縮刷版2009年8月上旬号


【8月10日】 地球に降りてまず温泉。中央アジアでマチルダさんの補給を迎えてみんなで温泉。ジャブロー基地に着いてやっぱり温泉で宇宙に出てからサイド6でホワイトベースの一行は温泉に入りア・バオア・クーに集まったザビ家の面々もロココな温泉につかって汗を流すような描写があったら「機動戦士ガンダム」もテコ入れが効いて視聴率も維持され水着の回なんかも挟んで話数も調整されて1年50話に収まったんじゃないかと想像してしまう現代アニメの常識派。

 現実問題そうしたてこ入れがどんな効果を挙げているのか、定量的な分析が出来ている分けではないけれども、ないよりはあった方が少なくとも放送時点での感心は向き、そこからパッケージの売上へと繋がる可能性が開かれるのだからやぱりあるべき、なのだろう。とはいえしかしサビ家の温泉シーンはなかなかになかなかな予感。ギレンのスリムな姿態はそれとしてもドズルのマッチョにキシリアのスレンダーを果たして正視できるか否か。せめてガルマが生きていればと思うけれどもそれだってシャアと絡んでこそのてこ入れだ。やっぱり役者が不足し過ぎということでジオンの敗北もやむを得なかったのだとここは理解しておこう。そうだったのか。

 そうなのかもと「プリンセスラヴァー」の大テコ入れ回なんかを見ながらつらつら。おいこらその霧邪魔だ。本編でもって自己言及するよーな部分があったけれどもこれはつまりDVDになっても霞は晴れないよっていった挑戦なのか、それともDVDでは言葉も別のに差し替えられるってことなのか。あまりに霞が強くって王女さまもシルヴィーも何がどーだったのかまるで分からなかったし社交部部長の何が平らだったのかもあんまり確認できなかった。とりあえず剣は風呂場には持っていかない方がいいと判明。どう見たって裸族だもんなあシルヴィー。今度のワンフェスではそんなシルヴィー裸族バージョンのフィギュアを是非に所望。

 薔薇と書いてそうびと読む、のかどうなのかは知らないけれどもともかくそんな名前の子供たいたとしよう。とある旗本の隠し子として生まれたものの母親は早々に旗本のところを去って行方を言い残さなかったものだから、旗本が死ぬ間際になるまでその隠し子の存在に気づかなかった。それでも最後の1瞬だけ付き合っていた娘がいて、子供がいるかもしれないと総領息子に言い残して他界。過去にもそんな浮き名を流してできた子供をそれなりに、金を渡すなりして処遇し落ち着かせてきた家来が今度もとその子がいるらしい箱根へと向かって見つけたのは、総領息子の若様にそっくりな顔をしたそうびという名の子供だった。

 薔薇の花繁る旧古川庭園で出会い結ばれたエピソードに相応しい名前でもあったし、そもそも若様と同じ顔をしていればこれが子供だとすぐに判明。あまりにそっくりなのでこれまでのよーに金を渡して縁を切るような真似はできず、また山育ちで頑健そうだったこともあって連れて帰って鍛えたいと思い連れ帰って兄にあたる若様に見せ、了解を得てさあこれからこの家の子供だからと告げてまずはお風呂に連れて行ったらこりゃまたどうしたといった展開。それはもう言わずもがなだったんだけれどまあ良いや。

 とまあそんな感じに始まった津田雅美さん「ちょっと江戸まで」(白泉社)は、山育ちの凛々しいそうびの学校生活に水戸家の子供が同級生として入ってきて、天真爛漫な性格で周囲を引っ張り混乱させつつそうびと友だちになって買い物に行ったり瓦版に追いかけ回されたりする毎日が描かれ江戸の時代の大変さって奴が伺える、かってーの。だって時代は平成20年。江戸時代が400年とか続いてしまった平成だから江戸の身分制度は残り、文明の程度も江戸時代なんだけれどもところどころに現代が交じって妙な雰囲気を醸し出す。

 そういやあ江戸時代が平成まで続いた世界が描かれたライトノベルってのもあったよなあ。まあそんな感じだけれどそっちでは身分制度だけが残っていたのがこっちでは風俗も割と残っているから江戸情緒って奴を現代のおおらかさと逆にクールさの中から観察できる。でもって厳格さからややはずれた人間関係が友だちづきあいなんかの楽しさって奴も感じさせる。第2巻にはいるとそうびの主役っぷりが下がって水戸の若様の活躍が目立ってくるって印象。妖怪を探し求めて入った異次元での堂々した態度はさすがに将軍家に連なる大物って感じ。とりあえず味はどうでしたかって聞いてみたい。何味だかは読んでのお楽しみ。そうびはしかし依然として平べったいなあ。やがてはボンキュボンになるんだろーか。そっちにも興味。

 「みんなのうた」はあんな歌こんな歌があって楽しんで見ていたし口ずさんでもいたから僕の歌でもあったから正解。「みんなのゴルフ」もPSP版にプレイステーション3版を買って遊んでやり込んでいるから僕のゲームでもあるためやっぱり正解。みんなはイコール僕だといった認識に立って支持できるし、送り手側だってそーした誰にだって共感できるよーな要素を盛り込みタイトルに偽りのないよう「みんな」のものであろーと努力する。でも。

 「みんなの党」ってそりゃあいったい誰の党だ。少なくとも現時点では僕の党ではないしこれからなる可能性は今のところあんまりない。だって唐突。そして無分別。そもそもがグダグダと辞めるの辞めないのと揉めた挙げ句に飛び出した先で何をするでもなしに選挙を迎え、さあ当選のために党を作らないとと言って即席で作ったような党。当選したって数人で国政に何か影響を与えるような活動が出来るはずもなく、従って標榜する政策を実現することもまずなさそう。だからたとえその政策に共鳴したからって、その人のための党には実質的に成り得ない。ましてや支持しない人の方が現実的に圧倒的に多そうな中で、「みんなの党」を標榜するセンスが分からない。

 それを言うならせめて下手に出て「みなさまの党」だろう? 有権者と被選挙者のどっちが上だかよく考えてみれば、とてもじゃないけど上から目線の「みんなの党」だなんて言葉は出てこない。なになに英語じゃあ「you’re party」だからもっと有権者目線の党だって意味になっているって? でもそれって政党から言われる話じゃないよなあ。そもそもが政党って名乗るんなら政策を掲げそれを体現するような名前で勝負するのが普通だし、多くにだって分かりやすい。自由民主党。民主党。公明党。共産党。社会民主党。幸福実現党。とってもとっても分かり易い。あんまり実現して欲しくないのもあるけれど。まあ大丈夫だろうけれど。

 そんななかでの「みんなの党」。これといった言葉もなく、ただ政治を国民の手に取り戻すからって意味から着けた「みんなの党」。政治は最初っから国民の手にあるってば。それを世襲だの利益誘導だのでひん曲げてきたのが現在の政治家。そんな1人が筆頭に名を連ねていて何が「みんなの」だってーの。「あなたたちの」だってーの。そう言われたところでそうか僕たちのなんだと思えるはずがない。せめて1つ何かしてからみなさまの党でよろしいでしょうかをお伺いを立ててきて、それからそれならよろしいんじゃないですかと言って差し上げる。だからとりあえずお手並み拝見。1人として当選せず何の成果も出せなかったら即刻名前は返上のこと。そして次は「もまいらの党」で出馬のこと。そっちの方が何か親近感、湧くって多分。

 ありのまま今起こったことを話すぜ。おれは「ホッタラケの島」を見に行ったと思ったら「未来少年コナン」を見せられていた。レプカが太陽島を復活させて工業品の生産を始めたものの、捕らわれていたラナが暴れてコナンと逃げだし飛び立ったギガントを落としてレプカを丸裸にしてめでたしめでたしだった。ダイスとモンスリーとドンゴロスもちゃんと出てきてコナンを支えてた。ジムシーは地下の市民たちを煽動していた。何を言っているのか分からないと思うけれどもおれもおれもそれくらいしか分からない。とりあえず絵はちゃんと出来ていた。谷村美月さん演じる眼鏡っ娘が無駄眼鏡だった。パンツはちょっとだけ見えていた。出雲祝神社は実際はあんな山の上にはない。関内・マリア・太郎が頑張っていた。ところどころ紅真九郎になっていた。とっても恐ろしいものの片鱗を味わえる映画。それが「ホッタラケの島」。みんなで行こう。


【8月9日】 「キューティーハニー」のように、設定自体が女だけの悪の組織による世界征服と戦う女戦士という物語を別にするなら1970年代のテレビアニメにおいて、おおむね女性はヒロインという役柄をのぞけば悪の組織の女幹部といった役割が大半。そしてそれらは組織だって作られた役職というよりは、ビジュアル的な欲求から出ていた物といった雰囲気がやや強い。だから「機動戦士ガンダム」においてマチルダ・アジャンが輸送部隊を率いるリーダーとして登場した時に、軍隊という組織において旧日本軍の知識からではなかなかあり得ない配置に驚きを受けつつ、世界において、あるいは未来においてならこうした配置もあり得るのだという可能性を感じさせられた。

