縮刷版2010年11月中旬号


【11月20日】 晴れ渡る天気の中をスポーツにも行楽にも勤しまないでひたすらに本読み。春江一也さんって元外交官で「プラハの春」って人気作も出したことがある人が書いた「僕が愛した歌声」(ジョルダン)は、徹頭徹尾にキラキラとした人たちがキラキラとした人生を過ごしていく展開にまぶしさを覚えながらも悪意とか、恐怖といったもののない世界と人生の素晴らしさって奴を強く感じてそいういうものに心引かれて実現を夢見させる。まあ不可能だろうけれど。

 ベルリンに留学して博士号をとってドイツの銀行に就職も決まっていた青年がドイツでつきあっていた女性は、繊細で日本の文化を愛する人でベストカップル間違いなし、と思われていたのになぜか破局。そして日本に帰った青年は銀行で働きながらも結婚を忌避して優雅な一人暮らしを送っていたある日。飛び出してきた自転車が車止めにぶつかり転倒し、載っていた女の子が手に怪我をする場面を目撃する。親切にも青年は助け起こして薬局で薬を買い、治療して手に包帯を巻いてあげて家へと帰す。ボーイ・ミーツ・ガール。ガールにしては小さいしボーイにしては大きいけれどもまあそんな感じ。

 そしてしばらくして青年は少女が青年を待ち伏せしている姿に出会い、彼女から「パパになって」と頼まれる。素晴らしき哉。いやしかしこれが現代のミステリーならひとりで遊んでいる少女、マクドナルドで食べている少女、そして親を外に求める少女は過程でひどいネグレクトをうけているのではないかと想像され、そんな騒動に巻き込まれながらも青年は騎士道精神を発揮して少女を救い出す展開か、あるいは幼いながらも希代の悪女だった少女に翻弄され、破滅への道を歩んでいくか、いずれにしてもいろいろと不幸の津波が押し寄せるもの。ところがそんな欠片をまるで見せずに「僕が愛した歌声」は進んでいく。

 どこまでも優しい青年とどこまでも純真な少女は週に1度のペースで出合って親子ごっこをし、そしてそれを少女のタワーマンションに引きこもりがちな母親も認めて青年に感謝の手紙を送ってくるというから家族公認。やがて青年は少女の母親でハーバード帰りのすぐれた翻訳家だという母親とも面談して結婚を決意。最初ははんたいした鹿児島の父母も少女のいたいけさ純真さ素直さにほだされすぐに翻意し結婚を認め、むしろ本当の孫のように少女をかわいがり、少女も本当の祖父母のように青年の両親になついていく。

 素晴らしき哉。そして少女は天声の歌声をいかしてオペラ歌手を目指し、青年はやがて壮年となり老境に至っても少女を愛おしく思い続けるという展開のどこにも不幸はなく、恐怖もない。あるとしたら離別くらいだけれどもこれも“ボーイ・ミーツ・ガール”であるという本来の趣旨にそぐうもの。そうした展開のきらびやかさと、高級マンションに暮らし、高級な店で遊び結婚してからも仕事に過程に充実した暮らしを送りつづけ友人関係人間関係にも恵まれねたまれず祝福され続ける人生の明るさに、嫌悪感は覚えずむしろこうありたいという希望を抱かせ夢見させる。たとえ自分がそちら側にはいけなくても、そこに育まれた善意を支えいっしょに明るく善意の輪を作っていきたいと思わせる。

 どこまでもできすぎの展開はあってもそういう人生があっても良いしあって欲しい。人が不幸になり子供が悲しい目に遭い大勢が涙と血を流すような話が多すぎる中で、悪意をさらけ出すのではなく善意を蘇らせるような話はとても貴重。その意味でもこの本は手に取られ読まれて欲しいもの。こういう本を書けるって作者の人はよほど素晴らしい人生を歩んできたんだろうなあ。そして今もやっぱり良い暮らしを送っているのかなあ。素晴らしき哉。でも羨ましがってはいけない。自らが、あるいは周りがそうなれるようにしてく気分を持つことがたぶん、このどうしようもない世界を少しでも、明るい方へと転がす力になるのだから。たぶん。

 なんてことを1Kの6畳一間しかない部屋にすらいられず玄関先で衣装ケースに座ってキーボード叩いている人間が言うことでもないんだけど。まあこれはこれで楽しいから良いのか。こもっていると鬱っ気がわいてくるんで家を出て、秋葉原へと向かいNHKが何かやっているビルへと向かうと元AKBだか何かが喋っていた。そんな姿には目もくれず、地階へとおりてNHKに関連した展示をめぐるスタンプラリーをやってアニメのクリアファイルをもらおうとしたら当たったのが綾小路きみまろの巾着袋だったという、これは不幸かそれとも幸福か。どーもくんの原型みたいな合田経郎さんによる手書きの絵とかデカいどーもくんとか飾ってあってどーもくん好きなら嬉しい展示。できればアニメ関連の展示もいっぱい欲しかったかも。水樹奈々さんの立て看板、ちょっと欲しかったかな。もらっても置く場所ないけど。添い寝? 固いんだよ抱き枕じゃないんだから。

 戻ってねむって起きてテレビで名古屋グランパスエイトが優勝する瞬間をテレビで目撃。名古屋にいたら大喜びだったかもしれないけれども残念ながら今は名古屋ではなく心のホームではあっても実質のアウェーな敵の優勝に祝福と羨望の入り交じった複雑な感情を抱く。あのピクシーを監督にするって聞いて有名人に頼ろうとするスタンスに疑問を抱いたけれど、そのピクシーが最初はライセンスがなく断念を余儀なくされそうだったのを、ピクシー自身が本国で短時間のうちに集中して講義を受けて、ライセンスを取得するがんばりを見せたと聞いてその本気度に感嘆。これならやってくると思っていたらなるほど就任1年目から手堅い再拝で名古屋グランパスを上位に押し上げ、中位に甘んじても平気だったスタンスを大きく変えた。

 移籍を希望していたらしい玉田圭司選手を残留の翻意させ、若い選手も引っ張り上げつつ選手層も厚くしていき、そして守備にトゥーリオ選手を入れて完成。その結果が今年の連敗知らずな手堅いチームへと結実し、残留した玉田選手のゴールでもって優勝にケリをつけるという劇的な展開でもってJリーグ創設時にいながら得られなかったリーグ優勝の栄冠を勝ち取らせた。おめでとうピクシー。そして選手たち。その強さが安定的なものかそれともピクシーが代わればすべて代わってしまうものなのか、分からないけれども1度得たこの経験はきっと自信となって次にも繋がるはず。来年以降の陣容と戦いぶりに注目だ。

 来年以降も駄目かなあジェフユナイテッド市原・千葉は。フクダ電子アリーナで見たギラヴァンツ北九州戦は勝つには勝ったけれども圧倒的ではなく、前半早々に1点を奪ってからはやっぱりサイドに押し出されては囲まれ前に行けず戻す繰り返し。サイドバックが受け取ったボールを前に出せずに後ろに戻すって、それじゃあボールがゴールに近づくはずがない。あそこで渡して前に走り込んでいくのがサイドバックって奴なのに、そういう気配を見せないのはそれとも見せてはいけないお約束でもあるのかどうなのか。

 つまりは戦い方の問題ではって監督やコーチ陣とそれを揃えたゼネラルマネジャーの問題な訳だけれどもお花畑なのかジェフユナイテッドジェフ千葉のゴール裏は、「監督を漢」って応援のダンマクは出すくせに、なぜかハーフタイムで三木社長を糾弾して「責任は現場だけか」と書いたダンマクを大量に掲げてディスりまくる。違うだろう? まずは選手を鍛えられなかった監督と期待に応えられなかった選手とそうした陣容を整えたGMの責任からまず問うべきだろ? 監督どアホウ選手のくそマヌケ、GMチリアクタといったダンマクを出して叱咤するのが先だろ? それから経営を批判するのが筋ってものだ。

 というかJ2なのにそれなりのスポンサーを整えてみせた経営は、むしろよくはった方なのに、そうした努力は無視して「責任は現場だけなのか」と掲げてみせる。現場に決まってるじゃん責任は。だから現場の責任をまず問うて、それから経営についても問題点を洗い出せよ。それが公平ってもの。なのに監督には媚び選手には阿るそんな態度が、現場のこの期に及んでのふがいなさに繋がっているんじゃないのかなあ。去年の千葉ロッテマリーンズで、バレンタイン監督と応援団とが結託して経営を批判していたのをちょっと思い出した。それでチームは強くならず、監督を変えたらほら優勝。経営は別に代わってない。そういうものだよチームって。


【11月19日】 「戦線から遠のくと、楽観主義が現実にとって変わる」というのは岩倉玲音のお父さんにして特車二課の後藤隊長の明言でもあるんだけれども実際、楽観主義に満ちあふれていた我らがジェフユナイテッド市原・千葉はまさしく戦線のまっただ中にあって最前線にすら立っていて、楽観主義にまみれて現実を見失って拙い手を打ち敗れて続けて今現在に未だ昇格を決められないていたらく。「そして、最高意思決定の段階では 、現実なるものはしばしば存在しない」というのは上層部に確実に当てはまる時だけれども、それを現場の指揮官までもが共有してしまっていたところに、不思議な組織の不思議な人たちの不思議にまみれた様子が見て取れる。「戦争に負けている時は特にそうだ」。ずっと負けて負け続けていたからやっぱり分からないのも当たり前か。

