縮刷版2010年3月中旬号


【3月20日】 ファビオラに雪野五月さん。ふええ。くそメガネな婦長のロベルタが富沢美智恵さんだからバランスはとれているかもしれないけれどもしかしそれなりな大御所を、ちびっこメイドに当てて果たしてどんな雰囲気になるのか7月の発売が今から楽しみ弟子方がない「BLACK LAGOON」の第3期OVAシリーズ。もちろん登場しては軍人時代の矜持を見せるバラライカの小山茉美さんの凛としてどこかに狂気も波乱だ演技が今から楽しみで仕方がない。そんな情報も掲載された「月刊サンデーGX」2010年4月号で偽金ジェーンのシリーズにようやくレヴィが登場しては下品な会話をかましてロックをグチャグチャにしている。姐さんやっぱりかっこいい。そしてハメられているデコ眼鏡。気づいたにしても反撃に向かうのかそれとも乳眼鏡の手のひらで踊るだけなのか。以下次号。

 一方の「ヨルムンガンド」はトージョの昔の所属部隊との戦いは先週で終わったみたいで今号では後始末。南の島で海岸を歩いてきた敵の親玉と対峙して明らかになったのは、武器に溺れ武器に見せられてしまった者たちの末路の哀れさってことか。戦いたいってことと戦えるってことは違うんだなあ、やっぱり。でもSR班だって過去には結構戦ってきたしキャスパーを襲った猫みたいな口の娘だって一瞬チェキータの反応が遅れれば、そして靴に鉄板を仕込んでいなければ確実にキャスパーをしとめられていた。もっともそこをしとめさせないところがやぱり違いってことなんだろうけれど。トージョはだからそっちの側へと飛躍でき、SR班の面々は出来なかった。どこに違いがあったのかなあ。日本って国にやっぱり原因があるのかなあ。平和に爛れて滅び行くだけの国に。

 宮沢周さんの「アンシーズ」(集英社スーパーダッシュ文庫)ってシリーズが第3巻で完結。男子校に転校した少年が巻き込まれた戦いは、異空間で男を立てて抜刀すると剣が現れ身は女の子となり、同じように抜刀した元男の子の女の子と戦い負けて剣を折られると、正常空間に戻っても女の子のままになり自分も他人の記憶も最初から女の子だったことにされてしまうという設定。ちょっとあり得ないけど本当にそういう話なんだってば。でもって第3巻では生徒会長が敵に回って「Fate」のギルガメッシュも吃驚ってな剣の大群でもって襲いかかってくる。男の源みたいな抜刀気をため込んでいるから剣を折られても女の子にならない卑怯なくらいの強さだから少年も、そして少年が心惹かれた男か女か分からないヒロインもかなわない。

 まさに大ピンチ。っていうか少年は戦いでしっかり折られていったんは女の子に身も記憶もなりかかってしまうんだけれど、その昔に少年が剣を折ってしまって女の子にしてしまったミツツって子の奮闘もあって推し止まり、空間へと戻り戦いに身を投じて大逆転へと導いていく。大団円。男を象徴する物を立てて抜いて戦い折られると折られっぱなしという、実にファロセントリスムにあふれた小説だけれど、男を振りかざすというより折られようとも人は人という辺りに話を落ち着かせつつ、女装というよりトランスに近い状態への関心を誘い折られたって良いじゃんとも思わせる罪な話に落ち着いた。なかなかに良い結末だったと賛辞。そして次回作にも期待。股間がモゾモゾするような奴をまた是非に。

警視庁はありません  そして東武野田線で船橋から柏へと出てそこから常磐線に乗ってやって来ました桜田門、って何で桜田門に行くのに総武線で東京に向かうなり東西線で大手町あたりから乗り換えるなりしていないのか、って聞かれれば茨城県に向かったから。茨城に桜田門? そりゃあ井伊直弼を襲ったのは水戸藩士だけれどそれは江戸まで出て来てやったことであって茨城に桜田門なんてあるはずないじゃん、って言われるのは至極当然。けれども現在、桜田門は江戸ではなくって茨城の水戸は偕楽園の側に立っているのです。それも井伊直弼が血潮を散らした真冬のたたずまいで。

 何でも「桜田門外の変」っ映画があって、そののロケーションセットが偕楽園を見上げる千波湖の側に立てられていて、本格的な公開に先駆け先行公開をやっていたんでテクテクと歩いていって中を見物。真っ白な砂を踏んで歩いていった先で井伊直弼が斬られた辺りにたたずむ。もしも井伊大老存命ならば日本はどう変わったか。幕府はしばらくは長く続いたのか。分からないけど桜田門が歴史に残り警視庁の代名詞になるってこともなかったかも。

 周辺では可愛い娘が描かれたお菓子の「桜田門外の変」とか売ってて気分はなるほど「コみケッとスペシャル5in水戸」の開幕前夜。はるばる水戸まで出向いたのはそれの見物のためで当日に朝から入るのもしんどいと、梅も見頃な偕楽園の見物とかを兼ねて前夜から入ったという次第。でもって千波湖のほとりでは巣で雛を育てる黒鳥に近寄って巣を守る雄の黒鳥のくちばし攻撃を浴びつつ偕楽園へと登って梅を見物。真っ盛りをやや過ぎていてもしっかり残った花に気持ちも和む。そんな偕楽園のすぐ脇まで住宅が迫っていて、さぞや風光明媚とうらやみつつもシーズンは落ち着かない日が続くのだろうと同情。名古屋市農業センターの梅まつりとは比較にならないからなあ、全国区の知名度で。

梅子さんくるさだんちゅら  偕楽園駅では梅子さんというかミス梅というか梅大使な女性を眺めて元気を取り戻し、水戸駅へと向かい駅を降りて土産物屋を眺めたらありましたよいましたよ。マッチョな黄門様にヤバそうな分に気の助さん格さんが描かれた饅頭が。そのなも「黄門漫遊」は銘菓のあさ川が「コみケッとスペシャル5in水戸」とのコラボレーション商品のひとつとして作ったもの。コラボには他にも朝日新聞が取り上げて人気が更に広がった「うめ物語」って梅酒とか、こちらは若くて格好良い黄門チームが描かれた焼酎なんかも知られているけど、そんな品々の中でも群を抜いたインパクトを持っていて店頭でも平積みされた場所から熱気とパワーを放ってた。買わないと殴られそうだったんで2つ購入。そこからちょっと進んだ土産物コーナーには「うめ物語」も発見。でも夕方には売り切れていた。人気なんだなあやっぱり。

 そして道を歩いて明日の会場の前まで行ってここかと確認。それから裏手に回って「水戸芸術館」を見物。前庭にゴロゴロと転がっていた人たちは設営疲れの若人か、あそれとも明日からの戦いに備えてしばしの休憩を取る参加者か。そんな人たちを横目に2000年12月2日以来の「水戸芸術館」へと入り開催中の「REFLECTION」って展覧会を見物。映像や音声を中心とした展覧会って感じでカンボジアに行ったギャルがギャル後で偉そうに喋っている周囲で、ヴィトンだの何だのを地雷で吹き飛ばしていく映像なんかを添えて流して、今は復興に向かい発展も著しいカンボジアってところの一筋縄ではいかなさって奴を感じさせる。なおかつそうして爆破されたブランド品をオークションにかける映像なんかも流れてて、メッセージすらエンターテインメントにしてしまう世界の貪欲さって奴を何とはなしに感じさせる。オークショナーがいとうせいこうさんに似ていたけれどもあれはいとうせいこうさんなのか。

 それよりも凄かったのはライアン・トゥリカーティンって人の作品「Sibling Topics(SectionA)」って51分くらいの映像作品で、最初にツインテールの眼鏡っ娘だけれども臨月の腹をCGでモーフさせながらしゃべり倒させる映像をまず流し、それから女性なんだけれども胸を平べったくした人物のしゃべりを中心にゲイなのか異性装者なのか判然としない境界上に立つ人たちが絡みしゃべり騒ぐ様を短くつないで物語っぽいものを作りだしていて見ているとどこか不気味なんだけれども、どこか不思議な親近感を覚えて席を離れなくなる。それは倒錯への内なる憧れか。それとも解放された存在への共感か。胸に疵痕のあるメインの人物の胸元をさらけ出して叫び動き回る様の強烈な存在感に圧倒される数十分。一生に残る経験が出来た。来られる機会を作ってくれた水戸に感謝。

 チェックインまで時間があったんで通りを歩いて飯を喰らう場所を探すもこれといったところがなく結局松屋で豚バーベキュー焼き定食をもりもり、豚肉が分厚くなっていた。んで戻ってチェックインしてコンパクトだけれど部屋は明るく読書に最適で風呂もついてて家の風呂が壊れてかれこれ相当な年月が経ってて入れずそれでも帰省した時に入って以来の風呂に浸かって気分はリゾート。だけど本番は明日なので出かけず飲んでもビール1缶に抑えてあとはひたすら読書に勤しんでいたら眠くなってきたのでまた明日。ホテルにはどうやら有名な人とかも泊まっているみたいだけれど出歩かないので見かけない。朝には見かけるかな。明日も元気に早起き。


【3月19日】 月村了衛さんの「機龍警察」(ハヤカワJA文庫)という本を読む。深川あたりで3体のレイバー、じゃなかった機甲装兵が発見されて逃げて暴れて地下鉄に立てこもる。迎え撃つは警視庁に最近になって創設されたGPことギャラクシーポリス。出世第一の生真面目な1級刑事の真備清音が優秀さを発揮して敵に迫って奮闘するもぎりぎりのところで撃退。そこに装備も身につけないでピクニックに行くような気分で同僚の九羅密美星が赴くと、偶然にも敵の銃器はすべてジャムりマシンも誰かが捨てたバナナの皮にに滑ってすってんころりん。そこにちょうど落ちていた豆腐の角に頭部をぶつけたらなぜか木っ端みじんに吹き飛び行動不能となり、仕方なく乗り捨て現れた操縦者は空から落ちてきた金ダライに頭をぶつけて失神。見事に逮捕に至ってこれにて一件落着。

 という話ではまったくなかった。当たり前だこれは「天地無用」ではない。「デュアル ぱられルンルン物語」でもない。というかそういう話も書くけれど「Noire」ってハードボイルドなアクションだって書くアニメーション脚本家の月村さんが、初めてっぽく挑んだ小説はとことんハードボイルドなアクション小説。治安の悪化を見越したのか警察に出来た特捜部は、従来からあるSATみたいなところですら手に余るような事件を扱う部署で、それだけに警察以上の手練れとして元傭兵や元ロシアの警官や、元テロリストなんてものまでがメンバーに集められてそれぞれにカスタマイズされた機甲装兵を操り戦いに臨んでいる。

