縮刷版2010年8月中旬号


【8月20日】 茂野吾郎の力投を微睡みながら眺めて起きたら、午前9時を回ってしまっていたんであわてて回しをして(名古屋弁で支度をして)家を出て、幕張メッセへと駆けつけて「トミカ博 in TOKYO」へと行ったら子供がいっぱい。地の利のあるサンシャインシティから最果ての幕張メッセへと移っていったいどれだけの人が来てくれるんだって心配もあったみたいだけれど、そこは40年の歴史を誇るトミカだけあって子供に距離は無関係。そんなに安くもない入場料を払ってでも見たい子供が平日の朝から親に連れられ海浜幕張駅から押し寄せへし合いなかなかのにぎわいを見せていた。

 っても場内にはトミカと並んで子供の憧れの品になってるプラレールもしっかり展示。ガラガラと音を立てて走るプラレールは見ているだけでも楽しいみたいで、反応的にはむしろミニカーなんかよりもありそうな印象だったけれど、一方で並んでいるトミカに触りたがる子供もいたりするからどっちが強いかは判然とはせず。手に持って歩いて回って遊べるトミカって奴はあれで、子供にとっては手放しがたい品なのかもしれない。それとも人間には生まれながらに鉄遺伝子とエンスー遺伝子があって、その配分の差異によってプラレールに向かうかトミカに向かうかが決定づけられるのか。だったら僕はトミカ遺伝子の豊富な方かな、鉄には興味なくても車は今でも大好きだし、最初の仕事もそんな関係だったし。

20万円なら車が買えるぜZは無理だけど  とはいえしかし20万円ともなると流石にエンスーでも身を引くトミカ40周年記念商品。アルミニウムを超精密に削り出せる技術を使って作られた「フェアレディZ432」は噂に違わす美しいボディラインからホイールからコックピットから何から何までが実車をそのまま小さくしたような精緻さで、手の中のあの憧れのZ432を置いておける気分を味わえそう。会場にはそんな実車のZ432も展示してあって、美しいフォルムを見せてくれていたけれど、買えばおそらくは1000万円近くはするらしい希少な車。それにくらべば20万円なんってって思わないでもないけれど、でもしかし……ってことでここは僕はフェアレディ派ではなくスカイライン派、これがケンメリのGT−Rだったら買ったかもなあと嘯き買わない理由にしておこう。

 という訳で会場でイベント限定で発売されていたトミカの中からケンメリではなくハコのスカイライン200GT−Rを1つと、最新のGT−Rをひとつ買って退散。そこから電車を乗り継ぎ虎ノ門へと回ってアメコミから劇場版の実写映画となって大ヒットした「アイアンマン」がいよいよアニメになって登場したのを見物する。なるほど。ストーリーの分かりやすさ展開の優しさに複雑化の激しい日本のアニメファンがどういう反応をするかは興味の置き所だけれど、飛翔し激突するアイアンマンは格好良いし、なにより藤原啓治さんが出す声がどうにもなまめかしい。格好良さと隠微さと、そして内に秘めた信念が滲んだ声を聞いたら男は憧れ女はなびく、ってことになるのかな、なればあの女性記者も。そんな人が出ているのです。日本の科学者で女性で眼鏡なんて人もいて声が本田貴子さんでこちらも背筋にビンビン。蒼崎燈子とは違った生真面目さを感じさせてくれる声で耳を奪い目を引きつけそう。

 途中で読んだ賀東招二さんの「フルメタル・パニック!12」(富士見ファンタジア文庫)。すなわち完結編で12年に及ぶ相良宗介の粗忽っぷりに終止符が打たれてすべてが幸せに満たされる、ってことになっているのかどうなのか。始まったあたりは軍隊でばかり過ごしたんで一般常識が通用しない人間が、日本の高校に行ったらどんな騒動を起こすのかっていった「ブッシュマン」あたりから続く異文化デスコミュニケーション話のバリエーションくらいに思っていたのが、ヒロインに秘密があってそれが核となって世界全体を巻き込んだ陰謀が浮かび上がって、戦う大勢の人々が現れそして裏切りがあって別離があってといった感じにシリアスさをどんどんと増していった。

 迫るクライマックスでは世界そのものが大きく改変されてしまうといったSF仕立ての設定がどかんと現れ、いったい最初の学園ミリタリーコメディはどこにいったって感じだったけれども、そんな大技をきちんと畳んでやっぱり粗忽でそして頼もしい相良宗介と、乱暴だけれど純情な千鳥かなめとの関係に収束して感動の中に喝采のフィナーレを迎えられる。かわいそうなのはテッサだけれどあの後いったいどうしたんだろう、やっぱり旅に出たのかな、ビジュアル的にはスカート姿からちゃんと見せてくれていたりするからありがたいんだけれど、でももう少し幸せになっても罰は当たらないじゃないのかなあ、そんな辺りが短編で描かれることを期待、今度は教師として赴任してくるとか。あと世見所はマデューカスさんのアクションか。なるほどいかにも参謀めいていてもそこは軍人だったってことで。

 思いが世界を改変してしまう可能性、って部分でちょい似たニュアンスもあった石川あまねさんって人の「シー・マスト・ダイ」(ガガガ文庫)。何でも超能力者が人間に混じって生まれ初めてはいたけれども、海外では迫害され隔離される国があっても日本では割に社会にとけ込んで普通に暮らしていた矢先。とある学校が謎のテロリストに襲撃されてクラス全員が集められ命の危険にさらされるという事件が起こる。実はテロリストはテロリストではなく日本の自衛隊。国が行っている予知によってとてつもない能力を秘めた超能力者がいて、そいつが将来何億人もの人を殺める可能性があるから消してしまえ、ただしそいつはその日その時そこにいる誰かだということで予知に浮かんだ学校が狙われた。

 もっとも候補にあがったのが強いテレパス能力を持つ少女。そしてサイコキネキスの力を持った少年。やや粗暴なところがあった少年はそんな状況を是とせず自分が主導権を握って他の奴らを全員殺して事態を収拾すると息巻くものの、それで危機に陥った少女を助けようとして仲の良かった少年が動き出す。ほとんど能力を持たない彼の活躍はありながらも、そんな彼と少女の2人しか助からない陰惨な状況で終わった事件はそれで万事解決となったはずだったけれども、実はちょっと違っていたってとこに大きな驚きを感じられる作品。なるほどそういうことだからそうなったのか。それで救われた少女の命が永遠に救われ続けるために必要なことを思った時、少女に課せられた運命がどうにも可愛そう。それでも生きるためなら愛し抜く? 己を問われる作品かも。


【8月19日】 流れてた画像からあらいまりこさんという人の「薄命少女」(双葉社)って漫画がことのほか素晴らしいかもしれないと思って探して買ったら素晴らしすぎてむせび泣いた。こんなに素晴らしい漫画が近所にある帯の書きっぷりでは当代随一っぽい書店員さんがいる書店に見あたらず、ほかの漫画店でもなかなか見かけないのはそれだけ売れてしまったってことなのか、それともすでに引っ込められてしまったってことなのか。後者だったらそれは不要、きっとしっかり認知されて「マンガ大賞」あたりに名を連ね、評判を呼んで注文を招いて平積み面取りタワーといった発展をきっと見せるはずだから。

 父親と2人ぐらしの女子高生が、自分の余命はあと1年しかないと知ってしまってからも日常を賢明に生きていくという設定は、聞けば難病もののパターンだけれど泣けるというのはそうしたフォーマットにハマっているからでは決してない。むしろ4コママンガという性格から主人公自身が余命の少なさを、時にギャグとして消化して笑わせようとしていたりする描写がある。心を寄せる男子とのやりとりにも、ギャグめいた展開があったりして笑ってしまうけれどもそうしたおかしさがやがて切なさへと代わり、温かさが生まれてそして喜びへと向かって欲しいと願った刹那。たった1つの、そして決定的なコマがさまざまな人々のさざまな思いを呼んで、むせぶよりほかになにもできなくなった。

 橋本紡のライトノベルを原作にした劇場版映画「半分の月がのぼる空」があって、やっぱりライトノベル作家の日日日の原作を劇場映画化した「私の優しくない先輩」があってと、いわゆる難病を主題としながらもありきたりの形式に押し込めないで、逝く不安であったり、残される悲哀であったりを滲ませ、未来におびえたり将来に悲しんだりする気持ちを誘って慟哭を呼んだ。「薄命少女」もまたしかり。決定的な1コマから浮かぶ断ち切られてしまうことへの不安、置いていってしまうことへの慚愧、それでも得られたものの多かったことへの感謝が、混合して押し寄せてきてページを閉じた手をまた開かせ、最初から読み直させる。

 読むたびに泣けてそれなのにまた読んで泣けてしまう漫画という点では、大井昌和さんの「流星たちに伝えてよ」(幻冬舎コミックス)というのがあったけれども「薄命少女」はこれに匹敵するだけの強さを持った作品かもしれない。結末を知って泣いて読み返して、描かれている1つ1つの描写にまた泣いて、最後まで来てまたぐっと来てしまってからまた読み返すという無限ループが続くんだ。世評的にはいろいろあるみたいだけれどもこれはやっぱり凄い漫画というより他にない。それが4コマ漫画だなんて場所からするっと出てきてしまう。日本の漫画ってやっぱり凄いし素晴らしい。もっともっと注目されて欲しいなあ。

