縮刷版2009年9月上旬号


【9月10日】 あるは恋愛の対象をセイラさんミライさんフラウ・ボウではなくってガンダムにザクにドムといったモビルスーツに設定をして、まずは出会いから初めて整備なんかをしてあげたら喜んでくれて、武器とか買い与えて仲良くなって一緒に出動して敵を倒すデートも重ねた挙げ句に正式なパイロットとして認められ、そこからエンドレスの戦いが始まるという「機動戦士ガンダム」初のコミュニケーションゲーム「ガンダムプラス」をバンダイナムコゲームスが作って発売したら、果たしてガンダムのメカ者たちは買って遊ぶだろうかどうなんだろうか。

 遊んでみたい気はしないでもないけれど、つきあい始めると好みに応じて要望なんかが変わっていくのも「ラブプラス」のひとつの持ち味。それをも踏襲してミニスカートが好みと言ったらザクのスカート部分が短くなって下から何かがのぞいたり、好きな色は黄色だといったら赤い奴までもが全身を黄色に染めて現れたりするようになっていたとしたら、なかなかにやり込み甲斐がありそう。問題はだからコミュニケーションが行き過ぎた果てに来るキスシーンか。ぐっと迫ってくるドムの十字モノアイのどこにキスをすれば良いんだ? せめてだからそこにだけはアフロダイAなりを混ぜておいて欲しいもの。そうか「スーパーロボット大戦プラス」にすれば選び放題にできるんだ。

 ってことで「ラブプラス」はハートマークの数が1番少ないにも関わらず、愛花とのキスシーンの実行に成功。どういうパラメータになっているのか分からないけどきっとそこはそれ、こっちの態度と向こうの性格なんかにいろいろと理由なんかがあるんだろうかどうなんだろうか。こすっていると浮かんでくるハートマークが左の窓へと移動しハートの中に溜まっていくんだけれど、あれが満杯になったら何か良いことがあるのかな。1回目もあと少しで足りず2回目は半分にも届かせられず。次こそは満杯にして何が起こるか観察だ。まったく操作しないと左面のグラフが消えてチビキャラの愛花さん寧々さん凛子が出てきて踊ったりするのを見るのが最近好き。回っていると機嫌がいいのか凛子。目はジトっとしているのに。ふーむ。

 プレイしたゲームの感想を「恋愛だね」と記者団に話した民主党の鳩山代表。「コミュニケーションや恋愛がテーマのゲーム『ラブプラス』の感想を」と問われてまずは一言「恋愛だね」。政策運営に当たって「何かヒントになることは?」と聞かれて「デジタルの時代になってもね、一番大事なことは人間どうしのコミュニケーション、愛だなと思いましたね。ニンテンドーDSの中で愛花さん、寧々さん、凛子を攻略するためにも、デジタル、ネットの中でのコミュニケーションが出てきましたね。リアルの世界でのコミュニケーションも大事だし、DSの中でのコミュニケーションも大切なんだなと。ヒントをもらったような気がしました。でも、あまり難しいことを考えずに楽しませてもらいました。特にみずほとの合コンができた直後ですから。何よりも楽しませてもらいました」と答えたとう。

 そうかそんなに好きなのか「ラブプラス」。違うって「サマーウォーズ」を見たんだって。まあそれもそれで凄いことだけど。アニメ大好きを世間的に言われていた麻生総理が真っ先に見て感想とか言わないといけないアニメだったはずなのに。そんな話はまるで世間に伝わってきていない。まあこの夏はアニメなんて見ているどころじゃなかあっただろうけど。ちなみに「マイマイ新子と千年の魔法」は地元山口から選出の安倍晋三元総理にこそ見てもらいたけど見たってやっぱり理解してくれないだろうなあ。理解されたところで政権から外れてしまった自民党の議員さんでは、何の影響力も発揮できないんだろうけれど。どうなってしまうんだろう「メディア芸術総合センター(仮)」構想。やっぱり潰されついでに「メディア芸術祭」まで中止にされてしまったりして。「コ・フェスタ」だって妖しいなあ。民主党に強いコンテンツ業界の大立て者って誰なんだろうなあ。

 ビーズログ文庫も創刊からえっといったいどれくらい経ってたりするんだっけ。覚えていないけれども割と好きなシリーズなんかも幾つかあったりしてその筆頭に位置する志麻友樹さんの「神父と悪魔 混沌の神々」が登場してヴェドリックがいよいよもって死んじゃったりなんかしたりしてこれでシリーズも終了? なんてことにはなる訳ない。背中に12枚もの羽根を背負ったヴェドリックの正体なんてものが徐々に明るみに出始めて、そして遂にご対面、なんてことになってて次巻あたりでいよいよ完結なんて想像も浮かんできた。でもそれだとアンシャールですら及ばないってことになって、それほどの存在がどうしてそんな状況に、ってところでいろいろ疑問もわいてくる。どんな解決を付けてくれるのか。待とう。あとアンシャールはずっとアンアンのままにしておいて。いくら美しくったって男ばかりのパーティーはやっぱりむさ苦しいのだ。

 でもって秋永真琴さんの「眠り王子と妖精の館」は竜の番人だか何かの人を負わされたために力の調整でよく眠ってしまう学園きっての美少年に見初められるような感じで、祖先が持つ強い力を持った本を受け継ぎ学園にやってきた少女が、ペアを組んで学園に起こる事件を解決するっていった感じの物語。美少年のナイト的な兄ちゃんのガラの悪さにも怯えながら堪え忍び、美少年を慕うお嬢様の罵倒にも耐えつつも天然パーマをバカにされると何故か切れて反論してしまうところがあったりする眼鏡少女の頑張りで、復活させられてしまった妖精の怒りが静まり学園に平和が取り戻される。でも出てきた胡乱なキャラが今後いろいろ絡んできそうで楽しみだけれどやや不気味。あとはどうしてそんなに天然パーマを誇るのか。人にはきっと心の支えというものがあるのだろう。

 発売された「文藝春秋」の2009年10月号は、当然のように総選挙の話題でいっぱいだけれどそれとは別に佐々木尚俊さんが新聞業界のヤバさなんかについて書いてあって読んだらいちばんヤバいところの話じゃなくって、あんまりヤバそうには見えない朝日新聞の話だった。そりゃあまあそうだよなあ。いちばんヤバいところは取りあげたって世間の興味を喚起させられない程度の存在だから、真っ先に行き詰まってヤバくなっていたりする訳で、それなりに存在が残っていて取りあげれば世間の耳目を引ける朝日について書きたくなるのは、資本主義的な合理性だとも言える。文句も異論も差し挟む余地なんてまるでない。ないけどでもなあ。もっといろいろ目を向けて欲しい気もするなあ。

 とはいえしかしなかなかに興味深い記事であることは確かで、何でも8月に出た中間報告でいよいよもって2010年には全国津々浦々紙の看板に幕をかけ、東京と大阪に集約しつつ地域はブロックでカバーするような感じにするんだとか。つまりはコストのかかる地方の切り捨てで、実行するならおそらくは県版なんてものは作れなくなってしまうはず。県版なんてものがあるからその県でも、県紙との併読なんかで買われていたのが県版すら作れなくなっていくだろうそうした改革が行われれば、大きく部数を落とす可能性は大。それでもコストの削減分の方が大きくって、全体の収支バランスはとれるって判断なんだろうけれども、紙が出ていてこその影響力ってのがリアルな社会ではあるわけで、目先の収支の帳尻を合わせようとして縮小均衡を選んだ瞬間に、影響力は低下の一途を辿ってそしてそれは連鎖的に広がり、存在感を大きく減退させることになりかねない。これは割に確信を持って言えるんだけれど、根拠についてはご想像。

 あとは人員を編集と報道に分離して、報道はライターとして記事を書き編集はエディターとして整理整頓に勤しむといった感じ。すでにして社会部政治部文化部経済部といった部制の改革なんかに手をつけてはいたりしたようだけれど、それをもっと大きく大部屋方式にして誰が何でもできるようにすることで、なかなか何にもやらないような人たちをはじき出す、なんて可能性も想像できたりする。この喫緊の事態にそれも仕方のないことかもしれないけれど、人は石垣人は城って昔の偉い人もいったように、人があってこその情報網だし、それが面々と受け継がれて来たからこその底力。いったん途絶えた人脈はなかなか元に戻らないし、途切れたノウハウはまず絶対に復活できない。これも割と経験則から語れちゃうけど根拠はやっぱり不透明、なんつって。

 実施されればダメージも相当にデカそうだけれどでもきっと、実行されてしまうだろうことは部制の撤廃めいたことが既にやられてしまったことからも想像は可能。心ある人たちがいくら抵抗しようとも、上からの指令を諾々を受け入れ実行に移すラインで固められて、そういう人しか残れないようになってしまっているピラミッドの中ではもはやどんな正論も排除され、例え無茶だと分かっていても決まったことだからと実行に移されそして、玉砕への道をひた走るのだろう。

 そこで効率を全面に押しだし、好き嫌いなんざあ脇に置いて使える材料は越後の塩だって舐めるくらいの覚悟で臨めば、歯車も繋がってうまく回ってどうにか体裁を維持しつつ、耐乏生活を乗り切っていく可能性も浮かぶけど、そこに好悪の感情なんかを持ち込む輩が出た日にゃあ、歯車は欠けて機構は回らない中を無理が生じて綻びとなって燃え広がり、全部が焦土と化すことは必至。なんだけれどそれも同様に決めたことだと突っ走っては総員玉砕の最前線。指揮をとった指揮官はきっと10年後、20年後30年後の歴史家たちからきっといろいろ言われるんだろう。そんな判断を委ねられるような身でなくて本当に良かった。歴史に名を刻むチャンスを逸した? そういう見方もできるけどね。


