縮刷版2011年1月中旬号


【1月20日】 幾億千もの距離を超え、小さな体で戻ってきながら大気圏で燃え尽き星となったはかなさに、日本中が涙した映画「惑星探査機 はやぶさ」の大ヒットにあやかりたいと、願うのは映画会社として当然のこと。そこで作られた映画「はやぶさ2」を見に行ったら、これがまたなかな面白くって日本のSF映画の到達点として世界にアピールできそう。大気圏突入にも燃え尽きずに地表へと落下してきたカプセルには、小惑星イトカワの表層が粒ながらも入ってはいたんだけれど、そこにこっそりと紛れ込んでいたのが謎の生命体。遺伝子に近いその生命体はJAXAで研究している女性研究員に寄生して肉体をのっとり、チャームの魔力でもって所員たちを次々と籠絡しては相模原に帝国を気づき上げ、女王様として君臨し始めた。

 近づこうにも相手は魔力の持ち主で、やがて及んだ力は政治すら動かし日本どころか世界をも視野に入れた支配への道を歩み始める。もはや人類は屈するしかないのか。そこに舞い降りたのが1枚の凧。遠く金星にて「あかつき」より放たれたソーラーセイル実験機「イカロス」を回収した金星の女王が、地球で怒っている事態に憂慮してお庭番から抜擢したくノ一をソーラーセールに乗せて地球へと送りだし、人類救済へと乗りだした。到着した女性忍者イカロスは、身を網タイツで胸元の大きく開いたミニスカタイプの忍者服で固めて米国へとまず降り立ち、それはそれでそれなりな魅力でヤンキーどもを虜にしてから日本へと到来し、“はやぶさの女王”と対決する。果たして結末は? それは見てのお楽しみだけれど、とにかく痛快なアクションにたっぷりのお色気を楽しめます。嘘だけど。

 渋谷に行く用事があったんでパルコの5階にあってしばらく前にゆうきまさみさんの画業30周年を記念したイベントが開かれていた場所で、今開かれている「荒川アンダーザブリッジ」の展覧会なんかを眺めつつ、新しいグッズが出てないかを探ったらゆうきまさみさんの缶バッジがガチャポンに入っていて、見ると「鉄腕バーディー」なんかがちゃんとあったんで狙って1回回したらゆうきまさみさんのサインと30のロゴが入ったのが出てきた。うーん。でもってまた回したら今度はパトレイバーをバックにした小さい野亜でまた回したら再びゆうきまさみさんのサイン。そして野亜ときて最後に「究極超人あ〜る」の線画の奴。この結果にいったい何をどうすればこうなるんだろうかと前世に何かやってないかを地下1階にいる占い師に聞きに行こうかと瞬間考えた。行かなかったけど。

 ちょっぴり茫然としたんで少しばかり休憩してからまた1回、やったらまたしても線画のあ〜るというこの始末。もう駄目だと諦め陽気になろうと上で明日から始まる楳図かずお先生の画業55周年だかを記念する展覧会の内覧会を見物にいったら、カーテン越しにタマミちゃんやらおろちやらの顔が迫って来て、ゾゾッと背筋が凍った。やっぱり怖いなあ、でっかくおろちが描かれている部屋なんかもあって、その美少女っぷりに楳図さんって漫画家の絵のとてつもない巧さを改めて噛みしめたんだけれど、そんな画力を少女漫画に留まらせず、怪奇漫画へと向かわせたその原動力がいったい何にあったのか。本人がどこまでもとてつもなく陽気なだけに描くものとそれからパーソナリティとの間にある、それがギャップなのか表裏一体として密接したものなのか、調べてみたい気もしてる。本人には分かっているのかなあ。

 グッズも豊富でおろちのフィギュアとかあって白衣バージョンで手にへび少女だか赤ん坊少女だかを抱えている奴とか、可愛かったけれども7000円もすると流石に手が出ない。あと楳図さんがぐわしやってるフィギュアとか。100体くらい並べたら壮観だよなあ。Tシャツもなかなか良さげだったけれどもこれも5000円では……。お金が足りない。年末に下読みった分が入ればあるいは。でもそれだと間に合わないか。うーん。場内では例の楳図ハウスの探訪映像も流れてて、入り口の門扉に透かしでぐわしが入っていたのにはちょっと驚いた。何というこだわり。蛇みたいな玄関とかアルバムジャケットを床と天井で向かい合わせた意匠とか、相当なこだわりが込められている模様。でも外側から見た映像は草木が周囲に茂って例の白と赤のストライプに馴染んでオシャレでシックな雰囲気を醸し出していた。これが派手だって見て誰が思うんだろう? 例の千鳥が淵のイタリア大使館だって今はもう誰も赤いとか言わないもんなあ。騒動は予期せぬ場所から起こるものってことで。

 えっとそれは星虹的ドップラー効果の出現か、それともクリストファー・プリースト的逆転世界の再現か。海がひろがる世界に点在する島から、巨大な空を飛ぶ岩に乗って旅に出た面々が、世界の中心にあって水をごうごうと吹き出す聖泉を乗り越え進んでいった果てに見たもの。それは、世界の終わりからロープで垂れ下がった場所にあった、巨大な錯乱坊の顔ではなく、壁のようなものの向こうへと世界が消えていってしまう様。遠くが虹のように見えるとかいった部分から、あるいは世界自体が亜高速で向かう巨大な宇宙船なのかもってことを思い浮かべたけれども、それだったら後方には遠ざかる宇宙が見えるはずだし、そもそも世界が見えないドームで覆われているような感じはならない。何か科学を当てはめるのは、ちょっと違うような気もしないでもない。

 だいたいが世界の中心からとめどなく水がわき上がっている聖泉の存在を、科学で説明するのが難しい。だからつまり世界はそういうものなんだと、ここはひとまず理解した上で、そんな世界の果てを求める冒険をひとまず終えた面々が、次に実らせるのはとある飛ぶ空士の切ない恋路。カルエルことカール・ラ・イールが立ち上がっては、最愛の彼女、ニナ・ヴェントを取り戻しに、聖泉のある場所へと向かっていったその結果が、どうなったのかを知りたいけれども、そういった説明をしないもの、この物語の優しさって事になるのかな。というわけで犬村小六さんの「とある飛空士の恋歌」は5巻にて完結。居丈高な空族の王子にペラペラと喋らせ、百戦錬磨の外交官をその魅力には抗えないと嘆かせるアーリーメンの恐ろしさを今1度味わいたまえ。味わえないけど。どんな味なんだ。


【1月19日】 なんだか知らないけれども閉店セール真っ直中の石丸ソフト1で、BGMに流れていた「ふわふわりふわふわる」って歌詞の楽曲が耳について離れなくなったんで、これは何だろうと調べてなあんだ「化物語」の「なでこスネイク」でかかっていたオープニングの「恋愛サーキュレーション」だって思い出したけれども、これってブルーレイディスクの初回限定版に付録のCDで入っているから、聞こうと思えばいつでも聴けたはず。けれどもずっと聴いてこなかったところに、買ってもただ貯まっていくだけのDVDやらブルーレイの墓場的惨状に思い至って胸が痛む。いつかまとめて見られる時が来るといいけどそれもなさそう。貧乏暇なし。金もなし。

 けどどうしたら「塵も積もれば大和撫子」を略すと「ちもやな」「ちりやま」とかではなくって「ちりつもやまとなでこ」になるのかが分からない。うん分からないと、1晩悩もうとしてぐっすり眠って起きてさっさと支度をして、向かったのは日本橋にある三越本店。あの中田英寿さんが代表理事をやってる例のTEKE ACTION FOUNDATIONってところが、サッカーとは関係なくって日本の伝統工芸を丹念に巡り歩いてその技術なり、魅力って奴を改めて世に知って貰うにはどうしたらいいかってことを考え立ち上げた「REVALUE NIPPON PROJECT」って奴から生まれた作品の展覧会が始まったんで、いったいどんなものかと見物に行った次第。

 どこか大名行列っぽさが先入観として漂っていた中田さんの旅人生活だけれど、そうした活動でもって日本の伝統工芸をアピールすることが、だったらいったいどれくらいのショーバイになるかというとまるでならないというのが現実。だって、注目されているもにのっかってこそ広がるビジネスな訳で、それが最初はあんまり注目されていないものを、たとえ自分に知名度があるからって、世に知られるくらいに持ち上げようとするとそれなりな負担が発生する。重たい物を持ち上げようとしたら腰を痛めるのと同様。でも中田さんはそれを厭わず、全国の工芸を訪ねて歩き、これをどうしたら良いかってことを当時はまだ東京国立近代美術館の工芸館にいた学芸員に聞きに行って、今回のようなプロジェクトを立ち上げた。好きなんだなあ、きっと。

