縮刷版2010年月上旬号


【4月10日】 鞄を漁っていたら古い紙切れが何枚か出てきたんで並べて見たら一昨々年から一昨年にかけて30から40くらい上乗せになっていたのが昨年は60近く下がって700のラインを割っていたことが判明、というか明らかに低減傾向なのは分かっていたけどまさか一昨々年すら下回っていたとは何というかもはやこれまでというか、絶望感が色濃く漂って来たけれども今年はそこから上に向かう気配がまるでないだけに、下手をしたらもう1段ラインを割ってしまいやしないかって不安もこれありでなかなかに胃が痛い。その割にはあれやこれやと買いまくっているのはそうでもしないとストレスが板について蒲鉾になってしまうからでなるほど貧すれば貧しまくるという謎語はなかなかに正しい。天から振ってこないかなあ100くらい。

 ここで質問です。京介はこのあと何回寝ては覚めてを繰り返すのでしょうか。それは秘密。というわけで井上夢人さんの長編「魔法使いの弟子たち」は、山梨あたりに取材に出かけたルポライターが、いきなり急病が起こって人が死んでるなんていうバイオハザートな現場に行き当たって取材先の病院には入れず、困って情報をとりに立ち寄った相談所で病院に彼氏がいるんだという女性と知り合い2にでどうにかして潜り込めないかと算段していたらその女性が発病してルポライターもやっぱり発病して、それどころか話をしていた喫茶店の店長も発病して女性が立ち寄った先から帰った家から大勢が発病して山ほどの人が死んで世間はパニックに陥りかける。

 数百人が死んだところで病気に有効なワクチンがみつかりどうにか収まりをみせた中で、ワクチンの元になったのがルポライターとそれから彼に病気を移したらしい女性。死なずに生き残った2人は、病院にいた93歳の老人もふくめて病気に関する研究材料と目され隔離され、観察を受けることになる。はじめはただの退屈な日々が続いていたがそこに事件。何と3人に超能力が備わってしまったのだった! そんな莫迦な。いやいや莫迦ではなくって女性は物体を動かしルポライターは過去を透視し老人は急激に若返るとともに誰かに乗り移ったりもするようになる。まさかウイルスのせい? どうしてそんなことをウイルスはするの?

 おそらくは利己的な遺伝子のなせる技、ってことになるんだろうか、とりついた個体の存命率を上げることによってウイルスが長生きしようとでもしているんだろうけれど、それも行き過ぎると個体に危険が及ぶとちょーのーりきが発揮されて、個体を守ろうとするから難しい。病気を流行らせた元になったと非難を浴びて命を狙われそうになった女性に見えないところから魔手がせまるとその魔手を、意図もしないのに何かが跳ね返してしまうのだ。いったいどういう理屈でそんな力が起こっているのか、物理学で説明しろったって出来るはずがないけれども、そういうこともあるって感じに進んだ話はそういうことが招く誤解曲解の果てに世界がとんでもない方向へとすすみ、そしてどういようもない事態が待ち受けていた…はずだったのに。

 といった話は意図せざる感染源にされてしまった女性が被る謂われのない中傷の理不尽さに憤らせ、それでもやっぱり心に浮かぶ慚愧の念といったものを感じさせ、異常超常を認められない人間の了見の狭さを見せつけつつ、いざとなったら果たして自分は認められるか、受け入れられるかといった決断を迫る。あととてつもない力を得た時に果たして彼らのように飄々と振る舞えるのかといったことも、そうした主題から浮かぶ主張への考察とは別に、誰が誰で誰かは誰なのかといった思考実験めいたものへの探求も可能で、そのあたりの構成は井上さん、やっぱりミステリーの人ってことになりそう。ロジックとして正解か、遺漏はないかは考えれば分かるんだけれど面倒だからやらない。だいたいが防衛機構なんてものの前にロジックなんて意味ないよなあ。いやいや超常は超常として定義した上で成り立つ論理があってその上での謎ってものがあれば立派にミステリーってことなんだろう。マガジンでは誰が担当するのかな。

 夕方にかけてあれやこれや音楽話をしたあとでお気に入りと教えられたエフタークラングってユニットの楽曲を探して渋谷のHMVへと立ち寄って日本版の最新アルバム「MAGIC CHAIRS」を購入、さっそく聞いてみたら意外や男声が不思議なサウンドの上にのって流れる作品だった。女声を独特の旋律に乗せて聞かせて時には歌詞とは関係ないヤンマーニでサンマミーヤな言葉を載せて歌わせたりもする性向の人がこういうのを好きというとは。でも声というものの持つインパクトに魅力を感じさせてくれるって意味では男声女声は関係なしに共通している特徴かもしれない。あとは聞いてた音楽の源流にあるニューロマンティックス系なロックミュージックの雰囲気が今に蘇って来ているっぽいところも、惹かれた理由になっているのかも。

 全体に明るめな曲が多いのは作る曲と好対照ではあるけれど、旋律のほかのどこにも類例の見えない独特さって点に、感じたシンパシーがあったのかも。心地よく心騒がせてくれるグループ。これを聞いた後で生みだす音楽はいったいどんな風になっているんだろう。「I have a dream」とかってそういやあ似てないこともないか、静かでそれでいて力強さを感じさせる明るい曲って意味で。他のアルバムも聞いてみたいなあ。日本で売っているのかなあ。ちなみに生国はデンマーク。ワールドカップの南アフリカ大会で日本があたる国でもあるんでそういう時にお国の流行として取り上げられることがあるかも。要注目。それを推してたYUKI姐さんにも。JCBホールとりあえずとれて良かったよ。

 やっぱり呼んだのかなあ、70年前に望まない死をもたらされて無念に沈んだ魂が、逝けず埋もれていたところにやってきた同朋たちの血が、重ねられた時によって薄らいでいた念を呼び覚まして力を起こさせ、上空にあった血に共に辺土を歩こうと呼びかけさせたのかもしれないなあ、でなければあありに劇的過ぎる。もちろん事故や事件や戦争といったものがもたらす悲劇を鎮めようと人が訪れるケースは過去にいくらもあって、その度に血が無念を叫んでは収集がつかなくなるけれども、このケースに限ってはやはり数が半端ではない上に、もたらされた運命の苛烈さから無念を深く激しく抱いてそれが70年の時を経ても消えなかったって考えて考えられないこともないからなあ。凄まじい悲劇だったんだなあ。ただただ鎮魂。そして新たな無念にも哀悼。


【4月9日】 羽海野チカさんの将棋青春ストーリー漫画な「3月のライオン」の第4巻が刊行されて将棋の世界の厳しさって奴に感動してしまう人がまたぞろ増えかけている時期なだけに言っておきたいことがある。どうかお願いだから大崎善生さんの「聖の青春」を読んで下さいと。ちょうど12年前の今頃に、対局の現場から消え、そしてそのまま戻らず8月8日に逝った棋士の物語。「3月のライオン」二階堂くんに存在をなぞらえられてはいるけれど、まだ人生にどこか余裕がありそうな彼とは違って瀬戸際まで追い込まれながら、復帰を果たして桐山も二階堂も未だ及んでいないA級に返り咲いたまま、名人になる夢を叶えられずに死んだ棋士の物語。

 読めばどれほどまでに棋士の世界が厳しくて、そして狂おしいまでに勝ちたい、強くない来という気持ちに溢れた人たちの集まりで、けれども残酷なまでに才能がものをいって壁の彼我へと人を分け、弱ければ消えていくしかないのだということを教えてくれる。読めば桐山の懊悩など若気の至りにすら及ばない些末なことで、むしろ藤本雷堂棋竜のすでにタイトルを持っていながら獅子王なるタイトルを求めて止まず、得られればしがみついてでも話さないと強がる気持ちの方が純粋であり、強靱であり当然なのだと分かる。そんな世界で最高峰に迫りながらもあと1歩、力ではなく命の及ばなかった棋士の無念を噛みしめそして、「3月のライオン」で最高峰の戦いを繰り広げる島田や宗谷といった棋士たちの、表には描かれない才気を感じてもらいたい。このままでは煮え切らない桐山の奮起に二階堂の逸脱なんて悲しみが描かれてしまう。そんなことがないよう桐山にこそ読ませてやりたいなあ、「聖の青春」を。

 タツノコプロの名作ギャグアニメを実写化した企画の発表会見後に、ネット向けに使用可能だという公式スチルが送られてきたのを見たら、横に並んでいるメンバーを撮った集合写真が、本来だったら1枚で済むはずなところが2分割されていた。ところが、つなぎ合わせようとしてもつながらない。なぜなら間の1人が抜かれていたから。もしもそのまま写真を使えば、主役が存在しない上に2分割という、みっともないことこの上ないレイアウトになってしまう。そんなレイアウトで宣伝されて、映画にとって良いことなのか、それを許すというか、画像の使用を許さない権利元に映画をヒットさせたいという、クリエイティブに関わる者としての矜持はあるのか。ちょっと聞いてみたくなった。

 まあそこはそれ、映画ということで他にもたくさんある見どころをを、画像で紹介すれば良いから、主役不在でもネットでの宣伝はどうにかできる。むしろ、悪役の女ボスのとてつもなく放漫な姿態のビジュアルの方が、世間に対してより大きなPR効果があったかもしれない。それを見たさに劇場に通った人の数の方が、ネット向けの写真から削られた俳優見たさで劇場に通った人よりもしかしたら多かったかもしれない。結果として映画はそこそこの数字を確保できた。ネットでの口コミも成立し得た。大勢が絡んでいる映画という形態ならばこういうことも認めたくはないけれども認められる。けれども。

