縮刷版2010年11月下旬号


【11月30日】 だがしかしそんな産経新聞がスペース的には1番大きく東京都による青少年健全育成条例の改定に関して漫画家たちが意見表明をした話を掲載。他紙はたいがいが欄外のベタか最下段でのベタかよくて2段の小さい記事。あれだけの有名漫画家たちが、とてつもなく表現にとって大切な話をしているにも関わらず、ほとんど無視を決め込むあたりに、日本というこの国のマスメディアに蔓延る無関心さ、あるいはその身に迫る危機への鈍感ぶりが伺えてどうにもこうにもいたたまれなくなる。

 なるほど無視よりねつ造の方が罪深いとはいっても、それは他が正しく伝えさえすれば罪であるねつ造は罪としてしっかり暴かれる。けれどもほかがまるで伝えなかった時、ねつ造だけが真実となって一人歩きをして、世間にはびこり広まり定着していく。ねつ造と無関心の合わせ技によって世間は、漫画に関する規制の問題を無関心の中に通り過ぎさせ、そして知らないうちに成立させてしまってそして気づく。がんじがらめになっていることに。そうなってからではもう遅いにも関わらず。困ったなあ。困り果てかけているなあ。

 ライトノベルの実写映画化について調べていたら何時の間にやらしなな泰之さんの「魔法少女を忘れない」(集英社スーパーダッシュ文庫)が映画化されていることに気がついた。公開はまだ先だけれどすでに撮影に入っている様子で主演助演の人たちが揃った制作発表も行われている。ただし場所は福岡。どうやらテレビ西日本ってところがイニシアティブをとって映画化を進めているらしくって、公開も九州が先になってそれから全国ってことになるらしい。東京公開はゴールデンウィーク辺りかなあ。早く観たいなあ。

 しかしどーして九州? 「半分の月がのぼる空」なら伊勢市だからあるいは三重テレビとかが映画化しても不思議はなかったけれども。この小説の作者のしななさんは新潟県出身でなぜか仙台で小説を書いているというかどうというか。今の居住地は知らないけれどもともかく九州に縁があるとは思えない。あるいは何か記念行事として映画化を目論んでいたときに、良い作品があるからと関係者がどこかから探してきたんだろうか。それはしかし良い作品に目を付けた。本当に良い作品だから「魔法少女を忘れない」は。

 出演もイケメン男子が勢ぞろいしたD−BOYSから高橋龍輝さんをフィーチャーし、同じくD−BOYSから最近舞台版「キサラギ」で純朴な田舎の青年の安男を演じた碓井将大さんを誘い、ヒロインに谷内里早さんを選びひきこもりがちな天才少女に森田涼花さんを並べてみせるあたり、役者に有名どころが揃っていて全国区でも十分に通用しそう。監督はおいおいこれもいったい何時の間に映画化されていたんだ的な水口敬文さん作「憐 −Ren−」を監督した人で、あるいはそこからライトノベルを探してこれだと選んだ題材なのかもと想像。願わくば公開規模まで同様になっていつの間にか終わっている、なんてことにはならずに原作ともども有名になって欲しいところだけど、既にして情報に出遅れているからなあ。もっと宣伝しなさい皆々様。

 私は私は私は私は「ゆうきまさみ年代記」(小学館)132ページから続きの「鉄腕バーディー」が読みたかった読みたかった読みたかった読みたかった。遠い日の夢。炎の中から現れ腕っ節でワルモノたちをねじ伏せる凄みを見せつつ粗忽さゆえに地球人の少年ど“同居”することになってしまったバーディーが、地球に現れる敵たちを倒していくなかでようやく浮かび上がった真の敵、それとの本格的なバトルに突入するってところで中断してしまった「鉄腕バーディー」が、当時の絵柄と当時のテンポで進んでいったらおそらくは1980年代を代表するSFアクション&美少女ヒロインアニメになったはずだろう。続きを渇望していた庵野秀明さんを刺激し、映像化に踏み切らせてそして凄まじくも格好良いバーディーのアクションが繰り広げられていたって可能性すらある。

 けれども歴史はそうはならずにしばしのインターバルを置き、「鉄腕バーディー」を復活させてそしてテレビアニメーション化を実現させ、連載の長期化を実現させて2010年というこの時代に、「鉄腕バーディー」という作品に常に触れていられる状態を作り上げてくれた訳だから、あるいは嬉しいと言って言えるのかもしれない。長期化する中で設定には複雑さが増し、クリステラ・レビには魅力が増えてそして現在、その魅力が連載の方で炸裂中。ときどき掲載されていない週もあって、庵野さんじゃないけど「週刊ビッグコミックスピリッツ」の目次を確認しなくちゃならない時もあるけれど、載っていればそこでバーディーの肢体を、クリステラ・レビの豊満を目の当たりにできる。これはこれでとてつもない幸せだ。

 残念ながら一緒に発売となった「鉄腕バーディーEVOLUTION」の第6巻にはクリステラ・レビのそうした過去シーンはまだ収録されていないけれども、早杉さんのまあそれはそれでそれなりな姿とかも観られた訳だし、クリステラ・レビが追われる状況なんかもだんだんと見えてきた。地球人という存在とそしてイクシオラ・アルテクスとの関係にもいろいろありそう。そんなにまで広げられた展開を、あとはどうやって畳んでいくかに庵野さんならずとも期待たっぷり。だから「ゆうきまさみ年代記」の巻末での庵野さんとの対談で、あと4巻だの5巻だのと言っていることを護って今度こそはきっちりと、「鉄腕バーディー」に終わりを僕たちに見せてくださいお願いします。

 その名前が「ヤングキングアワーズ」に掲載されているだけで嬉しくなってしまう伊藤明弘さんの「ジオブリーダーズ」第16巻がいよいよ12月10日に発売とか。いわゆる「魔像の十字路」エンドを迎えて飛葉ならぬ田波ちゃんだけを残して皆が消えていく悲しみのエンディングを、描いて衝撃と驚愕をもたらした第2部クライマックスが収録されているようで、読めばきっと皆の生き様に泣いてしまいそう。そして始まった第3部は1話だか2話までの掲載だったけれどもその後……。だからこそこの刊行がどういう意味を持っているのかを知りたいところ。初期短編集もいっしょに発行だけれどそこに何かの言葉はあるのか。それとも。待とうあと10日。


【11月29日】 一瞬だけれどだからこそインパクトがあったあさぎのイジワル。フィットネスに使うバランスボールで遊ぶよつばに、「うちに持って帰んな」と言ってそれによつばが「ふーかやせるからつかういってたよ?」と聞き返すと、「大丈夫、あの子やせないから」とあさぎ。喜ぶよつばは「あさぎやさしい」ってお礼を言ったけれども、その言葉に潜む毒に気づかないのが、よつばのまだまだ幼いところ。横で風花が聞いていたら、どうしてだなぜなんだと憤ってあさぎに詰め寄ったことだろうけど、その場で腹肉つかまれて、終わってしまった可能性も高そう。あさぎ最強。でもその母親がやっぱり最強。

 というわけで、表紙をはがしたらそこにダンボーの顔があって、何でいまさらと思ったあずまきよひこさんの「よつばと」第10巻。読んでいったらみうらちゃん家に行ってダンボーと再開するエピソードが登場。でもダンボーだからおかねで動いているからよつばがちゃりんと10円を入れたらうご……かない。そりゃあまあ。でもそこは信じて信じぬくよつばだけあって、恵那の機転とみうらちゃんのがんばりによってダンボーは見事に復活。そして外へと出てみんなでいっしょに遊んだけれども、そこにどうしてみうらちゃんがいないのか、気づかないよつばでありました。ちょっと可愛そう。みうらちゃんの母親もいい人だなあ。いい人揃いの世界で諭され導かれ、見つけ進んでよつばは成長していきます。どこまで続いていくのかなあ。

 洋泉社から「別冊映画秘宝 戦艦大和映画大全」ってムックが届いたんだけれど、そのサイズがデカいっていうか「歴史群像」あたりから別冊で出る戦記物とか兵器物のムックとよく似た体裁で、小さい頃に父親あたりが好きで勝って集めていた戦争関連のムックで覚えた戦艦に戦車に戦闘機の名前と、そして空襲から逃げまどい焼かれ死んだ人々の姿の悲惨さを、ふっと思い出したけれどもこちらはあくまで映画のムック。そうした戦争のすさまじさそのものは伝えてなくって、普通に映画がどうやって生まれ、どうやって撮られたかって話が詰まっている。大人の人は懐かしさを覚え最近の人は戦争映画ってのがどうやって作られていたかを知れる興味深い1冊って言えそう。

 1981年に登場した「連合艦隊」って映画では、なるほど20分の1もの大和の模型が作られたそうで、それを持って全国を練り歩いたって話が出ているけれども、映画自体の記憶はあっても模型の行幸についてはまるで記憶に残ってない。今と違ってネットで情報が出回る時代ではなかっただけに、興味を持って情報を眺めて行き当たらない限り、すれ違っていた可能性が大。その頃はもっぱらSFへの興味が傾いていたから、ゴジラとかは好きでも戦争映画は避けていたのかもしれないなあ。模型はしばらく船の科学館に置いてあったそうだけれど、それも台風で壊れて今は廃棄とか。見ておけば良かったなあ。あの東宝砧撮影所の大プールを、「鉄人28号」のプレス発表に行った際にチラリと見られただけでも良しとしよう。あそこに連合艦隊が浮かんでいたんだよなあ。