 もっともそこは日本でも1番くらいに身内意識と排外意識の強い警察組織だけあってうさんくさい連中が集まっているのみならず、自分たちの仕事も奪っているといった感情から悪意を向けて虐げ排除しようと躍起になっている。もちろんそうした声は百も承知特捜部の部長は外務官僚からの転籍とう組織内の人間とは違った感覚と、そしてしっかりとした正義感で動き特捜部を率いて事に当たろうとしてる。それでも避難は減らずすっこんでろといった意識は下がらず、深川あたりで発見された機甲装兵が一体で暴れた後で地下鉄に潜り込み人質をとって立てこもった事件にはSAT先導のバックアップに回されてしまう。ところが。事件は単純な立てこもりではなくSAT殲滅を狙った罠で、大勢の警官の命が奪われてしまい特捜部だけが助かってしまう。

 それが新たなやっかみを招きつつも特捜部はメンバーの情報網と行動力と、そして1部には日本の警官以上に警官らしいマインドで敵を暴き追いつめようとする。そんなプロフェッショナルたちの情報戦と銃撃戦と格闘戦を楽しめるストーリーには、警察という組織の家族っぽい良いところと、それが仇となりセクショナリズムの弊害も加わってどうしようもない事態が起こってしまうやるせなさが同時に感じられ、どうしたら良いんだって思いにかられるけれどもそれでどうかなるならどうかなっているからなあ。これからも嫉妬とやっかみと軋轢が渦巻く中で特捜の連中は苦しみ迷いながらもプロとしての凄みって奴を見せてくれるんだろう。アイルランドから来た女性の隊員はそうした感情とは無縁かな、ある意味で他の誰よりプロだしなあ。

 諸口正巳さんの「世界時計と針の夢」(C・NOVELSファンタジア)って小説がものすごい。どこか欧州っぽさを感じさせる、超近代的って訳ではない都市に暮らす主人公のシリルという青年は、電気を発生させる力を持つ上に優秀な一級時計職人として嘱望され稼いでいたものの、事故で指を切断してしまって時計士を廃業し、今は流れ作業の向上でラベル貼りの単純作業に勤しんでいる。美術が得意な双子の弟がいたけれども、ある日を堺にカマキリになってしまって家から出なくなり、兄の食事の世話とかをするだけになってしまう。母は蠅になってしまってジャムの瓶の中で暮らしている。そんな家族を養いに工場に通うシリルだったが、そこで工場長に呼び出され、仕事に来ない同僚の安否確認を命じられ行くとその同僚は百足になっていた。

 人が虫になってしまう世界。そしてクマバチのような仮面をつけた大男たちが歩き回っては、身分が証明できない輩や不穏な輩に杭打ち機で対を打ち込み殺害して歩いている世界。リアルさとはちょっと遠い世界が最初からそうだった訳ではなく10年ほど前にそうなってしまったらしいと誰もが知ってはいても、だからといって不思議に思ったりパニックに陥ることなく、衰亡へと向かう運命を享受している。けれどもそんな変貌には理由があって、なおかつシリルにそうした変貌を元に戻す力があるらしいことが分かって事態は大きく動き出す。

 暗澹として退廃的な都市のビジョン。そこに暮らす人々の抑圧されながらも整然として生きる様子。改変されてしまった世界を受け入れる者たちの姿に、流されて生きる人間の無様さとそれしか選べない弱さってやつが見えて、状況に流されがちな我が身を振り返っていたたれなくなる。世界を元通りに戻そうと動き出した奴らの姿は、何もしない身には痛いけれども一方でそうしたことへと踏み出すことの大切さって奴を教えられる。誰かが変えなければ変わらない。そしてその誰かが自分なら貴方はどうするか。やっぱり変えるだろうなあ、それが苦しみにつながったとしても。

 諸口正巳さんっていえば「フジミさん」シリーズでクトゥルー的なビジョンが現代日本と重なった、ドロドロとして異様な雰囲気を持った世界のビジョンを見せてくれたけど、こちらも巨大な9本脚の邪神が、空間の裂け目を突き破って現れ街を壊して暴れたり、わき出した闇が人間を喰らったりする怪奇と恐怖のビジョンって奴を存分に浴びせかけて来るから読むと誰もが怖気を感じそう。とてもじゃないけどそんな世界に暮らしたくはないけれど、それでも暮らしてしまった時に何をどうするかってことを考える礎にしよう。ああでもいきなり蚊とか蠅になってしまったらどうしようもないから、せめて百足くらいにしておいて欲しいと願おう。百足頑張った。本当によく頑張った。

 リアルグレードってんならやっぱり18メートルの現物をそのままのサイズで組み立てるプラモデルにするべきだろう、って思うけれどもそれを作るといったいどれだけに環境負荷がかかるのか、って考えたらちょっと製品化は難しいか。なのでバンダイがガンプラことガンダムのプラモデルの発売から30周年を記念して発売するリアルグレードガンダムは、大きさこそHGシリーズと同じ144分の1ながらもディテールを細かくし動く領域も高めて超精密な形とそして超フレキシブルな動きを楽しめるプラモデルになっている模様。実際に見たらダムの部分すなわちふくらはぎも細かく細工が施され、デザインも含めて超リアル。これなら超合金とかを買うよりも細かいディテールのものを、自分で作って楽しめるってことで大きく評判を集めそう。メガサイズを作りそしてRGを作る。そして並べて比べる。ガンプラワールドますます広がります。

 そして18メートルの等身大は東静岡に再登場が正式発表。7月から来年の1月までと期間も長く場所も風光明媚でお台場とは違ったロケーションを楽しめそう。今度はビームサーベルも持つみたいなんで前とは違ったビジョンが見られるんでやっぱりいかないと。でもっておそらく来年は手にビームライフルを持ち再来年はシールドも装備、その翌年刃ガンダムハンマーとガンダムジャベリンも装備して時々ハンマーをけ飛ばしてゴーゴー夕張ごっこなんかをするに違いない。というかして欲しい。残念なのは来年の1月ではSF大会には届かないってことか。せっかく近所でSF大会があるのになあ。無理ならせめてガンプラ工場見学会とか企画して欲しいなあ。先導は高千穂遙さん。中に入るなり「これはSFじゃない」って叫ぶんだ。でもって工場長は「そのとおりこれはガンプラだ」と切り返す。ちょっと楽しそう。行きたいなあ。


【3月18日】 あー。「おまもりひまり」は藤原啓治さんが演じている藤原啓治さん声ならではのやさぐれた雰囲気のおっさんの思考が、単純すぎて短絡すぎて誰か突っ込んでやれよ妖怪が人間を食わないなんて協定を守るはずがないよってことを、突っ込みたくなったけれどもそれが届くはずもなく金毛九尾の狐の少女と、酒呑童子らしい兄ちゃんの猛攻が始まりひまりや優人はギリギリのピンチ。まあきっとそこは撃退ってよりも何か秘密の力が発動してすべてを丸めつつ、俺たちの戦いはこれからだって展開になっていくって予想が今んところぎっちり。せめて最後くらいは見えるものをいっぱい見せなきゃ「おまもりひまり」らしくないって願望を出しておこう。優人の声には最後までなじめそうもないなあ。

 三雲版「キャリー」か、って実は「キャリー」は読んだことがないんだけれどもイヤでボーンでボウボウな作品の源流って知識はあってそれに従えば三雲岳斗さんの「幻獣坐」(講談社ノベルズ)はスティーブン・キングの系譜に連なる奇想小説ってことになるんだろうなあ。ただしアメリカの田舎町で訳じゃなくって舞台は日本のそれも近未来。啓治亜破綻した国にお金を与えて立て直した一族がいてそれが政治経済社会に暗然とした力を持つようになっているという。ヴァンパイアの一族じゃないよ。そんな一族の系譜に連なる人間たちは、あらゆる面で優遇を受け事件を起こしても司直にとらえられなかったりもしてとやりたい放題。当然ながら恨みを持つ者も現れるけどそれでどうにかなる国ではなくなってしまっていた。

 藤宮という主人公の少女はとりたててそうした鷲王院の一族とは無縁だけれどもただ1点、代々受け継ぐ力があってそれが少女にも伝わっていたようだけれども祖母のいさめもあって自ら力を封印していた。ところが友人の少女が自殺してしまった事件に憤って自殺の原因を探るうち、同じ目的を持った久瀬冬弥という少年と知り合い行動を共にしはじめたことで、その少年に恋慕しつつも退けられて恨みを抱いていた別の少女の奸計に落ちて自らを危険にさらしてしまい、状況を脱しようと封印していた力を浸かって人お命を奪ってしまう。それが幻獣の力。少女は殺人を悔やむものの久瀬はなぜかそんな藤宮を慰撫し力を隠し反抗を秘匿しようと立ち回る。

 それは藤宮への恋慕から来た擁護ではなく、少年自身のエゴイスティックな感情から来る恨みを晴らすための捨て石としての利用。親族を鷲王院の身内によって傷つけられたことを恨んで復讐しようと内心思いながら虎視眈々とその時をねらい、近寄るあらゆるものを利用しようとしていた。言い寄ってきた少女を退けたのも彼女がその一族に近かったから。恨みから何かしでかすようならその場に居合わせ彼女を追い込もうとしていただけだし、藤宮の力に気づいたのも本当は彼女を生け贄に捧げようとしていたところに力が発動された様を見たから。

 すべてを自分の復讐のためだけに企み、利用できるものはとことん利用しようとする久瀬と、心ならずも人を殺めてしまったことで迫る捜査に怯えつつ、やはり鷲王院の身内になることへの欲望から、姉を捨てた男への復讐に心迷わせる藤宮が、見に迫る危機をふりはらった先にたどり着くのは狂気に溺れて殺戮を繰り返す悪の境地か。それとも鷲王院の支配によって正義が曲げられている世界の方が狂気で2人の振るう狂気こそが実は真っ当なのか。経済危機に喘ぎモラル低下に苦しむ今の日本にだって起こりそうな歪んだ世界のビジョンに眉顰めるつつ、力を持つことの意味を考えよう。

 スポーツグラフィック誌の「Number」が750号で創刊30周年を迎えてサッカーを特集。野球じゃなくサッカーってところに今のスポーツにおける言葉を欲する層の傾向が見える。サッカーってついつい議論したくなるんだよなあ。もちろん最初っから「Number」がそうだったって訳じゃなく、野球にラグビーにF1といったものが誌面の中心を飾っていた。サッカーが記事になったのは創刊2号で女子サッカーを取り上げた時らしく、それも胸にボールが云々といった失礼極まりないもの。サッカーが言葉を待つファンを持ち始めたのは1にも2にもJリーグの発足とアメリカワールドカップへの挑戦、そのどちらでも中心となっていたカズこと三浦和良選手の存在だって言えそう。「それ行けトヨザキ!!」じゃないの? ってそれは思ったけれども今も記憶している人なんていないよなあ、振り返られもしてないし。単行本持ってるけどどこに閉まったかなあ。持っていけばサインしてもらえるかなあ。

 その「Number」創刊30周年特集では重要だったり思い出深かったり試合を振り返るカズも含めた選手たちに混じって、オシム監督が登場して2005年のナビスコカップ決勝対ガンバ大阪戦について語ってて、そこに込められた選手をマネジメントする力の大きさって奴を感じていろいろな思いが去来する。オシムは言う。「はじめのころ、練習後のロッカールームで選手を何度か叱りつけ、私が満足していないことをはっきり示した」。曖昧さに逃げない大切って奴。そして「最初は彼らも、私が何をしたいのかを理解できていなかった。だから、私にはアイディアがあって、それが彼らにも興味深いものであることを、示さねばならなかった。そこで結果が得られれば、選手は監督を信用する」。

