縮刷版2011年12月上旬号


【12月10日】 とりあえずウルキアガもげろ。というかあれが本体だとするならやっぱりぶら下げて歩いていることになるんだろうか。川上稔さんの「境界線上のホライゾン 4(下)」(電撃文庫)は東北方面にある勢力との対話を行うシリーズの完結編にあたる巻で上越露西亜では上杉景勝が現れ雷を飛ばし愛の人がラブ注入をして大活躍。そして最上ではアデーレがひたすらおいしいものを食べて里見義康はかしこまっていて結局どちらも胸は成長せず。そんな両勢力を横目に伊達を相手にした仙台ではキヨナリ・ウルキアガが姉の攻略へと突き進んではあられもない姿を見せたり見られたりする。そうだったのかー。いや驚いた。

 それより先に武蔵の艦上では反乱を起こしたかに見えた大久保・忠隣/長安が副会長の本多・正純からとんでもない反撃をくらってあたふたあたふた。っていうかその反乱も収まるところに収まって、いよいよ武蔵出陣ということになって起こった事件を経てひとつ、武蔵が強くなっていく様を目の当たりにできる。今を乗り越えて掴む明日の大切さ。逃げちゃだめってことで。けどしかしそんな戦いの中であった離別もひとつ。見送るテクノヘクセンたちの心境やいかに。難しいなあ戦いって。でもって最終決戦では織田側より柴田・勝家が出るは妻のお市が暴れるは、おきゃんそうに見えた丹羽・長秀が意外な戦いぶりを見せてくれるはと異能バトルのオン・パレード。もはや魔人としか思えない奴らを相手に戦える武蔵の面々ってやっぱりすげえや。それもこれもオリオトライ先生の鍛錬の賜か。

 見どころはやっぱり直政と森長可との戦いかなあ。これを例えばアニメーションでやったとしたらどーなるか、ってその場面では武神どうしの戦いなんだろうけれどもそれ以前に森くんが現れるシーンでは画面いっぱいに霞とかモザイクとかかけられそう。そりゃだって放送禁止っしょ。うねうねしてて先っぽが丸くて穴とか空いてちゃ。そこからハッカ飴とか吸い込んだらやっぱり見ている男たちは股間、おさえてひーとか言いたくなるよね。よね。そんなこんなで大きくまとまった武蔵と奥州連合とが、次に立ち向かう相手は誰だ。そして幸せになるのは誰なんだ。第1第2はそれぞれ何とかなったし第3第4は2人でペア。第5は王に仕えているからやぱり第6の直政か。そして相手は奴か。期して待とう。待ちたくないなあ。

 見入ったってほどではないけれども存在は知ってるし見てもいた「快獣ブースカ!」とか、こっちは随分と見ていた「ウルトラマンA」なんかの脚本家で知られる市川森一さんが亡くなったとの報。一般にはもっと普通のドラマの方で評価されその死が悼まれるんだろうけれども僕等の世代はやっぱり特撮黎明期においてしっかりと筋の通った人間ドラマ、SFドラマを見せてくれて、勧善懲悪の子供だましではないストーリーからいろいろと学ばせてくれた人ってことで、記憶に刻まれることになるんだろー。一般向けのドラマでも「傷だらけの天使」があって「黄金の日々」があって後者では絢爛たる展開の中に人の生き様って奴を感じさせてくれたっけ。番組コメンテーターとしても辛辣で真っ当なことを言う人だっただけに残念だけれどこればっかりは仕方がない。ご冥福を。追悼にラーメン食べよう、ブースカの大好物だった。

 書泉ブックタワーで開かれた「新☆ハヤカワ・SFシリーズ」の発売記念トークイベントに出ようととりあえず、第1回配本のスコット・ウェスターフィールドって人の「リヴァイアサン クジラと蒸気機関」を買って整理券をもらって会場に入って最前列に座ってトークを見物。声がよく聞こえた。それが5001番であるとか背が銀であるとか小口が手塗りだとかいったことはまるで気にならなくって何がどれくらいの値段で出るかだけが実は重要な世代だったりするから、あんまり叢書の位置づけが分からなかったけれどもラインアップを見るとなかなかの本格揃いで、かといってハードカバーで高い値段で出しても今はあんまり買われない状況から、SFノヴェルズで出すよりもこっちにしていこうって意識が働いていると知ってなるほどとか思ってみたり。昔みたく黄色とか青とか灰色でそろっていたら揃えたくなったノヴェルズだけれど今はてんでバラバラな装丁になっているからなあ。それなら叢書にして買わせようって算段。間違ってはないね。

 とはいえ過去に黄色い背表紙の新鋭SFノヴェルズなシリーズを出そうとして幾つか出なかったり、「夢の文学館」という叢書を立ち上げて途中で出なくなったりもした過去があるだけに、ラインアップが上がったといって喜んではいられなかったりする昨今。とりあえずコニー・ウィリスの「ドゥームズデイ・ブック」(これも「夢の文学館」からだったっけ)と同じシリーズらしい2冊が出るのを心待とう。パオロ・バチガルビは短編集か。それより先に「ねじまき少女」を早く読まないと。あと大森望さんが「本の雑誌」でSFにつける星を塩澤部長がとっても気にしていることが分かった。SFマガジンで当方が言葉を尽くして書いても、まだまだ及ばないその星の価値。近づくために精進精進。


【12月9日】 小学生が集まって宇宙からやってきた人工知性を搭載した宇宙船を宇宙へと帰してあげようとする、って話からするに何て賢く聡明な小学生たちなんだろうと思ったら大間違いだったりする今井哲也さんの「ぼくらのよあけ」(講談社)全2巻。主人公の少年は女の子の表情を浮かべて中空を動きながらあれこれ面倒を見てくれるお手伝いロボットのオートボットが気になるんだけれど逆にツンケンとそて言うことを聞かない反抗期。そんなオートボットに割り込むように現れた人工知性に誘われ上った団地の屋上で、人工知性から話をきいて頑張ろうと思って行動に移しても、無茶をして知人を危険な目に合わせたりして、それを親に咎められて妙に拗ねたりする。聞き分けが悪いというか我が儘というか。

 つまりは子供な訳でそんな子供の“今”ってやつをちゃんとしっかり描きつつ、そんな子供たちが自分たちだけでは超えられない壁をさまざまな手段や工夫や対話を経て超えていって、そしてひとつのできごとを成し遂げるというストーリーがこの「ぼくらのよあけ」が持っているひとつの主題。人工知性の起動に必要なブロックを持ってる少女が学校で他のクラスメートたちから無視をされいじめられていて、そんな無視する側にいた1人の少女が枠を超えたことをやってたちどころにハブられていく構図とか、今あるだろう子どもたちの問題なんかをしっかり描いて子供たちを正義にも聖人にも純粋にも収めない。それでいて突拍子もない実行力を持った子供たちがいたからこそ、成し遂げられたこともある。そんな気持ちを忘れさせず、彼らの問題に目を向けさせ、その上で人類にとっての未来、人工知性の可能性なんかを教えてくれる物語。佳作。良作。読んで損なし。欲しいなあオートボット。

 初めて行ったのが1989年、日本最大の展示スペースを誇る「幕張メッセ」のオープンを飾った「第28回東京モーターショー」でその時は、まだ出来てばかりの京葉線に新木場からすし詰めになって海浜幕張まで行って、そこからもくんずほぐれつの大群衆の中を会場に入って、見るものも見られないまま、あっちこっとを行ったり来たりしたっけか。当時はまだそんなメッセから1時間とかからない場所に住むようになるとは思っていなかったけれど、その後に何度も何度も通ったメッセで比較的大きい規模での開催と言われる「東京ゲームショー」ですら、遠く及ばない大群衆がその後に何度か開かれた「東京モーターショー」を訪れるて、日本って国が持つ経済力の高さとそして、自動車産業の重要性ってやつをつくづく感じさせられた、それが……。

 「東京ビッグサイト」へと戻ってきたというか、初の開催となった「第42回東京モーターショー」は、展示面積こそ前回広くなったとはいっても、それは前回が景気の悪化を理由に多くが出展を取りやめたことから、あの幕張メッセをフルに使うようなことをしなかっただけで、それでも隙間だらけの開催となった虚ろさに、日本の世界における市場としての地位と、そして日本自動車産業の世界における存在感ってものの停滞傾向を、噛みしめさせられた思いが確かした。そこから少しばかり増えたところで、3歩下がって1歩進んだ程度の進捗に過ぎず、来場者数もこのままではとうて100万人には及びそうもない寂しさ。なるほどメッセの全部を使った大きな展示ではあっても、それは「インターナショナルギフトショー」でもやっていることだし、前回並の60万人に近づいたところで、10日間での来場者数はそれと同じくらいを、年末の3日間で集めてしまうコミックマーケットに比べて、圧倒的とはいえなかったりする。

 それでも展示に素晴らしさがあれば良いんだけれど、並んでいる車はただ車といった感じで、未来をわくわくさせてくれるようなスタイリッシュさで迫ってくるとか、何か大きな可能性を感じさせてくれると行ったものはあんまりなさそう。それこそ松本零士さんがプログラムの表紙に描いている、“未来の車”の域を大きく超えるものではなく、それはおよそ半世紀前からSF的なイラストの中で示されていたりするものでもあったりする。過去に見た未来を今また見せられるこの葛藤。車ってものが潜在的に持っていた夢がここにきて大きく減殺しているような気がしてならない。かといって実用的なもの、って面でいうとこのご時世、エコカーだ節約だといったキーワードでくくられるような車が並んでいたりして、どこかいじましさすら漂ってしまう。