 観光庁の「観光立国ナビゲーター」って仕事で、ネットの露出が出来ないってのは対国内はともかく、対海外って面で致命的なことではないのか。テレビや劇場なんかで映像が流されてそれを見た人が日本への関心を抱く、ってのがひとつの道筋としてあるんだろうけど、それだけではリーチが及ばないのが現代のメディア事情。なおかつこれからの時代を担うと期待され消費においても中心に位置してくるだろう若い世代は、よりいっそう新しいメディアに依存の度合いをシフトさせている。そこに露出がなくっていったい何の観光立国ナビゲーターなのか。誰に向かって何を喧伝したいのか。そう思うとどうしてこれほどまでに扱いづらい面子を、国費を注ぎ込んで行うプロジェクトに起用したのかに懐疑が浮かぶ。起用したおっさんの面に見覚えがあってちょと前に大分の観光立国化をとん挫させた人間だったっぽい状況にも同様の疑義が浮かぶ。

 日本の美しい自然や貴重な建物やユニークな文化の映像を流してそこにタレントの言葉をかぶせれば映像は不必要というかもしれないけれど、それならタレントである必要はまったくない。タレントが起用されるのはその存在感とそのビジュアルにファンがいるなり、興味を抱きそうな人がいるからで、そんな肝心要の部分で“勝負ができないタレントを起用する意味がいったいどこにあるんだろうか。何とはなしにそんな観光立国ナビゲーターがいると、遠来の地で聞きつけ探してもネット上にはビジュアルのカケラも落ちていないとあっては、興味の抱きようがないではないか。それとも声に自身があるのか。あの外国語に現地の人を納得させるだけの巧みさがあるというのか。あるなら良いがないならやはりビジュアルで、世界に働きかけられる存在を選ぶべきだった。

 そういえばしばらく前に「富山観光アニメプロジェクト」というのがあって、高品質のアニメを作ることで全国に知られつつあるPAワークスが参加して富山県をアピールするアニメを作って世界に向けて発進したことがあった。これなんかは経済産業省の方が確かお金を着けて、地域の映像新興も兼ねつつ県レベルで世界に観光をアピールさせようとしたものだったけれど、例の政権交代で予算がぽしゃって、その後に企画されていたものがすべて棚上げになってしまった。むしろこちらに予算を戻して各県で競わせてアニメを作らせて、世界に向けて発進させた方が世界が興味を抱く映像が作られ、世界から観光客がそれぞれの県へと訪れるようになるし一方で地域の映像産業、アニメ産業もそれなりに盛りあがるんじゃないのか。

 もっともそこは未だ縦割りが残るこの国で、国交省についた予算を経産省が引っ張り元に戻すなんてあり得ないこと。なおかつ観光庁の頭に座った人間に、自分も含めて目立つ方向以外での地域振興も含めた観光立国観光立県活動が想定できるはずもないからきっと、このまま突っ走っては国内向けにのみ評判になって、報じる国内メディアにのみ瞬間的な評判という恩恵が回り、あるいは作られた映像を放送する際に落ちる政府公報としての対価が支払われるだけに留まって、世界にはまるで無縁の施策がまかり通っては、お金がどこかに消えていくことになるんだろう。政権が代わっても官僚のやることは変わらず、そしてメディアのやることも変わらない。そしてその先に待ち受けるのは暗黒。もうダメかも。とっくにダメだったけど。

 ふと気が付いたら万城目学さんの「プリンセス・トヨトミ」が劇場映画化されるって話が出ていたけれどもキャスティングとそのキャラクターにどこかズレ。原作ではどこか得体の知れなさを背負った鬼の松平って中年がいて見た目も素晴らしければ才能もきれまくってる日仏ハーフの女性、旭・ゲーンズブールがいてそして直感だけは鋭いけれどもあとは適当な兄ちゃんがいてってことになっているのに劇場版では松平については堤真一がそそまま演じそうだけれどもゲーンズブールはなぜか男になって岡田将生が演じ、直感だけのちゃらんぽらん兄ちゃんが女になって綾瀬はるかが演じることになっている。

 そりゃヘンだろう。おかしいだろう。なぜってゲーンズブールは女性だから「プリンセス・トヨトミ」の秘密にこだわったんじゃなかったっけ。そして強い存在感を発揮したんじゃなかったっけ。そこんところをひっくり返して岡田将生を置いたら話がまるで違って来る。けどそうなってしまったのは日本に旭・ゲーンズブールを演じられる役者がいないからか、いるじゃないか「別に」の人とかいろいろと、けどそうはならないところに妙な鬱陶しさを覚えてしまって映画への興味がガクンと落ちる。さてどうなるか。どうもならないか。女装な中学生は出るのかな。出さないか。それじゃあやっぱり興味わかないなあ。


【4月8日】 とてつもなく醜悪な出来事が起こっているような気分に意識を失って、目覚めたらとてつもなく醜悪な出来事があったにも関わらず、とある地域的には何もなかったことになっていた。これもやっぱりものすごいもののの片鱗を味わったといえそうだけれど、冗句の中にとろけさせて目をつぶっては未来が死ぬので、やっぱり思い出して醜悪さに身をよじろう。

 サッカー日本代表のセルビア戦。強国とは言え主力はリーグまっただ中の欧州各国でレギュラーだったりして、とても日本には来られないからと、主に国内リーグで頑張っている若手をかき集めて送り込み、監督もフル代表を率いる人間ではなくその補佐を行っている人間がとりあえず務めて、フル代表の監督は高みから良い選手がいたら南アフリカに連れて行くかもなあ、といった感じに構えて臨んだセルビア代表が、それなりな面子を揃えた日本代表に楽勝してしまった。0対3。なんだこりゃ。

 かつてジーコ監督の率いる日本代表が、アルゼンチン代表に1対4で破れたことがあったけれど、それは相手がアルゼンチンでレギュラークラスだって結構そろった相手。そしてジーコ最後の試合となったドイツ大会で、ブラジルを相手に1対4で粉砕されたこともあったけれど、この時はロナウド選手がいてロナウジーニョ選手もいて、ジュニーニョ・ペルナンブカーノ選手なんかも強烈な蹴りを放ってた。半ば負けて当然の試合だった。

 とはえいそれでも日本代表は、1点は奪って前半終了間際までリードしていた。対するに岡田サンのセルビア代表戦は、相手がほとんど代表レギュラー不在のチームでそれも延々セルビアから飛行機でやって来て間もない体調不全の面々。ブラジルやアルゼンチンを引き合いに出すのもおこがましい面々で、なおかつ国内オールスター戦なんてないお国柄だけに、顔合わせだってして間もないチームを相手に、3点を奪われ1点すら奪えなかった。この罪万死に値する。

 怪我で出られない選手がいたため、代わりに新しく入った選手がフィットしなかったっていうけれど、それは本番でだって予想ができるアクシデント、そこに備えて準備を重ねてきて当然だったはずなのに、まるで成されていなかったことがこれで白日の下にさらされた。誰が欠けても代わりに入った選手が埋めて、同じコンセプトで試合をして、それなりの成績を収める。それが代表チームのあるべき姿であり、それを実現するのが代表監督の役目なんだけれど、それがまるっきりなされていなかったことが満天の星空の下に浮かび上がった。この罪億死兆死にすら匹敵する。

 そもそもがコンセプトがどうしようもなくとんでもない。止まる。ボールが来る。持つ。探す。止まっている選手がいる。送る。その選手が周りを見る。止まっている選手がいる。送る。その繰り返し。先に進めない場合は送ってきた選手に戻すだけ。打ち付けられた釘にゴムひもを渡していくような攻撃は、すぐに読まれ1人2人と寄せられ囲まれ前へとボールを送れない。だからシュートを打てずゴールを奪えない。対するにセルビアは1人がボールを持って走れば、周囲を2人3人と走り出し、受け手となって攻撃に幅を加える、厚みをもたらす。持って誰か走っていれば渡すし、遅れているなら自分でつっかけ時間を得て上がりを待ち、ボールを渡して攻撃させる。ちゃんと連動がとれている。

 この違いを目の当たりにすれば、誰だって何がいけないかわかるはず。なのに岡田サンは、選手がいつもと違ったという。チームの中心と目される有力選手も同じこという。なるほど自分はあちらこちらにパスを散らして、攻撃に厚みをもたらした気なのかもしれないけれど、独善ともいえるそのポジションから出されるボールでは、続く攻撃へとつながらない。出した本人も含めて周囲が連携して前へと進めていくようでなければ壁は突破できない。

 守備でも中盤から送り込まれたボールについていけなかった最終ラインだけが悪いのではなく、チェイスしなかった中盤だけが悪いのでもない、中盤がチェイスにいって後ろが大丈夫なように中盤のサイドが絞りカバーする。放り込まれても対応できるように最終ラインのサイドが下がってカバーする。そんなトータルとしての連動が、果たされていなければ誰も安心して仕事ができない。

 周辺の数メートルに入ってきた時だけ動いて、ボールを触りパスを出して攻撃に参加した気になり、ボールを持って迫ってきた相手をチェイスして、守備をした気になる。そんな選手がひとりでもいれば、連動は崩れて動きは硬直し遅滞し相手にがっちり固められ、しっかり攻められる。だからこそ前のオシム監督は、常に動いて複数で奪い攻め、守り止める練習を重ねて身に覚え込ませようとした。

 結果、失点はあっても大量に奪われることはなかったし、得点だって割とコンスタントに重ねていた。アフリカチャンピオンのエジプトを粉砕したあの試合は、ひとつの到達点でありそしてそこからの積み上げがとてつもなく期待される試合だった。それなのに。3年でここまでガラリと変わってしまうとは。そしてとてつもなく弱くなってしまうとは。

