縮刷版2011年11月下旬号


【11月30日】 スポーツメディアがイケイケドンドンで鼓舞して盛り上げるってことは、スポーツメ界にとって決して悪いことではないけれど、まるで中身がないものにたいして、それでも羊頭狗肉か針小棒大かといった具合にネタをまぶして、無理矢理盛り上げようとするのはやっぱりみっともないというか、それで喜ぶ人なんて誰もいないにも関わらず、いまだにそうした報道の仕方が跋扈するのはたぶん、そういう風にしか報じるやり方を、知らないってことなんだろう。批判したってそれが正統なら大丈夫なんだけれど、そんな批判をするには相手を、中身を知っていなければ難しい。でも知らない。だからスポーツその物ではなくって、スポーツに絡んだ脇から持ち上げ雰囲気だけで逃げようとしては、その裏を見透かされ、見放される。そんなスパイラルが今、スポーツ新聞だけじゃなくってほとんどメディアで起こっている。

 ってことで笑ってひっくり帰った記事。まずはガンバ大阪の新監督に元日本代表の呂比須ワグネルさんが迎え入れられるってことだけれども、日刊スポーツによるその招聘の理由が「日本への情熱とカリスマ性を重視し」たっていうから腹がよじれた。情熱があったところでチームを強くできるわけじゃない。カリスマがあるからって教える内容が妥当とは限らない。必要なのは監督としての力量。そして可能性。そうしたことを分析して指摘する記事なら喜んで読まれるのに、そうじゃないから失笑を買って見下される。だいたいが呂比須さんにいったいどんなカリスマが? ガンバ大阪にいたことがないし、日本代表にいたのだってもう随分と前で、往時のプレーを知っている人はいない。そして中山選手のような熱情でもってゴールを獲得していったわけでもない。巧いし強い。でもそれくらい。カリスマ性とは正反対のタイプだろう。

 描いた記者はいったい呂比須選手のどこにカリスマがあると感じたのか。そのカリスマでいったいどれだけの成果があったのか。敢えてそれを理由にあげるんだったら具体的なものを示して欲しかったけれども、書かれてあるのはただその言葉だけ。「日本への情熱とカリスマ性」。そんな記事なら子供だって書ける。そうじゃないから専門紙なんだろうに。もうひとつ。バレーボールの男子についてこれまで2勝しかできてなくて、10チームあるうちの9位でもはやこの大会で五輪に出ることは絶望的。なおかつ世界大会に回ったところで勝ち抜けるなんてとても思えないのに、五輪出場を「お預け」と書き、最下位だってありえる順位を「4位以下」と書いてまだ何か可能性があるように匂わせる。もう阿呆としか。間抜けとしか。そうした甘やかしが日本のバレーボールを今の惨状に押しとどめ、そしてスポーツマスコミを衰退の一途に叩き込んでいる。その波は一般紙にも。未来よ。って同じ引きだ。

 下部組織はリーグではないとするなら、日テレ・メニーナに所属はしていたものトップには上がらず短大を出てアーセナルの女子チームに所属した石田美穂子さんのケースがすでに実在していたりするにも関わらず、「これまでは欧米トップクラスのクラブへの移籍はなでしこリーグでの経験を認められてからの移籍がほとんど。高校、大学を卒業後、いきなりの挑戦は皆無だ」なんて書いてしまえるスポーツ紙も、とことん間抜けというか書き方を知らないというか。今が旬の女子サッカーを取り上げるなら、そんな日本のサッカーがどれだけ凄いかってことを指し示し、なおかつ欧州のアーセナルってチームがどれだけ名門かを書いて並べることによって、記事に熱さを出そうとしたんだろう。

 でもしばらく女子サッカーを見ていれば、アーセナルは名門だけれど日本のベレーザより強いかどうかは曖昧で、トップチームの男子ほどに強豪中の強豪ってわけでもないと感じてくる。そこに留学していた日本人選手が過去に幾人もいたことも知っている。にも関わらず、そうしたことを隠してさもすごいことのように書くことが、いったいどれだけスポーツのためになるのか。盛り上がりには役だっても後に続かないんじゃなかろーか。

 もうひとつ。たとえ無給のアマチュアであっても、海外チームの方が育成され仕事も紹介され成長できる環境がある、っていうことがるなら、それに向かって進む選手にとって結構な話で応援したいけれど、逆に言うなら日本の女子サッカーチームが置かれている環境の危うさを、透かし見せていることでもある。あれだけ騒がれ持ち上げられても内情は。そんなシリアスな部分を隠して突き進むムーブメントの先に何がある。そこを峻別して理解して、伝える人が多分今は求められている。昔から女子サッカーを追いかけてきた人たちには、だからそこを頑張って、続けていって欲しいなあ。

 いやあ面白い。これは凄い。もう送ってはもらえなくなったようで書店で買って読んでみた集英社スーパーダッシュ文庫の新人賞の大賞を受賞した八針来夏さんによる「覇道鋼鉄テッカイオー」(集英社)だったけれども、童貞力をパワーに変えて戦う武侠の話って設定から来る妙なおかしみが、読み始めると軽く吹き飛び、銀河を又にかけた武侠たちの堂々たる戦いぶりって奴が繰り広げられていて、心ゆくまで堪能できた。

 なるほど主人公の少年は幼少のころから童貞だけが持てる陽気を体内に目一杯ためて吐き出す技によって超絶的な強さを発揮するようになった。他人からはその振る舞いをどうしてあんな素晴らしいことを我慢できるのかと、尊敬される傍ら小馬鹿にもされる始末で当人にはやっぱり憤りもたっぷりなんだけれども、それでもなお童貞を堅持するのには理由があって、それが物語の芯となって愛することと愛せないことの矛盾に苦しむ人の心が浮かび上がる。

 だいたいが師父のように童貞でなくても銀河最強の名をほしいままにできる訳で、けれどもそんな強さではカバーできないことがあったありする。童貞だけが持ち得る膨大なパワーを欲する人がいる。その人のために童貞を守り続けなくてはならない。その人をたとえ愛したとしても、そして一緒になりたいと思っても、童貞でなくなった瞬間に、その人の未来は潰える。その矛盾。その悲劇。設定の妙というやつが、童貞を笑いのポイントではなくして、人間の究極の姿、力を求め愛を求め極めようとする強さの象徴として屹立させる。いや立っても使っちゃダメだけど。

 そんな設定に併行して、宇宙の支配をたくらむ悪の武侠の存在があり、そんな男に従い姫を蹂躙しては王位を簒奪しようとする人物の狡猾さがあって進められる陰謀。けれども最後は拳と拳を交えて語られる強さの証明。なぜ悪が悪へと走ったのかという悲劇が正義への懐疑を色濃くしつつ、それでも正義を貫かねばならない側に、果たして未来はあるかと問われる。どんな未来がもたらされるのか。これから続くだろう先にも興味が湧いてくる。新人賞の授賞式にも今年は呼んでもらえず、書いた人がいったいどんな童貞っぷり、ではなかった武侠っぷりを持った人なのかまるで分からないけれども、誰がどうだって書いたものだけがその真価。この素晴らしさからするにきっと次もその次も、面白くってためになって笑わせ喜ばせる物語を、書いてくれると信じて待とう。


【11月29日】 福島が舞台になってはいながら、今のこの福島的な状況を鑑みるなら、その小説において福島が舞台である意味は、それほど濃くはないような気がするけれども、都会ではなく首都圏ではもちろんなく、かといって北海道とか九州といった遠方でもない福島という日本列島的“郊外”に漂う虚ろな空気を、そこを舞台にすることで捉えた作品という意味では何とはなしにしっくりとくる小泉陽一郎さんの「夜跳ぶジャンクガール」(星海社FICTIONS)。姉が何者かに頭をえぐられ脳を削られほとんど脳死状態のまま3年ほどして亡くなってから幾月か。弟はそれ以来、梢って少女の首を絞めずにはいられない気分になってぎゅっとし続けていた、ある日。