 量でもいっときからの衰退が見え、質でも停滞が見えたりする状況はすなわち日本における自動車の存在感、自動車産業の意味合いが前ほどではなくなっているという現れで、それはそうした産業に頼ってきた日本産業全体の閉塞感、停滞感をあるいは現しているのかもしれない。なるほど給料は減り就職が難しくなり、行政からの補助は減って暮らし向きはあんまりよくはなってない。それでもどこか未来を信じたかった心に現実が、形に見える産業の衰退という形で、改めて大きく突きつけられたってことになるんだろう。すでに「東京ゲームショー」でアメリカのE3にかなわない現実をつきつけられ、世界のトレンドから置いて行かれていることを悟っていたりした日本の産業が、より巨大で裾野も広い自動車産業でつきつけられた現実を、ただの浮薄な話と聞き逃したら未来はない。かといって噛みしたところで次につながる何かを見出すことも難しい。どん詰まりのなかで日本はどうする。

 ってことでたぶん、すがるんだろうなあ、コンテンツに。あのトヨタが「東京モーターショー」でブースのコンセプトに導入したのが、藤子・F・不二夫さんの「ドラえもん」。なるほど世界で人気のある作品だけれど、それはやっぱり漫画に過ぎずリアルでシリアスな産業が頼りすがるものではない。並べる車とそれを飾るコンパニオンの存在感だけで、かつては勝負できたしそれでお客さんも見てくれたのが、今はそこにドラえもんを飛ばし、どこでもドアを置いて誘ってみせようとする。来る人もそんな人形の前に立って記念撮影をして大喜び。車なんか見ていやしない。

 「ドラえもん」が40年かけて広げたイメージ、確立した人気にすがり観客を引きつけそのイメージの上に車を載せて送り出すトヨタの、そのスタンスを是と見るしか今の日本の産業を、大きくクローズアップあせることはできないのか。それはちょっぴり寂しいことだけれども、一方にコンテンツの力で何かを変えられるとう可能性の示唆でもある。そして日本にはコンテンツが山ほどあるならそれを、もっと、高めていくことを考えることが求められるんだろう。経済産業相も外務省も国土交通省も文部科学省も、自動車よりコンテンツ、なんてことを遊びじゃなく、ちゃんと考えないと未来はないぞ、この国に。

 ニューズウィークのしばらく前に出た号で紹介されていて日本語版は出ているのかを見たらまだったらステファン・エセルってフランスの元レジスタンスの闘士が書いたその名も「怒れ! 憤れ!」(日経BP)が出たんでさっそく読んでみたら年寄りの冷や水ではなくってレジスタンスであり国連で人権宣言を作ったメンバーとして見て今の世の中はやっぱりとってもおかしいってことが書かれてあっておおむね納得。けどだからどうしたらいいんだと言われて怒るしかないんだと答えられた時にその怒り方を知らない僕たちはどこにどうやって拳を向けたらいいのか迷ってしまう。

 そういう迷いがだから虚勢された心理であって諦めでもあって、怒り戦うことによってしか掴めないならそうするしかないんだって教えてくれていて、だからどうすればといった堂々巡り。とはいえ一穴が広がる可能性もある訳で、そこを広げる著として読まれ尊ばれていくことを期待。けど人種による差別、移民への迫害を唾棄するエセルさんの思考と世は逆に行っているからなあ。せめて最後の「マスメディアに平和な反乱を起こせ。彼らが若者に示すのは、大量消費、弱者の切り捨て、文化の軽視、快楽、そして行き過ぎた競争だけだ」って言葉も、メディアに残る良心が尊ぶ平等博愛を蔑ろにする動きへと収斂されかねないこの国。真っ当な怒り方を見せてくれる人はいないのか。いないなあ。


【12月8日】 早朝から、銀座へと出て松屋銀座にて昨日から始まっているテディベアの展覧会を見物。杏さんが現れてはオリジナルコーディネイトのテディベアを紹介するってイベントがあったけれども、前にまだ見ていない展示を見て回ったら、昔々に記事にした「テディガール」がやって来ていた。当時のレートで1470万円だったっけ、それくらいの値段で持ってクリスティーズってオークションで落差されては日本にあるテディベアミュージアムの目玉として展示されるって話を聞いて、さん・アローまで画像をもらいんだっけかっけかどうだったか。当時はまだ日記をつけてなかったから詳しいことはわからない。縮刷版もないしなあ。

 しかしその「テディガール」、英国陸軍の大佐が持っていたってこともさることながら、あのノルマンディー上陸作戦に同行しては、銃を手に取り手榴弾を放り投げては向かうドイツ兵をばったばったとなぎ倒し、突き進んではマジノ線を押し返して遠くベルリンへと突入し、ヒトラーが潜む地下壕へと潜入してはうなだれるヒトラー相手に説教を食らわせたという、そんな逸話がなかったりなかったりするから歴戦の勇士。ドイツのベアをどーして英国陸軍大佐が後生大事に抱えいたかは謎だけれどもそれくらい、男たちを熱中させるものをテディベアってものは持っていたっていう、証明のような存在でもあったりする。

 そんな展覧会になぜかタイムスクープハンターという番組の衣装をつけたベアをコーディネートした関係で、招かれていた杏さんによればベアを好きな人は日本ではやっぱり女性が多いけれど、欧米では男性の方に割かしファンがいるという。女性はあるいは人形へと向かい、男性は愛玩へと向かったりするのかどうかは分からないけれど、そういう違いを研究する価値はありそう。日本の感覚に染まっていると見えない文化ってものがあるってことで。そんな杏さんは身長にヒールを重ねて見上げるような姿で早く人間になりたい、とは言ってくれなかったけれども静かにいろいろ語ってた。

 そんな杏さんのお手から生まれたベア。欲しかったけど2万1000円ではなあ。シュタイフではないけどドイツのクレメンスって会社のもの。小振りでしっかりしたベアを作るので知られた会社。杏さんが言うには自分はあんまり表情がないベアが好きってことでこのクレメンスのベアも、シュタイフの初期みたく固い顔に仏頂面がなかなかのお似合い。それでいてきっとタイムスクープハンターが何か聞いてきたならちゃんと、応えてナビゲートしてあげるんだ。優しいね。ベアだとシュタイフ一本槍めいたところもあるけれど、松屋銀座の展覧会場横のショップにはこのクレメンスのもいろいろあるんでシュタイフと、比べつつ眺めてみると良いかも。でもやっぱりシュタイフに靡くか、ブランドに弱い国民性だし、つか僕自身がか。

 いやいやおぼろみそめんって全国の誰もが給食で口にしているんじゃないの。ソフトめんの懐かしさなんかを語るときにはこのおぼろみそがセットでくっついてきてはあの甘い口当たりに挽肉のうまみが渾然いったいとなって、口中に広がるなかでソフト面の弾力を、存分に味わった記憶を懐かしむんじゃないの。どうやらそうではないってことにテレビでやってたKENMIN SHOWだか何かを見30年ぶりくらいに気が付いた。世の中にはまだまだ知らないことがあるんだなあ。何という名古屋モンロー主義。ちなみに月見団子も三方の上に球のが山盛りなんてかぐや姫の中だけで、現代は流滴型をしたものが白にピンクに茶の3食、重なって出てくるものだっていうのは普通だよね。ね。そうじゃないらしいとさっき気が付いた名古屋人。世の中にはまだまだ不思議なことがあるんだなあ。

 そろそろ店頭に並び始める川上稔さんの「境界線上のホライゾン」の4の下では大久保大久保・忠隣/長安ちゃんがとんでもないことになっている模様。そしてキヨナリ・ウルキアガのとんでもない真実が明らかになる模様。あと本多・二代はあかわらずの馬鹿ではあるけどそれが良い感じにこなれてきてピリピリしたところがなくなって、ソフトな馬鹿でもって突っ走っていってくれててとっても楽しい模様。悲しいこともいくつかあるけれどもそれも時代を開く時の通り道。抜けた先に待つ末世ではない未来を信じてページを繰っては終わりを噛みしめ、続く物語への期待をぐんぐんと膨らませよう。次はいつごろ出てくるんだろ。それはどこまで進むんだろ。

 「明らかになった」って杉井ギサブロー監督の「グスコーブドリの伝記」が製作されていることを紹介している記事が一斉に出たけれど、10月末にあったTIFFCOMの会場にはトレーラーが出ていて名がされていたし、それは一般は入れなくても秋葉原で開かれた東京アニメ祭だったら割と入りやすくって、そこでもあっぱり公開されていたりしたから、普通に見てああ作られているんだと理解した人もいたって不思議じゃないはずなのに、こうやって情報がオーソライズされて始めて気づき、知る人が大勢いるってことにメディアの持つ力ってのも、まだまだ衰えてはいないと理解。

 でもやっぱり既に判明していること「明らかになった」って書くのはいかにもメディア的な常套句だよなあ。さてそんな映画は杉井ギサブローさんが丹念に読み込み必要な部分の独自の創意も盛り込んで作ったそうなんで、シリアスにリアルな部分もあってファンタスティックに幻想的な部分もありそう。音楽はトレーラーだと細野晴臣さんではなくってオフコースの小田和正さんの「生まれ来る子供たちのために」が被さっていたけれども、そもまま行くのかな。あの未来をその手で開こうとあがく青年の姿がまるっきりぴったり、この歌のこの詞に重なって見て聞いているだけで涙が出てくるんだよ。さてもどーなるか。来年夏公開。期待して待とう。