 誰が悪い? そりゃあ何より監督だ。チームを率いる監督にこそ全責任がある。そしてその監督を居続けさせる偉い人だ。胸先三寸でどうにでもできる権限を持ちながら、何もしようとしない不作為はやはり罪だ、罪悪だ。と、叫んだところで当の監督も、そして偉い人たちもまるで馬耳東風とばかりに聞き流している。どうして聞き流せるのかその心理が分からないけど、もしも分かれるくらいに普通だったらあの東アジア大会での韓国を相手にした試合で大敗を喫して、なおもその場に踏みとどまれてはいないだろう。

 それをくぐり抜けた今、あの時よりも確実に上がっていてしかるべきコンディションで、それなりの練習も経た面子が韓国よりも確実に戦闘力で劣るセルビアの若手チームに、1点も奪えないという最高の屈辱を味わってもなお、柳に風と流していられる精神が出来上がった。というかむしろコーティングの度合いが増してしまった。もはやなでしこジャパンを相手に試合をして破れても、知らぬ顔して連携が、コンディションがと言ってのけるだろう。この様子ならワールドカップというひのき舞台で、オランダ、カメルーン、デンマークという強豪にそれぞれ5点を奪われ負けたところで、それも当然と言って居座り2014年のブラジル大会まで、指揮してのけるんじゃなかろうか。人間、ここまで強くなれるというある意味で貴重な見本かもしれない。

 しかしあんな試合を見た満員の観客には、ご愁傷様というよりほかないかも。あるいは貴重な経験ができて羨ましいとも。ジーコジャパンの時だって、オシム監督の時だってあれほど無様な試合はなかった。もしかしたら何か時代が大きく変わる節目に立ち会ったのかも知れない。それはドーハでの悲劇、ジョホールバルでの歓喜、Jリーグの初戦にも匹敵する、日本のサッカー界を激変させるインパクトを持った試合だったのかもしれない。おめでとう、と拍手を送って歴史の生き証人たちを讃えよう。そして歴史をつくった男たちを心に刻もう、永遠に。

 何かスポーツへの幻滅がわいてきたけどここで読んだ近藤史恵さんのロードレース青春ミステリ「エデン」がスポーツへの疑念をさらに増殖……じゃなくってそんな策謀渦巻くスポーツ界いなっても決然として純粋さを貫こうとする人たちがいるんだってことを、そしてそれがおそらくは大半のスポーツ選手たちにとっての理想なんだってことを教えてくれる。自転車のロードレースでもっぱらアシストに命をかけている青年が主人公のこの作品。「サクリファイス」って前作から始まっていてそこで悲しい出来事に遭遇した後、欧州へと旅だってスペインのチームでそれなりに活躍をしてからフランスのチームに移っていよいよ自転車レースの最高峰、ツール・ド・フランスに臨むことになった。

 と思ったらチームはそのレースを最後に解散が決まって次の就職先を探して誰もが気もソロぞ。エースのミッコだけは優勝を目指して頑張っているけれどもチームのトップは新たなスポンサーを見つけるには違うチームで活躍するフランス人エースを勝たせるべきだという働きかけに乗ってミッコのアシストよりもそっちのエースを優先させようと画策する。そこに決然と異論を唱えたのが主人公の日本人。ミッコのアシストだと決めてさまざまな場面でその役割に徹しようとする。

 もっともフランス人の若いエースとも実は自然と知り合いになって仲良くもなっていた主人公。時には情にほだされ来年のシートにも惹かれて見方しそうになるけれども、未だに踏ん張っているミッコのためには譲れないと言ってフランス人の手助けを拒絶する。その潔さにまず感動。そしてその決意が日本でのとある出来事に根ざしていることに、いhとつの律儀さを感じて応援したくなる。やがておこった事件でも、そんな経験が達観となって若きフランス人のエースを導く。才能とは何と残酷なものか。得られたものは輝き得られなかったものは沈むのみ。そこに納得できれば良いけれど、そうはいかないのが人間の世界。いろいろと渦巻く情動に呑まれてしまいがちになるところを、スポーツにかける熱情が邪な誘いを葬り去って正しき者に至福をもたらす。続きがあるなら読んでみたい対決だけれど、その度に事件が起こって誰かが傷つくのも悩ましい。けれどもやっぱり読んでみたいよなあ。書いてくれるかなあ。


【4月7日】 どひゃあ。としか言葉がないけどそれにしてもいきなりの桜坂洋さん「ALL YOU NEED IS KILL」のハリウッドあたりでの映画化決定。VIZって小学館と集英社のグループが海外で版権ビジネスをやるために作った会社から、英語版が出ていたって話は何とはなしに知っていたけど、それがおそらくは誰かの目にとまって映画化の運びになるという一足飛びの展開の早さにはちょっと驚いた。ふつうだったらまず日本での長編アニメーション映画化なんて話があって不思議はない作品。それが向こうのプロデューサーの目に止まって実写化でもしようかねえって展開になるのがそうではなく、VIZが映像化に動いてダンテ・ハーパーって脚本家で役者な人を引き込みシナリオを書かせて完成させた上で、あのワーナーブラザースに数百万ドルで売ってしまった話がデカい。そして早い。

 それでいったい原作者にはどれだけ来るのかってのも興味津々だけれど、それよりもやっぱり桜坂洋って作家の存在が、実際に映画化されるかどうか、でもってヒットするかどうかって心配も一方にありながらも、ニュースを通してアメリカの地に広まり世界に広まっていくってのが妙に嬉しい。この勢いで「よくわかる現代魔法」もハリウッドで実写化されるってことになって、ダコタ・ファニングあたりが一ノ瀬弓子クリスティーナを演じてあの「パンツをはいていない」シーンを巨大なスクリーンいっぱいに、それも3Dで展開してくれたらって夢も浮かんできた。良いなあ。見たいなあ。

 いやいや、それよりやっぱり「オルユニドイズキル」がちゃんと映画化される方が先か。日本のアニメや漫画の原作だけ買って実写映画化の企画は立ち上げてみたものの、シナリオを叩きつつ監督を選びキャスティングまでしてさあ撮影といくかいかないかのうちに3年4年5年が経って、その間に企画が立ち消えになるなんて話が山と過去にあるからなあ。というか今だってあるし。「新世紀エヴァンゲリオン」に「カウボーイビバップ」に「AKIRA」に「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」……。いったいどうなってしまったんだっけ。対してこの「オルユニドイズキル」は1年以内に撮影に入りそうな感じと展開が早そう。一気に完成へと至れば2013年くらいにもきっと公開されていたりするんだろう。するのかな。その頃には「よくわかる現代魔法」の新刊も出て直木賞とかもって我が家にある例の同人誌に1000万円くらいの値段がついていたりすることを願ったり適わなかったり。適わないのか。

 「!」が一つ増えただけなんだっけ「けいおん!!」は、3年生になって新入部員の勧誘を目指して必殺技のローリングアーム奏法を見せるものの誰も来ず、5人の軽音楽部がまた1年続くのかどうなのか。いわゆる市井の高校なんかに現存する軽音楽部がどうなっているか分からないけど、この学校みたいに5人しかいなくってそのバンドがしっかり固まってしまっていたいりする場に誰も入って行きづらいよなあ。それこそ梓が1人抜け出て、リードギターとなって新入生たちとバンドを組んで3年生チームと対抗するくらいの動きを見せないと、あたらしい部員は入ってもやることがなくって自分を持て余しそう。

 あるいは佐和子先生がそのほんわかとした外面をかなぐり捨てて本領を発揮して、ヘビーにメタルなバンドを新入生を勧誘して結成して、唯たちが作っている「放課後ティータイム」に挑戦状を叩きつけるくらいにしないと。見たいなあ佐和ちゃんバンド。佐和ちゃんだけボンデージでほかはメイド服。アニメの方はといえば相変わらず絵はよく動き間合いも宜しく美術は精緻。レスポールの艶とか本物を見ているような印象すら受ける。どうやって描いているんだろう。CGなんだとしたらテクスチャとか使っているんだろうか。問題はオープニングの歌が何を唄っているのかさっぱり分からないことか。日本語なのか英語なのか別の惑星の言葉なのか。うーん1度聞いても2度聞いても分からない。エンディングは前と変わらずロック調。これをまたSCANDALが演じて見せたら面白いかな。

 「メタルギアソリッドピースウォーカー」を買う前に言っておく。おれはさっき、「メタルギアソリッドピースウォーカー」の完成披露会見をほんのちょっぴりだが見物した。い…いや…見物したというよりはまったく想像を絶していたのだが……。あ…ありのままにさっき、起こったことを話すぜ! おれは「メタルギアソリッドピースウォーカー」の完成披露会見に出ていたと思ったら、いつの間にか「モンスターハンターポータブル2ndG」の発表会に来ていた。な…何を言っているのかわからないがおれも何を見せられたのかさっぱり分からない。頭がどうにかなりそうだった。業務提携だとかコラボレーションだとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。

 というわけで「メタルギアソリッドピースウォーカー」を買ったら「モンスターハンターポータブル2ndG」がついてくる様子。今さら感があってずっとモンハン買うのは遠慮していたけれども、割に本格的にスネークとモンスターがバトルする様を楽しめそうなんで買ってみようか「メタルギアソリッドピースウォーカー」、それももちろん迷彩柄のプレイステーションポータブルの同梱版を。これでモンハンファンが生まれて本編への購入へと向かえばカプコンにもメリットがあるって判断か。あと「アサシンクリード」とのコラボもあってわら束の直方体に隠れて近づき引きずり込めるらしい。でも段ボールじゃないから使いすぎればわら束も崩れていく様子。なるほどなあ。

