縮刷版2009年3月上旬号


【3月10日】 神楽はつまりネルヴァルの側へと落ちてダークサイドの守護者となって、仮面を被りアレイダを名乗ってはレオパルドとその信奉者たる獅子堂家に敵対する存在として、箱娘の奪還に訪れ秋葉たちの前に立ちふさがったとか。ほのかはかつて起こったネルヴァル事変の際にも戦いに立ち上がっては仲間達と戦い終戦後にレオパルドと行動を共にして眠りにつき、一方で仲間たちはコロニーに残り戦後復興に力を貸しつつ獅子堂家を支え、年老いながらも評議会として生き今に至ると。ネルヴァルが目指すのは人が悩んだり苦しんだりしなくても誰かのために役立ち嫌われもせず同じ認識を持って生きていける理想世界の到来とか。

 けど奪還されてもハコちゃんは名を付けられ他と峻別されてしまった事実がいつまでもついてまわて、ネルヴァルの中で自我を目覚めさせては秋葉たちの戦いを勝利に導く鍵として機能するとか。4女のナミがどちらかといえばひきこもり属性に描かれているのはネルヴァル側に拉致され次代の教母なり象徴なりにさせられる予兆とか。まあいろいろと見えては来ているけれども確たる証拠もないままてんこ盛りの密度をやや下げつつかといって隙は作らないで次へ次へと引っ張りまくっていく「宇宙をかける少女」のこれからに期待。とりあえず生徒会の面々が未だに無能っぽく描かれているあたりが謎か。ネルヴァリストらしいメガネっ娘はだんだんキャラが立ってきた。活躍期待。ブーゲンビリアにミンタオはこのまま風前のフーとして漂い流され続けるのか。落剥待望。

 みのもんたがテレビに出ない日もないけれど、派遣社員の話題がニュースで流れない日もしばらくは来そうもない。どこの会社で何百人の派遣社員が切られただの、そんな元派遣のために自治体がアルバイトの募集を始めただのといったニュースが流れては、派遣社員たちがおかれた境遇の厳しさを浮かび上がらせる。秋葉原で通り魔事件が起こった時も、事件を起こしたのが派遣社員ということで、未来に希望を見いだしづらい労働環境への非難が起こったけれど、リーマン・ショックがもたらした全世界的な不況は、希望を奪うどころか絶望の淵へと何万人もの人を叩き込んだ。この先何が起こるのか? 心の不安が社会の混乱へと向かう、今が分水嶺にある。

 切羽詰まった現実をニュースなどで誰もが知るようになってしまった今、岩淵弘樹さんの「遭難フリーター」(太田出版)を呼んでもそんなに悲惨な境遇だって印象は浮かばない。むしろユルくてヌルいって印象。それも仕方のない話しで、岩淵さんがキヤノンの工場で働いていたいのは2006年4月から1年ほど。どちらかといえば上向きの景気で工場では仕事はこなしきれないほどあって、再就職先にも困らなかったから気持ちも張りつめてはいなかった。それでも時給が100円下がれば月に1万数千円も収入が減るといったリアルな現実も書かれてあったし、採用元による待遇の格差なんてのも当時からあった。一方で派遣になる人のその日暮らしの刹那的なスタンスも見えていた。ここで問題に気づいて改善できていたらら、あるいは今ほど酷い状況にはならなかったかもしれない。未来の悲劇につながりかねない問題を、捨て置かない大切さを感じ取ることが必要だ。

 派遣が絡んだニュースには、切られて路頭に迷った元派遣社員が、コンビニで万引きをしたり強盗に入って捕まったというものも少なからずあったりして、そうか派遣ってそういう類の人間がやっていたものかって、京菜偏見を呼んでいたりする。派遣の厳しさを伝えようとしているニュースなんだけれども、そればっかりには留まらないところに人間の自分だけはと思いたい気持ちがあって、何かを下に置きたがる。結果生まれる差別と偏見。情報を扱う人間は、そうしたことに気を付けなくっちゃいけない。実際のところ、岩淵さんが現場で出会った派遣社員の人たちは、仕事は遅くても気は良かったり、過去に複雑な経験をしていたりと、それぞれにキャラクターがあり、人生があった。そんなごくごく普通の人間たちが部品のように切り捨てられ、危ない存在かのように扱われている現実を、知ればやっぱり腹も立つ。明日は我が身かもしれないと思えば何かをしてやりたくなる。岩淵さんが撮ったドキュメンタリー映画の方もまのなく公開。見てそして本を読んで、これから来るだろうとんでもない時代を生き抜く糧を得よう。マジでとんでもなさそうだもんなあ。

 「月刊アニメージュ」の2009年4月号はティエリアが表紙ってそんな人気キャラになっていたのか、だって3月で終わるアニメの3月発売号の表紙ってことは主役級ってことじゃん、刹那より上になっていたのか、うーんしばらく見ていないんでまとめて見てみるしかないか。そんな「アニメージュ」でとりあえず「東のエデン」情報。滝沢朗がM−65の下に着ているのは白のカットソーと判明、買ってこなきゃ。んでもって「鉄腕バーディーDECODE02」では例の第7話に登場したアニメーターのうちの3人がそれぞれのパートを開設。んまあとってもよく分かる話ではあるんだけれどどこかに必然って奴を求めてしまう自分のフトコロの狭さが寂しい。ピンナップは今も引っ張る「マクロスF」のランカにシェリルがスク水姿で登場。だけどそんなメイン2人をさしおいて下半身のむっちり度でも上半身のぼっこり度でもナナセさんがビッグバン。見れば横の2人もかすむ。いっそ劇場版はクラン・クランと松浦ナナセで1本とってくれないかなあ。絶対見に行くのになあ。

 そんな「アニメージュ」の公国で「みんなのシアターWii」ってサービスを発見。まあいつかどこかがやると思っていた「Wii」向けのアニメ配信サービスなんだけれども配信している作品が結構多彩で古さも適度で見たいなって気にさせられていたりするのがサービスとしてツボをついてる証明かも。「リボンの騎士」とか「新造人間キャシャーン」とか「ヤッターマン」とか「女王陛下のプティ・アンジェ」とか懐かしくって楽しそう。「未来少年コナン」もあるのか。どちらかと言えばファミリー向けだけれども昔だったら再放送に乗っていた作品が今では地上波では流れなくなってしまってて、それをCSチャンネルなんかが集めてまとめて流して親子連れなんかを引きつけている。ここに加わる「Wii」の列。空からネットから攻められて地上波にもはや出口なしって気にもなって来た。新聞メディアもそろそろ「Wii」とか考えないと生き残っていけないかもなあ。「創」の新聞特集は相変わらずヌル過ぎてまるで参考にならないよなあ。


【3月9日】 よーやくやっと見た「黒執事」はメガネのメイドのメイリンにそんな過去があったなんてと吃驚仰天。っていうかこれって漫画も同じ設定なの? 赤い髪をたらして全身を当時そんなのあったのかいってなピチピチの衣装に包みスコープなんて当時あったかどーか分からない装置を取り外しては、超絶的に遠くまで見える裸眼で敵をとらえ打ち抜くスナイパー。けど子どもといっしょの父親を撃とうと迷っていたところをセバスチャンのスカウトされてファントムハイヴ家に入ったという。凄腕のスナイパーがどーして急に子連れの父親に躊躇ったのかが分からないけどきっと気分がそういう感じだったんだろー。深くは考えないのが吉。コックは兵士と分かったけれども庭師は何だったんだ。フランケンシュタインみたいなものなのか。謎。でも面白いから気にしない。天使とのバトルいよいよ。さあどうなることやら。

 レダは逝っちゃったのか寝ているだけなのか。どっちにしたってあのロボットなのに柔らかそうな腹部に太股がもう見られなくなるのは寂しいので是非に今ふたたびの登場を。リューズの腰つきだけでも悪くはないんだけれどそれもあとどれだけ出るのか分からないし。細っちいルナの脚はまだしばらく見られそうなんでそっちに期待。って感じに着々とファイナルに向けて話が進む「キャシャーンSins」はブライキングボスが名前のとおりにボスとして現れキャシャーンの前に立ちふさがりそう。自分が王に舞い戻るんだったら最初っからキャシャーンを遣わせないでルナを殺させないでそのまんま、ロボット王国を維持していれば良かったのに。後悔先に立たずを地でいったってことか。

 出展している600ブースだっけ、その全部を1言でも良いからレビューしてみせる体を張ったパフォーマンスを繰り広げてくれるんだったら、おそらくは無料で軒先を借り、己が栄達のステップでもある「ゼロアカ道場」への進入を容易にする運動を繰り広げることがまずもってメインであって、そこに出展しているアートな人たちと共にアートの世界で成功を目指すとゆー、「GEISAI#12」にアートな人たちが期待している機能なんて知ったことかといったニュアンスを内に秘めていたとしても、まあそれなりに「GEISAI」を見てくれていたんだよねって肯定はともかく理解は示せたんだろうけれども、どーやらレビューは寸止めで、言われりゃあやるって程度に留め置く模様でカックンと膝が砕ける。

