縮刷版2010年4月中旬号


【4月20日】 だから会話の時に話している人物を、交互にほぼ正面から順番に映すのはやめようよって誰も言わなかったんだろうか「閃光のナイトレイド」。ちょーのーりき部隊に所属するお嬢様のところに、出奔した兄からの手紙が舞い込み揺れる彼女の立ち寄り先で爆弾騒ぎ。加速装置を操る「帝都物語」な兄ちゃんが暴れ回ろうとしたけれども、そこは主役チームだけあってどうにか撃退。その途中で上記のような会話のシーンが挟まれて、少ない枚数で仕上げる努力って奴が働いたのかなあ、などと想像してもみたりするけど真相は知らない。ほかはよく動いていたからそういう演出意図だけだったのかも。

 そして敵方にもちょーのーりき部隊がいることが判明して、事態はちょーのーりき合戦への様相を呈していくことになるんだろうけど、今は同じ日本からの人たちに発動しているちょーのーりきが、米軍仏軍独軍英軍露軍にも発動していないとは限らず世界をまたにかけたちょーのーりきエージェントたちによる「幻魔大戦」もびっくりのバトルが繰り広げられていく、ってことなのかそれとも日本にだけちょーのーりきが発動する理由があったりするのか。ないよなあ、だってメンバー、まるで脈絡がないもん。とりあえず中華娘はアルバイトをあちらこちらでし倒している風もなし。「CANNAN」とはちゃうってことか。偽スパイクが小さい嬢ちゃんに別れ際にチューインガムを渡した意味がちょっと分からない。力の誇示? でもそんな派手さはないし。場つなぎ? うーん。

 そんな裏ではアレクサンドル・ニコラエビッチ・セルことサーシャが、未だいたいけな女の子姿でモジモジしていたけれども、やがて現れた新たな敵にようやく覚醒。その瞬間に身がバニーガールだと知ってあわてふためく姿が実に可愛い。自分が女の子だと思いこんでそういう恰好をしている限りは、中身がどうであろうとそこに心理的な葛藤は見えず浮かび上がる切なさも皆無。けれども、自分はれっきとした少年だと知っていながらその身がバニーになっていて、そしてとってもよく似合ってしまっている瞬間に走る心理的な葛藤とよく似合いすぎているビジュアルとのギャップが、えもいわれぬ色気って奴を醸し出すのだ。あれは良い場面だった。けどもう目覚めてしまったサーシャに女装の期待は出来なさそう。ならばあとは派手なバトルとその度に補充されるソーマの源のポロリに期待するしかないみたい。当然ながら靄が立ちこめるけどそこは心眼でもって靄の向こうの膨らみを、脳裏に浮かべて静かな歓喜を噛みしめよう。

 参った。これまでも会見なんかで発せられる言動の根拠の乏しさに、脳は既にスピリチュアルな領域へと至ってしまっているんじゃないかと予想はしていたけれども、さすがにあと2カ月で世界最高の舞台に立つサッカーのナショナルチーム代表監督が、どこか遠い次元にイっちゃってるなんて信じられないし、仮にそうなら気づいた周囲の人たちが何らかの対処をしているはずで、それがないってことはやっぱりまだまだ論理の範囲に身を止めて、どうにか最後には真っ当な差配を見せてくれるだろうと願っていたけれど、願望は所詮願望に過ぎず、現実には残酷なまでに苛烈な状況へと至っていたんだってことが見えて来て、もはやどうしようもないと諦める以上に、こうした事態を傍観しているどころかむしろ積極的に後押ししているトップがいたりする以上、今後100年にわたって立ち直れないくらいの禍根を、日本のサッカー界は今まさに残そうとしているんだって分かって絶望のどん底へと心が沈み、窒息してしまいそう。

 「スポーツの世界で最高のパフォーマンスをする時って『フロー』か『イン・ザ・ゾーン』といって、覚えていない。無心なんです」「私も選手時代にあった。監督としては意図的にそういう境地に選手を入れたいんだけど、偶然にしか手に入らない」。喋っているのは岡田武史サン。サッカー日本代表の監督が、精神科医というよりその名前出ているなら、精神科医っぽい人生相談のお姉さんってことになりそうな香山リカさんと対談している朝日新聞の中で喋った言葉だけれど、読んで誰しもが思うこと1つ。選手たちは違う意味で何も考えられない境地に至っているんじゃないのかなあ。どうしようもないって戸惑いと諦めと後悔が渦巻く真っ白な境地に。

 「最後の無心の状態になかなか入れない」って繰り返し岡田サンは言うけれど、そうなるためには前段としてチームにしっかりとした戦術があり、誰がどうしたら俺はどうして彼はこうするという約束事項がすべての選手、それは控えも含めたすべての代表選手にある必要があるんじゃないのか。無心で動けるには試合中に迷いとかあっちゃだめだし、ボールが来てから考えるなんてことももってのほか。走りながら考え考えながら走る。マルチタスクな上にとてつもないクロック周波数でそれらをこなす。何が起こってもそこで止まって考えることなく、本能でこなせるくらいの訓練を経ていてこそ、いざという時に岡田サンも望む無心になって、プラスアルファの底力を発揮できる。

 そうなるために2002年の代表監督を務めたフィリップ・トルシエは、口を酸っぱくしてオートマティズムを選手たちに叩き込み、オシムはボールを使った7色ビブスの練習を通して、試合で起こり得るシチュエーションをそれこそ根ほり葉ほりシミュレーションして、選手たちに理解させ、それが起こったら深く考えるまもなくに即応できるようにした。岡田サンにはそうした基礎の基礎、基本中の基本をちゃんと選手たちに対してやっていたんだろうか。出来ていたなら例えメンバーが何人か替わったところで、基本のコンセプトどおりに選手たちは動き、3軍のセルビア代表を蹂躙できていただろう。けれども実際は選手が変わったからといた言い訳を並べ立てて敗北から目を背けている。ゾーンに入らない? 入れる訳ないじゃん、その道筋を示していないんだから。

 それで何だ、闘争本能が足りないからだといって「南アフリカに入ったら、やりもってライオンを追いかけさせるか。仕留めてこいと」って言うのか。それでどうにか出来る問題でもない。というか、岡田サンにとって南アフリカの人というかアフリカ一般のイメージは、人間がやり持ってライオン相手に挑みかかっているってことなのか。これってすっげえ偏見じゃねえのか。それこそ総理大臣が言えば首が飛び、大臣が言っても首が飛ぶような。けれども代表監督が平気で言っている。アフリカ人はやりもってライオンに挑みかかっているって喋っている。どこかの代表監督が選手には侍の心が足りないから日本に行って刀で人を斬ってこいって言ってやろうかな、って喋るのと等しい無茶な内容。これを言われて日本人ならどう思う? 同じレベルのことを岡田サンはアフリカに対して言っている。その自覚はないのか。というかこれをまとめた朝日新聞の潮記者には拙い発言だって気づきはなかったのか。

 傷害致死で罪に問われた戸塚ヨットスクールの校長を引き合いにして、その教えに学ぶことありってのも相当に問題。スパルタの海でなるほど立ち直った人もいるけれども、死んだ人だって出ている訳で、それで罪に囚われ罰だって受けている人、そのことによって多くの批判を集めている人を引き合いにして学ぼうと言い出す代表監督を、果たして監督として仰いで良いのか、朝日新聞が監督として持ち上げ続けて良いのか。なるほどこれでは怪我をした選手が試合に出ては、余計に酷くなってリーグを休み無期限休養に入る訳だよなあ。でもそうしたことへの自覚はなさそう。岡田サンにも香山リカちゃんにも朝日新聞の記者にも。もはや相当に拙いところに来ていそうで、このまま軍部独走が来て大本営発表が繰り返された挙げ句に、日本代表は南アフリカの地に玉砕し、何人かは特攻の果てに消滅して後に何も残らない、永劫の不毛が訪れそう。でも協会長は微動だにしない。いったいどうすればどうにかなるんだ。気にしないことが1番? それが出来ればなあ。時計の針を3年前に戻せないかなあ。

 岡山県の津山といったらやっぱり30人殺しだよね、って誰もが思うかどうかは知らないけれども、そっち方面にちょっとでも関心があるならまず挙がってしまう暗い過去。でも本当の津山はそうした過去を水に流して、今を盛り上げようといろいろ画策しているみたい。その代表? なのがホルモンうどんなる食べ物で、お台場のアクアシティ上にあるラーメン国技館の中にラーメンとはいえないけれども麺類だってことで岡山から、ホルモンうどんの店がやって来たのを見つけて食べてみたらなるほど、ホルモンでうどんの食べ物だった。

 うどんといってもいわゆる四角いうどんとはちがって、太い焼きそばに近い感じの食感を持った麺を炒めてもやしなんかを入れて焼きそば風に仕立てた中に、ミノやらハツやらといったホルモンをぶっこんで焼いた食べ物。豚肉の代わりが内臓なだけって言えば言えるけれども、太い麺とモツの味が焼きうどんとはまた違う風味を醸し出してなかなかに美味。全部食べきってしまった。パンフレットによれば津山には32軒ほどホルモンうどんを出す店があるみたいなんでいつか行ったらすべての店を制覇してみたいもの。できれば手に猟銃を持ち額に懐中電灯を差した伝統の巡礼の装いで。津山32ホルモンうどん食し。映画にならないかなあ。


【4月19日】 喜ばしいけれども同時に虚しい今日このごろ。NHKのBS2で放送されている、マンガやアニメーションやゲームの流行について取り上げる番組「MAG・ネット」で、アニメーション映画の「マイマイ新子と千年の魔法」が口コミによって広まり人気になって、異例のロングランを続けているって話が紹介された模様。なかなかにマイナーな作品が周知されないまま公開打ち切りとなって埋没していく中で、それじゃあ勿体ないと立ち上がった人たちが頑張って紹介しまくり、上映先も募りまくって輪を広げ、公開から5カ月経っても劇場での上映が続いているって異例の事態を招いたことに、アニメのファンであり「マイマイ新子と千年の魔法」のファンとして喜ばしさを強く覚える。大勢の人も見てもらえるなんて実に素晴らしいこだよねって感動を抱く。

