縮刷版2009年6月中旬号


【6月20日】 もはや幼児から小学生低学年といった子供たちに対して「機動戦士ガンダム」はアプローチが不可能なのかもしれないと、「コロコロコミック」が中心となった「次世代ワールドホビーフェア」の会場を見ながら考える。もとよりガンダムのティーン向け展開はライバル誌だった「コミックボンボン」が中心で、「コロコロ」でガンダム関連のプロパティは扱っていなかったから「次世代ワールドホビーフェア」にガンダムがいないのは半ば当然。ただしかしだったら「ボンボン」亡き後の「ガンダムエース」なり「ケロケロエース」での展開が、どこまで幼児から小学生の子供たちに届いているのかがよく見えない。

 今の20歳代にSD系のガンダムを見せるとこれはSDだって反応が返って来るのはたぶん「ボンボン」あたりから情報を仕入れテレビなどでアニメも見て、刷り込まれていったからでそうした場面で醸成されたガンダムへの関心が、ティーンへと移った時にガンプラへの関心へと繋がり新しいガンダムのアニメーションへのシンパシーとなって発展して、30年が経った今もどうにかガンダムを支えている。けど今、新しい低学年層への種まきが果たして前のように順調なのかというとどこかに届いていないような雰囲気が見て取れる。むしろ「大怪獣バトル」で地道にテコ入れをし直した「ウルトラマン」の方がよほど大きな認知度を保っているのではなかろうか。

 このまま5年が経ち10年が経ち20年が経った時に、下の層でガンダムをふんだんに浴びずに育った層がティーンから大人へとなっていった時にガンダムはどんな世代にとっての作品になっているのか。アトムが40代からもはや50代のノスタルジックな象徴と化して大人世代が懐かしさから踊らせても、子供世代がまるで反応を返さない現状などを見るにつけ、やがてガンダムもそうなっていったりするのだろうかと想像も浮かぶ。そのままやがてパチンコパチスロの本格的な商材となり、「夢を壊したな」と純粋なファンを憤らせつつ「これ面白いんじゃね」と20代の“再発見”を招いていくという道もないでもないが。

 発端がティーンへの強烈なインパクトだった訳だから今もティーンを強烈に引き込む作品を作ればそこから巻き返せるという見方も可能だろうが、それには何より作品が必要であるにも関わらず、現時点において作品はなく決まっている「ガンダムUC」はテレビの地上波での放送が果たしてあるのかがよく見えない。物語よりもキャラクターの関係性に比重が偏ってそうしたファンを生みだし10年を保っても、それより後に続いていかない状況も踏まえつつ未来を想像すると、やはり何かをしておく必要があるのかもしれない。かといって今さら「コロコロ」の軍門に下る訳にもいかないまま、「ベッカムくん」にも劣る認知度へと堕していくのかもしれない。

 しかし何だか訳のわからない人気ぶりだなあ「ベッカムくん」。というか良いのがベッカムで。頭が尖ったペンギンだからベッカムか。いやまあただの名前なんだから誰が使っても良いんだろうけど、ポールとかスミスとかジョンとかと違って明らかにメジャーな人物が1人でその特質を持たせてあるからにはやっぱりそこに関連性を感じない訳にはいかないからなあ。ってな感じに「ペンギンの問題」だかのあふれかえった「幕張メッセ」で開催の「次世代ワールドホビーフェア」は任天堂の「Wiiスポーツリゾート」がでっかく並んではいたけれども、まあ「Wiiスポーツ」の進化系でしかないんで売れるだろうけどそれがゲームのこれからを見せてくれるってものじゃない。ローンチのタイトルがい守って人気なあたりにあのハードの完成度がありそして限界もあったってことなのか。まだまだ新しい使い方があってマーケットがあるのか。「ウィニングイレブンプレーメーカー」は傑作だと思うんだけどなあ。「レッツタップ」とかも。

 「モンスターハンター3」もでっかく出ていたけれどもしかしPSPで寄り合ってアドホックで対戦するから面白い「モンハン」を家庭にぶっこんで子供は遊んでくれるのかねえ。PC版はまた違ったネトゲな層が遊んでいるから良いんだけど、外で時間を見つけて寄り合いプレーしてそして離れていくことが醍醐味のゲームを家で引きこもって遊ぶことにどこまで少年層が価値を見いだせるか。あるいは大人たちが時間を傾けられるのか。まあ今が絶好調なカプコンのことだからきっとそうした疑念を晴らす何かをぶつけてきてくれると考えよう。絶好調だった「バイオハザード」をGCで埋もれさせかけたような経験はもうないよね。

 ざっと歩いて新しいチャレンジってのがあんまりなかったなあって印象。バンダイのあれやこれやとがちゃがちゃくっつけてもけいを作り上げるブロックみたいなのも前からあたしゼルゲノムだって前と変わらず。むしろベイブレードの復活ぶりがすごくって、潰れかけた商材でもテコ入れによってくるりとサイクルが回って蘇ることもあるんだと改めて再認識。ハイパーヨーヨーだってまた来るかも。ジターリングはきっと来ないな。家にあるけど1つ2つ。歩いていたら漫画を手に持ちセリフを読んで聞かせる漫読家の人も出展していて聞いてる娘さんとかいたり。

 声優志望だった人が転向して頑張ってるって話をどっかで読んだけれども、なるほど頑張ってはいても声音は割と普通っていうかパフォーマンスの性格上、どうしても講談風紙芝居風になってしまうんで、声優的な演技にはならず果たして巧いのかどうなのかが分からず仕舞。なるほどそんな芸もあったんだね的な受け入れられ方はしても、鉄拳みたいに徹底してそれを通してキャラとして立つまでに至るか否かが今後の勝負の分かれ目か。ちなみに置いてあった漫画は場所がらぜんぶ小学館。「ジョジョの奇妙な冒険」とか「北斗の拳」なんかを読ませて奇声やら何やらをどう叫ぶかはちょっと聞いてみたいかも。あとセリフが少ない劇画とか。

 早々に引き上げ「タイツくん」好きが集まる「ロフトプラスワン」でのイベントを少しだけ見物。始まる前はどうなることかと思った入りだったけれども親交も広いみたいで始まる頃にはそれなりの盛況ぶり。コースターにコメントを書かせて大喜利的に話を広げてく企画での、松岡宏行さんの妄想炸裂っぷりがなかなかに楽しく愉快でありました。モデル体型で胸とか薄めの女性が子豚を連れて歩いているのを散歩中だった自分の子供をけしかけ豚を見せてもらうようにし向けたものの子供に見やすいようにと屈んだモデル体型の女性の大きく開いた胸元から見えたのがあまり谷間ではなくってほとんどポッチリだけだったのにどうしたら良いのか分からなくなったとかいった話。あるあるあるある。あとはobetomoさんっぽい人がなかなかにキューティーだったことが収穫か。

 出て新宿パセラとかに寄ろうかとも考えたけれども昨今、立て続けにおこった非常事態に気鬱も激しくルサンチマンばかりが吹き出そうな感じになってたんで引きこもろうと三越に寄ってジュンク堂で漫画を仕入れて帰宅。去年の冬に対して4割減で手取り分が東海道の宿場の数程度だったものがLPレコードの回転数へとさらに落ちて「ごらんの有り様だよ」と呆れかえった翌々日には人財などという言葉はやはり存在していないのだなあという事例を垣間見つつ効率化のための効率化がもたらすだろう品質面への影響を思い冬はLPレコードの回転数がいよいよ成人年齢すら割り込むどころか月々の分すら滞るんじゃねえかって妄想にまみれて落ち込んだ心を倉田英之さん原作でokamaさん絵の「クロス・ロオド」の第7巻に突如復活したジューン・メイ様の可憐にして圧倒的なトップモデルぶりがちょっとだけ晴らしてくれる。いやあ強いわ。でも敵もなかなかに手強そう。メイ様は果たして勝てるのか。次巻に乞うご期待。しかしいったい何時になるやら。

 神楽坂淳さんの「大正野球娘。」は徳間書店から小説の新刊を読んだらたこ焼きが東京の女学生考案物品になっていた。それで良いのか大阪人? でも伊藤伸平さんのあまりにも伊藤伸平さんしている漫画版「大正野球娘。」を読んだらそっちでは金属バットが日本の女学生の発明になっていた。これはつまりパラレル物のSFなのだと思えば全然平気ってことで。いやまあ漫画版は小説版に輪をかけて飛びっぷりが凄いんで。洋装したたまちゃんがとっても美人だったのに賛辞。でもまだ野球、始まらないなあ。ほかに麻宮騎亜さん「彼女のカレラ」の13巻など。ポルシェ好き好きな女性のウザっぷりに辟易としながらも何かを成し遂げたいなら他人のことなどお構いなしに突っ走るのが正しいのかもと思いつつ、それが出来たらもっと気楽に生きられるんだろうけど自分にゃ無理だと思ったらまたまた気分が下がってきた。ポルシェに乗れる日は永遠に来そうもないなあ。


【6月19日】 「機動戦士ガンダム」の打ち切りがさらにはやまって2クールだったとしたら話はいったいどんな感じになったのだろうか。話数で言うなら26話が「復活のシャア」でランバ・ラルとの戦いをくぐり抜けマ・クベとの激闘もしのいだホワイトベースが一息ついていた場面。ここまでを端折って宇宙へと返す訳にもいかないから、シャアを倒して宇宙へとさあ向かおうというところで「俺達の戦いはこれからだ」といった感じに幕を引いた感じになってしまったのではないだろうか。

 幸いにして3クールも過ぎて43話まで保ったガンダムは敵との戦いをしっかり重ね、アムロのニュータイプとしての覚醒もちゃんと成し遂げシャアとのケリも付けさせた。さらに50話までだったら何が増えていたのか。逆にドラマが重なりすぎてシャアは死に、世界はひとつにまとまって続編の余地もなくなていたかもしれない。微妙なところでの打ち切りもまた未来に期待をつないでファンを煽って続編への欲求を出させ、今へとつながるコンテンツへとガンダムを仕立て上げる要因になっていたのかもしれない。歴史はだから面白い。

