縮刷版2009年11月下旬号


【11月30日】 いろいろと隠し仕事をしつつ来るべき大空白時代への備えなんかをしていたところに「内外タイムス」の自己破産なんてものも出てきてますます備えを加速したくなって来た感じ。でもきっと急流の凄さに追いつけないっていうか、迫る土石流に追い付かれ押しつぶされてそのまま雲散霧消してしまうんだ我が人生じっと手を見る生命線短っ。でもってネタの仕入れついでに本屋で「東のエデン」のフィルムブックって奴を購入。これ1冊に放送された11話分が集録されていて値段は1800円なのは高いのか安いのか。

 サイズもあるし「新世紀エヴァンゲリオン」のフィルムブックのようにすべてのページの下に豆知識めいたコメントも載っていて、すでに見たアニメだけれども改めて見たくなるような気分にさせられるし、それが面倒な人でもじっくりとフィルムブックを読みたいって気にはさせてくれる。各話のあとにも解説があってより深く楽しめる。やっぱり安いかも。読んでそうか物部や2Gや結城くんたちがミスター・アウトサイドをやっつけたって喜んで、シャンパンを開けようとしていた場所にポッカリとあいていた穴が、映画の中で爆撃されたトレーラーに積まれていた物体が収められていた場所だったのか、と気づく。どうりでミサイルが発射された後のサイロのような形をしていた訳だ。

 ほかにも探せば映画につながるヒントが隠れていそう。映像も見返したいけれど、うちのアナログテレビじゃあなあ。買い換えたいなあボーナスで。無理過ぎるって。想像するなら手元に入るのが「機動戦士ガンダム」の実物対立像の高さに届くかどうかってあたり。加えてまっ赤なダッフルコートとか、立て直したパソコン用のウィルス対策ソフトとか、いろいろ購入してしまったものがあってそっちにつぎ込んだらあとに残るのはボールの高さにすら及ばなさそう。それで「BLACK LAGOON」のブルーレイディスクだのを購入したら後に残るのは……残るどころか脚が出る。利益がでていてどーしてそうなんだって憤りに青筋も立つけど利益を出したかったからそーなったんだって裏筋も立っていそうなフトコロ具合。突っ込んで探ったところで出るのは溜息ばかりなんで、ここは「東のエデン」でも見返して、一旦は誰かがどうにかしなきゃならいほど、おかしなことになっているこの社会をどうにかする方法でも考えよう。

 なになに劇場は……「東のエデン」劇場版の初日は3館で全回満席の快挙を達成。聖地のユナイテッドシネマ豊洲でもカフェに開館以来の来場者がおしよせ大人気。こりゃあ普通に見ようったって結構大変かもしれないなあ。12月12日からは大ヒットキャぺーんとして神山健治監督のサイン(といっても印刷のだけど)が入ったクリスマスカードがプレゼントされるサービスもあるみたいで、いったいどんな絵柄になっているのか、滝沢が雪だるまになっていて咲ちゃんがミニスカサンタになっているんだったらこりゃあもわらなくちゃって、考えたかけれども本当にそーなっているかは知らない。まあどっちにしたってもう1回は見に行くけど、聖地に、やっぱり夜に、1人でな!

 つーかあれだろ、王下七武会にだって勝ってしまうルフィやそれに負けない強さを持ったゾロやサンジがあっさり捕まっていたりするって点がすでにおかしいだろう「ONE PIECE」の映画連動エピソード。ああいう輩はよほどの油断でもしていなければ負けないってのがもはや世界のお約束。なのに美女でもなければたしぎに似た美少女でもないおっさん相手に3人がまとめてやられて木に吊されるなんて、クロコダイルやゲッコーモリヤなんかが見たらこんな奴らに負けたのかってゲキドするんじゃなかろーか。げんこつのガープだって不甲斐ないからって命を奪おうとするだろうし、白ひげも黒ひげも赤髪シャンクスも火拳のエースももはや相手になんかしないと投げ捨て野垂れ死ぬまんまに任せるだろう。

 オープニングの楽曲が頓狂なものになったところで、それは本編とは無関係のものだと見てみないふりをすれば良いだけのこと。でもアニメに関しては、それが例えば時代劇のよーな完全パラレルのお話だったらまだしも、正史の上に刻まれるだろう劇場版に連動しているエピソードで、キャラクターの魅力を削ぐよーな真似をするのはファンに対する裏切りだ。ひとりひとりのキャラクターへの愛情が、重なったところに根強いファンがいたりするのが「ONE PIECE」って奴なのに、そうした愛情を弄ぶような真似をして果たしてただで済むと思っているのかどうなのか。

 アニメを作っている東映アニメーションが率先してやっているならまだしも、映画会社(つまりは親会社か)なりテレビ局なりが、何か良からぬタクラミでもしているっていうのなら、そうした商売っ気丸出しの態度にやがて飽きが出て非難が芽生えて、見捨てられることになるだろー。果たして。本当だったら劇場版みたいな展開も、正史を崩されるようでいやなんだけれどこっちは作者本人が、作り出したストーリーだから正史以上の正史ってことで仕方がない、か。「週刊少年ジャンプ」最新号にはそんなゼロ話も本編ともども掲載。買うか久しぶりに「週刊少年ジャンプ」を。買うとしたらいつ以来? うーん「ジョジョ」はイタリアだったような。「リボーン」も「テニス」も始まっていなかったような。昔過ぎ。両さんはすでに始まっていたぞ、ってそれは僕が小学生の頃から始まっていたってば。大昔過ぎ。

 ようやくやっと見た「とある科学の超電磁砲」は絵コンテ演出が山内重保さんだったけれども顔のアップはそれほど多様はされておらず、暗い画面もそんなに出て来ずトーンとしてはいつもながらの「超電磁砲」。だけれど細かい見せ方なんかは研究すると「キャシャーンSins」と重なる部分なんかもあるのかな、立ち位置やら佇まいから心象が伺えるとかいった感じに。少佐ことニャムサスこと脱ぎ女こと木山春生も再びの登場で脱ぎまくり。そりゃあもう潔いばかりの脱ぎっぷりでこの程度で脱ぐならきっと夏なんて毎日すっぽんぽんで歩いているに違いない。行ってみたいな学園都市。でもその見かけによらず裏でいろいろしていそう。そんなあたりも明らかになって美琴や黒子と対峙した時にどんな姿を見せてくれるか、ちょっと関心。やっぱり上半身はすっぽんぽんか。でもって赤面している美琴に黒子を蹂躙か。


【11月29日】 ターニャまで。「機動戦士ガンダム」におけるモビルアーマー群にも増して衰えを見せない契約者の使い捨てモード。第1話から登場していた蘇芳のクラスメートのターニャも、日本のどこかプール端で撃ち抜かれて息絶えた「DARKER THAN BLACK 流星の双子」は蘇芳の代わりに撃った存在も見えていったどこの傘下で何をねらって動いているのかって疑問を残しつつ、ヘイから離れて蘇芳とジュライとそれからマオ改めペーチャまでもが頭にひっつき大宮あたりを歩いていく。そして立ちふさがる茅沼キコと久良沢凱の腐女子&名探偵。ほの見えたコメディ要素が一気に爆発しては出たぞ契約者30秒な刹那的世界観をぶち壊し、ヤられてもヤられても復活していくお約束の世界へと物語を引っ張っていってくれるだろう。そんな訳ないか。ともあれ一息付けそう。

 どんな手を使って必敗の試合をひっくり返すのか、そのために使う手とはいったい何なのかってアイデアの面白さでもって1巻、2巻と弱小高校が生き残っていく様を見せてくれた鷹見一幸さんの「会長の切り札」(角川スニーカー文庫)だったけれども、エンディングにおいて収まるところに収まってしまった感じがあってそこで今度は国が相手だ世界が相手だってなっていかなかったところに、やや残念さを憶えたけれどもそこまでやってしまうと荒唐無稽も過ぎる。可能性という面からそこに収めていくのが妥当って判断があるいは成されたのかもしれない。

 市町村合併の煽りで名門男子校とお嬢様女子高とそして新興の共学校のうちの1つが潰されることになったという端緒。当然にして反対するOBのパワーも少ない共学校が真っ先に取りつぶしの候補に挙がったんだけれどもそれを認めては生徒の名が廃ると立ち上がり、軍師的副会長の明敏な戦術でもって男子校も女子高もことごどく撃破し1抜けを達成してしまう。そして男子校と女子高の名門どうしの戦いとなり敗れたどちらかが廃校の憂き目に合うとう戦いの、それぞれにおけるゲーム性の戦術的愉快さとその愉快さが醸し出す雰囲気に世間が何を見るかまで考えた戦略性には感心。相変わらずの冴えが見える。

 けどそうして繰り広げられた勝負がそもそも何に起因しているのかを指摘し、それさえ解消されれば合併は取り消せるんだと流れていくプロセスにおいてこの国の、留まるところをしらない少子化という問題の根元的な解決策に果たしてなっているのか。あるいはこの地域からの流出は止まり流入すら招いたとしても今度は多の地域で同じ憂き目を喰らうところが出てくるかもしれない。そんな事態を義侠心に厚い奴らと正義に純粋な彼ら彼女たちは果たして他人事と放っておけるのか。

