縮刷版2010年月12下旬号


【12月31日】 国際展示場駅についても食べないかと誘うフランクフルトはまだ売ってなくってそのまま会場へと行き西館(にし・やかた)へと上がって企業ブースへ。軒並み売り散らからされて何も残っていない中を期待しないでジェネオンのブースに行ったら、安倍吉俊さんとあずまきよひこさんのコラボTシャツだけが避けられるように残っていたのは神様が、僕のために取り置いてくれたからだと天に向かって感謝しつつ世代はもはや安倍さんあずまさんといったところではなく、別のところへと関心を移しているのかもしれないといった感じを肌身に覚えもしたり。それとも相当数を見込んで作りすぎた結果、余っていただけなのか。うーん。まあ手に入ったんだから良いや。

 「それでも町は廻っている」のTシャツを近所のヤングキングアワーズのブースでみかけたけれど値段も張ったんだでパス。欲しいと真っ先に思ったたっつんもメイドのバンドのも残っていたのは何だろう、これも世間の世代の感覚が僕とはズレて来ているということなのか。うーん。そういえば雑誌に連載の方は例のメガネの警官が、眼鏡をすっ飛ばして放火犯を対峙してた。なるほど眼鏡をかけているときは長髪の陰険っぽいオタクなおまわりさんが眼鏡をとったらカーリーのジーパン刑事なポリスメンだったとは。でもそれだとアニメ版の声とか合わなくなるよなあ。まあそこは合わせてくるんだろう、芸達者な人だけに。ってもここまで来るにはあと何シーズン、作られないといけないんだ?

 西館(にし・やかた)を下がって東館(東・館)へと向かう通路が大混雑していたのは、正面からブリッジ経由で東館への連絡通路手前に合流させるルートも開いていたからか、それとも単に東館に需要の多いジャンルが集まっていたからなのあ。それでも濃密ながらも整然と進んで入った東館で氷川竜介さん家でヤマトの批評本を買い、マンガ論争ブースへと回って新刊を買って以上で修了のコミックマーケット。回り回れば欲しい本も見つかっただろうけれども年末に出費も嵩んで大変だったんで遠慮する。そりゃあプリキュア本とか欲しかったけれど並ぶ体力、ありません。まあ読めば楽しいんだけれどその楽しさって本編にも、本編から自分で膨らませる妄想にもかなうものじゃあないし。

 そう妄想。脳内であのキャラクターをああしちゃったり、あのキャラクターとこうしちゃたりする妄想を鍛え極めさえすればそれは、誰かの脳内で生み出されたものが、手というデバイスを通して神に描かれたものなんてとても及ばない、自分オリエンテッドなものになっているはずだ。そりゃあプロも混じっている同人には時に驚かされる発想もあるし、刺激されるビジュアルもあるけれども、そうしたものがすべて自分の好みのベクトルと完全にマッチしているとは限らない。自分好みの物を生み出せる最大のクリエーターは自分。ならばその自分のクリエイティブ能力を脳内で極め、好きなときに好きなビジョンを脳内に呼び出せるようにすれば、もはや同人誌など必要となくなるのではないか。うんそうだ。といって行列に並ぶ労力を厭い散財する覚悟から逃げてしまう自分が振り返ってちょっと悲しい。これが歳を取るということなのだなあ。

 とか言いつつ秋葉原で涼宮ハルヒの1番くじなんかを引いていたりする自分。情けない。それでもこれまで出ていなかったD賞の「消失ver.きゅんキャラセット」が2種類とも確保できたからまあいいか。置いておこう場所もないんだけれど。あとK−BOOKSで売り切れ必至でコトブキヤでは売り切れていたCHOCOさんの画集も山積みの最後の1冊を確保できたから僥倖。年の最後の最後でちょっぴり良いことあったかも。そのまま御徒町へと回ってミリタリーショップで靴下買ったりして帰宅。寝て起きたら新年間近で紅白も見ていなければ自演乙が勝利した場面も見なかった。何ということはない普通の日。それでも1日は過ぎていき、1年は過ぎていってまた新しい1年が始まる。とくにどうということもないだろうけれど、とりわけどうということもなければそれもそれで悪くないってことで、じゃあ、また。

【12月30日】 マヒロの戦いはこれからだ。そう、まさしくこれから始まる本当の戦いのために、マヒロ王子が全開バリバリでぶっ飛ぶ話が林トモアキさんの「ミスマルカ興国物語8」だった訳だけれども、その一方で、相方がいたいけなパリスちゃんから純真なルナス姫へと移って文字通りの昼行灯ぶりを発揮し続けるマヒロに手を焼き諫め鼓舞しようとして空気に酸素のごときの抵抗感の無さに思い悩み、姉たちに愚痴っては姉たちが姉たちだけに役に立つ助言は得られずさらにいらだつという悪循環。そのジタバタぶりを見るのが楽しくって姉たちはルナス姫をからかうんだろうけれど、それも終わっていよいよ本腰が入ったマヒロに再びトキメキを取り戻したルナス姫が、尻に敷き首を引っ張り足首つかんで振り回した果てにいったいマヒロの体はどうなってしまうのか。乞うご期待。酒場から酒場を渡り歩いて傭兵家業のパリスにも出合い。こちらは果たして。

 かつて大店の娘だった少女が家の火災で没落して、仲の良かった下男の息子からも厳しい言葉で嘲られ失意の中で吉原に沈んで、そこで花魁への道を目指そうとして新造になってついた花魁が性格最悪、ことあるごとに少女を虐めて上には行かせないようにする。いったいどうしてと悩むかというと少女はこれで決行したたか、見返そうと頑張り抜きまた花魁の方も決して虐めてばかりではなく、少女がピンチになると現れ助けてあげるから案外に少女の健気さに共感していて、そして花魁2人の吉原細腕繁盛記が始まるか、っていうと響さん「おいらんガール」はそんな話でもありつつ、そうでもない展開が待っているからそういう方面が好きな人が読んで喜ぼう。っていうか帯に並んで花魁と新造が描かれていると、何となく関係も見えてしまったんだけれど。流行っているなあ、こういうの。

 とりあえず朝に家を出て新幹線で静岡へ。名古屋駅へと行くルートとして通常だと鶴間緯線で伏見まで出て東山線に乗り換え、1駅乗って名古屋駅へと向っていたけど途中で御器所から桜通線に乗り換えるとどんなだろうと試したら時間がかかった。そうだよなあ。今池とか敬yうしてたりする訳だし。そんでもって名古屋駅では何か土産はないかと探したけれども藤田屋の大あんまきはあるにはあったものの作り置きが箱詰めにされていたもので、焼きたてのをもりもりと食らう本物との違いがやや気になって、これは違うと買わずにおく。今度戻ったらやっぱり知立まで行くしかないな。あるいはどこか出張販売しているところへ。

 混んでいるかと心配したけど、割と空いてた新幹線で静岡に到着。そのまま東静岡へと向かってガンダムと富士山を見ようとしたけど、富士山はまるで見えず。初日の前日に言ったときは夏で霞んで見えなかったから、これで結局ガンダム富士、あるいは富士ガンダムとは体面できずに終わるのかと残念がっていたら、帰りがけの新幹線で東静岡あたりを通ったときに、快晴になっててガンダムと、富士山に笠が半端にかかった状態のを見ることができた。たとえ電車の中からでも両方を見られるってのは演技が良いねえ、ほら言うじゃない、「1富士2ガンダム3アッガイ」って。アッガイはどこにあったんだ?

 現地では煙というか水蒸気を吹き出すガンダムを下から眺め、露天で去年のお台場とそれから夏の静岡に続いてハム焼きを食らい、土産物屋でミニチュアのガンダム1/1工事中フィギュアを買ってそれからラーメン屋台で富山の黒い醤油ラーメンを食らう。静岡まで来て富山ラーメンってのもあれだけれど、富士宮の焼きそばも静岡市って訳ではないからなあ、おでんはちょっと食べたかったかも、ダシ粉とかぶっかけるんだ。あとオープニングの時にはまだ開いていなかったミュージアムで、キュベルワーゲンの実寸大とかコアファイターの1/1がひっくり返っているのとかを見物。ミーア・キャンベルかレディ・アンが欲しくて買ったヒロインスピリッツのハーフエイジガールズは、アンビレー・ピアズリーとレイン・カミムラが出て萎える。ってか誰なんだこの子たちは?

