縮刷版2009年9月下旬号


【9月30日】 思えば同じ日には新型の「プレイステーション3」とそれから対応ソフトの「機動戦士ガンダム戦記」が発売された「ラブプラス」。だけれど「PS3」は某所で2000円の値引きが始まっていたりするくらいに早くも話題性の魔法が切れかかっている雰囲気。「機動戦士ガンダム戦記」は「機動戦士ガンダム」関係のソフトらしく20万本くらいは行ったんだっけ? ともかくそれなりな数字は作ったけれども発売されて1週間から2週間で取りあえずの山を越えて、そんなに売れることもなくアマゾンのランキングでも82位とかそんな当たりに下がってもやもや。

 ところが同じ日に初売の「ラブプラス」はランキングで堂々のベスト10入りをずっと続けている模様。9月30日現在でも未発売の「ファイナルファンタジー13」だとか「グランツーリス5」といった当たりに互して発売済みで最高の位置にいたりする様を見るにつけ、狙っていたロングテールが欠品状態のとてつもなく長く続いている状況であるにも関わらず、見捨てられないで実現しているところに何か末恐ろしさっていうかゲーム市場を揺るがしかねないムーブメントの胎動めいたものを感じてしまっている。だってあの「ポケットモンスター」よりも上に来てるんだよ。買えないからずっと予約が入っているとはいえ、普通だったら見捨てられて終わりなところがこの状態。凄いとしか言いようがない。いつまで続くかこの人気。ゲームさながらにエンドレス? それも決して悪くない。

 そんな「ラブプラス」。」余分の1本を拝受はしていたものの、布教と任じて差し上げてしまったために手元には稼働中の1本しかなくなっていた。難民スレッドが連日着実に積み上がっていくくらいに入手が難しいタイトルらしく、店頭なんかをのぞいて見かける機会がまずなくて、初日に割にいっぱい見かけたことが夢幻かと思えるほどになっていたけれども朝に立ち寄った店で何とまとめて販売中の「ラブプラス」を発見。誰かに布教するかそれとも別のDSに叩き込んで見ていないイベントを埋める作業に没頭するかは未定ながらも、ここでもう1本買っておくのも悪くはないと即購入する。

 周囲でも虎視眈々と発売を待っていたらしい若者たちが、手に同じパッケージを持ちレジへと向かう姿が見られ、やがて程なくして完売品切れとなってしまった模様。なるほどこれはやっぱりちょっとしたブームになっているって言えそう。発売になったばかりの攻略本もやっぱりどこも品切れ状態で、アマゾンなかでは書籍のランキングの3位とかに入っていたりしてちょっとしたどころかとてつもないベストセラー。未だメジャーなテレビとか新聞とかで取りあげられた訳でもないのに、これだけの動きがあるってことは本格的にブーム化すれば一気に爆発して数十万本って数字も達成してしまいそう。見た目以上に費用がかかっているらしいから、それくらいはやっぱり行って欲しいなあ。行けば続編も。でも凛子に愛花に寧々さんじゃない「ラブプラス」って成り立つの? 悩ましいなやましい。

 でもって歩いていて立ち寄ったコンビニの棚に高嶺愛花さまの顔がずらりずらり。いったいどうした何があったと近寄って見たら「TVブロス」が「いま“萌え”を考える。」って特集を組んでいてその中で「ラブプラス」を取りあげていた。トップ記事は裕木奈江さんなんだけれども表紙は堂々の愛花さまでそれも焼き芋を食べているオリジナル。世間じゃ寧々さんは俺の嫁だとか凛子かわいいよ凛子といった風評がまかり通っているけれども、「ラブプラス」の神髄はやはり同級生でお嬢様で頭がよくって運動もできてちょっぴり近寄りがたいけれども仲良くなりたい女の子ナンバーワンの愛花さま。ほぼ同世代の早見沙織さんが当てている声も同世代感が抜群なだけに、1度ハマるとその魅力から抜け出せない人もたくさんいたに違いない。だからこその表紙絵への登場。分かっているなあブロス。

 せっかくだからと「ラブプラス」の3人娘が描かれたDSデコレーションステッカーが付録についた「ゲーマガ」も購入。記事ではやっぱり「ときめきメモリアル4」が大きくなっては来ているけれども表紙に堂々のステッカー画像が掲載されていたりして、それで人気を獲得できるとゲーム雑誌も踏んでいるというか感づき始めたんだってことが伺える。すでに発売済みどころか発売からまもなく1ヶ月が経とうとするゲームの関連イラストが、最新情報どころか発売前のタイトルがメーンになるケースの多いゲーム雑誌の表紙に部分とは言え来るなんてこと。滅多にないよなあ。何か起こっているってことなのか、「ラブプラス」。何か起こったら愉快だなあ。

 そういえば「ラブプラス」が取りあげられていた「TVブロス」では岡部知子ことobetomoちゃんの「おべとも学園」をラーメンズの片桐仁さんがフィーチャーしていて驚いた、というか遅すぎるくらいだけれども世間的にはまだまだあんまり知られていないクリエーター。NHK教育の「シャキーン!」で放送される短いアニメがジワジワと評判にはなりつつあるけれども、世に広まるまでにはまだしばらくかかりそうで、そんな時に「TVブロス」ってそれなりに知られているメディアで片桐さんという目利きによって取りあげられた意味は結構大きそう。思えば「ライセンシングアジア」なんかで見かけたその色彩感覚とデザインセンスにいつか世に出ると信じてかれこれ3年? テキスタイル的な売られ方で出てくるかと思ったら意外というかアニメという“作品”でメジャーに近づくとは。FLASHを修行させた松岡社長の先見性もあったんだろうけど努力したobetomoちゃんも凄かった。さあ次のステップは……何だろう、紅白歌合戦?

 地元サポーターって意味ではジェフユナイテッド市原・千葉を応援はしているけれども故郷納税的な意味では名古屋グランパスにも頑張って頂きたいところ。そんな訳で様子を見ていたアジアチャンピオンズリーグの準々決勝の第2試合でもって名古屋グランパスが川崎フロンターレを3対1で破って第1試合の1対2から逆転を果たしてベスト4へと進出。そこで勝てば晴れて国立競技場での決勝戦へと駒を進めることができる訳で、過去に2度の天皇杯をともに国立で戦って勝利したカップ戦での縁起の良さをここで生かして、是非に優勝を果たして欲しいところだけれどでもなあ、優勝したってクラブワールドカップは今度は遠く中東での開催なんだよなあ。バルセロナと戦う名古屋グランパスとかあるいはベロンがピクシーに握手を求めに来る試合なんかを見たいんだけれどもそれが実現したところで、ちょっと中東はいけないなあ。それまでに身分がフリーになっていたら? 記念と称して行くってのも手かなあ。滝沢朗にコンテナで輸出してもらえれば行けるかなあ。


【9月29日】 サイコガンダムがフォウ・ムラサメを載せた黒い巨体を大暴れさせる香港が登場したのは「機動戦士Zガンダム」で、統治がすでに中華人民共和国に戻っていたのかどうかまであ覚えていないが、今とそれほど大きくは変わっていない風景の上で、フォウ・ムラサメとカミユ・ビダンの甘くて苦いエピソードがくり広げられた。翻って「機動戦士ガンダム」において香港は、あるいは中国はいったいどんな風に描かれていたのかというと、これがまったく記憶にない。

 ホワイトベースが立ち寄らなかったということもあるが、地球連邦においてその地位がどうなっていたのかという情報もなければ、中華系の人が物語に大きく絡んだという描写もない。ホワイトベースに中華系の人は搭乗していたのか? と振り返ってもまるで思い浮かばない。セイラはアルテイシアで欧州風。ブライトも同様でミライとハヤトは日系。アムロは……知らないし日系米系モンゴル系と諸説あるようだが、今となっては沖縄のミュージシャンの親戚と思われても不思議はない。リュウはどこだったか。ポリネシアか。ラテンアメリカ? なるほどパラグアイあたりにいそうなキャラ。カイ・シデンは中島飛行機製。違う、プエルトリコ移民でやっぱり中華ではない。

 宇中世紀が西暦の延長線上にあるのなら、というより「Z」での香港を見るなら現実の歴史を100年かそこら延ばした先にある世界ということになりそうで、だとするならば現在の中国の存在感を見るにつけ、そこから先に時間を延ばした「機動戦士ガンダム」の世界でも、同様に大きな存在感を持っていて不思議はなさそうな気がしないでもないが、作品が作られた1979年において中国が世界に占めていた地位というのは、大きいというよりもむしろ分からないといったところがあったから、あまり描けなくても仕方がなかったのかもしれない。

 大混乱の文化大革命が毛沢東と周恩来の死去で終わり、華国鋒が主席を次いだもののトウ小平が復権して来て追い越して、実験を握りさあいよいよ何か始めるぞといった時代。経済的にも未発達なら外向的にも立ち後れていて、この後いったいどうなるのかがあまり見えず予想もしづらかった。それから30年。中国の存在感たるやもはや世界の誰も無視できないものになっている。デカい人口は生産力としても市場としても世界が無視できないし、軍事的にもアジアに巨大な存在感を示している。いろいろあるから嫌いだと言って無視しようとしたところで、食べていくためには相手にしなくちゃいけない国になっている。

