縮刷版2008年4月下上旬号


【4月10日】 それから何だっけ、「クリスタルなんとか」ってアニメーションを見た記憶もあるんだけれども他の「モノクロームなんとか」とか「マクロスなんとか」とかすでにタイトルすら思い出せないバイク融合怪物バトルとかってのとハイターゲット狙いっぽい絵柄がごっちゃになってくっきりとした作品への印象が浮かばない。声は三木眞一郎さんだったっけ? 中年探偵のところに働くお姉ちゃんが亀を探して見つけて連れ帰ったものの却下されふてくされいたところに舞い込んだ大きそうな仕事をかっさらって同じ事務所の子といったらガラスの女がバンから現れ銃撃戦。威勢のよかった割には修羅場になると頭を抱えて亀になる女の子の身勝手暴走っぷりが妙に引っかかったけれどもまあ、人間ってのはそんなもんだよ恰好を着けてもイザって時には何にもできないものなのだ。

 んでガラス女は人間にも戻れるみたいですっぽんぽんで車を奪って闘争の果てにどーやらチームに加わることになったみたい。冒頭では野原でやっぱり燃え上がってはガラスになって動かなくなり、果てに砕け散った女も出ていたりしたからきっと生体か何かに秘密があるんだろう。実験体、っていったところか。声はそれなりに有名所だし作画もまあ安定。キャラクターの動きも悪くはないしミニスカートの女の子の脚とか捉えるショットもなかなかの美麗さ。とりあえずは見続けるけど永久に保存したくなるにはあと何かが欲しいよなあ、ストーリー的な意外性とかキャラクター的な爆発っぷりとか。「灰羽連盟」に「ノエイン」といったクラスの、毎回を見逃せずDVDだって買いたくなるストーリーと動きとキャラを持った作品。「図書館戦争」はそれになれるかなあ。「フルメタル・パニック!」は前回今回を腑抜けな展開。楽しいけれども緊張感が……。評判落としたのもこのあたりが理由か。まあ見るけどね、他のどれよりも面白いってのだけは実際だし。

 そらから落っこちてきた十字架型の巨大宇宙船が戦闘の煽りで宇宙に帰れなくなってしまって乗っていたすべてが女の子という宇宙人たちは地球人と共棲して暮らすことになったってそりゃあどこの「DearS」だい、って話しはさておいて夏海公司さんの「葉桜が来た夏」(電撃文庫、550円)は移民船だった十字架の巨大さに恐れを成した日本に駐留の米軍が核を発射してしまい十字架は破損し軌道もそれて琵琶湖の中へと突き刺さる。攻撃を受けたと感じた宇宙人、アポストリたちは科学技術の最先端を繰り出し日本に200万人もの死者を出したものの日本人とアポストリの間で誤解だったことが理解されてやがて和平の道へと向かい、宇宙に帰れなくなったアポストリはぐるりと壁に囲われた滋賀県周辺だけで暮らすようになってその地域にやっぱり囲われた日本人と共棲しつつ遺伝子をもらいつつ、代わりに科学技術を日本政府に分け与える関係を保ちながらどうにか平和を維持していた。

 そして共棲を義務づけられた歳に達した日本を代表して居留区に派遣されている大使を父親に持つ南方学にも相手が選ばれやって来る。それが葉桜という少女でアポストリならではの爆発的なパワーを持ちつつも性格はやや剣呑で早い話がツンデレで、学の所に住み込んではあれやこれやとぶつかりながらも仲を近づけようとする。もっとも学にはそんな気がまるでない。前に母親と妹を片腕のないアポストリによって殺害された経験があって、それを主張しても誰も取り合ってもらえなかった悔しさから、今も片腕のアポストリを見つけだしては母親と妹の仇を討とうと狙っている。たとえ父親の厳命であってもアポストリである葉桜なんて受け入れられないと拒絶していた所に不穏な動き。200万人を殺害された記憶を抱えているのかそれとも別の思惑からなのか、日本の中にアポストリ排斥運動を起こそうとテロを引き起こしている集団が現れ襲って来た。その中に学は大変なものを見てしまう。

 感覚的には居留地の男共に嫉妬心がメラメラ。二十歳前くらいで成長を止めるアポストリはどれもが絶世の美少女ばかりでそんな少女たちと一緒に暮らせるんだって言われたら居留地から例え一生出られなくたって良いじゃんって思えなくもない。場所も琵琶湖の近辺だから山もあれば湖もあってスキーだって水浴だって出来る。本とか映画とかって娯楽の類は手に入る訳だから別に大阪京都に東京とか出かける必要だってないんだろうけど果たして過去に200万人を殺害された経験があって、それが誤解だったと分かっても平気で顔を合わせていられるものなのか。自分たちが生まれる前の話、って割り切れれば良いんだけれど事情を知らないと逆に後付の教育でもって歪んだ感情を上乗せすることもあるからなあ、どっかの国とかで実際にあったし。過去を過去として理解し今を今として認めつつ生きることの重要さってものを感じさせてはくれそー。あとは蠢く策謀が果たしてどこへと向かい世界の中で日本とアポストリの立場をどう変えて行くのかって所にも。続くかな。

 えっと誰? 「月刊ニュータイプ」の2008年5月号についてた別冊の「コードギアス 反逆のルルーシュR2」特集で最後のページに日向、双葉、水無瀬って名字の3人娘が載っている。どうやら「黒の騎士団」に参加するみたいだからオープニングでもってすーっと動く映像の中にチラチラと見える目新しそうな3人がこいつらか。パイロットオペレーター。そうだよねヴァネッサ、シャミー、キムの時代からオペレーターは3人娘と決まっているんだから。あと設定集だと会長ことミレイ・アッシュフォードは何か見事に留年していたみたい。だからあの場面で学校にいたのか、記憶を操作されてまだ18歳だと思い込んでいた訳ではないのか。そんなミレイを叱ったヴィレッタさんの設定にロングスカートで髪を下ろした千種の絵が1枚。前のシリーズから引っ張って乗せたんじゃないだろーからそんな恰好を本筋なり、回想で見せるってことだろー。よりを戻すか扇。愛の力で「黒の騎士団」へと引っ張り込むんだ。ナナリーも立ち姿の設定イラストがあるんだよなあ。車椅子でもすらりと伸びる脚を見せてるし。あれで立ち上がるととってもスタイリッシュなんだよなあ。立って欲しいなあ。というか出るのはいつ頃になるんだろー。また聞きたいよ、ニャーの声。それにしてはアーサーの設定が、ないぞ、どこへ言ったアーサー。


【4月9日】 やっと見た「モノクローム・ファクター」は白い髪をしたものすごい美人がうっすらと紅の差された唇と優しげに潤んだ目でもって迫ってきてクラリとしそうになったものの出てきた声が猫屋敷さんだったのに背筋を下ろし金で削られるよーな衝撃を味わい思わずワイヤレスヘッドホンの音声をゼロにする。ああ美人だ。美人なのに。声が。猫屋敷。というか諏訪部さん。それぞれに単体では素晴らしいのに。長いコートにシルクハット姿ってどこのアーカードですかって感じだけれども未だ判然としないその正体と、巻き込まれたのか運命づけられていたのかはともかく戦いへと身を投じる少年の行く末なんぞを気にしつつしばらくは見続けよう。でもなあ。モチベーションとなる絵が声抜きの白銀だけではなあ。

 その点で再放送がスタートした「フタコイ オルタナティブ」の方は輸送機の中で飛び跳ねる双子の駆け回ってはちらりと見せたりする絵の愉快さもあるしそれがなくなる2話以降もイカ星人だかと戦うおやじのアクションの凄まじさとか、探偵事務所におしかける双子の心の揺れる様だとか外見的内面的に見るところも多々あるんで再放送ながらも見ていけそう、ってかこれって前に確か録画したよなあ、壊れてDVDが焼けなくなってるRDのX3に入ったまんまなんだっけ、それとも更に前のビデオカセットの山の方? 探してみるか、DVDボックスを買う金も乏しいし。

 それにしても「フルメタルパニック!」といい今回の「フタコイ オルタナティブ」といい唐突過ぎる再放送はいったい何が狙いなんだろう、「フルメタ」だったら文庫本が山場でもう人盛り上げしたいって意図も感じられないでもないけれど、「フタコイ」の方は前の双子がわんさかなオリジナルの方を放送しないで「オルタナティブ」ってのが分からない。評判を取った作品だし「空の境界」のユーフォーテーブルが手がけた作品だし見たいって人もいるだろうけど改めて放送したからってDVDが大きく動くとも思えないし。1万円くらいの廉価版でも出れば別だけど。再放送によって収入が得られる所に何か思惑でもあるのかな。それともいよいよ現場の人材が払底して予定していた枠に大穴が開き始めてて穴埋めの再放送探しが始まっているのかな。どっちだって良いけどそれなら是非に「セラフィムコール」あたりも再放送を。DVDを買うには躊躇われるけど見て衝撃を再び受けること請け負いな怪作だし。