 戻ってきたらJAXAiが閉まってたけれど開いてた時だって行っても別に何もなかったんで影響はないなあ。あかつき打ち上げん時にバッヂをもらったくらい? 何が売ってる訳でもないあの場所が何かのためになっていたとはあんまり思えないだけに、はやぶさの感動をそっちに引き延ばして一緒くたにまるめ込むのはやっぱり違っているんじゃなかろーか。んでもって「ヤングキングアワーズ」の2011年2月号をようやく買って読んだらノイシュヴァンシュタイン桜子らカッシュマッシュのお尻が凄いことになっていた。たとえ間にそろって生えていようともこの後ろ姿なら誰だって男子だって女子だって楽しめる。美に性別なんてないのだ。お話の方は時期的に紅白ネタ。デカい衣装の2人組のガチバトルから生まれる友情って奴で。案外に本番もそうなったりして。衣装が全員ミニに、ってそれは勘弁。


【12月29日】 真夜中にロックの歴史をおさらいする番組がやっていたのを見たけどクリエイションがいっぱい出ていてやっぱり竹田和夫のギターは凄いと分かったけれども歌はザ・ファンクスの入場テーマにも使われていた「スピニング・トゥー・ホールド」とそれからテレビドラマ「プロハンター」の主題歌に使われていた「ロンリーハート」しか知らないという罠。同じ番組に出ていた「ゴダイゴ」がやっぱり「ガンダーラ」と「モンキーマジック」で認知されて「銀河鉄道999」でブレイクして、アイドルバンドと思われてしまったようにテレビメディアの人気番組で何かをすると、それがマスイメージになってそれこそ永遠に刻まれる時代だったんだと今更ながらに振り返る。

 そんな「ゴダイゴ」だって結成からしばらくはロックのそれも本格的にハードだったりプログレッシブだったのをやっていた訳で、テレビでも流れた楽曲「デッド・エンド」なんかドラマチックな展開とサウンドが現代でも通用しそうな感じがしたけど、コーラスを務めていたのが3人組の女性ユニット「アップル」だったというところがまた時代というか。でも3人ともしっかりコーラス合わせていたところが、あの時代のアイドル演歌ポップスを問わず歌は歌として聴かれ認められていたことを思い出す。松田聖子さんだって中森明菜さんだって歌でアイドルだけれどその歌でちゃんと天下を取ったんだよなあ。マッチとトシちゃんは知らないけど。郷ひろみとかフォーリーブスとかはちゃんと歌だった。どこで何かが変わったのか?

 そんなクリエイションとか外道とかがいっぱい出ていた割には、フラワー・トラヴェリン・バンドとかウエストロード・ブルース・バンドとかレイジーとかシュガー・ベイブとかはあんまり出ていなかった番組は、だから映画「ロック誕生」とか郡山で開かれたワンステップフェスティバルなんかの文脈の上に作られていた関係で、そこにメインで絡まって来ないバンドは取り上げられづらかったってことなのか。恣意的な訳じゃないけれど、結果としてそうやって歴史は選別されて紹介されて、やがて定番化していくといった可能性。そうじゃないところでだったらどうやって歴史を全体として伝えるか。アーカイブが重要なんだろうなあ。

 その意味でユーキャンが頑張って作った「日本ロック&ブルース大全」は凄い仕事だったよ。番組にコメントしていた増渕英紀さんも関わった、ロックの黎明期からロックが近田春夫さんやミッキー・カーティスさんたちが嘆くようにピリピリとせず警察に見とがめられなくなってしまった時代の前までを、丹念に拾い集めてその上でなおかつ世に喧伝された曲というよりそのバンドやシンガーらしい曲、その時代らしい曲ばかりを収録したCD集。聞けば何がロックかってことが1発で分かるようになっている。

 もっともそこは通販のユーキャンならではの商品で、果たしてCDがドカンと届いて豪華な冊子まで付くというゴージャスさが、懐かしさに溺れたい年輩者には大受けしても、まさに本物のロックを聴くべき世代に遠慮を引き起こしていないかがちょっと気にかかる。CDプレーヤーすら持たず音楽は全部ネットから、なんて人も出始めているくらいだし、そんな人がCDを手に入れたって聴けずにもてあます、なんてことも起こりかねないから今の時代。だったらいっそ全曲を収録したiPodとか出したら、5万円でも買ったかもしれない、って人もいたりするのかも。そんなのロックじゃねえアナログ盤で出せって声も一方にあったりするかもなあ。かくして乖離が進み音楽は高齢化していくという。難しいなあ。

 2002年に最初の「新世紀東京国際アニメフェア21」が開かれたのは東京ビッグサイトの西館で、確か上の方のフロアに各社がブースを並べて見せつつ、アワードの表彰式も行われて、宮崎駿さんが珍しく登場して壇上に上がって何かを喋ったんじゃないかって記憶があるけれど、それと同時にブースの方では、今みたいにアニメーションのパッケージを販売している会社やテレビ局が巨大なブースを仕立て上げ、新作を宣伝しているって感じよりはむしろ東京に本拠地を置いて、アニメを作っているアニメーション制作会社が小さいながらもブースを出して、社長の人とかがいていろいろと話をしていたんじゃなかったっけ。プロダクションIGとかマッドハウスもいたかなあ。タツノコプロとかは覚えてない。ボンズはまだ立ち上がったばかりで南さんに挨拶したっけ。向こうはまるで覚えてないけど。懐かしい。

 つまりはアニメフェアというのは本来は、地場産業であるところのアニメを支える制作会社を支援して、アニメ産業をもっと盛り上げようって趣旨のもとに立ち上がったもので、ああいった場を通して制作会社には存在感を高めてもらって、やがて自分たちで企画を立て、資金を調達して作品を作り、テレビ局なりパッケージ会社に買ってもら世に展開していくといった感じになれるよう、自主独立の礎を築いて欲しいって意識があったんじゃないかって気がしてる。でなきゃ制作会社がブースを出す意味ないから。自分たちで権利を持ってもない作品を並べていたってそこで商談ができる訳じゃないし。

 けれども10年が経って、そうやってウォルト・ディズニーとかスタジオジブリのような自主独立の方法論を、確立できたアニメ制作会社がいったいどれだけあったんだろうかと考えたとき、テレビ局なりパッケージ会社なりからの依頼を受けて作って納めてなにがしかの制作料をもらい、時々は出資も行って権利の配分を受けたりはしてもそこでイニシアティブはとれないまま、次の依頼を受けて仕事を入れて回していくといった感じの、言ってしまえば下請けに過ぎない状況から、抜け出すまでにはほとんどどこも至らなかったってことが言えそう。もとからそういう感じだったジブリとか、東映アニメーションは別にして。

 GONZOがそういった体制を目指してファンドなんかも立ち上げ、どうにか作り上げかけたものの、どこかで躓いてしまって今は前ほどの存在感がなくなっていたりするし、プロダクションIGにしてもそうした体制を完全なまでに作り上げるには、オリジナルの作品がなくってなかなかジブリのようにはなれないでいる感じ。古手ではタツノコプロが前からの遺産を活性化させて頑張ろうとしているけれども、作ったところでチャネルを確保できないだろうから自立するのは難しい。そうチャンネル。テレビで流すにしてもパッケージとして売るにしても、チャネルを持っているサイドが動かないと映像は一般には届かない。

 その分チャネル側の発言力が強くなって、アニメ制作会社はそんなところの“下請け”として振る舞わざるを得なくなるというデフレスパイラル。だからといってチャネル側が謹んで拝領に伺うようなコンテンツは、ジブリくらいしか作っていないというか、世間もメディアもそうとしか認識していないから、いつまでたっても他のアニメ制作会社がジブリにはなれなずにいるというジレンマ。この雁字搦めの構造をどうしたら崩せるか。どこも頭を下げてほしがるコンテンツを作ることなのか。でもそれを評価する世間もメディアも価値を見抜けないからやっぱり駄目なのか。うーん。そんな構図があから東京国際アニメフェアの場合、出版社とかパッケージメーカーが出ないと言い出した時にアニメ制作会社が巻き込まれるような構図ができてしまう。

 例の規制ではアニメだって他人事じゃないから、アニメフェアのボイコットもやむなしという意見は至極真っ当だけれど、そこでアニメ制作会社がアニメの作り手として主体的に出展をボイコットしたようには、なかなか見えない状況が、今回の騒動にアニメ制作会社の側、あるいはアニメファン好きの側から見て、諸手をあげて歓待できない理由だったりする。10年前にそうした状況を脱し、アニメ制作会社が主体性を持って制作も資金調達も展開もできるようになっていくために、地場産業のアニメ制作会社を応援しようと東京都が始めたアニメフェアの場で、10年経ってもアニメ制作会社の主体性が発揮されていないというこの不思議。たとえ今は乗り越えられたとしても、アニメ30年の大計のためにはやっぱり、ボイコット喝采と言ってるだけは足らないんじゃないのかなあ。難しいなあ。

