縮刷版2010年7月下旬号


【7月31日】 まず目標を置く。そこに至るまでの過程を考えてみれば自ずと見えてくるのが足りない部分。ならばまずはそのひとつを乗り越えて、そして果たせれば次の課題を乗り越えていく、そんな繰り返しの先に確実に目標の地点が見えてくるのし、近づいてくるという、地味だけれどもごくごく当たり前のステップでもって吉浦康裕さんは、「イヴの時間」という作品を作り上げる地平にまで至ったんだってことを教えられたデジタルハリウッド大学での特別講演会。

 最初の作品「我ハ機ナリ」は1分ちょっとの短いアニメーションで、ノイジーな音楽に乗せて意味ありげな近未来的映像が繰り出されるといういかにもなもの。なるほど芸としてはなかなかで学校内でもほめられちやほやされたそうだけど、プロがみればいたらないところだらけの映像に、NHKの番組「デジタルスタジアム」でついたのは酷評。そこでダメだと落ち込まず、ならばと次に「キクマナ」ってのうを作ってみせて応募し今度はそれなりの評価を獲得してみせるへこたれなされが素晴らしい。

 それでもそこでこのままアートっぽいアニメーション作家でいくべきかを考えて、アニメーションの道に進むにはそれだけではないところもみせていかなければ、就職だってままならないと考えこれまでとは真反対に、喋りが多い作品を作って見せる所がなかなかの人生設計ぶり。且つそうした意識を実現してしまえる才能もあったんだろう。「水のコトバ」は喫茶店という空間で大勢がバラバラに喋っているのがひとつにまとまるという、ある意味で「イヴの時間」にシチュエーションで似た作品で、それでもってこういう作品も作れるんだと手札をみせて、それをステップにしようとしたら、次を作ってみないかと構想を打診されて、泣いて笑って感動できる、キャラクターメインの半ば商業を含んだ作品「ペイル。コクーン」へと至っていく。

 その歩みは、幸運の塊なんかではなく自身を把握して次を探りやり遂げていく、高いセルフプロデュースの意識に支えられているって言えそう。作ったから見てね、気にいったら応援してね、って待ちの姿勢ではない能動性こそが今へと至る階段を押し上げた。そう言っていんじゃないだろうか。 「イヴの時間」があれだけの見映えを持った作品に仕上がったのもそんな目的のために何をすべきかをちゃんと考えて、困難があっても乗り越えていく能力の高さの賜物の様子。3Dでモデリングをして2Dを重ねてっていったテクニックとかもなるほど効率化の上に作品を仕上げるための才能だけれど、それ以上にやっぱりしっかり目標を持って進んでいくことにこそ、この業界で足を刻んでいくための大切な要素があるみたい。この才能とこの前向きさならいつか金曜ロードショーで自分の作品が流れ、それを親兄弟が普通に見て楽しいと思ってくれる時代だって本当に引き寄せてしまうかも。あと「イヴの時間」の実写版とか。ちょっと見てみたいなあ。

 幽霊のように街に溶け込み市民を装い暮らしていても、ことがあれば集まり本性の戦闘員としての能力を露わにして、街に起こる事件を闇に葬りなかったことにしてしまう"手品師"たちの、活躍というよりはやっぱり活動と抑えた表現でいいたいその任務を描いた榊一郎さんの「ザ・ジャグル 汝と共に平和のあらんことを」もこれで第4巻。前巻から続く軌道エレベーター上にあるトップステーションを舞台に巡らされる謀略は、エレベーターの真下にあって手品師たちが暮らし護っている街に宇宙からの破片の雨を降らせようとするテロとなって顕現。そしていあわせた手品師たちは持てる能力を発揮して、街を救おうと空を舞う。

 影のように暮らし機械のように任務をこなす手品師だって命は永遠ではないし、過去だってしっかりもっている。そんな生きている息吹、生きて来た証がこの巻では一気に吹きでて人間という存在の深さ大きさを感じさせる。公爵夫人とあだ名される女性の凄まじいばかりの過去。ニックネームから受ける冷静で時に冷酷かとも思えそうな性格が、大転換を遂げて爆発し噴出し、疾走へと彼女を押し出す。そんな公爵夫人とは対象的に、大柄で全身が機械化された女性の元兵士が、機械化される以前の記憶はないとあっけらかんと言ってのけ、そして命令だからと冷酷さすら見せず息をするように人に銃を向ける様に、たとえ復讐といった感情でも、あるだけまだマシなのかもと思わせる。

 そんな手品師たちの活動を追いかけて来た報道士の女性にいよいよ感づかれ始めた手品師の一人の正体。街を狙うテロの動きも活発化するなかで報道士の女性は職務を全うしようとしてなにか壁にぶつかるのか、手品師たちはその任務をそれまでどおりに隠れたままでこなしていけるのか、新たに火星からくわわった大柄な機械化兵の女性は陽気さを性格としてのみまっとうするのかそれとも。残るのはあと1巻。どんな結末へと導いてくれるのか、その手妻を見守ろう。まあコーティカルテが出て来るってことはないだろうけど。

 蘇我へ行くはずが乗り間違えたか上井草へと向かうことになってしまっていて、それも運命だと悟りつつ折角だからと神保町に立ち寄って例の「ONE PIECE」に関連した大町おこし大会を見物、普段はおっさんと本好きそか来ないような街に若い婦女子が溢れ出ていて目にも嬉しく街にも嬉しいイベントになっていたって感じ。企業が施設の集客なんかに人気のコンテンツを引っ張って来るってのは良くあるはなしで、きっとその裏では商行為としてお金もしっかりうごいていたりするんだろうけど、神保町のはそんな商業っぽさがあまりなく、街がもり立てそれを版元がささえるような構図が感じられたのが心地いい。本当はどうかはしらないけど。

 雨を心配してかシートがかけられていたイラストや原稿も程なくオープンになってフルに見られた今日の展示。明日もやってるはずだけど、天気はどうなんだろう? ふくせいだろうけど鮮やかなカラーイラストとか、大判の原稿とかを間近に見られる滅多にない機会なんで晴れたら行くべし、晴れてなくても行っていつもと違う神保町の風景を楽しもう。

 そして上井草へとへとやって来たんで、折角だからとガンダム関係の街らしい名前と言うかこっとが先でガンダムに引っ張られたと言うアストラーザでオムライスの中盛り。しっかりとケチャップが絡まりマッシュルームと鳥肉には火が通ったチキンライスを覆った卵焼きは固からず柔らかすぎない絶妙さ。これを家でやると欲張って卵焼きを分厚くしてしまったりチキンライスに肉をぶちこみすぎてしまうんだけれど、そこはしっかり洋食屋としてバランスをとてあって食べ終わても胃にもたれず、良い気分で店を後にできた。

 食べ終えて汗が吹き出たのはオムライスのせいってよりは気温と湿気のためなんで仕方ない。季節が爽やかになったらまた行って今度は大盛りに挑戦。あとポークソテーにも。それかえあ仕事して終わったので帰ろうとしたら早稲田のラグビー場でサンバが踊ってるのが駅から見えた。ホームから飛び降りて迫りたかったけど自重。もったいなかったかなあ、眼前でサンバ。見とけば良かったかなあ。


【7月30日】 パソコンに本に雑貨にiPadまで放り込んで歩いていればモバイルだ何だといった話とは逆に鞄はどんどんと重くなってしまうもので、買い換えて半年くらいの吉田鞄のバッグのストラップがまたしても損壊。っても前みたく縫いつけがぶっちぎりたんではなくって、金具が割れ落ちただけなんでそれを変えるかストラップを別に買えば回復はするんだけれど、簡単に言うなら丸めてつなげた針金が、まっぷたつになるような割れ方ってのは相当に加重がかかった証拠で、それを肩から下げて歩いてれば、なるほど疲れる訳だと理解。とはいえそのままではまずいので、フックがついたストラップを中田商店あたりで買って取り付け現状回復。今度はどれだけ保つかなあ。それより先に鞄の底が抜けるか、肩がぶっこわれるかするかなあ。

 死んだらすべてが無になるというのは違えようのない真理であって、脳味噌という装置に刻まれた経験や記憶は、脳味噌が損なわれればそのまま消え去ってしまうもの、いくら脳の構造を解析して同じような状態を再現しようと、あるいは記憶や経験とやらを電子的に置き換えようと、その脳味噌が行っていた思考と、脳味噌に刻まれていた記憶によって構成される人間のパーソナリティそのものは、絶対にほかに移せない。

 ましてや魂などという存在は論外で、生まれ変わりなどという事態もあり得ない。生は唯一のものであって死はそれを終わらせるもの。これは推論というより、もはや絶対的な確定事項として屹立しているという確信があって、仮に記憶を移せる技術が開発されたとしても、それによって生み出された僕は、僕に似た何かであって僕ではないと思っている。だから唯一にして無二のこの生をこそ、全うすべきという意識を持って望んでいる、といったら大げさだけれど、そうした信念はそれなりにある。

 もっともこれは今生きている僕の信念に過ぎなくって、もしもそうやって意識を移されて再生された僕だったら果たしてどう考えたのかってことになると、死んだ記憶を持ちつつ再生されて今ここにある実感を覚えつつ、その間の継続性なんてものを意識するなり、継続していなくっても僕は僕としてまた生きて、そして死んでもまた生きられるんだという考えに転ぶなりして、今ある生を唯一無二のものだと考えたりしなくなるかもしれない。