 気が付くと「本屋大賞2008」の発表が終わって伊坂幸太郎さんの「ゴールデンスランバー」(新潮社)が1等賞を獲得してた。これまで幾度となく(ってすべての回で?)ノミネートされながらも受賞を逃す一方で、直木賞とか山本周五郎賞とかいった文壇的に大きな賞もやっぱり候補止まりを繰り返してきた伊坂さんなだけに吉川英治新人賞と日本推理作家協会賞に続くタイトルが加わったと考えればまあ目出度いこと。とはいえ既に知名度もあり店頭に並べればそれなりに売れていく伊坂さんを「いちばん売りたい」って大勢の書店員さんたちが考えているってのも、新しい物好きでなにがしかの発見が欲しい身にはちょっぴり寂しい話、だったりする。

 それこそPOP1枚で誰も知らなかった本を何百冊も売ってみせたって本屋さんの凄みを組織的に発揮して、未だ無名の存在を世に出し世間もこっちも驚かせてこその賞じゃんって、感じないでもないけれどもまあ本屋さんの本屋さんによる本屋さんのための本屋大賞を一介の本読みがどうこう言うのも詮無いこと。こっちはこっちで候補にもならない作品って奴を頑張って読んで紹介していくだけだ。1000冊も近いし「積ん読パラダイス大賞」でもやるか。直感と思いつきでこれと決めた1冊を取り上げ喧伝しつつ著者には家の中に転がっているガラクタを送りつける迷惑な賞。今だと何が転がってたっけ、黒田征太郎さんの巨大な絵の部分を切り取った断片とか、既に連載も終わってしまった「美鳥の日々」の手にはめる美鳥フィギュアとか。サバイバーショットのガイナックス仕様(本体にロゴのペインティング。綾波イラストのカバー付き)は勿体ないからパス。「新世紀エヴァンゲリオン」のパーフェクトグレードのプラモデルもそういやあったなあ。部屋が狭くなる訳だ。

 「ゴールデンスランバー」に比べればお先まっくらだった神楽総合警備にもちょっぴり巧妙が見えたか「ヤングキングアワーズ」の最新号で入江省三と喋った田波洋一は、保存してあるディスクから化け猫を解放するぞと脅してどうにか無事を得ようとするものの相手はあの入江だけあってなかなか難しそう。会話によれば高見ちゃんにも異常が起こっているみたいで、言葉をそのままとらえるならば命にかかわってすらいそうだけれどもこれもやっぱり入江なんでブラフと思えば希望も抱ける。というより抱きたい。ハウンドの配備もきっと行われているだろう中でしばらく前まで裸で激突していた田波と成沢が今度は手に銃器を持った形で敵として激突する、なんて場面もあるのかな。それよりいったいどこで何をしているんだ黒猫。最後に出てきて美味しいところを全部持っていくのかな。


【4月8日】 よくわからないCGバイク乗りのアニメを見たら得体の知れない怪物がバイクを融合しながら飛びまわっていたけど、最後には天才と呼ばれながら怪物の起こした騒動でケガをして再起不能になったライダーが変身して怪物を粉砕して、いったい何が起こったのかと理解する間もなしにエンディング。主役はつまりはあのおっさんライダー? 汗くさいなあ。というかしかし設定面でもキャラクター面でも現時点ではつかみ所の少ないアニメ。あるとしたら怪物を追う組織の多分オペレーターか何かの眼鏡っ娘くらい? レースのシーンがあまりにCGでふと「IGPX」を思い出した。あれもスピード感こそあっても重量物が大地を蹴って疾駆する重みって奴があんまりなかったもんなあ。ともあれ1話を見終えて次回はどうしよう。眼鏡っ娘次第か。出るのか。

 何故に買ってしまったかはおそらくBSフジで土曜日あたりに再放送していた「HEY! HEY! HEY!」に出てきた姿のあまりに深い谷間っぷりにこれが舞台で唄い踊ればさぞや壮観だろうって下心の囁きかけによるものだろーけれども実際に見たDVDに登場した浜崎あゆみさんは山も高けりゃ谷間も深くてそしておみ足もスラリと綺麗。初のアジアツアーってことでセットリストも割に昔目のテレビなんかでも良く聞いた曲が多くって耳障りの良さと目映りの良さをダブルで楽しめた。なかなかに素晴らしいDVD。だけど世間的にはライブに挟まったアジアツアーのドキュメンタリーが長くて曲を圧迫いている点が不評なよーでライブとドキュメンタリーを分けて収録して欲しかったって声がネットのレビューとかには溢れてる。

 なるほど完成されたライブを通して視たいって気もするけれどもライブはライブで視てこそのライブであってそれ以外で見せては価値も伝わらない。だから渇望を誘いライブに脚を向けさせるにはこれくらいの小出しの方が良いのかもしれない。それに別に入っていたらきっとドキュメンタリーなんて見ないだろーから織り交ぜ強制的に見せることだって必要。見ればそこに映し出されている浜崎あゆみさんってアーティストがステージにかける熱情の濃さみたいなものがビンビンと響いてきて、周囲によって持ち上げられたお姫様なんかじゃないチームを率い導いていく女王だってことを心の底から理解できるよーになる。こんなアーティストならもっと聞いてみたい、ずっと聞いていきたい、なんて気も湧いて来る。

 そりゃあプロのダンサーに比べたら踊りだって及ばないかもしれないけれども彼女はシンガーでありトップであって周囲のすべてはダンスもバンドもセットも何もかもが彼女を引き立てるために存在するんだから仕方がない。浜崎さん抜きでステージなんて成立しない。それに自分がどうだからって他人のダンスを批評できない訳じゃない。どこかなれ合っていると見た目もきっと正しかったんだろう。そう理解したからこそメンバーは気合いを入れ直して残るステージに臨みフィナーレを迎えることができたのだ。新曲を披露する上であまりに新曲とかけ離れたアレンジにされることを嫌がるのも当然。そこで聞いた曲が後にラジオとかで流れて来る曲と重ならなければライブで披露する意味、ないもんね。ちゃんと考えているんだなあ、自分のことも、リスナーのことも。

 シルク・ドゥ・ソレイユみたいな優雅なサーカスなんかで披露される、天井からつり下げられた長い布地に身を巻き付けながら躍ったり落下したりするパフォーマンスを、普段からツアーに参加してくれているダンサーが演じようとして何ヶ月も頑張ってどうにかマスターした演技を見て、ステージでは使えないと却下した場面なんて実にプロっぽい。そりゃあ仲間なんだから頑張りは讃えたいだろうけれど、プロのサーカス団員が何ヶ月も何年もかけてたどり着いた境地にはさすがに至っていない。けれどもライブを見ている人はそれを演じる人たちが数ヶ月の頑張りの成果だと感じて讃えることはしない。プロにしては下手な奴らを呼んだものだと誤解する。プロが作る舞台なんだから徹底してプロであるべき。到達していないものを見せるのは恥。そう客観的に判断して涙を堪えて退ける。そこまでして創り上げていく舞台。こりゃあ生で見るしかないだろー。

 とはいえ流石にこの歳で、あゆのコンサートに行く気力も体力も財力もないからやっぱりDVDで楽しむより他にないのが寂しいというか。まあアリーナの後ろの方からかすむ谷間を眺めるよりも、DVDでカメラにくっきりと映し出された谷間を眺める方が性に合っているから別に構わない。最前列で見える機会なんてものを頂けるほど業界人でもないし。それにしてもベースのエンリケ、「バービーボーイズ」で弾いていた時とあんまり変わらないなあ。それ以上によっちゃん野村義男さんもたのきん時代から変わってない。マッチと言いトシちゃんと言い昔のまんまのやんちゃっぷり。あの3人はやっぱり抜きん出ていたのかなあ。

 最初っから白川方明さんを日銀の総裁にするつもりだったんだけれどいきなりやっちゃあ高年の世代から異論も出る。なのでとりあえず財務省の事務次官経験者を1人ぶつけて拒否されてもしつこくぶつけて時間切れを引き起こし、暫定として代行に副総裁の白川さんを据えておいてそのまま引き上げる目論みがこれでまんまと成功したってことか。どこか学者然とした所もあって生真面目そうな人だから財務省の事務次官出よりは与党にとっても野党にとっても御しやすい。だから下ではつながりながらも表ではカードを出して拒否する芝居を見せたんだって想像も出来るんだけれども現実のところはどーなんだろー、白川さんなんてもう15年も喋ってないし。昔は普通の頭が良さそうな人だったなあ。それがあちらは日銀の総裁。こちらはただの平。これが格差社会という奴か。違います。そうですね。泣けてきた。


