縮刷版2010年12月上旬号


【12月10日】 「本の雑誌」の2011年1月号で鏡明さんが2010年のSF総括をやっていて、そこに諸口正巳さんの「世界時計と針の夢」が挙がっていて嬉しさ沸騰。その異形のビジョンは2010年のSF作品を通しても飛び抜けていた感じがするし、繰り広げられた物語も改変された世界の修正に向けて邁進する人たちの姿が、ときおり悲劇を交えながらも描かれていて読む手を止めさせない。ラストに来る感慨もひとしお。それだけの作品が今ひとつ評判となっておらず、淋しい思いをしていたらしっかりと鏡さんが見ていてくれた。有り難い。というか鏡さん、よく読んでいたなあ。「SFマガジン」で卯月鮎さんがちゃんと取り上げたからかなあ。

 回顧では「ダ・ヴィンチ」の最新号で2010年のライトノベルで卯月さんが張間ミカさんの「星をさがして」を取り上げていたのも嬉しい限り。2作目にして「楽園まで」とはまた違ったテイストを持ち、世界観を持った作品を作り上げてみせた若い才能が、こうやって世に広まっていくのは、新しい書き手にとっても励みになるんじゃないのかなあ。そんな張間さんのデビュー作「楽園まで」が徳間文庫となって刊行中なので皆さん読んでくださいな。解説書いてますによって。「ダ・ヴィンチ」のライトノベルではあとは「テルミー」ってのが挙がっていたのも良かった。これ、痛ましいけれども前向きな話なんだよなあ。続きは出ないのかなあ。

 宇宙人に幽霊と、超常現象の2本立てでお送りされたアニメーション版「それでも町は廻っている」は、漫画だとどこか淡々としてダークな感じになってしまうところを、アニメならではの声の演技に絵の見せ方でもって淡々とした中にスペクタクルを混ぜ込んだり、人情を入れて目を引きつけるようにはしてあった印象。屋上での歩鳥のしゃがみこみとか見えないんだけれど見てしまうし、シリーズを通してよく使われる地面をガラスみたいにして下から描く構図での、紺先輩のやっぱり見えないんだけれど未定sまいたくなるポーズもあったりするから画面から目を離せない、リモコンから手を離せない。止めて見たって見えないものは見えないんだけど。がっかり。

 あとは声か。いつもは陽気で強気な歩鳥が宇宙人との邂逅と、そして手にした光線銃SP、ではないけど謎の光線銃でもって公園に大穴を開けたりしたあとの、落ち込んでいらだっている声なんかは小見川千明さんの声質ともマッチして実に雰囲気良く出てた。投げやりで傍若無人で強気でひ弱という、さまざまな特質を持ってその都度出してみせる不思議な声優。もっともっとスポットが当たっても良いと思うんだけれど作品がマイナーメジャーの帝王格ばっかなために今ひとつマニア受けから脱しない。勿体ないなあ。歌でもうたえば人気倍増? どんな歌声かは知らないけれど。「ソウルイーター」のアルバムで何かうたってたっけ?

 毀誉褒貶はあっても実写版「SPACE BATTLESHIP ヤマト」はなかなかの滑り出しも見せたし、やっぱり実写版として注目が集まる「あしたのジョー」も原作者にはなかなか好評だったようで、出演者たちの似せ具合なんかも含めて期待が持てそう。共に大ヒットとなった暁にはそのメンバーを取り換えっこして、それぞれに再び同じストーリーで「ヤマト」と「ジョー」を作ってくれたらさらに見たくなるかもなあ。「ジョー」なら矢吹ジョーに木村拓哉さんで力石徹に黒木メイサさん。「ヤマト」でもボクシングをやっていたけどそれを今度はリングで再現だ。丹下段平は当然ギバちゃん。似せてくるぞう。

 一方の「ヤマト」は古代に当然山Pこと山下智久さん。ぶっきらぼうなキムタクとは違った若くて熱気を持った古代を演じてくれるんじゃなかろうか。真田には香川照之さん。あの芸達者ぶりで「こんなこともあろうかと」ってセリフとともに次々と秘密兵器を繰り出す真田さんの凄みって奴を飄々と演じてくれそう。そして森雪。当然に伊勢谷友介さんだ。スリムでスレンダーなボディとそしてクールさでいっぱいの表情で、古代を相手に反発を見せ、そしてやがて懇ろに……。とってもマーベラス。大スクリーンで繰り広げられる禁断のワープクロスを存分に楽しみたい。あと入れ替えられそうなのは「ヤマト」で板艦長を演じた山崎努さんを「ジョー」で白木葉子役に、ってそれは無理か、ならホセ・メンドーサに。不適な笑いはピッタリ。必殺の強さを見せてくれるだろう。

 菊島雄佳は既にして離脱し姉に従い、桜木高見は奪われ敵に手中にあって残された蘭堂栄子に梅崎真紀に姫萩夕、そして田波洋一だけが残った神楽綜合警備に迫る手は最後の戦いとなって真紀を貫き、栄子を焼いてそして夕までをも炎の中に消し去るという、慟哭のクライマックスが繰り広げられた伊藤明弘さんの「ジオブリーダーズ」第2部が、ようやくにして単行本となって刊行されて、1人また1人と倒れていく「ワイルド7」は最終章「魔像の十字路」にも似た展開に涙がにじんでこぼれ落ちる。テレビ塔が折れようとも雪崩に巻き込まれようとも核ミサイルが地面を突っ走ろうとも生き延びてきた世界観はそこにはなく、ただひたすらにシリアスでリアルな世界で確実に失われていく命。もう戻らないその運命を作り手として描かざるを得なかったことが、あるいは1年半前よりの作者の沈黙へとつながってしまっているのだろうか。

 どこまでも正確な銃器にマシンの描写の中で、破天荒なまでのアクションが描かれる「ジオブリーダーズ」に匹敵する漫画は過去に「ワイルド7」を除けばほとんどなく、そして今現在に置いてこれも沈黙の続く「BLACK LAGOON」を除けばやはりない。そんな漫画に蘇って欲しい、福井での淀んだ日々から田波を救い、ネットに消えたまやを蘇らせ、そして黒猫が臨む世界の姿を示して欲しいと願う気持ちは今なお衰えず、むしろ最新刊を読んでますます強まる。かつての作品を集めた短編集でのグラマラスな女体で裸体の銃弾をかいくぐって疾走する姿の格好良さにも触れて、なおいっそうに憧憬が強まる。あるのか。それともまだ先のことになるのか。それだけでも知りたいけれど、知らずともただひたすらに根が居続けて待ち続ける。それが綾金市民の義務なのだから。

 ちらり、と「ゆうきまさみ画業30周年記念企画展」を舐めてからC.C.Lemonだなんて甘い名前のついたホールへと行って「Kalafina」のライブを観る。まだ渋谷公会堂といっていた時代に確か「新世紀エヴァンゲリオン」の劇場版のイベントをそこで観た記憶があったっけ、上映ではなくイベントだったはずだけれど遠い昔のことなんで覚えていない。ただ印象としてはやっぱり公会堂だなあって古めかしさだったけれどもC.C.Lemonとサントリーがネーミングライツを購入してから初めてのぞいたその中は、こぎれいになってて座席もゆったりめ。汗ほとばしる中でロックを観るよりもうちょっと、おとなしい楽曲でも聴いて違和感のない作りになっていた。

 とはいえアニソンファンが来る「Kalafina」だけあって最初から割にスタンディングの観客たち。疲れはしたけどやってた局が割にスタンダードなものばかりで、聞いていて耳になじんで体も動いて楽しい時間を過ごすことができた。とはいえ1階の両脇だと2階席がかぶさってくる関係でやや音響に遮られこもってしまったところがあったかな。次ぎのNHKホールはそうしたこともなく最強の音響を作れる場所。同じ時期の名古屋芸術創造センターもやっぱり同様の音響が期待できそうなんで、次の春のツアーは抜群のコーラスワークを聴ける絶好の機会になりそう。どっちも行こうかな。セットリストはあしたのライブを観る人とのために内緒。とりあえずラスト。もりあがるぞう。


【12月9日】 気が付いたら「マイマイ新子と千年の魔法」が「文化庁メディア芸術祭」のアニメ部門で優秀賞をとっていた。国内で初めての賞ってことになるのかな。アニメーション絡みではほかにもいくつか賞があるんだけれど、国内の映画祭関連はすべてほかに持っていかれ、頼みの東京アニメアワードでもかすりもしなかったのが公開から1年を巡ってのようやくの受賞。去年の今頃に上映終了まであと○○日! って涙ものの叫びが繰り返されていたことを振り返ると、よくもまあここまで生き延びたものだという感慨がひとしお。

 それもこれも、ロードショーの終了後に上映を支えたラピュタ阿佐谷であったり、他の劇場であったり通った観客であったりといった人たちの頑張りのおかげでもあるんだけれど、何よりも作品そのものが持つ素晴らしさがここまでファンを引きつけた。1年という時間を超えて支持されたということはさらに長い時間をマスターピースとして支持され続けるという可能性も得たということ。あとはだからもう1つ、2つ賞を取り、テレビでも放送されて大勢に知られて、日本にはジブリとか、原恵一さんとか細田守さんだけじゃないおおぜいのアニメクリエーターがいて、頑張って居るんだと普通の人が認識するようになって欲しいもの。不可能じゃないと思うんだけれど、いかんせん伝えるメディアが貧困過ぎるんだよなあ、勉強不足な上に勉強嫌いなんだよなあ。

 インターネットを始めた頃に頻繁にのぞいていたSF界隈の日記で、毎日のように登場していたのが「マジック:ザ・ギャザリング」というトレーディングカードゲームで、まだ「遊戯王デュエルマスターズ」もポケモンカードもない時代に、カードで対戦するという発想がユニークだった上に、ウィザードリーから始まったファンタジーゲーム的な雰囲気を、そこに映していたこともあって興味を抱いたけれども、さすがにのめり込むには金がなく、また当時それだけ界隈で有名になっていたということは、後から入っても遅れを取るだけだと怯え、飛び込んでいかなかった。

 それからだいたい15年。今もって「マジック:ザ・ギャザリング」はトレーディングカードゲームの王様として世界に君臨しているようで、2005年のパシフィコ横浜以来、6年ぶりに日本で行われることになった世界選手権が千葉の幕張メッセで始まったんで見に行くと、まだ朝早いにも関わらず外国からの参加者や、取材者がやって来ては会場を歩き、販売されているレアカードをながめたり、新品のブースターパックを買い込んだりしている姿が目に入って、その終わらない人気ぶりにあらためてナンバーワントレーディングカードゲームだという認識を抱く。ナンバーツーが何かは知らない。「ヴァイス・シュヴァルツ」?