【12月7日】 いろいろそれほど読んだことがある訳じゃないけど「OZ」に「八雲立つ」に「花咲ける青少年」といったタイトルだったら幾らでも知ってる樹なつみさんの原画展が西武池袋で始まったってんで見物に。誰であっても漫画の原画っていうのはそこに込められた筆の跡、載せられたホワイトやトーンの跡がしっかり分かっていったいどういう風に描いて、どういう風にその表現を誘い出して、それが結果としてどういう風に見えるのかを学べる大きくて重要な機会になる。別に自分で漫画を描く訳じゃなくっても、それを見ることによって漫画の大変さって奴も分かり、表現の凄さって奴に近付ける。だからやっぱり行くしかないし、それが星雲賞を取ったSFでもある樹なつみさんならやっぱり行くしかないのだ。

 なるほどやっぱり多い女性たち。萩尾望都さんとか羽海野チカさんならまだいた男性ファンはさすがにおらず女性がいっぱい詰めかけては繊細で美しいタッチの絵を見てカラーイラストを眺めてた。どうやって星を散らし服の紋様を描いているのか。カラー原画だとそれがちゃんと分かる。どういう順番で色を載せていっているかも。まあ今はタブレットを使いPCに色を重ねていくだけれだから順番なんて関係ないのかもしれないけれど、技巧を使って描かれた表現に残るアナログ的な痕跡は、確実に絵に奥行きめいたものを与えている。それのすべてがデジタルで再現可能か、あるいは必要か不必要かは分からないけれども、アナログ世代としてやっぱり知っておきたいその効用。学ぶためにしばらく通って眺めよう。ご本人のサイン会は流石にいっぱいだろうなあ。

 いくら部数を重ねて文庫のベストセラーのリストを埋め尽くしたってライトノベルは文庫の王国から存在を認知されていなんだと分かってもやもやとした気分に沈みがちなライトノベル読みがひとり。いくら売れたって漫画の書評が新聞の日曜文化に確実に載せられることすら未だあり得ないヒエラルキーの存在は仕方がないとしても、権威なんて蹴飛ばしちまえ、それが面白ければ何でもありな文化を持ってて欲しいと思えるフィールドで、けれども厳然とした内と外とが存在していたりする状況は、やっぱりどこかやるせない。それで良いの? って思うけれどももはやそれ自体が権威と化してしまった感もある空間で、新たなレジスタンスを行うことなんて出来ないんだろうなあ。だから外でひっそりとやるしかない。でも届かない。悩ましい。

 まあそれでも三上延さんの「ビブリア古書堂の事件手帖」という、ライトノベルに強い出版社から発行されたライトノベル作家によるミステリーを1番に選んでいるのは在りがたいというか、確かにとっても面白かった訳で選ばれて当然というか。もっともそれを読んで三上延さんに興味を持った人が「偽りのドラグーン」とかに向かうかというと多分向かわず、あるいはそれが出ているレーベルにはもっと他に面白い本もあるかもと、目を向けてメディアワークス文庫から続くベストセラーが出るってことにもなりはせず、紹介されている今流行っているその本を読んで楽しんでさあ次に流行る本はなにかなな、って探して見つけて群がる展開に向かいそう。

 それでも本がいろいろ読まれるのは良いことだし、読者にはそうする権利がある。気にしたいのは「ビブリア古書堂の事件手帖」という本があるぞと紹介する読書界に影響を及ぼせる立場の人たちが、そこから流石に三上延のライトノベル作品へと向かうのは無理としても、そういう本を輩出するメディアワークス文庫というレーベルに着目して、そこにある例えば「特急便ガール」だったり「サムシングフォー」だったり「マリシャスクレーム」だったり「ドッグオペラ」といった、ライトノベルっぽさとは違うミステリーやサスペンスやコミカルや熱血を含んだ物語を知り、これは良いんじゃないかと紹介する動きをしてくれるかどうか、ってこと。

 というか本読みを極めたレビュー者なら当然そういう行動をとるはずなんだけれど、ひとつが盛り上がっても他に火が及ぶような流れにいかず、ひとつが果てしなく燃え上がる一方でほかは静かという、格差があってそれがますます広がっている。安くもないし時間もないから怠慢という気はないけれど、それでもやっぱり気になる動きの停滞感。打破するためにもこれをきっかけに新レーベルへの関心を持って眺めていって欲しいものだし、版元にも期待に応える本を出していって欲しいもの。着ぐるみ小説の「カエルの子」とか童貞青春な「神童チェリー」なんて面白そうだぞ今月発売の何冊かは。

 それが敢えて味方をする振りをしてそのなりふり構ってなさげな見境のなさを炙り出そうとする筆だったとしたら、よくやったと誉めて差し上げたくもなるけれど、おそらくは全然そうではなくって、心底よりの味方をしたいという気持ちで相対し、“共通の敵”を潰そうと拳をともに振り上げようとする、ふりをして共通の利益を得ようと画策するという、そんな感じに見えてしまうのが何というか、公平性を尊ぶべきジャーナリズムの道を外しているような気もしないでもない横浜スタジアムをめぐるもう出ていけコメント報道。そう言った人が過去に出ていこうとした球団の買収候補者を論い悪し様にいっては引かせていただけに、今頃どうしてそんなことを言い出したのかという好奇の気持ちに、まず応えるべきジャーナリズムの筆がまったく向かっていないのが何より先に気持ち悪い。

 その経営している会社の成り立ちとか関係性は別にして、何がいったい問題となって横浜にある球団の経営を厳しいものにしているのかという、そこへの思い至りがまったくないのが喋っている当人に対する判断上の難しさであり、そうした人を堂々と出しては真正面から突っ込み改めさせることはせず、とりあえず「それが球団経営を圧迫してきたことは事実」と書きながらも、すぐさま「意思の疎通において順調ではなくなり、DeNAに経営が代わっても、関係は改善されていないもよう」と続けてその人物の頑なさを脇へとおいて、球団の側へと責任を投げている。意志の疎通ってそれは相手に譲歩なり理解の態度があってこそ。それがまるでなかいように見える状況でどんな意志疎通が図れるというのか。そこへの想像力を欠いて書く、あるいは知っていて見ないふりをする筆はやっぱりどうにも気色悪い。

 さらにさらに「球団が出て行って(収入が減っても)スタジアムはまったく心配ない。横浜市と横浜市民に球場を返せばいい。球団の契約問題も解消する」という、その言説を一切の検証も検討もせずにストレートに載せてしまえる書き手の神経が分からない。アパートだって何だって、店子が出ていった時に大家がすべきことは新しい店子を確保して収益を確保して経営を維持すること。それが施設を任された経営者がすべき最大限のことであるにもかかわらず、そうした努力などまるで知らぬといった風情で施設を放り投げるとこのコメントでは言っている。もう確かに確実に言っている。そこに場所を守る気概も責任もありはしない。

 あくまでも例えだけれど、的屋が先祖の代から任された高街が、あまりの上納金の高さに商売が立ちゆかないと屋台から避けられるようになり、もう少し安くしてくれれば出ますといわれた時、それなら結構だから出なくて良いよと強がって、言い張ることまではまだ分かる。それでもだったらお上に高街の仕切りを返上しますからあとは勝手になんてことを言って、それで的屋の面子は守れるか。はいつくばっても血汗を流してでも先祖伝来の場所を守り育んでいこうってのが当然の姿。そうした男気がまるで感じられない口調にはどこか違和感が漂うし、そうした部分を突っ込もうとしない筆の曖昧さにも不思議さが漂う。

 まず結論ありきでDeNAはけしからん。そのためにあらゆる言葉を重ねてはみても、それが意味するところへの想像、周囲からどう見られるかということへの想像が及んでいない言説と報道が、招く事態ってのはなるほど真っ当なジャーナリズムの衰退であり、スポーツ界の興隆だったりすることを、そろそろ悟った方が良いんだろうけれどもすでにもう遅いのかもしれないなあ。現実に紙は衰え人の関心は離れていくばかりだし。個人的には新潟にあるハードオフスタジアムってところの美麗さとアクセスの良さからさっさと移転しまうのが良いと思うんだけれど、これ幸いと踏み切るか否か。それを決断させるための記事化だったとしたら偉いんだけれどさてはて。


【12月6日】 呼ばれたんで渋谷のパルコパート3まで行って「パワーパフ ガールズ」のミニショップを見物。っていうか超人気のキャラクターでショップに行けばいつだってグッズもぬいぐるみも山積みかと思っていたら、日本に上陸してから10周年を記念してマーチャンダイジング展開が始まるまで、そうしたグッズってほとんど店頭に並んでいなかった模様。それをこの機会に大きく展開していこうってのが、版権を持ってるカートゥーンネットワークの戦略みたいで、場所も渋谷っていう女の子とかいっぱい集まりそうな場所で、女の子が喜びそうなカワイイ系キャラとして広めていこうって感じみたい。

 なるほど性格はヒネてて暴れん坊でもあったりするけど見た目の可愛らしさは女性向け。なおかつ昔と違ってアメリカンなカートゥーン風のキャラへの違和感も、ぐっと少なくなっているだろうから普通に受け入れ愛でてくれるってことなんだろー。あの「スポンジボブ」がカワイくってキモいキャラの代表格として闊歩しているくらいだし。あと会場ではアーティストの人がパワパフキャラをモチーフにして描いたイラストを元にしたiPhoneケースとかTシャツなんかも販売中。これのどどおがパワパフなんだ、って美少女3人のキャラもいたりする一方で、コレジャナイ感たっぷりなパワパフもいたりするけれどもそーやって、イジられ親しまれる中で広まっていけばこれからの10年、さらに10年を抜けられるキャラになていくんじゃなかろーか。そういや東映アニメーションが作った日本版パワパフはどーなった?