 そう思ったのは、アシモフの「聖者の行進」を午前中から買う客が訪れるくらいに濃い内容のときわ書房船橋本店で、吉田親司さん「天穹の英傑伝 ザ・マシンナリー・ライダー」)朝日ノベルズ)を読んだからかもしれない。宇宙にある種族があって意識を伝送して蓄積して肉体もろとも再生してみせる技術を確立したことによって死を超越。そうやって繰り返し繰り返し再生されたエースパイロットの女性は、自我の連続性を意識することもない。目覚めた自分は前と同じ自分。死んで目覚める自分も前と同じ自分。今をそう意識するようになっている。だから死なんて恐れない。喜びもしない。

 一方の人間は100年に満たない生を唯一と思い、死を恐れつつも死を解脱の時と感じ、また子へ孫へと伝わる記憶を尊んでその瞬間を精一杯に生きようとする。そんな異なる意識を持った種族が邂逅し、人間の暮らす星系が滅ぼされるかどうかといった緊迫した主題を持って繰り広げられる戦いを描いた物語には、死を意識するか否かで違った戦いぶりが見えてくるけれど、だからといって繰り返し再生される種族が圧倒的かというとそうでもないのが興味深いところ。自分という存在への確信のために戦うよりも、誰かのために戦う方が、人はあるいは強くなれるのかもしれない。とはいえしかし互いに長所を持った存在が、会うなり戦うってのももったいない話ではあるなあ。どこかに突破口はなかったのか。それともこれから描かれるのか。模様眺め。

 死というものは人間にとって逃れ得るものだけれども、それでも死ぬのはやっぱりつらいし怖いし悔しいもの。だから突然の死には驚きあわてて戸惑い悩んだ果てに、何かを残そうとしたがるものらしい。「超人間・岩村」(集英社スーパーダッシュ文庫)なんて異様で異色のライトノベルを書いた滝川廉治さんが、超久々に発表した第2作「テルミー きみがやろうとしている事は」(集英社スーパーダッシュ文庫)は、バスの事故でほぼ全員が死亡した中で1人だけ生き延びた輝美という少女の中に、死んだクラスメートたちの残した思いが宿ってしまい、それをかなえに少女が行脚するという話。

 それは魂といったものではなくって、最期に発せられた強い思いに少女が半ば感化されて、あたかも生前の誰かのように振る舞っているって感じだけれど、残された側にとってそれは生きていた娘であり、幼なじみの少女そのものに見えるようで、バス事故で死んでしまったある少女の隣家に住んで、少女と同級生ながら出がけのアクシデントでバスに乗り遅れて助かった少年の前には、輝美は隣家の少女そのものに見え、そして再会を果たし少女の思い残したことがかなうと、少女はどこかに消えていく。

 突然の別れに加わる再度の別れは、人によってはさらにつらさを増すものらしく、娘を失った母親は、輝美を通して現れた娘との再会に未練をかきたてられて苦しみを増す。輝美が半ば同級生たちの思いに突き動かされ、そして自身も良かれと思って始めたことがさらなる苦しみを招くと知って、輝美は迷うけれども、そこでアクシデントからバスに乗らず助かり、輝美によって幼なじみと邂逅できた少年が、自分の経験をふまえて輝美を諭し、手助けするようになって2人でクラスメートたちの思いをかなえて歩くようになる。

 死は当人にとっては悔しいし怖いしつらいことだけれど、死んでしまえばそんな思いも肉体とともに消えてしまう。それが真理。むしろ死は残された人たちにとって、悲しみや苦しみを招いて惑わせる。そこをどう乗り越えていけば良いのかを、ちょっとだけ死を先延ばしにすることによって考え話し合う時間を作り、さまざまな関係の中から死をどう受け止めてそれを自分の生に取り込んでいくかを考えさせる物語。とはいえやっぱりずっと生きていて欲しいなあと思うこともしきり。ましてやみんなまだ若い高校生だた訳だし。そんな憤りさえ浮かぶ断絶をどう幸せの物語へと導くのか。残された生徒たちの思いをかなえていく行脚から浮かんで来るのかな。続くか分からないけど続いて欲しいと期待。


【7月29日】 まあね。確かに「ぼくらの」の作者だし「なるたる」とか「ヴァンデミエールの翼」とか、割にシリアスな生き死にに関わるテーマなんかを描いて世の漫画ファンたちを戦慄させている鬼頭莫宏さんだけれども帯の紹介でもって「『ぼくらの』の鬼頭莫宏最新作」ってやられれば、それがいくらさわやかにほほえんでいる少女が自転車をバックに映っているイラストだって、いずれその自転車が意志をもって少女を取り込み巨大ロボットに変身しては、宇宙から襲来した怪物を相手に戦うんだけれども相手を倒すたびにスポークが1本づつ折れていって、やがて全部がなくなってしまった時に少女は命を失うことになるんだっていった、死の香り漂う作品かもって誰だって思って当然だろう。

 けどでもとりあえず「のりりん 1」(講談社)は、片田舎で自動車転がすエンスーな兄ちゃんが仲間を乗せて田舎の道を右折しようとしたら、向かいから自転車が直進してきてでも自転車なんでどうせ届かないだろうとなめていたらロードレーサーだったんで速い速い。これはぶつかると諦め掛けた主観、自転車はふわりとジャンプして車を乗り越え無事これ美少女。けれどもフルカーボンの自転車だったためボディが痛んだかもしれず、ホイールも後ろは完全にクラックが入ってしまって弁償もの。その場は分かれたけれどもすぐに兄ちゃんは車で少女の家のラーメン屋へと言って謝ったら出てきた母親からこれはロータスでボディだけで50万円、ホイールも前後で50万円はすると言われて大弱り。そこで少女の母親がロードに乗ったら5万円を割り引くと提案するんだけれど兄ちゃんはかたくなに自転車を拒み、自転車を押しつけてくるような人たちへの嫌悪感もあらわにする。

 それはなぜ、っていったところにドラマがあるんだろうけれどもそんな兄ちゃんよりも1枚も2枚も上手な少女の母親は、兄ちゃんの車のキーを取り上げ走ってきた軽トラックの荷台にひょいっと鍵を放り出し、追いかけないと遠くに行ってしまうと胃って自転車を差し出す。仕方なく兄ちゃんもそいつに乗っておいかける。気持ちよかー、とはならずそこはやっぱりもやもやが続くんだけれど、兄ちゃんの周辺にいた仲間が少女の颯爽とした自転車乗りっぷりにほだされ、自転車を転がしはじめたことと、あと兄ちゃんが免停となってしまって車に乗れなくなってしまったこともあって、自転車へと足を向け始めるというのがまずは導入の第1巻。そこからどんなドラマが繰り広げられるかというと、元が「もやしもん」といっしょの「イブニング」掲載なんであんまり進んでいないのでありました。どうなるんだろう、いったい?

 っていうか、自転車に乗ろうって言い始めた奴らが持ってきたのがBMXにマウンテンバイクにミニベロってあたりのバラバラな上に本質とは違った方向に走っているあたり、自転車のかっこうよさってものが、人によってはいろいろあるんだってことを教えてくれて、ロード一辺倒な自転車な人たちの視線をちょっぴりひっかいているようでこれはこれで愉快。ロードじゃなけりゃ自転車じゃねえって誰が決めたんだ? とはいえしかしロードで走るようなチームにこれってのはやっぱりね。そこにきっとあの母親が出てきて指導してロードのチームを仕立て上げてレースに出ていくって展開になるんだろうか違うのか。あと兄ちゃんが貸してもらっているフレームがロードなのにクロスシートステーになっているのが謎というか、そういう自転車も世の中にあるのか? うーん研究。

 そんな感じに始まった物語は自転車にハマっていくプロセスもさることながら、地方の奴らがだいたいみんな車を持っていて、車を転がし集まっては喫茶店とか居酒屋でダベりそれから帰って仕事をして、終わったらまた集まってダベるようなコミュニケーションをしているんだってことを描いているところが何か興味深い。1980年代の僕の周辺ってのもそんな感じで大学生でアルバイトをしている連中もだいたい車に乗ってて終わったらそのまま転がしてダベったりして帰ってまた働いて夜にはまた転がしてっていった日常を送ってた。携帯とかネットとかはない時代のコミュニケーション。都会とも違ったコミュニケーションをどうして今、描こうとしていているのか、でもって鬼頭さんは描けるのか。そんなあたりを聞いてくれる人とかいないかなあ。いないんなら聞いてみたなあ。マンガ大賞とかに出てきてもらえれば聞けるんだけれど、万人受けする内容でもないんで取りそうもないしなあ。

 「週刊SPA!」を読んでいたら坪内祐三さんと福田和也さんの対談「文壇アウトローズ」に次なる記述。「坪内『文芸評論家もね、大森望さんとか豊崎由美とかさ、あの人たちって本当は本に興味ないのかしら? というね。ほかに読む本がたくさんあるじゃないっていう』、福田『新刊ばっかり読んでたらバカになっちゃうもん。新しい本読んだら、古い本10冊読まないと。本当に』」。文芸評論家というタームでほかの前田累さんでも佐々木敦さんでも仲俣暁生さんでも誰でもなく、真っ先に挙がるお二人こそが日本の文芸評論家のトップランナアであると坪内さん福田さんに目されている証なのであるのであるとかどうとか。あと生まれ年が同じな大森さんはさんがついて豊崎さんはそのままだという基準が謎。文章上のリズムか。

