縮刷版2008年7月上旬号


【7月10日】 2回目になるとテンポにも慣れたか「スレイヤーズR」は、リナ対小動物の戦いが繰り広げられる中で小動物がどうやらただの動物ではなく、人間か何かでお腹のチャックもするりと開いていろいろ取り出せるような仕組みにもなっている感じで、そんでもって戦車だか何かを開発したんだけれども奪われたことに立腹して壊して歩いているんだと説明。けれども薄いだの平べったいだのえぐれているだの(そこまでは言ってないけど)ディスられた挙げ句にドラグスレイブを爆発させては、リナを犯人と認めて追いかける大塚息子ににやっぱり追われる羽目になる?

 ともあれちょっぴり話は動き出したみたいで「光の剣」のレプリカなんてのも出てきてガウリィも巻き込み進んで行きそう。あとはゼロスあたりの乱入がどんな形で行われるか、か。上着の裾からチラリチラリとのぞく黄色いあれはだからアンダーウェアじゃないんだよなあ。だからオッケーなんだけれどもそれゆえにガッカリ、でもないか。それだと思い込めばあるいは。あと第1話を録画し忘れていた「魔法遣いに大切なこと 夏のソラ」が第2話をみたら映像的にもの凄いことになっていた。

 同じ小林治監督が「パラダイスキス」でもちらっと見せていた実写にアニメーションのキャラクターを重ねる技術は「パラキス」と同じ「ノイタミナ」枠で放送中の「西洋骨董洋菓子店」でも使われているけど流石に本家な監督だけあって背景はより実写に近く、キャラクターはとことんまでアニメ的。その融合が現実の田舎なり東京の街並みで行われた映像は妙なリアルさがあってそこに入り込んでいるよーな感覚にとらわれる。「西洋骨董洋菓子店」の場合も夜のなまめかしさめいたものが感じられるけど「魔法遣いに大切なこと 夏のソラ」とは違う印象。キャラクターがアニメってよりは漫画の平べったさに寄っているからなのかなあ。どっちにしても不思議な映像を探求したアニメが同時に始まった7月は、「紅 Kurenai」とか「マクロスF」といった作品が始まった4月にも劣らずアニメーションの歴史に足跡を残しそう。最後はストーリーがどうかによるけど。

 そして「第15回東京国際ブックフェア」へと赴き、42人がいっせいにテープにはさみを入れる世界最大級のテープカットを見物してから中へと入ると読売新聞社と日本テレビ放送網と中央公論新社がブースを大展開。でもって押井守監督の「スカイ・クロラ」の書籍とムックとグッズとTシャツを並べて宣伝している様に、あのグループもいよいよ本格的なメディアコングロマリットを意識し始めているんだなあって雰囲気をつかむ。そりゃあ読売と日テレは前からグループだったけれども、そこに中央公論新社って出版の世界では敬意をもって見られている老舗の名前と、それから膨大な出版物が加わりフックとなったその上に、読売のコンテンツも日テレのコンテンツも重なってブックフェアの中における存在感を放つようになった感じ。

 これはそのままアニメなんかの場でもあてはまってて、こっちは日テレが支えるスタジオジブリや押井さん関連の作品がメーンだけれどもプロダクションIGの存在感も加味して、他にいっぱいアニメ作品なんかを持ってるテレビ局に負けない存在感を「東京国際アニメフェア」の場で放ってた。映画でもジブリがあれば存在感は抜群。放送はフジテレビと争ってはいるけれども上位にあって新聞は言わずと知れた世界一、ってことでそれらが重なったメディアコングロマリットが、トップの間の軋轢だとか競争意識なんかをとっぱらって本気で協業なんかを始めた日には世界にだって互していけそうな昇り調子を感じてしまう。

 そんな一方で、80年代後期にメディアコングロマリットを標榜して、グループを立ち上げ連携して来た目ん玉なところは逆に出版はいつかほどの背伸びが見えず、新聞は並列から脇へとズレた感じと行ってる方向が逆。読売・日テレ連合にはないラジオがある分は強いけれどもそれだって聴取率でTBSに文化放送といった所と比べて抜きん出ている訳じゃない。孤高のテレビも来るべき地上デジタル時代を前にテレビ離れと戦わなくちゃいけない訳で、だからこそコンテンツ面の強化が必要なんだけれど、そういった方向へと進んでいるようなコンテンツ確保の施策が今ひとつ見えない。有力アニメ会社を抱え込んでいる感じもないし、映画会社との関係も勢いのあった映画部門の足踏みが響いて大きくは出られなさそう。

 翻って業界を見れば世界ではメディアのコングロマリット化がグローバル規模で進行中。日本でだってテレビ朝日がこれは相続税対策って意味はあっても朝日新聞社の株をもってグループ化を推進してるし、テレビ東京と日経は前から強靱だ。TBSと毎日新聞の関係の希薄さは変わってないけど、毎日本体のあれやこれやもあって気になるところ。きっと何かを考えて来るんだろう。そんな中にあって早くから目ん玉のもとにメディアコングロマリット化を進めてきたところだけが違う方向を向いている印象。それがどんな結果を招くのか、吉と出るのか逆に向くかはこれからのネットも絡めたメディアの激変なんかを読みつつ推察しつつ、伺っていく必要があるんだろー。普通に考えればより強力にした上でコンテンツを供給できる部門を加えていくのが常道なんだけれど、頭の良い人たちが考えてやっていることだから、きっと驚きをもって迎え入れられる姿がそこに現れるんだと思っておこう。

 でもって中央公論新社のブース。「スカイ・クロラ」よりも公開の早い「崖の上のポニョ」についての映像なんが流れていたけど、発売する書籍類が揃っていないのか読売中では扱っていないのかブースでは飾りも見かけず。その分を埋めていたのが「スカイ・クロラ」でステージ脇に草薙水素が映画の中で着用しているのと同じ形の制服がトルソーの上に着せられていてなっかなかの可愛らしさを見せていた。サイズは菊地凛子さんに合わせてあったりして。あとは飛行機の模型とかムック類とか。模型と「スカイ・クロラ」がセットになったものも並んでいたけどあれは商品? 調べたら商品で値段も8000円近く。高いなあ。でも化粧箱にはハードカバー版の全6巻が収納できるみたいだから買っておくか、ハードカバー版は確か家にあったはず、だけど、うーんまた買って並べるか。

 角川グループパブリッシングのブースでは角川文庫の100冊を買うと「新世紀エヴァンゲリオン」と「ピーナッツ」とあと紋様みたな3種類から1つビニールカバーを選べるようになっててエヴァのがちょっと欲しかったけれども100冊の中に解説を書いてる日向まさみちさんの「本格推理委員会」が入ってなかったんで断念。結構増刷もされてるみたいだけれども先輩諸氏を抜いて100冊に選ばれるのはまだ先かなあ。池上永一さんの「レキオス」は見たぞ。向かいの文藝春秋では「イン・ザ・プール」のTシャツセットが何と1000円で大バーゲン。2400円とかするものがこの値段って本代を払った残りのTシャツが300円くらいってことなのか。安すぎるけど買って荷物になるのも面倒なんでその場では敬遠。村上春樹さんの「走ることについて語るときに僕が語ること」とか吉田修一さんの「春、バーニーズで」とかのサインも入った書籍もあってファンとして食指が動いたけれども伸ばさず。週末に行ってもまだあるかな。国書刊行会とか河出書房新社とか筑摩書房とか平凡社の割引も実施中。やっぱり行って買いあさろうかなあ。

 でもっていつものボイジャーで何故かみんなが「河童のクゥと夏休み」のTシャツを着ていたんで聞いたら「クゥの映画缶」ってサイトがオープンしてた。ようは映画のメイキングを紹介するサイトなんだけれども絵コンテがアップされているその脇に、アニメーション映画の場面のスチルも入っていて、進めていくと絵コンテも連動して進み逆に絵コンテを進めてもスチルが動いていくからどの場面がどんな絵だったのかがすぐに分かるし、絵コンテからこの先にどうなってそれがどう演出されているのかもつかめるようになっている。映像そのものとは違うんで間合いとかセリフとかをシンクロさせるのは無理だけれども、そういうことはブルーレイのおまけなんかでも出来ること。むしろ書籍の絵コンテ本では重量もある上に検索性も乏しいところを補完しあるいは新しい形で提案できる、ウェブムックの極めて有効性の高いフォーマットって言えそう。

 「河童のクゥと夏休み」を撮った原恵一監督へのインタビューなんかも充実してて、「クレヨンしんちゃん」のシナリオの裏に描かれた構想なんかもクローズアップで見られたりとなかなか以上の充実ぶり。それもこれも原監督の最大限の強力があったからみたいで、クリエーターとかコンテンツホルダーがそれを望み、関わる人たちが知り尽くして創り上げれば紙のムックにはない新しい形のアニメムックってのをウェブ上に創り上げられるのかも。アニメムック作りの人たちだったらどんなアイディアが出るんだろう。それを認めて作ろうとする出版社なりソフト会社なりがあれば面白い。やっぱりジブリアニメで見たいよなあ。レイアウトとかイメージボードなんかもわんさと乗っけて宮崎駿監督の修正が入った原画も乗っけてやれば見る人は大勢いそうだし、後のアニメ作りにも大いに役立つんだけど。


【7月9日】 見せられないものなら最初っから見せなきゃ良いのに、ちょろりとさわりだけ流してそれでDVDとか買ってもらえるんなら御の字って商売の、どことなく消費者を舐めきったスタンスにはなかなかに憤りも浮かんで真夜中に呻吟。3部目のスタートした「一騎当千」は裸ブレザーな呂布がなぜか復活しては関羽とバトルしているシーンに始まり成都学園から関さんが劉備を誘い中華街に行こうとしたら、割って入った孔明に張飛に憤り。そして連れだって赴いた中華街でアルバイトをしている孫策たちと出会い始まる何やらって感じなんだけれども、それっぽいシーンでなぜか画面の下半分くらいに白い霞がかかってそれっぽさがよく見えない。

 テレビの故障? そんな訳なくようするに見せたらイケナっぽいソレが映っている場面に上から霞を被せて見えないよーにしているだけ。そんな範囲がことのほかデカくって場合によっては画面の3分の1が隠れてしまう。もはや放送事故だろう? そこまでして流したところで裏側にあるいろいろを見たいからとDVDを買うだけの行為を、視聴者がソフト会社に抱けるかっていうとむしろ逆。こんな中途半端なのを見せやがってと憤りの果てにそっぽを向くってのが真っ当に近い消費者の心理なんじゃなかろーか。

 ギリギリで踏ん張りつつもそれなりに見て楽しいレベルを探ってそ、れでも無理なところを隠して流してすいませんが宜しくといったスタンスを、見せてくれれば考えないこともないんだけれどもこうまであからさまだとどうせ手前ら買うんだろう? って尊大さが見えるよーで二の足を踏む。踏みしめる。放送すら見たくなるなる。とっても設定に似通っている部分のあったけれども「天上天下」ではない「恋姫無双」が、チラりな極地にあって見る側の必死さを煽っていたのと比べると、志がズレ過ぎている「一騎当千」。ストーリーもちょい見えないことだし録画だけは続けつつ結局そのまま埋もれさせそう。でもってDVDはボックスが出たら買う、と。買うのかい?