 いつも使っている場所から見上げたそこに墓無美月というクラスでも屈指の美少女ではありながらも、誰も寄せ付けない雰囲気で孤高を保っていた少女が立っているのを見て心が動き、小便を漏らしてそれ以降、梢の首を締めたいという気持ちが消えてしまう。そして美月にアプローチをかけるようになっては、すげなく断られあしらわれる主人公の少年だったけれども、その街でしばらく前から連続していた、少女が自殺する場面を中継する事件の現場にたどり着いてしまったことから、美月に興味をもたれてつき合うようになる。一方で梢との仲がぎくしゃくとしていくなかで、僕は連続する自殺の真相を突き止めようと街を失踪する。

 墓無が言う事件に関わるジンガイなる存在の実在性の曖昧さと、僕が家で見る死んだはずの姉の幻影の幽遠さが、リアルな退屈さから抜け出したいと心に見て浮かべる非日常への感覚を、代弁しているような印象。ただでさえ閉塞感が漂う上に、原発の事故という超非日常も重なって心に刻まれた遊離し浮遊する感覚が、あるいは現れている小説ってことになるのかも。非現実に決着が付けられる訳でもないし、墓無が銃を持っていてそれがスペアまであるって不可思議なシチュエーションに説明がされる訳でもないけれど、あの場所に生きるあの世代にたぶん共通の、ふわふわとしてもんもんとした感覚に、あふれ満たされた物語ってことになるのかな。その意味では世代の文学。渋谷の女子校が閉鎖され爆撃が、って話よりもむしろ迫ってくるものがある。次に見せる言葉にも注目。

 SF方面では小松左京さんを宇宙へと送り出す会が開かれていたようだけれども、ただのSFファンで小松左京読者には誰かと何かをするよーな甲斐性もないんでひとり引きこもって小松SFを読み直してその旅立ちを見送ることにする、といって読んでいるのが「男を探せ」ではなあ、よく分からないというか趣味が偏っているというか。っていうか宇宙だけが小松SFでもないんでここはやっぱり大ヒット作の「日本沈没」に敬意を示し、小松左京さんを日本海溝の底へと沈め送る会というのをひとりで勝手に開いては、これ以上日本が揺るがないような重鎮となって頂きたいと願うばかり。あるいはインフルエンザの季節に「復活の日」よろしく生き残り立ち直れるよう祀り祈るとか。人それぞれの小松左京。そして送り方。やりましょう。

 「フロンティア、ナウ」ってもう随分と前に出た本を書いた野崎雅人さんが本を出してて帯を見たら受賞第2作っていうからつまりこの4年くらい、書いてなかったってことなのかとひとつ驚き。何をやっていたんだろう。その小説「」天王寺クイーン」(日本経済新聞社)は「戦国時代の闇の勢力がついに大阪を乗っ取る 巨大な<荘園>を建設し伊丹空港を封鎖? 女王に立ち向かう引きこもり女子高生の、iPodから流れるのは、70年代のあの名曲」って帯にあっていったい何だろう、万城目学さんの「プリンセストヨトミ」みたいな伝奇的なユーモア小説だろうかと手に取って読んだらちょっと違って、むしろ奥田英朗的なノワールにガチャガチャが折り重なったパズルのような小説だった。

 引きこもりでABBAを好きで聞いてる女子高生の少女がいて、医療機器の販売をしつつ医師に援助交際をやらせてそれをネタに強請っている男がいて、建築士の夫と来た大阪で茶道から闇へとつながっていって組織の幹部にまでなっていた人妻がいて、そして借金を抱え自殺した父の後を継いで借金まみれの印刷工場を動かす若者がいてと、そんな感じにまるで関わりのない面々が、訳あってつながり重なり合った信用金庫を舞台にして、大阪の闇に蠢く組織の長の継承が見えてくる。何だか不思議。そして複雑怪奇。それぞれに事情を抱え、強請り強請られ脅し脅され誘い誘われて重なり合った男たち女たち。その経験と告白から垣間見える闇の断片を、手探りのようにつなぎ合わせていく楽しみが「天王寺クイーン」にはある。真っ直ぐに読めていける小説ではないけれど、まるで見えない先を追ってカオスな切片を繋ぎ重ねていく快楽を味わえる。凄い作品。4年間待った甲斐はあったなあ。

 漫画で着ぐるみ少女が主人公になった「くるみのき!」といいうのが出たと思ったら日本ファンタジーノベル大賞からは「吉田キグルマレナイト」というやっぱり着ぐるみがテーマとなった小説が出ていたりしてにわかに高まる着ぐるみムーブメント。一方では本屋で見つけて買った集英社スーパーダッシュの大賞作品が童貞を力に変える少年の話で、さらに来月2日に創刊されるらしい講談社ラノベ文庫のラインアップにいずれ入ってくる作品にも、ドウテイオーとかいう作品があったりして高まる童貞ムーブメント、って書いていて手がベタついてきた。そんな渦中にメディアワークス文庫が着ぐるみと、童貞とそれぞれがテーマになった2冊をぶち込んできたからムーブメントも大爆発。いったい何がどーしてこーなった。社会学的研究を求めたい。あるいは童貞が着ぐるみをまとう小説とか書いたら売れるのか。要研究。挑戦はしたくないなあ。


【11月28日】 AE86が妙に神話になったのって、それは漫画の「頭文字D」で豆腐屋が峠を突っ走ったからってのがだいたいの理由で、現役だった当時はなるほどそのスタイルにカローラ・レビン、スプリンター・トレノともども惹かれはしたけれども、どこか丸っこさが残るビューにはちょっと違和感を覚えてた。むしろその前の代のTE71型って奴の方が、直線的でスタイリッシュな上に後部の車名を現すプレートも立体的でなかなかに格好良かった。あれを勝手にはがしてカバンに張り付けている奴もいたっけか。田舎の子供は恐ろしい。エンジンも伝統の2T−Gで、古めかしさに惹かれるところがあったなあ。けどAE86のあまりの突出した知名度が、TEの存在感をかき消してしまった。ちょっと悲しいと感じる40代後半。

 そんな86がいよいよ復活するってんで話題になっているけれど、報道なんかを見た限りどことなくデザインがホンダっぽい上にリアのふくらみは日産のフェアレディといった雰囲気。足して混ぜたような感じのものをあの伝統の「トヨタ2000GT」に近づこうとしたものだって言われたところで、おいおいそれってちょっと言い過ぎなんじゃねって気分が先に立つ。折しもディアゴスティーニ・ジャパンからは10分の1サイズの2000GTの模型を作れてしまうパートワークが間もなく創刊。その絞り込まれてグラマラスなデザインを見るにつけ、ボンネットのどことなく平べったいトヨタの86なんて足下にも及ばないんじゃないかって気が強くする。

 むしろそれなら同じコンポーネントを使いながらも、スバルが作り上げたBRZの方が、基本的に同じであるにも関わらず何か印象としてグラマラス。同じボディなのになぜか感じ的には2000GTに並んでいると思えるから不思議というかスバル好きの先入観というか。リアにも巨大なウイングとか立てててスパルタン。若者を意識しながらそこまで冒険できないトヨタの大企業的体質が、どっちつかずの86を作らせ、ラリーに挑みマイナーでありながらも、常に時代に食い込む車を作り続けてきたスバルの根性が、BRZを作らせたのか。ってことで値段変わらないなら買うのはBRZ。スバルらしく4WDとかってんなら面白かったけれどもそれは流石にないか。トヨタはプリウスのような機能性自動車を別にすると、アルテッツァ以来面白い車を作れてないなあ。それで日本一。だからこそのトヨタなんだよなあ。

 アデーレかわいいよアデーレ。そんな彼女が柄に紋章の入った戦闘用の槍を抱え手に桶を持ってあゆみ去るところで呼び止め、いろいろとたずねた武蔵王ヨシナオとの会話で妙にジンとしてしまったアニメーション版「境界線上のホライゾン」。これから危地へと向かうというのに、誰もが明るくてそして前向きで、1人の少女を助けるんだと言ってきかないバカな葵・トーリを支えようって意気に満ちている姿が、あの苦労人のヨシナオ王をして感じさせるものがあったんだろう、そんな表情や声音が伝わってきて今を過たずに最善の未来を得るために、何をすべきなのかって考えさせられた。かつて苦渋の上に選んだ道が、過去に埋もれたヨシナオ王が新しく選んだその道が続く先に何がある? 期待してつき合おう、最後まで。ところであれで結構強いんだよなあヨシナオ王。迫る“要らず”の気配を感じて短刀を握り、中空を飛ぶ機器の音を瞬時に覚えて攻撃を予告する。学生じゃない現役でない彼らが本気出す場面、来るかなあ。