【9月9日】 09年9月9日はそりゃあ100年に1度しか来ないけれど、元号はご不幸を伴う事由によって変わる訳で、1997年9月9日にも9年9月9日が来たように、新しい元号の下で9年9月9日が来れば、その時にまた「999」のお祭りを催せる。数字がベースになったイベントを開ける「銀河鉄道999」は、その点で数字をベースにした記念日的なものを持たない「機動戦士ガンダム」よりも、クローズアップして持ち上げやすいコンテンツ、といったことになるのかも。

 実際、30周年というアニバーサリーを盛大にお祝いできた「機動戦士ガンダム」だったけれども、そこに日付を伴う行事はなかった。4月7日という放送開始の日ですら特段、行事めいたものは行われずただ夏に大きなガンダム像が造られ披露され、展示会が開かれコンサートが行われた程度。他にも行事は残っているけどどれも30周年という枠組みを過ぎた来年以降に、開けるものではなうなってしまう。どうして盛り上げていくのか、ってところで不安も浮かび、それゆえに放送めいた予定が未だ見えない「機動戦士ガンダムUC」の動静が気になってしまう。

 もっとも20周年で「ターンエーガンダム」が作られ30周年で等身大立像が作られたように、10年に1度は何らかの盛り上げが可能。その点は100年に1度とあとは30年から50年に1度くらいの「999」に比べれば、有利といった見方もできる。「ガンプラ」というアイテムもあってこれが来年にやはり30周年を迎えるから今度はガンプラで等身大立像を作ってしまう、なんてことをやれば……さすがにプラモデルでは風邪に吹き飛ばされてしまうか。今気がついたけど漫画版「999」とテレビアニメ版「999」と劇場版「999」にそれぞれ周年が可能なことはこの際おいておくとしよう。

 何というかあんなに最悪な性格だったのかということを記憶から掘り起こそうとしても思い出せない「涼宮ハルヒの憂鬱」のテレビ新作「涼宮ハルヒの溜息」におけるハルヒの傍若無人な振る舞いぶり。理不尽女王もここに極まれりといった面もちで、朝比奈みくるを池にたたき落とし古泉とキスをさせようとしメガホンでポカポカ叩いてはキョンを憤らせる。でもってたしなめられればキレまくって怒鳴り散らすだけ。傍若無人ならではの超論理でもって世間を納得させて周囲を引っ張る凄みなんてまるでない、単なるイヤな奴になってしまっている。

 あるいはこれはハルヒの描き方ってよりは、そんなハルヒの傍若無人さを同様にストレートに受け止め直情的に反応し、怒り怒鳴るキョンの描き方に原因があって、あそこでもうすこしヤレヤレといった雰囲気でハルヒを導き軌道修正させるような大人っぷりが描かれていたら、見ていてあれほどまでにハルヒに不快さを覚えることもなかっただろう。人の不快さは不快にさせられた人の不快っぷりから感じるもの、なのだから。

 しかしこちらも延々と続く「溜息」だけれどハルヒの神っぷりを見せるのに、あれほどまでにエピソードを重ねる必要があるのかねえ。どこまでやるのか知らないけれども最終手前までやってそこで「朝比奈ミクルの大冒険」を名がして終わり、「ライブアライブ」も「サムデイ・イン・ザ・レイン」も無しじゃあ今回から見た人がちょっと可愛そう過ぎるよなあ。つか「涼宮ハルヒの消失」はやらんのか。どう映像化するかが1番、楽しみな作品だったのに。つまりは3期があるかもってことか。うーん。生きているかなあ自分。

 ちょっぴりの未来に起こること。そこに作家ならではの想像力を折り込ませ、テクノロジーなり社会の空気なりの変化を混ぜ込みながらその上で、動く人間達を描いてみせるのもSFっていうか、僕が好きな日本SFの特徴だったってことを小川一水さんお「煙突の上でハイヒール」(光文社)なんかを読みながら思い出す。背中にとりつけて空を自在に飛び回れる機械が普及し始めた日本で、恋に疲れた女性がふとしたはずみでその機械を嗜むようになり、出会いを得てそして迎えるハッピーエンドに機械もちょっぴり活躍するという表題作。雪の降るテラスに身を沈めようとした所にやって来たロボットとの対話を通して、自分の至らなさに気づくエピソード。

 人間そっくりに動くメイドロボット執事ロボットが普及し始めた社会を描いているようでそんなロボットを作り出すのはいったいどんな理由なのかを探求してみせたエピソード。何かをしたいという思いの強さも強すぎるとこんな世界を生み出すのかと驚かされる。そして流行する熱病がもたらす社会の様相。それ事態も驚きだけれどメッセージのように叩き出される情動的でしかない憎しみのもの悲しさ、けれどもそこに憎しみをぶつけざるを得ない状況の悲惨さといったものに来るかもしれない近い未来を想って身震いさせられる。

 一般書の部類で出てはいるけれども、見渡せばロボットも1人乗りヘリもインフルエンザも実感として周囲に漂っている今だけに、それほどの突飛さを感じさせず、読む人にはちゃんと“分かる”範囲に抑えながらもちょっとだけの未来をのぞき見させて面白がらせるんじゃないだろうか。本格SFの書き手としても名を確かなものにしている作家がいよいよもって一般の洗脳にも乗りだした作品集、ってことでこれがどう受け入れられ、どう読まれていくのかってのを眺めていこう。本当はどっかでドラマ化されれば面白いんだけど。NHKの深夜とか。


【9月8日】 そろりそろりとネットで公開が始まっている「機動戦士ガンダム」の30周年記念映像「リング・オブ・ガンダム」。30周年記念イベント「ガンダムビッグエキスポ」で1度見ただけでその神髄まで未だ辿り着けていないから見てみたいとは思いながらもデカい映像で見てすら隅々までを理解することが難しかった映像を、ネットからの小さい画面で見て果たしてどこまで見通せるのかが悩ましいところ。おおまかな物語は把握できても細かい動きや表情の変化、仕込まれた暗喩なんかを理解するにはせめてテレビのサイズで5度10度と繰り返して見るべきなのかもしれない。こういう時に松戸にまだ「ガンダムミュージアム」があれば連日ノンストップ上映も出来たのに。やはり首都圏に必要だろうなあガンダム施設。

 CGといっても、いつかのスクウェアが作ったフルCG版「ファイナルファンタジー」のような100億を超えるお金がかけられたものではないから、技術的にはゲームのデモムービーといったところ。それでも最新の「ファイナルファンタジー13」辺りになると、既に映画「FF」を超えていたりするから捨てたものじゃない。いわゆるモーションキャプチャーも使っておらずフェイシャルキャプチャーも使っていなさそうな「リング・オブ・ガンダム」に、見てまだまだだなあといった感じを覚える人もいそうだけれどその分、近づきすぎて近づききれない隙間に発生する「不気味の谷」も起こらないからこの辺りが良い塩梅といったところなのかも。

 あるいは「ガンダム」という看板だけで少々のぎこちなさ至らなさも気にならなくなってしまうところがファン気質。ましてや作ったのが富野由悠季さんとあっては何を言う気も起こらない。絵の出来不出来よりももっと見るべきところがある。そう思えるから。これが「ファイナルファンタジー」ともなるとやっぱり映像のクオリティへと目が向いてしまうのも仕方がないところで、映画「FF」では少ない登場人物に力を注ぎ込むことでどうにか見られるものい仕立て上げた。「FF13」ではさらに進化が進んだようで晴れて発売日も明らかにされたイベントで上映されたデモ映像は、髪の毛の一筋がしっかりと動き、表情も豊か。セリフを喋るときの口も「日本語」にあわせてちゃんと発音どおりに動いていた。

 これじゃあ海外で売れないじゃん、って不安も浮かぶけれどもそこはきっと手直ししたものを乗せるのか、海外の人が日本のANIMEに求める日本語セリフに英語字幕という技で乗り切ったりするのだろうか。まあCGが進化するのは当たり前として果たしてゲームがどれくらい進化しているかというと……「FF」やったことがないから分かりません。ただなあ、いくら奇麗になろうとそこに完璧な自在さが生まれたって訳じゃないからどこまでも箱庭感はつきまとう。その上を歩かされている感覚を多うには歩かされている物語がとてつもなく凄いものだってことが必要なんだけれども「FF」の物語性ってそこまでのものがあったっけ?

 過去なら坂口さんの“作品”という筋もあったけれども抜けてからこっち、コアは抜けてどこかで見たことのある世界観にキャラクターのバトルといった雰囲気が、デモ映像でくり広げられるビジョンからは感じられる。まあこれもリニアな本が好きでいっぱい読んで同じような話の繰り返しにぶちあたってウンザリとしつつもそんな中に生まれる差異なり、裏切られるように登場する革新的な新しさに日々驚いていたりする人間の思いこみであって、そうした方向とは違った才能が、デジタルというプラットフォームの上で存分に物語力を発揮している可能性だってない訳じゃない。せっかく新型の「プレイステーション3」も買ったことだし、やってみてそれから判断するのがここは態度として真っ直ぐなのかも。問題はそんな時間があるか、だよなあ。年末に路頭に迷うのってあんまり嬉しくないもんなあ。迷ってなくたって臨時収入への期待はゼロどころかマイナスだし。これでよくレジスタンスもレコンキスタも起きないものだとガバナンスの透徹度に関心。ガンバナンス? ディクタトル?