 「連合艦隊」関連では松林宗恵監督が2年前に残していたトークが再録してあるのも良いところ。そこで松林監督が、戦争映画を撮ることにためらいつつもやっぱり後生のためにいろいろと語っておきたいとメガホンを取ったいきさつが書いてあって、戦争が持つ多くの人にあまり幸せではない事態をもたらす可能性というものが、ちゃんとあの映画には描かれていたというか、監督自身が描こうとしていたことが分かって、今になってちょっと見てみたくなって来た。20分の1の大和がどんな迫力で画面に出てくるのか、そして今はCGが普通になってしまった特撮で、ミニチュアがどれだけの迫力を醸し出しているのかを確かめる意味もありそう。ブルーレイも出ているのか。その高画質に耐えられる特撮だったりするんだろうなあ。

 そんな「戦艦大和映画大全」は、巻末の年表の「映画」の項目のラストが「12・1 東宝配給『SPACE BATTLESHIP ヤマト』公開」なのが何というか、今時にはあんまり戦争映画が流行っていない状況を示しているって言えそう。あるいはもともとがこっちのヤマト復活に当て込んでムックを作ったって可能性を示唆しているとも。ちなみにテレビの項目のラストが「UHF局で放送のアニメ『ストライクウィッチーズ』に扶桑皇国軍の戦艦として大和登場」なのもちょっと笑い。アニメでヤマトならぬ大和ってそういやあ見てないなあ。テレビドラマも最近は戦争物ってあんまりないし、戦争は描かれてあっても「坂の上の雲」ではさすがに大和は出てないし。これも時代なのかなあ。

 深海へ深海へと向かう海賊漫画が海賊漫画っぽくなくってどうにも文字通りに沈みがちで、あんまり買う気が起こらない「週刊少年ジャンプ」だったけれども「BLEACH」の劇場版に関連した短編も載っているってんで買って読んだらザエルアポロが出ていた上に「トリコ」でやっぱりメルクが最初に感じた印象そのままの展開になっていて、それが露見する場面がこれまたとっても眼に麗しいものになっていたんで買って良かったと安堵安心。あと鰻屋育美さんも横向きだけどちゃんと立派に見せてくれてて有り難い。「トリコ」のメルクはそれに比べるとちょっぴり薄目かなあ。でもお尻はちゃんと丸かった。顔の傷なんかあって大変そうだけれどもそれも研ぎ師の宿命。そして料理人に何か感じているみたいだし、ここに来て2人の間にロマンスなんて芽生えたりするのかな。続きを追っていきたくなって来た。海賊漫画は……とりあえず文字通り浮上するまで経過観察。

 言論機関が事実を隠してもそれは選択の自由であって罪ではない。罪深いかも知れないけれどそこに踏みいるのは思想信条の自由を侵す。だから遠巻きに眺めて事実を隠しているその態度を嘲笑すればいい。けれども事実を曲げるのは完璧なまでの犯罪だ。言論機関にとっては致命的とも言える所業で、露見すればもはや存続すら危うくなるにも関わらず、堂々と事実を曲げてみせ、それも1度ならず2度3度を重ねてみせたりするその態度に、いったい世間はどう反応すれば良いのだろう。東京都が改訂を目論んでいる青少年健全育成条例についての記事で「子供を性的対象にした漫画やアニメーションなどの規制を目指す東京都青少年健全育成条例改正案に反対する」と書いた新聞があるけれど、今度の改訂で東京都は児童が対象どころかあらゆる法律的にいかがなものかと目されるらしい性的な行為をすべて禁じようとしていたりする。

 すなわち記事は明らかな見当違い。それが児童ポルノ的なものを禁じようとしている“正義”だと誘導しようとしている。なおかつ記事の見出しでも「都の漫画児童ポルノ条例改正案」と、児童ポルノという人間への実害を伴うものに漫画を含めてしまう暴論も甚だしい言葉を未だに用い続けている上に、改訂案ではそうした”児童ポルノ性”とは無関係に漫画が取り締まられようとしている状況がありながらも、未だ“漫画児童ポルノ”という扇情的な言葉を用いて改正を“正義”に見せようと躍起になっている。コレは一体どういうことなのか。誰だってそれが甚だしい空論虚論の類だと分かっているにも関わらず、堂々と掲げて引っ込めないその態度は、つまりもはや自壊を覚悟しつつその上で信念とやらを曲げずに突っ走ろうとする特攻精神なのか、あるいは本当に分かっていないだけなのか。どっちにしたってお先は真っ暗。未来にあるのは果てしない奈落。巻き込まれたくないけれど。でも。うーん。


【11月28日】 なるほど原作の文庫本でのイラストでは、どこか漫画的なデフォルメ形状だった大星覇祭における吹寄制理のボディスタイルが、アニメーション版「とある魔術の禁書目録2」ではよりメリハリがついて陰影も出て、アニメキャラクター的なリアリティを増して眼に迫ってきた感じ。それだけに、視聴者への配慮から下半身にはやや霞が入る処理が施されていたけれども、その上についてはなかなかにそれなりなボリュームがちゃんと描かれてあって、その直前に水道水を浴びて体操服越しに透けて見えていてたそれが、抑えるものすらない状態で露わにされて、眼に実に上恣意光景となって迫ってきた。ありがとうアニメスタッフ。

 前後に揺れたり左右にぶれたりする場面についても、しっかりとしたアニメイトがされていて、出ているシーンのどれもが見逃せない吹寄制理。一方で、その存在が個性の30次元ともいえそうな存在だったりする小萌先生も、チアリーダーの格好になって最初は憤然として小馬鹿にされて涙ぐんで見せてクラスの面々の憤りを誘い、ついでに視聴者の注目を集めて盛りあがる。さらに後半では、行き倒れ気味のインデックスを誘い着替えさせようとするシーンに登場。そこでは普段はシスター副に包まれあるで見えないインデックスの肢体を露わにしたどころか、履かせようとして履かせ切れていない場園を作って上条当麻をおののかせ、インデックスを赤面させる名アシスト。飛び出してきたスフィンクスがいなかったら、あるいは見えてしまっていたかもしれないその部分が、パッケージ化の際にどうなっているか興味深いところではあるけれども、そのままであっておその向こう側を想像する楽しみは存分に残る。ごちそうさまとしか言いようがない。

 さらに運び屋として登場したおねえさんもまたしっかりと、前に飛び出したそれを上条当麻へと押しつけ去っていく。なんという至福の時間を過ごしているんだ上条当麻。これなら例え御坂美琴が飲みかけのボトルを手渡したところで、それをありがたがり嬉しがって飲むような心の余裕なんて、あるはずもないんじゃなかろーか。とか。このまま大覇星祭が続いて制理が体調を崩し吸血鬼殺しの少女がとばっちりから大けがを追いそしてローマから来たシスターによる企みが明らかになるまであと何話? それで年内を終えて年明けは、アニエーゼを掬い「神の右席」を順に倒していく展開までいたるのか、そもそも1クールで終わりだったのか、知らないけれどもこのクオリティなら見ていて相当に楽しめそう。ぼんやりと見て行こう。

 小萌先生が自分で着ていて、インデックスにも着せようとしていたのは、応援としてのチアを行う伝統的な姿だったけれども、それがチアと呼ばれるすべてに当てはまるものかというと、最近はどうやら違うというか、チアにもいろいろあるんだってことが、東京体育館で開催されていた「第10回全日本チアダンス選手権大会」に行って分かったり。一般にチアといったら、例の短いスカート姿で脚には白いソックスを履き、手にポンポンを持った姿で何人もが集まって、振ったり脚を挙げながら声を出して、目の前で行われている競技を応援するというものを指す。

 甲子園とか高校サッカーのスタンドだとそれが精一杯だけれど、これがアメリカンフットボールの大会になると、フィールド上で激しいアクションをしたり、何人もが協力して組み体操のような感じにタワーだとかと作って見せることもある。アメリカンフットボールの学生代表と社会人代表が年明けに戦うライスボウルなんかで、学生側の応援席に行くと見られる光景。片足で立ったり上に放り投げられたりと、サーカスのアクロバットにも似た凄みって奴が、見ていて感じられる。そんなアクションを競う大会なんかも開かれている様子。テレビで競技の模様を見たことがあって、出場選手たちがもうものすごいアクロバティックな動きを見せていた。

 ところが、ライスボウルで学生とは対面になる社会人側の応援に来ているチアリーダーは、激しいダンスは見せるけれども、あんまり組み体操のような技は繰り広げない。格好もパンタロンのようなパンツスタイルだったり巻きスカートで、大学のチアリーダー部とかが履いているプリーツがはいったスカート姿ってのはあんまりみない。同じチアと呼ばれる存在でも、見た目が違うし格好が違うしやっていることも随分と違う、これはいったいどういうことなのか? つまりはそれはチアリーダーを中心にしてチアリーディングという競技があり、一方にチアダンスという競技があるといった感じに、様々な方向へと派生が進み展開が行われているってことの現れみたい。