 ひとつ崇高な目的があるならば、それに向かって進もうとする眼前に現れる抵抗など無視するのが当然の行為であり、目的にかなわない事象があるならば、これを打ち払うのが使命を帯びた者にとって絶対の義務。ましてやこの国を美しくも煌びやかな地へと報道によって導きたいと、常々より滲ませているメディアならばあらゆる万難を排しても、ひとつ崇高な目的を貫こうとして何ら世間に疚しいところなどないというのが、きっとスタンスの根底にあるのだろう。歪まず逸れず、曲がらず退かないその強さがなくてどうして迷える国民を説得し、納得させて引っ張り沃野へと導けるのか。だからこの美しい国を汚すと認めた存在に対して、あらゆる手練手管を使って非難を浴びせ攻撃を加えて排除しようとしてみせる。背骨に通ったぶっとい幹。右に左にぶれまくってるメディアにはない強靱さだと言えるだろう。

 なのであの恐ろしくも哀しい事件から1カ月が経って掲載された「【秋葉原通り魔事件】暴発は脳の機能不全? 脚光浴びる脳科学」という記事も、この美しい国に生きる美しい人々の美しい思考に忍び込んで壊し、乱れさせるゲエムなる存在は、絶対的な意志でもって廃し退けるべきなのだという強くて深い主義主張を背骨に負っているメディアとして当たり前過ぎる主張の現れだと言えそう。その当たり前ぶりを支えるためには、例えば精神科医の斎藤環さんが「ゲーム脳の恐怖は間違いだらけ」だと幾多の検証を挙げて叩きのめしていても、あるいはトンデモ学説に対して明快な論理と正確な科学の知識で異論を挟む活動を続けているSF作家の山本弘さんが「『ゲーム脳の恐怖』はトンデモ本だ」と訴えていてもお構いなし。この日本を正しい方向へと導くには、科学の正確性など敢えて無視するのが正しいメディアのあり方なのだといった雰囲気で、今は懐かしい森“ゲーム脳”昭雄教授を引っ張り出して、目的に叶ったコメントを出してもらうのだ。何と天晴れな筋の通しっぷり。この真っ直ぐさが万難を排して日本を美しい国へと昇華させる原動力になるのだろう。

 そもそもが「脚光を浴びる脳科学」と銘打たれたこの記事に、挙げられている学識経験者にどれだけ本気の脳科学者が入っているのか。森昭雄教授は体育学科の教授であって専門は運動生理学。高橋史朗教授も教育学の人であって、脳を科学的に調べ解析することに長けた人とは普通一般的な感覚からは認められない可能性が高い。斎藤環さんは言うに及ばずゲームについての文章も多く著している香山リカさんのような精神医学についての専門家もいなければ、クオリアがどうとかいった主張の文学性にいろいろと異論が差し挟まれてはいても、一応は脳機能についての研究がメーンの茂木健一郎さんすら挙げられていないこの記事のどこにも、最新の脳科学研究が例として掲げられていて、それがどんな成果をもたらしているかまるで紹介されていない。にも関わらず、「脚光を浴びる脳科学」と言ってしまえるその態度の純粋さ、高潔さ。美しい国へと至らしめるという崇高な目的に支えられているからこそ、こうして満天下に高らかに主張して何ら恥じ入る所もないのだろう。何と強靱。これが国士の強さ、英雄の真っ直ぐさという奴か。

 インターネットやゲームなどとの「接触時間が長いほど、自尊心が低く暴力的になりがちな傾向も浮かんで」いるってことだけれども、そこに科学的なデータによる裏付けは示されていない。いないけれども科学的なスタンスに勝る崇高な使命というものも存在するのであって、だからデータなど不要で主張を補則する役目を果たせればそれで十分なのだろう。インテリジェント・デザインといった、学術的には毀誉褒貶を浴びている説であってもそれが人間の尊厳を高らかに歌いあげ、社会をより高みへと誘う上で必要とされるものならば取り上げ持ち上げて広く世の中へと伝道する。すべては日本を美しい国にするという目的のため。そこに暮らす人の幸福ため。科学もデータもそれらに従い導かれるものだといった厳然として確固たる人道博愛主義の態度の揺るぎなさに惚れ込んだ200万を率いていざ進め! 右に1000万の敵が囲み、左に800万の敵が待ち、斜め上より拝金主義にまみれた380万が笑おうとも我に正義ありと信じて進んで進んで突き進め! そうして進んだ果てに、いったい何が待ち受けているのだろう? 広大な沃野かそれとも……。見てみたいなあ、怖いけど。

 少女が怪奇な現象に遭って大変だあって話かと想って読んだら違ってた藤野千夜さんの「少女怪談」(文藝春秋)はすなわち少女とは怪奇な存在なのであるっていった話でなるほど読んで背筋に氷が転がるナイフが刺さる。学校でいろいろとあってむしゃくしゃしていた中学生の美少女がふらりとみかけた紐でつながれた犬をさらって引っ張り回すって話は自分は可愛いからきっと許してもらえるねって思いこみがやがて滑って逃げたのを捕まえてあげたんだからお礼だってもらえるよねって思いにすり替わっていたりしてゾワッ。女の子の我が儘勝手な性向って奴がくっきりと浮かんで振り回される先輩なり犬の飼い主の少年が可愛そうになって来る。

 でもって中学の時に仲間内の罰ゲームとして誘っていっしょに映画を見た少女がいたけど、それが罰ゲームだったと相手の少女に知れて激しく泣かせてしまった記憶を引っ張ったまま高校に上がって風の噂でその少女が学校を辞めたと聞いてしばらくしてなぜか窓やガラスにその少女の顔が浮かぶようになったというエピソードも、記憶に深く忍び込んでは男の子の日常を壊し脅かす少女の涙の恐ろしさって奴を強く激しく認識させてくれる。家に尋ねて来て傘を忘れて還った従姉妹がどうやら父親とつきあっているっぽい雰囲気が見えてきて過程がぎくしゃくする話とか、母親の再婚に憤って家を出た少女が見た不思議なことを喋って母親とその愛人を惑わせる話とか、少女に潜む純粋故の残酷さって奴がのぞいて触れるのが怖くなる、っていうか触れる機会なんてないんだけれども余計に触れたくなくなる「少女怪談」。少女の怖さに夏の夜を凍えて過ごせ。

 ターナーなんて名前がついているから柔らかい日差しに浮かぶ島みたいな長閑な作品ばかりが選ばれている賞かと思ったらとんでもなかった「ターナー賞」の歴史をたどった展覧会にはかのデミアン・ハーストによる親子の牛の2枚下ろしのホルマリン漬けなんてものも出展されてて異形さをアピールしていたけれども日本人にとっちゃあ生な魚の3枚下ろしなんて日常的に見たり食べたりしているもの。それが牛に代わってはいても動物には変わりがない訳で、見てもすごい衝撃ってのは受けなかった。だいたいがプラスティネーションなんて人間のホルマリン漬けよりさらに凄まじいものが普通に展覧されてる現代。時代の先端がいつしか後塵を拝してしまった感じ。ならばとハースト、次にいった何をする? 鯵の開きのホルマリン漬けでも並べるか?


【7月8日】 いい歳をした人間に本来的な用途とはかけ離れた名簿作りと宛名シール貼りを任せる学級会っぷり部活動っぷりに辟易としたのはそれとして、ようやく始まった「夏目友人帳」のアニメーション版を視聴。第1巻が出た頃から買っている身としちゃあ悪い話でもないんだけれども、客観的には何でまたこんなにあんまり知られていない漫画がアニメになるんだろうかとその決定のプロセスなんかを知りたくもなる。「ソウル・イーター」みたくアニメ化がきっかけになって単行本が目茶売れするよーな話でもないしなあ。

 まあ良いとりあえず全体に絵は綺麗だし、担当している人たちの声もなかなか。とくにニャンコ先生は招き猫姿ん時は何でもーちょっと可愛らしい声優さんを使わなかったんだろうかと訝ったけれども斑(まだら)の姿になった時なんかを考えるとこれで大正解。剽軽な声とドスの利いた声を見事に使い分けている。別々の人が演じているったって信じてしまいそーになるくらいの幅広さ。さすがは超ベテランの井上和彦さん。芸の幅も広いなあ。

 同じことは「モノクローム・ファクター」の白銀なんかにも言えたみたいで、これまでの3カ月間は妙な丁寧さが気色悪かったけれど、洸と再会した時に発したこれが本性らしードスの利いた声を聞くと諏訪部順一さんで悪くはなかったと理解。でもやっぱりあの美麗な顔には凛として美しい声が欲しかった気も。戻って「夏目友人帳」はレイコって祖母に名前を帳面に書かされ縛られた妖怪を孫が解放していくって設定があるんだけれど、名前が書いてあってこそ意味を持つ手帳を譲り受けられるからと守護についた、その目の前で名前が次々と返されていってどーして納得できるんだろうニャンコ先生。解き放ち方も教えているし。そもそも封印されていたのってどーして? って辺りへの懐疑もありつつ、それでも絵は綺麗だし声も良いし何よりニャンコ先生が可愛いんでしばらくは見ていこう。