 語りもしなけりゃ結果も出ない青い侍で信用が起こるはずない。だからあんな感じになってしまっているんだけれどそういうことに思いが至るんだったらとっくに代わっているよなあ。だからもはや期待しない。むしろオシムだ。ガンバ戦では何と前夜祭で選手を発表してしまった。それは西野朗監督へのブラフかというとさにあらず。「選手たちが試合により集中できるように、彼らに保障を与えた」のだそうだ。「先発かどうかわからなければ、試合当日に言われて驚くこともある。心理的に回復するまで時間がかかるが、あらかじめ分かっていれば、頭のなかで準備ができる」。

 もちろんリーグ戦でも代表戦でもオシムはそうしたことをしなかった。ガンバ戦では「ひとりでじっくりと考える時間を与えた。試合の意味をよく考えることが重要だ」。チームにとって初のタイトルをもたらすことになる大事な試合。それがどういう意味を持っているのかを考えれば、増長もできず卑下もできない。緊張はするかもしれないけれどそういう風にはならないよう、1年を通じて鍛え上げてきたのだからオシムも安心して任せたのだろう。「選手同士で、試合の入り方を話し合う」。

 ここぞという時にはセオリーを破ってでも最善を選び実行する。これぞいくつもの修羅場をくぐった経験がなせる技。オシムが日本代表監督を続けていれば、南アフリカでも世界を驚かせたかもしれない。ただそれ以上に、オシムの選手把握の方法を周囲が学び選手が感じ取りやがて指導者となって実践しはじめた時に、日本は指導力でも大きく底上げされていた可能性がある。それがとにかく惜しまれる。今の監督で選手は、周囲は育つか? 30年後に抱く思いを感じて胸に穴、ポッカリ。


【3月17日】 ライブを見物した関係で興味が前にも増してふくらんでしまって、発売全日というか一般には発売日ともいって良い日にKalafinaの2ndアルバム「Red Moon」を買ってくる。ライブの模様を収録したDVD付き。「空の境界」の主題歌を歌う限定ユニットって感じでデビューして活動していた頃は、お飾りの人形的なビジュアルに録音でもって整えた歌が重ねられたコンセプチュアルなユニットってイメージがあったけれど、プロジェクトが完結してもなお残って活動を続け、ライブを行って鍛え上げてきた歌唱力(かしょう・ちから)と音楽力(おんがく・ちから)を年末年始のライブで発揮。見てこれは本当に凄いユニットだと驚いていたらアルバムはさらに輪を掛けてどれも凄い曲で歌声になっていた。

 タイトル曲になっている「Red Moon」は、いきなり3拍子というかそんなリズムのミディアムテンポでアルバムのトップにして良いのかな、って思った人も多そうだけれど、どことなく幻想的なリズムとそしてわき出すようなWakanaさんの歌声が、アルバムの世界へと気持ちを引きずり込んでくれるから、これはこれで良いと言えそう。続けてこれは見知ったというか、すでに何度も聴いてもいるしCMで見てもいる「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」の主題歌「光の旋律」が流れて、スペインの街アンダルシアの庭へ(かどうかは知らないけれど)へと心を飛ばす。テレビだとどうしてもあのアニメの絵が重なるけれど、アルバムで曲として聴くと本当に心底から楽しそうな3人の声が響く。CMのイメージに近いかな。

 そこからアルバムは見知らぬ境地へ。アルバムが多分初披露になる「テトテトメトメ」はKeikoさんがメインで中近東っぽいリズムや音色をバックに歌っているんだけれど、そんなKeikoさんの歌を突き刺すようにHikaruさんが「ぐるぐるまわって」って歌っていて、そこのところの表現力はなるほどHikaruさん本人が聞き所と言っていただけあってとってもキュート。弾むような音色があって聞いていて耳の奥から背中へと抜けて、脚へとたどりついてステップを踏みたくなってくる。同様に初披露っぽい「fantasia」でも、ビートの利いた曲でメインボーカルに絡んでHikaruさんが華やかさをもった歌詞を歌い、かぶせるようにWakanaさんの透明感あるボーカルが重なってくるという、もう絶妙のアンサンブルが楽しめる。この連続、ちょっと凄い。

 そこから「ARIA」にも似た静かな曲へと行って、「春は黄金の夢の中」でここでも三者三様の声質がいい具合に溶け合って、パートパートで気分を盛り上げ泣かせ微笑ませる。そうか3人という意味はこういうところに出るのか。締めの部分でのWakanaさんの声がとてつもなく素晴らしくって、瞑目した眉間につーんと響いて心地良さを醸し出す。ところが。続くのがライブでもちょっぴり披露していた「Kyrie」で、これはもういきなりのバスドラどんどんシンセサイザーぴこぴこ。そんな派手なサウンドに負けないこれはHikaruさん? の情感豊かな声でもって歌が歌われ目をはっハッとさせられる。何という曲構成、退屈さなんてみじんも与えない。

 冒険は続く。Keikoさんがオペラ歌手ミュージカル歌手のように歌ってと言われて挑戦したとという「闇の唄」。なるほど大仰さをもったエジプトっぽさを持ったイントロから演技っぽさの入ったドスが利いた(失礼)が声が立ち上がって、浪々とした歌をつむいでいく。これをライブでやるときはいったいどんな姿勢を見せてくれるんだろう。やっぱりあれこれフリとか付けるのかな。両手を掲げて上を向いてイナバウアーとか。そして「星の謡」。尺八なのかフルートなのか分からねえ。でも盛りあがるサウンド。中盤にこうした個性の強い曲を配するってのは何だろうなあ、トータルで聴いたときにドラマ性を感じさせるためなんだろうか。プロデュースした人に聞いてみたい。

 そしてクライマックスへと向かう初っぱなといっても良さそうな「storia」が始まって、弾むようなHikaruさんの声で口火が切られてWakanaさんの澄んで浪々とした声がつながって、心地良い旋律の中に瞑目しつつも背筋がしゃっきりとして、どこか浄化されたような気分になってくる。挟まったり重なったりするHikaruさんの声の可愛さはもう反則級。美しく澄んだWakanaさんも凄いんだけれど人間、可愛さにまずは引っ張られてしまうんだよ。でも忘れていけないKeikoさんの低音。2人の個性をちゃんと下で支えている。これがなければ普通の掛け合いになってしまうところを、ハーモニーとアンサンブルに仕立て上げている。

 畳みかけるように「intermezzo」。静かに流れるような曲なんだけれど、詞がどことなくファンシーで耳に残る。そこからロック調のイントロで始まる「progressive」。うねるヴァイオリンの旋律にWakanaさんのハイトーンが重なり、Hikaruさんのノリの良い歌声が始まってここからライブなら総立ち拍手喝采って感じになっていきそう。続けざまに「Lacrimosa」とタイアップ絡みで耳馴染む曲を並べてアンコールっぽさを醸し出してオーラス。「I have a dream」。スローなバラードで映画「イヴの時間」の主題歌でもあるんだけれど、全部は流れないからフルバージョンはアルバムが初出し。でもってこれが実に良い。

 もう良いとしか言い様がないくらいに、沸き立って燃え上がった心を静めて、静寂の中へと戻してくれる。慟哭の1曲。感涙の1曲。Wakanaさんメインで始まった曲が2番でHikaruさんの声にKeikoさんの声も続いて、そしてユニゾンへとなだれ込んでメロディアスなサビへと向かう。とにかく盛りあがる。そして鎮められる。癒される。癒しの歌を歌いたいと話していたWakanaさんには、もうピッタリとしか言い様がない。Keikoさんにも見せ場たっぷり。ここまで来たんだ、ここまで来てそしてこれからも進んでいくんだ。そんな感じの詞が、2年を突っ走ってきてここまでたどり着いたkarafinaってユニットの軌跡とも重なって自然と涙が浮かんでくる。これを聴いて泣きながらライブ会場を後にすることになるのかなあ、それともやっぱり締めは「sprinter」で大盛り上がりの後に万歳で終わるのかなあ。ライブ行きたいなあ。行こうかなあ。大阪名古屋神戸東京と全部。

 「キディ・ガーランド」は周り回ってようやく時間が止まった空間でもって大騒動。銀河のすべてを助けたければ、5万人いるノーブルズを見捨てろって迫られるけど、星が爆発したら5万人のノーブルズだってまとめて吹き飛び、アスクールとガクトエルが暮らす場所だって銀河のどこにもなくなんるじゃねえのって、そんな矛盾はこの際気にせず敵だったはずの猫ちゃんが、脈絡もなく助けに周り京都女はつながりもなく残酷さをバリバリ発揮する展開の疾走ぶりと、そしてようやく生身で登場のエクレールとリュミエールのこれからの活躍ぶりを楽しみにしてクライマックスを待つのだ。リュミエールしゃべったけど声綾さんだったっけ。しかし2クールやって設定に奥も裏もなければ展開に広がりもなく、見えるとか見せるといったエロもなければ爆裂するギャグもない中をよくぞここまで保たせたと感心。それでいて毎週ちゃんと見たくなる。この普通感、現代にある意味貴重かも。

 いそいそとニッポン放送はイマジンスタジオまで出かけていって「マンガ大賞2010」の授賞式を見物。何といっても去年の授賞式には来られなかった「ちはやふる」の末次由紀さんがプレゼンターとして登場したことがひとつのビッグな出来事で、初年度の受賞に去年のプレゼンターと2年連続してやって来た「岳 みんなの山」の石塚真一さんの3年連続の登場とも相まって、受賞が大きな喜びと励みになっているってことを伺わせてくれた。これで100年続けば100人がやって来て会場もきっと大にぎわいになることだろう。それはないない。でもって石塚さんは後に小学館漫画賞って権威ある賞も受賞していながらマンガ大賞のことを「本当の賞」を激賞。誰が何かのバイアスにさらされることなく面白いかどうかで選ぶ賞って意味で、読者にとって本当に意味がある漫画の賞なんだってことを言ってくれているんだろう。有り難い。そして面白い。

 末次さんは「不義理してしまったことが心残りで、申し訳ないという気持ちがずっとあった。違う作品の授賞でここに来られたのが嬉しい」とまで語ってその場に居合わせられる喜びを表明。「いただいた後に、重さ、パワーを感じることができました。単行本を出すたびに、しつこいくらいにマンガ大賞受賞と帯に書いているのを見て、勲章のようなもので、漫画をあまり読まない人に、読んであげようかな、と後押していただいたいただい有りがたい賞」と受賞にとっても意味があることを話してた。これも有りがたい。本当に喜ばしい。

 そんな2人がともに受賞後に大人気となったことを受ければ、今回のヤマザキマリさん「テルマエ・ロマエ」(エンターブレイン刊)が大ベストセラーになることは確実、っていうかすでに数十万部うらいは出ていそうな売れ行きで、これが大賞受賞で露出を増すことによってさらに大きく増えて1000万部に達しハリウッドで映画化されて主役のルシウスをキーファー・サザーランドが演じることになるだろう。あるかなあ。