 まあこれは本を読んで何か書いている人間にとってはなかなかに響く言葉ではあるんだけれど、言い訳するなら文芸評論といったものをやっているのではなくって、次から次へと出てくる本の中からこれといったものを紹介するレビュアーに過ぎないのであってだからこそ新刊ばっかり読んでいる訳で、たとえるなら新車の紹介のために新車ばかり乗る人間は時々は古い車も転がそうよって話かというとそうではないのと同様。一方で教養として本の歴史文化その他を語るならやっぱり古い本も読んで本以外の映画とかも見て演劇にも通って遊んでしゃべった上で、その本をどう位置づけるかってことが求められる。役割から来る目的の容の違いを言わずに一緒くたにされてもって気もしないでもないけれど、まあそれはそれで時代の代表めいた名の挙げられ方をするってのもある意味で素晴らしいことなのかも。反応出るかな。

 体格雰囲気が筒井康隆さん化しつつある気がしないでもない京極夏彦さんがSCANDALにまみれながら登壇したアニメーション映画「ルー=ガルー」のプレミアム先行上映会を、普通にチケット買って入って舞台挨拶から見物。SCANDALはそうが名古屋組と大阪組がちゃんとあって言葉も大阪組は関西弁が出るんだなあ。演奏はアニマックスのイベントでも見たけど単独の方もちょっとのぞいてみたい。ドラムの娘なんてあんなに手足細いのによくたたけるもんだといつも感心しているのだ。

 あとその娘が映画について語ったことにも感心。昔から思えば今の携帯電話に番号付けて友達を登録してメールでやりとりしている状況なんて想像もつかなかったのに、それが映画だともっと監理され監視されている社会になっている。そんな社会にしていかないようにしなくっちゃってアピール、並じゃない。京極さんよりも監督の藤咲さんよりも本質を見抜いていたりする。それはリアルに今のネットを介したコミュニケーションに触れ、バンドという仲間たちのコミュニケーションの浴しながら何が1番大切かを体感しているからなんだろうなあ。そんな人たちがずっと主流であり続けるために応援しなくちゃSCANDAL。そして彼女たちが登場している映画「ルー=ガルー」を。

 って言いたいけどなあ。うーん。まず良かったところ。ホットパンツ姿の僕っ娘の腰つきからヒップにかけてのラインがとっても素晴らしくって1番の見所だった。2番は……。キャラが可愛く動きも良くって麗猫さんのアクションとかも見所だった。話しは……。とりあえず言うなら現代なら警視庁へと少女2人が進入して、警視総監を殺害して連絡網を破壊して無事に帰れるか否かってところか。あとコミュニケーション不全って割には主人公の少女はすぐに他人としゃべれるようになるし、家も出歩けるようになるところが不思議だったかな。そんな簡単じゃないだろう、不全な人にとってのコミュニケーションって。まあでも天才ハッカーで発明家の美緒って子がしゃかりきに突っ走っていく様が、可愛くもいじらしかったんですべて許す。良い映画だよ「ルー=ガルー」。プロダクションIGもこれでますます安泰安泰安泰安泰そう祈りたい。


【7月28日】 木山春生の爛れて憂いげな仕草でもって着衣をはがして、身をあらわにしていく姿から漂う大人のエロティシズムをまるで無視して1枚たりとも取り上げず、固法美偉の眼鏡をかけた凛々しい顔とは対照的に、肌を見せた時に分かる爆発的なボディラインを鋭くとらえた絵もやっぱり1枚も置いていない。ましてや門番として屹立してレベル4もレベル5すらも叩きのめすパワフルさを、その細身の体に秘めた寮監すら描かれていない「とある科学の超電磁砲」のビジュアルブックに、いったいどれだけの価値があるのかと僕はアスキー・メディアワークスに深く問いたい。激しく問いたい。強く問いたい。マイナス5億点。ただし時折のぞくインデックスの阿呆っぽさが漂う仕草が可愛いので2億点を加算してマイナス3億点の出来と断じる。次があるなら是非に木山固法寮監のトリオで。

 これはちょっぴり新しいかな。それとも女の子向けのライトノベルレーベルにはあるような話かな。かつてプレイボーイとして浮き名を流して3人のお姫様たちをその気にさせながら、誰か1人に決めることのなかった王子様。いっぽうで争いながらも誰も譲らず誰も抜け出ず、決着をつけられなかったお姫様たちは、来世での決着を見込んで転生したものの王子様は魔女によって呪いをかけられ少女となって現世に転生。したもののそこは元王子様だけあって、王子然とした凛々しい姿で女子校の女の子たちから慕われ憧れられる日々を送って来た。その彼女が家の都合で共学校へと転校し、そこで学校でも人気のイケメン3人と知り合った。それこそがかつて前世でたぶらかしながら約束を果たさなかったお姫様たちであったという。

 そんな設定から始まる松月滉さん「王子と魔女と姫君と1」(白泉社)は、ツンケントとして頑固な性格のシンデレラが転生した男子か、おやゆび姫が転生しただけあって小柄で人なつっこい男子か、白雪姫らしく茫洋とした雰囲気の男子か誰かを選ばなくっては呪いループがとれないという状況に陥った元王子の大路昴が、誰かを選ぶことを求められたもののそこは元王子だけあって、凛々しくって女子のファンもついてきてしまってくんずほぐれつ。そこに現れる魔女の影、そしてそれこそがって展開もあったりしてさあどうなる大路昴の運命は? ってことろで続きは2巻へ。さあどうなる?

 とまあ、そんな話だけれど大路昴に凛々しさはあっても心底まで男心の持ち主って訳ではなく、暴騰で後輩の女の子たちから慕われ王子然と振る舞っていても、転校した先へと登校する時にはいきなり女子の制服姿で現れ、そっちを期待した人に違うんだってばってことを突きつける。また、お姫様連合の男子も別に少女っぽさを残した乙男でもないから、トランスセクシャルならではのふわふわっとした雰囲気はあんまり漂わない。なのでBLとか男の娘とかいったものがあまり苦手な人でも、読んで違和感は覚えなさそう。好きな人なら元はそうだったんだけど、今はこんなんだ的ギャップから生まれるくふふな感覚を味わえばそれはそれで良いのでどっちにしたって楽しめる漫画ということで。けどでも1巻のラストで立ったフラグからすると、他のお姫たちは当て馬っぽい場所に押し込められそうなのが不憫。いったいどなっているんだろう? 楽しみにして2巻を待とう。

 みなもと太郎さんといったら、かぶと虫太郎さん漫画太郎さんと並んで日本が世界に誇る3大太郎漫画家だったりする、といっておいて漫画太郎さんが実は漫☆画太郎さんだと気づいたけれども面倒だから引っ込めないことにしつつ、そんな中でも重ねてきた歴史の長さとそして今なお積み上げ続ける活動の高さでナンバーワン太郎だと認めたいみなもと太郎さんが、大塚英志さんと対話している本が出ていたんで読む。名を「まんが学特講 目からウロコの戦後まんが誌」(角川学芸出版)はかつて存在した「コミック新現実」あたりで掲載されていたものらしいって記憶があるけどすでに5年も前のことなんで、原典が見あたらず確認不能。とはいえ5年が経ってもそこで語られている漫画に対する意見は、むしろなおもってくっきりと輪郭をもって迫ってきて、あらゆる創作者や創作を支える人たちにとって強い意味を持っていそう。

 メインとなっているいわゆるトキワ荘主観のひっくり返しについては、他の誰かもやっていたりして決して手塚治虫がすべてを発明してトキワ荘のメンバーが広げ24年組が文学を載せて世界に冠たる漫画大国・日本を作り上げたって訳じゃなく、紙芝居から来た貸本漫画の人たちがいて劇画が生まれアクションサスペンスホラーが育ちみなもと太郎さんもそんな中から絵を描き始め、大塚さんがその下で作画グループに参加し聖悠紀さんもいてSF漫画の金字塔を打ち立て今も打ち立て続けていたりするという、偏らない史観が改めて語られていて、メディアの中における濃縮作用によってトキワ荘史観に1本化されがちな傾向へのカウンターになっている。漫画史を学びたい人に限らず広い方面から漫画を知りたい人は必読。

 そういった史観の上に語られ興味深いのが、模倣の連鎖から生まれる典型化様式化簡素化なりタッチの消滅といった問題や、ネームよりも絵に流れがちな漫画がそれによって漫画でなくなってしまう問題など。最初に誰かが画期的な発明をすると、それをフォローして次に描く人たちが大勢でるのは必定、手塚絵だってさんざんっぱら真似られそこからトキワ荘が出てきたんだけれど、トキワ荘組のすごかったのは手塚の模倣にとどまらず、独自の発展を加えていったことで、それは少女漫画の世界でも云えて西谷祥子さんがいて萩尾望都さんが描いて、そこからさらに発展が加わりすごいことになっていたんだけれど、そうした工夫なりオリジナリティへの探求心が、欠けてしまった時にその先への発展は失われ、尻窄みになっていってしまう。

