるこの仕打ちに、タイマンといった平等博愛の精神はいったいどこへ行ってしまったんだと嘆く。

 そんな「ハートキャッチプリキュア」のラスト前を見た女の子たちが、そうか愛なら良いんだと確信し、学校へ行って男子のいじめっ子を囲んで4人でこれは憎しみじゃないわ、愛なのよと言ってボコボコにするシーンが、明日から流行ったりしないのかとちょっと心配してしまった。とどめに学校の背の高い女教師までもが、脳天からげんこつを食らわせるんだ。うーん。でもそうしたシチュエーションが嫌いじゃない男子にはちょっと嬉しいかもしれない。地べたに仰向けになった自分を4人の女子がドカドカ蹴りつけてくるその姿。いろいろ見えたり見えなかったり。うーん。あやかりたいかも。いやしかし。最終回はどんなバトルがあるのかなあ。録画セットして待とう。

   早起きしたんだからとしばらく行ってなかった東京都現代美術館へ「東京アートミーティング トランスフォーメーション」とかいう展覧会を見に行く。別に合体ロボットの展示ではないぞ。エラ呼吸をする女性が海で泳いでいたり、アジアンポップな雰囲気の絵を見た後で入った部屋では、上からモニターが吊り下げられて、何か馬みたいなものが引っ張る2輪馬車のレースが繰り広げられていて、いったいこれは何かと見ていたらレース直後に美男美女のカップルが走り出し、男の方が引っ立てられてはみみたいなものを付けられた上に歯をへし折られ、そして労働者めいた格好となってそれからまたまた引っ張られて妊婦が乗るような台の上で口に女性がアメリカ車たちのぶつけ合いの中から出てきた金属を口にはめ込まれると切断された男根の下にある黄門から何かひょろひょろと出てきて、そこから歯がたらりたらりと出てきて台の下へとたまってっていく。

 一方で摩天楼の上にいる老人は薄いプレートを重ねていって、2つの螺旋を作り出してはその上に乗り塔の中をよじのぼってやがてたどり着いた場所で花を手にスーツ姿の男達が寄り合わせたロープを手にしてしばし佇む。一方で歯を折られて口に血をつけた男がいてグッゲンハイム美術館めいた螺旋が壁に沿って走るホールの下でシャボンをつけた美女たちと、それからバニーガールならぬ羊のような耳をつけた女性たちのラインダンスに見送られるように、スロープではなくホールに向いた壁をフリークライミングの要領でよじのぼっていく。

 そしてシープガールたちのラインダンスを眺め、ラップミュージシャン2組の騒乱の中で何な引っ張り出そうとして果たせず、両足の下が透明な義足めいたものになった女性を抱いたら彪女になってかみつかれ、骨みたいな怪物にバグパイプのパイプめいたものをうまくはめ込みロウをまき散らす奴を眺めてそして再び順繰りに壁を降りていってはシープガールの脚の下をくぐりぬけ、羊の腹巻きをもらってからたたき落とされシャボンまみれになってそしてよじ登ってトンカチを取り出し彪女を叩きのめすと一方では、摩天楼の老人も殴られ歯を折られた男も脳天を叩き割られたかしああたりで力がつきた。

 マシュー・バーニー「クレマスター3」のそれがいったいどれくらいで、どこから始まりどこへいくのか未だ不明。DVDとか売られないだけに見るなら見切るしかないんだけれど3時間、ずっと見るのは辛いなあ。でも見てみたくなってきたなあ。来週もまた行くか東京都現代美術館。AES+Fとかいったグループが繰り出すチープだけれど砂漠で兵器が走り回り火山の周囲で飛行機が落ちたりする妙なビジョンが繰り広げられるアニメにはさまって、GAPのCMで踊っていそうなカジュアル姿の男女が手に金属バットやゴルフクラブや刀を持って殴り合い斬り合う様が挟まれる映像も愉快だったし。カジュアルな女性の胸元とか無防備で好きだなあ。