 そうしたゲーム間の合体も面白いけど、今度の「メタルギアソリッドピースウォーカー」はコラボレーションがめいっぱい。例えばユニクロのTシャツを買うとそこについているコードを入力することによって、スネークにユニクロのTシャツを着せられるらしい。マウンテンデューのコードだとマウンテンデューのTシャツを着るんだっけ。舞台となっている1970年代のコスタリカにユニクロって妙だけど、それをいうならコスタリカにモンスターだっていやしないんだからいっしょか。30社とか乗っかっている「龍が如く」もそうだけど、ゲームがデカくなってくるといろいろとコラボレーションが出来るようになるんだなあ。逆に言うならそうでないゲームは見逃され見捨てられていく運命にあるってことか。メディアといっしょ。むしろメディアより集約が進んでいる感じ。「王様物語」なんか「バーガーキング」とかとコラボやってたけれどどうだったんだっけ。売れないと大変だって開発の人が書いていたけどどうなったんだっけ。

 デ・トマソといえば後に続く言葉を1970年代のスーパーカーブームを経験している人なら知っている。そしてその語感から連想するシチュエーションにもおそらくは共通したものがある。つまりは白だったり黒だったり水玉だったりすることだけれどそうしたシチュエーションを仮に「デ・トマソ」と呼ぶとして、発売中の「週刊SPA!」の2010年4月13号では堂々4ページにもわたってデ・トマソが紹介されていて目にも麗しいものを見せてくれている。階段を下から見たりしゃがんでいる所を前から見たりとシチュエーション自体に突飛なものはないけれど、現実世界においてそうしたシチュエーションがデ・トマソを発生させることはなかなかない。心の中でのみ浮かぶある種の願望を「週刊SPA!」は写真でもってかなえてくれている。何という親切さ。何というありがたさ。これがさらに分厚い写真集となれば是非に買いたいところだけれどさすがに書店でレジに持っていくのが恥ずかしいので、装丁では本当のデ・トマソ配してエンスーなアイテムだっていう風にごまかせるようにしていただきたく候。しかし妙な特集をいきなりするなあ、「週刊SPA!」は。

 迫る民主党の総攻撃に、本来ならば結束すべき自由民主党では内部対立が止まらず、遂にギレン・与謝野を筆頭とする強行派が離脱し新たに「立てよ、国民」党を結成、強気の姿勢を前面に押し立て口によって人々を鼓舞し、引きつけようとしたもの言葉ばかりが勇ましくても中身は薄く、実効性にも乏しく将来は風前の灯火。一方で、長老たちの無責任な離脱に憤りつつ、中堅の安穏とした姿勢にも憤懣やるかたないガルマ・進次郎ら若手は、他をすべて否定し己こそが至高という意味合いから「あえて言おう、カスであると」党を結成して民主も自民も「立てよ国民」党すらも否定し、孤高さをアピールするもやはり若さでは役者が不足していて、信望は得られても支持までは集められないまま「坊やだからさ」の言葉とともに裏切りにあって自爆自滅の未知をたどる。

 そんな周辺の動きに揺れる自民党では、元首相のドズル・安倍が内部での結束を高めるべく党名変更を断行、新たに「ジミンの栄光、この俺のプライド、やらせはせん」党として迫る民主に挑むもしょせんは民主の敵ではなく、デギン大勲位もガルマ進次郎もともに見放したヌケガラのようなソロモン党本部はあっさりと攻略され、壊滅への途をたどるのであった。そんな崩壊するソロモン党本部から、平成で知られる元首相を父に持つ母親の国会議員とともに逃げ出した子息が、先達の衣鉢を継いで「ネオジミン」を結党し、エリート主義に走るジャミトフ・オザワの「ティターンズ」と、リベラルさを堅持しようと踏ん張るエダノ・フォーラの「エウーゴ」に別れ、内部対立を始めた民主に横やりを入れるのはまだ先の話。


【4月6日】 黒澤明監督だったらきっとその湯煙を見て、邪魔だからどかせろと助監督あたりの尻を叩いて団扇を仰がせたに違いないけど、残念ながら絵なので仰いでも飛んでいかない湯煙に、明け方のぼんやりとした心をどんよりと曇らせるのでえあった「聖痕のクウェイサー」。とはいえそこはテレビ放送、とある魔術の禁則事項を突破できるパッケージメディアに行った時には、黒澤監督ですら消し去れなかった湯煙を二進法の魔術があっさりと吹き飛ばしてその下から、並ぶまるまるまるだんげなわまるな丘と谷間のガーンズバック連続体を、白日の下にさらしてくれることだろう、約1名を除いてだけど、つるぺたつーるぺた。

 裏で始まった「聖痕の…」じゃなかった「閃光のナイトレイド」は、中国の上海か南京か分からないけど日中戦争のたぶん最中くらいの軍閥がいたけど国民党が台頭して来た時代を舞台に、異能の力を持ったエージェントたちが大活躍するってストーリー、なのかな。男たちは時間をどうにかしたりテレポートしたりとあれこれ力を発揮していたけれど、それがいったいどんな理屈で彼らに備わっているのかは不明。そもそも彼らってあの時代の人間なの? 原作物じゃないからそうした設定がまるで分からないけど(雑誌とか読めば書いてあるかも)、分からないから見ていく楽しみもあるってことで、これからも極力情報を入れずに見ていこう。女性キャラがたぶん情報を飛ばせるかしている女の子1人ってのが弱いかな。

 そういやあ男所帯に少女が1人ってのは「薄桜鬼」ってのもそうだったっけ、先週まで「まりあほりっっく」がやってた時間帯に割と真面目な時代物が出てきて、誰もギャグをかまさないのが物足りないけどそっちは「ダンスインザヴァンパイアメイド」と「荒川アンダーザブリッジ」に任せるからいいや、ってどっちも監督新房さんかよ、でもって「刀語」もやっているのかよ、いったい何人いるんだ新房昭之。8人くらい? それはそれとして「薄桜鬼」は、新撰組の隊士がなにやら変じて悪い奴らになっていたのを真っ当な隊士が処分。それを見かけた少女を引っ張り込んでどつき回した挙げ句になにやら新撰組には秘密がありそうだってことを悟られる。さてどうなる少女の運命。ってか恋愛アドベンチャーってことは少女が誰かとくっつく訳だけれど、アニメのメインはやっぱり土方さんか、近藤さんも性格よさそうなんだけど、芹沢鴨はいないのな。

 まあ遺伝子がそう言うなら仕方がないよね、って割り切れないのが恋心、っていうんだろうか。我孫子武丸さんが出した長編「さよならのためだけに」(徳間書店)。遺伝子のマッチングが百発百中になったっぽい日本で、特Aの相性だって判定されたカップルが、式をあげてから新婚旅行に行ってわずか数日で、離婚を決意するまでになってしまう。昔だったら成田離婚の言葉で片づけられたんだろうけれど、時代は科学の力遺伝子の導きによってすべてが決められているはずだから難しい。もちろん相性ってのは科学では割り切れないんだろうし、ちょっとしたことが気になってしまってことも割とある話。だから離婚もやむなしってことになるかというと、そうは問屋がおろさない。

 なぜなら男女のカップルの男性の方が、当の遺伝子によって結婚の判定をする会社に勤めていて、そこの会社の結果に自らノーを出す訳にはいかないというのが最大のネック。離婚をすれば会社の業務を妨害したことになって、多額の賠償金を要求されかねないし、今の社員の身分だって危なくなる。かといって彼女がもういっしょには住めないといっている以上はどうしようもない。ってことで始まった冒険の果てに明らかになったこと。それは、押しつけられることに粛々と従う人間なんてやっぱり見ていてみっともない、たとえ判定がどうであっても、それは特Aであっても間逆でも、それに従うんじゃなくって少しは自分で選んでみせろっていうことか。まあそれもいいけどそれが面倒になってしまったから、遺伝子による判定が大流行した訳で、それに慣らされてしまっただろう時代に反感を抱くのは、やっぱりどこかに心底から相容れない何かがあったんじゃないの? って見ることも可能かも。2人はいったいどうなるの。それより我孫子さんがこういう小説も書くってことに驚いた。ちょっぴりSF。そして社会派なストーリー。

 ああやっぱり松井秀喜選手は神に愛されているんだなあ、カリフォルニアのエンジェルスに移籍して似合わない赤いヘルメットで登場した試合でしっかり適時打を放ち、そしてだめ押しの本塁打を放ってチームを勝利へと導いてみせる。ポジションこそDHで待望の守備にはつけなかったけれど、守備もあるかもしれないってオプションが、あるのとないのとでは多分本人の中で何かが違っていたんだろう。あるいはDHだけという限定ではやはり起用に限られるという考えもあったんだろう。ワールドシリーズでMVPをとってのけたニューヨーク・ヤンキースを飛び出し最初に声をかけてくれたエンジェルスに入団、そのシーズン初戦でしっかり恩を返してみせる。なるほど神の差配ではなくこれが松井選手の実力というものか。発揮させなかったヤンキースにはきっといろいろ悔いも残るだろうなあ、チームの偉いさんよりはファンの間に。でももはや過去は振り切って、カリフォルニアの赤い稲妻となって本塁打を打ちまくり、ヒットを放ちまくってそしてゴーゴーカレーをカリフォルニアにも引き寄せてくれるだろう。頑張れ松井。あとイチローも。ついでかよ。