 なあに一党独裁の社会主義虚構、上が崩れて下は立ちゆかずソ連みたいに混乱を来して衰退するさと、歴史の過去に照らして楽観したくなる気持ちに耽溺したくなる人もいそうだけれど、徐静波さんって人が描いた「株式会社中華人民共和国」(PHP研究所)って本を読むとどうやらもはやソ連のような崩壊はあり得なさそうな雰囲気。胡錦濤や温家宝といった文革時に若い身の上で地方に出て何十年となく暮らした叩き上げげ苦労人たちが、トップに立ってリーダーシップで去年からの経済危機を乗り切ろうとしている上に、格差の大きさから不満を爆発させそうだった農村を盛り立て、上の不正もきっちりただして国に利益をもたらしている。

 それこそ昔の自民党が一党独裁とはいわないまでも政権与党として強いリーダーシップを発揮し、それを支える官僚たちも日本人ならではの謙虚さ潔癖さでもって国を動かし世界に雄飛させようとしていた状況が、より強固な体制の上でより懸命な思考の持ち主たちによって行われている訳だからたまらない。こなたリーダーシップといっても衆目を気にして真っ当さよりもその場しのぎを優先してしまうような風潮の中で、あっちに揺れてこっちにぶれる繰り返し。いずれ自家撞着に陥って崩壊の憂き目を辿るだろうし、代わって登板して来る人たちも同様にけつまずいてすっころぶだけだろう。讃えるとか媚びるとかいった視線だけではもはや判別できない存在感。その原動力がどこにあるのかを知っておく上で参考になる本。見方にしたいなら必読だし、敵にまわすにも勝ちたいならまずは知るべき。

 うーん「大奥」。いよいよもって第5巻まで来たけれども、最初に見たもしも男子が病気で大きく減って女性が実権を持つようになったらお江戸はどうなるのかという一種の思考実験めいたところがあった物語も、巻を減るに従って歴史の上に残るエピソードを男女を単に入れ替えたような形で描いて埋めていくような雰囲気になりかかっているところがあって、ここをこう埋めここをこう操作すればほらこのとおり、女性が社会の中心にいる世界が成り立ちますよってパズルのような楽しみがちょっと薄れてきている感じ。

 家綱の生類憐れみの令が娘かわいさの父親の思いから出たものだとか、赤穂藩だけが男系を今に残して藩主の浅野匠上も男性で赤穂浪士も男性ばかりだったからこそ殺伐とした事態に至ったとか、そういう諸所の楽しみはあっても大きく驚かされるようなひっくり返しが見えなくなって来ている。まあ他の国々と比べようにもびっちりと鎖国されていて世界との差異から驚きを浮かばせるような描写はできないからなあ。むしろだから武家に限らず朝廷とか、あるいは文化のレベルでこの状況がどんな影響を与えたのかってところも見てみたいけど歌舞伎は宝塚になるくらいだしなあ。絵草紙あたりがいきなり少女漫画風になって物語も書き換えられていたら楽しそう。オールBLな「南総里見八犬伝」、ってすでにあったかそれともありそう。吉宗登場からその先の幕末をどう描くかで評価もぐるぐる変わってきそう。完結を待とう。

 リャン・チーだけが無駄死にしんだ感じがあるなあ「CANAAN」。アルファルドは腕を自分でぶっち切って逃げて存命で再びカナンと対決してるし、大沢まりあは戻って写真展なんかを開いているけど世界を脅かしたテロリストが写った写真なんだからもっと世界が騒いでも良いのにどっかの文化センターレベル。スターになった風もない。マゾっ子兄さんは出家したみたいだけれども未練がありそうな感じ。未だ俗っぽい。貧乳少女はスイカを入れて頑張っていて命もどうにか助かりそう。そしてカナンは妙に明るくなっただけで今も狙撃手を続けてる。ハッピーエンドなんだけれども結局だから何だったんだというところで、アルファルドが狙いもカナンの将来も見えないまま一時の邂逅として過ぎてしまった。それもそれで楽しかったけれどももっと深いところ、遠いところまでたどり着きたかった身には未練も残るなあ。見所はだからリャン・チーの大股開いたアクションとそして激昂して崩れる表情。そこだけあれば十分なんだけど。そういうものだよ好きになるかどうかのポイントって。


【9月28日】 可能性としてあり得なかったけれどももしも「機動戦士ガンダム」に残りの余った1話があったらやっぱりみんなで温泉にいって汗を流しながら戦いの慰労を行うエピソードが描かれたのだろうか。しばらくぶりに帰還した「サイド7」に作られている温泉にセイラさんミライさんフラウ・ボウがよく頑張ったねえと背中を流しあっているところを、ブライトをリーダーにカイとハヤトが後に付き、そしてシャアまでもがいっしょになって覗こうとしているところをアムロが遠くから止めろ止めろと騒いで無視されるという構図。見て幸せな気分に浸ってから続く「Z」に登場するキャラクターたちもチラりと姿を見せる様子をながめて次への気構えを養うのだ。

 やっぱりあり得ない。でも「咲 −saki−」にはあった漫画では描かれなかった温泉てこ入れエピソード。ステルスモモは温泉でもステルスぶりを発揮。水に波すら立てないのか。天江衣は完全にガキんちょ。凄みも何もありゃしない。月が見えていないとはいえこれでは先が思いやられる。でもっていよいよ始まった全国大会には見たことのないキャラクターたちが大集合。巫女さん姿をした学校まであっていったい何を学んでいるんだと突っ込んだところでアニメにおそらく続編はなし。でもって漫画の方で描かれるという保証もなし。つまりは単なる場つなぎキャラ。それをデザインさせられ描かされ動かされたアニメーターの人たちの頑張りに心からの経緯を捧げます。無駄という行為はない。いやあるけど。

 サイネージというとサイロに干し草を溜めて「いいサイレージは……」と呟きながら踏み固め、発酵させて牛のエサへと変える工程のことを指しません。それはサイレージ。サイネージは何だサインみたいなもののことか、それをデジタルで見せるデジタルサイネージって奴が何やら注目され始めているってことで、そんなデジタルサイネージの機能を盛り込んだサンプル配布マシーンを凸版印刷が作ったってんで飯田橋から地の果てにある小石川のビルへと向かって部屋に入ったらカエルがいた。緑色。例の折り込みチラシの電子版「ShuFoo」のイメージキャラクターって奴で今回はその「ShuFoo」がパソコンだとかテレビの中から飛び出して、店頭なんかにも置かれて最新の商品情報を流すようになったってことで関連してカエルもやって来た。

 見るとカエルみたいに緑色したボディはまるで自動販売機って感じだけれど上にモニターがついてて、豚肉と大根の味噌煮の作り方だとかサンマの見分け方といった情報を流してた。スーパーの店頭なんかで見る人を想定しての映像ってことでここに特売品の広告なんかもながせばスーパーに来た人にダイレクトに情報を届けることができる。テレビでは無理だもんねえ今日の特売品の情報なんて。でもって半分にはタッチパネルがあって操作すると下からサンプル品とかが飛び出てきた。アンケートとサンプル配布を自動で行えるマシン、ってことか。そんなサンプルを上のカメラにかざすとモニターに商品の映像が出てその周辺にCGでもって関連の情報が現れる。おお拡張現実。電脳コイルなワールドは確実に世界に染みてきているなあ。

 実際に使い勝手があるかどうかは使ってみないと分からないけど、言えるのはこうやって店頭に直に入りこんでは情報をダイレクトに伝えるモニターとそしてマシンの方がより効率的に情報を伝達できるようになっているってこと。マス媒体で大きく広めることがかつてはマーケティングなりプロモーションの基本だったんだろうけれどもそうしたマス媒体を時間がないとか面倒くさいとかいって見なくなってしまっている人には、なかなか情報を届けられないしそうしたもので届けられる情報では、パーソナライズとまではいかないまでも属性に近い情報は得られない。

 そんな状況にある現在、置かれた場所に集まる人に属性とかに合わせて展開できるデジタルサイネージの効率性、って奴をもはや商店も、メーカーも無視でないしむしろしっかり活用したいと考えるようになっているんだろう。それとは相対的にマス媒体の影響力は低下し広告は入らず売上は下がりリストラへと至って商品性が損なわれ余計に媒体としての影響力を下げて広告を失うマイナススパイラル。どうやれば脱することができるのか。責任をもって決断すること、だよなあ、やっぱり。