 そんなジェフ千葉でいよいよもって監督後退の見通し。江尻篤彦監督が今期限りで退任し、後を誰かに決めそうだって話がスポーツ新聞に出ているんだけれど、メディアも含めて楽観主義にまみれていたことまでもが伺えてどうにも辟易。「リスクを冒してもつなぐ攻撃サッカーで、ここまで16勝6分け10敗で昇格圏に勝ち点5差の4位につけている」って記事にはあるけど現実はこんな感じ。「リスクを冒す攻撃サッカーもテクニック不足でつなげず反撃される展開が続き、残り試合の少ない現時点ですら、昇格圏に勝ち点5差の4位に沈んでいる」。現実のともわない理想を掲げては果たせず全体を劣化させた挙げ句に、もはや絶体絶命のところまで追い込まれている監督を、この期に及んで讃えようとしているメディアは何かチームに弱みでも握られてしまっているのか。スポンサー出もあるから応援するのか。スポンサーならなおおのこと、厳しく当たるべきじゃないのか。できれば日本のあらゆるシーンが代わっているか。政治だって。社会だって。

 漂っていたら「飛騨まんが王国」なんてものが発見されたという話をあちらこちらで散見。字面からするにそれは岐阜県の飛騨あたりにあって長い冬の間、深い雪に閉じこめられる村民たちが、お互いの娯楽のために、それぞれが独力で肉筆回覧漫画を描き続けた結果、すべての世帯にとんでもない漫画が、それもどこにも存在しない漫画が積み上がっているという状況が生まれたという、民俗学的にも文化史的にも貴重な集落のことだと類推。なおかつ世間の流行から隔絶された中でつむがれた結果、どの漫画も世間とは違った進化発展が生まれていて、驚きの表現技法に触れられこれからの漫画を革命的に変化させる可能性も持っているという、そんなことはありません。スキー場が閉鎖される中でどこもいろいろ考えているんだなあ。温泉と漫画。楽しそうだなあ。

 秋葉原に駅ビルが復活したとかで夕方にデジタルハリウッド大学に行く用事もあったんでのぞいてみたけど、キジ丼の店もなければフィギュアを並べて売ってる店も、海外のお菓子やお酒を並べて売っている店もまるで見えず。こんなの秋葉原デパートじゃないって言いたかったけれども、残念なことにそこは秋葉原デパートではなくただのアトレであったのであった。ただでさえつまらなさが増している秋葉原がさらにつまらなくなっていく。キジ丼ってのは後にJAROにでも訴えられたか、名前を変えて体を表すがままのトリ丼になったんだけれど、ようはトリを焼いてタレに絡めたものをご飯に乗せた丼のこと。その甘みとそのボリューム感で秋葉原に集いし若者達の胃袋を満たしてくれた食い物だったんだけれど、デパートの閉店とともに提供していた伊呂波もなくなりそのまま消滅。復活した駅ビルの中に戻ることはなく食べることは当然できなくなっていた。何て悲しいことだ。同意の方々もたくさんいるようで秋葉原じゃない感漂う場所だと嘆いてる。

 そんな声をまるで無視して莫迦高いカレーを並べた店とか出したって、誰が行くかよ留まるかよ。見渡せば楽しいグッズの店がわんさかあるのに、ただの駅ビルを作ったところでどんな意味があるのかと、JR東日本の人たちを集めて懇々と説教をしてやりたい気分。外国から来た人にだってまるで魅力のない店が、駅の横にドデンと転がっているこの不思議。まあ空気が読めず自分たちの気分だけでやって失敗するのはジェフユナイテッド市原・千葉の最近の運営状況を見ても明らかなことだったんだけれど、これだけ秋葉原が注目されているご時世に、秋葉原に店を構える意味をまるで持っていないところはジェフ千葉の経営以上のまぬけさかも。まあいずれ遠からず高級飲食店なんかは抜けて秋葉原っぽい店が入るようになるからそれまでの辛抱。それともスターバックスやタリーズにコスプレやらメイドやらがたまりはじめるまでは気づかない? 気づかないかもなあ。

 そんな秋葉原に遠く海外から訪れたアニメーションの偉い人はつるりとした頭に髭をはやした日本人であったという。その名も宮本貞雄さんは虫プロダクションからサンリオでのアニメ作りを経てタツノコプロへと回り「鉄腕アトム」「リボンの騎士」に「科学忍者隊ガッチャマン」等々の日本のアニメーションで作画の面倒を見たという凄い人。タツノコっていうとどうしても笹川ひろしさんや鳥海永行さんといった演出畑の人に目が向きが地だけれどもそんな中にあって天野喜孝さんともまた違った、作画の鬼として君臨しては後進を指導した日本のアニメ界にその人在りといわれたくらいのアニメーターらしい。でもそんなに日本で名が挙げられないのはもう15年くらいアメリカに行ってしまっているからで、そこでは何とあのディズニーで仕事をし、そちらでもその人ありといった扱いを受けているというから驚いた。

 ディズニーといってもそこはアニメーションの現場ではなく、版権イラストなんかを主に担当する部署で、世界中で販売されるディズニーのキャラクター商品に使われる絵なんかを一手に引き受け、描いて渡すという仕事をしていたらいし。世界のディズニーのイメージをコントロールする部署であり、ディズニー作品のエッセンスを抜き出し商品という最前線の形にそぐうように描いて見せなくてはいけない部署でもある。問われるのは画力とそしてインパクト。そんな場所に認められて「ライオンキング」や「ポカホンタス」や「ムーラン」「ターザン」に「キングダムハーツ」といった作品まで、プロダクションデザインを考え描き提供してきたってんだから宮本さん、やっぱり凄いというより他にない。

 そんな人でも努力は人一倍したって言うか、それがなければ外国人の雇用よりまず国内が優先されがちなアメリカで仕事はとれない。自分だけが持っている何かをアピールして、それが唯一無二だと証明されて初めて採用されるらしい国情で、しっかり居場所を見つけられたのは、一にも二にも絵を描く能力の高さ。「ライオンキング」のライオンの絵を描く時だって、実物のライオンを見たり何十冊もの写真集を買ったりしてリアルなライオンをスケッチし、骨格までをも想定して描いていきながらディズニーらしさを加えて描いていく作業。そこに妥協せずとにかくひたすらデッサンにつとめスケッチに勤しみ、それこそ100を吸収してみせてから殺ぎ落とされた1を選んで提示する。傍目には無駄があるけれども、逆に言うなら磨き抜かれた珠玉がでてくる訳で、それを誰もが認めて宮本さんに仕事を頼むことになる。この努力この積み重ね。学ぶに存分に値する。

 面白かったのはそんな現場の努力に加えて、会社もめいっぱいに努力するところがディズニーらしいというか本場のエンターテインメントらしいというか。動物のキャラクターなんかが登場する映画を作る段になると、専門の動物学者とかに来て貰って動物の生態なんかを話して貰った上に、連れてこられるんだったら実物の動物を連れてきて見せるんだとか。さすがにライオンは無理だたけれどもそれでも小さいライオンの子供は見せてくれたとか。ターザンは連れてきたのかな。ともあれそんな会社の本気と、毎日が切磋琢磨の現場が長い時間をかけて作り上げる作品が、面白くない訳がないし売れない訳がない。かたむけたリソースの量数だけ結果はでる。そこを忘れて現場の善意にすがっていては、やがて衰えていく。分かっているんだろうけど、現状がそうしためいっぱいの努力を許さないこの国に、いられないと感じたのも分かるなあ。そして結果を出して居場所を得た。諦めなず迷わず進む大切さ。宮本貞雄さんが教えてくれました。


【11月18日】 「ルドルフ・カイヨワの憂鬱」という話があって、とある学園に入学したものの、そこには宇宙人も未来人もアンドロイドも異次元人ヤプールもおらず、新しいもの珍しいものを求めていたルドルフ・カイヨワの気持ちをげんなりさせたという、そんな話ではなかったはずだけれどもどんな話かというとよく覚えていない。というか「日本SF新人賞」で今に至るまで強く印象が残っているのは最初の「ドッグ・ファイト」と「歩兵型先頭車両OO」くらいだっけ? なんというかこれは残るはずもないというか。

 いやしかしそれもこれも全体的な出版点数が多い中で精読に至らないだけで、ハヤカワSF新人賞の頃ならどんな作品でもでればSFとして熟読し、愛読して愛着を抱きエバーグリーンなマスターピースへとなっていったことを考えあわせると、時代が今ひとつ悪かったといったことになるのかもしれない。だいたいが人気のライトノベルだって、大半は読んだ端から忘却の奥底へと陥り、今頃になって「とある魔術の禁書目録」を掘り出せもしないまま文庫本を買い直して読んで、そうかそういう話だったんだと思い返していたりする身。常に新鮮な出会いができるってのも良いものだっていうのは単なる開き直りに過ぎないけれども、まあそれも老人力(ろうじん・ちから)って奴の賜と感じ入ろう。単なる開き直りとも言う。

 だから「ルドルフ・カイヨワの憂鬱」については語る言葉はないけれども、そんな北國浩二さんが新たに講談社Xbox、じゃない講談社BOXから書き下ろした「アンリアル」(講談社)については読んだばかりなんで多くを語れる。何でもジャックインしてダイブして楽しめるオンラインゲームが開発されたという状況。モニターに当選した兄弟がそろってゲームを楽しみ始めるという内容だけれども、そんな兄弟にはやっかいごとがあって、兄はみてくれもそれほどではなく性格もおとなしめ。何をやってもうまくいかない割にそれを外に向けて爆発させることもできず、あるいは性格からできないままひっそりと生きている。親がリストラにあって金がなく、大学進学を諦めて今はスーパーでお仕事中でも正社員にはしてもらないまま、鬱々とした日々を送っている。