 でもって授賞式では、遠くポルトガルのリスボンからヤマザキマリさんがスカイプ中継によって登場。会場の様子を見つつこっちに顔をのぞかせながら、どうしてあの漫画が生まれたかってことを語ってた。それによれば旦那がイタリア人でローマオタクでおまけに堅物。まるでルシウスみたいにローマのことを語って聞かせてくれて、ローマ人の風呂好きも知ったというのに、見渡せば欧州のどこにも公衆浴場がなく、家にも浴そうがないという始末。風呂好き日本人としてはこれはいかんと立ち上がり、同人誌に描いたところ同時仲間の三宅乱丈さんが見て、これはおもしれえと「イムリ」を連載している雑誌の編集に見せて短編の掲載が決まって乗っけたものを編集長が見て、連載を決めてそして今に至るという。なるほどあの編集長にしてこの漫画。そしてあれやこれやそれやといった奇跡の漫画が「コミックビーム」から生まれているのか。

 ちなみに単行本の表紙がしっかり法経学部になっているのは、風呂ならば見せるのが当たり前であろ、タオルで隠すだの水着をつけて風呂に入るの覇言語道断であろ、といった編集長判断が強く激しく働いたかららしい。それを持って女性がレジにいくのはなかなか勇気がいりそうな漫画だけれど、不思議というか意外というか、実はむしろ当然というか結構な割合で女性が買っているという。とある書店では9割が女性。それも美人。まあたしかにルシウス、結構なガタイをしているもんなあ、BLぽさもあるし。ボーイかは不明だけど。そんなルシウスの筋骨と勤勉さ実直さに惹かれてファンになる女性がいたって不思議はないかなあ。その割には本編ではルシウス、女房に逃げられてしまうんだ。誰か代わって差し上げて。でも出張続きだからやっぱり2年で愛想尽かしてしまうかな。


【3月16日】 去年だったらきっと家系図をひっくり返して、切り張りしてでも自分は直江兼続の遠い親戚子孫の類だと言って、藩政建て直しに奔走した兼続の偉績を引き合いに、たとえ世が流転に喘いでも、自分は任された国政の建て直しに邁進しますといけしゃあしゃあと言ってのけただろうし、来年だったらお市の方の3人の娘でも秀吉に嫁ぎ権勢を誇りながらも最後は朽ちて大阪城に消えた姉の淀殿とは違って、幾人かとの婚姻を経て徳川秀忠の正室となって家光を生み、徳川300年の礎となったお江になぞらえ、たとえ時流に翻弄されても最後には国を担う相方を得て万世を紡ぐ基になる所存と言うに違いない。

 つまりは世間に馴染んでいる大河ドラマの主役を引き合いに出せば、何だかすごい人間だって思われるんじゃないかといった下心からの坂本龍馬へのなぞらえ。兄が総理で父も祖父も曾祖父までもが政治に粉骨砕身して来たことを棚に上げ、クォークよりも細く小さな糸をひっぱり龍馬と自分をつなげてみせる行為がそもそもみすぼらしくて見苦しいのに、それがさぞや世間受けするだろうと持ち出しメディアに語って聞かせる心根にはどうにも度し難い薫りが漂い、おまんそりゃいくらなんでも無理ぜよむちゃくちゃぜよって苦笑のひとつも浮かべたくなる。そんないかにも過ぎて苦笑いするしかない題材を、無茶と承知でデカく載せては薫りの醸成に一役買ってるメディアも同様に香(こうば)しいんだけれど。

 っていうかこれほどまでにベタな物語に自分を乗っけてかっこいいとか思っているんだろうか鳩山邦夫さん。坂本龍馬に憧れる人が多いのは分かるけれども過去に武田鉄也がどこまでも自分をそう思いこもうとし、ちょっと前はソフトバンクの孫正義さんが、自分こそがと言い募っては劇まで開いてなかなかさ加減を振りまいてくれていた。最近じゃあ幸福の実現なんかを望むというか、我が手で成し遂げんと欲する人が言霊を引っ張り出し、その翼下にあって日経ではないビジネス紙にコラムを持ってる党首を擁する政党の事務所に、有名な肖像を立て看板にしたPOPなんかも立ててくれちゃっている。肖像権って切れてるの? それとも許可してるの? 許可しているとしたらおおらかだなあ、坂本家。

 土産物屋が今こそ旬だと乗っかり携帯ストラップにTシャツにセンスに湯飲みにフィギュアを作るのは分かるけれど、自分自身をそうなぞらえて言ってしまうセンスの刹那っぷりに、それで来年にブームが過ぎ去ってもそう言い続けるだけの根性があるのかい? って尋ねてみたくなる。だから来年はお江になりますって言ったらそれはそれで愉快千万恐悦至極。そうですかって認めるより他にない。まあいずれにしたって言い募る人がいてそれを持ち上げる構図があって盛りあがっているように見える永田町のその周りで、冷めて呆れて眺めている人が大勢いるってことを、政治もメディアももっと感じ取った方が良いんじゃないのかなあ。なになに政治とメディアこそが世界、それだけが世界だって? ごもっともごもっとも。

 朝方に録画してあった「聖痕のクウェイサー」を見たら裸エプロンで戯れていた。こりゃあ何というかしかしまあ。直裁的ではないいしろ催される劣情にはなかなかのものがあるけどそれもやっぱりイケナイことなの? って感じに思わざるを得ない状況がさてはて、どう取り上げられているかを調べてみたら朝日新聞はさすがに表現規制の重要度ってやつに思い至ったのか、それとも手塚治虫マンガ文化賞を主催していて漫画家たちとの付き合いも深いからなのか、1面から2面へと続き長い記事を載せて状況を説明している。とはいえそこは是々非々でどちらともない両論併記。読む人は問題だという意識を醸成されるより先に、性犯罪とかいった懸念を煽られ否定に回るんだろうなあ、やっぱり。

 読売は第3社会面の上にはりつくベタっぽい記事で状況を説明。毎日は都民版におしこめ事がローカルな話に止まっているって感じを出している。そうじゃないっていうの。全国的に問題になるんだっていうの。それを気づいていながら敢えて都民にのみ伝え、世論の喚起には動こうとはしない。産経はいわずもがな。そうした新聞だけを読んでいる人には、とりわけ朝日以外を読んでいる人には何が何だかさっぱりって状況のまま、事は進められ認められた挙げ句に全国的な問題となって浮上し半ばしまりかかっていた首を切断へと追い込むおとになるのだろう。そうやってきっと徴兵制とか検閲制とかも進んでいくんだこれから先のこの国で。龍馬気取りのおっさんを持ち上げ頃がしているその裏側で。

 そうだよなあ、おニャンコ世代って基本的には当時に中学生高校生だった人たちだよなあって我が身を鑑みながら振り替える今日この頃。すでに大学に通ってバイト先のディスカウントストアで有線から流れる曲を聴いてはいたけれど、テレビで「夕焼けニャンニャン」を見られる訳でもなかったからそれほどファンにはならなかった。なったのはだから家に帰ってテレビを見られた中高生ってことで、今だと35歳あたりを中心とした世代ってことになるのかな。こうした世代への波及力があるからこそ今またおニャンコな人たちがテレビCMに出て歌っていられるんだろう。僕らの世代から見るとそれはとても不思議なことなのだ。僕だけか。

 でもテレビって仲介装置があった当時と違って今の中高生はどうやってAKB48にハマっているんだろうかと思いまどうのもやっぱり昨今。ふらりと歩いた秋葉原では石丸電器もソフマップもAKB48から出てきたユニットのうしろ髪ひかれ隊じゃなくうしろゆびさされ組でもない渡り廊下走り隊? だかのCDが発売になったとかで長い行列が出来ていた。まあさすがに中学生っぽいのはいなかったけれども高校生くらいならそこかしこ。ファンの中心層ってのが伺えたけれどもそうした層っていったい何を拠り所にして見知りファンになっていくんだろう。テレビじゃない。かといって劇場に通えるとも思えない。

 ネットコミュニティ? でもそれにしてはな人気ぶり。ネットなんかで仕掛けられたら逆にすれた兄ちゃんあたりは引きそうだけれど、直接っぽく情報が配布されるネットを通してすれてない若い人が引っ張られ、引きずり込まれていたりするんだろうか。誰かAKB48の今のファン層と、それがどういう回路でファンになったかを分析してくれい。でもっていったい毎月毎日毎時、幾らくらいお金を注ぎ込んでいるのかってのにも。あの行列はただごとじゃあないもんなあ。おかげでKalafinaはまずトップはとれないなあ。記事も出たのになあ。2ndアルバム「Red Moon」17日発売。19日には新宿のタワーレコードでインストアライブもあり。行くか頑張って整理券奪取して。

 でもって「ONE PIECE」の主題歌とエンディングが全部つまった2枚組CDの初回DVDセット版も購入してDVDを見返していっぱい出てくるナミとニコ・ロビンとその他、といってはさすがに失礼だから並べればゾロにウソップにサンジにチョッパーにフランキーにブルックとそして我らがルフィの麦わら海賊団一派の姿が懐かしくって遠い目。あのくっきりとしてあらわなロビンの胸元とかにもしばらくお目にかかってないなあ。代わりにボア・ハンコックのとっても立派な胸元が拝めるようにはなっているけどやっぱり仲間があってこその「ONE PIECE」。そこを置き去りにして白ひげさんが能力出した黒ひげさんたらまとめて食べたな展開ばかりを繰り広げていては、本質が大きくズレてしまう。作者の人にはここいらあたりで風呂敷をいったん畳み、ルフィとニコ・ロビンとナミとビビとあと侍コック嘘つき鹿サイボーグ骨による冒険って奴を見せては友情の素晴らしさとナミさんロビンちゃんの美しさを楽しませてやって下さいな。プラスでボア・ハンコックとなればぶひょー最高なんだけど。


【3月15日】 もう相当の大昔のことなんで読んだかどうかすら忘れてしまっていたけど名前だけは記憶があった日昌晶さんって人が新しく発表した「試験に出る竜退治」(PHP研究所)を読んだらこれが面白い。調べ直したら自分でも感想を書いていた「覇壊の宴」の人で異世界に戦車とかミサイルとかを売ってるサラリーマンが主人公だったんだっけ、割に経済軍事といったものを取り入れていて楽しめたって記憶があるけど今度のはもっとストレートにライトノベルで学園もの。それも竜退治を教える学園に通う少年少女の物語ってんだからいわゆる魔法学園物かとおもったら、ちゃんと仕掛が施してあった。

 それは竜退治を教える学校とはいっても、すでに竜なんて300年も現れていない絶滅危惧種。学校でもメインは魔法を教えるクラスになっているんだけれど、伝統は排せないってことで竜退治のクラスも残されていてそこでは甲冑を付けたり武器をとったりして戦うことを学んでいる。とはいえ平和も続く中で甲冑はスクール水着型になっていたりと現実離れも進行中。でもって話は4人いる竜退治科のうちの3人の女の子の1人のスクール甲冑が盗まれたって話から、疑われたクラスで唯一の少年が嫌疑を晴らすべく行動を始めるってドタバタ学園ラブコメディになっている。いやあんまりラブはないか。