 前に買ったのはアメリカの女子野球選手達の行脚を写したエリック・ペイソンの「BOBCAT」って写真集だったけれどもアメリカってそういった、日本的にはマイナーながらも全米的にはそれなりに知られた女子のスポーツが割とあったりするみたいで、そんなスポーツに携わる人たちを撮影した写真集がまたぞろ出ていたのを渋谷パルコのリブロの地下で見て、そこでは買わずにアマゾンに注文したのが割と速く届く。シェリー・カールトンって人の「HARD KNOCKS」って写真集が取りあげているのはローラーボール。日本だと35年くらい昔に流行ってテレビなんかでも東京ボンバーズの試合なんかが中継されていたけれど、アメリカじゃあまだまだ現役で試合なんかがくり広げられていて、オーバルなコースを女性がプロテクターに身を固め、ローラースケートを履いて走り回ってはぶつかり合っている様を、楽しんでいる観客がいるみたい。

 ぶつかりあう女性が好ましい、って個人的趣向もあるんだろうけれども決してメジャーではなく、かといって落ちぶれてもいないスポーツに関わる人たちの日本からでは伺い知れない生き様って奴を、見せてくれるところにこうした写真集をついつい買ってしまう理由があるみたい。あとはそうした写真集が成立し得る文化的風土への憧憬も。これが日本だと例えば女子サッカーなら特定の選手にスポットがあたって甘ったるい文章とともに紹介されるてしまうだろうし、バドミントンもビーチバレーもなんとか姫だの何だのばかりが取りあげられて、スポーツそのものにスポットが当たることがない。それはそれで悪くはないけどアイドル写真集の延長であって写真集ではないよなあ。

 その意味で「BOBCAT」も「HARD KNOCKS」も選手がいて携わるスポーツがあってそれらが当たり前のことのように全体像として写しとられていて、そこに携わっているということの大変さと楽しさがしっかりと画面から伝わってくる。誰が何をしているといった特定個人に還元され得ない面白さがしっかりと見て取れる。何と面白い国だろうし、何と素晴らしいアーティストだろう。経歴なか見ると年齢は50歳くらいで活動もあるみたいだけれども写真集はこれ1冊? 分からないけどそれでもしっかり仕事が出来て遠く日本でも関心を持ってもらえるところもまた、あの国の自由さって奴を現しているって言えそう。御大もいなきゃあ重鎮もいない、全員が横一線に現役でそして政治力でも財力でもなく実力で勝負する。だからこうやって興味深い作品が生まれてくるのだろう。やっぱり強いよあの国は。


【9月27日】 「エースコンバット」はiPhoneへと向かうみたいだけれども「東京ゲームショウ2009」の会場で配られていた団扇によれば「テイルズ オブ」の掉尾を飾った「テイルズ オブ ファンタジア」はいよいよ携帯電話版が今冬から配信開始とか。その裏側にあったのは「機動戦士ガンダム」シリーズの「逆襲のシャア」の案内で、時期が書いていないところを見るとすでに配信が始まっているってことらしい。知らないけど。

 だって携帯電話持ってないんだもん。PHSなんだもん。「たまぴっち」の時代からずっと。懐かしいなあ。まだ遊んでいる人いるのかなあ。とはいえ携帯電話にこれだけいろいろなゲームが出てくると、どれかやってみたいって気もしてこないこともないけれど、iPhoneのあの活躍ぶりを見てしまうと携帯のちんまい画面ではちょっと遊ぼうって気も起こりにく。そんな人も増えているから携帯ゲームが縮小気味で、「ゲームショウ」にもNTTドコモしか出てきていないのかどうなのか。ソフトバンクモバイルくらい出ても良いのになあ。そんな暇も余裕もないのか携帯業界。うーん。

 午前8時に起きて向かった「幕張メッセ」はバスを海浜幕張で降りて駅をくぐりショッピングセンター「プレナ幕張」の角にさしかかるとセーラー服の高嶺愛花軍団がラブレターを配ってた。もらって「リンコだ!」とかどうとか叫ぶあれは高校生なのか中学生なのか。規定じゃ15歳以上だから遊んでいる中学生はいないと思うけれども中学3年生にもなれば15歳になっている子もいるから別にあんまり構わないのか。純愛に憧れるのは純愛を遠い日野思い出にしてしまった大人だけじゃないんだぜ。

 そんな子供の周辺にまで浸透し始めているのに「ラブプラス」、肝心のブツが店頭にはあまり揃っていないというこの不幸。コナミは早々に作り増して店頭に並べるべきではないかと思うなけれど、盛り上がった勢いで衰退してしまっては意味がない。メディアにジクジクと情報が出始める10月のころ合いを見計らって数を増やして行き渡るようにしていく方が、年末にかけてもう一山を作れるような気もしないでもないし、そもそもが流行からは外れたゲーム。1年どころか2年経っても古びない面白さを分かってもらう意味でも向こう1年をじっくりと、売っていくのが良いのかも。それだけ頑張ってもきっと恋のエキスパートにはなれないんだリアルじゃ自分.

 最終日の午前中ってことでまあそれなりの人ごみではあった「東京ゲームショウ2009」だけれどみっちりとブースが詰まった中を埋め尽くす行列に息切れしながらかきわけるように進んだ過去とか思うと、ブース間もゆったりとして歩きやすくて見やすくて、それはそれで有り難いんだけれども来場者数としては果たしてどうだったのかが気になるところなのは昨日と一緒。いつかの大混雑を演出したレベルファイブは外へと行列を誘導しつつシアターでがばっと見せた後に試遊コーナーへとがばっと誘導していくトコロテン方式で周囲に混雑を波及させず、マイクロソフトの「Xbox360」も一部過激ゲームに列はあっても全体には割にフリープレイ。それはソニー・コンピュータエンタテインメントも似た事情。遊びを試すって人よりは、流れる映像を見ている人のカタマリの方がむしろ気になった。

 この忙しい時代、遊びは手元の「ドラクエ」で精一杯だし、あとは携帯電話で十分。映像が面白ければ遊んでみても良いのかな、って人が増えているのかも。ってことは何だ、体験中心のイベントはもう不必要ってことなのか。遊んで面白さも伝わるゲームもあるけれど、それは口コミとプレー動画の提供でも補完可能。グッズがもらえたり映像が見られ有り買えたり会えないタレントに会えたりする場としてのみ、リアルがあれば良いってことだとますます「東京ゲームショウ」の立ち位置が見えなくなって来る。商談も別にわざわざ幕張でやることもないし。とはいえこういうイベントがあるから情報も集中的に現れ、それに合わせて報じるメディアも引っかけることができる。外国からのプレスの多さもきっと何かを求めているんだろう。そんな辺りが何なのか、ってところを考えつつこれからの動きって奴を眺めていこう。来年もメディアとして来られるか分からないけど。ネット界隈には不穏な情報があれこれ出ては次第に濃さを増してるし。うーむ。

 1時間半ほどいて会場を後にして海浜幕張駅へと向かったらまだ「ラブプラス」軍団はラブレター配布大作戦を展開中。その背後に我らが内Pこと内田明里プロデューサがいたので挨拶しつつ品切れ状態が続いていることを残念がりつつ何とか頑張って作っているらしいと伺いつつ幕張を後にする。20万本30万本と売れていって欲しいよなあ。そこから秋葉原へと回ると前日とはうって変わって「マクロス×らき☆すた」コラボレーションの「一番くじ」の前に人がいなかったんでコトブキヤで2枚挑戦。いきなりシェリルさんの中身がみゆきさんというベストな組合せを得て小躍りする。もう1つは参加賞めいた痛バルキリーでこちらはこなたを確保。当たるとどんどん欲しくなるのが性分だからきっと頑張って大きめフィギュアの4つ確保に走るんだろう。でもって突っ込むウン万円。生きるって大変。


【9月26日】 泥のように眠ってから起き出して秋葉原へと出向く。「ゲーマーズ」がまたぞろ店のレイアウト変更なんかをしている様子。中途半端な拡張はやっぱりちょっぴり至っていなかったのかもと考えつつ、店頭に並んでいた美樹本晴彦さんによる「機動戦士ガンダム」のイラスト集なんかを見て、いったい美樹本さんと「ガンダム」との間にどんな結びつきがあったんだろうかと思案しつつ、安彦さん的タッチの幾分かは美樹本さんにも受け継がれているのかもと理解しつつ買わずに軒先を見たらバンプレストの「1番くじ」を買う長い行列ができていた。「マクロスFrontire」と「らき☆すた」のコラボ。でもなあ、なんだかなあ、かわいいんだけれども僕は普通に普通なシェリルさんとランカが欲しいんだ。

 ついでだからと買い忘れかけていた「サイボーグ009」の1979年版のDVDセット後半とか、「涼宮ハルヒの憂鬱」の「エンドレスエイト」の最初の2本が入ったDVDとかを買ってから秋葉原を離れて神保町へと向かい谷村美月さん、じゃなくって辻村深月さんの「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ」(講談社)のサイン会を見物、というか行列に並んで2番目にサインをもらう。まるでただのファンだよなあ。業界人じゃないし。名前で認識されるほどの人間でもないし。隠れて近づきその場で気づかれずその後も永遠に気づかれない。それが出没家の極意なのだ。意味がない。