 それと感動はもう1つ。トーリが救いにいくと大声で宣言した姿を、どこかで聞いていた里見の面々。第1巻ではまるで関わらず第3巻になってようやく現れる面々なんだけれども、そこでちゃんと出してはトーリの言葉を心に刻み、そしてやがて重要な決断をして役割を果たす里見義頼をここで出したということは、スタッフにはそこまでやり遂げる覚悟があり希望もあるんだと思って、果たして良いのかな。原作にだってその当時は示しもされていなかった里見の動勢を入れた意味、ってのを噛みしめたいし信じたい。それにしてもそんな義頼をちらっと見た里見義康が、あれだけの登場でアデーレにすら勝らずとも劣りまくりなことを、果たして誰が感じたか。その身の不幸が記されるのも第3部の上巻。源義経のちょんまげ3連続という名シーンともども楽しみにして待とう、それが映像として流れる時を。流れるかって。

 「さよなら」はやっぱり別れの言葉で、それっきりになってしまうことだってあったりして、どこかに寂しさも漂ってしまうけれど、そこに「またあした」とつけることで、言葉には未来を信じる希望が満ちて、心を前向きにしてくれる。シギサワカヤさんという人の漫画「さよならさよなら、またあした」(新書館)はだから、とっても前向きな物語。主人公の育という少女は生まれながらに心臓に疾患があって、20歳まで生きられるかどうかと言われていた。親の優しさをたっぷりに味わい申し訳なさも感じつつ、それでもそういう自分をやや諦め、学校でもそうした弱さをネタにしながら明日どうなるかと思い生きてきた、ある日。それでもやっぱりやり残しておくことは宜しくないと思い、高校の卒業式でどくにつき合ってもいなかったけれど、親しくはあった若い教師に向かって結婚して欲しいと告げる。

 驚き慌てながらも、当人にもいろいろ思うところがあって、そして当人にも複雑な過去があって育への情感が浮かび、受け入れ結婚した2人。それから10余年、育はやっぱり病弱ながらもどうにか命を保って生きている。今日という日を生き抜いて別れを告げても明日やってくる今日という日をまた生き抜く、その繰り返しによって1歩づつ、先へと進んで未来をひらく。漫然とただやってくる日々を過ぎている自分のような人間にとって、及びもつかないだろうその熱くて切ない今日という日への想いを、改めて知ることでかけがえのない生というものへの思いが見えてくる。

 育とは同級生で、少女のころから関係があって今は企業の総務でアラサーのお局さんをいしている女性が、入ってきたばかりの新入社員の若い男子から興味を持たれ、アプローチを受けつつ、慣れていないからと怒ったり拒絶したりして、それでもだんだんと知り合っていく様子を間に挟みながら、進むことによって何かを超え、確実に起こり始めた変化というものを感じさせてくれるところもあるストーリー。そうやって繰り広げられた今日という日への熱情が、ラストのエピソードで少しばかり途切れそうになって、もうこれまでか、なんて思わされるのもつかの間。凄絶な生への思いを叫ぶ育の姿に負けられない、逃げられないという思いを持たされる。ドラマチックでもなく悲劇のオンパレードでもない静かな展開。だからこそにじみ出る心情。傑作の漫画がまた1つ、生まれた。


【11月27日】 お台場にガンダムが帰ってくるとかって話があって何やら作りかけのショッピングターに足とか立ち始めていてそしてバンダイからも来年には登場するってリリースが出たけれども、今から3カ月も先の話を振ったところで話題性にはちょっと乏しくなってしまうしだいたいいつまでガンダムで引っ張る気なのか。目新しさすら感じられないイベントを打って平気でいるならやがて飽きられ埋もれてしまう。ここはそう前フリをしておいて、完成してみたらじつはガンダムではなくコレジャナイロボが等身大で立っていた、なんて話になれば世界は驚き宇宙が震えると思うんだが。って言うか僕が見たいんだ等身大コレジャナイロボ。やってくれないかなあ。無理ならせめてカバーでもってその絵を描いて見せるとか。でもじつはガンダムAGEだったという落ちならそれもアリだ。おおアリだ。

 何かNASAが月面でアームストロング船長が人類にとって大きな一歩だけれども俺にとっちゃあただ置いただけの足だぜって言ったあたりが立入禁止にされるとかどうとか。行きたいって言ったところで行けるはずもない場所にどーしてそうまで警戒するのか。あるいは遠くから無人の探査機あたりをぶち込まれ、せっかくの足跡が消されてしまうことを恐れているのかもしれないけれどもそれよりやっり気になるのは、じつは本当は足を踏み入れていなくってカプリコン1状態で、それが月面に誰か行かれてバレてしまうのを恐れて予防線として立入禁止を訴えた、なんて話も今頃は陰謀論者たちの間でかわされているんだろうなあ。あるいは逆に本当に行っていたんだけれどそこでウサギさんたちの歓迎を受けつつけれどもウサギさんたちから内緒にしておいてねって言われたことを律儀により厳密に守ろうとしているとか。さてどっち。

 えっとウェンツで「タイガーマスク」ですかそうですか。いや別に彼が鍛えてそれなりな上半身を持った上で戦いに挑んでくれるならそれはそれで見応えがあるものになって実写版「あしたのジョー」で伊勢谷友介さんが見せた鬼気迫る力石徹くらいの迫力を感じさせてくれることになるんだろうけれど、どうやらそうではなくって何やらスーツを蒸着だか瞬着だかするとそれがパワーを生み出す源になってひ弱なウェンツでもプロレスラーのボディを身につけられるってことみたい。それって反則じゃん。誰がどう考えたって反則じゃん。まあでも相手にだって頭にボウリングの球だか鉄球だかを仕込んだミスターNOがいたし、顔面フラッシュで相手を眩ませるザ・ゴールデンマスクとかいた訳で、仕込みOK反則上等の世界でタイガーだってそれくらい、許されるよね? 許されるかてーの。

 そういう戦い方でもって最初は悪の虎と恐れられながらもやっぱり出来ないと正義に転じて狙われるようになったその悲壮さを、ファンは支持したからこそタイガーマスクは正義のヒーロー足り得た。反則に真っ向から立ち向かってはそれを撃破し肉体のみで勝利をつかんで進み続ける男のダンディズムに誰もが熱狂した。そんな彼が一方で正体を隠して子供たちの為に何かをしようとするからこそ、その行為が慈善の代名詞となって感動を与え、今なおタイガーマスクの名を借りて慈善をなそうとする人が生まれた。なのに。身をスーツで来るんで反則上等、勝てば正義だなんてやってしまう男をどーして誰が支持できるのか。それとも相手はそれ以上の反則でもってやってくるのか。ミスターNoは頭部に核弾頭を仕込み、ゴールデンマスクは顔面から拡散波動砲を発射しザ・エジプトミイラは包帯の隙間から凶悪な杉花粉をまき散らしてタイガーのみならず観客の鼻を目を粘膜を侵すのか。

 エスカーレートする戦いはもはやプロレスではなく感動を超えた驚きのショート化す。それを見て大笑いことすれどこに感動と感涙を求めればいいのか。分からないけれどもあるいはそうしたことをちゃんと取り入れ、真っ当な方向へと着地させてくれるかもしれない。逆にそうではなくって実写版「ドカベン」もかくやと思わせるカルトな方向へと向かうかもしれないけれども、その場合もはやタイガーマスクから届けられるランドセルには笑いが含まれることになるだろう。それで良いならやれば良いさ。しかし他のキャスティングも気になるところでとりあえずグレートゼブラは中に入れる人が存命ではない以上、今いる人から選ぶしかなさそう。チェ・ホンマンあありか。一方でミスターXはあの声こそが鍵なので、声を演じた柴田秀勝さんに生身の俳優としてあの格好をしてマントにシルクハットにステッキでもってリングに立って欲しかったなあ。哀川翔さんらしいけれどもちょっとドス味が違うんだ。いっそ吹越満さんで。ってそれじゃあフライドチキン男だよ。

