縮刷版2009年4月下旬号


【4月30日】 どんな世界にだって経済はあって産業があり政治があって文化もある。経済がなければ産業は動かず生産も滞って社会は衰退へと向かう。そう考えながら「機動戦士ガンダム」の世界を見たときに果たして経済はどんな循環をしているんだろうかといった興味が浮かぶ。長い戦争。それも宇宙をそれこそ2分するような戦いが続いているということは、地球連邦もジオン公国も戦費に相当な額を捻出しなくちゃならない。というより平生から軍備に相当な額をかけていないと、あれだけの装備を展開してがっぷり組み合う戦いなんて繰り広げられるはずがなかった。

 いったいジオン公国はいつぐらいから戦争を画策して備えて来たのか。たぶんジオン・ズム・ダイクンが倒れキャスバルとアルテイシアを廃嫡してからの10年位の間だろうか。それともジオン共和奥の時代から着々と軍備を整えてきたのか。だとしたら案外にジオン・ダイクンもなかなかの策略家だったのか。遠くに浮かぶコロニーがそれだけの装備をどうやって捻出したのか。シャリア・ブルが関わっていた木星資源の開拓なんかをバックにした交易があったじゃないか。戦争で地球連邦相手の商売が途絶えた後はどうやって稼いでいたのか。中立の「サイド6」が存在していなあ。

 そう考えると案外に「機動戦士ガンダム」は、経済の部分なんかも考慮して世界が寝られていたように見えてくる。連邦はそんなジオン公国の動きにどんな対抗手段を講じてきたのか。それでいて緒戦をどうして連邦軍は大きく遅れを取るに至ったのか。スパイとかはいなかったのか。あるいは小馬鹿にしていたのか。そこは戦略というフェーズから分析も出来そうだけれど、そうした体制を生みだしてしまった地球連邦の統治形態が、果たしてどんな状況だったのかにも興味が及ぶ。アングロサクソンによる支配? アジア系のとりわけ中国あたりの台頭は? リアルにすればするほど生まれる現実との関わり。そこをを巧みに埋めて気にさせないようにしていたからこそ「機動戦士ガンダム」は、今に至るまで古びずアナクロにならないで存在し続けられるのだろう。

 「機動戦士ガンダム」の世界で株式市場というものはあるのだろうか。と考えつつ振り返る兜あたりにいた頃の話。毎朝、野村山一日興大和といったあたりをぐるぐるとして朝のアナリストによる市況解説なんかを聞いてから倶楽部に戻って原稿を書く参考にしている証券担当記者ってのをちょっとだけやってみたけれども、そんな時にはたいてい、各社でテーブルの上に置かれた証券の新聞なんかを頂戴していた。その頃はまだ5つくらいあって「日本証券新聞」に「株式新聞」に「株式市場新聞」が並んで「日刊投資新聞」とあと「證券新報」なんてのもあったっけ。

 この5つが主要な業界紙として並び立ってはいないまでもトップがあって次席が合ってナンバー3もあってその間を埋めるように存在できるくらい、証券会社にこうした新聞をお買いあげする余裕もあれば広告を出す余裕もあり、また一般投資家の人にも購入する余裕ってのがあった。ほかに今のネットみたいな情報源もなかったし。あったのはクイックのような専用端末を使った情報配信でこれは値段がバカ高い。時事メインも同様。ブルームバーグは立ち上がったばかりでやっぱり高額。パソコン通信にもたぶんあったんだろうけど使い勝手はおそらくあんまり良くなかった。家庭用ゲーム機は……ファミコントレードってのがあったなあ、野村証券。市況、流してたって?

 ところが世は程なくしてバブル崩壊による不況となり、それが回復の兆しを見せてきたとおもったら今度はITの登場でもって情報の流通形態が激変した。ITバブルの崩壊なんてものもあって株式市場は打撃を受け、それからようやく回復した2008年後半にリーマンショックが到来して世は未曾有の大不況。情報流通の経路からは干し上げられ広告って糧も奪われて紙の株式関係の新聞が存在できるはずもなく、弱体化が進む中でそうしたネットによる情報メディアがネットのリーチしない層とかに向けて出す紙媒体として生き残ったりする一方で、波に乗れないまま停滞を続けた挙げ句に1つ休刊し2つ廃刊となってそしていよいよナンバー3の位置にいた「株式市場新聞」までもが廃刊となってしまった。

 株式市場の停滞に紙メディアの衰退ってダブルパンチを喰らえばそれも仕方がないって言えば言えるけれども決して他山の石では留まってくれないのが昨今の情勢。株式に限らず景気は低迷し企業業績は悪化しビッグ3の一角のクライスラーが米国連邦破産法の適用なんかを申請する自体は21世紀どころか20世紀を含めても相当に大変な状況。なおかつこれなんて氷山の一角もしくは富士の10合目の話しに過ぎず水面下なり裾野では、さらに多くの企業が苦況に喘ぎ明日が来るのかどうなのかって心配に頭を痛めている。

 一方でネットによるリアルタイムの情報流通は半日遅れの紙メディアなんて出た瞬間から古新聞に変えてしまう状況を生み出す。もはや処置無し。ステイタスとして存在し得る一般のメディアあたりにはまだマスに情報を媒介させる機能を期待できるけれども、どこかに特化して存在しているメディアには、次は我が身の状況が遠からず訪れることになるんだろう。個人投資家とか企業向けとかに出すんだと張り切ってリニューアルした新聞とか、相当にキツいだろうなあ。いくらネットにアクセスがいっぱい来ているって自称したって、芸能に政治にゴシップスキャンダルのアクセスが圧倒的なだけだしなあ。それすらどこまで正しい数字なのか。取り繕うよりぶちまけて判断を仰ぐ時期に来ているのかもなあ。

 九条菜月さん「オルデンベルク探偵事務所」シリーズの第3作「ヘクセ」に下巻が登場。魔女を殺した弟子は誰かを探る展開だったはずがそれは上巻で片づいて、下巻はもっぱら魔女を殺して回っていたアインハルト家に生まれ魔女を殺す技術を持ちながらも出奔したミヒャエルが、どういう生い立ちをたどりそしてフィーアって改良されて強化された少女とどう出会いどう手を取り合って出奔したか、そんな2人をどうしてアインハルト家は今も狙い、彼らが連れていたマリーアって女性をさらったのか、ってあたりが描かれていく。

 そして浮かび上がったアインハルト家の秘密。魔女の魔女たる所以めいた残酷さも明かされつつ、そんな魔女でも悟る時には悟って身を引く潔さも持ち合わせているんだと分かる。フィーアのツンデレぶりも極まってなかなかの見物。マリーアとミヒャエルって11年も結婚してなかったの? ともあれ他の所員の活躍も見てみたい群像劇。いっそ現代まで引っ張って長命な奴らのなおも続く放埒さって奴を、読ませてくれたら嬉しいかな。まだまだ続いて欲しいとお願い。


【4月29日】 歩く「機動戦士ガンダム」という玩具なり模型はあっただろうかと振り返る。「ザク」のラジコンはあったし「ドム」もホバーに見せかけたラジコンがあったような記憶があるが、「ガンダム」についてはあまりはっきりとした記憶がない。まったくなかったかというと見落としもあるかもしれないから確たる言葉は出せないが、それでも記憶に鮮烈なものがないということはつまり、等身大(人間大ということ)の「ガンダム」なり2万円近くするパーフェクトグレードのガンプラのように、強烈なインパクトを持って迫ってくる“歩く「ガンダム」”がこれまでに、作られて来なかったということだろう。

 なぜか? キャラクターとしては申し分がない。他のどんなロボットよりも知名度があるし、乗って動かしてみたいロボットでもおそらくはダントツのトップに位置する。にも関わらず。それはひとつにはあまりに有名すぎて、そのイメージにそぐう動きをするものが作りづらいということがあるのかもしれない。はやりの二足歩行ロボットの外側だけを「ガンダム」に変えたところで、それは「ガンダム」のイメージからはほど遠い。ガチャガチャと歩くだけの鈍重なロボットでは、軽快に走り回って敵を討つ「ガンダム」のイメージを見いだせない。

 安定性の問題もあるのだろう。足が長くて胸が出っ張り肩が張り出したデザインは、重心が上にあって立たせた場合、なかなか安定しない。立っているだけでも不安定なものを歩かせるのは至難の業。足が太くて地面にしっかりと立つ「ザク」なり「ドム」が歩くロボットになったのには、人気もあるしイメージの再現度の高さもあるが、やはり作り易さもあったのだろうと考えられる。だがしかし、やはり見てみたいのは大地に立つだけでなく、大地を踏みしめて周囲を睥睨しながら歩く巨大な「ガンダム」だ。

 そりゃあ等身大が望ましい。18メートルの巨体がのしのしと歩く姿を見てみたい。それが無理なら10メートル、いや3メートルほどでもいいから大きなガンダムが辺りを動き回る姿を見てみたい。30周年で等身大を実現してしまった以上、次に課せられたテーマはおそらくここになる。なって欲しい。40周年のその日に、お台場に作られたオリンピックスタジアムで巨大な「ガンダム」と「ザク」がPK戦を演じる姿。見せてくれるなら僕はどこまでも付いていく。

 そんなの今すぐにでも可能だよ、と思った人はきっと「ラ・マシン」を知っている人たちだろう。巨大なロボットというか機械を動かしながらとおりを練り歩くパフォーマンスで知られる集団。最近では横浜で始まった「海港博」に巨大な蜘蛛を持ち込んで、動かし歩かせては評判を取っている。その集団が昔に作ったのが巨大な少女と少年で、すっくと立ち上がってはまるで生きているかのように手足を揺すって歩く姿は、ネットを通じて世界に広まり驚きと感動の波を巻き起こした。日本にも是非にそれが来て欲しかったけれども当時とは形態も違うのか、すでに作り上げたテーマに挑むのはパフォーマーとしての沽券に関わると考えたのか、今回は蜘蛛での登場となった。少し残念。

 歩く、といってもロボットのように自立して歩行している訳ではなく、例えるならマリオネットのように宙づりにされた形で背後から重機で押しつつ、クレーンのようなものでワイヤーを引っ張り、手足を動かしてさも歩いているように見せかけているだけに過ぎない。それでも巨大な人型が迫ってくる様子、人々を睥睨して動き回っているビジョンはまさにSFの世界。あるいは「ガリバー旅行記」のようなファンタジーの世界。蜘蛛よりもマンモスよりも巨大ではあり得ない存在が巨大な姿で動き回るからこそ、受けるインパクトも大きかったに違いない。