 行列が伸びる階段を見上げると、サインをもらいに来た人は高校生から大学生ってあたりが割に多かったような印象。書いていたものから想像するに、やっぱりそのあたりが読者のメインストリームってことになるのか。でもって最新刊の「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ」を読んで、30歳前後の結婚に悩み仕事に惑い、友人関係に荒み親子関係に苦しむ主人公たちの姿に、自分の未来を思って重たい気持ちになるんだ。なかなかに罪な物語。そこにそうした爆弾を叩き込んだ辻村さんの意図はいったい? 誰か聞いとくれ。

 見知った顔もおらず、単なる出没家としての任務を終えて神保町を後にして向かうは「幕張メッセ」。一般公開日の「東京ゲームショウ2009」がどんな感じかを確かめたかったけれども、閉場まで1時間では超満員って感じではなく、それでもそれなりに残った任たちに人は集まっていたんじゃないかと類推。出展も少なくゆったりとられたブースの間は広くって、余裕で歩けるのも混雑ぶりの緩和に役立っていたのかも。最終的な入場者の人数が出るまでは成否の判断は保留。

 行きかけの駅前で高嶺愛花の集団がラブレターを配っていた。そんな「ラブプラス」は「週刊プレイボーイ」にて記事が掲載。言葉は「ギャルゲ廃人」と揶揄っぽいものが使われているけど、記事中身を読むとこりゃあやらなきゃって気にさせられる人も出そうな煽り方。こうして一般メディアから情報があふれ出ていけば、中ヒットくらいの20万本超えも達成可能かも。内Pらしき人を会場のコナミブースで見たけど本人かな、明日もいるかな。明日も朝一にのぞいて来ようかな。

 あちらこちらで吸血鬼物が現れていて何かブームなのかどうなのか。知らないけれどもあるいは吸血鬼物だと言えそうな感じがあった十文字青さん「ヴァンパイアノイズム」(一迅社文庫)は、読んだらあんまり吸血鬼物ではなくってむしろ真っ当な青春の物語って奴で、読めば読むほどに頬が桃色に染まり唇はまっ赤に染まってクラクラして来た。部屋には幼なじみで性格どころかボディすらもあけっぴろげな四條詩歌がいて、主人公の少年とベタベタとしているかというとそうでもなくって付かず離れない関係。でもって教室には小野塚那智ってとてつもない美人がいて、黙々と本を読んでいるふりをしている。主人公の少年とは没交渉。

 でもって主人公の少年はといえば、同じ教室にいながらもあんまり目立たない眼鏡の少女の荻生季穂が何か自殺しそうな風体で歩いているのを見て、こりゃあ止めなきゃと後をつけていたら見つかって、彼女が自殺なんかではなくって吸血鬼になりたがっているんだと知る。彼女が言うには吸血鬼になるには吸血鬼に血を吸われるのが王道なんだけれども、どこを探してもさまよっても吸血鬼はおらず。でもって考えるところに吸血鬼とは死んで蘇った人が吸血鬼になるんだとかで、それなら死んでみるかと季穂は死ぬ算段をしていたけれども、死ねず主人公に見つかって、彼と吸血鬼になるための冒険を始めることになった。

 恋してるって関係ではなかったんだけれど、そんな2人の間に通っているっぽい空気に幼なじみの詩歌が反応した上に、主人公には何の興味もなさそうだった那智までが、実は彼のことが一時期好きだったんだということを言って読者を羨ましがらせる。勿体ないもったいない。普通はそこですがりついても那智を手元に留めようとするものだけれど、主人公もまた変わり者。吸血鬼になりたい季穂と吸血鬼になる算段を重ねるうちに、ひとつのことに気づいてしまう。季穂は死ぬのが怖いんだということに。でもって自分も死ぬのはとっても辛いんだということに。

 長谷敏司さんの「あたなのための物語」(ハヤカワJノベルズ)が、人工知性の人間性についての物語であるかのように見せかけていて、実は死についてとてつもなく深く考えさせようとした物語だったのと同様に、ラブストーリーの形の中に「ヴァンパイアノイズム」は人間が、とりわけまだ若い少年や少女が死というものについて何を考えているのか、それをどう受け止めようとしているのかと問いかけ読む者にいろいろと考えさせる。

 死んだらあの世になんて行かない。死んでしまったらそれっきり。当たり前といえば当たり前の真理だけれど、それに気づかないか、気づきたくないティーンといったお年頃の人たちに、ストレートに突きつけて果たして大丈夫かって心配も浮かぶ。もっとも、そんな言葉の向こう側に、死んでしまったら誰かが悲しむということ、死んでしまっても誰かが覚えているのだということを教え、死の恐怖より生の喜びを強く感じさせようとしている。死の物語であって、けれども裏返せば生の物語でもある「ヴァンパイアノイズム」。読んでティーンはもはや死のうだなんて思わなくなって欲しいけれども、それには季穂なり那智なり詩歌といった彼女が必要だってことになると、またまた山も高そうだ。

 「屋上ボーイズ」(集英社コバルト文庫)もガールズ小説の範疇にあってなかなかに青春文学していたけれど、それがデビュー作となった阿部暁子さんの「室町少年草紙 −獅子と暗躍の皇子」(集英社コバルト文庫)は、時代の選定がなかなかに変化球。何しろ主要な登場人物が足利義満。「一休さん」では豊満金満な風体でもって「こりゃ、新右衛門」と言ってるおっさんだけれど、この話ではまだ17歳とかそんなもんで、将軍となりながらもその任は管領にまかせ、自分は影武者も引き連れ自在に振る舞っている。その日も能楽の舞台を見物に行っては観阿弥とその息子の鬼夜叉なる少女と見まがうばかりの少年が見せた芸を気に入り声をかけ、連れ帰ろうとして管領にたしなめられていったんは手をひっこめる。

 もっともそれでおさまるような義満ではなく、替え玉を残して替え玉になり代わって屋敷を抜け出し、街を散歩している途中に鬼夜叉と再会して案内をさせつつぶらぶらとしていたら何者かに襲われた。それも影武者に化けているはずの義満を義満と知って攫おうと襲いかかってきた。どうにか場を凌いだものの義満の周辺には危険が迫り、それが南朝の手のものだと分かって事態は一気に歴史の大きな局面、すなわち南北朝の存在とその係争といった事態へとつながっていく。歴史小説として選ぶ場面も流行から外れて変化球だし、足利義満に楠木正儀に観阿弥に後の世阿弥といった、ティーンズノベルの人たちが過去にあまり主役に選んでこなかった人物を描こうとしている部分も変化球。選択がなかなかに面白い。どうして選んだんだろう? 大河ドラマの「太平記」が好きだった? それとも「一休さん」のあの義満に興味を抱いた?

 でもってそんなセレクトが成功しているところも面白い。南北朝というものの存在。義満という人間の凄み。読めば何となく分かってくる。ここから南北朝から室町初期の歴史に興味を持つようになっていけば、戦国幕末とあとは源平に押されてあんまり触られないけれど実は面白い室町への関心も、ぐわっとわき上がって来るんじゃなかろうか。婆娑羅な佐々木道誉が物語では爺さんになって既に死んでしまっているのがやや残念。こいつの凄さを前田慶次ばりに描く漫画か若者向けの小説が出てこないかなあ。大河ドラマの「太平記」での陣内孝則の演技が強烈過ぎて、今なお印象に強く残ってしまっているんだよなあ。ひっくり返してくれるくらいの役者なりイラストなりが欲しいところ。誰か是非に。


【9月25日】 ふと思ったが幕張メッセは天井までの高さがたぶん、18メートル以上はあるからそこに「機動戦士ガンダム」の等身大立像も置けるのではないか。天井という比べるものがあるが故に、迫るスケール感も外よりは絶大。見下ろされる感覚も相当なものになりそうで、いつぞやの「キャラホビ」に出てきた五所川原のガンダム立ちねぷたよりもよりリアルに、その威容を観賞できるような気もするけれども、コンクリートの基礎とかしっかりしたものがあってこそ据えられる立像。移動博覧会のような展示はやはり無理なのだろう。ということで今日も「東京ゲームショウ2009」には「機動戦士ガンダム」の等身大立像が首だけながらも鎮座しておりました。一般公開日には拝む人とか出てくるかな。

 さすがにビジネスデーの2日目ともなると来場するメディアもそれほどなく、泊まりがけで来ている外国プレスの活躍は目立つものの、国内の新聞系はほとんど見えないような感じ。初日にばばっと主要なところだけ舐めておけば書けるもんなあ、とりあえずは。おかげでそんなに混み合わない中をあれやこれや見物。初日にはあんまり触れられなかったiPhone関係をあちらこちらで発掘して歩き、それからiPhone関係のシンポジウムを聞いてやっぱりこれからのゲームプラットフォームはiPhoneが、結構な割合で重要な位置を占めていくんじゃないかと今さらながらに実感する。PSPgo? どっかへgoだな。だってほとんどブースで触れていないんだもん。意味ないじゃん、ゲームショウの。