 そして、東京体育館で開かれていたのはチアダンスと呼ばれるジャンルの全国大会。とはいえそこにもやっぱり2つくらいの部門があって、午後の高校生の部から見たんだけれども、まず繰り広げられたポンポンの部門ってのは格好も伝統的なチアリーダーで、手にポンポンを持ってキレのある動きを見せて周辺を鼓舞する。とはいえ開脚したジャンプとか、肩を組んでのラインダンスはあっても、放り投げたりタワーを造ったりということはしない。チアリーディングからダンスだけを抜き出したといった感じ。

 その後で繰り広げられたのがチアダンスという部門で、ここになるといわゆるチアリーダー的なビジュアルからは離れて、長ズボン風の衣装が増えてダンスもジャズダンスがあり、ヒップホップがありバレエもあってそれらを大勢が群舞として見せるような感じ。ライスボウルで社会人側のチアが見せたり、サッカーのフクダ電子アリーナでジェフユナイテッド市原・千葉の試合でジェットスフィーンなんかが見せてくれていたりするダンスだけれど、全国大会はより舞台映えするような感じになっていて、スポーツ競技というより芸術を競うダンスコンテストの雰囲気すら漂わせている。

 それが実際の応援にどう活かせるのか、ってあたりは分からないけど、空手の型だって戦わないのにスポーツ競技として行われている訳で、チアというひとつの形からアクロバティックな要素を抜き出したチアリーディングがあり、チアからダンスっぽい部分を抜き出したポンポン競技があり、さらに集団で踊る要素をよりアーティスティックに進化させたチアダンスという競技があるんだと、そう思えばこういう状況も納得がいく。とはいえ、大学なんかだとこうしたチアリーダーって、基本的には応援団の一部であって同じ大学の他の体育会の競技を応援する活動をしていたりする訳で、そんな活動と平行して、たとえばアクロバティックなチアリーディング競技なりを練習したり、あるいはポンポンダンスやチアダンスといった競技に向けてカスタマイズされた練習をできるのか、考えてもちょっと分からない。

 人数に余裕があるところなら、もはや競技となっている部分にも力を入れようと、それ専門のメンバーを揃えて、応援とは切り離して練習させることも可能だろうけれど、それが果たしてチアといえるのか、チアに似た何かなのか、考えるとますます分からなかったりするところがあって頭が混乱する。あるいは玉川大学みたいに、応援団としてのチアリーディング部があって、一方にチアダンスをするためのダンスドリル部ってのもあって、チアダンスの大会には後者が出てくるような切り分けが、学校によっては出来ているのかもしれない。桜美林大学もそんな感じか。

 大学チアダンスの部門で優勝した東京女子体育大学の場合も、チアダンスにはソングリーディグ同好会ってところが出場をしている様子。2007年の結成ながらもそこは体育に優れた人たちが行く学校だけあって、出場してきたチームはダンスのひとつひとつにキレがあってジャンプも高く脚もピンとあがってなかなかの見栄え。桜美林大学に玉川大学といったこの部門での常連を上回って栄えある部門優勝を勝ちえ、なおかつ全部門の優勝者が最終試技をして決めるグランプリにも輝いた。海外でも成績を収めているチームらしいんで、この勢いは来年も続いて日本を代表するチームへと育っていったりするのかな。

 優勝を逃した玉川大学には1人だけ男子がいてこれが噂のチア男子と注目したけどグランプリを決める戦いに出られずもう1度の試技をみられなかったのが残念。でも目立つシーンとか用意してもらっていたあたり、学校でももり立てていこうって意識があるのかも。ともあれなるほど一口にチアといってもいろいろあるってことが分かったチアダンス大会。様子。現場に足を運ぶといろいろ勉強になるなあ、って本当はラインダンスで脚を上げる女の子を見たかっただけなんだけど。好奇心から興味は生まれ知識は増えるのだと言い訳。


【11月27日】 人に誘われて行った秋葉原のメイド喫茶で出合ったメイドのカヨさんは、とっても清楚でそして綺麗でもう一目惚れ。けれども声なんてかけられないよと退散し、そして会社に行ったら親会社から派遣されてきた社員がいて、おまけに自分たちの職場の上司になると聞かされて、どんなに怖い人なんだろうと見たらこの前メイド喫茶で合ったカヨさんだったから驚いた。仕事に厳しくリストラだってしかねない怖い上長が、実は可愛いメイドさんだと知っているのは自分だけ。そんな2人のドタバタとした関係を描く「上長はメイド様」はメディアワークス文庫から絶賛発売中です。嘘だけど。

 いや嘘はタイトルだけ。本当のタイトルは「不思議系上司の攻略法」で、メディアワークス文庫から水沢あきとさんの作品として刊行中。主人公が就いているSEことシステムエンジニアの仕事がどれだけ大変で、時に理不尽なこともあるけれども一方で、どこかにユルさもあって曖昧になっているかも分かったりと職業物としても面白い。メディアワークスからこちらは電撃文庫から刊行中の夏見公司さん「なれる! SE」とも合わせて読むと、いろいろそちらの世界が分かって楽しいかも。SEの世界にはこんなに綺麗で可愛らしくて厳しくて愛おしい上司がいるんだってことも教えてくれるし。嘘だけど。嘘だよなあ。

 事件が起こってその調査をして解決してって部分ではミステリーとしても楽しめそうだけれども、「ミステリマガジン」のライトノベル評って5回中で2冊もメディアワークス文庫が出ているからちょっと選ぶに悩ましい。ライトノベルにミステリって前は割とあったんだけれど、今ってラブコメばっかりになっているってことなのかなあ。ちなみに現在発売中で「ミルキィホームズ」のアニメレビューと「相棒」の特集が話題の「ミステリマガジン」2011年11月号で朝田康雄さんの「二年四組交換日記 腐ったリンゴはくさらない」(集英社スーパーダッシュ文庫)を紹介していますによってよろしゅうに。

 あっちが「なれる! SE」ならこっちは「なれる! ギャルゲーシナリオライター」ってことになるのかメディアワークス文庫から刊行された西村悠さん「僕と彼女とギャルゲーな戦い」は高校の時に憧れた文芸部の先輩が大学生になって就職活動に落ち続けて来年の卒業後が危ぶまれていた主人公のところに現れあなたしかいないと誘いかける。こりゃあ宗教かと思いながらついていくとそこはギャルゲーの開発会社で逃げたサブシナリオライターの代わりにシナリオを書いてと頼まれた。

 できませんと断りたくても断れなさそうな状況に、参加して頑張っていたらあれやこれやと難題が。いわゆる規制の問題なんかで予定していた展開を使いづらくなったところをどうにかしようと頑張って、それがどうにかなったらなったで次はメインのシナリオライターに起こる大問題。迫る期限に妥協を余儀なくされてそれはしたくないと若さ故の主張をしてみたりしたものの、そこは同人ではなく社会。そんな厳しい現実も踏まえつつ、それでも精一杯に頑張る人たちの姿の中で主人公は自分の居場所を見つけていく。

 小さいソフト開発会社の雰囲気が分かって、シナリオの仕事がどんな感じに進められるかが分かって勉強になる1冊。これを読んでようしギャルゲーのシナリオを志すぞって言ってもそれで入れるほど、世間ってたぶん甘くはないからなあ。ってかどうやったらギャルゲーのシナリオライターになれるんだろう。求人とか出てたっけ。っていうか今はゲームの世界も厳しいんでそんなに需要もなさそうだしなあ。そんな大変な今の就職状況って奴を踏まえると、主人公はとってもとっても幸せな境遇にいるのかも。大手の採用をけっ飛ばしていたりするし。格好良すぎ。いつもジャージ姿の小さい先輩シナリオライターって「BLEACH」のひよりみたい。

 恐々としたのがちゃんと午前中に荷物が届いたんであけると「涼宮ハルヒの憂鬱」のブルーレイボックスが。京都アニメーションで注文したからハルヒのミニセル画がついていたけどこれを撮影したって別にアニメーションにはならないんだよなあ。ちょっとづつずらして撮影すれば平ぺったいまま見切れていくハルヒのアニメとかが作れるのかな。されもブルーレイには例の「エンドレスエイト」も収録されている訳で8話があってそれぞれをじっくりと見直せば、あるいはそれらの違いもしっかり分かるかもしれないけれども週に1回だったから一種の事件として見ていられたものを、作品として普通に見ていられるのかどうなのか。実験するにしくはないけど勇気はいりそう。

 どうやらスパイらしい男が捕まったんだけれど、痛めつけてもくすぐっても、黙秘して肝心なところは語らない。ならばと取調官は上映設備を準備してアニメを見せてやるというと大喜び。さっそく「涼宮ハルヒの憂鬱」を持ってきて、これから「エンドレスエイト」を流すといってまず1回、8話分を通して見せたらちょっと顔がひきつってきた。さらに1回、8話を通して流してさらにもう1度、流し初めて3話くらいまで来たところでスパイは「すいませんわたしがスパイですユルしてください」と告白した。痛いよりくすぐったいより「エンドレスエイト」の連続上映。スパイのあぶり出しに「エンドレスエイト」の連続上映。8話を8回のマラソンとかやって耐えられる人がいるかを調べたい。

 午後に紀尾井町で用事があるんでついでにと赤坂はTBSの下にある「宇宙戦艦ヤマト」を見に行こうと駅からあがったら行列があってさすがヤマトと思ってよくみたら「けいおん!」の何かを買いに並ぶ人たちの行列だっという。もはや時代は「ヤマト」ではなくあずにゃんなのだなあ。唯かもしれないけれど。そして巨大なヤマトの模型にもまあそれなりの人垣が。ビッグハットだかのTBS本社ビルの直下に置かれた模型はなるほど巨大だけれど、空間が広々としているだけにあんまり大きさが感じられなかったのが残念。これが劇場とかに展示してあったらすごいだろうなあ、って入りません流石に。