 「俺たちの戦いはこれからだ」「これからも『東のエデン』を応援下さいね」「ちゃんちゃん」。ではあったかもしれないテレビでの「東のエデン」の最終回。森美咲が滝沢朗と他のセレソンとの会話を横から聞いた話をエデンメンバーへと説明するセリフでもって過去の経緯をまとめて披露。どんな奴で何かをしようとして成功したけど後で色々いわれて絶望して、ニートたちを逃がして自分が悪者になってそしてアメリカへと逃亡した、って経緯だったみたいだけれどもそれならどーして記憶を消したのか、それもホワイトハウスの前で全裸になって記憶を消したのかって説明は成されない。

 「東のエデン」って有為なプラットフォームを作り出したメンバーの1人の咲がその場所にいて、警官に追われる羽目となったところを助けて知りあい、そして日本に戻って接触して自分の方へと引き入れ、他のセレソンが目論む日本の破壊を阻止することを予測してアメリカへと渡ったのかどうなのか。単に義憤に駆られて直情的に動きニートを煽っただけじゃあ説明できない動きが多すぎる。60発のミサイルの落下を阻止するのにニートたちの思考の集合を行ったのだとして、あのタイミングでどーしてどっかから貨車に積んでニートたちを呼び戻せたのか。

 他のセレソンから60発のミサイル攻撃を行うって行動をうち明けられたのは全日の夜。そこから板津の処に戻りメールの履歴を漁り対応策を考えたところで、物理的に不可能だっただろう。それが出来てしまったってことはあらかじめ四デイたとしか思えない。だとしたらどの段階でどう読んでいたのか。滝沢本人が読んでいたのか。それとも記憶を失う前の滝沢が読んで仕込んでおいたのか。他にセレソンがいて助けているのか。あの場面だけでは分からないことが多すぎる。そして積み残されてしまったことも山ほどある。滝沢朗が王様になるってどういうことだ。何をするってことなんだ。ジュイスは王子様って言っていたけどそれは咲を助ける王子様っていった啓示的な意味でしかないのか、それとも実質としての日本の王様にちゃんと仕立て上げるのか。

 咲とみっちょんを豊洲へと運んだタクシーの運転手も妙に怪しい。でなきゃあんあ風に抜きの画面なんて入らない。ではならいったい何者か。そのあたりはきっと11月と、それして来年1月に公開される映画でもってちゃんと明かされることだろう。明かされないと気になって夜も眠れない。総集編って奴もあるのかな。それがあって映画へと行けばそっちから入った人もちゃんと映画に行くだろうからきっとやるんじゃなかろーか。だったらテレビなんていらないんじゃない? ってのもまあごもっとも。最初っから劇場でやれよって話になる。

 とはいえ劇場での連続公開で稼いでパッケージも売りまくって、アニメのビジネスに新しいモデルを作り上げた「空の境界」なんかの場合は、それなら行くって人が結構いたりした超強力なコンテンツ。それじゃなきゃあいきなり劇場に足なんて引っ張れない。「交響詩篇エウレカセブン」みたいにテレビでの記憶があったからこそ劇場も盛り上がっているって例もある。ならばテレビを商品として位置づけつつプレゼンとしてもとらえてそこで周知を行い、劇場へと誘い入場料を稼ぎパッケージも売って収益化を計るってのも、テレビ放送だけでは録画されて見られて終わりで、まるで誰も儲からない仕組みからの脱却に繋がるんじゃなかろーか。

 例のセンターの議論に絡めて、必要なのはクリエーターの収入アップって言うけれど、それってアニメをただ見ているだけじゃあ、絶対に適わないんだよ現状では。DVDなり関連商品を買わないと、直接にしろスポンサーを通しての間接にしろ、収益が制作側にもたらされない状況になってしまっている以上、パッケージを買ってもらえる仕掛けを作ることがやっぱり必要だし、それを受け入れるしかないのかも。作品を調達する側が対価を支払う仕組みなり、枠の確保にかかる値段の適正化なりほかにもやって欲しいんだろうこともあるけれど、まずは面白そうなら買ってあげること。劇場に足を運んであげること。その価値が「東のエデン」にはまだありそうなんで頑張ってチケットを買って劇場へ通おう。もちろん場所は豊洲だ。

 っていうか何故またメイド? なロベルタさん。「魔の三角地帯」へと乗り込んだキャクストンたちの部隊を先回りして麻薬作りの拠点を叩きリーダーを捕まえ縛り付けてはキャクストンたちが入ってくるのを待ち受ける。その恰好がメイド。ロアナプラあたりでは着替えてパンツ姿で暴れ回っていたはずなのに。着替えたんだろうか暑い熱帯で首までぴっちり詰め襟のメイド服を着て弾丸を差し込むベルトをたすきにかけ、手にフリントロックな長銃を持ち短銃をベルトに差し込んだ恰好はどこの時代錯誤かって思わせるけどでもやっぱり、ロベルタさんにはメイドな服装がよく似合う。ラブレス家の使用人として主人の仇を討つにはやっぱりこの恰好しかないんだろう。

 願わくばいつもの丸い眼鏡をしていて欲しかったけれどもどこかで割ったか落としたかして剣呑な目つきをした眼がまるまる見えてしまっている。ちょっと恐いかも。そんな「サンデーGX」2009年7月号の広江礼威さん「BLACK LAGOON」はダッチの過去についてキャクストンが疑問を呈してベニーに囁きかけていたけれども、経歴が何だって今が大事なのがロアナプラの住民たち。腕が確かで度胸も避ければそれで船長は務まるのだから問題ないってこと。むしろそこにこだわるキャクストンたちの方が、アウトローに見えてまだまだ真っ当な軍人でしかないってことをそこで露呈させたかったのかも。しかしレヴィが目立ってないなあ。来月も活躍しそうもないしなあ。「ヨルムンガンド」のパルメも入院中だし。代わりに「ワイルダネス」の恵那が張り切っていたけど役者不足だよなあ。パイプ状のトップで巻かれた胸だけは良いけど。

 でもって「ヨルムンガンド」はいよいよもってココへと迫る不穏な動き。ブックマンが正面から挑もうとすれば背後でヘックスがならず者たちを煽動してココへの攻撃を本格化させそうな気配。いよいよ誰かココの仲間で死人が出るのかそれとも不屈の軍団は堪えるのか。前にも死者は出ているみたいなんで都合良く全員無事ってことはないだろうなあ。「ジオブリーダーズ」だって最後は全滅だったもん、あの殺したって地獄のそこから追い返されてきそうな神楽総合警備の面々が。「GX」ではあと冒頭で「コミックチャージ」から「打撃女医」が移籍……じゃねえ。主人公が医者じゃなくって巫女だか何かで、作者もイダタツヒコさんになっている。でもバットを振りまわしてコトをイタすのは一緒。そんなに便利なものなのか、バットって。1つ買って置いておくかなあ、街を持って歩いても別に職質で危険物だからと没収されたりしないもんなあ、されるの?

 メイドといえばいったい何時から“萌え”なるののアイコンになったのかを考えた時に真っ先に浮かぶのがサントリーリザーブのCMに登場して、ボブ・ジェームスの「マルコポーロ」って曲に合わせて踊っていたメイドさんの可愛らしさ。足を高々をあげる格好良さにくるくると回ってスカートを翻させる健康的なエロティックさはまだ若い人たちの眼を射抜いてメイドさん的なビジュアルへの関心を高めたに違いない。問題はそれがメイドさんだから興味を惹かれたのか、別の普通に奥さんみたいな人が踊って足をあげて回転しても惹かれたのかってあたりで、制服というフェティッシュさを持った存在が羽目を外してはしゃぎ回る姿にこそ何かを感じた可能性もある一方で、演じていた人そのもののコケティッシュさに惹かれた可能性もあったりする。

 少なくとも当時においてメイドというアイコンだからとダイレクトに反応するような回路は無かった。そしてそれ以後に連結が起こったとするならやっぱり偉大なCMだったと言えるだろう。クリアな画像でまた見てみたい。あるいは同じものを別の誰かで作り直してみるとか。リザーブのハイボールのCMでやればサントリー、確実に注目を浴び売上を伸ばし株価を上げるだろうなあ。見てみたいなあ。どっかのCM制作会社がそーゆープレゼンをしないかなあ。時代はウイスキー。そしてメイドなのだからとかなんとか。


【6月18日】 本放送を見ていなかった身にはいったい「機動戦士ガンダム」の最終回「脱出」を視聴者はどんな思いで見ていたのかがとても気になる。すでにしてシャアとの対決は確定的。そこでアムロが勝利するだろうという予想は成り立つものの、ではだったらシャアはどうなるのかという疑問はやっぱり浮かんだだろう。巨大なモビルアーマーのジオングを駆ってガンダムを追いつめようとしていただけに、あの体格差をどう埋めてガンダムが逆転するか、といった想像にとらわれた人も多かったかもしれない。

 だが展開はまさかの肉弾戦。それもどこか欧州風の部屋での剣戟と相成った。ロボットプロレスの常道を外れた展開。なおかつロボットも破壊されうち捨てられてしまう展開を見せられて、当時のファンがどんな感想を抱いたのかに興味が及ぶ。今だったら最終回の放映中に実況スレッドが立って意見が書き込まれ、終了後もさまざまな意見が掲示板に連ねられて見ればダイレクトな感想が伝わってくる。日記やブログのようなものにはやや時間が経ってからの分析めいたものも書かれて同時代的な評価を満天下に知らしめる。ネット上のデータはそのまま残って何年後か、何十年後かの人に当時の驚きや怒りを伝えることになる。