【4月7日】 角度が重要なのだ。それと照明。あとはやっぱりメイク、と。「AERA」の2008年4月14日号が表紙に美人を掲載。芥川賞を取った川上未映子さん。半身になって構えた姿は胸元の大きく開いたドレスでハーフカップな感じに持ち上げられた形のよい双房の間にくっきりと出来た谷間がそそる。目線よりやや下方より撮られたらしい関係で顎があがり視線はキリリと前を向く。くっきりと出た顎の線に引き締まった頬の肉。皺のひとつだってない綺麗な顔がこちらを向いてキオスクのラックから睨め付ける。買うっきゃないでしょこの顔立ちなら。

 んでもページを繰るとそこにはおそらくは芥川賞の授賞式での川上さん。受賞が決まってから続いた多忙な日程のせいか、はたまた夜に及んだ授賞式のためなのか顔にてられらと輝きがあってエネルギッシュさ、生命力と同時に生活感も伺わせる。下方向からのレンズに見下ろす形で撮影に応じたことも原因か、下へと折り曲げた顎には首から皮とその下の脂肪がまわって厚みを醸し出す。加えて満面のほほえみが口の脇に胸元とはまた違った愛くるしさを感じさせる溝を作り出す。表紙の年齢なんて無用な面もちの女神とはまた違った歳に相応しい人間がそこに映し出されている。

 どちらが好みか? なんてのは愚問。もとより好もうとも近寄るきっかけなど皆無な向こう側の人だけど、仮にいつかどこかで近寄る機会があったとして、そこで表紙のような女神の様を見せられれば讃え足下にひれ伏し、記事のような人間の姿で見えられればそれはそれ、感涙にむせび頭を垂れるのだ。とかなんとか。撮影にはミニスカートで臨んだってあるけどそんな感じはまるでなし、ってか映ってない、勿体ない。坂田栄一郎さんの「AERA」表紙展にはそんな全身とおみ足の映った写真を是非に展示して頂きたいものである。

 記事には「内容でなく、文体が注目されること」を「はがゆい」と言っているけどそんなに文体に驚きがあったっけ、句読点の少ない状況描写と信条描写の混じり合った連続なんてものはウェブに散らばる日記なんかでも割とある。自在に討たれた句読点ってのも同様で問題にすべきはその句読点が読むリズムにどんな影響を与え内容の理解にどんな効果を挙げているかってこと。自在さの村側の目論みはおそらく、音読してみると分かるんだろうけどそういう議論はあんまり目にしない。むしろやっぱり内容の方で惹かれる世代性別人種も多いって気がするんだけれどなあ。それだからこそ芥川賞を受賞できたんだと思ってた。言っちゃなんだけど美人があけっぴろげに性愛やら何やらを語るような小説。読みたくならない人ってあんまりいないから。

 先例もいっぱいあって、山田詠美さんはそのワイルドな人生を感じさせる小説で生き抜いてるし、柳美里さんも私小説めいて日々と情念の渦巻く話で生き抜いているけどそういう方向に川上さんも行くのかそれとも文体を磨く方向へと走るのか。商売的にはその容貌が前に浮かぶ私小説的な方向が良さげなんだろうけれども消費と戦うのが大変そう。むしろだからことは私小説的な完成で瞬間を切り抜き独特の文体でもって活写するような方向へと、進んでいけばのぞき見的な感性を満足させつつ新しい地平も切り開けそうな気が。まあどっちにしたって他人事、メディアを介してどんな紹介のされかたをして消費されそうになって、それをどう逆手に取って手玉に取って進んでいくのかを彼方より観察して行こう。

 読むかと聞かれれば仕事なんで読むと答える「日本経済新聞」だけれどそればっかりが新聞って訳じゃなしそもそもが王道を行く「新聞」から見ればちょっぴり“異端”な存在なんだけれども昨今のビジネスシーンにおいて、いやもはや社会に生きる人たちにとって日経を「読む」か「読まない」かがひとつの分かれ目になっているらしい。それも仕方のない話で一般紙が書く情報なんてものはとっくにテレビが多くをニュースとして伝えていたりする。論調も右だろうと左だろうと予想の範囲内。おまけにネットにあふれかえっているからわざわざ買ってまで読む必要がないし、読んでいるかいないかが人間を判断する奇人にならない。いやいや守備が極めてライト線ぎりぎりかくらいは判断が付く。青い題字のあの新聞を好んで読んでいる人の場合は。

 ともあれ「読む」「読まない」の指標に挙げられるくらいに経済情報では独壇場の二歩経済新聞。それもそのはずで「週刊東洋経済」の2008年4月12日号の特集によると東京本社の経済部金融部産業部証券部消費産業部だけで部員の数が350人以上に及んでいたりする。中にはデスクとかも入っているだろうから2割を惹いても280人。他の新聞社で経済部に所属する記者の数なんてせいぜいが50人から80人といったところだからかないっこない。

 しばらく前に産業専門紙と一般紙の編集部門を統合して人数が増えたぜ、日経に継ぐ規模だぜって喧伝していた所もあったけれども、純粋にライターの数だけ見たらどうだろう、5分の1から7分の1? それで取材インフラも整い経費だってまだ潤沢な日経を相手に戦おうったって鷹得るはずがない。そこに加えての新媒体の創刊なんて無理も無理。なんだけれどもそこは頭打ちな本媒体をどうにか維持しつつ、新媒体でもって数字を膨らまさないと大変だからやらざるを得ないというか。んでもって戦力は分散されて逐次投入の弱さから各個撃破の憂き目に会う、と。分かっているんだけれども止められない。

 もっともそんな日経だって3人まとまるまでは深夜帰宅のハイヤーは使えないってことらしー。タクシーじゃなくハイヤーなんだからまだましじゃんとかもはやタクシーすら無理で電車のあるうちに帰るのが定めな所もあるんだぜとか異論もあるけど、ともかくいろいろ厳しい模様。「東洋経済」にはそんな厳しい新聞業界の話が国内外も含めてわんさかと盛り込まれていて身に寒さも迫る。首には涼しさ。突破口となるのはネット方面への展開なんだろーけれども、それだってネットに流す情報があってこそのビジネスで、希薄化されたリソースでもって挑もうとしたらやっぱり各個撃破を喰らうだけ。そう考えれば分かりそうなんだけれども背に腹は、って気持ちが先走ってあっちにちょこちょこ、こっちにごちょごちょってなってしまうんだろー。虻蜂取らず。かくして世界は大多数の「日経を使う人」と少数の「使わない人」に分類されていくとゆー。参ったねえ。

 喉の痛みもピークな中を静岡方面まで出向いてロボットっぽいものをいっぱい見てくる。そうかそーやって作っているのか。場所を聞いて記憶を遡ったらそうだった、2000年に静岡まで「大道芸フェスティバル」を見物に行った際に「葵博」ってたぶんNHKの大河ドラマに関連したイベントが開かれている東静岡の会場でも大道芸が見られるってんで静岡鉄道を乗り継ぎ降りた駅が長沼だった。当時に何があったかは記憶していないけれども今はまさに真ん前。隣の高校も嬉しかろう、って思ったら案外に工業系の学校にとって上はトヨタにデンソーといった大手企業。その筋では知られていても玩具の会社じゃあやっぱりなかなか見てもらえないってことっぽい。でもほら、夢をカタチにできる職場ってそうはない、デカい所でパーツになるよりこっちで1体、作り上げてみないかって誘えば……無理か世界一が相手じゃあ。ああ喉がいたい。


【4月6日】 喉が痛い。風邪っぽい。電気毛布は未だ稼働しているけれども熱さに布団をけ飛ばしてしまったのがどうもいけなかったか。んでもって寒暖の変化が激しい中で風邪をひいたと。肩が痛い。熱はないからインフルエンザじゃないっぽいけど用心にこしたことはないと鷲宮方面に大騒ぎを見物に行くのは断念、蘇我へと出向いて「フクダ電子スクエア」ってのが出来たってんで看板を写真に取りに行く。人工芝のフルコートが2面も出来てた。サッカーやってた。これで芝のコートがあればジェフユナイテッド市原・千葉の練習場にんだってできるのに。いやそれやると一般の人が使えなくなるから駄目か。ジェフはだから良い環境を作らないと若手がどんどんと逃げるぞ。中堅だってどんどん逃げたけど。お陰で……最下位にまで板子一枚。下は地獄。復活はあるか。ないなあ今の戦力じゃあ。シュワーボ!