 ローカルな街おこしと結んで目出度し目出度しと収めてしまっては一般小説にもある良い話。荒唐無稽が許されるジャンルであるところのライトノベルなんだから、ここは全国的全世界的に高校生たちが少子化に伴う廃校の憂き目に泣くことなく、適切な進学者を受け入れ伝統を維持し伝統がなければ作り出しながら幸せを謳歌していけるような大戦略へと発展させるエスカレーションも、あって面白かったような気もしないでもないけれどもそれをやってしまうと今度は荒唐無稽にも程があるって思っただろう。何というか悩ましいというか。だからこれでひとまずの完了と見るのが当然と言えば当然。あとは卒業した者たちが理不尽な大人にはならず世界を変えていってくれるだろうことを願って幕を閉じよう。タイトルになっているのに会長、やっぱりあんまり目立たなかったなあ。タイトルロールは会長の“切り札”の方だから仕方がないか。

 蕪木統文さんって良く聞く名前なんだけれどもノベライズ系が多くってちょい手を出しにくかったけれどもガガガ文庫から出た「スプリング・タイム」はゲームのノベライズじゃなかったんで買って読んだらこれは良い物だ。目つきの悪さからなぜか見知らぬ不良達に負われる羽目となった主人公の少年が、撃退した果てにちょい見ると三輪車に乗った男の子がいて少年のことをちゃんと名前で呼んでくる。誰だこいつと記憶を漁って10年前にいっしょに遊んでいた子だと理解するものの、聞いた話では10年前に行方不明となってそれっきり。いくら別れの挨拶が「10年後に会おうぜ」だったにしても本当に10年後に会いに来るとはどういうことだと思案しつつも、現れてしまった子供を放ってはおけないと同級生の少女といっしょに面倒を見始める。

 幽霊が絡んだファンタジーなのか時空が歪んだSFなのか。どちらともいえそうでどちらとも言えなさそうな間で時間を超えて現れる過去から今の自分を見つめ直し、前向きで開放的だった子供の頃を思い返して歳を重ねてついた心の荒みを洗い流すってのも悪くない。母の離婚の父の自殺に自分の境遇と、起こってしまったことは変えられないんだと諦めて沈み込んでしまうような自分を変えるきかっけを、示してくれる物語。とはいえしかしそれってやっぱり変えられないという現実から目を背けることになりはしない? うーん。奇跡はあっても良いってことで、あとはその奇跡を自分がどう前向きに受け止め良い方向へと転がしていくかって心の持ち様を、教えてくれると感じ取れればそれで良いんじゃないのかな。秀作。

 技量において明らかに拙劣さの見える画を載せてそれも個性と直ることさえも画の対象となった人物なりその場で行われていることを正しく伝えるべき責務なりへの反意であって知る権利の代弁者たり得るのかという指摘に対するもやもや感を醸し出している上にそうした拙劣さが逆に話題になるんだとまで示唆するスタンスはもはや公明正大であるべき立場を自ら放棄しているといわざるを得ないのだけれどそうした事態への自省などまるで見えないさらに上にマイノリティとして制約されている権利の取得を目指すものに対して国体への反逆だといった趣旨の言葉を投げつけるという昨今の動勢は過去に営々と積み重ねられてきた矜持というものがもはや見えず踏みとどまるべき部分を誰にも諭されないまま情動に煽られ突っ走ってしまう段階へと至ってしまっていることの現れでここからはもう立て直そうにも立て直すための拠り所を作れずひたすらに自壊へと向かうだけなのだろうと想像できるけれどもきっと自壊し始めていることすら気づかないのだろうなあ。なんのこっちゃ。

 んでもって亀田興毅の試合。前に有明コロシアムで見た防衛戦でも大言壮語とは対照的なガードの固いボクシングを見せて挑戦者を退け防衛を果たした試合運びにも似てチャンピオンのチャンピオンなのに必死になって挑んでくるパンチを高いガードで守りつつ、飛ばすパンチでヒットを狙ってポイントを稼いで雰囲気として終始圧倒。そのまま大差の判定で逃げ切ってチャンピオンに輝いた。テレビを見ていてもチャンピオン側より挑戦者側の方が何だか余裕があった風。緒戦はそれでも虚勢に見えたけれども試合が進むに連れて安定して来た感じもあってさすがは試合度胸のカタマリだって感じさせられる。

 だったらもっと早く強い日本の王者とやってその強さを見せれば良かったんだけれど、きっとボクシングに対しては真摯で慎重で負けるリスクなんかも鑑みて、勝てるか勝ったフリをできる立場に自分を置いてきたんだろう。これでまた前のビッグマウスが爆発するかと思うとウンザリだけれど今度はさらに上を狙って返上とは簡単にはいかないだろうし、世間だっていかせない。まずは内藤と同じくらいの防衛を果たし、強い暫定王者やら挑戦者やらをしのいで行って欲しいもの。まあそうは簡単にいかないところが亀田ブランドなんだろうけれど。


【11月28日】 「機動戦士ガンダム」が劇場映画化されたのが今だったら果たして前夜からの大行列なんて出来たんだろうかというと、シネコンができて予約とかが可能になった現状ではそんな徹夜までしてって苦行は無用。着席場所も決まっているし先着順に配るセル画も存在しないから並ぶ意味ってものはなく、行列はやっぱりできそうもないけれど、それでも朝に最初の上映を見るんだという気概だけはやっぱりあったりするアニメファン。それなりの時間から人は集まり初回はきっと熱気に溢れかえったことだろう。前週の「劇場版マクロスF 虚空歌姫〜イツワリノウタヒメ〜」なんかもそーだったし。

かじりたいけどかじれない  でもって今週の「東のエデン劇序版1 THE KING OF EDEN」もやっぱり最初に見たい、それも聖地の豊洲で見たいって人が結構いた感じで朝の9時のシネコンオープンと同時に人が集まりグッズ売り場に「劇場版マクロスF」ほどではないけれども行列ができる人気ぶり。ざっと眺めてやっぱりこれって「AIR KING」のTシャツと、ジュイスの天秤にリンゴがついたストラップとそれからパンフレットに前週はかいのがしていた「マクロスF」のキーチェーンもつけて購入。6000円近くが吹っ飛んだ。前に買った「AKX20000」のロングTシャツとも合わせりゃ1万円はこえるけれどもあのキツキツのM−65の滝沢朗モデルを買うよりは安いから良いのだ。小太りがピチピチのM−65を着ている姿ほを醜いものはないから諦めるよりほかないだけなんだけど。悲哀。

 グッズかどうかはともかくそうやってがんばって丈の短く全体にスリムなファッション品のM−65を着て歩いている人とかも見かけたユナイテッドシネマ豊洲のロビー。当方はといえば放出品のウィンフィールド製M−65にキルトライナーもつけているからとっても暖か。だけど全体にだぼっとしていてほとんどコートって感じだから遠目にそれがM−65って逆に気づかれにくかったかも。本物が良物に駆逐されていく時代。それが平和ってものだ。そうそうあとレジ横に咲の顔をしたクッキーもあったんで購入。姉夫婦が開いているパン屋で作られ咲が「もうほっといて」と付けたパンと似た形。どうせだったらパンにしてくれれば安心してかじれたんだけど、クッキーだと妙にリアルで食べるに食べられない。M−65の胸ポケットに入れてとりあえず保管。そのまま冬が過ぎ春が来て露を経て夏を通り秋を超えて迎えた冬に取りだした時にいったいどうなっているのか興味津々恐怖悶々。

 そして最も巨大なスクリーンで見た「東のエデン劇場版1」はやっぱりナンバー6のセレソンのJuizが最高だった。持つならやっぱりこのコンシェルジュだよなあ。あと黒羽さんはやっぱりムチムチ。触りたいけど触ったら刈られちゃうから自重。刈られるほどの物は持ち合わせていないっちゃーいないんだけど。むしろ憐れまれるくらいの。嗚呼。それにしてもJuizってあんな形をしていたのか。けどスタンドアローンじゃあないよなあ、だったら他のセレソンのコンシェルジュが何をやったかは分からないからきっと繋がっていたんだろう。ってことはどこかにバックアップがあっても不思議はない訳であくまで一時的な途絶と考える方が良いのかどうなのか。それとも物部が裏で動いて潰した挙げ句の最後の1手だったのか。そういった説明をすっ飛ばしてるからどこかに甘さが見えると言われてしまうのかも。

 とりあえず滝沢が復活してそして最後の決戦へと至る後編は構想が膨らんだとかで春に公開が延期。まあその方が1月2月にも上映を続けて稼げるから逆に良いのかな、それとも熱気が削がれて逆に客足が落ちて忘れ去られてしまうのかな。今のこの食いかれっぷりからすれば人気はこれからもムクムクと上がって春には良い感じに煮えるだろうからやっぱりしばらくの間を奥のは悪くない。何ヶ月か空いたって「空の境界」にはちゃんと毎回客が来たし。ああでも1館2館のレベルでやるのと全国ロードショー規模で延期をさせるのとでは動くお金も違うか。小屋だて抑えなきゃいけなかった訳で、煽りで3月の公開規模が縮小したら元も子もない。どうなっているのかなあ。後半戦に向けて監督に話とか聞いてみたいなあ。弱小メディアはお呼びじゃなくても潜り込んでみたいなあ。

 神保町あたりで仕事をしようと思ったものの微妙に熱っぽく咳もあってヤバい雰囲気が見えたんで遠慮して秋葉原へと出て壊れたオーディオテクニカのイヤホンの代わりになる奴を捜したけれども情報不足で選べず見て回るだけにする。とりあえずゼンハイザーのCX400あたりを候補に入れてみたけれどもどんなだろう。でもってK−BOOKSで残り2冊くらいに山が減ってた新井円侍さんって新人による「シュガーダーク」(角川スニーカー文庫)を買って読んだ感想は……序章っぽい。あるいは角川スニーカー大賞への応募時点で、こ1本でホラー風味にまとめてあったものを折角の久々の大賞なんだから、シリーズにしていこうとしていろいろいじったとか。