 ヤン・ファーブルは昔の玉虫を張り付けた人形とかの方がファーブルっぽかったけれど、最近は角の生えた頭部の彫刻を作って並べるのが趣味みたい。見た目「聖闘士 星矢」のセイントたちみたい。そこでブロンズセイイントの向かいにゴールドセイントが並ぶ光景は、やっぱりゴールドの方が強いよねってことを目の当たりにさせる企みか。噂のスプッニ子は太股と眼鏡っ子顔が良かったけれども作品数が少なすぎるなあ。あと変身は新ディ・シャーマンがやって森村泰昌がひっくり返して森万里子もやっていたりするから余程じゃないと。っていうかすでにコスプレってポップカルチャーが氾濫している世でアートでコスプレやるならあと少しのエロさグロさが必要か。発動せよ太股。

 そのままオランダの展覧会を見て中から時計の針を消してはまた描くパフォーマンス、に見える映像とのミクスチャー作品に感動しつつ、ああもうそんな時間なのかと理解する。ちゃんと合わせてあるんだもんあ。その脚で常設展へと行ったらピピロッティ・リストの作品が割と展示してあって、寝っ転がって天井を見る部屋に入って寝転がっていたら眠りそうになった。隅っこでねていた巨大な袋を脇に置いた兄ちゃんはきっと寝に来ている人なのかも。ずっと起きなかったし。だって気持ちよいんだもん、すぐに眠れそうになるし、ってそういう作品なのか。前はハンマーでガラス窓を叩き割る過激な作品とかあったなけどなあ。でも体に密着させた小型カメラで体表をなでまわす映像とか下からのバストとか見られて良かったかも。相当に目が鍛えられるけど。

 出て業平橋まで行って巨大な東京スカイツリーを眺めつつ、東武鉄道がスカイツリーボンドって社債を発売した案内を見たら金利が0・6%だった。それって面倒な手数料とか諸々の経費とか使ったら逆にマイナスになりそうな金利じゃんとか思ったけれども銀行の金利がさらに低い状況なんで、社債だけがむやみに高くなるってのも無理なんだろうなあ。でも0・6%で社債てつまりそれくらいしか会社の成長が見込めないって証でもあるんだよなあ、そんな会社に投資して大丈夫か? って逆に世界だったら思うかも。金融商品として魅力はないし。でもいろいろとおまけがつくから良いのか。抽選だけれど宿泊券とか東武ワールドスクエアの入場券とかグッズとかもらえるし。そういう記念品も含めた一種のキャラクターグッズなのかもなあ。どうせだったらネームプレーををスカイツリーに貼ってもらえる特典とかも付けてくれれば買うのになあ、って買いません、100万円からなんてそんなお金はありません。

 東武鉄道で浅草に出て地下鉄で末広町まで行って地上にあがったら歩行者天国が復活していたけれども、午後3時を過ぎてもしつこくテレビカメラがあちらこちらを出歩いている様にちょい辟易。いや別にその再開を喜んでのものなら良いんだけれども、狙っているショットがあまりにも文脈に沿いすぎていてそれで報じられた挙げ句に起こりそうなことへの想像が働いてどうにも居たたまれなくなる。狙うのはコスプレしてたりメイドさんだったりといった、いかにも昨今のアキハバラ的なイメージを体言しているような人たちばかり。それがメディアを通してフレームアップされ放送されることによって、濃縮されたイメージばかりが垂れ流されて、そういうもんだといった認識を生んで更なるエスカレートを生みかねない。というか既に生んでいる。

 かつてのホコテンは、あるいはアキハバラは9割9分9厘が日常であって、そこに1厘の異形が混じってひっそりと自己主張をしていた。決して表には出ようとせず、どこか恥じらいを持ちつつもそうありたいと願う心を訴えたいという熱があった。覚悟があった。そこに粋さが感じられた。けれどもそんな1厘ばかりが熱量とは別のビジュアルイメージのみ抽出され、フレームアップされて報じられていった、そんな積みかさねによって今は9割とはいかないでも、アキハバラの5割くらいのイメージがそうした異形に染められてしまった感じがしてならない。