 そう考えると「ガンダム」では足りないような気もするけれども、そこはキャラクターが持つ存在感がものを言う。巨大な「ガンダム」が待ち受け向こうからやってくる巨大な「ザク」が邂逅し、ぶつかり合えば誰だって感動にむせび泣くだろう。そこに飛び入りで参加する巨大セイラさん……は少しやり過ぎか。そういえばしばらく前に五所川原の立ちねぷたで「ガンダム」が登場して、屹立する姿に感動を覚えたことがあった。実物としてまつりの会場を動き回る姿はきっと壮観だっただろう。その驚きの何倍もの驚嘆を与えてくれるだろう「ラ・マシン」メソッドによる「ガンダム」と「ザク」のバトル。40周年と言わず「ガンプラ」30周年の来年にも、実現して頂ければ重畳。

 そんあ「ラ・マシン」の蜘蛛を見に横浜へ。どこだったっけと思いながらとりあえずえいやっと「馬車道」で降りたら正解で、つらつらと歩いていったら会場に到着。ちょっぴり並んで会場に入って見た蜘蛛は……蜘蛛だった。驚嘆するほどのデカさはなく、おまけに止まっていたから迫力もない。背後にはクレーン車のようなものがあって蜘蛛はそれに押されながら手足を付け根に乗った人間によって操作され、さも動き回っているような姿を再現する仕組みになっている。言うなれば担ぎ上げられた子供が手足をばたばたさせるようなもので、それって蜘蛛って言えるのって疑問も浮かぶけれども文楽だかの人形だって、体の操作と手足の操作を別の人がやりながら、それをピッタリ合わせることでさも生きているような姿をそこに顕現させる。

 ならば蜘蛛だって5人だか8人だかがタイミングを合わせて動かせば、巨大さに圧倒されるだけじゃなくって生きているかのような迫力を感じさせてくれるんじゃないのかな、なんて考えたものの動き出すまで間があったんで、隣の会場へと行って実はこっちが本命だった謎なアニメーションの「BATON」を見る。見る。見る。アニメーション? 確かに絵が動いてはいるけれどもどうやら人の動きを撮影したのをなぞり平面化させた映像らしく、殺陣とかアクションは実にリアルで迫力があるけれども、絵として見せる場合の溜めとか歪みといった効果があまりかけられていないため、触っただけで吹っ飛んでいくような印象を受ける。音が被っているから当たったぶっとんだって分かるけれども、それがないといったいどんな印象を受けるのか。ちょっと気になる。

 それは北村龍平監督の範疇ではなくって実写の演技を元に絵を描く人たちの問題であってリアルに徹しようとする余りにアニメ的な見せ方を置き去りにしてしまったと言えばいるのか。そんな絵もリアルと言えるかというととても平板。動きもどこかぎこちない。枚数をかけていないのか、わざとそうした動きにしているのか。わざとだったとしても、ななめらかに動く絵に慣れてしまっている人たちにはどこか中途半端な絵に見えてしまったはずで、「トータルリコール」的な悪夢世界であるとか「マトリックス」のような電脳世界であるといった理由も付けておかないと、あまり納得してもらえないんじゃなかろーか。

 1話もバトルが始まり終わってさあ主役登場ってところで終わってしまって尻切れトンボ。予告編ではクレーンみたいな先に顔がいっぱいついたマシンだの、白衣の美女軍団だのが出てきていろいろ視覚的にも楽しそうなだけにそうした見せ場を後に回してプロローグ的な、でもって見ていて驚きをあんまり与えてくれない映像を見せる主催者の感性に納得がいかない。それとも続きを見に来させて入場料を稼ごうという算段か? それは結構。というかすっかり行く気でいるんで企みに引っかかってしまっている口ではあるんだけれど、それだけの北村龍平ファンでアニメファンで円谷プロダクション親派でもない人には、次はないんじゃなかろうか。せめて会場に入らなくても続きが見られるような場所を、用意して欲しかった。他にまた見たいものもないんだし。

次はビキニで挑んで放水に吹っ飛ばされるAKBが見たい見たい見たい  そう。他に見たくなるものがまったくないってのが「開国博」の最大のウィークポイントか。巨大なスクリーンで見るハイビジョン映像も、その隅々までくっきりと映し出される解像度に感動はできて、将来においてこれが主流となった場合にもたらされる迫力のエンターテインメントへの想像は及んでも、それ自体をエンターテインメントとして楽しむことは難しい。かろうじて郡上あたりの川で遊ぶ子供達の中に、手足を黒々と日焼けさせた少女がスクール水着姿で佇んでいる様に目を見張らされる程度。かといってそれを今度は最前列で見上げにいくために通うかと言われると難しい。せめてあと2、3人はそうしたキャッチーなキャラクターが映ってさえれいば……。続く日産の宣伝ブースは見るものなし。段ボールで作られたベンチはおもしろかったけれども、持ち帰れる訳でもないしなあ。

 蜘蛛はどうか。戻った会場で動いている蜘蛛を見たけど人型に比べてやっぱり迫力が不足している。あともう2周りほど巨大だったら、受ける迫力も違ったかもしれないけれども狭い会場に収まる小ささでは出せる迫力にも制限があって当然か。まあちょうどテレビ東京が世界卓球のPR番組か何かを撮影中で、「AKB48」とやらが蜘蛛に挑んでは水蒸気を吹きかけられて慌てふためいていた様を間近に見られたんで楽しめはしたけれど、それが毎日続く訳でもないしなあ。せめて後半は別の出し物を持ってきて欲しいもの。不可能ならば今が流行の「GOEMON」様を登場させて挑ませるなり、3人じゃなくって48人をずらりと揃えた「AK48」に飛びかからせるくらいのスペクタクルを、見せてやって頂きたいとお願い。「ズーラシア」方面はどんな感じかなあ。そっちも覗いてみるかな。でもきっと生の動物に感動して帰ってくるんだ。「開港博」関係ねえじゃん。


【4月28日】 「機動戦士ガンダムUC」のアニメーション化と、それに付随してのメディア戦略が発表になって、これはあるいは時代が激変する兆しかもとおののいた当方とは対照的に、世間での騒ぎがあまり見えてこない印象。もはや「機動戦士ガンダム」というコンテンツにニュースを駆動するパワーがなくなっているのか、それともテレビ放送が確定していない状況での発表がもたらす可能性について、現時点ではあまり想像が及んでいないのか、そうした想像をめぐらせてもやもやとしている当方が、単に事情を知らないだけなのか、などといった迷いも生まれて身の置き所に迷う日々。

 これですんなり1月からのテレビ放送も決まったのなら、すべてが杞憂に終わるのだけれど、そうでないとしたなら「ガンダム」はもはや、たとえ「UC」と付く物であってもテレビで流してマスにアピールして玩具を売るようなタイトルではなく、ネットの海をかきわけコンテンツへとたどり着いた人だけが、能動的且つ積極的に鑑賞し、パッケージを買うことでひとつのビジネスサイクルを完結させるタイトルへと、変化したということになる。逆に考えるならそうしたタイトルであるとサンライズ側が位置づけて、ビジネスモデルを組み替えて来たということになる。

 前例がない訳ではないことは、「リーンの翼」なり「幕末機関いろはにほへと」などのタイトルがあることからも明かだし、ビジネススケールという意味では、劇場公開にウィンドウを絞って能動的なファンを集めて盛り上がった上で、パッケージ展開して売れ行きを確保する「空の境界」のようなタイトルもあったりする。これがいったいどこまでの数字を叩き出したのかは知らないけれども、5万本10万本といった数字にたどり着いているのだとしたらそれは結構。ひとつのビジネスとして成り立つスケールに到達していると言えるだろう。マスメディアに大枚をはたいて乗せてもパッケージの売上に跳ね返ってこないのなら、その分をクオリティのアップに回した上でウィンドウを絞り、見たい人に届けた上でパッケージを売りさばいた方が、誰もがハッピーになれる。そんな考え方が本格的に台頭してきた兆しと「ガンダムUC」の一件を捉えた方が良いのかも知れない。

 ただ。そうした絞られたウィンドウで望む人、前向きな人、能動的な人に対してコンテンツを届けて狭い範囲で濃く盛り上がるビジネスが主流になっていった場合。ビジネスとしては成り立つけれどもそこで留まってしまう可能性、なんてものにも考えが及ぶ。すなわちマスなメディアを通じて、見たいとは思っていなかった人に情報が届くような“誤配”が、ネット配信のような形態ではあまり起こらないのではないかといった懸念がある。

 どんな番組かはよく知らない。けれどもふと着けたテレビでやっていたのを見てみたら、案外に面白かったので引っ張り込まれた。知人からそんな番組があると聞いて、テレビを付けたらやっていたので見始めた。そうしてファンになっていった。僕自身の「機動戦士ガンダム」に対するアプローチがまさにそれで、マスに届くメディアで放送される意味は、そうした伝播力の広さにあったように感じている。あそこでテレビ放送がなかったら。ネット配信オンリーだったら。ネットなんて見なかっただろう。そして出会うことなく通り過ぎていただろう。中学生では壁が高すぎるのだ、現時点でも。

 情報がセグメント化されコミュニティがタコツボ化してしまった中で、新しいファンを外より引っ張り込むのはなかなかに容易ではない。なるほどビジネス規模を支える10万人までは集められるかもしれない。だからビジネス的にはそれで十分なのかもしれない。けれどもそこから30万、50万へと増えていくことが起こるのだろうか。10万人が買うと同時に1000万人が知るコンテンツが生まれて来るのだろうか。「ガンダム」を見たことはないしDVDも買ったことがない人は大勢いるけれど、「ガンダム」を知らない人はいない。それはマスを通じて喧伝され、それが情報として増幅されていったから。限られた範囲で情報を回されていては外には伝わらない。現に「空の境界」を知っている人は周囲にまるで誰も存在しない。

 テレビを通して届ける意味は、その時点だけのビジネス的な成功以上に、未来に向けた種まきといった側面も持っている。受け手は玉石混淆の中を右往左往しながら接触していく中で自分なりの面白さを発見し、選り好みしながら自分の目を育てていく。将来に期待できそうな作品を覚えていく。10年後。その時のクリエーターたちが作った作品を支持して讃えつつ、振り返って見る目の確かさを感じて悦に入る。受け手も育てば送り手も育つ。マスなメディアを通してさまざまなものをバラ撒く意義がそこにあった。ピンポイントで情報を選べるネット配信のような場所で、そうした“誤配”が起こるだろうか。どこか気になって10年間を追いかけるような出会いが生まれるだろうか。世界に届くことは、すべてが受け取ることではないのだ。

 これは業界も業種も違うけれども、コミックバンチを立ち上げた元週刊少年ジャンプ編集長の堀江信彦さんが、雑誌の効用というものについて話していて、1冊の雑誌には面白い漫画もあれば新しい漫画も載っていて、そんなごったにの中から次を背負う漫画家が生まれて来るし、読み手も自分の感性を磨いていけるんだと力説していた。それが雑誌の良さだった。雑誌を読む者にとっての楽しみだった。けれども今は違っているらしい。堀江さんが親しい大手出版社の役員が、新入社員募集の面接をしていてこう言われたらしい。今の少年サンデーは面白い漫画と面白くない漫画を”抱き合わせ販売”していると。これを聞いて役員は嘆いた。堀江さんも唖然とした。僕も吃驚した。そうじゃないだろうと思った。