 そんな「ヤマト」の波動砲が向いている方角をじっと観察すると……おおこれは首相官邸を狙っているではないか。あるいは国会議事堂周辺。いわゆる保守に背を向け権威に対して胸をそらす革新的報道機関ならではの、これが意思表示って奴なのか。展示の最終日にはきっと本当の波動砲を発射して、官邸国会議事堂にあと国会記者会館なんかもまとめて吹き飛ばしてくれるに違いない。きっとその時間帯になると国会記者会館からこっそりとTBSの記者がいなくなるんで他の会社の人たちも注意して動勢を観察しよう。そしてTBS本社の人は社長室から聞こえてくる「ターゲットスコープオープン、電影クロスゲージ明度20、エネルギー充填120%、発射10秒前、対ショック、対閃光防御!」の声に耳そばだてよう。


【11月26日】 1年の集計は大晦日にあり。とはいえその頃には忙しさもピークなのでそろりそろりとまとめていかなくてはならない年間ベスト等で漫画では、何を入れるべきだろうかと考えたときにいろいろあがる中でもやっぱり、もりしげさんの「フダンシズム 腐男子主義」(スクウェア・エニックス)だけは入れておきたいと思っているんだけれど、果たして世間はこの1年で変わったのだろうかというのが、現時点での最大の悩みどころ。

 真面目で優等生でついたあだながパーフェクトプリンス略してパープリの数(あまた)くんが、同人誌界隈で有名らしい姉やその友人と結託して、数を女装させて即売会の売り子にしたのが始まりで、密かに思いを寄せる小西さんが同人誌の世界に出入りしていることを知って近づきたいと女装を続け、相手の好みを調べるうちに自分もその世界が好きになっていくという、読めばそんな世界の雰囲気が分かり、面白さが感じられ、自分でもやってみたいと思わせる内容は「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」よりも先駆的で前衛的で、なおかつ漫画として描かれる分、アマネとなった数の可愛らしさが光る。あと漫画研究会部長の松本が女性部員に無理矢理させられる「あまねたん」の可愛らしさとか。

 この1年ばかりで急速に普及してきた“男の娘”をもう3年くらい前から描いて、それもそこに至る葛藤や続ける難しさなんかもちゃんと描き気って、興味本位ビジュアル優先に留まらない奥深さを見せてきた画期的で革命的な漫画であるにも関わらず、今年春とそして昨春に開かれた「マンガ大賞2010」と「マンガ大賞2009」では1次の時にそれぞれ1人が挙げている程度でそのいずれもが自分だけというこのマイナーさ。どうしてなんだと身が悶える。

 スクウェア・エニックスという版元があんまり優しくないのか、それとも内容に引く人が多いのか、分からないけれどもせめて最終の10冊に残って、読んでもらえさえすればその面白さは確実に感じてもらえるはず。とりわけ学園祭でのドタバタの後に来る数の進歩とそして結束は、読んで感動しかない展開でそしていよいよ発売となった中学生編のトリを飾る第7巻では、小西さんがようやく数の存在に、アマタの影を見てではっても感づいて、どうにかなりそうな可能性を示す。そしてせんりたん。何で今頃せんりたん? でもいい可愛いから。

 そんな「フダンシズム」に今年吹いた“男の娘”の風が果たして効果を発揮して、晴れの最終候補入りを果たせるか、それともまたしても自分1人か。まあたとえ世間が知らなくっても自分が読んで面白い漫画がちゃんとこの世界に実在しているってことだけで、十分に満足ではあるし、たとえ賞とかいった場所に並ばなくても、自分だけでなく大勢がファンになって読んで楽しんでいることも分かっているから、気にせず読んで感じて手の届く範囲に広めていくことで今は十分。あとは漫画にちらりと登場した、コミケの神様にでも祈ろうか。ほかに挙げる候補は「薄命少女」「誰も知らない」「誰が為に鋼は鳴る」「きらきらDUST」「菱川さん家の猫」……だめだ余る。どうしよう。

 そんな「菱川さん」を描いている萩尾望都さんの原画展が東京で前に開かれたけれども1年の待機を経ていよいよ名古屋と福岡で開かれることに決定。名古屋は年末の12月22日から名古屋三越での開催で、年をまたいで1月3日まで開かれるからもしも帰省していたら是非にも寄ってみたいけれどもいけるかなあ、そういう状況でもなさそうだし。むしろ行くなら故郷に錦を飾る的開催の福岡か。こちらは美術館での展示だから池袋のように間近に寄って見られるか不明だけれど、本来の居場所にふさわしい展覧会ともいえそうでしっとりとした照明のなかでじっくりとあの絵を、あの線を、あの凸凹とした原画の趣を見たいところ。ご本人の登場もあるらしいのでファンなら動勢をチェックだ。

 さらに萩尾さんの原作でも1番2番に誰かが挙げる「11人いる!」がいつもの劇団スタジオライフによって劇になって上演されるとか。あのフロルを誰がどう怨じるか、ってところで及川健に三上俊の看板2人が立って山本芳樹と松本慎也のこちらも看板2人が怨じるタダとのラブラブなバトルを繰り広げてくれそう。あとアニメーションの専門学校に協力して貰って、宇宙的なCGを上映したり猟奇的な特殊造形を顔に張り付けたりして宇宙船で繰り広げられる事件や出会いや友情なんかを描く模様。そんな舞台はいつからだっけ、来年なんでこちらも注意して情報をチェック。名古屋と大阪でも上演するんでそちらのファンも期して待とう。


【11月25日】 噂では自分たちの悪事が露見すると拙いと考え怪盗帝国のアルセーヌたちが回収に回って歩いているとかで、書店の店頭から「ミステリマガジン」の2011年1月号が消滅しているという噂が本当かどうかまだ確認していない。とはいえしかし「探偵オペラ ミルキィホームズ」が載るってことだけで話題になった上に「相撲」を特集して稀勢の里が白鵬の連勝記録を破るために尾行しデータを集め分析し、スーパーコンピュータを使って弱点を分析した上で自らも鍛え直して勝負に挑んで見事に勝利するまでのストーリーを、ノンフィクションサスペンスとして掲載……する分けない、違った「相棒」を特集して水谷豊さん及川光博さんを取り上げインタビューとか載せシーズンについての解説も掲載してみせたからもう売れ行きバッチリ、話題性も抜群でこれなら早々に転倒からはけても不思議はない。

 対するに我らが「SFマガジン」の2011年1月号には「探偵オペラ ミルキィホームズ」の記事もなければ「相棒」ではミステリだからここはSF映像作品のトレンドとして「宇宙戦艦ヤマト」の実写版を特集して、木村拓哉さんをどうどう巻頭に並べて見せたりってこともなく、普通にテッド・チャンを特集しているところに文学としての革新性は維持しつつ、ジャンルオーバーを見せるムーブメントとしての革新性においてやや、「ミステリマガジン」の後塵を拝し気味つつある模様。せめて黒木メイサさんが森雪コスチュームで屹立している姿がグラビアに載っていたらなあ。

 それでも東城和実さんが描いている「完璧な涙」の漫画版は表紙が美少女だったし、テッド・チャンの短編もイラストがパンダに美女に美少女たちを見目麗しげ。そんな特色も鑑みつつSFならではの自在性を発揮して、次号あたりで「STAR DRIVER 輝きのタクト」の大特集を掲載して、タクトの上半身裸イラストを掲載して腐った方々の目を奪いつつ、綺羅星十字団のメンバーへのグラビアも載せてこちらはこちらで男性諸子をぐっと引きつければ逆転は存分に可能。バロットもそりゃあ可愛いけれどもやっぱり僕たちはドッカンボンが見たいのだ。もちろん「ミルキィホームズ」だって超能力物ってことで特集大歓迎。でもミステリ物として「ミステリマガジン」に載るからこそのインパクトなんだよなあ。そこが普段からジャンルクロスオーバーをやって来てしまったSFの、強みでもあり悩みでもあることなんだけど。インパクトかあ。

 お台場でざっくりと家具なんかを見てから麹町へと回ってすき家でハンバーグカレーをもりもり食べて試写室で「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」の映画を見物。何かあって心に傷を負っている女の子のところに、飄々とした男の子がやって来て挨拶すると、仏頂面だった女の子が途端に子供っぽくなって男の子を抱き寄せ、頼るようになってそして始まる同棲生活って展開だけれど、僕はほら、入間人間さんの原作を既に読んでいるからあの謎めいた男の子と女の子との関係も知っている上に、にそこに潜んでいる文字通りの“嘘”もやっぱり知って見ていられる訳で、だからなるほどそうやって思わせて匂わせ感じさせた上でガラリとやって見せたりするんだと感じつつ、それ以前でどういう心理で彼ら彼女たちが演技しているのかってことにも目を向けて見ていられる。