 でもってワーディス(そうなの?)ことh「ワールド・ディストラクション」がスタート。いやあ、流石にプロダクションIGだけあって作画的には神懸かり。だけどお話はまだまだ不透明。「エル・ガザド」みたいに飛びまわってアクションを繰り広げる女の子とかすっげえ丁寧に作画されてて、その動きの1ポーズ1ポーズが勉強になるし、混ぜられたアンダーウェアではないんだろうけどそれに近いものがのぞく太股のアップの絵なんかも嬉しい限りなんだけれど、あまりにも素早く動かしすぎてて生の目じゃあちょっと追いきれないのが難点。太股アップなんて止めてコマ送りしてよーやく確認できるくらいだもんなあ。

 最近は好きな場所でピタリと止めてコマ送りしながら1枚1枚を確認できるよーに、録画・再生の機器も発達しているから別に良いんだけれども本来、アニメってそうやって止めて見るものじゃない。動かして動いているのを見てところどころにハッとさせる動きの癖なんてものがあったりするのが分かるのが、アニメを見る時の面白って奴さなんだろーけど、最近のアニメってそーした目に残る特徴ってのをあんまり考慮しないでとにかく派手に素早く動かしているだけって気もしないでもない。それとも追いきれないくらいにこっちの目が衰えているのか。「紅」で弥生さんに殴られるリン・チェンシンの歪んだ顔をかろうじて視認できる程度だもんなあ。

 そうだ「ワールド・ディストラクション」だった。記者発表の時に世界撲滅委員会だの救済委員会だのといった設定の理由についてあれやこれや聞いた記憶があるけれど、とりあえず世界に異論を唱える一派が主人公側で世界を保持しよーとする一派と戦う話、で良かったんだっけ。ありきたりにはしたくないって話だったんだけれど、今のところ設定上の妙味って奴は見えないなあ。あと人のキャラクターと動物のとりわけ熊のチビっこぶりのギャップが気になるところ。電脳空間とかだとそーゆーギャップあり得るんだけれども「ワーディス」ってそういう話じゃないし。詳しくは知らないけれど。ともかくとりあえず動きの凄さだけは確認しながら行方を見守ろう。古谷徹さんも出ているし。出ていて良いのか? 井上和彦さんと言い超ベテランの超越的な使われっぷりが愉快です。3週に1回は若井おさむさんが演じてたりしたらなお愉快。

 フォワードの4人のうち3人が日テレ・ベレーザとはまた大盤振る舞いというか他のなでしこリーグのチームのファンから異論とか生まれそうだけれどもオールスターとか銘打っておいて日本人のフォワードを別に全員が調子を落としている訳でもないのに呼ばないJリーグに比べれば全然公平。それが荒川恵理子さんに大野忍さんに永里優希さんってこの数年では不動の面子だってところも納得に拍車をかけている。ディフェンス陣はセンターに日テレ・ベレーザのセットを使わず池田浩美さん柳田美幸さん矢野喬子さんにベレーザの岩清水梓さんを混ぜているのが特徴か。近賀ゆかりさんはサイドバックだからちょっと違う。アテネ五輪では悔しいバックアップ要員だっただけに本戦メンバー入りはきっと嬉しかろう。チームきっての“男前”ぶり。見せてくれ。

 中盤は澤穂希さんに加藤與恵さんとアテネ時代からのベレーザの重鎮とそして宮間あやさん阪口夢穂さんの新鋭2人とあとベレーザから長身な宇津木瑠美さんにINACレオネッサの原歩さんと強力な面々。登録はディフェンスだけれど浦和レッズレディースの安藤梢さんもきっと中盤から前目で使われるだろーから試合に誰を選ぶってところがまずは注目になりそー。最近はあんまり出番がなくなってしまった加藤さんだけど危険な場所になぜかいてボールを奪取し左右に散らすプレーは拮抗した試合でとっても重要。澤さんを含め前掛かりな人が多い中で失点をくらった感もあるアジアカップの轍を踏まないなら、澤さんはやっぱり前目で使い左右を安藤さんに阪口さんでワントップを荒川さん、そしてボランチに加藤さんと宮間さんを並べてみるのもありかなあ、と加藤與恵さんファンとしては願うばかり。是非に出場を。小林弥生さんの復活は間に合わなかったか。


【7月7日】 七夕さーらさら。落ち葉も濡れる。ちょっと違う。ってか新オープニングではスタイルがすっかり「舞−乙HiME」化していた咲世子さんの、ヒモ状なアンダーウェアをのぞかせながらの大格闘にも怯えず立ち向かっては倒して歩み去ったジェレミア卿。とはいえ殺害はしなかったのは相手が女性だからと騎士道精神を発揮したからなのか、正体をルルーシュだと知ったゼロに仕えている身だからと認識して手加減をしたからなのか。ゼロが相手の時だと見境なかったのにこういう時だけ格好良い。ってかもともと格好良い奴だったのか。

 そしてたどり着いた池袋駅で、ゲフィオン・ディスターバーの攻撃にも負けず目から血涙を流して歩み寄ったルルーシュに告げる衝撃の真実! その唐突さには噴き出したけれども振り返ってみれば「コードギアス 反逆のルルーシュ」の中でジェレミア卿、ゼロがルルーシュだとはずっと気づいていなかった訳で、C.C.との戦闘で沈められた海より救出されて更なる改造を施される過程で、ゼロはルルーシュだと知りその面構えからランペルージではなくヴィ・ブリタニア殿下と気づいて心の奥底にずっと秘めていたルルーシュの母、マリアンヌへの忠義心を一気に爆発させたんだってここはとらえるべきなんだろう。しかしやっぱり唐突だよなあ。

 そういやああの夜ってつまりはマリアンヌが襲われナナリーが怪我をした夜に警備を担当していたコーネリアは、マリアンヌの側からだったっけ、警備から外れるように言われてその通りにしたんだったっけか。でもってジェレミア卿はあの夜に初仕事としてマリアンヌの護衛を任されていたって話だから、すべての警護がなくなっていたって訳ではなく、不審がられない程度には残されていてそこに新米のジェレミア卿も配置されては強力な襲撃に手も足も出ずマリアンヌを殺害されてしまい心に傷を負った、って流れになるのかな。どっちにしたって奇妙な符合。何かが蠢いていたって考えるのが普通だろー。

 いずれにしてもジェレミア卿にコーネリアとブリタニアでも有数の強者を引きつける何かをマリアンヌって持っていたってことで、それほどまでの人がどーしてあっさりと殺害されてしまったのかを考えると、いろいろと矛盾も生まれて来そう。「ザ・スニーカー」に連載の小説版じゃあアーニャがマリアンヌの乗機だったガニメデに妙な関心を示しているし。謎多すぎ。だけれどその謎をひっくるめてちゃんと解決できるのか。シャルルとV.V.が神殺しの力を暴走させてすべてが時空の彼方へスペースランナウェイ、ってんじゃあ誰も納得しないからそのつもりで。

 羨ましいよなあ。あんなに美人で頭が良くって傍若無人の側に毎日いられるその上に、口を尽くしての罵倒を浴びせられかけ叱咤されるんだからもう毎日がマゾヒスティック・パラダイス、そういうのが趣味の男子には、ってか女子も含めて実に素晴らしい職場環境に見えるんだけれどそれで興奮しているよーでは薬師寺涼子の仕事は勤まらない。連れられ引きずり回されているだけに見えてあの参事官付きの青年君も、それなりに仕事の出来る奴なんだろーからごくごく平凡な青少年が、是非にも警視庁に入って参事官付きになりたいです、出来れば薬師寺涼子みたいな人にお仕えしたいですって言っても叶わないと知れ。そもそもが警視庁に薬師寺涼子はおりません。「DARKER THAN BLACK」の霧原未咲みたいな人もやっぱりいません。人材不足だねえ。

 歌もないオープニングとエンディングにお洒落さを味わい「ゼロの使い魔 三美姫の輪舞曲」でのルイズのもじもじとしてもやもやとした心根をくっきり現す声の巧みさに酔い、続いて「隠の王」でその声が別のふわふわとした中に凛とした筋を持った少年を演じていることに関心しつつ、はしじまちゃんの目と牙のキュートに「ゲゲゲの鬼太郎」の猫娘とは違った可愛らしさを覚えてギュッしたくなる。ギュッ。原作を読んでて中身も知っているだけに引き寄せて喉とかこすってゴロゴロと言わせてやりたくなるけど、でも下手に手を出すと爪どころかかぎ爪とくいなか何かでぶち抜かれるんでご用心、と。

 でもって見始めたテニスの「全英オープン」の男子決勝はラファエル・ナダルが2セットを先取してもうこれは楽勝でもってウィンブルドン5連覇のフェデラーの史上2人目にして決勝だけ出れば良かった時代とは違う舌から勝ち上がって勝ち抜く方式になってからは初の6連覇を阻むんじゃないのかねえ、って思って午前3時にはぐっすりだって見ていたら大外し。第3セットはタイブレークとなりそこでもサービスはキープの硬い展開からどうにかフェデラーが抜け出し1セットをリターン。でもまだ王手な上にこれまたタイブレークにはなったもののチャンピオンシップポイントにナダルのサービスが来て決まったも同然と余裕こいていたらダブルフォルトで自滅しフェデラーにセットカウントで並ばれてしまう。

 こうなると勢いでフェデラーがさくさくとゲームを奪い抜け出るんじゃないかと見ていたらさにあらず。ナダルもしつこくフェデラーのバックとボディにボールを集めてスピードのあるリターンを封じてゲームカウントを積み上げ、そしてフェデラーもしっかりとサービスゲームをキープして2ゲームオールになったかどうかで次のゲームがデュースへと突入した時に降り出した雨によって試合が中断。前の中断が1時間くらいかかったから今度もいつ始まるか分からないなあとモヤモヤしていた所に襲ってきた睡魔が記憶を奪い、気が付くと朝になっていてナダルがフェデラーに勝っていた。クレーの王がグラスの王に。全仏全英の連取がしばらくなかっただけにこれはひとつの快挙かも。

 しかしそれにしてもタイブレークのない最終セットでゲーム数が9対7だったとは、ナダルもギリギリの勝利だった模様。最後まで本当に接戦だったんだなあと理解。ちょっとした機微が明暗を分けたんだろーけどそれは決定的なものじゃなく、どちらに転んでも不思議のなかった凄くて素晴らしい試合だったんだろー。ナダルの全英初制覇ってテニスの新しい歴史が生まれる瞬間は見逃したけれども、フェデラーの6連覇ってスポーツの歴史は結局生まれなかった訳なんで見逃さずに済んだし寝ても良かったとここはしっかり負け惜しみ。来年は起きてしっかりとフェデラーの再起なりナダルの連覇を見届けよう。錦織の躍進? だと良いな。無理だろーけど。