 マッチョマッチョスパマッチョ。せっかくだからとパルコの横にあるスパマッチョでもって今日はナポリタンではなくってミートソースを食べる。なるほどナポリタンでもケチャップというよりトマトソースを使った本格的なのを作って、秋葉原とか池袋にあるナポリタンの店の日本的デカ盛りスパとは一線を画したメニューを出していたけれど、ミートソースでもしっかり作り込んだ感じの上品さ。肉がたっぷりはいって濃い秋葉原池袋系な店の食べ応えも悪くはないけど、胃もたれ気味な年の瀬にはこのくらいでちょうどよかったかもしれない。味はなかなかでちょい甘め。それに厚切りベーコンを乗せて一丁上がり。思い出したのは高田馬場にあるナポリタンの店にもはいったことだけれどあんまり繁盛してなかったのは時間帯のせいかそれともどこか半端なためか。東京チカラめしの系列なだけに期待したんだがなあ。いずれ再戦。

 今日からだったっけ明日からだったけと迷っていった西武池袋の樹なつみさんの展覧会は明日からだった模様。その足で新刊を眺めに池袋ジュンク堂に寄ると何と日本SF大賞とそして日本SF評論賞の受賞会見って奴をジュンク堂がトークセッションをやってる4階のカフェで11日に開くとの告知。それも一般からの参加も有料ながら受け付けるといったものでこりゃあのぞいておかなくっちゃと申し込む。偉い偉い文芸記者なら自然と案内の告知が回って来場が呼びかけられるだろうし、SF作家クラブの関係者ならそうした情報も回ってくるんだろうけれども、どちらとも関わりがない人間にとって現場で見るのが唯一の情報。足で歩くのもこういうことがあるから止める訳にはいかないのだ。

 SF作家が大勢所属しているだろうとは想像できても日本SF作家クラブの人がいったいどーゆー人なのか、ってことを一般人は多分あんまり知ってない。というかそもそもそういう機会なんてない訳で、それが公衆の面前に姿を現すとあっていったい、どんな形をしているのかに一般からの目が向きそう。のた魚を引きずって歩いているのか、襟にホシヅルの徽章が飾られているのか、会う人ごとにバルカンサインをしながら「長寿と繁栄を」といってあいさつするのか、歩くときも足は動かさないで中空に浮かんでスーッと移動するのか、触手は何本生えているのか、言葉は通じるのか等々、SFに抱きがちなイメージを抱いた大勢の人が見る日本SF作家クラブのその真実! 僕も多くは知らないだけにちょっと興味がある。きっとみんな楽屋で人間の皮を被って現れるんだ。それどこの「V」だ。

 トークセッションではもちろん大賞と評論賞の発表があって受賞者も登場するってことらしいのできっと「魔法少女まどか☆マギカ」が受賞してキュウベェが「わけがわからないよ」と言ってくれると信じたい。あと「日本SF作家クラブ50周年記念プロジェクトについて説明」ってコーナーもあるみたいだけれども何をやるんだろう50周年。ロケットでも飛ばすか南極の下にあるという地下世界へと探検隊を派遣するか。そういった荒唐無稽なことではなく、会長になった瀬名秀明さんらしいSFがリアルな社会においてどれだけの意味を持ち得るか、役目を果たし得るかを考え検証し実行するような、動きのあるものになるのかもしれない。ともあれ期待。でも取材で呼ばれていく訳じゃないから突っ込まず遠くから眺めるだけにしよう。

 1981年くらいから「POPEYE」を読み始めてだいたい大学を出る1988年くらいまで読んでいたんだけれどその間の雑誌の激変ぶりっていったらそれこそ恐竜が死に絶え人類までも死に絶えるような変化ぶり。それでいて現在もなお雑誌として続いていたりするのは何だろう、ブランドの強さが残っているからなのか、当時とは違うユーザ層を見つけてそこにしっかり情報を送り込んでいるからなのか。仲俣暁生さんが「再起動せよと雑誌はいう」で高揚期から興隆を経た熟覧期と位置づける1985年あたりまで、「POPEYE」はアメリカの西海岸を大きな中心にしながら東海岸に日本に世界といった各地のカルチャーを物とか文化とかスポーツとかファッションなんかを通して見せつつ、膨大な量の細かい文章によって現代の日本のカルチャーって奴を引っ張り出しては世に示してた。

 ネットなんてない時代にそうやって月に2回、紹介されるコラムこそが社会に開いた窓であり、そこから得られた情報を金科玉条とは言い過ぎだけれど大きな指針として学び、今に至る心理の根底としている人は多分少なくないだろう。それは時には教条主義的になりがちだけれど、それでも今に至るまで廃れないのはやっぱり土台がしっかりしたものばかりが紹介されていたから。先取りしつつ未来を示したそれらに時代が追いついて、その中で僕たちは今を享受している。けれども1980年代後半から、「POPEYE」はファッションを紹介する雑誌となって時代に沿うようになってそれは今に通じる根底とならず、フローな読者を得ては離して小さくまとまってしまっている。ならば昔のようなギュッと詰まったコラムと記事がもてはやされるかというと、それらを求める他の媒体もある以上、それらが乗せられた雑誌を大勢が買い、その収益でより広範囲な情報を集めて紹介するサイクルが出来にくい。あの栄光はだから昔の輝き。それを知って育った世代であり自分をだから、大切にしていこう。


【12月5日】 「モンスターコレクション」ならモンスターをコレクションするゲームだって分かるし「ドラゴンコレクション」だってドラゴンを集めるゲームだってすぐ分かる。「ドラゴンクエスト」はドラゴンをクエストするゲーム。名は体を表すって言葉のとおりにゲームのタイトルはだいたいがそのゲームの内容を示しているはずなんだけれどもスクウェア・エニックスがヤフーと組んで始めることになった「モンスタードラゴン」ってゲームはいったいモンスターをどうするのか、ドラゴンがどうなるのかがそのタイトルを見ただけではさっぱり分からない。

 それともドラゴンはモンスターだぜ、ってことを言いたいだけのタイトルでないようはそんなモンスターのドラゴンを集めるなり戦ったり集めて戦ったりするのかと思ったらどうやら違ってドラゴンを使ってモンスターを倒していくような、そんなゲームだったような気がしたりしなかったり。プレー画面を見せてのプレゼンテーションとかがあんまりなくってどーゆー性質なのかが分からなかったベルファーレならぬニコファーレでの発表会。あれだけのLEDディスプレーをそなえた会場でデモの1発でもすれば理解が及んだはずなんだけれどもっぱら目はアッキーナこと南明奈さんへと向かいトータルテンボスのアフロに向かいペナルティの毛深い方へと向かっていったり。結局のところはどーなのか。それはプレーして感じよう。評判よければやってみるか。携帯じゃなくブラウザで出来るゲームみたいだし。

   なんで猫なのかといえばますむらひろしさんが猫で描いていたからだってこともあったけれども、杉井ギサブロー監督による映画「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」が猫になったのは、それより以前からずっと映画として描きたいと考えながらも人間を主人公にしては描けない、それは賢治がこの「銀河鉄道の夜」という物語を10年ほどかけて推敲に推敲を重ねた結果、どんとんと抽象化されているってことがあってそんな抽象化された物語を、人間という具体的過ぎる姿で描けないという理由があったからなんだけれど、そんな時に刊行されたますむらひろしさんの猫による「銀河鉄道の夜」に、これがあったと食いつきこれを原作に描いていこうって思い至って、そしてあの映画の形になった。

 つまりは猫であるという理由がしっかりあった訳だけれどもそれに対して柳川喜弘さんが描いた「ばいばい、にぃに。 〜猫と機関車〜」(小学館)でキャラクターが猫である理由はいったい何だろう、って考えるとやっぱり浮かぶのは苛烈で残酷でもあるドラマをそれでも人に感じてもらえるように描くには、優しさと親しみやすさを持った猫というインタフェースを通す必要があったってことになるんだろうか。かつて機関車と綽名され前にひたすら出るボクシングスタイルで勝利を重ね、人気を博した弐戸というボクサーがいたけれど、万引しようとした少年を諌めようとして膝を刺されてそれが原因でリングに立てなくなって引退し、今は廃品の雑誌を集めてはならべて売って糊口をしのいでる。

 かつて一緒についてあるいていた弟がいながらも、病気になって失ってしまった過去からどうにか再起して、ボクサーになりながら怪我でその道も断たれて未来を得ず、茫洋といきていた弐戸だったが、ある日立ち寄ったコンビニで注意に出てきた青年が、死んだ弟の次郎にそっくりだと気づき、なおかつ青年がボクシングをやっていると知ってつきまとい、教えるようとする。その青年こそがかつて弐戸を刺し、再起不能に追い込んだ少年だったが、そのことを弐戸は知っているのかいないのか、不明ながらも熱心にボクシングを教え込もうとし、そんな姿に青年は自分ことを告げられないまま、どこか後悔を引きずりながらボクシングを続けている。

 「あしたのジョー」とか「タイガーマスク」の時代に戻ったかのような骨太で泥臭い物語。それを激画調に描けばそれなりに読ませる物語になるんだろうけれど、キャラクターが猫になていることでどこか親しみやすさが浮かび、個々が持つ刺々しさが引っ込んでおだやかで優しい空気がそこに生まれる。もちろんストーリー自体は青年が八百長を申し込まれながらも、ボクサーでありたいとそれを断って暴力団につけねらわれるようなシリアスさを濃くして進んでいくし、そんな企みを知ってかけつけ青年を守り傷つく弐戸というドラマも繰り広げられる。人間だったら泥と血と汗にまみれた話となりそうなところが猫を被せることによってぐっと身に沿ってきて、深いところまで読み込めそうなそんな気にさせられる。そういう考えが正しいのかは分からないけれども、読んで意味あるキャラの形だと考えつつ、真意を探りつつ得られるドラマの感動に浸ろう。