 新刊の帯の推薦ったらかつては作家だったものが書評家となり、今では書店員の推薦が幅を利かせてスター書店員カリスマ書店員スペシャル書店員なんて人も生まれているのかどうなのか、知らないけれとども何冊もの帯を書いている書店員の人もいたりするみたいだったりする状況が、遠からず様変わりしていしまうかもしれない可能性に遭遇。富士見ファンタジア文庫から登場した三浦良さん「銀の河のガーディアン」には「いち早く読んだ読者モニターが推薦します!」とあって何人かのコメントが並んでいる。それがいったいどういう効果を持ってて人に本を取らせるのかが僕にはあまり理解できていないんだけれど、やる以上は効果があってのことなんだろうなあ。

 それにしても何でもありな推薦者。いっそ版元の社長が大推薦するぜ、ってのはすでにあずまきよひこさんが「あずまんが大王」の第1巻でやっていたりするから2番煎じにしかならない。ケーシーの夢日記とかノストラダムスの詩編の分析から、この本が推薦されていたことが分かりました的な手法なんて昨今のオカルトブームで使えそうだけれど、そうした偉人に自らなりきって本まで書いてしまう人がいる以上は推薦に予言ではちょっと弱い。いっそそれなら宇宙から届いた電波にそういう推薦があったと書く方が目新しいけど、問題はそうした推薦文を探すために出版社が巨大な電波望遠鏡を立てなきゃいけないことだよなあ。そんな訳あるかい。父母妹に祖父母に飼ってる猫の推薦で飾られた本が1年以内に出る可能性に1アリエッティ。小さくないかアリエッティでは。

 そんなファンタジア文庫の細音啓さん「氷結鏡界のエデン4 天上旋律」は身に悪い波動を帯びながらも生還した少年が世界を悪い波動から守っている巫女の少女との関係を取り戻そうとステップアップを図っていく過程がまだ続いてて、そんな巫女の護衛の仕事が舞い込んできて多くのチームを争いながらその仕事を何とかとろうと頑張る話がつづられる。電子の女神みたいな少女と元巫女で今は騎士を目指す少女といっしょのチームになった主人公の少年だけれど3人では護衛の仕事は受けられない。ならばといつも寝てばかりいる少年を無理にでも仲間に引き入れようとする話しがあり、そんな怠け者に見える彼が実はってな種明かしもあった上に、今までにない強敵が現れ世界の置かれた状況を再認させ、そんな中で巫女として頑張るヒロインに啓示がもたらされて、世界の真相が少しづつ見えてくる。でも謎もさらに深まる。いったいどこへと向かうのか。早く読みたいなあ。

 「月刊サンデーGX」には「BLACK LAGOON」は未掲載。どうなっておるのだ? でも最近「ウエストウッド・ビブラート」って好きな連載ができたんであんまり気にならないかも。楽器を直すプロフェッショナルの女性を訪ねて天才サックスプレーヤーがやって来たり、彼女が見つけてなおしたフリューゲルホーンを求めてユダヤ人の老兄弟が来たりといった話があったり、サックスプレーヤーが音楽を通して人を傷つけ贖罪の思いをかかえて生きてきたこと、ユダヤ人の兄弟が強制収容所で奏でられる音楽におびえ、そして音楽に救われたという話があったり、南アフリカの貧民街に暮らす先住民の少女が、仲間の支えで壊れたサックスを買い換えオーディションに向かおうとした矢先、住居だった場所から追い出されそうになっていたことを知り、戻ってサックスを奏でて憤る住人たちを別の方向へと導く話があったりして、音楽というものが持つ思い出や影響力なんかを、楽器を通して示してみせる。最新号であフルートが主題で初の続き物。果たして天才フルート奏者の少女は音楽に導かれるのか。楽しみ。できれば「BLACK LAGOON」の進展も是非。どーなったんだデコ眼鏡。


【8月18日】 「lain」について考えるべきかどうかの判断に迷っている最中。とりあえずだったらと1998年当時にいったい「lain」を自分がどう見ていたのかを日記から拾ってまとめた特設ページなんてものを付くってみたらなるほど初っぱなからこれはいったい何が起こっているのかとひっくり返り、翌週には事件だと騒いだまんま3ヶ月間を突っ走っていたことがよく分かった。騒がしくも賑やかなアニメが多い中でセリフが少なく画面だけで見せて、けれどもだからといって1秒たりとも目を離せない緊張感が第1話にはあったっけ。

 そしてその後のドラマにも往事から見て未来のネット状勢がどうなって、その中で人はどうなるんだろうかって懐疑と不安にある種の答えを出してくれる展開があったっけ。だから釘付けになったんだよなあ。その当時の気分は今も決して変わってなくって、新しいメディアが生まれネットが発達して人と人とがつながるようになっていっても、そこには知の集合体による善政ってものはなくって単なる知人どおしの狭いコミュニティが背を寄せ合って存在していたり、有名人どうしのコミュニティをちょい外側から眺めよりそいうらやましがっている人たちがいたりといった、あんまり楽しくもなければ嬉しくもない状況の中、この先どこに行ったらいいんだろうって迷い惑っていたりする。道具立てこそ変われど今に通じる問題意識を内包した作品。だからこそ今また注目されるってこともある種の必然ななろう。さてどうしよう。

 予備役ってのは決して軽い身分じゃなくって、何か事が起これば召集されて鉄砲を担がされて戦場へ送り込まれて戦わされることもあるってのが、軍隊があって予備役を置いている国の通常の事例。アメリカなんかだとそうした予備役に学生が奨学金なんかをもらってちょっとした訓練を経てなっていたりすることもあって、それが2001年の世界情勢の変化を受けてあちらこちらで起こりそして今なお続く紛争で、減ってしまった兵隊さんの補充のために召集されて激戦地へと送り込まれて時には命を落とすこともあったりする。あと州兵なんかも。州を守る兵隊さんで半分ボランティアって感じでなっていたら、連邦の軍隊に組み入れられて戦場に送られ命や心を奪われたって話が、「母親は兵士になった アメリカ社会の闇」(高倉基也、NHK出版、1500円)って本に書かれてある。

 岡田真理さんって人が書いた「おひとりさま自衛隊」(文藝春秋、1000円)って本は、米軍とかでいうところの予備役に位置づけ的には当たっている予備自衛官になるための訓練を受ける予備自衛官補に応募して採用されて訓練に臨んだ女性ライターの体験記ってことになっていて、読むとお酒に酔っぱらった勢いで、仕事ないかと探して自衛隊なんかいいじゃんって話になって、けれども任用自衛官は27歳未満ですでに27歳の著者にはちょっと無理、って思って探したら34歳まで可能な予備自衛官補の採用をやっていたんで、応募して大学生が進路に有利になるようにとか経験を積んでおきたいからと受けるケースも多かったりする予備自衛官補の試験を受けて、8倍とかの倍率をくぐり抜けて見事に合格。そこから滋賀県だかにある施設で5日間を10回、計10日間の訓練を受けるって話が綴られていく。

 まるで遠い業界から入り込んで苦労してみました話の類型といえば言えそうな展開で、何をするにも集団行動で夜はクーラーが切れる前に眠って朝はさっさと起きて1日をびっちり決まった時間に従い動いて歩いて走って伏せて匍匐前進して銃を撃ってといった、自衛隊ならではの厳しい状況をそれでも頑張り抜いてクリアしていく姿が、ユーモラスに綴られていて自分もちょい応募してみたいって気にさせられる。っていうか僕は年齢的にはすでに無理だけれど、小学生くらいの時にボーイスカウトの綿々と、舞鶴にある海上自衛隊の教育対で3泊4日の体験入隊をしたことがあってそのときも朝から夜までびっちりのスケジュールの中を、決められたとおりに行動することを体験しているから、何も考えなくても時間を過ごしていける気楽さって奴は何となく分かる。

 そんな厳しい訓練を脱落もせずに乗り切り、ハードさで鳴る25キロ行進も靴下に工夫をして足に肉刺をつくらず無事に乗り切ってえっへんってなあんちょこにも気をそそられ、ますます行ってみたいって気にもさせられるけれども忘れていけないのはそこが自衛隊だということ、憲法九条では宗は言われていないけれども実質的には軍備に等しい力をもった組織で、外に攻めることはなくても内に守って戦い命を散らす可能性があったりする場所。そんな中に加わっていくには自分にとって守るべき国とは何なのか、そしてそのために命を散らすとはどういうことなのかって命題と向き合うことが必要になる。