 言われなくたってやってみせるお節介パフォーマンスを貫き通してみせたんだったら、それも一種のアート的行為だなあって感心したかもしれないんだけれど最初っからもうぶん投げてしまっているとゆースタンスには、おいおいいったい何しにそこにいたんだってご意見を四方八方から浴びせられそー。挙げ句に何か賞を出すけどそれは自分、ってスタンスは何かを成しえていればまあそれもありだよね、恰好良いかもしれないねって同意を引き寄せたかもしれないけれど、何かした風もないところに堂々とやってのけてしまっているだけに同情とは真逆の心理をそこに醸し出しそう。あるいはそーした無為こそが批評的振る舞いなんだって、高尚な方々の考えとしてあるのかもしれないけれども高尚じゃない脳しか持たない身では、容易には理解しづらいところもあってどうしたものかと首を捻ってやっぱり何も浮かばない。つまるところはこれは批評のクラスが違うってことで、庶民としては庶民的感情から眉を顰めつつ、高尚過ぎるその批評からは距離を置いて眺めていくことにしよー。

 装うとは偽ることか、それとも己を磨きひけらかすことなのか。女性の場合はどーやら後者のよーで、林由美子さんの「日本ラブストーリー大賞」審査員特別賞受賞作「化粧坂」(宝島社)に出てくる満月って女性の化粧師は、京の都で出会った静って白拍子につきまとっていた皮膚の荒れを取り払っては整った肌の上を塗り固めず、眉も剃らずに残して表情が現れるようにすることで、人間が持っている生きている感じが伝わるようにして世間の評判を静に取らせて成り上がらせる。もともとは田舎で兄と慕う船頭の平助に守られながら、薬草を摘んで化粧水をつくっていた満月。髪や目や肌の色素が薄いのか、異人の類と見られ疎まれていた自分を認めてくれる平助だけが頼りだったけれども、その平助が愛する女を追って向かった京で、遮那王という源義朝の血を引く9男坊が隠れた場所から出てくるのを促す生け贄として切られ、命を失ってしまったことを知って故郷には戻らず、静の治療を成し遂げ白拍子の館で化粧師としての居場所を見つけていく。

 ところが静が好意を寄せた、辻に現れる鬼若って僧らしき男に満月もだんだんと好意を抱くよーになったところから生まれ育ったるすれ違い。その時は大きくは開かず、満月が平清盛の娘で安徳天皇を生んだ建礼門院徳子のところへ出され、彼女の本来持っていた美しさを引き出す化粧をしていた時は、静も地方へと出かけていてぶつかることもなかったけれど、やがて静が義経と名を変えた源氏の9男坊に見初められ、屋敷に出入りするよーになると満月もそれに従い義経の屋敷へと行き、そこで弁慶と名乗っていたかつての鬼若と再開して好意が再燃。それを目ざとく静が感じ取ってどうして黙っていたのか? といった心理から満月をなじり憤る。さらに義経も満月が平氏の女房の家にいたこと、遮那王と名乗っていた源氏の9男に恨みを抱いているらしいことを感じ取って、満月を遠ざけようとしたその時。

 弁慶こと鬼若が手を差し伸べ、満月は居場所を取り戻し、さらに頼朝による義経追討の動きが激しくなる中で、4人は別れることとなって満月と静は鎌倉へと送られ、義経と弁慶は奥州の藤原氏のところに身を寄せ再帰を期するものの、裏切りにあって果たせず討ち取られていく。そんな義経と弁慶の間にあったのが偽る化粧。自分の過去を埋めたり覆ったりしながら新しい生を送ろうと懸命になっても、ついて回る過去に怯えたり悔やんだりするところから、偽りの装いの持つ限界って奴を指し示す。満月はといえば北条政子の威厳を引き出す化粧を施し、頼朝の元に生を全うした模様。なるほど女たちにとって化粧は己をふくらませる力を持ち、さらに1人の異形と蔑まれた女の生涯を彩る力を持っているんだと教えられる。男もそんな化粧をしたいけど、恥やら見栄やらが許さないんだよなあ。ともあれ楽しめる1冊。


【3月8日】 サバの日。味噌煮が食いたい。そういえば「GEISAI」が開かれてるんだって思いだして「ONEPIECE」を見てからむくむくと起き出して買ったばかりの「M−65」を着込みドクターマーチンの8インチを履いて外へと出る。寒そうだったけれどもそこはミリタリー。且つキルトライナーつきで寒さは完全に防げているようであと2カ月はこれで戦えそう。リアルに戦いたい気分もあるけど敵は強力だからなあ、見かけ上は、って何のことだ。それはさておきどこどとこ京葉線から臨海線を経て東京ビッグサイトへ。何やら博麗神社ってところの例大祭をやっていて巫女さん神主さん氏子さんがわんさか、じゃなくって普通のオタクな方々がわんさか。その横をアートなおしゃれさんがちょろちょろ。負けてるじゃん。いやいや東方が凄いのか。

け飛ばしちゃったら将棋倒しになっちゃった?  いっそだったらその東方オンリーへと突っ込んでいけば、いろいろ反応もありそうだったけれども、それだとまあ若い人たちのやることだから怒りはするし説教もするけど赦しもしてやろう的「ゼロアカ道場」パフォーマンスからは逸脱して、マジ洒落にならない反応とか起こる可能性もあったからなのか、開場時間内に出展されているアート作品をぜんぶ見て講評をしてくって課題をこなす方に力を注いでいたのか、藤田直哉さんって人は1番奥に設えられたブースを根城にやせ細ったピカチュウを連れて会場内を歩き回っては、叫び踊りステージに上がってはスベり笑われながら何かを訴えていた。

 会場に集まっている何万円かのお金を払ってブースを出して作品を見てもらいたいとこの日のためにがんばって来た人たちへのねぎらいとか、優しさとかをどこかに隠して見てやるぞ、何か言ってやるぞと春日も右に倣えのアップサイドからのダウンバーストな目線に対して、集まっていた出展者の人たちが何を思ったのかは分からないけれども、そこが村上隆さんによって設(しつら)えられた、若いアーティストを育ててます発掘してます運動という“アート作品”の場である以上は、村上さんが認め誘い行わせているパフォーマンスに対して何かを言うのも野暮ってもの。それも含めて1つの場なんだと認めつつ、自分は自分で精一杯に作品を見せるんだっていった気持ちがあれば、その瞬間に何が行われ何が言われていたかはあんまり気にならなかったんじゃなかろーか。

レコードのジャケットに良し、文学の表紙に良し  こっちはこっちでアートな人に少なくないローライズのジーンズをはいてしゃがんだ姿勢からのぞく、布地に谷間とかを斜め見してたんでお仲間たちのかけ声とかもあんまり気にならなかったけど、それでも中には場違いな人たちが寒いパフォーマンスを披露して一体何が言いたいんだろう、このゼロアカとやらは的な感情から注がれる、激しくて厳しい視線もあったはずで、そんなハードなビームを浴び滾る感情を一身に引き受けながらもへこたれず、退こうとしないで手にザクティを持って会場を闊歩できる強さは是非に見習いたいもの。こうじゃなくっちゃ批評家なんて稼業はきっとやってられないんだろう。身を捨て体を投げ出してこそ得られる何かもあるってもので、それがいつかきっと何かの時にどうにかなって来るんだろう。その日まで遠巻きに斜め下から観察し続けていこう。

 それはそれとしつつ会場内には、今回もなかなかなアート作品がいっぱいあって目に嬉しい。真っ先に目に止まったのが山脇紘資さんって人の作品で、結構大きめのカンバスに描かれた巨大な顔が放つインパクトにまず驚かされ、そして1枚1枚の絵に表現された血管から肌の質感からモチーフの選び方から塗り方といったものに引き込まれていつまでも眺めていたくなった。思いだしたのが「カナリヤ」って絵を描いた加藤美佳さんで尋ねるとどうやらファンのよう。あと日野さんと言っていたから日野之彦さんかな?

 こう言うと先例があって後追いみたいだけれどもモチーフの多彩さで山脇さんも負けてはなさそう。リアルなものからやや抽象っぽく崩した顔までいろいろ描いているんで、好みからいろいろ選べそう。前の「GEISAI#10」でスカウトされたそーだけれどもそれが商売に結びついてないみたいなのが残念というか、あんまり宛てに出来ないっていうか。ギャラリーを誘ってのスカウト賞もアートバブルを助長した青田買いへの批判心からなくなってしまったし。とはいえ「誰でもピカソ」も終了になって、テレビメディアのパワーでもって新人をドカンと売り出せた時代も終わって、村上さんの名前だけで新人を売り出そうにもなかなか売れなくなっていたりするだけに、今回の「GEISAI」で賞を獲得できたとしても、今後の進路はちょっと気になる。「kaikaikiki」も山ほど抱えているからなあ、新人さんを。でも逆に言えばどしどしと新しい才能を拾って自分で売り出せるチャンスでもあるんで、意のあるギャラリストの人は今こそこっそりとでも「GEISAI」に潜り込んでアプローチするのが吉ってことで。

 次に目にとまったのが高木亜麗さんって写真家の人てセルフポートレートを展示していてそれはつまり裸とか下着とかの写真で目にもなかなか麗しい。当人を前にしてヌーディな写真を見るのってこっちも恥ずかしいし向こうも恥ずかしいんじゃないかって思わないでもないけれど、それはそれでアートはアート、割り切って展示しているのが素晴らしい。あんまり素晴らしいんでミニ写真集を4種類、セットで買ってしまったよ。10部限定っぽいけどいつか超有名になってこれが1冊100万円とかで取り引きされるようになれた一攫千金、とかって夢はそれとして、がんばっている人に許すフトコロの範囲でお手伝いできるのがこういったアートフェスタの良いところ。批評するなら最高点を付けた作品くらいは買ってみてはどうでしょうゼロアカ。彼らがどんな作品に高得点をつけるのかにも興味があるなあ。批評って責任の発露であると同時にセンスの暴露でもあるんで。