 そして小島てるみさんのデビュー作2冊のうちの富士見書房から出た「最後のプルチネッラ」も読了。道化に近い存在とも言える「プルチネッラ」というナポリに伝わる役柄を演じて「最後のプルチネッラ」と大絶賛を浴びた祖父が死に、その当たり役「プルチネッラ」を継ぐ者もないまま娘は女優となって世界をまわりその息子、つまりは「最後のプルチネッラ」の孫の少年のルカは母親の舞台で子役としてデビューし絶賛を浴びながらも、何故か突然に母親から演じることを禁じられ、金持ちが暮らすアパートで何不自由のない生活を送りながら心を虚ろにしていたある時。

 母とは離婚してメロドラマ俳優になった父にけしかけられて「プルチネッラ」の役を学ぶワークショップへの参加を決意し、向かうとそこには「ヘルマフロディテの体温」で舞台となった貧民たちが暮らすスペイン地区で生まれ育った少年のジェンナーロもやって来ていた。彼は街で大道芸人として「プルチネッラ」を演じて人気者だったものの、賃上げデモが起こった最中に道化のように振る舞いデモを沈静化したものの、高所から落ちて新だ父親の後を継ぎたいと、やっぱり街で「プルチネッラ」を演じて小金を稼いでいた。

 超名門の出と貧民の出。方や祖父が偉大な「プルチネッラ」で、こなた父親がナポリ市民に愛された「プルチネッラ」という少年たちがそれぞれの生まれ育った環境によって育まれた性格や心理を拠り所にし、時にはそれが壁となりながらも競い合って「プルチネッラ」として舞台に立とうと頑張る。そんな合間に、自分を楽しませろと主より言われて道化となり、転生を繰り返していく存在のエピソードが作中劇のように挟まれ、生きることの意味ってものをじわじわと考えさせようとする。そんな積み重ねの果てにたどりついたのは、どちらか1人が「プルチネッラ」の座を掴むっていった成功と敗北の物語とは違う、ともに人生の表裏を形づくる存在として認め合い、高め合って前へと向かう解放感。ナポリの空のような明るさが射して、心を豊かにしてくれる。

 「ヘルマフロディトの体温」に負けず完璧な物語。背負った家名の重さと果たさなくてはいけない責任感の重要さってものがあり、また越えようとして越えられなかった者の挫折感って奴もあったりして生きる上での葛藤って奴を感じさせてくれる。あるいは立ちふさがる壁に最初っから飛躍を諦め理由を別に見つけてこれ幸いと現状に止まる態度の不甲斐なさって奴も。後悔するくらいなら最初から希望なんて抱かない。そして希望を抱いたのなら叶えようと突っ走る。誰かに負い目を抱かせるなんて最低ってことで。

 ともかくとてつもなく面白いストーリー。こんなのを描ける人が出てくるから小説の世界って奴は凄い。ストーリーテリングの鮮やかさって点では「最後のプルチネッラ」の方が上だけれども、性とか生の根元についていろいろと考えさせられるくらいに哲学的で思弁的な小説って意味では「ヘルマフロディテ」の方が好みか。両性具有者が出てきたからって三島由紀夫の再来だって騒がれて以降、あんまり飛んでないけどそれでも文壇的ヒエラルキーから未だ持ち上げられっぱなしで結婚話もスポーツ紙にデカデカと載る某作家のデビュー作よりよほど三島的な耽美さに溢れてるし。ともあれ甲乙付けがたい2作。直木賞だって三島由紀夫賞だって挙げられて遜色なさそうだけれど、ランダムハウス講談社に富士見書房ではそうした賞の候補に挙がることなんてあり得ないからなあ。それが文壇的ヒエラルキー。たまらんね。

 風邪を癒そうと横たわりながら「マクロスなんとか」を見た。何とかなっていた。っていうかオーグメンテッド・リアリティ(拡張現実)の技術使い過ぎ。リン・ミンメイの時代から50年でこんなに技術が進歩するのか、っていうかミンメイが話題になってた25年前から現実世界での技術が進歩したって点だけど。んでも現実世界でだって実現しそーなものばっかりって点ではあんまり画期的ではないなあ。SFって奴には時代の50年先を見せて欲しいものなのだ。それはそれとして拡張現実の描写と戦闘の描写は完璧なのに人物の造型と動きが何か謎。このあたりから崩れ出す? 未だDVDの発売されない「キスダム」だってキャラ絵はとてつもなかったけれども戦闘シーンは迫力あったもんなあ。ってか早く出して欲しいよなあ「キスダム」。聞きたいよ「失格」の3連発。

 「仮面のメイドガイ」。面白いじゃん。あと絵とか良く動く。ゴミ屋敷の描写はありそうで怖い。というか既に我が家が……。メイドガイのコガラシの声を演じてる小山力也さんが巧い巧い。下心とか一切感じさせない鬼軍曹的な「ご奉仕」ぶりが実に見ていて気持ちいい。んまあやられる方はたまらないだろうけれど。下着の洗い方まで熟知しているのか。釘バットで殴られても死なないのか。相良宗介と戦わせてみたいであります。「絶対可憐チルドレン」。ミニスカートで空を飛んでなぜのぞかぬのだ? テレビ東京だからさ。椎名さん的なキャラは可愛いけれども毎回に何か笑いがある訳でもキャッチィなシーンが出てくるわけでもないしなあ。んまあ見るけどとりあえずは。

 朦朧として目覚めたてそして放送終了から1年、間にはさまった24話と25話からでも8カ月もの間をおいてようやくもって再開となった「コードギアス 反逆のルルーシュR2」はオープニングも入っていろいろと新たな情報が。見知らぬ女の子たちが「黒の騎士団」側にいたなあ、井上じゃあない顔ぶれ。新規参加か。朝比奈もいたからきっと対面に立ってた「ナイト・オブ・ラウンズ」の誰かとライバル関係を演じてくれることだろー。ヴィレッタさんは扇要と背中合わせの関係に。やっぱり引きずるのかあの腐れ縁。「黒の騎士団」へと是非に引っ張り込んで欲しいもの、扇の“愛の力”って奴で。オレンジレンジは唄っていてもオレンジ君は見えなかったけど、どうなのよ。それよかC.C.はどーやってオレンジ君の抱擁から脱出して来たのよ。死なないからハッチを明けてぽっかり浮かんで泳いで島へ。ってことか。あるある。

 ゼロが討たれて1年後。ロロって弟と2人きりのルルーシュは学園での平穏な日常に退屈しながらも上に貴族や大企業がいる状況ではいかなブリタニア人といえども浮かばれることはなと苛立つ日々。体育教師のヴィレッタの追撃を振り切り、学生の身分でカジノに出入りするのも生活に刺激を求めてのことなんだろうけど、そんな気取った態度がカジノに居た貴族っぽいマフィアっぽい男の不興を買ってピンチに。そこに飛び込んできたナイトメア。「黒の騎士団」の残党? バニー姿で忍び込んでいたカレンに手を引かれ逃げる途中、ひらめいたハート形でクローバーの浮き彫りにされたペンダントが何かしたのかカレンは尻餅をついてルルーシュを逃す。何が起こった? 誰の仕業だ? オープニングにも登場しているからきっと重要なアイテムなんだろー。

 そして逃げるロロとルルーシュ。ロロが何かをしたのか? けれども別々に。見渡すと死体。ブリアニアの秘密部隊の仕業。現れるC.C.。撃たれるC.C.。そしてルルーシュにも餌の役目は終わったと死の宣告。前シリーズの1話目とまるで重なるシチュエーションから今度は戸惑いの中ではなくって自信の上に力を使って敵を駆逐しそして始まる新たな戦い、と。導入部としては完璧。ロロって何やつで何か何か力を持っているのか、オープニングで背後に現れるナイトメアのパイロットなのか、つまりは「ナイト・オブ・ラウンズ」の1人か、でもってやっぱり「ナイト・オブ・ラウンズ」になったスザクはゼロが存命なことを知ってどーして平気なのかゼロの背後にあるもっと大きなものへの何か思いを抱いているのか云々と、謎もいろいろあるけれどまあその辺りも追々明らかになっていくことだろー。とりあえずバニーなカレンのおっぴろげジャンプに10点。今シリーズのスタートをもって「1日1ルルーシュ」も修了。宣伝のためにと続けてきたけど不必要なくらいに盛り上がってくれて重畳。勢いをつけて半年後のクライマックスを目指して頂戴な。それまでは生き抜くぞ。会社が例え生き抜けないとしても。


【4月5日】 駄目だ、まるで新しいアニメーションが見られていないんだけれど見たいかっていうとどうだろう「紅」はちょっぴり絵が独特だたんでちょっと見てみたいかな、真夜中に何でな「少年ジャンプ」の連載漫画のアニメ化は別にどうでもいいや、ってかいったい誰に見せたいんだろう「トラブル」だっけ、「ウィングマン」がちゃんとゴールデンタイムに放送していた昔は日本の偉かった。「マクロスなんとか」……きっとマクロスというかヴァルキリーが出てきて何とかなる話だろう。やっぱり歌とか唄うのか。敵は巨人なのか。土曜日だと「シゴフミ」の後は「仮面のメイドガイ」か。何かやっぱりどうでもいいなあ。「コードギアス 反逆のルルーシュ」の続編「R2」は明日か。これくらいか。これだけはせめて最後まで期待通りに突っ走ってくれい。「フタコイ オルタナティブ」再放送だって? いよいよ世界は弾切れに突入か。