 一方で、そんな映画を極めてマイナーに寄ってはいても一応はマスメディアにいて媒体を使い割と早くから、結構なスペースでもって「マイマイ新子と千年の魔法」という素晴らしいアニメーション映画があるってことを紹介して来た身として、そいうした紹介が集客にも周知にも続映にも一切の効果をもたらさず、打ち切りの瀬戸際へと作品がもっていかれてしまったことに、決して小さくないショックを覚えていたりもする。つまりはマスメディアはこの映画に関してまるで役立たずだったってこと。しばらく前からマスメディアでの一方的で一過性の情報伝達なんかより、ネットでの口コミなんかの方が情報をより広く、かつ深く届けることが可能になっていいるって話が出ていたけれど、それがこの作品で極めてくっきりと出てしまった。

 メディアがいくら書いても、それこそ1ページを費やして書いてもお客は劇場へと呼び込めない。作品の認知にすらつながっていない。そりゃあ何百万部とか出ているメディアではないけれど、映画雑誌なんかよりははるかに出ている可能性が高そう。なのに何の役にも立てず、関係者にすら認知されていないってことに、書き手として虚しさを覚えずにどうしていられよう。広くみんなに伝えたいと願って頑張ってやったことが、サハラ砂漠で水滴を落としているような何の効果も生まない行為でしかないのだとしたら、やっている意味はないんじゃないかって思えて来る。もうやらない方が良いんじゃないのって諦めの気持ちがわいてくる。マスだからって信じて頼って来る人たちに、無駄ですから口コミを頼りなさいって言って差し上げたくなってくる。

 けどでもしかし。活字にして媒体の上に定着させることでいつか、誰かに届くかも知れないという可能性は皆無じゃない。ふとしたはずみにアーカイブとして掘り起こされ、記録として参照されて作品の再評価の材料にされないとも限らないからここは踏ん張り、何のために書くとか考えないで、ただ自分が書きたいから書くんだと開き直って挑むのが、精神に優しいことなのかもしれないなあ。宇宙に向かって私はここにいますと叫ぶ人類だって、いつかきっと誰かに届くはずだと信じてやっている。その声が本当に宇宙の誰かに届く可能性に比べれば、メディアで伝える方がたぶんずっと高い確率で声を届けられるのだから。頑張るしかない。誰に振り向いてくれなくっても。芸能人とかに名前が知られなくっても。

 えっと確かバルメと喧嘩して追い込んだものの、助けに来たヨナに銃撃されて倒れて、バルメと同じ病院に入ったのにすぐに逃げだし雲隠れ、だったんだよなあカレン・ロウちゃん。もっとも、師匠というか上司の陳国明を失い勤め先はぶっつぶれ、頼る場所もなく路頭に迷って地べたにペタンとしゃがみこみ、食べず風呂にも入らずそのままのたれ死んでいくだけだったところを、マッドな天田南博士に拾われ秘書にされ、そのまま連れられココと再会しバルメとも出会って一触即発、となりそうだったところをそれぞれのご主人様が一喝したらとたんにシュン。さすがに軍人、命令には絶対って姿勢が気持ちいい。秘書にしたいなあどちらかを。でもとても御せないかなあどちらも。

 ポートエリザベスがどれくらいの治安なのかは分からないけど、南アフリカってことはやっぱりそんなに宜しくないはず。でも女の子が地べたに座ってちゃんと生きてるってところは何だろう、治安が良いってことなのか。いやいやカレン・ロウなら近寄る不定な輩はそのパワーでもっていなし倒し、身ぐるみはいで糧に代えて生き延びていたってことなんだろー。追い剥ぎとしては最強し。でも秘書としても逃げる天田博士をおいかけ電話をかけまくり、面会に遅れた言い訳をして相手に謝ったりする有能さは、ちゃんと見せてくれて入るカレン・ロウちゃん。ボディーガードであっても、一応は陳国明の秘書だっただけのことはある。同じことをバルメがやろうとしたらきっと絶対誰かが死ぬ。あるいは何かがぶっ壊れる。その点では選ぶんだったらやっぱりカレン・ロウの方かなあ。バルメのわがままボディも捨てがたいけど。うーん。

 でもって「月刊サンデーGX」の最新号。「BLACK LAGOON」はデコ眼鏡こと人民解放軍のスパイなフォンちゃんが、しっかりはめられ人民解放軍の方から裏切り者呼ばわりされていよいよもって大ピンチ。そこで不安から吐かなかったところはあれで軍人、それなりな筋金入りっぷりを見せてはくれているけれど、迫る危機を乗り切るだけの戦闘スキルは持っていそうもないだけに、果たしてどういう算段でもってロアナプラを抜け出すか、あるいは抜けないままで誰かの世話になっていくのかって辺りが、これからの展開の中心になりそう。逃げ出すんだったらやっぱりラグーン商会に頼むのか。でも手持ちの金もないのにそれは無理か。得た情報を誰かに売る? そんな情報あったっけ。

 だいたいが逃げたところでこの地球上に安全な場所なんてないだろう。唯一ロアナプラを除いて。だからあるいはそのハッカーとしての技術を買われて三合会の張維新あたりに雇われて、ロアナプラに居着いては自分をはめたジェーンを相手に戦う道を選ぶのか。チチ眼鏡ことジェーンも実は一種の傀儡で、背後に国務院国家安全部と人民解放軍情報部とのインテリジェンスの主導権をかけた争いがあって、その国安部側のエージェントとして活動してフォンを引っ張り出してははめ、そして情報部の立場を悪くさせただけだってことが分かって、それならそれで敵は国安部だと2人そろって立ち上がり、張の下で復讐を目指してみたりするのか。とはいえ三合会では中華人民共和国相手は荷が重い。ならばとロシアのホテルモスクワに近づき、三合会もろとも国安部をぶっつぶしにかかるとか。いろいろ想像すると楽しそう。でも複雑化して壮大化してロベルタ復讐編よりも長いシリーズになっていったら……それもまた楽しからずや。

 少なくともジェーンがベニーのダーリンってことで、デコ眼鏡が新たにラグーン商会に加わることはなさそう。ベニーとキャラも被ってるし。けどしかしジェーン、そんなにベニーが好きなのか、ハッカーとしての腕前に同じハッカーとして惚れ込んだってんなら分かるけれども、それだけじゃなくって実際に男性の体の外へと突き出た部分に対しても強い好奇心をもって臨み、頬寄せくわえて舐めたりしているっぽいからなあ、車の中で、昼間から。そんな情愛を寄せる相手が、いくらなんでもかわいそうだとフォンに手をさしのべれば事態はジェーンもほだされ、救いの道も開けたりするのかどうなのか。とりあえず来月以降も目が離せない。あと人民解放軍の柳中将といっしょに乗り込んで来た葉少尉がまた出るかにも興味深々。ボブな髪型で童顔でうろたえ気味な可愛さが良いのだ。そんな可愛さで務まる任務でもないから実はカレン・ロウなみに強靱なのかもしれないけれど。だからこその再登場に期待大。

 ダイナミックというかアバンギャルドというか。斜め上をいくというか次元を超えて跳躍したというか。中国で5月に始まる上海万国博覧会のテーマソングが岡本真夜さんの曲にそっくりだったってことであれこれ問題になっていたけれど、驚く事なかれ万博の主催者が岡本さんの歌をテーマソングに使用したいと申請してきてそれを岡本さん、OKしたってニュースにこれぞ棚からぼた餅というのか災い転じて福服となるというのか、例えようがないくらいに愉快な展開になってとりあえず中国に真っ当な判断が出来たことを興味深く見る目がいっぱい出そう。

 そういえばガンプラだか何かの玩具のそっくりさんを作っていた中国の工場に対してバンダイが、それほどまでの腕前があるなら協力工場になって本物を堂々と作らないかって働きかけたことがあったっけ。例にするにはパターンが違うけれども喧嘩腰で行くんじゃなく、悪いことは悪いと認めつつ良い方へと転がす施策でもって双方が得をとれればこれ以上の幸せはないってことを、誰もが分かっていけば世界も住み心地が良くなるんじゃなかろうか。あとは気になるのは最初の万博のテーマソングを作曲した人の処遇だなあ。来月あたりはモンゴルで羊に餌をやっているとか。敦煌で崖に仏像を掘っているとか。


【4月18日】 昭和が平成になったのが1989年の1月8日だから、だいたい23年と半年を昭和に浸かって生きた感じ。それから23年と半年後は2012年の7月9日10日あたりってことで、それを過ぎてようやく平成に生きた人間だって胸を張って喧伝できることになる一方で、昭和の人間だったとおおっぴらに言えなくなってしまうという今がちょうど端境期。その意味でも、昭和って何だったんだろうねえってことを自分なりに考える機会かもしれないと、昨日は昭和に関してあれやこれや考えられているらしい森村泰昌さんの展覧会を東京都写真美術館へと見物に行き、今日は現代というコーナーが展示室に加わった国立歴史民俗博物館へと出向く土曜・日曜。

 森村泰昌さんはそれはもう15年近くファンをやっていたりするから、一種なりきり系写真のパイオニアっていうか、そうしたなりきり系では先達とも言えそうなシンディ・シャーマンが、どちらかと言えば人間が内在しているものを表層へと現出させて、人間の深さを問うているのとはまた違って、外在しているものを身に移してその場に据え置いてみせて、存在なりその存在を含めた時空を改めて考察するアプローチの面白さ興味深さがあって、次にいったい何をどうしてくれるんだろうと思ってら、昭和というか20世紀をテーマに取り上げて来たからちょっと驚いた。過去には芸術家とか芸術作品とか女優といった文化なりアートの薫りがする存在になりきって、その芸術性をどこか嘲笑しつつどこか賞賛もしたい二律背反する感情を漂わせて、そうした作品なり女優を見る目に新たな角度を与えてくれた。

 でも今回のシリーズは、人物にはなり切っているけれども、それよりは時代そのものに対しアーティストがアプローチをかけたものって感じ。そこには時代とどう向き合うのかっていった認識が、アーティストにとって必要になってくるし見る側もそうした思考をつきつけられる。アドルフ・ヒトラーを模してチャールズ・チャップリンが孤独で酔狂な独裁者を演じた映画をもじった映像作品なんかは、マルチなスクリーンの片方で映画「独裁者」の最後の淡々として感動的な演説を流しつつ、もう片方で顔を歪め罵詈雑言を吐く男を映し出し、そして次の瞬間に大魔人のごとくに罵詈雑言を吐く男が哀切に満ちつつ強靱な意志でもって独裁者への注意を促す男となり、一方でそうした男が滑稽な独裁者へと変じて悪口雑言を吐き始める。どっちにもなり得る人間の怖さ、不思議さ。チャップリンからさらに1枚進めて独裁者がいた時代を衝き、独裁者の見えづらい今に蠢く独裁への流れをあぶり出す。