 とある国。塹壕掘りの兵士だった主人公は冤罪でつかまり囚人となって墓地へと送り込まれて墓穴掘りの仕事を命じられる。そして埋めるのは人間ではなく謎の怪物。人間を脅かしていた闇の存在で、それを倒していたのは墓地で出会った意外な人物だった……という話なんだけれども怪物がもはや人間にとって恐怖でないならなぜ戦い倒すのか。金になるとはいうけれどいったいどこをどうすれば金に換わるのか。ただ埋めるだけじゃないか。賞金が出るならそれは脅威でなければいけないのにもはや脅威になっていないならいったい誰が何のために金を出しているのか。いろいろと考えると分からないところが幾つか出てくる。

 明るさばかりが目立つライトノベルにあって、ダークさの中にホラー風味も混ぜた全体のトーンは悪くないし、宿命を背負わされた少女と運命をねじ曲げられた少年が、2人して頸城から脱しようとしてあがくストーリーも良い感じ。けど根本となる部分において分からないといところがあってちょっと判断を迷いそう。シリーズ化にあたっていろいろとオミットして後に回したところがあるのだとしたら、それはそれで今後に引き付けるという意味で正解ではあるし、つかみそこねてしまうという意味で悩ましいところでもある。とりあえずこれを序章としてつかんだ読者を話さないよう、立て続けに続きを出して畳みかけていく必要がありそう。頑張ろう作者。

 本の間に挟まっていたチラシに元長柾木さんの本が、スニーカー文庫じゃなくって角川文庫から出ているって情報が載っていたのを見て、まじまじと眺めたら「全死大全」ってタイトルだった。なあんだ飛鳥井全死シリーズの新刊かあ、と思ったら違って「飛鳥井全死は間違えない」の加筆修正版だった。なあんだ。まあでも単純な出し直しって訳でもなさそうなんで、昔読んで忘れてしまっているところなんかを思い出しつつ読んで行こう。あとは「ぱにぽに」の最新刊なんか。全編通じてベッキー探索の多次元設定ストーリー。ギャグの不条理さが設定の不可解さへとステップアップしているんでここで改めて振り落とされる人とか出そう。でもそういう甘い人はとっくに振り落とされているか。なら安心。ベッキーは別にイボンヌにはならずちゃんと戻って参りました。次はもっとお気楽極楽に。

 柏レイソルまでもが落ちて千葉よりJ1のチームが消えてしまった。千葉県サッカー協会に責任がある訳じゃあないけどでも、やっぱり体面は悪いよなあ。サッカーどころを標榜している癖に。しかし日立に古河電工と老舗企業のチームのまとめての脱落ってのは何だろう、どこかに旧態依然とした体質がクラブに漂って何かをスポイルしているってことなのか。でも日立は前にも落ちてた訳だし2度目はそういう言い訳もきかないはず。いやいや失敗しても取り繕うだけで根本を変えないのがまた大企業病って奴なのか。せめて1度で復活して後は強豪を保っている丸の内御三家の1画、浦和レッドダイヤモンズを見習いたい。

 あとはやっぱりKAPPAのユニフォームからの脱却も、ってそれはジェフ千葉についてだけれども前に東京ヴェルディが落ちコンサドーレ札幌が落ちた時にKAPPAはヤバいと気づくべきだったのかもしれない。デザインは最高だし素材だって悪いって訳じゃないんだろうけどでも、世界で見渡して強豪クラブが着ていないってことには何かしらの理由があったと考えるのが筋なんじゃないのかなあ、河童の呪いとか。真面目にかんがえるならやっぱりKAPPAってオーセンティックのものでもどこか重そう。どんどんと軽く優しくなっているナイキにアディダスと比べると、世界規模じゃない分開発に遅れが出てそれが選手のパフォーマンスを縛っているとか。単純にPR費がかけられない分強豪チームに着てもらえず、結果として弱いチームしか着ていないように見えてしまうってことなのかもしれないけれども、やっぱりここはどうにかして改めて、せめて前の美津濃なり、世界標準の御三家ナイキアディダスプーマ辺りを引っ張ってきて欲しいなあ。でも背中バッテンは勘弁な。


【11月27日】 「機動戦士ガンダム」が30周年で「SFマガジン」が50周年という、その間に飛び出してはSFとサブカルチャーを結節させた偉大な漫画家の萩尾望都さんが、でびゅーから40周年という節目を迎えて池袋のパルコで「萩尾望都原画展」を開催。これが初の原画展だなんてちょっと驚きだけれど知る人ぞ知る人気漫画家ではあっても、テレビアニメ化とかされた訳でもなければ映画になって大ベストセラーになった訳でもないから周囲に知っているかと聞いても知っている人は皆無。「ベルサイユのばら」の池田理代子さんのように社会現象まで引き起こした人とは一般性において差があって仕方がない。

 とはいえ漫画の世界においてその影響力は多大にして甚大。大勢のファンが業界にはいて後を襲ったり研究から批評の世界なり同人の世界へと進んだりして業界の中に地歩を得て、一大勢力となっていたりする。耽美な世界もSF的なドラマもみんな萩尾さんから教わった。モダンバレエの世界もそうだし「残酷な神が支配する」のようなドメスティックバイオレンスの世界も萩尾さんの漫画が理解を拡げて問題として提起した。そんな偉大な漫画家の記念すべき年に何も行われないなんて勿体ないって思っていたけど、こうして展覧会が開かれることになってちょっと安心。できれば30周年の時のようにCD−ROM画集のような大事業をやって欲しかったけど。まあ良いや。でもあのCD−ROMはちょっと復刻して欲しい気が。今のウィンドウズだと開かないんだよ、あのCD−ROM。

 そんな展覧会では春に萩尾さんの「トーマの心臓」と「訪問者」を舞台化する劇団スタジオライフの面々もやって来て日々におもてなししてくれるそう。ってことはライファーもやって来て相当な混雑も予想されそう。舞台については「マージナル」は見たけど肝腎の「トーマ」とそして「訪問者」は未見。これを機会にまずは見ると決めつつ。その前に劇団の関連品も置かれた展覧会へと足を運んで生スタジオライフを間近にしつつ画業を堪能しつつ、どっさりおかれるだろうグッズを買い占めモトラーな気分を満喫しよう。復刻本とかあるのかな。あるっぽいから期待だ。

 「思想地図vol.4」(NHK出版)を買って読む。とりあえずやっぱりアニメ対談から読んでみる。というかまだそれしか読んでないけどとりあえず思ったこと。「サマーウォーズ」ってそんなにダメだったかなあ。僕は細田守監督の作品ではむしろ「時をかける少女」より好きなんだよなあ。リアルに描かれた田舎の風景だからこそ、田舎の大家族に妙なリアリティが漂って、田舎育ちの経験なんかも重なって、そんな奴らが繰り広げる大家族的なドタバタぶりが、そうそう田舎ってそうなんだよなあって感じさせてくれるし、そうやって身に迫ったところから、バーチャルワールドという舞台を介して世界を脅かす存在と向き合う羽目になってしまったというギャップが、妙な可笑しさって奴を浮かび上がらせていると思うのだ。

 そんなのあり得ないって否定も分からないでもないけれど、そういのだってあるかもしれないし、あったら何か愉快じゃない? って肯定だって十分に出来る。それなら肯定を選んだ方が楽しいじゃないかってのがスタンス。悪い奴がいないっていうけど悪い奴なんて見渡してどこにもいないのに、世の中はどうにもならないっていうのが今の世の中。だからこそ個々人が悪い奴探しをして見あたらない隘路へと入りこんで沈むより、より良い方向へと持っていこうと誰もが思うことによって、世界を前へと動かす力を得るんだっていう、そんなパワーの嬉しさを教えてくれる作品って言えば言えるんじゃないのかなあ、「サマーウォーズ」って。

 「けいおん」が何か究極の近景めいて扱われているけど、見ていた限りで10数話って尺の中で、出会って音楽に興味を持ってのめり込んで反発もしつつそれでもちゃんと前へと進む女の子たちの学校生活が、季節と共に流れる時間の中で丹念に描いてあったんじゃないかと思うのだ。つまりはちゃんと物語はあった。「あずまんが大王」だってああ見えてちゃんと時間が過ぎていて物語があったように、「けいおん」にだって物語はあった。決して戯れだけでもネタだけでもなかったのに、そう思いたい人がそう思いこんでそう思うと思いをひけらかす材料に、されてしまっているのは何かもの悲しい。

 空も飛ばないし時間も超えないけれど、人の心の機微はある。それでも十分。そういうものだってあって良いのに、そうじゃないものを期待するなら、そうじゃないものはこういうものだと示して欲しい。それは批評家の仕事じゃないっていうならごもっとも。でもないない尽くしのないものねだりばっかりしてたって、世界は変わらない。そうしたくないって実作者の山本寛さんはがんばって、どうにかしたいと喋っているし、見たいアニメが見られる環境作りのために言葉で支えてきた氷川竜介さんも、どうにかしたいと話している。

 シェフさながらのクリエイトしたい志向がそこにあるんだけれど、そうした志向とは真逆の、既にクリエイトされたものを味わい噛みしめしゃぶりつくすグルメな志向が一方にあって、対峙している対談になっているからどこかかみ合わせが巧くない。どちらも必要なスタンスではあても、争うスタンスじゃないものを並べればそりゃあ起こって当然の自家中毒。何とも悩ましいけれどもこうやってぶつけ合うことによって、そこにひとつの起点は生まれ得る。互いに不満を示し合うことで新たな駆動力が生まれて来ると、信じてことはページを閉じよう。全部ちゃんとその場で紡がれた言葉なのかにちょっと興味。