 それが映画を見る上で得かどうかは難しいところで、せっかくの体験をできず損をしているっていえるけれども仕方がない。だったらこれが初見の人は、いったいどう引っ張って行かれ、それがどういうことかと分かってどう驚くのか、ちょっと興味のあるところ。やっぱりあのシーンかなあ。あそこまで気づける要素ってないけれど、一方であまりにあからさまだったりもするから何か匂いめいたものは感じていたりするのかも。原作は相当にぶっとんでいて残酷なシーンもてんこ盛りだったりするけれど、そこのあたりを映画は柔らかい雰囲気の中に男女を描き、恐ろしい過去は叫びとか交えず淡々と描いて不気味さは出しつつ残虐さはあんまり見せない。それがかえって残酷でもあるんだけれどそういう効果も狙ったんだとしたら監督の人はなかなか凄い。商業作品デビュー作とはちょっと思えない。

 飄々として「嘘だから」を口癖にしている主人公を演じる染谷将太の感情とか表に出さない仮面的な演技は素晴らしく凄まじい。そんな少年に依存する少女を演じた大政絢さんも可愛らしく振る舞っているくせにどこか異常って雰囲気をとってもよく出している。スカート姿で暴れ回るものだからいろいろ見えたりもするんだけれど暗くてよく分からないところもあって残念。それとももともと黒いのか。精神科医の鈴木京香さんは前の淑女然とした演技から離れてとっても姉御風。昔で言うところの賠償美津子さん的ポジションが出きるようになってきたなあ。そんな姉御と絡む警察の女刑事は誰なんだろう、こちらも雰囲気なかなか出てた。難しかったのは映画で起こる事件を起こした誰かの動機がくっきりとはしていなかったところで、やや唐突さもあったけれどもいろいろあって今にいたっていろいろ起こしたかったんだろうなあとそこは類推。電撃から「半分の月がのぼる空」に続いての実写映画は「半月」にも劣らず良い作品。恵まれているなあ電撃。「インシテミル」ってどうなんだろうな。

 原恵一監督の話を聞く機会があったんで聞いてなるほど原監督は絵コンテの段階で映像のイメージを極力決める人ってことが判明。絵コンテをおろそかにした部分は絶対に取り戻せないというのがひとつの信念で、絵コンテで手を抜けば作画の方でいくら頑張ってくれてもどこかに絵コンテの駄目な部分が残ってしまうと感じているらしい。それは作画を信頼していないんじゃなく、作画のプロフェッショナルに対して自分の甘さまでをも被ってもらう訳にはいかないという演出のプロフェッショナルとしての心理ともとれそう。あと「カラフル」ではアニメ的なところから離れることを目標にしたんだけれどそれで良いのかと何度も自問自答していて、決して開き直った訳でも自信満々だった訳でもないんだとか。

 やればできるアニメ調でも、そこを我慢し描ききる。だからこそあのリアルな世界観が生まれ、それをアニメというインタフェースで見て切実さとは違った軽快さの中に、シリアスな主題をくっきりと感じることが出来たんだろう。そして現在について何も決まっていないとか。実写だって依頼されればやらない訳ではないれどやれるかどうか自信がないとか。良い脚本を渡せばきっと絵コンテびっちり書いて現場を助監督が仕切り良いカメラと良い照明が意識どおりの映像を作って渡してくれるだろうからそんな現場を作って原監督にご提供を。いっそ「オトナ帝国の逆襲」を実写でやらないかなあ。アニメでは難しいとヤマカンさんも行ってた匂いの表現をバッチリときめた演出家。それが実写でどんな匂いの絵を撮るか。興味あるなあ。


【11月24日】 売れている歌、支持されている歌の最大基準値が年末のNHK「紅白歌合戦」に出ることだとしたならガルネクこと「GIRL NEXT DOOR」というユニットは、2年連続だか紅白に出ていたことをもって、とてつもなく売れていると断じて決して過言ではないと思って当然なはずで、それは今年も続いていたということはやはり年末の「輝け! 日本レコード大賞」にも優秀作品賞にその名を連ねていたりすることからも一目瞭然。だから当然にして紅白に今年も出場するかと思ったらなぜか名前が外れていた。なるほどこれが売れすぎて超売れっ子になってしまった結果起こる“卒業”という奴なのかとミサカはミサカは思ってみたり。

 とはいえ、その割にはいったい今年、というより去年もその前の年もガルネクがどんな歌を歌っていたのか、まるで覚えていないあたりに、当方がいかに世間から外れたところで生きているのかっていう証明でもありそう。もちろん今年から出場することになった「AAA」というグループが今年にいったいどんな歌を歌っていたかもやっぱり知らない。世間から離れてしまったなあ。そんな紅白に噂されていたアニソン枠って奴は設けられないまま、水樹奈々さんだけがアニソンを背負うような形で出場をする模様。でも今年に限って言えば、水樹さんてどんなアニソンを歌っていたっけか。あるいはシンガーとしてどんなヒット曲を出したっけか。そこに今ひとつ気を載せられない理由がある。

 アニソンで言うならやっぱり「けいおん!」の楽曲がトップを越えた人気ぶり。それがそのまま出るのは不可能だったとしたら、それこそ「アニソンSP」みたいなSCANDALをフィーチャーしてのメドレーとか、やっても愉快だったんだろうけどそれもなし。というかアニソンそのものが枠として別に設けられていないから、潜り込むスキマすらありはしない。あの噂はいったい何だったんだってことになるけど、きっと巻き返しがあったんだろうなあ、演歌界とかエイベックス界あたりから。知らないけど。ともあれそんな謎めく選考もあって、興味が湧く紅白だけれど大晦日は、きっとアニソン紅白に夢中になっているから、ガルネクが出ていなかろうと、AAAが格付け機関によってAAに格下げされようと、まるで気にならいのでありました。

 本当を言えば現時点でもっともホットなアニソンユニットが出演すると思っていたんだけれど、それもなかったのはちょっと残念。それは誰かって、美少女系の声優さんが4人そろったユニットのこと。その名もスフィ……違ったミルキィホームズだ。何でまた? だってほら。その人気ぶりは今やミルキィホームズ界を越えアニメ界も越えてミステリ界にまで広がっているんだから凄いというか素晴らしいというか。日本におけるミステリ専門誌として最も歴史と伝統があって権威も高い早川書房の「ハヤカワミステリマガジン」が、2011年1月号でもってアニメ版「探偵オペラ ミルキィホームズ」を1ページにも渡って大紹介しているんだから、これはもう本格的にミステリ界がその存在を認知したということに他ならない。

 おまけに書いているのはミステリの所収に関しては日本でも有数で、山田風太郎さんについての編著も数多くある日本ミステリ出版界の重鎮ともいえる編集者にして批評家の人。そんな人が、深い見識と広い知識から見て紹介しているってことは、「ミルキィホームズ」は立派にミステリとしての要件を満たしているってことにならないだろうか。そりゃあ普段はアニメについても広く深く収集し、アニソンの所収に関しては世界でも有数な日下三蔵さんの筆によるレビューではあるけれど、だからといってミステリ性に妥協してそれっぽい作品を並べるなんて無理は多分許さないはず。そのアニメ的審美眼にかない、ミステリ的審査眼もクリアした作品がすなわち「探偵オペラ ミルキィホームズ」なのであると、ここに宣言しても良いんじゃないだろうか。良いはずだ。良いよね。良いってさ。

 そんな「ミステリマガジン」には集英社のスーパーダッシュ小説新人賞を受賞した「二年四組交換日記 腐ったリンゴはくさらない」の紹介なんかも載っていたりするんで神保町で早売りのミステリマガジンを買って持ってスーパーダッシュ小説新人賞の授賞式に行って編集長の人に載ってますと言って手渡しする。「ミルキィホームズ」のインパクトには遠く及ばないけどでもまあ、あれが紹介できたってことは嬉しい限り。SFじゃないと「SFマガジン」では紹介しづらいんで。会場にはコバルトの方の新人賞の審査員をやってる橋本紡さんとか三浦しをんさんとかいたり、スーパーダッシュの審査員の高橋良輔さんがいたりして遠目に見てみなさんご健勝。同日に富士見台の会社も授賞式とかやってたみたいで重なる可能性なんかも思い浮かんだけれどもコバルトにスーパーダッシュではあんまり重ならないのかそれとも今時のマージナルな文学状況で重なって来ていたりするのか。ちょっと興味。


【11月23日】 何が快挙って、あのサッカー女子日本代表がアジア大会で金メダル。1990年代に入って日本が韓国と拮抗して来た男子の代表とは違って、女子は北朝鮮が昔っから強くって中国も壁になっててなかなか上へと抜けられず、それが2000年代初頭になっても続いていたんだけれども、2004年にアテネ五輪の予選で北朝鮮を敗って五輪への出場を決めた辺りから、どうにか上位と肩を並べはじめ、あとは最上位を狙うだけになってからが長かった。

 それなりの成績は残しても、なかなか上へは抜けられない状態が北京五輪当たりまで続いてたけど、来年のワールドカップへの出場を探るアジアカップでは、北朝鮮にも勝てたし中国にも勝って3位を確保。新しく入ってきたオーストラリアだけが難敵として浮上しては来ているけれども、そこをしのげばアジア1位も見えた状態。そして幸いというかアジア大会には、サッカーの区分けと違ってオーストラリアは参加していないから、敵は北朝鮮くらいでそこを下して見事に優勝。アジアの盟主の座をアジア大会においては確保した。おめでとう、なでしこジャパン。