 風邪っぴきか眠気が収まらずひとねむりしてから見た「RIDEBACK」は、尾形琳の中に点るアーティストならではの狂気って奴が現れ欠けては引っ込む寸止め展開。でもやっぱり諦められずに乗るんだフェーゴに、デモに引っ張り込まれた友人を救うとか何とか理由をつけて。それのしても琳も猪突なら友人も猛進。1度目は知らずテロに巻き込まれたんだから仕方がないにしても、今度は自分の意志でもっておそらく危険と知りつつデモに参加するんだろう友人に、何かあってもそりゃあ自業自得ってもの。身の程知らずだっただけなのに、そういやって身を危険にさらしては他人を巻き込む愚かな奴らに降って湧いた偶然が、世間を変えるようなご都合主義を見せられるんだとしたらちょっと引いてしまいそう。でもそれ以上に自身の自信の無さを取り繕うを慌てふためく野郎がトップに建ってるGGPとやらの間抜けさも目につきはじめた今日このごろ。世間知らずが天下と取って世間知らずが反旗を翻す未成熟とうか無秩序な世界の存在が、許されるのもテレビの中だけってことで。ああでも無駄に胸元が開いた軍服を女性に着せている姿勢は悪くないかも。人は見かけが12割。


【3月7日】 決して若松劇場へと行くついでなんかじゃなく、その向こうにある郵便局に取りに行く途中に前を通るたびにこれだけの風情を持った旅館風の民家を空き家にしておくなんて勿体ないなあ、文化財として保護しなきゃあ拙いよなあって思っていたけど素性が分からず時代も不明だからなのか持ち主が右往左往しているからなのか、一向に保護される雰囲気もなかった建物が先だって火事で全焼してしまっていてちょうど杉並あたりにあるトトロが出そうな家も火事で焼けたって話が広まっていた時で、文化財として下手に残されると大変だからって胡乱な動きでもあったのかってそっちで浮かんだ発想を、まんま引いて考えてみたくなったけれども真相は不明。というか新聞沙汰にもなっていないみたいでどういう素性の家で、それがどういう経緯で燃えたのかが今もって分からない。

芸者さんが中から現れそうな雰囲気もあったのに勿体ない  どっちにしたってここまで焼け落ちてしまったらもはや修復は不可能だし、保存すらまるで未定だった建物が修復されるとも思えないんできっとこのまますぐにでも、更地にされて何か別の物が建つんだろうけど火事からたぶん2週間は軽く経っているのに焼け後はそのまま放置され、屋根の上の燃えた木なんかが乗ったままになっているのにロープとか張られている風でもなくすぐそばにまで近寄れてしまう。子どもとか遊んで何か落ちてきたら大変なんだけれどそうした対策をしようにも、ずっと放置されていたのと同じ理由で片づけすらされていないんだとしたら何だかちょっぴり寂しいものがある。人気アニメに出てきた家っぽいってだけであれだけ騒がれるたかだか民家がある一方で風情あるこっちの民家は完全放置。20年前なんて誰も宮崎駿監督のことなんて知らなかったのに有名になると袈裟どころかその切れ端まで有り難がられる社会の不思議。どういようもない国になっちまったなあ。

 そんな火事の後を横目でみながら(だから若松劇場に行ったんじゃないってば、行ってみたいけど)郵便局へと向かって届いていた「M−65」をピックアップ。帰って広げてその状態の良さに感激、ってそりゃあデッドストックなんでまんま新品なんだけれども説明によれば1976年ってかれこれ30年以上も前の衣料がさっき工場から出荷されたのと変わらないくらいの鮮度を保っているのにはちょっと驚き。よっぽど倉庫の奥に深く仕舞われていたんだなあ。着るのがちょっともったいなくなったけれども着られてこその衣料って奴だからここからがんばって着倒して今度は良い状態のユーズドへと仕上げていこう。羽織れば早速滝沢朗になれる、っていうとそりゃあ無理だけれどもせめて少しは近づきたいと体型をがんばって絞って東京国際アニメフェアに備えよう。その頃だと別に買って取り付けたキルティングのライナーもいらなくなるかな。

 さすがにいきなりは気がとがめたんでこっちは前に買った「G−1」を羽織ってフクダ電子アリーナへ。いよいよ待ちに待ったJリーグの開幕戦の到来に胸から下げた年間パスの特典でもある優先入場を体験しようと早めに出かけたらこりゃあ何と。優先入場の待機列が一般入場の待機列をはるかに上回る長さになっていた。こんなことってあったっけ? 人気球団になったなあジェフユナイテッド市原・千葉。あの最後の奮闘を見せられこりゃあ応援しなくちゃってシーチケを買った人も多かったのかも、っていうか僕がそんな1人だったりして。んでもって入場。さっそくICカードをリーダーにタッチ、しようとしたら壊れてた。ダメじゃんJリーグ。

 カードが届かない人もいたから今回は使用と取りやめたのかって思ったら帰り際にはちゃんと動いて来場記録を残せたから、単なる稼動ミスみたい。設置に手間がかかって故障するリスクもあって、全員がそれにはならないからモギリも置いておかなくちゃいけなくって、それで得られるのが1人の人がスタジアムに何回行ったかってことが記録に残せる程度じゃあ、メリットよりもデメリットの方が大きそう。いったい何をやりたかったんだろう。何かのためにやるんじゃなく、やってみたいからやってみるだけの施策の愚かさってのはごくごく近い範囲でも経験してしまっているだけに、それがもたらしたモチベーションの低下と信頼の喪失というデフレスパイラルを思うとJリーグの組織としての未来にも暗いものを覚える。チームがそれでもしっかりと勝ってくれていれば良いんだけれど……。

 始まった試合はやっぱりアレックスが持ちすぎで軽快なテンポを作れない。中盤に溜めを作れるっていうけれどもそれも行き過ぎればただの停滞。前で走っている選手がいるのに自分でドリブルしていっては奪われる繰り返しに、パスを出しても届かず奪われる繰り返しじゃあ何のための中盤なのかが分からなくなる。あれで周囲との連携が合ってくればパスも出せるようになるし精度も上がるって信じたいけど、2週間前の「ちばんぎんカップ」の時から基本、進んでいないんでこれから先に急成長するとは思いがたい。あとはやっぱりサイドで詰まってしまうことか。追い越す動きがないから受け取った途端に出せず囲まれ戻しているうちにパスミスとラップミスから反撃を喰らう去年からのパターンが続いている。

 一方のガンバ大阪は巧みなポジショニングに動き直しが加わって、そこのミスのないパスにミスのないトラップが重なってボールを失わないまま攻めていける。追い越す動きもちゃんとあるからゴール前に人数がいっぱいいてマークを振り切りゴールに迫れる選手が出てくる。こりゃあ勝てんわ。終盤になってジェフ千葉の急にパスが回りはじめたのもサイドバックの追い越しが出始めたからで、だったらそれを最初からやっていればって言いたくもなったけれども3点奪って相手にゆとりができたからでもあるんで判断は難しい。いずれにしても中盤でのミスを減らしサイドでの連携した攻め上がりをできるようにしていかないと今後も厳しいかもなあ。まあ応援には行くけど。シーズンチケットだし。チーム事情とは逆にスタジアムの周辺はケーズデンキも出来そうだし練習場も工事が進んでタウンとして充実して来た感じ。この絶好の環境で来年もJ1を戦えるために、今からでも遅くないからキープができて視野が広く運動量もあって辺り負けしない広い中盤の獲得を。阿部勇樹とか。佐藤勇人とか。羽生直剛とか。


【3月6日】 やっと見た「鉄腕バーディーDECODE02」の最新話はバーディーが平べったくもならず落書きみたにもならない代わりに動きはごく普通。ドラマも聞き分けのないガキんちょが突っ走っては迷惑をかけまくる話でたとえ美少女であってもそーゆーガキんちょはちょっぴり懲らしめてやんなきゃいけないって気になってみたりどうだったり。逃亡者たちもよーやくナダルに気がついたみたいで遅すぎって感じだけれどもそれがドラマってものだ。イクシオラってんならカペラだって残ってるじゃんパワーならバーディーと互角かそれ以上じゃんって突っ込みはなし、ってより知らないんだろうきっと彼らも。クリステラ・レビだけは知っているのかな。でもってナダル拉致。いよいよ動き出した物語の終幕や如何に。

 喧噪と狂乱の果てにたどり着いた歓喜と絶望という「文学フリマ」における興奮も今なお引きずりながら、前を向いて歩き続けていよいよ来週末あたりに筒井康隆御大に村上隆大人を招いた第5関門も行われる運びとなってる「東浩紀のゼロアカ道場」だけれどその前に、そんな狂熱の1日をまとめた「東浩紀のゼロアカ道場 伝説の『文学フリマ』決戦」(講談社BOX)が本になって登場。あの時に1冊500円の同人誌を8冊、都合4000円出して揃えた人にとっては半額以下の1800円で買えて講評までついているのはズルいって思われそうだけれど、おそらくは同人使用の印刷データをまんま使ってまるまる載せているのもある一方で、次に進めなかった人ん家のは一部だけを抜粋して載せていたりするから、全部を読むにはやっぱり同人誌を揃えるしかないみたい。その意味でのあの場だけにあった特殊性、限定性、希少性、同時代性、イベント性を体験できた者の優位性はちゃんと維持されている。