 アドバイザリーボードになってくれている編集者やらファッショントレンドの人やら美術の専門家が、それぞれに5人の若くて才能のある陶芸家を選び、その陶芸家たちが作家でも美術家でもプロダクトデザイナーでもめいめいが気になったクリエーターを選んで、各3人が5組に分かれ、それぞれに作品作りに挑んだ成果が日本橋三越にズラリ。例えば女性の植葉香澄さんは、中田さんが率いあの奈良美智さんを引き入れたチームで作った陶芸を出していて、見れば奈良さんぽいフォルムを持った犬のフィギュアっぽいのもあれば、巨大なオブジェみたいなものもあってと、迫力も雰囲気もあって楽しませてくれる。あまりに中田さん奈良さんの名前が大きくって、それに引っ張られ過ぎてる感じもないでもないけれど、誰だって最初はたいしたバリューをもっていない訳で、それが実力を認められ大勢に引っ張られて世に出ていく。中田さん奈良さんはそんな最初のブースターでしかなくって、あとを飛んでいくのは植葉さんの力。それを見極められる機会って意味が、今回の展示会にはあるって言えそう。

 陶芸家の人が佐藤卓さんと組んだ琺瑯の器とか、陶芸家が松岡正剛さんと町田康さんがサポートした美濃焼の織部茶碗とかあって、前衛もあれば古典もあってと種類も多彩。時にどこが工芸なんだろうって思わせるものもあるけれど、伝統的な技法がベースにあって、それなくしては形作られないものたちがあるって意味で、立派に工芸作品と言って良いみたい。家で大事に使うってのも悪くはないし、美濃焼の茶碗なんかはそんな目的にそぐうものではあるけれど、一方で佐藤オオキさんが関わったセラミックスピーカーみたいに、工芸でも工業でもあってなかったりする作品もあって、工芸は決して古めかしいだけのものではないってことを思い知らせてくれる。

 アート的にどこまでできるのかってことを知って貰い、若い人に興味を持って貰う可能性もあったりするから興味深い。それをたいして自分に還元されないのに、関わってみせる中田さんという人はやっぱり半端な人じゃないのかも。展覧会は三越では25日までだけれど、そのあと茨城県にある陶芸の美術館に巡回するんでそっちで見るといとよろし。水戸芸術館なら去年行ったけれども陶磁器の美術館って遠いのかな。梅の季節に水戸見物がてら行ってみるか。

 アウェー感も漂う六本木の東京ミッドタウンだったけれども今日ばっかりはそれっぽい人たちが割と集まり気分も緩和。それもそのはず任天堂でマリオにゼルダを作った宮本茂さんがやって来るってんで、世のゲームファンがこぞって集まりその創作の秘密について耳を傾けた。上のコナミには宮本さんを師匠と尊敬する小島秀夫さんもいるんだけれど会場にいたかは不明。でもやっぱりのぞきたくなるよなあ、宮本茂さんなんだから。

 「サマータイムマシンブルース」とか「曲がれスプーン」の劇でしられるヨーロッパ企画の人といっしょのトークショーでは、ニンテンドーDSで遊べる簡単なアニメを作れるソフトなんかをどう使って遊ぶかってことを実演したりさせみたりしていて、いろいろと制約があるなかで密度を高めていくことによって生まれる満足感を得られるソフトって部分に、何でもありの飽食の時代には生まれ得ないエンターテインメントの極意ってものをちょっぴり感じる。あと駄目なものを見たり作ったりしながら、どうして駄目かを考え抜くことによって進歩が得られるってことも。自己満足では決して前には進めないのだ。なるほどなるほど。

 そんな宮本さんを熱中させるゲームを作り出してみせたヨーロッパ企画の人たちもなかなか。上のディスプレーに次々と切り替わっていく支持を受けて指を置いていくツイスターなんて、ホント宮本さん、ハマってやり抜こうとしてたもんなあ。あと小さい子があらわれコーヒーに落ちたりドライヤーで吹き飛ばされているような選択肢をどう抜けて、クリアさせるかっていったアドベンチャーゲームも。単純だけれど先を試したくなるという人間の好奇心。それを刺激しつつどうしたら自然に最後まで続けていけるかってことを考えることから、ヒットするゲームってのが生まれるのかもしれないなあ。つまりは遊ぶ人たちの都合が最優先。なのに自分たちの都合を押しつけようとするから嫌われるし避けられるし疎まれるんだってことを、もっとエンターテインメントもコンテンツも分からないと。なあ。

 もう随分と昔の話になるけれども、とある産業専門新聞というのがあって小さいながらも業界にしっかりと地盤をおろして細かく稼いでいたんだけれども、目立ちたがり屋の偉い人が儲かりそうな産業に特化し始めたことによって袖にされた業界が脱落してそこで縮小が起こり、さらに景気の悪化が企業の余計な費用を支払わせることを拒ませそこでまた縮小が起こって青息吐息。ならばやっぱり地道に業界をくまなく歩き直せば良かったものを、特効薬であり劇薬でもある人員の削減という手段にまず出て、ごっそりを人間を親元へお移してしまったことで、情報の密度が下がってさらに総すかんを食らう羽目となった。

 あらに、細かく版を変えてより最新の情報が載るようにしていたものを改め、数枚しか最新の情報が載らなくしたことで鮮度の悪い情報、酷いときにはおとといの情報が載ったりするようなことになってしまってやっぱり企業から総すかん。世はネット時代で最新の情報がリアルタイムで入ってくるなかで、鮮度の悪い情報なんて無価値どころか紙の分だけ邪魔になる。そうしてやっぱり部数を落としていった挙げ句に経営は危機を通り越したところまでいってそして……といった感じ。

 得られる教訓としては情報産業が情報を確保するために費用を惜しんでは駄目でそこに当てる人材こそが何よりの宝であり、また情報の鮮度も同様に重要な価値であってそれの真逆を行けば媒体はひたすらに縮小を繰り返す。状況はさらにメディアにとって悪化していて背に腹を変えられないところも出てきそうだけれど、教訓は生かして対応するのが未来のために最善だということをとりあえずつぶやいておこう。たぶんおそらく絶対に聞こえないだろうけれど。聞こえていたら前もなかった。


【1月18日】 「失恋ショコラティエ」をどうにか3冊揃えてあとはヤマシタトモコさん「ドントクライ、ガール」だけになったけれどもこれが1番の難物みたいでどこに行っても品切れだったりするから難しい。とりあえずネット書店に頼んでみたけど果たしてくるのかどうなのか。「乙嫁語り」と「ドリフターズ」は家を彫ればあるし「アイアムヒーロー」も前回のエントリーからこっちまでの分を買い足せば良さそう。現在品切れの「花のズボラ飯」は去年のうちに仕入れてあったんでこれもクリア。読んでからとりあえず記事にして、それから投票へと赴こう。やっぱり「三月のライオン」が強そうだけれど「ましろのおと」も悪くない。「主に泣いてます」も最高だし。ああ悩むなあ。やっぱり多数決って凄いなあ。

 という訳で決まってしまった最終選考エントリーの13冊にまるで入らなかった僕の「マンガ大賞2011」のノミネート作品とコメントをここに再掲して、エントリーに入ってなくても読んでみたいと思って頂ける人にアピールして少しでも普及に貢献しよう。まずは「薄命少女」(双葉社、743円)。読むたびに泣けて、それなのにまた読んで泣けてしまう漫画がある。大井昌和さんの「流星たちに伝えてよ」がそうであり、この「薄命少女」もまたそうだ。余命いくばくもないと知ってしまった娘と、父親との日々を綴った4コマ漫画で、ギャグで笑わせながらもその中に、親子の情愛や、死への恐怖を滲ませ、おおぜいの中で生きている、わが生の在りようを、強く問い直させる。

 喜びへと向かって欲しいと願った刹那に描かれる、たった1つの、そして決定的なコマが、さまざまな人々のさざまな思いを呼んで、むせぶよりほかになにもできなくさせる。断ち切られてしまうことへの不安、置いていってしまうことへの慚愧、それでも得られたものの多かったことへの感謝が、混合して押し寄せてきて、ページを閉じた手をまた開かせ、最初から読み直させ、そして泣かせる。一生に残る1冊として、傍らに起き続けたい漫画だ。