 愛しい相手を得たときに人は動く勇気を持ち、愛しい人を奪われそうになった時に人は前へと進む力を出す。とでも言うような話がここに来て相次ぎ完結。細音啓さん「黄昏色の詠使い」シリーズは10巻目の「夜明け色の詠使い」(富士見ファンタジア文庫)となり世界を守るために自らを捧げて消滅していまったクルーエルを取り戻そうと、少年ネイトが立ち上がってミクヴェスに立ち向かう。クルーエルの友だちもそろってネイトを後押しして向かったクルーエルの中の世界。ネイトは心からの言葉を発しながらクルーエルへと手を差し伸べる。

 色を媒介にしてさまざまな現象を発生させる魔法が偏在する世界を舞台に、どちらかといえば普通に近い少女が魔法の天才少年と出会って変わっていく、といった感じで始まった学園ラブファンタジーってイメージだったのが、クルーエルの中に秘められた力の存在が明らかになって世界の命運そのものに関わる物語の核に位置する存在になっていく。ネイトはそんな天才だけれど一人では何もできない弱さを見せ、けれども大勢の仲間たちに支えられて成長し、世界を救う存在にまで上り詰める。詠い呼び寄せる魔法の雅さといい構築されぬかれた世界観といい、その上で動き回る人々の個性的な様といい、この10年においても上位に入る本格的なファンタジー作品。でもアニメとかにはしづらいから一般に知られることもあんまりないんだよなあ。やや残念。

 こちらも上位入り確実な西魚リツコさん「暁と黄昏の狭間」シリーズ最終巻「鳳船の書」(トクマノベルズEdge)。人間の生命力みたいなものをワントと呼び、それを見たり操作することによって人間を治したり、操ったりもできるジーヴァとよばれる魔術師たちがいる世界にあって、田舎の鍛冶屋の娘だったセフルが、王国の王子の生命力を中に取り入れてしまったことから始まった冒険の旅は、出会った騎士のギルダン・レイとの間に惹かれ会う感情が育まれていったものの、親友だった少女に悪しきジーヴァがとりつき世界を滅ぼす魔法を発動してしまったから大変。ギルダン・レイもその少女に取り込まれ、病魔を世界にはびこらせようと侵攻を始めてしまう。

 セフルはといえば仲間たちと脱出し、途中に海賊めいたものの捕まったりしながらどうにか故国へとたどり着き、はびこる病魔を治療する方法を編み出しつつギルダン・レイや教祖の侵攻に立ち向かう。愛しい人が操られていることを最初は信じられなかったセフルも、事情を理解した上でそれでもギルダン・レイを見捨てず向かい言葉で彼を引き戻す。愛の力はこれほどまでに偉大なのか。ワントという概念を核とした魔術の存在に、空を漂う船に暮らすヘン=ジャックなる一味の存在、蘇った呪いの存在等々、こちらも設定面にオリジナリティがあふれるファンタジー。卑屈な大人達の姿が目に刺さったりと人間の造詣にも深さがある。すべてが終わった今、改めて読み返して空前の世界を小さい体で走り回って最後は世界を救って見せたセフルの活躍を追体験してみたいなあ。

 「円環少女」長谷敏司によるハヤカワJノベルズ初参入本「あたなのための物語」(早川書房)を読んだら凄かった。もう本当に凄かった。天才女性科学者が脳に新たな神経を刻むような技術を発明してそれを応用して脳みたいな働きをする人工知性を作り出したら物語を書き始めた、という話から他にもいくらでもある人工知性の人間性めいた話へと展開させると思っていたらさにあらず。実はそうした人口知性を鏡のように使って、人間の知性とは何かを浮かび上がらせつつそんな人間性を規定している根底には、人間には絶対に避けられない死という限界があるんだと知らしめ、死とは何かを考えさせて生とは何かを想起させてそして死へと向き合う気持ちについて思索させる。

 何という深淵で哲学的な物語。いやあ凄い。話としてはまったく違うけれども死の間際の永遠の一瞬を描き抜いたコニー・ウィリス「航路」なんかを思いだした。「あなたのための物語」ってタイトルもなかなかに意味深。小説の中で人工知性が不治の病で余命数ヶ月を宣告された女研究者のために書く、自分の能力を示すとともに彼女を喜ばせようとする感情をそこに発育させていく小説のことを差しているとも言えるんだけれど、それよりもこの小説全体、つまりは誰であっても絶対に避けることがぜきず、誰にとっても必ずいつかは訪れる死という状況をもって完結する自分の一生は、誰かのものでもないし誰かののためのものでもなく、この小説を読むあなたたち、すなわち読んでいる自分たちのものなのだということを強く認識させようとした小説を示したタイトルだとも言えそう。このあたりはちょっと熟考が必要か。


【9月7日】 ホワイトベースに逃げ込み戦うようになったアムロ・レイは、ジオンの攻撃に怯える生活の中でも同じホワイトベースのクルーになった3人の少女たちとの仲をだんだと深めていって、遂に1人から告白を受けて張れてカップルになってそしてジオンとの戦う日々を合間に出合い会話しデートにも行って関係をどんどんと近づけていくという「機動戦士ガンダム」版の「ラブプラス」があったら果たして楽しいか、と聞かれれば楽しいと答えざるを得ない毎日が「ラブプラス」の廃人ラブプラッサー。

 タイプでいうなら姉さんタイプの姉ヶ崎寧々さんはやっぱりミライさんだろうけれど、案外に(プレーの結果かもしれないけれど)お姉さんとして頼られることに疲れ自分も誰かに頼りたいと思っている寧々さんの性格を移すなら、ミライさんもあれで影では誰かにすがり頼りたいって願ってて、だからすがるようなカムランを振ってすがれるブライトになびいたって言えるのかも。年下で口うるさい小早川凛子はフラウ・ボウかなあ。凛子ほどには性格がフクザツには見えないけれど、天真爛漫の裏につかんだら話さない執着心を持っていて、それでひっかけられたハヤトはだから、どこか尻に敷かれたような感じがあるのかも。

 同級生の高嶺愛花はツンとしたお嬢様然としたところかセイラ・マス。だけれどもセイラさんみたいにずっとしゃきっとはしてなくって、仲良くなるとデレですがりついて来るようなところが愛花にはあったりするからこれを裏返してセイラに当てはめれば、「あなたならできるわ」と励ます委員長風にところがあるセイラさんも、好きになった相手にはデレてすがって執着して、しなをつくって媚態を見せていたりするのだろう。そんなセイラさんをテレビで見ることはかなわなかったけれど、もしも「機動戦士ガンダム」版の「ラブプラス」ができればそんなセイラさんだって作り出せるんだと思うとコナミには、是非にバンダイナムコゲームスとのコラボレーションを実現してやって欲しいと願うところ仕切り。代わりにコナミの「極上生徒会」で「アイドルマスター」を作っても良いから。どんな「アイマス」だよそれ。

 そんな「ラブプラス」は愛花をまずもって確保し続く脚で寧々さんも確保。残ったセーブポイントをそのまま開けてイベント潰しに使うってのもひとつの手だったけれども最初のプレーで散々っぱらまとわりついて来ながら最後まで告白してくれなかった凛子とのエンディングを見たいと思ってしまったのが運のつき。最初の1手からひたすらに凛子押しで走り続けて愛花の下校姿を見かけても誘わず寧々さんとのイベントにも出向かず凛子の話を聞きまくってノーセーブでプレイし続け90何日目かにようやく凛子からの告白確保に成功する。長かった。

 その直前の夢イベントの、叫びうろたえ笑顔の下に刃を秘めて見つめてくる凛子の凄まじさにこりゃあちょっとマズったかもって戦慄が走ったけれども、そんな怖さも含めて「ラブ」ってことだとここは納得。晴れて確保に成功した凛子も含めた3人と、さあどうやって付き合っていくかを考えた時に、スキップモードでひたすらイベントをこなしてランク上げに勤しむってのは「ラブプラス」の本意とは違うと決めて、3人ともリアルタイムモードを選んでつきあい始める。時々電話したりメールをうったり誘ったり、触ったり呼び出したりしてそれでも機嫌を悪くされたり。ああ面倒くさい。けどそれがいい。ってのがなるほど「ラブ」って奴なのかと無縁に生きてきた過去を振り返りつつDsiに向かって微笑み喋り書ける不惑超えの秋深まる。これが21世紀。

 何か久々に見たようで実は1週飛ばしだっただけかもしれない「咲 −saki−」にはまだ見たことがない南場の女王めいた人が登場してあれやこれやかっぱいでいた。誰なんだ。でもってそんな1人のかっぱぎでもってトータルトップだったタコスが削られるものなのか。だったら南場の女王はもっと上位に出たって不思議じゃないんじゃないか。なんて考えたけれどもアニメのための臨時キャラ(だよね?)にはメインのヒロインを立てるために脇を潰す役割しか与えられていなくって、その使命を全うした今はただ消え去るのみ、連載ではまったく触れられずに通り過ぎて永遠に記憶から消されてしまうことになるのだククルス・ドアンのように。いやまあドアンは本編であるアニメのキャラだから消えてはないんだけれど映画がメインと考えている人も多いだけにやっぱり消えてしまっているよなあ。コスパのククルス・ドアンTシャツ良いよなあ。


【9月6日】 実績実力から言うならば現時点、現役で活動するSF作家の筆頭はおそらく筒井康隆さんということになるのだろうけれども、思考実験の時代を経て純文学的なタクラミへと流れてしまっている昨今の活動を鑑みるならば、SFを書き続けている現役の最高峰はやはり神林長平さん、ということになるのだろう。夢枕爆さんも現役だけれどどっちかといえば伝奇だし、梶尾真治さんも活躍はしているけれどもハートウォーミングに流れているし。おっと山田正紀さんがいた。でも今はどちらかといえばミステリーの人か。