 そうそう思い出したよテレビで大昔に見ていたボルグがマッケンローに破れた試合ってのがあったんだけれど、あれはマッケンローが初制覇したウィンブルドンだったのか、それともボルグが結局はとれなかった全米のタイトルをマッケンローが取った時のことなのか。学校から帰って夕方にやってた記憶があるってことは全米かな。昔は地上波もいろいろと放送してくれたんだよなあ。「ツール・ド・フランス」とかも。下手なドラマより最高のスポーツの方がよっぽど喜ばれるのになあ。視聴率だってとれるのになあ。でもそうならないのはドラマやバラエティが視聴者のためではなくって出演者のためのものになっているから、なんだろー。衰える訳だよテレビ屋さんも。新聞ほどじゃあないけどね。少年探偵団の手弁当。そりゃどこの学級新聞ですかっていうか。何のこっちゃ。

 もーさまだ。あの萩尾望都様に出会えるとなっては何をおいても駆けつけるのがSF者で漫画者の義務とばかりに「劇団スタジオライフ」が8月に「紀伊國屋ホール」で開く「マージナル」の舞台化の記者発表へと行ってもーさまのご尊顔に拝謁たてまつりいまそがり。ああ神々しい。しかし男ばかりの劇団ゆえに女性の役も男性が演じるのが特徴のスタジオライフが選んだのが男性しか生まれなくなった星で選ばれたマザーだけが見かけの上で女性化させられるよーになっている「マージナル」というのが何か示唆的。無理さが漂う雰囲気って奴をこれならばっちり表せるってことなんだろー。

 もっとも、スタジオライフの男優が女性を演じる時って無理な裏声も媚びた動きもしないで関係性と状況から、女性であることを感じさせるよーになっている訳で、男性が変化させられた女性っぽい存在を演じる時も、そういう役どころだと理解しそういう存在がどう敬われ、どう思考するのかを噛みしめなくちゃいけないってことになる。大変だなあ。あとSFなだけに大仕掛けもたくさん。どう演出するか。どう舞台を作るのか。砂漠編とシティ編に別れた舞台もどう切り分けられ、どう繰り広げられるのかに興味津々。1カ月もの長丁場だからどこかで選んで是非に行こう。原作は存分に読んだはずなんだけれど随分と忘れてしまってる。読み返したいけど家のどこに置いてあったかなあ。文庫で探そうにも昨今の書店はもーさま、あんまり置いてないんだよなあ。哀しい時代になったもんだ。


【7月6日】 ようやくやっと見たアニメーション版「西洋骨董洋菓子店」は実写取り込みっぽい小道具やら背景やらに2次元テイストのよしながふみさんキャラクターを配置し動かすってアクロバティックな作画っぷりにまず感嘆。見た目こそ動いてないっぽく線もこなれていないっぽいけど漫画な味がまんま残ってるっていえば言える訳で、そこにあのリアルな背景を重ね合わせてみせるんだから、完成までにかかっている手間はきっといろいろとものすごいに違いない。ノイタミナじゃあ絵的に「働きマン」がまるで駄目だったけれどもそれと一緒にしちゃあちょっと拙いかも。冒険っぷりでは「パラダイスキス」くらいの凄さか。要注目。声は原作に深い思い入れがないんでまあこんなところか。三木が諏訪部だとどうなったかなあ。

 あっつい。が夏なので当然なので冷房はかけず(かからない)換気扇を回しつつ扇風機をぶん回して寝て起きて溜まっていた本を段ボールに詰めて倉庫へと運んだら汗が出た。健康健康。それから西船橋駅の中にあるカレー屋さんでチキンカレーを食べたらなかなかの辛さに満足。850円と値段はややお高めだけれどラーメン1杯に1000円近くかかる昨今なので仕方がない。そんな感じにひりつく舌を引っ張り地下鉄で木場まで出向いて「東京都現代美術館」で今日が最終日らしい「大岩オスカール展」を見物。前から名前も知ってたし何より同年齢ってところが気にはなっていたけれども会田誠さんとか小沢剛さんとか、「明和電機」の兄貴で社長だった土佐正道さんなんかが作ってた同期会みたいな中でも名前こそ目立っても作品として大きく目立つところがなかっただけに、いったいどんな感じの人かと見たらこれがなかなかに絶望系でありました。

 あるいは終末系? 描くモチーフとしてはロボットっぽいメカとか都市とかいった無機系でそれらがタッチこそ温かみのある筆遣いなり色なんだけれどもしょせんは機械に都市だけあってどこかに文明が栄えた果てに衰え滅びていった後の様子を創造させるところがあって見ていて人類の未来を示唆されているようでシンミリ来る。1つの部屋の四方にはられた都市に被せて花とか犬とかがちりばめられているシリーズなんかも同様に、滅びた都市を静かに多うタンポポの寂寥感なり戦いの果てに人っこひとりいなくなった都市を生き物の王として君臨する野犬の獰猛さなんてものを想起させ、そこにいなくなった人間たちの愚かさを思わされて悲しさと、わずかな怒りが持ち上がる。

 朽ちた戦車が大きく破壊された境界を挟んで対峙しているよーな作品も同様。そこにたとえば拳振り上げ憤る人間なり殺戮の果てに肉塊となった人間の遺骸でもあればメッセージは直裁的になったのかもしれないけれどもそうした有機的で情動的なファクターをまるで排除し、滅びの果てをのみ記したそんな作品が並ぶとあるいは大岩オスカールさん、人間が嫌いなのかなって思いも浮かぶ。っていうかショーケースの中に飾ってあった絵本的な作品をのぞくと展示されている作品のことごとくに人間の不在が写し出されているその様に、人間がもたらすもののどちらかといえばマイナスによった可能性なんかを見出し考えてみるのが今回の展覧会のひとつの受け止め方なのかもしれない。それとも人間を描くのが下手なだけ?

 戦場とかテロの現場とか土木工事とかいったいろいろなニュースの写真とかを参考にして描いているっぽいところが大岩オスカールさんにはあって、それゆえに構図なんかも決まっているけどそんなものを参照せずとも団地が、都市が強大な力によって崩壊していく様を描き切った「童夢」なり「AKIRA」の大友克洋さんの凄さってのも同時に思い浮かべてみたり。都市の衰え滅びていく様ばかりが描かれているアンソロジーみたいな作品集ってのも見てみたいなあ。「銃夢」の木城ゆきとさんとか安倍吉俊さんとかも混ぜて。

 そこから上の庭園を描いた作品なんかが飾られたギャラリーをずるっと見ていたら中にどっかの外国人の親子連れとかいて姉貴だか妹だかの方が妙にローライズなジーンズを履いていたんでしゃがむと外国人だけあって真っ白いお尻が半分以上見えちゃってて目に毒というか薬というか。触るときっとふにふにとしてたんだろうけれどもそれをやってしまうと後が大変なんでやらずに遠目で眺めて薬になったか毒になったか。さらに地下へと回って東京都庁だかに飾られる若手アーティストの作品展を見物、みんな美味いなあ、具象も抽象もなかなかのがあったけれどもどれがどれとは覚えていないのが残念なことろ、ってか数多すぎ。「VOCA展」みたくカタログとか完備してればそれでも覚えられたんだろうけど眺めるだけではちょっと流石に覚えきれない。まあいずれそれなりな人が出てくるだろうからその時に。中庭に出ていた巨大なアルミホイルの山が壮絶。近づくだけでホイル焼きにされそうな夏の午後。

 合間に読書はHJ三昧。まずは「ミスティック・ミュージアム」って藤春都さんの作品は第2回NJ大賞の佳作になった作品で大英博物館に調べにいった大学生のダドリーが眠ってしまって気づいた夜中の博物館でみつけた小さな女神像から現れ出たのが薄着の少女。何でも神様だそうで昔からあがめられていたんだけれども女神像とともに英国へと連れてこられてしまったらしくどうしたものかと悩んでいたところに自分が見えるダドリーが現れ一緒に街へと散策に出る。そして故郷を訪ねる旅に出たならそりゃあどこの「狼と香辛料」ですかって話になるんだけれども故郷に戻ることはせず、女神像から現れる女神様が見える館長の理解も得つつダドリーはアルダと名付けた女神様としばらく同居を始めることになる。

 そんなダドリーをねらう影。女神像にまつわる怨恨らしー事件の謎を解決していくミステリー的な要素もあるけれど、それがメーンになるのかあるいは蒸気機関車が走るロンドンに現れた女神様が唐変木なダドリーくんと繰り広げる冒険がメーンとなるのかは今後の展開次第と言ったところ。「狼と香辛料」みたいな商業的設定はないんで毎回のテーマを事件とその解決ってあたりに置きつつ発展していく大都会で神様ってのは果たして存在できるのか、それとも存在理由を失っていってしまうのかってあたりも描かれていくことになるんだろー。でもってひとりでも信じてくれたら女神様は空だって飛べるし湖の水を飲み干すことだってお茶の子さいさいって所を見せてくれるんだろー。普段は子供な女神が力を発揮するとグラマラスになるってそりゃあどこの「ポリフォニカ」だ。

 そして第1回NJ大賞の奨励賞を獲得した花房牧生さんの「アニスと不機嫌な魔法使い」。これはなかなかな。幼い頃に教会に預けられながらその属性にいろいろあるらしー少女が教会から預けられたのがシドって少年の姿をした魔導士の家。実はとっても老齢らしーんだけれどとある事情で不老ののろいがかけられているシドはそれが原因って訳でもないけどいつも無愛想で、やって来たアニスにもぶっきらぼうに当たってはアニスを悩ませ怒らせる。

 そこに事件。シドとは昔からの腐れ縁らしい悪い魔法使いがアニスに眠る力を狙って辺りに出没。そんな悪い魔法使いとは知らず前に仲良くなっていたこともあるアニスを惑わせシドを困らせ絶体絶命となった時、アニスの眠る力が発言して世界を救う、といった展開はまとまりも欲って1編の物語としてすんなり読める。ただ難敵を退けた先に果たしてどれだけの強敵を設定できるのか、それが果てしないインフレ合戦になっていかないかって所もあって続きを期待していいのか迷い所。シドが最強ってんならそれがどうしていろいろと不自由な目に遭っているのかといった理由を探るストーリーなんかもありそうだし、そんなシドとアニスがそもそもどういった関係なのかも明らかになっていないんで、やっぱり先には期待大。待ってます。