 デジタルでもってトレースしやすくそれでもってそれなりの迫力をもったものを作れてしまう状況と、そうしたものを尊ぶ受け手の結託、さらにいうなら新しい挑戦に価値を見いださず可能性を感じないで、今ある最先端をのみ尊びそこから進もうとしない空気が新しいものへの挑戦意欲を失わせ、あるいは誕生を阻んでしまうという状況が続いた果てに起こるものは何? ってあたりを考えないと、漫画に限らずアニメから映画から何からあらゆる創作が停滞して衰退していってしまうってことを、考えさせ感じさせてくれる話が繰り出されていた。まあ、そうはいっても今だって果敢に新しいものに挑戦している人たちはいて、支える人たちもいたりして、そうした関係がネットとかでより結びつきやすくなっているから忘れられるってことはない。ただし、マス媒体が冒険をしてそれを主流に押し上げるような動きが生まれるかっていうと……。そういう時代ではないと諦めるべきなのか、それとも変わる何か新しい駆動装置が生まれてくると期待するべきなのか。悩みは尽きない。だからこそ冒険せよアスキー・メディアワークスよ、木山春生と固法美偉と寮監のみのビジュアルブックを刊行せよ。


【7月27日】 ああ。だめだ。ファンとしてあのダブルホルスターを見てしまったら、やっぱり買うしかない、と思う。もう絶対に出ないだろう革製のダブルホルスター。そして背中のパッチの裏には「BLACK LAGOON」の刻印。ずっと漫画を読み続け、アニメーションも見て買い続けてきた人間にとって、夢のまた夢のような品が実物となって目の前に現れて、そして逃せばおそらくは永久に再販されないだろうと考えた時に、とれる行動はただ1つ、買うことだけだ。

 そして買えば当然そこに入れるソードカトラスも欲しくなる。というよりそれがあってこそホルスターに価値が出る。だからKSCのソードカトラスも買うしかないということになる。それもトゥーハンドの異名どおり、そしてダブルホルスターに合うだけ2挺、買うしか他に道がないということになる。それがファンになってしまったものの因業、定めという奴なのだから。

 という訳でまずはホルスターから注文。小学館のサイトで確保。そしてソードカトラスも2挺。KSCのサイトで注文。いったい幾らだ? 気にしない。気にしたらもう前へと進めない。だからそれはもう終わったこととしてあとは届くのを待つ。まずはとりあえずソードカトラスが届きそう。2挺。持ってで歩くわけにはいかないし、サバイバルゲームの類だってやってないから持っていく先もない。だからしばらくは家でトゥーハンドごっこをするくらい。やっぱり指ぬきの革グローブをするべきだろうか。べきなんだろうなあ。

 でもってやがてダブルホルスターが届いたら、これまた臍だしタンクトップの上から身につけ2挺をさして抜いて撃ってさして抜いて撃っての繰り返しをやろう。家の中で。だって外では無理だから。歩いているだけで声かけられるから。だから家でトゥーハンドごっこ。お尻の線に合わせたかのように丸いカットジーンズも自作して履こう。入れ墨はてがき。たばこは何を吸ってたっけ。ジャングルブーツか何かを履いて気持ちはレヴィ。鏡は見ない方が吉。見たらそこには……。

 身の程を知らない。場をわきまえない。そんな輩が苦手なだけにC☆NOVELS大賞で特別賞を受賞した片倉一さん「風の島の竜使い」(中央公論新社)に出てくるレラシウって娘の、嫁いでも一家の面倒を見る仕事を脇においやって自分が望む竜に乗る行為に突っ走り、亭主にとがめられるとすねてふてくされる態度はとっても苦手で、むしろどうにもうざったい。けれどもそうした行為があったからこそ火山の噴火で逃げ遅れた人たちを、何人も助け新しい命が生まれてくることにも貢献できたと思うと、無鉄砲なおてんばも決して無駄ではないとも思えて来てしまう。うーん。

 ただそんなレラシウも、一般の人が竜に一緒に乗ることに関しては、自分が家長の嫁としてのつとめを果たそうとしてないことを棚上げして、過去からの慣習を優先してしまうあたりに矛盾がある。竜は人間の奴隷ではないから振り落とされることもあり、落とされたら死ぬから責任は持てないという態度も分かるけれども、それも時と場合によっては変わってくる。なのに突破するより止めさせようと働くところに、結局は自分よがりな人間の意識ってものを指し示す。どっちが正しいってよりは、その場その場で判断すること、それが最善だってことたんだろう、月並みだけど。

 女性の社会進出を阻害するのはけしからん、といった意見はこの小説の場合はあんまり出なさそう。竜を使って空を飛び荷物を届けたりする生業の一族の、将来的にはリーダーとなる青年の家に嫁いだからには、青年が支える一族のある意味トップとして君臨し、旦那が働く合間に家を支え家族を支え仕事を支える必要がある。それをほったらかして空を飛ぶのは言語道断本末転倒。そうしたロジックでの説得を理解してこその人智って奴なんだけれど、それもまた無理に呑んでは助かる命も助からなかった。怪我の功名ではあっても選択として間違っていないところに、どうすればどちらも満足できるのかってことを探求していく必要がありそう。

 世間知らずなのに新聞記者に憧れ祖父の家に行こうと竜に自分を荷物として運ばせようとしたシャーロットの態度のわがままぶりも、読んでいて時に腹立たしいけれども、そうした冒険の意識があったればこそ浮かんだメリットもあった。だからやっぱり場当たり……ではなく臨機応変が大切で、それを行える人間が生き延び栄えていくんだってことを知ろう。割とシリアスに人が死に、竜も死に、それでも残された人は生きて行かなくてはならない切実さを、感動に偏らないで描く態度はなかなかに肝が据わっている。世界への対峙の仕方のそれが信念だとしたら、鋭く世界を尽きつつ深いドラマを描いていけそう。これって1冊で終わりなのかな。まだまだ続きとかかけるのかな。期待して待とう、次を、あるいは別の物語を。

 こちらは世界から全部を創造してみせた重厚ファンタジーなC☆NOVELS大賞受賞作の黒川裕子「金翅のファティオータ」(中央公論新社)は龍というよりほとんど凶暴な魚といった風情のトゲウオが海を暴れ回っている世界で、そんなトゲウオに沈められた島からただ1人、救い出された少年がいて長じてトゲウオを対峙して回る軍隊を持つ帝国の末席に所属し、船に乗って見回りに出ていた先で1匹のトゲウオの幼生を広い世話係を申しつけられる。同じ船には帝国の皇太子も乗っていてなぜかトゲウオにつらくあたり、少年にも厳しい言葉を投げつける。

 そんな関係を糸口にして世界が2つの種族の争いの果てにあって美しい見目と異能を持ちながら滅びた一族の末裔は、少年のような混血も含めて差別を浴びているという構図が浮かび上がり、そんな世界を支配する鍵として竜の存在があってそれが少年の存在、彼が連れているトゲウオの幼生の正体へとつながっていくという軸があって、さらに皇太子の出生の秘密や愚鈍に見える皇帝の野望、トゲウオに妻子を奪われ復復讐に燃える騎士の彷徨といった人間ドラマも重なって物語りに広がりと厚みを与えている。落ち着く先は世界の大いなる改変か、それとも選ばれたものによる統治か。少年と皇太子の関係とかにも進んでいくのかな。それはさすがにレーベル違い? まあでも可能性がまだない訳じゃない、かもしれないんで期待はしておこう。


【7月26日】 なるほど噂に聞いてまずはと手近なiPhoneにアプリを導入して遊んでみたところ、そのキャラクターの動きの不思議さしゃべりのかわいらしさにファンとなって“俺の嫁”と思った人間が、そのキャラクターで溢れているらしいと聞いて熱海に駆けつけるって構図が、決してあり得ない訳ではないけれど、そうしたカテゴリーの人間が熱海の観光スポットを一緒に回り、あまつさえ旅館に泊まるといった行為に思い至る可能性があるかとうと、なかなか難しいというのが一般的な感情。なぜってだってiPhoneでは、熱海にいっしょにいって回って泊まって帰ってくるというイベントが起こり得ないから。

 熱海に「ラブプラス」のプレーヤー、というかこの場合は「ラブプラス+」のプレーヤーが向かうのは、ニンテンドーDSのゲームソフト「ラブプラス+」のプレー中に恋人たちと熱海に一緒に旅行に行くというイベントがあって、そこでほぼリアルタイムに繰り広げられる様々な熱海でのイベントを、なぞるように一緒に歩いてみるのが何かおもしろいんじゃないの的感覚を確認しに行くため。従って熱海を歩くファンにとってニンテンドーDSとそして「ラブプラス+」は必須であって必需であって必要欠くべからざるなものであって、それを欠いては熱海に向かう意味がなく、よしんば行っても熱海のスポットを一緒に回る必然性がない。もうゼロに近いくらいにあり得ない。

 その意味で某番記者番組に登場した紳士らしき人が、手にiPhoneだけを持って中に熱海とはまるで無縁のキャラクターを入れて、熱海を歩いて回るという構図をそのまま現在の熱海に起こっている「ラブプラス+」のムーブメントとダイレクトに結びつけるのは間違っている。そんな構図を「ラブプラス+」のプレーヤーがゲームと平行して熱海を回る行為の隆盛と、それに付随しての各スポットでの歓待なり、グッズの提供とは関係なく、従ってそれをある種の代表めいてとらえて報じる姿勢は、まったくの空想ではなかったとしても大きくズレている。そうとしか云えない。調べればすぐに分かることだけれど、そうしていないという時点で報道を名乗る資格はその番記者番組には無い。

 そもそもがiPhoneを持って歩いているのだったら、それを行えば今の熱海で楽しめるARを試してみるのが本当のファンだといえるのに、そうした振る舞いをしていたような記憶がない。それをいにもニンテンドーDSのゲームのように持って歩き、ニンテンドーDSのゲームに現れるイベントでも世間に知られた部分をのみなぞって歩き、けれどもニンテンドーDSのプレーヤーだったら受けられるサービスを受けられないという行為に、正当性を見いだすのはなかなかに難しい。あるいはやっていたのだとしたら、それを報じようとしないメディアに昨今のムーブメントを語る資格はない。