 またしても名古屋栄三越へと出向いて阿修羅王と星・ペンタ・トゥパールを見つめて来る。名古屋ではこれが最後で次は福岡での体面といくかどうか。凛々しくって猛々しくってそれでいて優しげで儚げで、そんな女性像をペンでもって描いてみせられる漫画家の凄みって奴を世界はもっと認めてたたえるべきなのに、未だ世間には知られていないところが嘆かわしい。メディア内部においても理解が及ばないこの絶望をどうやったらひっくり返せるんだろうか。外圧。権威。それも悲しい話だけれど使える物なら使わないとなあ。ノーベル文学賞を萩尾望都さんに。本当にそう思う。心からそう思う。

 SKE48の劇場は恒久ではなく公演の時のオープンか。グッズ売り場もないんだなあ。ってことを確認してから新栄へと回ってサバランをのぞいたら休みだったんで、斜め向かいのユウゼンであんかけスパゲティをむさぼり喰ってそれから熱田神宮へと向かいお参り。おみくじを引いたら大吉だったけれどこれは年内有効なのかそれとも向こう1年大丈夫なのか。門前へと出てきよめ餅を食ったかというとそうはならずにお茶だけ飲んで名古屋へと出ていりなかへと回り「ミスマルカ興国物語8」を買ったらマヒロ王子が全開バリバリだった。やっぱりすげえ奴だよマヒロ。それを生み出す林トモアキさんも。いりなかのバスターミナルが消えていた。時代は変わるなあ。


【12月28日】 帰省したついでに萩尾望都原画展を見に行く。嘘です。ほんとうは萩尾望都原画展を見に行くついでに帰省する。だってそれくらいの価値があるんだよ、この展覧会には。かつてほとんど決して世間に出してこなかった萩尾望都さんの漫画の原画やカラーイラストが、コピーではなくそのままの形で柵とかもなしに間近に見られるという奇跡のような展覧会。これが美術館主催の展覧会だったら、柵で壁から引き離され、遠目に見るしかなくってそれではホワイトで修正した跡も、フキダシに写植を貼ってある様も平面の中に埋もれてしまう。

 「トーマの心臓」の冒頭、橋からトーマが落下するシーンで降りしきり雪がいったいどういう風に描かれているのか、落としたようにつついたように白いインクが散らされ雪のようになっているその様子を、遠目からでは決して味わえないだろう。この原画展は違う。ぐいっと顔を寄せて絵を真正面からじっくりと見られる。「トーマの心臓」の降りしきる雪も、どんな具合にインクが乗っているかが間近に見られてよく分かる。それは漫画のページというよりは、1枚の絵画を、あるいは彫刻を見るかのよう。伏して拝みたくなってくる。

 なるほど印刷されてストーリーの1ページとなった漫画ももちろん素晴らしい。それが本来の楽しみ方というのも分からないでもないけれど、そうやって印刷されたものにも現れる効果が、どうやって作られているのかを知る意味でも、原稿は必要だし不可欠だし不滅であるべきだ。これは萩尾さんに限った話ではなく、過去においてもまた現在未来に関しても、偉大な漫画家の人たちが鬼籍に入られた場合にこうした漫画の原稿は、漫画となったものではないのだから散逸しても構わないといった見方も時に出たりするけれど、でもやっぱりそれは違うんじゃないかって気がするし、萩尾さんの原画を見た後ではそんな思いが一段と強くなる。

 デビュー40周年を記念して東京でまず行われて、その後に地方に回るかと思われながらも時間がかかってそしてようやく1年を経て実現した地方巡回は、次に見られる機会の訪れる、おそらくはとてつもなく薄い可能性を考えるならばファンならずとも見ておきたいし、見て置かなくっちゃいけないものなはずなのに、訪れた名古屋栄三越の来場者は東京に比べると実に薄くて、見る分にはじっくり見られて嬉しいんだけれどファンとしてはちょっぴり寂しい気も。あるいは告知が行き届いていないのかもしれないだけれど、知ったのだったら是非に行って見て欲しい、そのすごさを、その素晴らしさを。

 それを見るために東京では軽く5回は行った原画展で、何度も何度も繰り返しその姿を拝んだ阿修羅王。カラーのイラストでは胸にほどこされたホワイトが意味を持って阿修羅王の少女らしさを浮かび上がらせいたりして、原画を見て改めて分かったこともあったりして、行った甲斐があったというか行って満足大満足。モノクロの原稿でもそこにすっくと立ってシッダールタをじっと見つめる強靱な意志を秘めたその表情。吸い込まれそうになる。

 そしてもう1人、「スター・レッド」の星・ペンタ・トゥパールの赤い瞳のイラストに、胸打たれで跪きたくなる。後にもたくさんの少女漫画を読んだけれども、セイほど強靱で強情で激しい生き方をしたヒロインはほとんどいなかった。永遠の憧れ。永遠の女神にまた会えた。やっぱり来た甲斐があった。そしてまた行く意味を見つけた。何日もいる訳だじゃないけれど、行ける時間があればまた行って阿修羅王に見抜かれ、セイ・レッドに貫かれ、ラグトーリンに見透かされてそして柳の下に佇む母親への感謝を捧げて来よう。あれは凄い漫画だよなあ。

 中に入らなくても、外では東京では書店からほとんど見なくなった愛蔵版のシリーズもそろって売られていたりするし、文庫から単行本から並んでいるから、萩尾さんの本をまとめて揃えるのにも最適。版画も東京では見なかった絵柄のものが出ていたりして、今度舞台になる「11人いる!」なんてとっても欲しかったけれどもやっぱり値段が……。それでも売れていたところを見るとやっぱりファンは名古屋にもちゃんといるって分かって嬉しかった。

 残念がらポスターにもなっている美麗なランプトンの肖像や、習作として描かれた阿修羅王の絵は、東京の会場で早々に売り切れてしまって名古屋では売られておらず。それだけ売れるってことなんだから、儲けたい主催者だったら何度でも刷り直したくなるところを、ちゃんと限定数を守って売っているところが、萩尾さんに関わる人たちの矜持であり良心なんだろう。だから香水も東京とは違ったバージョンのものが登場。見ているとちゃんとみんな買っていく。そこがファン。まあ東京だと2日くらいで売り切れたから、今もまだ残っている名古屋は狙い目かも。今日は買わなかったけれどもどうしようかなあ、買って帰って「11人いる!」の公演に付けていこうかなあ、って考えた人たちで同じ匂いが充満、なんてことも。それも悪くないか。

 会場を出てせっかくだからと錦まで行ってスパゲッティのヨコイでミラカンの1半をもりもり。仕事納めの日なのにちゃんと客が来るところがヨコイならでは。見ているとミートボールが乗った奴も卵焼きが乗った奴も美味しそうだったし、いつもだったらそっちを頼んでいたんだけれども普段名古屋にないとオーソドックのが食べたくなるみたい。結局1半というボリュームをミートとか卵焼きだけで食べるのは無理で、それがタマネギやらピーマンやらウィンナやらが混ざったミラカンだったら食べられたところをみると、あれはあれで考え抜かれたメニューなのかも知れない。また行くか。次はサバランにするか。あっちはあっちで卵焼きが乗った奴が凄いんだ、味もボリュームも。


【12月27日】 何時になったら続きが出るんだという悲鳴のような声がやっぱり、最後の刊行から2年も経つと聞こえてきそうだけれども、そうは簡単には出ないところが次から次へと新人を送り出して来るレーベルで、既存の作家に対して課せられたハードルのようなものなんだろう、例えば「七姫物語」とか、続きが読みたくって仕方がないのになかなか出る気配がなかったりして、いったい七姫センカはどうなってしまうんだろうといった興味も宙ぶらりんの中で、日々刊行を待ち望んでいたりする。近藤信義さんの「ゆらゆらと揺れる海の彼方」も同様で、確かシグルドとギュンター・ツヴァイクとの関係について描かれ始めた過去編も、クライマックスに入ってきた10巻を最後に刊行がストップ。2年ほどが他っていったいメノーグこと冥海では何が起こっているんだろう、これからなにが起こるんだろうって関心が膨らんで、爆発しそうになっている今日この頃。

 そんな期待を脇にそらすかのように近藤さんがメディアワークス文庫ってところから新刊をリリース。その名も「ドッグオペラ」」はかわいい犬たちが冒険の旅に出てそこで、食べ物に困った挙げ句に歌を歌い始めたら大盛況、やがてオペラの一座を作って旅から旅へと回ってそして、対には帝都に巨大なオペラハウスを築き上げるという出世物語が繰り広げ……られてない。むしろ逆。どこかの街を支配する一族の下っ端としてこき使われている青年と、一族では分家に当たりながら分け合って一族から追われる身となっていた青年とが再会し、そして起こる愛憎入り交じった戦いという暗黒でノワールでブラックでダークなストーリーが繰り広げられる。ようするにライトではない物語ってことだ。