 吹き抜け部分で上映されている三島由紀夫の最後の演説を模した映像作品にも、昭和という直情的な時代へのある意味では自省がある一方で、情熱が行動を生んだ時代への憧憬なんかも見て取れる。市ヶ谷の駐屯地でバルコニーに立って、自衛隊員に決起せよと叫んだ三島の言葉に変えて芸術への決起を確か説いてた森村泰昌さんの姿や言葉からは、熱情と危機感をストレートな言葉に乗せてアピールする人間の純粋さなんかも見て取れるし、昭和の時代ですらそうしたものを滑稽を思って排除してしまいがちだった一般の人たちの反応を改めてあぶり出し、現代ならなおのこと無関心さに切なる声が押し流されてしまうことへの不安なんかを感じさせる。そうした不安が徒党を組んだ暴力へと発展していくのは論外だけれど、そうした行動をも生みだしかねない現状があるってことを認識しなければ、解決への道は開かれない、ということか。

 ゲバラもアインシュタインもガンジーも毛沢東も実によく似てる。レオナール・フジタもピカソもウォーホルもとてもそっくり。それはそれで面白いけど、どうして彼らなのか、ってところを考えてみると昭和という時代、20世紀という時代には後に森村泰昌というアーティストに化けられるほどに、何かをしでかした人たちがいっぱいいったってことの現れのような気もして来る。翻って21世紀に森村泰昌さんが化けて、それが単なるコントではなく風刺でもなく、生き様すべてをもって時代を象徴する存在への挑戦だととらえられるような人物がいるのかいないのか。バラク・オバマ米大統領ではまだコントだニュースペーパーだ。それはそれで痛烈な批判精神を持ているけど、1歩退いた場所から見て感じられる歴史としての強さがない。なんてことをあるいは考えさせたかったのか、やってて面白いからやったのか。どっちなんだろうなあ森村泰昌さん。

 中ではやっぱり第二次世界大戦の終結をニューヨークの街頭で祝ってキスしている男女の写真なんかが、人物の無名性故に状況そのものへのアプローチが見てとれて、展覧会が持つ意味をそれとなく浮かび上がらせていた。あとは硫黄島で旗を立てる海兵隊のシーンを模した映像か。戦争というものがあってそこで大勢の兵士が戦い民間人が振り回された20世紀。そのイコンとして残る硫黄島の星条旗なりニューヨークでのキスを演じてみせることは何だろう、無名の人間を総動員して大きな流れを作り出し、時には英雄を生み時には歓喜を生みだしてしまう戦争という行為への思いが含まれているってことなのか。それが何かを考えるいは材料が足りない。本を読み図録を読み作品を見返すことでアーティストが込めた意味とそして思考の向かうベクトルに思いを及ばせてみよう。

 そんな戦争終結を喜ぶ1枚の写真の原型が、千葉の佐倉にある国立歴史民俗博物館に3月オープンした第6展示室「現代」にも置かれているってことは、つまりやっぱり現代においてあの1枚が象徴するものが相当に大きいってことなんだろうなあ。佐倉市美術館には何度も足を運んでいるけれど、そっちへ行くのは初めてだった国立歴史民俗博物館は、佐倉城の跡地でありまた日本軍の佐倉連隊が置かれていた場所に建っている大学の共同研究博物館。入ると縄文の土器から始まって古墳な時代の鉄剣があり平安の屋敷がある武家の暮らしがあり一揆の旗印がありといった具合に、日本の歴史を時代を追って展示してあって、数千年もの時代を一気に振り返ることが出来る。

 民俗なだけあって山村の信仰離島の祭祀といった部分にも目配りがあって、今は失われてしまいがちな民間信仰の様子を目の当たりにして、ひぐらし的横溝的な事態への想像力なんかをもたらしてくれる。一方で、明治以降の展示なんかでは、割にセンシティブな展示もあって、そこんところはフラッシュ厳禁どころではない撮影禁止なんかもされていて、そう遠くない昔に現存した事態をどう紹介するのかといったこと、展示すること自体が寝た子を起こしそうな矛盾への配慮や思案なんかが伺われる。思想性がおそらくは極力排除され、事実として紹介されてはいてもそこに思想、とりわけ偏った思想の存在を感じたがる人もいるからなあ。

 その意味では「現代」の展示なんかにも、いろいろと難しいところがありそうだったけれども、見ていて左右のどちらにもあからさまな偏りはなさそうだったから、やっぱりいろいろと考えられたんだろう、と思いたいけど果たして。戦後になれば戦災から立ち上がっていく日本の姿がそこにあって、雑誌が並び玩具が置かれ映画が紹介されゴジラまでいてといった具合に、昭和な日本の上へ上へと向かうエネルギーが感じられて面白かった。そこから先の高度成長からバブルを経て長い停滞へと入った日本の「現代」について、果たしてなにをどのように切り取っていくのか。任されたキュレーターな人たちも大変そうだけれど、その先に今ふたたびの窮屈さが待ち受けていないことだけは願いたいし信じたい。独裁者の肖像じゃなく初音ミクの歌声が時代の象徴として置かれ流れる「現代」を。

 でもって佐倉は存外に近いなあという印象。川村記念美術館にも何度も通っているから京成で30分かからないとは知ってはいたけど、あらためてそんな身近な場所に結構な施設があるんだなあと実感。でもって佐倉城址はとてつもなく緑が多くっておまけに人もそんなにおらず、芝生で寝ころび放題だったり草木とか愛で放題で近所に住んでいたら毎日だって通って胸いっぱいにフィトンチッドを吸い込んでいそう。城跡なんで堀の後なんかもあってそれが谷みたいに深くなってて、おまけに整備とかされていないんで草木とか適当には生え放題。下生えがある上に楓が立っていたり棕櫚みたいな南洋系の木が生えていたりとほとんど原生林の様相を呈してる。水もちょっぴり溜まっていそうで落ちたら割と大変そう。それでも整備をしないのは何かのポリシーが、それともお金の問題か。今度は春に桜でも見に行くか。笙野頼子さんって近所に住んでいるんだったっけ。

 そんな道中に読み終えた村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」の感想は、とりあえず非常階段を上っていく青豆を下から見上げた天吾の目に映ったものが何色だったのかが知りたい。タイプ的には黒だけれども白でも悪い気はしない。ピンクとか赤ってことはなさそう。それとも一ノ瀬弓子クリスティーナみたいにはいていなかったとか? うーん。あとふかえりってどうなった。天吾ってどこから来た。空気さなぎはこれから一体何やるの。BOOK4はいつ出るの。等々のことがらが思い浮かんだけれどもそいうした解決があったからといって何が得られる本でもなさそうってことだけは見えてきた。1984年という昭和末期のバブル手前で最後の花火が打ち上がりそうな時代にあったエネルギーが、まるで描かれておらず風俗もまるで映されていない小説からカタルシスを抜いたら残るのは雰囲気だけ。視点をずり挙げ村上春樹の大ベストセラー小説を今読んでます的な状況そのものへの参加意識も含めた空気を楽しむのがあるいは、この作品の味わい方なのだろうなあ。とでも思わないとやってられない。あとはやっぱり色の想像。形? 臍まである奴だったらイヤだなあ。


【4月17日】 眠くて沈没して目覚めたらもう良い時間だったんで、録画してあった「刀語」を見たときには僕はきっと八つ裂きになっているだろうからと遠慮して、身支度をして飛び出して向かうは吉祥寺。途中で村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」(新潮社)を読み始めて、青豆だ何とか青豆って姓名の「名」ではなかったんだと知ってでんぐり返る。ずっと青豆が名前だと思ってたよ。だって天吾は名前じゃん、川奈天吾が姓名でその名をずっと引き合いに出しつつ相対する言葉として青豆って出していれば、それが名前だって思うじゃん、でもどうも違ったみたいで牛河が調べた家庭の事情によれば、父が居て母が居て兄がいる家の娘は、青豆雅美って名前ってことらしい。やれやれ。

 だったら天吾に雅美って書き表せば良いところを、ずっと青豆で通してきたのは片方は名で呼びもう一方は名字で呼ぶことに、何か深淵な暗喩があったりするからなんだろうか。関係性とか存在感とかにおいて設定してある差がそうした書き表し方を選択させていたんだろうか。うーん。用意周到な村上春樹さんのやることだから、ただの直感とか本当は名の方だったんだけれど気が変わって名字にしたとかってことはないとは思うけれど、でもなあ、会話の中に「ところがどっこい」を入れてしまえるくらいだから、案外にそのあたりはユルくしてあったりするのかも。あるいは単に僕が読み落としていただけとか。BOOK1とBOOK2はどこに閉まったっけ。

 あと露骨なまでのNHKの集金人をウザく書いているのは後でNHKにいろいろいわれたりしないんだろうか、ちゃんとシールが貼ってある家にまで押し掛け中にいるんだろうこの泥棒と高圧的な言葉で脅し侮蔑して回る集金人なんてものが、たとえ創作の中で妄執の産物として描かれているのだとしても、NHK的にちょっと看過できないんじゃんかあろーか。なおかつそれが300万部のベストセラー、村上春樹さんの「1Q84」だから、集金人ってこんなんだと思われてしまい、NHKが被るダメージも多いはず。下手したら親の仕事が子に跳ね返っての虐めとかに発展したりして、社会問題なんかを引き起こしてしまうって事態もあったりするんじゃなかろーか。

 トマス・ピンチョンの「競売ナンバー49の叫び」に出てくるトライステロな郵便配達人みたいに、国家に張り巡らされて情報の伝達を一手に握る謎の組織の一員ってな感じの象徴性を持った設定でもあれれば別なんだろうけれど、そうした暗喩ってよりはむしろ誰かの生活にお構いなしに入り込んできて、ありもしない権威を振りがさしてみせる鬱陶しさの具体例として、NHKの集金人がはめこまれているって感じが浮かぶだけに、やっぱり後でいろいろと誤解や偏見を招きそう。もしも「1Q84」が大ヒットして描かれていることが大勢の脳髄に刻み込まれたりしたら、NHKの集金人は敵とみなされお金を集めづらくなっていく。下手したらソフトボール用の金属バットで追い払われるような目に遭いかねない。ソフトボール用金属バット。これはなかなか効くからなあ。さてもどうする。それか結末に向けて救済の描写があるんだろうか。やっぱり早く読まないと。