 倦怠感と疲労感に苛まれつつも仕事場へ。浜松町の都産貿で開かれている「東京トレーディングカードショー2008春」は確か去年とかに第1回目が開かれたイベントで知らないうちに秋にも開かれていて今回が3回目。立ち上げた木谷高明さんがブロッコリーからいなくなってしまっただけにどーなっているんだって興味もあったけれども木谷さんが立ち上げたブシロードもしっかり参加しては発売間近な期待のトレーディングカードゲーム「ヴァイスシュヴァルツ」のトライアルデッキを並べてた。まだほとんど知られていないはずのゲームなのに入ってきた人たちは並び買ってはテーブルに座ってプレーの場に。その数は相当なものでユーザー数を広げるのが大変なカードゲームの世界にあって「アクエリアンエイジ」とか「ディメンションゼロ」を立ち上げた経験というか知名度が、ブシロードに行ってもちゃんと着いてまわっているんだって考えてみたり。

 それだけじゃないってところがもちろんあって「ニコニコ動画」あたりで散々っぱら宣伝を行い認知度を向上。「ダ・カーポ」だとかいったキャラクターに親和性の高いユーザー層に知ってもらえるように努力をする一方で全国を回りキャラバンを張ってユーザーの引き込みに務めてきた。そーやって食いつけばあとはゲーム性ってことで何でも運で勝てそうな雰囲気を持たせてこりゃかなわないから止めたって人を極力出さないゲームバランスにしているとか。その辺のさじ加減もやっぱりこれまでの経験か。長くやってれば当然のよーにノウハウも蓄積されるってことで。人脈もあるからなあ、だから「マガジンvsサンデー」だっけ、そのトレーディングカードも発売できることになったんだろー。でもどーなるんだろう、売れるオタクが相手だとキャラクターは限られるし、かといっておやじ向けの人気キャラを並べてもおやじが買うとは思わないし。いっそ記念品的要素でもってノベルティ的に売るのが良いのかも。全部金箔。各10万円。限定1万セット。ジョーのグローブの切れ端着き。どのジョーだ。ジョー樋口? エースのジョー?

 しかし木谷さん所で働いている美人なPRの人が2005年のレースクイーンオブザイヤーに輝いた人だとはちょっと知らなかったよ驚いた。3次元方面はさすがに疎いんで気づかなかったけれどもそういえばどこから探して来たんだろうってくらいに綺麗な人だった。超華やかまくりな世界にいた人が都産貿で集まるカードゲームファンを相手にカードを買ってと呼びかけている。真面目なんだろうなあ。それからこういう世界が好きなんだろうなあ。仕事の傍らで大学にも通ってるらしいってちょっと凄いかも。まさに才媛。才色兼備。それを貫き通せるかが鍵か。カメラ小僧は群がっても大人だって一杯いたレース業界とはちょっと違って不思議な人でいっぱいの世界だけれど、根は優しくて親切な人ばかり、だと思うんでそこで崩したという体調を癒しつつ慈愛しつつ、集まるファンの為に頑張っていって下さいな。

 ゆらゆらと会場を回っていてカードゲームにも同人があるのをようやく知る。そりゃああっても不思議はないけど印刷してカットして箱詰めにしてって手間を考えるとイラスト集にして売った方がよほどか元はとれる。あるいはデジタルデータで販売して家で作ってください、とか。でもそれだとすぐに楽しめないし質に差もでる。何よりカードっぽくならないってことで本当のファンはやっぱり自前で作ってみたくなんるだろうなあ。2次創作物も市販品じゃあ買えない絵柄とかを自分たちで作れる訳だし。そんな中にあって目を引いたのが童想会ってところが作っていた「フォーチュン・ポーカー」ってゲームでおそらくは名前から類推するにポーカーがベースのカードなんだろうけれども絵柄とかによって役とかきっとあるのかな、その辺りがオリジナルの工夫になっていたりするんだろー。

 凄いのはそんなオリジナルのカードゲームが「とある魔術の禁書目録」から派生した外伝コミック「とある科学の超電磁砲」の新刊の付録に採用されたってことでイラストは「禁書目録」の人に替わるけれどもゲームシステムそのものはおそらくはそのまま採用。完成されたものだって現れで同人カードゲームであっても同人誌とか同人ゲームみたく大きくはばたけるって可能性を見せてくれた好例って言えそう。トランプとかタロットカードみたく数字と役は活かしつつ絵柄だけ替えていけば他のキャラクター物でも使えそう。魔術とか魔法とかってものが絡んが方が良いんだとしてもライトノベルにゃあそんなの山ほどあるから大丈夫。とりあえずはそうだなあ、「禁書目録」が電撃なんでスニーカーから「円環少女」あたりで可能かな、版元は替わるけれども「神曲奏界ポリフォニカ」ってのもあって大丈夫、かな。

 物語が付けばディッケンズだけれどこっちは何にもない「二都」(中央公論社)を読了、「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」って破天荒に面白かった小説の藤谷治さんだけれども小学館が多かった版元が中央公論社になっててもしかして直木賞シフト? そんな版元に相応しくちょっぴり古風な装丁でなおかつ紙もザラっとした紙になってて相当に気合いを入れてるって感じが伺える。偉大な社長だった父親が半ば引退気味となってそして息子は後を継ぐのはまだ早いというか後を継がしてもらえないというか創業者を排した一派に社長の座を取られ、それでも止めさせられることはなく取締役として会社に行って総務畑の仕事をしている、というかほとんど仕事をしないで日々を過ごしてる。

 そんな彼にメールが届く。別れた妻と知り合いらしい女性ライターが追いかけ始めた新興宗教の教団に、主人公の彼が会社で仲の良かった男が絡んでいるらしく、連絡をとってくれと頼まれる。最初は鬱陶しがって断り続けていたものの、相手の半ば自分勝手ながらも半ば真剣な態度に押されて会うことに。そして始まる新たな動きの一方で、鎌倉にある実家では父親が死に実母ではなく後妻で歳の数歳ちか違わない義母がひとり残され主人公と久々の体面を果たすことになる。もちろん不倫な間柄ではないもののどこかにそんな疑いを父親から抱かれ当人の気持ちにも死んだ実母への思い入れを保ちながらもどこかに揺れる義母への感情が浮かんで恥を知ったか畏れたか、家を逃げ出し一人暮らしを始めて20年近くが経過した。

 教団に迫ろうとする元気な女性ライターの前向きさに引かれつつ夫を失い夫の借財から家も失おうとしている義母のすがりつくような媚態と視線に絡め取られる主人公の東京と、鎌倉とで覚える思いが交互に描かれた物語。もっと文学的に耽美で淫靡で幻想的に傾けても、って気もしないでもなくその方が装丁にもマッチしていたんじゃないかって思ったけれどもこれはこれで読みやすく、それでいて響いて来るものもあるんでまあ良いか。ラストはいったいどっちへと傾いたんだろう。逃げ続けたことへの報いかそれともどん底からの再生か。ハッピーエンドへと導いてくれた方が一般には受けたかな。まあそこを曖昧にするのもひとつの手。想像を働かせてみよう。


【4月4日】 という日に相応しいのかどうなのか。全然知らない小島てるみさんって人が書いたこれがもう1冊の富士見書房から出ている本と合わせてデビュー作らしい「ヘルマフロディテの体温」(ランダムハウス講談社)は、タイトルのとおりにヘルマフロディテ=両性具有者がテーマになった物語。ナポリを舞台に割と性道徳に厳しいキリスト教圏にあって異性装者や性同一性障害の持ち主といったセクシャルマイノリティが住み暮らしている場所があって、そこにあるアパートに住んでいる大学生の少年が、両性具有者であることを広言してはばからないZという変わった名前の持ち主で、且つ性転換手術の権威でもある医学部教授の導きによって己が中にわだかまっていた感情を昇華させつつ、異性装なりトランスセクシャルの期限を探る旅に出る。

 母親が数年の行方不明の後に男性になって戻ってきて、父親とは不仲になってそのまま消えてしまった過去を持つだけあって少年の心にはトランスセクシャルへの感情が強く刻まれているよーで、部屋をシェアしている少女が帰省した隙に彼女の衣服や化粧品を着けて女装していた少年だったけど、その感情の根元にあるのは何かを探れっていう、Z教授より与えられた試練というか課題にも挑みながらも例えば残された腐乱した女の姿を写した彫刻から、双子の男の子がその美声を見初められカストラートとなったものの1人は去って行方を隠し、成功したカストラートとなった1人が行方を捜した果てに“再開”を果たす物語を創作したり、ギリシャ・ローマ神話の中に両性具有者が迎える悲劇的な結末を描く物語を創作してZ教授を堪能させる。