 パソコン通信のフォーラムやSIGが立ち上がっていただろう90年代初頭のアニメについても、掘り出せば当時のさまざまな意見が残されているに違いないが、今ほど人数も多くなく、また通信にも費用のかかった時代に寄せられた意見にはやはりどこか世間との乖離もあるだろう。そもそもがそうしたパソコン通信時代の言説がどこかには残っていてもどこにでもあっていつでも見られる類のものではない。そう考えるとリアルタイムに最終回の感想が溢れ出し、それを今も閲覧できるのはインターネットが普及し、個人サイトが出来上がって日記のようなフォーマットが一般にも使われ始めた1995年から6年以降、作品でいうなら「新世紀エヴァンゲリオン」あたりから、といったことになるのだろう。

 「エヴァ」については自分自身もそんなリアルタイムでの驚愕を書き記しているから、ひっくり返せばそのあたりの感慨を13年が経った今でもきわめてくっきりと思い出すことができる。以降のアニメーションの最終回についても、見ていたものに関してはひっくり返してたどれるようになっていて、驚いたり呆れたり予定通りだと納得したりといった感情の動きを知ることができる。なかなかに興味深いが、だからそれゆえに「機動戦士ガンダム」という作品のあの最終回がリアルタイムにどう受け止められたのかに興味が及んで仕方がない。「伝説巨神イデオン」の最終回や「宇宙戦士バルディオス」のラストについても同様。打ち切り気味の帳尻合わせにどう憤りつつ、何を思ったのかを知りたいものだがはたして術はあるのだろうか。

ぽにょぽにょふくらみすぎた  最終回といえば今日にも迎える「東のエデン」の最終回を告知する中吊り広告が東京メトロの地下鉄丸の内線に掲示されていてなかなかに驚き。もちろん第1巻のブルーレイディスクとDVDの発売を告知するものではあるんだけれどもそれよりも目立つ場所に目立つサイズでもって「最終回」の放送告知がされている。見ていた人にはそうか最終回なんだなあ、でもって映画公開かあ、ってな考えが浮かぶ告知ではあるんだろうけれど、ずっと見ていなかった人には、それがいったいどうしたんだ的な無用の長物でしかない。最終回だけ見たってしょうがないって普通は思うだろう。とはいえそんなことが告知されるくらいの作品だと知ってもらい、発売されるブルーレイなりDVDを買ってもらい劇場にも足を運んでもらえれば、市場も広がるって目算もできない訳じゃない。映画が宣伝に頼るならばアニメだって宣伝から市場を稼ぐってのがあるいは、ひとつの主流になっていったりするのかもしれない。

 それにしても「エヴァ」にも増して最終回が読めない「東のエデン」。もちろんあとに劇場版があるってことでそちらに持ち越される謎もあるんだろうから、適当なところで風呂敷をまるめて見せてくれるんだろうなあ、ってな予測もあってそんなに構えていたりはしないんだけれど、そんな「おれたちのたたかいはこれからだ」的最終回が通用する時代でもない現在、ある程度はまとめてくるだとしてそのまとめがどこに落ち着くのかがまるで読めないところが小憎らしい。シャンパンを持って出てきた眼鏡っ娘はジュイスなのかどうなのかって疑問は脇に置いても、そんなシーンでそっぽ向いてた帽子の兄ちゃんの多父とか、ジュイスを動かしたナンバー12の正体とか、どっかに飛んでいってしまった黒羽ちゃんのその後とか、コンテナから降りてきた裸祭りな連中の目的とか、最終回に積み残されていたりする謎はわんさかあってそれがそんなに長くもない放送の枠内で、どうまとめられるのかってあたりに興味が及んで仕方がない。ぶん投げることはしないで合理的に物事をまとめるだろう神山健治監督だけになおさら。さあていったいどうなることやら。板津はしかしあれで終わりか可愛そうなキャラだったなあ。

 「ノイタミナ」といえばその次の作品も放送が決まってキャストにあの斜め45度の人者の登場も決定。そうかアレッサンドロ・デルピエロが出演して斜め45度のデルピエロゾーンからシュートを決めるのか、ってそれは違う。この国で斜め45度といえば滝川クリステルをおいて他にない訳であってどうして斜め45度なのかといえばその角度でなければ調度良く見えないくらいに真正面では横に幅が広がっていたりするのではないか、なんて推測もあったけれども実際に登場した滝川クリステルさんは真正面から見たってちゃんと細くてそして美人。「東京マグニチュード8.0」ってアニメに自分の役で出演してキャスターとして地震のニュースを読むとかで、普段は斜めでも緊急ニュースでは真正面を向いてニュースを読むって話をしてくれた。そりゃそうだよなあ。斜め45度でプラス上目遣いの緊急ニュースに説得力、ないもんなあ。しかし美人だったなあ。白いシャツの胸元に黒子が見えたのは見たいという願望が見せた幻だよなあ、きっと。

 たいして読んでいた訳じゃなくってサークル文庫から大昔に出た「デモンズサモナー」だかを東銀座の旧電通本社に近い本屋で買って読んだのが最初くらいであとは何か読んでたような記憶もあるけど熱心な読者ではなかったもののイベントとかライトノベル系の集まりには必ず来ていて新人さんとかに話しかけて場を和ませて引っ張っていくお父さん的な雰囲気は遠目にも立派だなあと思っていたし最近は時代小説にも手を染めていてそのうちにしっかりでっかい本でもって宮本昌孝さんのようなSF・ラノベ発の重鎮になっていくんだろうなあと思っていただけに残念至極というか5月頭の「ライトノベルフェスティバル」に来て普通に喋っていたんじゃなかったっけと振り返るとなおのこと驚き。慎んで合掌。中里さん…。


【6月17日】 食事は紛う事なき文化であって、その中身はすなわち人種なり民族なり国籍なり地域なりといった、さまざまなことを含有しているのは明白なのだが「機動戦士ガンダム」においては食事が民族性人種性を現す以前に、食事すること自体の意味性をオミットして描かれていたのではないかと前にも書いた。敢えていうならスレッガー・ロウ中尉のハンバーガーが、どこか陽気なアメリカンといった雰囲気を醸し出す道具立てになっていた程度でハヤト・コバヤシはおにぎりもみそ汁も食べておらず、アムロ・レイはその名にあるいは似通った名字がいる沖縄の料理を食べてはいなかった。

 逆にそうした国民性人種性に根ざした料理にエリアの外にいた人が触れて、カルチャーギャップを感じるなりそのシチュエーションからカルチャーギャップの面白さを醸し出すようなシーンも描かれていなかった。あらゆる民族が集まった戦艦にラーメン屋がある、といったような可笑しさは、だからアニメにおけるお遊びであってリアルさを追求する上ではやはり無理があるのかもしれない。もっとも異国の食べ物を現地化してしまった例も一方には結構あったりする。薄く衣をつけたものを薄く強いた油で焼いて作るカツレツのような食べ物を、分厚い衣をまとったカツにしてしまったり、インドから英国へと渡ったカレー料理を日本でカレーライスとして定番化してしまったり。そう考えると食べ物が国民性なりの象徴と位置づけ順手逆手の方向から描いてギャップを示す演出は、現在的ではあっても創造的ではないのかもしれない。だからといって「ガンダム」が未来の食のあり方を考え抜いた上で描いたということはないのだろうが。

 カレーといえば「CoCo壱番屋」が名古屋近辺の人間にとって既にしてソウルフードとなっていることは明白なのだけれども(本当だっ!)、遠く沖縄の地において在留米軍の人たちにもとっても大切な食べ物になっていたのだとは知らなかった。駒沢敏器さんって人が書いた「アメリカのパイを買って帰ろう」の中に出てくる「CoCo壱番屋 北谷国体道路店」は嘉手納基地のフェンス沿いを走る58号線にあるとかで、他にも沖縄には「ココイチ」があるんだけれどもなぜかその店にいくと軍用車なんかが並んでいて、軍人さんがおしかけカレーをモリモリと食べている姿がひんぱんに見受けられるという。

 たぶん近いからってこともあるんだろうけどたぶんその店に行けばってな情報が強い形で強まっていて他に行くよりそっちって考えが根強くなっているんだろう。でもって集まってくる軍人さん向けに英語が通用するようにしてドル紙幣での支払いも可能にしたことが、さらなる軍人さんの来店を招いた、と。なあるほど、って違うだからどーしてカレーライスだなんて日本に独特の食べ物を、アメリカのそれも軍人さんが食べに来るの買ってことで、沖縄なんだからハンバーガーにステーキにピザといったアメリカンなソウルフードの店もきっといっぱいあるはず。なのにカレーライス。美味いと思っているのか。

 思っているから通うんだろう。そしてこれが重要らしいけれどもいろいろと自分で選んでトッピングができることが重要らしい。自由の国のアメリカに生まれた人にとって固定された定食なんて似合わない。好みに応じて具も量も、辛さまでもチョイスして自分ごのみのカレーを仕立て上げることに自分の意識って奴が見いだせるんだと感じて通っているのかも。好みではチキンカツが選ばれるのが多いとかで、来ていた人に聞いたところチキカツにチーズでライス大盛り(500グラムくらい?)で辛さはレベル3、プラスコークを頼むのが「ほとんどプログラムみたいなもの」になっているとか。

 チキンカツってのもまた不思議。アメリカには確かないもんなあ。かといってアメリカ人でも分かるフライドチキンはあんまり出ないらしい。郷にいれば郷に従えって奴? ともあれ不思議な現象が起こっているんだなあ。行って見てみたいなあ。ちなみに「アメリカのパイを買って帰ろう」にはあとポーク缶詰というかつまりは「SPAM」についての記述も。ポーク卵はおふくろの味でゴーヤチャンプルも豚肉ではなくランチョンミートが使われるケースが増えていたりするくらいにオキナワンフードとなっている事実。知ってはいたけどそれほどまでとは。ところが沖縄のアンテナショップを東京に出そうとした時に、「SPAM」ももはや沖縄に欠かせない味だといって並べたらお上が文句を言ってきたとか。沖縄産じゃないから、だって。