 粋さも覚悟もなくただ自己主張したいだけの人たちが、集まってきては周囲を省みることなく繰り広げる饗宴は、さらなるフレームアップの元に煽られ燃えてそして起こる大半の日常との激突が、そこにしか居場所のない人たちも含めた異形への圧力となって崩壊を呼び、壊滅へと向かうことにあっていくんだろうなあ。そして残るのは一事が万事と追いかけ倒すメディアの連携によって、過剰なまでに持ち上げられそして守られることによってとてつもない強度を持ち、それこそが正統だというイメージを持たされるに至ったAKB48だけが秋葉原を完全に乗っ取るという寸法。多様性が楽しかったあの街の、今がもしかしたら最後の瞬間に居合わせようちしているのかもしれないなあ。


【1月22日】 倒れてから脚をひっかけるのはやっぱりね。カード切られて当然だよね。吉田麻也選手。それが癖になっているのか必至さが出たものかは分からないけど、追いつめられている場面でああいった軽率なプレーが出てしまうところに、まだまだ若さがあるって言えそう、とかいってそれをペナルティエリアでやって、PKを取られてしまうのが田中マルクス闘莉王選手な訳だけれど。なんだどっちでも良いのか。そしてゴールキーパーの川島選手。ボールをゴールの中でキャッチするゴールキーパーってのはなかなか見られないぞ。ニアを抜かれるにしてもポストに当たる覚悟で止めるとかあるだろうに。ちょっと訳が分からない。てんぱってたのかなあ。それが若さって奴なのかなあ。

 とはいえ1人減ったら何か途端に動きが出てきたところが不思議な日本代表。それまでは足下から足下へとボールを回しては、詰められ離して戻す繰り返し。それでもそんなユルいタイミングの中に本田圭佑選手がするりとダイレクトのパスを送り出したりして、タイミングを外して得点につながりもしたけれど、それが通じる相手はアジアまで。欧州に南米で勝てるとは思えないだけに、もっと後半のような、トップのふたがとれたところを一斉に走り込み動き回っていく戦いを、しないといけないような気がする。退場によってそれが生まれたのは怪我の功名。あとは持続だ、って11人になるとまた元に戻ってしまうんだろうけど。

 ああそうか。対して強くもないのに自信満々な態度を示し、相手が望んでもいないのにお節介を焼いて結果として場を混乱させるだけの愚鈍な奴が嫌いなんだな僕は。それは自分にはない資質でもあって、勘弁してよと忌避しつつも、そうなれればもっと楽しく生きられるのにと、ちょっぴり憧れてしまうもの。「GOSHICK」でヴィクトリカの心配や計算を余所に突っ走ってはピンチを招きながらも、偶然とかの作用で切り抜ける九城一弥の言動を、見ていて苛立つのにはそんな理由がありそう。「IS」の主人公も相当に朴念仁だけれど、あれはただボンクラなだけなんであんまり気にならないんだよなあ。モテモテで羨ましいけど。和に英に中が来て次は仏でそして独。さらに姉。ああ羨ましい。

 さてアニメ版「GOSHICK」は、ウサギ狩りが行われた船でまた起こった惨劇。その謎を解き明かす間もなく虐殺が始まり、反撃が行われすべてが終了。犯人が挙がり事件は解決した訳だけれども、そんなうさんくさい場に、ウサギを狩る猟犬が何の怯えも不安も疑心もなしに紛れ込んでは、すぐに気づきそうな犯人を野放しにして、いっしょに逃げようとしていたのはなぜなんだ、ということは考えないのが正解か。とりあえずヴィクトリカ=悠木碧さん的聞き所が足りなかったのが次回への課題。演技は完璧なんだけれどもゴロゴロ&はっはっはを超えてこないと退屈してしまうぞ。

 やっぱり見ておくかと行った「次世代ワールドホビーフェア」だけれど、何かスカッとするような遊びが子供の方面でもなくなっているよなあって印象。ポケモンとかモンハンとか既存のキャラクターのゲームが並び、デュエルマスターズにベイブレードにハイパーヨーヨーとこれまたしばらく主力のものばかり。何かが何かへと切り替わるような動きがあんまり見えないところに、安心な定番に寄りたがる玩具メーカーの今の心理ってやつをかいま見る。