 「もやしもん」の1番くじはどこもかしこも売り切れで生きている意味の半分くらいが消滅してしまった。あの蛍のフィギュアのびらびらの下がいったいどーなっているのか知りたかったのに。やっぱり履いているんだろうか。そしてついているんだろうか。「ラブプラス」のくじも売り切れ。発売が伸びたというのに今でもしっかり人気とはこの果報者。コナミはだからしっかりと仕上げてバレンタインデーに狂喜乱舞の花を咲かせ賜え。秋葉原ではだからほかにやることもなくとりあえず「あの日みた花の名前を僕達はまだ知らない」のブルーレイの第6巻を買ってボックスをもらいヨドバシカメラあたりをのぞいて追われたゼンハイザーのイヤホンの代わりになるものを見繕うとしたけれどもスペック信仰に邪魔されて結局選べず。えいやってのが良いんだけれどもそれが出来ないのがスペックオタクって奴で。Tシャツ屋にはラムちゃんのも入っていたけどこれからの季節で着る場所もないしなあ。タイミングが悪かった。気が向いたら来年買おう。竜之介が出ていればなお結構。安易に「海が好き」のみとか止めてくれ。


【11月26日】 最終日に向けた上映のその直後にユーフォーテーブルの作ったアニメ文庫の上映があったんで通ったテアトル新宿で、待っていたロビーに出てくる人の表情がなかなか良くって人数もそれなりにいて上映開始から1カ月経ってそれなりに評価も挙げて評判も呼んでいるんだと認識したアニメーション映画「とある飛空士への追憶」。だいたいが今時の劇場で封切りから1カ月も映画を上映し続けるってのが希でだいたい2週間くらいで打ち切りになってしまうところを頑張って、ほとんど単館ながらも回し続けた甲斐もあった模様。さらに続けばもっと伸びたかもしれないけれどもそこまでではなかったためか終わってしばらく。やっぱりそれなりだったということで近所にある角川シネマでもってリバイバル上映がスタートした。

 これはやっぱり観ておかなくっちゃと朝からかけつけ劇場に入っておまけのフィルムを観たらファナだった。あれは多分皇子を出迎えに行く直前の部屋で身繕いをしている時のファナ。だから表情は硬くって髪も長いんだけれどそんな外部に対して心を閉ざし自分を包み隠しているようなファナが、昔のように誰にも自由で元気もあったころを取り戻していくプロセスって奴を、映画で見てから改めてフィルムのファナを観ると、なるほどそういう変化も含めてしっかり表情を描いているし、声だってそういう感じになっているんだなあって思えもした。

 棒とかいうけど周囲に心を閉ざした人間の言葉はあんなもの。そして中盤以降に元気が出て、感情が出てからのファナを竹冨聖花さんはちゃんとしっかり演じてる。可愛らしさも強さもいじらしさもそこに現れている、と思う。僕はだからそんなファナを観に劇場に行くことが、とっても楽しみになっているんだろう。好きっていうのはそういうことだ。それから神木隆之介さん。内にさまざまな感情を抱きながらもそれを外に出さないで、作り笑顔の奥に秘めながらも何とはなしに憤っているかもしれない情動を、ちゃんと言葉にして演じている。そう感じることによって耳そばだて、セリフを聞いて含まれるさまざまな感情のニュアンスと、情報の多彩さを感じ取れば映画の楽しみがぐっと広がる。それが楽しくってやっぱり僕は劇場に通うんだ。

 でもやっぱり上映開始から2カ月近くが経って、あれやこれや言う人の言説ばかりが目立ってしまう情報環境もあっていったいどれくらいの人が来るのか心配したけど、フィルムに吊られた僕だけではなくってちゃんと映画のファンとして普通の人が来ていたのが嬉しかった。男性もいれば女の子たちもいてだいたい15人くらいが上映を観ていた様子。見終わって自分の中に感動を味わいながら周囲を見渡し、どんな反応なんだろうと確かめる、その瞬間を味わえるのも映画館ならでは。楽しみだったそれは目にハンカチをあててぬぐっている女の子とかいたりした。伝わっているところにはちゃんと伝わっている。だから作り手の人たちは自身を持って良いんじゃなかろうか。終わってからも認識票の小さい形をしたガチャガチャを回してたし。それだけのファンがいる映画。それだけのファンを得た映画。その事実があれば十分じゃないのかなあ。また行けたら行こう。それからBDもちゃんと買おう。

 会場を出て秋葉原のゲーマーズで「境界線上のホライゾン」のエンディングを歌っている2組のイベントがあったんで出むこうと思ったけれどもそれと同じ時間に先だっての「ANIMAX MUSIX2011」で歌っててその歌いっぷりとあとシンガポールから来たっていうバリューに興味がわいてSea☆Aってユニットのイベントを観に東京ドームシティのラクーアへ。さても山ほどのそういうファンが詰めかけているかと思ったら案外に少なくって30分前で少数で始まってからも10人いるかいないか。でもって他は遊びに来ている家族連れっていったアイドル的にはアウェイの中を現れた4人の、寒空にも関わらずホットパンツにへそ出しルックでホライゾンが「お腹が冷えたらどうしますか」と突っ込みそうな格好で、元気に歌って踊ってみせたことに引っ張られたのか、立ち去る人もそれほどいないままちゃんと最後まで演じきった。偉いなあ。でもそれはパフォーマンスのうまさ故。それだけの実力を持っていることを4人は誇って良いと思うよ。

 4曲歌った中ではやっぱり待ち時間にヘビーローテーションされていた「DELI−DELI☆DELICIOUS」ってアニメ「トリコ」のエンディング曲が楽しげで踊りも面白くって目がくぎ付け。足もあげたりと視線を奪うようなアクションもあったりするけれど、それを何の衒いもなくやってしまって周囲を楽しませようとするスタンスが、とっても好感持ててついつい応援したくなる、ってんで最後に写真集がついたCDを買って4人を握手。女の子に触ったのっていつ以来だ、っていったオヤジな声も丸出しにするけれどもそういう場にいって雰囲気を確かめることで、こないだの「ANIMAX MUSIX」の記事にもディテールを加え厚みを増すことができる。休日でも自腹でも情報の確保に身を惜しまないのが信条ってことで。決してアイドルが観たいから、アイドルと握手したいから行ったんじゃないぞ。と思うぞ。と言い訳するぞ。次はどこに行こうかな。

 戻って新宿で三の酉。いいだこの丸ごとはいったたこ焼きを食べて腹ごなしをしてからバルト9で開かれた「トワノクオン」の最終第六章の舞台あいさつを見物。じつは第一章しか今出に見ていないんだけれどの妙な能力に目覚めた子どもたちが大変な目に合う前に救い出そうとする組織があってそこにいたのがソルジャーブルー、じゃなかったクオンという名の見た目は若いけれども長く生きている人物で、力を使い皆を守ってきたけれどもそこに敵。力を狙う奴らが現れいろいろあったようでそれが第六章でもって総決算的に解決へと運ばれる。とりあえずなるほどそうなったのかと納得。そして浮かび上がったあいつらをいったいどするのか、そこではもはやクオンはクオンとしての能力をふるえるのか、なんて思いも浮かんだけれども今はしっかりとまとまった最終回を味わい訪れた平和を喜ぼう。ユリは相変わらずに綺麗だったなあ。その姿態を見ているだけでも僕は満足。うん満足。


【11月25日】 三島由紀夫さんが自決してえっと何年だ、41年ってことはあんまりキリも良くないんで特に何事も起こらないけどそれにしても忘れられずにいろいろ思い出される憂国忌。対する桜桃忌っていったい何月何日だったっけ、衝撃的ではあっても古すぎて思い出されないそんな文豪没日。これからもしも出来るとしたらいったい誰のがどんな名前で語れることになるんだろう。ノーベル文学賞の大江健三郎さんだとイーヨー忌かそれとも代表作から奢り忌かレインツリー忌か。しっくりこないなあどれも。20世紀から21世紀にかけて名を残すだろう村上春樹さんだとはる忌? それは駄洒落過ぎるからやっぱりノルウェイ忌にしておこう。誰だか分からないよそれだと。ピンボール忌? やっぱり誰だか分からないよ。

 言いたいことを要約するなら「桃井ばっくれてんじゃねえ!」ってことなのか。清武元球団代表による外国特派員協会でのスピーチから読みとれたことに今まで言ってることを大きく上回って世間を震撼させるようなことは何もなし。単なるガバナンスをコンプライアンスコンプライアンスを言っていたりするところへの違和感もまるで拭えず手前の会社の決めごとがどーなってたって世間じゃ全然関係ねえんだってことを未だ認めず訴え続けるその姿の、見えない敵に向かって突き進むラマンチャな男っぷりがどうにも痛ましい。1点、新しいのは今は完全にナベツネさん側についてる桃井元オーナーが実はそれ以前に清武元代表から相談され認めつつナベツネさんの横車を苦々しく思ってた、って説明だけれどこれだって密室での出来事で証明はできないからなあ。そうでないら良い迷惑だけれど桃井さん。それともやっぱりユラユラフラフラ?