  何より「BL・やおい 文学研究所」については「腐女子の履歴書」って同人誌が全部まとめて掲載されていない。どうしてなのか理由はぜんぜんうかがい知れないんだけれども、あの場の勢いでもって講談社BOXにしての出版が決まったらしいって話から何かを妄想できそう。同人誌を500冊作って売る、というのが「ゼロアカ道場」での試練で、だから誰もが同人誌を作った訳だけれどもそれへの寄稿を依頼した時に、頼み方としてはゼロアカ道場というイベントで勝ち残るためのの同人誌を作りたいので是非に寄稿をって感じになっていそう。当日500冊売って終わりの同人誌。がんばってる編集者。なら寄稿して協力してあげようって考え執筆した人もいただろうし、そういう限定された範囲での伝播を前提にアンケートに答えた人もいるだろう。

 だからあの場限りの500冊だなんて範囲を超えて、全戸津々浦々に商業出版物として刊行されるってことに、気持ち的にもやもやを感じる執筆者寄稿者協力者もいるのかもしれない。文筆で食べている人なら、同人誌ならば協力で済ませられても、商業出版ならそれは仕事であって別に説明が必要って考えても不思議はない。同人誌を編集した側が説得すれば良いって声もありそうだけれど、同人誌に協力を依頼するのと、商業出版物への採録をお願いするのとではどこかレベルが違う。同人誌だからと寄稿してもらった編集側として、それが覆されてしまったことに疚しさ悩ましさを抱いて、再度連絡を取る羽目になってしまうのもどこか釈然としないかもしれない。

 内容面でも同人誌の範囲内だから描けたことが、商業出版にするにははばかられる部分があったかもしれない。素晴らしいものだからもっと多くに読まれるといった説得もあるけれど、それは後付けの理由であって正義のためには身を危険にさらしても多くから讃えてもらえると自己犠牲を強いる態度に、どこかつながるって考える人もたぶんいる。認められたと喜ぶ人たちがいるのも分かるし支持もできるけれど、そういった認められ方は認められないと身を引く人がいることも同時に理解できるし、支持もしたい。本当に出版に値するものだと考えたのなら今ふたたび、そうした内容のものを今度は商業出版物として企画してもらい、アンケートや執筆を依頼してもらって出せば良いのであって、イベントの熱さが生みだした偶然の産物を記録して残したいといったニュアンスなら、そこに対してノリ良すぎるんじゃないと身を引く人たちが出ても責められない。まあ個人的には買ったし読んだんで問題なし。優勝してもらって1万部の本として、今度は最初っから出版を前提に作ってもらえればとエール。

 「日本SF大賞」の発表会に潜り込んで「月刊コミックリュウ」の大野編集長に伊藤伸平版「大正野球娘。」(徳間書店)の素晴らしさを力説する。そりゃあ先刻承知の編集長だけれど一般にうけるかどうかってのは別なんで、決まった原作小説のアニメ化でもて沸き立つ中でコミックがするっと大売れしてしまうことを切に願おう。その勢いで「ハイパードール」の続編執筆をお願い。そりゃ無理か。会場にはいろいろな人がいたけれども作家方面との付き合いのまるでなかったりする身では本業としての取材が終わったあとはひたすら壁の花。あちらふらふらこちらゆらゆらと漂い過ごしてから頃合いを見計らって退散。SF評論系が固まっているっぽい光景らしきものも見えたけれどもどこかで重なることもなさそうなんで遠巻きにながめて帰途。ライトノベルをひたすらに読み抜く実の業へと帰還する。それが自分に出来ること。なのでねえ。

 何か急激にM−65フィールドジャケットが欲しくなる。1965年に誕生した米軍用のコートジャケットでミリタリーっぽさがあふれたディテールは着た人をタクシードライバーにも変えればランボーにも変えてしまうという不思議なアイテムだけれど僕がなりたいのはデ・ニーロでもスタローンでもなく滝沢朗 。そりゃあ誰だって見れば分かる「東のエデンの」主人公でホワイトハウスの前で全裸で記憶を失った状態で目覚めてはぐちゃん、じゃないけど可愛い女の子と出会うって役柄。そんな恰好良いんだか悪いんだか分からないキャラクターが愛用しているのが「M−65フィールドジャケット」だってことで女子がいっぱい見ている「ノイタミナ」枠での放送が4月に始まった暁には、着て街に繰り出す若者がわんさか出そうな、そんな先取りを今からしておこうと思ったりするお調子者。

 そーいや「スカイ・クロラ」を見て革のフライトジャケットが欲しくなってあれやこれやと逡巡した挙げ句に年末になってコックピットの「G−1」を買ってみたりもしたからもはやただの浪費に近いんだけれども、そういう機会でもないと服なんて買いそうもないんでこれはこれで前向きになるチャンスかも。ってことで兵庫県にあるミリタリーショップに出ていた米軍放出品のデッドストックの「M−65」をネット通販で広い、ご存じ上野は「中田商店」まで出向いてキルティングのインナーを購入。合体させればまだちょっぴり寒い今でも十分な防寒具になりそうだし、「エデンの東」が大々的に宣伝される「東京国際アニメフェア」の会場へは中を外して着ていけば調度良い肝心になりそう。それで滝沢と間違えてもらえりゃあ良いけれども残念ながらそれは無理。どちらかっていうと胡乱なタクシードライバーに見られるかもしれないけれどもそれでも気分はタッキーってことでブース周りをうろちょろしてやろー。色はオリーブで良いのかな。羽海野チカさんのイラストだとオリーブなんだけれど。神山健治監督に誰か聞いてみて差し上げて下さいませ。


【3月5日】 さんごの日。大戸島の日。手塚治虫さんといえばデビュー作にあたる「新宝島」が酒井七馬さんの名もしっかりと載せた形で大復刻。小冊子もついて2000円はちょいお高めだけれども本物の初版本がとんでもな価格になっているのを考えれば、それと中身は同じで質については新品だから当然ベストなものが読める復刻版に2000円くらいは何でもないし、段ボール箱に入ったいろいろとおまけについてる豪華限定版にだって7980円を出すのは惜しく……惜しくなんてないやいっ! でもきっと一生開けないかな。マーケットプレイスあたりではちょいプレミアムも付き始めているけれど、そんなに刷り部数少ないんだろうか。このまま上がればきっといつかは前のを追い越す、なんてことはないか。でも上がってくれれば。30年後にはどんな値段になっているかなあ。ご飯が食べられるくらいの値段になっていたら売ろう。

 インベーダーが蔓延り始めたのって確か1978年頃で中学生になっていたものの喫茶店とか入ってゲームをプレーするよーな世代ではなく、もっぱらショッピングセンターの片隅に設けられたコーナーとか、ドライブインがちょっとだけ発展したかのような初期のゲームセンターに据え置かれた奴を遊んでいたような。とりわけ遊んだのが病院通いをしていた先の隣にあった場末も場末なゲーム機置き場に立ってたアップライト式のゲーム機で、発売から1年くらいが経っていっときの大流行も衰え初めてあんまり人が寄りつかなくなっていた中で、1回2回と遊んではみたものの根っからの反射神経の鈍さが禍してか、1面をクリアしたのが都合1度だけとゆー体たらくで、それをもって自分にはもはやゲームの才能はないと諦め、家庭用ゲーム機が出始めても見向きもしないまま大人になってしまった。

 これでもしも学生時代にゲームにハマっていたら選ぶ道は変わったのか? ってことをちょっと前にインタビューした名越稔洋さんとか中裕司さんの生年が自分とまったく同じだったりした事実なんかも含めて考え込んでしまったけれど、上手いからってハマるとは限らないし下手だからこそのめり込むってこともある。ようは好きだったか嫌いだったかの違いで後者だった僕がたとえのめりこんだところで、ゲームの世界に足を踏み入れるよーなことはやっぱりなかったんだろー。ゲームよりもSFとかを中心にした本を読む方に夢中だったし。ああでも古本屋を回って自転車でかっとんでいた時に、八事裏山あたりにあった割に広かったゲーセンに飛び込んで何かのゲームを遊んだ記憶があるなあ。あれは何のゲームだったんだろう? 「ギャラクシーウォーズ」だったっけ?