ドカン!"  とかやっていたら吉祥寺に着いたんで、ファーストキッチンで時間をつぶしてからすぐ向かいの吉祥寺エフエフビルとかいう場所で繰り広げられたドカンドカンなイベントを見物。つまりは「マイマイ新子と千年の魔法」がいよいよ吉祥寺バウスシアターでレイトショーながら上映されることになったんで、記念にと有志が集まり宣伝もかねて一発、映画に出てきたドカンことポン菓子の実演をやっちまえってことになった模様。現場につくとさすがに映画そのまんまではないけれど、基本の形はいっしょで手回しではないけれどもモーターからベルト駆動でぐるぐる回るマシンが来ていて、そこにある釜の中に米を入れて密封してから火であぶり、圧力をいっぱいに高めてそこに、ハンマーでもってバルブを開いて一気に空気を入れると米がふくらみポン菓子の一丁上がりってな感じ。そういう原理かどうかは知らないけど。

 実演している人は手慣れたもので、言葉も巧みに原理を話し面白さを話し玄米が入っているからと健康への利点を話してみせて客を集めて引き寄せる。そしてハンマーを振り下ろす時にカウントダウンをしたりと子どもの気を引きそして1発、ドカーン。映画の貴伊子みたく物を取り落とす子はいないけれどもちょっぴりびくっとしたりするあたりはなるほど映画の雰囲気のまま。大人だったら身構えられても子どもはやっぱり注意されてもすぐに忘れて見入ってしまってそしてドカンをくらってしまう。まあそれも人生勉強って奴だけど。そんな子どもにはポン菓子のお土産。作り終えられた奴が袋につめられ持ち込まれていたけれど、すぐに品切れとなって作ったばかりのをその場で詰めて渡す、その袋詰めする人の中に見かけた顔が、って片渕須直監督でした。手作りのお土産で子どもを引きつけ映画に誘い込んでファンにする。これぞ地に足の着いた宣伝って奴で。足付きすぎ。

 でもそれを意気に感じる人の点が線となり、面となって広がり、上映開始からそれこそ5カ月近くが経っても映画が劇場にかかってファンの足を運ばせる。来週にはまたしても監督の舞台挨拶があって、そこには主演声優の福田真由子さんも来場とかでそれってとってもとってもとてつもなく珍しいことなんだけれど、この映画に限ってはあって不思議じゃないって思えるところに、まさしく根付いた映画ならではの空気感って奴が見て取れる。この足でいっきにパッケージ化の決定となってくれれば嬉しいんだけれどなあ。あるいはテレビシリーズ化とか。それはさすがに。やれば片渕監督は毎週のように番組見てくださいねと挨拶しなくちゃいけないから。毎週? 今だって毎週挨拶やってるじゃん。なんだ一緒か。それならば……。

 その意味でもうちょっと、ほんとうにあとちょっと頑張りが世間に届けば「マイマイ新子と千年の魔法」みたくカルト、って風じゃなくって伝説、ってほどでもなくって広く知られ人気も認知も得られて長く公開されて、口コミでファンを増やしていける映画になったんじゃないかと「半分の月がのぼる空」なんかについて考えてみたり。見ればほとんどの人が泣いた感動した難病物かと思ったらしてやられたと話していて、そして生きていく勇気をもらったと感想に書いて讃える映画。ってことは見てもらいさえすれば確実にファンを稼げて世にもひろげてもらえる内容の映画ってことなんだけれど、いかんせんその“知ってもらう”部分に最大のネックがあって、「マイマイ新子と千年の魔法」の初期みたく興行の面ではなかなかの苦戦を強いられていたりする。

 っていうか一応は松竹の全国ロードショー網に乗った「マイマイ新子」の方がよほどか恵まれていて、「半分の月がのぼる空」は封切り時点で東京は3館に川崎があって千葉がある程度。キャパもどこも狭くてとてもじゃあいけど全部が満員になったって豊洲のユナイテッドシネマの10番スクリーンが1上映を満席にしたのと同じくらい? なのかは知らないけれども案外にその程度の来場者数しか得られていないっぽさがあって、このままでは知る人ぞしる作品として埋もれていてしまいそう。ポニーキャニオンならDVDくらは出してくれそうだけれど、それが発売されてそのままって可能性もなくもなさそう。それでは映画が死んでしまう。素晴らしさが世界に伝わらないまま忘れ去れれてしまう。勿体ない。本当に本当に勿体ない。

 じゃあ何が出来るかって言われてもアニメーションじゃないから動きようのないのが辛いところ。新聞記事に書いたところでマイナーメディアだから注目されずそうした活動をしている奇特さをよりメジャーなメディアがすくい上げてくれることもなさそう。もっとメジャーメディアのスターがそうした活動をやっているんなら絵になるけれども、そうした場にお声がかからないってことはつまり認識されていないか、認識はあっても認知するにはマイナー過ぎて参考にならないって意識で見られていたりするってことなんだろー。寂しいけれども仕方がない。それがマイナーメディアの宿命。だからせめて回数を通いこうして喧伝することによって、残る期間でも頑張って興行を続け来客を増やし口コミを招いて映画がより多くに見られ、感動を味わってもらってそして原作の素晴らしさに気づいてもらえれば幸いも幸いだけれど、そこまで届くか。届けるさ。


【4月16日】 ところがどっこい。朝の午前9時過ぎに入った本屋に「1Q84 BOOK3」は壁のように山積みにされ本をレジに本を運ぶ長蛇の列になった人の姿はまるで見えず、ゲームソフトの新作にように売れまくっている訳でもなければ、人気のラーメン屋のように行列をしてまで手に入れたいという人もそれほどはいない模様。ところがどっこい。メディアはさも売れまくっているかのような騒ぎでもって、午前0時あたりから売り出した書店をおさえ、買った人を映してそれがいかにも超人気になっているかのごとくフレームアップをして報道する。

 ところがどっこい。300万部とかいった篦棒な部数でもって発売された尾田栄一郎さんの「ONE PIECE」の最新刊なんかの方が、よほど出版界に貢献していて周辺への影響が大きいにも関わらず、スタジオに評論家を招いて出版不況の救世主扱いにしたり電子出版へのシフトを促すような材料だって視点から報じたところなんてなかった。ところがどっこい。「1Q84 BOOK3」では何か驚異的なことが起こったかのうような扱いに、評論家も唖然呆然としてメディアのフレームアップぶりの勘違いぶりやらスクラムっぷりやらから、こりゃあメディアも先が長くないかもて感じていたりする今日このごろ。

 ところがどっこい。それで自省するなんてことをメディアがするはずもなくおそらくはこれから数日間数週間はあちらこちらで「1Q84 BOOK3」に関する話題がでまくっては、中に何が書かれてあってそれが何を意味しているのかを分析し、吟味し批評し紹介し批判し賞賛するような記事なり番組なり特集が、繰り広げさせては賢明な人たちをこれがまさに「リトル・ピープル」だ、独裁の権威ではなく無数の無名が発生させる空気なんどだと感じさせ、「やれやれ」といった気分にさせるんだろう。ところがどっこい。

 っていい加減飽きてきたのでここでやめるけれど、あのお洒落でスタイリッシュで都会的な村上春樹さんが小説のなかに「ところがどっこい」だなんて書くなんて読んでちょっと信じられなくってこれにはいったいどういう暗喩がこめられているんだろうかとページを閉じ、瞑目してしばらく考えてみたけれどもちょっと思い浮かばない。あるいはどこかの国の言葉に「トゥコ・ルーガ・ドゥ・ッコイ」ってのがあってそれが深淵な意味をもって物語全体の向かう先を示していたりするんだろうか。

 あるいは「所我独恋」って杜甫なり李白なりの作った漢詩があって「我が所、独り恋する」って彼女がいない寂しさを歌い上げていたりするんだろうか。うーん、分からないけどでもまあきっと村上春樹さんが書くんだから、何かそこにあるんだろう。「大学読書人大賞」でもしも「1Q84」が1番になって表彰式に村上さんが来場したら、訪ねてみよう。きっと答えてくれるだろう。「どころがどっこい、意味なんてないんだよ」とかって。

 政情不安な星を抜け出て地球にあるお嬢様ばかりの学校へと留学した次期王様候補のお姫様を取り囲んで貴族のお嬢様やお金持ちの娘や中流階級の出の娘やらがお近づきになりたいとあれやらこれやらアプローチする様子を憧れつつ見守るハウスメイドの少女サリー。そんな中から貴族のお嬢様にもいろいろ出生に事情があって背伸びはしているんだけれど追いつかない寂しさを心に抱え、中流階級の出の娘はコンプレックスに悩み苦しみながらも虚勢を張り通すたくましさを見せる姿が描かれて、人にはそれぞれに事情があるんだってことを教え諭していく物語になっていくのかと思ったら。

 海野つなみさんって人の「小煌女」(講談社)第1巻はラストに大ネタが来て一気に話が「マリみて」なり「エマ」みたいな寄宿舎物で階級物のストーリーから宇宙規模へと拡大し、何が起こるかまったく先が見えない引きでもって終わって続きへの期待をふくらませる。想像するなら天辺からどん底へと落ちたお姫様が苦労を重ねていく横で、サリーが支えつつ未来を共に目指すとかって展開なんかも浮かぶけれどもそういう位置づけでもなさそうだもんなあ、割とウオッチャー的雰囲気、サリー。まあ思い盛らない「ところがどっこい」な展開があるから漫画も小説も面白いってことでここは静かに次巻を待とう。亡国の姫の行く末を想像しつつ。

 「9」について書かなきゃいけないんでやっぱり見ておくかと「第9地区」も見に行く。「NINE」はタイプが違うんで遠慮。タイプってのはどちらもショートバージョンがあってそれを元にした作品で、それぞれにティム・バートンでありピーター・ジャクソンといった大物の映画監督がプロデューサーとして立ち上がって若くて野心的な映画監督が世に出るのを応援しているってこと。すでにCMの世界なんかで活躍していた「第9地区」のニール・ブロムカンプ監督の方が「9」のシェーン・アッカー監督よりもプロフェッショナルな場からのデビューではあるけれど、世界的な興行の世界ではともに無名にひとしかった訳で、それが堂々のデビューを飾ってそしてそれなりに成績を得られるってところが向こうの国に未だのこるシンデレラ(男ばっかだけど)神話って奴なんだろう。あるいはゴールドラッシュの国ならではっていうか。