 でもそうした感性はもはや古すぎるのかもしれない。その作品だけがあればほかはいらない、といった読み方は、そのシングルだけあればほかのカップリング曲は必要ないといった音楽のネット配信と事情として同じ。ピンポイントで情報を確保し、他への関心を広げようとしないメディアに対する態度は、もはや普通のことになっているのかもしれない。漫画でも、漫画家の側に自分が面白い漫画をダイレクトに配信すれば、それで商売は成り立つといった発想をする人が出ている。実際に行動を始める人もいる。雑誌という場所で、先輩たちの頑張りに隠れながら自分を磨いて、育っていったことなどなかったかのように、自分だけを見てくれ、他はいらない、その方が読者としてもハッピーだろう、といったことを主張する。なるほど一理。けれども……。

 マスを通じて普く知らしめることによって生まれる未来の可能性よりも、マスに展開することで生じる現在のコストの方が気になってしまう時代。受け手の方もマスを通してさまざまなものに触れる楽しみより、ダイレクトに欲しいものだけにアクセスする方が嬉しいといった感性に満ちた時代。ごった煮のなんでもかんでもございといった空気の中から美味しそうなものを探し、時に不味さに歯がみしてもそこに染みる味を感じて来た人間にとって、どう受け止めて良いのか分からない時代になって来た。

 希望はある。ネットがマスを上回るマスとしてごった煮感を演出し、国境も時間も超えた“誤配”を生んで広がる状況が来ないとも限らない。が。やはり流行ったものだけが流行り、それ以外は有象無象の塵芥として消えていくだけになるのだろう。ピンポイントで欲しいものだけが求められ、その範囲内で盛り上がって隣は何をする人ぞ、といった状況が生まれ定着していことになるのだろう。それともやはり希望はあるのか。答えを得るために、「ガンダムUC」の動きを見ていこう。未来がどうなるのかを想像しよう。

 しかしなあ、こういう態度の尊大さを見ると地上波にコンテンツなんて出したくないって考えるコンテンツホルダーの人が出てくるのも仕方がないことなのかもなあ。例の地デジの宣伝キャラとして浮かび上がった「地デジカ」を、さっそくネット界隈でもっとかわいらしくして紹介しようとしたら、民放連あたりが「無断掲載には厳しく対応していきます」なんてコメントを出しやがった。これは二次創作ではなくキャラそのものの話だけれども、「一般のブロガーの方がブログに掲載したり掲示板に載せることも、著作権の問題がありますので黙認することはしません」とまで言っているらしい。なるほど権利というものを保持する立場として主張は正しいけれども、目的として地デジをPRするキャラクターを、そのままの形で掲載して宣伝に一役買おうとしている態度までをも咎めるのか? といった疑問が浮かぶ。それともPRのためのキャラクターで儲ける気がいっぱいなのか。

 同一性保持の上、批評として「引用」するならそれは確か可能なはずで、そうした行為への想像も思い浮かべることなく一刀両断に「権利はうち」「だから厳禁」と言ってしまえる態度の奥には、地上波で流してあげるコンテンツにはすべて自分たちのハンコを押して権利とし、そこからお金を引き出していくビジネスの形、というよりもはや既得権益の姿が見えて仕方がない。「特に、二次創作キャラクターの作成や掲載につきましては、許されるものではありませんので、見つけ次第、厳しく対応していきます」とも言っているけど、それがパロディだった場合も同じ主張で取り締まるのか。法律的には可能であっても、言論の自由の主張する行動に、同じ言論機関としての顔も持つ民放連がダメ出しをするのか。お前のものは俺のもので俺のものは俺だけのもの、といった超ジャイアニズムすら見え隠れするこの言説が、果たして真なる言葉なのかは紹介されている媒体の特性もあって判然とはしないけれども、どっちにしたって面倒な言説。反発も早速起こっているようなんで、そのあたりにどんな折り合いがつくのか、それとも火が着き嵐となるのかを見ていこう。地上波滅亡の狼煙になってしまったりして。

 波田陽区……じゃなくって波田洋介だから別に着流しにギターを抱えて誰かのことをあげつらって「って言うんじゃない?」って言って「斬りー」「残念」ってやらなくてもいいんだけれども、そんな目立つことはしなくっても倉庫にこもって猫に話しかけていれば、いずれ怪しい奴だと思われ通報されそうで、結果3年前にいろいろやってた奴だと露見しないのかって心配も浮かぶ。っていうか厚生労働省あたりはきっと消息くらいは掴んでて、泳がせているだけなんじゃないのか田波洋一。でもそれを知って逃げもしないで猫に話しかけているってことは、何か反撃の方法を考えているのか、それとも完全のおつむがイカれてしまっているのか。

 一方で綾金で新しく立ち上がっただろう神楽は、いったいどんなメンバーで何を目的に働いていて、そこでハウンドはどんな役割を担っているのか。3年も経っているんだから成沢だって他に良い人とか出来てたって不思議じゃないのに。等々、考えさせられることも多々あるなかで第4部が幕を開けた「ジオブリーダーズ」の今後に注目。これ終わったら真剣に雑誌の将来を気にしてしまいそう。抱き合わせじゃなく主従だからて主が細って従だけになっても過居続ける気は起きないから。なので早く平野耕太さん「ドリフターズ」には柱と呼んで迷いのない骨太さを見せて頂きたく候。とりあえずジャンボマックスはいつ出てくるのかな。


【4月27日】 放送されるテレビアニメーションで最強というのが「機動戦士ガンダム」の位置づけで、だからこそ新シリーズの立ち上げともなればいつからどこで何時くらいから放送されるのか、といった辺りに興味がまず及ぶんだけれど、福井晴敏さんの原作で「ガンダム」から地続きの世界を描いた「機動戦士ガンダムUC」がいよいよアニメ化ってことになって、出回った情報を見ても放送という文字がない。2009年冬、という時期があるからてっきり1月からの放送スタートか、なんて思って読んでもあるのは「インターネット網などを利用し、英語他、多言語対応による世界同時配信を提案」といった言葉。加えて映像パッケージ販売、イベント上映といった言葉ばかりで「テレビ放送」という文字がどこにもない。

 「ガンダム」であり新作であり宇宙世紀に連なる本筋である作品。プラモデルだって出れば話題になる作品であるにもかかわらず、まずテレビといった所にいかないのは何故なのか。なるほど過去に「聖戦士ダンバイン」という話題の作品に連なる新作でありながらも「リーンの翼」はネット配信という形でファーストウィンドウが開かれた。けれども「ダンバイン」はやはり「ダンバイン」であって「ガンダム」とは違う。世界は大げさにしても日本の人ならだいたい知ってるコンテンツ。その最新作がフル3DCGといった特殊な映像形態ではないにも関わらず、テレビではなくネットでもって配信されるというこの状況に、果たしてどんな意味があるのか。

 「ガンダム」ですらテレビで視聴率が取れない時代になっているのか。あるいはテレビを見る人が減ってしまった現在、敢えてテレビという重たいメディア、例えていうなら“重力”に縛られず、軽やかにウィンドウを飛ぶならネット配信を一義とした方が得策といった判断があったのか。分からないけれどもサンライズが作る以上はネット公開に特化し映像クオリティに手を抜いた作品にするといったことはないだろう。監督は「RD潜脳調査室」や「びんちょうタン」や「あまつき」といった作品を持つ古橋一浩さん。ベテランを配してキャラクターデザインにも高橋久美子さん、メカデザインにはカトキハジメさんほかが結集だからスタッフに不足はない。それでいてネット配信。やはり時代が動き始めたということなのだろう。果たして成果は。その後への影響は。30年目の「ガンダム」はアニメのビジネスにも新世紀をもたらす。

 まあせっかく買ったんだからと「交響詩篇エウレカセブン」のブルーレイボックスから1枚を抜き出し再生機として使っている「プレイステーション2」にぶっこんで、現れた映像に唖然呆然。額縁かい。それも割に盛大な額縁で21型くらいなのに16インチのミニテレビをのぞき込んでいるような錯覚すら覚える。これは何だ、おとなしく昔のDVDを買って我慢してろとのエウレカ様からのお達しか。たいして好きでもないのに買った奴への天罰か。

 まあブルーレイなんで画質はきれいで隅々までくっきりと映っているから眼をこらすほどではないんだけれども、元が4:3で画面いんっぱいに放送されたアニメ作品が、どーしてパッケージではそのまんま再生されないのかって部分に釈然としない思いを抱く。きっとそれは16:9のワイドなテレビにかけた時に、上下がきっちりと収まり再度に黒い帯が出るような仕様になっているからなんだろう。つまりは世間に合わせてデカい横長をちゃんと買えというお告げか。そりゃあ欲しいけど金がないんだ。あと置く場所も。

 性能の良いブルーレイディスクレコーダーだとそうした時にズームする機能も付いているらしいんだけれど、住んでいるアパートは未だアナログ環境でBSとかも来ず。チューナーがデジタルな最近のHDD/BDレコーダーを買っても意味がない。だからしばらくはPS3の再生環境にしばらくはすがるより他になし。それともファームアップすればそうしたズーム再生が可能になるんだろうか。ちょっと実験してみるか。元が横長で放送されていた「マクロスF」とかは、ブルーレイディスクで見てもテレビで見た時みたいに上下帯の横長画面なんであんまり気にならないのだから、これは過渡期のタイトルを過渡期の環境で見る苦労と考えやり過ごしつつ、いずれ来るべきハード環境のアップに備えてソフト面を先行投資しているんだと理解するのが心にも優しそう。

 いやまあ普通に引っ越してデカいテレビを入れて地デジも入れてBDレコーダーも入れれば全部解決するんだけれど、でもなあ、引っ越しなあ……しばらく不可能だよなあ、今のこのご時世じゃあ、夏にはそりゃあお小遣いがあるんだろうけど、このご時世に加えていろいろと蹴躓いていたりすることもあるのかどうなのかってあたりから、月々の分と変わらないかあるいはそれより少ない額に落ち着くって噂も流れ始めている昨今。とてもじゃないけど部屋に山と積まれた本を移動する費用なんて捻出できるはずがない。出来たとしてもその先に果たしてストレートに末代まで続く道が保証されているかも怪しい昨今。備えておくには無駄は極力省かなくっちゃいけないんだよなあ。だったらブルーレイなんて買うな? そこはそれ、アニメは別腹って奴で。これだからオタは……。

