縮刷版2011年12月下旬号


【12月31日】 気づいたら横浜F・マリノスの木村和司監督が解任されてて成績だったらJリーグで5位な訳だから、J2ですら6位にしか入れなかった我らがジェフユナイテッド市原・千葉と比べれば天国も極楽な環境ってことになるんだけれど、それでも解任されてしまうところに流石はJFL時代からの名門ってことだけはあると関心、してる場合じゃない。名門度合いでいうなら丸の内御三家と呼ばれたジェフこと古河鉱業のようがよっぽど名門なんだけれどもJ2に落ちて1年で上がれないどころか2年目もさらに順位を下げ、それで監督を切ったと思ったら次もやっぱりJ2から連れてきてはJ2から戦力補強をするJ2仕様。魂の隅々にまでJ2っぽさが刷り込まれてしまったこの状況では来年だって上がるのは難しいんじゃないのかなあ。やることやってないっていうか。

 リーグに貴賤はないとはいってもJ1が最高リーグであることに代わりはなくってそこで戦えることの意味ってものはやっぱりJ2とは比べものにならない。地元に親しまれるプロスポーツチームに甘んじていたいなら別に構わないけどやっぱりかつてJ1でその頂点近くまでいったチームがここで足踏みをしているのは考え方としてやっぱり違う、間違っている。せめて世界と戦える監督と選手を呼んでダントツのリードを奪いそして上がってからも優勝とはいかずともひとケタの成績を残せるようじゃないともう、誰もついていかなくなるんじゃなかろーか。サンフレッチェ広島がやったように。そして柏レイソルがやったように。今のままだとう東京ヴェルディか湘南ベルマーレと同様、時々上がってそして落ちてくるエレベーターなチームになってしまうからなあ。

 そうなる可能性をだから横浜F・マリノスは早めに摘んだってことなのか。でも監督になるのは超有名人って感じじゃないし世界で戦ってきた監督でもないコーチからの昇格。チームのおとを知り尽くしているって意味では的確なのかもしれないけれど、首都圏にあるトップクラブを率いるに値するキャリアかっているとやっぱりなあ。ミランやインテルやユヴェントスとはいかないまでもローマにフィオレンティーナにレッチェナポリといったチームでコーチが年初からいきなり昇格、ってやっぱりそうはないからなあ。逆にそうせざるを得ない日本って国の財力魅力がやっぱり落ちてきている現れなのかも。すっげえ監督たちがすっげえ選手たちを使って戦うすっげえリーグが戻ってくるのは来世紀あたりになるのかなあ。

 せっかくだからと3日目のコミックマーケットへと向かい西館(にし・やかた)の企業ブースをのぞいたら、ほとんどの出展者の大半の品が軒並み売り切れになっていた。売る気ないのか、って到着した時間が正午過ぎでは仕方がないか。別にそこで売ることを目的にしているって訳でもないからなあ。しているところもあるのかな。そんな中でも残っていたというか多分誰もあんまり存在を認知していない京都アニメーションによるライトノベルレーベル、「KAエスマ文庫」の新刊がグッズだかとセットになったものを購入。1つはともかく「中二病でも恋したい」は既に1巻を通販で買って読み終えているから2巻とともにセットになったものはちょっとめーわくではあったけれどもまあご祝儀だ。あとは面白いといいなってことだけれどもアニメ化するんだから面白いに決まっている、と思いたい。1巻ってそういやどんな話だったっけ。読んだのに覚えてないのか自分。

 ざっと見渡してから1階へと降りて「ココロ」ってトラボルタPの楽曲を題材に舞台を作った人が出しているブースへと行ってそこで北千住ではなくその前の新宿での舞台を収録したDVDを購入する。北千住でのニコニコでの舞台はお金もかかって装置もしっかりしていたけれど、その再演をさせる決意をさせたって意味では新宿での舞台の完成度も決してひくかった訳ではなさそう。むしろ勢いもあって迫力もあったと見るべきで、それならばやぱり見ておきたいと北千住の公演が好きで2回も見に行ってしまった自分としては感じたという次第。ブースにいた脚本の人によるなら小説化も進んではいたそうだけれど予定していたところが降りてしまっている模様で、今はちょっぴり停滞中。でも出ないわけじゃなさそうなので期待。SFなんでハヤカワから出るとうれしんだけどなあ。

 まるで知らない名前だけれども表紙絵の可愛らしさとそれからモボモガな感じが漂う帝都・東京を舞台に洋装の若き女性編集者が走り回るって設定に引かれて読んだ司月透さんってひとの「帝都月光伝」(角川ホラー文庫、552円)がやっぱり予感どおりに面白かったので早く続きを書くように。誰かに捨てられた赤ん坊が洋裁を得意とする女性に拾われ育てられてそして今は独立して女性編集記者として、娯楽雑誌に文章を書いて暮らしている御山さくら。けど歩合制らしく特ダネをとらないとなかなかやっていけないってことで走り回ってはみたものの、行く先に現れるお堅い出版社なのになぜか猟奇な事件にくちばしを突っ込んでくる育ちの良さそうな女性記者に邪魔されてばかり。ああ情けない。

 がっかりして社に戻る途中、誰もが1度は経験しているという遠回りの現象に巻きこまれたかして入った骨董屋でさくらは妙に気になる懐中時計をみかける。聞くと1銭5厘と格安でその代わりに動かないことは承知で買い受け社に戻ると社名でとある作家のところへと原稿を取りに行かされる。流行作家だというその祀月令徒のところへといったら巨大な屋敷でいったい何をしている家なのかと入ると美形の少女の姿をしたメイドが現れた。けど動かなくなった。そして現れたやっぱり美形の青年が、令徒だと名乗ってそして自動人形だと紹介する。そんなものいるのかって驚くかと思ったら案外に受け入れてしまう御山さくら。そういう世界観らしい。

 そんな祀月家で何やら怪しげな少女と出会ったり身辺を訝られたりしつつ戻った御山さくらを襲う謎の存在。そこを助ける令徒に何やら作家だけではない仕事を知ってしまってそして先、社から今度は稀代のスター、ユカリの取材ができないものかと言われたさくらは、赴きながらも固いガードに逡巡していたホテルでまたしても祀月令徒と出合いそして彼の知り合いとして紹介された女性こそがそのユカリ。令徒の相手としてパーティーにも引っ張り込まれていろいろ出合い話も聞いたその直後、ユカリの知り合いの新劇女優が消えてしまう事件が起こってさくらや令徒を引っ張り回す。何が起こったのか。そしてさくらが持つ懐中時計の秘密は。月からの使者に月からの悪鬼が絡んだバトルに巻きこまれているようで、実は中心にいそうな御山さくらって存在への興味が募る。早く続きを。

 というわけで1年が暮れようとしていて当人に異変はないものの周囲の劣化が著しくってもはや目もあてられない状態なのにそれに気づいていないどころかむしろ得意満面なあたりに未来への絶望ばかりが募る年の瀬。初期の東電側の対応ミスがあれだけの惨事を招いたことが明らかにされて来ているにも関わらず、いまだに官邸で陣頭指揮を執った当時の首相に責任のすべてをおっかぶせようとしているメディアに未来なんかあるものか。それはしょせんは政権政党への異論であって正義じゃない。やっていたら心苦しさも覚えて当然なのにむしろ胸を張そっくりかえって闊歩できる心性が、蔓延るメディアの足下はもはやスカスカになりかかっていることに、気づかないと危ないけれどももう遅いか。制度も変わって渡りに船とも行けそうになる来年度あたりにひとつ決めたい向かう道。その際にはいろいろとお導きを皆々様。では良いお歳を。


【12月30日】 「まるいちっ!」でも登場人物たちに容赦のない仕打ちを食らわせていた日日日と書いてあきらと読む作家による「大奥のサクラ 現代大奥女学院」だったけれども、続く「まるにっ!」でもやっぱり容赦を見せずに出てくる美少女やら美女たちにとてつもない過酷な運命を与えてはその生死すら左右させてしまったりして本当にまったく容赦がない。大奥の序列ナンバー1にして将軍の正妻というアラクネを追い落とそうという動きもいっぱいあってもそこは糸を操り人も体も自在に動かす能力者だけあってなかなか迫れなかったけれども、将軍のご覧になった場所での多くの頂点をかけた戦で、いよいよもって前のナンバーワンとの雌雄が決せられる展開になってそして始まり終わった戦いの結果がまあ何というか容赦ない。

 主人公のさくらがそもそも手足を切られてそれを無理に繋げていたりする状態だったりする容赦のなさだけれども彼女が恋をした将軍の息子ってのの出生の秘密がこれまた容赦ないっていうか凄まじいっていうか。豊臣家が関ヶ原で勝って400年後の世界っていう歴史改変SFな上にそこで使われた爆弾の影響で生まれた能力がこれまたSF的だったりして、物理的な可能性なんかを組み合わせてひねりを加えて生まれた能力によって戦われるバトルの凄まじさって奴から能力の創造に対するいろいろな想像が生まれてくる。さくらのあの植物を自在に操る能力も単にファンタジックじゃない何かがあるのかな。ともあれ激しいバトルの後に残った殺伐とした光景の、さらに向こうに見えるさらに巨大な敵との邂逅なんかからいったい日本はどうなって、そしてさくらはどうなるのか。ますます目が離せない。きっと容赦のない展開が待ち受けているんだろうなあ。

 おお日本レコード大賞がやっている、ってことはもう大晦日か、明日はお正月か、紅白を見て除夜の鐘を聞いて……ってあれれ紅白始まらないぞ、いよいよもって中止に追い込まれたか、ってつい訝ってしまったけれども今年はというか今年もなのか、日本レコード大賞は30日の開催とかでその様子を眺めながらまるで知らない曲ばっかりだなあと改めて、今の流行歌が決して大衆の流行歌ではない実態を強く感じる。Feariesって最優秀新人賞を取った7人組の女子中学生のユニットが、何を歌っているのかまるで知らないからなあ。

 かつては田原俊彦さんだって近藤真彦さんだってグッドバイだって、歌っているのが何か分かって新人賞の受賞を受け止めていた。ちょっぴり苦々しくもそれが流行歌なんだって理解はしていたけれども思えばそうした人気先行の雰囲気が、めぐりめぐって特定層へのアピールだけが絶対的な数字になる現状へと続く道の始まりだったのかもしれないなあ。いやでもしばらくは松田聖子ちゃん中森明菜ちゃんといった新人賞レースに乗って実力もあったシンガーもいたからなあ。ところで去年の新人賞って誰だったんだ。一昨年は。そもそも3年連続でEXILEがレコード大賞を受賞したことすら忘れれた。今年は辞退か。なのに歌ってる。どーゆーことだ。まったくわけがわからないよ。TBSだけあって。