 いずれにしても知っている人ならすぐに気づいてつっこみまくるだろうポイントを、埋めもせずつまびらかにしながら取り繕いもしない作り手の姿勢に、やっぱり問題があると言うよりほかにない。最低限の知識すら絵図に雰囲気だけで作り上げ、そしてストーリーを勝手に載せてあれこれ言う。そうしたスタンスの積み重ねが今のこのマスメディア衰退を招いていると知るべき、だけれど知っていたら普通はやらないよなあ。知る努力すらしないんだから何ともはや。お先真っ暗。真っ暗暗助。

 ところで隙間女っていうのはタンスと壁の間にどんな状態で挟まっているものなんだっけ。壁かタンスの裏側に腹か背を向けするりと入り込んだ上に顔だけ曲げて隙間から外を見る、っていうのが人間の体の仕組みを考えた時のスタイルで、そこで体がふくらんでしまって壁に入れなくなってしまった状態というのはやっぱりおなかがぽっこり出てしまったか、お尻がぷっくりふくらんでしまった状態を指すんだと言えそう。胸がもっこり膨らんだ状態はさすがに食事の摂りすぎくらいでは起こらないからなあ。ってわけで訳でいずれにしても、前後にぽっこり出てしまったのだとしたらそれを「幅広」と言うのはちょっと違っている。

 幅というのが人間にとっては真正面の胸を前から見て左右の長さを指すものだとしたら、幅広といったらそうした左右が横にふくらんでしまっている状態を指す訳だから。でもうした左右にふくらんだ状態なら、厚さにさほど影響がなければ隙間にはちゃんと入れてしまって、入れないと泣くような展開には至らない。しかるに丸山英人さんによる「隙間女(幅広)」(電撃文庫)に堂々と登場している壁とタンスの隙間に入れなくなってしまった隙間女の美少女は、その状態を幅広と呼ばれている以上は左右にのびてしまったはずなんだけれど、それだったらまだ横向きになれば隙間にズリズリと入っていけたりする訳だから話のきっかけみたいなことは起こり得ない。

 かといって腹が出たり尻が出るのは幅広とは呼ばない。ってことはやっぱり隙間女は右肩と左肩を壁とタンスの裏につけ、そこからクビをまっすぐにして前を向くように外を見て誰かをじっと見つめ続けているって解釈になるんだけれども果たしていったい。実物を確かめれば良いんだけれども我が家にはそんな隙間などもはや存在しないのでった。ってか今寝ているベッドこそが本と段ボールの隙間だからなあ。隙間男。間男? それはあり得ない。

 伝承の類にあらわれる怪物妖怪化物の類がお茶目で騒々しい美少女、ってあたりはちょっぴり「這いよれニャル子さん」風。とはいえこの「隙間女(幅広)」が受賞した2009年の電撃大賞は4月に締め切りだから、その月に出たニャル子さんの影響を受けたってことはあり得ないので一種同時多発的な擬人化美少女化ムーブメントの中で出てきた様々な形ってことになるのかも。まあその前に偉大な漫画でアニメにもなった「HAUNTEDじゃんくしょん」があったけど。いつになったらDVD化するんだろう? 聞きたいよ、仲間由紀恵のあの喋り。

 さて物語はそんな幅広になってしまった隙間女の減らず口を、見られていた少年が叩き直しつついつかちゃんとした隙間女に戻れる時を夢みるってストーリーがあったり、名字の花粉を間違われてトイレの花子さんにスカウトされてしまった少年が、女子トイレにとりついてそこにやってくるお嬢様なのになぜかトイレで昼飯を食らう少女と妙なやりとりをする話しとか、1つのパターンによらないでいろいろな角度から都市伝説学校伝説を物語にしている点がユニーク。広げればいろいろバリエーションも出そうだけれど文庫は隙間女(幅広)で始まり隙間女(幅広)で終わっていたりするからこれで完結って考えるのが良いんだろうなあ。それともスピンオフして長編化とか。読みたいなあ。さらには実写化。主演はマツコ・デラックス。それはちょっと見たくない。


【7月25日】 やっと見たドラマ「もやしもん」は、アイキャッチ部分でしなをつくる武藤葵のチアリーダー服からのびた両足が、ぴたっと合わされるポーズが妙に気になったというか気に入った。笑顔もなかなか。ただし放送前から漫画にそっくりって驚いて眺めていた、外国帰りの超くっさいスタイルはあんまり出なかったしインパクトも与えていなかった感じ。前週にホンオフェとシュールストレミングのダブルスメルフードアタックが出たばかりでは、人体から放たれる臭さなんてものはインパクト薄いし中身がちすんちゃんではたとえ臭気を放ってたって関係ないっていうか、むしろ嗅ぎたいっていうか。いやまあそれまでちすんって女優が誰で何に出ていたかも知らなかったんだけど。チアリーダー服は偉大だ。

 そして中身はUFO研との決別だけれどUFO研の連中の唱える「ベントラベントラ」って言葉が今のこの21世紀にどこまで通用するのか謎。1980年代に「うる星やつら」でラムちゃんを呼び戻そうと当時はまだいたメガネ(アニメ版では残るけれども漫画版ではいつしか消えてしまうのだ)とかが唱えていた時だってすでにしてアナクロ的ジャーゴンと化していたんだけれどそれが30年の長き時を超えて今またこうして使われるのは、オリジナルから派生したパロディ的扱いを見て育った人たちが作り手に回っていたりする現れだったりするのかな。ってかオリジナルなんて僕もそんなに知らないけれど。でもってUFO研は消滅して武藤葵ははれて樹ゼミに帰還。その飲んだくれぶりと長谷川遥のボンデージぶりに挟まれますます及川の陰が薄くなる……。これで結城蛍が出てきた日には。原作でも同様の傾向が見られるだけに何とかして差し上げてやって下さい石川雅之さん。

 温泉に浸かっているような空気の中をまどろみ起きて幕張メッセへと向かい「ワンダーフェスティバル2010夏」なんかを見物。とりあえずオリジナル系を出している店を回って、動物にマシンを繰り込んだようなフィギュアを造形している一宮の人とか、ぬいぐるみの顔がちょっぴりオソロシゲな動物になっていたりする人形を出している作家の人とか、いつもの鎌田さんとかTAKORASUさんとかを眺めつつ、その周辺に集まる人たちの賑わいぶりにワンフェスが、決してキャラクターの複製品を競う場所だけでなくってオリジナルの造形に挑戦する人たちにとっても意義のある場所になっているんだって印象を抱く。

 まあ大半はやっぱりキャラクター系で、それもマスプロダクツの出している限定品とかを求める人の波が圧倒的に多かったりするんだけれど、そうした人たちとは別に、単にキャラクターのフィギュアが可愛いからかっこいいから買うって人ばかりじゃなく、一般には置いていないし出てもいない造形物を、ここならあるかもって探しに来ているようになったってことなんだろう。人と同じ物ではなくって人と違う物を求めたがる意識が醸成されて来たっていうか。まだ東京ビッグサイトで開かれていた時期に東館の4ホールから6ホールまでを普通にガレージキットが埋め尽くしていた、その反対側の3ホールあたりで、そうしたオリジナル系だけの卓が並んでいた時代があったけれど、それが全体の中で、まだブロックとして区切られているとはいえとけ込んでいたりする様相。進歩しているな確実に。

 願うならここから未来のオリジナルキャラクターが生まれて来て欲しいけれど、そうした所に通い何かを引っかけようって考えているマスな作り手が未だ少な過ぎる気がして仕方がない。TAKORASUさんとか、その独特の世界観を拾い上げてハリウッドのメジャースタジオあたりがアートディレクションとかに起用すれば、なかなかにおもしろいものができあがると思うんだけど。「コララインとボタンの魔女」の上杉忠弘さんといい、「トイ・ストーリー3」の堤大介さんといい、「スター・ウォーズ クローン・ウォーズ」の竹内敦志さといい向こうでデザインとかメカニックで活躍している日本のクリエーターも増えていて、存分に通用することは分かっているんだから。日本が気づかないと一足飛びに世界が持っていってしまうぞ。でも、そうした地道な才能の発掘が出来なくなっているんだよなあ、日本の現場っておそらく汲々としていて余裕がなくなって。10年後がちょっと心配。

つけて歩きたいけど即逮捕、かな。  ざっと見たけど目に映るキャラクターにこれといった圧倒的傾向がないのも最近の流行なきアニメーション界コミック界の雰囲気の現れか。探せば「けいおん!!」物とか「超電磁砲」物とかあったんだろうけれども会場が広すぎて通路にも余裕があってぎっしりって感じの中にどっちゃりって雰囲気をあんまり感じられなかったってのもあるのかも。「化物語」は割と見たかな、それでも。そんな中にあって2体も見つけた「マイマイ新子と千年の魔法」の新子&貴伊子。ひとつは2500円くらいの小さいフィギュアで2人が並んで立っている物で、そこで教えてもらって伺った先でもやっぱり2人が並んで、こっちはちょい表情を仕草も加わった形で大きく立っていた。8000円。2つもあれば上出来、って言えば云えるんだけれどそれでもせめてあと少し、キャラに幅があったら並べて遊べたのになあと思ったり。ひづる先生とか諾子とかあったら。あとバーカリフォルニアの女とやくざと用心棒。セットで並べたかったなあ。