 でもそれをいうなら讃岐のうどんだって小麦粉は外国産じゃないのかい? 原材料ではないとはいえ料理に欠かせない品ならもはやそれはネイティブな食材。それを否定するのは「SPAM」が広まった沖縄の戦後の歴史を否定することでもあるんだけれど、お上にはそーゆー理屈は通用しないらしい。あとやっぱりそうした戦後、というか1972年まで続いた沖縄の米国による領有のことを振り返りたくない世代もいるそうで、そんな複雑な状況が食文化でも音楽のようなカルチャーでも、さまざまな影響をそこに残しているみたい。タイトルになっているアメリカのパイもそう。ジミーって店が沖縄でどうやって誕生し、どうやって広まったかを考えると、掘り返すのも大変な過去がそこにある。でも結果として残っている食文化に風俗はやっぱり魅力的。ならばそれを受け止め受け入れて、楽しむのもひとつの方法なのかも。行ってみたいなあ沖縄。食べてみたいなあ本場のポーク卵。新宿の「やんばる」の奴も悪くないんだけど。

 孤島でのあれやこれやは前に見たから今回はびしょぬれになった短パンの裾を絞る姿を下から煽ったり、Tシャツを脱ごうとしている姿をやっぱり下からのぞいてみたりといったレイアウト上の特徴に目を凝らす程度だった「涼宮ハルヒの憂鬱」よりも、見ていて圧倒的に楽しかったのは「はじめの一歩」のブライアン・ホーク対鷹村守のタイトル戦。ぶち切れて吹っ飛んでも体に染みついた正確なパンチでホークを追いつめていった鷹村が、それでもしぶとく天性の才能で踏みとどまったホークからアッパーを喰らおうとした瞬間、それすらも試合の中で経験したことと対策ととって避けつつ拳を振り下ろしたシーンへと至るバトル描写の積み重ねと心理描写の積み重ねは、感動を招くクライマックスを作る上でとっても重要なヒントを含んでいたような気がした。とはいえああしたキャラクターがいないとやっぱり成り立たない展開だよなあ。普通だったら死んでるよ鷹村。でも生きて相手に死ぬかという恐怖を与えるなからやっぱりただ者じゃないよ鷹村。今回はこの辺りで打ち止め? まだまだ続く?

 そういやあどっかの会社で仕事をさせたくない人たちだけを集めた部屋を作って、そこに押し込め毎日まいにちどうでも良い仕事をさせるか、仕事すらさせずにそこにいることを仕事にするようなことをやっているんじゃないかって話が漏れて、新聞沙汰になって会社にとてつもないダメージを与えたよなあって話を、どういう訳だか知らないけれども思いだしてみたりする今日このごろ。なるほど帳尻を合わせる上では妥当な方策のかもしれないけれども、人はパズルじゃなくって当てはまらないからと切ったり削ったりすれば、血が出て声も挙がって反撃も喰らわす。その結果起こるのは外部的にはとてつもないイメージのダウンであり、内部的には再現のないモチベーションの低下。過去にそうした事例を山ほど見てきたならば普通はとれない方策って奴を、敢えてこの時期に取る者がいたとしたら、世間がどんな反応を示し、そして結果がどうなるかってことも十分に含みおいていると考えるのが真っ当だろう。ではどなるのか。それはこれからのおたのしみ。


【6月16日】 声の質でいうなら「宇宙をかける少女」のネルヴァルと「機動戦士ガンダム」のギレン・ザビとで銀河万丈さんの声質に大きな変化はない。30年も経ってこの変わってなさは主役のアムロ・レイを演じた古谷徹さんにも言えることだけれども「ガンダム」以前から熱血系の少年として活躍していた古谷さんが、ナイーブな少年という役柄に「ガンダム」で開眼して以降、そうしたタイプのキャラクターを持ち役にしたのとは違って、銀河さんの場合は太くてどこかに含みのありそうな声質にギレンがベストだったといった感じがある。

 そこで固まった印象は大きくは変わらず時にティンプ・シャローンのようなこすからい役を演じても、居丈高な雰囲気はやっぱり引きずっていたからタイプとしてはほぼ同じ。そしてネルヴァルもやはり宇宙に君臨しようとする人工知能といった存在で、ギレンと大きな違いはないにも関わらず、細部ではやはりネルヴァルを演じる銀河万丈さんに居丈高さの奥から染み出る人情味といったものが伺える。それは、ネルヴァルという悪党に見えて実は人類のことを考えていて、そのために最初は不器用なことしかできず反発を喰らったけれども50年の間に学んで人間に近づこうとして人工知性の中に感情を芽生えさせた存在を演じようとして現れたものなのかもしれない。

 これが徹底しての悪党を求められたら、ギレンのような声を出していたかもしれないけれども一方に、30年という時が同じ声質でもその中に年輪を刻ませたのかもしれないといった考えも可能。前者だったら「宇宙をかける少女」はストーリーにも変化が生まれて正義のレオパルド対悪のネルヴァルといった構図にきっちりと別れた分かりやすい話になったかもしれない。むしろ今の誰が悪で誰が善で善はなにをなそうとしていて悪は何を狙っているのかが開陳されないまま、周囲でお友達ごっこがくり広げられ、幼なじみとの関係をいい年をしながら脱せず、グジグジと落ち込みそれを指摘されれば開き直ってぶち切れるガキんちょに辟易とさせられるようなウェットな作品になって終幕がまるで見えない状況よりは、良かったかもしれない。いったい何がしたいんだろう? レオパルドも。作り手たちも。

 萩尾望都さんの動物漫画といったらやっぱり代表作は「とってもしあわせモトちゃん」か。ってあれは動物だったのか。お化けか何かだったのか。赤版の全集が手元にないんで確認出来ないんだけれどもあれ意外に人間じゃないものが擬人化されるような形で出てくる漫画ってあんまりなかっただけに、いきなり猫が主役になった「レオくん」(小学館)なんて作品が店頭に並んでいたのには驚いた。おまけに帯には猫の写真がずらり。いわゆるこれは飼い猫を題材にした、大島弓子さんの「グーグーだって猫である」のようなエッセイ漫画なのかなあと開いて読み始めたらこれまたまるで違ってて仰天した。猫の側から見た人間界の不思議な日常。ある意味夏目漱石の「我が輩は猫である」に近いタイプの漫画なのかもしれない。

 猫だけれど人語が分かって喋れるレオくんは近所の男の子が学校に行っていると聞いて興味を持つ。とりわけ給食には興味津々で、食べたくって食べたくって飼い主のお母さんに頼んで学校に入れてもらう。猫が喋るだけでも妙なのに学校へと通い始めるそのファンタジーとリアルがシームレスにつながっている不思議さがまず面白い。でもてそうやって通い始めた学校で、席にじっとしていられないからと怒られ授業中にトイレにいくのはともかくそれを外でしてしまって怒られ股間を舐めて掃除しようとして怒られ尻尾を振って怒られて泣き出してしまうレオくんの姿に、人間って知らずとっても不自由な環境に身を置いているんだなあと気づかされる。それが当たり前って思っているから授業中には喋らず先生の言いつけはちゃんと聞くんだけれど、そうやって同調することを覚えてしまった身には見えない自在さって奴を、レオくんの奔放な振る舞いが教えてくれる。

 しばらく後の短編でレオくんが学校に来ていた時にその姿を見て興味を持った女の子が、レオくんに会いに言って話をしたものの学校に行かなくなった理由を説明されて、立派な人になるには学校に行かなきゃだめなんだって多分いつも言われていることをレオくんに言って、でも立派になる必要なんてないんだよねって返されて女の子が泣いてしまうシーンなんて、当たり前だと思わされ押しつけられていることの不思議さ、窮屈さって奴がくっきりと浮かび上がって泣きたくなって来る。猫になれたら良いなあって思えてくる。

 漫画家のアシスタントにいって役にあんまり立たなかったんだけれども一所懸命にやってるレオくんに周囲も和んでしまうエピソードは、形にはまってしまうことも時には必要なんだけれども、奔放さって奴もこれでなかなかに捨てがたいものだってことを改めて教えられる。どこかいびつな感じもあるけど伝わって来るメッセージは強く、そして漫画としてやっぱり面白い。これでいよいよ画業40周年となった萩尾さん。いよいよもってSFの世界へと帰ってきて欲しいんだけれども腕を悪くしたって話を2年位前にうかがって、そして最近は他にも悪いところが出てきているのかあんまりまとまった長編に取り組んでいるって話は聞かない。もったいないよなあ。なのでここはじっくりと腰を据えてSFに取り組める環境って奴を、萩尾さんに与えて差し上げてやって欲しいもの。手が足りなければレオくんを……だめだ原稿に穴が開く。

 古書店に骨董店の主が少女で得体の知れない力を持っててその活動に普通の少年が引っ張り込まれる話しって、割にいろいろとあったような記憶があるけど忘れっぽいのが玉に瑕。覚えてないんで瀬那和章さんの「レンタルフルムーン」(電撃文庫)はまあ普通に面白く読むことが出来た。バイト先のファミリーレストランで小銭を並べて食べられそうなデザートはないかを探していた小さな女の子の頭に耳。何だろうと思っていたらカートをひっくり返してバイト先を首になった証言が、見かけた耳な少女を追いかけていくとそこには古書店があって少女の店主が座っていた。普通の店での普通の会話、かと思ったら少年が他の人には見えない霧のようなものが見える体質と知って少女はその力を求めていたとばかりに少年を引っ張り込んで、曖昧なまま放置された思念がもたらす怪異を沈める少女の仕事に付き合わせるようにした。

 ってことで始まる二人三脚の退魔物。そこに少年とはバイト先が一緒だった1学年下で本屋の少女と並ぶ美少女が絡んだりして複雑な様相を見せるものの本筋の方の退魔ストーリーは学校の七不思議を倒したりと、世界の命運がかかったよーな展開にはいかず身近なところで粛々と解決していたりして、捉え方によってはあんまりカタルシスも驚きもないけれど、その分じっくりとキャラクターの付いて離れてまたくっつくような関係性を楽しめるんでこれはこれであり、かと。ファミレスでメニューをにらみつけて食べられる物を食べようと考え込んで迷っているオコジョさんのシチュエーションが妙にとっても可愛すぎる。何を食べたのかなあ。ちゃんと食べられたのかなあ。