 ともあれ決まった大賞はAKB48の「フライングゲット」でまあ妥当。あれだけ売れて売れ巻くってCDとレコード会社の市場に貢献したグループを、レコード大賞って名のついた賞が外す訳にはいかないよね。ごれがゴールデンアローとかグラミーといったものだったらまた違った基準で優れたシンガーが選ばれても良いんだけれど。ってグラミー賞にAKB48がノミネートされることはまずないよな。でもあったりして。いつかそのうち。それもちょっと怖い事態。そして登場したメンバーは本当に嬉しそう。苦節5年の下積みがようやく花開いての今の地位。それだっていつまで保つかわからないかで、このピークを掴みそしてメンバーでいられた面々にはやっぱり浮かぶ思いにも重たいものがあただろう。来年だっていられるか分からないんだから。それだけシビアな世界。だから今はおめでとうと讃えよう。きっと10年経っても篠田はいると思うけど。思いたいけど。

 現に三島浩司さんが「ダイナミックフィギュア」で日本SF大賞にノミネートされている状況を鑑みるなら、この「タイプ:スティーリィ」という小説で片理誠さんが日本SF大賞を受賞したっておかしくないと断言したい。得体の知れない存在に対して人類が巨大な人型決戦兵器を駆使して戦いを挑むという「ダイナミックフィギュア」の設定もなかなかだったけれど、「タイプ:スティーリィ」の方は発達した機械アトロハードが人類を遅い始めるようになて80年余、進化を遂げ形をかえて人類を追いつめたアトロハードに対抗するため、人類の中から適正をもった若者が脳だけ3メートルの生体平気に移植され、戦うことを命じられる。主人公の少年もそんな1人として戦いに望んでは、理不尽過ぎる環境に憤り嘆きながらも守りたい仲間のために戦いを続ける。

 とはいえもはやドームにしている拠点を次々に撃破されて後がない状態となっている人類に、もはや未来も何もないあろうと諦めムードすら浮かぶ展開に、自分だったらこういう境遇におかれて何を考えるんだろうかとまず問われる。ここで残るだれかのために時間を延ばそうと戦い続けるか、もはや人類はおしまいだと諦め逃げるなり玉砕するか。けれども考え得る手をそれで全部打ったとはいえない状況で、逃げるにしても玉砕するにしてもそれはやっぱり無責任。可能なことがあるならそれにかけて背一杯の努力をすることの必要性を、ようやく得たひとつの結果が示してくれる。未来を信じろ。仲間を信じろ。そんなメッセージをくれ、そして機械に頼る人類の将来を憂い、肉体を捨てて兵器となった人類の強さに対する可能性を伺わせてくれる物語。SF的な設定上の楽しみも、未来のビジョンも兼ねそなえたこの物語がSFに知られないのは悲しいので、是非に読んで欲しいと喧伝。でもJAじゃないと読まない人が多いんだ、この国には、なあ、おい。


【12月29日】 様子を見に行ったら西館(にし・やかた)の屋内から外に出てそこからさらに伸びて伸びて、スロープを下がった下のそのさらに先まで続く行列にこりゃあもの買うってレベルじゃないと認めて、そそくさと退散したコミックマーケット会場。それが目当ての人たちばかりでは決してないんだけれども、それが目当てな人のかつてのコスプレ広場を埋め尽くし、会場の外にまで伸びて下まで埋め尽くす多さに、これはやっぱりどうにかしないとどうにもならないと思ったり。企業ブースだけ幕張メッセへ移すとか。ってそりゃさすがに無理か。あるいは防災公園の横にある食の祭典「わんパク」やった会場で野外で。寒いけどそれでも並ぶ根性がありそうだからきっと大丈夫。

 ゆりかもめに乗ってどっちへ向かうか決めかねる中、調べて豊洲のユナイテッドシネマで上映中の「映画けいおん!」に間に合いそうだとそちらに転戦。入ったスクリーン2に観客はまばらだったけれども、上映開始から4週間目も終わりに来かけてこれならまあまあの入りってことか。んで映画はとりあえず劇的な展開はなく普通に始まり卒業旅行にいっていろいろあって戻ってきて卒業があってといった高校3年生の終わりにわりとありがちなストーリー。言ってしまえば“何もない”日常を描いているだけだけれども、それがどうしてこんなに受けるのか、っていった意見で派手で劇的な展開よりも、今は普通にのんびり見られる“日常系”が受けているからだ、って意見なんかが蔓延り始めていて、そりゃあないんじゃないのってことだけは心に抱いた。

 なるほど見た目は誰にでもありそうな日常が、そこに描かれているだけに見えるけれども僕たちは、「けいおん!」というテレビアニメーションをかれこれ2シリーズ分、見てそこにいるキャラクターたちの属性も関係性も随分と知っている。だからそこで行われている日常的な事柄の背後にある、誰がどうだからこういう展開になって会話が進んでいくんだという納得を、得られてそこに面白みを感じられる。何であれほどまでに卒業する4人が梓のことをかわいがり心配しているのか、なんてただの先輩後輩の間柄だね、ってことだけじゃあ及ばない深みって奴があるからで、それを知っているからこそ頑張る4人とちょっぴり迷惑そうだけれども、でも嬉しい梓の心情って奴を慮って楽しめるのだ。うん。

 そうでない一見さんにも、それなりに支持されているという話もあるけれども、ひとつにはヒットしているから見ておこうという人がいたりすることと、あとはそこに描かれている“何もない”ような学園の日常であっても、かつてそうした時代を経験したり、今まさに経験している層にとっては自分たちの日常と照らし合わせて「あるあるある」といった楽しみ方が出来るようになっている。それは決して描かれていることに“何もない”んじゃなくって、そこに、何十年なり何年といった自分たちの“何かあった”日々を照らして共感できるようにしてあるってこと。そうした体験のさまざまを引っ張り出して引きつける要素が、展開の中に巧みに鏤められているからこそ、こうした支持を集めていけるんだと思う。

 ようするに“日常系”って言葉で括って“何もない”毎日をただ描けばそれが支持されるんだという安直な考え方でもって、「けいおん」だったりその他の作品を語ってしまえる人たちの純情さというか一本気さがどうにも納得できないって話。そう見せて実はな演出なり設定なり展開があるんじゃいのか? って洞察を働かせていろいろと読み解いていかないと、似ているようで本当にただ“何もない”だけの日々を描いてみせるような話がわんさか現れ、ジャンルを蝕み衰退へと、導いていってしまうから要注意。思えば「らき☆すた」の第1話で、関係性なんて誰も知らないキャラクターたちがチョココロネのどっちが上でどっちが下かを話し合っているシチュエーションだけでぐっと引きつけられたもんなあ。絶妙の間合いと会話の巧みさ。選んだ題材のユニークさ。そんな凄みが理解され難かったのか4話からアボンされてしまった監督に合掌、いやまだ存命だけど。復活して来てくれないかなあ。

 やあ出ていたぞ林トモアキさんの「レイセン File.4」(角川スニーカー文庫)が。雑誌の「ザ・スニーカー」での短編連載を旨としていたから雑誌が休みになって果たして出せるのか、って心配もしていたけれどもちゃんとかきあげてくれて嬉しい。でも雑誌ペースを守りつつ単行本も間に書くってやりかたで、割と量産していたペースがやや落ちてしまっているようなのが残念。「ミスマルカ興国物語」ももっと読みたいのに。その悪辣さが明らかになったシャルロッテ王女のご活躍をもっといっぱい読みたいのに。まあそれはそれとして出るだけ有り難い「レイセン」はヒデオがやたらと持てていた。何だってー!

 まずもって鉄兜のマックルイェーガーとデートしていやがった。そりゃあ相手はイロモノだけれどそれでも美人でカワイイ分けでそんなのといっしょにボートに乗ってベンチでホットドッグを食べてバイクの後ろに乗って腰に手を回して引っ張って貰って湾岸まで遊びに行くなんて! それでもヒキオタニートかと説教の1つもくれてやりたくなっていたら続くエピソードでは天白花果奈に誘われ一緒に温泉だとー! いやそれにも深いわけはあったんだけれどそれでも自衛隊に勤務してなぜかIGLOOが大好きでやっぱり美人な花果奈に誘われ1つ屋根の下に泊まるってだけでもう、説教の2つ3つは暮れてやらないと、まったく。

 そうして出むいた先には例の女子高生の制服を着た年齢不詳の美少女、桃条千景もいて相変わらずのクールさを見せつつ最後にちょっぴり関心を寄せたりするというこの展開。ちょっぴりであってもそれなりに顔立ちも良くイラストによれば胸だって抱負な千景から、ベクトルを向けられるってことだけて万死に値する。なおかつ婦人警官に巫女に魔人の少女と来て妹まで。妹? ってのが謎だけれどもそんな感じに美少女美女に囲まれるヒデオのいったいどこが良いんだ? 正直なところか。真っ直ぐなところか。あれで歪んだことはせず誤った道は進まず非道には体を張る勇気もあるからなあ。何だいい男じゃないかヒデオ。そりゃあ闇だって惚れるよな。そこまではいけないけれども頑張れば純粋ならどうにかなる、かもしれない可能性を示唆してくれたってことでその御利益にあやかれるよう頑張ろう。


【12月28日】 カチュア、といわれてすぐに思い出せるかというとそうでもなかったりする程度だけれど、実際にイラストを見せられるとああいたあの髪の毛がショートで緑色をした人だったと、そんな記憶くらいはあったりする「銀河漂流バイファム」リアルタイム視聴世代。じゃあストーリーはと言われると、最初のきっかけくらいしか知らないで最後にみんな無事におうちに帰れたの? ってとおは知らなかったりして、増してやカチュアがどんな属性を持ったキャラかも知らずに望んだ東京アニメセンターでの「芦田豊雄回顧展」におけるトークショー、ゲストはそのカチュアを演じた笠原弘子さん。おお。本物だ。

 むしろ「アミテージ・ザ・サード」のサウンドトラックに入っている歌とかパイオニアLDCからいっぱいもらったオリジナルアルバムでの歌で見知っていたりする笠原さん。声はといえば最初に見た「アミテージ」が劇場版でそれも英語音声だったりした関係で、笠原さんが演じた方の可愛らしさが漂うアミテージの声を聞いたのは随分と後で、他の出演作品でもそれほど強い印象がなかったりしていったい、どんな声だったのかと思い出そうにもとっかかりがなかったりしながら実際に、聞いた声はやっぱり俳優さんで声優さんならではの通りの良さ。さすがは子供のころから舞台に立ってただけの強さがある、ような気がした。