 どちらも買ってそれからメガハウスでニコ・ロビンのミニポスターを買って、歩いていた先で見つけたのが「BLACK LAGOON」のレヴィのホルスター。もちろんトゥーハンド用でソードカトラスを両脇にさして歩けるようになっている。「サンデーGX」誌上で紹介もされていたものだけれど実物を見られる機会は滅多になさそうなだけに、目の当たりにしたそれは皮の素材感がなかなかに良かった上にソードカトラスがぴったり収まるような造形がなされているとも聞いて、これは2挺を揃えてさしておくべきだって思ったけれどもそれをやってしまうと費用が10万円くらいかかってしまうのだ。うーん。だいたいがホルスターもレヴィの背丈に合わせてあるらしいから男が付けられるはずもない。でもそれだからこそレヴィの物って意味で、手元に置いておきたい気がむらむら。気がつくと買っていそうなだけに怖いこわい。同じリアル系では「ARIA」のウンディーネたちが手に持つオールなんかが実物大で登場。売っていたのは老舗のドラゴン殺しを売ってる店。ファンなら1つ欲しいけれどもこれも買ってどうするかというとどうしようもないよなあ。殴り合うかドラゴン殺しと。


【7月24日】 動画サイトに流れている例のダンスシーンをiPadでローカルで持っていつでも再生できるようにするべく、まずはダウンロードソフトを引っ張って来てそれでパソコンに定着。そのままコンバートして再生できるようになっているかと思ったらフォーマットがまだダメだったみたいで、それならと別の今度はコンバート専用のソフトを引っ張って来てエンコードして貼りつけて、転送して再生したらちゃんと出来たんでそれを見ながらそこに至る過程で起こったことを脳裏から引っ張りだし、そしてエンディングならにシーンとして描かれたダンスシーンの乾いた明るさを楽しんで、映画の余韻に浸りつつ、新たな余韻を作り出そうと三たびの映画「私の優しくない先輩」を見るために新宿へと向かう。

 10分早く始まる武蔵野館で見るって手もあったけれど、あの声が甲高くて割れ気味の音響を古い劇場のサウンドシステムで見るだけの勇気がわかず、最新のバランスもとれた劇場で見るのがしんぞうにも宜しいだろうと前回に続いてのバルト9。部屋も同じで100人はいらないスクリーンだったけれど、土曜日の朝の回って状況で女子中学生に女子高生らしい子供が結構来ていたのは何だろう、川島海荷さん見たさってよりはやっぱりはんにゃの金田哲さん目当てだろうって想像も出来たけれど、そんな子供たちが自分のどこかしら負の部分、自己中心的で好みにうるさくって、それでいて決定的なことを避けようと上っ面を保っていざとなったら逃げ出すような主人公の西表耶麻子を見て、いったい何を思ったか。

 惹かれてファンになって映画に共感してくれて、喧伝してくれたらそれはそれでキャスティングの勝利だし、作品の勝利ってことにまる。嫌いだ鬱陶しいと思ったらそれもそれでそう描こうとしてみせた作り手側の勝利。ただしそれだと嫌いうざい鬱陶しいと反感ばかりがまろび出てしまうだけだからちょっと悩ましい。2度3度と見られるのははっきり言って大人くらいで中高生の少ないお小遣いでは何度も何度も同じ映画なんて見られないからなあ。そんな人たちに2度3度と見てほしいってお願いするのも心苦しいけれど、2度3度見てこそ伝わる何かってものが確実にあるのも事実だからやっぱりここは興行側に、2回目以降は半額にするとか3回目からは7割引きとかいったシステムを導入してもらって、リピーターを増やしてもらうってのもひとつの手段だと思うなあ。難しいだろうけど。

 まあそれでも見ている最中ははんにゃ金田の出演シーンとかに割に反応していたみたいで、それだけでも満足してもらえた中に何かしら引っかかるところが残って、それが人生を取り繕って生きたっておもしろくも何ともない、人間として地べたにおりて汗たらしながらはいずり回って生きて見せた方がずっと楽しいんだって意識の醸成につながれば、上っ面だけ取り澄まして正論を語ってみせても世の中の進歩にはまるでつながっていない今のこの世の中をぶちこわし、本音をぶつけ合った上にいたわりと慈しみも持って生きていくことを尊ぶ人間を増やしていくことになるだろうからそういった、ロングスパンでの効能って奴に期待したいところ。女の子たちは汗くささを勲章と思って生きていく道を選べるかな?

 一方でお金がちゃんと回っている人なら映画「私の優しくない先輩」は3度見ろ、って数が増えているけどそれくらい何度見たってちゃんと得られるものがあるから大丈夫。2度目ではモノローグと映像とのギャップの意味を考えそれが裏返ってリアルになってそして走馬燈から刹那へと向かっていく怒濤の展開の中で人の一生に出来ることって何があって、それはいったいどれくらい大切なことなんだろうかって思いに泣ける。そして3度目はそうした展開の中で役者がいったいどんな表情を見せ、そしてどんな声を出しているのかを聞き分けそれが空想の中で遊んでいるのかリアルの中で沈んでいるのかが聞こえてきて、つらい現実を生きる大変さをかみしめながらそれでも生きなければいけない現実をつらくない幸せなものへと変えるためには何が必要なんだろうと考えさせられる。

 あとはやっぱり声優さんとかの出演シーンで戸松遥さんはなるほど下駄箱のシーンで逃げ出す耶麻子にどんと突き飛ばされる女の子がなるほど戸松顔。そのシーンでは直前から出ていて下駄箱前で口論する耶麻子たちをぎょっとした顔で見ていて通りすがりにしては出番が多いなって思わされたらなるほど。でもってその表情が妙に豊かでおもしろいんで展開が分かった人はそっちに視線を向けてみるのもありだろう。花澤香菜さんはどこだろう、31アイスクリームの前で耶麻子と父親が会話しているシーンにやって来るウエートレス? って説もあるけどこちらは瞬間なんで不明。ただ言われてみればって来もしないでもない。

 出番が多いエキストラでは教室で耶麻子と喜久子の間に座っている女子生徒か。何故か授業で行われているボウリングの球の投げ方講座で手首の返しを実践してみせる動きが良い。っていうかどういう授業だ、その前は道路標識の見方を教えていたし。あとちらっと耶麻子が窓の外に目をやった民家の屋根の上にいる人間、男か女か判然としなかったけれどもあれに意味はあったのかな? そんなあれやこれやを探りつつ確かめながら見ていてもやっぱりラストシーンのその後にくるファイナルシーンでの歌とダンスのスタートに目がウルウルっとしてしまうなあ、ヤマカン監督が予言した通りに。

 どうしてそうなってしまうかは、きっとそれが混沌から虚無へと人が向かう走馬燈の中に現れた楽しい思い出の凝縮だから、なんだろうなあ。もうほんとうに瞬間でしかない走馬燈なんだけれど、それが永遠であって欲しいと誰もが願いつつ、けれども絶対に消えてしまう焔を輝きとともに見せながら、今を生きよと説く声が響いている。それが伝わって泣けてくるんだ、きっと。あと川島海荷さんのちらっとのぞく臍を囲む腹筋。あの腹筋があれば8回宙づりにされたって5回ジェットコースターで連続で落ちたって耐えられる。女優ってすごい。

 といった感想を原作者にぶつけて見るという当人にしては面はゆいというかどう反応していいのか分からなかっただろう場へと赴いてあれやこれや。5年で50冊以上も書き上げてみせてその間に立ち上げたシリーズも数知れず。なおかつどれ1つとして同じスタイルのものもなかったりする才能の爆発ぶりの秘密がどこにあるのか探りたかったけれどもそうした勢いだけの書き方は最近はしておらず、下書きを書いてみて全体像をつかんでからちゃんと詰めて書いていくことにしているんだとか。それでも今年だけで出る本は15冊。中には「私の優しくない先輩」の出し直しとか「ちーちゃんは悠久の向こう」の出し直しなんかもあるけれど、それぞれに結構な分量を削ったりなおしていたりするから、書き下ろすより手間もかかっているとか。それでいて合間にしっかり新作も出す才能にスランプが来るとしたらきっと3ヶ月本が出なかった時、ってことになるんだろう。そんな作家、他にいる? いないこともないか。成田良悟さんなんてそんな日日日さんが怪物と瞠目していたりする訳だから。書けば一気。出せば傑作。そしてスタイリッシュ。その力がライトノベル以外で炸裂する時は来るか?