【6月15日】 この一箇所に時間を遡れたとしたら「機動戦士ガンダム」でどこへと赴き何を変えるか、と考えるとやはりジオン・ズム・ダイクンの逝去にザビ家の手が及んでいた可能性を考慮して、それを防ぎジオン共和国がジオン公国とはならずに政治力と交渉力によって平和裡に独立を成し遂げるような道を開くようにしてみたいという気があるけれども、果たして本当にジオンは僭称を狙うザビ家によって排除されたのか、単に寿命がつきた後の国を方便ではなく本当に急ぎまとめるために公国にしたのではなかったかといった可能性も浮かぶだけに、そこを1点として遡って歴史を動かすような効果を得られるかどうかは分からない。

 むしろ死ぬべきではなかった人を救いに飛ぶ方が気、持ちにも嬉しいとなるとそれは例えばミハル・ラトキアがミサイルの発射の衝撃によって吹き飛ばされないように注意を促し命綱を付けるように助言してあげるとか、マチルダさんが早々と退場しないように輸送機による体当たり直後に早々と逃げ出すように促してあげるとかいったことになるのだが、マチルダが生き延びても婚約者がいる以上はアムロの心を動かす存在にはならず、ミハルが生き延びてもきっとそのままベルファストへと帰ってカイ・シデンとは一期一会で終わっただろう。

 歴史を変えるような変化というなら、ガルマ・ザビにシャアの裏切りを吹き込んだら? 彼のことだからたぶん信じなかったのではないか。いずれにしてもどこか宇宙的な意思によってニュータイプが覚醒し、新時代へと人類が向かっていくような状況に、人為的な差配は直後に意思によって修正され、意味を成さない可能性もありそう。歴史を変えない範囲で人を1人2人救ってみせるのが、時間を跳躍する能力を人類が得たとしても、できることなのだろう。それ以上のことができるのだったら世界はもっと変わっているはずなのだから。

 その1点にたどりついたやよゐが行ったのは機銃掃射に遭う加奈子を助けることだったというのが「夏のあらし」の最新話。とはいえそれがあったからこそ加奈子は演奏会へと赴き加奈子に嫌われていると思っていたやよゐに話しかけて友人となり、それから60年が経って加奈子に世話をされていたやよゐが、一と出会い通じ合って過去へと富んで加奈子を救い加奈子はやよゐと友人になっていくという、堂々巡りの連鎖のどこかが崩れた時に何が起こるのかに興味があるけれども、どうやって崩れないからこその堂々巡りでもある訳で、結果としてある現在はだから過去をどうやっても変わらないのだということになるのかならないのか。ああややこしい。けど面白いなあ「夏のあらし」。シリアス編も片が付いて残るは海水浴に温泉のテコ入れオンパレードか。見逃せません見るまでは。

 2006年の「FIFAワールドカップ2006ドイツ大会」直後こそ、サッカーそのものを実地に見てきて考えたことも多々あって、それを書き記していたからこそ中身にも深みがあったと感じさせられたけれども、1年が経って2年が経ってくるとやっぱり元の黙阿弥というか、サッカーそのものよりもサッカーを取り巻く政治を上から語る方がラクでそしてエラく見えるってことなのか、中身における説得力の薄い空論が飛び交うようになって来たなあと感じていたけれど、「論スポ」が出した日本代表の「FIFAワールドカップ2010南アフリカ大会」出場決定を記念した号に登場して、日本サッカー協会の犬飼基昭会長とくり広げている対談の内容がそれに輪をかけてむごたらしくって読んでいてとっても困った気で心が満ちあふれた。

 対談といってももっぱらホストとなって犬飼会長に聞いているといった体裁だけれど、聞き手としての質問が痛いところを衝くというよりその趣旨に阿り倣って併走するといった感じ。停滞気味のサッカー人気(それは日本代表に限った話でクラブレベルでは逆に盛り上がってきているということはさておいて)を盛り上げるためには秋春制への移行が必要と話を降って犬飼会長のご高説を滔々と書き記す。「雪国のクラブがね、いいサッカーをすればお客さんも来るはずなんですけどね」って言うけど寒いから良いサッカーが出来ないんじゃないってことを分かってない。あるいは分かっていてもそれを言わない。サッカーそのものが練習も含めて冬場の雪国では出来ないんだってことは、すでにクラブから散々っぱら言われているのにまるで知らんぷりをしていやがる。

 「じゃあいくら補助すれば済む問題なのか、と聞いたら回答がないんですよ」って言っているけどこれ本当? そうだとしても、とてもじゃないけど補助できる金額じゃないからと武士の情けで回答を避けているのかもしれないのに、金で解決するならそんなものはスポーツじゃないとまで言って玉砕覚悟で冬場にサッカーをやらせようとする。一応は聞き手もスタジアムの暖房化とか道路の整備とかについて言及しているけれども、それを聞いて聞かないふりして「秋春制になればJのクラブが涼しい北海道で開幕前のキャンプを行うんです」とか言っている。8月の北海道は別に涼しくなんかない。カラリとはしていてもしっかり暑いし札幌あたりは内陸部だけあって本州とそれほど代わらない。

 「キャンプを間近で見られる北海道の子供にとっても非常に大きなこと」だって? プロ野球のキャンプが間近にある宮崎の子供達が野球に興味を果てしなく抱くようになった、なんて話があるのか? キャンプなんか見るより試合を見せるほうがよほどか関心を抱けるだろう。なのにJリーグは地上波の中継がまるでなく、BSからだってどんどんと減っている。せっかくの中継がある代表の試合はあの体たらく。そっちを何とかするのが先だし話も早いのに、手を打たずに興味をどんどんと失わせている。引っ張られるようにインタビュアーも「WBCが盛り上がったのは韓国戦が5回もあったから」なんて言い始めた。

 冗談か。アメリカ戦が5回あった方がはるかに盛り上がっていただろうし、アメリカとキューバとプエルトリコとベネズエラとメキシコとイタリア相手に戦った方がよほどか楽しい試合になったし、野球への関心も広められた。呆れつつも勝たないと鬱陶しいからとプレーしていたような雰囲気がどおかにも見えてしまっていた(それは韓国側も同様)のではなかった。是正を求めより前へと進めるような意見を述べるなり、相手の至らなさを浮かび上がらせてどうすれば良いかを気づかせるようなインタビューではまるでなく、公然となっている相手が心地よく言える事柄をのみ尋ね答えさせて増長させているだけのインタビューから明日がどーやったら生まれるのか。平山を叩くメディアを批判する口が、偉い人を気持ちよくさせるだけの言葉しか発せないこの状況が、今のこの苦境を作ってしまったんだろうなあ。金子達仁さん。2010年の後には戻ってきてくれるかな。もうやっぱり無理なのかな。

 いやあ参った。もう限りなくまいった。ほとんど冗談交じりでEPレコードの回転数くらいだろうねえ、なんて言ってたらまじにトータルでEPレコードの回転数で、ここからいろいろと拠出した実質に至ってはLPレコードの回転数とほとんど同等。これってつまりは毎月の分にも届いていなかったりする訳で、いったん潰れて再建中だったらいざしらず、しっかりと存続している上にトップクラスがその立場を確固たるものにしていたりする状況で、下々のところでかつてない未曾有の惨状が現出しているというのはやはりどこか釈然としないものがある。かつてより小規模で起こった未曾有の事態に際して提示された半減という状況を、振り返って見たときにそれが実施に移されたとしても、今よりは多かったりするだけに、より小規模で起こった事態によってもたらされた大転換が、全体でも行われて不思議ではない時期に来ているのだという認識を、やはり持つべきなのかもしれない。あるいは既に手遅れか。


【6月14日】 マイブームの端緒において、「機動戦士ガンダム」とプロレスは実は時期的に重なっている。「ガンダム」の最初の放送が終わって再放送が始まった辺りで関心を抱いて作品を見てファンとなり、雑誌を買い集めたのは1980年の春のこと。ころ合いを同じくして「週刊少年サンデー」で梶原一輝原作、原田久仁信絵による漫画「プロレススーパースター列伝」が始まって、それまではテレビの向こう側で何かやっているといった関心しか持てなかったプロレスラーたちへのパーソナルな関心を呼び起こした。

 たぶん同じ頃に中京テレビ放送で土曜日か日曜日の昼に全日本プロレスのテレビ放送が始まった。あるいはすでに行われていたものを見るようになった。金曜日にはすでにずっと名古屋テレビで新日本プロレスが放送されていたが、夜の8時からといった時間帯に受験を控えた中学生がテレビなど見られるはずもない。だからそれよりしばらく前に始まっていただろうスタン・ハンセンによる新日本プロレス襲来にはまるで気づかず、「プロレススーパースター列伝」で描かれたハンセンのエピソードを読んでウエスタンラリアットという技の存在を知り、そんな選手がいるのだと知って親の目を盗みテレビをつけてみるようになった。

 そして現れた金髪に髭面の男がハンセンか。そう思ったもののどう見ても日本人の顔をしている。上田馬之介だった。話は戻って全日本プロレスでは、ブルーザー・ブロディが大暴れをしていた。アブドゥーラ・ザ・ブッチャーもいてテリーとドリーのザ・ファンクスがいてバーン・ガニアやニック・ボックウィンクルやハーリー・レイスやリック・フレアーやミル・マスカラスといった外国人のチャンピオンたちが大活躍をしていた。世間ではハルク・ホーガンやアンドレ・ザ・ジャイアントやタイガー・ジェット・シンといった新日本プロレスに来日していた選手の方が多く語られることがあるが、こと外国人の綺羅星の如くのラインアップでは、海外に強いネットワークを持つジャイアント馬場が率いる全日本の方が当時は上だったのではないだろうか。

 だからだろうか、こと全日本プロレスの日本人レスラーとなると、御大ジャイアント馬場と若大将のジャンボ鶴田にナンバー3の天龍源一郎、そして古くから活躍していたグレート小鹿にタイガー戸口といった面々と、横綱を辞めて参加して来る輪島といったところくらいしか思い浮かばない。あとは百田ブラザーズ。力道山の子としてプロレス界に入ってそのまま選手として活動していた人たちだから、取りあげられる機会も多かったのだろう。