 そう考えるなやらやっぱり神林長平さんってことになるのだろう。書かれる内容も書いたものの反響も、受ける敬愛も寄せられる信頼もどれも破格。なおかつ生み出されてくるものが今なお常に新しい。同じ1979年にデビューした「機動戦士ガンダム」だって新しいものが生まれてはいるけれど、絵柄やキャラクターことそ新しくなり、メカもスタイリッシュになっても物語そのものが大きく刷新されてはいない。そのことを思えば、神林長平さんというSF作家の30年間、現役で突っ走り続ける凄さというものもよく見える。

 そんな神林さんが人前に出て喋るってんで青山ブックセンター本店へ。たぶん81年に文庫で最初の短編集「狐と踊れ」が出たあたりに掲載されていた、超長髪に眼鏡といった大昔の写真の印象を長く果てしなく持っていたりするから、すでに60歳になんなんとする神林長平さんが現れて、すっかり短くなった頭にこれは誰かと驚いたかというとそんなことはなく、幸いにしてSF周りを彷徨いていると時折お姿を目にする機会もあったから、大昔とはまた違ったイメージなっていると頭に入っていて、見ても大きく驚きはしなかった。

 あるいは今の若いファンたちが、昔の文庫本とかSFマガジンでの若手SF作家(当時の)の連続インタビューに登場した神林さんを見たら、これいったい誰? って感じに驚くのかに興味がある。会場を見渡すと割といたもんなあ20代。秋葉原で開かれたサイン会にはアニメーション版から入ったという零×ブッカー(その逆も)系な女性も割にいたというからファンの広がりぶりも現役最先端。そんな受け止め方もオッケーって認めた言葉もあってファンも狂喜乱舞したんじゃなかろーか。

 でも風貌に経年変化はあっても思考は筆に衰えは見られない神林さん。トークに出てきて話した「自分は人と違っているのかもしれない」という言葉は、大昔に出た文庫のあとがきだったか、受賞の言葉を引いたあれは中島梓さんだったか誰かが書いていた解説にあった、物の単位か何かをずっと違って記憶していて、そのズレが一般と触れるなかで引っかかったとか何とかいったエピソードと重なって、世界を自らの体験として取り入れ語るというよりは、世界と自分との間にある差異なり隙間なりを感じ取り、それをすり合わせていくことによって、大勢の人たちが何も考えることなく受け入れている世界に潜んださまざまな不思議を、浮かび上がらせ知らしめ驚かせる作風とつながって来る。

 そんな神林さんを取り囲んで、若いというか年齢的に若いのはミステリーで活躍する辻村美月さんくらいでそれでも今年が30歳だけれども、まあ若いとえなくもなくってほかは桜坂洋さんにしても、円城塔さんにしても30代の半ばにさしかかっていたりはするんだけれどもそれでも神林さんの30年という歴史を考えると、物心付いた時には神林さんがいて言葉で世界を踊らせていたという経験を持つ作家さんたちが、それぞのれ神林体験を話したり、神林さんの何が好きでどんな疑問を抱いていたのかが開陳されて、ほぼリアルタイムで読んできた人間にはなかなかに興味深かった。

 それこそ立ち上がった当初から、空気を吸うように読んでいると、すっかり慣れてしまってそれを当たり前と感じて受け入れてしまうことでも、壁のように立ち下がった神林さんという存在に立ち向かうと、神林さんが世界に覚えた違和感とも似た神林さんの世界が持つ不思議さを、強く浴びせられ激しく感じながらそれはいかなるものかと考え、どう突き破っていくかを探るアクティブさを持って対峙する。その対峙の態度から、見落としていたか気づこうとしなかった神林さんの凄みが改めて見えてくる。のかもしれないけれども決して長くはない時間でそこまで至るのはやはり難しい。ってことで3人が書いて11月に出るらしい神林トリビュートを読んで、神林作品のどこをどう感じているのかをじっくりと見させて頂こう。辻村さんの「七胴落とし」トリビュートなんて興味津々。子どもから大人になることが割にまだはっきりしていた当時より、大人になるってことが何なのかまるで見えなくなっている現在の方が、「七胴落とし」に書かれていた若者の成長問題はより深刻だから。

 果たしてどれくらいの世代の人がやって来ていて、どんな作品にサインをもらっていたのかに興味もあったけれども100人は並んだサイン会の行列に観察をあきらめ早々に退散。神保町を周り探したけれども搬入はなく、週が明けての月曜日以降が本番だろうなあと思った大森望さん「狂乱葛西日記20世紀remix」(本の雑誌社)が何と地元船橋のときわ書房本店に5冊ばかり平積みで、それもサイン入りで置いてあったんで1冊所望。さすがはときわ書房本店、これが店長パワーなのかどうなのか。割に店長さんをディスっていたりもする内容だからそれを受け入れ並べるのはなかなかの度量なんだけれども、果たして。主要人物一覧の名前とか懐かしいというか今も現役というか。職を変え会社を変わって偉くなった人も多いなあ。そんな波に乗り切れていない我が身を振り返り、今があるいはその時かもと考える。ヤバいんだ。超マジでヤバいんだよ。


【9月5日】 デジタルカメラが普及したり、携帯電話でいくらだって写真が撮れるようになった現代だって、プリント倶楽部で撮影された小さいポートレートをもらい、張って眺める楽しみってのは廃れていない。きっと今より技術が進んだ「機動戦士ガンダム」の世界でも、それには変わりはないようで、プリントアウトされた写真ってのが結構な意味を持っていた様子。それが証拠にアムロはマチルダさんたちと撮影したポートレートを大事にしていては、取り出し眺めてニヤニヤ、はしていないけれども喜んでいる。

 データにしてメモリーにいれ自分のPDAなり、ガンダムのモニターに映し出してニヤニヤ、なんてことはしていない。あるいは電子ペーパーってのが発明されていて、持ち歩けるアルバムみたいなのが出来ていたらそれに入れていた可能性もあるけれども、でもやっぱりそれはデータであって、メモリーが壊れたらすべてのデータもろとも消えてしまう。紙にプリントされたものなら汚れても拭けるし破れても貼れる。燃えたらさすがにヤバいけれども縁で止まれば中は見られる。脆いようで耐久性はあり永続性もなかなか。きっとこれからも写真はそうやって残り続けるんだろう。残って欲しいよなあ。写真集とか好きなだけに。

 風邪の余韻かそれとも前兆か、火照る上に酩酊に近い頭をどうにかたたき起こして向かうは恵比須ガーデンプレイスの「東京都写真美術館」。ちょっと前から始まっている「北島敬三展」でそのしばらく前に下北沢なんかで上映されていたにも関わらず、見逃してしまっていた小原真史監督によるドキュメンタリー映画で、写真家、中平卓馬さんを追いかけた「カメラになった男 写真家中平卓馬」が久々に上映されるってんでこれは是非にも見ておかなければと駆けつける。

 だって中平卓馬だよ。1970年代に激しい言葉と深い洞察でもって写真の世界に切り込んでは、若者たちをあおって一世を風靡した男だよ。写真家としてもなかなかの腕前で、森山大道さんらとともに「プロヴォーク」を創刊してそこで、暗闇に沈みながらもぼんやりと佇む日本の国をとらえて見せて、成長への喧噪に沸き立っていた社会にいずれ訪れるひずみと沈滞を問わず語りに語ってた。良い写真だったよなあ。

 それほどまでの扇動家であり実践者でありながら1977年、アルコール依存症が行き過ぎたしまったという説明がなされた病気で倒れ、気がついたら記憶も言葉も失って、まったくのゼロからどうして自分は写真を撮るのかってことを考えながら、再帰に向かって歩き始めて25年。かつてひとりの若者がデモの最中に取った行動をとらえた新聞に掲載された写真を理由に、無実の罪を着せられかけたのを助けるべく向かった沖縄に、再び訪れ写真を撮ってそれを「芸術新潮」に発表しつつ、移り住んだ横浜あたりの日常を撮って撮って撮り続けている中平さんの日常を、何年かかけて追いかけながら撮ることとはすなわちどういうことなのかを見せようとしたのが、このドキュメンタリー映画「カメラになった男 写真家中平卓馬」ってことになる。

 映し出されるのは何というか狷介な爺さんの日常で、記憶がぶっとんだ過去を持つってことが知識としてあるだけに、どこかネジがとんでしまっているんじゃないかと不安がらせるけれども、見ていればその言動にはきっちりと通った筋があって、写真を撮るにもそこに適当さはなくしっかりとカメラをかまえ、ファインダーをのぞき、ピントをあわせじっくりと見据えて1回、シャッターを落としてそれで次へ移るといった感じで、何枚も何十枚も連続して撮った中から、構図やピントが気分ののったものだけを選んで時には加工も施し世に見せる、イマドキのデジタルに慣れてしまった写真撮影とはまるで違った、対象と切り結ぶ気構えってのが、その佇まいから漂ってくる。

 沖縄で歌を唄って踊ったエピソードとか、中平さんの同じ話が何度も繰り返されるところがあって老人っぽさを感じさせたけれども、これも失ってしまった記憶に上書きされていった新しい記憶に、自分の拠り所を求めざるを得なかったことから出たある種の執着であって、そこを起点に今なお突っ走り続けているという現れなんだとも言える。変節もなければ逃走もない、純粋な真っ直ぐさって奴が伺える。