 イスラエルのように、あるいは中国のように男女を問わず戦う国があったことは後に知識を得るなかで理解していったが、当時は軍隊といえば男子ばかりといった認識だったから、その配置の意外性にまず驚き、格好良さに引っ張り込まれて作品に深く興味を抱いていった。そうした効果を狙ってのあるいは配置だったのかもしれないが、現在を見るに世界の軍隊は米軍も含め、女性兵士は数いて最前線へと配置されている。そうした1979年という時点から想像される未来の組織なり軍隊の有り様を、不自然さをまるで感じさせない中で描ききったという意味でも、「機動戦士ガンダム」は凄い作品だったし、立派にSFだったったと言えるのではないか。マチルダ・アジャンがいなければ果たしてミスマル・ユリカは誕生し得たか否か。興味深い設問だ。

 とはいえ流石に女性ばかりの船、ってのは設定上も無理があるのかあんまり見ないガンダムワールド。コロニーの建設時に事故で蔓延してしまった環境ホルモン物質なりの影響で、女性の比率が圧倒的に高くなってしまったコロニーがあってそこが何故か独立を果たし軍隊を作ったら、やっぱり乗るのは女性ばかりになってしまって普通にやったら体力的にかなわないんで、普段はお色気満載で世間を欺き油断させていざとなったらバリバリの軍艦に早変わり、なんて展開があったらそれはそれで今っぽいけどさすがにリアルが先に立つガンダムの世界ではあり得ないから残念至極。だから楽しめるならファンタジーの世界ってことで、白鳥士郎さんって人が書いた「蒼海ガールズ」(GA文庫)はまさしく女性ばかりの船が大海原を突っ走るって設定。

 どうやら女性の方が多く生まれる国があって、必然的に海に出るのも女性ばかりとなってしまったその国の船に助け上げられた主人公。とある王国の王族につらなる存在ながらも、勢力争いに負ける形で負われる羽目となって逃げた先で海に落ち、ジュゴンか何かに引っ張られる形で船に発見されたという始末。見目麗しい容貌にスレンダーな姿態。そして何より衣装がまんま可愛い女の子といったその主人公を拾って得々とする船だったけれども、実は主人公は男の子。逃げる途中で女装しただけだったから困ったことになった。なぜなら船は男子禁制、見つかればその場で死刑も必至という厳しい掟に縛られていたのだった。

 という展開からひとり状況を理解した艦長によって女の子として置いてあげると言われ、女装したまま船員たちに混じり仕事に勤しむ日々。ひとり自分をわらわらと言って偉そうにする少女もいたりしてこいつは何だと思ったらやっぱりそうかという展開もあったりする一方で、王子を狙って追っ手も迫りいよいよ始まった戦いの果てに王子は無事に逃げ延びることができるかという、有り体に言うならありがちな設定ながらもキャラクターの描写が生き生きとして物語の出し入れも巧みで、すんなりと入ってそのまま最後まで読んでいけるところが腕を上げたな白鳥士郎。「らじかるエレメンツ」ほどの頓狂さはないけどその分、良質のエンターテインメントに仕上がっている。正体もバレバレで続きはあり得なさそうだけれど、バレたのを周りの一部と理解するなら今後も似た境遇での更なる冒険ってのもあるのかな。あって欲しいな絶対に。

 ありがちであり得てあり来たりといったら戦国武将が全部女子、って方がなおありきたりだけれどもそれでも書きっぷりによってはまあまだ面白くなるんだって分かる春日みかげさん「織田信奈の野望」(GA文庫)。少年が目覚めるとそこは戦場で鍛え上げられたドッジボールの球から逃げるテクニックで矢をかわし、槍をかわして飛び込んだ先で見たのは今川義元を名乗る十二単を着た女の子。こりゃあ夢だと走り回っていたら小さいおっさんが出てきて共に逃げていたら、おっさんあっさりと流れ弾で戦死。そこに蜂須賀と名乗る少女が現れ死んだのは木下藤吉郎だと告げていっしょに出世する約束だったから代わりに下で仕えたいと言って少年の下に付き従うようになる。

 やっぱり夢だと思っていたらそこに現れた柴田勝家と名乗る少女はとってもグラマラス。さらに頭は適当に結われ衣装もざんばらで腰に瓢箪をざらざらとぶら下げた、見るからに信長だと思える少女が現れこういう設定ならこれが信長なんだろうとそう告げたら違う、信奈だと叱られどつかれそのまま下僕にされてしまった。というところから始まる現代の少年の戦国ライフ女だらけバージョンは、性別逆転の愉快さに加えて現実の歴史では悪逆非道で傍若無人な魔王となっていく信長を、信奈として魔王にはせず他人を思いながらも天下取りのために邁進させるようなキャラへと変えて歴史の単なる繰り返しを防いでいる。現代の理性と戦国の活力が重なった果てに見える世界は果たしてどんなパラダイスか。それともやっぱり元の木阿弥か。改変される世界の可能性なんかも想像しつつあの戦国武将があんな美少女にといった改変も楽しみながら読んでいけそうなシリーズ。しかし犬千代代わりすぎ。


【8月8日】 北米のそれも上目に落ちたホワイトベースがシアトルあたりから太平洋を超えてアジアに入り中央アジアを抜けて欧州からアイルランドを経て大西洋を地に染めつつ南米ジャブローに到達。そして宇宙へと還っていく展開は南米到着時をのぞけば総じて北目の地域を抜けていて、あまり暑さといったものに影響されない生活を送っているように画面からは見受けられる。ランバ・ラルと出会った中央アジアは砂漠で昼間は暑かったかもしれないが、それでも南国のムシムシとした暑さとは違っていたようで、誰もが衣服をしっかりと身に纏って肌の露出を避けていた。直射日光さえ受けなければカラリとして涼しい気候。故にハモンさんの柔肌を見る機会には恵まれなかった。

 そんな「機動戦士ガンダム」がもしも南アメリカのアルゼンチンあたりにホワイトベースが落下した状況から地球での戦いに突入したとしたら、いったいどんな展開になったかと想像するとすぐさま南米のジャブローへと向かいそこで補給し宇宙へ、となってアムロ・レイがガンダムで活躍する間もなく、従って覚醒もしないまま戦いは総力戦となり物量に勝る連邦が攻勢に出て、ジオンは降伏するものの全滅とまではいかず勢力として維持されながらも、ほぼ平穏な宇宙が続いていったのかもしれないが、それではお話にならないからやはり追撃して来たシャアがマゼラン海峡から南米を伺うジオンの勢力と合流し、ホワイトベースをまずは太平洋へと追い出してそして、南洋の島々を抜けて東南アジアへと向かうルートが選ばれることになったと考える。

 となればそこは南の海だ。目に見えるものは青い海に極彩色の草花。そして肌を露出させた女性達。陽気で楽しげな日々を送る南洋の人たちに見えながらホワイトベースの面々も、追撃するジオンの一党も気持ちがリラックスして開放的になって、なあなあな日常がくりひろげられるような話が見られたかも知れない。当然ながら現地で出会う人たちはとっても開放的。そして女性の衣装も開放的。刺激されてホワイトベースのクルー達も開放的な衣装となってセイラさんは水着でコアファイターを操縦し、ミライさんはビキニにパレオで操舵しキッカはもはや何も着けずに甲板を走り回ると言った、まるで違った景色が見られたかもしれない。

 いやいや、とさすがに軍なのでそれはなかったとしても、出会う人たちについては派手さが見られて毎日がテコ入れ水着回、といったこともあったかもしれない。それなら視聴率も維持され話は1年間続いたかもしれないが、ずっと南洋めぐりに終わって宇宙に戻らなかったら話も進まない。たとえマチルダさんがビキニ姿で補給に訪れ短パン姿で出迎えたアムロたちにテントを張らせる場面があったとしても、やはりホワイトベースは北米に落ちて中央アジアを回るルートを辿ってそこに戦いと別離と成長のドラマが描かれるのが「機動戦士ガンダム」にとって相応しいと言うしかないのだろう。シャアの短パンに仮面姿は少し見てみたかったが。マント着き。

 しかしやっぱりのんびりとして毎日が明るそうな南洋の生活に憧れたくなるのは、都会の喧噪に日々圧力を覚える現代人にとって仕方がないのかもしれないと、タヒチに移り住んで現地の生活や風景や人間たちを描いたポール・ゴーギャンの展覧会なんかに飾られた極彩色の絵なんかを見ながら強く感じ入る。そりゃあ顔立ちは西洋の基準からするとややズレていて南洋ならではの形をしていたりして、西洋の基準に慣れてしまった現代の目から見るとややダダイズムな感じもするけれども、直接触れあい言動を見聞きすればそこに感じるのは人間としての大きさだったり優しさだったりといったもの。なおかつ露出も激し目の衣装で目の前を歩かれれば、そこに何らかの感情というか官能を覚えないではいられない。ゴーギャンがずっといたくなった気分もよく分かる。