 しかしやっぱり小説版だけだと足りないかもしれないと、劇場版「イヴの時間」を見に行ったら直前の「半分の月がのぼる空」を見た人たちが劇場から出てきて、中にとても美人な人がいてハンカチを手に涙ぐんでいた。良い人だ。でも男連れだった。どうでも良い人だ。そして「イヴの時間」はなるほど水市恵さんの小説版が、主人公の少年がロボットから被ったある種のトラウマを埋めて和解していく話に留めてあるところを、本編の劇場版ではロボットを受け入れた社会が置かれている状況を示唆し、そこでロボットと人間との関係が単なる道具とその使い手から、半歩前に進もうとしているところに先祖帰り的なレイシズムっぽい風潮が流れ込んできて、ややきな臭い空気が漂っていることを伺わせている。

 きな臭さの根元が委員会めいた組織を築き警察すら引き入れて、はびこりつつある状況から鑑みるに、政治行政のレベルで、結構な感じのレイシズムが生まれ育まれつつある感じ。それに対抗する組織もあるみたいだけれど、競争はやや鼬ごっこでどちらが勝つといった将来は見えず、ハッピーエンドに見えたエンディングのその先に待つのは、あるいは相当な混乱かもしれないけれど、それでも手をつなぎ分かり合える努力はすべきだし、その方がやっぱり気持ち良いんだって示すことによって、もやもやとした鬱屈を吹き飛ばそうとしている、そんなメッセージが感じられる。翻って現代の社会にただようこのモヤモヤ感を、吹き飛ばすには何をどうすれば良いのか。あからさまでは反発もくらうし対立も生まれる。そんな時にフィクションに仮託し現実をエクストラポートして語れるSFの力が大きな意味を持つ。「イヴの時間」という物語がそんなSFのひとつの形になっている。改めてSFの凄さ素晴らしさを教えてくれる作品かもしれないなあ。でもやっぱり思うなあ、少年もその友人も空気が読めないガキだって。


【4月5日】 っていうか、かつて戦後最長の繁栄を誇った政権与党に所属していながら何の改革もできないまま、ずるずると後退戦を演じ続けた挙げ句に最大の敗北を喫して政権を明け渡し、野党の身に落ちてなおまとまった意見すら発せられず、存在感すら示せなかった人たちがだよ、分かれ出て少々の人数で徒党を組んだところでいったい世の中のために何ができるんだっていうのさね。そりゃあメディアに取り上げられて名前は広まって選挙にゃ有利かもしれない。でも、いくら選挙で全員が当選したことろで勢力的には泡沫も泡沫、数会わせでご質問のお時間こそ拝領できたところで、スタンドプレー以上の姿を見せることなんで出来はしないし、ましてや世の中を左右するような動きになんかなれはしない。

 人数が集まればなれるって? だからそれだけの人数を持っていた与党で、何の変化も起こせなかったし起こそうともしなかった人たちが、外に出ていったい何ができるっていうのさね。世の中のために何かしたいっていうんだったら、できる1番の近道を選んで努力してみせるのが誠実さってもの。それすらやれず、やろうとすらしないまま与党にもっとも距離的には近いはずの最大野党を飛び出して、固まって気勢を上げたところで何の役にも立たないってことをもう人々は知っている。だから期待もしない支持もしない。する訳がない。

 報じるメディアがネガティブだから、応援が少ないんだ、なんていった反論がどれだけ無意味か分かってそれでも虚勢として言っているならまだ可愛い。でもきっと分かってないんだろうなあ、自分たちこそ正義と信じ立ち上がって突っ走って来るから、皆が付いてくると信じているんだろうなあ。そんな人たちを政局の渦の中心と、紹介して持ち上げるなり貶めるなりして囃すメディアも含めて、人が集まり何かを言えばそれが政治だ政局だって言ってはばからない戦後政治の悪弊を、未だに引きずっている旧体制が、これからあっけなく潰れて崩れ去っていく様を、僕たちはまもなく見ることになるだろう。その後に残るのも似たような荒野ってところが、この国の最大の問題であり悩みなんだけれど。

 高度に発達した物理学は魔法と区別がつかない、という訳はないけど魔法だって何かを差配して何かを起こす以上は、そこに法則めいたものがある訳で、分解して分析するとそうした何かを動かす要素なり、何かが動く現象なりに物理学的な法則があって不思議ではないのかもしれないし、全然そうではないのかもしれない。ともあれ内堀優一さんって人が書いた「笑わない科学者と時詠みの魔法使い」(HJ文庫)によれば、どっかからつれてこられて血筋にいろいろ曰く因縁のありそうな少女の咲耶が、どういう訳か物理学を学ぶ学生の耕介と同居することになってまず耕介が、魔法を見せて欲しいと行って来たので精霊めいたものを動かす魔法で植物を育てようとしたところ、ハプニングで育ち過ぎになってしまう。

 そこで威力を発揮したのが物理学、というよりこれは生物化学か、植物が大きくなるためには何が必要か、その成長を止めるためには何が有効かを化学的に導き出した耕介が、手元の器具と材料を使い魔法の力を借りて熱したりなんかしたりして物質を作り出し、て植物の成長を止めるのに成功する。科学と魔法の共同作業。そんな感じでどうにか融和した咲耶と耕介の、歳は離れながらも仲の良さげなカップルが誕生したところに事件。やはり咲耶の力を狙って巨大な組織が動き出し、迫ってくるのを耕介が立ちふさがり、また旧態依然としたスタンスへの反感も巻き込んで、少女の未来を開く戦いへと駒を進めていく。魔法は物理か否かはともかく愛情は数学ではないってことだけは分かった。雰囲気としちゃあやっぱり長谷敏司さん「円環少女」に近いかな、センセとは呼ばないしSでもないけど咲耶ちゃんは。

 新番組の「荒川アンダーザブリッジ」を見ようとしたら、なぜか絶望先生が登場して阿良々木暦の雰囲気を出しながら両儀式に向かってぶつくさ文句を言っていたら、そこに現れたのが見かけはケロロ軍曹のリアル版な癖して声はケロロ軍曹のナレーションだったりする兄ちゃんだという、不思議なアニメーションはやっぱり新房昭之監督のお手の物。おそらくは原作も相当にぶっとんだ内容のところをテンポ良く切り取り、会話の妙で積み重ねていく展開へと持っていっては、本筋どおりなのか違うのか分からない中で話を進めていくことになるんだろう。「まりあほりっく」とどっちがより原作の味を昇華してみせるのに成功しているんだろうか。読んでみたいけど相当に単行本の数が出ているんだよなあ、こいつ。途中まで見て愉快そうなら読み始めよう。そうやってスクウェア・エニックスの田口浩司さんの策謀に絡め取られていくのであった。

 「打撃女医サオリ」が掲載紙の衰滅とともに中空へとノックされて消えてしまった後に、矢上裕さんが始めた連載が「アゲハを追うモノたち」。何かタイトルの雰囲気が「エルフを狩るモノたち」にそっくりな訳だけれども、内容はたぶん重なっていなくって脇役の兄ちゃんの顔立ちがとても似通っていたりする程度。それもそれでアレだけれども、ストーリーの方は4人を殺害した罪で捕まったアゲハという女性が、死刑を宣告されて入った刑務所から得意の変装技術で脱走し、真犯人を見つけに行くといいうややシリアスな展開の中に彼女を追う元看守が、アゲハをどたばたと追いかけたりするギャグな描写が挟まり、七転八倒な中にアゲハをハメた闇の存在めいたものがぼんやりと仄めかされてみたりして、いったいどこへと向かうのかそれとも向かわないのか。

 問題はそうした展開よりもアゲハの正体を確かめるべく、背中に刻まれたアゲハのタトゥーを見つけようと看守も賞金稼ぎも誰も彼もが疑わしい相手を脱がすこと。大半が女性だたら脱がされればそれはもう見えてしまって、丸がふたつに突起もあって目に何とも麗しいんだけれども、その丸さがあまりにも丸くっていったいどうやったらこれほどまでに弾むバディを作れるのかと食べているものを聞いてみたい気にかられた。ほんとみんな丸いんだ。でも1番はやっぱりミス銀河かなあ。見かけはそれこそ大昔のホワイトカッポレのCM(というか本当はホワイトカップルのCMなんだろうけど)に出てきた妙な着ぐるみをふと思い出させる恰好なんだけれど、その中身はやっぱり着ぐるみと同じなんだけれどもとある表紙に中身だけ変わって現れ出るは……それは読んでのお楽しみ、と。いやもうとても良いものです。そんなミス銀河も含めてこれからいったいどうなるのか。続刊期待。さすがに雑誌ごと雲散霧消はないだろうなあ。なくてあって欲しいなあ。


電車と桜と塔と 【4月4日】 モモとタンゴの間の節句。それにしても寒い。寒いけれども来週にはきっと散ってしまうと思いやっぱり桜を見るなら今日しかないと、早朝から起き出し隅田川へと向かう。なるほど世間にはさまざまなコミュニティがあり、個人には公有があってそうしたつながりによって繰り広げられる「花見」なる行事もあるみたいだけれども、そうしたコミュニティにまるで属さず交友関係も皆無に近いインディペンデントな身の上で、行事としての「花見」なんかする機会も皆無なら、しようという勧誘も絶無。それならそれで結構だと、開き直るってことはまあ未練もそこに垣間見えなくもないけどどっちにしたって悩んでたって春は来るし桜は咲く。だったらひとりでだって見ておけば良いやと腰を上げ、京成電車に乗って押上から都営浅草線へと入り本所吾妻橋で降りて歩くこと数分。