 そんな程度の腕前だからタカラトミーが発売する6分の1サイズのインベーダー貯金箱を遊んだところで1面クリアさえ容易じゃないって信じていたけど、新橋は「喫茶ジャパン」って昭和の雰囲気が今に残る喫茶店でもって開かれた発表会見で、実際に試してみたところ2回も! 1面をクリアできてしまって驚いた。砲台を横に動かす感じが業務用のレバーを傾ければそのままスーッと流れていくものとは違って、1段づつズレていく感じになっていて操作感に差があってちょい戸惑ったけれども、逆にそれが行き過ぎとかを起こさず相手のミサイルにぶつからないで済ませてくれた模様。発射音もそのままに打ち出される弾丸で1つまた1つとインベーダーを倒し、出てきた円盤もうまくクリアしつつ進んでいって遂に1度、そしてまた1度と最初の面をクリアすることに成功した。30年ぶりの大歓喜。この感覚が味わえるんなら買ってみても良いかも。

 発表会には「スペースインベーダー」を開発した今はドリームって会社の代表取締役をしている西角友宏さんが来場して、タイトーに今も残って当時はインベーダーの独特な音を制作した亀井道行さんも交えてトークを繰り広げてくれて、あのとっても耳に残って今なお発射音といったらそれがデフォルトになっている音を当時、西角さんは嫌がって最後まで変えろと言って亀井さんが変えなかったって聞いて、もしも違うおとだったらいったい世の中はどう変わったのか、って考えると楽しくなって来る。たかが発射音、ではあるけれどもあの周波数だからこそ得られた緊張感に爽快感ってのもあったんじゃないのかな、そんな音と感覚の相関ってのを研究してみると案外に面白いのかもしれない。何ともなかったかもしれないけれど。

 西角さんの話ではインベーダーがブロック崩しから結構な影響を受けているってことで、相手がミサイルを落としてくるインベーダーの振る舞いは、ブロックに当たって跳ね返ってくる自分の弾がモチーフになっていたり、全部をクリアした時の爽快感を再現したかったりといった感じにブロック崩しの思想が正統的に受け継がれている。あとはグラフィックこそ今のゲームにまるで及んでいないけれども、遊びの面白さがあれば時代を超えて生き残っていけるってことで当時を知るぼくが遊んで面白いのは当然として、当時を知らない10代が遊んでもそれなりに楽しめるゲームになっていたんじゃなかろーか。それをだからタカラトミーの貯金箱が証明したら面白い。本当に緻密に再現されているんで6分の1サイズのフィギュアに混ぜてゲーセン喫茶ジオラマを作ってみるのも良いかも。うちにある6分の1だと……座頭市と木枯らし紋次郎が向かい合ってピコピコ。ああ楽しい。

 「レンタルマギカ」の最新刊は京都編。といっても誰もうわははははと言いながら清水の舞台からグライダー飛行はしないのが「レンタルマギカ」たる所以。アディリシアに穂波も引き連れ修学旅行と洒落込んだはずなのに、夜にいつきをめぐる恋の鞘当てもなければのぞきに行ったお風呂で穂波がアディの豊満さに卒倒するようなシチュエーションもなく、猫屋敷蓮が「八葉」って陰陽師の総帥の実子だったりする話しが明かされなおかつ実に魔術的な家庭を経て生み出された超常的な存在であることが示されそんな猫屋敷を生みだした父親がとんでもない存在だったことが分かって事態は大きく激動。いつきの身柄も不安定になる中で最終決戦へと向い揺れ動いていきそう。目が離せなくなって来た。みかんの姉がちびっこなのにツンケンしていて可愛すぎ。


マガジンのモノクロ表紙も復活願いたい横尾デザインの 【3月4日】 駅に寄るとそこだけ空間が昭和30年代になったような空気が漂い流れていたのに目を見張り、キオスクに近寄ると何と「少年サンデー」の古書が売っていた、じゃなくってまっさらの最新号なんだけれども、創刊号の表紙に使われていた長嶋茂雄が子どもから耳打ちされているポーズがそのまま松阪大輔に置き換えられた表紙になっていて、遠目に見れば区別がつかず今日はサンデー、入らなかったのかって思ってしまう人も出ちゃいそう。それはないか。

 ぺらぺらと読むと「週刊少年サンデー」の創刊に向けた実録漫画なんてものも掲載されてて編集者の相談に相賀徹夫社長が決断とかして創刊へと向かっていく様が描かれている。あの手塚治虫さんに他の連載を断って、週刊1本で連載を続けてくださいその分の原稿料はまとめて負担しますって言って原稿を頼むシーンなんて、まさに不退転の決断っていったところだけれども、週刊漫画には興味があるけど月刊連載のファンも捨ててはおけないという手塚さんの判断で、すべての連載を続けながら週刊もやることになったってエピソードの、どこまでが美化されていてどこまでがそのままなのかちょっと知りたい。いや本当に善意の人だったのかもしれないけれど。

トゥーリオってもしかして今1番の選手なのか俊輔除くと?  そんな昭和30年代が店頭に並ぶ一方でラックにも昭和30年代の日活映画風に作られた「エル・ゴラッソ」が刺さってて何か昭和レトロの集中豪雨が来たって感じ。まあいよいよ決戦ってところで男臭さが漂っていた日活映画を模したりするデザインの意図は分からないでもないんで、「サンデー」とはたまたま重なっただけって考えるのが良いのかも。実録漫画にあったよーに「週刊少年マガジン」が刷り始められるまで印刷所で待って値段を知り、10円低くしたってエピソードをそのまま引いて逆に「サンデー」が印刷開始される寸前に、表紙のイメージをレトロにするかどうかを決断した、なんてことはまずないだろうし。

 レトロといえば「週刊現代」があの「あしたのジョー」を表紙に持ってきて漫画の再掲載なんかも初めていたりするよーだけれど、「エルゴラ」があくまでパロディーで「サンデー」は創刊50周年を祝いつつ原点回帰をして当時の熱気にあふれていた漫画作りの空気を今のサラリーマン的な編集者に見せつけようとしてみせたって言えなくもないのに対して、「週刊現代」はパロディでもリスペクトでもなく過去の名声の再利用ってところがどこか納得いかない。そりゃあ良い漫画はいつまで経っても良いものだけれど、それをそのまま掲載したって行われるのは評価の堂々巡り。そこに新しい価値が生まれるってことはない。

 メディアの役割はなるほど欲しい情報を伝えることでもあるんだけれど、そうやって培われた媒体力を使い新しい才能を掘り起こし、広く伝えて価値を付けてあげるってことがある。「週刊現代」のよーにそれなりに伝播力を持ったメディアなら、新しい才能なり新しい挑戦なりに投資を行いそれこそ「ジョー」に負けない価値を将来にわたって持ち得るコンテンツを送り出すことの方をまず行って欲しいもの。「ジョー」を載せて昔を知るおっさん連中をつなぎ止めようとするどこか後ろ向きの施策を諸手を挙げて賞揚しては、過去の食い散らかしへとすべてが向かって新しい物が生まれなくなってしまう状況を生み出しかねない。似て非なる3つのレトロ回帰を峻別して受け止め前へと進める意欲に支持を贈りたい。でも「少年サンデー」だもんなあ、昔に比べると迫力なくなってしまったよなあ。

 届いた日本出版販売の月間刊行予定から文芸をちらちら。おお仁木英之さんが「僕僕先生」のシリーズ3冊目「胡蝶の失くし物」を新潮社から19日に発売か。実はまだ2は読んでないんだけれど面白そう。でもって橋本紡さんの「もうすぐ」がやっぱり新潮社から31日刊行の予定。前に書いていた産科の問題についての作品みたいで週報によれば「結婚したら、すぐに子どもができると思ってた。どこでも産めると思ってた。でも。出産適齢期の焦りと戸惑い、不安、尽きない願望の行方を描く渾身の長編」ってあるからなかなかにシビアな社会問題をテーマに含んでそう。でも橋本さんらしく痛みを乗り越え前へと向かう強さと優しさが感じられる話になっっているだろう。期待。

 SF方面だと徳間書店から森奈津子さん「夢見るレンタル・ドール 色の章」が19日に登場の予定。きっと極彩色。流行りそうなのだと「BOX!」の百田尚樹さんが「風の中のマリア」ってのを講談社から5日に刊行、ってことはそろそろ店頭には並び始めているのかな。中身は「女王が統べる帝国に戦士として生まれたマリア。過酷な闘いの連続に身を投じていた彼女に、ある日出会った男性が衝撃的な事実を告げる。帝国とマリアの運命とは」。これどこの富士見ファンタジア? ポプラ社からはもりみーの本も出るか。「有頂天家族」しか読んでないなあ、もりみー。

 ノベルズだと……ををををを! 来た来た来た来た来た。朝日ノベルズより「仮免マッドサイエンティスト・みのりちゃん(仮)」が19日登場。作者はもちろん、火浦功さんだ! その消息は「ザ・スニーカー」あたりで細くうすーく掴めはするものの新しい作品としてお目にかかれる機会は彼方に失われて久しい火浦さん。だけれど掘り起こせば今に伝えて圧倒の支持を得られる作品は多々あって是非に復刊が待ち望まれていた、その個人的なリスト筆頭にあげたい「みのりちゃん」シリーズがここに復刊とは!!