 問題やそうやって残されたスナップが、いったい写真としてどれほどに凄いのか、ってことになってそのことは2003年に横浜美術館で開かれていた「中平卓馬展」を見た時にも書いたけれど、そこで森山大道さんが写真としての極北に、かつてのアレブレ写真も今の縦撮りのスナップもあるんだってことをカタログなんかに書いていて、それはいったい何なのだろうといったことを考えた時に、いみじくもドキュメンタリー映画のタイトルになった「カメラになった男」という言葉が浮かび上がる。

 今回の写真展に付随して開かれたトークショウで、北島敬三さんが質問を受けて写真とは記録なのか作品なのかを問われて、そういった質問は何度となく繰り返されては不毛に終わった議論であって、写真は写真であり写真家は記録者でも表現者でもない写真家なのだと繰り出した言葉とも重なるように、カメラとなって何かをとらえていくこと、そのものでしかないのだということを中平さんの今の作品群は示しているとも言えそう。横浜の中平卓馬展を見て、小原さんの映画も見た浅田彰さんも、写真家というより自分そのものを再構築する行為だってことを、昨今の活動について言っている。やはりそこにはクリエーションとかいった雅な言葉で飾られる行為とはかけ離れた、純粋にしてストレートな中平卓馬という人間しか、見ようがないのだろう。

 とはいえそこは中平卓馬さん。言論の過激さは老いても健在どころか遠慮がまるでなくなっているようで、今や重鎮となった東松照明さんに森山大道さん荒木経惟さん港千尋さんといった面々が並んだ沖縄でのシンポジウムで、創造だ記憶だなんて言葉で飾られた沖縄を写真で残すような行為ってのが、今なお基地があって景気だって大変で、それでもみんな元気にやっていたりする沖縄の実状をいったいどれだけ現しているんだってことを散々ぱら話しふっかける。いやふっかけるというよりはもはや自分自身の疑問と意識を語っているだけであって、そこには先輩同輩たちを鼓舞したり非難したりするような考えすらないようにも見える。

 その意味ではここでも純粋に1個のカメラに、今風のコピーでもなければ時流に乗った文脈でもない、今のこの瞬間を写しとることしかできないカメラになっていたんだとも言えそう。浅田さんは体制化してしまった先輩同輩への中平さんの苛立ちを汲み取りたかったようだし、あそこを選んで映像に載せた小原監督にも、体制化し権威化していく層へのもわんとした意識もあるいはあったのかもしれないけれども、一方で中平さんの純粋性をその上に感じさせることにも成功している訳だから、あるいはカメラとなった男に向かってここはビデオカメラとなって、純粋にただひたすらに追いかけていった結果が、純粋ではいられなくなっている人間を、いみじくも浮き彫りにしてしまったと見ておくのが良いのかも。

 これほどまでに様々に受け止められ、また権威筋からも高い評価を受けているにも関わらず、映画「カメラになった男 写真家中平卓馬」はここんとこしばらく上映されておらず、どこかで当面上映される機会もなさそう。まさか偉い人たちをディスった影響で上映ができない状態になっていたりするのかも、って心配もあるけど偉い人たちだって集う「東京都写真美術館」で、DVDのプロジェクター出力とはいえイベント上映されるのだから、発禁といった状態におかれている訳ではなさそう。だとしたらら単純に商売上の問題か。

 だとしたら何ともったいないこと。マスタリングとプレスでどれくらいかかるかわからないし、パッケージ化にあたってどんな権利処理が新たに必要とされるかわからないけれども、どこかでDVD化してもらえたら、写真という行為に勤しむ大勢の人たちにとって、これほど嬉しくて為になる“事件”もないんじゃなかろーか。カメラをぶら下げた若い奴らが街に溢れはじめて賑やかにはなっているけど、そこに漂うチャラさもやっぱり気になるところ。そこに撃ち込まれる過激で純粋な爆弾に、ドキュメンタリー映画とそこに映し出された中平卓馬という人間が、きっとなってくれるだろう。

 でもって一応は本筋の「北島敬三展」。遠方より見た印象だけで語るなら、北島敬三さんという写真家はすなわち森山大道さんの直系者であって、新宿に沖縄にニューヨークといったそれだけで何かを思い浮かばせられる街をそれらしく撮って、それなりに名を獲得していったといった安易で陳腐な評に落ち着きがち。だからなのかどうなのか、わからないけれども1990年代に入ってからの北島さんは、そうした街撮りのスナップから脱して、真正面からの顔写真が延々と並ぶポートレートのシリーズなんかを撮り続けている。

 それがだったらどんな驚きをもたらしてくれるのかというと、同じ自分を何者かに変装させて証明写真のスタイルで撮り続けている沢田知子さんのシリーズのようなタクラミも、市井の人たちの顔をおちかけつづけてそこに人生だとか歴史だとかを伺わせるアウグスト・ザンダーのようなジャーナリスティックな熱もあまり感じないといえば感じない。

 むしろそうした作為のなさに、記録者でも表現者でもない写真家としての意味があると見るのが妥当な感じもするけれども、だったら同じ人間を、経年変化で見せるようなことはしないでただひたすらに無作為に、人を並べていった方がより純粋さは見せられたような気もする。日付ばかりを延々と描き続ける河原音さんの作品のように。いやしかしやっぱりそれではひとつの表現行為か。難しいなあ。

 ちなみに展示作品には、そうした新しいポートレートはなくって、かつて撮ったスナップがメイン。過去をほじくりかえしてくることに、一時抵抗もあって放りだしていた時期もあった北島さんだそうだけど、もはやそうした過去の行為を行為として喜んだり、逆に誹るような感情からも遠ざかってそこにあった今を見せる面白さに、気づいたのがああいった展覧会になったみたい。

 なるほどそこにあるのは70年代の新宿だったりコザだったり、80年代のニューヨークだったり東欧だったり91年の末期のソ連邦だったりと振り返って過去の記録として意味を持ってしまいそうな作品ばかり。でも当時は未来に過去となるなんて意識で撮られた訳ではなかっただるし、過去においてもさらに過去へと回帰しようといった意識でとられたものでもない。つなりは“今”ばかりが映し出されてるから、見ていてちょっとした懐かしさは当然ながら覚えるけれども、そこを超えれば純粋にそこにある”今”って奴が迫ってきて、躍動だったり不安だったりといった対象者の情動とリンクできる。

 同じ「東京都写真美術館」で開かれていた「旅」って企画展に集められた写真が、どこか過去に回帰しようとしたものだったり、原始をとらえようとしたものだったりするのとは対称的。企画自体が過去へのトリップとして目論まれたものだし、そうした記録としてての写真のこれも面白いことではあるんだけれど、北島さんの方に並べられた写真たちから受ける面白さとはやっぱり一線を画してた。

 まあここで北島さんの写真展が別に開かれておらず、大道さんや土田ヒロミさんたちと並べられたらやっぱりそこに過去を感じノスタルジーを感じてしまったかもしれないけれど。見せ方によって見方によっても変わってしまう。だから写真は面白い。ちなみに展示してあった写真では、ソ連邦にいた眼鏡っ娘(娘って歳でもないけど)がちょっと気になった。アジア系の人種だから中央アジアの国なのかな。共産国家の政府か党で働く人って雰囲気。今はどうしているのかなあ。


【9月4日】 いったい「機動戦士ガンダム」がテーマになったゲームソフトの「機動戦士ガンダム戦記」が同梱となった「プレイステーション3」の新型機は、いったいどれくらい売れたのか。発売から2日経った店頭を眺めて見ても、残っているところはなかったようで、作っただけの台数は捌けたと見るのが妥当だろうが、あれだけの値段のものを10万20万と用意しているとはとても思えないから、多くて2万かあるいは1万といったところか。

 「モンスターハンター3」の「Wii」同梱版の数も知らないが、割に子供層と年輩層の多かったユーザーから外れていたティーンから20代、30代を直撃するソフトとセットにすることで、これで「Wii」を買ってみようと考えた未購入者はそれなりにいそう。これで「PS3」を買ってみようかと「ガンダム戦記」の同梱版に手を伸ばした数は、きっと上回っていただろう。

 「ガンダム」のソフトをプレーする層はおそらくそれなりの比率で「PS3」はもっていそうだし、「PS2」や「PSP」でガンダムゲームを楽しんでいる層が敢えて「PS3」へとステップアップするには「機動戦士ガンダム戦記」というソフトは今ひとつパワーがない。ガンダムに関連したアイテムとしての同梱版、という認識は得られてもソフトを是非にやりたいからといった層を動かすにはやはり新型でも「PS3」は高すぎるのだ。
 ローンチのタイミングで「PS3」を売りたかったのだったら、やはり「PS3」ならではといった特性を全面に出せる「ファイナルファンタジー13」か、ガンダムだったら「ガンダム無双」あたりが必要だったような気がするが、そうしたタイトルを待つだけの時間も、そうしたタイトルに急いでもらうだけの訴求力も、「PS3」は失いつつある、といった見方がここに来て浮かんできたとも言えそう。「東京ゲームショウ」ではさらに魅力あるタイトルも並びそうだがそれが何でそれに動かされる人がどれだけいるのか。年末までのこの3ヶ月が正念場だと言えるのだろう。プレイステーションにとっても。ソニーにとっても。

 とはいえ流石に「ラブプラス」だって店頭で完売が続出といった感じでもなくって「ヨドバシカメラ」のマルチメディアAkiba館では翌5日の朝もちゃんと残っていた。とはいえ発売前にその凄みが全国民的に広がって、発売と同時に行列ができるような事態になっていなかったことを考えると、購入者から口コミでその遊びの底知れなさが広がって、週末から来週末へと売れるタイミングの山を作りながら次第に浸透していく、といった現象が起こるのかもしれない。前評判では決して“萌え絵”ではないキャラクターにいろいろ意見も出ていたからなあ。