 そんな笠原さんがカチュアに起用されたのはまだ中学生の時とかで、最初の声優の仕事ではあったんだけれどすでに舞台に立ってた度胸もあって怖じけず怯えないで望んだ模様。そんな現場では子どもたちだけを集めた収録があったらしくって、大人が交じって萎縮したり引っ張られるよりまずは子どもたちだけが残されてしまったあのシチュエーションを、雰囲気としても感じてそうした声を出せるようにと音響監督が配慮したのかどうなのか、聞いてみたい気がちょっとしたのでアニメ雑誌の人にはそんな懐かしい企画を是非にお願いしたいところ。そこから改めて「バイファム」を見てみたいって気も起きてくるから。あるいはブルーレイディスク化の時とかにオーディオコメンタリーで。難波克弘さんも加わって。さすがに野沢雅子さん千々松幸子さんのひろし&ピョン吉コンビは子供たちだけの輪には加わってなかっただろうけど。すごい現場だよなあしかし。

 笠原さん自身もカチュアには深い思い入れがあるようで、芦田さんを偲んだ映像コメンタリーが会場で流されているんだけれどそこでは自分が芦田さんについて話すとき、自分はカチュアなんだという気持ちをそこに込めて笠原弘子です、笠原弘子でしたといった挨拶を抜きにして語っているらしい。見どころ。ちなみに他にもいろいろな人が登場しているけれども顔を出さない西村知道さんの声がやたらと良いのが気になった。だって「うる星やつら」の校長でそれから「もやしもん」の樹教授だよ。それが割に二枚目声。だからこそ「重戦機エルガイム」でギワザ・ロワウなんて寝業師のような役を演じて違和感がなかったんだよなあ。ある意味で凄い人。ただの二枚目声ばっかりの中で本当にいろいろできる人。そういう声優さんが昔はいっぱいいたのになあ。むう。

 もとい笠原弘子さんだった。そんな笠原さんが演じたカチュアへの芦田豊雄さんの思い入れもなかなかだったらしくって、司会の人が持ってきたイラストにはピンで大きくカチュアが描かれていた上に、表情がおっとりとした感じとはまるで違った厳しい表情をしていて、そして手に重を持って何かを睨んでいる風だった。いったい何のために描かれたものなのか、聞かなかったけれどもそれがカチュアであることには間違いなく、見て笠原さんもこういうカチュアは初めてと絶句したとか。そりゃそうだよなあ、しっかり谷間も見えてたりして大人のカチュア。あるいは何か続きを構想するなかで描いたものなのか。今となっては確かめようがないだけに、そんあ意図とか出所とか、初出なんかを解説して頂ければ有り難いことこの上ない。飾りたいって言っていたので会場にこれから加わるかも。また行かねば。そしてじっくり眺めねば。谷間を(をいをい)。

 北朝鮮について語るとき、日本のメディアも政治も例の件をまずもって優先することが必然となっていたりする関係もあって、絶対悪として相手をとらえつつ世界中のどの国を置いても秘密主義にあふれてて、非道あに満ちた国として、その異常性をクローズアップして語ることが求められていたりするし、情報を受け取る方もそうしたステレオタイプな伝え方を望んでいたりするような雰囲気が、いつの間にやら醸成されていたりするけどどうこう行ったところで同じ人間が作っているひとつの国家、そうそう無茶無理無謀だけで運営されているはずはなく、決して蛮族が済む未開の秘境なんかでもない。見えないところ見せない部分ではしっかりと計算が働き計画が立てられ緻密な戦略のもとにあれやこれやと決められていたりするんだろう。

 必要なのはそんな国を冷静に分析して効果的な対応を考えることなんだけれども前述の理由が足かせとなり身を縛って真っ当な見解がメディアからも政治からも出てこない中で、「ニューズウィーク日本版」は「ポスト金正日の世界」として割に冷静に端的に問題点を語り炙り出してくれていて、なるほどこれは案外にしばらく保ってしまうんじゃないかって思えてくる。そもそもが独裁者という触れ込みだった金正日が実は軍部を後ろ盾にしたある種の象徴でしかなく、自身がすべての上に君臨してあらゆることを決定している訳ではないという現実、これを踏まえないとすべてがおかしくなってしまう。

 一種の傀儡が失われたからといて、それを傀儡に仕立てていた方は代わりを立てれば良い話。必要なのはそこへと至るための物語であり証明であってそれをこれからしばらくかけて、後継者を看板に行っていくことになるんだろう。国の中をそれで納得させつつ世界に向かってそう思わせる仕掛け。もちろん冷静に見ればああやってるなあ同じ事を、ってことになるんだろうけれどそうは見たくない、見られない自縄自縛に陥っている日本のメディアなり政府は、相手の思うつぼにはまったか、それが自分たちにとって都合が良いとつぼにはまったふりをして、偉大なる将軍さま三世の言動を逐一とらえ、その不思議さを伝えその危うさを伝えて世間を揺さぶり続けることになるんだろう。そうしている間に軍部はますます基盤を固めて揺るぎない体制を作り上げる、と。なんかこれじゃあ日本も共犯じゃないか。

 だめだやっぱり見ると欲しくなってしまった「Fate/Zero」のセイバーが刺繍されたM−51モッズコート。中田商店なら米軍放出の実物が1万円以下くらいで買えたりするんだけれどやっぱりしっかり刺繍が入って、それでいて1万6800円とスウェットの1万2800円に比べて何かお買得感があって手が伸びてしまったという次第。M−65とかCWU−36Pフライトジャケットは既に持っているけどM−51タイプはなかったんでものはついでだってこともあったと自らを納得させもした。あとは普通に注文すれば届くのが来年3月でほとんど季節的に末期だったりして多く着られなさそうってこともあっから。けど問題は着ていく機会が冬場とはいえ限られるってことか。とりあえず明日からのお台場有明漫画祭りあたりでお披露目か。その後はまた来年、ってそれじゃあ普通に通販しても同じか? 1日でも先んじられることに意味が、とまた自分を納得。お年玉が……。


【12月27日】 たぶん傑作になるだろうアニメーション版「Another」の第1話上映会でもって登壇した水島努監督が、声優さんについて語っていたことが妙に心に残ってあれやこれやと考える。主演の榊原恒一に阿部敦さん、ヒロインの見崎鳴に高森奈津実さんを起用した理由として語ったのは「そこらへんにいるかもしれない人が良い。現実味のある声を出してくれる人が良い」っていったこと。あの、「涼宮ハルヒの憂鬱」とか「灼眼のシャナ」といった作品でも見られる、いとうのいぢさんが描く現実には絶対にいないようなキラキラとした美少女に美少年たちが、現実離れした陰惨な状況で右往左往四苦八苦するような非日常の極みを行くようなアニメーションのベクトルと、まるで正反対を行くような選び方。意外といった感が浮かぶ。

 理由を想像するならひとつには、キャラも展開も突拍子がないからこそ、声で過剰さを加えるよりもむしろ抑えてお化け屋敷的な喧騒を落ちつかせ、底の方からじわじわとくるリアルな恐怖って奴を感じさせようとしたのかもしれないってことがある。ただでさえおどろおどろしいシーンに、甲高い声とオーバーな演技が乗って浮かぶのは押しつけられるような派手派手しさ。それは驚かせ脅かす効果はあっても思考するタイミングを奪って展開から、あるいはシチュエーションから浮んでくるひんやりとした冷たさを、感じさせないで過ぎてしまうかもしれない。

 そうじゃない、絵は派手で展開は凄くてもトーンは抑えた空気から、漂ってくる恐さってものを感じさせたかったのかもしれない。それはだからいかにもなアニメ風のオーバーさを嫌って起用しないジブリ的なアプローチとは違う、って思うんだけれどでもどこかに、過剰さがさらに過剰さを読んで突出し先鋭化してしまった声の世界に、演技とは演出とは何だろうってことを思い出させるきっかけになるかもしれない。そんな面からも注目してみたいアニメーション版「Another」。しかしやっぱり眼がいく美女に美少女。怜子さんとか三神先生とか本当に美人なんだよなあ。のめり込むよなあ。何だ自分年上好きだったのか?

 状況はどうあれ明らかにルールを、それも絶対に破っては行けないルールを破って殿中で刀を抜いてあまつさえ刃傷沙汰に及んだことを当然のように咎められ、切腹を言い渡された藩主への思いとそして原因になった吉良への逆恨みに近い感情から、47人で徒党を組んで完全武装し警護が手薄になっていたのか、あるいは手薄にされていたという説もある本所松坂の吉良邸へと乱入して、吉良を見つけ引っ張り出して惨殺し、その首をはるばる品川まで運んでは晒して辱めるという乱暴狼藉も甚だしい行為を忠義と讃え、天晴れと絶賛する、それがこの国だったりする。

 だからなのか。たとえ日本に甚大な被害をもたらしたとしても、それは法によって裁かれるべきで、暴力によって誅しようとする狼藉を働きそうな輩は、寄せ付けないようにするのが法治国家と当然の警護体制をとっていることに、非難を浴びせることだってやって平気なんだろう。悩ましいのは、かつて永野一男氏を取り囲みながら侵入者を許し、むしろ煽って永野氏の命を結果として奪ったことをたとえ見ず知らずの他人だったとしても、そこに自分がいたらどうしただろうかと自戒しつつ自問すべきジャーナリストという職種の系譜に連なる立場の人が、むしろ煽るようにそうした行為を報じ当然といった空気を作りだしていること。それで何かが起こったとき、いったいどうするつもりなのか。事実を報じただけと言うのか。むーう。ヤバい空気が溢れて来たなあ。

 1988年というと世に出たばかりで夕方に家にいるなんてことがなかったこともあって実は「魔神伝ワタル」ってアニメーションをテレビて見たって記憶がまるでない。あるいはどこかの再放送で見ていた可能性もあるけれどもそれにハマったってこともないだけに、秋葉原UDXで始まった芦田豊雄さんの回顧展にズラリと並んだパネルの大半が「ワタル」だったことに改めて、そういう作品でもって広く世に知られたんだなあということを改めて認識する。同時代で見たらやっぱりハマったのかなあ。個人的にはやっぱり「銀河漂流バイファム」のあの独特のキャラクターであってその源流となった「魔法のプリンセス ミンキーモモ」のキャラクターデザイン。だからアクション作画としての芦田さんの真価ってものを強く認識したって経験がそれほどない。だからこそ今、見直してみたいけれどもそういうチャンスってあるんだろうか。普通に再放送とかあればいいんだけどなあ。

 いやあすごい。まじすごい。「東京電力福島原子力発電所による事故調査・検証委員会 中間報告」ってのが出たんで新聞各紙がそのことをだいたい1面トップで報じているんだけれどたいていが東京電力の落ち度を追求してそこに政府の曖昧さを添えたりしている中で1紙、政府の対応の右往左往ぶりをメーンに記事にはしても紙面のどこにも「東京電力」なり「東電」といった文言を、活版付きの大見だしはもとより脇袖中といった中小の見だしも含めて一切使っていなかったりするから愉快というか痛快というか、はっきりいってミョーというか。