 そんな兄に子供の頃、線路に落ちたところを助けてもらった記憶が鮮明に残っている弟はといえば、見てくれもよく外向的で仲間たちも大勢入るんだけれど、どこか前向きになれないところがある。例えば空手。全国で小学校では1位、中学校でも2位になれるくらいの実力を持ちながら、1位になれなかったことがひかかって止めてしまい、高校でも部活に入ったものの積極的には練習には出ず、テキトーな日々を送っている。父親のリストラで兄が進学を諦めたことも、喜ぶというよりむしろ負担。そんな鬱屈をやっぱり抱えた状態で、2人はゲーム「アンリアル」へとダイブする。

 すべてがリアルに感じられる世界。2人は騎士団に所属して冒険を始めることになるんだけれどそこでまず、入門の儀式にさらされ痛めつけられ、そこを乗り越え仲間となってからはクエストに勤しむというよりは、ゲーム世界に大勢入る誰かが操作していない、コンピュータが作り出したキャラクターをただただ殺戮していく遊びに勤しむようになる。日常、そうした開放感を味わえなかった兄はすぐになじんで、むしろそちらを自分の本質と考え殺戮を喜ぶようになるけれど、弟はどうにもなじめずにいた、そんな折。現れたのがどうにも心があるようにしか見えないキャラクター。あるはずがない心情を現し、起こっている殺戮を嘆き、怯える彼女を見て弟は、それがデジタルであってもおかしいを思うようになり、兄とは別れて騎士団を裏切り、少女を救おうと動き始める。

 心とは。それが人間であったところで、脳の働きが肉体という見てくれと連動し、過去に積み上げてきた経験や記憶といったものと一体となって醸し出す情報のカタマリに過ぎないと考えた時、心なんていうものはただの記号と化して、消去に躊躇がなくなっていく。ましてや、コンピューターのサーバー上で動くプログラムに過ぎないゲーム内のキャラクターが、たとえ心を持っていたところでそれも電子のシグナルのひとつの形。消したところで何の迷いがあるかと考えることは不思議ではない。むしろ自然かもしれないけれども、逆に言うなら心とは、それを感じることができる自分とう存在があって初めて成り立つもの。集団の中に連鎖し広がっていくネットワークと思うと、その1つを消し去ることは己自身を消し去ることでもあるんだと、そう考えれば消す腕にも躊躇いが生まれる。

 心とは。それを挟んで狩ろうとする兄たちと、護ろうとする弟の姿を通して、心について考えさせる物語。それが「アンリアル」。ゲーム世界にジャックインするという発想はそれこそ柾吾朗の「ヴィーナス・シティ」の時代からある話だし、今だって川原礫「ソード・アート・オンライン」が人気になっていたりはする。だから仕組みとしての新しさを提案することは難しいけれど、そんな上で繰り広げられる様々な思考は、いつの時代になっても代わらず重要だし、時代に合わせてさまざまな思考が繰り出されてくることだってある。そんな思考を今の時代、関係性が稀薄になっている人々の状況や、あらゆる希望が簡単に消し去られ余裕も奪われ、ギチギチの中で未来を伺えない真っ暗な社会を考えに入れながら、巡らせてみせた物語。それが「アンリアル」といったことになるんだろう。心とは。その答えを、見つけられないまでも迫ってみるために、ご一読を。

 そうかそろそろ「このライトノベルがすごい! 2011」の季節か、ってすでに届いてはいたんだけれども、見てなるほど人気ぶりはしっかりと反映されてはいるものの、その人気ぶりに迫る言葉が収録されていないところにいろいろと、複雑というか極めて単純な理由が潜んでいそうでなかなかに心苦しい。おまけに作品、イラストと2冠なんで余計に状況の切なさを感じてしまうけれども、幸いというかイラストは他の作品もあったんで、そちらを大量に引っ張ってくるってことで納めた模様。それもそれでそれなんだけれど。でも聞きたかったなあ、どう思っているかを直接的な言葉によって。目利きでは当方、相変わらずに外したセレクトを並べてますんでお目に入ればこれ幸い。まだ他にもいっぱいいたはずなんだけど、やっぱり記憶から飛んでいる。いかんなあ。

 そもそもが議場にいる議員たちにそれなりの基礎教養があったなら、そうやって出てきた言葉を悪意的ととらえ反発して迫ることで、事が世間に知られクローズアップされ、センセーショナルに伝えられてそこに批判のための批判をしたいメディアがのっかり、大騒ぎになるなんてこともなかった訳で、その場で学術的には正しくても、世間的には穏当を欠くかもしれないと窘め、行き過ぎれば普通に終わった話だったかもしれないけれど、言葉尻だけに反応して騒ぎ立てる議員が一方にいたことで、事態はひたすらに大きくなり、且つズレていってしまったような印象。その場ですぐさま穏当に、けれども内実は代わらない意味を持った言葉におきかえてみせた辺りは、反省というより手前ら意味も分からずガナるんじゃねえ、でも分かってもらえねえらな言い換えておくから安心しな、ってな慈愛と侮蔑も入り交じっての反応。それを勝利ととらえ快哉を挙げているなら野党の方々は、よほどおめでたいとしか言いようがない。トップからしておめでたすぎなんだけれど。海保のビデオ流出では的確だったのになあ。人にはやっぱり得意不得意があるんだろなあ。


【11月17日】 えっとでも、白鵬を63連勝で止めた稀勢の里は確かに凄いけれども、偉大かというと双葉山の記録を超えた白鳳を止めた訳ではないので、双葉山の話に必ず付随してでてくる安藝の海と違って、大相撲の歴史にはやっぱりトピックとしてしか残らないというところが、当人としてもおそらく忸怩たるところではなかろーか。本当だったら双葉山の記録に白鵬が並んだか、超えたところで当たって大記録を止めたかったに違いないけれど、その座を得るには番付的にもうちょっと、上にいないと後半に対戦を組んではもらえなかった。その意味で、将来を期待されながらもここまでなかなか上に行けない自分を、稀勢の里は省みる必要があるのかも。本領が発揮されていたならもっと早く、白鵬を止めていたって話もあるけれど。

 フリクタルフラクタル。フラクタルサンミャクサンボダイ。フラクタルアイデアル。意味不明。とはいえタイトルに使っている以上は、きっと何か意味がある。原作として立っているのがそもそも「マンデルブロ・エンジン」という数学におけるフラクタルの概念を導入したマンデルブロの名を冠したチーム。だからこそきっと意味があるはずなんだけれども、アニメーション版「フラクタル」の情報を見ても、どこにそうした概念が反映されるのかがまるでわからない。ストーリーはフラクタルとかいうシステムによって世界が管理されてから1000年後、働かなくても生きていけるようにはなっていたけれど、ところどころにほころびも生まれ始めた時代に、少年と少女が何かと出合い、システムの真相に迫る旅に出る。

 栗本薫の「レダ」であったり竹宮恵子「地球へ…」であったりと、管理された社会が舞台となったSFは挙げれば過去現在に数知れず。そして夜の校舎で窓ガラスを割り、盗んだバイクで走り出し、この支配からの卒業を目論むストーリーは青春にとって極めて定番とも言えるだけに、いったいどこまでの目新しさって奴を繰り出してくれるのか、不安もあるけれどもそこに挑む以上はきっと、何か新しいものを見せてくれるだろう。でなきゃ原案を東浩紀さんがやっている意味、ないもんね。キャラは「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」の左さんでなかなかのかわいさ。そのビジュアルだけでもイケそうだけれど、枠が枠だけに見た目はあくまで見た目として、中身でアニメーションをひっくり返してくれるだろう。くれなきゃやっぱり意味、ないし。

 それにしても語りたがりの山本寛監督が、熱く激しい声明を発表した上で、作品についてほとんど話していないのが気になるところ。「アニメについて、随分悩みました」と書き起こした声明は、「語れば語るほど、考えれば考えるほど、暗澹たる気持ちでいっぱいになる。そんな毎日でした」と続いて、いくら語っても届かない現状を憂い「『もうアニメは駄目かもしれない』そんな言葉がこっそりと、しかし何度も脳裏を過ぎりました」と言って絶望感を発していたりするところを見ると、語る無意味さって奴を相当に味わっていたんだろうと想像できる。それでも「アニメに、あまりに不義理」と考え「意地のようなもの」も働いて、「犬死覚悟で、もう一本だけアニメを監督しようと思います」と立ち上がってふるう監督の技。それだけにここでは語るよりも、見て貰ってそして語ってもらうのが何より大事と考えて、沈黙を守っているのかもしれない。

 「失敗すれば引退も辞さない」とまで言うからには、覚悟も相当な上に裏返しの自身も相当ありそう。とはいえ何をもって成功かってところが見えないと、聞こえやすい場所から聞こえてくる見えやすい悪口ばかりがあふれ出て、失敗してしまったように思ってしまうから悩ましい。「角川の安田さんに認めてもらうこと」って冗談めかした基準も挙がったみたいだけれども、それはさておき現実問題として、毎週見たいと思わせてくれて、なおかつ議論をしたいと感じさせ、そしてパッケージを永遠に手元においておきたいと確信させてくれることが、視聴者の側から見てそれを成功したソフトだと讃える基準。今年それに達したのは「刀語」であったり「世紀末オカルト学院」であったりと、少数でなおかつそれでも買ってなかったりもするけれど、そうした逡巡すら突き破るパワーって奴を、放ってくれるんじゃないかと妄想してる。「全部死にます。皆殺しのヤマカンです」なんて冗談もでるくらいだから、きっといろいろ企みをそこに混め、見る側を蹂躙してくれることだろう。期して待とう。