 いよいよに迫った「東のエデン」の公開に向けて“聖地”ともいえるユナイテッドシネマ豊洲での初回のチケットをとりあえず確保。本当はやっぱり夜に見るのがデフォルトなんだけれども夜に誰もいない劇場で1人で見るのが咲ちゃん的だとするならそれは不可能。まあ気分だけならレイトショーでも味わえるとして、その前にやっぱりファンとして見ておく必要があるってことで見られるうちに見ておくことにした次第。当然にしてM−65を着てブーツを履いていくけれども、そんな格好で1人うろたえている女の子に近づいていって後ろから「なーにしてんの?」って聞いたらやっぱり引かれるかなあ、惹かれられる方が良いんだけどなあ、無理かやっぱり不惑を超えた疲れ面では。ぐすん。


【11月26日】 年間SFベストとかゼロ年代のSFベストなんかを考え「機動戦士ガンダム」の新作「機動戦士ガンダムUC」は入るかどうかと悩んだものの読み切ってないから今回はパス。というかお話的にどうなっていたんだろう。アニメーションが始まるんでそっちで理解するのが手っ取り早そうなんで、まずは見てそれで気に入ったら本も買おう。そんな感じに映像化の進行と同時に売れて映像化後も定番として残りそうな「ガンダムUC」はもしかしたら「ローレライ」とか「イージス」なんかよりも福井晴敏さんにとって売れる作品になっているのかも。

 普通にはなかなか小説が売れない昨今。かといってメディアミックスを狙って映画化したって盛り上がりは劇場公開前の一瞬で、半年も立てば見向きもされなくなってしまうのが今時の小説事情って奴だ。それならば長い時間が経っても読んでもらえるよう、定番になる作品を持てば良いって意図も持って、30年が経ってもしっかりと人気を保っている「ガンダム」を題材に小説を書いたって、前に聞いた理由のひとつもなるほど納得できる。これを見て他の大家も「ガンダム」小説を書き始めたら面白いのに。内田康夫さんは「ア・バオア・クー殺人事件」で赤川次郎さんは「三毛猫ガンダム」とか。面白いかどうかは知らないけど。

 本編では割にするりと描かれていた感じもあった西荻早苗と磯山香織の最初の出会いに高校へと進学してからの再会が、みっちりとした感じで描かれている感じの漫画版「武士道シックスティーン」(講談社)。言葉だけならゆらりふらりと綴れば済む早苗の不思議な剣道の動きに、強い強いと書けば語れる香織の剛剣だけれど、絵にするといったいどういう動きだったから早苗は香織から市民大会で面を1本取れたのか、ってところを絵で描いて見せなきゃいけないから大変そう。それを漫画の安藤慈朗さんは、正しい姿勢と丹念にあ動きの積み重ねによって見せてくれているからそうか、だから早苗は香織に勝てたのかって感じられる。

 そんな香織が早苗と進学した高校で再会した時に見せる教室試合。これって原作にあったっけって頭がすでに忘却モードに入っているけど、それだけの悔しさと憤りがあったんだって分かって、漫画から読む人でも香織ってキャラクターの眼鏡っ娘っぽいビジュアルとは正反対の、勇猛さ猛々しさって奴を感じられそう。それにしても竹刀袋に般若や白蛇を刺繍する香織ってなかなかの無双ぶり。小説の印象だとそうやって強さを外にひけらかすような雰囲気じゃなかったんだけど、そこは漫画なんで絵として情報を重ねてキャラクターを造形する上で、般若と白蛇の強いビジュアルは意味があるってことだったんだろう。

 1巻では部活初日の戦いで終わって次からいよいよ本格的な早苗と香織のバトルが始まりそう。最初の強さが途中で思い悩みから引っ込む早苗が、最後に再び強さを見せられるようになるという、その積み重ねの日々がどう描かれるのかに興味。というか「武士道エイティーン」まで続けるのかなあ。「シックスティーン」だけでも十分だけれどここはお一つ。北野きぃさんと成海璃子さんが剣を交える実写版の公開も待ち遠しいなあ。んでどっちが早苗でどっちが香織なんだっけ?

 女装男子と男装女子の漫画のどっちが面白いかというとどっちも面白くって嬉しい新刊のオンパレード。まずは森繁さんではないもりしげさん「フダンシズム −腐男子主義−4」(スクウェア・エニックス)は賢帝祭が始まって、数はパーフェクトプリンセスはクラスの手伝いもしなきゃいけないけれどもアマネになって小西望と会わなきゃいけなくってどうするかを悩んで着ぐるみに入って呼び込みをしているように見せかけて、中を姉と代わってもらって自分はアマネに女装し校内へとゴー。そこに現れた美少女は何と……って驚きもあってアマネより凄いぞ松本阡里ってしばし喝采。でもってのぞみんとは出会えず六徳さんとは会えたりしつつ戻って仕事もこなすというパーフェクトプリンスぶりを見せる数に幸せは訪れるのか。アマネじゃなくって別の誰かになっても数はなかなかだと判明。姉なのに負けてる環依はちょっと悲しいと思うよ。

 一方の男装女子がわんさかと登場なのが小池田マヤさん「私立男装学園1」(講談社)。病気の母親の入院費用を稼ぐべく、朝比奈光少年が雇われたのが全寮制の学校への入学。行くとダンディな校長が出迎えてくれたけれども彼は女子高出身だったはずの母親の同級生だと自己紹介。そりゃどういうことだ、って聞いてびっくり。そこは女子高なんだけれども名門の出の女子たるもの、人の上に立つならばやはり男らしさも知っておかなければならぬと男装を義務づけられているという。とはいえ女子ばかりではどこかに緩みも出る。ならば本当は男の光に模範男装女子として本当の男らしさを見せてmらおうと考えた。そうして入学した学校は、見栄えも麗しい男装女子がいっぱいで、虚弱な光は男装女子よりも女子っぽいと可愛がられるようになってしまう。ああ本末転倒。

 分厚い胸板というより大きな胸をさらしで押さえつつ、それでも残る弾力に頭引き寄せられる幸運もあれば寮で同じ部屋になった同級生がシャワーを浴びて出てきたそのまんまの姿を間近に見て、美少年ぶりからすると意外な胸の大きさにドギマギしたりする幸運もあったりと、羨ましすぎる光の生活ぶりに嫉妬の炎がメラメラ。いつかバレで酷い目に会えば良いとすら思えてくるけれども、病弱な母を支える健気さにほだされる人もいたりするように今しばらくはそのまま男装女子として振る舞ってもらい、彼の目を通してっ女の子たちの男装から漏れ出る女っぷりって奴を楽しませて頂こう、って狙いはやっぱりそこか。快活そうな書記長がスクール水着ではとてつもなくグラマラスなように、壮観な生徒会長が女性に戻るとどんな感じになるのかに興味津々。

 毎日新聞が共同通信に再加盟という報がいよいよ正式発表となって、全国紙による覇権争いからひとつが脱落して新聞業界に戦後でも最大規模の転機が来たって感じさせてくれたけれども考えようによってはそうやって脱落することによって、毎日新聞には地方や海外に置いておかなければいけなかったリソースを集約しつつ不要な分をカットできる余裕が生まれたってことで、質においてたとえば東北での丹念な密着取材による遺跡偽造の暴露といった地方初のニュースが減ってしまうようなことさえ避けられれば、まだまだ戦っていけるだろう。問題は既にして共同に加盟していることを利用しこの苦境下に地方からの要員を引き上げてしまった新聞に、打てる次の一手がなかなか見えづらいってことで毎日が追い込まれた瀬戸際のさらに向こう側、ほとんど中空へと脚を踏み出してしまった状況でいったい何が起こるのか、ってあたりに業界の注目も向かいそう。まあ他人事だけど。


【11月25日】 「BLEACH」の斬魄刀みたく「機動戦士ガンダム」でアムロとかシャアが乗るモビルスーツが擬人化して反乱を起こしたらどんな姿になったのかを考えたけれども刀だからこそ擬人化すると面白いんであって人型のモビルスーツが擬人化したところであんまり楽しい姿にはなりそうもないから止めにする。アッガイはチョン・テセにしからなないしなあ。そんな「BLEACH」は斬魄刀の擬人化が実は村正の戦略でもフェイクで本当は総隊長の力を奪うことだったと判明。でもって見捨てられた斬魄刀たちは梯子を外され宙ぶらりん。敗れて改心したんじゃないのにそれで元の鞘に収まれるのかねえ。謎。まあこれはこれで面白いからしばらく続いてくれても良いや。つか連載はどこまで行ったんだ。

 どうでもいい。という割には見てしまう。でもって見終わってどうでもいいと思ってしまう悪循環というか、裏返しの好循環が続く「キディ・ガーランド」。もはや何がしたいのかまるで分からない中を、アスクールとクフィーユとディアがギャグをかましスベって転んでひっくり返る様をげへげへと楽しんで頭を空っぽにしてしまうのがあるいは正しい見方というか、他の見方なんで出来やしないっていうか。局長室でイヴェールとゾマが何かやっている様を見て何をやっているのかあからさまなのにそれをそうじゃないって言い訳して信じるアスクールとクフィーユのうぶさ加減がたまらないというかそんな訳あるかっていつか。でもって見つかった時のイヴェール局長の目玉がまんまるで漫画みたいというかテレビ漫画じゃないかっていうか。何を言っても誉めてないけどその割には毎回確実に見ているってことはつまりやっぱり面白いっていうか。ともあれ不思議なアニメです。