 常々他とは違うんだって感じで独自性をアピールしてきたけれども、ここまで他がそろった中でも超越的な独自っぷりを見せているのは何だろう、ここには何か他には見えていないものが見えるくらいの凄い洞察力があるのか、それとも見えないものが見えてしまうという世間的一般的にはあまり宜しくない頭の状態にあったりするのか。分からないけれども世間は気づく。というか気づいているその無茶ぶりを。その結果が今なだけに未来はだから……。困ったなあ。

 ところでそんな報告書を読んで気になったのが例の菅総理の視察がベントを遅らせたといった意見。報告書なんだから当然そうした事実があれば指摘しているはずなんだけれどざっと眺めてみてもそうした指摘はまるでない。唯一関係がありそうな部分が総理の視察意向に対して吉田所長の心境を聞き出した「菅総理の応対に多くの幹部を割く余裕はないと考え、福島第一原発からは自分一人で応対しようと決めた」という記述。でもこれをそのまま素直に読むなら自分は対応しつつ周囲にはちゃんと準備をさせていたということに他ならない。素直に読めばだけれど。

 ところがというか恐るべしというか凄まじいというか、読売新聞ではそんな「自分一人で応対しようと決めた」という吉田所長の言辞を持って福島原発サイドは総理の視察を歓迎していなかったという論旨を導き、その直前に「この視察については、放射性物質を含む蒸気を外部に放出する『ベント』の遅れにつながったのではないかとの指摘が出ている」という言葉を振っておくことで、何とはなしにやっぱり視察に問題があったんじゃないかって雰囲気を作りだしている。これがメディアの匠の技。志す人はテクニックとして覚えておくと上の覚えも目出度いかも。

 とはいえそういう技術の粋を投じた必死の印象操作すらせず、社説に当たる文章で堂々と「事故直後、混乱が続く現場をヘリで訪問した。対応に人手を取られて排気作業が遅れ、水素爆発へとつながった疑いがある」と書いてしまえる漢気を持ったメディアもあるからなあ。この期に及んで「疑いがある」って何なんだ。だったら調べれば良いじゃないか。それとも事実が判明すると拙いことでもあるのか。だからずっとずっと「疑いがある」で押し通すのか。うーん。分からないけれどもこれを会社を代表する言葉を載せるコーナーに書いてしまえるという現実が、メディアで偉くなるのはいわゆる正義と真実といったジャーナリズムの根幹とはまた違った、別のフィロソフィーが必要なのかもしれない。頑張ろう自分も。


【12月26日】 ジスカルド、というクリエーターそのものへんと思い入れはとくにない、というかネットでゲームを発表していたという経歴は分かっても、そのゲームを遊んだことはなく従って賞賛の言葉を置くってオフ会に招かれ親しくなり、薫陶を受けて自らも何か作り始めたといった経験もない人間が、名前でしか知らないクリエーターへの何か思い入れを含んだ感情を、抱きようがないというのが実際の話。だからそんな実在するジスカルドというクリエーターの名前が登場して、創作への様々な思いを語り周囲を揺さぶるような物語を読んでもなかなか、当人の影をそこに含んだ解釈を得て感慨を浮かべるようなこともやっぱり出来はしない。

 出来るのそうした情報を踏まえつつ、ひとりのクリエーターが何をモチベーションにして創作に挑み、そしてどういった進展を遂げていった果てに何かを感じ、そして衰えていってしまうのかといった状況への関心を抱くことくらい。それは何かを発信している人間には規模の大小こそあれ等しく訪れるだろう心情で、こうしてネットで何かを書いている僕にも、あるいは業として活字の媒体で何かを発信している僕にもやっぱりあったりする心情。そことの重なり具合からジスカルドというクリエーターが感じ吐露した懊悩を、理解していく読み方がとりあえず泉和良という人の「ジスカルド・デッドエンド」(星海社FICTIONS)には出来たりする。

 ややこしいのはそんなジスカルドというクリエーターの躍進から賞賛を得てやがて衰退へと向かう行動を、真にジスカルドという名でネット上に様々なゲームを発表するかたわらで、泉和良という名前で小説を書いて世に問うてきた本人が、小説として書いているという部分でそれはある面から見れば自意識の放流に過ぎないかもしれないけれども、その「ジスカルド・デッドエンド」という物語ではジスカルドというクリエーターに対峙し、賞賛しつつその活動を冷静に見られる人物が主人公として描かれ、作者の視点を担って冷静に状況を分析してもいたりする。

 ジスカルドという自分自身の分身というより本身を、物語の中でかつて生みだしたキャラクターを現出させてまで破滅へと追い込みつつ、主人公の視点に仮託して、己の破滅を見つめ理解しつつ、ジスカルドの意図に反して生き延びさせようとするゲーム内のキャラクターを登場させては、そうではない方向へと自らを向かわせようとしているある種の分裂を、迷いと見るべきなのかそれとも行きづまった身を洗い直し、新しい身として再生させようとあがいていると見るべきなのか。単に自己憐憫に溢れたセンチメンタルな物語だと、断じきれない部分がそこら辺にあったりする。

 迷うところではあるけれどもそれらも含めてこうしてちゃんと、物語として世に問う泉和良という作家であり、ジスカルドというクリエーターがいて、ちゃんといまだに世にコミットして、世間を騒がせているんだぜと微笑んでいたりするのかもしれないと思うと、なかなかにクリエーターという人種は複雑で、そして傲慢で強固な存在だと言えるのかも。これで「エレGY」「セドナ、鎮まりてあれかし」「私のおわり」等々、小説作品を発表してそれぞれに驚きを与え存在感を示してきた泉和良が、ジスカルドの終わりを描いたような作品を経てどうなっていくのか。個人的には雰囲気の良さで読ませる講談社=星海社系の作品とはまた違った、SFへの本気が満載された「セドナ、鎮まりてあれかし」のようなものを読みたいのだけれど、また書いてくれるかな、それとも書いているのかな。取り立ててフェードアウトしていく雰囲気もないのでいずれ来るだろうその作品を待とう。

 同級生を殺害したと自称する優等生の少女を拾った主人公の少年は、少女の言のどおかに嘘を感じて少女をかくまいつつ、事件の真相を調べようとする。伊都工平さんの「犯人は夜須礼ありす」(MF文庫J)はそんな感じに始まるミステリー仕立ての作品だけれど本編へと入っていくにつれて主人公の少年が持つ特殊な力、ありすという少女にまつわる過去、そして殺害された少女の過去なんかが入ってきては様相を社会の変革に関わるような大きい設定が浮かんでくる。主人公がありすの嘘を見破った方法がもうちょっと、シャーロック・ホームズ的な合理性に溢れたものならミステリー側から読んでふんふんとなったかもしれないけれど、突飛さがあるためちょっとそっちは難しそう。

 変わってSF的な意味合いから、そういうことってあるかもねって判断が下り、そういうことが可能ならいったい何が起こるのか、っていった想像力をかき立てられる。ラストあたりで示される陰謀めいた設定なんかも人間の認識に関わる部分についての思弁にあふれたもの。それが実現してしまう未来なんかを想像させつつ、そうはさせないという主人公やありすや不思議な先輩の活躍が、これから描かれていくことになるんだろう。敵は相当に巨大な相手。それをどうやって騙しあるいは取り込み変化へと導いていくのか。そこに主人公の能力やありすの能力、先輩のあるのかないのか分からない能力がどう関わっていくのか。続きがあるなら待ってみたい。

 そして第1期の終わりを迎えたアニメーション版「境界線上のホライゾン」は葵・トーリの誘いかけによって目覚めたホライゾンが迫るK.P.A italiaの栄光丸を相手に最初で最後ではないけれども最後に近いくらいの効果的な“悲嘆の怠惰”こと宗茂砲を発射し沈めて一件落着。まるで感情のなかった棒のような歌い方だった通し童歌に悲嘆を得たためか感情が少しだけこもった歌声になっていたあたりに歌い手としての茅原実里さんのうまさってものも感じる。いろいろ変えるのってやっぱり難しいからね。でもキャラになって歌うこともしているアニメ声優にして歌手の人になら出来ることなのか。全部の感情が戻った時に歌う歌はいったいどんな感じになるのかなあ。強欲で淫靡でほかもろもろ。聞いてみたいけれどもそれはいつになるのやら。

 いやしかし少なくとも第2期については夏に放送が決まったそうでそれの前哨戦として今回の「ホライゾン」のほとんどCパートともいえる時間をまるまる使って、トレス西班牙による武蔵襲撃のエピソードが描かれた。何よりフアナ様が登場して喋って誹って胸を揺らしてた。いやあ大きい。立花・ぎんさんも相当に大きいんだけれどそれをはるかに上回るボリュームはなるほどセグンドでなくてもヨロめきます、ってセグンドはまるでヨロめかなかったからフアナ様もちょっぴり苛立ったんだろうけれど、っていうかちゃんとやっぱりモップかけてた。偉いなあ。他の面々も登場でバルデス兄妹の情け容赦ない四死球ぶりとか房栄さんのかわいい陸上部長ぶりとかも見られたけれどもそれも本番はこの夏。なおかつ英国も絡んでトランプとかが勢ぞろいするあの頂戴で複雑な第2巻を本当にアニメに出来るのか。第1巻の完璧さを見てもなお残る疑問に出してくれる答えに今から注目だ。フアナ様は田中理恵さんだったけれども傷有りとエリザベスは誰が演じることになるんだろう? シェイクスピアも。そんな声にも期待大関心長大。

 読売ホールで加藤登紀子さんのほろ酔いコンサートを見物させてもらってその来場している層の年齢の高さに驚きながらも40年、やり続けている人にはそういうファンがいて当然かもと納得する。山下達郎さんもあと10年経ったらそんな感じ? そしてバックにはセンチメンタル・シティロマンスの細井豊さんに告井延隆さんがいてあのほどほどに切なく枯れて響く声と名演奏を聴かせてくれた。センチ好きでも存分な満足度。増してはおときさんのファンならば。ほとんど告井さんが歌った「イマジン」におときさんが歌詞を朗読するところとか良かったなあ。あと「タユタウタ」ってモンゴル800の人が作った曲のリズム感とメロディが心に響いた。アンコールの最後のゴスペラーズが作った曲も最奥。良い曲に良い歌に良い演奏のコンサートは誰が行ってもどんな歳でも感動できる。それが音楽。素晴らしい音楽なんだ。

 読売ホールを出て階段に来たらどこかで見た井上伸一郎さんにそっくりの人が階段を上がっていってそうか今日の「Another」のプレミアムイベントは角川シネマは角川シネマでも新宿ではなく有楽町だったんだと気づいてそのまま階段を上がり滑り込む。バッティングしていたんで加藤さんに行ってこっちは後でリリースをもらおうかと思っていたけど予想以上にコンサートの時間が早くそして「Another」の開始が遅かったんで間に合った。そのイベントは来年放送開始のアニメの第1話の上映とそして声優さん、監督さん脚本さん制作会社代表さんに原作の綾辻行人さんと主題歌の宝野アリカさんによるトークショーがメイン。アニメの方はさすがP.A.WORKSといったクオリティでいとうのいぢさんのかわいいキャラクターをより可愛らしいアニメのキャラにして動かしていて超感動。食いつくように見入る。