 まあ「竜馬記念館」でもサインとか人形とかが頻繁に盗まれたりする訳で、それが豊郷小学校で起こったところで、「けいおん!」というアニメーションだからこそ起こった事件だって感じに、アニメのファンと、そしてアニメの聖地を訪れるファンの心理を妙な形で論うのは間違いだってことは、前提として言っておくべきだろうなあ。その上でギターの、それもファンが作ったただのレプリカを盗んだのがファンだったら、それはみんなのためのものだというファンならではの心理に立ち返って返却すべきだろうし、転売目的で盗んだのなら、そこに置いてあったということ以外、価値はないので大変な目に遭う前にやっぱり返した方が無難と言っておこう。でも金庫とか盗まれている訳だから、やっぱり普通に盗難か。心配なのはだからむしろファンの間での憶測よりも、外野の状況を踏まえない一般メディアが「けいおん!」でありアニメだからこその事件と騒ぐこと。呑まれず踏まれず毅然としてそうじゃないと胸張ろう。竜馬を見ろと言い返そう。レベルいっしょかそれじゃあ。


【11月16日】 そりゃあもう「桃尻娘がオレの人生を変えた」なんてアオリを読んだら買わない訳にはいかないさ、ってことで読んだ原鮎美さんの「ピーチ・オン・ザ・ビーチ」(エンターブレイン、620円)は大学生になっても特に何かに熱中する訳ではなかったナオトくん、その日も海辺でバーベキューをやって学生仲間を遊んでいたら海の方でサーフィンに勤しむ少女が見えた。そのお尻が丸々としていてとってもキュートだったかことから興味を引かれ、サーフィンにのめり込んでいくストーリー。

 って訳では決してなくって、むしろ巧みにボードを操り波にのる少女の姿に興味を持ち、上がってきた彼女を誉めようとして口べたがでてしまってお尻ばかりを指摘したものだから少女はカチン。その場ではむしろ嫌悪感を示してナオトの前から去っていったけど、自分もやってみたいと海に通うようになり、そしてサーフィンにのめりこんでいくナオトの姿に少女の方も関心を抱き、しだいにうち解け会話しサーフィンをいっしょにするようになっていく。ある意味でボーイ・ミーツ・ガールな話ではあるけれど、何にも関心を持てないって若い世代にありがちな心理に対し、何か熱中できるものが見つかった時に得られる充実感っていうものを、強く感じさせてくれるストーリーって言えそう。

 海では華麗にボードを操っても、陸に上がると途端にドジっ娘になってしまう桃子、っていうのはつまり桃尻娘の本名なんだけれども、そんな彼女もまた愛らしい。ついついお世話してあげたくなる。踊りか何かの家に生まれて女性かと見まがうような顔立ちをした美少年が入れ込み途中からちょっかいを出してきた、と自分には見えたナオトを遮ろうとするのもよくわかる。でもそんな天丼くんを天丼くんって本当じゃない名前でしか桃子は認知していないからかわいそうというか残酷というか。一方でナオトはパイナップルみたいな頭を言われながらもちゃんと個体として認識されている。何が違うんだろうなあ。やっぱり熱意? 前向きさ? それがわかれば誰からも振り向いてもらえない自分にだって、チャンスがあるのになあ。ないない。それはない。

 サーフィン用のスーツ姿の桃子ちゃんの可愛らしさは抜群として、ナオトの知り合いのせりなちゃんって少女の可愛らしさもなかなかのもの。見るからに美少女で誰からも愛されそう。ただしバリバリのつけまつげを外し、アイラインを消してしまって現れるその顔立ちは普段とはまるで異なもの。つくづく女性の化粧って奴は凄まじいと思い知る。化粧がまるっと剥がれ落ちたせりなちゃんだって、なかなかに愛くるしいと思うけど、でもやっぱり見比べたら……。うーん、男ってやっぱり複雑な生き物だ。それにしてもつけまつげにアイラインがつくと女性って、瞳もくりくりっとして大きくなるんだなあ。漫画的表現かっていうと実は本当にそうらしい。それは錯覚なのかもしれないけれど、人間が目から大いに情報を仕入れる存在である以上、錯覚であっても視覚には違いなく、そう見えた瞬間にそれは真実となるのである。なるほど女性の化粧には認知論の命題も潜んでいるのか。女性もこれでなかかな複雑だ。

 予習もかねてプラチナのアクセサリーの発表会に出席した栗山千明さんを見に行く。ちょっと前には派手な格好でステージに上がって歌っていた人とは思えないくらい、シックでスリムでスタイリッシュな格好で登場しては、白く輝くプラチナのアクセサリーを煌めかせてはほほえみを投げかけてくれる。自分の方を見ているのはだから視線を動かす中でたまたま目線が通り過ぎただけだとはわかっているけれど、それでもやっぱり自分だけを見てくれているに違いないんだと思いたいのもまた男の心理。その視線に貫かれほほえみにとろけされたボディは今宵興奮に煽られつつ、蘇る記憶に現れる栗山千明さんの顔を脳内にいっぱいに広げながら眠るのだ。そして夢の中でつけまつげが落ちアイラインが消えた栗山さんが現れる、と。どうなった? 変わってないような気がするなあ。10年前のまだ幼少期のそんなに化粧なんてしてなかった頃からまるで変わってないんだから。これはこれでやっぱり驚き。

 いよいよ登場となったスウェーデンのハウスの貴公子ことラスマス・フェイバーがアニメソングをジャズにしてしまった画期的にして革新的なアルバム「Platina Jazz 〜Anime Standards Vol.2」を聞いたら絶対に入れたいって言っていた「ファンタジック・チルドレン」のオープニング曲「Voyage」が入っていて、原典以上にメロウなアレンジになっていて聞いていて泣けた。幾年月をもたった1人の少女を捜して転生し続ける子供たちの真っ直ぐさが思い出されてきた。見直したいけど買ったDVDが部屋のあちらこちらに散逸していて揃わないんだよなあ。ブルーレイ出さないかなあ。そして「ラーゼフォン」から橋本一子さんの名曲「yume no tamago」もラインアップに。これは原曲からしてジャズっぽいんでそれに迫る仕上がりになっていた感じ。ちょっとした差異ってところか。「フルーツバスケット」から岡崎律子さんの名曲「For フルーツバスケット」はスイングしている感じがなかなかで、梶浦由記さんの「暁の車」はしんみりとした曲調。いろいろできるんだなあ。

 来年1月には日本でライブもあるんで一応は行く予定だけれどもこうしたアレンジだったらジャズのライブハウスで聞いてもまるで違和感はなさそう。むしろこれのどこでサイリウムをふれって言うんだ。収録曲ではラストに入っているマクロスの劇場版主題歌だった「愛・おぼえていますか」が、ポール・モーリアほどではないけどストリングはいってスケール感がたっぷりな曲に仕上がっていた。あと「涼宮ハルヒの憂鬱」のオープニング「冒険でしょでしょ?」はテンポの楽しい曲になってた。これもライブで聞いてみたい感じ。個人的にはでもやっぱり「yume no tamago」が聞けるのが嬉しいかなあ、生でなんか橋本一子さんだってもうきっとやらないあろう曲だろうし。いっそ橋本さんがボーカルを務めてみせるってのは? それだったら超最高な夜になるんだけれど。


【11月15日】 以上でもなければ以下でもない。というのが読んだ印象か。鳥山明さんが「週刊少年ジャンプ」にたぶんとてつもなく久々に描いた読切漫画の「KINTOKI 金目族のトキ」はまず絵として鳥山明さんがデビューしてからしばらく持っていたポップなんだけれど繊細さが見えるタッチが下がって太い主線でキャラも背景も描かれていて、どこか強い印象を目に受ける。でもってストーリーも異能の力の持ち主が仲間を捜している途中にちょっとした事件が起こり、それを解決するという展開。驚くようなずらしもなければ感動を招く言葉もないまま実に淡々と進んでいって、そして予定の範囲内にすっぽりと収まる。

 コマは多少のメリハリはあっても基本は矩形の連なりであって斜めにカットされた大コマも見開きも使われない。それも淡々さの一因となっていそう。なおかつ繋がりがどことなく羅列的でページの終わりにためをつくって次にドン、といった驚かせの技巧からもはなれている。読んだなあという気にはなっても読まされてしまったぜ、といった感じの引っ張り込む要素がどこか弱い。戦闘シーンはなるほど線を引っ張りスピード感は出しているけれど、それが巧みなことと凄まじいこととはやっぱり違う。思いっきりのデフォルメの中に動きを見せた尾田栄一郎さんのアクションも、異様なポーズを描き文字でもって空間を支配してみせた荒木飛呂彦さんの工夫もない。

 とてつもなくオーソドックス。その点で分析してみる価値は存分にある漫画だけれどもそれをやるなら漫画家入門のような場所でやれば良い。リアルタイムで読んで「Dr.スランプ」の破天荒さにひっくり返った世代の人間、そして「ドラゴンボール」のスケール感にヤられた世代の人間が鳥山明さんに求めるのは、そんな過去の傑作群を軽く凌駕する驚きのビジュアルであり、また壮大なビジョンでもあるのだけれど、そいういったあの地点をスタートにして30年をかけてふくらんだとてつもない才能に期待をかける贅沢さより、自分たちが感動しした鳥山明という偉大な才能が、今もなお生きているといった確認に心を揺さぶられる人の方が今は多いみたい。