 そして西洋の人たちが同時代的にはともかく死後にその偉績を評価するようになったのも、西洋にはなかった素朴さと色彩とパッションがそこに感じられたからで、今となってはゴーギャンの絵は広い支持を集め高値で取引もされ、そして展覧会が開かれればゴッホやルノアールに並ぶくらいの長蛇の列が出来る、かというと案外にそうでもなかった国立近代美術館。チケット売り場は数人が並んでいるだけで、入っても絵の前に人垣が出来て進まないといった阿修羅展みたいな状況にはなていなくって、ちょい待っていれば確実に絵の前まで辿り着ける。午後も2時頃にはもう少し列も出来ていたけどそれだって10人とかそんなもの。阿修羅を思えば列なんてうちに入らない。伊勢神宮には列すら出来ていなかったけど。まあそれも仕方がないけど。

 さらに言うなら目玉とも言えゴーギャンにとっての代表作でもある「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」がボストン美術館からやって来ているというのに、絵の前に人垣なんてなくって真正面に断ってズイっと左右を眺められる。土曜日で昼頃だったとはいえこの余裕ってのは何だろう、やっぱりゴーギャンって日本じゃあゴッホとイジメた悪い奴って印象があるんだろうか、それともあのプリミティブさが西洋人ほど届かないんだろうか、単純に国立近代美術館って場所があんまり人を呼び寄せないんだろうか、上野の博物館よりも六本木の新国立美術館よりも立地的に良い場所にあるからそれはないんだろうけど何時行っても何を見てもあんまり混んでるって印象がないんだよなあ、もったいない、でも絵のファンにとっては最高の状況。もう2度と見られる機会もないだろうから時間があったらまた行こう。

 25年、といったら四半世紀かあ。つまりはそれだけの時間が「風の谷のナウシカ」からも「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」の公開からも経っているってことで我ながら歳をとったものだと感じ入ったけれども監督した宮崎駿さんも押井守さんもともに現役でなおかつ最前線に経って日本のアニメ業界のみならず映画業界すら引っ張っていたりする。当時はそうなって欲しいという願望こそあったけれどもやっぱりたかがアニメの時代。世の中心に座るなんてとてもんじゃないけど思っていなかったのが今やともに世界の巨匠の仲間入りとしているんだから驚くより他にない。そんな業界に飛び込んでいたら感慨の片棒を担げていたかもしれないと思うと地方に暮らして単なるファンとして楽しんでいたことがちょっと勿体なくもあるけれども、地方からだって業界に飛び込み名を上げた人だってたくさんいるからこればっかりは不徳の致すところを諦めよう。

 そんな25年をもしもかがみあきらさんが存命のまま走り抜けていたとしたら、いったいどれくらの仕事をしていてくれただろうかと思ってしまう8月8日。「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」のクレジットに見える名前はきっと他の作品にもいっぱいいっぱい広がって、その独特なメカのセンスやキャラクターのセンスや物語のアイディアでもってひとつの時代を築いていたに違いない。作品の中に友人知人として名前が現れている面々の、バーディだったりラーゼフォンだったりSF大将だったりバシュカッシュだったりと今なお最前線のその先で、活動を続けることからもそれは存分に伺える。ややひとり出てこない人もいるけれど。ガルディーンはどーなった。

 どちらかといえば割にというよりかなりオタクな方面に偏りがちなこうした面々とはやや違い、ロックへの造詣も深かったことからさらに広範囲へと届く活躍をしていた可能性すらあるんだけれどもしかし25年前に病没。享年26歳はやっぱり早すぎると言うより他にない。最近は復刻もなく情報も途絶え気味だけれどもそれでもやっぱり強く刻まれた記憶は消えはしない。8月8日を迎えるたびにこれからも、11年前に病没した将棋の村山聖9段ともども思い出しながら、かがみあきらがいて、村山9段が戦っている世界の凄さを想像していくのだろう。同時にそうではない世界の寂しさも。合掌。


【8月7日】 大河ドラマと並んで時代と併行して語られやすい番組がNHKの朝の連続テレビ小説で、時々にどんな女優がヒロインとなって活躍したかが後のメジャー化ぶりなどとともに語られては、番組の人気の程を世に知らしめる指標にもなっていた。振り返れば「機動戦士ガンダム」が放送されていた1979年の4月からは熊谷真美の「マー姉ちゃん」でこれは言わずと知れた「サザエさん」の長谷川町子の原作を題材にした作品で当時からその面白さが田中裕子の可愛らしさとともに人気になっていた。視聴率もきっと良かったのではないだろうか。

 続く10月からは「鮎のうた」でこれも今なお美人さで輝く山咲千里の主演作品でヒロインの美人度ではシリーズでも群を抜いているのではないだろうか。さらに「ガンダム」が世に広まった1980年の4月からは「なっちゃんの写真館」でヒロインは星野とも子、10月からは「虹を織る」で紺野美沙子と4人が4人とも今なおしっかりと活躍していたりするからこの2年は朝ドラでも飛び抜けて充実していた2年間だったと振り返られる。かといって「ガンダム」との連携した記憶にならないのは説明したとおりに番組として普通にいろいろ見ていた時代でそれらを連携させる必要もなかっただけのことなのだ。

 日常だっただけとも言えるけれどもやがて世間の関心がテレビ番組から遠ざかり気味になるに連れて、どんな番組でも何かを絡めて語らなくては世に広まらなくなったことから何かと絡めての報じられ方が活発化して、それを見てそうなんだと関連づけの記憶を刻まれていったのだとも考えられる。松本人志の映画がなぜか「世界陸上」と連携して語られやり投げをトイレの吸盤投げになぞらえらた映像が放送されると聞くと、なるほどそうまでしなければ世間に陸上への認知を行き渡らせられないのかという深刻さに気づく。絡めなくては伝わらないと思っているのだろう。それが伝えようとする努力をオミットして安易に走られているのだろう。もはやそれが逆効果につながりかねない状況にも関わらず、やってしまうテレビ側の態度はやがて、ウンザリ感を招いて沈滞へと向かうことになりかねないのだが、果たしていったいどうなっているのか。興味が湧く。

 あとは選手へのニックネームがあまりに非陸上的だからとお断りをされておきながら、やり投げというスポーツの神髄を見せるのではなく、お笑い芸人が前作に並べたとてつもなくどうしようもない内容になりそうな映画を公開するという話を絡めた映像を流して、映画をPRしつつ陸上も知ってもらおうとするTBSの態度の不遜さにも血圧が上がる。スポーツはスポーツとしての凄さを伝えるのが役目じゃないのか? 映画と陸上のどっちをより宣伝したいんだ。報道における拙さを散々っぱらやりまくっていて、それに対して異論が出て分かりましたと言っているはずの会社がやっぱり同じことをやって恥じない体質は、そこのみならずメディア全体の尊大さ故の崩壊って奴を、リアルなものとして感じさせていそう。未来あるのか。そっちにはあってもこっちにはなさそうなんだよなあ。生殺しも飽きて来たなあ。

   ってことでかんじやの予習をするために朝ドラの「ちりとてちん」の総集編のDVDを買ってエラエラと視たら何だこりゃあ滅茶苦茶おもしれえじゃんか。いわゆるおっちょこちょい気味で劣等感ありありな少女がそれでもやる気を出して大阪に行って蹴躓いたところを出会った落語の路に飛び込んで、そこでもいろいろありながらも頑張って成功して幸せを掴むっていったストーリーをコミカルあり、人情ありなドラマの上に描いてあってこりゃあ毎回視てたら楽しくって楽しくって見ずにおくことが難しかったに違いない。

 それにしても最高だったB子の演技。表面はともかく内目的にはきわめて多感で揺れやすい役柄をよくぞ演じきったぞ貫地谷しほりさん。女優って仕事に対する気持ちのとてつもない強さってものが浮かんでくる。ずっとぬくちやって読んでいたけど写真集の「カンジヤノハナシ」を買って読んでそれが正しい読み方なんだとも判明。もう忘れない。結婚しても名字とか変えないで欲しいなあ。山田しほりとか佐藤しほりとかじゃああったりまえ過ぎる。本仮屋ユイカと並んで2大珍しい名字の無形文化財化を提案するぞ。

 そしていよいよ「EA SPORTSアクティブ パーソナルトレーナーWii 30日生活改善プログラム」の30日生活改善プログラムへと突入してみようかと帰宅した深夜の午前1時からWiiを起動してみる不摂生。これで酒なんざぁ入っていた日にゃあ確実に心臓を虐めまくれそうだけれども、逆にいうならこれをやるんで寝酒を止めるって理由にもなる。「もやしもん」の第8巻を読んでから妙に地ビールづいて「エチゴビール」だの「よなよなビール」だの「KOEDO」だのを近所のスーパーで買い飲みして、その暫く前から暑さしのぎと思いながらも出腹が気になりセーブのためにと選んでいたアサヒの糖質ゼロビールの味が、やっぱりビールなんてものじゃない、飲み物としたってこりゃあどうしたものかって味だったことに気づかされてもう戻れないなあと弱っていただけに、ここでトレーニングを理由にビール断ちと決め込めるのも或いは天の配剤と捕らえるべきなのかも。運動後にグビッっとやってちゃあ意味ないんだけれど。