 強大な権力を持つ一族にはある力があってそれが一族の権力の元になっていたんだけれども、本家の息子たちの愚鈍さが分家たちの憤りを招き下克上を読んで起こる一悶着。その狭間にあってかつて逃げ出した青年は何をするために戻ってきたのか、そして迎えることになった主人公で一族では雑種扱いされる下っ端の青年は何を考えどう動くのか。ヤクザの抗争物語といった感じの体裁を置きつつも一族に特殊な能力を与えることによって、有り体のハードボイルドでノワールな物語とは違った味わいを感じさせるストーリーに仕上がっている。こんな物語も書けたんだなあ、近藤さん。感じでは続きがあるようんはなっていないし、続くとも思えないからできればこうした物語力を引っさげ一般小説の分野にも出ていって欲しいもの。それと同時に忘れられている「ゆらゆらと揺れる海の彼方」の続きも出して、メノーグに起こっている戦乱に決着を付けさせノウラに幸せを運んでやって頂きたいと伏してお願い。いつになるかなあ、続き。

 まあ2年くらいはどうってことないって思えたりもするのは、いよいよもって「涼宮ハルヒ」シリーズの最新刊が来年5月にも発売されるって決まったから。その名も「涼宮ハルヒの驚愕」は前の「涼宮ハルヒの分裂」巻の続きってことになるんだっけ、出た時にはすぐにでも続きが出そうな雰囲気があったんだけれど、その後何があったかいろいろあったか出ないままかれこれ3年以上。その間にアニメの第2期が放送されてエンドレスに8月が繰り返され、それから劇場版も公開されて長門かわいいよ長門の声が全世界に満ちあふれながらも肝心の、小説の方はとんと音沙汰がなかったのが本日発売の「ザ・スニーカー」誌上において新展開が発表され、そこで実に上下2巻の大部となった「涼宮ハルヒの驚愕」が5月に発売されることが決定した。

 全世界同時発売っていったいどういうことかと思うけれどもそれだけ待ち望むファンが世界にいるってことなんだろう。株価すら動かしかねないこの情報を、よくぞ今日まで守り抜いた、って一昨日あたりから雑誌は出回り情報もきっと出回っていたんだろうけれど。それだけ世間はまだまだライトノベルに関心が薄いのかなあ、それほどメディアが激震したって感じもないし、情報が出回った日に秋葉原のデニーズでイメージガールに起用が決まった平野綾さんが「涼宮ハルヒ」の新刊登場に言及したって雰囲気でもないし、っていうか本人はそうしたハルヒイメージをいったいどう思っているんだろうか? もう完全に払拭したいんだろうかそれともそれはそれで誇りに思っているんだろうか? カテゴリーが変わった途端に過去をなかったものにしようとする空気が作家でも芸能でもあったりするけど、そういうのって変わる前のカテゴリーが好きな人間にとってはなかなかに胸苦しいところがあるんだよなあ。どうなのかなあ。

 せっかくだからと西新宿まで行ったらホテルにいっぱい妙な格好の人たちが溢れていたんでこっちも妙な格好をして紛れ込む。とりあえずお金で動くダンボーが大きいのと小さいのといてイカ娘はいっぱいいて侵略しまくっていてとり・みきさんの格好をした翻訳家でアンソロジストも歩いてて、東京スカイツリーが高くってグレンラガンはデカくって、あとなによりヤスコ・デラックスがハイヒールの分縦にデカくなっていた。デッドマスターは遠目には麗しいのに近くによると兄さんで、それでも麗しかったところが素晴らしい。秘書風の人とか秘書っぽさにあふれて罵倒してもらいたくなったけど近寄れず。プリキュア関係も勢ぞろいしていたけれどキュアフラワーがいたかは不明。でもこうしたどんちゃん騒ぎも今年で終わりで来年は趣向も変わるとか。すでに楽しみと化したコスプレではハードルにならないということか。ならば次ぎはスカイツリーの展望台まで歩いてこれる人限定とか巨大迷路の中心部まで迷わずこれた人限定とか、そんな忘年会になったりして。それは僕にはちょっと無理だ。


【12月26日】 オリアナさんはあれで恥ずかしくないんだろうかと思わないでもないけれど、体育祭で体操着姿の中高生がわんさか溢れている街で恥ずかしいも何もないってことか、どう見たって幼女の教師が血まみれのチアリーダー姿で歩いていたりもする訳だし。ってな感じの「とある魔術の禁書目録2」はいよいよもってオリアナとの対決なんだけれども一方でペテロの十字架は一体どこに的シチュエーションから年を挟んでエピソードのクライマックスへ、ってことはあと1クール続くのか。内容的にはやっぱりいきなりベネチアへと連れて行かれてそこでアニエーゼ部隊の救出劇。天草の連中もまた出てきてきっと楽しい戦いぶりを見せてくれることだろー。あとはやっぱりアニエーゼのミニスカシスター服。あんなに短くて良いなろうか? 良いんじゃなイカ?

 そして「探偵オペラ ミルキィホームズ」は父の思い出がすべてを解決に導く愛に溢れたエピソード、じゃなかった父ではなくって乳だった。シャーロックたちがいよいよ迫った怪盗アルセーヌ。そして飛び込んだシャーロックを受け止めたその弾力にふと気づく。これは生徒会長の弾力だ! そして次々に触って気づくメンバーたち。そうではないといったところで身に覚えた感触はごまかせないってことでいよいよこれで万事休すかと思いきや、いろいろあって元の木阿弥、そして新たなキャラクターの登場となって完とはいったいどういう引きだ、森・アーティ。いかにも悪役っぽい名前と妙な声質が記憶に残って仕方がない。果たして第2期はあるのか。あるんだろうなああの引きは。期して待とう。

 10時間ほど寝たら疲れた。逆じゃねえかと思うけれども狭いベッドに寒さに凍えながら眠るとかえって体力を消耗するのだ。貧乏って辛い。円高ペースが上がっているのに年収10万ドルからむしろ遠ざかっているというこの状況、下がり始めた年収に未来への不安も募るもののそんな不安を浪費でもって埋めようとするのが、また何というか貧乏金なしというか。それって普通じゃん。というわけでしばらく前にプレスリリースを見つけて興味を持ったスコルピオンローラースケートってのがいったいどういうものなのかを見物に、電車を乗り継ぎ横浜ワールドポーターズへと出かけて店を探してあちらこちら。途中でチャーハンステーキとかいうご飯をむさぼってから2階デッキに店を見つけて入ると外国人風の人が座っていた。

 その人こそが社長の人で出身は外国なんだけれど日本に長くいて今は露草和賛って名前だそうで宣教師として来日して南山大学にいたそうだから南山出身の人とかだったらあのキャンパスですれ違っていたかもしれないしいないかもしれない。んでもってトヨタ自動車でグローバル渉外広報企画部とかにいたそうだから相当なやり手だったんじゃなかろうか。そんな人が会社を退社して日本と世界とを結ぶ仕事として始めたひとつがこのスコルピオンローラースケートの日本への紹介。何でもニュージーランドでおじいちゃんがオフロードでは普通のローラースケートでは走れないと嘆く孫ののためにと作ったものが発展して、生まれたものだそうでなるほどデカい車輪とサスペンションがついていて、衝撃は吸収して瓦礫とか芝生とかを平気で乗り越え進むことができるらしー。

みよこの車輪のデカさを。山だって谷だって乗り越えるぜ  とはいえ町中で乗るにはやや大げさ。そんな人のためにとインラインスケートの車輪が四隅に取り付けられたものも開発されてそれがアメリカなんかだど通勤時に履かれたり西海岸で楽しまれたりしているとか。通勤でローラースケートとはまた脱ぎ履きが面倒と思われガチだけれどもそこがこのスコルピオンローラースケートの新しいところで、普通の靴のまま脚を置いてストラップを通せば一丁上がり。すいっと滑って到着したらぬいで抱えてオフィスでも食堂でも入って仕事や食事をこなし、終わったら出てはいてそのまま滑って帰れるという。そういった行動が普通に認められている欧米なんかだとある種のスタイルとして定着しそうだし、すでに定着しかかっているらしい。

 日本はとえば都会だと交通量が多くてローラースケートは危ないし、オフロード版も芝生の公園とかで走っていると怒られそう。とはいえ日本は都会だけじゃなく地方もあってそこでは交通量も少ない道路がいっぱいあってローラースケートは乗り放題。歩く時とか犬の散歩の時に使うと楽しそうだし、河川敷とかをオフロードで走っても楽しそう。別荘地なんかだと砂利道があって舗装路があってショップやレストランがあってといった具合にころころと条件が変わるけど、そこでもオフロード版なら気にせず使える。問題は別荘地なんか行く機会がないことか。それは僕の事情であって、普通に地域で暮らしているなら使う機会は結構ありそう。