 そして2冊目が夏達さんの「誰も知らない 〜子不語〜」(集英社)。美人すぎる漫画家とか、中国で人気の漫画家といった情報は、一切必要ない。山間部の集落に移り住んだ少女が、人ならぬ者たちと出合い、育む関係の中から得ていく古き物、不思議な者への情愛を、そのまま受け止め社会が忘れ去ろうとしている、伝統や伝承への意識を甦らせればいい。ひたすらに繊細で美麗な絵は、日本も中国もなく特級の腕前。そこに紡がれる物語の奥深さが乗った漫画を評価するのに、ほかのどんな情報が必要か。ただひたすらに素晴らしい。それで十分だ。それだけで十分だ。

 続いてもりしげさん「フダンシズム 腐男子主義」(スクウェア・エニックス)。しつこく今年ももエントリー。腐女子の姉が参加する同人誌即売会の売り子として動員され、女装を始めることになった少年。オタクともやおいとも無縁の彼が、姉やその友人に引っ張り込まれた挙げ句に“腐”を学んでいく姿を追いながら、その方面の情報を吸収していける、ガイド的な要素も持つ。その上にさらに、そうした道にのめりこむ人たちの、切ないまでの強い思いに触れられ、理解を超えた好感を抱くように働く、意義深い漫画。女装男子ブームの先駆けにして、神髄まで捉えた傑作に今こそ日の目を。阡里たんの麗しさに世界中の喝采を。

 さらに天乃タカさん「誰が為に鋼は鳴る」(エンターブレイン)。視えなくなってしまうのは寂しいけれど、それが新たな出会いを生み、関係を育むのだとしたら、あなたは視えなくなってしまうことを、受け入れられるだろうか? 視えている子供たちには、ちょっぴり難しい問いかもしれない。もう視ようとしない大人たちには、答えられない問いかもしれない。それなら、天乃タカの「誰が為に鋼は鳴る」という漫画を読んで知ろう。ささやかな出会いと、そして離別の先にもたらされた、暖かくて嬉しい関係から、たとえ視えなくなっても、信じてさえいれば良いのだということを。

 トリはやっぱりこの人、萩尾望都さんの「菱川さんと猫」(講談社)。好きだということを超え、今のこの現代に萩尾望都がこれだけの作品を、現役として送り出していることをまずは喜ぼう。地方の小さな文学賞に応募された、小さな物語に感じた感動と驚嘆を、その繊細な筆致、その深淵な言葉によって漫画に描いて見せてくれた作品は、原作がありながら、しっかりと萩尾望都の世界になっている。隣に暮らす不思議な者たちへの思いを、夏達さんの「誰も知らない 〜子不語〜」とはまた違った形で、読ませてくれた物語。雪の積もる街へと、移り住みたくなる、猫と共に。

 どれも素晴らしいんだけれどもちょっぴり広がるにはまだ足りていないところがあるのかそれとも、「マンガ大賞2011」というイベントに集う人たちと僕の趣味とはまるで違っているのか。そういやあ今となっては世界的にすら大ヒットしかかっている広江礼威さんの「BLACK LAGOON」だって、ノミネート可能な巻数の最後だった「マンガ大賞2009」でノミネートしていたのは僕だけだったからなあ。その時のコメント。巻数的に今回が最後となるなら推すしかない。ロシアに香港にコロンビアにイタリアに米国と、世界中から吹き溜まったとことんまでワルい奴らがめぐらす油断即死の駆け引きに、拳銃からナイフからチェーンソーまで、多種多様な武器の使い手たちが繰り広げる弱者必敗のバトル。物語でもアクションでも超特級の凄さを持った漫画をリアルタイムで読める幸せを噛みしめろ。

 存分に噛みしめてます、ってことでなぜかいきなり小学館から発売になったコンビニ向けっぽいペーパーバックでの「BLACK LAGOON」を確保。表紙はしゃがんでお尻を向けているレヴィでそのお尻の丸さがやっぱりどこまでもエロくって素晴らしい。出合いからナチから双子から公共の敵の途中までのエピソードが収録されているけれど、バラライカが最高にクールな音を響かせダッチたちの溜飲を下げ、そしてレヴィが船の上を飛び回ってその最高にホットなヒップを見せてくれるエピソードと、何よりロベルタがターミネーターの如くに大暴れする「BLACK LAGOON」の人気を決定づけたエピソードが入ってないのは話数を調整して巻末に引きを持ってくるのと、あとはやっぱり人気の高い双子編とロベルタ編ががちあって、本の中で大喧嘩して店頭に並ぶまでに本がボロボロになるのを防ごうとしたって考えるのが良いのかな。続きは2月18日に出るんでそっちに期待。

 さらに小学館のガガガ文庫から「BLACK LAGOON」の小説版の第2巻が1作目と同じニトロプラスの虚淵玄さんを書き手に登場。「罪深き魔術師の哀歌」(小学館、571円)のサブタイルどおりにウィザードことロットン・ザ・ウィザードが大活躍する話しなんだけれどもやっぱりというかこのエピソードでも1発たりとのその両腕のモーゼルから弾丸は発射されず。それでも銃撃戦のなかを生き延び相手に銃を向けられても死なずに最後まで生き残ってはゲームに興じる凄腕ぶり。それがいったい何を意味するのかを知るものはロットン本人しかいないだろー。それともロックは何かを知った? いやいや彼も計算はするけど周囲では偶然の積みかさねで生き延びているだけの人間。ロットンの非凡な平凡さとは裏表の平凡な非凡さの持ち主なだけだから、互いに知らずそれでもしっかり生き延びていくんだろー。バラライカも帳さんも惚れる訳だよ。そしてあるいはエダさえも。

 そうエダ。すでにCIAのエージェントだってことは明らかにされているけれど、その名前がイディス・ブラックウォーターってのはようやく知った、って前巻でも明らかにされていたっけどうだっけ。ストーリーは例のロベルタ復讐編が終わってからのロアナプラを舞台に、NSAを退けたCIAがよからなう欲を出してロアナプラに進出しようと企んだことから起こった誘拐事件をロックがどういかするって展開。ロットンはそこに中心人物そてい位置どるんだけれどもその周辺に真空地帯を巻き起こすようにして自らは傷つかず戦いもしないですべてを丸く収めていく。まるでウィザード。最大の難敵だったシェンホアですら懐柔可能な状況へと持っていったその腕前は、あるいはロックと並んでロアナプラの誰よりも最強なのかもしれない。続く活躍に期待。その弾丸が発射された時、いったい何が起こるのか?


【1月17日】 目覚めたら「マンガ大賞2011」の最終ノミネート作品が発表になっててそれが13作品もあっていったい最後の方は何票で重なったんだと聞いてみたい気がしきり。何百もあれば4作品とか並ぶなんてことはあり得ないって思うんだけれどそれほどの人数がいないってことだとここは理解。だからといって9作品で切らずにいっぱいノミネートさせることで、世間に作品が認知され漫画家さんとして嬉しいと思ってもらえればそれが共に漫画の未来につながるって前向きさから出た13作品のノミネートだと信じよう。決してたくさん並べることによって少しでも売れ行きを増そうとしたって訳じゃないぞ。だと思うぞ。うん。きっと。

 実際に羅川真里茂さんの「ましろのおと」(講談社)とかって見知ってはいても無理に手に取ろうとはしなかった作品だったりして、読めば面白いと分かっていながら避けていたものが、候補作として無理にでも読まなきゃいけないとなって読んだらこれがまた抜群に興味深かったりするからたまらない。諫山創さんの「進撃の巨人」(講談社)については「このマンガがすごい」とかにも入って人気だと知ってはいたけど逆に流行りすぎが敬遠したい気持ちを読んでここまで手に取って来なかったから、やっぱりこれがきっかけになって読んでみてなるほど大勢が支持する理由も分かるなあと思ったけれどもやっぱりあんまり好きになれない。世界を描いた物語は世界が見えてからじゃないと評価しづらいんだよなあ。