 とにかく世界中から参加者があるみたいで、並んだ国旗を見るとイスラエルもあれば中国に台湾といったところもあって、ゲームに国境はあっても対立はないんだって教えてくれる。日本からは妙にとっぽい兄ちゃんが参加していたけれども、どうやら前回の日本での世界選手権でチャンピオンになった人らしい。他の世界選手権でも上位に入ったことのある実績の持ち主が、果たして地元の大会でどれだけの成績を残すのか。12日までやっているんで時間があったらまた見に行こう。近いし。

 そんな会場に出展していたアスキー・メディアワークスのブースになぜか並ぶ「とある魔術の禁書目録」や「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」のグッズ類。それらは余興で本当は「電撃マ王」に連載されている、マジック絡みの漫画のPRを行っていたんだろうけれども、やっぱり目が行く電撃キャラグッズ。せっかくの地元千葉なんだから、「俺妹」関連にはそうした地元色が出たコラボグッズも欲しかったなあ。チーバくんとの共演とか。あるかな。ないよなあ。あと配られていたメディアワークス文庫のチラシで、有川浩さんの「シアター」が来年1月に舞台になるとか。貧乏劇団を立て直す話が舞台になって、モデルになってた劇団での公演で、沢城みゆきさんも出演するらしいから見たいものだけれど、チケットまだあったっけ。「電波女の青春男」もアニメ化かあ。本当は実写で見たかった。布団で簀巻きにされたまま、飯を食らうシーンとか。

 1970年代の後半あたりに、熱心に読んでいた「サイクルスポーツ」で見たのが長義和さんという自転車選手の人の名前で、当時はいわゆるプロスポーツの競輪と、アマチュアスポーツとしてのトラック競技との差異をそれほど知っていた訳ではなかったけれども、少なくとも中野浩一さんが世界自転車選手権でもって連覇を始めていた当たりで、ツール・ド・フランスのようなロードレースとは違う世界があって、そこに長義和さんも関わっていたということは認識していた。

 そんな長さんが、メダルに期待がかかったモスクワ五輪に出られなくなったという話を聞いて、そりゃあ仕方がない、ソ連が悪いんだからといった感情を、当時抱いたかどうかは定かではないけれども、後に、あるいはその当時に、長さんがミュンヘンでの入賞をバックにモスクワ五輪出場、そしてメダル獲得を目指し、競輪選手に転向するには年齢制限に引っかかることを承知でアマチュアであり続け、結果としてプロとして活躍する機会を永遠に失ってしまったことを知り、抗議のために犠牲になる人がいることは果たして正しいのか、それは仕方がないことなのかと、逡巡したし今も迷っている。

 それを自己責任だと言ってしまうことは容易いけれど、世界に通じる才能がそこで断たれてしまったというのもまた確か。辞退するならその一方で、道を閉ざされる大勢の者たちにも共に犠牲を強いるのではなく、その道がしっかり続けられるような支えを行うこともまた大切なのだということを、そんな一件から考えたかというと、当時はそこまで考えが至らなかった。若さとは目が1点に向かいがちで、正義の御旗しか見えないものなのだから。ちなみに長さんは後にシマノで自転車部品の開発に携わり、今は故郷でパン屋さんを開いているとのこと。競輪に転向できていたら……と考えた時にその境遇の差異に沈思するけれど、同じ自転車の世界にあったシマノが、長さんを支えたらしい状況はちょっと嬉しい。

 つまり。版元権利元がアピールする場を辞退するという、そのことがもたらすインパクトが事態を変える可能性について期待はしているし、それによって起こるだろう事態によって体面を汚された側の反抗を考えた時に、版元権利元の意気軒昂ぶりはやはり讃えられてしかるべきだという認識に揺るぎはないけれども、辞退によって影響を最も受けるのは、版元権利元に依拠して創作活動制作活動を行っているクリエーターであって、アピールの場を得て世に創作の成果、制作の経過を問おうとしていたものが、まるで行えなくなり、それがクリエーターの一生を変えてしまうという可能性をも含み考えた上で、辞退という選択を行ったのだと考えたい。

 それなら、別に場を設けて世に問い広める活動を、版元権利元には是非にお願いしたいもの。版元権利元にとっては継続する事業の中で通過する1点であっても、その瞬間に居合わせたクリエーターにとっては生涯に響く面なのだから。そして重ねてのお願いだけれど、事態を変えられなかったとしても、だからといって戦線を引いて撤退戦を演じることはせず、無価値で無意味な枠組みなど知ったことかと表現に勤しむクリエーターの筆を、制作者の魂を版元権利元として認め、支え、世に送り出していって欲しいもの。それで何かが起こったら、共に戦っていって欲しいもの。輝かしいアドバルーンは版元権利元を英雄に見せているけれど、本当の英雄はあらゆる制約をぶち破り、世を驚かし心をふるわせる表現をするクリエーター。その勇気を、版元権利元には永遠に支えていっていただきたいと、切にお願い。


【12月8日】 歴史はとってつもなく残酷で、だからこそかけがえのない輝きをもって、後の世を照らし出す。普仏戦争に始まったフランスの混乱の最中、プロイセンに頭を垂れたフランス帝国の中にあって市民たちが立ち上がり、国を売った者たちに反旗を翻して、自分たちでパリを、市民を守ろうと作り上げたパリ・コミューンのその後がどうなったのかを僕たちは知っている。同じフランスの軍隊によって蹂躙され、殲滅され虐殺されて迎えた終焉。振り上げた拳は体ごと焼かれ、願いは届かないまま闇へと葬られた。

 もっとも、その精神は後に引き継がれて市民運動を呼び、あるいは市民革命となっていくつかの体制をひっくり返した。その後に生まれた独裁がややもすれば革命の価値を減じてしまうこともある。けれどもパリ・コミューンの目指した形そのものに、異論を差し挟む余地はない。残酷に終わった歴史を、けれども希望に変えるのは今を生きてこれからを作る僕たちだ。過去の残酷を未来の幸福に変えるためにも、歴史に学び歴史に生きた人々から感じなくてはならない。歴史をより所にした物語は、そこで大きな効果をもたらしてくれる。

 月島総記さんという、以前いスクウェア・エニックスから「emeth −人形遣いの島」という見変えに寄らず重たくて深いファンタジーを出していた人が、どういう巡り合わせか歴史に題を得た物語を発表。「巴里の侍」(メディアファクトリー)という小説はあの坂本竜馬に使われていた日本人の少年が、影響されて海外に目を向け維新後にフランスに留学するところから幕を開け、渡ったフランスで親切なフランス人に世話をされつつ横柄なフランス軍人に侮蔑された日本人が割腹する姿も見て、強くなりたい大きくなりたいと願う姿に謙虚さから生まれる成長の大切さというものを強く感じる。

 そんな日本人の主人公が、フランスで起こった普仏戦争後の混乱の中で、保身のために逃避し阿る愚劣さを感じ、パリ・コミューンとともに立ち上がり前進していく姿がとてつもなく誇らしい。自分の国のためではないのに、自分を受け入れてくれた人々のために戦う姿の高潔さ。結果としてそれは歴史を変えるには至らなかったけれども、そうやって戦った人がいたという描写が、いろいろなものをもたらしてくれる。頑張れば金髪の彼女まで得られる、というのは羨ましい限りだけれども現実はそうは美味くはいかないんだろうなあ。

 ちなみにそんな日本人は前田正名という実在の人物をそのままの名前でモデルにしたもので、現実の歴史でも前田は日本に戻って明治の日本の発展に寄与したとか。そうした歴史上の事実に近づけ、フィクションであっても勇敢さ高潔さに感じ入らせる物語として「巴里の侍」はひとつの効果を発揮しそう。愛国という言葉が自国のそれも身内に向きがちなおり、国の誇りをむしろ世界に向けて広め共感を覚えさせる外向きの愛国の意義深さというものも、改めて示してくれる物語だとも言えそうだ。

 新宿へと向かう用事の途中で渋谷に寄ってパルコで始まっている「ゆうきまさみ画業30周年記念企画展」とやらを見物。何がおどろいたってあのまのちゃんがすでにお母さんになっていて子供までいたりするという事実が示されていたことで、なるほどこれが画業30周年という時間の重みなんだなあと実感する。まのちゃんって誰って思った人は「究極超人あ〜る」を読みなさい。展示物ではバーディーのフィギュウアとか「月刊OUT」に掲載されたガンダムパロの原稿とかが懐かしかったり美しかったり。このガンダムパロの漫画って僕はどこで読んだんだろう? あと「あ〜る」のエピソードが原稿のまままるまる複製されて売られる予定ってのに感嘆。欲しいけれども値段がなあ。でも欲しいなあ。「鉄腕バーディー」の旧版第1話とかだったら買ってたかもなあ。

 そんでもって新宿のロフトプラスワンで開かれた「月刊アニメスタイル」の創刊告知記者会見とやらを見物、というかお仕事。2000年だかに1度、雑誌で出ながら2号で終わってしまった「アニメスタイル」って雑誌があって、その後はウェブでの展開になっていたんだけれどもこれを2011年の5月に改めて、月刊誌として紙の雑誌で出すことになったというから何というか反時代的というか。むしろ今なら電子書籍の方面に行きがちなところを、どうして紙に先祖帰りするのか? といったところで編集長を務める小黒祐一郎さんの説明があって、そこでこの時代に紙の雑誌で出す意味ってものが語られた。