 でもって6話くらいまで見てこの頃はまだ未来に希望を抱いていたんだよなあと遠い眼。エウレカん家のガキどもが無茶やってレーダー避けの電源を引っこ抜いたりする描写に、いくらなんでもそこまでバカややらせないだろう、ひとつ間違えば墜落だってあり得るような操作が可能な場所に立ち入らせないだろうって疑問は、最初の放送の時にもきっと抱いたような記憶ああるけどそれ以外は、うだうだとしていた少年が一目惚れと隣の芝生の青さに惹かれて飛び立ったもののそこは予想とは大違いだったといった描写にそうだよなあと納得し、へそ出しタルホさんの可愛らしさにメロメロにされ空戦とかの描写に最初の放送の時ど同様に圧倒される。ミニスカートの腰の際からのぞくお尻へと続くくぼみとか、良い感じに描かれていたもんなあ。

 ここからつらつらと見ていけば俺様加減が増すレントンに辟易とし、何の含みもないイームズ夫妻の親切ぶりをうざったく思い、そして意味深な展開に理解不能のマークを出しては首をひねって頭を抱えることになりそーなんだけれどもそれを含めて見通していけば、なぜにこの作品がそこまで人気を獲得できたのかったて理由もきっと見えてくるはず。食った歳の分だけキャラクターへの感情移入も削がれ冷静且つ客観的に成り行きを眺められるかもしれないんでとりあえずボックスの1から次は2枚目のディスクを「PS3」へと叩き込んで、完璧な主題歌と絶賛したFLOWの歌声に口パクし、針穴写真機をのぞき込むような額縁に絶えつつ現れる映像をながめていこう。タルホって案外にガキっぽかったんだなあ、もっと大人っぽい印象があったよ。

 上には上がいるというか上ばかりが凄まじいというか。ヘンタイ王子の実は切れ者ストーリーな林トモアキさんの「ミスマルカ興国物語4」(角川スニーカー文庫)は魔王復活の阻止に必要な紋章集めに乗りだしたマヒロ王子が向かった先は民主主義が生きてる国で大統領に会って紋章を拝領してこようとしたらクーデターで大統領は捕らえられ革命勢力が勃興してマヒロ王子にも手が迫る。これはいかんと大統領を助けて逃げ出そうとして革命勢力と対峙する話がメインになってはいるけれど、その実結構裏でいろいろと画策があったりするところに一筋縄ではいかない奴らの化かし合い的な要素たっぷりの今シリーズの醍醐味を味わえる。誰がいったい黒幕なのか。そして勝利者は誰なのか。とりあえず最強騎士のランデルディーでないことは確かだな、単純過ぎる。耳に尻尾の生えているのにアクセサリーと言い張る国防長官の招待とかもあからさまだけど謎過ぎる。でもって復活のルナス姫。舞台を極東は大東王国へと移して再び始まる化かし合いの行方や如何に。ああ楽しみだ。


【4月26日】 お姫様、という存在はだからやっぱり特別なもので、こればっかりは頂いてみないとその存在感というものは分からない。決してお金持ちのお嬢様ではないし、偉い政治家のご息女という訳でもない。お姫様。絶対でも立憲でも君主すなわち国王なり天皇なりが君臨する国にあって、その一族に連なり血を引く女性。生まれながらにしてその地位を我がものとしていて、育つ過程においてもそんな境遇が身に染みこんでいるから、生活なり立ち居振る舞いには、いわゆるただのお嬢様とかとは違ったものが現れる。それがお姫様、なのだ。

 世界でも希に見る長さで君主を頂き続けている国に生まれて、間近という訳ではないけれども同じ社会の中でお姫様の存在に、報道等を通じて振れ続けることのできた身だからこそ、お姫様がやんごとない身の上だってことも何とはなしに感じ取れる。高貴であり神聖にして不可侵の存在。だからそれを踏まえて高貴な存在として物語の中に描くことが出来るし、逆に高貴だからこそその高貴さから外れた言動や振る舞いをした時に醸し出されるギャップを、物語の中に描いて楽しむことも出来るのだろう。妙に庶民的というか、じゃじゃ馬というか、そんなお姫様の姿とかに。

 という訳なのか、相次いで出たこんなお姫様あり得ない、といった意外性方面から描かれたお姫様な話が何本か。まずは「吉永さん家のガーゴイル」がファミ通文庫で出ていてアニメ化もされて看板な作家になっていたはずなのがなぜか富士見書房から新刊を出していたりする田口仙年堂さんの「本日の騎士ミロク1」(富士見ファンタジア文庫)は、何をやらせてもケンカっぱやくて仕事を首になってしまうまだ少年と言えそうな男のミロクが、剣を振るう仕事だったら大丈夫ってことで試験を受けて盗用された騎士団で、なぜかまされたのがお姫様の舞台装置を整える部隊。というかその国では騎士というのは公務員とほぼ同義語で、軍隊的に戦う騎士団もしっかりいるけど城の庶務に総務に雑用その他まで受け持つのもやっぱり騎士。ミロクはどちらかといえば後者の方で、美貌と優しい言葉で国民から指示を集めているお姫様の側で雑用をする部隊に入れられてしまった。

 これじゃあ剣を振るいたくてもふるえない。もどかしく思う以上に外面はとても優しげなお姫様が、裏では乱暴で乱雑でずぼらで暴れん坊だったりすることも判明。ミロクはほとんどパシリと化して買い物に行かされ身辺の世話をさせられこれじゃあ剣を振るう場所がない、だいいち騎士の徴の剣すらもらっていないと憤って出ていこうとする。が。それでは妹と召使いが路頭に迷うと涙を呑んで戻ったところで明らかになった部隊の秘密。ウサギにしかみえない隊長に優男のゴーレム使いに姫の化粧係といった面々の本当の力が明かされ、且つミロク自身にもあった秘密が明かされてこいつらちょっと違うかも、でもってこれからいったいどうなるのって驚きと興味に引っ張られて次が読みたくなって来る。

 剣を持つとはすなわち剣を振るうということで、それはとてつもなく深い意味があり責任もあるのだということを、剣を持たせないことによって自覚させるような設定もあったりとなかなかの奥深さ。見かけのユルさに騙されないで読み切ったところに見えてくる、姫様って存在ならではのノブレス・オブリージュな振るまいが持つ強さと残酷さを感じ、剣士という職務の意義を感じ、落ちこぼれ部隊の逆転物にあるカタルシスを得てそして展開の先にあるだろう1人の少年の自立とそして恋の成就といったドラマを想像して楽しもう。しかしやっぱりどうして富士見から、ってまあそりゃあいろいろあるんだろうなあ、レーベルにも。

 「本日の騎士ミロク」ではまだお姫様に喋るくらいの特殊技能しかなかったけれども、こっちのお姫様はなかなかの行動派。いやお姫様たちは、というべきか。川口士さん「星図詠のリーナ」(一迅社文庫)は、傭兵の男が歩いていたら盗賊めいた物どもにご一行が襲われているところに出くわしたところから開幕。金を求めて受け入れられたので助けに入って盗賊を追っ払ってから確かめるとどうやらお姫様で、聞けば国王の命令を受けてとある街へと地図を作りに向かう道中だった。そのお姫様は占い師だった母親についてあちらこちらを回った経験もあったからか、遠方のことを想像するのが大好きで、そこから知らない場所を地図にして描き理解する楽しさも感じるようになって王城あたりを地図にして作り上げたら父王の関心を惹いたようで、だったらある街の地図を作ってみろと城を出された。

 傭兵に守られその街へといくと総督は古地図を出して追い返そとし、新しい地図が欲しいといってもなかなか寄越さずだったら自分たちで作るからと測量を始めたら城壁を高じするとかいって測量の邪魔をする。こりゃあ何かある、と踏んだところに明らかになる陰謀。さらに王城内での嫉みに怨みが高じてお姫様を狙う動きもあってと四方八方から火の手が迫る。そこは不思議な力を実は持ってた傭兵の活躍もあって無事に事態を過ごすんだけれど、さまざまな妨害があっても屈せず自分の仕事をやり抜こうと突っ張るお姫様であっても、現実に統治となるとまだまだで、そこにもうひとりのお姫様が出てきては知識と勇気を示して事態をまとめ上げる。あるいはこちらの方が趣味が高じただけなリーナよりも傑物なのかもしれない。飾りでもなく象徴でなく、敬されるつも遠ざけられることもないまま存在感を示し行動力を見せるお姫さまたちに惚れ惚れ。まあ身分が違いすぎるから憧れるだけのことしかできないんだけれど。

 こちらはさらにお姫様のオン・パレード。杉井光さん「剣の女王と烙印の仔1」(MF文庫J)はとある王国の傭兵がいて、クリスという名で何でも「獣の烙印」とかが額に現れているそうで、強いんだけれどその強さが時には相手を全滅させつつ周囲の見方をも全滅させて、自分1人が生き残る強さとなって現れるため見方からも「星喰らい」とあだ名され忌み嫌われていた。そんな「星喰らい」の少年が戦場に立つと現れたのは連合公国の軍隊で、完全包囲した中を1人、大剣を振りまわしては当たる兵士をなぎ倒して迫ってくる少女がいた。それが「塩撒き」とあだ名されるミネルヴァとクリスとの出会いだった。

 ミネルヴァのいうのは未来を視たところ自分はクリスに敗れ討たれるはずだったのに、クリスはミネルバに討たれてそのまま連れ帰られ捕虜になる。ところが連れ帰った先にいた騎士団を率いていたのは公国のお姫様のフランチェスかで、クリスの強さかそれとも可愛らしさが気に入ったのか、側近の近衛にして侍らせては自分の戦いの手駒に加える。いつか見方を殺すかもしれないと拒否しようとしても、運命のミネルヴァと一緒にいなきゃいけないんでしょ、といった声に逆らえずそのままズルズル。でもってやっぱり起こった「獣の烙印」の発動で、果たしてクリスにその後も居場所があるんだろうかといった心配も浮かんだけれども、それ以上にミネルヴァというもうひとりのお姫様の将来が気にかかる。

 クリスによって眉間を貫かれるという運命については結果が出た。けれども次に浮かんだ新たな運命はクリスを否応なく王国と公国との戦乱の渦に巻き込んでいる。自分が足手まといになるんじゃないかと、強いにもかかわらずうじうじしていて、だったら傭兵なんて辞めて田舎に引っ込んでりゃあ誰も不幸になんかしないんじゃないのとツッコミたくなるクリスだったけれども、一皮むけたこれからの戦いの中で「獣の烙印」をどんな方面に発動させていくのか、あるいは王国公国巻き込んでの破滅の道なのか、そんな辺りを想像しながら続きを読んで行こう。3冊とも割にしっかりと人間が描かれているのが特徴。これだけ面白い本が立て続けに出されるあたりに、ライトノベルって表現の成熟ぶりも伺える。えらぶ方は大変だけど。