 んでiPhoneでは主要ソフトメーカーが「エースコンバット」だの「バイオハザード」だの「信長の野望」といった主要タイトルを投入。さくっと遊べて楽しめてそして追加で何か遊んでみたくなるような内容の充実度とそれからスピード感、さらに価格設定でもって展開しているからあればやりたくなるし、やればさらにやりたくなってしまう上向きのスパイラルが、何とかできあがりそうな感じがしてる。携帯電話なんでそっちからダウンロードも出来るのがやっぱり強み? でもネット環境さえ整っていればipod touchだって十分にプラットフォームとしては魅力的。問題はカメラがないからカメラを使ったコンテンツが楽しめないことか。GPSはどうなんだろう。

 カメラとGPS。そんな2つを組み合わせるとバーチャルにリアルが重なる拡張現実のタイトルが作れるっていうのが流れとして必然。とはいえしかし出来てくるものがことごとく「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」的というか「電脳コイル」的になるというか。「攻殻機動隊」のスピード感もあんまりないし、「電脳コイル」の現実を非現実が侵食していくようなワクワク感にもまだちょっと及んでいないというのは、やはりフィクションが想像力の限界を飛び越えていける強みを持っているからなのか。頓知って名前で良いのかな、そこの井口尊仁さん、って昔サイトロンアンドアートって会社名と並んで名前を見たような記憶もある懐かしい人が壇上に立って見せていた「世間コンピュータ」、じゃなかった「セカイカメラ」も、リアルの映像にタグがついていくって内容。見たかった世界を見せてくれたって驚きはあっても、見ていた世界の驚きにまだ届いていない歯がゆさが使うのをちょい躊躇わせる、っていうかiPhoneを契約する気が現時点ではなかなかおきないってことの方が大きいけれど。

 まあでも使っていればきっといろいろ試してみたくなるんだろうなあ。「世間コンピュータ」みたく個人に不用意な情報が重なってつけられ、名誉を毀損するような方向へと発展していかないかがちょっと懸念、というか「セカイカメラ」ってそういう風になっているのかいないのか。やっぱこうなれば試してみるしかないのか。もっと強力なタイトルがあればあっさり買ってしまうかも、「ラブプラス」とか。「コロコロカービィ」とか。あれは名作だった「コロコロカービィ」。フライパンみたいにゲーム機を跳ね上げるような動きが、ゲーム内のボールに伝わるのが不思議ではないけれどもなかなかに絶妙だった。良いセンサーを搭載していたんだろうか。水平に持って加速度センサーを使い楽しむってところはまさにiPhone向き。けど調べるとゲームボーイカラー用しか出ていないみたい。ちょっと不思議。Wiiですら出ていない。あのボディだから出来たのかなあ。やっぱり任天堂だからiPhoneには出しづらいんだろうなあ。「スーパーモンキーボール」ってのもあるけど面白さの種類がやっぱり違うんだよなあ。

 とか考えつつ会場をめぐってから、新進のクリエーターが未発表の作品を持ち寄りワンダーぶりを競う「センスオブワンダーナイト」を見物。こっちには任天堂もサポートを行っているのか。ゲームショウには出ていないのに。プラットフォームホルダーでありソフト開発企業でもあるんで、やっぱり新しいアイディアには興味があるってことなのか。でもって発表は拡張現実なんざあデバイス的にまだ無理って人が、キーボードを使ってボールを転がしていくゲームを見せたり、何やら部屋をめぐり迷路をくぐった先で、人生についていろいろと考えさせられる警句を頂く見た目もスタイリッシュならメッセージ性も強いゲームを見せられ、人から生まれるアイディアの広さって奴を堪能する。

 オブジェクトがライティングされて生まれる影の上だけを伝って動けるキャラクターを操作するゲームは、見た目も操作性もとってもスタイリッシュ。カメラの移動や光源の移動なり増加によってゲームの深みや幅を広げられそうなところに興味が向かう。でもやると難しいんだろうなあ。そんな人におすすめなのがマリオみたいな横スクロールのアクションゲーム。いきなり死んでも大丈夫。コンティニューすると彼女が嘆き、ゲームオーバーとなってコンティニューすると救急車に運ばれ、ゲームオーバーとなってコンティニューすると墓に入って死亡確定で、ゲームオーバーとなってコンティニューできないんだけど再起動するとと蘇ってゾンビになって、ゲームオーバーとなってコンティニューできないんで再起動すると倒れ伏していたりという、1度失敗すると2度と遊べないアバンギャルドさと展開のバカバカしさが会場でも大受けしてた。でも売れないよなあ。フリーで遊べるみたいなんで探してみよう。

 街を守る闘士でもトップクラスにいながら、訳あって追放されるってところは雨木シュウスケさん「鋼殻のレギオス」のレイフォン・アルセイフと事情は同じか。ただし細音啓さんの新シリーズ「氷結鏡界のエデン」(富士見ファンタジア文庫)は、追放される前段があって千年獅という巫女を守る役目にあった少年シェルティスは、戦いの途中で浮遊大陸から落ちて穢れているとされる「穢歌の地(エデン)」なる世界で、浮遊大陸を守る波動めいたものと対立する波動に染まったまま元の世界に帰還したものの、すっかり変わってしまった体質が巫女との接触を不可能にしてしまっていた。ふれ合えば起こる衝撃。もはや側にはおいておけないと、世界の中核にあって大陸を守っている天結宮を追い出されたシェルティスは、街にあるカフェで働きながら普通の日常を送っていたんだけれどもそこに危機が迫る。

 エデンなる場所に生息して浮遊大陸を波動で侵食する幽幻種が、頻繁にあらわれるようになって大陸を脅かす。さらには結界が薄くなる瞬間を狙って大量の幽幻種が侵攻。天結宮へと迫る危機にシェルティスは、愛しいけれども別れざるを得なかった巫女を守ろうと塔に向かい再び戦いの剣をとる。お互いに心惹かれあいながらも、体質の違いから反発せざるを得ない運命の哀しさと、それを乗り越えようとする前向きさに心動かされつつ、世界がどうして浮遊大陸とその下のエデンに別れてしまっているのか、でもってエデンの幽幻種はどうして浮遊大陸を襲うのか、といった興味をかきたてられる。見た目の正義は浮遊大陸側にあるみたいだけれども、「穢歌の地」ことエデンが聖書でいうところの地上と同じ名前ってところにきっと大きな理由もありそう。

 上から見下せば穢れた世界でも、そこにはそれなりな事情があって、上を目指さざるを得ずまた天結宮だけが人の生きられる世界として存在し、他はすべてが凍りついているという状況の裏には天結宮が何者かによって選ばれたのか、それとも生きのびさせられているだけなのか、といった事情があるんだろう。単純なファンタジーと見るよりは、世界の構造にまで踏み込んで設定されたSF的な舞台設定を持っていそうな物語。まだ開幕したばかりだけれども「黄昏色の詠使い」シリーズであれだけの魔法の設定を作り上げた人なだけに、きっと何かしでかしてくれると期待大。問題は11ページのイラストに出てきたツェリがいったい何者なのか、といったあたりか。そしてそのツェリはチラリと見えているのかそれとも目の錯覚なのかという点も。


【9月24日】 あの夏のお台場を賑わせた「機動戦士ガンダム」の等身大立像が、今いったいどこでどうしているのかというと、東京湾の底に潜って神戸に立とうとしている「鉄人28号」の18メートル立像を、攻撃しに向かおうとしている最中だとか、富士急ハイランドにある涅槃像と、栃木の「おもちゃの町」には半身の立像を呼び寄せて、合体して3倍(1つは半身だから2・5倍)の大きさへと変身を遂げようとしている最中だ、といった憶測はまるで存在していない。当たり前だ。

 現実的にはどっかの倉庫で眠っているんだろうけれども、あんまり眠らせておいても巨体が占めるスペースだって安くはない。だいいちそれ1体で人を400万人とか引き付けられるのに、埋もれさせておくのは勿体ないってことなのか、24日から始まった「東京ゲームショウ2009」の会場にその巨大な顔面が出没しては、お台場を見逃した人に笑顔を振りまいて……はいなかった。笑うガンダムってどんな顔だ。

 それにしても全高18メートルもあった「ガンダム」だけあっって、その顔も相当な大きさで人間が肩車しても天辺には届きそうにもない感じ。首が回ったり目が光ったりはしていなかったから眺めていてもそんなに楽しくはないけれど、そのスケールを実感することはできそうなのでお台場を見逃して一生の悔いを感じている人は、頭部だけでも見られる「東京ゲームショウ2009」へとゴーだ。にらめっこで勝てばセイラさんのキッスがもらえるんならなお嬉しい。にらめっこで勝てる訳ないけど。

 そんな「東京ゲームショウ2009」は……そんなものだった。いやまあ何というか超目玉が飛び出ていないというか、「ファイナルファンタジー13」なんかはなるほど一般の人には関心の高いタイトルなんだろうけれども、すでに発表もされているから目新しさっていうと今ひとつ。ソニー・コンピュータエンタテインメントの「PSPgo」も出るには出るけど、たっぷりどっぷり触れるって展示の感じじゃなく、遊べるタイトルだってそんなになさそう。

 値段もおひとつ2万6000円とかだったっけ。そもそもですら高いのに値下げした任天堂の家庭用ゲーム機「Wii」よりも随分と高くなってしまうってのはいったいどういう了見だ。ネットワークからしかソフトがダウンロードできず、メディアでもってソフトが供給されない携帯型情報端末をいったい誰が買って何に使うのか。おまけに電話だってかけられないんだぜ。普通は「iPhone」に行くよなあ。だからいっそ「電話機能付きました」って言って「iPhone」と真っ向勝負なところを見せれば世間も湧いたのに。かつての久多良木さんならやったかな。でもそれでも今さら感。もうひとつ足りないなあ。でもって「PSP」の値下げ。今さらそれ買って何するの?