 原作を読んでしばらく立っていたけど思い出した展開とほぼそぐうけれども後のトークショーで脚本の人がいろいろ構成しているって話してたからその通りにはいかないんだろう、っていうか第1話で既に違っている箇所も綾辻さんもよくここまで読み込み構成したって驚いていて原作を離れずそれでいて広げるような脚本というからには期待するしかない。そんな綾辻さんは確か名古屋でSF大会があった折にお目にかかってその直後に東京で開かれたサイン会でお目にかかって以来か。だとしたら軽く10数年ぶり。向こうも覚えちゃいないだろうけどこちらも当時とは少し変わった雰囲気に、過ぎた時間の重さを知る。もちょりスターだった綾辻さんはますます売れっ子になって超有名に。こちらは相変わらずの底値暮らし。無才なんで仕方がないとはいえしかしやっぱり重ねた努力の差もあってのことなんだろう。怠惰に生きることをそろそろ改めるべきか。そんなチャンスもありそうだしな。


【12月25日】 こんな夢を見た。ステージに向かって行列が並ぶ。何かものを配っているようで横に何人か並んだ群衆が順序よく並んでいるのを横の別の群衆から眺めている。ようやく最前列まで来てステージの上で配られているのが眼鏡だと気づく。似たような形のものばかりで、欲しいものがないなあと思ってふと横を見ると、最前列の人たちが後ろから押し寄せる群衆によって押されステージの端で腹を折られてくの時なり、さらに押されてステージ上に転がったりしながら折り重なってくる群衆によって潰されている。まるで大惨事だと思って人を呼ばなくちゃと周囲を見渡している中で目が覚める。この夢の意味するところがまったく見当がつかない。何かの予兆だろうかそれとも。むう。

 「週刊文春」の巻末モノクログラビアに載ってるスーちゃんこと田中好子さんの写真が余りに素晴らしくって、眺めて見入ったついでにあの時代のキャンディーズの人気ぶりって奴を思い出す。テレビを着ければその活躍を見ない日はなく、ラジオからはその楽曲が常に流れて耳に入ってレコードなんて持っていなかったのに、知らず全曲をしっかり覚えてしまっていたっけか。それは他の歌手についても言えそうなことで、決してテレビを始終見せてはもらえずラジオだって自分専用のを持っていた訳ではないのに、楽曲が体に入ってきた当時と比べ、テレビも見ればネットだって発達した現在に、どーして流行歌と呼ばれるチャート上位の曲のサビ以外を世間のほとんど誰も知らないのはなぜなのか。人気といっても限られた範囲の限られた人たちにおける集中的なものであって、それが世界にコミットしているように見えるのは、フレームアップし広げるメディアの存在があるからなんだろう。

 だったらむしろメディアが楽曲をも含めて伝播して良いはずなのに、今のメディアはそうした楽曲という本質ではなく人気という現象を、伝えることの方を重要に感じているというか、そういう伝え方しか知らなくなってしまっている雰囲気。だから誰も知らない楽曲がチャート上位に輝き、聞いても分からない楽曲がレコード大賞を取って、そして初めて聞くような曲が大晦日の紅白歌合戦にその年を代表する楽曲として紹介されるという、不思議な現象がもういったい何年続いていることやら。そりゃあ音楽もヘタれる訳だ。一方のファンだって良い曲だからって感じじゃなくって、それがアーティストのグッズだからといった感覚で買って買い集めるという雰囲気。そんな積み重なりが招く未来やいかに。なあに作り手はいくらだっていて素晴らしい楽曲を作り続けているさ、って言ったって、それを良いものだと受け止める聞き手が育っていない未来は決して明るくはないような。

 それほどまでに世間の耳目を集めたキャンディーズしかり、重なるように登場してはあらゆるメディアを席巻して下は幼い子供から、上は老人に至るまでほとんどすべての国民が歌のみならず踊りまでをも見知ったピンクレディーといったアイドル達の人気ぶりは、今のAKB48の比ではないことを、当時のムーブメントに生きて空気を吸った人なら絶対的に感じているだろう。けれども、そんなキャンディーズの人気とか、ピンクレディーのムーブメントがこの閉塞的な政治状況の変革なり、右往左往している社会情勢の変革なりに応用できると考えることは、多分誰もしなかった。あるいは「山口百恵は菩薩である」といった平岡正明さんならそうした、サブカルチャーやポップカルチャーを使った分析なりを行い、変革への提言を行っていたかもしれないけれども、それはやっぱり感覚としてキワモノで、アカデミックな部分でもメディア的な部分でも、主流として捉えられることにはなっていなかった。

 それはまったく別の世界のものだった。政治は政治として語り、社会は社会として語り文化は文化として語る。文化のそれもサブカルチャーの文脈を政治に混ぜ込んで語ることの有効性があったかどうかは関係ない、それは何とはなしに引かれた一線をオーバーしてしまう考え方だった。破廉恥という言葉が正しいのか、僭越という言葉になるのか、無礼という言葉が相応しいのか。いずれにしても上から目線の言葉だけれど政治は政治として真面目に振る舞い、サブカルチャーやポップカルチャーはそれとして不真面目にふるまうことで、相互に支持を獲得し、信頼を得ていた。それがいつのころからか、政治を文化の言葉で例え揶揄し誹って平気な空気ってものが生まれて来た。それが構図を鮮明にして見やすくして伝えるって意図が、最初はあったのかもしれないけれども、今となってはすべてが一緒くた。政治を政治として語り政治として評価し、あるいは批判する言説ってものが、廃れ流行らなくなってしまっている。

 それにはたぶんメディアの矜持ってもののあるなしが関わっていて、かつてはしっかりと保たれていた一線ってものが、いつしか乗り越えられ、一般受けする言葉へと走り一般受けするシチュエーションを作って、一般を取り込んで盛り上がったことが、今になってすべてを一緒くたにすることに、誰も懐疑を抱かず、政治すらがそうしたことを当然を受け止める空気ってものを、作ってしまったのかもしれない。端緒をたどるならやはり「ニュースステーション」か。いやでも今の古館キャスターによる番組は、ワイドショーに比べてまだまだ硬派に政治といったものを捉え、提供しようとしている。それを端緒として見たメディアの後追いが、あらゆるものをよりオーバーにして行った果てに本家を追い越してしまった格好。ワイドショーで政治が文化の文脈で語られ誹られ笑われる。逆に政治も文化の分野へと入って、そこで受けを取ろうとする。

 相互作用の果てに来てしまった今の状況しか知らなければ、なるほどAKB48という政治のパロディを演じて受けを狙ったシステムを、政治へと還流させて語ろうといった思いも生まれて来て当然なのかもしれない。それをやれやれと思いそうじゃない、政治ってのはもっと殺伐として颯爽としたものなんだと言ったところで、メディア状況がこうなってしまい、人の気持ちもそうなってしまっている空気の前に響かず、伝わらず通らない。あとはだから崩れ去っていくばかりなのかそれとも、真面目さを取り戻し勤勉さを得て再び政治を政治の言葉て語り、政治として捉える空気が戻ってくるのか。来ないなあ。それにはメディアが襟を正し、居住まいを正してちゃんとする必要があるんだけれど、そうはなりそうもないもんなあ。30年かけて日本はゆっくりと壊れてしまった。それはだからもう戻らないと思って、これから何をどうすればどうなるのかを、考えるしかないんだろう。せめてAKB48で政治を語る言説に、そんな状況を語るだけじゃなくって真っ当さをそこに付加する方法ってものが、示されていることを願おう。

 せっかくだからと外に出て、まずは秋葉原へと向かいヨドバシカメラの上にある有隣堂で能登麻美子さんの写真集を予約する。当たればサイン会に出られるらしいけれどもそういうのに最近、とことん弱かったりするから果たして当たるか。まあそれでも能登かわいいよ能登を写真でも眺めることが出来るならそれはそれで良しとしよう。問題は僕が能登麻美子さんの顔を知らないことだ。たんすわらしのOLみたいな丸顔だったっけ。ついでにゲーマーズへと回って「境界線上のホライゾン」のブルーレイの第2巻を予約、パッと見たところ第1巻は品切れとなっているようであんな分厚い原作のこんなアニメ化をどーしてそんなに買うのかって悩んだけれども見て読んでまた見るとやっぱり欲しくなるんだこのアニメ。そういう意味ではとっても良くできた原作付きのアニメーション化。真剣にとことん話し合って誰もが満足するものを作ることでリターンが得られると分かってさてこれからのアニメ作りはどう変わっていくか。楽しみ。

 今日はそういえばまだ明いていると気づいて神楽坂にあるギャラリーのeitoeikoに行って「ながさわたかひろ『応援/プロ野球カード』」って展覧会を見る。画家で人物なんかを描いている人なんだけれども無類のヤクルトスワローズファンらしく球場に通っては選手のプレーをイラストにして描いて摺り出していたのがさらに高じて2011年はすべての試合についてプレーを描き記録を描くとともに対戦相手もちゃんと描いた敵と味方の2組のカードを作っていたそうで、それとプラスしてペナントレース後のクライマックスシリーズも絵に描いて並べたのがこの展覧会。行けば1枚1枚に試合で活躍した選手の絵があり記録があってその時を思い出せる人には浮かんでくるものがありそうだし、そうでない人もそこで選手たちが繰り広げたプレーの息吹を感じ取ることが出来る。

 ヤクルトファンにならもう楽しめること請負な上に、敵チームのファンであっても例えば、投げる楽天の田中将大投手の分厚い体とか、下から投げる千葉ロッテの渡辺俊介投手の他に類を見ない投法とかが描かれたカードがあってそうした選手達の姿を見て感じ取れるところ大。広島カープのマエケン投手もあったなあ。あとはドアラか。他のマスコットも多々あれとつば九郎以外はドアラが描かれているのが唯一。それだけやっぱり人気が全国区ってことなんだろう。いやあ面白い。素晴らしい。

 ギャラリーに滞在していた作者のに伺うと、ながさわたかひろさんは一場投手のファンだそうで所属していた東北楽天のファンをやっていたんだけれど移籍でヤクルトスワローズに移ったため、悩みつつ悶えながらも自らをヤクルトファンへと改変し、自己改革の果てにすべての選手を覚えコーチ人も覚えファンとなって試合を見つめていったとか。プロスポーツではよくチームのファンなのか個人選手のファンなのかを問われる場面があるけれど、そんな問いにひとつの処し方を見せてくれたながさわさん。あまつさえここまで深い絵を描けるようになるんだからやぱり生来の野球ファン、なんだろう。次にでは一場選手が移籍したら。その時に見せる処し方がまた、ファンという行為への答えを示してくれるだろう。注目したい。