 そんな中にあってレベルファイブだけは「イナズマイレブン」の大成功を引っ張りながらも「ダンボール戦記」とかって新しい商材を出してバンダイとコラボレーションを実施してた。「二ノ国」とかも売れ行きはともかく試みとしては新しかったりしたし、伸びる会社はやっぱりいろいろ前向きさが違うってことなのかも。果たして「イナズマイレブン」くらいに大化けするか。任天堂のコーナーはニンテンドー3Dの展示がいっぱい。前にも出ていた壁の中の3DSがたぶんそのまま設置を変えて展示してあったんじゃないのかな。節約節約。でも遊ぶならコナミのブースでウイイレとかの3D版を遊ぶのが待ち時間も少なかったみたい。1本、初出展のもあったし。

 そんな中でもタカラトミーが引っ張ってきていた地面に向かってダーツをするような商材がちょっと気になった。先っぽに吸盤か磁石か何かついた矢みたいなものを下のボードに向かって落とすように投げて得点を競う遊び。見ていると矢から羽みたいなのが飛び出すと点数が退かれるとかどうとかで、そうした投げる力なんかもいろいろ考えないといけないみたい。狙って落とすだけ、ってのが良いかも含めてルールも割とありそう。そうしたものを攻略する楽しさがあればあるいはちょっとは話題になていくかも。来週の見本市にも出てくるかな。ちょっとそこでも試してみよう。

 渋谷まで出てファン交流した後に戻ってTOHOシネマズの日劇でFROGMAN監督の「ハイブリッド刑事」をタダで見る。別に映画無料の日ができたって訳じゃない。映画がもとから無料というこの奇蹟の映画が実現したのはトヨタ店がスポンサーについたから、で前にサントリーだのマクドナルドだのをスポンサーにつけて製作費なんかを捻出していたその手法を、今度は1社にしぼってトヨタ店のみスポンサーにし、ハイブリッドカーを宣伝するって名目でもってお金を出してもらってそれで興行を行ってしまうという、映画としては画期的過ぎる手法を導入した。ってもテレビはそれが普通なんだよなあ。考えてみれば。なんで映画ではできなかったんだろう? その辺をちょっと考えてみたくなってきた。

 そしてストーリーはといえばなるほどプロダクトプレイスメント的なハイブリッドカーの活躍はあっても、そういうのをわざとらしく、けれども好感が持てるように見せるFROGMAN監督の巧みさがあって、あんまり気にはならず笑って楽しめる。むしろ昨今の何であってもな公務員叩きやら、無理矢理的な事業仕分けやらへの苦言めいた展開があって、見ていてそうだよなあと溜飲が下がった。頑張っている公務員だっているんだよ。問題は公務員の権力を自分のものだと思いこんでしまう奴らの横暴なんだよ。そこをちゃんと語って聞かせてみせたストーリー。感動感涙感激感無量。全世界の公務員が見て讃えるに違いない。次は総務省がスポンサーについたって良いんじゃなイカ。

 そんな映画を支える声がまた見事、ってほとんどがFROGMANさんなんだけど、「秘密結社 鷹の爪」に負けず様々な声を出しては喜ばせてくれる上に、奇蹟ともいえるあの噂の刑事達の復活があり、そして高飛車な女性をやらせればこの人の右に出る人はいないという女優さんの起用もあってと、見ていてあまりのハマりっぷりにこれまた喜び嬉しがる。本当だったらそんな風に見られているのって嫌がるところを、敢えて自分が起用された意味を考えそう演じる。セルフプロデュースの権化ってことなんだよなあ。神田うのさん。最高。FROGMAN監督自身が公務員への先入観を覆そうとしながら、うのさんには抱いていた先入観を、あっさり崩してみせたその凄さを、堪能したくば行け、劇場に。財布を持たずに。合い言葉は「トヨタ店のハイブリッド刑事1枚」。


【1月21日】 遠くに見える東京スカイツリーの先端部分のアンテナが、だんだんと伸びて行っているように見えるというか、本当に伸びて行っているんだけれどそれがどうやって伸ばされているかということを、「空の境界」でおなじみの2人に解説してもらうことにする。まずは尋ねて黒桐幹也。「スカイツリーのアンテナ、どうやって伸ばしてるんでしょう?」。答えて蒼崎橙子。「ロケットペンシルなんだ、要するに……」。すると幹也。「ロケットペンシルってなんですか?」。驚き顔を凍り付かせる橙子。「えっ!? 知らないのか!? ロケットペンシル……」。