 そういやあ「機動戦士ガンダム」にお姫様っていたかなあ、と振り返って少なくとも最初の「ガンダム」にはいなかったと気づく。ああいや、ミネバ・ラオ・ザビは一応はお姫様か、まだ赤ん坊なんで姫っぷりも何も出てなかったけれど。セイラことアルテイシアを姫と呼ぶ人もいないでもないけど、ジオン共和国のリーダーの娘だから姫ではなくって単なるお嬢様。後に公国となったジオンに使えて王族みたいな人たちを相手にして来た経験がそれとも世継ぎを姫と呼ばせたのか。セイラが根っからの姫体質だったのか。その後の「機動戦士Zガンダム」には成長してお姫様になったミネバが登場してやや尊大な(言わされている感はあるけれど)姫っぷりを見せている。

 これがそのまま長じていけば立派に性格も思考も姫になったはずなんだけれど、劇場版ではハマーンとともに退場し、テレビ版では何処かへ。その後の宇宙世紀物に姫って出てきたっけか。かといって富野監督が姫とか嫌いじゃなかったのは「ターンエーガンダム」に登場させているあたりから分かるけれども、割に物知らずだけれど理想に燃えて猪突し引っかき回して恐れおののく起伏に富んだキャラとして動かしお姫様を、敢えて出さずとも物語が構築できるだけ、あの世界は“成熟”していたんだろうなあ。現実のこの世界でお姫様が何か世界を変える大活躍なんて見せることはないし。「機動戦士ガンダムSEED」シリーズや「00」シリーズには姫がいっぱい出てくるよーになったのは、その後のライトノベルや何やらに姫がわんさか出てきた影響か。姫から視るガンダム論。考えると興味深そうだけれど面倒だからやらない。


【4月25日】 アニメーションの劇場映画の公開で初日の初回に並んだのはいったい、いつごろでどんな作品が最後になるのかを振り返ってみて思い出せないのは、並ぶべきアニメ映画がすくなくなったということではなくむしろ逆で、人気になってしまって公開規模の広まった関係でわざわざ行列をしなくても、近所のシネマコンプレックスで普通に行って普通にチケットを買い普通に見られてしまう状況が起こったことが1つとあと、デジタル化が進んで初回の特典としてもらえたセル画がもはや死滅してしまって、わざわざ1回目に行く意味がなくなってしまったことがあるのかもしれない。

 初日にセル画をもらった最後はというと2002年9月に上野の「スタームービー」で今敏監督の「千年女優」の初日に並んで、限定50人のセル画を30番目くらいに並んでもらった記録が残っている。入っていたのは「オバ千代」だから成長して女優として活躍していた頃の絵か。小山さんが声の。それ以前ではなかむらたかしさんの「パルムの樹」を、有楽町のスバル座で見た時で、2002年3月の話で直後に映画を見てサイコなピノキオだと判明した主人公のパルムが描かれているからまあ良かったんじゃないかと上映前に思った記録が日記にある。

 あとは2000年4月に上野で「ガンドレス」の“凱旋”公開を見た時にセル画をもらって「ちゃんと色が塗られている!」と驚いたり(苦笑)したこと。なるほど昔は結構あちらこちらに“出没”していたんだなあ、最近は歳をとって体力も失せて来た。あとは初日に劇場に並びたくなる原動力として、舞台挨拶で声優や監督を生で見られる喜びというものもあるんだけれど、これは仕事が仕事だけに当人達ではなくても“有名人”という括りで言えば、見るのに慣れきってしまっていてあまり有り難みを感じない。ネットが発達して雑誌では1カ月後、新聞ではまず紹介されなかった舞台挨拶の様子が割にリアルタイムで紹介されて、いかなくても発現内容だけは感じ取れるということもある。

 セル画がなくても舞台挨拶が行われなくても、並ぶことに意義がある、という時代も確かにあった。世間ではマイナーと黙され得ているアニメーションが、劇場などというパブリックにしてセレブリティな場所で公開されるという、その事実がどれくらいに価値があることなのかを行列することによって身をもって示し、世間にアニメ映画とはこんなに注目されている表現方法なんですよとアジテーションするとともに、そうした行為に荷担している自分を、客観視して頑張っているなあ戦っているなあと喜ぶ楽しみがかつてはあった。「機動戦士ガンダム」の最初の劇場版に並んだ人たちも、たぶんそんな“意義”を感じて並んでいたんじゃないんだろうか、半ば共犯めいた意識を持って。

 今もそうした“共犯”としての意識から、単館系でレイトショー公開されるアニメ映画に行列を作って見に行く人がいるようで、伝統は失われてはいないと思いたいけれどもそれとて“初日”というものにどれだけの価値を感じられるかというと、なかなかに難しいものがある。いつでも見られるし、見逃せばパッケージを買えば良い、といった気持ちとフトコロの余裕がなせる心理かもしれないけれども一方に、それだけ気持ちを引きつける作品、個人的というよりはアニメ界隈の空気が初日に見ておくべきといった張りつめたもの、ざわざわしたものになっている作品が少なくなっているのかもしれない。

 まあ、本日初日を迎えた「交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい」のように、仕事で見てしまっているからわざわざといったものもあるけれど、仕事で見てなお初日にかけつけたくなる作品、というのもない訳ではないからなあ。あのテレビ版の絵だけを借りてまるで違う話に仕立て上げて、それでいてレントンとエウレカのラブストーリーという骨子だけは貫き通した不思議な映画は、再び劇場で見ておきたい気はあるけれど。ホランドの独立愚連隊のファッションがバラバラ過ぎる謎とかに折り合いを付ける意味も含めて。せめて正規に軍人になったレントンくらいは軍服着てたって不思議はないのに。そんな意味でこの夏の3本「ヱヴァンゲリヲン劇場版・破」と「サマーウォーズ」と「宮本武蔵」が果たして、どんな空気を醸し出して初日に足を運ばせるかに気を向けて行きたい。マイナーメディアにゃあプロモーションの誘いとかもなさそうだし。

 というわけでぐっすりと眠ってから起き出して「フクダ電子アリーナ」へ。年間チケットを買ってはあるんだけれどSA自由席でそれが浦和レッドダイヤモンズ戦では半分に減らされて年間パスの人だけでギッシリになると予想して、前のジュビロ磐田戦の時にSバック指定席券を買って置いたんで行列に並ばず優先で入らなくても席は確保できると安心していたら案の定、到着した頃にはSA自由席は上段までギッシリ。一方の指定席はバックもメインもゆとりがあって試合の直前ぐらいにバラバラと埋まり始める感じ。試合までの2時間を楽しむのもひとつの観戦の方法ではあるけれど、本も読めない場所を呆然と過ごすのもちょっとなんだかな感じもあっただけに指定席というやや割高な席種には、時間は金で買うという意味もあったのだと実感。でも次かはらやっぱりSA自由席で優先列に2時間15分前から並ぶんだけど。1人で。ああひとりでだ。

 でもって席は2階の上の方で風が吹き込み雨が降りしきって寒いさむい。滝沢朗御用達のM−65の裏にキルティングライナーも装備した完全武装だったけれども寒さが分厚いキャンバス地を通して染みてくる感じがあってこれでゴールデンウィーク直前だとはちょっと信じられない。試合もそんな寒さが伝染してか走っては転びパスを受けてはトラップをミスする選手が続出、ジェフユナイテッド市原・千葉に。だから攻めようとしてもタイミングがずれて詰められパスが出せず、もらっても外したり流したりして次の攻撃につなげられない。リズムが出せないんだよなあ。

 とりわけ工藤浩平選手にもらっては流しドリブルしようとして後ろからかっさらわれるケースが目についたのは何だろう、それだけボールに触っているってこともあるけど昔だったら、それこそ千葉のマラドーナよばわりされちた数年前ならもらえば何かやってくれそうな予感があったのに、そこから進歩するどころか歩みを下げてしまっている感じ。これなら中盤は中後選手で良いんじゃないかって気もするんだけれどミラー監督、なぜかあんまり使わないんだよなあ。勿体ない。それとも他に理由が。

 そんな訳で試合は1点を奪われ取り返せずに敗退。引き分けられた試合ではあったけれども勝てる気はまるでしなかった。せめてクロスがオーバーしないような蹴り方を皆が覚えるべきだ。誰にも触れないでオーバーするより、はね返されても肉弾戦を打つくらいの距離で放り込み、こぼれたところを狙うくらいの波状攻撃をえらぶべきだ。巻誠一郎選手はそんな程度じゃ壊れないんだから。今は壊れる以前に使われてないもん。一方のレッズの阿部ちゃんは縦横無尽。すごいプレーは見せないんだけれど堅実なプレーであちらこちらに顔を出してさばき出しては守り攻める繰り返し。しっかりと役割をこなしている。これでフリーキックを蹴るようになれば完璧なんだけれどもそれを決められ敗れるってのも苦渋だから今はまだ、縁の下を支えて目立つことなくひっそりとして、そしてジェフ千葉に再帰した暁に10周りくらい大きくなった阿部ちゃんを見せてやって頂ければ本望。まずないか。そんなシチュエーション。

 男が全裸で歩けば公然わいせつだけれど少女がノーパンで過ごしたらそれはいったいどうなるのか。見えないんだから良いという意見もあるけど時に見えることもあってその場合はどうなるのか。得した気分だと喜ぶのか。男女差別。男のあれは女が見てネガティブな赤面であるとともに男が見て見苦しいという意見もある一方で少女のそれは男が見たらポジティブな赤面であるものの女が見て果たしてどうなのか。同じ公園で真夜中に酔っぱらって裸になって騒ぐ美少女アイドルとか出てこないかな。というわけで穿いていないヒロインが登場する「ぱんつぁのーと」(集英社スーパーダッシュ文庫)を読了。月見里一さんって人の作品。誰? 学校でも割にツンケンとした態度で知られる美少女が、実は下に何も穿いていないと気づいた主人公の少年。聞けば穿かないんじゃなく、穿けないんだという。

 穿けばしばらくして消滅してしまうとか。いったいどうして? 理由は不明。だって説明ないんだもん。おまけに穿けないこと、穿いてないことが本編とあんまり関係ないんだもん。本編はむしろ主人公の少年が覚えのないところで大活躍をしていたらしく穿いてない少女も別世界だか異世界だかで少年に助けられ自分を下僕として差し出したことがあって、そんな記憶が少年とかのキスによって現れるんだけれど不断はやっぱりツンケン美少女。そんな変身のギャップのおかしさを楽しむものかというとさらに話しは広がって、少女をさらって奴隷に仕立てて売買する一味との戦いというものがあってますます穿けないことから遠ざかる。

 じゃあいったい穿いてないことにどんな意味があるかというと……それはまあ道を歩いている美少女がいて穿いてないんじゃないかと想像することで浮かび上がる妄想が、生活に微少であってもスパイスとなるよーなものなのかも。これが「トルネード」だったらなあ、逆立ちして闘うカポエィラの使い手が主人公という小説でヒロインが穿いてなかったらなあ。もうそれはとてつもなく凄いことに。実写化を希望したくなるくらいに。したらしたでどこでも公開できないことに。AVだったらあるいは。いやすでにどこかで企画が動いていたりして。