 そんな全日本に三沢光晴が入門してデビューしたのが1981年のこと。まったく気づかなかった。それを言うなら後にプロレス四天王と呼ばれる川田利明、田上朗、小橋健太といった面々がいつごろ入門してきていつごろデビューし、どんな戦いをくり広げていたのかという記憶もあまりない。1時間のテレビ中継にそうしたデビュー下手の若手が映し出されるはずもないから、当たり前といえば当たり前。そして世に出始めただろう頃には テレビで全日本プロレスを見ることも少なくなっていたから、三沢光晴という名前が記憶に残ることもなかった。知ったのはだから第2代タイガーマスクとして活躍を始めた辺りだが、その時にはもちろん三沢光晴という個人名で見ていた訳ではなかった。

 90年にサムソン冬木によってマスクをはがされ、素顔の三沢光晴となってからようやくその存在を知ったのが真相。折良く東京方面へと出てきて時間も自由に使えるようになったこともあって、テレビ中継を見ながら存在感を高めていくその名前を覚えていった。馬場が死に鶴田が逝って全日本プロレスを支える存在になったのだなあと感慨も覚えた矢先の2000年、脱退してプロレスリング・ノアを旗揚げしたのもニュースで知った。馬場っ子だった人間にとって裏切りにも見えたその振る舞いだったけれども、後々の報道でいろいろなことを知って、止むに止まれない行動だったのかもしれないと改めた。

 本人を見たのは2004年1月10日の武道館が最初だった。そして最後になった。あるいは1988年か89年に愛知県体育館へプロレスを見に行った時に、タイガーマスクとして戦っていた三沢を見たかも知れないが、そお時にどんな戦いがあったかは記憶にない。素顔になって、ノアになってからの三沢はだから2004年が正真正銘の最初で最後。試合はとても盛り上がっていた。王道プロレスを展開していて面白かった。前後してたぶん全日本プロレスも見ていて、やっぱり面白いと感じた。技の応酬があって見せ場があって攻守交代があってそしてフィニッシュへといたる流れは極上の演劇を見ているようだった。それがスポーツかと言われると口ごもるところもあるけれど、プロスポーツかと言われればそうだと断じて間違いない。肉体を最大限に駆使して見せては観客を喜ばせる。それはまさしくプロフェッショナルたちによるスポーツだった。

 抗争だの何だのといったストーリーなど気にする必要はなかった。誰が誰とどうしているかなんて関係なかった。その場でくり広げられる大男たちによるレスリング。それがすべてであってなおかつ至上の物だった。抗争なんていうものはテレビをずっと見ているからこそ理解できるもの。一種のドラマだ。けれども1年に1度か2度、回ってくる興行に行って目の前でくり広げられる大男たちの肉弾相打つバトルを見て溜飲を下げる。それを楽しみにしている人たちに前週がどうだったといったドラマなんて関係ない。だから気にしないで楽しめるような1夜限りのドラマを提供しようとしたのが全日本プロレス、馬場のプロレスだったのではなかったか。三沢光晴とノアはそのスピリッツをしっかりと継承していた。またいつか、ノアのプロレスを見に行けば、三沢も含めて選手達が最高の技を掛け合う姿を見せてくれるだろうと思っていた。もう適わない。残念というより他にない。慎んで、合掌。

 もっぱらジェイノベルの人っぽいだけあって果たして読んでいたかどうか記憶が定かじゃないんだけれども、電撃文庫に初登場となった松原真琴さん。「猫耳父さん」(電撃文庫)は長く飼ってた猫が死んでしまって悲嘆にくれる父親の頭に猫の耳が生え、尻尾まで生えてしまってさあ大変。娘は最初は気色悪がったものの愛猫のせいだと知って邪険にも扱えず、猫を火葬に連れて行ったりしつつ父親の消えない耳と尻尾にやきもきする。そして起こったある事件。猫耳が物を言い娘は助かり母親が7年前に交通事故に遭った真相も判明して、父親と娘との間に絆も深まる。という展開自体に驚きはないけど描写が軽妙で突拍子のなさと日常とが飽海に混ざり合ってて読んでいてすんなりと読んでいける。

 いっしょに入っている短い短編も、虐めに遭っている少女が父親に作ってもらった犬のロボットに助けてもらうって話の向こうに、娘と父親の関係の再帰って奴が描かれる。心にシンミリと来る展開は、ライトノベルとするとやっぱり普通だけれどもそれだけ一般が読んでもいろいろと身持ちを動かされそう。電撃文庫に入れるよりもちょっぴり不思議なハートウォーミングストーリーとして一般向けに出しても良かったような。イラストが大岩ケンヂさんとはなかなかの大盤振る舞い。「週刊アスキー」の連載がこうして電撃文庫にまとまるってのもアスキーとメディアワークスの合併効果って奴? 時田唯さん「有川夕菜の抵抗値」(電撃文庫)は体から電撃を発してしまう少女をめぐるあれやこれや。差別との戦いってテーマには共感したいけれども、物語も関係もどこか箱庭っぽくって広がらないのが悩ましい点か。

 有斐閣タイプで引きこもり気味ってことなんで打開のために女子サッカーを見物に行くひとりで、って駄目じゃんそれじゃあ。駒沢陸上競技場で見た「日テレ・ベレーザvsジェフレディース」は前回の敗戦を雪辱すべくしっかりとしたプレスとパスワークでもってジェフが押し込むものの、一瞬の隙をきっちりとものいんしてベレーザが得点を重ねていく展開。ミスは少なくそしてボールあしらいが巧く、体の入れ方も上手なところにベレーザ側の一日の長って奴が見える。ジェフもパスはつながるしシュートまで持っていけるよーになっていたところはなかなか。あとはラストパスの精度を上げゴール前の人数も増やしていけるようになれば何とかなるんじゃないのかなあ、ってそりゃあ男子も同じか。ともあれ頑張ってディビジョン1残留を。そして鍛えて来年再来年の上位進出を。


【6月13日】 1980年から81年にかけての「機動戦士ガンダム」の劇場版公開時を映画館では体験していない身としては、その時に果たして舞台挨拶なるものがあったのかどうかが分からない。あったとしたら誰が来たのだろうか。監督あろうか。ガンダムそのものが来て舞台で演舞を披露したのだろうか。仮面ライダーの映画でそんなアトラクションがあったなあ。といった想像は浮かぶものの、中高生のファンが監督や声優の来場に大喜びして劇場に出かけるのか、と考えてみて監督が誰か、声優が誰かということに今ほど関心があった訳ではない状況で、舞台挨拶の意味がそれほどあったとはあまり思えない。

 前後してさまざまなアニメーション映画が公開されることになったけれど、舞台挨拶というものが行われていたのかどうか。アニメ映画の封切りにはむしろセル画のプレゼントのようなことが行われていて、それを目的に通っていた人の方が多かったかもしれない。ファンには有名でも一般には無名なアニメの監督に来られても、興行につながるとは当時はなかなか考えられなかった。声優もしかり。それが今では、実写映画はもとよりアニメ映画でも必ずといって良いほど舞台挨拶が行われ、監督に声優が並んで挨拶し、それを見にファンが押し寄せる。良い時代になったというべきか。

 映画に舞台挨拶はいったいいつ頃からこれほどまでに常態化してきたのだろうか。出演者と監督がステージにならんで喋りファンに喜んでもらうという趣旨の、それ自体はとても面白いもので普段は見られない俳優や女優が見られるとあって、その回に是非に行きたいというファンも大勢あって前売りの段階でチケットが売り切れることも少なくない。シネマコンプレックスになってすべての上映が入れ替え性になった上に、特定の回を指定しての前売りも可能になっているから、ファンも舞台挨拶のついた回だけを選んで行きやすい。環境面の変化が舞台挨拶の興隆を生みだしたといった考察もできる。

 舞台挨拶を行う意味としては、劇場に脚を運ぶ人に向けたファンサービスがひとつには考えられるが、入ってせいぜい数千人の劇場を1、2度満杯にしたところで、興行成績上では誤差にしかならない。むしろ目的は舞台挨拶があったことをメディアに報じてもらって映画の興行が始まったと知ってもらうことが狙いなのだろう。新作公開の多い土曜日の翌日の日曜日はスポーツ新聞の芸能欄が映画の舞台挨拶で埋め尽くされることも少なくなくなった。これを遡って追跡すれば、映画の舞台挨拶の常態化がいつ頃から始まったのかを調べられそうだ。

 そんなメディアでの扱いによって、映画への注目度も分かるというものだが、しかし決して映画そのものの善し悪しではないところが芸能的というか、つまりは出演している俳優の”格”めいたものが扱いの大小となっていて、人気アイドルが出ていればそちらが大きく取りあげられ、いくら優れた作品でも出演者が地味なら扱いは些少。商売としての映画としてはそれも正しいあり方なのかもしれないが、取りあげられるからアイドルを使う、アイドルを使うから取りあげられるといったスパイラルが積み重なって、俳優に頼ってばかりで中身を省みない映画が生まれる空気につながっているのだとしたら、すべては自壊への道をひた走っていると言える。未来はいかに。

 というわけで早起きをして押井守さんが監督ではなく原案と脚本を担当した「宮本武蔵 双剣に馳せる夢」の舞台挨拶を見物に行く。押井さんに西久保瑞穂さんに泉谷しげるさんという、ビジュアル的に果たしてどうよってな面子を早朝から見に行って楽しいのか? って思うのが当然な思考だけれども舞台挨拶だけの取材陣とは違って観客はより早くから劇場に来なくちゃいけないはずなのに、しっかりとテアトル新宿が埋まっていたのにちょっと驚き。そんなに見たいのか押井さんの顔が。まあ言葉に長けた人だから何かを言ってくれるだろうという期待もあったんだろうけれども、話されたのは宮本武蔵が吉川英治さんの描いた剣豪といったイメージとは違っているといった説。それは「東京国際アニメフェア2009」でも語られたことであって目新しさはとくになく、敢えて聞いて嬉しかったかと言われるとなかなかに微妙なものがある。