 けれども初めてみれば決して入らすとではない3DCGのキャラクターたちが、体を動かし首を傾げてしなをつくったり表情を変えて微笑んだりしてくれる。とたんに生命が宿すキャラクターたち。そしてその声が丹下さくらさん! 皆口裕子さん! 森美咲…ではなくって早見沙織さん! ベテランがいて若手でも演技派の筆頭が並ぶ声優さんたちが喋りかけて来てくれる、その声がキャラクターに重なることによって宇まっる生命感と臨場感は過去のさまざまあったゲームをを上回る。映像のリアルさなんてそこでは不要。リアルに近づけた挙げ句に超えられなかった不気味の谷に落ちた3Dキャラたちの屍をはるか眼下に見下ろしながら、激しい勢いでプレーヤーへと迫って衝動に火を着ける。

 決め手が実名での呼びかけだ。貴方の名前。僕の名前。それをあの皆口さんの包み込むような優しい声が、丹下さんの反抗心も残しつつすがるようなニュアンスがこもった可愛い声が、そして王子様に出会えたことを心から喜びウキウキとした気持ちをこめて「滝沢くん」と呼んでいたのとまったく同じ早見さんの声が貴方の、僕の名前を呼んでくれるんだからこれはもう、驚異としかいいようがない。かつてだったら「ハンマープライス」で競りにかけられ38万円くらいで落札されたような至福のプレーをその場で楽しめる。何という技術革新。何という文明開化。彼女たちが呼ぶリストに入っている名字に生んでくれた親にここは有り難う、という感謝の言葉を捧げたい。権田原とかでなくて良かった。綾小路とかだったら入っていそうだなあ。

 つか何で「ニンテンドーDS」も埋もれて見つからないのに「ラブプラス」の面白さに触れているのかと言えばそれは、「ラブプラス」を遊ぶために「ニンテンドーDsi」を買ってしまったからに他ならない。これがソフトがハードを動かす、という見本だ実例だ決定的事例なのだということを「PS3」のマーケティングに勤しむ人たちも知るべきだろう。目がイっちゃってる若い奴らが顔を歪めてプレーしえいる姿を見たって人は引かれない。でもたとえばモニターから空前絶後の美少女が全国民の名字を呼んでくれるソフトがあるとわかれば、買っていたかもしれない。そんなソフトはないんだけれども。

 たとえあったとしても、それにはCMをたとえば1000種類、作って1000の名字を言わせる必要もあったかもしれない。知れないけれども昔のソニーだったらyっていた。いやそれは無理でもデータ放送か何かを使い、手前で名字を入力すればそれに見合った音声が発せられる映像が帰ってくるような仕組みを作ってやればできないことはない。みんなのための「PS3」ではなくあなたのための「PS3」なんだと知らしめていくようなプロモーションができれば多少は変化も生まれるかもしれないのにと、そんなこと「ラブプラス」の衝撃が考えさせてくれる。いや凄い。すごい破壊力。

 とはいえだ。そんな感動を裏切るよーにゲームは初回に100日間を無為に過ごして誰からも告白されずにゲームオーバー。本番とも言える恋愛関係になってからのリアルタイムの毎日を過ごすまでには至らなかった。いったい何がいけなかったのか。3人が3人とも名字だけれども呼びかけてくれるようになった。丹下桜さん演じるツンツンとした小早川凛子なんて家の前で待っていてくれるようにまでなった。そこまでいきながらも帰りを高嶺愛花と一緒になったり皆口さん演じる姉ヶ崎さんとデートもしたりといった八方美人ぶりが、たとえ成績はよく人当たりもよくて学校の人気者になっていたとしても、誰かからのアタックを遠ざけてしまっていたのかもしれない。

 とはいえ2度目は2度目で50日経っても誰からの評価も得られず学校では不人気もの。凛子は現れず姉ヶ崎さんも一緒に帰ってはくれない。成績も人気も最低ライン。いっそダメなら徹底してダメになって姉ヶ崎さんの姉さんぶりにすがるべきだったのかなあ。いやしかしここはやっぱり森美咲ではなく高嶺狙い。ここから挽回して彼女のハートをがっちり掴んで栄光のエンドレスラブラブスプリングへと突入するのだ。ラブプラス廃人ラブプラッサー一丁上がりの巻。

 秋葉原を王様がウクレレを弾いている姿を横目で見つつ仕入れたジェネオンのアニメ情報誌なんかをペラペラ。表紙は「よくわかる現代魔法」。ブルーレイ版が出るのか。ブルーレイ版を買うだけのクオリティなのかを未だ確かめられないのが悔しい。作家に聞くか。でもって遂にいよいよあの「serial experiments lain」がブルーレイディスクボックス化。当然買う。買うよりほかにない。だってカバーガールだから。放送から10年を経ってもあの凄みを超えて迫ってくるヒロインはいなかったくらいの邀撃を持った作品だから。

 演出にストーリーに声にビジュアルのどれをとっても最先端。21世紀になってしまった今だって最先端のその先を行くくらいの作品を、最新の映像で見られるんだからこれは買うしかない。買ったらついでにテレビもハイビジョンに変えてHDMIでつなぐしかない。これと「PS3」の同梱があったらきっと買っていたなあ。くまパジャマのおまけつきで。そうかいっそブルーレイとセット売りすれば良いんだよ「PS3」。それやってしまったらゲーム機としては死ぬけどハードとしては生き残る。悩むところだよなあ、平井銃士も。


【9月3日】 「機動戦士ガンダム」のゲームにいったいどれだけのファンがいるのか、数えた訳ではないけれども少なくとも10万人はいなければ作ってなかなか利益が出るものではないだろう。ということはその新作が発売される当日に少なくとも数万人はショップの店頭に足を運ぶはずで、そのついでというかどちらかといえば「機動戦士ガンダム戦記」をついでとして新しくなった「プレイステーション3」を購入する人が、ショップの店頭に大行列を作るはずだと言った想像をして別にそれほど間違ってはいないだろう。あの2006年の「PS3」発売時における混雑ぶりを間近に見た身ならなおのこと、混乱を予想していて当然だ。

発売まであと5時間、うそあと20分、えっ!  が。しかし。勇んでかけつけた秋葉原の「ヨドバシカメラマルチメディアAkiba店」の店頭に並んでいたのはたったの2人。それはだから発売まであと5時間はある午前4時半のことだろうと言われればまるで違うと即答する。午前9時。開店まで30分でちょい早めの「PS3」発売までなら20分といったタイムリミットもギリギリな時間に並んでいたのがたったの2人。おえいうあ。言葉にならない嗚咽が喉を衝いて出た。もしかするとあるいはたぶん絶対にこれは間違いで、すでに午前6時の段階で整理券を配って今はその人たちが地下に大集合して発売までの時間を待機し、それにあぶれた人たちだけが表に並ばされているだけだと考え来ていた人にたずねると、これが行列のすべてなんだと教えられる。えおあうい。嗚咽がふたたび喉から漏れ出る。

 そりゃあまるっきりの新型機ではなく、一種のバージョンアップ機に過ぎない新型「PS3」。すでに持っている人も少なくない数いるハードが新しくなったからって、大行列ができるとは限らないと言えば言える。ネットを通して買ったり、予約を入れてあって会社の帰りに借っていく人も少なくないのが平日の発売に特徴的だとも言えなくもない。けれども「ニンテンドーDS」のライトやDsiが出た時も、こんな風にショボい行列しかできなかったのかというとさにあらず。割にそれなりな行列ができて、飛ぶように売れていった光景を何かで見たし直にも見た。そして平日だからといって、人気のあるゲームソフトだったら行列ができて買われていくという光景も、過去に何度も目にしていた。

 つまりはそれが魅力のあるものだったら、平日であろうとネット通販が発達していようと、店頭に行列して最初の発売を待ち受ける人はそれなりにいるのがゲームの世界っていうものだ。「ドリームキャスト」だって発売された1998年11月27日は金曜日。ほどなくして「プレイステーション2」の発売もされるだろうということが見えていながら、セガというハードに期待した人たちで秋葉原の路上は埋め尽くされた。「PS2」ではさらにその何倍もの人手があったけれど。ともかく少なくとも見て行列というくらいの人たちがいて不思議はないというのが、長くこの業界を外から眺めてきた人間としての思いだったのに、今日という今日はそれがものの見事に覆された。わずかに2人。そして発売のカウントダウンを迎えた段階で20人から30人。周囲を取り囲むメディアの方がはるかに多い。こりゃあいったいどういうことだ?