【12月24日】 「少女革命ウテナ」のラストシーンであの解放感が得られたのはたぶん、学園という規定された範囲からまずウテナが飛び出していき、そしてアンシーが後を追って外へと出ていく展開が、今という場所に踏みとどまり、むしろ内側を向いてそこでの位置取りにのみ興味を抱き、奔走して耽溺しがちな人間への主張となって、ほぼ同時代に世を騒がせた「新世紀エヴァンゲリオン」の、テレビ版でも劇場版でも結局は内に踏みとどまり続けてしまったキャラクターであり、それを介した主張に向かってひとつの新たな提案をしていたから、なんだろう。様式美にあふれた学園でのやりとりも、段階を踏んで変化しその中でキャラクターの心情も揺れ動く。その揺さぶりを最後に「卵の殻」をうち破る大きな振動へと持っていき、そして外へとあふれ出させた幾原邦彦監督の手法にしびれ、主張に打たれた。そしてテレビ版「少女革命ウテナ」は永遠の傑作になった。僕の中で。

 そんな「少女革命ウテナ」の最終回を1997年12月24日に録画してあったビデオで見てからちょうど11年。録画してはったハードディスクレコーダーから再生をした 輪るピングドラム」の最終回について詳しく奥深く語るほどの親密さを僕はまだ番組に対して抱いていないこともあって正しい認識なのかどうか、はっきりしたことは言えないけれどもこれだけの期間をずっと何も作らずに、溜めて溜めて溜め込んで来たという割には何か大きく14年前の感動を、超えて迫るものがあったかというと少しばかり口が淀む。主題がまるで違っているのなら超える超えないの話にはならないけれども「ピングドラム」に描かれていたのも擬似的な家族となった少年2人と少女1人がその安寧に漂いつつ、それでも受ける刺激をかわせず外へと弾けて行こうとする話。

 おしてそこへと至る設定に複雑さがあり、「生存戦略」というキャッチーなフレーズもあって何か目新しさは感じられるけれども、根源として見られるそこに居続けるべきか否かというテーマに対し、少女は自動的な改変をたどり少年2人はリセットされて別の道を行くといった具合に、今を否定しその場を踏み越え殻を割って外へと向かい疾走していく解放感、といったものとはむしろ逆の展開がそこにあって少しばかり拍子抜けをした。あるいは停滞しているといった印象か。前に向かうのとそこに留まるのとでは物理的な位置にも違いがあるのは当然として、描かれる心情の面でもやっぱり停滞感が否めなかったけれどもその是非の判断には14年前と現在とで、おかれた環境にも大きな違いがあることを考え会わせる必要がありそう。

 無為無策ならむしろ押し流され押し潰されてしまう状況で、今を確実に生きることが最大の難事。それをやり遂げるための「生存戦略」こそが尊ばれる中でひとつの答えを示して見せた。後退したのは時代や社会であってそにれ会わせたアップデートを作品として成し遂げた、という目で見ればなるほど実に尖端的。それを表現する手法も「少女革命ウテナ」の耽美さに対して可愛らしさの中にシュールさも出し、なおかつ美しさまで含んでみせた。その意味では成長があって変化もあった。ただやはり僕自身の問題意識として、この停滞をサヴァイブするのみならず、停滞そのものをチェンジさせる提案なり主張なりが欲しかった。そのための言葉を、心をもらいたかったというのも事実。ひとつにはすべての破壊という道も示されたけれどもそれは最悪。ならば別のすべてを救い生みだし前へと進める道というものはなかったか。あるいは見返せば見つかるのかもしれないと思いこれからの時間を使って録画をたどることにしょう。あるいはやっぱり買うか、ブルーレイディスクを。

 家にいても仕方がないけれど外に出たって仕方がないなら外に行こうということで、手に荷物を持って少し倉庫に叩き込んでから上野へと向かいアメ横あたりを散策。まあいっぱいの人がいるようだ。これから年末にかけて更に大きく人が集まる訳だけれど、別にスーパーに行けば買える海産物とかそういったものをやっぱり上野で買う理由は何なんだろうなあ、安いからか新鮮からかそこで買うのが粋だからか。行動にはやっぱり理由があってそれは合理性とはまた違う論理が働くものなのだ。経済学だけじゃあ人間は語れないってことで。そんな上野のよくいくトンカツ屋でカツ丼を1杯。昔だったらメンチカツに唐揚げのセットをモリモリ食べられたんだけれども歳なのか胃がそこまで広がらない。あとお財布が。でもあそこのメンチカツは美味しいので体調を整え挑みたい。年内に余裕があったらまた行って年越しのメンチカツを頂こう。

 都営大江戸線で春日まで行きそこから三田線に乗換白山まで出て東洋大学で開かれた山形浩生さんと稲葉振一郎さんという、SF方面では名前の知られた批評家の2人とそれから田中秀臣さんという、ポップカルチャーを交えた経済学で最近話題の人とがSFについて語るトークセッションを見物。その名も「SFは社会にたいして」ってことだったけれどもその多くは自分とSFといった切り口からどうしてSFに出合いどんなSFを読んできたのか、そしてそうしたSFに当時出合ったのはどういった社会環境があったからなのかといった展開になって社会の側がSFの想像力からどんな影響を受けたのか、っていった知りたかったことにはあんまり迫ろうとはしていなかった。

 まあSF作家が科学番組に出て科学的事象について解説をするようなことも昔ほどなく、語られる言葉が人に影響を与える時代でもないんだけれど書かれるものには今でも結構、未来を先取りしていたり現実をひっくり返して眺めるものもある。そうしたものがストレートに読まれる機会の少なさが、社会へのSF小説の影響をあんまり起こさせないのかもしれないけれどもむしろSF的な思考を持ったアニメーションあり映画なりが、人の気持ちに影響を与えるってケースはたぶん今でもあるんだろう。メディアの変化がもたらした伝播の変化。けどやっぱりSF小説が何か社会にインパクトを与えるような“事件”を起こして欲しいとも思ったりもする。「華竜の宮」なんてそうなり得る作品なんだけれど、危機に瀕したときの人類の立ち居振る舞いの方法とか、海の変化がもたらす可能性への対処とか。

 トークセッションは3人が影響を受けたSFについて順繰りに語っていく形式でいろいろ上がったけれども歳が近いせいもあって似たようなところを触れていた感じ。「27世紀の発明王」とか「百億の昼と千億の夜」の漫画とか。そうした自分語りから派生していった議論で面白かったのは、かつてSF的な筆致だけが社会とか国家とか世界といった事象をまとめて描けたけれども今は経済にしても軍事にしても科学にしても哲学にしても、それぞれに専門家がいてそれなりに筆も立って面白くそして為になるものを書いてくる中で、SF作家がアドバンテージを持ち得ずむしろ中途半端な位置づけに立たされていたりするといったような話。

 ここからはるか遠い未来におけるイーガンの「ディアスポラ」的なビジョンは描け、あるいは身近に起こる変化をミニマルに描くことも出来るけれどもミッドレンジの部分を描くのがとても困難になっている。それが1960年代や70年代に小松左京さんとかが描いたような、社会にコミットするSFの希薄化をあるいは生んでいるのかもしれないけれども、それならそれは得意な人にまかせてむしろ遠くを射程に入れた想像力の権化のような物語をつむげば良いし、身近な発見から得られる思弁を物語にしても良い。それで面白ければいい訳で気にする必要もないんだけれどもで、ミッドレンジのSFの方が世間に受け止められやすいって傾向もあるだけに悩ましいところ。あるいは社会を描くのが得意なミステリーなり、人を描くことに長けた一般小説の方から現代に潜むSF的なスペキュウレイティブを表現する人が出てくれば、そうした隙間を埋められるし実際に出てきてもいそう。SFがないんじゃなくってすべてがSFになったと思って安穏とするのがあるいは正しい態度なのかも。


【12月23日】 北の後を継ぐ人はだから生まれ落ちた瞬間にマラソンの42・195キロを2時間ジャストで疾走してから、右手で天を指し、左手で地を指して「天上天下、唯我独尊!」と叫び、それからムーンウォークで元来た道を戻ってそして母親の横に立ってクルクルクルッと回って「ポー!」と叫んだといった伝説は、まだ聞こえて来ないけれどもきっと国家機密となっているんだろう。そんな凄い人がいたあ近隣諸国に要注意人物として注視されてしまうから。

 さらに寝かされたベビーベッドでいきない呟き始めた言葉が円周率で、それをとりあえず100万桁まで行き世界記録を軽く更新、そしてミレニアム問題を解き大統一理論を打ち立て1人で手書きのアニメーションを2時間分、原画から動画から彩色から編集音楽声優まで勤めあげて、それを別名義で後悔したら世界で10億人が観賞したのが2歳の頃。5歳で手作りのロケットを打ち上げ、火星まで行き地球外生命体と会話し、10歳で宇宙の外へと飛び出し、20歳で宇宙そのものを創生してそれが今のこの世界なのであるといった話が漏れ伝わってこないのも、やっぱり要注意人物として外宇宙からの刺客に狙われるからといった、そんな真剣マジに聞こえて来る人をちょっぴり期待してしまっている。楽しく行こうよ世界。

 ふと気がつくと「交響詩編エウレカセブン」の続編だか別編だか分からないけれども新シリーズの「エウレカセブンAO」なんてのが発表になってて、いったいAOってなんだアドミッション・オフィスってことなのか、だとするとレントンが月光号に乗るにあたって一芸入試かあったりするのか、それとも面接でホランドたちを感動させるスピーチを繰り広げるのか、なんて想像も浮かんだけれども普通に「青」とでも読むならそれは、青い髪をした少女の流を汲んだストーリー。ビジュアルに映るキャラクターはレイトンのような血気盛んさを見せながらも髪はエウレカのような青だったりするところに、何か前のシリーズなり劇場版との繋がりめいたものがあるんだろうと想像する。いやまったく適当に言ってるけど。

 そういや「創聖のアクエリオン」も新シリーズが登場のようで、あの時代の面白がられながらもそれで終わったアニメに2010年代は続々と脚光が浴びることになるんだろうか。「ラーゼフォン」もいきなり「ラーゼフォン2」とか出てきてママンのあの気だるそうな声に再び会えたら嬉しいし、「キスダム」も「R」を超えてさらに凄まじくも奥深いストーリーとそれからビジュアルを持った新シリーズとか作られたらちょっと愉快。なぜかいきなり朝日ノベルズから外伝とかが刊行されていたりする「ゼーガペイン」にも動きとかあったりするんだろうか。「ギガンティックフォーミュラ」は? 「アイドルマスターXENOGRASIA」はロボットが出ないバージョンが、ってそっちが本家か。1982年から今なお引きずる「マクロス」とか、1995年からしつこく続く「エヴァンゲリオン」だけじゃない、ロボットとかSFとかのアニメの系譜を絶やさず火を着け盛り上げろ。30年前から続く「機動戦士ガンダムAGE」は……来世紀に輝き残れ。