 もうこれは買うしかないけどこの期に及んでタイトルが(仮)ってのには何か意味があるんだろうか。まさか後書きの執筆が滞りまくっているとか。1文字書いては珈琲を飲み1文字書いては原田知世に踊り1文字書いてはテニスをタイブレークも含めフルセット戦いシャワーを浴びてビール飲んで寝てしまうその充実した執筆ぶりに、あとがき原稿の濃縮度が上がり幕っていたりするのだろーか。それでも良いからとにかく出すこと。出てくれること。指折り数えて待とう発売日。前はいしかわじゅんさんだったイラストは今度は誰になるのかな。

 そんな朝日ノベルズからは水月郁見さんという夏見正隆さんとは違う名前の人が「たたかう! 図書委員」を刊行の予定でタイトルからして面白そう。幻狼ファタジアノベルズからは友成純一さん「樹夢 グリーン・ドリーム」が登場の予定だけれどどんな話なんだろう? 「グリーン・レクイエム」を友成風味にアレンジした血と肉の飛び散るフォレストスプラッター? スクウェア・エニックス・ノベルズの「犬憑きさん」は唐辺葉介さんって人の作品だけれど新人さんか? しかしやっぱり新書サイズでは御大・栗本薫さんの「グイン・サーガ」の30周年記念出版がデカいよなあ。「豹頭」に「虜囚」が出るけどこれで何巻くらいまで進むんだろう。ノスフェラスへは逃げ出せる?

 予定だったら今頃第7章も公開になっててタイミング良く7章分の主題歌が収録されたCDが登場って運びになっていたんだろうか。でも公開されなくって見知らぬ7章の曲も含めた「空の境界」のKarafinaによる主題歌集が登場。最初はCDのコーナーを探していても見つからずふと横を見たらDVDと同じサイズのジャケットに入った当該の品物が。何でも「講談社BOX」を意識したデザインだそーでなるほど斜めに切れ込んで写真の部分が講談社BOXっぽい感じ。曲はやっぱり第1章「俯瞰風景」の「「oblivious」が圧倒的に恰好良いよなあ、それを歌うライブの模様が収録されたDVDの映像も静かなところから声が重なりビートが響いて盛り上がっていく雰囲気が良くそしてサビの部分のメロディが圧巻。疾走する両儀式の姿が浮かんで来るって感じでCMで聞いたこの曲の素晴らしさがあったればこそ、実はDVDを積極的に買おうって気にもなった。改めて聞いてもやっぱり良いもの。さあ聞きまくろう。んで第7章はいつからだ。


【3月3日】 サザンの日。活動休止中だよまったく。でもって俺は「宇宙をかける少女」を見ていたと思ったら「アストロ球団」を見ていた。もっとも恐ろしいものの片鱗を味わった。それとも「メジャー」か「キャプテン」か「第三野球部」か「逆境ナイン」か「巨人の星」か「侍ジャイアンツ」か「ちかいの魔球」かそれらをひっくるめた何か。冒頭から最後まてずっと野球ネタでひっぱってはストーリーとのつながりを一切設けない割り切りっぷりはある意味で凄いけれどもラスト前になって間尺が足りなくなった時にいったいどういう了見だったって突っ込まれまくりそー。まあ今でさえアップテンポ過ぎるんでここで頭休めの回を1回、設けておくのも悪くないって判断だったのか。

 あるいはこの野球話自体が本編とも密接に関わっている? あの宇宙で起こっているネルヴァルとレオパルドの対戦は実はマウンドでぶっ倒れている秋葉の見ている夢だとかいった。それは逆か。秋葉の夢が野球だとしたらいろいろと考えていることなり、感じ取ったことが暗示的に散りばめられているんだろうなあ。レオパルドは嫌われ者で排除されてしまったとか。ナミは本当は優しい娘とか。いつきは活躍していたしいもちゃんも出ていたけれどウルが出ていないのがちょっと残念。いもちゃんがあれあからウルもきっとスーツ姿で現れては桐生一馬とか名乗っていつきを虐める奴らをばったばったとなぎ倒してくれると思ったのに。そんなこんなで野球で終わって次からはちゃんとストーリーが進むのか。進んでくれなきゃ泣くぞ。

 本を読む日々。男子校に女子高に共学校のどこかが1つ脱落しなくちゃならない市町村の統合を受けて、3つの高校が総当たりの戦いを繰り広げて脱落者を決めることになったところから始まった鷹見一幸さん「会長の切り札」は、第1巻でエリートたちの男子校を相手に共学校が、参謀とも言える副会長の起死回生の作戦で勝利してまず1勝。でもって第2巻では女子高を相手に戦うことになったけれども、男子校との対戦で使われたチャンバラ風のセンサーでは女性を叩かなくちゃいけないってことで、新たにICカードをかざし合って敵を倒す方法へと変更。なおかつルールもチャンバラから昔流行ったとかいう戦艦に水雷にあと何だっけ、3つが3すくみみたいな感じになって倒し倒されるような競技に乗っ取り行われることに決定する。

 そこで動いたのが女子高ならではの色仕掛け。共学校で戦いの戦闘に立っていた応援団の男を籠絡して情報を聞き出そうと演劇部の少女が派遣されたものの、一本気な応援団長を前に嘘を貫き通せるかでまずひと山。さらに共学校へと留学して来た胸の巨大な少女を押し立てたことで、平べったさを嘆く女子高の生徒会長が取り乱したりする状況が起こったりして波乱また波乱の連続となっていく。飄々として深慮遠謀をめぐらせる副会長、所光明の振る舞いの二枚目的な格好良さとはちょっぴり違ったしたたかさに味があって、やっぱり阿呆に見えて深慮遠謀の得意な王子が主役を張ってる林トモアキさん「ミスマルカ興国物語」(角川スニーカー文庫)とも並んで、裏のたっぷりありそうな男の生き様って奴を楽しめる。次は男子校と女子高の決戦でそこで廃校されるところが決まり共学校は安全圏に逃げたはずだったけど、それでは話が続かないとまたしても波乱が起こりそう。どんなタクラミがめぐらされてそれにどんな謀で挑んでいくのか。楽しみたのしみ。

 麻木未穂さん「八王国記」(トクマノベルズEdge)も登場。倭の国では少年が少女の恰好をして見込みたいな地位にあり、半島では倭の国から流れ継いだ親と娘のうちの娘がこちらは男子の恰好をしたまま長じつつ、空間を隔てて気持ちを交わし心を写し合っていたりする中で起こった半島での騒乱に、少年のふりをした少女が巻き込まれては不思議な力で傷を癒し、倭の国にいる少年の気持ちも移して敵と切り結ぶ。少女は半島の主導権をめぐる争いに巻き込まれるけれど倭にいる少年の方は肉体的には蚊帳の外。そんな2人がどう出会い、何を目指して動き始めるのかが展開の上での興味の置き所か。そっくりな2人なだけに結ばれるかどうかは不明だけれどそこから新しい国なりが生まれ現代へとつながっていくことになるんだろー。期して続刊を待とう。

 実は「赤めだか」は読んでないけどそれに対抗した「青めだか」ってんのが裏のテーマってんなら面白くない訳がないと読んだ立川志らくさん「雨ン中の、らくだ」(太田出版)はなるほどやっぱり面白い。兄弟子なんだけれども真打ちになったのは自分より後の当て川談春さんが修行時代をつづって大評判になったのが「赤めだか」だったけれども、負けじと弟弟子がつづったこちらも家元・立川談志との日々なんかが書かれてあって、併せて読むと2つの視点から談志師匠の人となりが浮かび上がって来る感じ。あとは談春さん志らくさんがお互いに何をどう考えて付き合ってきたかってことも。

 ずっと築地の焼売屋だかにアルバイトに行かされていた談春さんとは違って、師匠の築地に行けって言いつけに逆らい、かといって破門も嫌だといったらずっと奉公を赦された志らくさんなだけに、おそらくはより談志師匠に密着した内容になっているって雰囲気。あの柳家小さん師匠から談志に似てると言われ、同じ廃人になると談志から言われただけあって、談志への惚れ込みっぷりは半端じゃなくって演じる落語に対する解説も、深みがあってなるほどだから談志の「芝浜」は凄いのかっていったことを教えられる。読んだら高座に行ってみたくなるけれども、きっとチケットとか取れないんだろうなあ。

 そんな談志師匠大好きな志らくさんから見て今時の、落語志望者たちの信じられないくらいなクールさは気になるみたいで談志師匠の弟子になりたいって電話をかけて来た人に、弟のマネージャーがだったら高座を見に来なさいと言ったらどこでやっているのかを訪ねたそう。調べろよ。あと落語が心底から好きならまずは天下に随一の談志師匠の弟子を目指すべきなのに、なぜか志らくさんの方に弟子が集まってくるという。どうしてだ。落語が好きというより落語家という場所が好きな人たちの重なり合って生まれた層がこれからガシガシと世に出てくるかもしれない可能性が示唆するものを、考えるならやっぱり今が落語を聞いておくべき最後の時代なのかもしれないなあ。通うか寄席。

 おおお。東亮太さんが復活してたぞ「ザ・スニーカー」の2009年4月号。肉屏風の人とかがいっしょに作家を目指していた中で1抜けしたらしーんだけれどその後はあんまり作品が見られず寂しい思いをしていたら、「女子高生侵略物語」ってタイトルのこれはイントロ編に近い短編を寄せていた。宇宙より惑星を侵略する競争のために飛来した生物が地表に激突した際にその辺にいた女子高生に入りこんで、侵略活動を始めるってストーリーで他にも飛来して来たライバルたちとのバトルなんかも紛れ込みつつ、素っ頓狂な女子高生ライフを送るっていった展開が待っていそう。これで侵略者たちが同じアパートに住んだ日には阿智太郎さんの「住めば都のコスモス荘」ってことになるんだけどどうやらご近所どうしに留まりそう。あとは宿主にした女子高生の心がどこまで生きているか、ってあたりか。侵略ミッションが完了した暁に体を戻しておさらばとなるか、それとも共に宇宙征服を目指したりするのか。続きが出ると期待しておこう。