 武器を使う訓練といって学校に現れる七不思議とやらを倒しにいったり、騎乗のための馬を世話したりってエピソードもあってほのぼのとして楽しい学園ストーリーの中に、アナクロな竜退治への嘲笑があってそれに逆らい己を貫こうとする少年の頑張りもあったりして楽しめる。最後のエピソードでは呪文によって竜が召還されてしまってそれを追い払うために竜退治科が大活躍するって展開。なんだ竜って普通に召還すれば出てくるんだって思ったけれどもそうでもしなきゃ現れないなら呪文によって追い返すことだって可能。ますます竜退治科の存在意義も薄れてしまうけれどもそこはそれ、どこかにいるかもしれない竜の退治のために4人は学問に訓練に励むのでありました。しかしそれにしてもPHP研究所がなあ、自己啓発と経済の会社がどうしてまた。誰かライトノベルの編集が映ったか。みかづき赤月さんのもそのうち読もう。

 おや? っていうかそれ売れてるじゃん、と思ったらそういうツッコミもいっぱいあって世間のメディアリテラシーの常識っぷりに胸をなで下ろした「らき☆すた」住民票売れ残り報道。何でも前に1万枚作ったらそれが4カ月ではけたんで、今度は3万枚を作って2009年の大晦日から売り出したら、3月10日あたりで7500枚の売れ残りが出て23日の町村合併を前に廃棄のピンチにあるっていう記事。いったんは「大量売れ残りの危機」って見だしでサイトに記事が出て、それが消えてその後に「22日まで売ります」って前向きさを見せた見出しになってはいるけれど、添えられた写真のキャプションは「売れ行きが芳しくなく、廃棄処分の危機にある…」って文言が変わらず添えられている。

 でも記事を読めばむしろ売れてるじゃんてことにならないか。前が4カ月で1万枚。今回は大晦日からだから1月2月とあと10日くらいで2万2500枚。むしろ倍以上のペースで売れている。売れまくっている。それをどう見たら「売れ行きが芳しくなく」ってことになるんだろうか。見通しの甘さ、ってことはないでもないけどそれでいったいどれだけの損が出るのか。赤字なのか。というか他の地域で作られているこうした特別住民票がいったいどれだけ売れて、どらくらい売れ残っているのか。それを思えばむしろおそらく「らき☆すた」は売れてる方。でもってこれまで住民票を売って得たお金でなしえたことの方が他の地域より遙かに大きい。

 鷲宮神社へと続く道路の脇にある電柱の上にとりつけられた街路灯。晴明紋みたいなのがついてなかななの格好良さを持つそれらは確か住民票なんかからの収益を還元する形で取り付けられたんじゃなかったっけ。初詣なんかの時にあの道路が前よりも明るく照らされているのはそうした活動の成果であって何も行われていなければ、何も変わってはいなかった。あるいは何かを買えるにしてもすべてが持ち出しになっていたのが「らき☆すた」の住民票を発売したことによってそこに上乗せができた。かつて日本中に1億円ばらまいた事業の多くが1億円を雲散霧消させただけだったのと比べると、よっぽど参照にされ賞賛される事業なんじゃなかろうか。

 少しでも無駄が出るならそれは見通しが甘すぎるって批判なのかもしれないけれど、やってなければマイナスだったものがやったことによってプラスになって、そして現状からみればゼロにはならずやっぱりプラスで残りそう。良い取り組みだったと言われてもおかしくないことを、異常と論うような筆致で記事にするのはやっぱりどこかに行政の、地道な取り組みですら批判したい感情と、そこにサブカルが絡むことへの嫌悪感があるのだろうか。あるいは書き手にはそうした意識はなくても、掲載の段階でそうした行政批判サブカル嫌悪を込めたいだれかの手が入ってああいった感じになってしまって、それはあまりに何だと書き手なりが訴え見だしのニュアンスが弱められたのか。まあ結果としては存在が今一度喧伝され、それなら行こうと思わせる効果を発揮したことだけは確実。最初っからそれを意図しての記事だったとしたらありがとうと言いたいんだけれど果たして。

 明け方に録画してあった「ダンスインザヴァンパイアバンド」を見たら非実在の青少年をとっても育成させそうな展開だった。吸血鬼にされてしまった眼鏡の生徒会長が敵方の手下になってミナ姫を邪魔しようとしたけれども大好きな少年によって排除されてそして決戦へと至った後に実は蹴散らされていなかった会長が少年を脱がしたり突き刺したり血まみれにしたり。それはすなわち吸血鬼という存在になってしまった者にしかできない愛情と友情の表現であり、そうした表現を心底から望み受け入れる少年の歓喜でもあって見ていて感動以外の邪な情動なんてほとんど起こさないにも関わらず、それをそう見たい人にはそう見えてしまうんだろうと思うとどうにもやっぱりヤバさが身辺にまとわりつく。

 そんなヤバさをもはやカンベンならぬと漫画家さんとかが立ち上がって東京都庁で会見や集会を開催。残念ながら都政は直接触っておらず別の取材があって集会にも顔を出せなかったけれどもその賑わいを見れば世の中もきっと黙ってはいられない、と思いたいけれども午前に通信社がそうした誓願が行われたってことを報じて各紙が取り上げたほかは夕方の段階であんまり賑わっている雰囲気がない。あるいはもしかして完黙を決め込んで時期が過ぎたらはい通っちゃいましたとやる気なのかどうなのか、不安だけれどもとりあえず京都新聞は地元に京都精華大学を置いていて、そこの漫画学部長を務めている竹宮恵子さんが意見書の提出に参加していたこともあって「漫画性表現規制『議論慎重に』精華大学部長ら 都の民主会派に意見書」って感じに報じてた。しっかりと危険性を漫画家たちの側の主張として紹介していて良い感じ。共同の配信を使っていないところにも事態への問題意識が伺える。

 一方で逆にバイアスが働くとこうなるってのが「東京都の2次元児童ポルノ規制にちばてつやさんらが反対の記者会見」って記事。「子供の性行為を描く漫画など『2次元児童ポルノ』規制のため、東京都が今定例議会に提出した青少年健全育成条例の改正案で、改正案に反対する漫画家のちばてつやさんや里中満智子さんらが15日、都庁で記者会見を開いた」って書いてあるけどそもそもが児童ポルノに漫画とかアニメーションとかが含まれようとしている状況への危機感から、それは表現規制を招きかねないからと取られた行動。それなのにあたかもすでに「児童ポルノ」として規定され、排撃されてしかるべき物に漫画家の人たちが逆らっているって印象を与えるような言葉遣いになっている。

 そこには表現規制が招く問題への意識、ちばてつやさんがギャラリーに掲載の漫画で、「−と、ぼくは思います!!」と拳を振り上げ危険性を訴えている真摯にして切実な問題意識を「児童ポルノ擁護」といったニュアンスにすり替えてしまう危険性と恣意性が浮かび漂う。そうした行動の根本に気づけばとてもじゃないけど使えない「2次元児童ポルノ」なんて非実在の言葉をすでに既定路線として使うところに、既定路線になって欲しいというかなるべきだという信念なり意志なりがあるんだろう。何かを表現しているメディアでも、ことさら権力による規制には反対すべき報道というフィールドに立っていてなお、こうした言葉がするりと出てくるってことはつまり立っている場所が報道というフィールドとは違うところにあるってことなのか、これこそが真実を口にするジャーナリズムというものなのか。うーん。もう何が何だか分からない。分からないままきっとどうにかなっていってしまんだろう。どうにかって何だ。


【3月14日】 明け方に目を覚まして録画したての「とある科学の超電磁砲」を見ようとしたら「うみねこがなく頃に」が録画されてて、魔女ベアトリーチェが久々に登場しては表情も醜悪に罵声を浴びせかけていた。堪能堪能。って違ったテレスティーナだった。まあオープニングでのどこか思わせぶりなところなる口だけカットとか、本編での親切そうに見えて時々みせるニヤリな口元から豹変は予想されていたけど、演技までもがベアトリーチェ化するとはちょっと予想してなかった。期待はしてたけど。

 ともあれ大原さやかさん、すっかりあの悪辣豹変演技をものにしたなあ。次は「カレイドスター」のレイラ・ハミルトンでの豹変を期待。苗木野そらを相手に「てめえの技はクズなんだよ!! 隅っこで臍でも噛んで泣いていろ!」と悪罵を投げつけるレイラさん。見たいねえ。あるいは「ARIA」で水無灯里に向かって「あんたの漕ぎ方じゃあ100年経っても目的地につかねえんだよ! このノロマ!! 水の中で逆立ちしながら脚で漕ぐ練習でもしてろ!!」と嘲笑するアリシア・フローレンスとか。鍛えられるねえ。

 思っても言っちゃダメなことってのは多々あるもので、ましてや公器と社会に目され木鐸として居住まいを正して運営されるべき新聞が、看板コラムでもって独裁者と世に言われる者たちへの礼賛が散りばめられた教科書を取り上げ紹介しつつ、それを見習ってはどうかなどと例え皮肉であっても言ってはいけない、良いはずがない。見習うということはすなわち教科書に権力者へと阿る言辞が並び、自国の歴史への検証的な視座をいっさい廃した肯定と礼賛の論陣が並んで読む者たちに一方的な感性をのみ、与え育ませることになる。

 そうしたい、という気持ちが内心にやまやまであっても、そうではない意見も含まれているのが自由で公正な社会というもの。にもかかわらずそうした多様性を廃して単一の視座、それも独裁国家が繰り出すような権力への礼賛にあふれた物に倣えなどといって怯まない筆が、中立公正を旨とし是々非々を良とする新聞の正面に、堂々と飾られているこの奇妙。だから皮肉なんだどという言い訳をするならば、その後に多様性を認める国の素晴らしさを讃えるのが論理というものなのに、むしろ多様過ぎる状況への異論を掲げてみせるあたりに、皮肉の裏側にある羨望が見てとれる。それはすでに見透かされていて、多方面よりの見解にさらされているにも関わらず、見えず聞こえないふりをしているのか、本当に関知していないのか態度は永続。そして結果は……。ますますもって夏が不安になって来た。

 そんなマスコミに「閉門蟄居、切腹を命じる」美輪明宏様。時々トンデモ過ぎる意見も出たりするけれど、たいがいにおいて核心をスバリと衝いて稚拙だったり独善だったりする見解を叩き廃してくれている「スポーツニッポン」のコラム「明るい明日」の2010年3月14日付で、「ネット時代のマスコミは『プロ』の技見せよ」と叫んでいる。冒頭から「ネット上の新たなコミュニケーションツール『ツイッター』が流行しているようです。利用者にとってそれらは『王様の耳はロバの耳』に出てくる『穴』なのです」と鋭く存在を規定し「この流行の底流には、マスコミに対する根強い不信感があります」と指摘する。