 おおスぺースオペラ。王道にスペースオペラ。ひかわ玲子さんの「流星のレクイエム1 コスモホッケー・イレブン!」(朝日ノベルズ)は宇宙を舞台に星間戦争が繰り広げられる中で、敵味方に別れたっぽい若者達の相克って奴がこれから描かれていきそう。その前段として彼ら彼女たちがまだ学生の時に出会い、コスモホッケーって無重力下で行われるチームで仲間となって切磋琢磨していくエピソードがあって、それがじわじわと進展していく一方で、何年後かの物語視点では現在へと戻って進行している連邦と帝国といった感じに別れ間に財閥なんかもあったりする政治的な状況下で、人々が己の名誉とそして愛しい人たちを守るために戦う姿が描かれていく。

 スポーツは人の垣根をとっぱらい、相互の理解をもたらすけれども戦争という現実の前にとっぱらわれた垣根なんていとも簡単に蹂躙され、理解も踏みつぶされてしまう残酷さが胸に刺さる。けれども一方にはスポーツを通じて得られた関係は厳然としてあって、いつかはそれが物を言う時が来るかもしれないと考えると、兄にスポーツなんぞはと切って捨てられない。現実にも当てはまりそうな問題を壮大な宇宙に移して描いたスポーツスペースペラ、開幕!

 西新宿で仕事したあとで渋谷へと回ってパルコで始まった「SFマガジン50周年アニバーサリーイベント」を見物に行く。さぞや無量大数のSFファンでごった返しているかと思ったら人っ子ひとり見えなかったのはきっとみんな透明人間化していたか縮体になって目では見えなくなっていたか未来へとタイムスリップして最終日に大集合して大騒ぎしてたかに違いなく、そんな騒ぎに乗り遅れた感もあったけれども所詮は作家でもなければ画家でもないただの書評屋。SFな仲間に混じれるはずもないんで脇から眺めてSFな団結に沸く面々を指をくわえて眺めるような気分でひとり粛々と展示をながめ、グッズを見渡してSFな気分に浸る。「SFマガジン」で8年仕事してたってSFの人にはほとんど知られてないみたいなんだよなあ、自分。まあ良いけど。

 んでせっかくだからとグッズを買おうと思ったけれどもうーん。「IラブSF」ってTシャツはなるほど雰囲気はあるけれども「SFマガジン」の表紙が切り張りされたハートの部分がちょっと小さくってあんまり嬉しくない。かといって「SF50」ってTシャツは知っている人が見ればそれが「SFマガジン」の50周年だと分かるけれども知らない人にはSFが50冊? サンフランシスコが50日? 等々の疑念が沸いてすんなりとは通じなさそう。ちょっと買うのに躊躇ってしまう。

 見た目の良さとデザインが持つ意味性では人の顔のシルエット状に「SFマガジン」の表紙を抜いて並べたTシャツが遠目にも見栄えがするし、近寄れば「SFマガジン」の表紙がいっぱい、しっかりと見られて面白い。とりわけ「地球物語」って今は幻のアニメーションが作られた当時に刊行された増刊で、天野喜孝さんがデザインしたキャラが描かれた表紙の本が中央に来ていたりするのがデザイン的にも麗しい。なのでそいつとそれから「IラブSF」の缶バッヂを買ったけれども、心底からSFを愛していれば見栄えがどうとかは気にならないはずで、それらのにデザインに流された自分のSFへの愛の薄さなんかを一方に感じてちょっぴり立ちすくむ。ココはやっぱり真っ直ぐ「IラブSF」を買うべきだったかなあ。反省。明日買い直しに行くか。

 でもってさっそく帽子に「IラブSF」の缶バッジをつけて某所にいたら、SFが大好きで有名な美人声優の人、ってほかに誰もいないか、池澤春菜さんがそれはどこにいけば買えるものなのかと尋ねてこられたので、これはパルコに行けば買えるのですと答えつつ、SFを愛していて良かったと内心で小躍りする。もしもただの「IラブNY」だったら、池澤さんにお声掛けを頂くなんてことはなかっただろうから。SFはニューヨークよりも魅力的に見えるらしい。とある趣味志向の人々には。どうせだったらその場でむしって差し出せたら、晴れて騎士にジョブチェンジ出来たかもしれないけれども、妙齢の婦女子と喋る機会なんざあ皆無の人間にそんな颯爽とした振る舞いが出来るはずもなく後になって後悔。そうこうしているうちにきっと誰かがパルコへと走り、バッジを買い占め手のひらにいっぱいのSF愛を届けて、池澤さんの歓心を買うに違いない。悔しいなあ。これがだから運命って奴なんだろう。悲しいなあ。


【11月24日】 見かけた「セブン−イレブン」でしつこく「機動戦士ガンダム」の1番くじを引いたら、最初の店ではアッガイの貯金箱とガンダムハンマーのボールペンが当たる。ここまで6枚引いてまるで重なっていない強運。これならばと帰りがけに前にハロの巨大なぬいぐるみが当たった店で、今度はミニチュアの立像か頭部を模した貯金箱を当てるぞと2枚ひいたらまたしてもハロのぬいぐるみが当たってしまった。なんという不運。いや強運? ちょっと分からない。ちなみにもう1つはハロの貯金箱。ハロづくし。それにしても巨大すぎるぞ縫いぐるみ。お手玉にするにも腕が付かれる。かといってサッカーには使えない。どうしよう。

 ついでに144種類とか何種類とか絵柄があるらしいチロルチョコも、絵柄をより分けて幾つか購入。やっぱり選んじゃうよなあ、女性キャラの映っている奴。あるいはミライさんのブラが垂れ下がっている絵柄とか。キシリア・ザビのセリフ入りのがあってカッコで年齢が24歳とかってなっていて、どうしたものかと頭を抱える。啖呵の切り方とか、「ブラックラグーン」のバラライカと変わらないんじゃないかって雰囲気があるもんなあ。んでバラライカて何歳だ? 30代か。40代に入っているのか。

 ちなみにギレンは30代半ばでドズルは28歳。これも不思議といえば不思議だけれど、ああいう28歳って柔道選手とかにいないでもないからそれほどおかしくはないか。ジオンのは普通のチョコで中にグミ、連邦はホワイトチョコで中にナッツかスナックって感じ? 値段は32円で絵も楽しめて美味しいのが嬉しい。また買おう、セイラさんとかあったら。

 案外といっては失礼だけれど、人間不信で引きこもりになった少年が、ミネラルウォーターの補給に外へと出た時に出会った不思議に引っ張り出されてドタバタの中に社会復帰していくって展開の、どこかありきたり感から軽く読んでいた大楽絢太さん「テツワンレイダー1」(富士見ファンタジア文庫)が、予想を上回って面白い上に世界の置かれている状況なんってものが多層世界的な観点からも描かれていて、結構な奥深さでもって楽しませてくれそう。舞台はログレスって国で、傭兵を育成する学校があってそこに通っていたグレン・ユークという少年が、自分を捨てた親が実は貴族だと分かって予想外の遺産を受け取るけれど、それを狙って養父や同級生らが迫ってきた、と感じて人間不信に陥り遺産はほとんど寄付してしまい、自分は学校も辞めて引きこもってしまう。

 そんなグレンに転機。ミネラルウォーターを買い出しに行った先で、同級生だった少女と出会い引っ張られ入った人形店で不思議な人形と巡り会い、そのまま外の世界へと出る権利を争う「剣精試練」なる戦いに引っ張り込まれる羽目となる。もっとも、よくある命をかけた血で血を争うバトルロイヤルって感じではなく、50人がまずはゴールを競いあって25人が次ぎに進むというゲーム調。その次も戦いこそあるものの、相手の剣を折れば終わりという試合に近い形式で、傭兵学校時代にはそれなりに知られた腕前だったグレンは、楽々と勝ち上がって行く。

 「七人の武器屋」にも通じる軽妙さで進んでいく物語。ところが、、これまでいっしょに戦っていた傭兵出身の強豪が、ある事件をきっかけに暴走するって展開へと至ってグレンに決断を迫り、物語を一気にシリアスな方面へと引っ張っていく。外へと出る権利、ってところが引っかかるけれども、それは世界が白い霧の壁ならぬ「黒のオーロラ」によって別の世界と断絶されてしまっているから。ある意味で瀬尾つかささん「円環のパラダイム」にも重なるシチュエーションが提示されているけれど、そこに血で血を争う戦いを持ち込んだ瀬尾さんとは違い、とりあえず平穏に暮らしているそれぞれに国にあって、冒険を夢みる人たちだけが外を目指すような壁として設定されている。

 もっとも、そーした「黒のオーロラ」に分断された国々が、争うようにし向けられるに至って世界を高みから見る存在なんかも提示され、宇宙規模で何が起こっているのかって興味を誘われる。何が起こっているのかな。人間に勝ち目はあるのかな。そんな大状況をつるりと見せつつ、キャラたちは軽口を叩きつつ過去の因縁をぶつけあいつつ、総体的には和気藹々としていたりする描写に、瀬尾さんの徹底したシリアスとは違った、ライトノベルならではのコミカルさがあって楽しめる。このままヘラヘラと突っ走っていって欲しいけど、そんな合間にも残酷な展開も混ざったりしているから、突然にしてシリアスに覆われたりする可能性もあったりしそう。覚悟しつつ期待しつつ、続きを待とう。