 このチームには、最近あんまりチェックしていなかったんで気がつかなかったけれども熊谷紗希選手とか、上尾野辺めぐみ選手、高瀬愛実選手といったあたりがレギュラーとしてはいって来ていて、昔からいる沢穂希選手や宮間あや選手、大野忍選手といったところとフィットして来ている様子。アテネ五輪ではバックアップに回った男前な近賀ゆかり選手も、すっかりレギュラー定着で、あの男前ぶりがどうして世間でもっと関心を集めないのか不思議ではあるんだけれども、決して目立つポジションではないから仕方がないと言えるのか。それでも分厚さを増す選手層で、もう5年くらいは代表入りを続けているのは凄い凄い。続くワールドカップでも活躍を期待したい。

 なおかつこのチームには、ドイツで活躍している安藤梢選手、永里優季選手といった得点力攻撃力がある選手が参加していない上に、下の世代で大活躍している岩渕真奈選手も6人抜きの横山久美もまだ入ってきていない、というか入ってこられないくらいに充実していたりする訳で、広がる裾野と厚さを増す選手層の中で、揉まれ切磋琢磨して来た中で例えば岩渕選手があのスピードをフル代表で生かせるようになったなら、横山選手があの手にクックをフル代表に持ち込めたなら、きっと凄いチームが出来上がるって、そんな期待が浮かんでワクワクしてる。でも瞬間の抜け出しの速度とボールさばきの巧さでは、大野忍選手にはやっぱりかなわないかなあ。あのテクニックと強さが青木孝太選手にあれば……。

 そんな青木孝太選手を擁するジェフユナイテッド市原・千葉は、群馬県の醤油スタジアム(略しすぎ)で草津に2対0で敗れてJ2残留を確定。何試合かを残しての降格決定だった去年も憤ったけれども、2試合を残して残留が決まってしまった今年の方が、衝撃はなおも大きくそしてチームにとっての傷口はなおも深いと言えそう。去年はJ1でダントツの弱さだった訳だけれども、J2ですらやっぱり弱かったってことの現れだから。その責任の所在をめぐってこれから一悶着あるだろうけれど、去年の熊谷での天皇杯でFC岐阜戦を見て、その戦えていないチーム状況を見てからもう、絶対に江尻篤彦監督では戦えないと分かっていただけに、それを支持したチームもサポーターも含めて責任をとってもらいたいところ。

 でも最大の責任は、何よりそうした実力をまるで理解した風もなく、日々の練習にのぞみ試合にのぞんでは、敗退を繰り返した監督にあることだけは絶対的に確定的。見る試合のことごとくがサイドにボールを出しては詰められ前に出せず、戻してからセンターバックを通じてサイドを変えて、やっぱり同じように前に出せないまま奪われ、反撃を食らって得点を奪われる繰り返し。そもそもがサイドバックがハーフラインあたりでボールをもらったところで前に進めるはずもなく、そこでは中盤がキープした上で後ろから上がってきたサイドバックに出すなり、センターに位置するミッドフィルダーを介して中央にできた穴を攻めるなり、しなければいけないところをセンターは動かず、サイドは進まず、センターバックは下がったままではもはや得点なんて奪えるはずもない。あのサイドでもっとも前進力のある谷澤選手が、ドリブルもせずに後ろに戻すシーンを何度見たことか。才能の無駄遣いも甚だしい。

 一目瞭然。それが素人にだって見えているのに、プロフェッショナルの監督には見えていなかったのだとしたらとても問題。きっと選手だって分かっていたんだろうけれど、そうした前に動きながら出してもらう戦術を、とれるような体制になかったんだろうと思うと可愛そうになってくる。ミッドフィルダーが前のフォワードに当て、出たところに突っ込みシュートするような、ジェフ千葉らしい波状攻撃がまるでなりを潜めてしまったこのチームを、1年半くらい見続けるとやっぱりどうにも飽きてくる。選手はよく飽きなかったなあ。いつか気づいてくれると温情をかけたチームにも答えられず、ズルズルと来てしまってそして……。

 解任が決まったからモチベーションが下がったっていうけど、勝たなきゃ上には絶対にあがれないと分かってる選手に、監督解任なんざあ無関係、やるしかないって状態でも勝てないのは、やっぱりそういう訓練を、1年以上もさせてもらえなかったことに尽きると思う。これで監督が替わって果たしてどこまで立て直せるのか。スタートダッシュしたいJ2で建て直しに時間がかかって、後半に帳尻あわせの堅守速攻チームでは、そこから上に上がったところで、J1での最下位争いをまた演じるだけになってしまう。この1年半、あるいは半年でも底上げにつなげることをできなかったのが、返す返すも残念。その意味でも江尻監督は罪深い。

 とはいえもはや仕方がない。あるいはちばぎんカップで柏レイソルがJ1昇格権を賭けてくれたら有り難いけど、対価として賭けるものがないんだよなあ。喜作の屋台のソーセージ盛り? ダメだこれがなくなるとフクアリに行く意味も半減する。だからやっぱり臥薪嘗胆、休まずこれからの3ヶ月を実力アップに費やし、かかる来年のJ2開幕で一気につっぱしるだけの実力を、ため込んで頂きたいものである。監督誰になるのかなあ。ボスニアリーグで去年優勝現在2位の名監督とか来ないかなあ。

 とかやっていたら、北朝鮮と韓国の間で砲撃戦があったりカンボジアの橋の上でぎゅうぎゅう詰めになて人が大勢亡くなったりと世界情勢はあれこれいろいろ。でもやっぱり身近なのは、東京都がまたぞろ出してきた表現規制に関わる条例案で、18歳以下とかいった規定すらなくして、性的なものに限定して、公序良俗とやらに反し法に触れるような振る舞いを描いた漫画やらアニメといった創作物を、取り締まるという無茶苦茶すぎる制約を乗っけて来ているところが、もはや何というか意味不明というか支離滅裂というか。

 これによるなら78歳の兄と72歳の妹が、身内どうしてあれこれしたってひっかかりそうなものなのに、そんな案件を挙げて未だに「漫画児童ポルノ規制」だのと見出しに付けてくるメディアの頭の足りていなさも嘆かわしい。本文にはそうした表現が一切ないにも関わらず、しつこく見出しに使うあたりに何か含みを感じるべきなのか、それとも見出しをつけるところの不足ぶりを論うべきなのか。だいたいが青少年への影響力とそして社会への被害という部分では、性的表現にも増して多大なものがある暴力等の表現について何のおとがめもないってところがやっぱり意味不明。12歳の時に読んだ「ゴルゴ13」に感動してスナイパーを目指し、今ようやく大統領の暗殺に成功した日本人が出てきたりしたらどうするんだ? って思いも浮かんでしまう。

 だから暴力表現も取り締まれ、ってことではもちろんなく、そうした表現も認めた上でそれが現実の社会で悪い方向へと働かないような指導なり、示唆なりを家庭や教育や社会といった場所でしっかりとしていくことの方が重要ってこと。法律という物理的な制約がすでにあり、倫理という心理的な制約も加えていくことで、たとえ過激な表現を楽しんでも、それが現実とは違うものだという理解を持ち、現実にやってはいけないことだと認め、だからこそ架空の世界に一時遊んで解消するといったサイクルを、整えるべきなんじゃなろーか。規制はそんなサイクルを断絶し、いたずらな好奇心を煽ってむしろ事態を陰惨にしかねない。

 だいたいが、漫画がすぐに青少年に悪影響を与えるんだったら、今頃日本中の刑務所なり鑑別所には、とらわれた兄貴分を救い出そうと、舎弟たちが詰めかけ大騒ぎになっていたって不思議じゃない。移送すればそこに車を連ねて大勢で押し掛け、護る官権を相手に突入を繰り返す。もちろん違法。でも、そんな態度が兄貴思いで家族思いの振る舞いと、認められ大人気となっていたじゃないか一部では。だからといって、現実社会ではどこでも一切起こっていない。

 それは、そうした振る舞いが現実にはダメだと分かっているから。そういうものだと思えば規制なんて不要。だけれど平気でやってしまえる東京都の偉い人たちの狙いは、いったいどこにあるのか。そっちの方が不安で不気味。ドンパチやってる隣の国より、締め付けによって抑えている大陸の国より、目的の見えないまま何か暗い影がしのびより、薄闇に覆われて来ているこの国の方がよっぽど薄気味悪い。未来は。


【11月22日】 どつきあいして友情固まる。というお約束を演じて見せた「STAR DRIVER 輝きのタクト」は、夕日をバックに肩こそ組まず高笑いもしなかったけれども、これでどうにかタクトとスガタの仲は元に戻って、エンディングのままにワコを挟んで昔ドリカム今いきものがかりなトライアングルが、がっしと形成されたのかそれとも未だスガタの中には何か潜んでいるのか。

 分からないけれどもまあ現時点、田舎の離島で学生達がどつきあいをしているだけの物語。ズレから来るおかしさはあっても、世界との結びつきから来る現実に重なるビジョンはなく、そこに自分たちの未来を重ねて見るのは難しそう。ある意味だから閉ざされたセカイに起こる恋や嫉妬や友情や、努力や勝利といったファクトを見せる物語として、今は捉えておくのが良いのかも。でもやっぱり、島外にでれば安全圏であり、まま退場だなんて淋しすぎるよサカナちゃん。あの歌なくいsてサイバディはどう立ち上がるのか。代わる歌が出てくるのか。新キャラにその面からの期待もかかるけれど、さてはて。