 上野顕太郎さんの「さよならもいわずに」(エンターブレイン)は、荒木経惟さんが「センチメンタルな旅・冬の旅」でやったような家族の死を間近に捉えて描いたストーリーで、読んだらそりゃあもう感じないではいられない作品なんだけれども、これが漫画として果たしてどこまで正統なのか、って部分で漫画だからこその何かがあるかって考えた時に、あまりにストレート過ぎる描きっぷりが、慟哭と裏腹の居たたまれなさを呼んで、どうにも評価に迷ってしまう。漫画として描かれているから漫画なんだという論理ももちろん成り立つんだけれど、しょせんは他人の家庭の問題であって自分には無縁の世界だと思った時、そこに何の感慨も浮かばなくなってしまうこともあったりする。とはいえいつかは誰にも訪れる身内の死を、共通の理解として敷衍させる意味もあったりする。それだから判断に迷う。

 そうした迷いを超えて感じさせる何か、ってものが多分、作品として描かれるものには必要なんだろうと思うけれども、「さよならもいわずに」はあるんだろうか、それともないんだろうか。読みながら、そして自分という存在の周りに漂う死や生を感じながら、その都度考えていくしかないんだろうなあ。個人的にはむしろ、同じ死を描いた漫画として、あらい・まりこさんの「薄命少女」(双葉社)に取って欲しかった。死を描きながらも恐怖や苦痛ではなく感慨を呼ぶあの手法。凄まじいと思ったんだけれどやっぱり最終ノミネートには上がってこなかったなあ。というか誰か他に推薦した人いるんだろうか。毎年のように自分だけ1作って作品も多かったりする「マンガ大賞」。それだけ多様性があるってことなんだけれど、そうした多様さをすくい上げるのはやっぱり難しいからなあ。前みたいに「ダ・ヴィンチ」が1票のみ作品のそれでもこれを推す的記事を出してもらえたら嬉しいなあ。

 なんか芥川賞が決まったみたいでメンバー的に誰でもどうでも気にならなかったりしたけれども、そんななかからいいところのお嬢とそしてはいつくばって上がってきたおっさんを選び出すとはなかなか演出過剰というか。いやしかし文学ってものが己の全身全霊を映すものだとしたならば、作品にはしっかりとその境遇が現れている訳で、小説書いてみました的な着想では埋められない何かって奴が、いいところのお嬢にもはいつくばって上がってきた泥まみれにも、やっぱりしっかり現れていたってことなのかも。読みたくないけどそんな他人事。直木賞は道尾秀介さんがようやくか。でも「月と蟹」は何か体温が低すぎてミニマル過ぎて、圧巻さがなかったんだよなあ、って道尾さんは圧巻作家ってよりはミニマルのなかにちょろりと非日常を挟み込んで誘う作家って印象だから仕方ないか。もう1人は知らないけれどもともあれおめでとう御座います。

 ふと気が付いたら日本がボコスカと大量得点で買っていた。これがボコスカウォーズという奴か。おーごーれーすたおすのだー、って音楽が試合中に鳴り響いていたかは知らない。まあ相手がこの大会ずっと不調なサウジアラビアを相手に大量得点を奪ってもあんまり驚きはないとはいえ、本田選手松井選手を抜いてのこの活性化って奴が意味するところを考えて、いろいろ算段する人とか出てきそう。まあゆるい相手なら力で突破していく選手技で抜いていく選手はいなくても、スペースを縦横無尽に走って明いたところから自在に攻められるけれどもこれがしっかり固めてくる相手で果たして、サウジアラビア戦みたいな戦い方ができるのか、ってところがとりあえずの壁。スピードと精度があればそれも可能なんだろうけれど、それでもフィニッシュの部分で相手が1枚になるってことはなさそうで、勝負できた岡崎前田の両フォワードもまた同じような寸詰まりになってしまうだろうからやっぱり布陣も前に戻してくるんだろうなあ。さてどこまで行けるのか。次はどことだっけ。


【1月16日】 はっはっは。はっはっは。ヴィクトリカになって笑ってみました。前週のふて寝してごろごろに続いて毎回、ヴィクトリカの見せ場だけは確実に用意されている「GOSHICK」だけれど、物語の方はやっぱり少年の血気盛んっぷりがウザかったり、描写がちょっぴりグロかったりして、真夜中には向いていてもあんまり大っぴらにはおすすめできそうもないのが悩ましいところ。それでも、悠木碧さんのつぶやいたりぼやいたりする演技には、ますます磨きがかかって一言たりとも聞き逃せないのが素晴らしいというか凄いというか。沢城みゆきさんも戸松遥さんも凄かったけれども、この凄さはやっぱりなかなか他になさそう。ましてや裏が裏な訳で。これからいったいどんな声優になっていくのか。見守ろう。いきなり4人でボーカルユニットとか組まないでね。

 起きたら雪こそちらついてなかったけれども、寒さがアラスカもシベリアも通り越して極点まで来ていたんで、鎌ヶ谷方面へと出かけて佑ちゃんとか見るのは止めておとなしく、秋葉原へと出向いて「刀語」の最新刊のブルーレイとか探そうと、ヨドバシAkibaに行ったら見あたらず。まだ未発売なのかと石丸ソフト1へと出かけたら、何と3月で閉館になるって張り紙が出ていて驚いた。向かいにあったクラシックとジャズの音楽CDを売る店を閉じて集約し、アダルト専門の店も閉館すると発表になっていたと思ったら。近隣にある最大のソフトの店を閉めてしまうとは。前にダイドー毛織りの方にあった店も閉じてしまっていただけに、もはや秋葉原は、パッケージソフトを売る場所として存在意義を失っているのかも。

 実際に音楽なんかはネットからの購入が増え、売れてるパッケージはアイドルに声優といったキャラクターアイテム化したもので、ソフト専門店がめいっぱいに扱うようなものでもない。扱ってもいいんだけれど、その他のものまで揃えておいておいても売れないんだったら意味がない。だったら大きな店構えなんて止めてしまえって考えても不思議はないだろう。アニメだって同様。今みたいに売れるタイトルが広く知られたごく1部、なんて状況になってしまうと、品揃えの豊富さってのは逆に在庫の過剰さへとつながって、すぐに経営を圧迫してしまう。本だって下手したら半年で返本のところを、DVDはそうもいかないから、5年10年と店晒しにされてしまって場所だけとって収益にはまるで結びつかない。

 そんなアニメのDVDが石丸のソフト1では、一気に2割引き3割引きからボックスだったら5割引とかで売られていたりして、眺めていてよくもまあこれだけのアニメを作りも作ったもんだと慨嘆しながらも、それらが売れずに残ってしまった現状を、果たしてどう見れば良いのかってあたりで頭を悩ませる。売れないタイトルを集めたってのは店にも問題があったってことになりそうだけれど、一方で品揃えを充実させるのも店舗の責任であって、いつか売れるかもしれないそれらを揃えておいてこそ、専門店だといった矜持もあるし周囲の目もあって、止めるに止められなかったと考えられる。

 あるいは昔はそれだけの在庫もちゃんとはけていたんだけれど、この急激な冷え込みによって、バブルとはいわないまでもやや多すぎたアニメの制作本数が仇となり、店頭に過剰な在庫を積み上げさせてしまったともいえる。なるほど昔のアニメも並んでいるけど、ノイタミナだのアニメノチカラだのといったあたりで放送された作品までもが、その店に限ってだけれど、2割引3割引きでたたき売られてしまっていたりするんだから、やっぱりどこかにズレがあったんだろう。作品は良かった。けれども買われなかった。そのズレをどうやって埋めるのか。これからアニメを作る人にとって大きな課題になって来そう。というかアニメを作っている人は、1度は今の石丸ソフト1の5階をのぞいて、どうしてこんなことになってしまったのかを考えてみるのも悪くないのかも。あれだけの素晴らしい作品が、死蔵され処分されてしまう悲しい現実。そこから何を育めるか。それが未来を変えていく、って言っていいのかな。

 せっかくだからと買い逃していた「ダンスインザヴァンパイアバンド」の最終巻と、「アフロサムライ」の劇場版の1作目と2作目がセットになったブルーレイを購入。あと途中で止まっている「戦う司書」のブルーレイも一挙に揃えたかったんだけれど、手元不如意でそこは断念。「閃光のナイトレイド」のDVDとか揃っていたし、5巻以上なんで3割引で揃えられそうかもって思ったけれども、やっぱりちょっと躊躇。とはいえ放送されなかった回もあるから、見ておきたい作品ではあるんだよなあ。ちょっと考えよう。ボックス関係だと「宇宙戦艦ヤマト」のモデル付きボックスなんてものがあったんだけれど、家に置く場所がない……。断念。「鉄コミュニケーション」のボックスとか、やっぱり今の内に救出しておくべきかなあ。3月まであるんでその間に拾えるものは拾っておくか。部屋がまた狭くなるなあ。