 ネシンバラにとってほとんど最大の見せ場ともいえそうな武蔵勢によるホライゾン奪還の総指揮時の演説で、ちらっとシルエットで映ったあれはやっぱり英国のトランプの1人で小説家として活躍しているトマス・シェイクスピアだろーか。特徴のある耳とか眼鏡が見えなかったんで分からなかったけれどもまあ、いずれだれかが解析してくれるだろー。そしてそんな演説を受けて始まった進軍で、期待たっぷりだったアデーレの機動殻が初雄目見え。まあ原作本では太陽王の攻撃から逃げようとしてトーリと一緒に突っ走る場面が章の扉絵として描かれているから、どんな形をしているかは分かっていたけど改めて見るとその立派に頑丈そうな形にこれは砲弾だって打ち抜けないって理解もできる。浅間のズドンだったらどーだったかは分からないけれど。

 何しろ浅間のズドンは重力制御によって生みだした防御壁の何枚重ねでもはじき飛ばせなかった流体砲をうち消した上に残った矢でもって砲身を船ごとぶちこわす威力。専守防衛が旨とはいいながらもその威力が外に向かった時に起こる凄まじさをもってすれば「ズドン巫女」だの「狙撃巫女」と浅間が呼ばれるのもよく分かる。あるいは「砲撃巫女」「破壊巫女」と呼ばれたって存分だ。そんな浅間の発射シークエンスも格好良かったけれどもマルガとマルゴットによるツヴァイフローレン登場シーンも格好良かった「境界線上のホライゾン」。魔女っ娘アニメーションみたく変身シーンもあったけれどもそれよりやっぱり2人が組んで飛翔し強大な武神を相手に戦い抜き、敗れそうになりながらも立ち直って破壊へと至るそのプロセスが、最高に動く格好いい絵とともに映像化されてた。これを見たらもうブルーレイディスク、買うしかないよねやっぱりさ。

 そして戦場ではアデーレを軽々と持ち上げてしまうペルソナ君のパワーぶりに目がいきながらも相手は強敵。数と力で押してくるところに叫んだトーリの助けてを、受けていよいよ現れたのが直政とミトツダイラの第6特務に第5特務の2人。先陣を切らせず窮地の場面で叩き込んで戦況を逆転させようとする戦いが、いよいよもって描かれる来週に注目。直政の胸が地摺朱雀の挙動もろともに揺れるシーンとか、チェーンを振り回して動き回りながらもミトツダイラの胸がかすりとも揺れないシーンとか。アデーレは機動殻ん中なんでどうでも揺れても見えません。揺れないけど。予告からすると本多・正純と教皇総長とのバトルとか、ガリレオとノリキとの殴り合いにも至るのかな。それから立花・宗茂と本多・二代との戦いがあってそしてトーリとホライゾンの対話へと至るクライマックス。劇場で見ようぜイベントもあるみたいだけれどもさて、どーするか、家で待つか劇場で叫ぶか。

 MF文庫Jと間違えそうな色をした帯が巻かれた講談社ラノベ文庫から、ベテランの榊一郎さんによる「アウトブレイク・カンパニー 萌える侵略者」を読んだら萌えで異世界染めようぜ的コメディに見せた、文化侵略しちまおうぜそりゃダメだ戦うぞ踏みつぶせ困ったなあ的シチュエーションを含む芯はシリアスな物語だった。これが新人賞だったら現地の人ったいが萌えに染まっていく過程を描きつつ、現実世界で普通の人が萌えに転んでいく姿をそこに見させておかしみを誘おうとするところなんだろうけれど、ベテランだけあってそうしたテンプレートに乗せたフォーマットで突き進むようなことはせず、ひねりを入れて文化侵略というテーマを乗せてくるあたりは流石、タイトルからして「アウトブレイク」だし。とはいえ読者の方はといえば、テンプレートの大げさ化に慣れてバリエーション化に血道を上げる傾向がやや増し。そうした読者に榊さんのリアルが通じるか。それが後々のライトノベルの方向を伺わせそう。要注目。


【12月4日】 天気も良いんで脳でも鍛えるかと東京と現代美術館まで行って「建築、アートがつくりだす新しい環境 これからの”感じ”」って展覧会を見る。建築なのかオブジェなのか分からない作品も多々あったなかで最初にちらりと模型を見て、そして最後にヴィム・ベンダースが撮った映像を見て妹島和世+西沢立衛/SANAAによる「ロレックス・ラーニングセンター」って奴に興味を抱く。平面のところどころと上下に引っ張ったり下げたりした隙間に作られた空間は、当然ながら床は起伏し天井も波打っているけれど、そんな空間を歩き居る人たちはたぶん常に上下を意識し左右を意識し平板な空間にいる虚無的な感じを、味わわなくて済むだろう。

 荒川修作とマドリン・キンドが養老天命反転地で作り三鷹天命反転住宅で作り上げた意識する空間とも重なる提案だけれど、あそこまで使う人に苦労は強いず、かといって丘を登り坂を下る楽しさって奴を感じさせるようにしてあるところが実用的でかつ先鋭的。間仕切りはせずともその起伏が空間を規定し居場所を定めて使う人たちの気分を変える効果を出し、移動する時もただ横にスライドするのではない、旅をして気持ちを切り替え意を新たな意させるような感覚を与える。なるほど。しかしやっぱり机とかある場所は平面を作らなくっちゃならない訳で、それを実際の建築のときにどうやったのか興味あるなあ。ぐにゃぐにゃに引きずられるとどうしてもずれるものだから。ヴェンダースの映像では途中に出てくる青いカットソーの女性の胸に目が。仕方がないよな。やっぱりな。

 続いて回った「Berlin2000−2011 ゼロ年代のベルリン」って展覧会では入ってその奥に演劇的な空間があってそんな舞台の裏側で、サイモン・フジワラって男が白人の中年俳優を相手に演劇のシナリオを説明している映像を見せられる。何でもルーツを探して日本に行って父親と出会い陶器を一緒に作る中で再開を果たしつつ離別へと至る過程を描く舞台だそうで、そのクライマックスにはバーナード・リーチ作の陶器を金槌で叩き割るっていうパフォーマンスがついてくる。

 呼ばれた俳優は父親役をやることと、それが陶器を作りながらの会話になることを、どこか小馬鹿にしている雰囲気があったんだけれど、偉いバーナード・リーチ作の陶器を割るんだと言われて困惑し、そして一緒になって割ったあとでしばし呆然とする場面でとりあえず映像は終了する。もちろんそれ事態が一種の虚構の上に成り立った、人の心の揺れ動く様を描いたものなんだろうけれどもそれを描くために舞台を作り映像を撮り陶器もならべる大仰さに、アートって奴の持つ大変さを見たりもした次第。これって実際に舞台にかけられたのかな。でもって割られたバーナード・リーチの陶器は本物だったのかな。

 フィル・コリンズっていうからてっきりジェネシスのドラマーでソロでも活躍している禿げたおっさんかと思ったかというとまあ、同姓同名のアーティストがいるんだなあと理解してスルーしたそのフィル・コリンズは、パンクだかネオナチだかな雰囲気をもったスキンヘッドの若者たちが荒れた場に集い群れて喧嘩する映像なかを流してたけどそれが実はマレーシアでの出来事だって説明があって、そのタイトルが示す「スタイルの意味」そのままのことを考えさせられた。でも日本にはあんまり来なかったなあスキンヘッド族。やっぱり坊 もっとも目を引きつけられたのがオマー・ファストの「キャスティング」って作品で映像なんだけれどもスクリーンを4枚、用意して手前に2枚、その裏側を使って2枚の画面に4つの映像を同時に投射しながら裏側でインタビューイが米兵へのインタビューを行っている様子を片方にたぶん聞き手、もう片方に米兵を置いてドキュメンタリー風に撮りつつ表側ではその話を元にした再現ドラマめいたものを、上映してみせて語られる世界がおれだけ奇妙でシュールで歪んでいるかを目の当たりにさせる。

 何がどう歪んでいるかっていうのはつまり米兵が語る話が2つの場面を同じことのように錯綜させ入り組ませたようになっているからで、ひとつはドイツで赤毛の美女に出合って誘われ家にいって全身の自傷痕を見せられつつ飲みに行ってそこから車で送られる話なんだけれどもそれが途中でおそらくはイラクかどこかの街道を、ハンヴィーって米兵が移動に使う車両で突っ走ってて途中でチャドルか何かを被った女性や家族から手を振られる話になったり、近づいてくる車両に銃を向けて撃って無関係の民間人を射殺してしまう話になったりしていったい、何が事実で何が幻想なのかを分からなくしていたりする。

 それが本当に語る米兵の上で一つの地続きの出来事として記憶されてて、イラクでの苛烈な経験がドイツでの不思議な一夜の経験にすり替わってしまっているのかそれとも、ドイツでもあった不思議な経験がイラクでのより強烈な経験によって引っ張り出され、混ぜ合わせているのかというと、どうもそれぞれが別の話として語られながら、編集によってひとつの話につなぎ合わされ、そして再現ドラマで入れ子のような映像にされて見る人に混乱を幻惑をもたらすようにしているらしい。ならばどうしてそうしたのかというと多分、人の記憶の混濁は実際に起こり得ることで、それが後に事実めいた話として伝えられる可能性を、示したかったからなのかもしれない。