【4月24日】 全裸を初めてテレビアニメで見たのもやっぱり「機動戦士ガンダム」だろうか。「ヤッターマン」ではドロンジョ様がお仕置きによって吹き飛ばされる場面があったりしたけれど、肝心な場所にはコスチュームが残ってまったくの裸ではなかったし、そうはさえないという考えも働いていた。その他の作品を振り返って見ても全裸といったシーンにあまり記憶がない。いや、「キューティーハニー」はハニーフラッシュのシーンなどで一瞬、全裸になるハニーが写し出される。「ふしぎなメルモ」でもキャンディを食べた後の変化の場面で全裸になっていたような記憶があるが、こればっかりははっきりしない。ヴィジョネアから出ているDVDを見ればすぐにでも確認は出来るのだが。まあそこまでする必要もない、脱いでいたってメルモだし。

 つまりはキャラとして全裸がそれほどエロティックには見えない面々だった訳で、これが「機動戦士ガンダム」になるとちょっとニュアンスが違う。普通の人たち。そりゃあホワイトベースに詰め込まれて戦っている人たちではあるけれども、超能力者でもなければロボットでもなく魔法使いでもない普通の人たちが、その境遇にあるというだけのこと。立場や時代が代われば自分たちだったかもしれない普通の人たちが、風呂に入り脱いで全身を見せていたりすることから放たれるお隣感覚とでもいった感情が、見る者たち、とりわけ多感な中学生あたりには強くわき上がってその裸の姿態を目に刻み、脳に刷り込んで一生離れられなくしてしまったに違いない。二次元への憧憬、そして撞着の原因は案外にそこにあるのかもしれない。と考えると富野由悠季監督、なかなかに罪な人だと言えそうだ。

 全裸については「伝説巨神イデオン」のラストに全キャラクターが全裸となって宇宙をすっ飛んでいくシーンを作ったとかどうとか言われている富野監督。その他の作品でも「戦闘メカザブングル」でラグやエルチを脱がせていたし、「ターンAガンダム」ではロランが冒頭あたりですっぽんぽんで川遊びをしていたっけ。アニメにおける全裸の先駆者にして最高の使い手だと、あるいは富野監督のことを言っても良いのかもしれない。となれば是非に今回の一連の騒動について、感想を聞いてみたいものだけれども夜中に誰にも見えない場所で全裸になって何が嬉しいのか、何の意味があるのかと逆に問い返されそう。何しろテレビで満天下に全裸を布教した人なのだから。それで育って僕たちには、草なぎ君の全裸なんて気にもとまらない。やるなら衆目の中。次はだから是非にオープンでお願いしたいと言っておく。

 やるなあフジテレビジョン。「東のエデン」の第3話がつつがなく終わった後の「また見てね!」的アイキャッチで映す画像はホワイトハウス前で滝沢朗がジョニーを森美咲へと突きつけている場面。もちろん黒いもにゃもにゃが被さってはいるけれどもそれでもやっぱり全裸と分かるキャラクターを出してそのヘンタイな感じを見せつけてくれている。全裸が世間的に盛り上がってあれやこれや言われている時期なだけに、たとえアニメの1シーンであっても警官に対して反抗気味な全裸男の登場を、遠慮するのがテレビ局的配慮って奴だと思っていたけどまるで気にせず放送したのは、権力への反抗が通底する作品を流しているんだという矜持か、配慮する事務所もないって判断からなのか、単純に誰も気づいていなかったのか。謎。だけれどちょっと愉快。

 そんな「東のエデン」は豊洲あたりの「アーバンドッグららぽーと豊洲」がモデルになったとおぼしきショッピングモールが自分の家だと知って驚く滝沢朗。だけど何となく知ってて羽の生えた犬にも慕われここがそうだと落ち着いて、映画を流して森美咲といっしょにみようと思ったのにセレソンの悪徳警官が入ってきては殴って携帯電話を奪っていく。でもって使おうとしたら指紋認証だから他の人の携帯は仕えませんと冷酷な通告。ってか普通そういう可能性って確かめるもんじゃないのかなあ。それだけ周りが見えず余裕もなくなっていたってことか。

 すでにお財布を空にしてしまってもうおしまいかあ、と漂っていた所に現れたのが正妻さん。ちょっと前に大金をせしめたぜって感じの内容で、愛人に送ったはずのメッセージが何故に正妻に? ってあたりに裏で蠢く組織の策謀なんかと感じたり。直接手を下すこともあれば状況を作って手が下るように差配する。いずれにしても決まりのとおりに金を失ったセレソンは退場し、滝沢朗は携帯電話を取り戻してさあこれから他のセレソン探しへと向かうのか。放っておかれてへそ曲げた森美咲は滝沢朗と再会できるのか。分からないけど分かったことは滝沢朗は紛うことなきセレソンの1人で、携帯電話を使う権利を持っていて途中から送り込まれた別人ではない。だからこそどうして記憶を消したのか。アメリカで何をしていたのか。ニート100人をどうしたのか。散りばめられた謎が解かれていく過程で、浮かび上がる事件の全容とそして世界の全貌が、驚きを与えてくれるその時を待ちながらこれからも番組を見続けよう。

 だから開き直って魔王となれば良かったんだ草なぎ君。ソリスくんなら全裸だ何だと攻められ続ければいずれはぶち切れ魔王となって、それならそれで結構だ、お前ら全員全裸になれとばかりに杖をふるって「クロスシャッター!」と叫んでは、警察官もテレビリポーターも新聞記者も辺り構わず当たるを幸いとばかりに出会う人、過ぎる人のすべての服を消滅させては、男も女も少年も幼女も関係無しに全裸とし、驚かせ慌てさせひれ伏させたに違いない。みんなで見せれば恐くない。でも残念なら日本人には「クロスシャッター」の魔法は使えないんだよなあ。なので溜飲は物語の中で下げることにしよう、ってことで平坂読さん「ねくろま」シリーズの完結編を経たおまけ編的「ねくろま∞」(MF文庫J)はそれはもう全裸のオン・パレード。のっけからヒロインの元骸骨なマシロが着慣れない服はいやだと全裸になってるし、力が消えて魔法学院を出て行かなくなった生徒会長を贈り出すイベントでも全裸全裸で山ができる。

 各所で行われるイベントに勝利すればポイントがもらえ、1等になれば別荘とそれからソリスを奴隷にする権利を得られるイベントってことでそれはまずいとソリスは自分が1等になるため頑張ろうと決めるものの、魔法少女が溜め込んでいた魔法の道具をなくしてしまってそれがあちらこちらに散らばって、回収しなくちゃいけない羽目になる。おまけに妙な魔法の道具が介在してソリスとあとアイザックって男は年齢が少女たちへと映ってしまい少女はグラマラスな女になり、ソリスとアイザックは子供の男の子になってしまって競争に出遅れる。さらに。性別を入れ替える道具も動いてソリスとアイザックは幼女に。そんな姿で得点を稼ぐには普通の競技では無理だと出場した幼女コンテストで、幼女姿のソリスは必殺の技を見せて優勝をかっさらる。その技とは?

 見て楽しいかというと謎っぽいけど楽しがる人もいそう。さらに服の下に付けられたマークを消す競技が始まり服を脱がすんだったら手っ取り早い方法があると、ソリスの必殺の「クロスシャッター!」が爆発しては街に全裸の山を気づき上げる。相手も服を脱がす薬をつかって幼女のソリスの服を脱がしてかくして世界には全裸があふれかえる。こうなれば誰も公然わいせつだ何だといった話も出ないのになあ。そんなこんなで続いた競技の果てに現れたラスボスの正体、そしてソリスが辿る運命を楽しんで迎えた本当の大団円。誰も不幸せになる人がでない物語って本当に気持ちが良いもんだ。すでに始まっている「ラノベ部」もまあ快調みたいだし、レーベルの看板に近づきつつ作家になって来たなあ平坂さん。あとはアニメ化か。アニメにして欲しいよなあ「クロスシャッター!」。湯気も光りも無しに、そのまんまに。

 あるいはジョック・スタージェスの「Life Time」なんかに取られたカリフォルニアあたりのヌーディストたちが集まるコミュニティだったら、すっぽんぽんでいても誰も気にせずに過ごせただろうに。ただし酒を飲んで羽目を外して大騒ぎするってのはああいったコミュニティではやっぱり厳禁なんだろうなあ。そのスタージェスの「Life Time」は90年代初期に日本で紹介され始めた時に見たモノクロのトーンとは違ってオールカラーの写真集。それもなかなかの大判でめくれば1枚1枚にくっきりと、スレンダーな女性や被ったままの少年なんかが真正面から写し出されていて、人によてはあれやこれやと面倒なことを考えそう。でもそうしたことを潔しとしている人たちが、了解の上で撮らせた写真にはいわゆるそうした傾向を非難する面々が理由とする、虐待や搾取といった構図はない。要件として成立し得ていないものを、それでも制限するとしたらそれはもはや表現への挑戦であり、人格への挑戦でもありそう。ましてや絵なんてものに対して制限をかけるのは無謀以外の何者でもないんだけれど、だめなものはダメな感性でしか活動できない人がいて、それを良しと考える人もいたりするから世界はどんどんと鬱陶しくなる。いつか「Time Life」にも手が及ぶのか。


【4月23日】 劇場版の「機動戦士ガンダム」3部作を劇場で見ていないのは、「機動戦士ガンダム」としてどうなのだろうと言われた時に、返すべき言葉をずっと探っている。1980年の公開時に15歳の中学3年生だった人間が、金銭的にやすやすと劇場に映画を見に行ける訳はなかったけれども、「スター・ウォーズ」の最初の映画をなけなしの小遣いをかき集めて1人で見に行ったのが中学1年の時だったから、その時よりはお金にも多少は余裕はあったし、頼めば親も出してくれただろう。それななのに見に行かなかったのは何故なのか。

 テレビシリーズをこそオリジナルと見る思考。たぶんそんなものがあったに違いないし、実は今もずいぶんと引っ張っている。最近の例で言うなら「天元突破グレンラガン」の劇場版を見に行ってないし、その続編を見に行こうという気力もなかなか湧かない。テレビの本編とは違うかもしれないという可能性はあっても、だとしたら本編はいったい何だったのかという気分がわき上がっては、釈然としない思いにとらわれる。手を変え品を変え料理方法を変えて出しては何度もお金を巻き上げる。そんな思いは作り手側にはなく、持てるアイディアを可能な範囲で存分に出し尽くしたいという思いの結果だということは分かっていても、どこかに引っかかりを覚えて劇場に脚を運べないでいる。