 与えられるチャンスがあってその規模が桁違いでそして出てくるものはともに素晴らしく金がかかっていてなおかつ面白い。日本でそんなことってあるんだろうか? ネットで公開していたアニメが認められていきなり2時間の長編を任されました、って話でもあれば景気がいいんだけれどもそれに似た話のFROGMANさんも「イヴの時間」の吉浦康裕監督も、長編になった映画は元からのクオリティーを大きく超えるものではなくってそれなりに作ってみせましたって感じでどてもじゃないけど「9」なり「第9地区」の横には並べられない。内容では買っていても規模として。そこにやっぱり市場が内しか向けない日本と、世界を向けるハリウッドとの差があるんだろうなあ。才能がどんどんと世に出てくる訳だよなあ。

 まあ内容についていうなら「第9地区」はキャラクターの脳がどっか抜けてるんじゃないかって感じで慎重さがなく直情的でステレオタイプで見ていてそんな阿呆ばかりで人間、よく滅びないよなあって思ったりもするし、2人でそれなりの喧騒を起こせるんだから武器をもったエイリアンがちょっと暴れれば世界なんてとっくに制圧できてたんじゃないのって思ったりもしたけれど、互いにそれほど頭もよろしくなかったから静かに住み分けられていたんだろう。だったらどうして1人だけ突出したのが出てきたのか? でもってその家の下にどうしてあっなのがあったのか? ってあたりを突き詰めれば、シャンデリアが20年も止まったままになってしまった理由なんかも見えてくるんだけれど、そこまで考えてあるんだっけ。とりあえずベスト姿で喋るヴィカスがオードリーの春日に見えて仕方がありませんでした。ビジュアルはやっぱりすげえなあ。


【4月15日】 思ったこと。アルカインは自分が素っ裸で歩いているという実感を抱いているのだろうか。体こそ黒い猫になって西天将のルナスティアだった少女が普通のルナスティアになった後も、その本性としてあったかわいい物好きの気持ちがあふれ出て、見るなり引き寄せぎゅっと抱きしめこれ自分のと主張して放したがらず、隙があればさらって首輪をつけて寝床へと引っ張り込んで他のぬいぐるみたちといっしょに添い寝させようとしたがるくらいの黒猫っぷりを醸し出しているんだけれど、その心は未だ魔導師でも有力な存在として世間に名を知られたアルカイン。熱血に諧謔も持ち残酷なところさえあるキャラクターがその体に入っているなら毛並みをそのにふさふささせたまま、何もまとわず下なんて隠さずしっぽを引きずり歩いて恥ずかしくないはずがない。せめてパンツくらい履くだろう。

 けど履いていない。市ノ瀬弓子クリスティーナどころじゃないパンツ履いてないぶりは、あるいは自覚としてはまだまだ人間ではありながらも体感や羞恥心といった部分では相当に猫が入ってきていて熱いものは食べられず鼠をみれば追いかけマタタビにはデロデロになり真夜中には行灯の油を舐めてみたくなっていたりするのかもしれないなあ。なんてことを渡瀬草一郎さんの現行シリーズ「輪環の魔導師」の第7巻「楽園の革命」なんかを読みながら思ってみたり考えたり。しかしそんな感じにアルカインがルナスティアからもふもふされたりしていた平穏も長くは続かず、前にイリアード王女の国を襲ったロンドロンド騎士団の苛烈な攻撃が魔族側にはあっても負傷者に弱者しかいない城を襲い、北天将ルーファスの留守を守っていたクリムドやバルマーズ、そして魔族なんだけれどもどこかに人の優しさも残したラダーナたちを窮地に追いつめる。どれだけ強いんだアリス・ロンドにルイス・ロンド。

 別に魔族が虐げられているだけならそれは人類にとって良いことなんだけれど、先にイリアードのエルフール王国に火事場泥棒のように襲いかかっては、アルカインやシズクの反撃とそして楽人シェリルの介入によってとりあえず退いたロンドロンド騎士団。魔族とは無関係な弱者ですら殲滅するその非道さを、魔族と敵対しているアルカインですら見逃せずに、ラダーナやクリムドやバルマースといった仇敵たちの危機に颯爽と現れ事態を打開へと向かわせる。ああ恰好良い。でも猫だけに素っ裸だけれど。

 6賢人あたりも1枚岩ではなさそうな上に魔族と魔導師との間に脈も通って果たしてどうなる世界の行く末。その中心にあるべきセロの存在感がやや希薄だけれども狂戦士化して暴れられて国の1つも滅ぼされては世界がかなわないし、かといって美女に言い寄られてフィノがピリピリしてもトーンが険しくなるのでセロにはしばらくおとなしく口絵のように女装でもしていていただければファンも大喜びということで。そんなファンいたのかこの話。

 邪悪な神たちが人間の世界を襲うってクトゥルーの面白さを取り入れたライトノベルが急増中ってのは前に「SFマガジン」のライトノベル紹介で枕にしたっけ、筆頭はだからいつもニコニコあなたのそばに這いよる混沌ニャルラトホテプことナイアルラトホテップが美少女姿で家にやってきては名状しがたいバールのようなものを振り回して大暴れする話であとは、邪神キットをもらって邪神になった大沼が天狗の娘とかゾンビたちをしたがえ何もしない話なんかも取り上げたけれど、今度出た「九罰の悪魔召還術」(電撃文庫)リーズの折口良乃さんが始めた新シリーズ「死想図書館のリヴル・ブランシェ」は、ナイアルラトホテップもティンダロスの猟犬もネクロノミコンも割とちゃんと人に害をなす存在として登場するからクトゥルーファンはひとまず安心。それともすでにニャル子も立派な邪神と認めネクロノミコンに刻んでいたりするのかな。

 さて物語はといえば、どこか脆弱だけれどしゃべりはうっとうしい美少女の神様から、クトゥルフの本を抜け出し暴れる邪神を取り押さえるよう、以来を受けたイツキって少年だけれど相手もなかなか強力で、自分に好意があるようでないようでやっぱりあるかもしれない幼馴染みの少女を奪われて怒り心頭。発揮された力が事態はとりあえず治めるものの悲劇は悲劇のまま幕が下りる、はずもないところは人に優しいライトノベルの特徴か。

 本に絡んだ怪物悪魔の類をどうにかする展開ってのはどこか三雲岳斗さん「ダンタリアンの書架」にも通じるところはあるけれど、三雲さんのほうは元があり得ない不思議な本を集める話でこちらは古今にある本を顕在化させる動きに棹さす話。ちょっと違う。あとずっとクトゥルーでいくって保障もないんだけれど妙に好きそうで詳しそうなんできっとそのままいろいろと、ダゴンだとかツァトゥグだとかを出して暴れさせてはイツキに退治させるなししていくんだろう。まあ悪くないんで読んでいこう。表紙に登場の主人公ではないメイドさん、活躍してるのかしていないのか分からないなあ。

 「県立地球防衛軍」が始まって数話目あたりからだからそんなに古手ではない安永航一郎さん読みではあるけれど(嘘)、21世紀になってしばらく単行本ではお目にかかてないなあ、というかすでにして前の単行本が何だったか忘れかけている時にひょっこりと新刊が登場、それも見苦しくも暑苦しそうなおっさんが薄く描かれた上に「青空にとおく酒浸り」だなんてゴラクな漫画誌にでも乗っていそうなタイトルが記されていてこりゃあいったい何だと表紙だけ見る人は思いそう。ジャケ買いの可能性は限りなくゼロに近いかも、マイナス1から迫っていってって意味で。つまりはゼロ以下だ。

 まあでも内容については「COMICリュウ」でちら読みしていたから表紙が極悪な親父でも中にはマイクロマシンを接種されて不死身になった少女が暴れ回る話だと、思って買ったら少女の出番より親父の出番の方が多かった。そいういう漫画だったのか。やっぱりマイクロマシンを中に飼っているっぽい美少女の石野篠も主人公より多く出ていて目立って活躍もしている様子。露出も多くてありがたいけどストーリーはそんなマイクロマシンの謎に迫るどころかひたすら親父が酒を飲みパチンコをして女を襲い喜ばせては振って嘆かせるジゴロっぷりを発揮する無頼漫画と化けしていく。なるほどやっぱりこいつはゴラクな漫画に載せてあった方が共感者も多く得られ単行本も山と売れるんじゃなかろうか。さて誰が買ってどれだけ売れているんだろう。オリコンの漫画ランクに注目だ!


【4月14日】 17日に池袋のテアトルダイヤで開かれる劇場版「半分の月がのぼる空」の上映に絡んだ原作者の橋本紡さんによるトークイベントが、電撃的な煽りを喰らって「『半月』実写映画化に物申す!!? 橋本紡先生のティーチイン」って内容にすり変わっている。映画を見てひとしきり涙したあとのその涙がどこから来たものなのかを、原作者の人に存分に語って頂いて、原作が持つ本質がちゃんと映画化されている喜びに、ともに浸りたいと思っていたんだけれど、乗り込んできた原作原理主義者な人が、これは僕の「半月」じゃないとか言い出して、感動をぶちこわすような異論反論を唱えて場を殺伐としたものにしてしまいそうな予感がして、今から不安に気持ちがモヤモヤ。

 もちろんそんな人がわざわざアウェイの場に乗り込んで来るとは思えないし、空気を考えたならそうした独りよがりを公衆の面前で口にできるはずもないんだけれど、そこはそれ、激しい熱意のなせるたまものっていうか熱心な人には見えない周囲があるっていうか、俺は自分はといった頭ばかりが先走って、映画への批判をロジカルではなく感情面からほとばしらせて、映画で感動を味わった人を暗い気分にしてしまう、なんてこともやっぱりあったりしそう。反論する権利は認めるし尊重もしたいけれども、場に対して果たしてだとうか否かはやっぱり考慮していただければこれ幸い。