本家は強いぞ  最初っから決定稿と書いてきた話も西久保監督によって語られたけれどもこれもアニメフェアで開陳済み。あるとしたらダヴィンチと重ねようとした押井さんに抗して西久保監督がよりメロウな方向へと話を降って、9割が蘊蓄といった映画にはしなかったというあたりか。ラストにダビンチが武蔵と重なり終わるような映画だったらいったいどんなインパクトがあったのか。それも見てみたかったけれども見たらきっとGEKIDO、だろうなあ。西久保さんはだからそんな決定稿をDVDの特典とかに入れたいと言って押井監督もオッケーを出していたから、パッケージを買う楽しみがちょっとは出来た。劇場で見る楽しみは……まあご祝儀ってことで。押井絡みは常にご祝儀。そうでなけりゃあ付いて来られなかったしこれからも付いて行かれない。

 20歳以下だよなあ。でもどう見たって20歳以下には見えないくらいにガタイがデカくって顔つきもコワモテな面々が短パンはいてくんずほぐれつしている姿を見ると、日本がそこに割って入って勝ち抜いていくなんてやっぱり無理なのかもって思えたラグビーの「ジュニアワールドチャンピオンシップ2009」は秩父宮でもって予選の最終戦が行われてスコットランドがサモアを粉砕。まるでウェイン・ルーニーかと思うような風貌な上に胸板分厚く脚ぶっとい選手たちが並んで突っ走って密集してはぶつかり合う。相手だって肉体において引けを取らないサモアなんだけれども大きい上にスピードもあってサイドを縦横に駆け上がっていく選手もいたりするイングランドにはやはりかなわない。日本が43対0で完封されたのもよく分かる。

ガタイが違う技がちがう  続くスコットランドと日本の試合はなかなかに拮抗した試合になったけれどもやっぱりスコットランドもラグビーな国だけあって2メートル級がずらり。日本はデカくて193センチってところだから体格でかなわない。そこをスピードでもって補おうって雰囲気があって密集から出されるパスは早く選手の動きもきびきびしていたんだけれども、ゴールのライン際まで押し込みながら残る1メートルにも見たない距離を突破できずにトライが奪えず前半を終了。後半にこそ盛り返したものの追いつけずイングランドに粉砕されたサモアにも敗れてグループ3敗のまま13位から16位のチームを決める決定戦行きとなってしまった。

 しかし同じフットボールなのにこれほどまでにサッカーとラグビーって体格が違うのか。サッカーだって最近はボディコンタクトが重要になっていてルーニーみたいな選手が重宝されるけれどもそんなルーニーだってラグビー選手に交じれば小兵も小兵。軽くいなされ吹っ飛ばされてしまうだろう。逆にいうならイングランドのそんなラグビー選手たちがディフェンスとしてサッカーに加われば、リオ・ファーディナンドの身長にルーニーの体型を持った壁が出来上がってとてつもなく強力なチームになりそうな気もするんだけれど、それをいうならバレーボールの選手が女子サッカーに入れば、とてつもなく協力なチームができそうなのにそうはなっていない状況も同じか。サッカーとラグビーが同じフットボールではあっても、どちらに行くかも含めていろいろな事情があるのだろう。単に稼げるか否かではなくって。

 うーん。17歳の女子高生が描く花魁ということで評判になりそうな「紅はくれなゐ}(電撃文庫)は架空の世界っぽいところにあって外国人も出入り自由な出島めいた要素ももった花街「吉原」でトップな花魁に政府の偉いさんが次々と殺される事件が勃発。その結果序列が下だった花魁の紅がトップに挙がることになったもののまた狙われるじゃないかって心配も浮かんで置屋の子息は気が気じゃないってなシチュエーション。いわゆる身分の差を超えた恋物語なのかって思ったら何と下手人はってな展開へと向かっていく。女に秘められた二面性って意味ならそれもありかもしれないけれども、そんな二面性を象徴させた存在がどうして必要なのかってあたりがなかなかつかめない。

 楚々とした表側と残虐な裏側のギャップは面白いけどそやって発動させた裏側が何を目指して戦っているのかがよく見えない。暮らしている場所を壊したところで周囲を滑る政治に勝てる訳がない。それでも暴れる姿を抑圧への反攻の象徴になぞらえるには、中途半端に世界に反逆していたりするからなあ。紅君とやらがいったい何物でどれくらいの大きさで何を狙っていてどこが恐れられているのか。そんな辺りを掴み直すために再読してみるか。江戸っぽい雰囲気を表現している文章のセンスなんかはなかなかのもの。あとはだから世界を固めキャラを並べ物語を通してそして訴える何かを見せること、か。精進あれ。


【6月12日】 アニメーションと食事、といえばやっぱり真っ先に挙がりそうなのが押井守監督で、「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」での空きっ腹にかき込む牛丼やら、あたるの家に合宿しての大盤振る舞いといったシーンにそんなシチュエーションで食ったらさぞや旨いし楽しいだろうなあという感情を喚起され、それがアニメへのシンパシーにもつながっていった。押井監督にそうした意図があったかどうかは判然とはせず、むしろ食べるというきわめてパーソナルな行為が持つフェティッシュさをそこに現出させることで、キャラクターの生々しさを現そうとしたのかもしれない。「アヴァロン」での食事シーンなどは見た目の旨そうさはまるで吹き飛び、ひたすらに食べる行為が感じさせる荒々しさと生々しさが、ネット空間という舞台に生命観を与えていた。

 とはいえ「機動警察パトレイバー」でのトマトや魚やその他諸々の食事しかり、「イノセンス」でのドッグフードに食らいつくバセットウォーカーしかり、食う行為を敢えてそこに盛り込むことによって何かを示そうとしたのではないか、といった想像は成り立つ。ほかにも食事が親近感を喚起する作品は多々あって、宮崎駿の「ルパン三世カリオストロの城」のスパゲッティミートボール争奪戦に次元のカップヌードルなり、同じく宮崎監督の「ハウルと動く城」のベーコンなりは実に旨そうに見えて感覚をそちらへと引き寄せる。夏に公開となるアニメーション映画では皆で囲んだ食卓がとてつもなく重要な意味を持ち、さらにイカ焼きが重要なアイテムとして登場しては物語への関心度を高める。それは作品自体が持つ吸引度の裏返しなのかもしれないが、今夏には絶対にイカ焼きがブームになるとだけは断言できる。

 そんな時に「機動戦士ガンダム」を振り返ってみて、まるで食事が絡んでいないのにふと気づく。なるほど隣の子供のトレイから食事をくすねる老人が登場はしたし、コックのタムラさんが塩の足り無さを嘆いてホワイトベースの進路を変えさせたシーンもあった。けれどもそこで何が食べられていたのかはまるで不明。塩なら肉料理に使おうとしたのか、スープなのか野菜なのか。分からない。同じ船でも「機動戦艦ナデシコ」なら主人公自身がコックとして調理にあたってさまざまな料理を披露し、それを食べてクルーは元気になって戦いに踏み込んでいった。食べれば頑張れるんだと教えられた。「ガンダム」では食事はあくまで手段でしかなかった。もっと食べなきゃ駄目だとアムロにフラウ・ボウが言ったのも楽しむためではなく体力のため、戦うため。だから食べるという行為には触れられても、それが何であるかにはまるで言及がなかった。

 敢えて言うならミライとの関係を深めていたスレッガー・ロウ中尉が戦いに臨む前にハンバーガーを食べていたのが印象的だったが、それをもってハンバーガーを食べたいといった気にはならなかった。補給のための食事。そして永遠の離別に向かうにあたっての最後の晩餐。そこに親近感を喚起させるようなニュアンスはない。富野由悠季監督自身が食事のシーンに重きを置いていないのか、単純にミリタリー物として食事は手段でしかない状況を現しているだけなのか。「Z」以降の富野監督のガンダムなり、その他の作品における食事のシーンを調べてみて、どういった意図からそれが出てきてそして食事そのものへの関心を集めさせるだけのメニューになっているのかを、確認していくのも面白いかもしれない。

 やっとこさ見たらジュイスがとっても可愛かった。ってあれがジュイスって証拠は実際なくってストーリー上ではジュイスは一種のコンピュータだってことになっててそれがどっかに移設されてしまったんで物部たちは大慌てって構図まで来た「東のエデン」。制服っぽいスカート姿から醸し出される実直さが眼鏡でもって増幅されて、有能さって奴をビンビンと漂わせていたりして、近くにいればたちまちファンになって足下に傅きたい気分も浮かんだけれども役回り的にはメッセンジャーに過ぎない模様。でも声は……ってあたりにやっぱり何か秘密があるのかな。案外にロボットだったりするのかな。触ってみたいなぷにぷになのかガチガチなのかを確かめに。ムチムチだったらそれは番組が違います。やっぱりホロンさんで「RD 潜脳調査室」からのご出張?