 「最近は多くの人がマスコミに対する信頼感を無くして敬遠するようになっている。その原因のひとつが、悪意に満ちた方針の記事で埋め尽くせば売れ行きが伸びると一時しのぎの小賢しい計算で露命をつないできた週刊誌の横行です」。なるほど。「そのような週刊誌を広告のお得意様にしている新聞も共犯です」。バッサリ。「左右どちらにしろ政治色が強まれば読者や視聴者は嫌悪感を抱き離れてゆきます」。ずいぶんと離れられてしまいました。でも改めるどころかより過激さを増しているのが昨今。むしろ週に7日のコラムで民主落ちがない日を見つけるのが難しいくらいに色を濃くしている。叱ってやってよ美輪様。

 「ブログやツイッターがいくら流行しても素人はしょせん素人に過ぎません。読者や視聴者を『さすがプロは違う』と感嘆させるような情報や見識、見解を常に提供していけば生き残って行かれるのです」については異論もありそうだけれど、決して当たっていないとは言えない部分はあって傾聴に値する。一方で素人の意見も素人なりに面白くってためになる。そうした意見を取捨選択し合成し考察する知恵を一般の人が持ち始めているってこともあるから決して粗略には扱えない。問題はだからそうした「プロ」がなくなってしまっていることにある。その理由もちゃんと美輪様は挙げている。

 「残念ながら今のマスコミは力不足です。五輪が始まれば五輪一色、酒井法子の事件が起きればのりピー一色、沢尻エリカが『別に』と言えばエリカ様一色、各社横並びで特色がありません」。そんな記事ばかりで埋め尽くされてしまうのが「のりピーやエリカ様を好きでしょうがないマスコミの色おけおっちゃんたち」の趣味なのか、他がそうするからそうするんだという横並び意識かは分からないけどそうしたマスコミの感性が「農漁業や都会のさまざまな年代、職種の国民との間にどれだけの距離があるかに気づかねばならぶギリギリのところに今来ている」ことは確か。「誇りと勇気ある独自性がマスコミにないのは、このネット時代に罪悪」とはまったくもってそのとおり。とはいえ妙に発揮される独自性が「悪意に満ち」たものだったり、勇気が弱者に対する虚勢だったりするところもないでもないからなあ。やっぱりもうイケナイのかなあ。

 つらつらと起きてやっぱり見ておこうかと東京ビッグサイトで開かれている礼大祭…じゃなかった「GEISAI14」を見に行ったら宮台真司さんが秒速2・4メートルくらいの速度で審査をしていた。何という動体視力。まあ会場も向かいのこっちは本当の東方関連イベントに比べてホール規模で3分の1、でもって詰まり具合も過去に比べてゆったりしていて見て回っても30分とかあれば存分に可能なくらいだったのが、過去の大繁栄を知る見には何というか寂しくも見えたりしなかったり。最大でどれくらいまで行ったんだっけかなあ。西館の下全部とか使っていた時期もあったもんなあ。4分の1はステージだったけど。でも今回も1ホールの4分の1はステージだった。つまりはそういう規模なんだ。

 出ている人たちに罪もなければ優劣もなくってそれぞれに頑張って描いて作って持ち込んでいる。ただやっぱり数は力で見てこれはというものに出会えるチャンスは確実に格段に減ってしまっているような感じ。たとえ「GEISAI」で認められても昔だったら村上隆さんのメディアも巻き込んでの大プロモーションに乗っかり世に出られたけれど、今のこの状況で村上さんパワーがどれだけ世間を動かしているかというと。どうにも心許ないところがある。もちろん現代アートにおいての存在感はぴかいちで、メディアに出る機会も多いけれどもそれはオークションで幾らついたといった話がメーン。作品そのものがどうなのか、ってアーティストとしての存在意義に関わる部分での方を終ぞ見ない。

 プロデューサーでありトリックスターでもあってそうしたフックにはなってもそれはいつか飽きられる。2年で人気者を使い潰すメディアで10年、よく保ったって方を讃えたいけどそこから先、何をどうしていくのかを見せてくれないと応援したくてもちょっとできない。なおかつそうしたメディア的なバリューで未だにナンバーワンな村上さんの相対的な希薄化は、現代アートを志す人の甲子園的な場であった「GEISAI」そのものの存在感の希薄化を招き参加者の意欲を削り来場者の興味も減らしてそして今日のこの雰囲気、ってことになっているんだろう。何か勿体ない気がいっぱい。どこかでもっとうまくやってればなあ。あるいは飽きっぽいメディアがいけないのか。いやいや14回のほとんどすべてに通っている人間もここにいるのに、取材しませんかって話が来たことがほとんどないんだよなあ。弱小だからかなあ。しもつけ行きだもんなあ。哀切。

 そんな中でも個人的に気に入った何点か。まずは菰田晴さんってきっと幼少のみぎりは晴ボンとかって呼ばれていたんじゃないかと妄想も浮かぶ人の作品はキャラっぽいものがとてつもなく細かい模様で描かれていてそれが余白もたっぷりととられた真っ白な紙かなにかの上にポツンと置かれている。全体としては静謐なんだけれど細部に目をやると喧騒のある不思議なコントラストと、モチーフにされているキャラっぽいものの不可思議なフォルムがとてもよくマッチしていて飾って眺めていてもしばらく飽きなさそう。これは良い物だって思ったけれども審査員はやっぱり素通り? それから新藤杏子さんって人の淡く描かれた退治か赤子のような人物像のシリーズが、不気味さと美しさを併せ持った感じで見ていて吸い込まれそうになった。誰か似た絵を描いている人がいたなあ。誰だったっけ。

 圧巻という意味では朝倉景龍さんって人のほぼ等身大の女性の絵がずらり並んでいたコーナーが圧巻。それぞれがどことなくサディスティックにボンデージは行っていたりするんだけれども単純なボンデージではなく細かい変形変成が施されて幻想的で猟奇的な雰囲気を醸し出す。ベースとなる女性像のタッチが整地なだけにそうした変成変形も最初っから備わった形質に見えてくるから不思議。でもそんな女性が存在するはずがないという無ずん。見れば見るほど吸い込まれる。まあ単純に裸っぽい女性の絵だから目が釘付けってこともあるんだけれど。ほかにも写真の高木亜麗さんとか見て楽しいものがあったけれども全体としては派手さ破天荒さがあんまりなかった感じ。鹿に入れ墨とかくらい? そんなんでもやらないよりはやってくれた方がこうした作品にまとめて出会える機会なんで村上さんには頑張って続けていってもらおう。お金出す会社はまだまだるみたいだし。あるのかな。

 転戦の後に「フクダ電子アリーナ」でJ2となったジェフユナイテッド市原・千葉のホーム初戦を見物……巻誠一郎が機能していない。ポストになっても見ないでパスだししていたりして届かない。クロスもほとんど飛んでこないから怖さがない。ただ守備には活躍。どうして使えないかを理解したのか後半からは佐藤勇人選手が中盤に構えて両サイドに散らすようにしてそこから巻選手も前へと詰めて良いクロスを競ったりディフェンダーを引きずって両サイドをフリーにさせたりする効果を発揮するようになった。やっぱり佐藤選手は半端じゃなく凄い選手だったと理解。中後選手が出られないのも分かるなあ。でも得点は米倉選手の2点。どちらも完璧。とはいえそれだけしかとれなかったのも問題か。一気呵成に得点して突き放せるだけの余力を溜めておいて欲しいなあ。次のホーム戦も行こう。アニメフェアの帰りとかに。


【3月13日】 その交差点を曲がる先が右、というのはつまりやっぱり不安を煽り憤りを誘い、自分だけは知っていると思いがちな知性はあっても情理に疎い選良をこそ導き手と尊び束ね、「う○こなう」などと新たに手にしたメディアに書くような大衆を暗愚とみなして平らげ傘下に入れてまとめ導くのだと嘯き、純血を訴え排外を旨とし日教組を誹りアジアとの連帯を否定し欧米ですら敵と見なし、強者礼儀を重んじる割に弱者への思慕にはまるで欠け、国旗国家を拠り所とし「SAPIO」を読み「WILL」を読み「正論」を読み「SPA!」はかっちゃんだけ読み歴代総理で最も偉大なのは安倍ちゃんだとうそぶき、筆を取っては同じ愚政を執り行っても革新政党ならば罵倒し保守政党なら賞賛するマインドを、全国民的に抱くようにし向けた果てにこの国を世界でも希有な存在へと持っていくのが最適だと、滝沢朗を通して言いたかったのだろうか神山健治監督は。

 いや神山監督に限ってそれはなく、むしろそうしたエリート主義を物部って存在に集約させては敗北させ、崩壊させ退場させるような展開を置くことによって否定し、滝沢が提案した若い奴らによってダラダラとしつつそれなりに、この国を居心地の良い方向へと持っていく方向をこそ第一義としているんだってくみ取りたい気はあるんだけれど、いい目を見ている大人たちへの反抗を終えて権勢を手にした若者たちが次にいったい何をするのか、って考えるとやっぱりそれは手にした権勢を堅持し守り抜く方向へと向かいがち。さらに大人たちの否定ってのは決して右へ右へとハンドルを切ろうとしている者への異論だけでなく、成長の波に乗って平和を謳歌し繁栄を享受する中で、自我を肥大させつつ尊大さを育みつつ、大人になったどちらかとえいば左方にいたりする者をもまとめて廃していこうって思想にもつながる。そうした世代間での闘争が極端へと走った挙げ句に見える光景。それはやっぱりあんまり緩さ楽しさに溢れたものにはなりそうもない。

 やっぱり見て置かなくちゃと朝の6時に起きだして、電車を乗り継ぎ向かった豊洲、すなわち聖地の「ユナイテッドシネマ豊洲」で朝8時からの第1回目の上映を見た「東のエデンU Paradise Lost」は試写で見た所見から大きく進んで心よりの感謝賞賛に傾くってことはやっぱりなく、うーんうーんといった脳髄からの呻吟をやっぱり求められる作品で、それは繰り出されているメッセージのレイヤーにおいて前述の、どこに導こうとしているかというとそこには明快な解答を置かず、判断を当事者にゆだねることによって自主性を認めてはいてもそこから導き出される答えが予測を越えて痛快さへと向かうことはなく、むしろやっぱり右に交差点を曲がって決断を求め責任を求める一方で博愛を捨て平等を捨てさせる道に向かわせそうな気がしたってことがある。

 あとはアニメーションという表現形式において果たして適切な題材だったのかという部分で、絵が動いて現実ではなかなかあり得ない状況をビジョンとして見せてくるのがアニメーションの良さだとしたら、ほとんどが密室での会話劇に終始し、そこで「異議あり」とか「赤での復唱を要求する」とかいった言葉尻をつかんでの大逆転劇もなく、もちろん文字は画面に踊らず千種さんがいきなり豹変して汚い言葉を吐き始める愉快さもないまま、淡々と事が運んでいくのはちょっと勿体ないというか、アニメでやる意味がどこにあったんだろうかといった疑義が浮かんで消えるどころか2度目の鑑賞でさらに意を強くした。