 すなわち、ウェブでは難しかった、原画をそのまま見せられるという形態上のメリットがあり、それからかつてはコアだったはずのネットが今はむしろメジャーになっていて、メジャーなはずだった紙の方がコアになりつつある状況があって、だったら紙で出そうという決断を小黒さんにさせた模様。あとは特集を作って情報の内容や価値にメリハリつけられるとかいった雑誌ならではの特性もあった模様。とくに意識してとりにいかなくってもいろいろな情報が載っていて、そこから興味を覚えて辿っていけるような回路としても、リアルな雑誌って機能を発揮するってことも多分あったんだろう。

 折しも2006年に日本で初めてでそして今なお唯一のサッカー専門新聞「エル・ゴラッソ」を立ち上げたスクワッドって会社の山田泰代表取締役が今日発売で『「最後」の新聞 サッカー専門誌「エル・ゴラッソ」の成功』(ワニブックスPLUS新書)ってのを出していて、そこで語っていることが紙媒体の方が世界観を作りやすく、ストーリーも作りやすくって読者の興味を歓喜しやすいってことだったりして、「月刊アニメスタイル」が紙で出されることといろいろ重なる部分、相通じる部分があって面白い。

 加えて山田さんは新聞という事業体が持つ柔軟性やら展開力なんかを買っていて、それを活かしていろいろ新しいことができる、その好例が「エル・ゴラッソ」だってことを示してる。雑誌を作ろうとしている人にとても、新聞に妙な行き詰まり感を覚えている人にも、突破し乗り越えていく道筋を与えてくれる1冊。帯には「エル・ゴラッソ」の発行部数が20万部とあって、初期はそれこそ数万だったものがここまで成長した理由ってものを、これからいろいろ始めようとしている人は考えた方が良いのかも。「月刊アニメスタイル」もこれくらいに成功するといいなあ。その礎が大河のねんどろいどぷちであり、安ディアのねんどろいどぷちなのか。そうかもな。

 うーん。社長が春のイベントには出なって表明した例のコメントを、すんなり義挙だ偉いぞ素晴らしいと讃えられない僕は、モスクワ五輪ボイコットという愚挙の直撃を受けた世代だからなのか。なるほど、今まさに危ないという状況に、大きな警鐘を鳴らすイベント的なアピールとして、ああいった表明に意味はあるけれど、実際に出ないとなるとそれによって作品とかをアピールできなくなって影響を被るクリエーターなり関係企業の数はは、あの改正案が通って影響を受けるかもしれないクリエーターに負けず大勢いたりする訳で、そうした人への責任を出版社としてちゃんと果たせるかというとこれがまた。

 クリエーターの見方をしたいといいつつ、むしろ足を引っ張りかねない態度に、それでも仕方がないことなんだとクリエーターに乗らせるというのは、そこを通してしか自分の作品を形にできないクリエーターにとっての一種の権力装置として、出版社があるんだってことを改めて世に示したってことにもつながる。困っている人がいるならみんなで困ろうねという平等性。でもなあ。表現にはいろいろあるから表現あのであって、抗議という美名のもとに規制されかねない表現に限らずまるで規制を受けようがない表現まで、共に呻吟しろってことを、実質的な権力装置の出版社が言うのって本当のところどうなのか。ちょっといろいろ悩ましい。

 不幸にもこうした態度表明が、まるで状況を変える効果につながらなかった場合、それだったらむしろその場に出ていって、暴れるなりする方が得策だし、そんな場に集まっていくる人の多さで、事態の重大さって奴をその目で見える形にして示すことができる。これって結構重要かも。あるいは守りたいって気持ちがあるんだったら、出る出ないってことで改正案を揺さぶるよりも、そんな改正案が議会を通ろうと通るまいと、まるで以前と態度を変えず自主規制だのもいっさいしないで粛々と出版に臨み、それで問題を指摘されたなら、分かりましたと逃げずに徹底的に作者を守り、これでいいのだと流通を押し通すくらいのど根性を見せるのが、クリエーターのためにもなって良いんじゃないのかな。うーん。ともあれ問題の所在を可視化することには成功したこの一件を受けて議会はどう動き、そして表明した責任を出版社としてどこまで果たすかを、じっと見ていこう。


【12月7日】 あければ本八日未明にダコタハウスで敵艦隊とチャップマンが交戦に入る日を前にして天気明朗なれど並木たかし。という師走も押し迫った中で体力気力もどんよりとした中で読まされたからキツいものがあった浅井ラボさん「Strange Strange」(HJ文庫)はライトノベルの体裁を見せながらも中身はハードにホラーでバイオレンスで猟奇でシュールでモンスター。可愛い絵柄に新しいラブコメ? と思い手に取った人たちを卒倒させ怯えさせ身震いさせて解放させる、凄まじいばかりの効力を発揮しそう。いっそこれが「○○は○○でない」なんてタイトルで白地をバックに美少女が微笑む表紙絵で、MF文庫Jから出ていたら被害者多数感染者大多数になってライトノベルの世界にパニックを起こせたのに。まあそんな冒険をするレーベルでもないけれど。

 ともあれ「Strange Strange」の凄まじさは冒頭の「ふくろおんな」から大爆発。3人娘が会話でもって何か都市伝説めいたものがあると喋っていた中で、浮かび上がった「ふくろおんな」の恐怖。それを試そうと出かけた先に現れた奇妙な絵に、言い伝えのとおりの言葉を言った女性に災難がふりかかる。もっとも。本当はそんな伝説なんてまるで嘘っぱち。1人をひっかけようと周りが企んだものだったはずなのに、伝説は現実となって関係者たちを次々と巻き込み恐怖のどん底へと叩き込む、ってことろで実は、となってけれども、といったりする二転三転、メタだバーチャルだと思わせておきながら実はリアルで救いも笑いもない展開に、こりゃあ本気の1冊だってことを伺わせてから次の「ぶひぶひ・だらだら」。

 これも凄い。いじめられている少年が抱く救済の妄想は妄想でしかなく、やっぱり虐められ続ける少年に対していじめる側の憎しみも、侮蔑もまるでなくってただ平然とした悪意でもっていじめを続け、それだけでなくさまざまな猟奇を繰り広げる姿がおぞましくも凄まじい。そんな悪意に踏みにじられ、のたうちまわりながらも戦うことはせず、かといって逃げ込むこともしないですべてを内に抱き、誰ひとりとして救おうとしない主人公の少年の卑怯さがまたエグい。いじめていた少年が行ったある実験の、その行為自体もどうにもおぞましいけれど、それが瞬間でおわらず永劫となった果てに見えるビジョンがどうにもやりきれず、それでいてどうなんだろうと興味を誘う。人間に奥底にある残酷を、引っ張り出して解放させる物語、なのかもしれない。

 それ1編でも傑作だし「ふくろおんな」と合わせて2本でさらにパワーアップしているのに、ここに突然彼女の正体に気づいて始まる血まみれの逃避行が悲しくも愛おしい「人でなしと恋」が加わり、世界が終わる時に女性が気づく真意が怪物だらけの世界で爆発する「Last Day Monster」と続くからもうたまらない。どれもが逃げずそらさずすかしもしないで、真正面から悪意と恐怖を血と汚物に載せてぶつけてくる。それでいて挿し絵は可愛いライトノベル。このギャップこそがひとつの悪意でありひとつの企み、ひっかかった青少年の将来やいかに。2010年の末尾を飾って2011年へと突き抜ける恐怖の殿堂、血の結晶をすべての人は読みたまえ。でもきっとホラーファンには届かないんだろうなあ。ライトノベルってカテゴライズされ過ぎだもんなあ。

 三宅一生さんが現れるというので六本木にあるミッドタウンに出かけたらイルミネーションで目がくらむ。周辺に割と住宅地とか残った中に立ち上がったミッドタウンのその周辺だけに輝く木々のイルミネーションって、綺麗なんだけれどもどこか寒々しいものがある。どうにも島宇宙的っていうか、トータルではなく部分で体裁を取り繕ってそれで万全と感じたがる、日本人のある意味では個性だし、ある意味では独善さが伺えて興味深い。住宅地で1軒だけ派手なクリスマスイルミネーションを掲げて、それで自分は楽しいって思って当然な歓声に通じるっていうか。別に周囲との調和を考え自粛する必要はないんだけれど、自分だけが盛りあがれば良いっていうのもまた微妙。周辺を巻き込み全体で楽しい雰囲気を盛り上げるような流れに行けば良いんだけれど。それもまた鬱陶しい話か。

 さて三宅一生さん。もう結構なお歳になっていて、それでなおかつ昨年に広島での被爆体験も話したほどにいろいろあった人生を感じさせない美丈夫ぶりを見せて浅葉克巳さんとのトークに登場。デザインって別に奇をてらえば良いってのじゃないんだってことを話してて、でも三宅さんの服って時として構築的で服に見えないこともあるんじゃないの? って思ったけれども三宅さんの服って見た目ではなく着やすさが考えられていたり、素材に工夫がされていたりと見てくれのデザインからというより、機能としてのデザインからそういう形になったものがほとんど。その意味ではなるほど言っていることにブレはなく矛盾もない。

 そんな三宅さんが最近感じているのは、かつての熱をもって素材の開発に取り組んでくれた日本の企業から熱が失われているんじゃないかってこと。化学繊維のアイデアを形にして素晴らしい素材へと変ぼうさせていった日本の技術が失われ、どんどんと海外に転移してしまっていることに、そうした素材の開拓から含めて服作りをしてきた三宅さんにはどうにも不安に見えるらしい。そんな中でもペットボトルを再生した服なんかを作ろうと取り組み初めてて、その成果として着ていたものを指していたけどまるでシルクか極細コットンかというような雰囲気を見せるシャツになってて、頑張れば格好いいものが出来るんだということを身をもってしめしてくれた。シャツなんだけれど袖口にボタンはなくカットソーみたいになってて細口で引っ張ればそこでとまってまくったのど似たようになる。肌触りは分からないけどきっと良いものなんだろう。あとは値段か。2万とかじゃあなあ。どっちにしたって今のこの体型で何をきたって無理なんだけど。痩せよう。