 「KINTOKI 金目族のトキ」にはだから、そんな世代から賞賛が浴びせられている。素晴らしいといった声が起こっている。でもこんなものじゃなかった。あの時に感じた驚き、あの時に覚えた感動はこんなものじゃなかった。無より生まれた100に驚嘆したものと同じ感動を、100から101となったことに覚えるのが無理なことはわかっている。100が100のままであり続けることに素直に感動すべきだって主張もわからないでもないけれど、でもやっぱり、鳥山明さんには空前にして絶後を望みたい。今が100でも次は1000を凌駕し10000にすら達する破天荒な活躍を期待したい。「KINTOKI 金目族のトキ」は100を十分に保っているけれど、そうじゃない成長を、願って期待して止まない。さてどうだ。

 そんな「週刊少年ジャンプ」は「BLEACH」に新キャラクターが登場。ナイスなスタイルで性格はガサツで腕力が強くておまけに美人の年上系女性、ってそりゃあ夜一さんのことじゃないかと言うなら多分に重なるところはあるけれど、こちらはおそらく純然たる人間の鰻屋育美さんって人は死神の力をすっかりなくしてしまった黒崎一護を雇ってなんでも屋みたいなことをやっている。鰻屋なんて名前だから注文もあったりするけれどもそれはけっ飛ばして仕事に精を出していたところに、やって来たなぞの男。前にちらりとでてきた死神代行票を持っている男だけれどいったい何をしにやってきた。そしてそれに黒崎はどう答える。ってあたりから始まる新展開の中ではやっぱり、育美さんのナイスなバディを存分に拝みたいものだなあ。夜一さんはソウルソサエティに帰ってしまったのかなあ。

 ホイチョイプロダクションが“素朴な疑問”を漫画にして「きまぐれコンセプト」で描くのは別に普通だけれども取材して真実に迫る週刊誌のそれも高級ぶりが板についた蒲鉾みたいな「AERA」があれから2週間以上が経ってもなお、水嶋ヒロさんの受賞の経緯を訝る記事を載せているのがどうにもこうにも薄気味悪い。それで何か決定的な新事実でもあれば別なんだけれども、相も変わらず選考が社員編集者ばかりだとか調査と連絡のところの齟齬が見られるといった些末なことばかり。大意として受賞を打診したらそこで初めて判明したって流れを崩すにはいたってない。

 なおかつ賞金の2000万円を指してこれだけ出してもPR効果になるから元はとれるといった論。だったらどうして第1回目にしかでなくてこれまででてこなかったのか。PRだったら出して元を取っていただろうに。そうでないのは2000万円が将来の作家を育てる奨学金的な意味合いを持っていたからで、何もしなくても3年は食べられる賞金を与えることで頑張ってもらうし、その可能性が期待できる人材が現れない限りは出さないってことを、社長の人が確か何かで言っていた。そうした過去の経緯をすっ飛ばして、不思議である妙であるといった結論ありきのところから論旨を組み上げているからやっぱりどこかに胡乱さがでる。そうじゃいってところを築地の高級週刊誌には期待したかったんだけれども、やっぱり無理だったみたいだなあ。高給にして高踏な方々でも、水嶋ヒロさんには嫉妬せざるを得ないということか。

 正義は正義以外のなにものでもありえなくって正義の前にはすべてひれふしてとうぜんといった思考に立ち向かう術はない。その正義が論拠にあげたいろいろを潰していったところで、正義は正義だといったトートロジーが首をもちあげるだけであって、それを覆すのは他の誰にも不可能だ。だから絡まず遠巻きに眺めて様子を見、その果てに起こるだろうコップの中の正義が巨大な波を浴びて流され消え去ってしまうのを待つしかないのだけれども、それでもしばしのタイムラグが正義の言説を世に流布し、誤解を招いて全体に軽くはない影響を及ぼさないとも限らない。だからどうにかできるかというとどうにもならないこの現状を、さてもどうしたものなのか。うーん。うーん。


【11月14日】 朝目覚めたら、脳が痛かった。理由は明快、「ミルキィホームズ」を眠る寸前に見てしまったからで、莫迦で阿呆なダイヤローグと、そしてコミカルなビジュアルが渾然一体となって融け混じり合って繰り出されてくるテレビモニターを見ているうちに、脳が煮え、沸騰した上に捻れ攪拌されてしまったのを夜の間にじんわりと、半ば気絶した状態で冷やしたものだから、朝になってもまだ固まって偏った脳が、元に戻る時のズレみたいなものが頭蓋骨の中に起こって、痛みを誘った模様。アニメで感涙感動の類によって脳が研ぎ澄まされることは最近もあったけれど、脳が痛みを催すのは久しぶりかもしれないなあ。「ギャラクシーエンジェル」とか見ていた時以来っていうか。あるいはワンダフル版「デ・ジ・キャラット」以来っていうか。みんな企画がおんなじ人だ。

 っていうか「ミルキィホームズ」、シャーロックに化けたクラリス王女様が自分の正体を明かしても、顔がそっくりだから仲間のミルキィホームズにわかってもらえない時に繰り出したあの一言で、全員がやっぱり偽物だって納得するシーンとか、それが再びジーニアス4を相手にした時にも繰り出されるシーンなんかの重ねて畳み込む技にまず感慨。なおかつ隣国のお金持ちの王子様が本当は別に好みの人がいたって場面で選んだその相手と、そしてその相手が見せた反応がこれまた意外性を斜め上1万キロくらいに超越したもので激しい感動に浸る。絵の方はいつものくっきりとした感じとちょい違ってガサっとしたトーンの中に抑えつつ、動きや表情に工夫を持たせて見ていて飽きないようになっている。脚本と作画と演出のどれもが完璧にマッチした奇跡のエピソード、神の回として今回の「ミルキィホームズ」はアニメーションの歴史に残るだろう。こんな経験が得られるから深夜の“萌え”アニメはたまらない。

 そりゃあまあGカップであるなら他に申し分もないんだけれども、そうでなかったことが判明してもそれほど悔しくなかったとうのはそれはそれでなかんかなに、麗しいものであたかもしれないという思いが脳内に広がって、官能とはまた違った愛玩の心情をわき上がらせたからかもしれない、鎌地和馬さんによる「ヘヴィーオブジェクト」しりーず第3作「巨人達の影」(電撃文庫)。核兵器すら跳ね返すような、頑丈で巨大な兵器を使って一騎打ちめいたことをするように、地球上での戦争の形が変わってしばらく。兵士は損耗がなくなったかといえばそうでもなくって、最前線ではオブジェクトのお世話に兵隊がかり出され、また工作なんかも人間がやっていたりするから危険さに代わりはない、っていうか相手がオブジェクトになった分、生存の可能性はぐっと下がったって言った方がよさそう。けれども、そんな状況を物ともせず、学生のクウェンサーとそれから貴族の息子のヘイヴィアという若者2人組が戦場を飄々と歩きオブジェクトを撃破して歩いていたものだからたまらない。

 続く第2作目では、そうした人間の可能性が新たな戦乱を生むことも示唆なんかされて、、再びの大戦争時代が訪れるのかと心配したけど、第3作ではとりあえずやっぱり頑強なオブジェクトどうしの戦いが通常で、なおかつ第2世代といわれるオブジェクトも出てきて、主人公たちが所属する正統王国にて、お姫様を呼ばれるオブジェクトを操縦するエリートから、妙に関心を持たれているクウェンサーとヘイヴィアは、情報同盟とやらが繰り出すそんな第2世代オブジェクトを相手にする戦いについていく羽目となる。そのオブジェクトに乗っていたエリートこそが、前に別の戦争で共闘した「おほほ」。それが名前って訳じゃないんだけれども、勝ち誇ったような「おほほ」という言葉をつけて喋る特徴からそう呼ぶようになったエリートに、ついにご対面となってクウェンサーが味わった心情を、想像すればひとつには同情も浮かぶけれども、一方には羨望も浮かぶというところに、人間の複雑さって奴が見え隠れ。そう思うのはあるいは少数派? でも良いのだ、人の好みは千差万別なのだ。のだ。

 しかしそれいしても、相変わらず工夫と機転と努力で不滅のオブジェクトを倒していくものだよなあ、クウェンサーは。彼にだってできるんだったら、誰にだってと思っておかしくないんだろうけど、よくよく見れば彼にしか出来なさそうってところもあるだけに、なかなかオブジェクト相手のゲリラ戦は起こらないんだろう。続く第2章では、かけた情けが後になって命につながり、第3章では、どこまでも諦めない心情が絶体絶命のピンチから大勢の命を救った。これはだからすべての人間に出来るって訳ではないもの。そこんところに「お姫さま」もすがり、Gカップとは限らない「おほほ」も関心を寄せ、今また情報同盟からの食指も延びていくってことになりそう。それに比べてヘイヴィアは朴念仁ぶりがますます板について来た感じ。でもいないと結構クウェンサーもピッチだったりする訳だから、まさしく腐れ縁って奴か。さてもいろいろ国も出そろい駒も並んだ盤面を、どう動かしてさばいていくのか鎌池さん。戦争なだけに歴史を描いていこうと「とある魔術の禁書目録」に負けない、というよりそれすら上回る長大な物語へとなっていく可能性もあったりしそうだなあ。