 運動はとりあえずイージーなメニューでもって初めてみたら前の日にカスタムメニューでやたらと出てきた、跪いて戻る運動が入ってなくって脹ら的にはラッキーだけれど果たして運動になったのか。スクワットは2度あった。問題はやはりランニングか。両脇を本の山と段ボール箱の山に挟まれた名実ともに鰻の寝床のベッド上でやっているんで走るための足踏みは無理だし、インラインスケートのトリックにつながるジャンプだってできやしない。スケートに関して言えばしゃがんだ姿勢からの伸び上がりでもそれなりに反応してくれるから、太股への不可にはなってまあ良さそう。だからランニングとあと体を左右に引っ張るような運動だけはどうにもこなせそうもない。段ボールを倉庫に運べばスッキリするんだけれどそれだと体力がキツいんだよなあこの夏じゃ。ってかそれを毎日やるだけで相当な運動になるじゃんWiiで運動しなくても。今気がついた。やっぱり出不精はいかんなあ。

 といわけでかんじやのさらに予習をかねて「屋根裏のポムネンカ」の日本語吹き替え版を見に行ったら佐野史郎が妙ちきりんだった。相変わらず妙ちきりんな役を嬉々としてやっている感じが伺えたけれどもそこは佐野史郎さんだけあって作ったイジー・バルタ監督に対する知識も相当なものだったらしくて共演というたいっしょに声を吹き変えたポムネンカ役の貫地屋しほりさんに電話で語り会ったら語り語って語り倒したらしい。

 きっとそれはヤン・シュバイクマイエルの凄さから始まってトルンカの凄みを語り尽くしてそして昨今のチェコアニメ事情なんかにも触れつつバルタのどこがどう凄いのかを語って語り倒したに違いない。聞けば相当に勉強になったかも。機会があったら是非に聴いてみたいけれどもでもそれで10時間コース×3日、だったらちょっと大変かも。1週間? あり得るあり得る。クトゥルーだったらさらに3倍。やっぱり妙ちきりんだよ佐野史郎さん。

 んでもって「屋根裏のポムネンカ」はチェコアニメ、って語彙から勝手に浮かぶような難解なところがまるでなくって、見ていてスムーズに屋根裏にうち捨てられながらも仲間どうして楽しく暮らしている玩具たちに起こったとある出来事が描かれて、奪われたお姫さまを取り戻そうと仲間たちが冒険に一所懸命になる姿を一緒になって楽しめる。そんな冒険が人形を中心としたアニメーションによって描かれているから何をどう使って人形を作り、それをどう動かしてアニメに仕立て上げているのかもドラマと一緒になって楽しめる。

 人形アニメっていうとどうしても先入観から止まっているものをどう動かしてどう撮って、どう動いているように見せかけているかってところに関心が向かってドラマが蔑ろにされがちなんだけれども「ポムネンカ」に関してはドラマの楽しさがまずあって、それを表現するための動きや道具の楽しさを味わえるから見ていてまるでストレスが貯まらない。良い作品。子供も見ていたけれど退屈そうじゃなかったところからもイージーさが分かるってものだ。

 でもって動きの方も実にユニーク。粘土が丸まって作られたキャラクターは粘土らしさが出ていて伸びたり縮んだりちぎれたりして元に戻ったりする、そんな動きが付けられていて人形アニメっぽさを感じさせるし木彫りの人形に熊の縫いぐるみもそれらしい動きをちゃんと見せる。そしてポムネンカ。くるくると変わる表情とかよく作ったよなあ。そんな人形の声をちゃんとあてている貫地谷しほりさんも実に達者。原語があんまりキャピキャピとはしてない普通の女性の声だったってことでキャピキャピとした少女の声は作らず割に落ち着いた声をしっかり出している。こんな声も出せるんだ。ってことはナレーションだって出来るかも。大きく見直す。そんなかんじやについての予習の成果を後ほどぶつけて結果はさてはて。いつかどこかに現れることでしょう。とりあえず「ポムネンカ」は良いものだったということで。


【8月6日】 その年を語る上でかつては、1年間に渡って放送されるNHKの大河ドラマもひとつの指標の中ではなっていた。今となってはまるで視ていないけれども小学生の高学年あたりから中学生、高校生の頃まで好きで毎週日曜日の午後八時はこれを見るのが日課になっていて、視ながら歴史のことを好きになって覚えていったことが、歴史の成績の良さにつながり大学を史学科へと歩ませた、というとそうでもないのは点数が良かったのは日本史ではなく世界史で、進んだ学科も日本史ではなく東洋史だったことからも分かるのだが、それはさておき「機動戦士ガンダム」が放送されていた1979年に、NHKでは大河ドラマとして源頼朝とその妻、政子を主人公に描いた「草燃える」が放送されていた。

 もちろんずっと視ていて、石坂浩二が演じる頼朝の最初はおだやかそうで凛々しかったのがだんだんと猜疑心のカタマリのような性格になっていって陰険さを増していった様とか、当時は美形俳優の代表格だった国広富之が歴史上では美形と黙されている源義経を演じて悲劇の若武者ぶりを見せてくれた様を楽しみにしていた。金田龍之介や滝田栄といった役者を知ったのもこの作品か。とはいえ1979年だからといって「機動戦士ガンダム」と「草燃える」がどこかで記憶の中に重なりを持って存在してるかとうと、やはりあまり重なっていないところは「銀河鉄道999」の劇場版などと同様。ひとつにはまだ自分の中にブームが来ていなかったことがあり、また番組は番組として楽しみ関連づけて考えることをしなかったことがある。

 だからブームとして盛り上がった1980年も大河ドラマ「獅子の時代」と「機動戦士ガンダム」にこれといった重なりはない。視ていたのは同じ時期なのにアニメーションとドラマで役者に重なりはなく、音楽もせいぜいが劇場アニメ版のやしきたかじんに谷村新司で「獅子の時代」のダウンタウンファイティングブギウギバンドとはやっぱり重ならない。ここでダウンタウンが「ガンダム」の主題歌を手がけていれば内的なリンケージも視られたかも知れないが、そうしたことは起こらず主演のひとりの菅原文太がアニメと重なるのは宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」まで待つことになる。加藤剛はアニメと何か関わりを持っていたのだろうか。

 それにしてもクラシカルなガンダムの音楽に対してダウンタウンとは何とロックなサウンドを使っていたのだろうか、「獅子の時代」は。今の映像コンテンツの最先端が実はNHKにあるのは誰もが知るところだが、堅そうに見せて進取の試みをしっかりやる風潮は、その時代からしっかりと醸成されていたのだろう。ストーリーも歴史上の偉人ではなく明治維新前後に薩摩と会津にそれぞれに生まれた武士の息子たちが、方や官軍として栄達を遂げ、こなた賊軍として苦難にあえぎながらも共に現状に懐疑を抱き、ぶち壊そうとして動く姿が右にも左にも与せず風潮に流されず、自分の思うところを生きていく大切さというものを教えていた。ある意味で地球連邦とジオンの、ともにどちらが明確な悪ではなアムロとシャアのどちらも主人公である「機動戦士ガンダム」と似た構造の話だったと言えそう。冷戦はまだ終わりを告げていなかったが、嵐のような70年代が終わってノンポリの繁栄に向かい始めた時代に、何に依って立つかを模索していた社会の空気が、こうした作品を生みだしたのかもしれない。違うかもしれない。

 そんな「獅子の時代」に出演していた大原麗子さんが死亡していたとの方。だってまだまだ現役だったんじゃないのか、と思い調べたら数年前から病気を患い療養に入っていたという。同じ病気に力也さんも罹患して療養にあり、またサンフレッチェ広島で得点を取りまくっている佐藤寿人選手も同様の病気を経験していたとあって、割にある上に治る病気でもあるんだといった認識も一方には立ったけれども、こじらせれば全身が動かなくなってしまうくらいに大変な病気でもあるようで、おまけに渡瀬恒彦さん、森進一さんといったところと離婚もして今はずっとひとり暮らしだったとのこと。そんな最中に病が進み、体に変調を来してしまってそのまま没してしまったのだとしたらこんなに寂しい話はない。どの役がどれ、といった記憶はないけれどもいろいろな役であの美声とそしてはにかんだような笑顔を見せてくれたことは強く記憶に刻まれている。「すこし愛して、長く愛して」の名コピーに彩られたCMも。ともあれ没してしまった事実は変えられない。ただただその死を悼み黙祷、そして合掌。

 完璧な人間なんていやしないとなるとつまりは欠けているのが普通であってそれを埋めた完璧な人間なんて実は人間じゃないんだということも言えそうだけれどでもどこか、欠落しているというのは気持ちに不安があるのだろうか、埋めようとして埋められずにあがき続けることが人間にとっての生きる力になる。もしも本当に欠落が埋まってしまったらもはや存在する意味なんてないんだとすら思えるんだけれどでもただでさえ欠落している人間が、さらなる欠落に陥ったとしたらさすがに埋めようとして動くのも仕方がない。