 日本でも戦場という強烈な体験を経た武士が、落ち武者として逃げ延びる途中であやかしと出合い命からがら逃げ出すような、そんな伝承があったりする。案外にそれも混乱した記憶が後につなぎ合わされ、さもあったこととして語られた結果なのかもしれない。ともあれ引きつけられる映像。表の再現ドラマを見て裏のインタビュー風景を見てそして表に戻る面倒さはあるけれど、なあにインタビューは基本的に代わらないんでそれがあるなと思いつつ、表のドラマを見ていればだいだい分かる。あと自傷跡を見せる場面で女性がカットソーをまくりあげ、肌とか下着を見せる場面がやっぱり目を刺す貫く。それにしか目がいかないってのも問題だけれど、でも仕方がない、男の子なんだから。

MOTアニュアルでは最後の部屋に浅井裕介さんって人の大きな絵があって何でも水と土から描いた画だとかで様々な段階を持った茶とか赤とかが白の上に塗られていて、それでもって動物とか自然なんかを描き出す。画材も原始的なモチーフもどこかプリミティブ。神話的というか寓話的な画面から感じられるネイチャーな優しさってものを、見ているを感じられその世界へと吸い込まれていくような感覚になる。良い絵。何でもライブペイティングもやっているそうで製作途中の1枚が掲げてあったけれどもこれ、完成まで持っていけるのかな。

 そんな浅井さんの絵の、どこか懐かしい雰囲気に、何だろうと思ってそうかミティラー画だと思い至って置いてあったパンフレットを手に取って、開いてプロフィルを読むとそこにやっぱりインドのミティラー画から影響を受けているって書いてあった。何でも横浜トリエンナーレに登場していたミティラー画を見たのがきっかけとかあったそうで、そんなの出てたっけって記憶を掘り起こしても浮かばないけど、ミティラー画についてはそれ以前の、夢枕獏さんが「上弦の月を食べる獅子」を描いた時にタイトルの大元になったガンガー・ティーヴィーが描いたミティラー画のことを紹介していて、そのどこか幻想的で民俗的な雰囲気に、とても興味を引かれたっけ。

 でもっていつか見たいと思っていた矢先、渋谷にある「たばこと塩の博物館」なんかがミティラー画の展覧会を開いたんで見に行ったらそこに来ていた絵描きの人が土みたいな顔料を画材にして、細い線を引いて何か絵を描いている姿があったっけ。展示の方でも「上限の月を食べる獅子」を始め、そのプリミティブなんだけれども繊細な描き方、素朴なんだけれど奥深い画材の凄さに触れて、日本画とか西洋画とか水墨画といった範疇に収まらない、というか収まるはずのない世界の国々のそれぞれが持ってる、絵画って表現の幅広さ奥深さを、強く感じさせられた。それを思い出させてくれた浅井さんの絵。見ておくと良いかも。そういや最近、ミティラー画の展覧会って見てないなあ。新潟のミティラー美術館の運営もも再開されたみたいだし、季節が良くなったらたずねてみるか。


【12月3日】 123、123、と何回言ってもプレイステーションは出てこない朝。寒さで手がかじかむ中で読書でもしようと取り出した、講談社ラノベ文庫の帯が緑と黄色でまるでMF文庫Jじゃねーかと思ったりした人の数が、おそらく世界に3億人はいるだろうと確信しつつ、そんな中からメジャーな人の作品をまずは読了。「神様のメモ帳」(電撃文庫)でちょっとしたミステリーを描いている杉井光さんがこっちではちゃんと学園を舞台に描いた「生徒会探偵キリカ1」は、マンモス校で生徒会予算が8億円もあるんだけれどもそれを管理している生徒会でも会計の少女が実は探偵でもあったという話。

 でもって高校からの編入生で周囲にあんまり友達を見つけられなかった主人公の少年が、どういう経緯からか生徒会に目をかけられ豪傑無双で美少女の会長に外国人みたな容貌の副会長、そして受業にも出ず会計の部屋に閉じこもってはパソコンを使い学校中の情報をしらべて的確に予算配分をする会計の少女しかいない生徒会で下働きの仕事を始める。もちろん引っ張り込まれたのには訳があったんだけれどそれは別に少年が何かに長けていたって感じばかりではないところがひとつのポイント。つまりは妙な縁が働いた訳だけれども後になってそんな縁すら超えるひとつの可能性って奴が示されるところが、よくあるハーレム展開ダベリ系な話とは違っているところか。成長があり発見がある。読んでそこが気持ちに残る。

 解決される事件そのものは他愛がなくって寮に置いてあった金の入った封筒が消えてしまって少年に嫌疑がかけられるとか、学校の中から22万円入りの封筒が発見されてどこかの部活の予算なのかそれにしては計算が合わないおかしいといった状況の向こう側にある人の優しい気持ちを引っ張り出すといった展開。手がかりが示されそれをもとに解いていけるようにはなってないけど言われてみればな感じはあるからミステリとして楽しめないこともない、かな。探偵役のキリカの父親のキャラクターが突拍子もなくってそんなんでよく普通に社長みたいなことやってられるなあとか思ったけれども興奮すると諌める優秀で美人な秘書もいるから大丈夫なのかも。有能で冷徹で眼鏡の秘書だもの。そりゃ最強だってばよ。

 超寒くって雨だって降りしきる中でもはや昇格争いすら無関係なチームを応援する気なんてほとんど失せていたけどそれでもやっぱり最後くらいは看取りたいとフクダ電子アリーナへと行ってジェフユナイテッド市原・千葉と水戸ホーリーホックとの試合を見物。最近頭が「境界線上のホライゾン」に侵されててこの2チームも地理の上から考えると房総の里見と水戸の松平との戦いで、それはだから里見義康とネイト・ミトツダイラとの貧乳対決だってことになるけどそれをスポーツでやられても、揺れないのを見せられて喜ぶようなタイプでもないのでちょっと遠慮したいところか。いやそういうのが好みな人もいないでもないだろうけれど。ちなみにジェフ千葉のマークには八房ならぬ犬がいて水戸ホーリーホックのマークには三つ葉葵が。ホライゾン準えもあながち間違ってないのかも。

 でもって試合は今までを半生したのか最終ラインを高く上げつつ中盤からアタックをしかけるようになって動きに自在さが戻ってきた様子。サイド攻撃も幾度となく成功していてこれがシーズン中にちゃんと出来ていればもっと勝てただろうにとは思うけれども、中央で目印になるオーロイ選手が怪我で離脱したあとのそこに入れる人材がいない中で、サイドをえぐって入れても機能しないのは今日の久保祐一選手を見ても分かること。もっと人数を中央にかけられるくらいに走れないとその攻撃も意味を持たない。だからこそ走れる選手、飛び込める選手の育成が必要になってくるんだろうけれどもそいういうことを出来るのか。誰が監督をするのか。誰が残って誰が入ってくるのか。それが見えないうちはちょっとシーチケ、買えないなあ。

 ともあれ最終戦は勝利でもってとりあえず終了。大きくポイントも離された中で言い訳のきかないシーズンになってしまったけれど、それでもチームはまだ続き、シーズはまたやってくる。同じようにJ2に落ちながら柏レイソルは1シーズンではい上がってそして2年目でJ1で優勝を遂げる快進撃。この差はいったいどこに出たのか。それを突き詰めることをしないと来年も同じことを繰り返す。やっぱり監督。そして選手。それがようやく分かって来てくれたと信じたいけど果たして。まあとりあえず天皇杯も残っているんでそこに向けて必死になっていこう。その頑張りで来年のシーチケが2割増える、かもしれない。

 とって返して中野まで言って「CGアニカップ」ってイベントを見物。CGアニメコンテストで賞をとるような日本の短編アニメーション作品と、外国の優れた短編アニメーション作品を柔道みたく対戦させていって勝敗を決めるイベントで、過去に京都で何度か開かれてたみたいだけれどもそれのエキシビションみたいな対戦が東京でもあるってことで見に行ったら前哨戦にあたる部分で予定されてた「やさしいマーチ」の上映がすっとんでた。残念。あれをまたデカい画面で見たかったのに。でも「ロボと少女(仮)」とか「赤ずきんと健康」とか見られたんでいいか。「赤ずきんと健康」は声とか酷いし歌も適当だけれど展開と、あと絵のセンスに光るものがありまくった。あの絵、あのパース、あのレイアウトは天才だ。

 そして本番。なんだこれは。まるで立ち位置が違い目指す場所も違う人たちが同じ土俵に上がって競い合うってことの不思議さを目の当たりにした感じ。それは「作ってみました」とニコニコ動画とかに挙げられる作品と、アカデミー賞とか映画祭とかの短編アニメーション部門にノミネートされるような作品との違いといっても決して大げさじゃないくらい。もちろニコ動にはニコ動なりの面白さがあるし楽しさがあるけれど、それが持つ素晴らしさは、アカデミー賞の持つ素晴らしさと同じ尺度ではちょっとはかれない。そして世界の権威に知られ認められるのはアカデミー賞の側となると日本が笑いと雰囲気に傾斜しそこで楽しさを探求していっても、世界の権威が認めそういうのがなければ報じたり紹介できないメディアの俎上にも乗ってこないまま、ガラパゴスみたいになってしまうんじゃないのか、って心配がふと浮かぶ。

 まあCGアニメコンテストがそういうアマチュアリズムの空気、お笑いのニュアンスを尊ぶ傾向のあるイベントだからそうなるのもあるいは当然で、一方にICAFみたいな場で学生たちがアニメーションを競い合ったりする場もあり、そうした中からアカデミー賞とか映画祭が好みそうなアート系といわれるアニメーションも生まれているで良いんだけれど、だったらそういうのと対戦をさせることによってフランスが持つ高い技術と思想性を、日本に受け入れ広める一方で日本の力をフランスに見せつける役割も、果たせるような気もしないでもない。ミスマッチの中でホームグラウンド的作品に評を寄せて勝利を重ねてもそれはやっぱり届かない。その意味で今回、始めて敗れたのもひとつの教訓になったんじゃなかろーか。