【7月5日】 また暑い。暑さにのたうち回りながらも心は底冷えした「マクロスF」はその本性を名実ともに明らかにしたグレイスが、赤いバルキリーのパイロットとの会話姿をまんま見せつつそれからお尻から火こそ噴き出さないまでもジャンプし何やら得体の知れない機械に腕を触手化して伸ばして操作。そして吹き上がる野良フォールドだか何かに飲み込まれて偽エキセドルは超時空シンデレラ(キラッ!)ことランカ・リーの初ライブを見ることもなく消滅し、当然のよーに偽カムジンも池の底から復活なんてあり得ないままおそらく死亡。でもって本当は銀河の妖精シェリル・ノームも一緒に消滅するはずだったんだろうけどそこは手の早いミハエルくん。薬を飲まずに復活したシェリルを後座に乗っけてバルキリーで飛び上がってはフォールドするバジュラの母艦にくっつきどこかへと飛んでいく。

 行き先はおそらくはやっぱりマクロスフロンティア船団の辺り? そして起こる戦闘の中でS.M.Sの仲間達に合流し、ついでにシェリルもアイハブコントロールとばかりに飛行機を操りながら「あたしの歌を聴けーっ」とやって敵船団を壊滅に追い込めたら良いんだけれどそれだとランカがどこに行く? でもってアルトはどこへ行った? 敵バジュラにカプセルに閉じこめられた形で飲み込まれてしまったランカの行方も含めて次回がますます気になる「マクロスF」。吹っ飛んだかに見えるグレイスもあれは端末で、本体は別にいたりしたなら合わせて復活ってこともあるのかな。ってかそもそも狙いは何なんだ。人類とバジュラを噛み合わせて得する勢力っているのか。それが監察軍って奴か。違うなあもっと卑近に人類の中の反フロンティア勢力か。銀河の妖精すら使い捨てにして平気な奴らを相手に果たしてどう挑む。せめて終了までにアルトの女装姿を見せてくれ。

 ボクシングな小説がなかなかな出来で、武士道な小説の続編も最高級に面白いんだけれどそんな初夏のスポーツ小説戦線でひときわ輝きそうなのが森絵都さんの「ラン」(理論社)って本。題名の通りにテーマはラン(走ること)だけど、競技として走って記録を目指すってよりは走ることを通して得られる事柄に狙いが定まっているのが前の2冊とは違うところか。父と母と弟を事故で喪い面倒を見てくれた叔母も病気で喪ってひとりアルバイトをしながら暮らしている22歳の女性が、近所で仲良くなった自転車屋のおじさんと会話できるまでになったけれどもその自転車屋さんにいた老猫が死に、気力を沈めてしまった自転車屋さんが店を畳んでしまった際に世話になったねと譲ってくれた、もう死んでしまった息子のために組み立てた自転車に乗ったら引っ張られるよーにたどりつけてしまった懐かしい場所があった。

 そこは女性が過去に喪ってしまったものを取り戻せる場所。ようやく出会えたその場所へと女性は自転車で何度も通うようになったけれども、その自転車だからこそ体力のない女性でもたどり着けば場所だったことが重要で、実はその自転車を未練に思ってとある場所から次の場所へと行けない魂があることを女性は知り、悩んだ果てに女性はその場所に自転車ではなく自分の脚で走って行こうと決意して、体力を付けるために誘われたランニングクラブへと入り、その場所にたどり着くために必要な40キロの距離を走り切れるようトレーニングを始める。

 未練って奴は死んでしまった人が現世に抱くものって思われがちだけれども現実、死んだ人間に思考など存在しない。存在するはずがない。そうした思考えはつまりは死んでしまった人を鏡に仕立てて、生き残ってしまった人の未練が写り跳ね返っているだけに過ぎないのだ。相手をだから成仏させる、すなわちセカンドステージへと送り出すのは死んでしまった彼らが現世への未練を振り払うのではなく、生きて残された自分の心に刻まれている未練を融かして流し去ることに他ならない。異界への境界を超えて交流を果たすといったファンタジックな設定は固まってしまっている心を融かして前へと向かう意欲をドライブさせるための仕掛けであって、仮にこれがリアルにそういう世界の存在を示唆しているのだとしても、あるいは逆に女性の空想の産物なのだとしても、女性が残った未練を融かし前へと進むために必要な方法として選んだのがラン、すなわち走ることだったんだっていった話なんだと言って言えば言えるのか。

 女性をマラソンに誘った陽気で強引な中年おやじにも何やら曰わく因縁がありそうで、調べて彼もやっぱり死んでしまったものの未練になっているのかと思ったら違ってすでに未練は解けていて、生きて残っているおやじの方が後悔として未練を引っ張って生きていたりしたんだけれどもそんな未練こそが余計なお世話だと分かり、再び走り始めたんだと判明するのもやっぱり世界は死者の未練によってではなく、生者の思いによって形づくられているんだってことを示している現れだったりするんだろー。生きていよう。生きて生き抜いてやろう。そう思わせてくれる小説って理解で良いのかな。ボクシングがテーマの「ボックス!」みたいなスポーツ根性的な楽しさもあれば、三浦しをんさんの「風が強く吹いている」的ながんばれベアーズ大逆転的展開もあって読んで心がスッキリさせられる1冊。頑張れば自分にだってって思わされるけどでもきっかけがないとなかなか。中のひとりみたいにリストラでもされれば走れるかな。リストラされなくたって自動的に……。あり得るねえ、まったくもって。

 駄目だ思い出せないんだけれども千川つとむのボディってのはどっかで修理中だったんだっけ、でもってその間を埋めるためにとりあえずバーディが融合しているんだったっけ、前のだとそんな設定があったって記憶しているんだけれども今のだとそういった設定になっていたのかはともかくいつまでもバーディの中にいるものだから、すっかりその体が脳裡に焼き付いてしまって夢にまで見て悶々。おまけに綺麗すっきり虫歯もなければお尻の傷もついていなバーディの体を素材につとむの体になってしまったものだから、幼なじみに見つかり偽物かって訝られてつきまとわれていたところに宇宙より犬男が到来。何やら探して独断先行していたことを咎め立てられ収容された際につとむと幼なじみと同級生もまきこまれ、宇宙へと連れて行かれたエピソードまでが収録された「鉄腕バーディー」最新刊には色の黒くて胸のおっきな偉い人とか出てきてビジュアル的にもなっかなか。でもストーリーは進まずクリステラ・レビって敵を倒せばクリアなはずだった展開の先も見えていないのが悩みどころ。とりあえずミッションを定めてクリアさせていくようにしないとこの先読んでてワクワクしてこない。ムラムラは出来るからそれで別に良いんだけど。もっとムラムラを。さもなくばワクワクを。どっちが良いんだ。

 そして大判にて昔版「鉄腕バーディー」の単行本にも未収録だった短編が収録された本も出ていてもちろん購入。「バーディー」については「少年サンデー増刊」に最初に登場してから最後に登場するまでをしっかり全部読んでいた訳なんだけれども、本編とはちょっと離れた番外編って確か大昔に1度、コロコロコミックみたいな雑誌スタイルの増刊のより抜き版だかに採録されたんだっけかな記憶はあっても作品としてもう1度読める機会がなかなか訪れなかっただけに、アニメーション化に伴うお祭りであってもこの度の採録はやっぱり嬉しい。粉砕バットを持ち上げて訝るバーディを21世紀になってまさか見られるとはなあ。しましまの水着も可愛いなあ。あとは子供なバーディーの「にぱっ」て笑い。そりゃあバッタさんだって恐竜さんだってイチコロなはずだよ。本当はこの可愛さと脳天気さを持った作品として完結して欲しかったんだけれどかなわず再度の連載となって、表面的には脳天気さで似通っているけどテンポと展開がやっぱりちょっとまどろっこしい。その分長く続いているから良いって考えもあるけれどでもやっぱり見たいぞ派手な展開を。さもなくば水着を。ムラムラを。だからどっちなんだって。

 もうだめかもしれないなあ、ジェフユナイテッド市原・千葉。というか工藤浩平選手がこんなに衰えてしまうとは流石にファンの誰も思わなかったんじゃなかろうか。姉ヶ崎のマラドーナって異名をとった思い切りの良いドリブルに攻撃力がすっかりなりをひそめてボールを持てばパス先を探してきょろきょろしているあいだに寄せられ奪われバスを出しても弱くてとられ、クロスをあげれば大きくオーバーしてしまいかといってドリブル突破もまるで見せられない。シュートチャンスでパスを出したり躊躇して詰められたりした場面を何度見たことか。走ってあちらこちらに顔を出してもそこで奪って攻撃の起点になる感じがまるでしないのがもの悲しい。そんな工藤選手をサポートする選手もまるでいない状況で、連動がなく走りがなく寸詰まりから反撃を食らって3点を奪われ東京ヴェルディ相手に轟沈。札幌が引き分けた間に上に行きたかったのになあ。まあいい残りはまだある。根本祐一もなかなかみたいだしここから反撃を。とりあえず札幌には勝ってくれ。勝ってくれ。せめて引き分け……では届かないのだよ。困ったなあ。土曜日のイブニングで1万人しか集められないヴェルディにもちょっと困ったなあ。


【7月4日】 暑い。始まったらしーアニメーション版はまだ見てないけど文庫の方は3巻目が出た島田フミカネさん原案でヤマグチノボルさん著による「ストライクウィッチーズ 参之巻 スオムスいらん子中隊はじける」(角川スニーカー文庫)はハルカちゃんがはじけまくってエロエロに。いやもう軍隊だったらそこへ直れと直立させてビンタの1つでもかまして落ち着かせろよと思うくらいに鬱陶しさを炸裂させては隊長の智子にカラみまくるんだけれどもそれと拒否できないくらに心地よかったか、それとも本当はそっちのケな人なのか。でもって現れたマカロニの国の准尉ちゃん。敵ネウロイの占領地に撃墜されてどうにか帰還を果たしたのは良いんだけれど記憶をほんと失っていたためエース級なのにウオムス送りのいらん子中隊入り。猪突猛進がウザがられてこっちもエースなのにスオムス送りされていた智子の妙技を即座に覚える腕前は見せて何とか戦力にはなり始める。