【3月2日】 サニーの日。だから千葉の日。山下達郎さんのツアーといったら最初に出かけたのがあれは84年から85年にかけてのツアーだったっけ、アメリカのダウンタウンというか雑居ビルに囲まれている雰囲気の奴でちょっと後に発売になった「ON THE STREET CORNER2」のジャケットにも使われているから今でも容易に目に出来るセットの時で、地元の中日新聞に広告が出ていたんで勇んでたぶん現金書留を郵便局へと持っていって速達か何かで送ったら、前から2列目のほぼ真ん中なんて席が割り振られて狂喜乱舞したけれどもそれまでライブなんざぁ行ったこともない野郎が、天下無双の山下達郎のツアーに果たしてついていけるのかって心配がもわもわ。

 けど行ってみたら当時からいきなり総立ちなんて雰囲気じゃなく、最初は座ったところから始まり中盤も終わり頃から盛り上がってラストスパートで立ち上がるって、今とそれほど変わらない雰囲気だったんで初な大学生でも普通に楽しむことができた。ちなみに行ったのは1人でだ。悪いか。悪かねえよな。3月1日のNHKホールも座りから始まっていたけど平均年齢がぐぐぐっと上がっているってこともあるのか全体に立ち上がりが遅く、3階席で立っている人を見かけるよーになったのは「レッツ・ダンス・ベイビー」あたりから。手にしたクラッカーを弾けさせる準備ってこともあったんだろーけどその後から人がぱらぱらと立ち始めて、アンコール後のアップテンポな曲ではスタンディングが続いたもののさらに終わりで静かな曲となってまた座って終幕と、さらに大人びた雰囲気が高まっておりました。これが少子高齢化社会の音楽の楽しみ方って奴で。

 ギターはあれは臙脂色? のテレキャスターをほとんどつかっててあとはメーカーは見えなかったけれどもエレアコを1本。テレキャスターもストロークでシャキシャキと奏でてリフとかメロディーはバックに任せぱなしだったんで達郎さんがどれほどのギターの腕前かってのは遠目にあんまり聞こえなかったけれどもソロでテレキャスを奏でた場面でストロークだけでリズムにメロディーを醸し出して引きつけてみせたあたりに楽器を知り尽くてるってところも見え隠れ。何よりあの乾いてシャカシャカってする音が素晴らしい。あれ以外で「SPARKLE」は弾けないってことなのか。大昔にギターの雑誌で達郎さんが所有のギター全解説をやってた記事が載ってて買ったけれどもそこに載ってたギターかなあ。記事がまた読みたいなあ。どこに仕舞ったのかなあ(出てくる訳ゃあねえ)。

 嫌よ嫌よは好きとおんなじツンデレ娘の物語だったなんて「RIDEBACK」は、BMAとかにとっつかまった我らがアイドル尾形琳ちゃん、テロリストのリーダーから駐車してあったライドバックに乗ってみるかと誘われて、最初は嫌です乗りませんなんて言っていたのに、ちょっと挑発された程度で負けてられるかって感じに乗っては共にダンスを踊ってこれだこれこそが自分の居場所だって感じに、充実した表情を満面にたたえてみせる。相手は自分を奪還するために何人ものガードを殺害したテロリスト。そんな存在を前にしても怒らず恐がりもしないで、共にライドバックと身を一体に出来る同士のような感覚に陥るその感性。芯に正義なんてまるでなくって自分が最大限に表現できるものならそれが悪でも構わないってスタンスに、さてはてどうやって共感していけば良いのやら。対立するGGPとやらに絶対の悪が見えれば良いんだけれども、ひとりワルはいても総体として成しているのは正義な訳でやっぱり尾形林には分がないなあ。まあそのワンピース姿でバイクにまたがる恰好の妙な色気があるうちは見方しても良いのかなあ。バトルスーツなんか着られた日には見捨てるより他ないよなあ。

 東京駅の丸の内口を出て左手にあって閉鎖されている東京中央郵便局のビルを総務省の鳩山大臣が急に保存すべきと言い出したらしいけど、そりゃあいたいどんな風の吹き回しだって感じ。もちろん古いビルなのかもしれないけれど、古さだけが価値ではなくってそこで何が行われて来たかってことがやっぱり重要。郵便局として郵便事業が始まった頃からの伝統が建物の仕組みの中に息づいているってんならまだしも、普通についこの前まで現代の郵便事業が行われていたビルのどこかに価値があるというのなら、今まさに伝統の芸事が繰り広げられている歌舞伎座を立て替えて超高層ビルにしてしまう、なんて計画の方がよっぽど「国辱物」で、真っ先にストップさせるに値する。総務大臣の所管じゃないって言えば言えるんだろうけれどもそこは鳩山さん、選挙区ではなくっても生まれ育った鳩山御殿のある東京でも、価値ある建物が壊されようとしていることにもと憤っても良いんじゃないのか。でなきゃ逆風が吹く郵政事業の民営化なんかと絡めて、民営化に自分はあんまり良い感触を持っていないんだって気持ちをアピールしつつ、自分の権限をふるえる範囲でふるってみせたスタンドプレーに過ぎないと、今回の東京中央郵便局建て替え反対発言を勘ぐられたって仕方がない。

 っていうか歌舞伎座の立て替えくらいだったら、地元の都知事がまずもって大反対の声をあげてしかるべき。どっかの森が狭められるのは嫌だと国を相手に大騒ぎしているくせに、相手が企業だとどーして何も言わないのか。それは新宿コマ劇場の閉鎖も同様であの雰囲気あの伝統を維持し続けていってこその世界の首都。同じ首都のフランスはパリで、オペラ座が取り壊されて新築されるってことになったらいったいどれだけの反対運動が起こるのか。ムーランルージュが閉鎖されるってなったらどれだけの非難が世界中から集まるのか。そりゃあ戦火を浴びて立て替えられた部分もあるんだろうけど、残っている機材も働いている人たちも昔を今に伝えている。何より戦後からだって50年が経つ舞台に染みこんだ汗や血はもはや何ごとにも代えられない重さを持っている。

 そういえば昨日のNHKホールでの山下達郎さんのコンサートで、達郎さんが今になってライブを始めようって思ったきかっけに、大坂での主戦場にしていた大坂フェスティバルホールが取り壊されるって話しをきいて、これに何とかして異を唱えたいってのがあった。かないはしなかったけれども最後の舞台ってのを達郎さんが勤め上げてホールの板に最新の汗を染みこませることが出来た。それを話しつつ最近はミュージックホールがどんどんと閉鎖されていく現状を憂い、NHKホールがもしも取り壊されるなんて話になったら1発ぶち上げるとも言っていた。たまにしかコンサートをしない達郎さんでもそうなんだから、その板を主戦場にしていた歌舞伎役者たちは立て替えなんてもってのほかと、それこそ着飾って舞台の上で最後まで大見得を切ってみせるくらいのことをしたって罰は当たらないのに、むしろ粛々と“親会社様”の決断を受け入れ、サヨナラ興業なんてものを打っているから何ともはや。達郎さんの思いとは真逆の状況になっている。

 いっそフランスの大統領でも首相でも、日本に来てもらって歌舞伎を見てもらったついでに立て替え間近なんですどうですかと聞いて、「そりゃあ何と間抜けなことだ」と言ってもらえれば、ガイアツに弱い日本のことだから議員様たちが立ち上がって保存だ何だと言い立て始めるに違いない。まあそうはならないよーに穏便にこっそり事を運ぶんだろうけど。翻って大正昭和の古い建物の保存についてはやっぱりもっと行われるべきで、しばらく前に取り壊されてしまった有楽町の三信ビルなんかも、保存の動きを国なり都なりが音頭をとって進めて欲しかった。けどそうした国なり自治体主動の保存運動が起こったって話をきかないのは、それが民間の建物だったからなんだろうなあ、歌舞伎座と同様に。言えば民業圧迫だのと非難されるのは面倒くさいもんなあ。

 それなのに東京中央郵便局だけについては鳩山大臣あたりが音頭を取るから胡散臭さ、キナ臭さを感じるんであって、この取り壊しを「国辱」と叫ぶ口で歌舞伎座取り壊しは国辱以上の文化に対する犯罪であり、大阪なんかで繰り広げられている文化保護政策の縮小なんかも文化に対する罪であると叫ぶんだったら、人間として主義主張を持っているんだと認めるに吝かでない。まあ絶対に言わないだろうけど。もどって東京中央郵便局について言うならば、日本におけるモダニズム建築の現れであって残すに値するって趣旨は理解できる。でも残すのだったらそれをちゃんとオフィスでも何でも人が入って使うことを前提にしなければただのノスタルジーに過ぎない。

 パリとかロンドンとかマンハッタンみたく、昔の建物がちゃんと今も使われながら残されていてこその街なんだってことを考えていかなければ意味がない。古いから残す、じゃあ古くなる前に立て替えてしまおうなんて無茶もまかり取り始める。使えるから残す。使えるうちは使い続ける。それがエコロジーであり文化なんだといった意識が醸成されて、はじめて保存運動にも大義が生まれるってことを、建築の人も考えるようにしないと単に珍しいから残したいって言ってるだけで、損得はまるで考えないエゴイストだって反発を喰らいかねず、そんな中で権勢を誇りたい奴のスタンドプレーだけがまかり通ることになる。説得の言葉を持って納得の気持ちを誘うタクラミを日本人はもっと持たないと、騙され弄ばれた挙げ句にボロ雑巾のように捨てられた国土だけが残ることになるぞ。すでになりかけているけれど。