 しかし進めば進むほどどツボにはまっていく感じがありあり。なるほどナベツネさんは江川さんのことを客寄せダンボ的に認識していたかもしれず、それを清武元代表を相手に広言していたかもしれないけれどもそれが江川さんへの激しい侮蔑だ何だと非難する清武元代表の口激が、はからずもそうした認識が巨人的にあるんだってことをあからさまにしていて、余計に江川さんを侮蔑しているから何というか。相手のことを尊敬するならそうしたことはたとえ事実であったとしても、あからさまにはしないのが筋ってものなんだけれど、自らの立場を正しいと認めさせるためにナベツネさんの言を引っ張りそこで江川さんへの侮蔑を世にあからさまにしてしまった。あんまり誉められることじゃない。それは立場ある人を貶めることになるから敢えて黙して語らないのが男気なのに。その1点でやっぱり信用、できないなあ。

 ようやくやっと届いたなでしこジャパンのジャージを原宿のKAMOで引き取る。随分とたってシーズンも終わってしまって会場へと出向いてマーキングをしてもらった沢穂希選手からサインを頂いたりする機会もなくなってしまいかけているけれど、何か30日にアーセナルレディースとの試合があるみたいだし、それ以外でも全日本女子選手権とかまだあるんでそうした機会でどこかに来たとき出待ちしてサインをもらうとか、できればオーセンティックななでしこジャパンのジャージのチャンピオンエンブレム入りにもいっそう、価値が高まりそうな気がする。とはいえそうやって売ってしまう輩も少なくないだけにサインをする方もしづらいだろうなあ。箱で持っていくより着ていけば売る気ナッシングと分かってもらえるかな。でもそれ1枚だと寒いんだよなあ。来年に回すか。

 前に見たのはそうか1年半も前のことになるのか。その時はJCBホールといったけれども今は冠が取れて東京ドームシティホールだったっけ、そんな名前のホールへと出かけてKalafinaのこの日ばかりのツアーではないスペシャルライブを見物する。あれから後に渋谷公会堂を経てNHKホールと規模を大きくしていったKalafinaだけれどその分、近さからは離れていってしまってちょっぴり寂しい思いをしていただけに、復活してのホールライブに期待していったら期待を上回るパフォーマンスで感謝感動感涙歓喜。まずステージが近いってこともあったけれども、それ以上に音響のバランスが良くって歌声が隅々までしっかり聞こえて歌詞に気持ちを乗せて聴き入ることができた。

 いつかの渋谷公会堂はドラムがデカすぎた上にくぐもって、歌詞が聞き取れず妙なひっかかりが残っていたからそれが大きく解消されてのライブ感。もちろんその後のNHKホールもちゃんと聞こえたんだけれどもやぱり広い会場なだけに浴びるような感じからやはは遠のいていた。東京ドームティホールなら歌う3人を中心に置いて包み込むような空間を、満たすように歌声が満ちて心をいっぱいにしてくれるのだ。ほんと最高。なおかつ歌声も進歩進捗。Wakanaさんのハイトーンは変わらず巧かったけれどもKeikoさんの張り出す声も空気をふるわすように響いてきたし、Hikaruさんの声も可愛らしさを超えた透明感と艶が同居したような不思議な味わいが感じられた。

 三者三様の醍醐味を、存分に生かして奏でられる音楽の数々は最新アルバム「After eden」からの楽曲すべてが流れてそれぞれの良さを再認識させてくれた上に「Love Come Down」から始まったビートの効いた楽曲は「音楽」まで続いて心を浮き立たせてくれた。そしてアンコールでは名曲の「oblivious」があってそして来た来た「snow falling」。浪々として静かに流れる歌声を聴くだけで冬に今いるんだって気分がわいてくる。これを暗い中で降りしきる雪を見上げながら聞いたらいったいどんな気分になるだろう。

 そう思わせてくれる深さを高いパフォーマンスで演じてみせたKalafina。もはやアニメミュージックとかいた枠組みを超えJ−POPだなんて陳腐な言葉でも括れない音楽ユニットになっている。それはだから「Kalafina」というジャンルの音楽なんだと、言い続けているんだけれどそろそろ定着してきたかな。そして来年には超ブレイクと言ってくれるかな。そうならなくたって自分が好きな音楽をいっぱいやってくる人たちとして、ずっとずっと応援していく所存。まずは中野サンプラザだ。頑張って行ければ行くぞチケット手に入れて。


【11月24日】 でもやっぱり気になったのはバルログと俗に呼ばれるサイリウムの複数持ちで、それを普通のルミカライト的にボーッと光るものを4本、指に挟んで振り上げる程度なら後ろから見ていても何人かのサイリウムにまぎれてしまってそんなに気にはならないかもしれないし、指先で持つよりしっかり握ろうとして長さもやや短めになるからなおのこと、後ろへの影響は軽微にとどまるかもしれないけれどもこれを何か専用の機具にはめ、団扇のようにして振り回されると流石に後ろからは何も見えなくなってしまう。なおかつサイリウムではなく蛍光ランプをはめて振り回した日には、目の前で輝く扇をhられたが如くで完全に視界を遮られる。

 すなわち迷惑千万。だから普通なら止めようぜって話になるにもかかわらず、幾人かがしっかりと存在しては遠目にも巨大な輝く団扇を振り回して、後ろの視界を遮っていたりして、どうして周囲の誰もそれを止めさせようと思わないのか、あるいはスタッフに行って迷惑だからと連れ出してもらわないのかと思うんだけれどそれがうまくいってないから今もって存在し続けているんだろう。それが世間でとっても恥ずかしいこと、人間として愚劣で愚鈍で害毒だっていった風評が広まればあるいは止めるものなのか、それでも敢えてやるのか、分からないけど聞くとそうしたことを禁じるライブも増えているとか。趨勢として沈滞化に向かっていると思おう。

 いっそジュリアナのお立ち台みたくバルログ&オタ芸専用台を作って、やりたい人をそこに集めるってのはどうだ。1メートル四方にだいたい20人くらいが乗って、バルログを振り合いオタ芸を打ち合ってぶつかりあって血みどろに。それでも落ちず止めない根性を見せてくれれば、誰もがそれを偉業を見なすかも。見なさないかも。まあANIMAX MUSIXの場合はステージに向かって右手の檀上になった席に1人、すごいのが居続けたのとあとはステージの飛び出しの左にやや派手なのがいた程度。進む是正化の動きのなかで何かしっかり応援になってそして当人も楽しい行為が生まれてくると信じたい。自然に盛り上がって手拍子と声援が飛ぶのが1番、良いんだけど。

 あれはいつだったっけ、東京MXがまだお台場の先の青海にあるテレコムセンターの中に置かれていた当時、ゆりかもめで多分日本科学未来館に行こうとしてたんだろうか、その先に向かおうとしていた夕刻、立川談志師匠が若い付き人のような人間を連れて2人きりで乗り合わせている姿をみかけたことがあったっけ。調べるとMXで番組を持っていたようでそれへの出演のために移動していた最中だったみたいだけれども意外だったのはあれだけの有名な人が、タクシーとかで局に乗り付けないでゆりかもめに普通に乗っていたこと。そりゃあ乗れば確実に時間に遅れず到着出来る便利な乗り物、合理的に考えるならこれしかないんだけれどもそこはやっぱり芸能界の偉い人、タクシーが常道かと思ったらそうでもなかったところに合理性を重んじる談志師匠の生き方みたいなものを勝手に感じたっけか。懐かしい。