 やって来た墨堤こと隅田川公園は寒気が漂う中をそれでも桜はそれなりに咲き、そしてその向こうに日本一の座を東京タワーから奪い取った東京スカイツリーが屹立するというなかなかに不思議な光景が広がっていた。去年だったら見られなかった光景で、なおかつ来年にはもっと違って見える光景。つまりは今しか見られない光景ってことになる訳で、それだけでもまあ来た意味があったかもって心のもやもやを静かにさせる。見渡せば青いビニールシートを広げて朝の8時からおそらくは昼頃に始まるだろう花見の宴会を待つ人たちでいっぱい。平べったい場所でしゃがみ込んで時間をつぶす学生もいれば、ビールのケースを並べて椅子をつくり机も持ってきて本格的な宴会場を仕立て上げている大人もいたりと、これから始まる楽しげなコミュニケーションなんかを想起させる光景が広がっていてああ今年もそんんあ輪に、紛れ込んで酒を飲む機会は訪れなかったしきっと来年も訪れないんだろうと空を見上げて舞い散る桜の花びらに目を細める。東京に来てちょうど20年。何にもなかったなあ。

来年には背景も違う一期一会がなかなか良い  などと優雅に感傷的な花見をしているのにも飽きたんで近所のマクドナルドで朝マック。2階の奥の喫煙コーナーからのぞく窓の向こうが墨堤で、すぐそばまで桜が来ていてまるで借景のように花見を楽しめそう。喫煙席なんで立ち入りはしなかったけれどもそこでマックを囓りながら見る桜とそして東京スカイツリーってのも、なかなかに都会的でおつなものかもしれないなあ。さすがに夏の花火はそこからでは見られないか。そんなこんなで時計をみたらまだ午前9時半とかで、その時点で今日の目的を果たしてヌケガラみたいになりかけたけれどもせっかくだからと浅草を散策し、浅草寺で犬に線香の煙をなすりつける飼い主とか眺め五重塔と並ぶ東京スカイツリーの光景にきっと浅草十二階にもそんな近代と伝統が並ぶ光景があったんだろうと想像。けれどもあっけなく崩れ去った浅草十二階の轍を東京スカイツリーが踏むことが、あったとしたらいったいそれはどんな事態か、やはり関東大震災に勝る災厄なのか。想像するだに恐ろしい。でもきっと五重塔は建ち続けるんだ。それが伝統の力って奴だ。

 木馬亭では朝の浪曲勉強会なんてをやってて面白そうだったけれどパス。浅草演芸場には長蛇の列でまた誰かストリップでもするのかと見たら違って三遊亭楽太郎の円楽襲名披露を待つ人だった。なるほど名跡だからなあ。でもって共演が桂歌丸師匠。そういやああれはもう20年近く昔の高校生の時に、学校の秋の文化祭めいた行事として落語がおこなわれてそれに来た1人が歌丸で、もう1人が確か楽太郎じゃなかったっけ。すでに笑天で大活躍していた歌丸師匠の高座も落ち着きがあって面白かったけれど、若くて才気走った楽太郎の高座もそれで面白かったような。たぶん真打ちに昇進して間もない時期でいよいよこれからって熱も帯びていたに違いない。そして円楽襲名。時代って過ぎればいろいろあるんだなあ。僕にはなんにもないけれど。

 御徒町あたりまで来てアメ横でも散策しようかと思いつつ松坂屋の中で巨大なサクラパンダを眺めていたら風の噂であの「ラブプラス」にiPhone版が登場するって話が流れてきたんですぐさま地下鉄に飛び乗りひとつ向こうの秋葉原へと向かってそしてたどり着いたソフマップで、iPhoneの中をくねくねと身もだえる愛花ちゃんとかの姿を見つけてやっとここまで来たのかって感涙にむせぶ。っていうか発売する前にはまさかこんなに発売しれから半年後も、話題が続いておおぜいのメディアがおしよせファンがやって来て感心を抱くゲームソフトになるって確信は抱いていなかったからなあ。もちろん受けるとは想っていたけどメジャーになるとまでは。今では続編の発表もあって立派な看板ソフト。iPhoneへと移ってますますファンを増やしていくに違いない。漫画化も始まっているから次はいよいよ映像化か。榎本加奈子さん中山エミリさん吹石一恵さんあたりを主演に起用か、ってそれは「ときめきメモリアル」だ、劇場版の。

 そうこうしている間に、日曜日のお昼を挟んで秋葉原にひとりやって来ては架空の彼女の姿に一喜一憂するこの身のわびしさを思い出していたたまれなさに退散。その脚で石丸電器へと向かって劇場版「半分の月がのぼる空」の主題歌になっていた「十五の言葉」が入っている阿部真央さんのアルバムでも買おうかと想って探したら欠品だった。地元の量販店では1番の品揃えの店で欠品とはどういう事態だ。まあ最近は割にありがちなんですぐさま諦めヨドバシカメラの上にあるタワーレコードなら邦楽洋楽とも品揃えもバッチリだろうと思い尋ねたヨドバシ自体の音楽CD売り場にちゃんとあった阿部真央さん「ポっぷ」。石丸ソフト館は音楽CDでもアニメーションのDVDやブルーレイでもヨドバシカメラにかなわなくなってしまっているのか? 駅前にシャッター通りもできはじめているし、やっぱり秋葉原は変質して来ているなあ。雑多さを踏み越えて浄化の方向へと向かわないことを願いたいけど。

 そして聞いた「十五の言葉」に、重大な転換がおこなわれた後の、淡々としながらも内情は激しく揺れ動き、そして決定的なシーンをへて一気にクライマックスへと向かうシーンに冷静さが決壊して情動が走る気持ちが思い出されて泣けてくる。やっぱり良い映画。そして最高の音楽。何だか川本真琴さんみたいな声だなあと想ったけれども、ほかの曲をきいたらトーンを地に下げ叫ぶロッカーというか椎名林檎さんみたいなシンガーといった雰囲気の人だった。得意なのはどっちだろう。本当なのはどっちだろう。ライブで見てみたいかも。ファーストアルバムも聞いてみよう。ちなみに所属はポニーキャニオン。「半分の月がのぼる空」はアニメもポニーキャニオンで実写もポニーキャニオンがやっているからその流れか。でもぴったりのマッチング。よくいたなあこんなシンガー。むかしはそういえばボニーピンクもポニーキャニオンで河合真也さんの映画で歌ってて良い感じって想ったけれども売れないまま移籍しらたブレイクしちゃったという。阿部真央さんには逃げられないようにしなくちゃね。


【4月3日】 ファンタジーだなんて自称してはいるけど小川一水さん、根が地中のマントルを過ぎて核にいたるくらいにSFな人だけに「博物戦艦アンヴィエル」(朝日ノベルズ)も、世界こそ現実とは異なっているように見えてそこを支配する法則は現実から逸脱せず、異形に見える人たちもおそらくは一定の決まりの上で造形されていて、それがやがて可能性として現実世界から一定期間の断絶を経た上に、外来よりの脅威なり変革なりを加えられた上で出来上がったものだというような解釈が、成されてくるような予感もあるけど果たして。

 爵位を持ちながらも没落しかかって貧乏な家に生まれた娘が、剣で身を立てようとして鍛えたものの折からの就職難で騎士などにはなれず、港で荷運びでもするか商売女に身をやつすかしなければ脚の悪い母親も、まだ幼い妹も養えないと嘆息していたところにお城からお呼び。奥と王様がいてスカートをめくられて絶対領域をまじまじをながめられ、あまつさえ詳細な解説までされたという、恥辱なのか栄誉なのかわからない境遇に陥ったものの、そこは一方で聡明な王様、何事もなかったような顔をして「メギオス驚異」なる先人が世界をめぐって見つけた怪物怪異の類を再び集めて回る博物船に乗り込んで、道化で通訳の才能を持った少年を騎士として守れと命令される。

 赴くは未知の外洋で、誰も想像のできない驚異が待ち受けているだろう最果ての地。妹は泣いて止めよとしたものの、そこは家族のため自分のためと意を決し、乗り込んだ船は艦長が成り上がり貴族の四男坊で見てくれはいいものの見栄っ張りなところもあって、やっぱりメギオス驚異を狙う敵国の艦船との最初の戦闘で、幹部連中を大砲で吹き飛ばされ戦死者を出してさんざんな目に遭い、嵐にも遭って船室に閉じこもって怯えるばかり。船員たちから反乱を起こそうかと策謀されながらも、そこは聡い道化の少年が収め艦長も説得し、一丸となって向かった先で金色にたなびく草を手に入れようとしたら、そこにはさらなる驚異と脅威が待っていた。

 空も飛ばず海底にももぐらない帆船での厳格な生活をきっちり抑えてその大変さを描きつつ、現れるさまざまな驚異の成り立ちに理由めいたものを持たせつつ、外来なりあるいは異界なりからの侵略めいた可能性も仄めかしてみせて、物語は次なる驚異の探索へと向かうのか否か。果てに浮かび上がってくるだろうこの世界の過去とそして現在、さらには未来の姿から得られる驚きって奴を楽しみにして続きを待とう。異世界の女性のお召し物を、上から下から中までしっかり手に入れようとする王様のヘンタイっぷりにも拍車がかかればなお結構。そんな王様を横でニコニコみているお妃様の本性、なんてものも実はあったりするのかな。

 こっちは異世界からの脅威がひとまず片づいたあとの世界が舞台。夏見正隆さんの懐かしくも面白い「わたしのファルコン」(朝日ノベルズ)新装版は、リヴァイアサンとの苛烈な戦いを経た日本、というか太平洋戦争の帰結の違いからアジアも含めて変化した上に東に革命がおこって東西に分断されてしまった日本の西側に所属する軍隊が、リヴァイアサンならぬ新たな驚異に襲われたことから秘密兵器を再び起動させようとしたら動かない。それは開発した天才が平和利用以外を妨げようとロックをかけてしまったからで、どうしたものかと調べた挙げ句にそれがとある元アイドル歌手の歌声でのみ、起動するのだと判明する。