 その足で神保町へと歩いていって、スポーツ用品街でインラインスケート用のプロテクターなんかを安く買う。前に買ったはいいけれども、そうした防具がないと怖くて乗れない「スコルピオンローラースケート」をデビューさせるための準備を着々。とはいえ肝心のヘルメットがまだ揃ってないのが難点か。なにしろ高いし、それよりサイズが。頭がデカいとこういう時に苦労する。まあ揃ったところでこの寒さでは、外でローラースケートだなんてやっている気分にもなれそうもないんで、このまま死蔵しつつ春あたりにどこかでデビューさせるってのが妥当かな。あるいは死蔵しつつ実家に送り付けるとか。どちらもありそうな話。改まらないなあ浪費癖。


【1月15日】 悠木碧アワー、を見るだけの気力もなく、泥の用に眠って起きたら冬が来ていた、ってずっと冬ではあるんだけど、これまでが南国与那国島の冬だとしたら、今日はアラスカシベリアスカンジナビアの冬と言った感じの凄まじさ。電気毛布だけで暖を取ってる身としてはなかなかにベッドを抜け出せず、うらうらと微睡みながらもそろそろ溜まって来た膀胱の中身を吐き出す必要が高まって来て、否応なしに起き上がってトイレへと駆け込み放出し、そのままどうしたものかと考え西へ行こう、萌え寺を見に行こうと電車に乗って東京駅へと向かう。

 構内にある本屋が萩尾望都さんの特集をやっているとも聞いていてどんなんだろうと見に行ってレオくんのトートバッグが置いてあったのを確認。それからやっぱりレオくんの顔が描かれたチョコレートもあると聞いていて、探したらあったけれども販売が、伊集院静さんと柳田理科雄さんとあとだれか、萩尾さんとは関係ない人の4人がセットになってて食べると萩尾さんの以外は喉につまりそうだったんで、遠慮して眺めるだけにとどめおく。しかし分からない組み合わせ。ファンが重なっているわけでもないのに。うーん。

 そこから中央線で西八王子と向かう途中の列車で読んだ高殿円さんの「メサイア 警備局特別公安五係」(角川書店)は多分現実からは少しだけずれた世界が舞台。世界中で大軍縮の動きがあって、軍隊を従来の十分の一にしなくちゃいけなくなってから十年、軍隊が無くなりますからはい平和とはいかないのが世界て奴で、ロシアらしき北の共同体は軍隊の名を名乗らない国境警備隊を置いて実質的な軍備を維持。一方で日本は軍隊ではない自衛隊ですらなくして警察組織に組み入れ、軍縮への貢献をアピールしてた。もっとも、それでは国が保たないと思った警察の計らいで、警備局内に、というよりは国家公安委員会の下につける形で五係というものを作って、非合法な活動を任せることにした。

 そこに集められるのは基本的に死人ばかり。主人公は親が何者かによって殺害され、一人生き残ったところを逃げ出し雑踏に行き倒れていたところをコリアンアンマフィアに拾われ、鉄砲玉になって生きていたものの殺害された兄貴分の敵を打とうと突っ込み、撃たれて死亡、したかと思ったらしぶとく生き延びたところを拾われ、五係の要員を育てる学校へと誘われた。そこで国にあだなすスパイたちを狩り出す仕事に、本格的に着くための訓練をしていくというのが専らのストーリー。そこではスパイたちがどの様な手で連絡を取り、備考を巻き的と戦うか、といったことが書かれてあってハウツー的な興味を誘う。

 と同時に、ただ見た目の敵を倒すその背後に、幾重にも量なった個人や組織や国といった物の姿が描かれ、日常を単純に生きているものたちとは違った世界の存在というものを突きつけられる。たとえ架空の組織が舞台だからといっても、現実に形を変えて存在しているだろう防諜の姿。息を抜いたら殺されるし、信用したって裏切られる世界で、いったいどうやってスパイとして生きて行けばいいのか。その残酷なまでの厳しさを突きつけられる。平和な世界に安穏と生きていられる幸せを、強く噛み締めたくなる。かっこ良くたって美女にモテたって、スパイになんかなるもんじゃないね、まったく。

 主人公の過去が絡み、相棒の過去も重なり、組織の行く末が重なって、その組織の立役者の振る舞いにも関わってくる展開は、バラバラになった断片が合わさり描かれて行くジグソーパズルのよう。果てに浮かび上がる絵面の、これまたやるせなくやりきれない様に暗たんとしつつも、そんな見事な絵を描き出して見せた作家の才気に、改めて感服した次第。前作「トッカン」(早川書房)は税務署の世界を舞台に描いた興味に加えて、キャラクターの強さで読ませてくれたけど、今回はスパイの世界を強いキャラクターで描いたところに、複雑な世界を示す社会性まで加わった。前作だってそでもなかったにも関わらず、出自だけでライトノベルっぽさを言われた高殿さんだけれど、今回はもはやそんな雑音を差し挟む余地はまるでない。平和とは何かまで問うメッセージ性も持ちつつスパイの世界の厳しさも見せつつ、己が生きていくために何が必要かを悟らせる。圧巻のエンターテイメントの登場を喜ぼう、心から。

 立川へと取って帰して創元から出たSF短編賞の受賞作品だかが掲載された文庫の刊行を記念したトークショーを見物。山田正紀さんが最近は物語に傾注している旨の発言があったりして、かつて「神狩り」や「宝石泥棒」といった世界観の斬新さ以上に物語性の壮大さがあった作品が好きだった身に、いろいろな期待を保たせてくれる、ってそういや最近あんまり山田作品読んでなかった。そして打ち上げの合間に中継でオタク大賞を観覧、藤津さんのてっぺんが、といった話題はさておき大賞が「はやぶさ」に「ハートキャッチプリキュア」といった、ある意味でメジャーな二つがダブルで受賞といった状況に、ちょっとおどろく。

 隙間を狙い裏側から突っつくのがオタクマインドといった認識はもはや過去で、流行ったものがもはやオタクなのだという時代性感。それを喜ぶべきなんだけれども素直になれなない複雑さ。というより他人が合議で決めた価値観を尊ぶことが、そもそもオタク的じゃないって感じる世代だったりするんで、どこまでも違和感が拭えない。こういうやっかいな年寄りは、もはや退場するしかないのかもなあ。じゃあ何が相応しいのかと問われた時に、これだと打ち出せないところもまたあったりするんだけれど。AKB48ってのもあるけど、去年だったらギリギリだったけどもはや社会現象だし、っていみでははやぶさもいっしょか、うーん。やっぱりちょっと分からない。とはいえあとに続くものも……。そこが流行とそれ以外しかない、今の世界の現れってことなんだろうなあ。


【1月14日】 フリクタルフラクタル。遂に放送が始まった山本寛監督の「フラクタル」は、演出に奇をてらわずキャラクターに作為も込めないで、ストレートに状況を描いた感じがあるいは見る人には平板と映ってしまったかもしれないけれど、トップからギア全開で行って途中でトーンダウンするよりも、静かな中に世界をほのめかしていってそして、現れる全体像って奴に驚かせてくれた方が、オリジナルをやってる意味もあるってものなんで、そんなあたりを感じさせてくれるような展開になっていってくれると、信じてこれかrまお見続けよう。

 とにかく不親切な第1話で、岬があって草地が続く田舎の一軒家に住んでいる少年の両親とやらが奇妙な物体。そして、市場へと出かけてもいるのはやっぱり奇妙な物体たちで、それがやって来た警官らしい人のスタンガンだかなにかの1発で消え去り、人間だけが数人残って走り去っていく。ドッペル。つまりはドッペルゲンガーの略語なんだろうけれども、偽物といった意味合いを含むそれらが、奇妙な形の両親も含めて漂っている世界ってものがいったいどうして作られて、動いているのかってところへの言及がないから、見る人はちょっと戸惑っているかもしれない。