 あるいはアニメーションを表現形式ではなくジャンルとしてとらえることによって、若い人たちに広い接点を持ち、ドラマやドキュメンタリーや活字では振り向いてもくれない層に気にしてもらえて、そしてそこに繰り広げられている展開から、メッセージをくみ取ってもらえるってメリットがあるんだと考えていたんだとしたら、その部分ではなるほどアニメーションである意味を大いに果たしていると言えないこともない。問題はだからそのメッセージにあるんだけれどそれがこれ、だからなあ。うーん。まあ仕方がない。これで終わったとは思わずむしろ再開されたっぽいセレソンゲームに誰が参加し何をしでかしていくのかってのを描く「東のエデンV Games Continue」が本当に作られるなり、漫画や小説として書かれるなり、いろいろと考えた個人がそれなら俺が私がと同人的に引き継ぎ描いては、自分たちにとって最善の「東のエデン」を見つけられるようになってくれればこれ幸い。そこでは誰もが自由で平等で博愛で幸福で満腹であって欲しいと願おう。カプセルの中で。夢の中で味わう境地として。ダメじゃんその方よっぽどが。

 しかし良いよなあ亜東ガールズ。制服で膝上のタイトなスカートでややぽっちゃりでメガネを掛けてて声が玉川紗己子さんってだけでもう側に置いておきたくなる。誰が、ってんじゃなく全員。そういや昔関西の研究所で空になったシャンパンのボトルを持って現れたことがあったっけ。あれはどの亜東ガールズだったんだろう。っていうかこいつらおそまつ君なのか。同じ環境で育って性格違いすぎってのは多産児の場合によくあることなのか。双子じゃよくあることだってのは身をもってしっている。むしろそうならない方が変だけど。4つ子5つ子6つ子の場合は知らないなあ。あとは滝沢母ちゃん40代? 千種さん58才? 誰がどう描いたらあんなにぴかぴかでつるつるな顔になるんだ20代だって通用しそうじゃないか。いやいやだからあの世界はもうすでに電脳が発達して目にARの若い顔を見せるなり、義体が完成していてそれに自在に乗り換えられるようになっているんだ。でなきゃあの美貌は説明不能。教えてその辺を偉い人。

 そんなこんなで午前9時半には上映が終わって「もうほっといて」クッキーもちゃんと手に入れ映画館を出たらららぽーとまだ開店してねえってのがちょっと凄い。やっぱり朝が早すぎた。そこから下北沢のフェアトレードな店にご用聞きに伺い、京王井の頭戦で渋谷へと戻ってマークシティ口から降りて徒歩で1分とかの便利な場所にあることが分かってそれならと赴いた「シネマアンジェリカ」で6回目となる「マイマイ新子と千年の魔法」を見る。うんここなら音響も映像も座席もちゃんといちおう映画館としての気分を味わえる。ってかむかしはクッションが薄く外とは暗幕1枚で隔てられた映画館で傷がいっぱいあって音も割れるような環境で、映画を平気で見られたんだけれどシネマコンプレックスが発達して設備がゴージャスになるにつれて身の程も上がってしまってなかなか昔の宮裏太陽のような(ローカル過ぎ)劇場では見られなくなってしまった。作る方も完璧な音響と映像に併せて作るから、そうでない場所だと見づらく聞きづらくなってしまうのもあるしなあ。仕方がない。ともあれ「シネマアンジェリカ」ならピカデリー級とまではいかなくても、ちゃんと細部まで音を聞けるので見に行く価値はあると宣言。

 渋谷へと向かい工学院大学・朝日カレッジってところで講演会を見物、JCスタッフって「とある科学の超電磁砲」とか作ってぶいぶい言わせているアニメ制作会社でこうした作品を束ねてぶいぶい言わせているプロデューサーの人が成り立ちから生い立ちから最近の状勢まで騙ってくれて、岐路に立つってよりは隘路にはまりかけているアニメ制作の現場で何をどうしていこうとしているのかってのが見えて面白かった。志向しているのは演出でいくら作画が完璧で一切の崩れもなくクリエーターの妙味が存分に発揮されていても、お話として見てダメならそれはダメっていった判断には賛意。っていうか演出もしっかりしていてお話も巧みな上に作画がちゃんとついて着ているのが1番なんだけれど、それが無理ならば配分するのは演出ってところに、見ていて安心できる作品を送り出し続けられる秘訣があるんだろう、たぶん。

 あと最近はアニメ制作会社には作った作品の権利がないのが問題だ、っていった主張があっちこっちに出回っていてそれが搾取構造の象徴みたく言われているけど出資したところでリターンされるの分がいったいどれくらいなのか、そりゃあ全世界で何百万とかってなればリターンも大きくなるんだろうけれどもそれが生み出される確率を考えると、出資して金銭的なリスクを負うよりは、開発会社として注文されたものを適切な費用でしっかりと作り適切な価格で治める方が優先だし、リスクも低いし利益もとれるっていった考え方は、ある意味でとても健全で耳心地も良い。

 たぶん問題があるとしたら発注される時の費用がちゃんとしたものを作るのに足りているか、安い金で人を働かせすぎていないか、ってあたりとあとそれなりな金額をもらっても、管理の甘さといった面や作り手のプライドといった面から費用がかかり過ぎてしまって脚を出し、自転車操業に陥ってしまう可能性があっるってあたりで、JCスタッフがそこをどう対処しているのかに興味があった。だってちゃんと動いているもん「超電磁砲」も「のだめ」も。経営の堅さがある一方でそこにクリエーターを引きつける魅力もある、ってことなんだろう。それが出来るのはなぜなのか。武蔵境の土と水と空気に秘密があるのかな。調べてみよういつか。


【3月12日】 えっと記憶だと2005年の7月30日に「埼玉スタジアム2002」で浦和レッドダイヤモンズと親善試合をしたマンチェスター・ユナイテッドを見ていて、それが多分マンチェスター・ユナイテッドを見たのも、ウェイン・ルーニー選手を見たのも最初だったはず。これに先立つ記者会見なんかで、サー・ボビー・チャールトンも登場してFAカップ(レプリカ?)も持参していたのを見物して、マンチェスター・ユナイテッドとサー・ボビー・チャールトンがそこへと至るまでに重ねてきた歴史の重みってやつを、存分に味わいつつも一方で、ルーニー選手にクリスチアーノ・ロナウド選手といった新しい人材を世に送り出し、世界の最前線で最高峰の試合を連日繰り広げているという現役ぶりを鑑みて、歴史と実力を兼ね備えてこそのビッグクラブであり、レジェンドクラブなんだなあ、といった思いを強く抱いたんだっけ。

 後に2008年の12月21日にも、こちらは親善試合ではなく公式戦、それも名実共に世界最高峰クラブを決める「クラブワールドカップ」の決勝戦で、マンチェスター・ユナイテッドがチリから来たリーガ・デ・キトだったっけ、そんなチームとの試合を行ってロナウド選手からのラストパスをルーニー選手が決めたかして1対0で勝ちきった鉄板試合を、1階席のほとんど間近で見て、埼玉では浦和レッズに配慮して青だったマンチェスター・ユナイテッドが正真正銘の“赤い悪魔”としてピッチを君臨する姿に、改めてその大きさを知ったんだった。ファンの熱さでは2005年にやって来たリヴァプールの方が、地元から大挙してサポーターが乗り込んできていて、ユルネバってた記憶があってより熱かった気もするけれども、熱中する人がいてそれなりなファンもいてって広がりがあるのも、ビッグクラブの証明なのかもしれない。

 そんなマンチェスター・ユナイテッドが何故にマンチェスター・ユナイテッドであり、だからこそマンチェスター・ユナイテッドなのだということを書いたジム・ホワイト著で東本貢司訳による分厚い本「マンチェスター・ユナイテッド・クロニクル」(カンゼン、2800円)が出ていたんで買ってはみたけど、分厚すぎて細かすぎて一気読み出来そうもなにで気になるところから読もうとしたらやっぱり手が伸びるのが「ミュンヘンの悲劇」について書かれた章か。

 大昔にサー・ボビー・チャールトンの評伝として書かれた漫画の「栄光なき天才たち」でも読んで、その悲劇っぷりが身に染みついている話だけれど、チャンピオンズカップ、すなわち今でいうチャンピオンズリーグの準決勝をユーゴスラヴィアのレッドスターと戦い、勝利して帰還する途中、給油に立ち寄ったミュンヘン空港からの離陸に失敗して乗っていたマンチェスター・ユナイテッドの選手の多くが死亡してしまったのが「ミュンヘンの悲劇」。

 中には、後にマイケル・オーウェン選手に破られるまで最年少のイングランド代表入り記録を持っていたダンカン・エドワーズ選手や大砲のトミー・テイラー選手といった、存命ならば確実にレジェンドとして語り継がれた選手たちが含まれていて、マンチェスター・ユナイテッドのファンのみならずイングランドのサッカー界にも大打撃を与えた事故だった模様。生き延びたサー・ボビー・チャールトンはしばらくサッカーが出来なかったけれども、立ち直ってチームを率いて10年の後にチャンピオンズカップを獲得し、イングランド代表にも入って初のワールドカップをサッカーの母国にもたらした。どん底からの大復活。これが泣かせる話でなくって何なんだ、ってことにやっぱりなってしまう。

 興味深かったのは、やっぱり絶頂から悲運のどん底へとたたき落とされた「スペルガの悲劇」、すなわちイタリアのサッカーリーグで4連覇を続けていたトリノの選手たちが、ポルトガルでの親善試合からの帰りに乗っていた飛行機がトリノ郊外墜落して、全員死亡というとんでもない事態にもなり、イタリア代表にも多大な影響を与えたという事件との関連。マンチェスター・ユナイテッドの「ミュンヘンの悲劇」に劣るどころか、勝るスケールを持った悲劇でもあるんだけけれど、印象としてそれほど強く残ってないのは、その後にトリノが長い低迷期に入って、セリエAでの活躍もほとんどないまま最近では、大黒将志選手が所属したことで日本人に知られるくらいだったのに対して、マンチェスター・ユナイテッドが1990年代に入って、サー・アレックス・ファーガソンの下で黄金期を迎え、そのまま維持して世界に知られる存在になったって違いがあるから、なんだろう。

 あとは、そんな全世界的に痛むべき、ってみなされている「ミュンヘンの悲劇」であっても、ライバルチームのマンチェスター・シティにとっては、内心に死への悼みはあったとしても、チームを応援する身として、決して真正面からは悼めないもらしいってこと。悲劇の日時が近づいた試合でセレモニーが行われる場に居合わせたとしたら、そこで盛大にブーイングをするなり、周辺で飛行機ポーズから崩れ落ちる格好を見せて、悲劇を揶揄するようなこともするらしい。

 それもある意味でチームに忠義を近い敵チームを徹底してこき下ろす明快さを持った、イングランドのフットボールのサポーターって言えば言えそう。その是非を言うなら、戦うチームであっても骨肉腫で競技が続けられなくなった選手のために、募金をしたり千羽鶴を折ったりするチームが少なくない日本のJリーグの方が、何だから心にホッとする。作戦や技術に世界標準は必要だけれど、シーズンとか意識は独自で良いのだ。絶対に。