 あと夏のスキー場とかだと芝生はあるけどがたがたしている緩斜面なんかを、オフロード版で滑って下りてくることによってスキーの代わりを楽しめる。グラススキーほど大げさではなくヘルメットとプロテクターとあとはストックさえあれば楽しめる。そんな使い方を提案していきたいんだそーだけれどもいかんせんまだ知名度が。という訳でここに喧伝して来夏あたりの流行なんかに火を着けたい。すっかり定着した夏の野外フェスななkだとステージ間の移動が遠くて面倒だったりするけれど、そんな時にこいつがあればすーいすい、とまではいかなくっても楽しく移動できるかも。そんな提案もしてみてはいかが。フジロックとかライジングサンとか使えそうな気もするなあ、現地行ったこと内からどんな状況か知らないんだけれど。

 遊んでいたら割かし人が入って来て、試してみては帰っていったけれどもそのうち買う人とか出るのかな。とか言いつつその場では買わず横浜ブリッツへと言ってフィクションジャンクションのファンクラブイベントに混ぜてもらって見物。フィクションジャンクションとかKalafina関連の楽曲から聴きたいものをファンに聴いて選んだベスト10ってやつを見せてくれて、なるほどと思うものもあればこれがと思うものがあったりして、ベスト版的ではなくお宝版的なイベントになったのがちょっと印象的だった。普段は聴けるものじゃなく普段は聴けないものを聴きたいって意識が働いたんだろうなあ。それが証拠にKalafinaは10位以内に入ってなかったし、ライブで激しいダンスが付く例の曲も入ってなかったし。貴重な体験。事務所に感謝。

 そして戻ってせっかくだからとスコルピオンローラースケートを1つ購入、やっぱり使う機会なんかを考えてオンロード版を選ぶ。赤い色のを。これがあれば履いて近所を乗り回して体重の減少にも役立てそう、ではあるんだけれどすっころぶのが目に見えているだけにちょっと遠慮しそう。おそらくは想像するなら来年の夏まで箱からあけずに部屋の隅っこでほこりを被り、そのまま実家に送りつけるか倉庫に放り込んで50歳過ぎまで封印しそう。そんなんばっかだよなあ、僕ん家って。そういや大昔に買って大阪やら京都を乗り回したキックボードはどうなったっけ。あれも一瞬だったよなあ。また乗るか、運動不足の解消に。だからそのためのローラースケートじゃないのか?


【12月25日】 足下の靴下は、履いたまま寝てしまった夜中のうちに勝手に脱げたものだから、その中に何かが入っているはずもなく、のぞいてもツンと酸っぱい匂いが立ち上って来るだけで、そこには愛もなければ飯島愛もなく、杉山愛も高橋愛も大塚愛も入っておらず、ただ福原愛だけが残っていたという、これは後に「クリスマスの靴下」という神話となって、永遠に記録されたという。そんなことはありません。この際福原愛ちゃんでも嬉しいんだけどなあ。もう22歳な訳だし、中国に行けばVIPだし。さー。

 もちろんiPhoneなんて持ってないし、同人誌だって創ってないけどサイン会付きってのに惹かれて買ってしまった、安倍吉俊さんカワサキタカシさんんいよる「サルにもできるiPhone同人誌の作り方」(飛鳥新社、1000円)は、奉仕に描かれている女の子の顔立ちが、安倍さんっぽくないんだけれどそこはそれ、岩倉玲音やらニアやら暗め喧しめでは食いつきも悪くなるだろうから、頑張って美少女でちょっぴりナイスなバディの女の子を描いてみせて、人目を引こうと考えたんじゃなかろーか、うん。それが証拠に、中の画集っぽいページに描かれている女の子たちはどれもどことなく玲音っぽかったり灰羽っぽい感じ。そっちの安倍さんが好きな実には嬉しいんだけれど、描けるんなら表紙みたいな美少女もこれから、いっぱい描いてくれれば僥倖。サイン会は来年1月9日。行けるかなあ。

 そして池袋テアトルダイヤで「空の境界」の一挙上映分からやっぱりこれは劇場で見ておきたい「空の境界 第五章 矛盾螺旋」を観賞、8分の入りはやっぱりこいつをデカいスクリーンで見たいって人がやっぱり大勢いるからなんだろうなあ、スケールと言い長さと言い展開の複雑さと言い実に映画っぽく作ってあるから。それより何より冒頭の、渋谷っぽいところで燕条巴が不良たちに囲まれタコ殴りにされているところに現れた両儀式が、回し蹴りを放ったところでふわっとまくれあがった着物のすそを手でサッと直すシーン。チラリと見える白い生脚を前面に広がるダイスクリーンで浴びるように見る経験はやっぱり劇場じゃなきゃできないからなあ。

 そりゃあ家に50インチとかがあれば可能だし、それだとスチルやスロー再生でじっくりと何度で見られるけれど、それだとやっぱり一瞬を見逃さないて集中力が途切れるし、作った側が映画に込めたテンポからもずれる。何よりやっぱり家ではいくら大きいテレビだって覆い被さるようにはならないし。あとは最後の決戦で宗蓮に向かって式がくるくる回転しながら飛んでいくシーンも映画館で見たいところ。迫力あるんだあそこは。でもってやっぱり何度見ても複雑怪奇に入り組んだ構成によくぞ仕立て上げたもんだという「矛盾螺旋」。時系列を入れ替えマンションにとらわれた式の懐古的視点っぽいものも混ぜつつ描いてあるからパッと見では分からないし2度3度でも分かりにくいけど、でもそれが良いのだ。まだしばらく上映しているんでまた行こう。次は静謐の第一章とスペクタクルの第三章が続け様にやる回も合わせて見ようっと。

 名古屋にパルコができた時に置いてあるファッションは別にして入っていた書店の充実ぶりにこいつは半端ないと思ったこともあって、セゾングループって奴が持ってる文化ってものへの突っ込みぶりにはよくよく関心があったけれども、1990年に東京まで出てきて通った池袋西武の書店とか同じ池袋のパルコにある書店とか、渋谷パルコの地下の書店なんかに置いてある本やら漫画やらの充実ぶりと、あとは池袋の西武にまだあった美術館で繰り広げられるちょっぴりとんがった展覧会なんかから、やっぱりセゾングループって奴はカッコ良いなあって思ったけれどもそれがいったいどんな風に作り出されて、そしてどんな風に受け止められ、けれどもどうして崩壊していったのかが永江朗さんの書いた「セゾン文化は何を夢みた」を読んでようやく納得。祭りだったんだ。だから楽しくて、だから永遠には続かなかったんだ。

 最初は誰もが本気で日本にまだない価値観って奴を引っ張ってこようと頑張った。美術にしても当時は知られていなかったクレーを見せ、音楽もクラシックやらロックとは違った現代音楽にアンビエントにノイズにその他諸々をちゃんと引っ張ってきて聴かせたりした。洋書に現代文学に哲学に批評も揃えて日本にそうしたカルチャーを見せようとしたんだけれども、やっているうちにそういったことをやってる自分たちに耽溺していって、そうすること自体が目的化していってしまったようなところがあって、だからちょっぴり時代がズレて価値観が変わってしまうと、そうしたところにアンチでも迎合でもいいから立ち向かっていこうっていったパワーが薄れ、作り手の側にも突破していこうってパワーが薄れて、結果上辺だけのカルチャーが並んで浮き上がってしまったか、あるいは沈み込んでしまったような気がしないでもない。結果は……。偶然というか有楽町西武が26年の幕を閉じ、セゾングループの残り火のひとつがまた消えた。それに変わるものっていったい? 秋葉原に代表されるサブカルチャーって訳でもないしなあ。うーん。見つけられたら次の20年、遊んでいけるんだけれど。


【12月24日】 クリスマスイブ。ひとりきりの。きみはぜったいに来ない。そもそもきみなんて存在しない。現実には。「ラブプラス+」を続けていれば良かったなあ。ということはさておいて、そんな明け方に人が昇天してしまう話を出すとは「それでも町は廻っている」もなかなかにシュール。そりゃあ神様に縁のあるシーズンだけれど生む神様に奪う神様との間には絶対に越えられない壁がある。それらを並べて見せるこの強引さがスタッフの企みだとしたら、浮かれてる場合なんかじゃないぞいずれ来るべきその時をどう乗り越えるのか身構えておけってメッセージなのかもしれない。まあ偶然だろうけど。とりあえずたっつんの出番が少ない。それが悲しい。それだけが悲しい。