 そんな会場でずばっと見てたのしかったのはコーエーの「戦国無双3」のブースか。女性がやっぱり食いついていた。でもって価格の下がったWii対応。売れそうな感じ。そんな横ではカプコンも「戦国BASARA3」をアピール中。さらに両社も協力した戦国の甲冑が並んだブースがあって武田信玄伊達政宗に織田信長豊臣秀吉真田幸村ときて直江兼続といった名将名大名の甲冑が、本物って訳じゃないけどイメージを現すような佇まいで展示されてて色気を発散していた。戦国ギャルとか群がりそう。BASARAなコスプレをした伊達政宗(中身女性)が伊達の兜の前で佇んでいたりとかしていそう。一般公開日もやっぱり見に行くか。

 あとは気になったのは……キャバ嬢か。って言えば分かる「龍が如く4」の展示ブース。発売はまだ先だけれども、ゴージャスな雰囲気を醸し出すよう2人ばかり綺麗どころが椅子に座ったり立ったりしながら微笑んでくれた。いったい幾らの微笑みだ。通い払って得られる微笑みをその場限りとはいえ入場料だけで堪能できる「ゲームショウ」はやっぱり最高。でも個人的にはベヨネッタのリアルが歩いていてくれた方が嬉しかった。眼鏡のクールな美女。週末にはコスプレが現れるかなあ。向かいのコナミは「メタルギアソリッド」関連の出展物があってコンパニオンがミリタリー風。各人なかなかなので要チェック。あとはやっぱりカプコンか。胸元が渓谷で深く険しい。

 去年は芸者東京エンターテインメントが出て電脳フィギュアを見せてくれた大手メーカーじゃないところの展示では、カナダのブースに例のマイクロソフトのXbox360だとか、ソニーのプレイステーション3なんかで遊べるアイトイに技術を供与している会社が出ていて、カメラでもって空間を認識して判別する技術でもって、前に付きだした腕を回したり広げたりすることで、車を運転したり加速できるようにするゲームのデモンストレーションをやっていた。ソニーがそういえば懐中電灯みたいな奴をテレビに向けるとリモコン代わりになるような、新しい操作デバイスを発表していたけれどもそのゴツさに比べると、何にも持たないでレーシングゲームができそうなこいつはちょっと洗練されている。あとは操作性か。やっぱり凄いもんなあ、Wiiのリモコン。

 そのカナダのブースで側にいたおじさんが、これ良いでしょと見せてくれた「フリップビデオ」がやっぱり楽しそう。携帯電話を折り畳んだものより小さいボディに、カメラとモニターがついていてハイビジョンが撮れてしまう上に、USBでもってパソコンにデータを移し、そのままYoutubeなんかにもアップできてしまうという優れもの。簡単で便利で品質もなかなかという特徴から、アメリカじゃあ目茶売れて開発した会社にも注目が集まって、春にあのシスコシステムズが600億円とかで買収したっていうから凄いというか、アイディアとそれを形にする技術があればお金は今でもちゃんと得られるんだと教えられた。おじさんはその会社とも関わりがあるみたい。日本人なのにカナダであれこれやっている人、どういう経歴なんだろう? いつか調べてみよう。

 いつまで逃げ続けられるのだろう。家族との関係。親戚との関係。友達との関係。恋人との関係。時に頼もしくもあり暖かくもあるけれど、時に厳しくもあり冷たくもあって、それが心にダメージとなって積み重なり、温かさや頼もしさではカバーできないようになっていく。だから逃げる。家族からも親戚からも友達からも恋人からも、逃げてひとりで閉じこもっていれば、暖かさは得られないけれども冷たさも被らないで澄む。ポジティブを好まずネガティブを厭う現代の気質が、核家族を生みおひとりさまを生みだしてコミュニケーションの隔絶を生む。

 それで生きていられるのだから現代社会はありがたい。けれども永遠にひとりきりではいられない。家族や親戚が亡くなれば、某かの関係を持たなくてはならない。友達や恋人を忌避してばかりいては、やはり暮らしが成り立たない。やっかいだけれどもそこをどうにか乗り切る術は果たしてあるのか。それとも人間としてやっかいさも温かさも含めて呑み込み受け入れる覚悟を固めるべきなのか。「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ」(講談社)という小説で辻村深月が描いた、田舎の家族の濃密であり、また酷薄な関係を読みつつ友達の間に生まれ育ち続く、睦まじいようで打算的なところもあり、けれども打算を超えて結ばれることも少なくない関係を読むほどに、乗り越えなければならない関係づくりの高さを思い、それでも乗り越えてこそ人は人として生きていけるのかもしれないという思いにとらわれる。

 契約社員をしている女性が母親を刺し殺して逃げた。その事件を刺した女性の友人で、はフリーライターとして活動する親友の女性が追っていく。同級生たちをあたり、逃げた女性の評判を聞き近況をうかがい、恩師をたずねて事件の当日にどんな様子だったかを聞いていく。すでに分かっていたことも聞かされれば、まったく知らず驚くような意外な面も聞かされて浮かび上がってくる逃げた女性の人間像。そして家族、わけても母親との濃密すぎる関係。田舎だからという事情もあるものの、それでも他とは違った濃密な関係を目の当たりにして、そこから抜け出すためには何が必要だったのか、抜け出すことでもっと幸福に生きられたのか、抜け出さなかったからこそここまで静かに生きていられたのか、といった悩みに迷う。

 従順で清楚に見えた女性。けれども反面として現状にこだわり変化を厭う頑なさもあった。他人を羨み、かといって自分は責めず、周囲に責任を転嫁して安心する。自分ではそうではないと思いたいけれども、案外にそうかもしれない性格がそこに立ち現れて、鏡のように我が身を照らして身もだえさせる。もっとも、都会に出てフリーライターになった友人の女性が正統とも限らない。彼女もやはり母親との複雑な関係をかかえていて、地元に帰っても実家に立ち寄ることが出来ずにいる。愛情と憎悪。信頼と疑念。相反する思念が渦巻きぶつかりあう家族関係の有り様を見せられると、そこから逃げて当然と思いたくなる気持ちも分かる。

 分かるけれどもそうして逃げようとして逃げられなかった結果、起こった悲劇もある訳で、それを人間だからと諦めず、どうすれば良かったのかを考えることで、追いつめられている人は逃げ道を得られ、迷っている人は進むべき道を示されることができるのだ。あらゆる関係が単純化されがちな昨今にあって、人間は心も複雑ならそんな心がいくつも絡み合いぶつかりあった関係は、もっと複雑なのだと知らされる物語。鬱陶しいことこの上ないことかもしれないけれども、鬱陶しさを乗り越えて見える平穏さを思いつつ、逃げようとしている足を留めて問題へと向かう勇気の在処を見つけよう。でもやっぱり逃げちゃうなろうなあ。楽だもんなあ、ひとりって。


【9月23日】 「機動戦士ガンダム」の放送第1話がいわゆる「ガンダム、大地に立つ!」ではなくって「ククルス・ドアンの島」みたいな作品でいったい世界では何が起こっていて、そしてアムロたちはどんな状況下にあってそしてそれがどんなに理不尽なことかを示しつつ第1話の放送へと戻って順々に説明していくような技法をとっていたら、「機動戦士ガンダム」がのっけから大評判を読んでいたかというとそんなことはあり得ないというか、そもそもがそうした作戦を作戦と認知して話題にしてほくそ笑むようなコミュニケーションがネットもない当時にはあり得なかったというか、ともかく普通に始まって順繰りに見せられ驚かされ感動させられていったからこそ「機動戦士ガンダム」はガンダムとしてあれだけのつよい支持を得られ今なお続くコンテンツになったのだろう。

 だから「涼宮ハルヒの憂鬱」の放送第1話が「朝比奈ミクルの大冒険」になっていてこれはいったい何事だと世間を驚かせ引き付けてつつ、話題に上らせ衆目を集めさせてから普通のストーリーへと向かうと思わせ話数をシャッフルして見せた最初の放送は、これはこれで外部にコミュニケーションのネットワークを持ち得る現代ならではの人気獲得の方法だったと言えるだろう。けれども技は1度使えば古びるもので今さらいきなり「朝比奈みくる」で初めても、世間は驚かせられないと認識しているスタッフはこんどはその「朝比奈ミクル」と製作するプロセスをじっくりと見せるエピソードを積み重ねた上で、本編を見せてこの珍奇な映像がどうやって作られているのかを、裏側まで分かっている人にそうかこれがこうなったんだと面白が差せる作戦に出た。

 なるほど正解。これまでのエピソードがあったからこそあそこで池に落ちるみくるの大変さ、目からビームが出てしまった衝撃度とその後の長門有希の行動なんかを面白がれる。一瞬だけ喋った猫のどうして猫が喋るんだという不思議さも、過去に猫がしゃべり出すエピソードがあったればこその楽しみ方が可能。最初の放送時ではそうした部分は小説を読んで理解するなり映像から想像するなりするしかなく、それもそれで掘っていく楽しさではあったんだけれど今回はより親切にダレでも楽しめる作りになっている。それだけ「涼宮ハルヒの憂鬱」というプロパティが世間化したってことなんだろう。作り手もそうした状況を鑑みつつ、仕掛けも交えて作らないといけないから大変だよなあ。んで来週はいったい何が来る。やっぱり普通に「ライブアライブ」か。でもって「サムデイインザレイン」で打ち止め、と。「消失」は?