 ってことで日野イズムさん「欠落フェティシズム」(ガンガンノベルズ)には死を欠落してしまった少年やら、存在を欠落してしまった少女やら忘れることを欠落してしまった少女なんかが現れくんずほぐれつ。そんな欠落した人たちを愛でる銀髪の美少女なんかも登場して起こる騒動は、欠落を埋めて現世に帰る少女もいる一方で欠落に反乱を起こされ惑う少女もいたりともう何が何だかな中から見えてくるのは青春って奴はどこかに気持ちが満たされていない所があるもので、それを欠落を考え埋めようとして足掻くことによって前に人間、進んでいけるんだってことなのか。違うのか。まあともあれ不思議系西尾維新系の怪異が日常に並列していてギャグ混じりの言説でつづられるストーリー。4階を超えていくスマッシュが当たった地面が視たい。掘れているのか砕けているのか。


【8月5日】 もしも「機動戦士ガンダム」で一定期間が無限にループするとしたそれはいったいどの辺りからどこまでが……という話は前にも書いたことがあるような気がするけれどもきっと気のせいに違いない一体今は何月なんですかこの暑さこの周りで五月蠅く鳴いているのあれは蝉なんでしょうかサクラ先生……すでに無限ループの中に取り込まれているかもしれない繰り返される「機動戦士ガンダム」祭りというループの中に。それはともかく今度は連邦ではなくジオンの側から繰り返される栄光を考えるならやはり最初の侵攻が、どんどんと成功して破竹の勢いで進んでいく辺りがやっぱり何度繰り返しても嬉しいし、逆にそこで止まっていれば悲惨な瓦解を招かなくても済んだといった思いも振り返ってみればあるだろう。

 とはいえ「ガンダム」がサイド7の大地に立って行こうは追撃すれば全滅させられ追いつめたと思ったら見方のはずのシャアの裏切りによって御曹司が戦死するという始末。そこで割り切り物量で押せば良かったものを戦力の逐次投入をいう愚作によってランバ・ラルを失い黒い三連星を失いマ・クベの鉱山を失って地球から撤退するという情けなさ。そう考えるとジオンの栄光とかこの俺のプライドなどといったものは案外に、短くそれこそナチスドイツの政権にすら及ばない一瞬の輝きでしかなかったのではないかと思われて来る。なればこそなおのこと緒戦の攻勢、そしてそこから感じされる歓喜に永遠に浸り続けたいと願って止まない気持ちも当然か。そんな短い期間で今なお連邦派に互した勢力をファンの間に保ち続けるジオンの魅力とは? 考えてみる必要がありそうだ。

 そしていったいえっとだいたい7回目? ついにテレビ画面は真っ白に変わってそこにいったい何が写し出されているのか分からなくなってしまっていたのに、ずっと付き合っていた人はそこに別に全然関係のない高校による甲子園での野球大会が写し出されていることを知っている。どうしてだ? これがデ・ジャ・ヴュという奴なのか。そんなこたーない。とはいえそうした強制的な既視感という奴をここまで感じさせるということは1度や2度の繰り返しではなかった訳で、繰り返される同じ時間にとっつかまって堂々巡りをさせられる鬱陶しさって奴を感じさせ、それを自分では如何ともしがたい状況におかれたキャラクターたちの焦燥に気持ちを近づけさせることに大成功した作り手側の企みに、これはやはり21世紀のテレビアニメーション史、のみならず21世紀の文化史に残る“事件”であると断じて決して断じすぎではないといった確信が湧いてきている。

 これであと1万5542回とか、繰り返されたら喝采物だけれどもそれだけ付き合っているとこちらも死んでしまうし声優の人たちも骨から塵へと変わってしまうからやはり無理。次でいよいよ動くといった想像も成り立つ中であの8月30日での喫茶店にどう決着をつけ、そして8月31日の宿題ラッシュをキョンがどうくぐり抜けるのか? といった所に注目しながら「涼宮ハルヒの憂鬱」の「エンドレスエイト」のジ・エンドを待とう。しかし放送される時期が夏休みのまっただ中で、いよいよ本格的に夏休みがずっとこのまま続かないかなあと誰もが思い始めた頃というのは何か皮肉。終わるのなんて辞めてくれ、このままずっと続いてくれという全国の願いが作り手側に働いて、翌週は「エンドレスエイト」の1回目から再び放送が始まったりしたら……それもそれで愉快だねえ。

 いったい阿良々木暦のどこが良いんだかまるでさっぱりな訳だけれども分からないからこそ戦場ヶ原ひたぎみたいなツンツンツンにちょいデレやら、八九寺真宵みたいなギャンギャンと吼える中にちょい寂しさの滲ませた娘とかに関心を持たれたり取り憑かれたり告白されたりしないんだろう我が人生。そりゃあ親切だったら誰にだってするし路地裏で猫が寒さに震えていれば毛布のくるめて暖めてあげたりするかもしれない。寂しがっている子がいればケンケンとされようとも声くらいかける……かというと昨今は目を合わせただけで防犯ブザーの世知辛さ。だから声はかけないかもしれないけれども危険が迫ればやっぱり何かするかもしれないんだけれどもそうしたところで問題は、そうしたことにキュンキュンとなる戦場ヶ原のようなマインドの持ち主が周囲にはいないってことだ。自分の努力だけでは如何ともしがたい出会いの運。これを鍛えるにはいったいどこで何をすれば良いのか。やっぱり出不精はいかんなあ。

 パスポートが期限切れになっていたんで申請しよーと写真をとったら顔が丸々と膨らんでいたのを視てもはやこれは限界を超えていると体力の強化に乗り出す決意を固めたものの、買い込んだエアロバイクは下に本が積み重なり、上に本が積み上がっていてとてもじゃないけどまたがれない。本を片づければ良いんだけれどそれには箱詰めして箱詰めして箱詰めして箱詰めして箱詰めしてから同じ数だけ運ばないとけないんでやや面倒。かといって近所を走るのもはばかられると迷っていた時に現れた救世主が任天堂のWiiで楽しむフィットネスソフト。といってもWiiフィットではなくエレクトロニック・アーツが出した「パーソナルトレーナー」って奴で近所で発表会があったんで噂の長谷川理恵さんも登場するその発表会へとかけつけ、見物して効果の程がありそうなのを確認してこれは買いだとヨドバシカメラに任天堂のWiiを買いに走った自分の軽さにいささか幻滅。

 Wiiなら発売翌日あたりに買ってあったんだけれど開けずにそまま実家に送り返した過去がある。理由は置き場所がない、遊ぶスペースがないといった根元的なことでそれは未だ解決されていないんだけれど出る腹には変えられないととにかくまずは無理にでも置こうと黒はなかったんで白を買い込み「プレイステーション3」の上にセッティング。何だこの大きさの違いは。これでブルーレイまで視られたら完璧だよなあ、でもDVDだって見られないのが謎というか、視られるよーにするんじゃなかったっけ。過去は振り返らない。でもって早速トレーニングのテスト。スクワット。キツ過ぎ。跪く繰り返し。死ぬ。ランニングは不可能なんでパスするけれども腿上げもキツいし楽しそうに見えたパンチもやたらときつい。エアコンが効かない部屋なだけに暑さも酷くて汗もダクダク。繰り返せば確実に変化しそうな気もしたけれども問題はこれがどこまで続けられるか、ってことなのだよなあ。架空なトレーナーの励ましではちょっと気力が。戦場ヶ原ひたぎの罵倒とちょっとの激励でもあれば頑張れるのに。だから永遠に買われないのかもしれない。うむ。


【8月4日】 実は「勇者ライディーン」と「無敵超人ザンボット3」と「無敵鋼人代ターン3」と「伝説巨神イデオン」と「戦闘メカザブングル」と「聖戦士ダンバイン」と「重戦機」とそして「機動戦士ガンダム」はすべて背景として繋がっていてそれぞれの登場人物には縁戚関係なり転生関係があってそれらをつなげた壮大なサーガをいずれは描きたいんだともしも富野由悠季監督が言い出したとしたら、果たして世間は喝采でもって歓待するかそれともブーイングでもって罵倒するか。

 戦闘シミュレーションといった目的を同じくしたフィールドでこれらが重なることは「スーパーロボット大戦」のようなゲームを例にあり得る話ではあるが、物語として「ガンダム」が「Z」や「ZZ」と繋がりそして「ターンエー」にも黒歴史として繋がっていることがあったとしても、ヴァイストンウェルとペンタゴナワールドと惑星ゾラを連続させるには相当規模の裏設定なり周到な準備が必要そう。そこにさらにバッフクランがいる世界まで絡めてはいったい何が何だか分からなくなるに違いない。ましてや「キングゲイナー」なんていったいどこにハマるのか。