 そんな三宅さんの嘆きは最近の企業の判断の鈍さにも及んでた。例えばある繊維会社で社長が出てきて私はファッションを知らないと平気で言う。だったらどうしてそんな企業の社長をやっているんだろうとう気持ちに襲われるんだという。あるいはアップルコンピュータのスティーブ・ジョブズにしても、サムスンにしてもダイソンにしても世界的に知名度を上げて支持されている企業は、社長が率先して決断を下してきたと三宅さん。そこで口に出た「昔はソニーもそうだった」という言葉が、今のソニーの状況なんかを示唆しているようで興味深かったけれども、そんなソニーもおそらくは含めてすぐにこれ良い、やりましょうとはならずに社内で揉むとか社長に見せてから決めるとかいって「みんあ責任逃れをしている。摩滅してつまらなくなる」と嘆いてみせる。まさしく至言。だからこそその歳でなお先頭に立って素材を作り田圃も作り品物をつくり展覧会も行い世にいろいろ広めようとしている。学ばねば。日本の企業も。そしてあらゆる物作りに関わる人たちも。


【12月6日】 やっとこさ観た「STAR DRIVER 輝きのタクト」はなぜか野球の回。前もそういやあ何か唐突に野球が始まったなあと思って思い出そうとして思い出せずに苦しんだ挙げ句に「野球回」でググったらなぜか「侵略! イカ娘」がひっかかてきたりしてどこもかしこも考えることは同じだと思いつつ更に調べて「宇宙をかける少女」だったと判明。そいうやあそんなアニメもあったっけ。始まりはとてつもなく評判になったんだけれどなぜか途中で失速気味になってしまって意味不明のままラストまで行ってしまった悲劇のアニメ、って理解でOK? でもそっちのシュールさとは違って「タクト」の方の野球回は舞台が学園だけあって学園の行事としての野球だから唐突さはそんなにない。

 対戦自体も複線になっているようで試合の最中に敵姉ちゃんが唱えていた呪文を妹巫女がタクトに伝えてそれが戦いの場面で有効活用されていく流れはとってもスムーズ。あとキャラの特徴を改めて見せるって面でも意味があったかも。若奥様の豊満さとかその召使いの憮然とした態度っぷりとか。戦いの方はといえば野球の回だらかってどうしてボールを投げるような攻撃をするのかなあ、って疑問はさておきピンチかと思わせ逆転へと至らしめる王道敵展開。っていうかその呪文がなかったらヤバかったかもしれず、すなあち案外に弱いのかもしれないタクトなんだけれども美少女をどんどんと味方に付けて勝利するってところが銀河美少年の銀河美少年たる所以。これからもいろいろタラし込んでは勝利し続けるんだろう。アプリポワゼな場面の歌は気多の巫女の方が深淵だったかなあ。

 赤松健さんがひなた荘の面々とそれから麻帆良学園の女生徒を引き連れ会見するってんで信濃町に行ったけれどもまずは登場したのは背広姿のお兄さん。パッと見とても漫画家さんって感じではない真面目そうなその人こそが「ラブひな」やら「魔法先生ネギま!」の作者の赤松健さんその人で、手にiPadなんかを持ちながら絶版漫画をPDFデータにして広告を入れて無料で配信していくサービス「Jコミ」ってのの発表にしばしの間勤しんだ。その内容たるやあの大人気漫画「ラブひな」が出版社では重版未定という実質的な絶版扱いになっていたものを潔く絶版にしてしまって自分のところからまずは配信してみせて、その勢いをもってして絶版漫画を同様にPDF化して提供していきたいので宜しくといったもの。

 そのまま刷り直せばまだ売れるだろうし、文庫本にでもコンビニ本にでもカラー絵つきの豪華本にでも展開すれば何度だって価値化が可能なドル箱を、自分のサービスのために絶版という言葉の字面としてはなかなかに重たく、出版社的にも判断が難しい状況へと至らしめるとは何たる英雄、何たる豪傑、そこまでして自分が始めたJコミってサービスの価値を高め、それを満天下に喧伝して多くの同志を誘い、絶版漫画あるいは重版未定漫画が再価値化されないまな死蔵され消滅していくのを防ぎたいのかといった、漫画にかける熱い熱い思いって奴をそこに見て涙が出てきた。偉いなあ。

 と同時にもう紙で読めないのか、って残念な気分にもなってしまったけれども、赤松さんは旗頭だから別にして、これから参加してくる面々について考えてみれば別に、無料のPDFで頒布するのと、紙で出版されているのが平行してたって、それを許す出版社があれば問題はないってこと。紙で読みたい人にはそっちで買って貰い、PDFで良いって人にはそっちを提供する。その比率があまりに違いすぎて紙が少数になってしまうと、刷るのも重たくなるけれども、PDFで読んでこれなら紙でも欲しいといった相乗効果が、発生する可能性もある訳で、その辺りを総合した仕組みへと発展していけば、紙かデジタルかなんて不毛な対立も解消されて、紙でもデジタルでもオッケーでそれで市場も倍とはいかないまでも1倍以上となれば万々歳なんじゃなかろーか。まあそうはならないからこそ大半の絶版本は絶版という状態にされてしまうんだろうけれど。

 あとクリックがあればそれで広告として成立か、って問題についても悩ましいところであって、いくらクリック率が上がったところで広告がどれだけの効果を発揮したか、ってあたりを勘案しないとスポンサーもなかなか納得しないのが最近の世知辛い世のことわり。ネット広告の会社はだからクリック率を上げる上に効果測定も含めてクライアントに示せてようやく広告いありつけているんだけれど、そこまでのサーチをこの会社が出きるのか、ってところが今後の発展の課題になりそう。

 Jコミには、絶版本を死蔵させずに形にして永遠に残すって文化事業的側面もあるんだろうけれど、そうした文化だって維持するのには金がいる。その金を集めるにはやっぱり広告が必要で、その広告の効果を最大限にするためにも、読み手にタダには理由があるんだって意識をもってもらい、そのおかげで素晴らしいサービスを享受できるんだという意識も抱いてもらわくちゃいけなさそー。でもそういうことが理解不能な世代が増えているんだよなあ。タダはタダだからタダなんでしょ? ってな感じに。これは別に漫画にだけ言える話でもなくって音楽なんかがてきめんに被害を受けていたりするんだけれど、そうした意識を変える意味でもこのJコミのビジネスモデルが何かを招き、何かを生んでいたら良いと思ったり。堀江由衣さんは可愛かったなあ。昔はガキ大将だったのに。って歌ってたのに。

 誘われてAKB48とやらを見に行ったんだけれど知ってる名前の人ではなくって指原さんとか仁藤さんとか横山さんとかいった人でこれがいったいどれだけのバリューを持った人なのか、分からなかったけれども御大・秋元康さんから認識されているってことはつまりちゃんとしたメンバーだってことなんだろう、ってそりゃあ一応は知っているか全員を。知ってるのかな? クラスより多いんだぜ48人って。それを覚えているとしたら秋元さんも相当な物。あの「インセプション」のブルーレイディスク発売を記念して行われた、もっとも影響を与えた人とやらに発売元のワーナーが贈る賞の最初で最後の受賞者になっただけのことはある。あんまり宣伝めいた場所に来るような人じゃないけれど、この同時代性とそして監督の人への敬愛が、秋元さんに賞を受けさせた模様。六本木のホテルであったから近所に住んでてかけつけやすかった、なんてことはないよなあ。

 そこから転戦して中野スペースZEROで行われた、東京都がまたぞろ画策している漫画規制の問題について考えるトークイベントを見物。途中にあるプールで子供達が水泳教室で満願でいる姿をガラス越しにちょい眺めて頬も火照ったものの会場につくと午後6時にして長い列。最終的には1000人を超えた模様で会場はもとよりロビーにも、別会場にも入れない人たちが大勢出たみたいで、問題の大変さって奴をいかにどれだけの多くの人が感じているかってことが強く激しく伺われた。それほどまでの問題にも関わらず、登壇した民主党の都議の人は過去に挙げられた条例案から改正が進んでいるため賛成しても良いかもしれないと発言して場内に不思議な空気が漂う。

 なるほどその意見は尊重するけれど、どこか性善説めいてちゃんと文脈から判断される、恣意的に判断されることはないっていったことが確保されるなら賛成するにやぶさかでないといったトーン。けれども現実に果たしてそうした丁寧な作業がなされ得るのか。文脈で判断ったって連載中の作品で全体を通して判断なんか不能で、初期にはインモラルに見えてもそれが美談へと変わっていく作品があり得るにも関わらず、描けない可能性が出てくることに何の解決をももたらさない。「さくらの唄」だったっけ、単行本の3巻にだけ成人マークがついたことがあったけれど、その逆に最初だけ成人マークをつけて単行本を出す、なんてことはたぶんない。駄目なら駄目だとお蔵入り。そうして1つの表現が消えることだってあるんだと、思えば安易に賛成なんて出来ないのになあ。妥協点を探りそこに落とすという政治とやらがやっぱり繰り広げられているのかなあ。

 共産党の都議の人は非実在なんて非現実な言葉は引っ込められたけれども、近親相姦とかいった具体的なテーマを選んで規制の対象にしようとしている部分で、今後のあらゆる表現に関わる重大な問題をはらんでいるといった見方をしている。あれは駄目でこれは良い。といった判断はあれも駄目でこれも駄目、といつかなってしまう可能性があるからなあ。そんな議会の現場で動いている人たちの話が終わってようやくパネリストたちのトーク。赤松健さんの会見にも特別に参加していた樹崎聖さんが、こちらにも来ていてコンプレックスから生み出された文化がコンプレックスを持つ人たちを救っているのに、規制によってそれが滞ってしまう可能性を衝き、近藤ようこさんは漫画だけがやり玉にあげられることへの違和感を表明。そしてとり・みきさんは問題がある表現なら個々に対応すれば良いのであって、具体的な被害が聞こえて来ない条例案が作られる意味が分からないといった旨、話してなぜいま、そして漫画なのかといった疑問を呈してた。