 溜めてあった「それでも町は廻っている」を見たら、歩鳥がお風呂に入っててアングルとか割に嬉しい感じではあったんだけれど、歩鳥なだけにまあなんというかそういうこと。これがたっつんだったら。つかたっつんの出番が最近あんまり多くない。ヒロインなのに(違います)。小見川千明さんの声はこれがこれまでの役柄ん中で1番普通な漢字かなあ、「ソウルイーター」の頃はぎこちなかったし、「夏のあらし」では男装している女の子の役だったし、「荒川アンダーザブリッジ」はトマト娘だし「生徒会役員共」は柔道家だし。ってんならこっちは歩鳥だけれど。歩鳥は普通じゃなかったのか。

 途中でジングルめいて流れた「DOWN TOWN」はあのギターでの弾き出しが使われているんだけれどもこれはこれでとっても良いのにオープニング曲はここからポップに流れるからマッチしないんだよなあ。でもテレビサイズだと切られていてグルーブ感ある部分だけになっているからややこしい。どっちかに統一して欲しかったなあ。それとも「DOWN TOWN」ならあれがないと駄目だって意見が大勢を締めたのは。それは正しいけれども時には間違っているということをファンでもマニアでも知るべきだ。

 溜めてあった「とある魔術の禁書目録2」を見たら白井黒子が格好良かった。「とある科学の超電磁砲」のひたすらにエロい妄想に取り付かれたギャグキャラではなくって能力に自信を持ちつつ正義感もしっかり持ちつつ戦う乙女になっていた。でも下着はマイクロ系。お嬢さまだねえ。御坂美琴とか上条当麻の家族は出てきたけれども白井黒子ん家は出てこないのは普通の家だからか。それだけ御坂と上条は特別ってことなのか。

 それから溜めてあった「探偵オペラ ミルキィホームズ」を見たらとっても脳天気がサーフィンしてた。つまりはあぱらぱー。でも面白い。ギャグがてんこ盛りで隙がなく、畳みかけられるようになっているから飽きない。罠にひっかかるところとか、重ね合わせのバリエーションみたくなっててとっても愉快。ビジュアルも水着だったりそうでなかったりと楽しげ。なおかつ人間関係もほのめかされていて、見ていて次につながりそうな意味を感じられる。シリーズ構成も各話脚本もしっかりしているなあ。今期で1番かもしれないなあ。

 創刊から30周年を迎えた「週刊ビッグコミックスピリッツ」で漫画家を開業してから30年というゆうきまさみさんが特集されているんだけれど、表紙と巻頭のグラビアが優木まおみさんとうのは何かの合わせ技かそれとも実は隠し子か。表紙にそんな2人の名前が並ぶというのもある意味で快挙だけれども、よくよく見ればおまけについてるクリアファイルに描かれているきゃらくたーたちの中にしっかりゆうきまさみさんもいたりする訳で、これで名実ともに表紙での“共演”を果たしたって言えそう。

 これで2人に人間的血縁的関係があればなおのこと快挙なんだけれども、本当のところはどうなんだろー。っていうか優木まおみさんがもう30歳だというのはちょっと意外。だって名前聞き始めたの最近だし。もっと若いかと思ってた。見た目は全然若いけど。おなかなんてまるででっぱってないもなあ。羨ましいなあ。ゆうきまさみさんのおなかについては知らない。そんなゆうきまさみさんが一問一答に答えて願望野望としてハリウッドでの「鉄腕バーディー」の映画化を挙げている。是非見たいのは山々だけれど問題は誰がバーディー役をやるかであってパワー系女優ってことになるんだろうけど、今更アンジェリーナ・ジョリーでもないしましてやシガニー・ウィーバーでもない。

 かといって世代を戻しても、ミラ・ジョヴォビッチだってナタリー・ポートマンだって30歳からそれ以上。バーディーって存在がいくら千川つとむより年上お姉さま系だからといって、30過ぎの女優にバーディーめいた格好をさせるのは無理がある。いや優木まおみさんならすべすべだけれど、ちょっと細身過ぎるかな。いっそだったらスポーツ界からスカウトをして来てマリア・シャラポワ選手とかにやってもらえば長身でグラマラスでバトルだってOKなバーディーになるんだけれど。アクションが出来て陽気そうな女優、いないかなあ。

 そういやあ、通っていた中学校がブラスバンドで結構強くなって、普門館に行ったことがあったっけ、って調べてみたら1度は全国に行っていたけど、それ以上に驚いたのは、ハンドボールで男子女子とも今夏の全国大会で優勝していたことだった。確かにハンドボール部はあったけれども、そんなに強豪だったのか。卒業してから四半世紀も経っているから何が起こっても不思議はないとはいえ、ただの郊外の名古屋市立の中学校。よほど良い先生がいるんだろうなあ。でないと学区がしっかりしている公立中学校で、ずっと強い部活なんて出きるはずもないから。ブラスバンド部も最近はあんまり県大会とか抜けられてないみたいだし、高校みたいにそれを志望して入ってくる人が集まるような場所でなければ、長く成績を残し続けるのも難しいってことなのか。

 でも、名門高校だからってやっぱり年代にばらつきがあるようで、なおかつ名門ならではの伝統とかが足かせとなって、いろいろと面倒なことも起こる模様。「らき☆すた」で「かんなぎ」で「フラクタル」の山本寛監督が、学生の頃の吹奏楽部の経験をきっと元にして描いた「アインザッツ」(学習研究社)で舞台となっている高校は、県でもそれなりな成績をずっと修め続けた学校で、そこでまだ学生の頃に指揮をとって、それなりに好成績を収めた主人公が、大学生になって音楽とかに関わっていなかったある日、後輩から頼まれて、母校の吹奏楽部の指揮をとることになった。

 ところが、行くと1年生はまるで素人で、2年生は前に好成績を収めた経験から妙にダラけてまとまりがない。指揮をふるっても動かずどうしようもない状況。おまけに、影響力を与えようと出しゃばってくる先輩たちもいて、そんな間でぎくしゃくしたところもあって八方ふさがりになりかけながらも、主人公はどうにか部員をまとめあげ、大会に出て指揮棒を振るう。結果は今ひとつ。それに落胆した主人公に、気落ちしてやる気を失ってしまった学生達。先輩の横やりも衰えないまま崩壊の危機に瀕していたけれど、そんな中でもやる気を見せて頑張りたいという生徒がいて、その声に導かれひっぱられて現場に復帰した主人公は、前の轍を踏まないように慎重に、けれども確実に部員たちの実力を高めていって、そして栄えある大会での栄誉を得る。

 佐藤多佳子さんの「第二音楽室」とはまた違った、音楽に情熱を燃やそうとして燃やしきれない曖昧さにある学生達の姿を描き、集団でつむがれる音楽が誰1人を欠いてもうまくはいかない現実を示しそれに向かって、皆が心をひとつにあわせて進む素晴らしさを描き、何より音楽というものに取り組む心地よさというものを、描いて見せた小説。これが初めての小説であるにもかからわず、紛う事なき小説になっているのもヤマカンさんの凄いところか。破天荒な展開もなく、天才もおらず、努力の積み重ねしか描かれていないから、アニメにしたって興味は集められないかもしれないけれど、読めばじっくりと伝わってくる興奮。そしてなぜか響いてくる音楽。小説で書かれたってことの意味がそこにあるんだろう。良作。

 「絵のオリジネーターに似てねえってのはにだろ?」という小中千昭和さんによる言葉がすべてだったかもしれない「serial experiments lain」のブルーレイボックス発売を記念した上映イベントにおけるトークセッション。デザインをした安倍吉俊さんがいろいろと描くんだけれども、そこは集団作業による商業物であるアニメーションの絵との違いがどうしても出てしまう訳で、それに対してプロデューサーの上田耕行さんは何度かダメだしをしてファンが期待するところと、アーティストの描くところの境界線上を取り持とう腐心したらしい、そんなスタンスにもやっぱりオリジネーターへの敬意は必要じゃんていうことなのか。まあlainはおかっぱの片方だけちょろりがあてバッテンの髪留めがついていれば似るからあんまり気にする必要もないんだけれど。

 とにかく親しげなスタッフたちの雰囲気に、この結束力があったからこそ12年なんて絵とが一回りして、ゲストとして登場した清水香里さんが15歳の中学生からアラサーに迫る歳へと来てしまってもなお、イベントのチケットが10分で売り切れてしまうような人気作品になったんだろう「lain」。だからといって人気に安住しないで、当時のフィルムを洗い直しデジタルデータを探しまくって作り上げたブルーレイ版は、それこそ画角がテレビの4:3ですらなくなって、今時の横長テレビに少しでも近づこうとフィルムの端の画面には出ていない分まで含めて左右を伸ばして収録したらしく、劇場の横長なスクリーンで見ていてもそんなに狭いと感じない。

 小中さんが言うにはそんな横の余りにセルでは塗られていない部分があったらひとこまひとこま、上田プロデューサーがレタッチして引き延ばしたと言うから凄いというか偉いというか。制作会社ですら面倒がってやらないことをパッケージメーカーのプロデューサーがやってしまうってところにも、作品に対する思い入れっていうか我が子に対するような意識というか、ありは偏執的な関心があったとも言えるかも。ほかにもバーナムの里見さんが感心していたように、セルをフィルムで撮ったら必ず起こるガタが消え、且つセルを重ね背景も重ねた結果生じる厚みに由来する影とかも極力消し、歪みなんかも補正してまるでデジタルのようなクリアさで、けれどもセルの質感が残っている奇跡のような映像とブルーレイ版がなったのも、それだけのものを出したいというプロデューサーのがんばりがあり、それだけのもなら認めたいというユーザーの理解があって、うまくかみ合った結果だとも言えそう。もちろん作品力も。