 しかし凄かったフランス側。O・ヘンリの短編をもとにした「最後の一葉」なんて完璧なまでの文芸作品。それだけに遊びもなく目新しさもなかったんだけれど、商業作品とっして通用するクオリティでこれに評が集まったのも仕方がない。とはいえ対抗した野山映さんの「ひとりの部屋」も、日本側から出た作品ではほとんど唯一といた感じのアート寄り。そして幻想的でオリジナリティもあって僕はこちらが買ったと思ったんだけれど審査員は6人とも「最後の一葉」に入れた。あの技術力に打ちのめされてしまったのかな。むしろ「チェルノブキッズ」とか「モビール」の方が、圧倒的に日本を下しても不思議はなかった印象。もそれだけでアカデミー賞にノミネートされてたっておかしくない作品だったし。そんなフランスを相手に「フルーティ侍」はよく頑張った。相手が1分と短い上に、もろディズニーで手塚な雰囲気のアニメを出してきたのが良かったのかも。当たり前過ぎて物足りないのと楽しくってそれなりに高いクオリティ。後者が買っても不思議はないか。いやあおめでとう。そしてこれからも頑張って。


【12月2日】 「やったよ諸君、ついに僕の書いたライトノベルが映画化だ。主演じゃないけど共演にあの竹達彩奈さんが顔出しで出演してくれるんだ。これであの竹達さんとお友達だヒャッホー」「ふーんだ、僕なんてあの大泉洋さんとそしてそして芦田愛菜ちゃんが共演なんだぜ、人気俳優に人気子役、スゲえだろう?」「まてまてまて、僕のは出演がカルピスウォーターの川島海荷さんな上に、戸松瑶さんも宮野真守さんもカメオ出演してて、そして監督があのヤマカンこと山本寛さん。話題撃盛りでヒット間違いなし! ヒュー!!」「僕だってこれから期待の染谷将太さんが大政絢さんと共演だよ、話題性なら負けてないよ」。

 「みんないいなあ、僕のライトノベルもやっと実写映画化が決まったんだけれど、そんな美少女とか若くて人気の女優とかが主演って感じじゃないみたいなんだ。なんか聞いたところによると齢は来年で50歳。もう中年も中年で、おまけに妻帯者で子供とかもいて離婚歴だってあるんだって。男のライトノベル読みからはなんてリア充だって毛嫌いされそうだし、女性のライトノベル読みからだって無視さるんじゃないかなあ。あと妙な宗教にハマってるって噂もあるし、何より背が低いんだ。とてもじゃないけどライトノベルが好きな人に当たりそうもないよ」「「「「可哀想だなあ。んで誰なの、そいつ?」」」」「トム・クルーズとか言う人だって」「「「「ぎゃふん」」」」。

 という訳で桜坂洋さんの「ALL YOU NEED IS KILL」の主演がトム・クルーズに決まりそうだとか。あらゆるライトノベルの実写映画化を吹っ飛ばして君臨しそう。まさかここまでやって来るとは。びっくりだけれどあの作品ならそれも当然か。あとはだから「よくわかる現代魔法」の続きとか、「さいたまチェーンソー少女」の続きとか書いてくれれば言うことないんだけれどもトム・クルーズとお友だちではそんなことを軽々しくはいえないのかどうなのか。でも読みたい。でもって「よくわかる現代魔法」を今度はハリウッドで映画化といって欲しい。出演はそうだなダコタ・ファニングとかエマ・ワトソンあたりで。美鎖さんはニコール・キッドマンとか、どう?

 特に予感があったって訳じゃなくってその直前に、「聖闘士星矢」の劇場版を集めたブルーレイボックスが出るってことで声優の古谷徹さんにインタビューしてて記事で書くときに星矢絡みであの美麗なキャラクターを世に送りだし、女性ファンを引きつけブームの大きな要素となった荒木伸吾さんの話も交えつつ「東京アニメアワード功労賞」の場で荒木さんが語った言葉なんかを紹介しようかな、なんて思って檀上に並んだ時に1人、望遠でクローズアップしてお顔を抜いて撮影したけれども結局、その時には記事にはしなくってアワードの功労賞そのものを、「マジンガーZ対暗黒大将軍」を監督した西沢信孝さんの記事の下に這わせる形で掲載して、中に荒木さんの名前も出したんだった。

 それだけでもひとつ、存在を世に伝え動静を知って貰う役には立てたかな、って思っていたら何というかご本人がこの数日の間に急逝されていたとの報。アニメアワードの時の画像をひっぱりだすとお顔にまるでやつれはなくって健康そのもので、話した言葉もしっかりとしてアニメ業界で頑張ってきたが認められたと喜び、辛いことがあっても頑張っていくために必要な目標を見つけようと語り、そして自分もまだまだ描いていくって語ってたいのが、その鋭い眼光ともども強く印象に残った。

 漫画なんかを発表されてて、衰えない活動ぶりにこれまでのこと、これからのことなんかを伺ってみたいと思ったけれども、それがこの急な訃報。すでにいろいろな場所で言葉を残し、何より多くの仕事を残されてそれを見た人が次のムーブメントの中心になっているのを見ればあるいは、やり尽くしたといえるのかもしれないけれどもそれでも、まだまだやれるお歳で実績。だからこそいささかの無念も浮かぶ。今はその手から生まれたジャケットを見ながらBDボックスをながめ、そして池袋で開かれるというグレンダイザーや魔女っ子メグちゃんや80日間世界一周の上映に、かけつけるかどうかの算段をしつつその訃報を噛みしめよう。

 いやあすごい。もうすごい。ただひたすらにすごいとしか言いようがない沢城みゆきさんの「ルパン三世」に置ける峰不二子の声っぷりは聞いてて増山江威子さんの頃とまるで違和感がない上に別に物真似でもなく自然に無理せずその声が響いて耳にとっても心地よい。プチ・キャラットとしてデビューしたころから巧い人だとは思っていたけどその後に男の子もやったり大人もやるようになったりと広がる幅に即して演技の質もぐんぐんぐんと向上。舞台にもたったりして演技の濃さも増す中で声優さんとしてしっかり作り上げた土台の上でキャラクターにぴったりの声を出してくれる、とてつもなく素晴らしい人になった。途中、悩んで演技の勉強もしたっていうからそれはもう本物。この勢いでもって気分としては顔出しの演技もやって欲しいけれどもそこはそれ、声優という仕事への熱情を声に乗せて現す人として活躍していって欲しいと希望。しかしやっぱり凄かった。

 そして山寺宏一さんはまあこれくらいやれて当然? ってそりゃないけれども仕方がない、それが山寺宏一さんなんだから。「フィフスエレメント」でゲイリー・オールドマンとクリス・タッカーのまるで違う2人を同時に演じてみせたりして器用さは十分に招致してたし地声の格好良さも知ってはいたけど、納谷吾郎さんというこれまた格好良さ渋さで群を抜く人が長年演じてきたとっつぁん銭形警部の声を演じる以上はやっぱり違いは見せられない。そこで見せた完璧なその上を行く声っぷり。やっぱり山寺さんも凄かった。五右衛門は井上真樹夫さん以前の大塚周夫さんの声も強く記憶にあるんでどっちに寄るかで井上さん寄りかって印象。巧かった。

 意外だったのは栗田寛一さんのルパン三世でずっとどこか物真似っぽさが漂って表面だけ撫でる感じがして耳に届いてこなかったけれども今回は、にょほほほっって感じのおどけたルパン三世の声ではなくって静かで知性もあってそして優しさも持ったルパン三世を静かに演じていい感じ。山田康夫さんのルパンをより濃く演じるとやっぱりおどけた感じを協調しがちで、それが物真似っぽさを増してしまうんだけれどそうじゃない演技に徹したことが、むしろいい味を感じさせたのかも。同じことはシリアスでリアルなルパンを描こうとしたモンキーパンチ監督による『DED OR ALIVE』でもあったんだけれどその後のスペシャルはことごとく、剽軽なルパンってことになってそこを頑張って物真似っぽさが増してしまったんじゃなかろーか。基本に返り己を見つめ発した声から生まれる真の声。耳でなぞる声音ではなく内面の探求により内から発する声音こそが真に迫る。学びたい。


【12月1日】 芥川賞作家どうしの結婚だっていうからてっきり話題性の超大きなことを期待して同時受賞の超お嬢さまな朝吹真理子さんと超労働者風な西村賢太さんのカップルが誕生か、なんて見たらまるで違ってもう受賞してから結構経つ阿部和重さんと、それから美女は美女だけれども歳もまあ歳な川上未映子さんのカップルだった。どちらも未婚だったのか、それとも既婚が未婚となっていたのかは分からないけれども40代に30代ではまあ悪くはない組み合わせ。そしてお子様もできているとかで幸せになってと面識もまるでない2人に遠くから願ってはみるけれどもそれにつけてもメディアの取り上げ方が「芥川婚」ってなっているのが何というか、芥川賞という純文学ではまあ権威な賞に婚姻という俗をくっつけ熟語にしてしまうそのセンスの雑駁さに、何でもありな現代の完成って奴を見る思い。畏敬が存在しないというか戦きが雲散してしまっているというか。