 誰でも知っていると思っていった言葉が通じなくって愕然。そんな橙子の心理をまるで忖度せず、気遣いも見せないで表情を変えずに返す幹也。「知りませんよ、ロケットペンシル」。暗い顔をして呟く橙子。「今、売ってないのかな……」 。年の差を感じつつそれならとところてんを引き合いに解説する橙子。そんなやりとりの映像を解説に使えば、きっと東京スカイツリーへのファン層も広がると思うんだけれど、いかが。

 印象に残っている言葉は「お尻のセンサー」。それは、自動車作りにおいて人間が実際に運転して感じる感触こそが、何よりも大事だってことの現れで、だからこそスカイランは単にブランドとしてだけではなく、乗って確かな自動車として乗り手に支持され続けてここまでやって来られたんだと思うけれど、自動車作りが平準化されコストの意識に晒されてた結果、どれも同じような車ばかりが幅をきかせて、スカイラインだから、あるいはセドリックだからローレルだからといった、乗り手を選ぶ違いを味わえる機会が減ってしまった。

 コンピュータで制御されてしまったことも、そんな平準化を生んだあるいは要因か。そこにはもはや桜井真一郎さんが活躍するような場もなかったんだろう。自分で会社を興したりしていろいろやっていたけど、年も年なだけに死去。かつてケンメリを転がしてその感触をお尻で存分に味わった身として、心からその業績をたたえたい。商業主義の権化みたいに言われているけどケンメリも、乗ればスパルタンなところがあって良い車だったんだよなあ。また乗りたいなあ。

 じゃじゃじゃじゃじゃーん、と飛び出したフリュネの喋りが妙に「けいおん!」の唯に聞こえて仕方がなかった「フラクタル」。中身は花澤香菜さんであって、豊崎愛生さんではないけれども、空気を読まず己の思うがままにふらつき行動する様はまるで唯。それを可愛いと感じる心理は僕にはないけれど、人によってはそうした傍若無人な妹タイプにコロリと参ってしまう人がいて、そして引っ張られて「フラクタル」を見ていくことになるんだろうなあ。そんな人いるのかな。

 ほんのりとは見え始めた世界観。ドッペルはあくまでドッペルゲンガーであって、影であってアバターすなわち代理人ではなくって、そこにおそらく遠隔地にいる誰かの意図はなく、およそAIっぽいものによっていかにもそれらしく振る舞っているような印象。でもって1日に1度のお祈りだかの時間に、データをいっせいに集めて振り分けアップデートを計るというか。だからほぼリアルタイムに日々を過ごしているような気になれる。でもやっぱりそれはどこかにいる誰かではないってことで、そこに気づいてしまって生まれるガサガサが、主人公に生まれそして世界から受けるイガイガとなって、彼を冒険に旅立たせることになる、と。

 ただ1000年とかにわたってそれが普通と感じ過ごしてきた人間が、いきなり変わるってことがあるのかどうか。ガリレオはそれ以前からまるで断絶して生まれたんじゃなくて、きっと世界にすこしづつ見え始めていたほころびのなかから、宗教とは違う科学の匂いを感じ、そしてそれを熟成させて爆発させたんだろう。そんな萌芽が「フラクタル」の主人公にはあったのか。あったとしたらどんなことだったのか。ちょっと知りたい。親の影響って訳でもないし。彼らは完全にフラクタル世界の思想に染まっているっぽいし。

 あと周辺でキャンプしている面々が、いかにも1970年代的な西海岸風ヒッピーカルチャーに染まっている風もあって、1000年も経ってどうしてそうした雰囲気が堅持されているのか、って辺りも知りたいところ。単なるリバイバルなのか。それとも世界はどこかで止まってしまったのか。止まったのだとしたらそれがずっと止まり続けた理由ってのも知りたいなあ。あるいは制御されているなかで、こっそりそうした方が示唆されてああいった生き方になっているとか。それを示唆している「フラクタル」システムの根幹にある思想は? 主義は? そうした世界が開かされる時があると信じて見続けよう。でも残り9話しかないぞ。どうするんだろう。冒険。