 ふと気がついたら全日本女子サッカー選手権大会のトーナメントが進んでいて、毎年優勝候補の日テレ・ベレーザが女子高生のチームにPK戦ながら敗退していた。決して手を抜いてた訳じゃなくって代表選手も揃ったチーム。それが浦和レッドダイヤモンズ・レディースを相手いしての試合だったらまだしもなぜに高校生チームに? といったあたりが気になるけれども、あるいはやっぱりいろいろと、クラブの経営の影響ななんかが出始めているのか、それとも相手を舐めていたのか。監督の交代とかいろいろあったらかチームとしての熟成が落ちているのかもしれないなあ。Jリーグ草創期にあれだけ強かったトップチームも、Jリーグバブル崩壊で経営がガタついた途端に、ガラガラと瓦解していって今やJ2。同じようなことがベレーザにも起きなきゃ良いんだけど。

 なぜってあそこの熟成が今はまだ代表のクオリティに影響しているから。あるいはこれをきっかけに、力量のある選手がクラブに分散されて女子サッカー全体の底上げがはかれれつつ、代表の力量アップにもつながっていけばいいんだけれど、それにはクラブによって違いすぎる運営環境を変えていかないと。練習時間をいっぱいとれて良い選手が集まって。そうでなくってたまに集まり練習するだけでは、常にいっしょにいられて練習密度も濃い高校生チームに敗れるなんてことが頻発しかねない。それって傍目には下克上だけれどトータルでは停滞で衰退だからなあ。困った。ともあれベレーザを破った常磐木高校はやっぱり高校生チームの藤枝順心高校も破ってベスト4へ。26日に西ヶ丘でINACレオネッサと戦うんだけれどここでも常磐木が勝ってしまったら、いよいよ日本サッカー協会も女子のクラブ運営についていろいろ考えないといけないかもなあ。注目。

 えっとだからこれはいったいどう遊べば楽しいんだ。AKB48が出ているってことで25万本とか予約がはいってバンダイナムコゲームスもうはうはな「1/48 アイドルと恋したら」なんてゲームをちょっと試してみたけど、まずはじめに48人並んだ中から電話して、デートをしはじめるとだんだんと電話をかけられる相手が選ったりしていって、途中シャッフルはされるんだけれどそれでも相手にされないメンバーの名札がどんどんと崩壊。そしてようやくたどりついた1人の映像が出てきて料理をつくってくれたり部屋の鍵をくれたり(誰だかまる分かりだな遊んだ人には)して告白へと至る。それで終わり。そこから永遠の恋人生活が始まるわけでもなくって、また最初っから誰かメンバーに告白されるためのプレーを繰り返すことになる。

 いわゆる押しメンって娘を最初に選んで確保しようとするのが道理。それは決して難しくなくって、要領がわからず八方美人を繰り返しているうちに別の子から告白される事態が起こっても、次にはどうにか意中の篠田、じゃなかった誰かを確保できる。でもその次は? やっぱり篠田、じゃなかった押しメンをひたすら攻略し続ける? その結果何かが起こる、たとべ100回同じ告白を繰り返し受けたら篠田、じゃなかったメンバーが画面から3DSして来ていちゃいちゃさせてくれるってんならアリだけれど、それはきっと100回もプレーした結果見えるいっしゅの幻覚、夢の精。目覚めると妙なやっちまった感にとらわれることは確実だろうからあんまりおすすめできない。じゃあ他のメンバーに? っていうのもやっぱり違う。本気でメンバーを支えたいファンにはどうにもやりづらいげーむってことになっていそうな気がする。

 かといってメンバーの誰1人に愛情がないと、次から次にあらわれる見ず知らずのメンバーたちを次から次に振っていくだけのゲームになってしまう。それはプレーヤーサイドにはAKB無双っぽくって愉快かもしれないけれど、相手だって実在が確認されている少女たち。そういう扱いを受けて例えゲームだからって割り切れるものじゃないだろう。そんな扱いをさせるゲームの作り手への感情いかばかりか。それはAKB48のファンだって抱きそう。だったらいたいこれは誰のためのゲームなの? ってところでつまりはだからゲームソフトはあくまでおまけで、AKB48のファンは付属の生写真を確保し集めることにこそ、ファンとしての全精力を傾けているのかもしれない。それこそがファンの道ってことで。うーん。やっぱりよく分からない。とりあえず峯岸ななみが出たけれど。篠田麻里子は出ないかな。


【12月23日】 そして読んだ火浦功さんのデビュー30周年記念刊行書籍「トリガーマン!【再】」(朝日ノベルズ)は、なるほど確かに宇宙を股に掛けて人類が大活躍する壮大なスケールのSFで、女の子が獣人化しては猫になったりこの紋所が目に入った途端に皆がひれ伏したりと、およそオカルトでは説明ができない科学的作用がそこにこめられて起こる現象が次から次へと飛び出してきて、魔法も突き詰めれば科学になるんだと思わされる。嘘だけど。子供に頼られたまんまフェイドアウトしていったフェニックスに再来の場はあるのかなあ。それはやっぱり10年後の火浦功デビュー40周年記念出版「トリガーマン!【再々】」あたりになるのかな。

 むっくり起き出しそういやあ始まっていたと渋谷のパルコPart.1まで出向いて特撮リボルテックの展覧会を見物。特撮リボルテックだけで展覧会が開けるくらいにラインアップ揃ってたっけ? まあそれなりに揃ったラインアップが並びあとは海洋堂が過去に手がけた「海底軍艦」やら「ゴジラ」やらも並んでなかなかの景色。秋葉原にあるホビーロビーのショーケースに雑多に居並んでいるのとはまた違った雰囲気で、そんな場所に収まってもまるで動じないところがなるほど造形力の高さって奴なんだろー。会場限定らしいメーサー砲と牽引車両の色違いバージョンとか買ってしまった僕は限定品の弱い意志薄弱者。そうやて集めていつか大もうけ、って考えるんだったらもっと踏み込まないといけないんだろうなあ。15年前に村上隆さんを買い集めておくとか。

 せっかくだからとフロアを下りて「ゆうきまさみ開業30周年記念展」を見物してまのちゃんの立派になった姿を拝む。3度目。あと「機動警察パトレイバー」の原画なんかを見たりそろい始めたグッズ類を見物。登場していたiPadの5250円って値段に身も凍えたけれども3000円以上だとバーディーにつとむの色紙が付くとあっては何かを買わないといけず、それにマッチする品がiPadケースぐらいだったんでここはと奮発して「鉄腕バーディー」の単独バージョンを買い求める。こういう時にiPadを持っていて良かったと思うけれどもはめると傷つくんで使わなさそう。まあほら、バーディー(の)お尻)を追いかけ四半世紀の身ではやっぱりこういう時に買わないってのはあり得ないってことで。うん。

 出て歩いていたらセンター街の角に沖縄料理の「やんばる」ができていた。新宿にあっていつもポーク玉子定食を食べている店でそこん家はいかにも食堂って佇まいなんだけれど、渋谷のは調度も落ち着いてカフェ風、って言ったら言い過ぎかもしれないけれども雰囲気はオシャレで夜にさらりとカップルで入っても入れそう。入る相手なんていないけどな。メニューも基本的に新宿と同じなんで早速やっぱりポーク玉子定食を食べたら新宿の「やんばる」とまるで同じ味だった。当たり前か。玉子の良が気持ち多めに感じれたのは単に食べた時の隊長? それともサービス? ともあれ新宿のあの夏は熱気がこもり冬は開け閉めで寒さも感じられる店に行かなくても、渋谷でポーク玉子定食が食べられることになってそれはそれで嬉しい限り。スパム入りの焼きそばもいつか頼んでみようっと。

 明日がクリスマスだからといって予定が入っている訳ではなく、っていうか頑張ってずっとゲームをやり続けていたらきっと明日の夜はそっちにかかりっきりになって、外になんか出歩かなかったんだろうけれども、夏の暑さの中で気力体力が落ちたところで電源も落ちてしまってやらなくなってしまった「ラブプラス+」。クリスマスイベントに傾注することもなくなって、ひっそりひとり寂しい夜を迎えることが確実なだけに、せめて前日はと明日の予定がふさがった紳士達が集う「ラブプラス+」のイベントを見物しようと、赤坂ミッドタウンへ行ったらカップル津波に襲われた。なんてこった。