 戦うということは人を殺めることでもあったりする訳で、そこまでの覚悟を持たずに資格になるから、採用へのステップになるからと入って務まるものでもないし、務められてもちょっと困る。そんな辺りにもいちおうは「おひとりさま自衛隊」は触れられてあって、ある程度の覚悟を求められているから読んでもすぐにと考えず、吟味してからどうするかを決めよう。でも銃を撃てる職場ってのにはちょっと惹かれるなあ。予備自衛官に任用されれば、年に5日の訓練が義務になっててそこで銃とか撃たせてもらえる訳だしなあ。ってやっぱりそういうところに落ち着いてしまうのが、米国の予備役と日本の予備自衛官との置かれた境遇の差ってことか。いつか何かことあって予備自衛官も予備役と同様のことをやらさることになる可能性も、やっぱり感じておくことが必要なのかもしれないなあ。

 えっとつまり唯に律に澪に紬のオリジナル4は、後輩を1人入れただけでそのバンドだけを唯一絶対の軽音部として他者を廃して凝り固まって、最初の1年間を安穏と過ごししれから梓参加後の2年間を突っ走ったあげくに、来年以降も部が存続する目処をまるで残さないまま卒業していこうとしていて、それなのにそれが寂しいだの苦しいだのと泣いていたりするのか。なんとまあ身勝手きわまりない奴らだってことか。ってところがやっぱり気になって泣きむせぶ5人にあんまり感動できなかったなあ「けいおん!!」。ファンクラブがあれだけいるんだから参加してもらって梓のために来年以降の道筋をきちんと付けておくのが先輩ってものなのに、そんなそぶりも片鱗もないところを見るときっと来年以降は梓1人では部を維持できず、佐和ちゃんを混ぜても2人ではどうにもならず哀れ背部の道を歩んで、茫然自失の梓は路頭で寂しく弾き語りをするうらぶれた暮らしがまっているに違いない。かわいそうになあ。そこを描かないためにも連載を終えてアニメも終えるのか。なるほどねえ。なんだかねえ。

 犬村小六さんの「とある飛空士への恋歌4」(ガガガ文庫)が出ていたんで一気に読む。離別があって哀悼から訣別へと至ったもののそこに襲来。危機また危機ときて絶体絶命の中で否応なしの理解が生まれるんだけれどもそれでも危機はさらに深刻さを増した時、対簿濡の覚醒を経て光明が指したのもつかの間、さらなる衝撃が待ち受けるという怒濤の展開がページをめくる手を止めさせない。いやあ凄い。この先いったいどうなってしまうんだろうか。そして2人は手に手を取り合って未来を切り開いていけるんだろうか。どこまで続くか分からないけれど、次も絶対に出たら即読んでしまいそう。アリーメンはもう食えないんだろうなあ。そんな楽しい場面は来ないんだろうなあ。でも来て欲しいなあ。そう願っておこう。


【8月17日】 座布団派か竹輪派かってことをより直裁的に喋らせた場面が気に留まって見てしまった「生徒会役員共」が妙に受けたんで、録画してあった分を1話目から一気に見まくった猛暑の夜。別の番組ではオカルト嫌いな癖に実はオカルトに関心もあって、そんなオカルトに溺れて死んだ父親への愛憎入り交じった感情を露わに出せず、親友もその父親も戸惑わせてしまう少女を演じている日笠陽子さんがこちらでは、あっけらかんとして猪突猛進で下ネタ平気な女性生徒会長を演じていたりするというこの幅広さ。さらには別の番組で引っ込み思案のベーシストまで演じているという活躍っぷりに、次代のスター声優の座も確実って思えるけれども、そうしたところからピックアップする一般メディアってのは皆無だからなあ、奴らは流行っているものしか流行らせないのだ、いつになっても。

 それはさておき「生徒会役員共」は、女ばかりの生徒会に入った1人の男性ってところで「生徒会の一存」とまるでシチュエーションを同じにしながら、展開はまるで違うかというとうーん、まあ生徒会のダベり的活動に引っ張り回される唯一の男子ってあたりで似通っているかもしれない。ただしオタク的な会話はなくってむしろ下ネタいっぱい。それを平然と女子たちが口にするってところに妙な引力があって、いったんハマると引っ張り込まれてしまうみたい。あとはちっこい1年生でIQ180の女の子のちっこいぶりとか、画伯演じる顧問の先生のやさぐれぶりBLぶりとか、黒子じゃなかった新井里美さん演じる新聞部員の黒っぷりとか。小見川千明さんの声が聴けるのも嬉しいところなんだけど、あんまり出てくれないんだよなあ、もっと聞きたいあの不思議声。黒子ボイスはまるで続けざまに聴けるんだけど。まあそれはそれで。

 さらに明け方に書けて「MAJOR」のアニメーション版がNHK総合で連続して放送されていて、茂野吾郎が大リーグに挑戦してトライアウトからメジャーに練習参加して打たれて3A送りにされて、そこでも打たれてリリースされて、やっぱり3Aのバッツに入団するところまでを一気に振り返り。ジョー・ギブソン.Jrと出会って因縁をため込んだり、コウモリのコスプレ姿が可愛いりバッツのオーナーに偶然から会ったりと、人との出合いの多い回が重なったけれども、やっぱり響いたのはメジャーの選手ってものの凄さ。それが実話かどうかはともかく、勇んで乗り込んできた吾郎の鼻っ柱をへしおって、どん底へと突き落とす。

 吾郎がクーガーズで相手になったサンチェスって投手の、1球1球を完璧にコントロールしてみせる技術とか、吾郎の球を完璧に打ち返してみせるホームランキングとかの登場でもって、吾郎がまるでメジャーレベルに至っていないことを身をもって感じさせ、絶望の淵へと追いやってみせる。でもってそこからはい上がらせることによって、メジャーは凄いところで、そこに挙がった吾郎もまた凄い奴だってことを分からせる。こうしたことへの認識が広くあるから、メジャーの選手は尊敬され、英雄と歌われるんだろうなあ。日本のプロスポーツにそうした選手への敬意って生まれ得るのか。前はあったけれどもメディアとのなれ合いで消えてしまったのか。彼我の違いから見えるスポーツビジネスの規模って奴を考えてみたくなって来た。

 とりあえず見ておくかと東京都写真美術館まで出かけて「おんな 立ち止まらない女性たち 1945−2010」を鑑賞、女性にスポットを当てた写真ばかりを並べて時間を追った内容で、報道写真もあればスナップ写真もあり芸術写真もあってグラビア写真もあったりとタイプ的に千差万別。だけれどもそれもまた女性って対象が、時代の中で生きる人間としてまずあって、そして職業人として世に褒めそやされ、見目を拾われて持ち上げられ、一般化をとらえられて眺められるといった感じに変化していった様を、うまく表しているような感じがして面白かった。

 風俗としての女性の写真では原宿で踊るタケノコ族がいたり、ライブハウスで歌う白井貴子がいたりとそれぞれに妙な懐かしさ。あと五味彬さんがその時点での女性の体系を記録的に残そうとして着衣と全裸の正面左右を撮った「yellows」って作品が、写真として展示されていたのがなつかしくって興味深かった。最初はこれ、わいせつだからと本で出せずにCD−ROMとして出したんだよなあ、江並直美さんがデジタローグって会社まで作って。その時に生まれたマルチメディアタイトルがそのまま電子出版へと発展していったら、今のテキストベースで流通の変化編集の変化のみがさも重大事のように語られていたりする「電子出版元年」ってタームも、まるで意味を成さないものになっていたかもしれないなあ。丸田祥三さんの作品もあって廃電車の中に少女がいる作品は移ろう物質の中で、少女が写真という記録媒体の上に永遠の少女として存在している時空の歪みを、すくい上げていたって印象。外から差し込む光の明るさがまぶしいくらいにコントラストを作っていて目に刺さった。

 ついでだからと「私を見て! ヌードのポートレイト」も見物、こちらは女の中でもヌード写真にスポットを当てて古今のヌードを網羅しつつ、女性に限らない男性ヌードなんかも織り交ぜて裸を見せたいという人間の欲求なり、写真家の探求心なんかを露わにする。と同時に裸といった被写体がどういった扱いを受けているのかってあたりにも言及。鷹野隆大さんって男性を女性っぽく撮ったりする作品で知られる人の男性ヌードを飾ってあったんだけれど、腰の部分で上下に切れててその間がちょっぴりの幅で抜かれている。そこにあったのはすなわち性器の棒の方。見せられないということを逆手に取って抜いてみせてはそういう状況がどうった不思議な結果を生むのかを作品によって見せている。棒はないなけれど袋の方はしっかり残って丸い皺しわを股間に形作っている。その生々しさ艶めかしさが棒の不在によって隠微さへとズレる不思議さ。エロスを否定したい人間の妙な作為が余計なエロスを生んでしまう皮肉が満ちあふれていた。逃げない鷹野さんに東京都写真美術館の英断を喜ぼう。だったらメイプルソープの巨根男子たちも掲出して欲しかったけど。あれ見ると日本人の9割9分は萎えるんだ。