 あるいは全員が反意を抱いた人で埋め尽くされて、橋本さんの登場とともに造反有理な空気が立ち上り手に原作版の「半月」を持った紅衛兵ばりの新派が立ち上がり、口々に「里香万歳」と叫ぶ中を三角帽子を手に持ったファンが歩み寄り、映画に涙したファンを壇上に上げて帽子を被らせ、前屈みにして自己批判せよと糾弾する場面なんかもあったりするのかも。それならそれでこちらとしても、手にドラマ版「半分の月がのぼる空」のDVDボックスを持ちこれはどうなんだと叫んでみせたりすると、やっぱり引っ立てられて連れ出され、電車に放り込まれて伊勢より遠い賢島に下放されてしまうんだろうなあ。怖いなあ。でも行くけど。どんなティーチインになるんだろうなあ。楽しみたのしみ。

 リフレインって意味では「一騎当千XX」と同じように「BLEACH」でも、長く続いた大人の事情な斬魄刀実体化シリーズの終了を受けて本編へと戻って、空座町へと攻め込んで来た藍染を筆頭とする虚圏(ウェコムンド)からの一派と、護挺十三隊の隊長格との戦いをざっとおさらい。してはいたけどいったいどこまで進んでいたのかすっかり忘れていたよ、総隊長ってティア・ハリベルの手下の3人組をあっさり倒していたのかそこまで進んでいたのか。こんなに強いんだったら自分がすっと前に出て、2位に1位も一気に倒し藍染すらも討ち果たせばすべて丸く収まるところを最初の1振りで藍染忽一郎や市丸ギン、東仙要を炎に閉じこめただけだからやっぱり限界があるんだろうなあ。でも1番強いのには間違いなさそう。京楽春水とどっちが上? あるいは更木剣八の方がさらに上? だとしたら最強はその剣八を御するやちるか。怖いなあ十一番隊。

 でもっていよいよ1から3までの十刃(エスパーダ)のトップ級を相手にした戦いが始まるんだけれど、原作ではその先にいよいよもって久々となる仮面の軍勢(ヴァイザード)の登場って奴がありそうで、斬魄刀編へと行く前にちょいやってた101年前の藍染の策謀時で、まだ死神だったころの姿を見せてくれた平子真子や猿柿ひよ里や矢胴丸リサたちが、超然として変態的なパワーを見せて戦ってくれるのに強い期待。オープニングでもリサとか白とか激しい動きを見せてくれちゃってるし。エンディングではあれは全員がニューヨークかどこかに場を移していろいろな訳を演じているけど、そういう話もいずれ描かれるってこと? あと歌っている3人娘の乱菊のほか2人は誰なんだろう。要研究。もしかしたら原作を食べ尽くしたら次はそんな大人の事情が始まったりするのかも。ちょっと期待。

 本当に新人なのかそれとも実はなのある大ベテランなのか。ふらりと見かけて勝った「鎧光赫赫」(エンターブレイン)って漫画の単行本を開くと、並んでいるのは戦国の世に生きる男や女や武士や鉄砲衆の生き様。刀を振り回して斬りかかったり、銃を持って撃ちかかったりする激しいアクションに、内側からわき上がる心情って奴をコテコテに塗り固めて描いたような漫画のまずは絵柄に、1980年代とかに流行った線を見たくなり、ストーリーには70年代の劇画っぽさを感じて、いったいいつの時代の漫画家なのかと調べたら、つい最近出た「狼の口 ヴォルフスムント」(エンターブレイン)の惹句には、新人離れした超大型新人って煽りがついている。

 だからやっぱり久慈久光さんは新人なのかと思いたいけどそれにしては、なあ。まあでも見てむしろ馴染みがあるしドロドロと吹き出る情念みたいなものも嫌いじゃない。父を殺された恨みを晴らすべく鎧兜に身を固め、槍を振り回す大男に挑み内股から大動脈を切って致命傷を与えて勝利する娘の話とか、終始バトルで埋め尽くされた漫画はスリリングでエキサイティング。間に「エマ」の森薫さんを訪ねる実録漫画も入っているけど、メイドな扮装の美少女が大原さやかさんの声で流れる電車の乗り方の注意を守らない客を千鳥が淵に沈め鋸引きにあわせるあたりに本性が。って善住坊ののこぎり引きなんて最近見たのは大河ドラマ「黄金の日々」の中でくらいだよ、ってそれ古すぎ。確か川谷拓三さんが善住坊を演じていたなあ。石川五右衛門は根津甚八さんだった。懐かしいなあ。それを覚えているとしたらやっぱり相当な新人だなあ。

 そりゃあ買うしかないだろう「劇場版ブレイクブレイド 第一章 覚醒ノ刻」のブルーレイディスクの「.ANIME」版。前にも「アイドルマスターXENOGLOSSIA」で堂々展開されて内容に毀誉褒貶があろうとも(僕は好きだったけど)全て買った水着ジャケットバージョンDVDに感動し官能させられたけど、今度は内容すら知らないアニメをまさにジャケ買いしてしまったよ。でもこっそり「実際と異なる場合がございます」だなんて書いてあるから掲載されてる丸みをおびた後ろ姿がいきなり男性キャラのきゅっと引き締まった筋肉質の後ろ姿になっていたりする可能性もあったりしたら、それはそれで……やっぱりいやなので出来ればそのままで。無理ならいっそ白いのなんか剥いでしまってツルツルを。


【4月13日】 そういやあ、と思い出して録画してあった「一騎当千XX」とかってのを見たらいっぱい白が見えた。湯殿で湯煙が上る場面はあっても戦闘シーンでの白は失われていなくってアニメの「一騎当千」シリーズの一体何を見たがっているのかってあたりへの配慮が今回は、ちゃんと活かされているとまずは喝采。とはいえしかし話がどこから始まっているのかは未だ不明。冒頭であれこれ振り返りはあったけれども無印とそれから「DD」でのバトルはあっても「GG」で復活してそして消滅した裸ブレザーこと呂布の話は見えず。あれはひとつのサービスとして人気が高いながらも早々と退場した裸ブレザーな呂布を存分にファンに見てもらうために企画されたシリーズだった、なんてこともあったりするのか違うのか。馬超ってキャラも猪突猛進でなかなか。劉備も出てくるなら関羽張飛の双璧もいっぱい見られそうなんでまあ楽しんで見ていこう。だから隠すなよ絶対に、白。

 そうだった、と録画分を見た「荒川アンダーザブリッジ」はシスターがブラックジャックだったおしまい。というかあの橋桁の上にどうやって荷物を運び込んだんだリクルート。担ぐにしろ何にしろ自分でやるのは大変そう。1日あっても足りさそうだけれど1日どころか半日見ないと二の三なニノはリクのことを忘れてしまうから大急ぎでやったのか。そこは別に関係ないと財力を駆使したのか。金使っていけない訳じゃないんだよなあ、ただし食事は買ったりできないのかどうなのか。でも川魚は危ないぞ、焼いてもだし生ならもちろんとして。ああでもニノは金星人だから別に腹とか壊さないのか。金星人って何食べるんだ。ほかにもキャラがいっぱい。でも2話目だから誰が誰やら。エンディングに出てくるシスターに重なる美女って誰だっけ。やっぱり読むしかないのか単行本。こうして本だけは売れていく。田口浩司さんの魔術。DVDも売れて欲しいなあ。

 おお。頑張っているではないですかアマル・オシム監督。「クロアチア・サッカー・ニュース」の長束恭行さんが様子を見に訪れたボスニアにあるチーム、ジェリェズニチャールで監督を始めたところ久々にチームがリーグで優勝できるかもしれないという好成績。あまつさえカップ戦でも良いところにまで来ていてチームに久々の栄光をもたらしかねない活躍ぶりを見せている。元より監督として采配をふるって優勝もしている実績の持ち主。バックアップがしっかりあって選手がしっかり言うことを聞いて取り組めば、ちゃんと成績を向上させられるだけのノウハウを受け継いでいるんだろう。あとはボスニアには見られなかったスピーディなサッカーの導入か。Jリーグでの経験が生きているなたちょっと嬉しい。

 だったらどうしてジェフユナイテッド市原・千葉でそれなりな采配を振るえなかった問えば途中で任せられた2006年は3Aってアジアのチームが集まり開かれたカップ戦まではとてつもなく凄い試合を見せて韓国のチームを圧倒してみせたんだけれど、そんな試合に代表戦でおとっつぁんのイビチャ・オシム監督が何人かまとめて引っ張ってチーム全体がお疲れ気味。それでもどうにか中位を維持して臨んだ2年目の2007年は、壁となり盾となってチームを守り育てた祖母井秀隆さんが抜け、社長のやりたい放題になってチームの構築が進まない。巻誠一郎選手があれだけ活躍できた背景にあった、最良のボールを供給していたマリオ・ハース選手が抜けたものの似た感じの補強はなく、得点源が大きく減ってしまった。

 一方でやっぱり得点をいっぱい取っていた阿部勇樹選手が抜けてその埋め合わせが出来ないまま、やっぱり代表との掛け持ちが多くなっていったチームは練習もままならないまま上位にあがれず中位よりやや下で終了。それでもどうにか手慣れてきたからいよいよ来年は、ってところで阿呆が阿呆な真似をして、クビを切ってしまったものだから広がった絶望感はいかばかりか。勇人水本羽生山岸が抜け水野が移籍し大きく様変わりしたチームは2008年にギリギリの戦いで毛1本ほどの差でもって踏みとどまったけれども所詮は付け焼き刃。翌年には降格の憂き目をくらってそして今ココってなもんだ。だからもしもあそこでアマルを解任していなかったら、チームは上向き息子がいるからとオシムも日本に踏みとどまってすぐに肩代わりをできる状況にあったかもしれないなあ、と思っても詮無きこと。今はただ次の岡山戦を勝ち岐阜戦も勝って抜け出すことしかないんだけれど、大丈夫?