 普通に現代がテロ物ハードボイルド物かと思ったら、ポリティカルにテクニカルなSFだった瑞智士記さんの「バトルフィールド・ラバーズ」(徳間書店)。中学時代に音楽室でピアノを弾いている姿を見かけたことから友人になった神楽椋と、同じ高校に通うようになっていた柴門鴫だったけれど、そんな生活が突然に起こった事件で一変する。市庁舎が爆破された事件に巻き込まれたかに見えて無事だった椋。ところが、そんな椋の家が燃えて2人の焼死体が発見される。椋とその姉? と心配した鴫にやがて違って両親だったという情報が伝わるものの、だったら椋とその姉はどこに行ったのか、ってところで鴫に何者かの手が迫り始める。

 世界を脅かすテロリストの存在と、椋が頭の手術によって失った2年分の記憶との関係。そこに繋がりが生まれた時、椋はあちら側の世界へと赴き、こちら側に留まった鴫との間に銃弾が飛び交い、流れ出す血の匂いが漂う。戦いの可能性とテクノロジーの将来性を見せてくれるストーリー。油断のならない戦いのプロフェッショナルたちの立ち居振る舞いがなかなかにスリリング。銃器についても細々とはせず、冒頭の口絵に従って描かれ提示されるから、戻って確かめられるのが有り難い。北欧系美少女と書かれた隼蘭とやらは果たして完全に正義に転んでいるんだろうか、それともどこかに尻尾を引きずっているんだろうか。鴫は椋を相手に自分の正義を貫けるのか。いろいろと興味を誘ってくれる。これも期待して続きを待とう。


【11月23日】 既にCMなんかにも顔を出して、弟を相手に無双な喋りを見せてくれているし、スキマスイッチが唄うオープニングでは、サビの良いところで何パターンも恰好良いポーズを決めていたりして、もはや主役のエルリック兄弟を超えた存在感を示しているオリヴィエ・ミラ・アームストロング少将が本編にも登場した「鋼の錬金術師」。序盤のどこかで見たような感じが、まるで嘘だったように面白さを増して来てはいたけれど、漫画でもここを境にするような感じで話が一気に真相へと迫り、新たなホムンクルスの存在も明かとなってスペクタクルな様相を呈していっただけに、これからも毎週を楽しみにして見られそう。対して「クロス・ゲーム」はちょい中だるみ。ラブコメはあって良いんだけれどもスポーツがないとやっぱり締まらないんだよなあ、あだち充さんの漫画って。意固地になって野球部にいる青葉の疾走に期待。

 でもって夜中にかけてNHKスペシャルで中国映画界の大特集。あれだけの人間をエキストラで集め、あれだけのセットを大がかりに組み、あれだけの規模でもって公開しても、そこには13億人は大げさとしても数億人規模の映画人口があって、しっかりマーケットがついてくる映画を相手に、せいぜいが日本の100万人くらいを見込んで作られる日本映画がかなうハズもないよなあ、ってことをまざまざと見せつけられる。いくらハリウッド業界の賞で外国語映画賞を受賞したって、それはいわば棚上げの賞。本気で作品賞にタメを張ったもんじゃないのに大騒ぎして浮かれている間に、中国はハリウッドなんて飛び越えアメリカのマーケットなんて脇においやり、アジアの数億10数億のの市場に向けて着々と布石を打っている。そしてハリウッドへと環流すらしている。

 国まで本気になって映画を盛り上げようってしているんだから何ともはや。広大な敷地に最新設備を備えたスタジオをぼこぼこ作って、世界中から撮影の案件を引き寄せている。なるほど香港に残って撮り続ける「新宿インシデント」のリー・トンシン監督が言うように、エロスとバイオレンスとそして中国のイメージダウンにつながるような映画は撮れず、市場からはじき出されてしまうかもしれないけれど、そんな規制だってすべてがシュガーな中に収まりマーケティングのふるいにかけられた、毒にも薬にもならない今時のハリウッド映画とどれだけ大差があるんだろうか。まずは存在感を得ることで次に規制を押し広げる戦い方もあったりすると思えば、今を雌伏し中国で撮り続けるピーター・チャン監督のような態度も悪いものではない。

 そうやって本土を席巻し、アジアを席巻して世界を中国の映画で席巻する。10年20年どころか50年の体計でもって動くあの国に対して日本は何もやれていない。やろうともしない。戦う武器に現時点で最大限になり得ているアニメーションだって、国が何かをしようとする風でもない。むしろ逆にあれやこれや縛って叩いて締め出す格好。いずれ中国が膨大な資金を投入して日本のアニメ業界を根こそぎ買ってしまったら。漫画業界を傘下におさめてしまったら。規制がかかりスポイルされる恐れもないでもないけど、そこがキモだと向こうも感じて鷹揚に構えて作品を作らせ、日本の数百万なんかではなく、アジアの数億を相手に商売し始めた暁に、日本にいったい何が残るのか。うーん。しばらく前に上海とかの雑誌の動向を見て、講談社の太田克史編集長が喋っていたことがどんどん現実味を帯びてきたなあ。でもってそれに未だどこも対策を打てずにいたりする。コンテンツ立国の看板。下ろす時も近いかもしれないなあ。

 まあそれでも今はやっぱりアニメな日本、ってことであちらこちらに評判も立ち始めた「マイマイ新子と千年の魔法」サウンドトラックを手がけた村井清秀さんとMinako“mooki”Obataさんがそろって登場するイベントを見物にタワーレコード渋谷店まで足を向けると、ビートルズBOXがステレオもアナログも山積みだった。なんだったんだあの売り切れ騒動は。値段も海外版とはいえ1万円とかさっ引かれていたりするのを見ると、ちょっと待てば良かったかもとやや後悔。でもまあああいうのはイベントに乗るから買えるんであって、今だから安いからって買えるもんじゃあありません。半額とかになれば別だけど。ってことで半額になっていた「鉄人28号 白昼の斬月」のDVD&リボルテック鉄人セットを購入。嫌いじゃないんだこのアニメ。でもあんまり売れなかったよなあ。勿体ないよなあ。「機動戦士ガンダム」からも「機動戦士ガンダム00」の主題歌集が出ていたけれども2割引ではちょっと。もう一声。

 さても始まったイベントはmookiさんの一人アカペラで幕をあけ、ピアノの村井さんも招き入れてトークセッション。それからピアノのソロがあって最後にカーペンターズのsingを歌って締めという、前に六本木のミッドタウン東京で見た時よりも濃くて充実した内容になっていた。singなんて誰が歌っていても素晴らしい歌を、ジャズの歌唱で歌ってくれてやっぱり素晴らしい曲だと感嘆。でもってカレン・カーペンターって偉大なシンガーだったんだと冥福。すでにサントラのCDは持っているのでサイン会とかはパス。山口から来ていた2人は映画を見に来たのかそれとも何か縁の人か。観客もそれなりに入って徐々に知られ始めているようで、この波が一気に盛り上がって映画への動員につながるといいなと期待。

 「琥珀の心臓」の頃から、世界の設定に厳格さを持ち込み生きる厳しさって奴をこれでもかって叩き込んでくれて来た瀬尾つかささんが、あの原作をよくぞここまでって気合いで描いた「宇宙をかける少女」のノベライズに続き、一迅社から初のオリジナルとして「円環のパラダイム」(一迅社文庫)を刊行。これがまた「琥珀の心臓」に輪を掛けてシリアスな世界設定で、生きることって奴の大変さ、宇宙は決して慈愛になんか満ちていないって可能性をこれでもかって叩き込まれる。

 いきなり地表が無数の欠片(ピース)に引き裂かれ、白い霧の壁みたいなもので区切られ人間は向こう側へといけなくなってしまって、限定された地域で生きていくより他になくなってしまった。それだけなら良かったけれども、ピースにはひとつづつ、ゲートなるものが存在してそれをくぐって異なる宇宙から、人間なんて目じゃない生命体が襲来するようになったから大変。人間の多くが命を失い、ゲートをくぐって逃げた先でもやっぱり命を蹂躙される繰り返し。そんな中にあって、とあるピースでは宇宙でも有力な円環族の庇護を受けられた人類が、どうにか生活を立て直して命脈を保っていた。

 未成年と共生しやすい特質があった円環族は、ピースにあった学校に通う生徒たちに寄生。力を得た生徒たちは主導権を握って大人も含めたその世界を束ねていた。異世界をどういう手段か生きのびてやって来た主人公の少年とその幼なじみの少女が身を寄せたそのピースでは、少年の知識と経験を生かしてゲートの向こう側へと調査に出向いてそこで人間を襲う巨大な蜂の存在を知る。とりあえず撃退して元のピースへと帰還する過程で、共生体を得た少女がリーダシップを発揮しようとするものの、平和な世界で得た経験も鍛えた能力もまるで役に立たないことを知り、鼻っ柱を折られる描写なんかが暮らしている世界の苛烈さって奴を改めて感じさせ、生きる大変さって奴を教える。そうやって帰還した平穏に見える「学校」のある世界ですら、狙われ襲われる危険な世界だったんだけど。

 ピースで起こる恐怖の出来事が、なんだかんだ言っても普通に生きていられる現実のとてつもない優しさというものを浮かび上がらせる。そんな世界に慣れきってしまっているが故に、与えられたちょっとばかりの力を過信してしまう人間の増長を叩き、権力に溺れようとする大人をけ散らし、本当に苛烈な世界で生きのびることの大変さというものを、あらゆる人間たちに突きつける。もはやどうにもならない状況に陥って、あとは滅びるばかりってな気もするけれども、とりあえずは主人公たちの秘めた力が守って救った模様。とはいえ万能ではない力が世界を守りきれる保証はなく、人類がかなわない相手が永劫の時を使って探し求めても、未だ辿り着けずにいるゴールに人類がたどり着けるとも思えない。