 時々のスポンサー筋の要望とあとは直感でもって世界を作り上げている富野監督が、松本零士さんのように「銀河鉄道999」と「宇宙海賊キャプテンハーロック」と「クイーン・エメラルダス」と「千年女王」とそして「男おいどん」をひとつの世界につなげたものとして構想していたとはとても考えられないだけに、やはりアムロ・レイの生まれ変わりにダバ・マイロードを入れ黒騎士バーン・バニングスの転生をギャブレット・ギャブレイだと考えるのはやはり無理だと認識するのが良さそう。世界が1つは松本さんと永井豪さんだけで十分なのだから。

 そこで例えば頭をぼりぼりとやりなが「ウチのカミさんがね」とひとしきり前ふりを入れて相手を戸惑わせ、苛立たせながら「そいでその供述にある犯行の時間なんですがそいつは正しいんですよね」と尋ね、「当たり前じゃないか」と検事に自信満々に答えさせてから「そりゃあ変だ。だってその時間に彼は私と会ってたんだか」と言って裁判員の1人が証拠の写真をひらひらさせながらにっこり微笑んでみせるような裁判があるいは、いつか現れたりするんだろうかと想像もしてみたくなった昨今の裁判員裁判での慌てふためいた報道ぶり。

 質問がまるで出ないことがニュースになって報じられ、そんでもってようやく質問が出たことがニュースになりその内容が何だったかが細かく報じられるんだけれど、その質問って実に正鵠を射て裁判の行方に大きく関わるような凄いものだったのか。つまりは発言の価値はどれだけあったのかって所にまるで関心が向かないで、質問があったというそれ事態がただ単に初だからといって取りあげられ、持ち上げられて語られたりするこの状況の、どうにも芯を欠いての浮かれっぷりが薄気味悪くて仕方がない。もしも最初の質問が「あんたねえ、お母さんは泣いているよ」ってみのもんたばりの説教だったとしてもメ、ディアは派手に取りあげたんだろうか。

 それなら流石に話題性もあるって取りあげたんだろうけれど、逆に「年齢は」って感じに、別に聞かなくても分かるようなことを敢えて聞いただけの内容でもやっぱり日本で初の裁判員裁判で初めておこなわれた裁判員からの質問だってことで取りあげられ、歴史に刻まれメディアに報じられたりしたんだろう。うーんやっぱり薄気味悪い。中身ではなくって行為が取りあげられ話題にされるような状況が、これからも続くようなら本当に法廷は面白い……ではなくってトンデモないことになるんじゃなかろーか。

 それこそよれよれトレンチのおっさんが「ウチのカミさんがね」と呟き、チューリップハットの着物姿の兄ちゃんが「大変ですよ大変ですよ」と歩き回り、鹿撃ち帽を被り法定内は禁煙なのにパイプを加えた鷲っ鼻の壮年が「あなたはフィンランド生まれで父親は歯科医、母親は像使いで左利きのAB型、そして足の中指に水虫があるね」と断じて悦に入るようなパフォーマー揃いの法廷が、現れないとも限らないんじゃなかろーか。ってかそっちの方が裁判をする目的はともかくとして見た目としては絶対に面白い。着物から桜吹雪がペイントされた片袖はだけさせて「やいやいやい」と怒鳴る裁判員、なんてものも出たりして。いやあこれからが楽しみだったら楽しみだ。

 青蛙な人だかに共に戦い先を越されたはずだったのがどこへやらって印象になって残念って話も伺っていた東亮太さんがここに帰還。「妄想少女 そんなにいっぱい脱げません!?」(角川スニーカー文庫)は希代のネット絵師として注目をされていた人物のサイトにアクセスしたらそこから美少女が抜けだしてきていろいろ絡んでくれるとゆー、男の願望を存分に満たしてくれる設定がまずは繰り出されるんだけれどもそんな絵を描いた相手が学校でも1番人気の美少女だったりした訳で、裏の顔で美少女絵を描いて抜け出てきた少女とハアハアやってた彼女の正体を知ってしまった主人公の少年は、生みの親を袖にして自分のところに抜けてくる美少女に喜びながらも困りつつ、美少女絵師がかつて組んでたパートナーの攻撃なんかも受けつつ毎日を過ごしていくとゆーストーリーで、妄想の行き着く先の困難さと、それを乗り越えてでも得られる至福の素晴らしさって奴を感じさせてくれる。軽さもあってキャッチーでもある物語り。これをステップに大復活を期待。したい。んだけど。どうかな。

 えっとそうかもう12年になるのか、紺野キタさんの「ひみつの階段」って漫画の単行本が偕成社から出て読んで大感動した時から。その後に「ひみつの階段」はポプラ社から復刊されて収録作品も増え、その他の作品もあれやこれやがあちらこちらから出てすっかりメジャーの域、ってほどではないけれども誰も知らない作家から、知る人ぞ知る作家にまでは評判が広がったのは嬉しい限りだったけれども、その代表作とも言える「ひみつの階段」は復刊されながらも絶版が進んで手に入らなくなっていた模様。それがポプラ社からは再びで、全体では3度目の復刊となって完全版として登場。偕成社版が手元のどこかに埋もれてしまっているから比べられないし、ポプラ社版も同様だったりするんだけれどそんな比較なんて無関係に読んでいけば楽しく懐かしく嬉しく微笑ましいエピソードがてんこ盛り。不思議がいっぱいある学校に還って仲間達と語らいながら過ごしたいって気分が湧いて出てきて困ってしまう。本当にほんとうに良い話。そして良い世界。今度こそは定番となって永遠に残って欲しいものだけれども。そうもいかないんだろうなあ。でも出来る限りとお願い。


【8月3日】 同じ30周年を迎えるということで劇場版「銀河鉄道999」を見返す機会があったのだが、1979年という同じ時間を共有していながら記憶として「銀河鉄道999」と「機動戦士ガンダム」に同時に熱中した記憶がまるで浮かばないというのは何だろう、やはり自分にとっての「ガンダム」は再放送後にブレイクして大人気となった1980年のものだからという認識が強くあるからなのかもしれない。同じことはテレビ版の「サイボーグ009」にも言えるが、だからといって「サイボーグ009」が「銀河鉄道999」と重なっているかというとこれもまた微妙。当時はだからあくまで番組のひとつとしてアニメは見ていても、それらを一群としてとらえ差異を研究するようなマインドが、まだ醸成されていなかったのだろう。

 劇場版「銀河鉄道999」で機械隊長を演じている田中崇こと銀河万丈さんは同じ時期の「サイボーグ009」にも005のジェロにも役で登場しているが、そうした演技がギレン・ザビと重なって聞こえたということはないし、重ねて聴くという週刊もなかった。声優が誰、ではなくキャラクターが何、といったある意味では表層的ではあるけれども、ある意味ではテレビ番組としてきわめて健全な見方が当時はされていた。そもそもが中学生で作画が誰で声優が誰でメカデザインは誰なのか、といった見方をするような人などそうそういるものではない。見たくてもそんな情報を得る手段もない。それ以前に興味も向かわない。番組としてのアニメ。物語としてのアニメがどれだけ毎回、面白いかがすべてであって裏事情を読んだり声にすがったりキャラのみに目を凝らしたりなどしなかった。する暇もなかった。

 どちらかといえば今はそれがすべてになっている。そうしなくたって大丈夫な作品だって存分にあるにも関わらず、捕らえられ方でキャラと声優がまず立ったりして物語が背後に下がってしまっている。それは受け手がそういった心性になってしまってキャラクターグッズ、声優の関連アイテムとして作品を認識し、購買の是非を決めていたりする事情があるのかもしれない。作り手の側もそんな心性を組んでより強調した方向へと走った結果、相乗効果というか相互作用でキャラが前に立ち声優が誰かが問われ作画が特徴的か否かが論議され、その是非で購入されるか否かが決まってしまうスパイラルに陥っている、という認識が果たして成り立つのか、それともネタとしてアニメが語られる状況が一回りして、物語があってそれを支えるキャラがあり絵があり声優があってこそ売れる作品になるといった時代が来ているのか。「空の境界」や「東のエデン」の売れ行きなり人気ぶりを横目に見つつ、考えてみたいテーマではある。とりあえず「プリンセスラヴァー」は良いものだ。

 「咲 −Saki−」もまあ良いものだけれど展開が単行本に追い付いてしまって残る2ヶ月をいったいどう走る積もりなんだろう。連載が今どうなっているか分からないけど天江衣との戦いにとりあえず決着をつけてそれにそぐう形でアニメの方も完結させる、といった方向になるってことなのか。連載が終わらない中で無茶に走って後半にダレてしまった「バンブーブレード」の二の舞はやはり避けたいところだろうしオリジナル展開に突っ走ってそれはそれで面白かったんだけれど原作ファンには今ひとつ評判がよろしくなかった「黒神」の後も継ぎたくないだろうし。ちなみに「隠の王」はアニメの展開もそれはそれでとっても大好き。むしろコミック版の方が話が広がり過ぎていったいどうなってしまうのかが悩ましい。「セキレイ」はとっととアニメの続きを作って欲しいけどそれだとまだ原作が足りないか。やっぱり悩ましい。