 どうということもないのだろう。つまりはやっぱり“その程度”のハードだったということなのだろう。滅茶苦茶は売れないしじわじわと台数を伸ばしていくものでもない。まあそれなりに。それとして。それとなく売れるそれくらいのハード。誰もが求めるものではなく、誰かが求める程度のハード。最初から誰にも関わりのあるハードにしようと形からソフトから使い方から考えられて、そんな機能を伝えるためにCMなんかも工夫された任天堂の「Wii」とは違って、誰かには関わりのあるハードなんだということを、特定な誰かっぽい人たちばかりを集めたCMで表現してみせたのが、この新型「PS3」だった。だから来たのは、そんな誰かとそしてごくごく一部の、その日はそこにいなければと考える祭り好きな面々。なおかつそんな祭り好きの外周をまとめて引きつけることにも至らない、極めてコアでエッジでシャドウなハードという位置に、今や「PS3」は来てしまったと言えるだろう。

 これからいったいどうなっていくか、と言うとそれはちょっと怖くて想像も出来ないとしか言いようがないけれども、大きく見るならもはや家庭用のコンソールゲーム機という存在が誰にでも必須のものといった立場から外れてしまっていて、ゲームを楽しむならば携帯型か携帯電話でじゅうぶんであり、コンソールゲーム機はゲームを核とはしながらもそれ意外の部分でも活用が可能な機器として、ユーザーがメリットを見いだした場合にのみ売れていくといったものになるのかもしれない。「Wii」ではそれがフィットネスだったり、通信といった部分で「PS3」ならブルーレイディスクプレーヤーとして付加ではない価値を見いだされそう。

 もっとも今のこの時点でブルーレイディスクプレーヤーとしてどこまで売れるのか、といったところもなかなかに未知数。なぜならブルーレイディスクとして買わなければならないソフトが見あたらない。必要性も世間に感じさせられていない。そこがもう少し燃えだして、世間にブルーレイが見たいといった空気が起こった時にはじめて新型「PS3」は”真価”を見いだされて引き取られていくのだろう。気の長い話になりそうだ。それこそ「プレイステーション4」が発売されるまでくらいの。

 しかし2人ではあんまりに可愛そうな気持ちが湧いてきたんで行列の後にくっついて小さく叫ばれるカウントダウンを見物してから行列よりも多い人数のメディアを引き連れ6階へと上がって新型「PS3」をとりあえず購入。それが任侠てものだ。オプションは縦置きスタンドくらい。前のはスタンドなくても立ったけれどもこいつはほら、“薄型”だからスタンドがないと立たない、かなあ、立ちそうだなあ。購入して降りるところを韓国のメディアらしい人からあれこれたずねられたのでそれこれ答えてこんなもんでしょうと回答。さてはてどこに載ったやら。下におりると「機動戦士ガンダム戦記」のイベントなんかもやっていたけど人の姿はほとんど見えず。そのままソフマップとかメッセサンオーとかも回ったけれども店頭の「PS3」に群がる人はなし。売れていたのは……コナミデジタルエンタテインメントの「ラブプラス」でありました。

 それはもうなかなかの売れっぷりで、秋葉原にあるショップと連合で抽選会なんかも開いて3人の声優さんのサインとそれから3人のキャラクターが描かれた色紙をプレゼントするって内容の抽選に、それこそ途切れることなく人が寄ってきては三角くじをひいていた。ソフマップだったら3人が描かれたテレホンカードがついたんだっけ、朝にはあったそれが昼には消えていたんで「アニブロゲーマーズ」へと回ったらそこでは小早川凛子のちょい変化されたイラストがはいったテレカ付きが売られていたんで1も2もなく購入する。

 って僕は本当は高嶺愛花が好みで森見咲が喋るような声でもって仲良くしてもらいたい気で満々なんだけれども、見渡してもそっちに傾いた特典はなかったんで仕方がない。問題はDSが家のどこに行ったかってところなんだけれどもこれでDsiも買ってしまうとさすがに家計にヒビが入る。ひっくりかえして探して「レイトン教授と悪魔の箱」を抜き出して、「ラブプラス」を入れてまずはどうにか愛花に告白させ、そこからエンドレスの恋人生活を楽しむことにしよう。バラ色の人生がこれから始まる。脳内で。

 とか言っていたら凛子役の丹下桜さんが声優復帰の報。をを。あの膨大なシナリオを極端ではなく普通の女の子として演じなくてはならない難しい仕事を、やってやり遂げたことが何か声優としての魂を刺激したのか動かしたのか。そもそもがどうして半ば引退していたのかすら事情を知らないだけにきっかけも伺うより他にないんだけれども、少なくとも「ラブプラス」がひとつのきっかけになったことは確かなようで、そんな仕事が果たしてどれくらいのものなのかを、小早川凛子を選ぶことで確かめたいって気にもなって来た。うーん迷うなあ。つまりはDSを何台も駆使して3人をポケットに入れて歩けってことか。歩く浮気者。動くハーレム。うーん淫靡。でもそれくらいしたくなるし、やって楽しいゲーム。ドラクエが1人1本ならこいつは1人3本を買わせて1年は売らせない、究極のロングテールタイトルなのかも。すごいなあ発明者。


【9月2日】 怖いのはだからお台場の「機動戦士ガンダム」立像の撤去で「機動戦士ガンダム」に対する“夏とともに終わった”感が広がって、世の中の関心を後退させてしまうことで、大人気となった漫画が原作になったアニメーションが漫画以上に大ヒットしたものの、アニメが先に終了することになった後、原作漫画が続いているにも関わらず人気が以前ほどではなくなって、知らないうちに終了となってしまうケースがままあったりすることにも似た状況が、起こってしまわないことだったりする。

 漫画で思いだしたけれども「銀河鉄道99」は劇場版の最初のラストが強烈すぎて、テレビアニメの最後がどうなったのか、そして本家の漫画版の「少年キング」でのラストがどうなったのかを実はあまり覚えていない。ついでにいうなら「さよなら銀河鉄道999」の劇場版のラストがどうなっていたのかも、実は覚えてない、とうより映画すら見ていない。だから言われている金田伊功さんの一大作画がどれくらい凄まじかったのかをリアルタイムで経験していない。これがあったから「999」は劇場版として強く刻まれたのか、それともゴダイゴの唄うテーマソングの強さが先に印象を刻みつけたのか。いずれにしても30年以上が経った今も「銀河鉄道999」が強烈な存在感を示して残しているのは、やはりそれだけ時代にインパクトを与えた作品だったからなのだろう。

 戻って「機動戦士ガンダム」の場合は、1人のクリエーターが1つのシーンを描き続けるものではなく、それぞれに新しいクリエーターによってドラマを持たされた新作が登場してくることもあって、その都度人気に“復活”がかかるため、人気がこのまま終息してしまう、ということはなさそうだけれど、次回作とんる「機動戦士がナムUC」が現時点では地上波での放送が見られず、アクセス機会が少ないことからファンをどれだけ引っ張り込めるのか、といった部分にいささかの不安が漂う。小説版は確かに売れているけれども、テレビでアニメーションとして見られた場合の広がり方とは数が違うし浸透度も違う。そのあたり、それなりの数字を固める方向で利益を確保するのかやはり広くあまねく知らしめることで、今後10年の礎を築こうとするのか、今後の対処を見つつ将来を考えてみるのも面白そうだ。

 ハルヒってこんなに性格悪かったかなあ、って思った「涼宮ハルヒの憂鬱」の「涼宮ハルヒの溜息」第3話でハルヒは公園で自主映画のロケをしている時に目からビームを当たり前だけど出さない朝比奈みくるをぎゅうぎゅうと締め上げ怒鳴りメガホンでポカポカとやって虐げる。もうそれは虐待としか言いようのない振る舞いで、それをとがめ立てされるとぶつぶつと文句を言い逆ギレして反省もせずに撮影を続けようとする。ずっとそのままじゃん、と言えば言えるのかもしれないけれどもこれまでのハルヒって居丈高に振る舞うにしても超越的な雰囲気を持って誰のどんな異論も超絶的な高みからねじ伏せ反論する隙なんて与えないようなところがあった。言動にもなるほどそうだよなあそれにハルヒだもんなあと諦めさせるところがあったけれども今回はあまりに強引で、傲慢で強欲で見ていてまるで共感ができなかった。

 すでに遠い記憶の彼方にある原作でもこれほどまでにイヤな人間に描かれていたのかは覚えていないけれども、活字で読まされてもそれは文字面であって感情は読む人の内側である程度コントロールされて、イヤさはそんなに覚えないように済んでいたんじゃなかろーか。対して言葉がついて絵もつくアニメーションでは、演じられるハルヒがすべてであって受け手の側で一切のコントロールはできない。だからリミッターを超えて見せられたハルヒの傲慢で強欲な振る舞いに、不快な感じを覚えてしまったのだろう。

 でもこれってやっぱりあんまり巧くはなさそう。突っ走りぶりが凄まじいハルヒの超越者的な立ち位置に引かれ跪いていた人にとって、あまりに人間を見せすぎるハルヒは幻滅の対象でしかない。あそこでこうしたネガティブな情動をもよおさせずに、見ている人がハルヒなんだからと諦めさせるような演出が、果たして可能だったのかどうか。みくると一緒にバニーガール姿でチラシを配っているところを咎め立てられ、地団駄を踏んで憤るハルヒにだったら抱けた共感を、「溜息」でのハルヒにも抱けるような見せ方ってのがあったんだろうか。

 教師という権力でも世間という強固な存在でもなく、手近な弱者のみくるを相手に憤っている、というシチュエーションではもはやいかんともしがたかったのか。自分だったらどうするか、なんて烏滸がましいことは考えないけどでもしかし、あそこであれしかなかったのかについてはいつか考えてみたいもの、ってきっと考えないんだろうけど。鶴屋さんは相変わらずめがっさ可愛いなあ。あのあっけらかんぶりにもやもやとした空気も救われた感じがするよなあ。そんなところはやっぱりキャラの配置の巧さにょろ。

 えっとあれはつまり何の解決にもなっていないってことなんだろう「化物語」の「するがモンキー」第3話。好きな人をひとりじめしたいけどその好きな人を悲しませたくない矛盾が怪異を凍り付かせただけでいつかそんなリミッターが外れたら、腕は力を取り戻して最初の願いをかなえにいくのかそれもとすでに供養され昇華されているのか。不明だけれども命だけならあの頑健な生命力を元吸血鬼ってこともあってもっている阿良々木が、最後まで生き残りそうだから結局は駿河の願いは叶わない、ってことなのか、その願いを無理にでもかなえさせるために腕は駿河を生かし続けるのか。うーん。今が楽しければそれで良いってことにしておけ。戦場ヶ原ひたぎはあそこで三角定規にコンパスにホチキスで戦うかと思ったら愛で包み込んでしまった。ずるいけどこれが強さというものか。