 さらに「オノデラユキ 写真の迷宮へ」ってのも見物。おしゃれっぽい写真を撮る人って印象があって、蜷川実花さんやそんなところとごっちゃになっていたけれど、どちらかというとやなぎみわさんのようなアートにより近い作品を作っている人だった模様で、雑貨やがらくたの類を机の上に並べて撮った4枚のカラー写真と4枚のモノクロ写真のシリーズなんて、それで立体視でもしろって感じだけれど、置かれた鏡に写し出された森の様子が少しづつ違っているところから、撮られた角度の違いとそして静物を見つめる写真家の周囲に背景として広がる森の深さって奴を感じさせたりする、哲学と作為のこもった作品になっていたりする。「Roma−Roma」って2枚の写真がステレオ写真のように並べられた連作も、それだけみればアメリカのやら日本の郊外をスナップしていく写真と代わりがないけれど、実はローマはローマでもイタリアではなくスウェーデンにあるローマと、そしてスペインのローマを片方づつ撮って並べてあるそうで、距離も時間も事なる場所をひとつところに並べて押し込め、見る側に時空を超える気分を味わわせる。

 シルエットの人間が写ったように見える写真もそれぞれが、雑誌やら新聞やらから切り抜かれた人型にいろいろなものをフォトモンタージュしてかぶせた作品。人体のフォルムが見る人に与える生命感と、それらを支える様々な情報との連携が、人間というものが持つ膨大な背景って奴を見る者に感じさせる。暗闇に浮かぶ家の明かりの写真とか、人間と動物とがシルエットで立ち並ぶ写真とか、見た目はお洒落なんだけれどもそこにこめられた思索には一筋縄ではいかないものがありそう。でもって1つの表現にとどまらず、いろいろなものを試してみせるその才能が、世界にオノデラユキって存在を認知させているんだろー。ちょっと興味がわいてきた。9月26日までやっているんでもう1度行って今度は暗い部分の奥にある何か、鏡の向こうにある何かをじっくりと感じて来よう。


【8月16日】 昔はもっと暑かったような記憶もあるけど記憶なだけにやっぱり今この瞬間の暑さがどうしても気になって仕方がない今日この頃。とりわけ今日は外に立っているだけで暑さが芯まで通って人間バーベキューになりそうなくらいの暑さで、これで外で制服姿て仕事をしなくちゃいけない職業の人とか、いったいどういう仕掛けを制服に施しているのかと気になって仕方がない。たとえば浦安の王国のネズミくんとかアヒルくんとか犬くんとか。いやいや彼ら彼女たちは存在そのものがネズミでアヒルで犬なんで、それが外気にあたったところで人並みに暑いだけなんだと理解してあげるのが優しさか。でもやっぱり気になる。背中でファンが回っていたりするのかな。

 真夜中にやってる「ケロロ軍曹乙」の半分は土曜日の朝にも放送されているものらしいけれども、並べて比べていったいどれだけ邪悪度に差があるかっているとあんまりないような気がしないでもない今朝方の放送。Aパートはケロロがケロリンマンとして子供たちの期待に応えて大活躍を始めてしまって自らの侵略の意図とぶつかり合って懊悩しつつ、それでも子供を選んで痛めつけられもうこりごりって展開。子供には優しい侵略者って姿を見せて優しさを持とうよって呼びかける内容ではあるけれど、でも結局子供たちの期待を裏切り消えてしまう訳でそういった意味での無責任さも見えて大人って(ケロロが大人かは知らないけれど)ずるいって思わせないかとちょっと心配。

 でもってBパートの時間を止めて侵略を手っ取り早くやってしまおうって話は楽をしようとすればそれだけ苦労もあるって話でこれこそ子供たちにとって警句にもなるし、時間の仕組みを教えてSFへの関心をもたらすエピソードにもなっていて、未来を担う子供に様々な知識やものの見方なんかを教える話になっているような気がしないでもないけれど、番組ではどうだったんだろう確かAパートは昼間にも放送されてBぱーとは夜だけだったっけ、それで行くなら子供を裏切るケロリンマンを子供は子供は見せられ、子供に夢と警鐘を与えるエピソードを子供は見られないってことになる。

 うーん。これってちょっともったいない。昼間に全部を放送する枠を維持するだけの資金がないのかそれとも別の思惑が働いているのか。「ケロロ軍曹」が10年20年を超えて「ドラえもん」に負けない子供たちのキャラクターとして存在し続けていけるようにするには、今が1番の踏ん張りどきではあるんだけれども、そこまでの強い意志を見せるにはテレビ東京ってやっぱり基盤が弱いのかなあ、テレビ朝日だったら作者が不慮の事故死を遂げても「クレヨンしんちゃん」を維持して子供と家族のキャラクターに仕立て上げるだろうし、そうやってちょっぴり毒もあった「ドラえもん」を完全に子供のキャラクターにしてしまった。

 フジテレビは「サザエさん」と「ちびまる子ちゃん」がもはや定番看板鉄板キャラクター。「こちら葛飾区亀有公園前派出所」も続けてさえいればいずれその域へと達したんだろうけれども止めてしまったのは残念というか。やっぱり警官が破天荒なことをやる話は難しいってことなのか。まあこちらは連載が鉄板だから良いんだけれど、って安心していて良いのかな。翻って「ケロロ軍曹」はそんな領域へとたどり着くことができるのか。同じテレビ東京だったらすでに「ポケットモンスター」が看板めいた存在になっているけど、でも「ポケモン」って因数分解すればバトルと冒険と友情くらいしかそこにない。アイデアが毎週のように叩き込まれていて、考えさせられ覚えさせられ笑わせられて楽しめる「ケロロ軍曹」にこそ、続いて欲しいんだけど。支えるんだ角川。

 藤原祐さんの「煉獄姫」(電撃文庫)って新シリーズは、異次元らしい煉獄ってところに起源を持つ、有用なんだけれども人間にはとてつもなく有毒な気を内より発するが故に隠蔽された姫君が、王国を揺るがす敵に半ば道具として挑まされるというストーリー。ローマカトリックからの分裂と産業革命を経て発展した英国を模した国を舞台に、旧教のリベンジがあり、新興国の勃興がありといった状況の中で外敵と戦う上に、力に魅せられた者たちの騒乱をも相手に孤軍奮闘の煉獄姫とその供フォグの運命やいかに? ってな話になってる。

 利と害とか表裏一体の新技術に対する警句も滲むけれども、中心になるのはその身から溢れる煉獄の気ゆえに、誰ともふれあえないまま地下に閉じこめられている姫君の寂しさへの憐情。そんな彼女がようやく得たフォグという騎士と戦い、それでも見に来てくれない父親への苦悩を滲ませ、ようやく得た親友らしい少女を目の前で奪われ、苦しみに懊悩する姿がどうにもいとおしくて切なく胸苦しい。かといって自分にはフォグのような毒気をまったく感じない体質はないからなあ。眺めるよりほかにない。きっと王様もそんな気分なんだろうか、もっとドラスティックに姫のその力をのみ欲していたりするのだろうか。

 ともあれエネルギーの源でありながら生命に危険な煉獄という設定がまず独創的で、なおかつ政治軍事宗教が交錯した世界観も奥深く、バトルシーンもいろいろと発動の形が入り組んでいて読んで分析する楽しみを与えてくれている。実はその存在自体が奇跡に近かったフォグのこれからと、そして迫り来る強敵との戦いといったドラマも待っていそうで、なかなかに楽しめそうな新シリーズ。今はまだ臆して物言わぬ煉獄の姫が自我を得て喋り始めた暁に、生まれる慟哭と劇場のドラマやいかに。続きを早く。


【8月15日】 そういえばと見ていなかった「刀語」の第7話を見たら、七実姉ちゃん結構胸大きかった。それはさておき、体弱いのにその体を痛めるまもなく力持ちの雪男雪女を葬り去ったそのパワーはいったい何なんだ? でもそんな七実姉ちゃんを相手に殺されないくらいには戦える七花もあれで結構強いのか、いや雪女の子には1人でも負けたからやっぱり弱いのか、いやいや雪女の子はあれでまるで格闘の技術がなかったから読めなかっただけで、七実が相手にしたのは技がちゃんとあったから見切れたのか。いろいろ考えると寝られなくなっちゃうけれどもともあれ七実姉ちゃんが倒れてそしてこないだの否定姫とのやりとりになって、そしてこれから七花ととがめはどこへいく? 来月は何日放送だ? 要チェック。

 やっぱり止まらない咳を無理矢理押さえて夜を過ごしてから、朝になったんでプリキュアとやらを見たらピンクなのが大股ひろげてぐーすかしてた。そーゆーキャラなのか、てっきりピンクが優しくブルーが強気かと思ってた。黄色も変身前は凛々しいのに変身後は見かけはキューティーという、そんな予想を外したキャラ属性の張り付けが案外に人を引きつけている理由なのかも、知らないけれど。エンディングに出ている灰色のはいったいいつ出てくるんだ。そこだけが楽しみだけれどもとりあえず時々は見ていこう。黄色の変身シーンが青とピンクとの合同になった。さすがに毎回あれは長すぎるもんなあ。