 日本にだよ、世界中からバレーボールの達人たちのそれも美しい女性たちが集まって、素晴らしい戦いを繰り広げているってのに、テレビで見られるのは世界に行かなくたってリーグ戦で見られる日本人選手による戦いくらい。もっといろいろな試合が繰り広げられているはずなのに、まるでなかったことにされてしまっているっぽい状況が、どうにも業腹に感じ、それならと「バレーボール世界選手権大会」こと「世界バレー」の最終日に、そうした世界のトップアスリートたちが繰り広げる戦いを見に行こうと、信濃町にある東京体育館へと向かう。それは違うぞ、バレーボールの大会は代々木第一体育館でおこなわれているんじゃないかという声に答えるならば、確かにベスト4に出そろったチームの試合はそちらで行われるけれど、そうではないチームの順位争いは、東京体育館で開催されることになっているのだった。

 もちろん日本代表は出ておらず、メダル争いとも無関係な試合だけれど、今大会ではちょっと調子が悪かったかもしれないだけで、あるいはメダルだって狙えたかもしれない強豪チームが出ていたりもする試合。バレーボールが好きなら見ておいて決して損はないし、将来においてそこと戦う可能性だって考えるならば、若いバレーボール選手たちに試合を見せておくのも大きな大きな意味がある。そうでなくても、世界からはるばる日本にやって来てくれた国の代表たちが繰り広げる戦いに、敬意を示すならば日本人が出ていようといまいと、駆けつけ応援するのが開催国のホスピタリティって奴。そう思った主催者が、きっと大勢のバレーボールファンなり、未来のバレーボール選手たちを集め、華やかな中での開催になってるかと思ったら、まるでどこかの中学校で市の大会がおこなわれているくらいの賑わいだった。なんだそりゃ。
 つまりはまるで閑散としていたってことで、当日の開場10分前に到着してチケットを買って入場しても、アリーナ席からかぶりつきでみられ、それすらもまだ空席が目立つというその惨状に、これはいったいどういうことかと憤ったかというと、事前に存分に予想がついていたんで驚きはしなかった。ただちょっぴり淋しくって悲しくって虚しくって申し訳ない気がした。バレーボールの国際大会が、妙に日本での開催が多いのは、そこでしか視聴率が稼げず、放映権料が入らずバレーボールの団体が潤わないからって理由があるにはある。それもまた妙だし、薄気味悪い話だけれども現状、市場がそうなっている以上は仕方がないことなのかもしれない。それが招くバレーボールの一極集中が、今でさえ停滞気味の世界におけるバレーボールへの関心を奪い、さらなる低迷に陥れることになる可能性は斟酌しつつ、それでも今を支える必要があるんだという主張が繰り出されたなら、聞くしかない。なくなってしまうよりはマシだから。

 問題は、だからそうやって日本での開催がほぼ恒久的になった時、それでも世界からやって来て、アウェーの中を日本人選手相手に奮闘してみせる外国のチームにも声援を送り、こと試合においてはホームだからと傘にかからず、相手の心情も慮るのが道徳的振る舞いだと言えるけれども、主催者はそうした配慮をそっちのけで、日本代表こそが正義といった伝え方を繰り返し、それに恥じ入る様子もない。日本が出ていればそっちを応援したくなるのもわかるけれど、それだけじゃない、日本が出ていない試合についても開催国として、敬意を持って迎え声援を持って答えるのが道理って奴なのに、訪れた東京体育館は1000人とか入ってなさそうな空気の中で、国の代表に上り詰めたスポーツエリートたちの妙技を、見なくてはならないというのは何というか慚愧の念を禁じ得ない。

 こういう態度は相手に対する侮辱であり、スポーツに対する侮辱でもあることを、日本人はもっと知らなくちゃいけないんだけれど、伝える側が日本代表ありきとなっているだけに、そうしたことに誰も気づかされない。放送だって3位決定戦がゴールデンで、世界最高峰を決める戦いあ深夜に録画となってしまうという、真っ当な神経の持ち主だったら申し訳なさに割腹だってしてしまいそうな状況が、日常茶飯事に起こってしまっても不思議に思わない。これってとっても怖いことだと思う。

 バレーボールだからまだ、協会が認め各国の代表も仕方ないと諦めているんだろうけれども、これが招致の決まったラグビーフットボールのワールドカップの場合、日本代表以外にはまるで観客が入らない、なんてことになったらラグビーフットボールのネーションたち、欧州に環太平洋に南米といったラグビーを愛しそれに携わる人たちに敬意を持って接する心情を持った人たちから、激しい非難を浴びることは必定。でもきっと、そいういうことに気づかないでバレーボールでの”経験”とやらを爆発させて、日本代表十番勝負的なあおりの中に治めきり、他の国々が戦う試合は追わず観客にも追わせるような心情を抱かせないまま、3行4行の中に勝敗を伝えて終わるんだろうなあ。怖いなあ。

 そして始まった試合は、さすがに世界中高峰。最高峰はやっぱりベスト4に残ったチームの試合が持っていって当然だけれど、そこに入る可能性すら持っていたチームも混じった3試合が、たったの3000円でかぶりつきで見られてしまうという、これを僥倖と呼ぶのはちょっぴり違うけれども、見る側にとっては僥倖以外のなにものでもない。どうにも胸苦しい状況だ。試合ではまずはオランダがキューバを相手に戦い勝利。男子もデカい人が多い国だけれど女子もやっぱり長身揃い。でも似た背丈のキューバが前にドーン、後ろにボーンなのにオランダは前に平たいかあるいはぷくっといった程度なのは、国情の違い人種の違い以上に何かあるように思えてきた。ワルキューレか何かの呪いでグラマラスになってはいけないようになっている、とか。しかし平たいなあ。

 あとはセルビアとドイツというサッカーだったら垂涎のカードに、イタリアとトルコというローマ帝国とオスマン帝国的には因縁のカードが重なって、そのいずれもでハイエンドの戦いって奴を見せて貰った。得点王争いに名を連ねるようなトルコの選手の激しいスパイクに驚き、そのスパイクすら上回っていそうな破壊力を示すジャンピングサーブなんかに驚いて口あんぐり。凄すぎる。対するイタリアには160センチに届かないリベロの人がいて、前にデカい選手が来ても気にせず着々と仕事をこなす姿にちょっと萌え。でかいのにも興味はあるけどちっこいのにだって興味があるという、どっちつかずがここでも炸裂してしまったぞ。ともあれ、世界中高峰の試合はさすがなカードばかり。楽しめた上に帰りがけに場内にはってあった世界バレーの横断幕まで持ち帰り自在とあって、代々木よりも味の素スタジアムよりもこっちを選んで正解だったかもと持参。とはいえジェフ千葉も買っていたし見たかったかもなあ。もう勝てないかもしれないんだから。不吉な。


【11月13日】 1話、観るのを飛ばしてしまったけれどもまあ、どうにか話にはついていけた「刀語」の第11夜は、真庭忍軍がフェニックス、じゃなかった鳳凰が左右田右衛門左衛門と戦ったけれども、途中で毒刀「鍍」が渡されてしまったために離脱した鳳凰は、そのまま伊賀の里へと向かってそこで一族郎党皆殺し。乗り移った四季崎記紀の喋りに誘われ鑢七花ととがめが戦いを挑んでそして、鳳凰は敗れ「鍍」はとがめたちの手に渡って残るは炎刀「銃」が1本、その在処もわかっていると向かった尾張への帰参の終わりに待っていた左右田右右衛門左衛門との戦いで、起こった事態に鑢七花の怒りが爆発し、そして完了形変体刀、虚刀「鑢」が現れる。おお。

 途中、会話が長ったらしくて観ていて早送りしたくなる部分もあったけれど、リアルタイムで早送りなんて出来ないからそのまま見続けて、やっぱり長いなあと思ったけれどもそれもまた「刀語」の特徴なんだと納得。でもって戦いのシーンの激しさとか、とがめの短い着物の裾からちらちらとのぞく後ろ姿のお尻の丸みなんかを楽しみつつ、真庭人鳥の愛らしさを愛でつつもあっという間に退場となった悲惨さにむせびつつ、衝撃のラストを迎えてそして以下次回。どんなエンディングを迎えるのか、って小説では既に描かれていることなんだけれど、ここまで読むのを我慢して来たんだからそのまま頑張って読まずに観て、くんずほぐれつの大バトルに、とがめや否定姫のその後なんかを確認しよう。否定姫。胸おっきいなあ。って観るのはそこか。そこだよ悪いか。

 これだけ観ていて面白いと、やっぱりブルーレイディスクとか買いたくなるってのが人情。おまけに月に1枚くらいだから、買ってもそんなにフトコロに響かない。だからずっと買っている。これがテレビシリーズになると、5巻とかってことがあらかじめわかっているだけに、それにつきあうのが最近はどうにも億劫で、あんまり買わなくなっていることにふと気が付いた。やっぱり高いから、なんだけれども問題は、そんな高さを踏み越えてでも買わせる気概を持った作品があるか、ってところで、例えば「ノイタミナ」なんかは、そういった作品があったんだけれど、最近はどうかと言われると、うーん、「東のエデン」以降は、テレビで見れば十分かなあ、「四畳半神話大系」はちょっと欲しいかな、あれはそれなりに密度の高さを持っているから。

 つまりは内容であって、高さとは限らないんだけれど、「週刊SPA!」でいつの間にやら始まっていた「アニメ定量分析」なんて連載では、そんな値段が真っ先にやり玉に上げられている。フジテレビでノイタミナをやっている山本幸治プロデューサーとサンキュータツオさんが喋っている連載なんだけれど、「制作費200億円の『トイストーリー3』のブルーレイが3990円なのに、『空の境界』ブルーレイBOXが5万2500円ですよ」っていきなりぶちかます。なるほど高いよ5万円越えなんて、いったい何が入っているんだ、劇場とかで公開された「空の境界」が7章分に、新しく作られた終章も加えた8作品分が入っているのか、ってことは割れば6500円とか600円とかそんなもん。そのいずれもが劇場クオリティ。なおかつ大好きなキャラクターが出ていて、音楽も梶浦由記さん……これってむしろ安いんじゃなイカ?