 でもだからこそ、逆に想像する余地がたっぷりとある。いわゆるアバターみたいな誰がか操作しているキャラクターではない、ドッペルという存在が誰の意志によってそこにいるのか。そしてそれらはどうやって空間に表現されているのか。「電脳コイル」めいた拡張現実の装置が見えない状況で、それらが存在し得る世界はそのものが拡張現実だったりするのか否か。飛浩隆さんの小説「グラン・ヴァカンス」に描かれた、壊れゆくリゾートめいた世界の姿なんかも重なるけれど、当然ながら「グラン・ヴァカンス」を見知っている原案の東浩紀さんが、単純な追随をやるとは思えないだけに、どういった解釈を付けてくるのか、興味が及ぶ、想像が膨らむ。

 そして物語。現れた少女がすぐに消え、追う者があってそこから少年の冒険が始まるというのは「未来少年コナン」の時代からのお約束的導入部。言われるだろうことを知って敢えてそれを見せつつそこからどういった違いを描いていくのか。勝負と分かって臨んでいる監督の力量が問われそう。とはいえコナンだったら20数話を使いみせられたあの世界でありあの冒険。それをノイタミナという11話の枠内で修めるっていうのはやっぱり相当の苦難かも。映画にしては長くシリーズにしては短い話数の中に何を描くか。それが後生にどれだけの影響を残すか。断片が放り出された第1話を経て、いよいよ始まる冒険が描かれる第2話以降に、目を向けよう、心を傾けよう。

 「放浪息子」については、すでに試写で見てその素晴らしさを語っているので、とりあえず、2週目も見るとさらに広がりがあって楽しめると言っておこう。淡々とした中に動きが出て、キャラクターの表情も現れ心情が揺れ動いてそして、といった展開。期待して待て。そんな裏側でやっていたサッカーのアジアカップはまあ、何というかやっぱり点がなかなかとれないというか。ボールは動くしゴール前まで本田圭佑選手が迫るし、アクションの面での派手さはあるんだけれども、肝心な得点といったところに結びつかないのが残念というか、悩ましいというか。これを決定力不足というのは間違いで、相手の巧さをたたえるべきなんだろうけれども、そうした巧さをさらに超え、点を奪ってこその一流って奴なんだろうなあ。相手に攻められっぱなしになる危うさもまだ見せるし。噂のPKシーンは寝落ちしていて見ず。オフサイドでなかったとしたら、あの倒し方でカードは仕方がないかもなあ。そしてオフサイドはよく間違えられるという。不運であって不遜ではないという理解。それが後で運にひっくり返ったってことで。

 「IS」は見たけどなるほど小説をうまくなぞっていった感じ。ここでイギリス代表候補と戦いやがてフランス代表候補がやって来て育まれるはずの友情が恋情に代わり中国代表ドイツ代表も交えたハーレム展開の中で日本の2人だけがいじいじしているという構図。とはいえ小説の方はそうしたラブコメの描写が9割で戦いに関しては1割程度で6巻まで来てまるで進んでないといった印象。謎の組織もあれば謎の姉科学者ってのもいたりして、それらがどう絡み合って主人公の男性なのにISを操縦させ得たのか、ってあたりがあかされない限りはなかなか物語にのめり込めそうもないなあ。そんな物語よりシチュエーションを楽しむ作品って割り切れば良いんだろうけれど、せっかく作り上げられた世界がそれだけで終わってしまうのも勿体ないから、是非にここいらで進展を。そして謎解きを。

 身長204pのオーロイ選手と身長161pの深井正樹選手とのでこぼことしたコンビが例えば最前線で直列して、オーロイ選手が迫るその股の下から深井選手が飛び出しシュートを放つとか、オーロイ選手に肩車された深井選手が、ジャンプして高さ4メートルの場所からオーバーヘッドキックをを放つとかいった期待も膨らむ一方で、ラスト5分に登場してその強面っぷりを見せてチームを引き締め、ロスタイムの失点を不正で逃げ切るための要因として藤田俊哉選手が活躍したりする図式、ってのをふと思い浮かべてしまった我らがジェフユナイテッド市原・千葉の今シーズン。背番号でいうなら6番とそして肝心要の10番が開いていたりして、いったい補強はどうーなってんだと憤りたくもないけれど、後からだって悪い選手が来るとは限らないとここは鷹揚に構えて、チームの補強スタッフのがんばりをなま暖かく見守ろう。ミリガン選手って存在したんだというのがやや以外。アレックス選手は利根川を越えていってしまったけれどもう戻って来ないのかな。


【1月13日】 金曜日じゃない。まだ木曜日。そして講談社BOXかた北國浩二さんに続いて登場した日本SF新人賞出身者の八杉将司さんによる「光を忘れた星で」(講談社BOX)はなるほどやっぱりとてつもなくハードなSFでありながらも、講談社BOXというひぐらしがうみねこで化物が刀語なレーベルの中に混じって登場していったいどこに届くかという不安を醸し出しつつ、それでもそんな枠組みなんざあ知ったことかと面白い本にどん欲で、嗅覚の優れた人たちを寄せ集めて読ませて感動と感慨と驚嘆を味わわせてくれるといいな。いいなって……。

 いやほらやっぱりSFに忠実な人たちって、JAならJAであとは同じ早川なり、創元なりをウオッチしてそれから徳間の赤い本とか、そのあたりを主にチェックしているから普段目にしない銀色の箱入りの本にはまるでなかなか目が向かないもの。いくら大昔の銀背が箱に入って売られていたからって、その思い出を重ねるほどの歳でもなくって、やっぱりゲームのノベライズとか人気作家の伝奇が並んだライトにノベルなレーベルって思いこんで目を向けない。いやそいった作品だって読めば最高に最先端だから読んで欲しいし読むべきなんだけれども、この世知辛い世の中ではそっちまで手を伸ばすことが財政的に追いつかない。

 畢竟、知らず知られないまま埋もれていってしまう可能性なんかもある訳で、絵日記風に異世界の冒険を描いた「フィオナ旅行記」とかこれまた素晴らしく想像をかきたてられる物語なんかもあったりするんだけれど、それほど話題になってないのがちょっと寂しい。一応新聞で紹介したけど新聞が読まれてないからなあ、寂しいなあ。まあいい、それでもやっぱり良い物は良い訳でそんな代表として八杉さんの「光を忘れた星で」が目を向けられ、秋山瑞人さんの「猫の地球儀」で電撃文庫ってレーベルがSFな方面に知れ渡ったような展開を、講談社BOXも迎えたらちょっと嬉しい。行き場を失っている感もある日本SF新人賞の人たちにも、活躍の場ができるってことだし。ほんとあれだけの作家が今どこで、何を。

 そして「光を忘れた星で」。目が見えないまま生まれて育った人が世界にどういった感覚を抱いているのか、というか世界をどうとらえているのかを理解する術は僕達にはほとんどない。後天的に光を失ってもそれは色や形や奥行きや光といったものを記憶に止めたままで世界の広がりを、色彩を、形状を認識して振る舞う。でもそうでない人にとって、世界は最初から聞こえる音と触れた形のみ。肌に覚える暑さ寒さの感覚も含めてそういったものから自分を中心にして世界というものを認識する。とはいえ世界はそういった人たちばかりではなく、そんな自分を見ている大勢の人たちがいて囲まれて生活している訳で、目の見えない人たちによって最適化された世界とはならない。

 ではだったら目が見えない人たちだけしかいない世界はいったい、どのような姿をしているのかということを、八杉将司さんは「光を忘れた星で」で描こうとした。社会がどうなっていて人々がどういうふうに振る舞っていて、それで生きていけるのかどうなのか。前提の上に世界を描くSFならではの面白さがそこに存分に込められている。誰も目が見えないなかで1人だけ、見えるようになってしまって起こるだろう変化への強硬。目が見えないことによって誰もがふれあってお互いを確認し、文字通りに肌身に感じて心を通わせていたものが、遠方から射抜くように認識してしまう視覚の登場によって多くの情報に翻弄され、迷い惑って乱れていく可能性の提示。想像力の極地がそこに描かれる。

 とはいえそこはやっぱり人間だけあって、最初っから目が見えなかった訳ではないところがひとつの特徴。かつて目の見えた人たちが移民して来た星で、やがて誰もが見えなくなっていく過程で行われた事柄がなくては、やはり成立し得ない世界だとしたら、それはやっぱりひとつのモデルケースとして見るべきなんだろう。とはいえそれだけの技術をもった先人たちが、どうして目の見えなくなる状況を止めないで成り行きに任せたのかが気になるところ。あるいは見えすぎることによって生まれた様々な諍いに疲れ果て、見えないことによって生まれる誰もが互いを身近に感じようと求める温かい世界を、願ったのかもしれない。人にとって感覚とはなにか、逆に感覚とは人になにをもたらすのかを改めて考えさせてくれる物語。傑作。それこそ日本SF大賞級。だけどやっぱり届くんだろうかSFなシーンに。