 「暁と黄昏の狭間」のシリーズでも見せた、異世界を形作り異なる法則を練り上げ異質な人々を配置して、新鮮で荘厳で深淵な物語を紡ぎ上げる腕前を、西魚リツコさんがまた見せてくれた。「石霊と氷姫 上」(幻狼ファンタジアノベルズ)は、石から精霊を呼び出す力が存在するって設定もひとつにはあるんだけれど、そうした力を発揮できるものの異能バトルって感じではなく、まずは争い合っている中から平穏へと向かった世界があって、そこを支配している王がいて、王子がいて藩王がいて、武勲のあった藩王が王の長女をめとりその婚姻のためのお祝いとして、別のライバルの藩王は次女の姫に精霊が入った石を贈って心を引こうとするものの姫はガン無視。あんまり心を動かされるたちでではないらしく、それが氷姫ってニックネームになり、タイトルにもなっている。

 物語は、それからしばらく経ってとある街で宿代を払わないからと袋にされている青年を、通りがかった牧師の連れが語りかけ、助け上げてそのまま連れていくってところから本格的な幕を開ける。実は牧師一行は一種の騙り屋で、牧師なんて本当はいないのに世間をだまして歩いていて、かつて共に教会で育てられた孤児のひとりが、今は国の偉い人に拾われ、それなりに出世したと聞いて、会いにいこうとしていた模様。

 そんな一行が助けたテオって青年は、かつて石霊を育てながらも商人に騙され奪われ、それが氷の姫に献上され、恨みから新しい石霊を見つけ育てて復讐に向かう途中だったらしい。そうして出会った2人のうちのテオは、巡察にやって来るという騙り屋の幼馴染みだった男を、とりあえず勢力争いの暗殺から助けようと動き、騙り屋は王都に上がってひょんなことから王室に紛れ込み、氷姫と出会って石霊がすでに死んでしまっていると聴かされる。

 一方で、世界は新たな戦乱が起こりそうな感じで、ケンタウロスみたいな格好をした民族もいたりするからには、ほかにいろいろな生命体がいそうな国々での争いが、これからどう繰り広げられ、どこへと向かうのかっていった大きな物語が楽しめそうな上に、氷姫が何故に氷姫なのか、そして彼女は石霊を通して誰と出会いどう動くのかってあたりへの興味、アルという名の騙り屋と、今は巡察使になった幼馴染みとの関係はどうなるのか、ってな感じに、いろいろなフェーズでの設定を楽しめそう。

 愚鈍に見えて案外に切れ者っぽいかもしれないけれど、誰かに担がれているだけかもしれない王様の動静とか、こちらはわがままで暗愚っぽい割に、しっかりと陰謀も巡らせている王子の動静なんかにも関心。そうした入り組んで多層的な物語ながら「暁と黄昏の狭間」よりも格段に読みやすくなっているから楽しい会話とアクションと陰謀と冒険の中で引っ張り込まれて追っていけるので安心。下巻が今は待ち遠しい。

 まあどうせ発売日前には出回って発売日には品切れになっているだろうとの予想のもとで、FLASHアニメ付きの特装版「這いよれ! ニャル子さん4 スペシャルBOX」をさがして見つけて即購入。通常版の本だけのやつも買って読むのはこっちにしてスペシャルはとっておくのもひとつのあり方だけど、それだと楽しいFLASHアニメが見られないのがやや残念。なばらともう1つスペシャルボックスを買うかというとこれがなかなかの値段だからちょっぴり後込み。ここはえいやっと開けてみるのが良いんだけれども、なかなかつかない踏ん切りに箱の中から名状しがたき何やらかにやらが這い出てきて、夜中に枕元に立って見ろ見ろと言ってくれればいっそそれならって気も起きそう。でも名状しがたきバールのようなものでぶん殴るのは止めてくれ。

 瀬戸際ではあるものの行動があれば報道もしやすい、っていうか本当はそれではただの発表ジャーナリズムなんだけれど、みんなで渡るからこそ大きな力になる場合っておもあって、この場合は散発的な支援よりも一気呵成の波となって、問題を提起できるんじゃないかって期待も浮かぶ「東京都による青少年健全育成条例改正案と『非実在青少年』規制を考える」記者会見。そろったメンバーも大物揃いで決して無碍にはできない人たちなんで、メディアもその問題性をいろいろと考えるんじゃないだろうか、某紙がやや心配だけど。ああでも民主のやることすべて反対ってスタンスだから、これは民主がイチオシですとかと言えば反対に回るかも、だってさんざんコミンテルの陰謀を唱えている人を擁護したり、インテリジェントデザインなんてものを持ち上げたりしていながら、民主の偉い人の発言だからといって、911の陰謀論を真っ向から否定してみせるんだから。でもなあ、そういう作戦もちょっと嫌だなあ。しもつけなうな時に言ってた是々非々を、こういう場でも発揮していただけたらと期待希望要望絶望……絶望かよ。


【3月11日】 浦和レッドダイヤモンズでワールドカップに出場した経験があるフォワードといえば高原直泰選手ただ1人。それも最近はめっきり出場機会が減ってしまっていて、南アフリカのワールドカップ出場はおろかレギュラーとしてでも控えとしてでも、Jリーグの試合に出ることすらなかなか適わなくなってしまっている。オリンピックの出場経験を持つフォワードも高原選手と田中達也選手くらい。高原選手は2002年のシドニー五輪、田中選手は2004年のアテネに出場してそれぞれに活躍は見せたものの、田中選手は期待されながら2006年のドイツワールドカップは怪我もあって外れ、その後もなかなか復活を果たせず南アフリカ行きはなかなか遠い状況にある。

 他のポジションに目を転じてもワールドカップに坪井慶介選手が出ていてアテネ五輪に阿部勇樹選手が出ていて北京五輪に細貝萌選手が出ていたってくらい。代表で大きな大会、すなわち修羅場をくぐった選手はそれほど多くないところにいよいよもって最高の舞台で大活躍を続けてきたフォワードが加わるというからこれはもう他のチームは戦々恐々。そのキャリアたるや、2度のワールドカップと2度の五輪出場なんて凄さで現役を見渡してもこれほどのキャリアの持ち主はそうはいない。途中の予選では完全アウェーで10万人近い敵の観客に囲まれるスタジアムで、高い標高に息苦しさを覚えながらも得点を叩き込んだその決定力、その強心臓ぶりに並ぶ選手など浦和レッズさがしても誰1人としていないだろう。

 そんな凄みを発揮しながらもプライベートでは陽気で賑やか。カメラを向けられればギャグの1つも返してみせる楽しい性格。時間があけばスーパーマーケットに行ってレジを打つひょうきんさも見せるという、そんな明るくて開放的な性格は、強いリーダーシップを発揮していた闘莉王選手なき後の浦和レッズにあって、太陽のような輝きを見せることだろう。そんな選手が加わる浦和レッズと今シーズン、対戦しなくて良かったとジェフユナイテッド市原・千葉のサポーターとしてはほっと胸をなで下ろしているところ。来週にも移籍が発表となるみたいなんで、月末から春にかけての埼玉スタジアムにそのボンバーヘッドが駆け回り、強烈なシュートを決める姿を遠くから応援していこう。頑張れ荒川恵理子。田中達也との高原直泰を超えてつかめナンバーワンフォワードの座を。だからレディースだって移籍先は。

 というか名古屋じゃ普通に有名なんだけれども全国的には果たしてどうなんだろうかと心配もしたけれども東京は渋谷の道玄坂プライムに映画館の施設をそのまま利用して生まれたライブハウスの「プレジャー・プレジャー」に登場したセンチメンタルシティロマンスのライブにちゃんとしっかり来場者。始まればウェストコーストサウンドって雰囲気のギターワークにコーラスにキーボードベースドラムが重なる厚みがあってそれでいて繊細なサウンドと、それから中野督夫さん細井豊さん告井延隆さんの作り出すハーモニーが時に陽気だったり時に切なかったりするセンチメンタルシティロマンスの音楽を奏でて気持ちを1970年代80年代の時代へと帰らせる。

 音の作られ方になじみがあるのはほとんど同じ時代を同じフィールドでもって活躍していた山下達郎さんととっても近かったりするからで、耳にとっても心地よくそして慣れた感じで響いて気分を浮き立たせる。あと達郎さんの突き抜ける声とは違って前に押し出ずかといって引っ込みもしていない中野さんの優しい歌声ってのがバンドとしてのセンチメンタルシティロマンスを聞いているんだなあって気にさせてくれる。名古屋にいた時にはLPレコードとかで聞いてはいたんだけれどそんなに熱心じゃなかったのが今更ながらに惜しまれるくらい、素晴らしいライブを見せてくれてこれなら名古屋で通って置けば良かったかなあ、なんて思ったけれども20代の若造では、あの音楽を味わい尽くすのは無理だった。今だからこそのセンチメンタルシティロマンス。東京に来るならまた行こう、って原宿のクロコダイルでやってるみたいだけど、アルバムのカバーってすっげえ企画を。

 しかしそんなセンチメンタルシティロマンスだけでも凄いのに、ゲストがこれまた超有名人の伊勢正三さん。「22歳の別れ」で「なごり雪」の伊勢さんが登場してはセンチメンタルシティロマンスの繊細なサウンドをバックに「22歳の別れ」も「なごり雪」も歌ってくれるんだから、これはもう天然記念物であり国宝であり世界遺産であり人類の宝を間近に見ているといっても言い過ぎじゃない。日本の音楽に刻まれ永遠に残るだろう名曲を生で、それもセンチメンタルシティロマンスのサウンドで聞けて見られた幸運にきっと今年はもう何の幸運も訪れないに違いないって気になって来た。そうでなくても左前の周辺状況。幸運どころか不幸が山津波のように押し寄せてきそうなだけに今の至福を胸に1年を乗り切れればこれ幸い。乗り切ったところでその先に更なる不幸が待ち受けているだけなんだけど。悲哀。

 ライブではあと女性のボーカリストの人が出てきて名前は川村はるかさん? よく知らないけど澄んだ綺麗な声の人が2曲くらいを歌ってくれた。そのうちの1曲は告井さんの息子さんって人が作ったらしい曲なんだけれどこれがめちゃくちゃ良かった。とてつもなく良かった。おまけに演奏がセンチメンタルシティロマンスだからもう最高に良かったんだけれどどういう名前の曲でCDとかになっているのかがまるで不明。川村さんって人の曲なのかも不明なんでこれからいろいろ調べてみて、手に入るんなら入れるし入らないんなら演奏を聞きに行ければ行こう。アンコールでも伊勢さんといっしょにご登場してコーラスも鮮やかにセンチメンタルシティロマンスに絡んでた。あの歳(何歳か知らないけど)で超絶メンバーといっしょにやるともう次の誰とやってもフツーになっちゃうんじゃないかと心配。凄いなあ。そしてこれからも凄くあれ。センチメンタルシティロマンス。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る