 これについては警察官にも役人にも教えている河合さんが明後日に発売となる「世界」でもっていろいろ書いているらしいので、読むと誰が何のためにこの条例を作り遠そうとしているのかが分かるらしい。誰ってもうみんな分かっているんだけれど。他にも呉智英さんや山本弘さんや保坂展人さんといった面々が話してそのいちいちに納得。聞けば分かることがけれども通じない人たちがいて、そうした人たちの考えですべてが決まってしまおうとしているこの状況のむごたらしさに、頭が痛くなって来た。子供に見せたくないとうなら親が見せないようにすれば良いだけのこと。見たい人だけが見ればいいだけの話であってそうせずすべてを行政にゆだねる親の怠慢ってものに、高河ゆんさんや野間美由紀さんといった人たちが触れていたのにも、なかなかの説得力を覚えた。

 漫画家だけれど親でもある人たちが、どうやって子育てをして漫画とつきあってきたのか。その見本を見ずして一律に規制してしまえばそれで良しとする行動が、子供から何を奪い未来から何を消滅させるのか。それを思えば誰しもが安易になびくことなんて不可能な事柄を、それでも遠そうとしている人たちがいて、賛成するかもと表明してしまう人がいるこの日本。相当に拙いところにまで来てしまっているのかもしれないなあ。ともあれ明日明後日と都議会で質疑があってそして週明けに委員会やら本会議やらで決まっていくというスケジュール。世論を喚起できるだけの力はないけれども可能ならば何か言葉にする場所を作って赤松さんの漫画業界に抱く危機感、そして漫画家たちが条例に対して抱く不安を示してみよう。漫画って大変なんだなあ。


【12月5日】 土岐秀史さんは柱で完全に見切れてしまっていた悪席だったけれども、音響についてはトークがまるで何を喋っているか、ボソボソとこもってしまっていた以外はなかなかで、綺麗に歌声も響いて聴こえて満足だった竹内まりやさんの武道館ライブ。バックコーラスの3人も、山下達郎さんのライブと同様に美声を響かせてくれて、むしろサウンドに紛れてしまいがちな達郎さんの会場よりも、くっきりと聞こえる場面もあったのは、まりやさんがまっしろなレギンスデニムともスリムジーンズとも取れそうな白いパンツで登場したアンコールの場面。

 例のケンタッキーフライドチキンのコマーシャルソングを歌った場面で、コーラスの三人がそれぞれにソロを歌う場面なんかがあってそうか国分友里枝さん佐々木久美さんてこんな声をしてるんだと確認できた。三谷泰弘さんについてはスターダストレビューの頃に散々聞いてる歌声が今もそのまま響いて来て、懐かしくも嬉しく楽しい師走の一夜、このかすれ気味に優しい歌声が、根本要さんの高くてそれでいて張りがあって響き渡る声と重なって現れるスタレビの音楽の最強ぶりが、思い出されてしかたがなかったけれどもそんなオールディーズなスタレビファンに朗報というか、三谷さんが作っているesqってユニットが、1月に渋谷で開くバンドライブになんと根本さんが参加の予定とか。

 あの最強のコーラスユニットが復活すると思と興奮に懐かしさが加わって、眠れなくなりそうだけれどもそんな思いを抱えているファンも多そうなんで、チケットは争奪戦になるんだろうなあ。頑張ろう。懐かし系といえばまりやさんのライブでオープニングアクトを務めたセンチメンタル・シティ・ロマンスが、渋谷にある映画館が跡地のライブスポット「プレジャー・プレジャー」で企画ライブを繰り広げるみたいで、毎回違うゲストを読んで見せるユニット公演はやっぱり懐かしさと、そして組み合わせの妙ってやつをみせてくれそう。何しろメンバーが安部恭弘さん、EPOさん、村田和人さんだ。80年代シティポップの神様女神様ネプチューンさまが、最高神のセンチと組むんだからもう最強。極上の音楽、最高の音楽に出会えるよるになりそう。こっちも競争率、激しそうだなあ。EPOさん村田和人さんだけはどうにか。

 おお、本格的にミステリー物っぽかったぞ「ミルキィ・ホームズ」は唐突に洗われた巻き毛で食料もちな少女を送って帰ろうとしたネヅっちが何者かに襲われて、傍にはダイイングメッセージ。その真相を解明しようとミルキィ・ホームズの面々がそれぞれにご先祖さまを呼び出し解決にあたろうとするものの、誰も彼もがまるでポン酢で役に立たない。そんななかで、ホームズの子孫のシャーロックだけには憑依がないのはなぜかと訝っていたらちゃんと見せ場が、それも最高の見せ場が用意してありました。やっぱりすごいんだ、ミルキィ・ホームズって。それにしても慕われているなあ、後輩にも、怪盗にも。普段のナンセンスからちょい外れてシリアスもあったけれど、それもまたミルキィってことで。ミステリマガジンで知った人にはどれだけミステリか伝わったんじゃなかろーか。

 「とある魔術の禁書目録2」の方は、上条当麻の覚悟がまだ揺れている段階で、リアルに迫る危機にもどこか学生然として振舞っているけれど、ここから段々と強敵が現れ身に迫る危機も深刻さを増し、出会う人たちもすごさを増して否が応でも覚悟を決めなくちゃいけなくなる感じ。オリアナはデカいんだれどあんまりみせてくれず揺らしてもくれないから残念。リドヴィアってデカかったっけ。インデックスはデカくないってわかっているからはなっから除外。っていうかずっと倒れっぱなしでうつ伏せでない胸がさらにペチャンコに。吹寄制理は魔法の煽りで倒れて退場、貴重なデカさが…。これでだいたい一巻分で残る一巻分で年内は終わりか。アニエーゼ救出編までいくのかな。やっぱりペチャンコだけれど代わりにミニスカ法衣があるのだ彼女には。再登場を激しく期待だ。

 起きたら天気もよかったんで蒲田へと出向いて文学フリマを見物。午前11時の会場時刻で百人以上はならんでいた感じだったけれど1つブースのあれはどこだっけ、そこに大行列ができては開始して15分後にはもう品切れな感じで列もはけ、あとは手持ち無沙汰になっているブースの人がかわいそうっていうよりは何をしに来たんだろうかて感じも混じって複雑。刷り部数をふやせば一日だって売っていられるだろうけど、余るリスクだってあるからなあ。でも前回も早々に売り切ってたし。あんばいが難しい。っていうか一体何がそんなに面白いくってあんなに売れるんだ? 読めてないからわからない。読めないからこそみんな買う?

 集英社スーパーダッシュの美少女戦車隊の人とかいたりして、あと柿崎俊道さんが豊郷小学校と本当にしっかりとコラボレーションしTシャツを販売していたんで手摺バージョンを買って「マイマイ新子と千年の魔法」の聖地巡礼本を出してた別の人のブース酢を眺めてから早々に退散。いわゆるぶんげいかいわいの有名人が出てそこに人気が集中していた時期を超え、満遍なくこゆるりとして文芸に関心があったり、表現したかったりする人たちの発表の場として定着はして来たみたい。評論が多いのはそれがやりやすいからなのかもしれないけれど、個人的には当初の目論見なんかも鑑みつつ、創作物を世に問い広める回路としても、もうちょっと機能しないものかなあ、なんてきもしたり。ただそれにはやっぱり何があるかがわからないとなあ。カタログ吟味の時間が欲しい。

 せっかく午前に蒲田へと出向いたんだからと足を延ばして、川崎まで行きアメリカンフットボールの社会人の日本一を決めるトーナメントの準決勝、オービック・シーガルズと鹿島ディアーズの試合を見物することにする。会場が前の川崎球場だっていうからさぞやひろびろとしているのかと思ったら、スタンドをまず外してグラウンドを長方形に残した上でスタンドを組んだ形になっていて、フットボールをするのも見るのもベストなサイズの競技場ができあがっていた。なるほどなあ。球場っぽさはバックスクリーン側とバックネット側の丸みに見える程度。このコンパクトさでアメフトを見られるのはファンにはとっても嬉しい。場所も川崎駅から15分弱。この便利さからファンが増え、プレーヤーが増えれば日本のアメフトも栄え伸びていくと信じたい。

 開場まで時間があったんで近所で見付けた沖縄料理の店で沖縄そば定食を食べ、午後からのライブに備えて練習する人の歌声なんかもタダで聞いてから店を出て、そして駆けつけた会場で目の前をミニスカートのお姉さんたちが歩いていく姿を見てしまったのが今日の僕の運命を変えた。あるいは一生の運命すら変えたかもしれない。にょっきり伸びる足に惹かれてフラフラと入ったのが、試合をする2つのチームのうちのオービック・シーガルズ。前はリクルート・シーガルズって言ってた時期もあってその頃に一度、東京ドームでライスボウルを見た記憶があるんだけれども、その後、所属が変わってただのシーガルズでライスボウルに出て、そして2005年にも今度はオービック・シーガルズで出場したくらいの強豪。とはいえリクルートの時には社会人側のスタンドで見ていたものが、ここ最近はもっぱら学生側でピチピチがピョンピョンを見るくせがついてしまって、どんな応援をシーガルズがするのか分からなかった

手前シーガルズ、奥ディアーズでチアにも選手にも違いくっきり  始まって思ったのは、対戦相手の鹿島ディアーズ側のほうがよりチアダンスぽいスピード感を出してたなあってことだけれども、ホットパンツ姿で踊るディアーズ側に今更移るのも面倒だし、やっぱりチアリーダーはミニスカだろって腹も固めてそのまま居座り試合開始。まずはいきなりディアーズが、4thダウンからフィールドゴールを狙うと見せかけギャンブルに出てタッチダウンを奪いリード。トライフォーポイントははずしたもののさらに今度はシーガルズのフィールドゴール狙いをブロックしてそのままタッチダウンしトライフォーポイントも成功させて13点まで先行する。