 「VOICE」にインタビューが出たと思ったら「婦人公論」にも記事が載ってた萩尾望都さん。あれだけのベテランでもなお未だ現役で新作を描き原画展を開いて大勢のファンを集めている凄みを、バリューととらえて紹介しなくちゃと考えるメディアはやっぱりまだまだ多いってことで。とはいえ新聞では今のところ僕ん家くらい。それはだからやっぱり萩尾さんに触れもせず認識もしないまま年寄りになっていったおじさん世代が、覇権を握っていたりする新聞メディアってものの特徴であり、限界でもあるのかもしれないなあ。世界の半分は女性でできているっていうのに。そんな新聞を学校教育の現場で使わなきゃいけないって? 不思議な話。だいたいが電子新聞じゃだめなのか? 奇妙な話。こうしたところから生まれる鬱陶しがる感覚が、ますます世界を新聞嫌いにさせていくんだ、きっと。


【1月12日】 1日過ぎると途端に下火感が増してしまうのは、それだけ情報の消費速度が、アップしているからなんだろうなあ。とはいえ今日も相次いだタイガーマスク騒動は、伊達直人ならぬ伊達政宗なんかも登場して、ご当地の牛タンと笹蒲鉾をいっぱい寄付、したかどうかは知らないけれども、キャラクターとマッチしてない贈り物ってのは、やっぱり今ひとつ説得力がない。タイガーマスクだからこそのランドセル。これが伊達政宗だったらランドセルとかじゃなくって、やっぱり眼帯を贈って邪気眼でも養いなさいと諭すのが、子供達の未来にとって良いんじゃなかろーか。そして全員が異能の力を持ったフリをして自身満々に世間を渡っていくという。どんな子供たちだ。

 伊達直人に矢吹ジョーが続いて星飛雄馬も現れたらしいランドセル寄贈騒動、総じて梶原一騎さんの原作漫画のキャラってところで、同じ漫画原作者の小池一夫さんが作り出した「子連れ狼」の拝一刀が、負けてはいられないと名乗りを上げたみたいで、施設に対して普段から愛用している乳母車を、寄贈して回ったとかどうとか。なるほど移動にいろいろと物を入れて移動するのに便利ではあるんだけれど、そこは拝一刀、いっしょに大五郎まで入れて贈ったから、施設の方ではいったいどうしたものかともてあましている様子。使おうとして出すと泣くし、かといって入れたままでは使えない。困ったなあ。とかどうとか。

 武論尊原作キャラからは、もちろん世界中の誰もが知っているあの男、「北斗の拳」のケンシロウが立ち上がっただけれど、別に差し上げるものなんかないから、直接施設をめぐって子供達に言葉をかけることにしたとかどうとか。そして到着した孤児達が集う施設でケンシロウ、苦境に喘ぎながらも頑張る子供達を励まそうと、あの名セリフを口にした。「お前はもう、死んでいる」。目の前で名セリフが聴けて子供達も大満足……する訳ないよなあ。かといってラオウに来てもらって、「退かぬ、媚びぬ、省みぬ」って叫んでもらっても、そんなマインドに浸りすぎてしまうと、子供達がやっぱりちょっぴり困ったことになりそうだし。ここはやっぱりドーベルマン刑事に来てもらって、スーパーブラックホークの撃ち方を教えてもらいましょう。この世知辛い世の中を生き延びるのに必要なのは、やっぱり銃だよね。

 なにか間違っているような気がするけれども、これが正しい「なにかもちがってますか」は、「なるたる」の鬼頭莫宏さんが「のりりん」とは別に書いている漫画なんだけれども、運命的に残酷な死を義務づけられてしまった少年少女の苦闘とはまた違った、少年の悩み苦しみなんかが書かれてあって、同年代あたりの胸とかぐしゃっとえぐりそう。平凡な眼鏡の中学生の少年、日比野光るがいるクラスに転校生がやって来て、クラスの不良っぽい男に女っぽいと言われたらぶち切れて暴れ出したから大変。机まで振りかざしたところになぜか机の脚がぽっきり折れてしまって事なきを得たけれど、その振り回していた少年は、日比野が何かやったのではと感じて調べてそして、日比野の机の中から机の脚が途中だけリング状に切り取られていることを発見する。

 どうやら不思議な力があるらしいと言われた日比野は、転校生にせかされても動かなかったけれども屋上でまるで無関係の女の子が、日比野の力のとばっちりで倒れてしまったことにも影響され、自分の力を鍛え直した上で転校生が言う悪人たちをこらしめに街に出て、とりあえず携帯電話をかけながら運転している人たちの車を事故に遭わせるような活動をする。それでもやっぱり気になる人の命。そして自分のしでかしたことがもしかしたら友人の女の子の親に影響してしまったのかもと思い当たり、自分をこうしてしまった転校生に対する敵意を燃やす。なんか暗いなあ。「ぼくらの」も暗かったけれどもこっちもやっぱり暗いなあ。

 自主性を持たず流されやすい日比野の優柔不断ぶりにも腹が立つけれど、何が正義かを後先考えずにふりかざそうとする転校生も含めて、世界のことがよく分かっていない中学生ならではの、ちっぽけな正義感にうんざりさせられる。かといって大人になって妥協すれば、さらに世界は悪くなる。力があってそれをどう活かすべきなのか。考えさせられる物語、なのかもしれない。そんな鬼頭さんは「のりりん」の2巻も出していて、自転車嫌いの男が自転車娘に誘われ自転車を始めるまでを活写。次はいよいよロード2年の猛者を相手にしたレースだけれど、自転車娘の母親はいったい何を作って主人公にあてがおうとしているのか。その存在の得体の知れ無さも含めて今後に注目。こっちは明るいなあ。とことんまで明るいなあ。

 中二病で死ぬ奴はいない。それは単なる現実逃避の妄想であり、そこに浸って抜け出そうとしない状態のことであって、いずれこじらせて閉じこもろうとも、やがて忘れて開放的になろうとも、中二病そのものが何か人間の体を痛めつけ、心を蝕み死へと至らしめるようなことはない、と思っていたらそうでもなかったらしいと、湊利記さんって人の「マージナルワールド」(講談社BOX)を読んで思った。携帯電話を自分宛にかけるとそこに広がる異世界が圏内。そこでロボットめいたものを操り戦っていた少年少女が、仲違いしてしばらく。少女は現実に戻っても心がどこかに行って戻らず死を選び、少年は裏切った男をどうにかしようと、圏内とよばれる異世界へのダイブを続ける。

 そんな異世界で拾い上げた少女と親しくなった少年は、けれどもやっぱり仇をうとうと圏内へと向かい、現れる現地の眼が時計になった人間たちや、こちらから出向いていったロボットを操れる男達を相手に戦いを繰り広げる。社会とかとの接触を避けるように閉じこもるように圏内にこだわり、そこで振るえるようになる圧倒的な力に溺れて留まり続けることが、あるいは中二病なのだとしたら、その痛快さを失ってしまうことによって人は心を削られ体を苛まれて死に至る、ってこともあるのかも。現実に面白いこと楽しいこと興奮できることがなくなってしまっている現在、将来をどうしようもなく暗い物としか思えなくなっている現代においてなるほど、非現実を夢見てそこでの圧倒的な力に溺れ続ける中二病は立派に実存の病であり、人を浮き立たせも苛みもする物だってことで。

 しかし大きな物語を忌避して断片をのみ提示し、それらしくまとめる腕に長けているんだなあ、最近の若い作家は。圏内がどうして生まれ、そこで何か行われこれから先どうなっていくかってことはまるで書かれず、死んだ少女がどうしてそこにこだわったのかも、残された少年や裏切った男がどういう生い立ちで、そして圏内にとらわれているかも書かれない。それでも断片から全体はそうかもと想像できて、なおかつ目の前の戦いに目を奪われる。その刹那的なスタイリッシュさ。これが今は良いのかもしれないなあ。物語なんてどこまでいっても誰かのもの、自分のものにはならないのだから。とはいえしかし、同じ講談社ボックスから出た八杉将司さんの「光を忘れた星で」みたいに、世界観から歴史から未来のビジョンまで示された小説も良いよなあ。難しいなあ小説って。面白いなあ小説って。