 やっぱりだけれども仕方がないけれどもしかしそれでもといった複雑な感情で受け止める伊藤明弘さん「ジオブリーダーズ」の長期休載のお知らせ。すでに「ワイルダネス」でも同じ情報が出ていたから事実として受け止めてはいたんだけれども、重ねられるとやはり相当に深刻な事態なのかもしれないって不安ばかりが募ってしまう。とりわけ「ジオブリーダーズ」は新時代へと移りそこで新たな戦いが幕を開けたばかりなだけに、旧体制がそこで反攻へと向かうのかそれとも時代はめぐり人も変わっていつもながらの新陳代謝に終わるのか、ってあたりが気になって仕方がなかった。続けた、ってことは単なる世代交代ではない、次のステップへと移る様を描こうとしているんだろうけれども、それだけに見えない結末が激しく気になって仕方がない。それを見られる日は必ず来ると信じて、遠く綾金に住まう神々に伊藤さんの快復を祈願しよう。塩釜神社か熱田神宮か針名神社か島田の地蔵寺か、って地蔵寺は毛髪が生えてくるお地蔵さんだった。僕が行きたい。


【9月1日】 おかしい9月1日なんて来るはずがなく宿題だって終えておく必要はなくお台場の「機動戦士ガンダム」の等身大立像は今日がお披露目のイベントの日でこれから40日間のフェスティバルが始まるんだとばかり思っていたけど8月はエンドレスにはならず、お台場のガンダムも解体が始まってしまった模様。この後にいったいどこに行くのかは秘密のようだしそもそもがあれだけのものを立てる場所も費用も昨今の日本にはなかなかないだろうから、しばらくは倉庫で居眠りってことになるんだろう。

 けれどもネットなんかを介して世界からも注目を集めた物だけあって、しまい込むんだったら売って欲しいという金持ちだって世界を探せばどこかに居そう。案外にそのまま東京港から出荷して、10月にはドバイの高層ビル群の谷間に屹立するガンダムなり、カリフォルニアにあるマイケル・ジャクソンのネバーランドにそびえ立つガンダムなりが見られたりしたら案外に愉快かもしれない。マイケルはさすがにないか。だったらシアトルのビル・ゲイツ邸。奴だったら金にあかせて中身まで作って実際に動かしてくれるかもしれないなあ。アブラモビッチが買ってチェルシーの本拠地スタンフォード・ブリッジに立てたらなお愉快。相手を見下ろすように立てればホームの利だってなお活かせるし。

 ハミュッツ・メセタといえばシャツに縫い込まれたウサギちゃんのアップリケなんだけれどもそれっていったい、シャツの右側に縫いつけられていたっけ左側だったっけそれとも真ん中、はさすがに無理だよなあ、あの谷間では縫いつけようにも埋もれてしまって出てきません。そんなハミュッツのポスターも悩ましげなアニメーション版「戦う司書」に関連してあれやこれやとお仕事。映像とかまだ見ていないんだけれどもポスターの出来とあとはキャストの揃いっぷりから期待が多いにふくらむ。それこそハミュッツのバストのように。いやあやっぱりすごいわアレ。

 集英社スーパーダッシュ文庫のアニメ化では大昔の「銀盤カレイドスコープ」がDVDを全巻コンプリートしてしまうくらいに何というか難しい内容だった訳だったし「紅 −Kurenai−」もやっぱりDVDを全巻揃えるくらいに素晴らしい出来だった訳だけれども、その後となると「アキカン」はBS11とかの放送で中を見ないままDVDには未だ手が出ず。その後の「よくわかる現代魔法」もやっぱりBS11メインで未だに見られずDVDをどうしようか悩んでいたりするんだけれど、これもアニマックスとあとBS11といった地上波ではないウィンドウでの放送になる「戦う司書」についてはその出来への期待からちょっと手を出してみたくなる。決してハミュッツの谷間に引かれた訳じゃないぞ。ないぞ。いぞ。ぞ。

 だってハミュッツの声がぱくろみさんだよ。でもってマットアラストは大川透さん。奇しくも初代「ハガレン」の鋼&炎の錬金術師コンビ復活したってことで今のどこかニヤけた少佐に悩んでいる人にはとっても興味深い番組になっていそう。そしてにノロティは戸松遥さんでミレポックは沢城みゆきさんと昨今の人気実力派女性声優そろい踏み。ここにモッカニアの石田彰さん、ヴォルケンの中村悠一といった男性人気声優も加わったキャストは見なくっても声が響いてきてとっても良さげな感じが漂う。

 ほかにもイレイアおばさんはヨランダ婆さんの竹口安芸子さんでミンスはボビー・マルゴの三宅健太さんでシガル・クルケッサは置鮎龍太郎さんでエンリケとウインケニーには野島裕二さん野島健児さんが揃い踏み。そして恋する爆弾コリオには入野自由さんと半端ないキャスト陣。これほどまでの豪華作品が本当に地上波なしで良いのかねえ? って気になるけれども仕方がない。通常放送時では見られないだろうけれどもパッケージが出始めたなら買ってミレポックのスマートな戦いぶりとかノロティのへそ出しっぷりとかハミュッツの谷間っぷりを隅の隅までじっくりと堪能させて頂くことにしよう。ところでアニメはどこまでのエピソードを描くんだろう。ノロティを待ち受けている運命まで描くのかな。とりあえず「恋する爆弾」までなのかな。

 渋谷原宿六本木。歌舞伎町に池袋。若いやつらが遊びまくって悪いやつらが暴れ回るキケンな街といったら浮かぶのはそんな名前だろう。けれどもだ。実はいま、東京で一番キケンな街はこいつらではない。雑司ヶ谷。池袋から地図でちょっとばかり下に下がったその街こそが、東京どころか日本でいちばんキケンな街。都電荒川線がゴトゴトと走り個人商店が建ち並び鬼子母神があって爺さん婆さんの参拝者が歩くのどかな風情の裏側で、ギャングが人身売買やドラッグの密売を繰り返していたりする。本当かい?

 本当だよ。だって樋口毅宏の小説「さらば雑司ヶ谷」(新潮社、1300円)にはそう書いてある。100歳になんなんとする占い師のババアが、巨万の富と政治家を動かす権力で長く女帝として君臨していたのが雑司ヶ谷。とはいえ最近はその威光にも衰えが出たのか、事件や事故が頻発して、雑司ヶ谷の空気がどんよりよどんで来た模様。若いながらも巨体でもってチンピラたちを束ねていた京介が殺されてしまったこともあって、その配下にいた芳一という暴走族あがりの男がボスになって、悪事をばらまき雑司ヶ谷を歌舞伎町にも負けない暗黒街へと突っ走らせていた。

 こりゃあ拙いと呼び出されたのが、5年ぶりに日本に戻ってきたばかりの孫の大河内太郎。何でまた5年ぶり、ってのは実は理由があったけれどもそれは後回し。とりあえずは雑司ヶ谷の下水道で作業中だった5人が、ゲリラ豪雨で流され死亡した事故の真相を探り出せとババアから命じられて飛び出した先。太郎は自分をつけねらう芳一を相手に拳を振るい、そして京介に頼まれ芳一によって売られた子供を取り戻しに渡った中国で、訳あって5年に及ぶことになった滞在の中で刻まれた体と心の傷にケリをつけようとする。

 鬼子母神があり個人商店が並ぶただの下町が、歌舞伎町を舞台にした馳星周の『不夜城』にも負けない暗黒小説の現場になっているというユニークさには、雑司ヶ谷をよく知る住民でなくてもニヤニヤできる。知っているならなおいっそう。あの街のあの店やあの道がそんな場所にと笑えてくるだろう。もっとも、雑司ヶ谷ではまだまだでも、池袋や六本木でもない場所で割と日常的に暴力がふるわれ、ドラッグがはびこり、弱い人間が虐げられている実状を省みた時に、もはや暗黒街など存在しない、日本中が歌舞伎町のような暗黒街に変わろうとしているんだということに気づかされる。平穏な場所? そんなものもはや日本には存在しないのだ。

 暴力の快楽に染められていくおぞましさに震え、瀬戸際から大逆転するドラマに興奮できる真っ暗な物語。オザケンの詞への賞賛にうなずき、故郷を失う寂しさに泣けてくる極上のエンターテインメント。元編集者によるこれが最初の小説だとしたらいったい次ぎに格のはどれほどに格好良くって素晴らしいものになるんだろう。期待が膨らむ。ざっと読み終えてから訪ねてみたくなる雑司ヶ谷。その景色はきっと、歌舞伎町よりも猥雑で、池袋西口公園よりもギラギラと輝いて見えるだろうな。

 暗黒街ったら香港澳門にバンコクってところでそんなアジアの猥雑な街から始まった「CANAAN」の物語は地で歌っても超破壊兵器になるのかどうかは聞いたことがあんまりない、訳じゃないけど役柄的には超破壊兵器になってしまっている能登麻美子さん演じるハッコーの技炸裂。でもってアルファルドはリャン・チーの排除を命じてカミングスを迷わせ反旗を翻したカミングスに向かって銃弾を放つ。パンパン。追いつめられたリャン・チーはややキレてカナンたちに突っ込んでいったけれどもアルファルドによってヘリごと落とされ何処へ。あのショートチャイナがもう見られないのは残念なんで生き残り復活を遂げて欲しいと嘆願。


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