 シーガルズはハーフタイムまでにタッチダウンしトライフォーポイントもきめて6点差に迫るものの、その後にまた点差を広げられ、迫っても今度はセーフティって自陣タッチダウンゾーンでもって攻撃を相手に止められるセーフティで2点を追加され、21点まで持っていかれて点差は残りがだいたい3分くらいだったっけ、そんなもんで7点。すなわちタッチダウンを決めてそしてトライフォーポイントも決めてようやく同点というところから奇跡は始まった。ひたすらにドライブを重ねてタッチダウンのゾーンへと迫り残り2ヤードで時間は3秒。そこでクォーターバックがボールをたたきつける動作で1ヤードすすめて秒数は残り2秒。そしてそこからタッチダウンが決まり残り1秒からトライフォーポイントも決めて同点に追いついた。

 まさに奇跡。というかそれまでシーガルズがクオーターバックの短いパスでもってなかなか優勢に進めていたのに、肝心なところでミスをしたりファウルを冒して攻めきれなかったのが接戦を生んだ理由でもあるんだけれど、それでもプレッシャーのかかるところから見事に同点に追いつき、そしてタイブレークの試合で25ヤードから互いに攻めるゲームを先攻のシーガルズがタッチダウン&トライフォーポイントで7点を重ね、対してディアーズは1stダウンを狙ったパスがインターセプトされて万事休す。リードしながらも追いつかれ逆転を喫する痛い敗戦にまみれてしまった。

 ここでホットパンツにひかれて鹿島側にいたらきっと落胆も大きかったんだろうけれど、そこはそれ、ミニスカートに吊られてシーガルズ側に来ていた関係で凄い試合を興奮の中に観られておまけに最大の感動を嬉しい方で受け止められた。趣味ってやっぱり大事だなあ。それにしてもこういったことがあるからアメリカンフットボールって面白い。戦術もそうだし残り時間をどう計算して攻守を切り替えるかって頭も重要。いくらリードしたからといって残り時間が多いと追いつかれる可能性がある。それも含めてリードを広げるか、追いつかれてもそこから引き離せるだけの時間を用意しておかないと勝利がおぼつかない。っていっても1秒で同点に持っていかれるんだからやっぱり計算は不可能か。可能と不可能の狭間でもって呻吟し、興奮していける希有なスポーツ。日本にももっと流行して欲しいなあ。とりあえずチアリーダーでは1人単発で毛先を立ててた人がダンスのキレも含めて目に付いた。東京ドームでも会えるかな。


【12月4日】 やはり江尻監督は辞めるべきだった。というよりそもそも今シーズンの監督に就任させたのが大きな、そして決定的な間違いだった。相手の前線からのチェックに慌ててボールをサイドに運ぶ。それはまだいい。そこからドリブルなり壁パスなり、オーバーラップなりを交えて前へと運んでいけたなら、クロスも上がって得点の機会につながる。ところが、そこで囲まれても誰もサポートせず、自身で運ぶテクニックおないまま攻めあぐねては後ろにボールを戻して勢いを断ち切ってしまう。そこでサイドを変えるなり、中央のくさびにいれて押し上げる動きを見せるなら、まだ動きもあるし救いもある。けれども、なぜか同じサイドからまた攻めて行こうとして、囲まれだせず無理をして奪われ責められ相手の得点となる、そんな場面がそれこそ去年に監督に就任した時から続いている。

 そして降格の憂き目に。ここで見切っておけばまだ幸いだったものが、なぜか留任となってしまった。それならそれで大きな改善があればまだ救われた。なのに、シーズン当初からいつか見た光景の繰り返し。まるで進歩させられなかったと感じた時点で見切るべきだったし、自身も不甲斐無さを悟り他に任せるべきだった。けれども、やっぱり誰も動かず選手も変わらず、ひたすら同じ光景ばかりが続いてそして迎えた最終戦。ここでも同じ光景が繰り返されては、徳島ヴォルテスを相手にロスタイムまでリードされる不甲斐無さを見せ、ギリギリで同点に追いついたものの、それも後半になって投入した選手たちの我武者羅さによるものでしかない。その時点で用兵に間違え戦術を誤るいたらなさを改めて示してしまった。

 負けなかったのだから、と言う理由で讃える向きもあるかもしれないけれど、ホームと言う場所でラストゲームという舞台において、見せる試合ではなかった。見せて良い内容ではなかった。そもそもがJ1に昇格を果たして、なおそこでも残留争いには加わらない堅いチームを目指していたはずが、未だJ2でそこの中位のチームをあいてに攻めあぐね、リードされ、ようやく追いついて対面を保っただけにすぎない。そんな戦いぶりをどうして称えられよう。ほめられようw。どこかのサッカー専門紙の担当記者がまけてもなお、6点をつけるような愚挙をみせて監督と、選手たちに媚びたとしても、多くのファンの目は見抜いている、江尻監督ではダメだっと、ダメ過ぎたのだと。

 とは言えもはや残留は決まったことであって今更何をいっても遅い。いや、だからこそ今日の試合で来年につながるものを見せて欲しかったのだけれど、それは前半にはなく後半に、少しだけ垣間見えた程度。それが来年も続くとはメンバーの具合を見なくてはわからないし、あるいはここに出ていたメンバーが、この一年に使われ何かを積み上げていたら将来おいて途轍もない武器になった可能性も低くはないと、やっぱりにじむ慙愧が今年一年の無駄っぷりを物語る。もとい。だから来年に繋げて欲しいと選手のセレクトを担う人たち、監督となる人に願いたい。

 幸い言うよりむしろ不幸にも、強豪のFC東京がJ2に落ちて来て立て直しのためにきっと全力を降るだろう。京都ではサンガにあの祖母井隆さんがフランスからもどってGMの重責を担うことになった。監督も含めてそれなりの陣容を整え臨むことになるだろうし、同じ東京で争うことになってしまったヴェルディも、FC東京には負けられないといよいよ本気を出すはずだ。湘南ベルマーレも反町監督を支えてきっと上位に入ってくるだろう。ここに割って入りJ1昇格を果たして争えるか。なりふりかまっていられる状況ではなくなった来シーズンに、果たしてジェフユナイテッド市原・千葉が何をしてくるのかを今はただひたすらに注視したい。まずは監督人事だ。そそてメンバー集めだ。羽生直剛さんを京都か浦和か広島に抜かれることだけは絶対阻止。断固阻止。

 それにしても首都からトップリーグのチームが消えてしまうと言う事態は、やはり如何なものか的衝撃と戸惑いをもたらす。強くある必要はなくて、例えばイングランドならロンドンでなくマンチェスターだったりリヴァプールだったりが強いこともあるし、ドイツだったらベルリンでもボンでもなくミュンヘンだったりドルトムントが今は上位。というかベルリンなんてついぞ優勝していない。イタリアだったらローマではなくミラノだったりトリノだったりが強かったりする。首都のチームが常に最強ではないことは世界では普通のことだったりする。スペインだってバルセロナが強い事が多い。でも常にトップリーグに首都がいる。そして上位に食い込んでは来ている。レアルマドリードしかりローマしかりチェルシーにアーセナルしかり。日本ではそれがなくなってしまう。これは困ったことだ。

 なるほど、首都にはもともとなかった、と言う意見もある。Jリーグが発足した時に東京都内にチームはなかった。けれどもそれはスタジアムの問題で、ヴェルディが川崎に本拠地を構えざるを得なかったからでもしも当時、ヴェルディがそのまま東京をホームにしてたら最強のチームが首都に君臨していた時代が今も続いていたかもしれない。そうではないかもしれない。けれどもヴェルディは川崎に本拠地を構え東京に移りJ2に落ちた。川ってFC東京が生まれたものの上位争いにはなかなか顔を出せないままやっぱりJ2に落ちてしまった。それは地域密着の象徴かもしれない。フランチャイズの発展が進んでいるからだけなのかもしれない。

 とはいえマーケットとして最大で人口も絶大のチームが弱い、ふがいないというのはある意味で、日本のサッカーというスポーツが保つポテンシャルの低さを現していることかもしれない。地域は栄えても日本全体が地盤沈下を起こしてはなんにもならない。だからこそこの事態、かかる状況がなぜ起こってしまったのかをJリーグは、そして日本サッカー協会はつぶさに観察し分析する必要がある。単に地域分散しただけなのか、全体として弱まっているのかを調べて問題があるなら改善する必要がある。東京に限らず千葉だってジェフ千葉が弱くなり埼玉では浦和レッドダイヤモンズ、神奈川では横浜F・マリノスが並のチームになりつつある。見かけ倒しのビッグクラブになりつつあるこの状況が、全体の地盤沈下なのか違うのか。ワールドカップを逃しただのどうだとの言っている場合ではないことを、偉い人たちはもっと考えた方が良い。でないとワールドカップに出ることすら不可能になるから。

 前座にセンチメンタル・シティ・ロマンスとはまた何という贅沢な、って思ってしまう人間だしきっと前座にしてしまった当人たちもきっと勿体ない話だとは思っているんだろうけれども、世間的にはやっぱり広く知られて人気もあるのは竹内まりやさんだから、あの名曲「夏の日の思い出」をはじめ何曲かが中野督夫さん告井延隆さんのの歌声によって奏でられ細井豊さんのブルースハープが重なったりする場面に居合わせたとしても、そんなにありがたみは感じないんだろうなあと、のんびりとした空気で日本武道館に現れた面々を観る観客の姿をながめつつ個人的にはハッピーな気分を盛り上げる。昇格争いとかしていてここで断ち切られたとしたらきっとそんな気分にもならなかったけれどもすでに確定していたんでまるで気にならず。その意味ではとっとと残留しやがったジェフ千葉に感謝かな。

 そして登場した山下達郎さんがアコースティックを持ってひいている姿を南西スタンド2階の柱で土岐さんが完全に見切れてしまっているとんでもない席からそれでもギリギリに小林さんが見えるくらいの位置から眺めてやっぱり達郎さんなあと思いつつ眼を歌っている竹内まりやさんに向けたら竹内まりやさんだったというか、CDなんかで聞いてたまんまの歌声が流れてきてああやっぱり竹内まりやさんだったと理解。知っている曲をどんどんとやってくれてすなわちそれくらい知っている曲があったんだと分かって改めて、その才能のすごさって奴を思い知る。「元気をだして」なんてほんと、ちゃんと歌詞とか覚えているもんなあ。