 そして家を出て総武線から京葉線をへて臨海線で東京国際展示場へと到着、企業ブースはどうしようかと思ったけれども届く情報では「灰羽連盟」のTシャツが即完売となるくらいの勢いなんで、寄ってもはじき飛ばされるだけだと遠慮。初日に短い行列で並んでおいて良かったよ。そのまま東館(ひがし・やかた)へと向かい東ホールの外周にあるらしい「惑星開発委員会」のブースを探したものの、あちらこちらで大行列に巻き込まれてなかなかたどり着けず。並んだ島のジャンルに合わせて外周も配置していあるみたいで、それに気づかず順繰りに辿っていったんで人気ジャンルの人津波にもまれてしまった。でもって這々の体で抜け出してたどり着いたブースは行列はなく静かというか、静かで良いのかというか。

 宇野常寛さんらしい人ともう1人が売り子をやっているところに行って、1冊「PRANETS」の新刊を購入。いきなり表紙がAKBというかSKEとはなかなかにゴージャスだけれど、このゴージャスさでは行列が出来ないというのかそれともコミックマーケットという場にサブカルチャーはまだまだミスマッチというのか。中を広げてみても原宿の裏原宿がもはや表化している話とか、アートの話とかNHKのドラマの話とか、そいういったのがあってあんまりコミケっぽくはないけれど、でも特集はゲームとか「伝説巨神イデオン」とかもあってそれなりにちゃんと引っかけてはいる。それともジャンルがクロスオーバー過ぎて、特定ジャンルに趣味が特化しがちな場に集う人には満腹感があり過ぎる? そんなあたりが総合系情報系雑誌の衰退沈滞につながっていたりもするのかなあ。

 とにかく幅広い取り上げっぷりでなおかつクリティカル。大ヒット中の映画「告白」を東宝でプロデュースした川村元気さんって人を引っ張り出して、「私の優しくない先輩」を撮った山本寛監督を対談なんかさせている企画は、旬も旬過ぎてどっかの映画雑誌がやっていたって悪くはない企画。でも見たことがないのはやっぱりそういう超メジャーでもなくどこか隙間に入り込んでいたりする人たちを拾い上げ、引っ張り出して位置づけてみせる機能を雑誌が発揮しづらくなっていたりするからなんだろうなあ、あるいはそういう情報を積極的に求めたがる人がいないというか。情報がないから誰も求めないのか、誰も求めないから情報が出ないのか。そんな相互にマイナスへと向かうスパイラルをどっかで逆回転させる手段を考えているけどなかなか思い浮かばない。そうこうしているうちに沈滞は続きそして……。悩ましい。

これなら乗りたい走りたい  20周年の「伝説巨神イデオン」で戸田恵子さんと坂井真紀さんを対談させた企画なんて、メンバー的に凄いとしかいいようがないけれど、これを新聞がやるには「イデオン」が邪魔だしアニメ誌だと坂井さんの位置づけが難しい。でもだからといって読みたくない企画かっていうとそうでもない、新しくファンになった女優がいてそこから世に大きく羽ばたいた女優がいて、それぞれが見解をぶつけるという企画に意味がないはずはないんだけれど、その意味を問う以前に収まりをもとめてしまいがちな世のメディア。そうした部分をとっぱらって無手勝流にすっ飛ばす面白さってのが「PLANETS」にはあるって言えそう。編集者としてはだから興味深い人。批評については無言。

 氷川竜介さんのブースをながめ「直言兄弟」のブースを嘗めて森川嘉一郎さんのところでバージョンアップ版を買い、とある法廷画の画伯の絵が貼られたブースを遠巻きにしつつ「マンガ論争3.0」のブースに挨拶してから会場を退散、だいたい40分くらいいたっけか。そこから電車を乗り継ぎ秋葉原へと出て「ブラック★ロックシューター祭り2010」を見物する。コミケ真っ盛りの有明から離れた場所で開かれいったいどれくらいの人が来るんだろうって心配したけど、それなりな人出で物販には行列ができて時間がかかりそうだったんで、絵とか痛車とか眺めて時間を過ごす。そのうちに空いてきたんで☆のマークが入ったTシャツを1購入。あと個人が「ブラック★ロックシューター」をモチーフに描いた絵がプリントされたクリアファイルなんかも。40種類を掲げてそれぞれにクリアファイルを作るとはまた太っ腹。だけどこういう参加意識を誘うやりかたがファンを増し、そこからファンが広がり商売になるっていった考えもあるんだろう。

 イベント自体も秋に出る「ブラック★ロックシューター」のアニメのパッケージを売る宣伝でもあり、またグッドスマイルカンパニーの本業ともいえるフィギュアとかグッズを売るためのもの。そうした場を作り関心を向けさせ認知を広げていくってやりかたは、マス媒体を使って派手にやるより広がり方は少ないかもしれないけれど、もはやそうしたマス媒体を頼った宣伝を行っても、どれだけも売れない状況なら、むしろ物理的な場を設けることで参加意識を高めてつながりを濃くし、そこから作品にポジティブな人を生みだし育てていく過程で商売を組み立てた方が、より確実で手応えのあるビジネスを展開できるってことなのかも。

 昔の玩具メーカーがスポンサーになってアニメを作り玩具を宣伝して商売にしていた手法と似てはいるけど、マスではなくってミニマムからちょい上を狙って確実なリクープを狙う。その意味では新しくもあるビジネスモデルって言えそう。今後も似た手法の者が出てくるかな。それともこれはやっぱり「ブラック★ロックシューター」ってコンテンツがあったればこそのものなんだろう。夕方に開かれたトークショーでも安藝さんって社長の人が、見るとみんなが何かやりたいと集まってきてくれるそうな。そんな勢いがJALの国際線での7カ国版上映とかにつながったり、米国でのストップモーションアニメの製作につながったりしてる。JALで上映だなんてどこのジブリアニメだ「紅の豚」だ。再生途上にあって何かを求めているところに、新しさを持ったものが現れ結びつく。そこから生まれるさらなる出合いが何かを生むその先に、広がる新たなアニメコンテンツの姿、アニメビジネスの地平なんかがあるのかも。動勢なんかを見守ろう。


【8月14日】 800円ってそりゃあ中高生には酷な値段な気もしないでもないけれど、トランプがついているからその値段なだけであって、普段は680円とかそんなもんだったらまあ変えない訳でもないかもしれない「月刊アニメージュ」。でも前に買った時もそんくらいしたような気が。でもって前より確実に薄くなっているような。リーマンショックの影響はバタフライ効果によって確実にアニメ情報誌の厚さを削っているらしい。でもって前に買った時と比べて巻末の人気キャラクター投票が何か男キャラばかりになっている気が。筆頭が「デュラララ!」の折原臨也で2位がやっぱり「デュラララ!」の平和島静男で後は誰だっけ、「黒執事」のセバスチャン・ミカエリスにシエル・ファントムハイブに「戦国BASARA」の伊達政宗といったあたり。別にむっさくはないけどしかしそれにしてもな顔ぶれが並んでる。

 顔が掲げられている20人のうちで女子は「けいおん!!」の唯と澪を梓くらいというこの事態はつまり「月刊アニメージュ」の読者でそういうのに投票する人が圧倒的に女子ばかりになっているって状況を表しているってことなのか。まあそりゃ昔っからトリトンに古代進にハーロックにシャア・アジナブルにシャーキンといったイケメンたちがアニメのキャラ人気でトップを貼ってた時代はあって、女子がアニメのファンにそれなりの比率で存在していることを示してた。ファン活動をしているのだって女子が半分よりも多いとか。でもここ最近だとアニメはアキバな男子のもので萌えだメイドだネコミミだってな辺りがもてはやされて、それが外部的にもアニメファンのイメージ、アニメキャラのイメージを形作っていた。新作アニメが作られるならそうした萌えだ何だってあたりを狙わないといけないって気分が漂っていた。

 違うじゃん、受けてるのってイケメン男子が勢揃いしているアニメじゃん、でもって「デュラララ!」だって「黒執事」だってしっかりとしたセールスを挙げてるみたいじゃん、ってことはつまりそうした作り手側のとりわけ資金面を担う側の思惑と、受け手側の求めるものとの間にうまれたギャップがアニメの市場を細らせて、迷わせているってことなのか? うーん、でもこれからの新作を見ても萌えだメイドがクトゥルーだって感じだしなあ、イケメンばりばりなアニメなんてあんまりなさそうだしなあ、まあ企画を立ち上げてから作品になるまでのタイムラグってのが1年から2年はあるのがこの世界、だからきっといずれやっぱり今は婦(腐)女子だってことで夜中にイケメンのお兄ちゃんが12人出てくるアニメとか、溢れて美声嬌声を響かせまくることになるんだろうなあ。知らないけど。

 それにしてもというか時代は巡るというか、成田良悟さんの作り出したキャラクターがアニメの人気投票で1位2位に輝き表紙を飾り、トランプとかになる日が来るなんて感慨深いというか予想を超える事態というか。もとよりデビュー作の「バッカーノ!の頃から実力がたっぷりとあることは分かってた。作品の面白さも折り紙付き。その面白さがあれば放っておいても世間は注目するし、電撃の看板にだってなると思い続けていたものの、そこは多士済々が万里の長城のごとくに広がり、東京スカイツリーのごとくにそびえる電撃文庫。萌えやら異能バトルやらラブコメやらに吹く追い風が「シャナ」を看板に押し上げ「禁書目録」に金の代紋をもたらし「とらドラ」に皇位を授けてトップランナーに押し上げた。「狼と香辛料」ってのもあったなあ。

 そんな中にあって質量のともに遜色なく、山ほどの傑作シリーズを世に送り出してもなかなか最前線を突っ走るってイメージには至っていなかった成田さんが、「デュラララ!」のアニメが始まったとたんに一気に超スパート。その存在を従前からのファンだといえる兄ちゃんやらおっさん層だけでなく、ヤングな渋谷新宿池袋ギャルやらスマートな銀座丸の内大手町レディららにも知られるようになってしまった。もはや電撃の看板。それも大看板で金看板でダイヤモンド看板でガンダニウム看板とも言って言い過ぎではない成田sなn。固くて輝き廃れない看板となった今から先、さらなる高みを目指して突っ走っていってくれるだろー。この勢いが電撃って枠だけじゃないところではじけてくれたら、ラノベがどうとか難癖つけがちな笹塚あたりに群れ集う爺さんたちをも蹴散らしてくれるんだけど。どうでしょう?