 でもやっぱり似合わないといえば似合わない。これが例えば太宰治賞を受賞している2人が結婚して「太宰婚」っていうなら何か淫靡で斜陽で落魄で心中な感じが漂ってそれらしい。島田清次郎賞どうしが結婚した「島清婚」だともっと精神的にピリピリとしたものが漂いそう。でも果たしてそういう組み合わせが成り立つのか。ちょっと調べてみたくなる。他の例だと佐藤亜紀さんと佐藤哲也さんとの「ファンタジーノベル婚」ってのがあるのかな。両者の場合もやっぱり受賞してからの結婚だったっけ。藤田宜永さんと小池真理子さんはいっしょになってから共に直木賞を順繰りに受賞した訳だから「直木婚」にはならなかったっけ。でもこれからなら可能性はあるのかな。期待するとしたら小松左京賞の受賞者どうしが結婚して「小松婚」だと世間的に話題になりつつSFの存在感を世に喧伝して欲しいってことがあるんだけれどそれに見合う2人が果たしているかどうか。探すのも億劫なので受賞者の人には頑張って探して見つけてくださいな。

 電撃小説大賞どうしが結婚したところで「電撃婚」ではちょっとあまりに普通過ぎるというか、他と紛れて分からないというか。でも過去に18回くらい開かれていてあれだけの数の受賞者がいて、中には妙齢の女性なんかもいたりする訳でその人たちが結ばれ結婚する、なんてことがあったって不思議じゃないのにあんまり聞かないのはなぜだろう。ライトノベル作家同士の結婚っていったものすらあんまりきかない、っていうかライトノベル作家はそもそも結婚しているのか? うーん悩ましい。表面上では仲が良さそうに見えても内心では「あの人いまだに妹が萌えとか書いてるのいやらしいわね」とか「あいつなんて男は男同士が一緒になることしか考えてないんだ」と思って遠慮していたりするんだろうか。うーん。聞いてみたいけど聞くのも怖いのでライトノベル作家どうして腹のさぐり合いをしてみてやって下さいな。

 あるいは超イケメンの男性ライトノベル作家が「ボクと電撃婚しようよ」って誘ってより大勢の美少女ライトノベル作家を集めるとかするキャンペーンが打たれるとか、考えてみたけれども問題は超イケメンのライトノベル作家の存在を実在とするには情報があまりに乏しいということか。逆に超萌え美少女ライトノベル作家が「あたしと電撃婚しましょ」って誘って男性諸氏がライトノベルを書いて賞に応募し受賞して結婚を夢みるなんてこともありそうだけれど、これも同様に超萌え美少女ライトノベル作家の実在を今ひとつ確認できていないところか。もちろんあったことある作家の人なんて一握りで、今年あたりは授賞式にも呼んでもらえなくなっていたりするケースも出始めているんで確認は不能。だからこそ我こそはって自信を持った超イケメンに超萌え美少女のライトノベル作家には、そういうアピールで作家志望者を引っ張ってライトノベルの隆盛に繋げていって頂きたいとお願い。

 たぶん15年くらいのつき合いがあるボイジャーの萩野正昭さんが何か発表会をやるってんで表参道にあるアイビーホールへ。それこそエキスパンドブックの時代から電子書籍って奴に取り組んできて幾星霜、代わる代わるに出てくるデバイスに向けていったいどんなフォーマットでもって電子書籍を出したらいいのかを悩み逡巡しこれだと決めてもひっくり返ってどんでんかんでんな様子だったけれどもここにきてひとつの境地に達した模様。それは電子書籍はブラウザで見る。専用のアプリケーションなりデバイスなりを使ってそれにあわせてコンテンツを作り込んで流したところでアプリが依拠するOSが転がったりデバイスが進化したらたちまちやり直し。そこから再び始まる著作物獲得競争と、一方で出したら不安症候群とがせめぎ合ってなかなか普及してこなかった。あるいは普及させようとする意識が出版側にまるでなかったということか。

ようやく全編が紹介できる「虎虎虎」準備稿に黒澤の歴史観を見よ、画コンテに構想した映画の形を浮かべよ  そんな状況に「落胆の一語」と発した萩野さん。「何がいけないのか。読者を蔑ろにしていることだ。読者は電子出版の主役であるはずで、読者自身が創造に加わり、流通に与することができることが電子出版の希望だったのに」と言って版元が抱え込みデバイス側が抱え込んでしまっている状況を嘆く。もちろんそうした方面でもボイジャーの技術が生かされているだけに立場としては悩ましいところだけれども、一方で電子出版をもっと広く普及させたいという思いとはどうしてもズレが出る。そこでだったら自分たちがあらゆるデバイスに、プラットフォームに向けて電子出版が出来るような仕組みを作ればいい、それはブック・イン・ブラウザー、本は須くブラウザで読むべし、ていった考えを敷衍させたものになるって決意から、BinBって仕組みを今回、発表した。

 それだけならまあよくある電子出版絡みのITな発表だった訳だけれども、そうだと思って会場に入って立ってた萩野さんが見せてくれたものにぶったまげた。「虎虎虎」って映画の画コンテ。それもあの黒澤明監督の直筆の。なんだこれは。記憶として映画「トラ!トラ!トラ」の元々の監督に、黒澤明監督が抜擢されていながらも、プロデューサーの判断で降板させられたって話は知っていた。そして当時の資料なんてものはすべて廃棄されたっていったことも何とは成しに知っていたけどそんな映画の画コンテが、そらすぐそこに飾ってある。黒澤監督の直筆ってだけで重要文化財なのに、それが幻の映画の画コンテなんだからもう国宝級。今すぐ国立映像資料博物館に億千万の金額で譲渡され、飾られたって不思議はないものが手の届く場所にある。

 良いのかって思うと同時に、そうしたものに国とかが真っ当な価値を見出さず収蔵せずに散逸させてしまって挙げ句に海外からの高評価で、あわてふためく構図って奴がきっとここにもあるんだろうと思えて泣けてくる。ハリウッドで映画を作るとかほざいていたりするけれど、過去の資産を大切にすることもなしに今をどうにかしようったって、そんなことはお天道様が許さない。そもそもが映画に愛もなく、金しか見ないようなスピリッツだから、こうして国家的な資産が何の警備もなくそこにごろんと飾られていたりする。もう笑うしかない。とはいえ見る人はちゃんと見ている訳で、その貴重さを見知ってこうして現場に運び、なおかつ「虎虎虎」って映画の幻になっていた準備稿って奴を、ボイジャーの新システムから何と無料で公開するって決断をした。素晴らしい。

 聞けばその準備稿、黒澤明監督と小國英雄、菊島隆三という当時の盟友たちが集まって書いたもので、海外の手は一切は言っていないまっさらな黒澤監督たちのシナリオってことになっている。ペラという200字詰めで1000枚もあっていったいどれくらいの時間の映像が、取れるシナリオなんだって話になるけれども、そのこともも凄ければ内容も凄い。真珠湾攻撃へと至らざるを得なかった日本側の事情が克明に描かれ、そしてアメリカ側の状況もちゃんと調べて書かれてあってそれがそのまま公開されたら、アメリカの方からいったいどんな槍が飛んできたものかと思わせるくらいに深くて濃い内容になっている。

 だからこそ降板させられたという話にもなりそうだし、俳優に素人を多く使ったことが問題視されたといった話もあったりするけれど、ともあれ黒澤監督が心血を注いで練り上げ、そして撮影に望みながら無念の中断を余儀なくされた作品の、その原点ともなる準備稿がアメリカの図書館にあって、それを複写して日本に持ち帰って電子書籍にして無料で公開するというからもう驚くより他にない。そして読むより他にない。いったい何が書かれてあって、どういう風に書かれてあってそれは実際の映画となった「トラ!トラ!トラ」とどう違うのか。それが12月8日、奇しくも真珠湾攻撃が行われた日に明らかになる。パソコンをつけ、iPadを立ち上げ、あらゆるブックリーダーを手にしてブラウザを起動させて本が出てくるのを待て。

 しかし黒澤監督、よほどの無念があったと見えて後に作られた「乱」という映画で、これは自分だといった言い方をしてその映画の特別さ、意味深さを語ったと東大院の教授で「虎虎虎」のシナリオ探しを何十年も続けた浜野保樹さんが話してた。それこそ「乱」に出てくる3人の息子たちの名前にいずれも「虎」が入っている。ならべれば「虎虎虎」。そこに「乱」という映画を何かに見立てようとした跡があって、それは何かを探る意味があるという。そう言われると「乱」とか見返したくなって来た。映画館で見たのはいつだったっけ。大学生の時に豊橋の映画館で見たんだったっけ。

 不本意な降板という形で黒澤さんが受けた屈辱は、後に自殺を試みるくらいに心に傷を残したようで、そんな無念さを長く黒澤監督を研究してきた浜野さんも、存分に感じていたのかトークの合間に声が詰まり涙がにじむようなシーンもあったりして、研究者ってものの対象への迫り方のひとつの形を見たような思いもしたけれど、そんな熱意をもってしても、つい2週間前まで、アメリカならぬ日本の武者小路実篤記念館に、当該の「虎虎虎」の準備稿が現物として寄贈されていたことに、気づかなかったというから不思議というか。とはいえ発表の2週間前にちゃんと分かるということも奇縁だし、執念が実った現れ。図書館という限定された場所での資料ではないものが日本にあるというこの利をなにがしかの形で使って一気に、世に出回ってくれると面白いかも。でもここにこうしてBinBで見られるんなら、それはそれで十分。なるほど見たいものがあるからこその電子書籍。当たり前のことが当たり前に行われることの素晴らしさを、今一度噛みしめよう。それをあらゆる出版社は咀嚼し足を踏み出そう。


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