 折良くその元アイドル歌手が、仕事に行き詰まり姉との違いに落ち込んだ挙げ句、見かけた戦闘機乗りの女性のかっこいい姿に憧れ女性パイロットを志願して来たからこれは好都合と、無理矢理合格させて引っ張り込んで3カ月でパイロットに仕立て上げるという激しくも楽しいストーリーでもって幕を開ける。現代の朝鮮半島の状勢を日本列島に移してカリカチュアライズしたかのような設定は、きっと前の「リヴァイアサン戦記」でも存分に活かされていたんだろうけど、それも含めて発表から結構経つこの設定が今もってそんなに動いていないところに、彼の国のしぶとさって奴も見て取れる。あと男性陣の頑固かひ弱な奴しかいなさそうなのに対して、女性陣のたくましくも聡明な人たちばかりだってところにも感心。現実にもきっといて不思議じゃない女性陣だろうけど、世に出てこないのはやっぱり彼の国以上にこの国にも、至らないところがあるんだろう。そうした状況の打破になれば良いけれど。

 ってな読書を川崎駅南口にあるドトールを2軒回って済ませてからかけつけたチネチッタ川崎で見た映画「半分の月がのぼる空」に泣く。もちろん橋本紡さんの原作は発売された時からすべて読んでいる。リアルタイムで読んで裕一と里香の間に生まれた感情がどう流れ、どう帰結していったかも知っている。そのつかず離れずな関係が大好きだっていう人たちの気持ちもよくわかる。俗に言うツンデレというキャラクターの典型といってもてはやし、里香を女神と仰ぐ気持ちもよくわかるけれど、そうしたさまざまな原作への情愛をすべて理解した上で、この映画はとても素晴らしく、とても美しくとても悲しくてそしてとても嬉しい物語であると断言する。

 始まりは原作と同じ。肝炎で入院した裕一が、長い入院暮らしで寂しそうな人がいるから仲良くなってあげてと看護婦さんに頼まれ、屋上に行くとそこにいたのが少女で本ばかり読んでいて、はかなげそうに見えて喋りかけたらとんでもなくって誰あんた的態度で命令して来る。弱みを握られ奴隷扱いされてもう大変。だけれどもそんな毎日の中から裕一は、里香が狭い病室にずっといて、死を感じて暮らしていることを知り、里香が父親と最後に尋ねた場所を探して夜の街をバイクで走り、学園祭に飛び入りをしてお姫様を演じさせる中でいっしょにずっと生きていきたいという気持ちを双方に起こさせ、死しか見えず絶望しかなかった里香の日々に未来を開かせる。

 それだけなら割とある難病物の1形態だといわれそうだったところを、この小説はだったらそうやって添い遂げた後、永遠には続かないだろう2人の生活のその後にいったいどんな覚悟を持てるのか? といった問いかけがなされてあって、ラブロマンスに昂揚した気持ちをハタと振り返らせた。余命が1カ月の花嫁の最後の気持ちをくんであげた。それは見た目には美しい光景だけれど、その瞬間の幸福は1カ月が過ぎて絶望に変わる。そして残された側は残りの長い人生を絶望を抱えて生きていかなくてはならない。あるいは絶望を忘却する疚しさを抱えて生きて行かなくてはならない。絶望? 忘却? 知ったことかといった図太さを持った人もいるだろうけど、人間そうは簡単には割り切れない。真っ当な人間なら。

 それでも君は決断できるのか? 覚悟はあるのかと小説版の「半分の月がのぼる空」では問うていた。映画板「半分の月が昇る空」はそのメッセージをさらに突き詰め、引っ張り出して見る人たちに突きつける。なおかつそれが驚きのキャスティングによって強烈に描かれている。原作が知っているが故にそのキャスティングが最初は平行して見えていた。けれどもそこに意図があったんだと分かってきて、そして繰り出される言葉が聞こえてきた時に一気に心が絞られた。頭が締め付けられるような思いになって涙がにじんできた。ああそうか。そうだったんだ。茫洋とした表情の向こう側にある痛みと辛さに体が震えた。

 何という大胆不敵な構成。けれどもそれがより強く原作が言いたかっただろうことを浮かび上がらせ、観る人たちに問いを放つ。それまでの感動、そこまでの慟哭の向こう側に長くいつまでも続くだろう落胆と虚無の日々の重さを、感じさせ考えさせてそしてさあ貴方ならどうするのか? それでも選べるのか? と問いかける。選べると少年は言ってそして壁に当たって思いまどい、そしてまた少年が言ってその後におそらくは壁にあたる。けれどもその壁を乗り越え進ませる言葉があるのだということを、見せて映画は幕を閉じる。ならば答えはひとつ。つかみ取るのだ、その手で永遠の思いを。抱き続けるのだ、その心に永遠の思い出を。


【4月2日】 再放送ならついこの間までやってはいたけど、本放送からなら終了してから2年半年は経ってていたりする訳で、その間に高校生なら卒業して大学生になっていても不思議じゃない時間を西浦の生徒たちは、桐青との試合が終わった直後の時間を、氷漬けにされたかのようにくぐり抜けてはようやくテレビの中にアニメーションとして復活。「おおきく振りかぶって」の新シリーズはダンス部の2人がチアリーダーをやりたいと言いだし、浜田のモモカンに関する至極真っ当なツッコミに野球部員が知らん顔をし、桐青の捕手が先輩で今は別の学校のコーチをしている男と会食して西浦の情報を伝えていたりと、1回戦後にあるべき時間が何事もないように始まり動き出す。

 モモカンもその巨大さを存分に見せつけてくれていたし、何より新オープニングでもって可愛らしさから恐ろしさへと変じる姿を見せて瞼にくっきりと焼き付ける。あの手でつかまれ握られたらまず死ぬな。そんなオープニングでは数少ないブラスバンドというか太鼓の松田にトランペットの松田と野々宮が登場して、決して脇じゃないってことを主張していて今後の登場への期待をいっぱい持たせてくれた。本編では敵情視察の上で次の試合が始まりそれをどうにかしてから次へと向かうんだけれどこれがまた長い。なのでいったいアニメでどこまで描くのか、そしてどこからをさらに次へと持っていくのか、そもそも次なんてないのかを探りつつ目先のモモカンの凄さを味わっていくとしよう。

 弘法大師は筆を選ばないけれど、何百万部何千万部何億部を世界で売るような人気漫画家は果たして道具を選ぶのか? 選んで不思議じゃないけれども、実はあんまりそうではなさそう。少年ジャンプの人気漫画家がずらりを顔をそろえて漫画の仕事について語った「マンガ脳の鍛えかた」って本を読んでもそんなにあんまり道具にこだわっている風はない。例えば「DEATH NOTE」や「バクマン。」なんかで、細かいところまで描き込まれた美しい絵を見せてくれている小畑健さんは、使っているのはごくごく普通のGペンや丸ペン。特徴的なのはそれと別に蛍光ペンを用意していて、上がってきた見本刷りの絵にチェックをいれてここを直したいあれを直さなきゃって自分でダメだしをするみたい。

   それはだから単行本化された時のためで、そんなところまで絵に徹底してこだわる姿勢って奴をそこに見ることができる。緻密さでは小畑さんに負けていない「ジョジョの奇妙な冒険」やら「STEEL BALL RUN」の荒木飛呂彦は、Gペンのグリップにテープを巻いて持った感じを柔らかくするのが特徴だけれど、とくに道具にこだわりはないとか。それは完璧を目指したらどこまでも行ってしまうからで、そうではない場所で他にこだわるところを見つけて挑むのが漫画家ってことらしい。単行本の売上が凄まじい「ONE PIECE」の尾田栄一郎さんは、Gペンを3本同時に使って3本ともつぶれたらまとめて付け替えるってのが特徴。描ける時間を3本分とって長く描き続けたい、つぶれたからって取り替えている時間がもったいないって判断なんだろう。

 ようするに道具は道具であって、それを使って何を描くか、どう描くかが重要なんだってこと。尾田さんだったら週刊連載で何を描くのかってところの題材選びに丸1日を使うそうだし、1つのシリーズを描く時にはどうしても描きたい映像ってのがあって、それにむかって展開なんかを組み立てていくんだとか。荒木さんなら絵で彫刻をする感じっていうんだろうか、ポーズを紙の上に掘り出すような感覚で、青鉛筆を使って構図やポーズを描いていく。それが結果として妙だけれどもインパクトのあるポーズに構図を持った絵となって見る人を驚かす。巧い人たちだけに説得力のある言葉。同時に巧いからこそできるわけで、そこにいたっていたに人には近づくための努力なんかが必要そう。

 漫画家の場合は絵だけじゃなくってお話だってつくってそれを読んでもわらなくちゃいけない。つまりはストーリー作りの才能もいるわけだけれど「ろくでなしブルース」の頃から幾年月、「ROOKIES」が大ヒットして今なお最前線の森田まさのりさんは、深い話を描きたいなら会社に行ったり彼女を作って経験を積もって呼びかける。若くしてデビューして一攫千金だなんて、とある漫画の影響をうけて考える若い人たちもいるけれど、頭の中で想像したってお話なんかそうは作れはしない、説得力を持った話を作りたいなら自分自身が説得力をもった人生をおくらなきゃだめってことなんだろう。