 カナダに行く。じゃなくってカナダ大使館に行く。ってことはそこはカナダか。治外法権。知らないけれど。でもってカナダの短編アニメの偉い人の話を聞く。アカデミー賞の短編部門で賞を取った「ライアン」のプロデューサーの人。だけかと思ったらいっしょにカナダの映画制作庁でマーケティングを担当していたカナダアニメの重鎮も登場して2人にお話を伺うことができた。何てラッキー。日曜日にトリウッドで話を聞いた人たちだから時間にして倍、話を聞けたことになる。素晴らしい。でもって聞きたかった短編アニメーションの妙味とはどこにあるかって部分で、メッセージなのか技法なのかキャラクター性なのかストーリーなのかってところなんだけれどもどれもが絡み合って生まれる表現そのものが短編アニメであってどれかではないと諭される。技法として優れていようとストーリーもメッセージもなければ今ひとつ。当然といえば当然だけれど時として技法の凄みにばかり注目があつまってしまいがち。そこをちゃんと理解させてくれた。

 もうひとつ。技法としてやっぱり手書きなり人形なりを何ヶ月もかけて積み重ねていくことこそがアニメーションの妙味かという部分。最近はCGとかで簡単に絵も描けるし動きもつけられる。けれどもだからこそ手書きこそが醍醐味だ、って意見は正しいのかってところでライアン・ラーキンの時代ならそうした手書きの積み重ねによる表現の凄さも伝わったけれども21世紀の今は今なりの技法があってそれでもって凄さを見せることは可能。でもってCGといえどもキャラクターの細やかな動きをつけるのはそれを動かすアニメーターの力量が大きく関わってくる訳で、ツールに人形を使って長期間かけて撮ろうと、CGのキャラクターを精一杯に動かそうとできあがってくるものが凄ければともに凄いのだってことを教えられる。ジョン・ラセターがすごいのはCGアニメが巧いからじゃない。アニメのキャラクターとかの動きが素晴らしいからなんだと昔、鈴木敏夫さんなんかと話したこともあったっけ。短編アニメーションだから、なんて偏見と固定観念を振り払って作品としての面白さを再び思い出せた。良い仕事だった。これで書かなきゃ楽なんだけど。

 書店の店頭で買った早さでは日本で10番以内には入っているかもしれない「狂乱西葛西日記20世紀remix」の出版記念トークショーを見物に六本木に行ってヌード写真集を見ようとしてたら円城塔さんとすれ違う。びっくりしたああ。でもって1995年頃というからもう15年近く昔の話を思い出しながらトークを聞く。あったなあ「デジタルボーイ」。あと「ケイプX」だったけ。デジタルカルチャー雑誌が花盛りだったけれども残った「WIRED」すら版元の都合で消えて「サイゾー」になってそろそろ10年。野村祐香さんが大復活の登場とかしている最新号なんかを見ながら過ぎた時間の長さを思い出す。この時間をもっと有効に使えていたら今頃大金持ちになっていたんじゃないのかな。まあそれは95年頃にインターネットで遊んでいた人の多くが思うこと。そこで行動できたかどうかで六本木ヒルズに住めたか今でも6畳一間の家賃6万円に住み続けるかの差が出たのだ。僕はもちろん後者だ。威張るな。


【9月22日】 もはや誰もそこにそれがあったのだということを覚えていないに等しい感じで話題にも上らなくなったお台場の「機動戦士ガンダム」の等身大立像が、夏の50日くらいで集めた人数は400万人とかそんなもの。平均で1日に8万人とか来ていた訳で週末とかに傾斜させれば多い日なんか10万20万って人があの場に押し寄せ「ガンダム」を愛でつつハム焼きなんかを貪り食った。当初の予定では100万人とか集まれば良いんじゃないのってことだったから予想を上回る集客ぶり。これもひとえにもはや「ガンダム」が国民的なシンボルとして存在し、認知されているからなのだろう。

 ならばいっそ「機動戦士ガンダムの殿堂」としてしまえば噂の「メディア芸術総合センター(仮称)」も集客の問題とか言われることなく収支もとれれば世界に向かってアピールできる施設として、多くが納得したに違いない。異論にはあの集客を見せれば誰だって納得。無料だから集まったんだって言うけれどもそれがたとえば入場料500円で真下までいけるようになっていたとしても、100万人は集まったことだろう。批判なんてあり得ない。あるいはあの立像を集客の目玉として置いておくことで、117億円だかの予算に見合った集客を得られる施設にきっとなっただろう。

 スペインが悲しみの縁に沈んでいる作者の死亡で世界に人気と改めて分かった「クレヨンしんちゃん」が特集された部分があってもなお結構、KASUKABEの名がスペインに広まったように「メディア芸術総合センター」の名も世界に通じて日本の外交政策に多大で絶大な貢献をするだろう。何しろ子供たちはあの「レアル・マドリーvsバルセロナ」という世界最高峰のサッカーの試合、通称「クラシコ」すら放ってテレビの「クレヨンしんちゃん」に夢中になっているらしいのだ。昭和40年代に「巨人vs阪神」を見ないでアニメに夢中になる子供が果たしてどれだけいたか。日本ですらあり得なかったことがスペインで起こっている。それだけのパワーを漫画は、アニメは、ゲームは持っている。

 にも関わらず民主党。「メディア芸術総合センター」の設立はしないといった。いやちがう、あくまでも建物を建てるような形でそれにだけお金を注ぎ込むような形で建てはしないといっただけで、日本が世界に認められる上で重要なコンテンツとしてのメディア芸術等への新興は、引き続き行うように検討を支持しているという。とはいえそこは芸術がつかないメディアの作為というか、多くが未だにその施設を侮蔑的なニュアンスを込めて「アニメの殿堂」と呼び、その中止を大きく見出しにとることで、アニメ=不要といった空気を世間に蔓延させようとしていたりする。まったくもって苛立たしい。

 本文を読めばそうではないことは分かるというけど、見出しだけを引っこ抜いては、ニュアンスをつかむリテラシーなんざあはなっから無視して「アニメはいかんね」とかつぶやき世論を惑わす黒々とした司会者みたいな人も世間にはいたりするだけに、この1件があとあとまで尾をひいて、あらゆるコンテンツ政策に後退が見られるようなら日本は後生に大きな禍根を残すだろう。まあそんな国になんて頼らないでスペインへと出かけスペインっ子にカタルーニャっ子をぶりぶり言わせた「SHIN−CHAN」の例だってある訳で、国が何かをしてくれることを臨むんじゃなく自分たちが世界に何ができるのかを、考えそしてそうした動きをファンとして支えれば、それはそれで良いんじゃないかと思うけれども支えたくてもお金が、なあ。冬の余禄は片手出るかな。シングルだぞ。×10とかじゃないぞ。

 そんなお台場ガンダムを見に行った報告が今月の「月刊ニュータイプ」でゆうきまさみさんが書いていたと思ったら、今度は「鋼殻のレギオン」(富士見ファンタジア文庫)の最新14巻「スカーレット・オラトリオ」でもって作者の雨木シュウスケさんが巻末あとがきにてリポート。そうだよなあ。もはや日本人は全高が18メートルのロボットをリアルに想像できるんだよなあ。次はだからニューヨークのエンパイアステートビルの上とか、万里の長城の上とかに建ててその大きさを世界に見せつけてやって欲しい。いやさすがにそれだとスケール感が違いすぎるか。エッフェル塔の下に佇むガンダムとか見てみたいなあ。世界巡回すればいいのに。でもって途中でアラブの石油王に変われて砂漠に建てられるんだ。ついでにすべてのシリーズが欲しいと乃村工藝社に注文がはいってやがて砂漠にガンダム等身大パークができて世界から年間1000万人が集まるようになる、と。おお。