 そんな「フラクタル」は、何か間合いが自分の中にあるアニメを見る時の体内時計とどこかズレてていつも気になる。ぎゅっと詰め込みのべつまくなしに喋らせ動かすアニメが多い中で、あんまり動かさず喋らせずじっくりをしたところを見せようとしているのかもしれないけれど、そうした間合いともまた微妙に違っていて、なかなか気分を沿わせられない。あるいは見続けさせるための意図的なずらしだったりするのか、練り上げられないなかでとにかく出してみただけなのか。何度か繰り返し見ることによって入ってくるリズムもあるから、その辺りも気にしつつやっぱり見続けるしかないのかも。対して「IS」は全編これまたぎっしりの展開。美味しいところをちゃんと分かって並べてる。巧いなあ。でも本編はまるで進んでないんだよなあ。それでも売れるってところがある意味興味深い。研究してみるのも面白いかもしれないなあ。

 いやあすごい。あるいは凄まじい。ネットワークにおけるコンテンツサービスにとって、過去の情報はすなわち資産であってそれらの蓄積とそしてアクセスの容易性が、何よりの強みになるってことは、優れた検索エンジンなり、長くやってるポー足るサイトが、ネットビジネスの勝利をほとんどもっていってしまっていることからもよく分かる。遅ればせながらメディアも、そうした優位性を活かそうとして、データの蓄積を行い、検索を容易にしてアクセスを稼ぎ、広告なりのモデルに結びつけようとしているんだけれおd、そうした風潮に真っ向から反旗を翻すようなメディアが登場したから驚いた。

 どことは言わないけれども、そこん家は先だっておこなったリニューアルで、過去に蓄積させてきたデータへのアクセス性をほとんどゼロにした。キーワードなんかからサーチエンジンを経てアクセスできていたものが、何かディレクトリをいじったかで、そうしたサーチにひっかかった項目からアクセスしようとしても、行かずにトップページへと飛ばされてしまう。あるいはそれは、過去の記事より今の旬を見て欲しいという意識から、過去を捨ててこれからを蓄積していく方向へと、舵を切ったんだといったうがった見方もできない訳ではないけれど、物事はその瞬間だけではなくって過去があって今がある訳で、そうした経過を知ることによって今から先への誘導に繋がるという意味で、やっぱり過去記事はおろそかにはできない。

 だったら、仕切直されたディレクトリにある過去の記事を、当該のページから検索を通して行けるようにしておけば何の問題もないんだけれど、リニューアルされたそのサイトの先頭部分に開いた検索窓に、特定のキーワードを入れて検索すると、何とそのサイトを提供しているメディアとは別のメディアの記事へのリンクが、ずらりと並ぶようになってしまっている。例えば「菅直人」と入れると、新聞ですらなくPJニュースとかライブドアニュースなんかが並ぶといった具合。メディアのサイトのアクセス稼ぎが競争だとしたら、敵に塩を送っているついでに、自らの塩まで削っているといっても言い過ぎではないそのスタンスは、ネットビジネスというものをウオッチし続けてきた目には、はなはだ異例に映り、ただただ驚くより他に示す態度がない。

 あるいは広大なネットに散らばる情報は、すべて普遍なものであって、メディアといった差異によって判断するものではないといった、おおらかにして博愛的な心理がそこにあって、他のサイトへと誘導してあげているのかもしれない、なんて考えたけれどもさすがにそれは無理がある。おそらくは、運営主体のさらに上にある企業がまとめてポータルサイトとしてリニューアルをした際に、当該のメディアのサイトもしょせんは多くある情報源に過ぎず、検索する際に、他の情報源と並列して表記されるようにしてしまった結果が現れているんだろうけれど、それをメディアとして認めてしまって良いのかどうなのか、といった辺りが少しばかり悩ましい。

 とはいえ現況、そうした状態が改められる節がないところを見ると、データベースを重んじアクセスの容易性を重んじることを一義と考えるならば、とうてい認めがたい、下手をしたら担当者の進退にすら及びそうな事態であっても、ここでは認められ、むしろ称揚されているのかもしれない。いったいどういう思想の元になされた判断かとなると、凡人にはまるで分からないんだけれど、それもまあいつものことっぽいから気にしないのが言いのかも。経営って奧が深いなあ。


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