 鷹見一幸さん「会長の切り札」は第3巻で女子高と男子校が存亡をかけた大バトル。すでに抜けだした主人公達の通う共学校は高みの見物と行きたいところだろうけれども、アイディアを出すことになって巻き込まれてた挙げ句に商店街を使ったモノポリーという案になってまずは陣地決めのお風呂バトルやら魚編漢字バトルやらミックスフライ作りバトルやらがあれやこれや。でもってそこでは決まらず続く話でいよいよモノポリー決戦となるってところでその戦いぶりに盛り込まれたアイディアなんかも機にかかるけど、どちらが消えても寂しい男子校と女子高のどちらをどう裁いて残すのか、それとも見事に裁いて誰も悲しまない路を作り出すのか、といった辺りが要点か。大人の事情に振りまわされて生徒達が苦しむなんて理不尽だ、って立ち上がって世間に戦いを挑んでくれたらそれはそれで愉快痛快なんだけど。さてはて。

 聴くところによると4割だか6割だかが深井零とブッカーの関係に興味をそそられた女性だったというサイン会も開かれて人気の健在ぶりを見せてくれた神林長平さんの「戦闘妖精・雪風」の最新刊なんかをじとじとと読み始めるけど前の巻のラストがどーなっていたのかすでに思い出せない健忘状態でいきなりジャムが攻めてきてFAFの基地はジャムまみれ、って状況にそんなことになっていたんだとまず驚き、それからリン・ジャクスンの周辺を描いた流れでフェアリーの様子を描く方法にそういう描き方になっているんだと感心、って連載読んでなかったのかと言われると実は読んでいませんでしたというか流してしか読んでなくって今ひとつ、状況が把握できていなかった。昔は連載もしっかり読んでいたんだけど読む本が増えてくると1ヶ月の間に3度4度と読み返し、細部を噛みしめて続きを待つって行動が出来なくなって、いきおい単行本が出たら流して一気読みしてはいサヨウナラ、って感じになってしまいがち。それで雰囲気は理解できても細部は味わえない悩みにちょっと最近、読書の方法を考えなくっちゃって思えて来た。時間があればなあ。時間なんてたっぷりできるさ遠からず、なんて声も聞こえる秋の波。


【8月2日】 前に大阪の「天保山サントリーミュージアム」と東京の「上野の森美術館」で「機動戦士ガンダム」を素材にした現代美術の展覧会が開かれたことがあったが、ここに出されたものはあくまでも現代のサブカルチャーのイコンとして君臨する「ガンダム」をモチーフに制作されたものであって、母性の象徴としてのセイラ・マスがその獰猛さを全開にさせた西尾康之さんの作品に見られるように、「ガンダム」の世界をそれぞれのアーティストが理解し咀嚼して吐き出したものがメイン。それはそれで「ガンダム」というものが如何に幅広いアーティストたちから関心を持たれているかが分かったものの、「ガンダム」そのものがアートと同列の文脈で語られてはいなかった。

 これが例えばあと10年経ったら某かのアートとして「ガンダム」が持っていたフォルムなり、「ガンダム」が描かれた原画の素晴らしさなり「ガンダム」のストーリーが持つ深遠さが認められ、集められて飾られることになるかというと果たしてどうか。初放送から30年が経った「ガンダム」では未だ成されていないことが「ナウシカ」から25年という宮崎駿監督の所属するスタジオ・ジブリ作品では堂々、おこなわれているところを見ると決して未だ機が熟していないというよりは、ジブリ作品に比して「ガンダム」がアートの文脈で語られるフェーズにないという判断を、アートの側がしているといった理解も成り立つ。

 というよりは、ジブリ側のアート方面に対するプレゼンテーション能力がひとえに高いという、気の利いた物になっているということがひとつにあり、またアート方面に君臨する存在が同時にジブリ方面にも影響力を発揮していることが2つを結び合わせて総体としてのムーブメントを起こそうという企みを成り立たせていたりもする。だから東京都現代美術館ではスタジオジブリに関連した展覧会が集客の良さそうな夏に決まって開かれるようになっているのに対して、「ガンダム」そのものがアートの拠点で紹介されるという事態には至っていない。

 ならば実際にそうした諸事情を抜きにして「ガンダム」が東京都現代美術館で展示されるなら、いったいどれくらいの人が来てくれるのか。そもそもがどんなものを展示できるのか、といった所に話は向かうが果たして原画は揃っているのだろうか、セル画はどれくらい残っているのだろうか、ストーリーボードやイメージボードといったものはあるのだろうか、大河原邦男さんが描くメカニックのデッサンなり原画は展示が可能なのだろうか、等々と起こる疑問は果てしない。フォルムに関してはガンプラを始めお台場に建った等身大立像も含めて、幾らでも立体物を展示できるけれど、肝心の原点が展示できなれければ作品そのもののアート性が認められたとは言い難い。

 完成したフィルムこそがすべて、といった理解は当然に可能だしアニメーションとう商業作品を理解する上でそれは正しい。正しいけれどもそうした総合芸術的作品の原点であり部品でもある細部にだって立派にアート性があり歴史性もあるのだということもまた、同時に言って言えないことはないし、現にジブリはジブリそのものとそして付き合いのあるディズニーを巻き込んで言い始めている。このままではディズニーとジブリだけがアートであって他は、といった現象も起こりかねない。

 たとえ個々人がそうではないと認めても展覧会がおこなわれたという事実が積み重なってそういった差異を歴史の上に刻み込んでしまうのだ。その意味でメディア芸術総合センターというアーカイブ機能を持った拠点の構想は決して無駄ではないと思うのだが、純粋にアニメをフィルム、漫画を単行本の形でのみ認めるべきといった声もあって、これがなかなかに根強いだけに悩ましい。そんな時代ではないのだと、そんな事態でもないのだと考える方向へと世間を導くために何をすべきか。選挙という山をひとつ越えた後で浮上してきそうな問題だろう。政権ともども過去へと置き去りにされてもはや問題化されることはない、といった可能性も低くはないのだが。

 と言うわけで東京都現代美術館でメアリー・ブレア展を見に行く。何でまた「ナイン・オールドメン」ではなくってブレアなのか、ってあたりがさすがにアニメーターのお仕事だけではマニアックすぎて人は呼べない、だったら見た目が可愛らしくってキャッチーな絵本テイストを持ったブレアの作品を並べつつ当人も美人でディズニーが愛した云々と惹句を着けることで情動にも働きかけようって算段だったとしたらまあ正解。会場にはそれなりに客も入っていたし、そうして集まった若い女性たちが見て感心するような展示ないようになっていたから。小中学生っぽい女の子が多かったのは何でかちょっと不明だったけど。そーゆー娘が見るメディアに紹介されてたとか?

 アニメっぽさを打ち出してアニメっぽいところに感心を持った人を集めようとしているけれども、展示を見ればアニメっぽさはほとんどない。だいたいがメアリー・ブレアって別にアニメーターではないんだよなあ。コンセプトメークの人で、ビジュアルとキャラクターにも影響を与えてはいるよーで、「不思議の国のアリス」なんかのあのキッチュな風景とかは割にブレアのテイストが出ているんじゃんかあろーか、ただしアリスの可愛らしさはあくまでアニメのものであって、ブレアの描くアリスのボードはどこか横幅が広かったりちっこかったりとデフォルメが効き過ぎていた。

 1枚絵としての愉快さはあっても動くアニメは使用が難しい、ってところが後にイメージを描いたものの立体のアトラクションには採用されないって状況を招いたりもしたんだろー。その意味ではよりアートの世界に近い人だったって言えそう。ここで言うアートとはアニメも含めたって意味ではなくってもっとファインにアート寄りって意味だけど。ちなみに旦那のリー・ブレアの方がよほどかアニメーターの人っぽい。「ファンタジア」の原画だかが飾ってあってなかなか巧み。画家としてもワイエスっぽい風景画を描いてた。そんな旦那の絵とか、当時の雑誌の挿絵とかが並んで時代は浮かび上がっても誰が誰だかちょっと不明になっていた辺りは、単独でのメアリー・ブレアでは流石に世界観は出せないと、時代を映して背景になりそうなものを揃えることでブレアの出来るまでと出来た後を浮かび上がらせようとした、キュレーションの側の意図があったってことなんだろう。

 そうやって浮かび上がったブレアの世界はやっぱりキッチュでとっても賑やか。「イッツアスモールワールド」なんかのコンセプトではカラフルな色彩が使われていて、見たところ「タイツくん」のスイスイに所属していて最近は「おべとも学園」も人気なアーティストのobetomoに気持ち似ていたような感じもした、ってことはobetomoもメアリー・ブレアみたくなれるのか? ブレアも絵本で活躍してたしobetomoさんも絵本に行けば結構な世界観を切り開けそうな雰囲気があるだけに、ブレア展なんかをフックにして一気にブレイクして欲しいなもの。主催紙あたりが引っ張り出せば良いのに、ってどこだったっけ主催紙。