 けど下のコナミスタイルには、背広姿なんだけれども1人きりの若い衆とか元若い衆たちによって人だかりができていて、見ると「ラブプラス+」の例のご当地キャラのバッジが種類も豊富になっていて、買い込む人の行列がレジをぐるりと取り囲んでいた。人気だなあ。まあ平日はそれほどでもないんだけれども今日はやっぱりイベントということで、全国各地から熱烈なファンが集っていたこともあっての大行列。1人に見えてもフトコロにはちゃんと彼女がいる人たちだから、条件的には外でイルミネーションを見るカップルと大差ない、はずなんだけれど傍目には……。未来形の恋は理解されるまでにあと何年かかるだろう。

 しかしピンバッジとは。ご当地キャラの数とか考えるとコンプリートするには相当な出費も覚悟しなくちゃいけなさそうだし、発売された28種類だけでも相当な値段。それでも買い込んで行く人の割といたところにこのゲームが持つ人気の底堅さ根強さって奴を感じ取る。でなきゃ料金払ってクリスマスイブのイベントになんて来やしませんってば。そんなイベントは前に発売の時にもあったようにスクリーンに3人が出てきて動き喋り歌いといった、それぞれのファンなり彼氏なりにはたまらない内容だった模様。

 とりわけ歌はクリーミィマミだか森高千里だか工藤静香だかラムのラブソングだっちゃだか、岡本真夜だかジュディマリといった今が30歳40歳代の人たちにとってクリティカルきわまりない選曲。それらを完璧な振り付けて歌ってくれるんだから涙が出る。「私がオバさんになっても」を歌った寧々さんの振り付けは、食い入るようにテレビに見入って脳に刻んだ森高さんの踊りそのままだった。これにはちょっと驚いた。もちろん寧々さんが必死に覚えたんだとして、それを覚えさせた振り付け師がいたんだとしたら凄い腕前、そしてこだわり。そのこだわりがファンの心に本気を感じさせ本気の炎を燃やさせこれだけのヒットを呼んだんだろう。

 3DS版についての説明もあったけれども詳細は不明。データの引き継ぎは可能なのか。それだけだよなあ関心は。でもって最初からやる人も楽しめるようになっているかどうか。そのあたりはこの「ラブプラス」シリーズの成功で、ついに一家を立ち上げることになった内田明理プロデューサーの手腕にかかってくるんだろー。プロダクションだもんなあ。「それってコジプロとかといっしょってことでしょ?」と聞く凛子の突っ込みナイス。コナミにて燦然と輝く看板クリエーターの小島秀夫さんにあの内田Pも並んで一家を構える姿を去年の春に「ラブプラス」の話を聞いたとき、誰が想像しただろう? いや絶対に売れるとは思ったけれどもここまでの現象を起こすとは。新しいものってまだまだ生まれ得るんだなあ。次は海外版。そして宇宙版。宇宙の恋をしてみたい。


【12月22日】 10年で10冊。そして完結というから相当な大河ストーリーだと思ったら、そうではなかった「野望円舞曲」(徳間書店)は田中芳樹さんの原案で、荻野目悠樹さんが綴ってきたスペースオペラのシリーズで、才女のエレオノーラをメインヒロインにしてその兄のジェラルドがトップに位置する商業国家オルヴィエートが、軍事国家ボスポラスの侵攻を受けて対決するという設定を軸にして、宇宙の深淵から現れた巨大な船団との関連とか、ネット上に存在する人工知性の思考体との対話なんかも絡めながら、戦いが深まり激化してそして、いよいよ最終決戦を迎えるところまで進んでいく。

 ボスポラスの大宰相のどうしようもなく頑固なオルヴィエート侵攻が、いったい何を意味する物なのか、たんなる野望なのかといった当たりに出された答えはなるほど、宇宙に蔓延る害悪を排除しつつ人類が、人類として揺らがず真っ直ぐに暮らしていけるような強固な世界を作り上げようとする意志の現れだった模様。もっともそうやって統率され監理された社会などは、ちょっとの揺らぎで大崩壊してしまう。むしろさまざまな思わくが柔軟に入り交じり重なり合って存在する世界にこそ、強さがあるんだといった見方が対極になされて大宰相に立ち向かう。

 物理の法則と同様に、というかむしろそれ以上に経済の動きを重要な要素として捉えているところが過去のスペースオペラでも異色で特色。人の欲望や思惑によって左右されやすいそうした経済を大宰相が厭うのも分かるけれども、人がそうした揺らぎを作り出すというより宇宙その物が揺らいでいて、だからこそ人は揺らぎ経済も揺らぐのだという真理がまた、人間という存在の不思議さと宇宙というものの深遠さを感じさせる。ラストに向かって次々と起こる事件の迫力があってちょっぴり悲劇的でいてもたっても居られなくなるけど、そうした苦しみの向こう側に生まれた世界が人類にもたらしただろう安寧を思うと、犠牲というのにも意味があるんだと思えてくる。ともあれ完結の大スペースオペラ。永遠とは言わないまでも、長き平和を宇宙にと願おう。

 21世紀も10年が過ぎた未来社会に火浦功の小説が新刊本として並ぶこの現象を果たしてどう受け止めれば良いのだろうか? 喜ぶと良いと思うよ。ってことで店頭に並び初めては、世の火浦功ファンたちを狂喜乱舞喜怒哀楽のるつぼに叩き込んでいる「トリガーマン!【再】」(朝日ノベルズ)の刊行は、前に出たものの修正に加えて何と書き下ろしが載っているということで、ただでさえ忠実な火浦功王国の国民たちに、新たな火浦功税の支出を覚悟させている模様。なおかつあとがきまで載っているんだもんなあ。こりゃあ奇跡だ、どんな天変地異だって起こって不思議はない。あかつきが金星に沈むとか。それは奇跡じゃない。

 開くといきなりサインが入っていて、長く待たせたお詫びにと刊行分の1冊1冊に印紙を貼るかわりにサインでも入れたのかと驚いたけれども帯にあった「著者サイン本仕様」て文言に「仕様」なのかと了解、しかし紛らわしい、ほんとうにサインなのか唾つけてこすってみようかと思ったよ。まあこういうお遊びができるのもデビューから30周年を記念した刊行のなせる技。とはいえ神林長平さんがデビュー30周年で何度もイベントを開き、若手の作家たちによるトリビュート本まで出してもらったのと比べると、物量的にはちょっと寂しく見える火浦功さんのデビュー30周年。とはいえ1冊1冊が宝石の如くに貴重なだけに書き下ろしが載っていてあとがきまてついている本が出るってことだけで、やっぱり凄い記念行事なんだ、それこそ平安遷都1000年を上回る凄まじい記念行事ななんだといった意識もあるから別に良いのか。40周年はきっと書き下ろしが2本に増えてるぞ。

 なんだこの得点は? ってYahoo映画のハイスコアっぷりに驚き、まるでノーチェックだったけれどもとりあえず存在は知っていた本田透さんの原作を元にした映画「ライトノベルの楽しい書き方」を池袋で見て、なるほどこれはライトノベルとか普段は読んでいないけれども、その映画化作品を見て、面白いと感じたって不思議はないと理解。分かりやすい。そして楽しい。もとよりライトノベルって、一般のラブストーリーよりはコミカルな部分があって、リアルな世界が舞台のものでもちょっぴり非日常的なところがあって、そんなリアルから3センチ浮き上がってる感ってやつが、現実からちょい背伸びしてみたい人の気持ちにフィットして、読まれ人気になったりするところがある。

 そんな浮き上がりが映画っていう、これもリアルな空間から3センチほどふくらんだちょっぴりなオーバーさがある空間の構築にとってもよくマッチして、見る人たちをありそうであって欲しくてけれどもなくって憧れさせる世界へと、時間へと連れて行く。山本寛監督の「私の優しくない先輩」がまさしくそんな3センチ浮き上がった世界っぷりをそのまま映像にして見せていたし、来年1月に公開になる「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」も、やっぱりリアルからちょい浮き上がった世界をそのままの空気感で映像にしていて、近いんだけれど離れてるというふわふわ感で見る人を誘う。

 そして「ライトノベルの楽しい書き方」も、学校では不良連中からも恐れられている流鏑馬剣って少女が実は……といったありえないけどあったら楽しく、あって欲しいと誰もが思うシチュエーション、そして流鏑馬剣の立ち居振る舞いや言動なんかをものの見事に再現していて、ちょっぴりオーバーだけれど激しく異質でもない、ベタなラブストーリーでもなく徹頭徹尾のコミカルでもない、気恥ずかしさとおかしさをない交ぜにした感情を抱かせる。家族というものに憧れていることを、周囲の喧騒と少女の視線から想像させてみたりとか、家族が食事をしているシーンに少女が1人で出前の寿司を食べているシーンを重ねてみたりとか、そんな場面から伝わってくる情感はなかなかに豊か。ジーンとした思いを抱かせる。