 それだけの奇跡が起こり得る作品って今、あるんだろうか。12年後にカルト的に語られる作品って存在するんだろうか。同時期にパイオニアLDCが作っていた作品だって現在もなお語り継がれ見られ続けているものは少ない。「課長王子」って昨今の音楽ブームバンドブームを超先取りしたかのような作品があったんだけれど噂にすら上らない。イリャテッセな「時空転生抄ナスカ」なんて誰が見る? せいぜいが「天地無用!」シリーズくらい。それしらも尻窄みになりかかっているなかで、かけた労力がしっかり報われなおかつ広がりすら見せる作品の存在を、今、メーカーでもテレビ局でもアニメ作りに携わっている人たちは、見て考えた方が絶対に良い。そうでなければ未来はないと断じたい。分かってるかなあ。あそことか。あっちとか。


【11月21日】 今のこの現在が、過去のさまざまな選択肢をくぐり抜けてたどり着いたものだというなら、昔に戻れば戻るほど、その時の選択が後に控える数多くの選択に、とても大きな影響を与えている、ということになる。平面で起こるバタフライ効果の、それは時間を超えて起こるものとも言えて、ちょっとだけ選ぶ道を変えていたら、今というこの時間が、まるで違っていたものになっていた、という可能性もある。

 だからといって、今を否定しても意味がない。まるで違った人生を、想像してみたところで仕方がない。ただ、これからだってまだある生涯を、選ぶことは誰にだってできる。何を求めるか。どうなっていきたいのか。過去の過ちを、あるいは幸福に心を馳せ、そして考える、どう進むのかを。今という瞬間をどう選ぼうかと、一所懸命になっている人たちの物語に目を配り、そして決心する、どう進んでいけばいいのかを。

 まだ、たくさんの未来があった子供の頃。学生の時代。そんな時間に生きる人たちが、今という瞬間を、悩みながらも選んでいる物語が、佐藤多佳子の「第二音楽室」(文藝春秋)だ。収録されているのは4編の物語。そのそれぞれに、タイトルのままに音楽に取り組む小学生や、中学生や高校生の姿が描かれる。鼓笛隊に入りながらも、人数が余って楽器を持てない子供達は、6年生になってからも、集まってピアニカだけを吹くように言われる。中学受験があるからと、最初から楽器を持たないと決めた子供はまだしも、楽器が持ちたいと申し出て、けれどもはじかれた子供達は挫折を味わい、思い悩む。

 ダメ出しをされた人生。それは、大きくなって思えば、とるに足らないことだったかもしれないけれど、子供の心にはきっと、とてつもない暗い壁となって、立ちふさがっただろう。そこを、どう超えていけば良いのか。そこで閉じこもってしまえば、未来は開かれなかったかもしれない。けれども少女達、少年たちはいっしょの境遇の子たちと語らい、ともに乗り超えていこうとする。その姿にどうして、今を悩んでいることなんてできるのかと、心に強さを与えられる。

 教師から、突然男女のカップルで歌を歌うように言われ、相手を誰にするかでクラスの中に、さまざまな思わくがうごめくなか、友人が好きだという少年に、友人と組んでと頼んで、俺はおまえと組みたいと言われた少女の、気持ちに去来しただろう複雑さ。けれども、響く歌声の清らかさに、その時間を選んで良かったと少女は感じる。この時に、譲ってしまっていたら少女は、どんな生涯を送ったのだろう。あるいは、選ばれてしまったことが、彼女をどんな境遇に至らせたのだろう。想像は楽しく、そして我が身を振り返ってどうだったかを思い浮かばせる。告げるべきか、否か。その結果は果たして。酸っぱさを覚えるかもしれないし、甘さが広がるかもしれない。どちらも人生。選んだのは自分だ。

 リコーダーの4人がアンサンブルを組み、1年近くにわたって練習をして過ごす濃密な時間。そこで得た関係、得た自信は4人に何を与えただろう。「FOUR」という短編には、選ばれ認められる喜びがあり、期待される不安があって、それらを超えていく素晴らしさがある。そして「裸樹」。もっとも重たく、そしてもっとも切実な物語として読む人を縛る。中学校でひどい虐めにあってから、高校へと進学した少女が、キャラを変えてバンドを組み、リーダー格の少女にボーカルの彼女、そしてドラムのメンバーといっしょにベースをやりはじめる。

 それでも、心に残るのは、落ち込んでいた時に聞いた「らじゅ」というアーティストの曲と、それを公園で聞かせてくれた女性。高校にいてからも一方でアコースティックギターを弾きつつ、それをキャラ違いだと外に出せない少女は、ベースを弾き続け、リーダー格の少女に嫌われまいと賢明になる。けれども、自分勝手な振る舞いを見せるリーダー格の少女にどこか不満を抱いたのか、自らギターを弾けるところを見せて、リーダー格の少女の顔を潰す。とりあえず、ベースの腕を認められ、先輩のバンドに誘われていたから居場所はあった。けれどもやっぱり、気まずさを抱えて学校生活を送る苦痛はあった。

 そもそもが、どうしてキャラを偽らなくては行けないのか。他人の顔色をうかがって生きなくてはならないのか。ちょっとした踏み間違いが、中学校でのいじめを招いたことをあるいは、主人公は後悔していたのかもしれない。けれども、そうやって荒んでいた心があったからこそ、大好きになれる歌に出会え、行く予定ではなかった学校に進んでバンドの仲間と出会い、同好を得て喧嘩もしたけれども仲直りをし、結束を固めて次へと向かい始めた。卑屈さは既に消え、対当さを取り戻して少女は生きていくだけの自信を得た。こうなるともはや、中学校の過ちは過ちではなく、むしろ正しい選択だったと言える。

 何が起こるか分からないから人生で、今がそうでも次がそうとは限らない。そう思うことで道は開ける。明日も訪れる。過ちを過ちとして振り返り、立て直そうとしても良いし、過ちがもたらしてくれる幸せに、思いを馳せるのも悪くない。必要なのは否定しないこと。起こってしまったことから逃げないこと。戻れない時間を戻ろうとして立ち止まるより、進む時間をさらに先へと向かおうと、足を踏みだし体を動かすこと。それでしかこの人生は、渡っていけないのだと知ろう。

 とか考えながら、電車を乗り継ぎ多摩センターまで行って、パルテノン多摩で昨日から始まった映画祭の2日目のプログラム、「少女たちの時間」とかいうタイトルで催された「私の優しくない先輩」と「半分の月がのぼる空」という、今年公開された日本映画でも僕が1番2番にどちらがちらでもなく挙げたい作品が、同時上映されるという奇跡のようなイベントを見物する。いやもう至福。そして滂沱。すでに4回くらいは見ていた「私の優しくない先輩」だけれど、見るほどに味が深まり感動が高まり喜びが増えるという不思議な映画。前から2列目という好環境の中、眼前の巨大なスクリーンに現れた西表耶麻子こと川島海荷さんが、おへそを店ながら歌い踊る「MajiでKoiする5秒前」を見るともう、感動がわき起こって涙もにじむ。

 ストーリーだって展開だって完璧なくらいに知っているのにこの始末。ってことはつまりそれだけ良い映画ってことなんだけれど、やっぱり1度では噛めない珍味ってことなのかもしれないのは、質問であのエンディングをハッピーエンドと見た人がいたこと。バッドな終わりなら黒バックにするだろう? という意見も重なったけれどもあのエンディングで泣けるのは、耶麻子に訪れた運命と、それを見守る周囲とがひとつ場所に再開し、いかにも楽しげに踊る祭りっぽさからのぞく終末感があったから。もしもハッピーエンドだったら普通にリアルな世界の中で、再開なり抱擁なりを描くところを、あえてダンスにしたというそのこと1点で、どうなったかを感じるべきだと思うんだけれど、トークショーに現れた山本寛監督は、明言を避けていたからはっきりしたことは不明。原作から読んでいるから引きずられがちな我が身だけに、本当ややっぱりってこともあるのかな。いずれ聞いてみたいものである。

 そして「半分の月がのぼる空」。やっぱり傑作。これも「私の優しくない先輩」以上にテクニカルな仕掛けがあって見る人を戸惑わせるけれど、1度で理解はできるからそれの是非はともかく迷う人はいなさそう。あとはそうやって失ってしまった者が抱きひきずる悲しみの感情がどれほどのものかに思いを馳せ、それを乗り越えようとして果たせなかった男が、あることをきっかけに立ち直っていくプロセスに、感動を抱き喜びを覚えるのが良いのかも。命令されたらそりゃあ男は動かなきゃ。まるで奇跡のような2本立て。それが決して満員ではなかったのは淋しいけれども、それなりな人が来てくれていたことに驚きつつ感謝。1度では否定に回りそうな人もいそうだったけど、もう1度見て、また見れば絶対に分かるすごさがあるし、何度見たって味わえる感動がある。それだけの価値がある映画だと断じたい。また上映、されないかなあ。海荷の踊りを、大泉洋の慟哭を大きな画面で見たいから。


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