 でもってストーリーは今ふたたび始まろうとするミサイル攻撃に対してほとんど無力な滝沢朗だったけれども、記憶を失う前になにかやっていたのかそれとも即座に行動に移したのか、コンテナでもって裸のニートを大量に豊洲へと送り込んで何かをおっぱじめる雰囲気。とはいえ前に信頼していた者たちに裏切られてそれが記憶消去につながったって発言もあって、裏切っていったかもしれないニートが集まって滝沢のためになることをするのか、あるいは前に出会ったニートが言っていたように、当時は裏切ったもののその後に起こった出来事から滝沢を理解し助けにやって来たのか。うーん分からない。きっと次週では明らかになると信じたいけど、でも1回分で出来ることは限られてるし……。映画にかけるしかないのかな。みっちょん最後まで頑張ってくれるかな。

 無駄美人がまた1人。末次由紀さんの「マンガ大賞2009」受賞作「ちはやふる」に第5巻が登場してそこにかるたクイーンの若宮詩暢が出現。我らが無駄美人の綾瀬千早と対戦することになったものの着ているTシャツは普通の人はまず知らない、大阪ローカルのゆるキャラの「スノー丸」。普通の人は雪だるまとしか思わないそのキャラが帽子を脱ぐとちょんまげになっていると知っていた千早は、散々っぱら対戦で蹂躙された後に別れ際にTシャツの柄の正体をズバリと言い当て、詩暢の喜びを誘う。最愛だけれど超マイナーなキャラを知っていてもらえた感動が、次の対戦でいったいどんな影響となって現れるのか。次は潰すと意気込んでいたはずの詩暢の表情もくるりと変わったもんなあ。楽しみ。

 たぶん終わるだろう。予言どころか予想すら超えて予定の域にすら入っているだろう。なぜなら過去に類例があってそれを行うことによって一部の好意を引き寄せながらその他の嫌悪を招いて信頼を失い数字を失った。とはいえそれほどの規模ではなかったために大騒ぎにはならなかったが今度は規模がまるで違う。影響の度合いもまったく違う。けれどもやろうとしていることは同種。むしろより苛烈かもしれないそれがもたらすのはクオリティの著しい低下であり、関わる者たちの果てしないモチベーションの低下であり、未来に対する無限大の不安であり現在に対する最大限の不信。結果として確実に数字となって現れるだろうことは自明の理であるにも関わらず、それを行うことが至上命題となっている組織では立ち止まって考察し、無理だし無茶だと言うような真っ当な反応はのぞめない。むしろ諾々と受け入れ共に地獄の底へと向かうのみ。だから終わる。すぐにでも終わる。なのにそれを誰も止めない。止められない。大変だなあ。哀しいなあ。誰かが救世主たらんことを願う。ノブレスオブリュージュ。


【6月11日】 お台場の18メートル等身大「機動戦士ガンダム」立像が姿を見せ始めて巷間を賑わせ、新聞の1面にも掲載されるようになった事態に、放送から30年で到達したコンテンツとしての認知度の高さを思い知るこの頃。夏には「東京ビッグサイト」での大規模な博覧会も開かれる予定で、これまでの「サンシャイン」からさらに大きくなる会場をどんなガンダムたちが埋め尽くすのかに興味が及ぶ。プラモデルにフィギュアにグッズ類に映像ソフト。ほかにも多種多様なガンダムの関連商品を並べればホールの1つや2つは簡単に埋まりそう。

 なにしろガンダムは、1グループで500億円という、それだけで会社が1つ成り立つくらいの売上規模を持った商材なのだ。逆にいうならそれだけの規模があってこそ成り立つ“オンリーエキスポ”であってこれが例えば「鉄腕アトム」だったらどうなのか? と考えた時に展覧会のようなものは可能でも、販売も含めたイベントを成立させるだけの市場に「アトム」が達しているかというとやはり疑問が生じる。「ドラえもん」なら? 数は揃っているが子供に向けた作品ということもあって、並べて大勢がおしかけるようなイベントにはやはりなりえない。むしろ「アンパンマンミュージアム」のようなアトラクションをメインとしたイベントになら成り得る商材、といったところだろうか。

 もっとも30年を経て「ガンダム」くらいしかそうした商材を得られなかったという問題も一方に浮かぶ。とくにグループで権利を抱えるバンダイにとって、「ガンダム」におんぶにだっこという状況が続きすぎていることが、10年後20年後にどんな弊害をもたらすのかを、やはり考慮しておくべきだろう。「ターンエーガンダム」から10年で市場が落ちなかったところは素晴らしいが、とりたてて膨らんだ訳でもないのはやはり寂しい。年末にも登場と噂される「ガンダムUC」がならば起爆剤に成り得るか、といった可能性も含めてこの2年、3年の様子をうかがうことで、10年後の40周年に「東京ビッグサイト」を埋め尽くしたイベントが開けるか否かも見えて来よう。

 んじゃあ「新世紀エヴァンゲリオン」だったらどーよ、ってなことを確かめにサンシャイン60展望台で始まった「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の公開記念展覧会を見物に行くとこれは箱根の補完マップ! 4000枚が立ちどころになくなった箱根観光協会謹製のエヴァマップが張り出されていたりする横に「破」に出てくるキャラのパネルなんかが並んでいる反対側には、「序」でもって使われた原画やら絵コンテなんかも展示されて手まあそこそこにエヴァの世界を楽しめるようにはなっている。ドコモの携帯なんかも並んでたし。とはいえしかしこれを例えば10倍に広げたところでビッグサイトの1ホールも埋まることはなさそう。ガレージキットを加えればあるいはってところだけれどそれで観客を呼べるかっていうとやっぱりなあ。

ぽにょぽにょふくらみすぎた  もちろん映像の上映に声優やクリエーターのトークショウ、そして物販も行うような本格的なイベントだったら数千人は動員できるけれどもそれはエキスポってよりはライブイベントに近いから「ガンダムエキスポ」とは種類が違いそう。やっぱり「ガンダム」にはかなわない。追い付くにはあと何年くらいかかるんだろう。ちなみいサンシャインのエヴァのイベントでは会場限定の物販もあるんで欲しい人はゴー。でもTシャツなんかはサイズがMだけだから体型に豊かさがほの見えるよーな人とかだとちょっち厳しいかも。っていうかそういう人種も割にいたりするジャンルでMだけってのは挑戦的だよなあ。僕はまだそれで大丈夫なんで平気だけど。でもそろそろヤバいかも。

 そんなサンシャインを地下へと降りて立ち寄ったスタジオジブリ関連のグッズなんかがいっぱい置いていある見せて見つけてしまって即購入。何がってダゴン様だインスマウス様だ。つまりは半魚人タイプのポニョだの縫いぐるみだ。すでに持ってるじゃんてのはごもっとも。でも違う。持っているのはSにMといったポケットサイズ。それも既にあちらこちらで売り切れになっていて入手は現在不可能っぽい。やっぱりキャラ的に厳しかったかなあっと思っていたら何を思ってかその半魚人を巨大なLLサイズで作ったものが並んでて、見てもうこれは買わなきゃ、絶対買わなきゃ、今買わないと明日には無くなる可能性があるから、ってな衝動がわき上がって財布から8625円だかを抜き取りあれおくれとレジに申請。そして無事に手に入れられたこいつを持ってあちらこちらをうろつこうと思ったけれどもあいにくの雨で外での撮影が出来なかったんで、夕刻の「大学読書人大賞」へと運んでこっそり撮影。でもって場違いさを感じて引っ込める。一瞬でも見られたその辺の学生さんはラッキー。法政?

 そう「大学読書人大賞」は5月の選考会に続いて授賞式があって何とあの覆面作家の舞城王太郎さんが授賞式に来場……はしないで「好き好き大好き超愛してる」の文庫版を編集した人が壇上に立って記念の角帽なんかを受け取っていた。残念。でも来ないのが舞城さんなんでこれもこれで面白い。せっかくだからと舞城さんからメッセージがやって来て、さらには学生さんの質問に答える文章ってのが何枚ものワープロ打ちの原稿で届いてそれを編集の人が読み上げたんだけれど、コピー禁止発表禁止ってことで詳細は勘弁、というか長すぎてとても覚えてない。とっても舞城っぽいことを言っていたなあ。それだけでひとつのエッセイ本になりそう。つか書けば絶対売れるけどなあ、舞城王太郎の創作日誌、めいた内容で。やっぱりすごい作家なんだなあ舞城さんって。それゆえに当人がどんなかをいつかは見たい。8歳の美少女だったらちょっと嬉しい。そんな訳……あるかも。

 そんな合間に大ダゴンを抱えつつ「ホッタラケの島 遥かと魔法の鏡」の製作報告会って奴も見物。フジテレビが開局50周年を記念して作っているアニメーション映画ってことでフジテレビのアニメっちゃあレイの「ブレイブ・ストーリー」が華々しく送り出されてはいろいろあったのが記憶に新しかったりするけれど、今回のは原作が入間市あたりにあるお稲荷さんに伝わる民話で、大好きなのに放っておいたらどこかにいってしまった品々が集まる魔法の島へと落っこちた遥って少女が、いろいろと冒険するストーリーになっていたりする、ってそれも異世界に落ちた少年の冒険を描いた「ブレイブ・ストーリー」に重なるなあ。

 いやいや今度は制作がプロダクションI.Gで、それもお得意の2Dキャラじゃなくって「トイ・ストーリー」みたいな3Dキャラに始めて挑戦した作品。いったい巧く創れるのって心配があったけれども4年の歳月をかけて鍛え抜いて来ただけあって、顔立ちも自然なら仕草も普通でちゃんと見られる映像になっていた。おまけに途中でこれからまあまだ良くなるってことらしーから映像に関しては心配はいらなさそう。胸元が前に張り出した主人公のシャツが張りつめた胸の先端から上下にズレたところで皺になっている描写なんかの的確性に関心。あとギリギリの長さのスカートから見えそうで見えなさそうで見えちゃったりするかもしれなかったりする所とか。

 ってそれが気になるでしょって亀山千広プロデューサーが率先して語っていたのには笑った。いやいやご明察、そこがとっても気になりました。気になったんで絶対に映画館に見に行くつもり。声は綾瀬はるかさんに戸田菜穂さんに谷村美月さん。「おっぱいバレー」の綾瀬さんに加えて「神様のパズル」の谷村さんが登壇したんだからさぞや前に突き出てゆっさゆさかと思ったのにどちらも見た目にまるで凄みがなかったのは画面を通して視た場合に前へと張り出す特性が映像にはあるってことなのか、それとも映画なんかではいろいろと仕掛けが施されていたのか。うーん謎。どっちにしたって2人とも声の出演なんで映画でゆっさゆっさを拝むのは絶対的に無理と知れ。マスコットキャラみたいなのの声は沢城みゆきさんかあ、年はきっと1番くらいに若いのに声での演技では誰よりもベテランなところを見せてくれたんだろうなあ。アフレコ現場とか見てみたいよなあ。


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