 でもやっぱりなあ。「死んだ子の、歳を数える」って田村修一さんがイビチャ・オシムへ監督へのインタビューをまとめた「オシム 勝つ日本」(文藝春秋)の冒頭に書きたくなる気持ちも分かよなあ。これってあれだよね、オシム監督が退任した後の今の日本代表は、言葉どおりに死んでいるってことだよね。ほとんど確実に死んでいるけど、死んでいるのにずるずるべったりと歩いているから誰もが驚く。驚いてないのは当人たちだけれどそれはそれ、驚き悩みながら人を襲うゾンビなんて居ないように当人たちもゾンビと化して思考も持たず妄執につかれて南アフリカめざしてずるずるべったり歩いているだけだから仕方がない。でもって到着し上陸した南アフリカで彼らを見た世界が驚き始まるハウスオブザデッドでバイオハザードな世界。なるほどこれが世界を驚かせるということか。ジャパニーズゾンビゲームサイコー。

 しかし言ってくれているよなあオシム監督。「チームを構築するのは難しいが、壊すことはとても簡単だ。だからこそ監督は、どちらも学ばねばならない。作り上げることと、破壊することを。一度作ったものが、いかに簡単に崩壊するかを知るために……」。ここんとろこに付箋を入れて赤線引っ張ってから袋詰めして協会の監督室へと送り届けてやりたいと思った人の数およそ5000万人。そうでなくてもおよそすべてのサッカー関係者が読んで監督の仕事とは何か、サッカーとは何かを感じ理解するなら理解し反発するならそれで自分なりの仕事をして、結果を出すようになって欲しいと思えるけれどもそう感じて実行するリーグの親派はたくさんいても、本丸の青い城にいる眼鏡の人にだけは多分届かない。ちょっと悲しい。

 もしも英訳されるなり仏訳西訳伊訳されば世界でだって読まれそうなサッカー哲学サッカー理論サッカー浪漫が詰まった1冊。ベンゲルがモウリーニョがプラティニがピクシー読んで簡単し仕事に結びつけていけば世界のサッカーも変わるだろう。ファーガソンは読まないだろうなあ。あれはあれで1つの哲学。著者の田村さんが寄せている、サッカーについて語りきった本がねえじゃん、だから俺が出したんじゃん、ってコメントはちょっと余計。誰に向かって吐いていそうかは想像の範囲だけれど、くぐり抜けてきた戦火に乗り越えて来た修羅場も含めてオシムなんだからそれはそれで別に良いのだ。だいたい木村元良さんはもともとサッカージャーナリストじゃないんだし。あらゆる角度から知り味わおうオシム。


【4月12日】 だからやっぱりここは「コみケッとスペシャル5in水戸」で販売された、広江礼威さんと平野耕太さんの合作によるコラボレーション商品「黄門漫遊」をそのままドラマ化すれば視聴率の低下が言われる「水戸黄門」も、一気に若い人へとファンを広げアニメファン漫画ファンも抱き込んで大盛り上がりに盛りあがるんじゃないのかなあ。

 出演はまあ誰だって良いけれども助さん格さんには若手だけれども癖を持ってて演技や言葉にファンがいそうな玉木宏さんとか小出恵介さんあたりをさんを並べて見るとか、松山ケンイチさんに松田龍平さんのどこか狂気をはらんだ2人をいっしょに起用してみるとか、いろいろと手はありそう。ジョニー・デップにジュード・ロウって手もあるなあ。無理だけど。

 問題はだから黄門様か、あれだけインパクトのあるボディを持って並み居る敵を蹴散らし粉砕していく黄門様ってのは現実の俳優ではちょっとなかなか見あたらない。アントニオ猪木って手はあるけれど、猪木はどこまでも猪木であって黄門様にはなりきれないし武藤蝶野の闘魂三銃士ではちょっとインパクトが強すぎる。それに若すぎる。見かけ60歳くらいで頑健な体を持って演技も可能な俳優。やっぱりここは日本人では無理があるので沈黙のアクションスター、スティーヴン・セガールにご出馬願って黄門様を演じてもらうのが最適かも。

 いっそだったら風車の弥七に剣太郎・セガールを当て女房のお新に藤谷文子さんをあてて、姉弟で夫婦役ってニュアンスから背徳の香りを醸し出しつつ、かげろうお銀には50歳になって未だ容色も体型も変わらないマドンナを抜擢。世界を相手に漫遊していくストーリーにすれば日本のみならず世界でもヒットし、視聴率の低下をカバーしてあまりある成果が得られるんじゃなかろーか。セガールが無理なら黄門様をオーディションするSASUKEを開催するってのも手かなあ。頑張れTBS。

 だからやっぱりここは実写版ドラマ「プリンセス・プリンセス」で男子校にありながらかわいい何人かを姫として選んで女装させてみんなで愛でる役職に選ばれ、黒いゴスロリな衣装で学校を闊歩して見せてくれていた中村優一さんを沢木忽右衛門直保役と同時に結城蛍としても起用して、ゴスな恰好をさせて立たせれば見ていて愉快な映像に仕上がったんじゃないのかなあ。でもそこはやっぱり見る人の女装男子への未だに残る抵抗感に配慮してか、岡本あずささんって「携帯刑事 銭形命」に出演していた人を選んで結城蛍をやらせた模様。なんだかなあ。

 身長167センチだから中村優一さんと並ぶとやっぱり小さく、ちんまりとした沢木にすっくと立って厚底ブーツも加わり威圧感すら漂わせていた結城蛍の役はちょっとやっぱり違和感があるけれども、そこは20センチの厚底ブーツで沢木の頭を上から見下ろし、フランスの白蛍や沖縄の褐色蛍の登場に苛立ちぶん殴る切なさを見せてやって頂きたい。しかしそれれにしても結城蛍をオカマ役と書いたスポーツ報知の阿呆さ加減には笑うよなあ、まるで本質を得ていない文言に違和感を覚えなんだこりゃと思う若者の新聞離れがますます進みそう。これはやっぱりダメかもしれないね。

 21世紀にもなってこんな書評にお目にかかれるとはさすがは100年以上の歴史と伝統を持つ朝日新聞が出してる雑誌だけのことはある「AERA」。本を紹介するコーナーにとりあげられたある小説をさして「碁、数学、天文学の専門用語が次々に出てくるが、小難しく感じないのは、登場人物の設定がマンガチックだからだろう」って書いているけどマンガチックっていったいどういうことをさしていうんだろう? キャラが立ってるってこと? それだったら山田風太郎さんの小説だって司馬遼太郎さんの歴史小説だってキャラはすっくと立っていて、時代性とは無関係に現代と通じるような人間性って奴を見せて小説の中を闊歩している。

 その立ちっぷりは取り上げられた冲方丁さん「天地明察」の比じゃないんだけれどもそういったものをこの(波)って評者はマンガチックって言うんだろうか。違うんだったら何がどうなればマンガチックなのかを説明しなけりゃ通じない。それとも評者の世代には共通認識としての「マンガチックなキャラ」ってのがあるんだろうか。それは誰なんだろうか。アトムか。鉄人か。タンクタンクローか。のらくろか。せめてもちょっと下がってドラえもんだと言ってくれてもやっぱりピンとは来ないよな。「ほら『ONE PIECE』のニコ・ロビンみたいな」とでも言ってくれたら喝采だけど。まあ読んでないんだろうけれど。

 さらに評者は続けて「池波正太郎や藤沢周平のファンがどうよくかは未知数だが、なるほど『新感覚』の時代小説とは、江戸人情を描くというより、実在の人物が住む江戸にタイムスリップする感覚かもしれない」って書いているけど人情小説じゃなければ時代小説じゃあないのか、だとしたら吉川英治の「宮本武蔵」も柴田錬三郎の「眠狂四郎」も山田風太郎の「忍法帖」シリーズも、およそ人情とは離れて剣豪なり剣客なり忍者たちの生き様を描いた作品群は時代小説ではないってことなのか、群像として歴史に生きた人たちを描いた司馬遼太郎の作品群も時代小説的な範囲には入れないのか。江戸に暮らし仕事に生きる人たちを実に生き生きと活写してあっても時代小説とは見なさないこの感性が、どいういう経緯で育まれたのかを知りたいなあ、筆者の中なり朝日新聞という組織の中で。

 やはり料理対決か。鷹見一幸さんの「ご主人様は山猫姫」でも繰り広げられた、1人の少年をとりあって女の子とどうしが対決する時に使われた料理の腕自慢が同じ電撃文庫で三上延さんによって書き継がれている「偽りのドラグーン3」でも開幕。双子で聡明な兄に成り代わって竜を操る騎士になる学校に入った亡国の王子ジャンだったけれども学校は国を滅ぼした帝国に襲われ青息吐息。どうにか退けたものの追撃に備えて島ごと逃げたウルス公国で、ジャンは兄の許嫁だったという公女のサラに言い寄られ、それにジャンと契約する竜なんだけれど普段は美少女のティアナが反発して料理対決へと至ってそして、まるで料理経験のないティアナが作り出したものは、およそ食べ物とは思えない色をしたものだった。

 普通はそれを食べて七転八倒するんだろうけどそこはサラの方にこそ言えたみたいでもういかんともしがたい状態になった時、せっかく逃げてきたウルス公国が敵方と同盟を結ぶかもしれないという難題が持ち上がり、ジャンたちはそれを阻止するためにとあるスポーツで敵方に挑む。その相手とは……ってジャンは気づいてないけど相手はすべてをお見通し。その理由に聡明さが絡んでいたんだとしても、どうしてそこまで徹底して悪へと走ったのかがまだ見えない。あるいは聡明さの上を行く天然さをジャンが持っててそれを恐れたとか。分からないけどいずれ明らかになるその理由、繰り広げられる対決の果てにジャンが何を手に入れ誰と結ばれるのか。楽しみにしていこう。その前にサラの料理を食って死ぬ、って選択肢もないでもない。それくらいの代物らしい。どっちもちゃんと食い物だった「山猫姫」の対決は平和だったなあ。


【4月11日】 どっかの誰かが埼玉高速鉄道の浦和御園駅はしばらく前まで埼玉スタジアム2002しかなくって、サッカーの試合が行われないときは閑散としていることをまず挙げて、欧米のスタジアムなんかがサッカーが開かれていない時でも人がやって来たりする、観光であり憩いのスポットになっていることを持ち出して、欧州における街に根ざし暮らしに根ざしたサッカーという文化の成熟具合を紹介した上で、最近は浦和御園駅には近くにイオンが出来て、サッカーの前とかに人がそこで買い物をしたり、遊んだりできるようになって、日本にもサッカーを街ぐるみのエンターテインメントとして楽しむ風潮が出てきたぜイエイ! ってな感じのことを書いていたけど、ちょっと待て。

 浦和御園駅から埼玉スタジアム2002までどれだけ距離があると思ってるんだ。でもって浦和御園のイオンが駅からどっち方向にあると思ってるんだ。距離でいうなら埼玉スタジアム2002までは軽く1キロ以上はあって、早足で歩いても10分はかかる。試合開始の数時間前にはたどり着いていないと自由席の人は大変だし、普通の人はわりとギリギリに来てスタジアムに入るから、試合の日にイオンなんかで遊ぶって感覚はあまりなさそう。っていうかイオンにそんなサッカーファンが滞留して愉しい場所なんてない。