【1月11日】 いやあこれは凄いんじゃなイカ。ってすでに終わったアニメをダシにすることもないんだけれど「これはゾンビですか」のアニメーション、PVなんかだとちょい暗めにシリアスな雰囲気を醸し出しててダークなホラーなのかもって思わせて居るんだけれど、本編が始まったらそこは原作どおりにギャグにコメディのてんこ盛り。トラックに吹っ飛ばされて血まみれになっても死なない少年がいたり、チェーンソー持って飛び回る縞パン魔法少女がいたりと、展開的にもビジュアル的にも楽しさ100倍ってところを見せてくれる。黙りを決め込むネクロマンサーもいい味。局は違う「レベルE」もしっかりした作りで、月曜夜は今クールも見逃せない。これでどこがアニメの停滞だ、って質は良くっても売れ行きに結びつかないんだよなあ。せめて「ゾンビ」だけは買うか。いやそれなら「フリージア」の方が……。迷います。

 恒例っぽく「週刊ダイヤモンド」が新聞とかテレビの業界を取り上げた「新聞・テレビ 勝者なき消耗戦」を掲載していてさっそく買って呼んだら執行役員が11人いる! って会社があってそりゃあまたどこのSFかと思ったら、4万キロ離れた場所にある会社だった。遠くて良かった。でもまあ執行役員なんていわゆる取締役とは違った一種の本部長みたいなものだから、別に大勢いたってあんまり気にならないんだけれど、その下に本部長代理本部長心得副本部長部長とかってのがわんさかいたとしたなら、屋上屋を重ねてなお屋根があるヘビーヘッド。そうでないなら良いんだけれど果たして4万キロの彼方にある会社は。

 そんな特集はそうじて今さら感があって本当はもっとすごいんです的声も内外に飛び交いそうだけれども、4万キロ離れた足下はともかくとして他の会社の動勢ってのやはっぱり気になるところ。ざっと呼んだところで今は本社に囲いができたってねえ、へーな読売新聞が、小学生新聞を創刊したり時事通信を取り込もうとしたりといろいろ画策しているってところが気になった。あと朝日新聞がピークに2000億円あった広告収入を大きく落として800億円くらいにしてしまった結果、ぜったいに抜かれるはずがなかった広告収入ナンバーワンを読売に抜かれてしまったかもしれないという記事がなかなかにショッキング。紙は出てなくても購読層の上流ぶりで広告単価は維持できていたはずなのに、それすら及ばなくなって来たところに朝日ってブランドの夕日っぷりが見え隠れ。果たして。

 そんな朝日が起死回生と取り組んでいるネット事業でウェブロンザっておそらくはオピニオン系のサイトの契約がスタートで330人くらいだったという話は驚きを通り越して笑うしかないというか、そりゃどこの個人ウェブサイトの初日の訪問者数だっていうか。今だって500人いくかどうかってことらしいからホリエモンのメルマガの有料会員数にケタで2つくらい及ばなさそう。どうするよ。とかいいつつiPad向けに始めたところもダウンロード数が1万人に届いていないとか。紙で1万増やすのがどれだけ大変かって言われればそうだけれども何万という単位で下がっている時に、たとえ流通経費がかからなくてもシステム経費はかかるネットでその程度の数字では、やっぱりいろいろきついんではなかろうか。うーん。だからといって今さら紙を売ろうとしたって売れないよなあ、そういう風にしつけられちゃったから、電網完璧作戦の結果。どうなるよ。

 あと気になったのは日本経済新聞社が日経産業新聞の廃刊をも検討しているかもしれなかったりどうかしたりとかいった一文。コメントもなくさらりと流されてはいるけれども、時代性からすればなかなかにクリティカルな問題だけにあるいはと創造してしまう。産業専門紙は日経産業新聞があってそして日刊工業新聞と日本工業新聞が長らく産業3紙として並んで来たけれども、全国規模で地道に活動していたことが足かせとなったか日刊工業が倒れかけてはとりあえず再建へと向かってどうにかこうにかなっている。一方で日本工業新聞は経営ががたっとなった挙げ句にビジネスアイと大事を変えても大きくは増えないまま、記者を親会社の産経経済本部といっしょくたにして産経経済面をつくりつつ、ビジネスアイも作るような形になっている。独立独歩はもう不可能だったってこと。

 それと同じ形態が日経が本紙とともに日経産業を作っていた状況だったんだけれどそこは日経だけあって、産業部に潤沢な記者を置いて隅々までカバーをしつつ本紙にはちょろりと書き産業にたっぷり書くようなことをずっとやり、今もとりあえずやっている。というかやれるのがもはや日経くらいになっていたものが、ここにきて廃刊話というのは何だろう、日経産業を維持できるだけの販売部数も、広告収入も得られなくなっているということなのか。ダイヤモンドには主要企業の広告費の削減ぶりが紹介されててホンダで半減、トヨタで4割減とかって凄まじい数字が載っていたけど、それは大半が大手一般紙だったりテレビといったメディア。そちらでの減少が一般紙なりテレビにダメージとなっても、産業専門紙には専門の広告が出るからニッチでがんばれると思っていたんだけれど、そうした部分にも影響が表れ、また読者がそうした情報を求めなくなっているってことなのかも。いずれにしても確定した話でもなければ火が出ている話でもないんで今後どうなるかはまるで不透明。とはいえ火のないところに煙はの例えもあるんで、状況をしっかり見ていこう、ってか産業が駄目ならほかはもっと駄目なはず、ってことはつまり……。じっと手を見る。生命線が途切れてる。

 「プラチナジャズ」っていうアニメソングをジャズにアレンジして演奏する無茶苦茶に格好良いアルバムがあってスウェーデン人のラスマス・フェイバーって人がアレンジなんかを担当していたりして、去年の春くらいにインタビューして2枚目を作ろうねって言っていたら昨年の11月に待望の第2段が出た上に、今度は前にかなわなかった日本でのライブなんかをやっちゃうって話が舞い込んで、こりゃあ是が非でもいかなくっちゃとネットで待ち受けビルボード東京だなんて近寄ったこともないオシャレ感が字面から漂う場所のライブのチケットを確保。でもって年があけていよいよその日がやって来たんで、アニメ柄のTシャツにネルのチェックシャツを羽織りバンダナをまいてリュックを背負い、フラップの両脇からポスターを2本飛び出させた格好で、ミッドタウンに乗り込んだかというとさすがにそれはできなかった。僕って弱虫。

 普通にスーツ姿で行って果たして、どんな客層が来ているのかと観察したらだいたいが普通に普通の都会人。食べ物も含めてオシャレ感が漂う場所にあって場違い感を覚えながらもエールビールを飲んだりしながら待った開幕。のっけから飛び出す「ハレ晴れユカイ」のポップな乗りにこれがアニソンかと驚きながらも、そんなアニソンがオシャレ極まり菜空間に鳴り響く様に思わず顔もほころびほほえみが浮かぶ。まあそりゃニマニマするしかないようなあ。さらに続くエヴァやらラーゼフォンやらるろ剣やらの曲。ハピマテだの王立だのもありそして梶浦由記さんの名曲「水の証」なんかもあったりと、聞けばなるほど耳に思い出せるけれども、そのアレンジは完璧なまでのジャズスタイルといった音楽に、アニソンというものが持つポテンシャルの凄さ、そしてアレンジしたラスマス・フェイバーって人間の能力の高さを改めて感じ入る。

 もう驚きの楽曲とかあってノリも最高潮の中、現れた兄さんがフランク・シナトラばりにうたう「はじめてのチュウ」の格好良かったこと。アルバムでもまた動画投稿サイトでも聴けないことはないけれど、いかにもスタイリッシュなスーツ姿の兄さんが、のけぞったりゆらゆらしながら響かせる声の良さとも相まって、ああ何て素晴らしい時間なんだと感動に浸って最高の時間を過ごすことができた。トータルでは1時間半もなかったけれども中身はとてつもなく充実。余裕があればまた聞きたいくらいだったけれども残念にも東京はソールドアウトで聴けず。13日には大阪でも公演があってこちらは2回とも余裕があるみたいで、是非にでも駆けつけたいけどそれは流石に。だから関西在住の人で根っからのアニメファンは無理をしてでもかけつけろと、ここに強く言っておく。後悔はしない。絶対に。


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