【7月23日】 というか、日日日さんによる原作小説「私の優しくない先輩」の講談社から出た改訂版に書き下ろしで収録されている短編「吉乃さんはいいひとだから」が傑作すぎるので世の中の人は読む様に。帯とかにもある様にまさしく「私の優しくない先輩」の“その後”ってやつが描かれていて、映画では直接的には描写されていなかった耶麻子の運命がしっかり記述されたその先で、起こっている学生諸君にありがちなコミュニケーションがうまく築かれにくいイタイタしい状況ってやつが、描かれてあってどんぴしゃな世代のとりわけどんぴしゃな人たちに、刺さる痛みかえぐられる苦しみか、いたたまれなから来る不安を与えてモヤモヤさせそう。

 主人公は特に耶麻子とも起久子とも関係のない青年で、どちらかといえば不良っぽい人間で、その彼がちょっぴり関心を寄せている女のコが吉乃さん。いい人、というか八方美人で付き合いたい男の子たちと付き合いを広げすぎては反発をくらって暴力をあびせられ、それでも改めないで誘われればついて行くような毎日を送っている。危なっかしいと思っていたらやっぱり危なっかしいことになった彼女を主人公が助けるストーリーを軸に、なぜか言葉を交わす様になった起久子が絡み、彼女の伝で優しくない先輩も現れ事態を収集させる、そんな過程で浮かび上がるのが、言った様に今時の学校って場所で起こっているコミュニケーションの厄介さだ。

 間違えたらはい上がれず、目をつけられたら貶められ、それがいやで表面を取り繕った様な関係性を続ける薄気味悪い集団としての学校でありクラス。そのなかで自分の居場所を作ろうとして吉乃さんが見出した「いいひと」であることが、それでも通用しないで極限まで追い込まれてなお、いいひとぶろうとする吉乃さんの痛ましさに、そうでなければ生き延びれない場所としての学校への恐怖が浮んで身をふるわせる。今、そんな場所にいなくてよかったと思うけれどもまさに今、そんな場所に大勢が生きていいひとぶっている。違う、いいひとぶらされている。

 どうにかならんもんかと思うけれどもどうしようもないこの立場。教職員組合が選挙で誰を応援したとかサヨク嫌いの輩がギャンギャンと書きたてているけれど、それが学校の現場で起こっているだろうコミュニケーション不全から来ている混乱、そして心の損耗と腐敗を是正する上でどれだけの意味がある事柄か。批判のための批判やら、立ち位置だけを守ろうとして批判も懐疑も廃したプロパガンダやらに埋め尽くされた媒体が、マイナーとはいえ発しているそれなりの影響力を、本質の指摘に振り向け是正を唱えたら、いったいどれだけの失われなくていい若い命が踏みとどまれたのか。

 しかし現実はデカい声ばかりが幅をきかせて本質は蔑ろにされるばかり。だからこそフィクションの出番で、「告白」が書かれ話題となり映画化されてさらに話題となって今の問題点が流布され、そして日日日さんは「吉乃さんはいひとだから」を書いてそれを世間に暴露する。あとは読まれるだけだけれどもそこが1番の難関か。幸いにして映画は評判をとり原作への注目も高まるなかで、併録のこの短編も読まれ広まればきっと何かが変わるきっかけになる、と思いたいけど果たして。書き下ろしの続編では賞に名があがるってこともないからなあ。どこかに転載されてってことはありえないのかなあ。

 目覚めると灼熱の空間。その暑さをエグザイルで例えるとしたら、16畳くらいの部屋にエグザイルのパフォーマーが6人くらいやって来て躍り回って見せるくらいの暑さでまあ、耐えられないこともないけれど、暑いことにはかわりがない。そんな空気の中をまずは六本木へと出向いてコナミがミッドタウンなんて雅やかなところに店を出した、そのオープニングを見物。すでにして150人くらいが並んでいるとかで、おまえらそんなに等身大POPが欲しいか欲しいだろうなあ僕だって欲しいと内心でつぶやきながら見物。それほど広くはないけど割にアイテム数は豊富で、行けばいろいろ買ってしまいそう。「かってに桃天使」グッズとか、ってそんなものはない。

 充実していたのは「武装神姫」関連アイテムでずらり並んだフィギュアはなかなかに壮観。あおやっぱり「ラブプラス」関係も大型のだけじゃなくって小物もあって選んで楽しめそう。「メタルギアソリッド」関係ももちろん。ほかはショーウィンドウでぐるぐる回っているときメモ列車の模型か。なかなかに精巧なジオラマはおそらくはだれかの趣味の品。その内にきっといろいろなものが増えていくことだろう、「桃天使」列車とか、ってそれはないってば。そういえばヤマカンさんに「桃天使」イラストみせたら反応があったなあ。

 紳士たちが暑さに負けず並び続ける六本木を抜けて一路西へ。到着したのは静岡で降りたとたんに熱気がむんわり。その暑さは6畳間にエグザイルが3曲ばかり歌い終わった直後に8人ばかり入ってきてさらに踊り歌うくらいの暑さでもうくらくらになったけど耐えて過ごす。これがたとえばSKE48だったら全員が4畳半に入ってきて踊り歌ってくれてもまったく暑さなんて感じないんだけれどなあ。人間って不思議だ。っていうか入るのか48人。

 そんなこんなで適当に時間を過ごしてから静岡鉄道でバンダイのホビーセンターがある駅へと向かい様子を眺めてからテクテクと東静岡駅へとあるいて白い巨大な例のやつを眺める。なるほど巨大、だけれどもお台場も時ほど大きさを感じないのは、周囲にびるがあってそれより低いってこととあと、遠巻きに眺めて下に群がる人間たちとの対比で大きさを感じられないことがあるのかな。ましたから見上げればなりほど巨大だけれど、それも去年見ているし。でもまあなかなかなの仕上がり。同じことはしたくないって意気込みは存分。静岡県立美術館でロボットと美術の展覧会が始まったらまた行って、秋空に映える白い威容を眺めてこよう。

 しかしなかなかの商魂はNTTドコモ。間後ろにある建物に垂れ幕の広告を出してそれをプラモデル風のデザインにしている。会場内にはソフトバンクが例のガンプラ携帯ってやつを出店していてスポンサード的立ち位置を示しているけど、そんな外側で自分ちの建物に自分ちの品物をそれっぽい雰囲気の広告でもって宣伝してみせる根性は、なかなかに逞しいとしか言い様がない。関係ないのにあるようにみせかけられた広告は、かならず映りこんで喧伝される。どうしようもないわなあ。ならば対抗してKDDIは富士山にそのロゴを刻むか。社員を動員して人文字を作るか。


【7月22日】 歌や踊りでお座敷い来たお客を喜ばせるのが芸者なら、言葉巧みにお客を褒めあげいい気にさせて嬉しがらせるのが幇間こと太鼓持ち。いわゆるヨイショってやつなんだけれど現代において芸者は時々テレビやメディアで見かけても、太鼓持ちを見る機会はなかなかない、っていうか滅多にない。あるいは寄席にいったら芸としての太鼓持ちを見られるのかもしれないけれど、野においてこその草花の如くにお座敷で見てこその幇間芸。その現場が失われてしまった現在に、太鼓持ちを見知る機会はもうないのかもしれない。

 ならば書物の中に訪ねては、ということで読んでみたのが青木朋さんって人が漫画を描き上季一郎さんって人が原作を手がけた「幇間探偵しゃろく」って漫画本。なんだ漫画かよと言うなかれ。これでなかなかかに昭和になったばかりの東京は向島あたりを舞台に、当時はまだしっかりと残っていた花柳界に遊ぶ人々と、喜ばせる芸人たちの姿を描きながら、そのなかに太鼓持ちという存在もしっかり位置づけ描いて、どんな風情だったのかを今に伝えてくれる。ただし。

 ここに描かれる太鼓持ちの舎六は、客を喜ばせるどころか起こらせてしまうから大変というか、始末に負えないというか。もちろん普段は陽気にヘラヘラとしているまさしく太鼓持ちとして、若旦那を喜ばせお座敷に招かれた客を喜ばせてみたりもするけど、ちょっぴり酒が行き過ぎると口が悪くなって不調法な客を相手に無粋だ何だと言って怒らせひいきの若旦那を困らせる。だったらそこで放り出せば良いものを、前に茶道の家元から頼まれた掛け軸の言葉を自分の代わりにあれでなかなかに教養のある舎六に書いてもらった恩がある。というかむしろ弱みというか。

 それでも行き過ぎればいつかは、といったところに起こった事件が2人の仲をギュッとくっつける。茶道の家元が急死。その後継者が決まるかどうかという矢先の出来事に、残った後継者たちの間に芽生えた疑心が暗鬼を生んでドロドロするものの、そこに行きがかりからら関わることになった若旦那が、舎六の教養と推理力を借りるというか押しつけられるように家元の思いを解いて見せて皆を納得させてしまう。さらに重なってしまった恩にいっそうくっついて回るようになった舎六と若旦那。そしてまたしても起こる事件をやっぱり舎六が解いく、ミステリー仕立てのストーリーが展開される。

 驚くのは舎六の深い教養で、短歌から三味線からいろいろな芸事風俗文化に通じ、それらをもとに謎を解いてみせるところに鮮やかさがあり、また学ばせてもらえるうれしさがある。とはいえそうした謎解きのテクニックが、今に通じるかというとそうも行かないのは三味線短歌に芸事の類が教養として広く流布していないから。短歌の仕掛けと茶道具のセレクトから謎かけに迫って解き明かしたりできたのは、謎を出す側にも解く側にも同じ教養があったればこそで、そうした物が失われてしまった今、いかな明晰な太鼓持ちといえども活躍する舞台はなさそう。やはり昭和に置け太鼓持ち。でもやっぱりちょっぴり寂しいかもなあ。オタク知識が共通の文化風俗になった暁にはオタク探偵の登場を願おう。