 それはもはや無形文化財、あるいは天然記念物、もしくは世界遺産ともいえる「井上喜久子、17歳です」「おいおい」を目の前で見られる幸福をかみしめながら過ごす夏の土曜日の昼下がり。たとえ1人だって寂しくないって思えてくる。生きる勇気がわいてくる。ありがとう井上喜久子さん17歳。おいおい。そうかなるほど「声が小さいぞー」からもう1度やるのがお約束なのね。そんな井上さんの美声が響いた「TRIP TRECK」って何やらネットで人気のアニメでドラマCDにもなったらしい作品のイベントがあたんで吉祥寺へ。武蔵野公会堂ってどこにあるんだと探したらパルコの筋から入った横にちゃんとありました。いい場所なんだけどちゃんと古くからの公会堂が残っているのはそれだけ意義深いスポットだからか。下北沢タウンホールといい非実在青少年関連イベントのあった豊島公会堂といい古くて味わい深い建物が割とあるなあ東京って。

 イベントはそんな「TRIP TRECK」って作品に出演している声優さんたちがずらり大集合。中に画伯こと小林ゆうさんもいて、っていうか主役を演じているんだけれどもやっぱり場の空気は御大重鎮でありながらも17歳の井上喜久子さんに傾きなびき、小林さんの突拍子もない発言もやわらげ包み込んでちゃんとしっかり場を持たせる。なるほどこれが歳の……ゴホン。でも井上さん、いっしょに登壇した寺本來可さんってまた新鋭の声優さんとの話の中で彼女が自分と同じ17歳だと知って(おいおい)喜んだ一方で、彼女のお母さんもまたやっぱり歳がいっしょだとかいう話も披露。それはつまりどういうことかといえばそういうことなんだけれども言って井上さん「時空の歪みの中に生きているんです」。なるほどそれなら納得。時を超え空間をまたいで屹立する偉大な人。だからこその世界遺産なんだろう。

 あとは浪川大輔さんと平川大輔さんて日本3大大輔のうちの2人が並んでいたのもなかなかに眼福。残る小野大輔さんは作品に参加していないから仕方がないにしても、別に宮野真守さんとか参加していたりして、それも役柄的にはぬいぐるみだったりして、いったいどういう作品なんだって興味がぎしぎしわいてくる。ちなみに井上喜久子さんの役は蠅だったりする。あの蠅です。ますます興味がシンシンシン。調べたらそんな大輔さんたちは坂口大介さん岸尾ダイスケさんといった面々と5人で「DAISUKE!」ってユニットを作っているっぽい。いろいろと考えるもんだなあ。ほかにそんなユニットが組めそうな名前ってあるんだろうか。

 そんなイベントも井上さんの圧倒的な巧みさで響くアフレコにナレーションを間近で生で聞いいてお開きに。いかにも吉祥寺って感じにスレンダーでボンキュボンなボディをタイトなタンクトップとかに包み足もにょっきり見えたお嬢さんたちが割といたのは、浪川さんのファンなんだろうかそれとも音楽を担当した10年やっててこれからいよいよって感じらしいPONYってバンドのファンなんだろうか。声優さんたちがわんさか集うイベントにしてはちょっと読めない客層だったけど、印象として女性が多かったあたりにやっぱり今は女性の方がアクティブでアバンギャルドにアクションしているって現れか。意味不明。そんな吉祥寺から水道橋へと点線して赤い祭りを見物。「赤の肖像 〜シャア、そしてフロンタルへ〜」は、あの池田秀一さんが2時間近くにわたってシャアになり1年戦争から逆襲のシャアまでを振り返り独白する朗読劇。超ベテランにして超美声が生で発せられる場に居合わせることはまさに奇跡。息づかいまで含めて完璧なまでの発生は、声を仕事にする者なら学ぶべきところも多々有りすぎるんじゃなかろうか。

 なるほど年齢は重ねていてもそこはプロフェッショナル。画面に流れる最初のガンダムにZガンダムZZときて「逆襲のシャア」へと至る時代に録音された声にまずもって差異がない上に、今まさに眼前で繰り出されている声もほとんどそのままという奇跡。たしかにやや年齢は感じられないでもないけれど、そこにたとえば自分の20代と、今との間にある差はなく、見ていてまるで違和感を覚えさせない。さらに「機動戦士ガンダムUC」の第2話の一部上映では、シャア・アズナブルがフル・フロンタルとして蘇ったかのような声を発してみせて見る人たちの感涙を誘う。まさに赤い彗星の再来。この声を劇場で聴けるんならDVDとかブルーレイの発売を待たずに劇場へと駆けつける。もう絶対に。

 とにかく池田秀一という俳優の凄さ偉大さを感じた2時間半。明日15日も開催らしいので、シャアの生声が聞きたい人、池田秀一という人の演技を間近に見たい人はゴー、当日券もあるっぽい、ってか今日も満席じゃなかったのがちょっと残念。取材じゃなかったら普通に金だして見てたかも。それくらいの内容だと言っておこう。そこから帰宅して録画してあったのを見た「刀語」の弟8話(月数が話数といっしょだから数えやすいなあ)では否定姫が谷間をしっかり見せて色っぽい危なっかしい。七花が人の心を持ったって描写があったけれどもそれで弱くなったりしないのか。そんな辺りも含めて残る4話の戦いに注目。


【8月13日】 とりあえず原作者と話し合いながらやっている訳だし、10数話しかない展開の中で、1巻からじっくり見せていたら話もいっこうに進まないなかを、分かりやすくキャラを見せ話を進めるには一気呵成が一番。あと微妙な心理って奴なんかを描くのもなかなかに手間のいる映像作品で、女装したいけど女性になりたい訳じゃなかったけどでも直保には関心を持ってもらいたい気持ちもなかった訳じゃない結城蛍の“乙女心”を醸し出すのも難しい、ってことでああなったんだろうなあ体力馬鹿の兄ちゃんだけど心にあった直保への心を体まで変えて表現してみせたって展開に。ドラマ「もやしもん」。

 それが適正か否かっていうと難しいけど、そういう部分は漫画に描かれじっくり読んでいる中で味わっているから、ドラマはドラマで愉快に楽しくハチャメチャな農大ライフって奴を見せてくれればそれで良し、って考えもある。生身の肉体がモニター越しとはいえ躍動する感覚を楽しめる実写ドラマなんだから、加藤夏希さんが演じるボンデージの長谷川遥の姿態を堪能し、脇においやられていても出てくればなかなかにうるわしいちすんさんの武藤葵をなめ回し、及川はまあどうでもいいけど結城蛍のフリフリヒラヒラな衣装を眺めて中身はどうなっているんだと想像するのが健康的な鑑賞の仕方なのかも。

 あとは単行本的には途中で終わってしまっているアニメーション版を漫画に準拠して再び描き継いでいってくれればありがたいんだけど、そーゆー企画は挙がってなさそうだしなあ「ノイタミナ」。ちょい受け狙いが多くなり過ぎて来た気が。注目されると初期のインディーズ的冒険が、テレビ的悪目立ちに転ぶって典型か? まあでもそんな中からビジュアル的演技的に不思議さ満載だった「四畳半神話体系」が生まれ、これもやっぱりビジュアル的に不思議なものになりそうな「海月姫」が生まれそうだし、冒険の度合いでは1990年代末期の深夜アニメに並ぶか上回って来ているのかもしれないなあ。どうなるのなかあ「フラクタル」。

 まあいくら「ノイタミナ」が頑張ったところで、この100年の深夜アニメの最高峰はすでにして「serial experiments lain」が押さえているし、2000年代をとっても「灰羽連盟」が押さえているから、「ノイタミナ」が1位になることはないのだけれど。ってことで朝も早くもないけれども起き出して、降り出しそうな雲行きの中を有明へと向かい、コミックマーケットへと到着。大行列もなくすんなりと午前11時頃には企業ブースのある西館(にし・やかた)の屋上へと上がり、見ると広場には看板が掲げられて行列の指示が出ていて、探してそこにあったらもう諦めよう、だってそこからだったら何時間かかるか分からないしって思って、見渡しても見えなかったパイオニアLDC、じゃなかったジェネオンエンタテインメントのアニメ関連レーベル「ロンドローブ」のブースにつながる行列を探したら、ブースのすぐそばに出来ていて、まだ短めの行列だったんでこれは僥倖と後に着く。