 ファーストコンタクトが優しさに溢れて描かれる傾向のライトノベルにあって、そうしたユルさをまるで廃して人間のひ弱さを叩きつけるストーリー。まるで未来の見えない息詰まる世界を、これからどう描いていくのか。果たして救いはもたらされるのか。それとも人類は滅びるより他にないのか。共生者の戦いを描いたハル・クレメントの「20億の針」に、クラーク「幼年期の終わり」のような超越者への挑戦が絡み多層的な世界の構造も乗っかって繰り広げられる驚愕のビジョンと残酷なメッセージ。ライトノベルファンもSFファンも瞠目せよ、そして堪能せよ。


【11月22日】 「機動戦士ガンダム」の1番くじを発売しているセブン−イレブンに対抗してファミリーマートあたりでも「劇場版マクロスF 虚空歌姫〜イツワリノウタヒメ〜」関連の商品を出すみたいだけれども近所のファミマにはまだ見えず。劇場の中でランカ・リーが言っているようにタイアップは一部の店に限定なのか。というかシェリルのリベンジライブがあるまでの数日間で納豆に人参にダルマゼミナールにファミリーマートとあんなにタイアップが取れるものなのか。だとしたらエルモって優秀な音楽プロデューサーってことになるよなあ。それともマクロスフロンティアの中って即断即決で事が進むようになっているとか。狭い街だし決めたら即ゴー、ってやっていかないと飽きられちゃうのかな。

 なんてことを思い出しつつ寝落ちしようとしたけど冴えたまんま「とある科学の超電磁砲」。佐天さんが暗黒面へと落ちていく……。でも能力ゼロでもあの学園都市ってずっと居続けられるものなのか。そういう選抜制ではないってことなのか。原作読み直すか。時間が出来たら。出来るかな。出来そうかも。でもってレベルアッパーのことが明るみに出て根元をつきとめようとしたものの、売ってる奴らがあまりに下衆で爆発してしまったレールガンの餌食となってそこでルートは断絶。そして捕まえたはずのレベルアップされた男も意識を失い昏睡へ。いったい何が起こっているのか、って登場したのが目の下に隈を作った白衣の女科学者、別名脱ぎ女。まあたぶんこいつが犯人なんだろうけれどもそうやってマッチポンプをする理由はいったいどこにあるのか。なんて想像よりも浮かぶ今度も脱いでくれるのかって期待。行くんだ一気に。美琴はだから部屋の温度を上げるんだ。あるいはスカートに珈琲でもぶちまけろ。

 妄想にさもしくなった頭を寝かしつけて目覚めて届いたX41のパワーアップキット(ただのメモリ)を受け取りその脚でフクダ電子アリーナへ。Jリーグで午後1時スタートなんて過去にあったかな。女子サッカーだとこれが標準なんだけれども普通に行って入れるなでそこリーグと違って自由席の奪取に行列ができるリーグだと、午前様も早々にフクアリにやって来た人もいそう。さぞや寒かったことだろう。っていうか普通に試合が始まってからも寒くて寒くて途中で引き上げてしまって、今期初のホームでの勝利を見逃してしまったよ。でもあんまり残念でもないよなあ。それは応援したいって気持ちが失われている訳ではなくってもはやここで勝利したところで遅すぎるし、来年にもつながしろうもないって感じてしまっているからか。

 遅すぎるってのはこの気迫とそしてこの布陣をどうして先週の天皇杯で見せなかったのか、ってこと。勝てば上へと進める試合をみすみす落としてブーイングを浴びた選手達だけれど、だからってもはや勝ってもどういもならない試合で奮起したってまるで意味をなさない。がんばったとかよくやったとか、浪花節じゃないんだから勝つべき試合で勝てないことをもっと突き詰めなくっちゃいけないのに、勝つとそういう教訓がすべて吹き飛んでしまいかねないからちょっと厄介。現実に前年の最終節での勝利を何かの天啓と感じてまるで動かなかった結果がこの惨状な訳だそ。終わり良くたってすべて良いなんてことはない。それを噛みしめないと来年も同じことを繰り返す。さてどうするか。どうにもできないか。

 いやいやだから今日の勝利はひとつの光明、というか可能性として味わい分析した上で来年に反映させる必要がありそう。アレックスはサイドバックの選手。前へとちゃんと意識を持ってオーバーラップもすれば戻って守備もする。なのに前へと滅多に出ない青木良太選手を使い続けた意図は何だったのか。結果、サイド攻撃がほぼ消えて破壊力が出せなかったことを振り返らなくっちゃいけない。サイドが上がれば全体も上がってゴール前に人が増えて攻撃の密度も増す。新井辰則選手のヘディングが決まったのも背後にネット・バイアーノ選手が控えてマークが分散してフリーになれたから。巻誠一郎選手が1人でトップで張ったって無理なんだよ。溜めを作れる選手がいてトップに張り出す選手がいて、サイドを押し上げる選手たちがいて最終ラインを堅持する選手がいる。それだけで良いのにそうしなかったのは何故なのか。うーん分からない。これこそ何かの陰謀が働いているに違いない。

 何より中盤が違ってた。工藤公平選手と中後選手がちゃんとバランス良く動いていた。2人とも下がり気味ではそこに穴があいて使われる、ってことをどうして今まで気づかなかった? 気づいていたならどうして手をうたなかった? そんな思いばっかりが浮かんで素直に喜べなかった試合。次節は都合で行けないため今年もここで打ち止めなんだけれども来年に来るフクアリはもうJ1ではないんだと思うと少し泣けてきた。その分新しいチームも見られるんだけれどでもやっぱり、トップ選手たちがやって来るスタジアムで力を測って行きたいよなあ。拍手してくれたFC東京のサポーターたちのためにも、1年で戻ってそこにFC東京のサポーターを招き入れるってのがやっぱり礼儀だよなあ。逆に向こうが落ちてきたら? そんな要素ないもんなあ。どうやったらああいうタレントが集まるチームに出来るんだろう? そこも考えて欲しいよなあ。

 前とどう印象が変わったかはよく分からないけどちょっぴりティラナがこぶりになってツンデレ分が消えてしまった感じもないでもない「ドラグネットミラージュ」改訂版こと賀東招二さん「コップクラフト DRAGNET MIRAGE RELODED」(ガガガ文庫)はストーリーについては前のまんまで、どこかにある異世界とのゲートが開いてしまい、そこからの文化や資源なんかが流入しはじめた地球のゲートともっとも近い場所にある島で、刑事をしているケイ・マトバを主人公にしたハードボイルドストーリー。妖精を原料にしたとってもよく効くドラッグがはびこりはじめた街で、事件を追っていたマトバは追いつめたと思った犯人の逆襲をくらい相棒を死なせてしまう。射殺しようとしたものの犯人は弾丸を喰らったまま逃亡。死体となって走り回って息絶える。

 何か違う。何かが起こっていると思い相棒の敵討ちに走りたいと血をたぎらせていたマトバだったが、そこにあてがわれたのがゲートの向こうにあるレト・セマーニからやってきた少女。というか少女に見えてもあちらの年齢では27歳で地球換算でも20歳くらいのティラナという準騎士で、つかまった妖精を取り戻しにやって来たから協力しろと警察に要請し、それならとマトバが担当としてあてがわれて2人はコンビとなって事件を追うことになる。とはいえ文化も思想もまるで違ったティラナの扱いに苦労するマトバ。さすがに地球の風習は学んでいて、それに合わせようとはしていても、正義を旨とし銃を相手に剣で立ち向かったりもするティラナを多少の清濁は併せて飲む地球の風習に馴染ませることは難しい。

 反発し対立もしつつそれでもひとつ目的のために力を合わせようと走り付いたそこで見たものは、マトバの現実的な正義ともティラナの理想的な正義とも違った正義を追求しようとする存在だった。異世界や異文化との交流に生じるギャップを埋め合う2人の姿から相互理解の大切さを憶え、異世界が存在するからこその武器なり兵器といったものから驚きを味わうことができる物語。いっぱいいっぱいに張りつめて強くあれ、正しくあれとがんばるティラナの健気さと、彼女が時折見せる少女らしさ(といっても27歳なんだけど)のギャップも楽しめる。この次はたしか2編が収まった続編があったんだけれどその先にいったいこの2人が、どんなコンビネーションを見せて難題に挑むのかといった興味も浮かぶし、ティラナの出自にありそうな曰くとはいったいどんなものなのかも知りたいところ。さらには交流しはじめてしまった2つの文化がもたらす幸せと恐慌が島に限らず世界をどう変えているのかといった全体像も見せて欲しいだけに是非に続編を、続々編をと希望したいけれど、ちゃんと書いてくれるかなあ。先に書いて欲しいのもあるしなあ。全部が鋼で大慌てするような奴とか。


【11月21日】 「機動戦士ガンダム」の最初の劇場版を劇場で見ていなかった身でいうのも何だけれども、言いたいことはただひとつ、まずはとにかく劇場に行くこと。どうせDVDとかブルーレイディスクで出るからとかって、劇場から脚を遠ざけないこと。だって尻だよ。劇場の巨大なスクリーンいっぱいに、シェリル・ノームのほとんど剥き出しの尻がでっかく映し出されるんだよ。見逃せない。絶対に見逃すことなんて出来ませんってば「劇場版マクロスF 虚空歌姫〜イツワリノウタヒメ〜」は。