 東京都現代美術館では続けて地下の伊藤公像さんのの展覧会で土塊が並んでいる様を見る。拾い空間に敷き詰められた土塊が飛び込んでこいと心さそう。でも壊れたら弁償ものだから遠慮。常設展ではヤノベケンジさんのトラやんが入り口に立ってて相当に迫力。でも火は噴いていなかった。見終わってから秋葉原経由で上野へと回りこれは主催紙がどこかよっく分かっている「伊勢神宮展」を見物。なあんだ三種の神器は来てないのか。伊勢うどんも食べられないのか。赤福餅は売っていたけど名古屋じゃあ珍しくもないから気にしない。展示物はうーん、コンセプトがよく分からない。見れば伊勢神宮の凄さが分かるような立体物が欲しかった気が。神像とかって別に神宮にあるものじゃないじゃん、それが見られる意味って奴を誰か教えて欲しかった。美輪様の開設にはあったのかな。売ってたTシャツは天の岩戸のビジュアルのが面白そうだったけれども肝心のアメノウズメがカットされているのが何ともはや。あそこでメインはウズメちゃんじゃないのかい。やれやれ。


【8月1日】 使えば物には魂が宿る、という物語が一方にはあるけれども「機動戦士ガンダム」には振り返ってみればそうしたシチュエーションはまるでなかった。「まだ帰れる場所があるんだ」とアムロ・レイがア・バオア・クーの中を彷徨っていた時に、頭部を破壊され半身を焼かれたガンダムを見つけたのはあくまでも偶然であって、そこにガンダムの呼ぶ請えがあったといった描写はない。正しい方向に飛び出せたのはカツ、レツ、キッカの呼ぶ声が聞こえたからであって、ホワイトベースがこちらだと呼びかけたからではない。

 遠くの方にいる人の声が聞こえるとか、やってくる攻撃がいち早く察知できるといった超能力的な描写はあってもそれは人間の能力が存分に覚醒したといった解釈であって、そこには思考する主体が必要。ホワイトベースやガンダムといった物体にはそうした思考の回路は存在せず、従って声を発して人を守ると言ったオカルティックな描写は盛り込まれなかったのだろう。とはえいならば超能力は可能なのかというと、これもはなはだオカルティックなもので、第六感や虫の知らせといったものがあったとしても、科学で証明されたものではないし、証明され得る類のものでもない。

 そうしたいという気持ちとそうして欲しいという願いが選択肢の少ない中で重なっておこったひとつの現象の間に、何か超常的な意志の疎通があったのではないかと、後講釈として語られただけ、といった解釈もあるいは可能だったりしそう。とはいえそれでは人類の進歩にはつながらないと、こと人間においては禁を破って超常的な力を描き与えたのかもしれない。直後の「伝説巨神イデオン」ではイデの力なる超常的な力を物質に与えていたりするから、監督自身がそうしたものを信じていない、といったことはないのだろう。リアルのレベルをどこに置くか、といった辺りの判断を見極めながら富野作品を振り返ってみるのも面白そうだ。

 まあ日本の場合は付喪神のように物でも愛情なりなんなりを注ぎ込まれると、意思を持つようになって現れ出たりすることがあるって思考がずっと昔からあるから、むしろそうした描写がない方が不思議に思ってしまうことがあるのかもしれない。大切に使えばきっと答えてくれるという思考。たとえ現実にはあり得ないことであっても、方向としては間違っていないしそうした方向が示唆されることによってあるいは自分の身にも起こるかもって期待を持たせて物に慈しみを抱かせる。そしていざ、そうした事態が起こった時にやっぱりそうなんだという感情が湧いて出てきて涙を誘うのだ。

 ってことを「ONEPIECE」のW7編総集編最終号なんかを読んで強く実感。追いつめられたルフィたちを救いにゴーイングメリー号が現れたページを開いた途端にぐおっと感動のカタマリが腹からせり上がってきて鼻から目へと突き抜けた。物ってやっぱり大切にするべきなんだなあ。と言うわけで4ヶ月連続の刊行も一段落でこのあとはテレビでアニメもずっと見ていたスリラーバーク編。さらにシャボンディ諸島編からアマゾン・リリーとの邂逅へとつながっていくんだけれどもずっとクールなニコ・ロビンが、文字どおりに石に囓りついてでも抗おうとして必死になった表情やしぐさを目一杯に見せてくれるのってこのシリーズくらい。その人間っぷりをいったい、アニメで山口さんがどう演じていたのか、見ていなかっただけに興味が湧いてきた。DVD揃えようかなあ。どうしようかなあ。「BLEACH」のDVDボックスも欲しいなあ。今さらジャンプアニメ。

 観賞、ではなく観戦、と言おう。映画「サマーウォーズ」観戦。本当は参戦、したかったんだけれどもそれにはOZアカウントなるものが必要。アバターを作って中に入らないとそれを差し出してナツキの背中を支えることができないんだから仕方がない。でも見て面白さを伝えて広めて、映画興行全体としての成功へと盛り上げるという意味では、僭越だけれど参戦したってちょっとは言っても良いのかなあ。いやあまだまだだ。たとえ初日が満席でも、2日目3日目1週間後と客足が減って廃れてしまっては意味がない。だからここは精一杯に言葉を連ねて面白さを伝えると同時に、みずからも再び三度四度五度と劇場に足を運んで陣内家の戦いぶりを観戦してこよう。

 という訳で、劇場公開初日を迎えた細田守監督の最新作「サマーウォーズ」を観戦しに海浜幕張のシネプレックス幕張へ。すでにしてチケットは抑えてあったんで大丈夫だったけれども、あとで出口で見たら初回2回目と満席になっていたから初日はまずまずの滑り出しだった模様。とはいえ4番スクリーンはそれほど広くはなくって、予約開始の初日で堂々のど真ん中がとれてしまうくらいに出足は鈍かったから、今後いったいどれくらい盛り上がるかは今日見た人たちがどんな感想をあちらこちらで振りまいて、より大勢の人へと映画をつなげていくかにかかっていそう。そんな一助になればと連ねる言葉は…。

 面白いから絶対に見ろ。それだけで十分だしストーリーについて話しては興も削がれるんで説明はせず。ただ言うなら夏希先輩はとってもかわいらしくって、お風呂場で横からチラリと胸元が見えたりしてもう最高。佳主馬も小憎らしいけど可愛らしくってこれでついてなかったらとか妄想も浮かんだりするけれども、ついてたって結構といった気分を湧き起こさせる可愛さなんでビジュアル的な不足はなし。そしてメッセージ的に素晴らしいポイントがてんこ盛り。家族のつながりってものの良さを感じさせ、いっぱいの人たちが集まって知恵を出し合い力を重ね合わせる大切さって奴を思い起こさせ、言葉でもって励まし勇気づけることは絶対に無駄ではないって教えられ、いざというときにだったら自分ではいったい何ができるのか、何をすべきなのか、何かをすべきなのだって考えに至らされる。

 泣ける場面も存分。老人が世界を励ます言葉は、そのまま自分への、自分たちへの励ましにつながる。辛いときに見れば励まされ、幸せな時に見れば誰かに幸せを伝えようと思えてくる。瀬戸際まで追いつめられた時に現れた大勢の力と励ましは、頑張ってさえいればきっと見てくれている人がいるんだという自信につながり、頑張っている人を見捨てないで助けてあげようという思いにつながる。命に等しいものを差し出すことになりどうでも、それで救われるより多くの命があるのだったら踏み出してみるという勇気。それは決して無謀な蛮勇ではなく、成功をつかみ取るための賭なんだと思えば、いたずらな犠牲ばかりを連ねることもない。

 何かこの最近の現代。希薄になったつながりが、いたずらな対立と先鋭的な感情の突出を生んで世の中をぎくしゃくとさせているような気がしてならない。でも本当にみんなそうしたいのか。本当に対立したいのか。相手を根こそぎ叩きつぶせば幸せになれるのか。相手にだって心もあれば体もあるし家族もいる。そんな当たり前のことなのに見過ごされがちな現実に、「サマーウォーズ」って映画が改めて気づかせてくれる。はるか彼方へと伸びていく人のつながりの中で、できるかぎり誰も悲しまないようにしたいという想像力を、もういちど呼び起こすんだと諭してくれる。

 世界がもっと穏やかになって、誰もが誰にでも優しくになれるような風潮を作り出すために、「サマーウォーズ」はもっともっと見られるべき映画だとここに確信する。観戦せよ。そして世界を優しくする戦いへと参戦せよ。この夏が世界が変わった始まりになって、その根っこに「サマーウォーズ」があったらこんなに素晴らしいことはないんだけど。問題は夏にこの世界は救われても、ごくごく身近なところではただひたすら二囂々と音を立てて落下する滝壺へと一直線だったりすることなんだけど。駅で買えなくなっちゃってたよ。どうなっているんだいったい。なにがしたいんだまったく。


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