 ほどなくして行列も広場へとのばしたみたいで、時間的にはぎりぎりだった模様。そこからでも40分ほどかかったけれども、着実に列は進みやがてレジへと到着してそこで「lain」と「灰羽連盟」のTシャツをしっかりと購入する。見渡して直前の1人がこの種類を買っていたのを見かけたけれども、あんまり購入希望の欄にチェックを入れている人を見なかったのは、さすがに10年とか昔の作品を、今さら愛でる奇特な人はコミケなんて来ないってことの現れか。でもちゃんとこうしてグッズが作られるってことは、作品がまだパイオニアLDC、じゃなかったジェネオン的にもそれなりに重きを置かれている作品だってことだと思っていいのかな、たまたまブルーレイボックスが出るから作られただけなのかな、どうせだったら「ソルビアンカ」とか「アミテージ・ザ・サード」とかも出せば買ったのに、ってそれは流石に古すぎるか。

 サンデーGXの「ブラックラグーン商会」はざっと見てすでに持ってるTシャツだったり買う気のあんまりないボトルだったりしたんで、列に並ぶのは止めてそのままスルーして東館(ひがし・やかた)へと向かい永山薫さん昼間たかしさんが出してた店で「漫画論争3.0」を購入してそのまま有明を脱出、りんかい線から京葉線を乗り継ぎ海浜幕張のアウトレットでカットジーンズに改造できそうなやすいジーンズを探して仕入れてなんちゃってレヴィ化計画に少しづつ近づくものの、肝心の体重だけがまるで落ちないどころか横にふくらみちょっと大変。頑張るならせめて5キロは落とさないと見苦しいだけのものになってしまうから頑張って何とかしなくっちゃ、って別に誰に見せる訳でもないから良いんだけど。

 そこから戻ってやや読書、「這いよれニャル子さん」の新刊は特に大きな展開もなく大技も出ずほのぼの日常系へ。アニメ化も決まってお目出度いけどもう1発くらい大技を見せないと、シリーズとして存在が薄くなてしまうんで是非に何か必殺技を。留守でも帰ってくるまで立ち続ける宅配屋は良かった。実際にあったら便利だけど。でもちょっと……。それから同じGA文庫で「無限のリンケージ」を出しているあわむら赤光さんが脇にちょいそれて出した新シリーズ「あたしの兄貴がこんなに格好良いはずがない」を読む。違った「あるいは現在進行形の黒歴史 殺戮天使が俺の嫁?!」だった。

 つまりは妹がノーマルにみえて実はおたくだったという話でななくって、兄貴がノーマルなんだけれども妹が最初から全回バリバリの完全無欠なオタクでリアル中二病で、ノートにライトノベルかアニメか何かのキャラクター設定だけをひたすら綴って兄貴に自慢してたら、神社の神主の親父が騒ぎすぎだとノートを奪ってこらしめようとして間違って、お焚き上げの火の中に落としてしまったところに現れたのがノートの中の堕天使やら悪魔やら。単に顕在化したってことじゃなく、その設定が持つ磁力に惹かれた周辺の幽霊たちが、キャラクターを得て実体化したものらしく、いささか設定とは違った行動を見せて街を騒がせ始める。

 何とかしなきゃってところで残ったのが、幽霊を狩る仕事をしていた死神が妹の作ったキャラ設定の中でも割と弱めな悪魔だか何かの形をかりて顕在化した美少女で、そいつをとりあえず見方につけるものの、兄貴大好きで自分の作ったキャラも大好きな妹のお節介なんかがあって前へと進まない。そうこうしているうちに向こうから、妹の妄想力をどうにかしようと現れたキャラクターがあったりして、そんな彼女とまずは戦いそしていずれは逃げ出したキャラクターたちとの戦いを重ねていくってことになるのかな。面白い。はっきいってむちゃくちゃ面白い。

 もうとっても面白いんだけれどもやっぱりなあ、時代感が現れすぎているっていう気もしないでもないなかあ。でも面白いから別に良いのか。いやしかし。前からあるシリーズの「無限のリンケージ」があれで結構シリアスで、惑星の住民の命運なんかがかかっていたりする話なだけに、こういうのも書けるんだって驚きと、でもやっぱり昨今のライトノベルにはちょい異色な「無限のリンケージ」を固めて欲しいって希望もあったりして気持ちは迷い気味。とはいえちゃんと「無限のリンケージ」もすぐに出るみたいなんで、剛柔硬軟取り混ぜ2本立てでいってくれると思えばこれはこれでありなのか。「無限のリンケージ」が「俺たちの戦いは始まったばかりだ(あわむら赤光先生の新シリーズにご期待下さい)」になってないことを祈ろう。


【8月12日】 西夏だなんて今だかつてない時代に場所を漫画にしているだけでも挑戦的だというのに、そこに現代とのリンクを持たせたファンタジックな要素も入れて、現代人の興味を引こうとしている伊藤悠さんの「シュトヘル」(小学館)は、3巻まできてぐるりと時間が回って、ようやくシュトヘルの中に入り込んでしまったスドウが、絞首刑に処せられた直後の首吊り場面という衝撃的なシーンから、雷光とともに蘇って戦い逃げ延びて再会したユルールの話をゆるゆると聞いて、自分が今おかれた状況を知りつつ思い出した模様。

 モンゴルに味方したツォグ族の襲来で、見方を皆殺しにされた中を生き残ってしまった西夏側にたぶん属する都市の兵士のすずめちゃんが、襲ってきた狼との戦いの中で開眼して殺戮の悪鬼、シュトヘルとなってモンゴルの兵士を闇に葬り始めた一方で、ツォグ族の族長の子でありながら実はチンギス・ハーンの血を引いているらしいユルール少年が、義母の影響で西夏の文字に興味を持って、それを破壊しようとする動きに反発して、玉音同なる文字が書かれた玉を持ち出し、爺さんと逃亡を図っているところで、とあるシマシマのおっさんの庇護とそして奸計に陥り、シュトヘルを引き入れ見方につけてそして旅を始めたものの、妙に人間くさくなって来たシュトヘルにシマシマのおっさんは戸惑った。

 こんなの僕のシュトヘルちゃんじゃないと感じユルールを殺め、シュトヘルがつけねらうユルールの兄貴を引っ張り込めば、また殺戮の悪鬼が見られると画策したのが第2巻の終わりまで。第3巻ではまずシュトヘルが、シマシマのおっさんからユルールに入った毒の解毒剤を取り戻し、それを手にしてユルールの兄貴の下でひとまず生き延びて、そして迎えた絞首刑の途中にいったん現代へと意識を戻し、彼を弦のない二胡の音で過去へと連れて行ったスズキさんと再会。したもののなぜかスズキさんはいなくなり、彼女の存在も周囲の記憶から消えてしまい、西夏の存在すら消されようとしているのを奇異に思いつつやっぱり自分がと、過去から手にして持ち帰った弦を自作の二胡に張り、奏でて意識を過去へと戻して、ユルールとの対面となってそして意外なガッカリをくらう。

 ユルールが求めていたのはロベルタよろしく悪鬼とばかりの戦いぶりを見せつつも、どこかに知性を残して自分に興味を持ってくれて、助けてもくれたシュトヘルという女の子。それが中身は誰ともしらない現代人の兄ちゃんで、悪鬼羅刹とばかりの戦いぶりも自制が働き見せられなければ、そりゃあガッカリもされるだろう。けどでもそれならどうしてシュトヘルの中にスドウが入って、彼にシュトヘルの記憶を振り替えらせ、そして現代もなおシュトヘルとして戦いの渦中に置いているのか。流行の女体化なんかとは違った意味がそこにはあって、現代人のスドウが1200年代のシュトヘルの中にいて、ユルールと出合い西夏文字を現代に残してそして現代になにがしかの恩恵をもたらす道筋が、想定されているに違いない。そんなあたりの展開と、そして今までとは違って中身がスドウって青年になっているシュトヘルの表情仕草なんかを味わいながら、全体像が見えて面白さが分かってきた「シュトヘル」のこれからを楽しんでいこう。完結するよね?

 女体化アンソロジーなはずが、ほとんど季刊の雑誌化してきた「チェンジH」の何色か思い出せない最新刊を買って読む。塩野干支郎次さんのバリバリエージェントが可愛い女の子になってしまって麗しの乙女の園で起こる事件をどうにかするってシリーズは、またしても新たな子が現れる展開。いったいどこまで行くんだ。ってかこいつらは少佐もふくめて全員がちゃんと付いているのか。うーん。六道神士さんの乙女の園の生徒会は全員が親に高校卒業までは乙女であれよと命じられた兄ちゃんばかりで大変というシリーズは、まさにAR的ともいえる脳内補正が働き肉体ムキムキなはずの生徒会長も含めて全員が眉目秀麗なお姉さまに見えてしまう絵が多くて気分的にはハッピー。慣れれば、あるいはそう見えるようにしなきゃって脳に強制的に電波を与え続ければそう見えるものらしいけど、侵入者にはそうした鍛錬は不可能だった模様。意識を破壊され薬で惑わされた彼の運命やいかに?