生まれて育った場所が名古屋なんでテレビは地元かあるいは関西系の番組が中心だとやっぱり登場するのは吉本芸人でそちらの落語家たちが中心。東京で活躍していただろう立川談志さんのおとは何とはなしに知っていてもテレビでよく見たりCMで盛んにながめたりして身近にお笑いを教えてくれた人、ってことには実はならずその偉大さって奴が実はあんまりよく分かってない。「笑点」を最初に始めた人ってことだけど、見知った時にはすでに南伸介さんになっていたからなあ。それでも時折番組なんかで語る口調の雑ぱくながらも切れ味の鋭さには感嘆していた訳で、そうした時評家としての談志さんにはやっぱり頭が下がる。

 一方、芸人として、落語家としてはやっぱり未知数。桂三枝さんとか桂文珍さんとか笑福亭鶴瓶さんといったテレビでおなじみの関西落語の人たちの方が、馴染みがあって受け入れやすく逆に関東の落語の人たちは、その芸に触れる機会もなくって分からない。ただ聞けばやっぱりそれなりに、聞かせるおのがあるってことは高校の文化祭に来た歌丸師匠と当時の楽太郎師匠の高座から分かってる。だから機会があれば談志師匠についてもDVDとかで高座を見返したいけど、それで分かるほど通でもないしなあ。20年も前から東京にいるんだから見ておけば良かったと今は少し残念。だからこそ見ておかなくちゃいけない落語家がいたならこれから見に行こう。誰だろう? 誰ってことなく寄席にいって昼間と夜とをぼんやり聞きながら学んでいくのがやっぱり1番か。

 秋葉原で「ももいろクローバーZ」を見物する。なるほどこれがももクロか。ポストAKB48っていうかすでに好事家の間では人気も認知も上回って大人気になっているって思ったんだけれど、会見に来ていたテレビカメラはせいぜい1台で、そんな寂しさに世間の認知はそれなりでも、すべてに遅れで人気があるから人気なんだ的トートロジーに支配されているテレビにとっては、まだまだ無名の存在なんだって分かって寂しくも面白かった。そりゃあテレビ、落っこちるはずだよ。ところでももクロって何が得意なの? ってやっぱり僕も知らなかった。まあいいや、かわいかったから。これからファンになろう。早見あかりさんはもういないけど。何だ知ってんじゃん。

 んでもってそんなももクロが魂ネイションな会見に来たのは何かバンダイがフィギュアを作ることになったから。グッドスマイルカンパニーでもなければ海洋堂でもない天下の玩具メーカーのバンダイが、そーやって狭いところに食い込むようになったのはやっぱり嗜好が分散化している現れか。でも少ないロットで確実に食い込み稼ぐビジネスとは正反対の、広いところに大量のロットを送り込んで10億100億単位で稼いでこそのバンダイ。それをかなぐり捨てざるを得ないところに今の玩具の状況と、一般の趣味の多様化が来ているのかも。そうなるとメガハウスとかバンプレストといった狭いところで確実にファンを掴む商売をしてきたところが厳しくなるよなあ。カニバリな中で何を狙うかバンプレストにメガハウス。思いっきり趣味に走ってくれると嬉しいかも。結城蛍はPOPサイズで最高なのを出してくれ。8000円でも買うぞ僕。

 選考会に飲んだくれて来てろくに審査もせず落として悪し様に言った選考委員を本気で殴ってやろうと思っていたと日本ファンタジーノベル大賞の表彰式のスピーチで、受賞者を前に開かした椎名誠さんだけれどそんな椎名さんがこれまでで最低かもしれない受賞作だと明言したところで誰が椎名さんのところに言って殴れよう。あの格好良さ。そして腕っぷしの大丈夫そうな感じ。とてもかなわない。何より悪し様に言われようとも大賞となり優秀賞となったことには代わりがない。それは該当作がないのではなく水準には達していたという証。それでもなお至らない部分があったと諭してくれるだけ、読みもしないで悪し様に言って殴られようとしていた選考委員とはまるで違う。だから書き手はどう応えるかだけだ。スイスに旅行に行ってビキニを見つけたりしなくても良いんだ。しかし荒俣宏さんは今でもアグレッシブだなあ。


【11月23日】 気が付くと朝になってて五輪代表のバーレーン戦を見逃していたけれどもまあ勝ったし、でもって五輪が決まる試合でもないから気にしないことにする。でもって見返したアニメーション版「ちはやふる」は肉まんくんが登場。いわゆるジャイアン系のオバさん声かとおもったら普通に野太い兄ちゃん声で、それが実はあっていた。目で見て勝手に思いこんだイメージって案外に当てにならないなあ。そんな肉まんくんが鈍重そうに見えて実はテニスがとても巧かったことも判明、やっぱり人は見かけによらない。その反射神経と運動神経でもって挑むかるた。けれどもかなわなかった綿谷新っていったいどれだけ強いんだ。いつか来るその真剣勝負に期待。あのクイーンにだって勝ってたんだもんなあ、昔は。

 これでメンバーはとりあえず5人そろったんだっけ。そして都内での大会があってとりあえず近江八幡宮行ってクイーンが現れて対戦してようやくどんな声かが聞けるというか。あのイケズな声をイケズに演じられるのは誰なんだろう。楽しみ。んでもってエンディングを見たら絵コンテが川尻義昭さんだったよ驚いた。その割には「吸血鬼ハンターD」とか「ハイランダー」みたくおどろおどろしくはなかったけれども、別に自分の作品を作っている訳じゃないから絵は普通か。レイアウトとか人間のポーズとかに現れていたのかな川尻調。調べてみよう。

 マッドハウスにはまだ他にもいろいろ監督がいたんで、そんな大御所が絵コンテ切ってくれていたら楽しい話になるだろうなあ。出崎統さんが存命だったらどんなコンテ来てくれたかなあ。かるたとった瞬間の3段繰り返しのストップモーションを入れ、対戦シーンっでは画面分割、そして総理の瞬間に歓喜の千早のハーモニー、と。なんか1番向いてそうな演出家だったんじゃないかなあ。誰かそれをパスティーシュして「ちはやふる」でみせてくれないかなあ。小池健さんとか参加してたらやっぱり特徴的な陰影のキャラになってデフォルメきっつくなるんだろうか。りんたろうさんが参加したらやっぱりちはやの背後からオーラがわしわし立ち上るんだろうか。どれも何かあって良さそう。見たいなあ。マッドハウスに今いったいどれくらいの人が残っているのかなあ。

 朝は起きられたのでとっとと家を出て池袋のパルコに行ったらオープンが午前11時だった間違えた。しばらく池袋を歩いてとらのあなで新刊とか買ってから戻って「荒川アンダーザブリッジ」のオフィシャルショップで今日から発売となったテレビドラマ「荒川アンダーザブリッジ」のブルーレイボックスを購入。すでに昨日あたりから売ってて量販店なら割引もあるんだろうけれども池袋パルコで買うと何でも劇場版の試写会の招待状が当たるかもってこと。そっちに行くと出演しているすっげえ俳優さんたちが見られるってことなんで、やっぱり見てみたいと思って朝も速くから駆けつけ定価で購入する。そういうもんだ。

 って実はすでにスタジオでの撮影と、あと河川敷での撮影の両方を見学に行って出演している人たちを間近に見ていたりするんだけれどもその時は、河童はずっと河童の村長で星もずっと星。中の人の素顔なんてまるで見られずおかげで小栗旬さんがどんな顔をしていて、山田孝之さんがどんな顔をしているか知らなかったりする。それはないけど。でもずらりと居並ぶ面々をやっぱり見たいのが人情、ってことで池袋で買ったら何かついでにスタッフとかが来ていたっぽいニノのジャージがもらえたラッキー。得した気分。定価で買うより良かったかも。しかし僕より早くにかけつけBDのボックスを5つも購入する人がいたのは驚いた。誰に会いたかったんだろう。城田優さんかなあ。スタジオではシスターだったしロケは代役だから普通の格好、見てないんだ。どれだけデカいか興味。あとは鉄仮面の兄弟か。やっぱり被って来るのかなあ。顔出ししてくれるのかなあ。