 それを言うなら「不思議なピーチパイ」だってちゃんと歌詞を覚えていたから不思議というか、途中で涙ぐんだかそれとも歌詞が頭から飛んだか、おそらくは前者で歌声が途切れた時でも間をちゃんと埋めて口から歌詞がどうにか出てきた。いわゆる歌謡曲のヒットソングってやつがどれくらい、一般にも浸透していたかが分かるってもの。今時の歌謡曲のヒットソングのいったいどれだけを、サビだけでなく全体をみんなが口ずさめるのか。アイドルの時代歌謡曲の時代はそれができた。テレビで見てラジオで聴いてレコードを買って聴いて耳になじませていた。それが時代とリンクして思い出になった。今は。そう思うとやっぱり今って音楽に難しい時代なんだなあ。

 そして名曲「プラスティック・ラブ」を達郎さんのカッティングに達郎さんの雄叫びもまじえて聞けて目的は達成。あとケンタッキーフライドチキンの歌で再登場した竹内まりやさんの白いあれはスパッツ風のスリムジーンズなのか何かは知らないけれど、脚にピッタリとしていた関係で脚の線とかお尻の形がくっきり見えて、あの歳にしてあの体型の凄みにもやっぱり強く激しく感じ入る。近くで観たかったなあ。そんなこんなで2時間くらいのリサイタルは終了。っていうかライブとはまた違った、派手な演出も装置もなく、誰もが立ち上がって完成を贈る儀式もなく、まりやさんの歌を聴くお時間といった感じで過ぎた今回のイベントは一生においてそれなりな思い出になったんじゃなかろーか。10年後にまた会えるのか。会えないだろうからやっぱり今回が一期一会。そこでの記憶を胸にこれからの師走を乗り切ろう。


【12月3日】 というわけでカタールへと持って逝かれた2022年のワールドカップ。イスラムな国だけにワールドカップ観戦に欠かせないビールの販売がどうなるかって不安があるし、重要なスポンサーでもあるバドワイザーだかの撤退なんかもあるんじゃないかって想像も浮かぶけれどもそんなものすら乗り越えて、類い希なる収益力でもってスポンサーを集めて巨大なイベントを成功させてしまうんだろう。南アフリカよりも南米よりも平時だったら安全性って意味では高そうだし。とはいえ石油資源とか金融とかがそんな未来まで保っているのかという不安、アラブとイスラエルとの関係がどうにかなってしまう不安等々もあるだけに予断は常に許されないので日本は代替が回ってくる可能性も考え準備万端、整えておくことにしよう。ってカタールが落城するような石油ショックに金融ショックがあったら日本経済だって吹き飛んでしまっているんだろうけれど。

 っていうか2022年もの未来になって世界のどこかに行かなければ間近に見られないなんて考える方がむしろ不思議。その頃になったら僕たちはヘッドマウンテッドディスプレイなり全身を包み込むスーツなんかを身にまとい、ジャックインしてワイヤードのワールドへとダイブして、そこにリアルタイムでデジタライズされるアバターの選手たちが試合を繰り広げる様をそれこそゴール裏からでもピッチの真ん中からでも真上からでも、場合によっては1人の選手の視点にすら入って楽しめるようになっていて当然。開催地なんてものは現地の経済の盛り上げに貢献する慈善事業の恩恵を被る場所となり、そこにわざわざ出かける人たちもおらず誰もが好きな場所で好きなようにワールドカップを楽しめるようになっているんじゃなかろーか。ならねーな。

 もしも実写版「宇宙戦艦ヤマト」の企画が1990年前後に実現していたら、いったいどんな役者たちが出演していたかを考えてみるテスト。古代進はやっぱり織田裕二さんで島は熱血がちょっと入った石黒賢さん。コスモタイガー隊に所属しているとしたら森雪は田中美奈子あんあたりになりそうで、強気なまなざしを向けてふがいない男子をけっ飛ばしてくれそう。あるいは鷲尾いさ子さん? 長身が光りそう。原作通りにブリッジ要員だったら不思議テイストを振りまくってことで鈴木保奈美さん? ちょっと不思議入り過ぎかあ、もっと優雅な人が良いなあ。んでもって沖田艦長は山崎努さんでも悪くないんだけれどもここは超然としたテイストを出すってことで田村正和さん。真田もギバちゃんで大丈夫なんだけれどもまだ若いからおでこがよく似た東幹久さんにしよう。

 徳川機関長だけはやっぱり西田敏行さんをはずせない。長門裕之さんだと熱血が行き過ぎて飄々とした感じが出ないから。佐渡は映画のように女性キャストでいくなら山口智子さん浅野ゆう子さん浅野温子さんの3人が揃い踏みってのが映画宣伝的に美味しいなあ。古代に従うコスモタイガー隊のチーム古代は的場浩二さん吉田栄作さん江口洋介さんに緒方直人さんも混ぜてみよう。唐沢寿明さんも入れればなお結構。残る大事な役、アナライザーはロボコップ演芸の吹越満さん。視聴率30%は確実なトレンディ俳優が勢ぞろいした映画になりそうでこれなら木村拓哉さん黒木メイサさんの5倍は話題になって稼げるはず、かも、しれない、けれどもさてはて。

 テケテン。「おいおい熊さんや、なにかメリケン国にとんでもない奴らが現れたそうだってねえ」「へいへい後隠居、なんでも宇宙から降ってきた天狗みたいな奴らだそうで、メリケン中を暴れ回って何人も死人が出ているそうでさあ」「そりゃあ難儀な話だねえ、それでいったい、どんなやつらなんだい」「なんでも砒素って毒でできた奴らだそうで、近寄るだけで死人がわんさか出る始末で」「砒素かい、ありゃあ猛毒だからねえ。それでなんだい、那査さとかいったところが、どうにかこうにかやっつける方法を見つけだしたんだって」「そうですご隠居。天狗どもに効く特効薬が日本にあったそうで、朝から買い占めにやって来て、あっしらのところに回ってこなくなっちまいました。おかげで今年の冬は風邪が大はやりすかもしれませんぜ」「なんで天狗対峙の特効薬が、あたしらの風邪に関わるんだい」「うがいができなくなるんでさ」「うがいってそりゃまたいったい」「買い占められてるのはうがい薬なんでさ」「わからないねえ、なんで砒素をまき散らす宇宙人にうがい薬が」「砒素人だけにうがい薬が効くのだそうで」。テケテン。

 1年間のうちに出たミリオンタイトルが1本だけという状況をさて、喜んでいいのかどうなのかは悩ましいところでこれが任天堂のハードに合わせたタイトルだと、いったいどれだけのミリオンが生まれてプラチナプライズを贈呈してもらえるんだろうかと考え合わせるとやっぱりセカンドハードになってしまったんだなあって感慨にとらわれたりしたプレイステーションアワード2010。50万本を超えたゴールドプライズに8本が並んだことは底の堅さって意味で評価したいけれども並ぶタイトルはモンハンメタルギア龍が如くといった既知のものがほとんど。あとは北斗の無双? これとて無双というワールドに咲いた花。そんな中で「ゴッドイーター」が新規タイトルとして入ってきたのは素晴らしいことだけれども、長いヒットにつなげる腕前がバンダイナムコゲームスに果たしてあるのかどうか。そこが腕の見せ所になりそう。


【12月2日】 「ヤングキングアワーズ」は表紙が紺先輩で、可愛いんだか憮然としているんだか不思議な雰囲気。これで稼ごうというなら美少女漫画雑誌的には無謀きわまりないことだけれど、「ヤングキングアワーズ」は少し不思議な漫画の大集合雑誌なんで別に紺先輩が中身は生えてる「ブロッケンブラッド」のノイシュヴァンシュタイン桜子ちゃんでも関係なかったりするのだ。さすがにたっつんだとちょっと傾向変わるかな。アリョーシャはいつか表紙になるのかな。

 そんなたっつんはほとんど出てない「それでも町は廻っている」は、ときどき混ざる妙にシュールなSFエピソード。それってタイムパラドックスじゃねえの? 行った意味が消えたら行くこともなくなって、それで変わらないとまた行く意味が出るて堂々巡りになるんじゃないの? って誰もが思うけれども個人という認識において歴史は常に1つであって、そう思ったからそう行動してそうなったらそれはそれでありなんだという、理解をしておけば別に気にならないというか。それが本当にSF的かは知らないけれど。

 SF的というのをビジョンの転換とみるならそれはやっぱりSF的だし、あの中空を巨大な戦艦が飛行していく「宇宙戦艦ヤマト」だってSF的。これを厳密に科学物理の類との整合性ととらえるならば、1日遅れでようやくたどりついた実写版ヤマトこと「SPACE BATTLESHIP ヤマト」は、超高速で移動している物体が接触した途端におこるのは大クラッシュ、だから宇宙における艦隊戦は1発でもくらったら終わりといったシリアスさの中で繰り広げられるのが昨今の常識と化しているにもかかわらず、食らい食らわせといった太平洋戦争時さながらの艦隊戦が繰り広げられている点で、とても不思議ということになってしまう。

 とてつもない速度で飛んでいる戦闘機がいくら減速したって、そこには多少の推進力は残ってて、それがやっぱり高速で発射された生身の人間なんか受け止めた日には人間はぺしゃんこ、戦闘機にだって穴が開いて不思議じゃない。でもそれを言い出すと何も描けず何も見えず。だいたいが1970年代に描かれた当時にそうした科学だ物理だといったこまけえことは脇に置き、壮大なビジョンとそして壮絶なビジュアルでもって世間は「宇宙戦艦ヤマト」を受け止め、SFとして認め星雲賞を授賞した。そうやって生まれ育まれ讃えられた「宇宙戦艦ヤマト」をそのまま、実写として蘇らせたのが「SPACE BATTLESHIP ヤマト」なのだとしたら、描写はああなって当然だし、人間がああ行動しても当然。どこにも不思議はない。