 ちりばめられている様々なアクセント、例えば流鏑馬剣のカレー好きとかいった設定が、重なって複線になってストーリーに関わってきたり、シリアスだった展開にちょいコミカルさを混ぜてベタになりかかった気持ちをスッキリさせて、飽きさせないまま次に目を向けさせようとしていたりと、脚本の冴えなのか監督の演出のすごさなのかは分からないけど、いろいろと工夫もあって1本調子のラブストーリーさとは違った興味を覚えさせる。流鏑馬剣が恋人候補の両頬をギュッとつまんでみせたエピソードとか、その時はコミカルなだけだったけれど、後で大きな意味を持ってきたりして、なるほど考えられているなあと思わせる。流鏑馬剣役の須藤茉麻さんの演技が、っていうか演技以前のそれが、無骨で堅物でコミュニケーションが苦手で、奥手でいじらしくって寂しがりやの流鏑馬剣って侍ガールっぽさを実によく感じさせるあたりもキャスティングの妙味。単にアイドル並べただけじゃないんだってことで。そんな感じに興味をそそられる映画だった「ライトノベルの楽しい書き方」は池袋テアトルダイヤで上映中。25日からレイトだけになるんで見たい人は要注意。


【12月21日】 ガサツで強靱でちょっぴりイカれてるナイスバディの美女が好きかといったら大好きで、例えば最近だったら「とある魔術の禁書目録2」に出てきたオリアナさんとか、わがままたっぷりなボディスタイルを目の当たりにできたなら、文字通りに狂信的なその性格に叩きのめされ、引き裂かれたって悪い気はしないかもって思えたりもしたし、「STAR DRIVER 輝きのタクト」だったら戦えば強いはずなのに、美少年好きが災いして銀河美少年に敗れ去ったプロフェッサー・グリーンなんかもイっちゃってた。けれどもそんなオリアナさんやプロフェッサーを上回る強くてキレてる美女登場、しかも2人も。

 「ドラゴンキラーあります」で世に出て軽妙にして迫力の展開で読者を湧かせた海原育人さんの久々の新刊「蓮華君の不思議な夏休み1」(C・NOVELS)は、街のタトゥー屋さんでタトゥーを彫って貰った大学生の蓮華君が主人公。その彫り師がとてつもない美人なんだけれども、突き刺される針の痛みに喘ぐ蓮華君から「野郎ぉおぉうっ」とうめかれるとすかさず「悪いな。股の間には穴しか開いてない」と返してさらに「生まれた時から穴だけだよ。そう、穴だけだ。二十六にもなったのに穴だけしかない」とツルツルっぷりを嘯いて蓮華君を惑わせる。美女にそんなことを言われてどうしてときめかない男子などいようものか? 普通だったらそこでファンになる。

 けれどもそうは簡単にはいかない世界。家に帰ると蓮華君の頭に何者かが現れ喋りかけるようになり、あまつさえ超常的な力が備わってしまう。何が原因か。探る内にどうやらやっぱりタトゥーに原因があるかもと店を訪ねると、そこは既にもぬけの殻で彫り師もおらず、替わりに別の美女がいて蓮華君に挑んできた。この美女もまた強靱でちょっぴりイカれていたけれど、後に蓮華君と関わりを持つようになって、料理はできず部屋ではベージュの下着とまるで色気もないガサツさで、蓮華君をげんなりとさせる。

 とはいえ彼女がいてこそ蓮華君は謎の彫り師を追える。企業があって被害者めいた人がいて、犯人がいてと三つどもえの関係の中で進むバトルの行方やいかに。単にガサツ以上に狂乱気味の彫り師とかと戦えば、果てに待つのはどちらかの死。そんなシリアスさも予感しつつ2巻以降の展開を待ち望もう。蓮華君が居候する家のガサツ女を妙に慕う桃ちゃんて女も、先輩と蓮華君では向ける態度がまるで違っていたりとなかなかのキレ者っぷり。その再登場とそして起こるバトルとかも楽しみ。それにしてももしもエアコンの神がついたら蓮華君にはいったいどんな力が備わったんだろう。冷やしたり暖めたりする力? 電気代節約できそうだなあ。

 大好きだと思ったのはいつだろう、1981年頃から「SFマガジン」を毎月買い始めてその頃に、ノーマン・スピンラッドの短編「美しきもの」か何かのイラストを黒と白のトーンでもって描いて斬新さを感じさせてくれたり、大原まり子さんの短編のイラストで女性美なんかを感じさせてくれたあたりからだったっけ。あとはやっぱり栗本薫さんの「グインサーガ」シリーズで、加藤直之さんのフラゼッタばりの絵とは違った繊細さを持ったタッチでもってアルド・ナリスやリンダ姫を描いて、ファンを情念渦巻く宮廷劇の世界へと誘ってくれた。そして「敵は海賊」。文庫版の表紙のアプロの可愛さといったら!

 そんな天野喜孝さんは、SFファンにとっても憧れの人であり、ゲーム世代には「ファイナルファンタジー」シリーズの世界観を作り導くカリスマとして輝きを持ってみられていた。だから自分が監督となってアニメーションを作るとなったら、きっと誰もが諸手をあげて歓待するはずだろうと思っているし、そう思いたいけれども、そうやって作られるアニメがプロダクションI.Gだったりマッドハウスだったりガイナックスだったり東映アニメーションだったりサンライズといった、世に広くに知られている会社で作られていないってことにちょっぴり引っかかる人もいそう。

 なるほど出来上がりそうな作品は、あの繊細な天野さんの人物がそのまま3DCGでもってモデリングされた上に、天野調のテクスチャーでもって彩られ、なおかつしっかり動くというからなかなかの驚き。見れば引きずり込まれそうだけれど、割と高度な技術が使われていそうなだけに、再来年の春に本当にできるのか、ってところで今はちょっと様子を見たい気分。あとはやっぱりプロダクションとかプロデュースで、居並ぶ面々にアニメ関係とは違ったところで活躍している名前が見られるところに、作品としての成功の向こう側に来そうな、一種の囲い込みが想像されて、天野さんという才能の飛翔にどいういった影響を与えるか、それともまったく与えないのかが気にかかる。さてもどうなるか。見守っていきたい。

 やっぱりそういわざるを得なかった日本動画協会の東京国際アニメフェアに関連する声明は、アニメーションに原作なんかを提供しているコミック刊行出版10社の東京都への不信感が、アニメフェアにキャラクターを出さないといった判断につながったことで、キャラクターが使われたアニメを見せたり、キャラクターに触れて貰ったりできなくなって、アニメフェア自体が開催不可能になりかねないといった懸念が訴えられていて、事態ののっぴきならなさを現している。

 そうした声明が直ちに東京都を非難するものではなくって、状況からそうならざるを得ませんといった嘆きに近いことに、旗幟不鮮明だと意見を申す人もいそうだけれど、アニメ制作会社たちはこの件において、漫画を出している出版社の仲間ではなく同志でもなく、キャラクターなり原作を借り受けるなりして作品を作る取引先。いうなれば出版社のボイコットのとばっちりを受けて商売ができなくなりかけている被害者であって、その矛先のすべてを直接に何かして来た訳ではない、むしろ支援して来てくれた東京都だけに向けるには、やっぱり内心に忸怩たるものがあるんだろー。、かといって出版社にも向けられない悩ましさが、ああいった態度に繋がった、おそらくは。

 個人的にはアニメはアニメであって漫画とは別に考えるものであって、出版社とかはそこにキャラクターなり原作を出す以上は、あとはそちらですべて判断するのが適正だって思っている。実際問題、アニメはテレビだったらテレビ局ががっつり審査し、映画だったら映倫が見て判断を下す仕組みがあって、すでにゾーニングもレーティングもできている。そうしたコンテンツが世に堂々と問われる場を、とりあえずは無関係な漫画の問題をもって、果たして潰してしまって良いのかと言われると、どこか釈然としない部分がある。

 もちろん今の時点でアニメ会社も協力することで、方向が大きく変わるんだったらそれもあるけれど、別の道を探るしかないんだったら、アニメはアニメとしてアニメの場で頑張り戦い、出版社はアニメ会社の商売は邪魔せず、出版社で出版社として都と戦う、それはたとえば都営地下鉄から広告を引き上げるとか、看板を引き上げると言った方向で、頑張って欲しいという気もしないでもない。アニメフェアに協力しないことで出版社は、東京都よりも直接的にアニメ会社なりアニメに関わるクリエーターたちを苦しめていることを、もうちょっと自覚して欲しいなあ。とりあえずクリエータズワールドに出る予定の若いアニメクリエーターたちから待望の、それこそ一生を左右しかねない発表の場を、奪わないであげて欲しいもの。東京都のみならずアニメ会社にも、出版社にもお願い。


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