 そういえばデジタルハリウッドの講演会で山本寛監督が、初実写作品にして大大大傑作だと個人的に認める「私の優しくない先輩」で気持ちが最高潮へともって行かれる「Majiでkoiする5秒前」を西表耶麻子に扮した川島海荷が歌うシーンについてあればPVみたいなものじゃないと明言していたのが興味深かった。川島海荷を引き立たせるためのものではなくってあくまでも西表耶麻子のラストシーン。実際にあれにはシーンナンバーが132だかの数字で振られてあって、そうした映画のシーンとして機能するようになっているとヤマカン。そう言われてそして、映画全体を通して見直してみるとなるほど静かに迎えた終幕のもう1枚向こう側に用意された、刹那とも云える瞬間の歓喜がそこにあらわあれ喜びと、同じくらいの切なさを誘って涙を流させる。

 「串のようにぶっさす要素がこの映画にはないし、意識して用意していない」と話していたヤマカン監督。「1回乗れないと最後まで乗れない。分からない人にはさっぱり分からない」という言葉のとおりに最初の試写でモノローグのやかましさに引っかかってしまった僕は、そのときはこれはどういうものだと悩んで困ってしまった。けれどもその後にいろいろ話を聞いて、漏れ伝わって来る話も取り入れ見直した2回目に来た感動。そして感涙。なるほどそうかそうだったのかと驚いた。

 1度で分からなかった不明は恥じつつ、それでも気づけた喜びに震え、「エンディングが聞こえるたびに涙する。Majikoiを涙なくしては聞けないのだ、という風に作った」というヤマカン監督のたくらみに見事にハマれるようになった。この幸せこの境地に至れない人の多そうなことが気にかかるけどそれはそれで仕方がないので僕は僕で土曜日あたりにまた行って、見てそして原作の人がどう思っているかを想像しながらエンディングならぬラストシーンで耶麻子によって刻まれるカウントに、心のビートも乗せて街を歩こう踊りながら歌いながら。それはちょっぴり恥ずかしい。

 「週刊SPA!」に今更だけれど「マイマイ新子と千年の魔法」の記事がどっかん。DVDの発売に会わせての支援だろうけど公開の時は果たしてどんな扱いだったのかと思いだそうとして思い出せないくらいの扱いだったんじゃないかと想像。それが半年を経てこれだけの破格ともいえる扱いに出世するとは。作品の力もあっただろうしそれを信じて支えた人たちの力もあったってことなんだろうなあ。DVDに封入のブックレットにもそうしたユーザーサイドの盛り上げ話が満載だったし。公開前にちゃんと監督インタビューを1ページ近く使って載せた新聞とかはなかったか、あったとしても役に立ってなかったんでこの際らち外でも仕方がない。うん仕方がない。ちなみに買ったDVDのフィルムは夕闇を背中に一升瓶背負って走る新子ちゃん。名場面ではあるけれど顔が……。もう1本買おうかな。三ヶ尻の駅についた貴伊子が良いな。


【7月21日】 「東京おもちゃショー2010」でタカラトミーの新製品発表会に現れたAKB48の研究生たち3人で作る「ミニスカート」ってユニットを、見に来た若い人(と昔若かった人)たちの立ち居振る舞いは実に粛然としていて大きく騒ぐこともなく、オタ芸を打つこともなく押し合わずへし合わずにガードの外からちゃんと見守り、声援を送り拍手していて、周囲から奇異に見られることもなければ周囲を脅かすこともなかった。

 それは場がパブリックで大勢の普通に玩具を楽しみたい人が詰めかける中で、ある意味アウェイな自分たちがどう見られているかを自覚しての振る舞いであり、ここで目立って自己を発散させたところでそれが結果として集団自体の評価を歪め、金輪際そいういう場での同様のイベントが行われなくなってしまって、自分たちが楽しめる場が減ってしまい、そして何よりアーティストに迷惑がかかってしまうことを心配しての自重が、ちゃんとしっかり出来ていたってことだろう。

 それはナムコが川崎で運営しているアミューズメント施設の「ヒーローズベース」に1日店長として招かれた、真野恵里菜さんを見に来た若い人(とそれからちょっと前なら若かった荷)たちにも同様に言えることで、騒がず飛び跳ねないで周囲を囲んで整然と、登場するアーティストを眺め声援を送り、時々声もかけて励まし場の雰囲気を楽しいものにしていた。歌でも始まればあるいは歓声も上がり踊りも出たかもしれないけれど、場が場なだけにたぶんそれも自重して、アーティストを見守るだけに止めだろう。

 もちろんアーティストを応援するというより自分たちが楽しみたいだけという輩はそこかしこに存在していて、場の迷惑も考えないで嬌声を上げる面子を見かけたりすることもあって、そうした一部の不心得な存在が全体を貶めている状況を、どうにも歯がゆく思っていたりもするけれど、真っ当さが大きく幅を利かせるながではやがて居所を失っていくだけだと、ここは思って横目で見下すしかない。

 というわけでアイドルの応援スタイルは百恵キャンディーズ聖子明菜おニャン子森高モー娘。を経て21世紀になっても道半ば。いわんや明治の初期に生まれた空前のアイドルを、どう応援するべきなのかを当時の書生学生たちが知らなかったのも当然で、松井今朝子さんの新刊「星と輝き花と咲き」(講談社)に登場する娘義太夫のスター、竹本綾之助が登場する小屋では、いたずらにただ「どうするどうする」「どうするどうする」と声を大にして叫ぶ輩も現れ大変だったとか。人呼んで「ドウスル連」。うっとうしかっただろうなあ。

 とはいえ女性のアイドルといったら芸者芸妓の類しかいなかったような時代に、木戸銭さえ払えば間近に見られる女の子の芸人に、世間が狂喜乱舞しただろうことは想像に難くない。今でこそ伝統芸能の域へと押しやられてしまった義太夫浄瑠璃の類だけれども、当時はそれこそ今の映画演劇評に負けずむしろ最先端のエンターテインメントとして庶民の中に定着していた。そんな最先端のさらに先を行くように現れた、美少女が義太夫を語る娘義太夫は差詰めロッククラシックポップス演歌といった音楽シーンに咲いた超美華。男どもが飛びつき騒いでもてはやしたのも当然か。

 もっともそうした見目だけでわたっていけるほど甘くはないのが当時の芸能界。そこは男の子みたいな風体で、子供の頃に出入りしていた街の義太夫に詳しい男の家で門前の小僧宜しく覚えた浄瑠璃を語って見せて、その驚異的な才能を認められ、東京へと出てしばらくは素人としてゲスト出演していた一座でも、やっぱりすばらしい才能を見せてそのまま芸人となっただけのことはあって、半端ない実力を持っていた模様。それこそ娘義太夫というジャンルを形成して今につながる礎を築いただけの人だけれども、やっぱり生まれる恋心。大勢のファンを喜ばせ、そして周辺にいる大勢の人を支える超人気アイドルとして生きる大変さと、そんな中でも恋に生きたい葛藤に悩む姿は今も昔もアイドルたちに共通の悩み苦しみか、といってた矢先にAKB48での恋愛騒動。どうするどうする。どうするどうする。

 ヤマカンこと山本寛監督が初めて撮った実写映画「私の優しくない先輩」は2度見るべし。1度目の鑑賞ではおそらくは、ギャンギャンとうるさいモノローグにまみれた反映画的手法の連続に苛立ち、むかつき劇場から逃げ出したくなるだろう。チープな舞台装置もギャグのそれも薄ら寒いギャグだと思って苦笑も出ないまま、やがてスクリーンから目を背けて耳をふさいで引きこもりたい気分になってしまうだろう。どうにか見通してラストにほっとして、それでも漂う釈然としない思いに時間を返せ金を返せと叫びだしたくなるだろう。

 しかし待て。そこで考えろ。ヤマカンが何を意図してああいった描き方をしたのかを感じ取り、モノローグの多様が何を意味するものかを想像し、それでも思い浮かばなければあちらこちらのメディアに出ているヤマカンへのインタビューを読んで、それから映画「私の優しくない先輩」をまた見れば、すべてが腑に落ちる。納得できる。そして理解できる。耶麻子の感情。金田哲演じる先輩の心情。それらを描こうとした手段に手法の意味が全部見えてきて、ラストの感動へと突入できる。もう滂沱となること間違いなし。

 そんな感動と感涙の上に、川島海荷のにこやかな笑顔とアクションによるダンスと歌を楽しめる。圧巻の終幕を迎えられる。だから映画「私の優しくない先輩」は2度見ろ。2度見たら3度見ろ。何度も見なくちゃ分からないような映画は映画じゃないという声もあるかもしれない。けれど何度か見れば面白さが分かってとてつもない感動に浸れるんだったら何度見たって良いじゃないか。というわけで山本寛監督「私の優しくない先輩」はすばらしい映画であると認定する。大大大好きな映画であると認定する。東浩紀さんも出ているし。後ろ姿だけみたいだけど。どこに? ヒントは病院。

 1面政治面社会面とつぶして大々的に来訪者の動静を伝え、社説主張の類でも取り上げるメディアがある一方で、載せても1日につき1つの記事で、それも社会面の脇に囲んで載せる程度のメディアもあってさてはて、正しいのはどちらの態度なんだろうかと思ってみたり考えたり。日本中で執行を待つ確定囚の全員が損なった命を足して果たして及ぶかどうかといったことをしでかした人物を、招き入れ厚遇して見せることへの愁眉を示さないところが何とももやもやとするけれど、そうした思考を覆っても支えなくてはいけない人たちがいると任じるメディアの確信的な振る舞いは、ささやかな懐疑ではいかんともし難いということか。そのパーティのやることなすことすべて否定のメディアですら疑義の正反対で状況を大々的に伝えているもんなあ。経ち位置ジャーナリズム。いつまで通用するかなあ。


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