 そもそもが、駅からスタジアムへと向かうのとは逆方向に、数百メートルは下がらなければたどり着けないイオン、サッカーとは関係のないスーパーマーケットにどうして人が向かうのか。あちらはあちらで休日なんかは普通に商売をしているし、それで人を集めている。休日じゃなくても近隣からの買い物客がやってくる。サッカーなんかに関わっている暇もなければ気分もない。仮に関わろうとしたところで、平日とか試合のない休日なんかには埼玉スタジアム2002方面へと向かう人の誰もいない浦和御園駅で、イオンがどうしてサッカーに関われる? 誰も来てくれないのにやるだけ無駄ってもんだ。せめて練習場でもあれば人も来そうなものだけど、残念ながら埼玉スタジアム2002を本拠にしているサッカークラブの練習場はそこにはない。サッカーが暮らしにとけ込んだ欧州のような空気なんてものが、浦和御園駅に出来るわけないのだ。

 ってことをサッカーに詳しい誰かが知らない訳はないんだろうけど、そこはたぶん埼玉スタジアム2002を本拠にしているクラブへのシンパシーなんてものもあるんだろうか、ついつい引き合いに出してしまったのかもしれない。それは一方で、当方に強くシンパシーがあるジェフユナイテッド市原・千葉が本拠地にしている蘇我公園を中心に、休日でも平日でもJリーグの試合があってもなくてもサッカーを中心とした空気が育まれつつあることを、とても心底より喜んで、欧州に近づいてきたぜイエイ! って喧伝したくなる心とも共通したもの。気持ちは分からないでもないから、あんまり強くは否定しない。強くはね。

 なるほど蘇我公園は、ジェフ千葉が本拠地にしているフクダ電子スタジアムがメーンとしてある上に、すぐ隣にはフクダ電子スクエアがあって何面ものフルコートが設けられていて、フクアリで試合があろうがなかろうが、休日だろうが平日だろうが関係成しに練習試合なり大会なりに訪れるサッカーチームがあって、サッカーな空気が漂っている。GLOBOにはフットサルコートもあるもんなあ。その上に去年にはクラブハウスもほとんど隣にオープンして、選手たちがそこで練習をし、ファンとコミュニケーションをとってくれるようになった。グッズ売り場もあってジェフ千葉まみれになれるスポット。平日でもファンが訪れたくなる空気がそこにある。

 けれども町中ではないから生活と直結しているって感じではなく、GLOBOの中には空きスペースが生まれ、ケーズデンキの下にあったコンビニはなくなって、商業との連動ではちょっと失速している感じがないでもない。近隣に住宅とか増えれば生活と関わりも生まれるけれども、それには時間がかかりそう。あるいはジェフ千葉が超強豪になって、平日でもクリロナメッシクラスの人気を持った選手を見たさに、観光バスが何台も訪れるような地域になれば賑わいも増すんだろうけれど。まあ欧州が100年とかかけてやって来たことをフクアリが出来て5年でやりきるのは困難。スクエアがきてクラブハウスも移ってきたことで、階段を1段2段と上ったんだと理解しつつ、次の10年でなにをやるかを考えていけばきっと欧州に近い空気を醸し出せるんじゃなかろうか。埼玉スタジアム2002はどうなるか知らないけど。

 そんなジェフ千葉の試合は大黒将志選手の素早い反転にいったいどれだけやられるんだと心配したけど横浜FCのチェックに最初は戸惑いながらも徐々にボールが回るようになって攻撃が前へと向かいはじめてまず1点。ポゼッションだけ高くてもゴールに迫れなかった先々週あたりまでのようなことはなくなり、サイドで詰まっても中央から反対なり戻すなり、ボールを動かした上で前に入れる流れも出てきて攻撃に圧力が見え始める。そんな中からゴールキーパーの手の先でボールをかっさらって倉田秋選手が流し込んだゴールを手始めに、後半にも倉田選手が1点追加しそして工藤浩平選手がぶちこみ3点。佐藤勇人選手もおまけの1点を決めて4対0で快勝して2位あたりまで浮上した。イエイ!

 先々週あたりの寒さに震えたような試合内容と違うのはトップが巻誠一郎選手ではなくネット選手になって多少はおさまりがよくなったこと。もちろん巻選手の収まりが悪かった訳ではなくって巻選手がトップにいる構成の時にはあまり中央に放り込んでポストとなって巻選手が落としたボールに走り込んだりもらったりする選手がいなかったり、呼吸が合わなかったりそもそもそうした巻選手への放り込みがなかったこともあるんだけれど、構成を代えサイドも代えて連携から前へと向かいクロスも入れられるようになったことが攻撃に圧力を生みだしテンポを良くしたって感じ。前へと出ればラインも上がってばたばたすることもなくなり最終ラインが余裕をもって見渡し配球できるようになった。歯車が良い方向に回りはじめたってことなのか。

 久々の出場になる谷澤選手も、復調したのかドリブルが切れててサイドでの崩しに貢献してた。その投入が後半の怒濤の得点ラッシュを生んだとしたら、やっぱり谷澤選手はジェフ千葉に必要不可欠な選手だったってことになるんだけれど、それだけに去年の今ひとつぶりと今年はじめの停滞ぶりが惜しまれる。それで落ちちゃった訳だし。どうしちゃってたんだろう? まあ去年の定番選手が今年はほとんど出られず去年はサイドでレギュラー張ってた青木良太選手もいなければ、池田公平選手も見えず坂本将貴選手も出られなくなって来た。残ったのは工藤浩平選手くらいか。そんなまっさらな構成がようやくかみ合い始めたところでさあここから、上へと向かうにはやっぱり取りこぼさないことが肝心だけれど、そこが出来ないんだよなあ、熊本でも徳島でもやられたし。次はどうだ。アウェーだから行けないけれども超注目。

 大石静さん田渕久美子さん中園ミホさんって、今のテレビ界を代表しているといってもよさそうな3人の女性脚本家が、脚本家という仕事について語り合う番組がやっててついつい見入ってしまう。俳優との関係とか脚本家としての矜持なんかもうかがえて面白かったけれども、気にかかったのは昨今、漫画原作のテレビドラマが増えているということに対し、脚本家の人たちが何を感じているのかってことを話してくれた部分。

 そこで発せられた、漫画原作なりベストセラー小説原作のドラマが増えることで、脚色家は増えても脚本家は育たないしドラマを作れるプロデューサーも育たないという危惧に大いに理解。漫画のファンとして、大好きな作品がドラマとなって動くということへの面白さもあって、漫画のドラマ化は決して嫌いじゃないけれど、そればかりって状況にもやや辟易としている部分がないでもない。成功していない脚色が多すぎるってこともあって正直嫌気がさしている部分もある。

 ここで3人が話していたのは、テレビドラマにおける作家性ってのが今、あんまり認められていないのではないかということ。そりゃあ倉本聰さん山田太一さんといった作家性を認められた脚本家もいないでもないけれど、その後に誰が続いたというんだろう。「岸辺のアルバム」やら「北の国から」が未だに引き合いに出されるくらいに、名前としても作品としてもいったんの頂点を極めつつその後にそれらを越えていくだけの作品なり脚本家を、ドラマの内容的はともかくメディア的には生みだしきれずにいるし、生みだそうとする前向きさもなくなって来ている。

 番組ではベテラン脚本家の市川森一さんが登場して、漫画原作が増えている背景なんかを分析してた。市川さんによれば、テレビ初期は誰もが素人だからプロデューサーも脚本家も原作探しをして良く、そこからドラマを作り出していくこともありだったけれど、そうやって得た経験によって育まれたプロたちが、大勢出てきた1970年代は、オリジナルのテレビドラマが増えてきて一気に花開いていって、ドラマの黄金時代を生みだした。なのに今、むしろ後退するかのように小説ではなく漫画原作のドラマが増えているのは、ドラマの世界にまた素人が増えて来たからだそうだ。

 これは中園さん田渕さんなんかも言っていたけど、脚本の現場に漫画や小説並の取材を行いその成果をぶち込んで作品に仕立て上げていくだけの力量が足りておらず、いきおい内容の充実した原作漫画に頼らざるを得なくなるってことがある。取材が足りないのは脚本家のせいかっておうと、脚本の構築に経費なんか使えない昨今のテレビ局の赤貧事情(昨今に限った話でもないだろうけど)もあったりするんだろうけれど、そこでそれでも脚本を良い物にしたい、そこからオリジナルのドラマを作りたいと願い走るプロデューサーがいなくなってしまって、オリジナルのドラマが作られにくくなっていることもありそう。さらに言うなら、漫画原作だからって知名度や、アイドルの誰それが出ているからって演技そっちのけの話題性だけでドラマに注目しがちなファンなり、それしか話題にできないメディアの貧困ぶり大いにもあって、そんなそれぞれの極での“素人化”がオリジナルドラマの衰退を招いている、ってことになっているみたい。

 なるほど話題性でもって瞬間に売れることも必要で、それがなければ今の状況は抜けられないってのも分かるけれども、そこを突破していく気持ちすら失われかけている中で、感性が摩耗し作る技術も失われてしまったら事は重大、取り返しがつかなくなってしまうんだけれども、もはやそういう発掘育成を考えられないところまで、テレビの現場は来てしまっていることも、3人の女性脚本家の疲れっぷりからうかがえてしまっただけに先は暗そう。名前の通った3人ですらギャラの安さを訴え、現場での経費削減の凄まじさを訴え、必死になって連続ドラマを書き続けなければ暮らしていけない窮状を訴えていた。

 好きならそれで良いって言うけど、好きでも食べなければ人は死ぬし、余技でできるほど創造の世界は甘くはない、目を海外に転じれば、フルタイムで経費もぶち込み脚本を作り企画を練り俳優を発掘し映像として練り上げる米国のドラマがあり、韓国ドラマがあり遠くない将来に中国のドラマもやって来る。その時日本のドラマはどうなるのか? ドラマだけに限った話なのかか? アニメのオリジナルの減りっぷりはドラマの比ではないなからなあ。いろいろと考えさせられる番組だった。再放送があるなら録画してじっくり見返したいなあ。


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