 そこに来襲のネウロイ。最初は謎の怪奇生物だったものが空軍陸軍みたいなものを編制しては爆撃機に戦車といった人間が使う武器に似たものとぶつけてくるようになって戦線は一進一退に。そして遂に送り込んできたその最新兵器に誰もが驚いた。おおこれは、まるで神林長平さんの描く「戦闘妖精 雪風」シリーズで人間が相手にしているJAMじゃないか。あっちはコンピューターを相手と認めて戦っていたのがどうやら違うと気が付いて馬ではなく鞍上の人間に標的を定めて人間に有効な敵を作り送り込むことに精出し始めて幾星霜、戦術的な武力による対決からいつしか戦略的な情報による攪乱にまでいたって大変なことになっていったんだけれどこっちはまだ始まったばかりで、粗雑さが見えてかろうじて撃退はできたもののこれからはちょっと分からない。

 地域レベルから全地球レベルで同じ事が起こってそしてJAMと同様に侵入し影響を及ぼし始めた時。いったい人類はどうなってしまうのかって興味が浮かぶけれどもそれだと「雪風」と一緒だからここはそうした大きな話は後ろで静かに進行させて、前では魔力をエネルギーに変えて足に履いた飛行脚を使い空を飛び、ネウロイと戦う乙女たちの乙女たちだけだからこそ起こるエロエロな世界を楽しませてくれれば僥倖。マカロニ准尉ってそんな性格だったのか。しかしいくら眠っていても目の前にすっぽんぽんの智子が現れれば即座に覚醒するハルカもなかなかな智子好き。どっちが勝つのかに注目、してたら何だよ変態もとい編隊飛行での撃墜ねらいか。そりゃあ羨まし過ぎるぜ智子サン。

 武道はスポーツか、って命題は昨今の外国人力士が大勢出てきた相撲界で起こっているこれは相撲かそれとも格闘技なのかスポーツなのかっていった騒動なんかとも絡んで来る話だし、それより以前から柔道なんかでも勝負の機微が薄れて見てくれのポイントを重ねることが勝利につながるといったルールになって、それで旧来から見てくれよりも真意を重んじるよう教育されて身に刷り込んできた日本の凋落が始まっていたりするって話とも密接に絡む。色付きの柔道着なんていったい何だそりゃ、って所もひとつの現れではあるけれども、色はまあ単なる見てくれに収まっても、技のひとつひとつの有効性とか無視した形のみで優劣を判断しがちな風潮には、やっぱり武道として柔道を嗜んで来た人にいろいろと異論がありそー。現に出てるし。

 じゃあ武道のまんまで精神性にこそ重きをおいたままで行けば良いのかっていうと、それだとこれだけ世界には広まらなかった可能性もあるだけに悩みどころ。スポーツとしての有用性も一方にあって、それを楽しんでいる人たちも世界には大勢いる訳で、そこに柔道は武道ななからもっと精神性を重んじなさいと言っても果たして通じるか。いや本当はそうしたものも加味しつつ、スポーツとしての楽しさも含めて発展していって欲しいもので、そうした道っていったいないものか、って辺りをさぐっていくのがこれからの武道をめぐる騒動を考察する上で必要になって来るんだろー。だからこそ誉田哲也さんもあの超傑作「武士道シックスティーン」(文藝春秋社)に登場した待望の続編「武士道セブンティーン」(文藝春秋社)でもって、武道とは、剣道とはっていった課題の探求に乗り出した。

 幼い頃からの天才剣士で、剣道は剣術で相手を叩き伏せて勝利することこそが至上と思い込んでいた“剛”の香織が中学から剣道を始めたというそれほど強く無かったはずの早苗に小さな大会で敗れてしまっていったいこれはどうしたことだそんなはずはないと訝り始まった2人の交流を描いた前作「武士道シックスティーン」では、やがてそれぞれに欠けていた香織だったら負けを知り己を知る心であり早苗は勝つことへの執念みたいなものを補い合って、剣道というものの深さと広さを2人が理解する所へと向かっていく。そこに起こった残念な別離で香織は神奈川に残り早苗は福岡へ。離ればなれになった2人はこれからどうなっちゃうの? って寂しさも残しつつそれでも“柔”も“剛”もひとつ同じく剣道なんだ、って感じに綺麗にまとまった感があった前作に、誉田さんはより強力な命題を叩きつけて今度は香織と早苗がたどり着いた武道としての剣道の境地に、でも剣道だってスポーツじゃんって風潮をぶつけて立ちふさがらせる。

 早苗が転校した学校は50人もの女子剣道部員がいて選手になるだけでも大変なもの。練習と選考会を経た上に相手のデータやら適正なんかも加味して最強ではなく最善の選手を選び出して相手にぶつけて勝利を目指す。なるほどスポーツ。それも究極的なチームスポーツ、クラブスポーツ、学校スポーツ、企業スポーツといった形でひとりひとりの精進のその上に組織体としての勝利が君臨しているその姿に、小さいながらもそれぞれが己を探求して強くなった成果としての大会があり勝負があったという場から移ってきた早苗は激しい違和感を覚える。指導にあたる教師も早苗の名字の甲本を「コテが弱いから」といって「河本」に無理矢理変える虐めっぽいことをして早苗は悶々。外国人のクオーターで剣道のスポーツ化に熱心な部活仲間のレナの強引さにも友人ながら違うんじゃないかと思い悩んだ果てに早苗はひとつの答えを出す。

 最初こそ相反するような武道とスポーツとの関係に板挟みとなって苦しんだ果てに自爆しそうな雰囲気もあったけれども、決して対立しっぱなしの概念じゃなくってそれぞれに理屈もあって理由もあって、その最良を汲み取り受け入れ融合させていくことで、21世紀の武道でありスポーツでもある剣道が生まれるんじゃないか、なんてことも考えさせてくれた「武士道セブンティーン」。“柔”と“剛”の対立と融合が前作だとしたら今回は“武道”と“運動”の対立と融合がテーマ、ってことになるのかな。なるほどこりゃあ大きい。剣道のみならず柔道に相撲に弓道に空手道にほかいろいろな武道に絡んだ問題だもの。よくぞ踏み込んだぞ誉田さん。

 武士道大好き少女の香織が前作で角がちょっぴり取れてしまって今作だとあんまり目立ってないような印象もあって、それだと拙いってことで虐められてる男の知り合いに頼られる役割を与えられてはいるんだけれどそこであんまりドラマはなく、どちらかと言えば遠く福岡で早苗が直面している武道とは、剣道とは、スポーツとは何なのかって問題に、神奈川にあって共に考えつつ、香織なりの強さと信念でもって導いていくってオブザーバー的な立場になっている。香織好きにはちょっと物足りないかもしれないけれども、ここを乗り越えひとつ“武士道”の下に結束した香織と早苗が、続くだろうし続かなきゃ嘘の「武士道エイティーン」でもって、スポーツ化しエンターテインメント化する武道の世界にそれでも武道なんだという魂の部分を残し尊ぶ風潮をもたらす活躍を見せてくれるものと信じたい。そして2人の対決にも。表紙は前が赤で今度は青なら次は白か。万城目学さんの推薦文も効いてるなあ。

 とある会社の社長が次はこれだと始めて立ち上げた子会社が、長い時代を経て安定したところに送り込まれて来た親会社の専務が、ようやく立てた頂点にはじけてしまって無茶をやって右肩下がり。こりゃあまずいとやって来たのが現場を知っているはずの本部長クラスなんだけれど、前より英断独断の類を振るえるはずもなく言われるがままの果てに外して右肩はさらに下がったところで切られた札が更に下がった部長クラスっていうこのシチュエーションがあったとして、さてはてどう考えたら良いのだろう。現場の機微は実感として分かっても、上へと幾枚も連なる組織の壁ってやつをとっぱらって己が感性でもって突っ走るなんて組織的には難しい。現場にだって取引先にだってその程度のプロジェクトなのかって印象を与えかねないんだけれどそうしたネガなマインドの欠片すら出せない塞がれた空気から生まれる物に果たして未来は。


【7月3日】 まあ1点差の負けなら次にアウェーで2対0くらいで勝てばそのまま勝ち抜ける訳だし1対0で買っても延長戦から勝ち抜くことは可能なんであんまり心配していなかったりする「ナビスコカップ」の「ジェフユナイテッド市原・千葉対名古屋グランパス」のカードは何でも巻vs巻の対戦も実現したとかで共に最前線で体を張るタイプなだけにぶつかり合う場面はコーナーキックとかの守備ぐらいだったんだろうけれどもすれ違ったりした辺りでいったいどんな会話があったのか、ちょっと聞いてみたい気が。

 とはいえ選手としては最前線に立って飛んで来るボールを頭で落とし胸でトラップしてすらすポストの技術については抜群な巻誠一郎選手と、シュートすら今ひとつ決まらなかったりする巻祐樹選手とではやはり雲泥。だからこそストイコビッチ監督も予選では先発だったものを外して玉田圭司選手にヨンセン選手のレギュラーをトップに入れて試合に臨んだんだろー。だからこその勝利、だもんなあヨンセン選手のあの高さ。そして上手さ。これがあってどーして去年とか中位に沈んだのかが分からないけど今年はしっかり使えているからやっぱり続く第2戦はいかにヨンセン選手を沈めるかに腐心、か。ジャンボ田中淳也の成長を僕たちはいつまで待てば良いんだろう。

 なんか夜中にやっているから再放送の「スレイヤーズなんとか」かと思ったら(といった感想多数)これが新作だった「スレイヤーズR」とやらは、繰り広げられるギャグのセンスも声優陣も10数年前とまるで同じで10数年前を必死になって見ていた層にはきっと嬉しい限りなのかもしれないけれども、10数年前から今日までのアニメーションの映像的作劇的展開的キャラクター属性的変化をまるで吹き飛ばして昔のまんまのことをやって果たしていったい誰が喜ぶのかっていったらそうか当時見ていた人が喜ぶんだし実際に喜んでいるみたい。まあほら30年前の「ヤッターマン」のギャグを見て喜んでいる中高年もいっぱいいるみたいだしヒットしたギャグはそれなりに永遠化するものだとここは前向きにひたすら前向きに解釈。して良いのかな。