 2人とも割にチェンジでどぎまぎする話が多い中で、その上にストーリー性とかテーマ性なんかを持たせていたりするところが、ただのアンソロジーと違って季刊誌的に読み続けたいって思える理由か。同様に廈門潤さんのシリーズも、続きが楽しみな1編。クローン再生が何度も認められた救国の英雄が、またしてもテロにあって蘇ったらクローンが間に合わなかったのか密かにつくられていた女性体に入れられてしまってまずびっくり。なおかつ自分がそのテロで助けようとした少女は、自分のまだ幼いボディに入れられているという倒錯があった上に、そのテロを引き起こした少年は、強力な自己再生能力がキマイラ的なボディの中で発動してしまって女性体に変化。そうやって出そろった面々が最新刊ではひとつの島に集結して、果たして何がおこるのか? って期待を持たて以下次号。待ち遠しい。80年代的なSF漫画を感じさせる絵柄が心になじむなあ。

 すぐ真横で森田一義さんからの「いいかな」って問いかけに「いいともっ!」って叫ぶ声を聞くという行幸に浴してから、あれやこれやと話を聞いて、テレビなんかで大活躍しているプロフェッショナルであっても、その将来がいつまでも安泰とは限らないという自覚があり、かといってテレビが求める刹那的な器に合わせて、自分をひょいひょいと変えていくのも、どこかモヤモヤとしてしまう中で、自分自身を出しまくれる場所を作り、そこから自分自身への意識を変え、そうして自分自身がやりたいことをやっていける環境を作り出そうとする動きが、お笑いの世界で起こっているんだってことを知る。

 聞けば1人で何億円だって稼げそうな人たちが、集まり80人の場から初めてテレビ番組も作り2000人を集めて大評判をとってDVDまで発売される。そこへと至った道はおそらくは大変で、けれどもそんな苦労を悲壮さに包んで語らない明るさ、未来を冷静に見つめて進むクレバーさにそうかそういう人なんだとファンになる。テレビの中で虚像として演じられるひとつのキャラは、それはそれでファンの望む者を見せているという意味をもっているから否定はできないんだけれど、そればっかりをファンが求めて外れたものと認めない、って動きがあったらやっぱりちょっと違う気がする。

 硬直化した上に保守化してしまったメディアの上で、こうあらねばらなないという自意識があたらき、ファンサイからのこうあるべきだとう同調圧力が加わり、そしてこうしておいた方が安全というメディア側の思惑とが入り交じって、まるで変化が起こらないという状況は何もお笑いに限った話じゃない。ライトノベルだって漫画だってアニメだってSFだって同様。似たような設定の話がわんさか生まれて、どれを取っても一緒に見えつつある。そうじゃなきゃ認められないんじゃないかって強迫観念が、そこにあるようにすら思えてくる。

 かつてはそこから飛びだそうとする冒険を、ファンの人は追い求め探して求めていて、そうした声に答えてクリエーターも新しいものを送り出して来た。受け手はそれを認めて評価して、称揚して広めることによって、次の世代のスタンダードを作り上げてきた。それが今はファンは似た話で満足し、送り手もそうでなきゃいけないと思いこみ、作り手もそうあらねばと自分を押し込める。雑誌付録のDVDとか、閉塞感を打ち壊して突破しようと模索する動きがない訳じゃあないけれど、それが人口に膾炙して、新しいスタンダードとなるにはなかなか時間がかかりそう。メディアがもっと迅速にキャッチアップして、動きを伝え称揚できればいいんだけれど、ここが1番硬直化して保守化しているからなあ。石のように固まったまま日本は、文化も何もかもゴボゴボと沈んでいくのかなあ。


【8月11日】 キツネちゃん目立ってない、っていうかそこは今市子さんの「百鬼夜行抄」の青嵐とか、緑川ゆきさん「夏目友人帳」のニャンコ先生のような妖怪変化の類と、妖怪変化が見えてしまう主人公との関係がメーンに来る漫画と違ってて、天乃タカさん「誰が為に鋼は鳴る」(エンターブレイン)は鍛冶屋を目指す青年と、不意に現れた女の子との交流を、直接ではなく寄り添うように見つめ導く役だから仕方がない。関わりがある場面でも、女の子の気持ちが変わっていくのを止めるなり、女の子の願いを叶えるなりといったこともあんまりしないで、傍観者然として居続けたあたりに、キツネちゃんの目立ってなさの一因なんかがあるのかも。

 鍛冶屋になったは良いけれど、突然に親方が死んで後を引き継いだだけだから腕前は今ひとつで仕事はキャンセル続き。悩んでもやめおうかと思っていたケンちゃんが、それでも何か作ろうと仕事をしていた時に、槌打つ響きに合わせて何やら声が聞こえてきた。それは火の神様の声らしいんだけれども姿は見えず、それでも導かれるように槌をおろしていた時に、ふと見ると可愛い女の子が立っていた。それが神様? と思ったら違ったみたいだけれど、その女の子には実は神様というかキツネちゃんが見えていて、2人は田舎町で親交を育み、一方でケンちゃんはちょっぴり開眼した仕事に本格的にのめり込んで、そんな姿を女の子が慕って三つどもえの関係で話は進む。

 良い関係、に見えたけれどもケンちゃんにはそこにいる神様は見えず、だからありがたくっても情は移らず、自分の成長のためにと工房を畳んで修行に出ようとする。女の子はキツネちゃんのために迷うけれども、やがて自分自身を持つようになってやりたいことをやるために、街を離れて勉強に行くといってキツネちゃんタヌキくんたちを悲しませる。バラバラになりかけているんだけれどもそこで自分を守ろうとしないキツネちゃんが妙にいとおしい。その神様にあるまじき自己犠牲っぷりが、あるいはキツネちゃんを狂言回しの位置に貶めていて、それでもしっかり存在としての確かさを醸し出しているのかもしれななあ。

 けれども、一時のそうした優しさは後にしっかり実を結んで、改めて3人を結び合わせていく展開を見るにつけ、荒ぶるばかりが神様じゃないんだと思わされる。火が起こればどこにだって還ってこれるのだからってこともあったのかな。そんなキツネちゃんの変身バージョンはなかなかの別嬪ぶり。女の子のお母さんもお母さんって言い方が似合わないくらいに別嬪だったけれども、そんな美貌とやんちゃな神様の心が重なったえもいわれぬ魅力を持ったキャラクターになっている。あの数ページだけでも存分に目立ったから案外にしっかり主役の位置を取り戻していたりするのかもなあ、キツネちゃん。

 ネキッドロフトでのイベントで、写真家の丸田祥三さんが言っていたことで思い出して気になったことが1つ、丸田さんは東映って映画会社の老舗でテレビ事業部に入って仕事をしていたみたいなんだけれども、その頃の映画会社は60年代の全盛から70年代の斜陽すら過ぎて、どうにも先の見えなくなっていた時期らしく、それでも共に滅びるのは嫌だったんだろう中堅の人たちが、既得権益の確保に走り新しく入ってきた人たちを虐げていた結果、社内があれやこれやとんでもないことになっていたらしい。そんな状況に嫌気がさしたか、写真の腕前が認められたか丸田さんは写真家の道を進み出版業界とつきあい始めてまだここには、プロフェッショナルの仕事が残っていると思ったのも今は過去。80年代の映画界のようにとんでもない状態が、今の出版業界に起こっているように見えると話してた。

 既得権益にしがみつく割に責任も負担も下にかぶせて知らん顔。かといって抜本的な解決につながるような改革はしないで、今を堅持しようと右往左往するうにち、削られ弱り見下され滅びていくという構図。あり得るだけに悩ましい。とはいえ映画会社の斜陽は映画から娯楽の王を奪って突っ走っていたテレビ界が救い、製作委員会を巻き込み資金面を担い局発の映画を送り出して大ヒットを連発して、業界全体を盛り返した。独立した意あるプロデューサーが作った企画や、アニメ会社の企画なんかも形になって作品の幅を路下厚さを増し、そこに黒船シネコンの到来もあって興行面の体制も整って、映画界そのものは多少のでこぼこはあっても、それなりの規模をキープしている。

 DVDの普及ってのもあってこと映像を楽しむという娯楽は大いに広がった。これからも簡単に映像を見られるデバイスの変化やネットの普及でさらに広がっていくだろう。しかるにそうしたテレビのように、出版を肩代わりして企画を出し、資金を出し流通を広げて出版界全体を持ち上げるような動きは生まれ得るのか。iPadやキンドルは流通を変えるけれども決定的じゃない。資金は今はどこも細って出版を引き取るようなところはない。企画もどこか刹那的。決定的な改革を見ずにひたすらに縮小していくだけなのかそれとも。って言ってるけれども足下の新聞だって結構ヤバいしなあ、流通は固まり企画は千年一日で変化なく資金はひたすらに細るばかりだもんなあ。困ったこまった。


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