 当ののZ教授についての物語も含めてこれらはいずれも作中内の創作物という形をとってはいるけれども、それぞれが立派に1つのドラマになっているところがなかなかな凄い。且つそうした物語群に通った筋を貫いて、ヘルマフロディテの存在を探り根元を突きつめる1本のストーリーへと仕立て上げる。構成に優れ知識も豊富で最後にしっかりと感動も得られるこの小説がデビュー作なのだとしたらいったい、手練れとなった時にはどれほどの素晴らしい物語を紡いでくれるんだろー。もう1冊のデビュー作「最後のプルチネッラ」もとりあえずは買ってみたけど同じくらいに楽しませてくれるかな。明日にでも読んでみようっと。

 お財布に万札を詰めて「アートフェア東京2008」へと駆けつけたものの「ギャラリー井上」での北川宏人さんの出品作品はテラコッタ製の30センチ弱の立像3点のどれも売約済みとなっていて残念。まあ買ったところで置く場所もなくどっかに立てかけておいては倒して割ってあじゃぱー、ってなるのが落ちなんで仕方もないけれども未だ30万ちょっとでこれが買えてしまえるんだったら買っておいて損はないって気も先立つだけに心も迷う。別のギャラリーに村上隆さんのランドセルに田宮模型のマークを刻印した“だけ”の作品が500万円とかって値段付けで並んでいたりするのを見ると、余計に機会は逃したくないって気も先走る。あの時に25万円だった村上さんの連作6点だかを買い占めていたら今頃いったい幾らになっていたんだろう、とか。でもそんな思惑を越えても北川さんの作品は素晴らしいんでいつか1点、欲しいなあ。その前に置ける場所の確保が重要。最重要。

 面白かったのが平久弥さんってアーティストで写真みたいな絵を描くって人らしくってこれまではもっぱらアメリカの郊外とかの街とか何かを撮って超リアルな絵にしていたものが最近は地下鉄の駅とか構内を描いているらしくって遠目に見たら写真にしか見えないそれらの絵なんだけれども近づくと1枚1枚がすべて手で描かれたもんだってことが見えてくる。タイルの線もきっと本物と同じ枚数でもって引かれている上に、蛍光灯とかからの光の照り返しなんかも描かれていたりするところが偏執的というかこだわりというか。微妙に歪んでいる1枚1枚のタイルの表面に光りが反射する、その連続なんかも光源からの位置を勘案して描き抜いてあるから凄まじいというか。だったら写真で撮ればいいじゃん、って絵を目的のために考える人は考えそうだけれどもそこはアート、作家の脳を経て手で描かれたものと体面することで写真だったら気づいても見過ごしていた光の具合なんかを、見知って現実世界が置かれている状況へと近づけるのだ。なんて言えば言えるのか。

 達磨めいた絵を描いてそれもリトグラフだか何かで刷ってひっそりと展示しているスーパースターのどこかトーンダウンしているスタンスを横目にオタクっぽいアキバっぽいモチーフをアートの正統的な技法に盛り込み描くって手法も浸透して来ているみたい。三嶋哲也って人はそれこそ油絵の王道を行きそうなタッチで花だのといった静物を描くのを得意としていたみたいなんだけれども最近はゴシックにロリータな扮装をした、現代の肉付きもしっかりと下半身も重たそうな体型の女の子に着せた作品を描いていたりして、伝統の中に浮かぶポップな様にクロスオーバーする世界が醸し出す違和感と存在感を覚える。

 似たモチーフだと龍口渓太さんも日本画の技法でゴシックにロリータな少女を描いて平面の中に入れ込んでみせたりしていてアキバ系もアート系もともに気持ちを引っかけられる。北村さんもそういやちょっと前はテラコッタの人形にオタクっぽさをのぞかせていたっけ。そうした世代がアートでも1線に出た時に起こる慣れ親しんだモチーフの活用か、世間がそういうのを欲しているから送り出しているだけなのかは分からないけれども、いかにもキャラクターといった絵をアートと言い募って展示していたりするブースもあったりする状況を見ると世間も欲し、クリエーター側もそうした表現が挑戦とかって意識を抜けて普通になっているってことの現れでもあるんだろー。この勢いで「コードギアス 反逆のルルーシュ」に出てくるキャラクターなんかも現代アートのモチーフに入れてもらいたいもの。とりあえずはC.C.の尻を活かした彫刻がマストアイテム。テラコッタよりは樹脂で作って欲しいなあ。触って楽しそうだから。

 ほかにも「MEM」ってギャラリーで大昔の頭を星形にして平安神宮とか金閣寺とかをまわる森村泰昌さんの写真とか澤田知子さんの昔のセルフポートレートとかもあった中に参った若手の山口典子さんって人の写真作品が、森村さんや澤田さんみたいなセルフポートレートでありながらも己が肉体に対するフェティッシュでオブセッションな感覚に溢れていて見ていて肌を何かが蠢く感覚に襲われる。携帯電話のパーツを全身に張り付け鎧みたいにした女の子の作品なんかも悪くはなかったけれどもガムを敷き詰めた下から体を浮かせて丸みを帯びた胸から腹がのぞく作品も整然と並びつつ立体に歪んだガムが描く紋様の柔らかい構築性と、そして全身を浮かび上がらせる助成のラインのなめらかさが重なって美しいビジュアルとそして奇妙なエロティシズムを感じさせてくれる。他にどんな作品があるのかに興味。


【4月3日】 あの神坂一さんの新シリーズなんだから延々と続いて大ベストセラーよ今ふたたびってなるのかと思ったら2巻目でどうやら打ち止めの様子。面白さはたっぷりあるし話だってどんどんと伸ばせるはずなんだけれども土台に「スレイヤーズ」って看板があってまずは安泰の身、1つにこだわるよりは様々なアイディアを世に出していく方が作家として楽しいし読者だっていろいろ読めて嬉しいって考え方もあるからこれも仕方のないことか。いやもっと別にいろいろ事情があるのかもしれないけれど。

 んで「ドアーズ 2新たなる敵を修繕せよ!」(角川スニーカー文庫)は世界が歪んでしまって家にいろいろな所へと抜けるドアが出来てしまった家の姉がリスみたくなってしまった妹も元通りにしたいし家だってドアのないようにしたいってことで、異世界から現れたシュリンという青年に引っ張り込まれてあっちの世界そっちの世界へと出向いては、シュリンが手にしたレンチでキーとなる人物の頭を叩いてその世界をまず直すと、他の世界にもちょっとずつ影響が出てだんだんと元通りになっていくという展開。1巻目ではとにかく直したいって一心であちこち巡っていたものの、2巻目になると出てくる世界もまあそれなりに愉快でなおかつ、その世界が愉快だってことを知ってしまっているだけに妹の方からもう直さなくっても良いんじゃないって声が出始める。

 真っ当だけれど退屈な日常よりも刺激があって愉快な日常の方がそりゃあ良いかもしれないけれどもそんな日々にだって慣れてしまえばほらやっぱり、改変を求めたくなって来るってことだからやっぱり姉のすべてをまずは元通りに、って考え方の方が正しいのかも。んでもってあっちこっち出向いた最後の世界でシュリンが手にしたレンチって棒にまずとある事態が起こりそしてさらに起こる驚異(?)の出来事。それを知ってもなおも姉はやっぱり元通りにすべきだったか悩んだみたいだけれど取り返しのつかないのが人生って奴だしそもそもが、って考えればそれも仕方がないこと。そこからめくるめく耽美な世界が始まってくれても良かったけれど日常への回帰がテーマではそれもない。諦めつつもこの平凡な日常を精一杯に生きるのだ、ってことでそんな世界への刺激を是非に今一度、神坂さんにお願い。次はどんなアイディア一杯の新作を読ませてくれるかな。

 んで2007年度の「ロマン大賞」から出てきた崎谷真琴さんのもう3冊目になる「精霊の島のシレネ 上手な家の手なずけ方」(集英社コバルト文庫)はちょっぴりボーイズに雰囲気がかかってたっぽい前の2冊と違って主人公が女の子。家事で両親を失い記憶も亡くし、今は宿屋で下働きをしているシレネが精霊使いで世界を旅している男から誘われ向かった先が精霊ゴームの棲む山のそばにある1軒の家。そこには笛を吹いて精霊を鎮められるイリオって青年がいて人の言葉を話す不思議な魚の“くじら”がいて、シレネを歓待してくれたものの現れたエンゴラロッソという口が悪くて態度も尊大な“家主”は、もう人は住まわせたくないと言ってシレネを追い出そうとする。