 無印もNEXTもTRYも熱心には見ていなかったし劇場版はでじこだったサクラ大戦だったかと併映した奴を1本くらい見ただけのごく薄ファン。まあとりあえず3枚組のCDも買ってはいるけどiPodに入れて熱心に聞き込むまでには至っていない。だから「スレイヤーズ」のアニメ作品に深い思い入れはないんだけれど、それでも届いて来る10数年前に見ていた層の昔みていたまんまだという声に滲む共感と、そしてやっぱり抱いている今に通用するのかという不安がない交ぜとなった心理がとっても興味深い。あれだけの関心を読んでいた「スレイヤーズ」であっても今はそういう狭い層に受けていれば商売として大丈夫、ってことになってしまったということか。

 重ねて言うならもはやアニメは狭い範囲に届くのがやっとの状況に陥ってしまったのか。ああでも「ヤッターマン」は頑張っているし「ソウルイーター」はクオリティも最高級。そんでもって広い範囲に届いている。「スレイヤーズ」という作品はだから単独の事象として世代交代の波を今ひとつ、乗り越えられないまま来てしまったってことになるのかな、それはそれでちょっと勿体ないかも。あるいはリニューアルされた表紙絵を見て新しく中高生たちが入ってきた時のために、アニメの新作を確保しておきたかったのか。だったら小説をまんま描いている無印を放送したって良かったような。うーん結局のところ分からないなあ、今なぜ「スレイヤーズ」なのかが。要研究。

 声では鈴木真仁の声を久々に聞いたような。こういうすっとぼけた役って最近は新谷良子さんがすっきり抑えたいたっぽいから。ああでも鈴木さんだと夕乃先輩はイメージが違うか。松本保典さんは知らないうちに国民的お父さん声優になっていたみたい。緑川光さんは健在で多分出てくるゼロスの石田彰さんも大健在。そして林原めぐみさんと、そんな面子だといったいギャラだけで幾らかかるんだろうかと邪推。でもまとめてもきっとひとりの大塚周夫父さんには届かなかったりして。息子の明夫さんとの親子での共演って珍しい? 結構あった? 次回予告の「見てくんないと暴れちゃうぞ」は久々に聞いてもぐっとくるなあ。これだけは薄いファンながら懐かしかった。暴れたいなあ。

 550年とか昔に刷られたグーテンベルクの42行聖書が87年に丸善によってクリスティーズの競売でもって落札された時の価格が確か490万ドルで、手数料なんかも含めた日本円でのお値段がは7億8000万円くらいになったとかどうとか。叡智を教会がひとり占めしていた状況を変えて世界に等しく知識をばらまくことによって世界の歴史を大きく変えることになったグーテンベルクの“発明”の対価としてそれが高いか安いかは分からないけれども、当時としては印刷物として最高の値段がつけられたって所に世界もやっぱりその価値を認めていたんだってことは伺える。

 翻って現代も現代になって「ハリーポッター」シリーズのJ.K.ローリングさんが手でしこしこと描いた7冊しかない「吟遊詩人ビードルの物語」が友人知人に配られた6冊をのぞくたった1冊、オークションに出た時に落札された価格が400万ドルと聞いて果たしてグーテンベルクの42行聖書とたったの90万ドルしか違わないこのことに、どう思えば良いのかと悩む今日この頃。

 そりゃあ世界的なベストセラー作家による世に出るものとしては世界にたった1冊の本の価値は相当なものになって不思議はないけど、でもそれは歴史を変えた訳でも文明を創り上げた訳でもない、言うなれば人気者の手すさびの手芸品。それがあのグーテンベルクと並び立ってしまうこの実状をバブルと呼べば呼べそうなのかもしれないけれども価格ってものは欲しい人がいて売りたい人がいて、その間の需給バランスで決まるものであって世界に1冊の本が欲しいと願う人がいっぱいいれば、上がって当然ってことになるんだろー。

 なるほど警備員に囲まれてホテルオークラに届いた「吟遊詩人ビードルの物語」は銀で飾られた表紙を警備員がペン先を使って丁寧に開いて該当するページをようやく開けるくらいの貴重品扱い。別に乾いてボロボロに崩れ落ちる訳でもない本で、その気になればローリングさんが残る余生で何冊だって手書きで生み出せる本だったりするものをまあ何と丁寧に扱うものだと噴き出したくもなったけれど、これが世界のベストセラー作家となった人について回る価値ってものだ。崇められ奉られるその様にわずか10年で人はどこまででも高みに上れるんだと感じ励みとする方が僻むよりも嫉むよりもよっぽど有意義ってもんだろー。売上だって別に着服しないで寄付してるし。けどでもやっぱり羨ましいかも。手元にある橋本紡さん手の和本綴じ本、10億円くらいにならないかなあ。文庫化された「流れ星が消えないうちに」(新潮文庫)の解説は重松清さんで読み応えたっぷり。あの重松さんにここまで讃えられる作家になっていたんだなあ。ってか重松さん「半分の月がのぼる空」も読んでいるのか凄いなあ。直木賞の候補にどうして挙がって来ないのかなあ。


【7月2日】 フリーウェアのゲームが何かは分かっているけどそっちの世界がどうなっているかはまるで知らなかった身にとって泉和良さんの「エレGY」(講談社BOX)って本が見せてくれた、1人のクリエーターが己の才能って奴をゲームの形にしてアップして、タダで遊んでもらって評判ににんまりしつつもそれだけで膨れるお腹はないと、音楽やグッズなんかと作って売って稼いだりしている姿はなるほどネット時代のひとつの生き方かもしれないって羨ましくなったけど、でもそれって評判になるゲームが作れてこその好循環でちょっとスランプになってゲームが作れなくなったらサイトにアクセスは来ず評判は広がらずCDも売れなくなって金は切れ、電気は切れガスは切れ縁も切れて部屋からも叩き出されかねない羽目に陥るんで痛し痒しの紙一重。つまりはやっぱり大変なんだってことが伺える。

 そんなフリーゲーム作家の大変さって奴がにじみ出ているのは書いた作者がフリーゲーム作家だからで小説ではまんま自分がやってるフリーゲームのサイトの名前を出し、作家としての名前を出して実名までも出しているからてっきり一種の私小説なんじゃないかって思えて来るけど真相は不明。ってかそんなに世の中うまくいくのかコノヤロウって気すら浮かぶくらいにこの主人公、ネットで少女をひっかけよろしくやってしまっているからたまらない。いやそうでもないか。もはや限界ってところまで追いつめられて気が迷い、パンツの写真を送れとブログで呼びかけ自滅に走ろうとしたら何故か1人からメールが届いてパンツの写真も添えてあって、ファンだと名乗ってそりゃあどうもと挨拶したら近くに住んでるらしくって、出かけていったらマクドナルドに50個のハンバーガーを積み上げ待っていた。

 こりゃやべえ、まじやべえ、手首にはリストカットの後もあってとってもやべえと思いながらもひとり身の寂しさからか相手への同情心からか、関係は途切れず出会って会話しデートもしたりする日々が始まる。とはいえしかしやっぱりどこかメンタルに微妙なところがある少女。且つ主人公だって決して安定していない身なだけあってぎくしゃくしはじめたりしたその先。待っていた世界が沈みっぱなしの悲劇からでも人間浮かべるもんだなあって希望を与えてくれる。これがフリーゲームの世界じゃなくって売れないインディーズのミュージシャンの話だったらまんまケータイ小説として発表されて女の子と男の子の関心を誘いわかりやすさから人気も得て盛り上がりそうなくらいの単純明快なワープア&メンヘルヤンデレのラブストーリーとして人気も出そう。

 でもフリーゲームって一般に知られず成功したって成り上がりにはほど遠いジャンルが舞台にんっているからこそ、箱庭的なショボい世界の中でつかめる幸せの美味さって奴を親身になって味わえる。フリーゲームって何? って人にもそういう世界があってこういう稼ぎ方をしているんだって説明があるからそういうものかと思って読めば大丈夫。何よりエピソードの出し入れが巧みで文体もなめらかだからハマればあとはするりと一気に最後まで読めてしまう。その意味で献辞を寄せてる乙一さんや滝本竜彦さんの意見に同意。文学を破壊するってよりは文学に君臨しそうな才能の登場に送れることなく目を向けろ。フリーゲームはやっておいた方がいいのかな?

 気が付くと五輪代表候補が発表になっていて水野晃樹選手が落選の憂き目に。そりゃあスコットランドのセルティックに移籍してトップチームのゲームにこそ出てはいなかったけれど、試合勘さえ戻れば突破力もクロスの制度もダントツの所を見せられることはほぼ確実。集合して練習を重ねて壮行試合も行った上でそれから判断すれば良かったんじゃないのって気もしないでもないけれど、もはや五輪を踏み台にして海外になんて移籍する必要なんてないくらいのベストなポジションに来ている訳で、むしろ五輪なんて欧州じゃあ誰も注目していない試合に出るよりはセルティックの練習に最初っから参加して存在感を見せてトップチームへと上がりレギュラーは無理としてもサブとしてカップ戦なりに出場して、そこで活躍を見せる方がサッカーのキャリアを重ねる上でよっぽど好ましいんじゃなかろーか。落としてくれてここは有り難う、って水野好きから感謝を反町監督に。負け惜しみじゃないよ。

 表紙のまやが怖すぎる。指先のとんがり具合なんて「妖怪人間ベム」みたい。でもこれから迎える艱難辛苦を思えばこれくらいの真剣さがないと釣り合わないんだろうなあ「ヤングキングアワーズ」の2008年8月号の「ジオブリーダーズ」は追われ追いつめられた神楽総合警備を救うべく、まやがデリートされて電脳世界へと移ったもののそこにはデリートされて記憶も一部を喪ってしまった猫ちゃんたちがいたりした平和に見える冷めた世界。動かず進まない猫たちを説得しようにも難しい状況にさらに襲いかかってきた謎の動きの向こう側にいったいまやは何を見るのか。それは田波耕一たち神楽総合警備の面々の救出へとつながるのか。未だずいぶんと顔を見せない黒猫のことも気になるし、入江省三が告げた高見ちゃんの命運の本当はどーなのかも気になるところ。単行本も出てますますノリノリな中で果たして神楽はどこへと向かい化猫はどうなってしまうのか。ますます目が離せないけどでも最終回なんてなるのはきっとやっぱり10年後くらい、なんだろうなあ。