 折角だからと極寒の中を六本木ヒルズまで行って「歌川国芳展」を見る。ポスタービジュアルなんかだとでっかい魚を抱えた金太郎だの、裸の人たちがくんずほぐれつして顔面を形作っているものといった、ちょっぴり異形で異色な浮世絵師、ってイメージでもってアピールされているんだけれど、いざ会場に入ると並んでいるのは普通の水滸伝だの戦国絵巻だのといった古典から題材とった武者達による場面のイラスト。立派にふんぞりかえった武者たちがいたり大見得を切った武者たちがいたり、暴れたり戦っていたりする武者の絵なんかが並んで、かつての戦乱の迫力なんてものをその当時に甦らせていた。リアルタイムの戦争画、って訳じゃないからむしろ小松崎茂さんとか高荷義之さんといったプラモデルの箱絵や戦記物のイラストレーターたちの活動に近い雰囲気。そんな中に金太郎の絵なんかもあってそのビジュアルだけを抜いて異形だ異色だって語るのは、小松崎さんのサンダーバードとか抜いてSFだって言うのに等しいところがあるかもしれない。

 ほかに飾ってあるのも例えば歌舞伎の役者絵であったり市井の町人たちの日常であったり遊郭の花魁であったり美人といった浮世絵としてはごくごく普通のモチーフばかり。歌麿北斎写楽といった時代からすれば様式美より繊細さより迫力とか色彩なんかがぐわっと出ていて通俗さ、って奴が加わっているところがあって親しみという点ではぐっと今の心境に近いかも知れない。ライトノベルの挿し絵だって初期に比べて今の方が迫力だって色彩だって増している、っていうか、違うか。そうした沢山の普通の仕事に交じって猫とか雀が擬人化されたものも幾つかあるよ、ってのが国芳という浮世絵師の特徴なんだけれども、そこからより得意な部分だけをクローズアップして見せて語ってそうしたファンばかりを引きつける、っていうのは商売っ気としては正しいんのかも。でもそれだと正統に美術の中に国芳を位置づける上で、何か誤るような来もしないでもない。モチーフよりも構図と色彩。そのアップデートによって今に伝わる画家となった、と見るのが良いのかな、どうなのかな。

 そんな国芳の役者絵の中に、女形で板東しうか、って人が何枚か描かれていて、どんな役者かと調べたら、どうやら初代の板東玉三郎でそして初代板東しうかとして女役を得意とした役者だったらしい。死んで板東三津五郎って名を贈られているからやっぱり相当の人だったんだろうなあ、そうした人の姿形が絵として残って今に伝わるところが役者絵の、そして浮世絵の面白さ。ブロマイドじゃあこうはいかないしだいたいが今の役者の演じているところの姿って、誰も普通には見たことないしあんまり関心もなさそう。せっかくの伝統的な役者の楽しみ方なのに、どうして今は行われていないんだろう。時代が違うといってもちょっともったいない。

 いっそ現代の浮世絵師がそうした役者絵を摺って売ったら、果たしてどんな感じになるんだろう。たいしたことないかそれとも。売れる絵も限られそうだしなあ。ちなみに志うかは四代目まで行っててこれも調べると当代の板東玉三郎と同時期に守田勘彌の芸養子となりながらも方や女形としてぐんぐんと名を挙げスタートなり、こなた役が付かず休演しては破門されて役者を諦めたかに見えたものの復帰して苦労を噛んだだけの味ある役を演じているとか。ちょっと見てみたいかも。そうやって名が繋がるところも歌舞伎なり落語の世界の面白さなのかも。年をとったらのめり込むか。そんな暇はないか。

 国芳で江戸を見たなら次は鍋で江戸を見る、ってことでその場も明治座だなんて芝居の殿堂へと足を踏み入れ「大江戸鍋祭」を見学する。なんだそりゃって聞かれればあの「戦国鍋TV」のスピンオフ企画。戦国武将達に扮した若い人たちがコントやギャグを見せつつ歴史について語るっていった番組だったんだけれど、それで掴んだファンを集めて前にやった舞台が大受けしたことで、それならと年末にぽっかりと空いていた明治座に場所を借り、そことそれから季節に相応しい忠臣蔵を見せようってことになった模様。なにしろ戦国では絶対に描けなかった忠臣蔵。テレビとまるで親しみのない配役になるんだろうけれどもそこはすっかり番組で個々のファンになった女性達は誰が何を演じようともついていっては歓声を贈り、舞台に見入って楽しんでいた。

 何人入るか知らないけれども9割5分は女性というその会場。まずは殿中での刃傷から大石の放蕩、そして討ち入りへと至る忠臣蔵のストーリーをほぼちゃんと繰り広げてみせる。駆け足感はとくなくそれなりに過不足なく描いていたたその上に、ギャグもはさみテレビ番組的なパロディもはさんで盛り上げる。そうかそうだったのかだからなのか。でもそれを言ったらつまらないので舞台を見て驚いてやって下さいな。そりゃあ配役に役名を書けない訳だよ。そして歌謡ショー。4組が登場しては歌い踊るその様はやっぱり練習が行き届いていて見ていて楽しい。

 ハンドベルの置き間違いはわざとなのかそれとも。でも歌を歌うのが反則な人な割に内容はガチだった「KIRA feat.近松門左衛門」はなかなかだったし、アップテンポな楽曲を着替えた「松の廊下走り隊7」も、ヤーヤーヤーと叫びたくなるフォークデュオによく似た安兵衛群兵衛も良かったけれど、ここはやっぱり最後に登場した、メローな曲にダンスがついて聞かせる「元禄生態生類アワレンジャー」をしっかりと推そう。こうやって幾つものパロディユニットを生んで、それぞれの演じ手のファンを引きつけ音楽の面でも盛り上げそしてまた次が、ってなるのかどうなのか。「戦国鍋TV」っていう番組は本放送は終わってしまっているけれど、これだけの盛り上がりを捨てておくのはモッタイナイ。果たして次はあるのか否か。あって欲しいがどうなのか。隣の隣の隣に座ってみていたエグゼクティブプロデューサーに聞いてみたかったなあ。


【12月22日】 そうそう武豊アニメーションフェスティバルでは「かよえ!チュー学」の新海岳人さんによる講演と並んでリアルに登場した人のライブパフォーマンスがあったんだけれどそれを演った」トーマスって人が何というかキてるとうか妙なんだけれど凄かった。すでに最初のパートで「ヤカンポリス村田さん」ってシリーズが紹介されててそれがまた意味が分からないというか、ヤカンの口に刺さった兵隊人形のビジュアルからなぜかカエルの胴体に顔が日曜夜の国民的アニメーションを思わせる人形2体が登場してはどつき漫才を繰り広げ、そして同じシリーズの別の話ではサイケな色彩や紋様が音楽に合わせて踊り乱舞する映像が流れたりしてもう多彩を通り越した混乱すら感じさせる。

 ブルマアク的な怪獣の顔にさらに異形をはめてはそんな怪獣たちにクイズを出して答えられなかったら最後に全部の顔を爆破してしまったりと過激で過剰。そんな映像を作る人がリアルに登場してきたらこれがまた意味不明というか名前の通りに外国人ではあるけれど、トレーナーだかをジャミラみたいに羽織っては眼鏡に鼻にヒゲという変装キットを顔にはめ、口に笛だか何かを加えて音楽を奏でてステージ上に現れそして、檀上に乱雑に並べてあった玩具の楽器やら本当の玩具やらを自在に手に取り手元のサンプリングマシーンに音を入れてはそれを再生した上で歌を歌ったり音楽を奏でたりして聴かせる。深淵にしてシュール。そんな人が町中でパフォーマンスをしていたら近寄りたくないけど近寄って眺めてしまいそう。

 さらに映像を使って画面に自分を2人合成したものを映し出し、2人が掛け合いをしている間にリアルな自分もステージ上から合いの手を入れてそしてじゃんけんをして誰がアルトをやってソプラノをやるかを決めようとして混乱して、それでもどうにか決めた上で映像が音楽を奏で始めてそれに重ねるようにステージ上でも音楽を奏で歌を歌ってシンクロさせる。三重奏のパフォーマンス。そしてしっかり上と下のパートに別れてた。うまいじゃん。

 訥々として不気味でユニークでシュールなそのパフォーマンスが他のどんな世界で披露されているのか知らないけれども、その創り出す奇天烈な映像世界ともども1度見たらとっても気になる人であることに間違いない。三重県在住っぽいことも話してたけれど本当かなあ。首都圏で見られたりするのかなあ。ともあれその名を3度叫んで心に刻んでいずれ来るかも知れない再開の時を待とう。トーマス! トーマス! トーマス!

 ドラマティックでもサスペンスフルでもエキサイティングないけれど、底冷えするようなじんわりとした感覚が腹の底から漂ってきては全身を覆って背筋をキッとさせる物語、とでも言っておこうか。唐辺葉介さんって人の「死体泥棒」(星海社、1200円)は僕という大学生の男がまずは団地の葬儀会場に忍び込んで公原幸という少女の死体を盗み出す場面から始まる。レンタカーを使い夜中の2時に入り込んでは棺桶を剥がし死体を抜き出し車に積んで家へと持ち帰ってあらかじめ用意して置いた大型の冷蔵庫に入れる。陵辱するとかいったことはなし。車の中でエアコンをつけるといたんでしまうと遠慮するくらい、大事に死体を扱っている。

 僕にとって幸は彼女らしかったけれどもどうして死んだのか、といった理由はまだ空かされない。ともあれ僕は彼女を冷蔵庫に入れたあと、幸を積んだ形跡をレンタカーから丹念にぬぐいつつもいずれ発覚するだろうなあという感覚は抱きつつ、それが焦りとか恐怖につながるようなことはなく、割と自然体にむしろ諦観して落ちつきすら得たような感覚でもってアルバイト先の家庭教師に言って中学生の少女を教え、学校に退学届けを出して受け付けられそして近所を歩いて下の階に住む人が男に殴られた場面に行き会わせたり、ホームレスに殴られたりする日常をすごしていく。それは決してドラマチックではなく、ストーリーに大きく関わることもない。僕は相変わらず幸を冷蔵庫に入れたまま。そんな日常が流れていった果てにようやく事態が進展し、その上で僕は解放に近い結果を得る。