 そういやあ今年はここ何年か呼んでもらっていたスーパーダッシュ文庫の表彰式の案内が届かなかったなあと思いつつ、まあ歳も歳だし書いてる媒体もマイナーだし、賞味期限が切れて優先順位が下がったと思われてもしかたがないかと認識しつつ、もうそろそろ山にでも籠もって余生を送ろうか、なんて考えてしまう晩秋、というかほとんど冬。新しく出すところも賑やかなことをやってたみたいだけれど、そっちにはそもそもそ認識すらされてないからなあ。マイナー紙誌は辛いよ。とか暗くなった頭を切り換え、電車を乗り継ぎ横浜へと出かけて横浜アリーナで「ANIMAX MUSIX2012」を見学に行く。

 去年に午後3時から始まって終わったのが午後10時くらいという長丁場を経験して、それでもあんまり長く感じなかったくらいの密度と楽しさにあふれたアニメーションミュージックイベント。今年は終電の人とかに配慮して午後2時スタートにやや繰り上げ、そして終わりも午後8時過ぎと良心的なイベントに仕立てて中身はどうなるかと心配したけど、やっぱり濃くってそして何より時間に正確。劇場に配信しているってこともあって遅らせたりできないこともあってか午後2時にスタートして、まずは中川翔子さんの楽しい歌で始まりそしていろいろな面々がいっぱい出てきて歌う歌うアニメミュージックを歌いまくる。誰が出てきても耳に馴染んで楽しく聞こえてくるくらい、アニメミュージックが自分の心に刻まれているんだってことを実感する。

 メンバーではKalafinaがやっぱり迫力だったなあ、オリジナルは「魔法少女まどか☆マギカ」の「Magia」とそれから「黒執事」の「輝く夜の静寂には」をやっただけだったけれど、途中のカバーとかで出てきて「MADORAX」からヤンマーニを披露、ってこれ梶浦由紀さんのFICTION JUNCTIONでやってなかったっけ、やてたらKeikoとWakanaには馴染んだ曲。それにHikaruも加わったニューバージョンで聞けて楽しかった。プラスしょこたんの「空色デイズ」をまず3人でやってそれにしょこたんが加わるパターン。3人だけの時のサビの部分をちゃんとパートわけてるところがすごい。合唱でせーのも悪くないけどそういかないのがKalafinaらしい。そんな感じでいろいろカバーしたアルバムとか、出さないかなあ。

 あとはKOTOKOさんか。いっぱいアニメの歌も歌っているしそうでないのも歌っているけどどれもパンチが効いてビートに載って迫力たっぷりに前に声が出てくる。最近は流行りか声優さんが歌ってそれがヒットってパターンが多いけど、KOTOKOさんといいKalafinaといいMay’nさんといい、アニメミュージックの専業として活動してそれなりに存在感を確保しているところにシンガーとしての実力を感じる。ANIMAX MUSIXは比較的、そういう人が多いのが嬉しいかな。音楽を聴きに行った感じがして。最後に登場のMay’nさんはやっぱりとっても迫力。喋ると普通に年頃の人なんだけれど歌うとどーしてあんなに声量、あるんだろう。踊りも美味いし。そんなMay’nさんのバックで踊っている2人のフリを、客席で写して踊っている2人組がいた。目指しているのはバックダンサー? そういう人も来るんだなあ。

 ANIMAXといえばアニソングランプリの主催者でそこから出た喜多修平さんHIMEKAさん佐咲紗花さん河野マリナさんも登場。佐咲さんはやっぱり存在感をグングンと増している。アルバムも出たことだし本格ブレイクも近いか。HIMEKAさんも声はやっぱりすごいんだけれどセンシティブなところがやっぱり引っ張っているかなあ。もっと出ようよいいろな場所に。喜多さんは楽しそう。そして今回は先のアニソングランプリで優勝したばかりの15歳の鈴木このみさんも登場。巧すぎる。「絶対可憐チルドレン」の主題歌「OVER THE FUTURE」を3人で歌ったんだけれどもうほとんどセンターって感じ。情感もたっぷりだし声も通る。華もある。これで15歳かあ、使いたがるところも多いだろうなあ。あとはどうキャリアを積み上げていくか、だな。速くデビュー、決まると良いね。


【11月22日】 えろい扉絵シリーズへのコレクションがまた増えた「イブニング」のきくち正太さん描く「おせん」 真っ当を」は、前週までの官僚クン上司をぶん殴るエピソードが終わってそして新章へと来て多分、前のシリーズなんかに出てきたんだろう料理美人が塩糀なんかを使った料理を作ってみせて大受けしているんだけれどそこに波風、おせんさん出動ってな展開へと向かう模様。鍵になるのはどっかの漫画の影響でブームになっているらしい塩糀を、その漫画の主人公で美人の女将がどうしてあんまり頻繁には使わないのか、ってところ。くどいかキツいかそれとも。どっちにしたってそんな雅やかな食生活なんかとは無塩、じゃなかった無縁だから気にはしないけど、それでも今時珍しい真っ当に料理の奥深さをみせてくれる漫画。見ていこう。

 そしてこちらも料理漫画の「ミスター味っ子」では初代味皇の作ったぶっかけ飯に2代目であり1番有名な味皇が惚けた頭を目覚めさせ、兄弟の再開となったところでそんな初代味皇が、凄まじいまでの料理の腕を持ちながらもその後弟に味皇を譲ることになった原因が明らかに、ってやっぱり味吉か。まだ修行中だったという陽一の父親が作った定食に豪華な食事を否定されてしまった辺りはいつもながらの展開。でも時々思うのはプロが絶品の食材を使って作ったものが、一介の料理人の普通の料理に負けるのか? ってことでやっぱりちょっぴり判官贔屓、入ってるんだろうけれども展開を考えたら仕方がない。

 ともあれそんな過去の因縁も開かされそして孫まで続いた味吉家と味皇たちとの関係に、どんな終止符が打たれることになるのか。でもってすっかり影が薄くなってしまっている3代目の味皇の処遇は。あれで料理界の凄腕たちをことごとく退け再起不能にまでする料理の腕を持っているんだぜ。それが何も起こさず敗れましたで引っ込んだらただの当て馬にもなりはしない。清純そうな顔の裏に何やら逸物もっていて、それが爆発して暴走するくらいのことをみせてくれないと出てきた意味もなくなってしまう。さてはていかに。味将軍も良い奴化しているけれどもそうした相手との料理バトルに行くのかな。これで終わってそしてミスター味っ子3となるのかな。

 前に表参道で開かれていたギャラリーが集まった展覧会で話して次は個展をやるってんで来てくださいと言われていた矢来町にあるeitoeikoってギャラリーに言って青秀祐さんの展覧会「マルチロール・ファイター」を見物する。お休みだったけれども明けて貰ったギャラリーは矢来町にある住宅を改装した天井の高くてそれなりな広さをもった空間で、カフェにしたって大丈夫そうな雰囲気のところを現代アートのギャラリーにしてしまうとは剛毅というか。新潮社の別館の裏手の矢来町公園そばだから、新潮社に用事のある人はのぞいてみるといいかも、ってそんな人にあんまり知り合いはいないか。新潮社。行ったのいつが最後くらいだっけ。

 そんな「マルチロール・ファイター」はぱっと見は折り紙飛行機の展開図でそれを切って追って曲げれば折り紙飛行機になりますよ、ってペーパークラフトのキットみたい。でもよくよく見ると1枚1枚がすべて違う。和紙の上にプリントしてからデカールなんかを細か乗せていったりするその手法は、飛行機を作るシミュレーションでもあって決して模型の飛行機を展開してみせているって訳ではない。一種、行為として飛行機の製造過程をみせ、飛行機の持つフォルムの美しさをみせ、なおかつそれらを折り紙飛行機という素材を使ってやってしまうという捻り具合はやっぱりひとつのアートってことになるんだろう。あと本人の飛行機好きって思いがそこに入っていることも。

 聞くとお父さんが百里基地でF−4とか転がしていたパイロットだったそうで、そりゃあどこのファントム無頼だって言いたくなれるのは相当古い漫画読みってことになるのかな。あれを読んで実機を眺めてくらして飛行機嫌いになるはずがない。そんな経歴と大学で日本画を学んだ経歴が合わさり、重ねて貼っても大丈夫な和紙を素材に使って飛行機を描く作品が生み出された。そこにこめられた飛行機の思いは何でも軍事評論家で飛行機大好きな岡部いさくさんも感心させたとか。そりゃあ本物だ。このこだわりと見た目の楽しさできっと遠からずすっげえところに行ってくれると期待。せっかくだからとデカール部分だけ抜いてパウチした1枚2000円の作品を2枚購入して額に入れて貰うことにする。眺めれば浮かぶ飛行機への愛、ってことになるのかな。