 ってか世界的に市場を持つディズニー/ピクサーのアニメと、日本ローカルのアニメじゃあ、比べる対象が違いすぎるだろう? いくら200億円とか制作費をかけたって、世界中で興行だけでそれ以上の収益を上げられる『トイ・ストーリー』が、それでも3990円もすることの方が問題。海外のブルーレイだったら幾らだよ、ってことも含めて考えてくれないと議論が転がらない。比べ方にも意図が見える。アニメのブルーレイが高過ぎる例で挙げられる「空の境界」のBDボックスには、「5万2500円!」って風に書かれてあるし、「劇場版“文学少女”」の初回限定版BDにも、「1万290円!」ってやっぱり吃驚マークが付けられている。一方で、ノイタミナで放送された「四畳半神話大系第2巻」は7035円、同じくノイタミナの「屍鬼1」は7665円とそのまんま。劇場版とかボックスと、テレビシリーズを比べて安い! って言いたいんだとしたら、それは絶対にフェアじゃない。

 それだったら「東のエデン劇場版2」の初回限定版も、「1万290円!」と値段も吃驚マークも付けて並べて出すのが筋じゃなイカ。おまけに「エデン」は1作目もあって、なおかつテレビ版もあるんだぞ。全部揃えるのにいったいどれだけかかるんだ。「例えば『聖痕のクェイサー』なんて、テレビだけじゃストーリーすらわからない。DVDを見ることが前提になっている」って喋っているけど、それを言うなら「東のエデン」なんて、劇場版見ないとわからなかったじゃないか。でも言うんだ。「でも、DVD観ないと理解できないような、テレビ番組として成立していないものを放送するテレビ局が問題なんだ」。うーん。うーん。

 もちろん、山本プロデューサーの言いたいことはすごくよくわかる。誰が観たいかもわからないような作品が、キャラクターグッズ感覚でアニメ化されてそれが決して大勢の観ない場所で放送されて、結果として評判にならないまま消えていってしまい、DVDも売れないケースが多すぎる。そうした状況が、結果としてファン離れを引き起こしているっていった論理も嘘じゃない。そんな中でノイタミナって枠が、アニメーションとして観て面白い作品を作り、パッケージもそれなりに売っていた作品もあったことに、大いに賛辞を送りたい。頑張っていると讃えたい。でも。

 でもだったら、テレビ局はテレビで作品を見せて、それでリクープできるようなビジネスモデルを作り上げようとしなくちゃいけなかった。スポンサーを集めて制作費を出し、枠を提供して放送してそ、れで収支が合うようにしなくちゃいけなかったけれども、やっているのは軒先を有料で提供すること。放送法の下で、電波なり放送枠というものを一手に握ってその下で、お金をとって作品を流させることで儲けること。そんな商売に対してアニメの作り手は、見せたい作品を作るために、自分たちでスポンサーを集め、マーチャンダイジングを整え、パッケージの収益も見込んでお金を集めた上で制作費をひねりだし、放送のための費用も納めて作品を電波に乗せなきゃいけなかった。二重になる出費の前に、パッケージが高くなるのも道理。でも、それが観たい作品、見せたい作品を作る上で必要なことだった。だから今、僕たちは昔ではありえなかったくらいに、豊穣なアニメ作品の中で毎日を送ることができる。高さはだから、我慢しなきゃいけない。

 そうした成り行きを真っ向から否定した先に、来るのはいったい何だ? 真夜中に「サザエさん」であり「ちびまる子ちゃん」のような国民的アニメを見せられるか。でも、あの「ONE PIECE」ですらゴールデンタイムに収めきれないで、日曜の朝に持っていったテレビ局が考えるアニメってものが、いったいどれだけ僕たちを喜ばせてくれるんだ。パッケージの購入を促すものになり得るんだ。そんな議論を全部すっ飛ばしておこなわれる「定量分析」に、どうして気持ちを添えられよう。正直で切実な訴えなら通るけれど、そこに作為が意図的であってもそうでなくても、見えると人は途端にすくむ。

 周囲の理解がまるで得られない中を孤軍奮闘して、素晴らしい番組を作り出してくれていることには心から感謝。「海月姫」に「フラクタル」に「放浪息子」と、楽しげな企画が現在進行形でこれからも目白押しなことに賛辞。でも、それを錦の御旗に他を誹るのはあんまり美しくない。刺激されたテレビ東京が「アニメノチカラ」を立ち上げて「ソラノヲト」に「閃光のナイトレイド」に「世紀末オカルト学院」と、それなりに楽しげな作品を作り出してきた、そんな状況に出来るのは、やっぱり作品で答えを出すこと。それさえあれば僕たちは、観て買うことで答えていく。つもり。だけれどやっぱりお金がね。3話3000円くらいで出してよ「ノイタミナ」は。

 朝から「チケットぴあ」のサイトにはりついて午前10時を待ってアクセス、あの「serial experiments lain」のブルーレイボックス発売を記念した上映会が開かれるってんで、そのチケットを抑えようとしてトライして、幾度かのアクセス過多を突破して当該のチケットの確保に成功! 1話と12話の上映があって、小中千昭さんや安倍吉俊さんのトークがあって、それでなおかつBDを買った人ならセル画ももらえるらしいとあってこれは行かねばとKOSHITANTANbySCANDAL。どうにか買ってその後もしばらくあったけれども、30分ほどでチケットはなくなった模様で改めて人気のほどを知る。それが「lain」そのものか、セル画なのかはわからないけど、BDを買ってなおかつ2000円の入場料も払ってセル画をもらいにいく人が、150人近くもいてなお入れず嘆く人がいるところに、この作品そのものの人気ぶりって奴を改めて知る。どんな人が来るのかなあ。いつかのロフトプラスワンの同窓会みたいになるのかなあ。楽しみ。


【11月12日】 13時14分15秒に何をしてたっけ。カレーを食べていたっけ。それはともかく「それでも町は廻っている」はすでに連載で読んでも遠く記憶の彼方に行ってる古道具話と紺先輩の風邪話。仲間内でわいわいがやがややってた時代の楽しさがにじみ出ていて見ている方も楽しくなった。シュールなのはちょっと勘弁。古道具話ではだいたいがシーサイドでの展開でみんなメイドの格好をしていて見ていてそれほど官能は覚えなかったけど、もらった仮面を売り払いに行くたっつんだけは私服で正面から描かれていてなかなかにばっつんばっつん。これがどうしてメイド服だと見えなくなるのか。そこがあの服の足りないところでもあるんだよなあ。

 紺先輩の風邪話は下宿で苦しむ先輩がもらしたかわいい言葉に喜ぶ歩鳥たちに気づいて先輩が撲殺を企む場面が愉快痛快。けどでも紺先輩ってどうしてあの町で高校生なのに一人暮らしをしているんだろう。そんな辺りからあの町が大都会で家から通える範囲に高校がある訳じゃ泣くって、地域から人がやってくるくらいには田舎にあるんだって想像をしてみることもできるのか。とりたてて何かに秀でた才能の持ち主が、一人暮らしをしてでも通う高校って訳でもなさそうだし。そんな感じに淡々と進むアニメと違って漫画は先鋭化が進んでいるから「ヤングキングアワーズ」も手に取り真っ先に読む漫画ではなくなっているのが迷いどころ。ちなみに真っ先に読むのは今は塩野干支郎次さん「ブロッケンブラッド」。これ当然。

 そして刊行となった単行本の第6巻ではノイシュヴァンシュタイン桜子ちゃんのお父上がこれまたゴージャスな格好でもってリヒトホーフェン薫子として必殺技を繰り出していて圧巻。あの父親にしてあの母親がいてこの息子。妹だけはまるで才能を見せてないのがかわいそうというか。でもなあ、あれだけかわいい兄貴がいたんじゃ妹だって立つ瀬がないもんなあ。エピソードではやっぱり源太郎君の胸パットが頬に当たって妙に興奮してしまう守流津健一に好感か。たとえ偽物と分かっていたって“美少女”の“胸”が顔に当たればやっぱり嬉しいものだよ男子って。“胸”じゃなかったら。それは悩ましいところ。ちなみに源太郎もとしおもノイシュヴァンシュタイン桜子を女の子って信じているから、騎馬戦で上に乗せて水着のお尻を見てもアレとは思わずコレだと喜ぶ。無知って素晴らしい。

 白いバックに美少女が経って説明的なタイトルが乗っかっていれば普通はMF文庫Jだと思うけれどもこれは違ったうれま庄司さんって人の「彼女を言い負かすのはたぶん無理」(スマッシュ文庫)はディベートがテーマになっているという変わったライトノベル。入学した高校で何部に入ろうとかと迷っていた少年が廊下で出合ったのは金髪の美人で手にした壺を売ろうとして手渡し逃げていったらそれが校長の大事にしていた壺だったというオチがつく。幸いにもばれなかったけれどもやがて再開した美人は放送室を選挙し誰かとディベートをはじめて教師達を憤らせ、さらには校舎の上からもディベートを行い生徒たちを唖然とさせる。