 そして「ヘルシング」は最後の大隊を率いる少佐の正体も明らかになってインテグラとの撃ち合いの果てに終末へ。ってかいったいいつから少佐はそうだったんだろう? 前の大戦時にまだ若いウォルターと美少女姿のアーカードが叩きつぶしたのはちゃんとした少佐だったんだろうか。どうなっても意志があるかぎり少佐は少佐だって自己主張をしているけれどもでもやっぱり中身が記憶と記録では大いに違う。そこで倒したところで記憶は偏在して復活する可能性だってある中で果たして本当にインテグラの戦いは終わるのか、それともさらに未来へと続いていくのか。のみこまれて消えてしまったアーカードの行方すらまだ未確定な中で瀕死のウォルターとかまだ残っていたりする相手に果たしてどんな決着をつけるのか。最後はやっぱりセラスの大活躍で終わるのか。やっぱり華麗な復活を遂げて中田穣治な声音で喋って敵を粉砕しまくるのか。続きが気になるけれどもこれも最終回は8年後くらいになるんだろうなあ。ゆっくりと。でも確実に。


【7月1日】 向き合わないで流し読んでは入ってこないと思い、両手でページを持って気合いを入れて真正面から真剣に読んだ桜坂洋さんの「SFマガジン」誌上ではむっちゃくっちゃ久しぶりっぽい短編「ナイト・オブ・ザ・ホーリーシット」は、第1作目の「さいたまチェーンソー少女」も2作目の「遊星からのカチョーフーゲツ」もどんな話かうっすらくらいにしか記憶のない中で、過去との話のリンクはあんまり気にしないっていうか気にできない状況だったからなのかもしれないけれど、1本の記憶をめぐる短編として歳をとり薄れ混淆しがちな僕自身の記憶力とも重なって、じんわりと迫って来るシンパシーって奴が浮かび、身の周囲をゆるゆると漂う。

 チェーンソーを振り回した少女だったんだっけ、霧崎文緒って女子高生をなぜかラブホテルで待つことになった代用教員が、ジリジリってネオンでも点滅してそーな場末感漂うホテルの一室でベッドに座って学校でも不気味な存在として認識されている霧崎文緒を待つ間、過去に子供だった頃に行方不明になってしまった少女を探そうとして仲間を募ったものの、最後は違う女の子と2人だけになってしまった記憶を振り返りつつ、今にしてみればお節介な話だったかもしれないと大人の感性を発露させ、重ねた経験も相まってだいたいのことが見通せてしまいようになった心情への倦んだ感慨を漂わせる。

 それが本当にあったことなのか、都合よく積み重ねられた模造記憶なのかすら曖昧模糊となってしまう大人の心理。悲劇とかいった事象に子供だったらそうなのねって横に流すところを、しがらみやら悲劇の記憶やらドラマやら何やらが積み重なってそれって哀しいことかもね、って心理を動かす回路が働き同情の涙が浮かんでしまいがちになる大人の感情。そんなものが浮かび漂う展開の中に、チェーンソーを振り回すエピソードを事実なのかそれとも架空の出来事なのかを曖昧にしたまま引っさげ霧崎文緒が入り込んでは、さらに幻惑的な空気を醸し出す。

 自分はいったい何をやっているんだろう? 崩れるような足場を感じつつそれでも確かさを求めて手を伸ばした先に触れる彼女の存在。有り難いなあ。でもそれって本当? そこまでに幻惑装置はないけれども、歪む現実へのささいな懐疑があるいはやがて全体をまぜこぜにして崩壊へと導いていくのかもしれない。どこへ向かうのかこの連作。次はいったい何時載るのか。出来ることなら急ぎまとめてそして単行本へと発展していって欲しいもの。っていうかこのトーンにこの文体なら文芸誌でも行けそうな感じ。狙うのだ芥川賞。

 世界の危機を救う力をやると言われてもらうとしたら何が良い? テレポーテーション? サイコキネシス? クレアボヤンス? テレパシー? それだけあっても降りかかる災厄にはとてもかなわない可能性があるけれども、ここにとある少年が得た力は瞬間移動も念動も、未来透視も念波も超えた威力を発揮して世界を危機から救い出した。いやあ凄い。こんなに凄い力なら自分も欲しい。っていうか世界の危機とか関係無しに欲しい。欲しい。絶対に欲しい。スカートめくり。スカウテ・メツ・クーリとかいった何語か分からない新種の超能力なんかじゃなくって読んでそのまま、スカートをめくりあげる力が世界を滅亡の危機から救うことになるとは、古今のスペースオペラ作家もファンタジー作家もハードSF作家も漫画家も、思いつかなかったんじゃなかろーか。

 だから佐藤了は画期的にして先駆的な作家として後生に語り継がれること間違いなし。その名も「世界の危機はめくるめく!」(ファミ通文庫、600円)って小説は、夢に現れた神様から世界は危機に瀕してるんで何か力をやるからそれで世界を救いたまえとか言われて、どうせ夢だろうと確信した宮田真吾って少年は、男の子的な興味を爆発させて女の子のスカートをめくりあげる力が欲しいと頼んで、目覚めてやっぱり夢だったんだととりあえず納得はしたものの、本当に夢だったのかと学校で試したら夢じゃなくてスカートがぶわっとめくれ上がって驚いた。もちろん見えた。しっかり見えた。羨ましい。でも同時に世界が危機に瀕していることも分かった。

 どうなるのか。そこに尋ねてきた住吉穂香って他校の少女。どうやら真吾と同様に夢で世界を救う力をあげると言われたらしい。そしてもらった仲間を捜す能力と、危機を察知する能力。その力で真吾と穂香は仲間を捜し、バリアを張る能力を持った少年と、テレポーテーションできるオタクな青年とそれから分身の術が使える犬を仲間に迎え入れる。犬もアリなんだ。とはいえ防御と探求と瞬間移動と分身の術では責め手に欠ける。期待された真吾の能力はけれどもスカートめくり。スカートを、めくりあげる、力。なので攻撃は出来ない。敵は倒せない、と思ったら、これが意外やとんでもない効力を発揮して、世界を未曾有の危機から救い出した。

 どーやったのかは読んでのお楽しみだけれども、しかしそういう敵が来てくれなきゃどうしたんだろうかは聞かないのが礼儀って奴か。それにしてもバリア使いは小学生の癖にエロくってオタクな青年は2次元方面でも対応が聞くエロへの関心があってそして犬も犬なりに下から見上げたりしゃがんだ女性の胸元をのぞき込んだりするくらいのエロさを持っている。そんな奴らからすれば真吾の力は神業級。危険が迫ってなければきっと崇められ奉られたんだろう。ネ申(ねもうす)とか言われて。

 けれどもそうではない危険なシチュエーションで、スカートをめくったって何の効果もあげられない役立たずっぷりを責められ咎め立てられ、普通だったら逃げ出す算段をして不思議じゃないところを妙に前向きに、強い意志を見せる真吾の態度があったればこそ取り戻した世界の平穏って考えると、誰かを倒せたりする特別な力よりも、仲間を思い世界を思う心って奴の方が、よっぽど世界平和には役立つって言えるのかも。人類皆兄弟。地には平和を。でもやっぱり欲しいなあ、スカートをめくる力。猿飛肉丸の「神風の術」とどっちが凄いんだろう。ブラのホックを外す力も悪くはなくって、後ろ手にもぞもぞしているその仕草に、美しさを覚える人にはまさに天啓かもしれないけれども、僕のゾーンからはややはずれ、か。

 でも暗黒卿なんだから、郵便局長なんかやらせた日には現金書留からお金を抜いて着服したり切手シートを抜き出し金券屋へと持ち込んで割り引いてもらうとかいった悪事を働きそうだし、コンビニエンスストアの店長になってもやっぱりフランクフルトを食べまくりペットボトルは飲み放題で余った弁当を独り占めして還って帝国軍の食事に充てて食費を浮かすくらいのことをやりそーな気もしたけれどもあれで昔はジェダイの騎士。平井駅の南口にある「ファミリーマート」の1日店長になってもダース・ベイダー卿、フランクフルトは囓らずストゥーム・トゥルーパーに命じて7月半ばに「幕張メッセ」で開かれるイベントのポスターを店内に貼らせたり、イベントのチケットを買いに来た仇敵のR2−D2を相手にしてもちゃんとチケットを販売してあげた。偉いなあ。

 しかし振り返れば30年なのか、「スター・ウォーズ」が日本で公開されてから。米国からは1年遅れで日本に入ってきた「スター・ウォーズ」をバンダイから出ていたムックなんかを読みつつまちわびていた一時期を経てようやく日本で公開が決まった夏。中学の1年生だったにも関わらず中学生だけで名古屋にあった「中日シネラマ」へと見にいったのが親に連れられてじゃない映画に行った最初だった。でもってもう1度見たいとお小遣いをかき集め、今度は自分1人だけで見に行ったのもこの「スター・ウォーズ」。それで熱烈な特撮マニアにはならなかったのは名古屋って土地の閉鎖性というか周囲に語らう人のいなさが理由にあったんだろうけど、ここで煽られたSFへの熱は「機動戦士ガンダム」で燃え上がり今へとずっと続いていたりするのであった。まさか「SFマガジン」で仕事をする日が来るとはなあ。

 だから「スター・ウォーズ」は原点。だから「スター・ウォーズ」はルーツ。そんな大事な作品の日本公開30年目となる日にダース・ベイダー卿とわずか数十センチにまで近寄れるとは。やっぱり自分とは切っても切れない間柄なんだと認識し、慣れない経済絡みの仕事を、金儲けに走って阿漕さも見え隠れし始めて、空気に二酸化炭素が増えたような感じが漂い始めた場所でしゃかりきになってこなすよりもルーツにして源流に近い場所へと飛躍して、ルーツであり源流に近い内容の仕事を粛々とこなす方が精神的にも健康じゃないかって思ってしまった今日このごろ。いやいやそれは怠惰という暗黒面へとベイダー卿が引っ張ろうとしているだけなのかもしれないぞ。うーん迷うなあ。迷ったらやっぱりルーツへとゴー、か。


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