 2002年のワールドカップが日本だけで行われなかったことはいろいろな試合をたっぷりと見たかった身として残念ではあったけれども、当時の状況を日本で最高齢のサッカージャーナリスト、賀川浩さんが長沼健さんに関するコラムの中で書いていることから類推すると、FIFAの勢力争いに関連してアベランジェ会長の意見が通りづらくなっていて、それでもごり押しすれば韓国での単独開催となりかねなかった状況が、まずはあった模様。そんななかで、団長だかなにかだった宮沢喜一元総理とか、その背後にあった日本政府なんかが共催やむなしってことに至って表向きは向こうの共催提案を、わかりましたと受けた形になったらしい。知りたいのはそこに例えば電通のような広告代理店で、トップの地位にある人が何をどう立ち回って韓国との共催へと至らしめたのか、ってことで調べてみたけどそんなことはどこにも書かれてない。

 っていうかそもそもないんじゃないかって思うんだけれど昨今の、妙に目がそちらを向いている人たちの脳裡には、電通のトップが影で操り日韓共催に持ち込んだなんてストーリーが、出来上がっているらしいからなかなかに興味深い。それとも韓国によるFIFA理事へのロビーに電通マネーが使われていたとでも言うんだろうか。さすがにそんな余裕も度胸もないって、国内最大ったってたかだか1兆円とかの取扱高のドメスティックな広告会社に、韓国の財閥企業すら上回る金なんか出せるはずもない。そういうことなんだろうけれどもそう見たい人の目にはそう見えてしまうのが世間って奴だから、まあ何というかユニークというか。

 むしろ共催が決まって以降は、それを反発ではなくトータルでの成功に終わらせるため、いろいろと尽力したとは思う。それは極めて重要な貢献。世界に妙なギスギス感をみせずに(いや一部にみせていたけどね、ドイツvs韓国戦のパブリックビューイング会場なんかで、純粋さを極めたようなドイツ贔屓という形で)終えられた訳で、そうした意味での後押しを、何か違う風に受け止めているというか、受け止めたがっている世間はこれからいったいどこへと向かって何を引き起こすのか。興味深いところではあるけれど、そんな妙な風当たりに人の死が、吹きさらされるのはやっぱりどこかうらさびしい。むしろアニメーション好きとして数々のジブリ映画の製作に、名を連ねた人として送り悼んで偲ぼう。成田豊さん。ゴツい人でした。


【11月21日】 残念だったけれどもあそこまで打てないなかでしっかり最終戦まで行ったんだからやっぱりすごいチームだった中日ドラゴンズを、率いて8年で何度も優勝を果たした落合博満監督の凄さってやつを今さらながらに感じてみる。いつかみたいにドラフトもないまま優れた選手をかき集められた時代をベースに9連覇を果たしたチームが出た時とは、事情も違うなかでこれだけコンスタントに勝てた秘密はやっぱりしっかりあるんだろう。それは「采配」って本を読めば何とはなしに分かってくる。殴らず自主性を重んじかといって甘えは許さない。プロフェッショナルとして相対することで、チームの誰もが同じ方向を向くようにしたことが、太くて強いチームへと成長していった理由になるのかも。1点、オフでも常にシーズンのことを考えろ、休むのはユニフォームを脱ぐときだっていうのがサッカーのオシム監督と同じで驚いた。名監督はやっぱり通じ合っている。

 やっぱりまずは本多・正純と葵・トーリとの相対に伴う討論で、立場を取り換えるトリックから生まれる正純の親とかしがらみとかに縛られないで自分を決定していくという、自己確認のプロセスが原作の小説に比べてすっと流れていってしまったことと、それから横入りして絡んできた教皇総長インノケンティウスによる正純の意見の叩きつぶしというテクニックの凄みがやっぱり薄めになってしまっていたことが、アニメーション版「境界線上のホライゾン」を見て気にはなったところだけれど、あれをアニメで延々とやられてもやっぱりどこかで飽きが来る。

 それより必要最小限のことをみせ、半端でない対話が重ねられているとこれが「ホライゾン」と初出合いの人に感じさせ、それで通り過ぎるなら過ぎるで、そうでないなら原作へと向かわせるようにするのが手段として、最適だったってことになりそう。その意味でいうならアニメ版ではしっかりと必要な論を繰り広げさせた上に、第1部でもって最大にして最高の見せ場ともいえるトーリによる正純のご開帳をしっかりと描いて目にもの見せてくれた。もう最高としか言いようがない。あの場面のためにBDなり、DVDを買っても良いかとすら思わせたんじゃなかろーか。できればそれが収録された巻のパッケージもそれで行ってくれたら……っていうのは流石にないか。

 そしてアリアダスト教導院での相対はどうにか収まったところに割り込んで来たガリレオに、みんなが潰されそうになったところに現れたのは本多・二代。そして次回はもしかしたら3年梅組で最強かもしれない葵・喜美による戦いぶりがいっぱい見られて振り回される胸に本多・正純もクラクラっとしてくることだろう。どうがんばってもああはならないからなあ。とはいえ病気だって怪我だって治せる世界でどーして削った胸は戻らないのか。何かお札か何かの力を使っていたりするのか。それは奉納といっしょで元に戻らないものなのか。難しい世界。でもいつか見てみたいやりたくもない貧乳から戻って微笑む本多・正純を。

 「才能あふれる声優陣がそろった映画。一つ一つの役に声優人生をかけていた人たちが一堂に会して自分の役を生かした」と古谷徹さんが「星闘士星矢」について語るとき、そこに込められた意味はたぶん単純に最高の仕事ぶりだったということ以上の、含みと自尊があるんだろうと考える。劇場版の「聖闘士星矢」がブルーレイボックスになったという記事を書くにあたってお目に掛かった取材では、やっぱりいろいろ差し障りのあることもあって面前とは聞きづらいことがあったけれども、古谷さんの方からこういう言葉が発せられたということは、やっぱりそこにさまざまな思いがあったんだ、っていった印象がまず浮かんだ。だから記事にしっかり書き入れたんだけれど、そうした含みは果たしてどれだけ伝わるか。やっぱり同時代的に溺れ親しんで来た人にしか、分からない思いなのかもしれないなあ。

 っていうか講談社BOXとか講談社ホワイトハートX文庫とかが既にあったし講談社バースだってそういう意味ではティーン向けのエンターテインメントっていえなくもないし、別法人ではあるけれども出資している星海社の星海社FICTIONSだって存在していたりする訳で、講談社がライトノベルという方面にこれでいよいよ進出っていうのはちょっと違うんじゃないかと、朝日新聞が21日付朝刊の3面なんてとんでもない場所に掲載した、ライトノベル業界の状況を書いた記事を読みながら思ったけれども、文庫サイズで漫画イラストで男性向けがメインって意味ではなるほどそうなのかもとか思ったり。そんなあたり、状況を見知っていると書くのに躊躇するんだけれど、大手新聞社はそれがそうかけばそうなるっていうくらいの影響力があるから、どんどんと断じていけてしまうんだなあ。羨ましい。でもせめて朝日ノベルズのことくらいは入れておいてあげようよ。グループなんだし。

 「むしろ問題は竹富町の誤りを追認することによって全体の秩序が破壊されることのほうが遙かに大きな問題なのだ」って文章がどっかーんと載っていたりするのがどこかの壁新聞なら別に困りもしないけれどもとりあえずは全国に行き渡っているニュースメディアだったりして、なおかつその文章が教育について書かれたものだったりするにつけていったいどうしたら良いんだろうかと途方に暮れてしまったりする晩秋。どう考えたって書いている途中に気が付くみっともなさだろうし、当人でなくても他の誰かが読んだらやっぱりこりゃあ拙いと思うはずなんだけれど、それが途中に修正もはいらずどうどう開陳されてしまう。それもそのニュースメディアにおけるそれなりに地位在る人の文書として。きっと当該のニュースメディアに属している人はどうしたものかと感じていたりするんだろうけれど、でも案外に気づかないかおかしいと思わないかのどちらかで、だからこうやって載ったりするのかもしれない。むう。


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