【3月1日】 必然の悲壮を否定はしない。だから「ワイルド7」の最終章「魔像の十字路」は永遠の傑作で在り続けるし「ジオブリーダーズ」もその列に加わることだろう。繰り広げられた暴虐に潰されていく弱者たちの、それでも諦めなかった姿に自分なら絶対に負けはしないと決意を固め、暴虐などへと至らせないと曖昧だった身を引き締めて世界を見渡すような心を得る。けれどもやはり命が失われすべてが闇へと帰してしまうドラマよりは、誰も絶望を知り、その上で希望を見出して未来へを歩を進める物語の方が、読んで絶対に嬉しいし、心にも糧になる。だから第10巻で完結となった日日日の「アンダカの怪造学」が迎えた前向きで、明るくて開かれたラストに僕は圧倒的な賛辞と感謝を贈る。

 アンダカを統べる魔王の登場によって危機に瀕した世界。支える四大公は憤怒が敗れ去り喜悦は逃亡し虚無大公こと間宮影文くんも敗れ力を失い喜悦大公こと巴已己巳といっしょに少女の家に居候して決戦の様子を見守っている。古頃怪造高等学校は臨時の怪造学会の本部となって迫る決戦に向けた宴会を繰り広げ、合間に間宮血影さんの麗しくも素晴らしいスクール水着のチラ見せなんて出し物もあって湧きに湧いた宴会を過ぎ、明けて最終兵器に決戦兵器を手にした空井伊依と戦橋舞弓は精鋭たちに護られながら、浮かぶ魔王の城へと向かい突き進む。だが。魔王を護る悲哀大公は変化し魔王城を強化し、さらに仕込んでおいた寄生虫を発動させてバックアップすべき怪造学会本部を混乱に陥れる。

 なにより圧倒的な魔王の力。舞弓は弾かれ衣依の武器も効かずもはや絶体絶命の状況にありながらも、伊依は学校に進学した時から、というよりそれ以前から抱き続けている心情「怪造生物(モンスター)はともだち」を頑なに護り続けて魔王を相手に愛を解く。すでにして動かされた<ヴェクサシオン(肉体道楽)>に憤怒大公によって危機を乗り越えたものの、未だに絶対の力をもって伊依の前に立ちふさがる魔王。200年の絶望を生きてきた魔王に果たして衣依の言葉は通じるのか。通じたとしてどんな言葉が魔王の深く沈んだ心を動かしたのか。アンダカ誕生の謎から魔王の正体、そして愛し愛されることの大切さを明かして迎えた終幕のさらに先に、英雄として刻まれ先輩として導く衣依の凛として明朗な姿があることを嬉しく思う。完結に拍手。しかし無城鬼京は相変わらずだよなあ。

 だからもう非情をこちらは突っ走っていて欲しい「ジオブリーダーズ」。タバコを得てバモスのハンドルを握り用水路から川へと突っ走っていったのはいいものの、しょせんはぐるぐると回る環状線でしか得られなかった生。抜け出ようとすれば立ちふさがる入江の銃より放たれたダブルオーバックによってしとめられたバモスの上で果たして夕は、田波洋一は再び立ち上がれるのだろうか。夕ちゃんの脇腹の赤さから想像するに当たったのは9粒のうちの1発。それが田波と夕の間を突き抜け夕だけが傷ついたって恰好か。ナイスバディも多々いるなかでも最大級の胸回りを誇った夕ちゃんの退場で残るは平べったさではシリーズナンバーワン、まやにだって負けてる菊島雄佳だけってのがなあ。まああれはあれで悪いものではないのだが。おっとまだ成島も残ってるぞ。最近見ないがどこでいったい何してる? そこんとこも含めて続きを。そしてラストを。そこに希望を。ループだけは勘弁な。

 評判になった第1作は完璧なまでにまとまっていて続編なんて蛇足でしかないと分かっていただけに、登場の第2作に懐疑の目も浮かんだけれども犬村小六さん「とある飛空士への恋歌」(ガガガ文庫)は、お姫様を一介のパイロットが送り届ける物語を成り立たせるために作られた舞台を使いつつ、まったく別のこちらは王子様が落剥の身を奮い立たせようとしている中でひとつの出会いをするって物語に仕上げてみせた。あるいは舞台を作り上げた段階で、あれやこれやの物語が浮かんでいたのかもしれないけれど、単純な続編にしなかったのは何よりの正解。なおかつこちらはこちらでしっかりと先への想像をかきたてる物語になっているから素晴らしい。

 いきなり世界に浮かぶ島が登場。ラピュタなんでもんじゃなく、周囲が100キロ近くはありそーな巨大な島がふわふわと浮かんでいたらしくって、それをつかまえ上に町とか作っていた一方で、地上では王様が王妃様ともども革命によって排除され、小さいカール王子は放り出されて路頭に迷おうとしていたところを、空が飛びたいとつぶやいた王子の言葉を聞いたアルバスって整備士が、引き取り3人の娘たちの間に放り込んでカルエルという名で育て始めた。乳母日傘の育ちなだけに最初は違和感もあったけれども、革命の象徴として担ぎ出された風使いにして白銀の髪を持つニナ・ヴェントへの復讐を胸に刻んで生き延びる。

 けっして行方や正体がバレてないんってんじゃなく、政府の方も整備士の家にやっかいになっている所まで掴んでいたけれど、革命から何年かたっても反動が起こったりして安定しない政権に、王政復古の呼び声が起こり遠方より血縁を運んで来ることになった関係で、カルエルは担ぎ出される前に遠くへと追いやられる羽目となって、彼方を探索に飛び立つ巨大な浮島に配備される飛空士たちの列に、3人娘の末っ子ともども加わることになった。事実上の追放だけれど、それをカルエルが受け入れたのは、島に革命の看板を下ろされ用済みにニナ・ヴェントも乗っていたから。仇を討てる機会があるかもしれないと思って移住し、学校に通うまで時間がまだった少年は、散策に出かけた島の中で自転車のチェーンが外れて困っていた少女、クレア・クルスと知り合った。

 とまあそんな感じのボーイ・ミーツ・ガールが果たしてハッピーエンドへと向かうのか、重ねた誤解の果ての悲劇へと向かうのかは分からないけど、ともあれ動き始めた物語。地上で蠢く政治の行方なんかも勘案しつつ謀略なんかも入ってくるだろー中で、カルエルとクレアの運命に前向きの未来がもたらされることを今は願いたい。っていうかアルバス家の3女でカルエルにくっついてきたアリエルはただの当て馬で終わるのか。それはそれで可愛そうだけれどもきっと良い人が見つかるよ。前作「とある飛空士への追憶」(ガガガ)文庫を読んでなくっても楽しめるんでご安心。読んでいるなら空戦の様子が足りないところにちょっぴり不満が残る、かな。

 たぶん20年ぶりか。あれはすでに就職した後の愛知県勤労会館で見てから東京へと出てきてずいぶんと経つのに2度ばかりあったツアーのチャンスを行き逃していた関係で、間に20年もの月日が挟まってしまった山下達郎さんのコンサートに満を持して行く。NHKホールも3階席の後ろから2番目とゆーとんでもない席だったけれども、始まって驚いたのは音がしっかり響くことと、声がしっかり聞こえること。何を唄っているのかちゃんと歌詞が聞き取れるのは、デカい箱の後ろの方ではまずないことで、それでもライブの雰囲気を楽しみ時間を共有できるって意義があったから我慢もできたけれど、こーゆー最後尾でもしっかり聞こえてしまうライブを聴くと、アリーナからドームといったデカい箱で1万円以上も払って後ろの方で聞くのがバカバカしくなってしまう。

 たぶんだから達郎さんは、音楽として歌として聞かせられるキャパシティでしかライブをやらない主義を貫いていて、そのお陰でチケットも取りづらくなっているんだろーけど今回は数が多いからなのか、あるいはファンの歳も上がって落伍者も出てきたからなのか、最後尾であってもNHKホールがとれてまずは善哉。でもって始まった「Sparkle」にアレレ? 声に伸びがない。高いところで詰まってる。やっぱりもう声も出ないのかなあと心配したら最初はちょい喉にえへん虫が絡まっていたみたいですぐに立ち直って旧いの新しいのを取り混ぜ延々3時間20分を走り抜けた。素晴らしい。
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 おまけにリベンジでラス前々くらいにもう1度「Sparkle」を今度は完璧に歌唱。得した気分。何よりやっぱり「RIDE ON TIME」が生で聴けるのが嬉しいなあ。これで4回目ってことか。次はいついなるだろう、って大宮のチケットとってたんだっけ。そっちではどんな曲を聴かせてくれるかな。一緒だろうけどそれでも場所が違えば聞こえ方も違ってくるだろうから今から楽しみ。とりあえず難波弘之さんは相変わらず若々しく伊藤広規さんも弾けてた。何よりドラムの小笠原拓海くんが凄すぎ。まだ24歳ってそりゃあどこの天才だ。これからの活動に注目。


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