 死体はただの死体に過ぎずそれがあるからといって自分が救われるような感覚にはならないけれど、死体であってもそれは彼女だった存在であって損なわれることへの困った感覚は抱いている。どこかクールで冷静な展開から死というものが日常の延長として存在していて、それは誰にでも起こり得ることなんだと思わせつつ、ただ当たり前に存在している生というものへの感覚を改めて覚えさせられる。だんだんと迫ってくる包囲網にも焦らず待ち受けるその態度。それは残酷で人でなしのように見られるかもしれないけれど、でも愛しているから死体を盗み、けれども世間的にはそれが犯罪だと知っていつでも認める考えでいる態度は実に人間的。なにかにつけて騒ぎ慌てる世間への苦笑をそこに感じつつ、やりたいことを静かにやって生きたいものだと思う、冬、2011年。

 やっぱり実際に見ると良いものだなあ舞台って。「聖闘士星矢」のスーパーミュージカルを銀河劇場で観劇して観劇。歌い演じ踊り動き回る役者たちによって描き出されるあの世界、あの物語が迫ってきて目を奪う、心を染める。隅々まで行き届いた演出によって様々な面が生まれ空間を創り出す。生で見る舞台ならではの醍醐味って奴がそこなる。同じのを既にDVDで見てはいたけどやっぱり迫ってくる迫力が違った。これは現地で見るべき舞台だ。ストーリーは基本的には劇場版映画「邪神エリス」を舞台化したものなんだけれどもそのエリスを男性でありながら湯澤幸一郎さんが完璧に歌い演じてもう圧倒。ほとんど場を持っていった感じすらしたけど、そんな偽女を絵梨衣ってエリスに乗っ取られる役を演じた加藤茜さんが16歳ながらも押し返すぐらいの巧みさでもって演じていたのが良かった。

 前は吉田仁美さんが演じてたけど、加藤さんも演技と歌のどちらも抜群に巧かった。ミュージカルとか色々出てはいるみたいだけれども年齢からすればまだまだ新進気鋭。これから一気に大爆発って感じになっていくのかな。ちょっと注目。あとは男性女性2人づつのダンサーが欲ってゴーストセイントとブロンズセイントの戦いに、それぞれマッチした衣装で現れダンスを見せてくれて楽しい楽しい。4人がシンクロしたりバラバラになったりして踊る群舞とか見ているとついつい引きつけられる。4人のダンサー、キグナス氷河とサザンクロスクライストとの戦いでは女性2人がキグナスの氷の精、男性2人がクライストの火の精ってそれぞれの踊りでもってセイントたちの技を体で表し戦いを表す。考えた人も凄いけどそれを演じきるダンサーもやっぱり素晴らしい。そこんとこ見どころ。

 もちろん主役の星矢を演じた鎌苅健太さんはインタビューした時にとにかく体力を付けたいと話してたように最後まで疲れず途切れない演技を見せてくれた。ブロンズからゴールドへと聖衣を変えた時も動きを大きくして縮こまらないようにして舞台の奥から広い会場の隅々まで届くパワーを放ってた。頑張ったなあ。そんな鎌苅さんが冒頭で、辰己役の上原健太さんと見せるやりとりに爆笑。どこまでアドリブでどこまでがシナリオか。分からないけれどもそのくすっと笑える感じが導入になってシビアで鋭い展開へと誘い最後まで導いてくれるのだ。すべてが終わって全員がそろって歌うところとかになるともう本当に心が洗われるよう。何かを作り上げる人たちの素晴らしさって奴を噛みしめながら、作り上げたものをただ伝えるだけの我が商売に一抹の寂しさなんてものも感じてみたり。僕たちはあの作り上げた者たちだけが得られる感動の輪には絶対に加われないのだ。仕方がない、才能が違うのだからと諦めるしかないんだけれどでもやっぱり。何か創り出すことを考えよう。時間はあるから、たぶん、まだ。


【12月21日】 成績が落ちたと言われた机くんが、もしかして競技かるた部を辞めてしまうんじゃないかと慌てて飛びついた千早の顔が面白かったアニメーション版「ちはやふる」。でも上から5番なら存分にとてつもなく良い成績な訳で下から5番の千早の方がこのままかるたにのめりこんだらいったい何が起こるのか、って考えると可哀想で夜も寝られなくなってしまう。親だって心配なはずなんだろうけれども姉の活躍にばかり目がいって妹の東京都1位で全国大会出場という“快挙”に喜んでいる節はなし。彼方を歩む姉への負い目もあって言い出せなかった千早だったけれどもふと見た新聞に切り抜きの跡があった。

 そしてのぞいたスクラップブックのコーナーに、自分の名前のスクラップが1冊。開くと過去の活躍も含めた記事がしっかり。ああ感動。そして感涙。そうやって感情の行き場を持っていく展開がやっぱりとってもうまいなあ、このアニメーション。この丁寧さ。そして外に開いたテーマは確実に新しいファン層を掴んで競技かるたへの認知を広げ、アニメーションへの感覚を広げて、きっといろいろ世の中に何かしらの影響を与えていくんだろう。それはかつて「ハチミツとクローバー」のアニメーションが行い、「のだめカンタービレ」のアニメーションが行ったこと。その感覚をお台場から汐留が受け継ぎ育んでいることが悔しくもあり、でも仕方がないかとも思え。

 冬なので横浜美術館に松井冬子さんの展覧会を見に行くことにする。これが今朝だったらきっと松井今朝子さんの小説を読んでいたことだろう。気分とはそういうものだ。とか。ともあれ到着した横浜美術館は、いつかの横浜トリエンナーレの時みたいな行列も消えて、いつもの現代美術をやるときの横浜美術館のよう。人はそれほどいなくって、じっくりと作品に向き合えるという。それって経営的に拙くないかと言えば言えるけれども、見る方にとっては静かな方が有り難いのだそういうものだ。んでもって印象はなるほどどれをとっても松井冬子さんというか、すでにこれまでの活動歴から作り上げられた松井冬子さんのイメージを再確認させてくれる展覧会。日本画なんだけれどもモチーフがグロテスクな華だったり動物だったり、それの死体だったりと、どこかに生態への畏れをはらんだモチーフが並んで見るものを戦(おのの)かせる。

 蓮の華でも散っているのかと思ったそれらは、よくよく見れば何匹もの鼠たち。うごめき重なり合っては死体を貪るグロテスクさが、暗い絵の中に沈んでいて通り過ぎれは気づかれないけれども、ふと足を止めて見入った人に生きて、そして死に腐り散ることへの嫌悪を展望をもたらす。古典的に見える幽霊画も、モチーフの女性が歪んでいたり女性ですらない毛だけだったりと、パッと見の印象のその奥に、ドロドロとした情念めいたものを蠢かせては、立ち止まった者へと何かメッセージを投げかける。崩れ落ちた鳥に乱れ咲く花々。そして腹を割かれた女性。加わって手足が朽ちかけたものがあり、蛆にまみれたものがあって骨だけとなり、頭蓋骨と背骨だけになったもののあってと、そんな5枚が横に並んだ部屋にいて、生きている今を感じ、やがて朽ちる未来のその先に来る虚無の平穏を存分に味わわされる。

 兎の口をした女性には、人類が古代より魚類両生類鳥類といった進化を遂げてきた生き物だってニュアンスをそこに込めつつ、生命への意識を向けさせる。賛歌かそれとも生きざるを得ないことへの諦観か。はたまたいずれ死ぬ身への絶望か。分からないけれどもただひたすらに凄みを持ったモチーフがあり、卓越した筆致があってそれらの混交として松井冬子さんという世界が繰り広げられる。素っ裸の女性の股間への目線もなるほど確かに強く浮かんでくるけれどもまあ、それはひとつのお約束。むしろそれすら脇に追いやるぐらいの凄まじいモチーフが、塗り込められた画が持つ凄みってものに誰もが引かれていく。描いている当人がまたとてつもなく美人だといったことすら外野の話。1000年が経てばそんなのどうでもよくなって、残るのはひたすらに作品な訳で、そんな未来にすら届く作品たちがそこにある、と断じたい。ただ。

 得られる情報、見た作品から大きく固まってしまっている松井冬子さんというアーティストのイメージの再確認を存分にさせてもらえたということは、その先に広がる可能性ってものをなかなか見出しづらかったってことでもある。これまでの成果のその延長がずっと続いて地位を固め、栄誉を得ていく道筋も悪いものでもないけれど、ひとつの破壊をもたらし騒乱を起こしたアーティストが、まとまり落ちついてしまうおとはやっぱりちょっともったいない。じゃあ何が出来るのか、どうして欲しいのかと言われると迷ってしまうけれどもルドンがモノクロの世界から絢爛としたパステルの世界へと変ぼうし、ポロックがおなじみの世界を抜け出ようとして抜けきれなかったような転換を、変ぼうを魅せてくれれば個人的にはよりいっそうの興味を抱けそう。迷惑かもしれないけれども是非にそちらへの進行を、凄く凄まじい作品の展開を、願いたい。

 そうかいよいよアニメーション化が決定したのか「ヨルムンガンド」。監督が元永慶太郎さんということで今やってるというかやってた「真剣で私に恋しなさい!!」の如くに美少女たちが下着も見えるのを厭わず手に武器を取りあるいは拳でもって敵にぶつかっていく物語が繰り広げられることになるかとうとやっぱりそこは「ヨルムンガンド」。武器商人のココ・ヘクマティアルが戦火の下でひとり生き残ったヨナ坊を配下に入れつつそれぞれが凄腕のプロフェッショナルの傭兵達を抱えて世界の紛争地帯を飛び回り、武器を売り敵と戦うシリアスでサスペンスフルな物語がやっぱり繰り広げられることになるんだろう。声はココが伊藤静さんでヨナがネシンバラな田村陸心さんでそして巨大なバルメが大原さやかさん。伊藤さん大原さんと姉系がそろってここに生天目仁美さん能登麻美子さん大人びた方の水樹奈々さん田中理恵さん白石涼子さんといった面々が加わってお姉さま対戦を繰り広げてくれたらレームの石塚運昇さんほか男共はきっと縮み上がるよなあ。決定打は小山茉美あんで。

 けどしかし最新刊の10巻では今まで南博士とか使って企んでいたことがいよいよ明らかになって宇宙を支配し空を支配して軍事と人間を切り離すとまで言い切った。そのために凄腕の海兵隊の部隊をも退けコンピューターの天才を牢獄から引っ張り出して連れていったは良いけれど、そんな目的が果たされる過程で死ぬ人間の多さを聞いてヨナが怒り憤ってココに銃を向け、その横でレームだけが銃を抜いてヨナと対峙する。ほかにもあれだけの凄腕がいながあレームだけでルツがかろうじてついてこられてバルメがまるで動いてないのはなんだろう、それがやっぱりあの中での腕前の順ってことなのか。でもしかしレームだったら抜いたら即座に引き金を引いてヨナの脅威をまず退けるんじゃないのかなあ。そこまで行ってないとこにあのメンバーにある意識ってのも透けて見える。即座に討たないヨナもヨナだし。さて一体どうなるか。連載読んでなかったけれども最新号くらい買ってみるか。


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