 すなわち「SPACE BATTLESHIPヤマト」は、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」の実写版が見たい人、見たかった人、見てみたい人、見ようとしている人の期待の最大公約数を選び結んで描いた作品として、十分に納得できるものになっている。自分についていいうなら、名古屋の栄にある東映会館で32年前に見て感動した「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」が、32年とう時間を超えてアニメとう絵を実写に変えて、僕の前に現してくれたものだと思って、十二分に納得している。それ以上のものではないけれど、それ以下のものではない。だから良い。これで良い。作る方もたぶん、そんな感覚を持って臨んだんだろう。

 そりゃあ見ていて今時じゃない人間たちの言動に不思議を覚えることがある。身にとてつもない責任を負いながらも、間際になってぐだぐだいってるあいつのあの細くて長い足をひっつかんで、ジャイアントスイングを100回くらいくらわせてから地球へと放り投げたい思いにとらわれる。宇宙服を吹っ飛ばす勢いに耐えたタンクトップの下にあるそれを、ワープの最中に拝んで嬉しい野郎にも嫉妬の炎がめらめらと燃える。でもそうした熱さもまたヤマト。最初から最後までケガひとつしないで、立派に帰還を果たした猫のあまりの強さにも驚愕するし、真っ先に狙われやすいブリッジにいる面々が、最後まで生き残ったりする不思議に戸惑いもする。でもそうした展開もやっぱりヤマト。1970年代に生まれたアニメで漫画ならではのお約束。それに感動した人たちのための映画なんだから、何も言うことはない。何も言えるはずがない。

 何にせよ山崎貴監督はやりとげた。脚本の佐藤嗣麻子さんも描ききった。ともに僕より1歳上でしかないにも関わらず、あれだけのバジェットを任される身になって作品を作り上げ、大勢を招いて感動させる作品に仕上げた。そこにいたる20年くらいの間で、どれだけの積み重ねをして来たのだろうか。だから今があって、そしてこれからもある。拍手喝采。同じ特撮SF系では毀誉褒貶もやっぱりあるけれど、樋口真嗣さんも僕と同じ歳で何本もの大作を任される立場へと、それこそアマチュア時代から25年とかいった時間をかけてたどり着いた。ともに長い時間を時間を創作者として創造にかけて来た。その結果として誉められもすれば貶されもするけれど、ちゃんと作品を送り出せる立場にある。作らなきゃ誉められも貶されもしないんだから、そこの部分は尊重するに余りある。

 「SPACE BATTLESHIP ヤマト」はまさしく「宇宙戦艦ヤマト」の実写であってそこに意味があり価値がある。実写版の「デビルマン」は演技も陳腐で展開も真っ直ぐだったけれども原作にうごめいていた絶望と慟哭が存分にあって、そこに価値を感じた。きっといろいろ言われるだろうし既に言われてもいるけれども、僕は「SPACE BATTLESHIPヤマト」を面白いと思い、興味深いと感じ、楽しめると認めて語り継ぐ。32年後に果たしてどういう形になって現れるかは分からないけれども、その時でも半世紀以上を超えて現実に宇宙での艦隊戦が行われるような状況下で、やっぱり相変わらずの「宇宙戦艦ヤマト」を見せてくれたら嬉しいと思う。そんな時代にも生きていたいなあ。

 何がみっともないってあの格好。たとえば国会議員の選挙に打って出たスポーツ選手が、演説の時に柔道着なりテニスウェアなり水着なりを着ていたら周囲はどう思うのか。意気込みよりも前にどこか陳腐さを感じ場所をわきまえない人だと目を背けてしまうだろう。FIFAワールドカップの会場を選ぶ場にもだから、誰1人としてサッカーのユニフォームを着て臨んでいないにも関わらず、我らが日本からの代表団は太った体にはちきれんばかりの青いユニフォームを着て、胸に2022なんて数字を書いて壇上にあがってアピールした。苦笑。頑張りは認めたいけどそれは空回りどころか後ろに回った愚考。結果にどう反映されたかは分からないけど、その風体を見て日本って国が世界を相手に居住まいで勝つのは不可能と分かった。誰が考えたんだろうなあ。広告代理店? きっとそれは敵対国から頼まれ日本を貶めようとして企んだに違いない。でなきゃ洗練からほど遠いあんな格好、させるもんか。まったく。なあ。


【12月1日】 噂だけれどFC東京にいる羽生直剛選手と歌手の研ナオコさん、それから今はいちおうは死去したことになっているけれど、本当は家の中にジュラルミンのケースに入れられ保存されている宮沢喜一元総理に早急にNASAまで来るようにって、呼び出しがかかっているとか。それが既にこの地球に来て人間の中に潜んでいる者たちを集めて、新しくやって来た者たちに「シンパイナイヨ」「ミンナトモダチ」と先人として言ってもらうためなのか、あるいはそうだと噂されている者たちの中から、ようやく本物が見つかったんで改めておおぜいの前で紹介するためなのかは分からないけれども、ともかく12月2日現地時間のNASAにはいろいろなところから空飛ぶ円盤だとか何かが集まって、大にぎわいを見せてくれそう。アメリカからだとスーパーマンとシルバーサーファーも参加するのかな。

 噂だけれど今日から公開が始まった「SPACE BATLLESHIP ヤマト」すなわち実写版「宇宙戦艦ヤマト」はとっても優しい古代進が操る宇宙戦艦ヤマトが、父親の影響で宇宙戦闘機載りになった森雪にいろいろアプローチをかけるものの最初はまったくの脈なし。それでも戦ううちに友情が芽生え愛情へと変わってそして最後は森雪が胸に下げていたペンダントのスチームライトを波動エンジンに放り込み、爆発的な加速力でもって白色彗星帝国に突っ込んでいってはバラバラになったヤマトから、古代と森雪が手に手を取り合って抜け出して、生身の状態で白色彗星帝国を踏み越える感動と感慨のラストシーンが待ち受けているんだとか。身ながらデスラー総統も「面白いじゃないか」と高笑い。ちょっと観てみたいなあ。ちなみに島は浅野忠信さんが演じているとか。真田はもちろん青野武さん。楽しそうな映画だなあ。

 これは噂じゃなくって本当の話。前にジェフユナイテッド市原・千葉のGMをやっていて、それからフランスのぐるノーブルでGMをやって2部にいたチームを1部に上げる快挙を成し遂げ(今はまた落ちてしまったけれども)名GMの名を欲しいままにしている祖母井隆さんが京都サンガのGMに就任したとか。ジェフ千葉には戻ってくるはずはなく、それより以前から京都との仲を深めていたから流れに不自然なところはないけれど、決まってみるとやっぱり淋しいというか、J1への昇格争いで敵となる京都が強くなってしまって鬱陶しいというか、さまざまな感情が湧いてきて複雑な思い。

 まずはきっと強い指導力とそして作戦立案力を持った監督を呼んできそうで、ぐるノーブルではどうなったか分からないけど一時はチームを1部にあげたバズダレビッチ監督とか、今はどこにいるのか分からないけど大分トリニータのJ1末期で連戦連勝を成し遂げたポポビッチ監督あたりを据えて、チーム力をぐいっとアップして来そう。そして水本裕紀選手を残留させ、京都を出ていった佐藤勇人選手をまたしても招き山岸智選手をサンフレッチェ広島から、羽生直剛選手をFC東京からNASA経由で招いてあの躍動感にあふれたいつかのチームを復活させて、J2に旋風なんかを巻き起こしそう。怖いなあ。対するジェフ千葉は監督が決まっていなければ選手の去就もまるで不明。そもそもがおじさんばかりのチーム他で首になったおじさんを集めても困ってしまう。何より監督がまるで分からない。大木武監督? フォルカー・フィンケ監督? 現実感ないよなあ。でもってしょぼちょろな監督が来ておじじな選手が固まって戦ってまたしてもJ2残留、と。うーん。未来はどこに?

 文字で書いたら別に変わったことなんてなにも言っておらず、むしろその場に応じたことを的確に、間違いなく淀みもなしに喋っているだけなんだけれども音声で聞くとやっぱりどこか妙さを覚えてしまう戦場カメラマンの渡部陽一さん。セガトイズが開く子供の笑顔写真コンテストの審査委員長に就任したとかって発表があったんで見物にいって、初めて実物を目の当たりに、でもないか前に近所を歩いているのを観たけれど、そのときとくらべて1億倍くらい有名になってからの渡部さんは、噂で聞くように訥々としたしゃべり方でもって聞く人に妙なおかしみを感じさせ、その話術についつい聞き入らせる。だってあの忙しいワイドショーのリポーターたちが、囲みの席でいつものペースで喋る渡部さんの言葉を、重ねもせず畳もうともしないでじっと聞き入っているんだから凄いもの。しゃべり方云々よりも、喋る内容にちゃんとした意味があれば人はしっかり聞くんだってことがよく分かった。

 とりあえず子供の写真をとるときは、まず顔を子供の目線まで下げ空手とかカンフーの話をして和ませて、それからカメラを出してシャッターを押すってことが大事。それさえあればどれだけ厳しい戦場でも、ちゃんと子供たちは笑ってくれるという。あと写真をとるときは、脇を締めてカメラがぶれないようにし、望遠はつかわず自分で子供の側までよって大きく撮ることが大事。それができるからお母さんが我が子を撮る写真には良い物が多くなるんじゃないかというのはなるほど至言。あとファインダー越しにみるんじゃなくって、ときにはファインダーから顔を外してカメラを手で持ちシャッターを押してみることも必要だとか。それでぶれずにしっかりアングルを決められるのがプロってことなのかも。

 つまりはそうしたカメラマンとしてのテクニックをちゃんと持っているから喋りの内容にも説得力が出るし、ワイドショーやバラエティーに出まくっていてもちゃんと来年は戦場に戻りたい、アフガニスタンとイラクとアフリカを撮りにいきたいといった目的意識も失っていないところに誰もが好感を抱く。百戦錬磨ですれっからしのワイドショーリポーターにディレクターも、笑わず皮肉らずに聞き入っていたのもそんな人柄にひかれてのことか。けどだからこそ来年、戦場へと戻ってしまってテレビに出なくなると寂しさを感じる業界人も多いかも。僕はテレビでほとんど見たことがないからそうでもないけど。っていうかテレビほとんど観ないんだ最近。これで良いのかなあ。僕も。テレビも。


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