 テレビとどうせいっしょの総集編か何かだって? まるで違う。なるほどシェリルがギャラクシーからフロンティアへとツアーにやってくるところは同じ。無重力から重力エリアへと出てあの浮かび上がった巨大なバストが下に引っ張られるシーンもちゃんとある。これがでっかいスクリーンに映し出される。十分過ぎる。その上で。

 ガラリとストーリーを変えてある。設定もいろいろいじってある。ランカは最初っからアルトの知り合いで、ミハエルたちがシェリルの舞台で行うパフォーマンスの練習の場に出前を持ってかけつける。そこには小さいクラン・クランもいて新たに知り合うといった余計な展開を省いてある。でもって始まったシェリルのライブはミリタリー調の衣装ではなくロボットたちのパフォーマンスの最中に白くかわいい衣装で登場。そこに現れる黒くてそして小さい衣装を大きな体に身に着けたシェリルが現れ、スクリーンいっぱいに巨大な尻を披露しながら白いシェリルと絡んで歌う。

 そう。シェリルが2人いる。それはステージ上での演出だけれど白いシェリルと黒いシェリルの両方を、見せることによってシェリルは白いだけじゃなくって黒いかもしれない可能性を、情報としてシェリルの設定を知るファンに示唆しそうでないまっさらのファンにもこれは前とは違うということを伺わせる。

 そして迫るバジュラの攻撃に、アルトはシェリルを助けて街へと出て、そこでランカに迫るバジュラに向かってバルキリーを操り向かってどうにかこれを退ける。ちょっと一緒。だけどすでにして始まっている三角関係が、やがて疑心暗鬼を生むようにして広がっていっては、物語にテレビとは違った憶測を与える。何が動いているんだろう。何が蠢いているんだろう。思考を揺さぶられながら見ていくストーリーはいっぱいのライブがあって目一杯の露出もあって愉快にして痛快。そして深淵。見ている間は目を釘付けにされ、見終わったあとはいったいどうなるんだと期待に胸躍らされる。

 人によってはこうして世界がパラレルに分岐していくことに、異論を唱える人もいるかもしれない。それを自分という客観に引き下げゲーム的な視点から思考を試されているんだととることも叶だけれど河森正治監督的には、というかマクロス世界的にはまた違った理解もできそう。それはすなわちすべてが客観でしかないということ。「愛、おぼえていますか」が「マクロス7」の中であれは映画だと確か言われたように、「マクロスF」も映画版に限らずテレビ版も含めてすべて後生の後述によるもの。それが正史ではなく正史を元にしたフィクションだということ。

 戦国時代の理解が大河ドラマによって多様なように、視点を変えた物語がフロンティア船団の活躍、シェリル・ノームの存在、ランカ・リーの台頭、早乙女アルトの板挟みといった基本だけを生かしつつ、さまざまな角度から語られている、そんなひとつがこの「劇場版マクロスF 虚空歌姫〜イツワリノウタヒメ〜」なのだととってとれないことはない、のかもしれない。そうではないのかもしれない。つまりは曖昧。だからいくらだって楽しめるのだということを、河森監督はこのマクロスシリーズを通して教えてくれているんだろう。創作者すら知らない設定が厳然としてオフィシャルになって若者に崇められ、新たな創造を縛っててしまう妙な状況へのアンチテーゼ。もっと自由に楽しもうよというメッセージ。それを味わうのがきっと「マクロス」シリーズの最高の味楽しみ方なんだろう。

 だからシェリルが悪役でも良い。グレイスにかわいげがあっても良い。フロンティア船団が阿漕でも良いしギャラクシー船団が正義でも構わない。角度をかえれば新たに見える楽しみ方があるってことで、とりあえず繰り出されたこの1手が次ぎにどうなって収まるのかをまずは見させて頂こう。それにしてもシェリルは胸もすごかったなあ。あの鯛焼き型携帯電話がどういう状況で挟まっているのか知りたいよ。つか携帯が鯛焼きになってしまってるぞ。どういうことだ。あまりに妙なんで鯛焼き型ポーチ、買ってしまったよ。iPod入れに使おうっと。

 「万豚記」で豚入り青菜炒飯でもかき込もうかと思ったけれどもがんばれ10キロダイエットのために見送り新宿まで出て「やんばる」でポーク玉子定食、って沖縄料理ならダイエットに良いって言ってもゴーヤチャンプルでもソーキそばでもないポーク玉子(といいつつポークはSPAM)ではそんなのカロリー違わないか? まあダイエットは気からとも良く言うし(言いません)。ユニクロとか見て60周年も経ってたんだユニクロって信じてしまう人とかいったいどれくらいいるんだろう。ファーストリテイリングの元の会社が60周年ってだけじゃんか。誇大気味。

 でもまあ、どんなきっかけでも商売に結びつけてしまうバイタリティーには感心。それが商売って奴だ。とはいえ正確性を旨とする業界じゃあ許されない態度でもないでもない。本家は60周年でも分家して本家の出発点の屋号を借りて立ち上がったところが、だいたい30年しか経ってないのに60周年とか言って商売の種にしょうとしていたのと何か似てる。どこの話? 4万キロの彼方の話。偵察に寄ったバルト9は「マクロスF」で大賑わい。グッズ売り場にも長い列。おや、ストラップは売ってないのか? 豊洲では売っていたのに。何だろう。ともあれ大人気。やったね河森さん。

 こっちもやって欲しいぞ片渕須直監督、ってことで舞台挨拶のあった「マイマイ新子と千年の魔法」をピカデリーで観賞、何かすっげえ高いところにあるんだなあ、入り口から延々とエスカレーターを上がらされたぞ。そして現れた監督と新子と貴伊子の声の子たち。小さい子供を元気に演じている新子の声の人が大人っぽい女の子で喋り声のトーンが静かだったのと、貴伊子の声の人が美少女で喋りがハキハキしていて順に録っていった過程で映画と同じように新子役の人と仲を深めていったって話をしたのがちょっと面白かった。これで演技はまるで逆。役者って凄いなあ。

 意外というか嬉しかったのは新子を演じた中学3年生の子が、普通にさらりと新子が同級生達と別れていく場面を見てこれは本当に信頼し合っていて繋がっていてこれからも繋がっていけると信じていたから普通に別れられたんだ、それにひきかえ中学を卒業して味わう別れが寂しいと思ってしまう自分は、まだまだ繋がっていなかったんだってなことを言ったこと。映画に描かれた子供達の関係を、演じる中で理解するだけじゃなくってそれを言葉にして、自分にとってちょっぴり厳しい内容であっても発していける聡明さは、役者としてこれからきっと彼女を大きくしていくだろう。福田麻由子の行く末に期待。

 見るのは試写に続いて2度目。子供の頃を思いだしてそうだったとうなずけるような描写の積み重なっている様には当然のように感じ入ったとして、前回は強く意識していなかった隣り合わせの死のビジョンについてよりくっきりと見えてくる。金魚の死と、そしてクライマックスに来る男の死は直裁的に描かれ子供たちの前に明確に立ちふさがり、観客にその存在を強く意識させるとして、ほかにも貴伊子は母親を失っているし、千年前に繰らす凪子は、迎えてくれるはずだった同年代の女の子が、直前に死んでしまったことを教えられる。インサートされる小さなお墓のような映像が、失われてしまった命を思わせ、父親らしき男の飄々とした語り口の底に漂う哀しみを匂わせる。

 千年前に凪子の館で働いていた少女の家族も食あたりで死の少し手前まで追いつめられる。今なら普通に治る病気が当時は命取りになる。暮らしぶりのあまりの違いにも驚かされ、人は平等ではないんだってことを見せられる。ずっと楽しげで幸せそうに見える新子も最後に祖父を亡くす。ラストに流れるコトリンゴさんの「こどものせかい」という歌には、神様によって突然連れて行かれて、夏に1日しか会えない子のことが唄われる。さまざまな死のビジョン。人間という存在が過去より営みとしては繋がっていて、記憶として続いていても個は厳然として死によって断ち切られる存在なんだと意識させられ、その死が割に身近にあるんだってことを感じさせる。だからこそ周囲に頻発する死を受け止めて心に抱き続けることが大切なのだ。人は死ぬ。けれども思い出は人によって受け継がれ語りつがれるものなのだ。

 とまあそうした見方も可能だし、もっと普通に昭和30年代のノスタルジックな風景を、大人はそうだったなあと思い知らない人はそうなんだと驚きながら見て楽しむってのもひとつの手。跳びがしてくる犬の腹をさすってやる新子のしぐさに笑いウイスキーボンボンを食べて酔っぱらう3人の少女に吹きだし、最初はなじめない貴伊子に同情と反発心を抱きつつ、そんな貴伊子が新子の前向きさによってすくい上げられ仲間に入れられ、馴染んでいく様子にこのいろいろと難しい人間関係が言われる社会で、何をどうすればもっと誰もが幸福を得られるのかを考えるのも悪くない。

 というか、そうした見方をするだけでも存分にいろいろと得られる物語である上に、死のビジョンなり営々と続く人間という存在の凄さなりを思って喜べる映画でもある「マイマイ新子と千年の魔法」。すでにして日本のアニメーションがとてつもない領域に来ていることを、実例として示す作品ではあるけれど、これが普通にヒットしてこそ日本にアニメーションが本当の意味で普遍化したんだと言える。だからこそヒットして欲しいんだけど。応援するしかないか。ならば書こう、獏さん調で。この映画はぜったいに面白い。


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