 それにしても凄いメンバーが勢ぞろい。世界が新たな展開を待ち望む「NARUTO」の岸本斉史さんは編集者との打ち合わせのなかからストーリー展開を作り出していく極意を学んだって話しているし、「BLEACH」の久保帯人さんは悪人にんだってそればかりじゃないことを描いてキャラクターに厚みを持たせる必要性を語っている。あの鳥山明さんも、インタビューって形ではなく1問1答めいた展開だけれど絵の描き方を話している。とはいえ漫画はしばらくかいてないって言葉もあってちょっぴり涙。どうして描いてくれなくなったのか、描けなくなったのかってところまで話してくれたらある意味で分厚さも増した本だけれど、それよりも今を最前線で突っ走っている漫画家たちの極意の方が役に立つ。読めばこうすれば僕にも描けるかも知れないって思いが浮かんで、漫画が描きたくなる。そしてこういう思いで描かれているんだと感じられるようになって漫画を読み込んでみたくなる。

 早々に目覚めて風が吹きすさぶ中を遅れ気味な電車に乗って東京国際フォーラムへ。京葉線経由で東京駅に行けば真下に出られるんだけれど運賃が無駄遣いなのとあと、強風で京葉線が不通になっててそれならと西船橋からふつうに地下鉄を乗り継ぎ二重橋駅へとたどり着く。春休みで東京ディズニーリゾート行きを狙ってた若い方々には不幸な日だったかもしれないなあ。書き入れ時のリゾートにとっても大変。こんな時どうやってたどり着くんだろう、葛西からバスか、徒歩か。でもってフォーラムでは「東京アートフェア」を見物。取り急ぎずるりと見渡して去年見て関心を抱いた高松和樹さんが、新作をひっさげやって来ているのを確認する。

 何しろこの1年で平山瑞穂さんの「全世界のデボラ」に始まり道尾秀介さんにリチャード・モーガン「オルタードカーボン」の表紙なんかに続々と採用あれている人気アーティスト。その人が現場いにて立って説明してくれる機会は滅多にないんで行って眺めて話を聞いたら何とやっぱり「全世界のデボラ」が最初の表紙の担当だった。選んだ人えらいかも。やっぱりパソコン上でCGでまず絵を描いてそれを手書きでカンバスに写していく手法をとっているそうで、表紙なんかだとグラデーションに見えるビジュアルが絵になるとレイヤー状に重なっていて平面なんだけれども奥行きが出て良い感じ。持つならやっぱり本物だけれどあらから完売気味なのはやっぱり今をときめくアーティスト、だからなんだろうなあ。

 そんな高松さんと並んで同じギャラリーで展示されていた川上哲史さんという人もなかなかの癖がありそうなアーティスト。ちょっと浮き出た感じのペイントでもって真っ黒なカンバスに骸骨を描いてみせたりする作品は、遠目にはぺったりした平面で黒に黒のグラフィカルな絵にしか見えないんだけれど近寄ると立体になっている部分が光の加減でチラチラとして、そこにあるんだって存在感を醸し出している。モチーフはほかに銃とかあってあとはLOVEってメッセージもはいった作品なんかもあって、高松さんのような見てすぐわかる幻想性ではないけれども眺めて引っ張り込まれる不思議さで評判を呼んでいきそう。そのまま複製をするのも難しそうだけれど大日本印刷とかDVDボックスのパッケージにバスケットボールのテクスチャーを印刷でもって再現したりする技術を持っているんで、これも複製版画とか作って売ってくれれば買っていく人もいそう。でもやっぱり良いのは本物なんだよなあ。欲しいなあ。今ならまだ手が出そうだなあ。でも無理だ。ボーナスとかって今夏もきっと遠い日の花火だし。おそらくマジで。それどころか……。


【4月1日】 最近は女性誌にブランド物のポーチだとかトートバックだとかエコバックなんかがくっついて、それで値段は1000円ちょっとと激安な印象に莫迦売れしているって話が出ていたけれど、いよいよもって雑誌冬の時代に他の雑誌もそうやって物で釣ろうと考えたのか、スポーツグラフィック誌の「Number」をキオスクで買ったら販売員の人が裏側から細長い袋と四角い箱を出してきて、おまけですって手渡してきたからいったい何事かってもらって開けたらローリングスのバットとグローブが入っていた。ちょうどプロ野球と大リーグの特集だったら、それに併せて老舗ブランドではあるけれども最近はナイキとかアディダスに押され気味なローリングスが、日本での市場拡大をねらって戦略として大盤振る舞いを始めたらしい。これでいくなら再来週のF1特集ではもっと凄いものがついてきそう。できれば赤いフェラーリなんかがついてきてくれればもらって乗って買えるんだけれど、F1って普通免許で乗れたっけ。

 なんて話はありません、あったらそれはそれで凄いけれどもそこはそれ、4月1日ってことでご容赦を。とはいえ男性誌にもバッグとかが付き始めた今日この頃なだけに、他の雑誌なんかでもおまけ戦略とか活発化していきそう。アニメ雑誌にアニメのDVDの付録が付くなんて話はずいぶんと前からあったから、今後はDVDボックスがつくとかあったりするのかも、さすがにこれはないか、いやしかし。SF雑誌だったらやっぱり宇宙人かなあ、火星人型か金星人型かはいちおう選べるようになっているという。料理雑誌は料理とはいかないんで、販売する店にシェフをおいて雑誌を買ったらその場で1品つくってもらえるというのはどうだ。5冊買ったらフルコースを味わえるとか。でもやっぱり本当に欲しいのはグラビア誌の付録かなあ。よりどりみどりの選び放題。でも初日の1番に買わないと、使い終わったのが回されてくるんで要注意、なんてことはやっぱりないな、あり得ない。

 高度に発達した下着は水着と区別がつかない。アーサー・C・クラーク。いやいやさすがにクラークはそんなことはいってないけど、いまをときめきすきときすなAKB48のメンバーが下着を堂々と表紙にさらしているということで話題を集めていた「わがままガールフレンド」(マガジンハウス)って写真集が販売になっていたんで買ってみたけれど、なるほど高度に発達してしまっているが故に下着なんだけれども水着とかわらないで、見てaaした義だって喜べる度合いが若干減殺されてしまっている感じ。もちろんそこは想像の力でもって遠くアンドロメダの果てにだっって飛べる人類の素晴らしさ。これは下着だ下着なんだ下着であらせられる下着さまなのであるといった思いを血に混ぜ脳内をめぐらせることによって、そうかそうなのだといった思いにこころを浮き立たせることは十分に可能なんで、あとは買った人と頑張り次第。眼の力を思いっきり振り絞れば、水着にしか見えない下着だって普通に着用されている白いレースのものだとか、イチゴ模様のものだとかに見えて見えないことはなかったりするかもしれない。根性あるのみ。

 それにしても全体としてくすんだいんしょうの写真が多い気がする「わがままガールフレンド」。表紙とか一部の写真はしっかりピントもあってくっきりとして色鮮やかなんだけれど、一部の写真はそれこそ手持ちの携帯ででも撮ったかのようにぼんやりとした印象で、色もくすみがかかって若い女性のみずみずしさとか吹っ飛んでしまっている、ように見える。たぶん今だからデジタルで撮っているだろうから補正だってし放題なんだろうけれども、そうした気安さがその場のライブ感覚でもって写真をとらせて、かってのように露出もばっちりあわせピントもしっかりあわせてから、1枚1枚を血のにじむ思いで撮っていくリバーサルフィルムをつかったグラビア撮影の真剣さを、減退させてしまってそれが形になって現れてしまっているってこともあるのかな。もちろん表紙で顎が2重に見えてしまっている人の場合はカメラマンの問題ではなく当人の課題なので気を付けよう、っていうか気を配ってあげようよ周囲。

 いやあ吃驚したというか腰を抜かしたというか。スタジオフェイクって会社があってそこが作っていろいろなところで見せていた「セバタン」ってキャラクターがそのエコっぽさから人形劇の主役に起用され、その声にあのプロレスラーの蝶野正洋さんが起用されるってことでその収録がおこなわれている場所で、囲み取材があるって聞いて「セバタン」をしばらく前から注目していた身としてこれはのぞいてみたいと思い、ガンダムで有名な駅から歩いてようやくたどり着いたスタジオで、集まったプロレス担当記者の背中越しに蝶野さんのかっこいい姿を拝み勇ましい声を聞こうかと思ったら甘かった。それはあまりに集まりすぎていた記者たちに遮られて何も聞けなかったというのとはまるっきり正反対の甘さだった。

 そんなに人が来ていない。というより僕が最初にやってきた人で、どうもどうもよく来たなさあインタビューだ単独たピンだ独占だって言われて正直びびりまくる。そりゃあプロレスは30年近く見続けているし蝶野さんだって前から見知ってはいたけれども、面前と向かって喋るなんて恐れおおいし恐ろしい。おまけに中身はアニメの声をあてるっていう僕にとっては本業でも蝶野さんにはまるで本業とは違った部分。どんな話をすればいいのか迷ったけれどもそこはいきおいでしゃべり倒していこうとしたら、案外というよりむしろそれが本質なんだろう蝶野さん、エコロジーの大切さや無駄に物を使う現代への憤りなんかをしっかりと話してくれてとっても心に残った。

 子どもにちゃんとエコの大切さを教えたい、それにはこの番組が最適、だから出るっていうきわめてシンプルでそしてストレートな出演の意図。前にウルトラマンで声優をやった時はある意味子どもに媚びたところがあったって言っていたけど今回は、純粋にまっすぐにエコを伝えるためって言っていた。真面目な人。そして正しい人。ファンになった。前からファンだけどよりいっそう。テレビ神奈川なんで見られないけど全国で放送したって全世界で見せたって大丈夫な内容なんで、UHFのネットワークで買って千葉テレビなんかでも放送するなりして欲しいと、今から願って叫びつつ、その一助のために頑張って言葉にしていこう。しかし緊張したよなあ。過去に話した人では1番くらいに強い人かもしれないもんなあ。


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