 そこは記憶がなくても家事で傷を負っていても宿屋の主人に暴力を振るわれても負けたくないと頑張って来た強い心の持ち主だけあって、シレネは踏みとどまり実際問題に相当に雑然とした家の片づけに必要だからということでひとまずは家に受け入れられる。もっともそこに新たな問題が。拭いても除いてもわきでるカビ。そしてエンゴラロッソに起こる異変。いったい何が起こってる、ってことでシレネの頑張りがそこでも発揮されて事態を良い方向へと導いていく。暴力に罵倒。欲しいと切望する場所を奪われそうになる恐怖。それを喰らい続ければ普通は弱く折れてしまうところでシレネが頑張り続けられたのは何だろう。それが分かればこのいろいろと鬱陶しい時代に生き抜く糧って奴を得られるかもしれないんだけれど。

 ひとまずは片づいて次のエピソードでもシレネは徹底した強さを見せてくれて恰好良い。あとただの笛吹にしか見えなかったイリオの活躍ぶりも。人間の強欲さって奴を見せつけられる中でそれでも人間を信じてみたい気持ちを見せられて人間だったら何を思うか。最初はおとなしくしていてもそのうちにまた増長してしまうものなのか。考えさせられます。とにかくシレネの筋が通って強靱で前向きなキャラクターに心を鼓舞される物語。家族ってものが持つ暖かさにも引かれる。これで終わりかそれともシレネの過去を探る所まで進むのか。今を見つけたシレネの物語で終わっても綺麗だけれど、エンゴラロッソの方があんまり活躍していない所がやや残念なんで、続いてくれても悪くない。さて。

 ランチェスターの第2法則について考える時々。性能が同じでも少数戦力をちょぼちょぼ出しては巨人相手に真っ向勝負を挑んで勝てないってのは60数年前でもそうだったし、つい5年ほど前でも同様でおかげで損耗を喰らいつつも相手には何のダメージも与えられず、市場にもインパクトを残せなかったんだけれども教訓が生きれば世界はとっくに沈黙の平衡へと移って不思議はないのに、人間の向上心とやらが囁くのかそれとも功名心に引かれるのか相も変わらず逐次投入へと走ってしまう。

 とより性能差も著しい中で瞬殺されて敵兵力はまるまる温存どころかゼロサムな市場で敵の拡大にすら寄与してしまう状況。それで止まるんだったらもっと早くに兵力の温存を第1義にして質の向上を図るか、徹底して弱者ならではの特化へと走っていたものが体面は保ち拡大も目指したいというか、目指しておかないと相手にされないという状況もあってか八方美人の大盤振る舞い。結果起こることは……。あの少ない兵力を使い「コードギアス 反逆のルルーシュ」のルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが戦えたのはギアスっていう性能面で突出した武器とそして突出した頭脳があったからなんだよなあ。ギアスがあればなあ。お上のご威光? それも一種のギアスか。見方に向けてしか効かないけど。


【4月2日】 そんな訳で「プロ野球スピリッツ5」なんぞを始めてみたけど1試合目に12点とられたて玉砕。さすがにピッチングの組み立てがまずかったかと臨んだ2試合目は1点をとられただけで済んだものの相手がジャイアンツだからなあ、ってゲームの中のジャイアンツまで弱いのか? ともあれピッチングについてはひとまず分かって来たけど問題はバッティング。まるで打てない。タイミングがあわずあってもバットをボールに重ねられず当たらない。

 ホームベース上にバット型のガイドが出てボールが飛んでくる場所も丸印で浮かぶんであとはカーソルを合わせてボタンを押すだけ、ってことなんだろうけれどもそーしたアクション系の苦手さは、かつて「スペースインベーダー」が大流行した時に散々っぱらやって1面をクリアできたのがわずかに1回という体たらくが証明している。より緻密になってる3次元CGの野球ゲームでそんなの無理か、って最初は思っていたけれどもせっかくだからと始めたバッティング練習でちょっとだけ気づく。

 カーソルを合わせるんじゃないんだ。投手が投げてくるボールをじっと見つつその軌跡を思い浮かべてここだといったところにここぞのタイミングでバットを出せば当たるんだ。それは普通の野球でもきっと同じでバッターはストライクゾーンの上に立つバットとボールがあたる瞬間のある1点にあわせてバットを出す訳じゃなく、ピッチャーが投げたボールがミットにおさまるまでの軌跡を想定し、タイミングも計ってバットを振り抜くその交差した場所が結果としてジャストな1点になっているんだってことで、そんな感覚を浮かべさせてくれるこいつはなるほど単に画像がリアル系なだけじゃない、ベースボールをシミュレートしたゲームの極北だって言えるしそれを実現できる「プレイステーション3」ってマシンのポテンシャルの高さだとも言えそう。とりあえずしばらく遊んでみるか。「コードギアス 反逆のルルーシュ」のゲームはPSP版を先にプレーするか、いや両方買ったんで、「プレイステーション2」版と。

 見解の相違から完全なまでに沈黙を守ったか単なる特落ちという奴か、はたまた時候の挨拶程度の戯れ言を脇に固めて構成面での融通を効かなくしつつ、全体の文字量を減らす矛盾した振る舞いの果てに掲載不可能となったのかはあずかり知らないけれども初動において何ら情報を提供し得なかった事象について、他がこれは大問題だと大騒ぎしている中にあってやはりこれはを上げた腰が、向かうのはやはり大問題だと悟り共に闘うのではなくってむしろ逆方向。明々白々な憲法上における表現の自由の問題に重なり誰しもがひしひしと迫る圧迫感に背筋を凍らせつつある中で、憲法の理念なんて程じゃないって主張してしまえるんだから何というかアナーキーというかアバンギャルドというか、とにかく一言でいって凄まじい。

 そこに1個の作品があってそれがプレッシャーによって世に問われない状況へと追い込まれたという現実がある以上は、表現の自由とやらへのチャレンジであることは明々白々。肩を並べてライトを守っていたはずのお隣さんですら、そこに意図が見えないお金が使われているかどうかは脇に置いても、問われるべきは発表の場がプレッシャーによって失われることの恐ろしさだって示唆してる。同じく言論を生業としている者として当然過ぎる反応なんだけれども、同じライトでもライパチって奴でつまりはそこにしか居場所を見つけられない上はトリックスターを気取るしかないってことなのか、憲法の問題を脇に置くどころかそこまでの話しじゃないと言い切り作品の成り立ちの不首尾へと話をそらして叩きにまわる。

 それで誘導される世論もない訳じゃない。実際にそんな面々が集まっては讃え持ち上げ崇めてる。等しく表現の自由の代理人であるべき仕事に就いていながらも、得々と成り立ちの不首尾についてのみ問う人気者の言葉を囲んで喜んでいるんだけれども、周囲のすべてがさすがにこいつはと眉をひそめていることもあってその浮きまくっていることと言ったら。今回ばかりはその空間の特別な感じがくっきりと浮かび上がって来たことだろうけれども、囲まれた中にいるとそうした周囲の驚きは届かないのかそれとも届いていないふりをしているのか。作品に取り上げられている人たちに不満があるなら肖像権への配慮も鑑みて公表は控えるべきって意見もなるほどあるみたいだけれども、そう言いながらも報道においては自由は守られるべきだから肖像権とか関係ないって思考も一方にはあるから分からない。映画なんてしょせんは興行、報道の使命なんぞと一緒にしてくれるなっていう報道に携わる存在の激しすぎる自覚ってんなら分からないでもないけれど……だめだ落ちこぼれの間抜けな頭では報道エリートな方の思考はやっぱり理解できない。

 んまあ良い、ひとりの個人がそうした思考を世に問うているならそれも立派に思想信条の自由なんだけれどもそんな自由が保障され得ない可能性が生まれて来ているこの状況を、信条として自由な言論を掲げているはずの存在が共に異常と認めて前を向くことができていない方が興味深い。流石にもはやちょっと変わった語り口ってレベルを超えていて、正しい論だと言い募っても当然ながらも世間一般からは乖離しまくっていたりして、それでも改めずむしろ内向きに閉じこもってしまえば結果としての数字にも影響がいずれ現れて行くんだろうけれども、そんな時になっても思想信条故のことだと貫き高楊枝をくわえたままで消えていけるのかあるいはころりと転向するのか。見物っちゃあ見物だけれどもあんまり人ごとでもないだけに悩ましい。いよいよかもしれないなあ。

 勝てないなあ。でも負けなかったから良しとする? でもここで勝てればはずみもついたんだけれどもジェフユナイテッド市原・千葉はヴィッセル神戸に終了間際に追いつかれて1対1で試合終了。隊長も外し工藤浩平も外してのぞんだ布陣でよくやったって言えば言えるけれども変わって隊長が入り工藤選手が入っても機動力が上がらず追加点が奪えなかったところにひとつ選手層の面での悩みがありそう。いや試合そのものはみていないんでチャンスは作り出しても惜しかったのかどうかは分からないけれど。一方で名古屋グランパスは逆転勝利。御免ピクシー力量を見誤っていた。戦術があるかどうかは分からずサイド攻撃って意識だけが浸透しているのかもしれないけれどもそれ1つだって過去にはなかなか出来なかったこと。意識をつけて引っ張り動かすその力量も、立派過ぎるくらいに監督の仕事として立派。どこかの代表監督にはまるでない資質なだけにこのまま突っ走ればあるいは暫定後の代表監督、なんて話しも浮かぶかも。そして仰ぎ見る総監督の巨体。嗚呼ニッポンサッカーに栄光よ来たれ。