 そんな相手を見てなぜか少年は興味を抱いてディベート部に入るかどうかを逡巡。そして始まった部活の中で少年はディベートの面白さに触れていくという全国ディベート部合会なんてものがあったら真っ先にお墨付きでももらえそうな内容。実際的に論を立て範囲を限定しその中で正否を争うディベートの面白さは感じられるけれど、そうしたディベートが果たしてキャラクターたちの心理なりパーソナリティと結びついているかといったところが悩ましい部分か。まあディベートなんだから心理状態に左右されては拙いんだけれど、本当の気持ちなり過去の経験なりトラウマなりがディベートと重なり論陣をあるいは歪め、あるいは補強して吐き出させることによって勝利なり、敗北なりがあってその先に成長があるような、ドラマがあったら読んでいてディベートってテクニックだけじゃなく、生き方にも関わってくるんだとのめり込めたかもしれない。そんな辺りはまあおいおい、書かれていって欲しいと期待。それにしてもスマッシュ文庫、今もちゃんと出ているんだなあ。

 秋葉原へと出向いて角川グループの偉い人の喋りを聞く。ちゃんと世の中見ているもんだ。その後に角川グループが始める電子書籍事業の発表を聞く。サービス名は「BOOK☆WALKER」とか言うらしんだけれども見ても味も素っ気もないんで勝手に「ぶっく☆うぉーか」と訳詞、それをさらに縮めて「ぶく☆うぉか」とこれから呼ぶことにする。この方が角川っぽいじゃんか。ちなみにサービスも発表になっててiPado向けに小説やライトノベルや漫画なんかが提供されることが明らかにされた。「涼宮ハルヒの憂鬱」とか「いつか天魔の黒ウサギ」とか「文学少女と死にたがりの道化」とか「バカとテストと召還獣」とか「これはゾンビですか!」とか「生徒会の一存」といった辺りが並んでいるのはなるほどヒット作が用意されたって言えるけれども、だいたいがメディアミックスされた作品ばかり。単体で小説を売るってよりはカタマリとしてメディアにまたがって売っていく、そのピースとして捉えているってことになるのか。まあその方が売りやすいんだろうし。

 個人的には川上稔さんの奇跡的に空前的に驚異的に国宝的に分厚い文庫のシリーズを全部電子化してiPado上で読めるようにして欲しかった。それが実現すれば部屋から川上さんの本を除いて重力を下げることができた。あの重さはもうすぐブラックホールが出来るほど。このまま放っておくと遠からず爆縮を初めてブラックホール化して周辺のあらゆるものを吸い込み始めかねないから。あとはやっぱり売れ線の「とある魔術の禁書目録」あたりか。でも売れて売れて今なお売れ続けているものはあえてやる必要もないってことなのかなあ。っていうかそもそも電撃文庫関係ってあったっけ。全グループを上げての取り組みだからいずれ入って来るんだろうけれど、どれになるのかなあ、クレジットカードとか使える大人が読みそうなものからになるんだろうなあ。


【11月11日】 11時11分に何してたっけ。とりあえず「プラチナ・ジャズ」って日本のアニソンをジャズにしてしまって評判をとったCDの、新しいものを作って間もなく発売となるラスマス・フェイバーが来年1月に日本に来て行う、ジャズメンたちを集めてアニソンのジャズを演奏するライブのチケット予約が始まったんで、予約して1枚抑えてはみたけれども、ビルボード東京なんて普段はまったく行かない小屋なだけに、どの席を抑えたらいいのかわからない上に、もし行くとしてどんな格好をしていったら良いのかに迷うっているところ。さすがに下はジーンズでズック靴、上はアニメのキャラクターが描かれたTシャツって格好では行けないよなあ。フロアでオタ芸を打つのもサイリウムを振るのもそぐわないよなあ。けど流れているのはアニソン。自然と体は動くし腕も鳴る。どんなことになるのやら。当日が楽しみ。

 訳あって韓国版のドラマ「ドラゴン桜」をさっと見て、まずは登場した桜木建二の風貌の違いにこれ誰なんだと戸惑う。日本だと阿部寛さんが面構えも含めて漫画にとっても良く似せていたけれど、韓国版はつるりとした顔立ちの兄さんで、ヤンキー臭さはっても漫画のような強面ぶりも胡散臭さもあまりない。けれども物語が始まって、整理を依頼された高校があまりにだらしないとみるや、最難関の大学に合格者を出すことで再生させようと訴え、特進組の生徒を募り、異彩を放つ異才の教師たちを呼んで生徒達を鍛えようとする姿を見るにつけ、これこそが桜木なんだと思えてくるから不思議というか。見てくれなんかじゃなくって本質を描こうとする韓国側のスタンスが、そんな所に成果となって現れているんだと思わされる。

 日本だとどうしても勉強のシーンとかを外して、生徒達の青春にスポットを当てがちだけれど韓国版ではしっかり勉強勉強勉強の畳かけを行ってみせる。けれどもそれが退屈に見えないところが面白いというか、頑張る姿に共感を覚え皆で助け合って、誰もがいい成績をとろうとする姿に感動を覚えて、ついつい見入ってしまう。真冬の体育館で1人、数学の特訓を受けている生徒のそばに1人、また1人と仲間が机を寄せて勉強を始める姿なんてもう涙もの。そういう形の友情って奴の温かさが画面から伝わってきて心を温める。数学教師が生徒の去った後で手に息を吹きかける仕草から、教師だって寒い中を頑張って、生徒を教えようとしていたんだってことが見えてきて、誰もが思いをひとつにして未来をつかもうとする素晴らしさに、深くて強い感慨を覚える。

 実にストレートな演出。もっともそれは漫画の原作版「ドラゴン桜」の面白さであって、日本のように余計な解釈を入れないで、漫画の良さをどこまでも引き出そうとした結果がドラマの面白さに繋がり、韓国でも大ヒットにあたる25%なんて視聴率につながったんだろう。人気漫画の原作を得ながらも、テレビ屋のプライドなのか勝手な思いこみからなのか、妙な演出をしてしまって漫画のファンからそっぽをむかれ、ドラマに期待していた人からも違和感を覚えられるケースの多々あるこの国のドラマ事情を思うと、韓国版「ドラゴン桜」から学べることは結構多そう。でもなあ、キャスティングありきでドラマは二の次、とりあえず評判さえ伝われば後はってスタンスが蔓延っているうちは、ドラマそのものに期待するのはやっぱり無理かもしれないなあ。

 およそ韓流スターなんて出ていなさそうな韓国バンドラマ「ドラゴン桜」だけれど、ただ1人、日本だと長谷川京子さんが演じた井野真々子の役にあたる女性教師を演じたペ・ドゥナさんだけは、日本の映画「空気人形」とかに出演していて日本でも広くしられてファンも多い女優さん。その楚々としてエロっちい感じが映画なんかで伝わってきたけれど、ドラマ「ドラゴン桜」では乗り込んできた弁護士の乱暴きわまりない論に真っ向から異を唱える強気な女性教師を演じていて、その違いにまず驚く。弁護士の言葉にいちいち顔を歪めて嫌そうな顔をする、その演技その表情は実に多彩で人間くさくて奥深い。鼻を歪めて憎々しげな感情を示した表情なんてもう最高。そんな顔が出来る女優さんだったんだって、改めて強く気づかされる。喋りだって達者。この演技が他の映画なんかでももっと見たいけれど、今何かに出ているんだろうか。

 取材がてら「カフェゼノン」って例の「コミックゼノン」を出している会社が空間の漫画雑誌ってふれこみでちょうど1年前の11月11日にオープンしたカフェへと行って吉祥寺野菜カレーとか食べたら野菜がたっぷりだった、って野菜カレーだから当たり前なんだろうけれども普通だったら煮込んでしまう野菜をさっと揚げるかしてカレーの上にトッピングするような形だから、野菜サラダを食べるついでにカレーも食べているような感覚になってとってもヘルシー。そしてボリューム感。カツカレーとかついつい食べてしまいそうな時にこっちを頼めば、おなかもふくれて気持ちだって落ち着きそう。こんなメニューがあったんだ。あと紫イモのワッフルとかも頂いてこっちはフルーツたっぷりの秋っぽさを堪能。楓の葉とかもトッピングしてあってなかなか良い風情。考えられてるなあ。

 オープンした当初は漫画屋さんのサイドビジネスめいてどっかで行きづまるかもって心配もしていたけれど、飲食メニューを中心にしっかりと鍛え上げた成果が昼間に近所の女性がわんさかあつまり、夜に大勢の若い人とか年輩者とかが寄って飲む空間になっている模様。居心地の良さから長時間滞留する人なんかもいたりするそうで、客単価の上昇にはつながらないけどそういうお客さんがいるってことはつまり支持を集めているってこと。放さないでおきつつ新しい人を招き寄せればカフェとして、ちゃんと収益が上がる場所になっていくんじゃなかろーか。1周年を記念した夜には投げ銭で食べ放題のイベントもあったみたいだけれど、そっちは寄らずに退散。聞くと大盛況だった模様。すっかり吉祥寺の顔になているなあ。土曜日にはブランチで姫が訪れた映像が流れるとか。見てみようっと。


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