 えっと「CANAAN」はカナンが走っていたけどあんまり胸揺れないなあ。ってのは鰯水がかけっこする大戸島さんごに向かっていった言葉か。まりあはつかまり爆弾で吹き飛ばされる寸前。チャイナ娘は列車の無事を確保するためまりあの車両を切り離す。絶体絶命。肝心のカナンはアルファルド相手に戦闘中。さあどうなる。そこでパワー炸裂、ウィルスの力で生まれていながら秘められていた超能力が発揮して、全身を鎧とかえて爆風から身を守り、背に羽根をはやさせて飛翔しカナンのところへかけつけアルファルドをなぎ倒すのだ。ってそうなのか。知らないけれど。あと1話くらいで終わりか。まあ楽しめた。楽しめたけど。リャン・チーがもうちょっといっぱい戦闘してくれていたらなあ。あれが最大の見所だった。

 劇場公開も迫る「東のエデン」のサウンドトラックが登場、こんなに陽気な世界だったんだと川井憲次さんの音楽なんかを聞きつつあらためて振り返る。「スカイクロラ」なんかは割に全般に暗くて思い雰囲気の曲ばっかりだったけれども「東のエデン」はハードな内容でありながらも展開は割にギャグ仕立て。コミカルななかにロマンチックな要素を散りばめ時々ダークでシリアスな面ものそかせるバランスからは、咲のテーマに滝沢のテーマといったものも含めて陽気で明るい曲が多くなってしまうのも当然か。でもって見れば思い出す咲の陽気さと滝沢の脳天気ぶり。それで世界が救えちゃうんだから金の力って偉大だ。100億円、落ちてないかなあ。


【9月21日】 アニソンの大会があったとして「機動戦士ガンダム」絡みで歌って受けそうなのってやっぱりいったいどのあたり? 「機動戦士ガンダムSEED」か続編「DESTINY」だったら最近の歌とかあって耳に馴染みもあるんだろうけど、どれもいわゆるアーティストの作品だったりしてアニメならではのメロディなり詩情なりが入っているって感じがしないんだよなあ。かといって初代「機動戦士ガンダム」の主題歌では。ってことでやっぱり間をとって森口博子さんあたりの「エターナル・ウィンド」あたりが懐かしさを誘いつつアニソンぽさも漂わせつついかにもではない線ってのを醸し出してくれる歌として尊ばれるのかなあ。「機動戦士ガンダム00」だとラルクとかあって受けそうなんだけれど、でもラルクなんだよなあ。

 閑話休題。のっけから馬車との競争って意表を突いた出だしで興味を引き付けてくれた「プリンセスラヴァー」だったけれども、終幕に近づいてハルトマンって新キャラが出たと思ったら死んでしまったと驚いたら復帰して暴れてそして収斂へ。暴れる理由のしょぼさに人間としての小ささを見つつそんな人間にしてやられかける有馬財閥もたいしたことがないのかそれとも、小さい人間がしでかすことの小ささなんかはまるで気にならないくらいに有馬財閥がデカいのか。分からないけれどもともかく一件落着の果てにどっちを選ぶか誰を選ぶかってところで、再び腐れ縁的ハーレムが始まりそうな予感でもって終幕。

 ビジュアル的な部分だと列車の窓辺に立ったシャル王女が風でまくれあがるのも気にせず下からのぞく何かを盛大に見せてくれていたけれども、遠目だったから有り難みはあんまりなく、またフェンシングのコスチュームを着ていたシルヴィが、なぜかお尻の布地を引っ張るシーンが挿入されていたけれど、それがとりたてて官能を揺さぶることもなく、平穏無事に物語を終えた模様。楽しいことは楽しかったし絵も最後まで損なわれないで奇麗なまんまでその意味では賞賛に値するけれども、そこでパッケージを買うかどうかってところになると今ひとつ、乗り切れないのはやっぱり物語にトゲがないからか、キャラクターにフックがないからか。

 エロスはその一瞬に歓びを与えてくれるけれどもその先に進むには、はやっぱり物語という土台が必要なんだよなあ、「化物語」あたりみたいに。あとは金があるかどうかというタイミング次第、か。エロスでもあの温泉の回はちょっと湯煙無しを見てみたい来も。「裸族」なシルヴィとか。知らないうちに「シャングリ・ラ」も終わっていて、録画はぜんぶしたけどはっきりとは見ていない状況。「東京マグニチュード8.0」は等身大の子供の葛藤が痛くて見ていられないなあと横目で眺めていたらハッピーエンドでは全然ない衝撃の結末が待っていたみたいで、やるなあ監督と勝算しつつもやっぱり痛くて見返せそうもないなあと、まだ1度も「火垂るの墓」を通して視たことのない経験なんかを引き写しながら迷いの海へ。結局7月スタートで買いそうなのは「化物語」くらいか。節約にはなるけど業界には大変な状況かもしれないなあ。何だって滝川クリステルが「NEWS JAPAN」を降板だって! やっぱり「東京マグニチュード8.0」は買いだ。

 戻ってアニソン話。芝でもって「第3回アニソングランプリ」の決勝大会ってのが開かれるってんで見物に行く。去年はカトリーヌ・セントオンジュさんって人がカナダ人なのにものすごい歌唱力と表現力でブッチギリの優勝を果たし、舶来のアニソン歌手ってことで有名になって年末には紅白歌合戦も狙っているのか狙えそうなのか、ってあたりにいるみたいだけれどもそんな大物が生まれただけあって今年は6000組を超える応募があって主催者もなかなかに大変だった模様。僅差の勝負が各地で相次いだ結果、地区大会を勝ち抜いた6組にウェブでの人気投票で選ばれた6組が晴れて全国大会へと駒を進めてその歌唱力表現力説得力を競いあった。説得力? アニソンがどれだけ好きかっていった匂いみたいなものかなあ。

 まずは12人がそれぞれに歌う方式でもって上から7人が第2ステージに駒を進めてそこにウェブとか会場からの投票で1人が参加した8人が、2人づつになって対決するって展開は、まずは誰が最後の1人に選ばれるかってあたりで受ける受けないが相当に効いていたみたい。その部分でいかにアニソンが好きかってところをふん装とか言動でもってアピールできた青年が、最後の1人となって上に上がったんだけれどもそこで対決した相手に粉砕されておさらば。けどしつこそうなんで来年もきっと現れてくれることだろう。今度は歌唱力に従前からのコスプレ力(こすぷれ・ちから)も乗せて活躍してくださいな。

 でもって対決では桑名から来たというキャビンアテンダントにして空手黒帯で伊勢湾を相手に歌って来たって女性と、愛媛で母親が開いていたカラオケ教室の後を継いで若い身空で先生をしている女性の対決がなかなかにシビア。どっちも巧いし迫力もあったんだけれどポッキー審査員長が入れた桑名の美人が勝ち抜けた。こういう組合せの悲劇もあるから今回の方式は楽しいし難しい。でもって最初のステージでも上声になった部分の難しい戦慄を見事に表現していた秋田在住ながら札幌で受けて東京に進んできた女性も、第2ステージの決戦を勝ち抜いて見事に最終ステージへ。そこで歌った「創聖のアクエリオン」はとてつもなく見事で、周囲を引き付けた勢いをかってそのまま優勝に輝いた。まあ順当。

 巧いというのはひとつの特色ではあるけれど、この人は何より声が良い。粒が立っているとうか鈴が鳴るような声で歌いあげる歌はアップテンポの曲もバラードもなかなかに聴かせる。あと声にかかる震えみたいな部分も、耳に強く印象を残す特徴になっている。カトリーヌ変じてHIMEKAさんの場合もそんな声に震えや歪みが生まれる部分があって耳を引き付けるんだけれど、それと同じような効果をこの人にも期待が出来そう。安定感という部分だとまだもう少しってところがあるんだけれど、そこはデビューまでの期間に訓練をして整えれば良いだけの話。1年後くらいには、あるいはHIMEKAさんだったらわずかに半年後にはすでにデビューしていたくらいだから、来年の春くらいにはその澄んで震えて耳を突き刺す歌声が、聞けると信じて精進を待とう。

 コトリンゴが素晴らしい。というか「マイマイ新子と千年の魔法。」の主題歌に使われていた「こどものせかい」って楽曲を聴いて初めて存在を歌声だけでなくって個人として認識して、これはいったい誰だとアルバムを探して当該の曲が収録されたアルバムの「trick & tweet」を購入。つぶやくように発せられる澄み切って伸びる声が麦畑のひろがり風がわたる防府の自然を駆け回る子供たちの姿を思い起こさせて、心が洗われるような気持ちが浮かんできた。淡々とした曲調は矢野顕子さん的であり歌い方は大貫妙子さん的。それでいて声はどこまでもどこまでも透明な楽曲は聴けば1発で大勢の人を虜にしてしまうだろう。そんな歌が聴ける映画「マイマイ新子と千年の魔法。」は絶対にみんな見ること。アルバムも買うこと。完成していたアルバムにボーナストラックとして無理目に突っ込んでもらったそうなんで。


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