 興味がない訳ではなくって「交響詩篇エウレカセブン」の劇場版「ポケットが虹でいっぱい」は試写を見て記事にも書いた。見ればテレビ版のエンディングとはまるで違う物語がそこにあって、それはそれでテレビ版のどこか牧歌的だった展開とはまるで違っていきなりクライマックスの切羽詰まった状態が、幾重にも重なり四面楚歌となる中を少年が永遠の愛に生きようと突っ走る様が描かれていて感動した。感動したからこそ手を出し忘れてもう良いやと投げていたテレビ版のブルーレイボックスを、大枚はたいて買ってはどこがどう違うのか、何をどう使っているのか、結論として繰り出されたメッセージに違いはあるか、といったことを考えてみたくなっている。「ラーゼフォン」も劇場版を見た後にDVDボックスを買った口。あの激涙の「ブルーブラッド」がどう描かれているかを見てみたい気もあるけれども、実は未だに見られないでいる。これは劇場がオリジナルになってしまった口か。

 「機動戦士ガンダム」はだからひとつには金銭的時間的(中学3年生は気分が忙しいのだ)余裕のなさがあり、またテレビ版への思い入れがあって劇場に向かわせなかったのだろう。これが少し世代が上がってテレビ版の盛り上がりを日本全国に波及させたいという思いが形になったものとして、劇場版「ガンダム」を受け入れ信頼している人たちがいたりする一方で、長いテレビ版ではなく劇場版の方を夏休みなどにテレビで見て、面白さを覚えた下の世代もいたりして、そんな世代間の狭間にひとり、すっぽりをはまりこんで意地を通し続けている。性懲りもないというか。でもしかしやっぱり最終回「脱出」の終わりは静かけさの中に平和がやって来たことを噛みしめるべきであって、井上大輔さんの歌によって破られるべきではないと考えるのだけれども、これなど上の世代、下の世代はどう思っているのだろう。例えセイラさんの入浴シーンが長くなっていても(そうなの?)、劇場版を認めたくないのは単に若さ故のこだわりではなく物語への敬意と信じているのだが。いずれ聞いて回ってみたい問題だ。

 朝方にネットとかをのぞいていたら、SMAPの草ナギくんが逮捕されてそれも公然わいせつってことで何やったんだ? と情報を待っていたら夜中に酒飲んで裸になって騒いだだけで、なあんだあんまりたいしたことないなあと安心してたらニュースは1日中草ナギ君で目一杯。NHKまでもが放送しだしていったいどれだけの悪いことをやったんだ、テレビ番組でポロリとかやってる人が紅白で司会とかやってんじゃんって気もしたけれども、落ちたら獅子でも徹底的に叩くのが世の常っていうか今時のメディアの常日頃。諦めてゆっくりと休養してから復帰して頂きたいと申しておこう。それはそれとして鳩山邦夫総務相の物言いだけは何というか甚だしくも鬱陶しい。

 地上デジタルのキャンペーンに採用されながら不祥事を起こしたってことを取りあげ「最低の人間だ。絶対に許さない」って叫んでいたけど、それだったら世界の檜舞台で酔っぱらって世界に恥をさらした酒大臣はどれだけ最低なんだ。法律がどうとかいうけど結果として及ぼした被害は草ナギくんの場合はせいぜいが警官数人。真夜中だから一般の人は誰も見ていない。すなわち公然ではあり得ない。対して酒大臣はテレビ中継も入って満天下に恥をさらして世界から嘲笑された。美術館でも警報を鳴らして日本人の恥をさらした。よっぽど最低。それ以下かもしれないのにあの時にそんな罵倒はしなかった。ちょっと前の国際郵便局の時もそうだったけれども、場当たりのスタンドプレーで前後を考えずに物を言い、何かやってやった気になっているだけで時間が経てば綻びが出る。そんな人間だと知って持ち上げコメントさせるメディアもやっぱり抜けているというか。だから疎まれ遠ざけられて沈滞から滅亡へと向かうのだ。嗚呼。

 草ナギくんが逮捕だったら吉田神社で「レナウン娘」を歌ってホルモーの神事をつつがなく執り行えるよう、神様に奉納する京大青龍会の面々はいったいどんな罪なのだろう。ちょっと興味。そういえば「鴨川ホルモー」の劇場版では素っ裸になった面々の股間に何やら雲のようなものが重なっていた。映画だから出来ることなんだけれどもAR(拡張現実)の技術は行き渡った暁には、ゴーグルなり視覚への介入によって裸の上に服の情報が上書きされて視覚に届き認識されるよーになる訳で、「レナウン娘」の時には雲がかかり、「東のエデン」のような場合でも前にガリガリっとしたもやが出て公然わいせつにはならないかもしれない。「クイーンズブレイド」だったら輝いて相手の目を眩ます。ってそれはちょっと残念かも。夏場はみんな裸で出歩いていて、ゴーグルが外れたりネットがダウンしたらえらいことになるという、そんな世界の訪れに期待。いつ頃になるのかなあ。

 そんなこんなで「交響詩篇エウレカセブン」のブルーレイボックスの第2巻も無事に手に入れコンプリート。図書カードももらえてラッキー。とりあえず見るのは51話なんだろうけどそれを見ても果たして楽しめるくらいには本編を覚えているおかどうなのか。やっぱり第1話から順繰りに見ていった方が良いのか。へそ出しタルホに再会できるのはテレビ版だけだしなあ。一方で劇場版の方は前売り券が5000枚も売れて東京と大阪地区では完売で、劇場の公開を当初の3館から7館へと増やす賑わいぶり。改めていったいこの作品のどこにそんな人気があるのかを研究してみたくなって来た。作った人たちを“勘違いロック中年”と表した新進気鋭は「エウレカセブン」について内を言ってて、そしてこの盛況をどう受け止めているのか。誰かどこかで聞いとくれ。


【4月22日】 「宇宙戦士バルディオス」といえばそういえばブルーレイディスクのボックスが出るとかどうとか言われていたのが発売中止になっていたような記憶があって、何か権利関係に錯綜でもあったか、単純に昨今の情勢を鑑みあんまり売れそうもないものにリソースを割くのをためらったか等々、理由を想像していたりしたけれどもそれなりにパワーを注ぎ込んで作っているはずの「黒神」で、ブルーレイディスク版が初回限定のみとなって通常版が出ないって言われると、DVDがあってブルーレイに初回版通常版と揃えていく商売はなるほど手間暇ではあるけれど、かつてはそこまで見込まれたマーケットがだんだんと細り気味なのかなあ、なんてネガティブな方向へと想像も及ぶ。

 そんな中で「交響詩篇エウレカセブン」はDVDボックスもブルーレイディスクのボックスも出せば品切れとなる人気ぶり。内容へと個人的な不満はあれやこれやそれやどれやとあっても一方に根強いファンがちゃんといて、支えてくれる作品をしっかり作りおいておけば、あとあとまでパッケージとしてのビジネスは可能なんだとも教えられる。ここで稼いだ金を「バルディオス」のような市場は見込めないけど新しいメディアにおいてパッケージ化しておく“意味”はあるタイトルへと、回してくれればバランスもとれるんだけれどパッケージビジネスは慈善事業じゃなく、「黒神」にも見えるように先細りが心配されるマーケットにおいて、より高品質な作品を生み出すべく、より高額化する制作費のためにとっておく必要もあるんだろうから難しい。

 こんな時こそバンダイビジュアルにおけるパッケージビジネスの最終兵器、第1弾の「機動戦士ガンダム」をブルーレイボックス化して1箱で10万個とか出して大きく稼いでその金で、これからの作品の金を作り過去の作品をアーカイブ的にブルーレイ化する金を溜めてもらえれば「ガンダム」のファンとしてもその他の作品のファンとしても有り難いことこの上ないんだけれども、放送開始から30年という節目の年で各種イベントは立ち上がっても肝心の映像周りの話がまるで起こってこない現状の中で、パッケージ放免についても目新しい話がまるでないのが気にかかるというか寂しいというか。なるほど「機動戦士Zガンダム」はブルーレイになったけれども「Z」ってファーストあってのものだからなあ。いきない買おうとは……思わないでもなかったけれど……ハマーン様好きだし……でもまだ買ってない。

 あるいは「ターンエーガンダム」のブルーレイだったら買ったかもしれないなあ、DVDん時はちょい逃してしまって未だに未見。ブルーレイで銀粉蝶だか月光蝶だかもいっしょに入れてくれれば買ってそして見るかっていうとそんな時間はありませんてば。そういうものだよコレクター。でも最近テレビで「萌えよ剣!」のパチンコのCMが流れているのを見るにつけ、何故か買ってしまってあるDVDボックスを見返してみたいなあと思っていたり。あとはそうだな「エンジェルリンクス」と「アウトロースター」と「ガサラキ」と……性懲りもない。だから例えば「ガンダム」のブルーレイを買ってもたぶん見ないんだろうということが今からほぼ確実に見えてくる。DVDボックスなんて1話も見てないし。劇場版のボックスなんて開けてもない。それでる買わなきゃならない人たちが、いっぱいいるからこそ「機動戦士ガンダム」はいつまでもパッケージの最終兵器として君臨しつづけるのだ。

 黒髪が最高! とまでは言わないけれどもずらりとひな壇に並んだ女性たちの99・9%が日本人にはあり得ない茶色さをもった髪をしている様を見るにつけ、それで個性だのファッションだのとよく言えるよなあ、なんて懐疑も浮かんで来たりした「原宿コレクション」ってイベントの製作発表会。軽くなる、明るく見えるといった理由もそりゃああるんだろうけれど、これだけ全部が茶色いと軽さも極まって見ていてどこにも目が留まらない。単品で抜き出せばそれはそれでピッタリとハマっているんだろうけど集合の中でいかにアピールできるのか、ってあたりを気にすることもオシャレの道だとするならば、なかに黒々とした髪を形や顔との組合せや衣服の雰囲気にマッチさせた佇まいで、浮き上がる周囲の中にずっしりと存在感を発揮してくれたら目もピタリと止まっただろうになあ。マッシュルームみたいで黒縁メガネをかけていたらなお最高、だったかも。

 なので「鴨川ホルモー」で冒頭に繰り広げられる「べろべろばあ」でのコンパの会場に現れた女性陣の中では、凡ちゃんが1番なのは言うまでもなく、そのスレンダーな姿態とはっきりとした物言いに触れれば、今時の学生だったらこれぞ理想のツンであり、いずれ発見されるだろうデレへの期待も抱きながら近づき言い寄り慕い上げることになるはずなのに山田孝之演じる安倍はそうしたことに無頓着。見た目が派手な早良京子へと目を向けては気があると思いこまされ引っ張り回された挙げ句に手酷く振られる羽目となる。これが凡ちゃんだったらもう相思相愛の熱々に……はきっとならずにぎくしゃくとはしつつそれでもダラダラとしてほんのり気持ちも通い合う、愉快な毎日が送れたはずなのに。1年以上を損したなあ、安倍。