【4月1日】 嘘などついてる場合じゃなくってマジやばいかも周辺。出尽くし感のあった亡命者だったけれどもこれから先にまた増えるかな、それよか収容所送りが先か。食い扶持減らさないと保ちそうもないからなあ。まあ知ったこっちゃないけど。DVDの購入もやや一段落なんでこれからしばらくは残る「電脳コイル」「こどものじかん」「スカイガールズ」「バッカーノ!」「ef」「レンタルマギカ」「しをんの王」「げんしけん2」「CLANNAD」程度に抑えつつ視聴のみに留めつつ……ってこんなに買ってたんかい。金なくなるの早い訳だ。部屋狭くなる訳だ。1月スタートのはとりあえず全部パスだな。買うとしたら4月から第2期が始まる「コードギアス 反逆のルルーシュ」のリリースが這い待ってから、か。「きみが主人で執事が俺で」はちょっと欲しいけど。いやほら放送版とどっか違っているかもしれないし。悩ましい。

 その「きみある」は上杉連の藤原おやじとの決別→和解で決着。あんなにわだかまっていた感情がそうそう簡単にほどけて良いのかって気もありありだけれどそっちがメーンのドラマじゃないから仕方がない。ドメスティックバイオレンスにネグレクトにアダルトチルドレンな問題への解決法の提示はまた別のドラマで。最終回だけあって揚羽さまも飛来して開放感もたっぷりに連へとアタック。羨ましい。森羅さまとの恋路の行方はやや不明。ゲームみたく執事と主人がそこで越えてしまって次は別ルートとは行かないアニメじゃあ続く話しも続かなくなるし。そこはラブコメの王道“腐れ縁”をずるずると引っ張りハーレムな中でのたうちまわる連を見せてくださいな。DVDが売れたら2期もある? ああそれさらに悩ましい。

 バランス感すら越えて透徹感というか、ガレのガラス器のような凝縮された存在感って奴を持ち始めたかも、って言った言い過ぎか。いやまあそれくらいの巧さがあるってことだけは確かな印象。その巧さもひけらかしではなくほそめかしでもなくにじみ出るような感じに収まっていたりするところに三崎亜紀さんが最新短編集「鼓笛隊の襲来」(光文社)で見せた急成長って奴を感じてみたり。「となり町戦争」では設定のシュールさに依りすぎて中のドラマが書き割りっぽく見えて筒井康隆さん的な世間の矛盾を撃つ毒も、小松左京さんのような社会の仕組みを露わにする力も星新一さんのような心の隙間を切り裂いて気づかせる刃もあるようでいてぼやけていた。つまりはどこか浮ついていて漂っていた。

 それが「鼓笛隊の襲来」になると、どの短編もしっかりとしていて上滑りしたり下心を見透かされるようなところがない。表題作はおばあちゃんの知恵、ってものをないがしろにしがちで文明の利器に頼りがちな日本人の風潮を風刺していたりはするけれど、鼓笛隊っていう台風にも匹敵して、いやそれ以上の恐怖すら与えることだってある“災害”を想定みせることで、不思議な感じを醸し出しつつその中でやんわりとしてほんのりと、年長者への敬意と自然への畏敬の念を浮かび上がらせていたりするから読んで鬱陶しさはない。「象さんすべり台のある街」も似た感じで本物の象さんが滑り台代わりにおかれた公園で起こる交流が、死生への達観めいた感覚を与えてくれる。

 「覆面社員」みたいにあり得なさそうなんだけれどあっても不思議のなさそうな事象を構築した上で、起こり得る事態を描きなおかつそれがどういう心理から起こり得たのかを推察して、ひとつの社会の形として作り上げてみせるあたりの鮮やかさ。ラストに提示される仮面が当たり前になってしまってからのその先への不透明感が、この世界の行きづらさって奴を感じさせてくれたりする。もっともだったらまた上から新しい覆面を被って自分をリセットすれば良いんじゃない? とも思えなくもないけれど、それだと逆マスカラスだからなあ、夏とか暑そうだし。そんな感じな短編がつまった「鼓笛隊の襲来」は三崎亜紀にとってひとつの到達点になっているって言えそう。問題はここからシュールに傾けば文学へと行き過ぎてメッセージが伝わりにくくなるし、かといってドラマに傾いても筒井さんとバッティングするからなあ。そうではない第3の道って奴を見つける旅が始まるんだろう。これを経て今度、長編でどこまで出来るかにちょっと興味。

 おっとそうだ「バンブーブレード」も最終回でテレビオリジナルってことで九州にいる強敵とは戦うことなく珠姫は2年生に。虎侍は例の事件の責任をとる形で退任していた後は吉川先生が顧問を引き継いでいたみたいなんだけれどもその結婚相手が、何と、まあ、しかしいったいいつの間に。そんなこんなで迎えた新年度にやって来た新入生たちが実は……な存在だったりしてちょっぴりやさぐれていた前週の終わりを綺麗に浄化してくれた。そして九州での大会シーンとなってシナイダー大好きな鈴木凛と喋っているあれは原作では珠姫のライバルとなってる榊心? 後ろ姿に未練を残して消えていった展開にこれはあるかも第2期。その場合は外山妹に岩佐弟も絡めつつやっぱりオリジナルな展開へと向かうのか原作の進展具合を加味しながらの展開へと戻るのか。どっちしなってもう吉川先生の正座姿は拝めないんだろうなあ。残念。

 そして「週刊サッカーダイジェスト」は反・岡田武史サンの旗幟を鮮明に。最新の4月15日号では先のFIFAワールドカップ南アフリカ大会へのアジア第3次予選バーレーン戦についての戦術面での至らなさぶりを「3−5−2と遠藤外しで失った”戦術ベース”」ってタイトルの記事でもって詳細に分析しては縦ポンサッカーの拙さをあれこれあげつらっている。大味で正確性を欠くにも関わらずの指令を攻めつつ遠藤選手投入後の中盤をコンパクトに保ちパスを繋ぎつつオーバーラップを待って渡して攻め上がった様子を紹介して戦術面から遠藤選手を外した拙さを指摘する。挙げ句「一方向へと傾倒した練習と指示が選手の思考から柔軟性を奪い、遠藤の先発落ちと守備重視の3−5−2採用がその流れを決定づけた」と分析しては「自らの基本コンセプトを見失い、意図を持ったボールが中盤で走らなかったこと」を敗戦の理由にあげてそんな攻撃をさせてしまった岡田サンに注文を付けている。

 メーン記事では例の帰国後の発言を「責任転嫁に聞こえた発現」と一刀両断。「『世間をアッと驚かせる』ために掲げた理想論は、『結果』を追求するワールドカップ予選が訪れるたびに棚上げに。しかし、そこで好ましい『結果』を得られなかった途端に『それは前体制のしがらみがあったせい』とするのは、どうも矛先がおかしい」と書いてるこの言葉の真っ当さに、これを良しと思わない一派からいろいろ攻撃も出てくるんじゃないのかって心配すら浮かぶ。さらに巻頭の中村俊輔選手へのインタビューでもオシム監督がしつこく言ってたチームのコンセプトづくり、そして行ってきたメンバーの意識の共有化を高く評価するコメントを掲載してる。

 スルーパスを出してミスして怒られた話を引きつつその怒られ方には理由があって意識の共有化が図られていない独りよがりのパスで引き起こされたピンチの責任は負うべきっていう、言われれば納得の理由が示されたことに中村俊輔選手も満足していたみたい。それは欧州のトップチームと戦う時に切に感じることだからでもあって、1人ひとりが驚異的なテクニックを持つ欧州の選手が意識をひとつにして攻めて来る時にやれ個人の打開力だ何だって言ってもかなうはずがない。「いくら巧い選手を置いても、世界のトップレベルの職人と対峙したら負けちゃうからね。ワールドカップで勝つことを考えたら、これからも走り続けないとダメ。走り続けていた方が、チームとして何かが起こるはずだから」。希代のテクニシャン、中村俊輔選手にこうまで走る大切さ、テクニックを上回る走りの重要さを力説させるに至ったオシム監督の手法をガラリと変えてしまってさてはで、一体誰が着いて来るのやら。まずはオレ流とやらのお手並み拝見と行きたいんだけれどそんな余裕は無いんだよ。今すぐに決断を。それが20年後の日本の優勝へとつながるから。


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