 いやまあそう思うのも劇場版の「鴨川ホルモー」で栗山千明さんが演じる凡ちゃんこと楠木ふみを見たからであってこれが本当に紛うことなき大木凡人さんだったらちょっと身をひいたかも。いやまあ原作でもそこはあくまで髪型と眼鏡だけ、ってことになっているから剥けば安心なのかもしれないけれど。でもって劇場版は原作をほぼなぞってあって見ていて違和感はなし。すでに知っているだけにバトルへと突入するまでのほんわかといsたサークル活動が冗長に見えてしまうけれども普通の人にはそうした積み重ねの中でのぞく胡散臭さが、祇園宵山の「ホルモーの会」だかの交差点での邂逅で吹き出し始めて「べろべろばあ」での暴発、そして吉田神社でのレナウン娘へと至って驚きと笑いにまみれることになるんだろう。原作ファンと映画からのファンの双方に楽しんでもらえる作品に、つまりは仕上がっているってことで。

 役者ではやっぱり栗山千明さんが良すぎるよなあ、眼の鋭さといい眼鏡や髪型では抑えきれない神々しさといい。地味すぎる私服のスレンダーな薄べったさのなかにもそれなりの起伏を感じさせるところとか、浴衣姿で背中をのけぞり「ゲロンチョリー」を繰り返す姿の激しさとか。安倍と楠木が2人で階段の上から芦屋に対して「ゲロンチョリー」を連発するカメラのアングルが、そりかえった背中から続くヒップのラインのなめらかさを感じさせてとても良かった。ってそこかい見るとこは。ラインといえば「ホルモー!」と叫んで茫然自失となっている高村にタオルをかける立命館の女の子の、浴衣での後ろ姿でアンダーウェアのラインが見えたか見えなかったが気になった。つけているのかいないのか。つけるべきなのかちがうのか。研究をしにまた映画、見に行こうっと。


【4月21日】 宇宙の子供は頭が良いのかクサンチッペの登場に巻き込まれる形で吹き飛ばされた獅子堂秋葉やいつきやほのかやその他ぞろぞろといったレオパルドのお友達。見渡して存在する巨大な惑星とそこにくっきり浮かぶ大赤斑から木星付近まで飛ばされてしまったことをすぐ実感。なおかつあまりの遠さをすぐに割り出し戻るのにいったいどれくらいかかるのかってことを瞬時に理解し、こりゃあダメだと悩みもだえる。ワープな世界をフィクションで知っていると木星くらいからだったらひとっ飛びで地球にまで来てしまえそうなんだけれども、そんな技術なんて人類はまだ手にしていない「宇宙をかける少女」の時代。帰りたいけど帰れない哀しさから暴れ込んで来たつつじも青ざめ即退場を決め込んだ。

 とはいえ人類はまだ手にしていなくてもブレインコロニーたちは時空の壁なんけ気にしていないよーでそれが証拠にレオパルドの外側は地球へと落下しておらず木星の近辺を漂っていたし、クサンチッペとかだって平気で宇宙空間を割って出たり入ったりしている。そういう技術をブレインコロニーに持たせたのは人類じゃないのか? って辺りはうーん、あんまり考えていなかったなあ。地球にしたって人類が普通に居住しているコロニーだって、現状のテクノロジーの延長でしかないのにブレインコロニーたちだけが突出して進歩している。幽霊だっていたりするし。つまりはそのあたりのミスマッチが宇宙の謎となってこれからの展開で露わになっていくってことなのか。

 というかそもそも帰結はどこに見るべきなのか。和服な高嶺姉貴もすっかりネルヴァルの手下だし、ナミは鬱屈が凝り固まってすっかり悪役。かといって姉妹の相克だけじゃあドラマにならないし、ならば神楽というラスボスを倒す話しかっていうとそうでもない。クリア条件の見えないゲームを遊んでいるようではあるけれども、終わりの見えている展開では楽しめない味ってものもあったりする。次がどう転んでいくのか、それがどれだけ妥当性の中にサプライズを持っているのかを味わいながら見ていくことにしましょうか。毎回酸っぱい味を味わいながらも次こそは甘くなるかと期待し続けてラストまでたどり着いた「交響詩篇エウレカセブン」って作品もあることだし。

 というと大嫌いなんだと思われそうだけれども実際好きというと違うんだけれども気になる「交響詩篇エウレカセブン」の劇場公開も近づき内容についてほぼ了解したということもあってこれはやっぱりテレビシリーズも見返しておきたいけれども録画してあるHDDレコーダーは前の型で電源を抜いて放りっぱなし。ならばパッケージを買えば良いってことになっていたんだけれど3月末に発売されたブルーレイボックスの第1巻は発売から即座に完売といった感じで買えず、かといってブルーレイが出ているのにDVDなんか買えるかって気分もあってこれは縁がなかったと決め込んでいたら、ふらりと立ち寄ったビデオ屋でブルーレイボックスの1巻目を発見。予約分が放出されたのかと思い聞いてみたら再生産があったみたいでこれならネットにも出ているかと、アマゾンあたりをのぞいたら並んでいたけどみるみるうちに完売に。やっぱり人気があるんだなあ。どこに人気があるんだろう。

 そう人気。ロックでテクノでヒップホップなサーフカルチャーが一方にあって、メカと美少女が別にあって、そんなファクターの中をつっきってガキんちょがガキんちょのまま突っ走っていくってストーリーは見ていて恰好良さと紙一重のカッコつけっぷりが漂っていてうーんと首をひねったし、ガキがガキのまんまで居続けるその頭脳的な成長の遅滞ぶりに見ていて歯がゆさも覚えた。とはいえそれはもはや諦めに生きている大人のおっさんの感覚であって今を迷い手を伸ばしては探り彷徨う若い人間たちにとって、迷いっぱなしのなかを突っ走っては脚を踏み外して落下して、それでもへこたれないで突っ走って壁にぶつかり血みどろになり、なのに止まらずに走り続けて走り抜くガキの姿はどこか羨ましく映ったんだろうか。あるいは単純にメカなりキャラクターが良かったんだろうか。さらには音楽類とか。

 「機動戦士ガンダム」だったらメカにキャラに物語のすべてが目新しかったって意味から何故人気なのかということが分かりやい。実にとっても分かりやすい。他のアニメでも流行る理由ってのをほぼ確実に理解できる。「交響詩篇エウレカセブン」だけは何年が経ってもどーしてこんなに人気があってDVDやブルーレイが売り切れる事態が起こるのか、いったい誰がどういう理由から支持をしているのかが分からない。こんなのちょっと珍しい。その意味では貴重にして奇跡的な作品なのかもしれないなあ。とりあえず買ったブルーレイを順繰りに見直していってどこに魅力があるのかを、探っていくことにしよー。映画では見られないタルホの臍だしルックの素晴らしさとかも堪能しつつ。タルホはやっぱりこっちだろう? それなのに。そういやあ劇場版も公開は週末かあ。こちらも時間を選んで見に行こう。見れば誰がどこを好きなのかが分かる、かもしれないし。分かるかな?

 絵は確かに巧いけれどもストーリーの組み立てが断片的過ぎて、実相があんまりよく分からない東冬さん「嵐ノ花 叢ノ歌」(リュウコミックス)は、たぶん満州がまだあった1930年代の中国で、民間の鉄道と軍用の鉄道とかがっちゃんこして捕らえられていた巨大な獣の「混沌」が脱走。それを捕まえようとして軍では汎用人型決戦兵器、ではなく人型の戦車みたいな「蔵王」を持ち出し、混沌を取り押さえたかっていうと、そんな冒頭のエピソードは途中でぶった切られていきなり7年後、鉄道に乗っていてケガをした少年が、助けた欧州人の男といっしょに骨董店を営んでいるシーンへと飛躍。そこに匪賊というから多分中国のとある一族の姫らしき少女が尋ねてきては、奇妙な文字の書かれた欠片を差しだし、そしてあれやこれやの追いかけっこが始まるという展開になっている。

 混沌はどうなって、その時にロボットを操縦していた陵王って美形の男? だと思うけれどもあんまり分からないキャラクターがどうなったかが気になって仕方がないんだけど、話は7年後を舞台に少年と骨董店の主が匪賊の女達に狙われ、そのことを日本軍の密偵か何かに助言されてハルビンから大連へと逃げたものの捕らえられ、閉じこめられて、混沌とのバトルを強いられる。強いた勢力のいったい狙いかが見えない一方で、日本軍も何かを求めて欧州人の男を追い、たぶん中国の宗教的な一座を追いかけて何かをしようとしているんだけれどその目的もやっぱり分からない。サラリとした黒髪の少女も見え隠れするんだけれど彼女は日本の巫女か何か? でもって世界が日本へと向ける牙をはね返そうとして部下たちに大陸での暗躍を行わせている? とにかく見えにくい展開。だけれども1コマ1コマに刻まれた情報を拠り所に断片をつなぎ合わせて全体像を類推し、生まれた謎が明らかになっていくのをとりあえずの楽しみに、巻を追っていくことにしよう。せめてだから完結を。

 日本テレビ放送網が資金を出してたっていったいどれだけの観客を集められていたのかってところを、どうして考えようとしないのかが分からない「週刊サッカーダイジェスト」に掲載のラモス瑠偉さんによる「コラソンの叫び」。フッキがいようと福西選手がいようと名波選手がいようと無関係に観客動員は停滞を続けてたんじゃなかったのか。これで地道に営業努力を行い同じ「味の素スタジアム」を本拠地にする「FC東京」に並ばないまでも半分には迫る人たちを、常時集められていたんだったらラモスさんの言い分にちょっとの認知は及ぶ。理解じゃないけど。でもそうした不断の営業努力って奴を一方に置いて、有名選手が来れば客も来るんだから有名選手がとれるくらいの資金を企業名を入れることによって得られる資金で取れば良いだなんて本末転倒も甚だしい。

 FC東京にいったいどれだけの“有名”選手がいるのか。代表にだって常時呼ばれる選手がいない状況であるにも関わらず、ジェフユナイテッド市原・千葉との試合で国立競技場に3万人近くを動員した。浦和レッドダイヤモンズにだって世界に出しても誰でも知ってる選手なんていない。それなのに4万5万の観客を動員するのはそれだけ努力を積み重ねてきたからだ。「今のJリーグで海外でも通用するのは、川崎のジュニーニョと浦和のエジミウソンくらい」。でもそんな状況で他のチームはしっかり観客を呼び込んでいる。ネームバリューがある大黒将志選手を擁してどうしてヴェルディはあの動員なの? つまりはそういうことなんじゃないかな。スポンサーすることが名誉になるくらいに欧州や南米には歴史があるけど日本にはまだないとも言っている。でもだからといってそこでズルをしたら一生をズルしっぱなし。まずはできることをやる。やったうえでそれでもだめでもはいつくばってやりぬく姿が感動を呼び、名誉としての金をもたらすんだとどうして思わないんだろう? ラモスさん、もう良いんじゃないかな。


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