縮刷版2006年2月下旬号


【2月28日】 生えてる女の子は好きですか? って言われても果たして生えてて女の子を言えるかどーなのか悩ましさ炸裂なんだけど、見た目が麗しければそれはそれでオッケーだし生えてる上に開いてて且つ膨らんでもいる両性具有だったら文句なんて言えやしない。けれども竹下堅二朗さんの「パープル(上)」(コスミック、952円)に登場する緒方学君は、そんな生えてて開いてて膨らんでもいる浜本美央を相手にしよーとして出来ない状況に追い込まれてしまう。

 なぜなんだろう勿体ないぜと思うけど、一方で母親を相手にご褒美を味わってもらっていた経験が、脳のどこかに残って奮い立てなかったりするのかも。あるいは幼なじみの小雪が引っかかっているのかな。ともかく母親にくわえてもらっている学に生えてて開いてて膨らんでる美央に後輩の女の子とつき合っている幼なじみの小雪に男性教師を忘れられない卒業生の男子といった具合に、クィアと呼ばれる属性を持った面子が勢揃いしたストーリー。そんな中に放り込まれて母親と同衾はしてもそれをノーマルとは思っていないノーマルな感性の学がこの後どんな折り合いを見せるのか。とっくの昔に連載も終了した漫画の復刻版だけど、読んでいなかった身にはこの先が怖くて楽しくって仕方がない。それにしてもこんな漫画が96年の時点で連載されていたとは。先見性あるなあ。それを復刻した島田一志さん。コスミック出版でも相変わらずにエッジ立ちまくってます。

 普通に見てたし普通に読んでたあの作品が今はなぜか読めないって状況を残念に思うかっていうとうーん、昔見られたから別にいいやって感じがまずは先に立つんだけど、問題はどーしてなぜに今は読めないのかってゆー理由が曖昧だったり模糊としていたり解決の手だてがあるのにそれがなされていなかったりすることで、それがひいては世に溢れるさまざまな作品をいつか同様の”封印作品”へとしてしまわないとも限らなかったりするんだと思うと、やっぱりいろいろ考え直してみないといけないんだろー。安藤健二さんの「封印作品2」(太田出版)の感想ね。

 たとえば「キャンディ・キャンディ」は原作者と漫画を描いた人との間に持ち上がっている事情が、日本中の女の子たちを虜にしてお隣韓国でもアン・ジョンファンのニックネーム「テリー」の元になったり「冬のソナタ」のメロドラマに大きな影響を与えた作品を、未だ半ば絶版状態へとおいやりアニメの再放送も不可能な状況へと至らしめている。手続き的には解決可能な問題で法的な結論だって出ているんだけど、2人の間に生まれたわだかまりが収まらない以上は次へと進むことはありえない。

 そのわだかまりを解決する手段は果たしてないのか? 初期だったら仲間内からの助言も利いたのかもしれないけれど、それを逃れて孤高を歩む漫画家に届く言葉は未だ無く、また権利の問題ではなく詐欺に近い仕儀だと憤り原作者など無関係だと言われて悲嘆にくれた原作者の心を癒す手だても見つからない状況では、漫画の復刻もアニメの再放送も行われずただ堀江美都子さんが唄う主題歌だけが広く耳に残り伝わっていくんだろー。まあ個人的には漫画にハマってはいなかったしアニメも熱中して見ていた訳じゃないから別に良いんだけど、それを言ったら始まらないからなあ。仲良うしてくれ。「なかよし」に連載された漫画なんだから。

 「ジャングル黒べえ」についはもー本放送の時からリアルタイムに見て、再放送も何度となく見てテーマソングとともに心に深く染みいっている番組だけに、見られるんならまた見たいって思わないこともないけれど、子供の頃に何度も見たのに今は見ることもない作品は他にもいっぱいあるから、ことさらに「ジャングル黒べえ」を今見なくちゃいけないってことはない。ないけれどもこの作品がいつも見られる状況にはないことは残念と言えば残念。だって面白かったんだから。ジャングルから来た黒べえが魔法の力で都会の暮らしに起こるいざこざをハチャメチャにしつつも楽しく明るく解決してしまう展開も、出てくる不思議な動物たちも、嫌みなガックちゃんやブラブラミンゴやパオパオといったキャラクターたちも。

 それがなぜ今見られないのかは岩波書店版「ちびくろさんぼ」と理由は同じ。ただし。抗議があって絶版となった事実を踏まえつつ再刊が果たされた「さんぼ」と違って「ジャングル黒べえ」はその辺の経緯が今ひとつ明確になっていないことで、だったら本当に抗議したのかと抗議の元へと安藤さんが問い合わせても忙しいだの何だのと言って記録にあたらず回答しない抗議元の対応もあって、曖昧なままに何だかイケナイ者とゆー扱いから”封印”されてしまっている。原因が分からないから解決のしよーがないってことで、そこでだったら踏み切って抗議があったら話し合いを求めれば良いじゃん、だって話し合おーとすると出てこなくなる人たちみたいだから、ってことにもなるんだけど物が藤子不二雄さんの作品だけに別な問題も持ち上がりそー。

 それは「オバケのQ太郎」の漫画版が出ない理由でひとつにはやっぱり「さんぼ」と同根の理由があるんだけどこれとは別に2人で1人だた藤子不二雄さんの、ある時期を境に1人がFでもう1人がAとなって独立独歩し始めたことが理由になって、そうなる以前のギリギリの時期に描かれた「オバQ」の再刊に明快なゴーサインが誰も出せずにいるみたい。「ドラえもん」が描かれる前は藤子不二雄の代表作と言えば誰はばかるところなく「オバQ」で、加えて「怪物くん」に「ウメ星殿下」なんかがアニメ化されたこともあって並んでいた。そんな1つがAでもFでもあってAでもFでもないからって刊行されないこの不思議さ。時の氏神でも現れ解決してくれれば良かったんだけどもはやそーゆー立場の人たちは続々と鬼籍に入って残っていない。敢えて読みたいとは言わないけれどでもやっぱり、いつでも読める状態にあって欲しい作品なだけに残念無念。ここで取り上げられたことをきっかけに何とかならないものかなあ。なるならとっくになっているか。

 「サンダーマスク」。これもリアルタイムで本放送を見ていた世代で記憶に鮮明に残っているけど今敢えてみたいと言われても「アイアンキング」や「シルバー仮面」くらいには見たいかもって答える程度。ただ1話、シンナー中毒が取り上げれた回だけが強烈に印象に残っていて魔人デカンダだったっけ、不細工きわまりない顔をした怪物がなぜか女性になっててシンナーに冒されていない脳を見て「きれい」とか言ってた台詞を覚えてるんだけど、その回がどーやら”封印”の1つの理由になっているみたい。

 そりゃ「サンダーマスク発狂」ってタイトルだから……って思っていたら「封印作品の謎」を読んだらそうではなく、権利関係が曖昧な時代に作られた作品だけに後処理がうまくいっておらず封印に至ったって調査結果が示されている。本当かどーかは判然としないけれど、でもそーだとしたら処理さえなされれば出る可能性だってあるってことで、原作者の意図がそこにあるよりシステマチックに解決出来そーな気もするけれど、これもやれたらとっくにやっているか。そんな4作品をメーンに取り上げた「封印作品の謎2」に続く「3」があるとしたらどんな作品になるんだろー。やっぱりあれか。「私立極道高校」。実在の学校の名前が書かれているからって理由での絶版なんて、そこを直せばいつだって可能なのに出てこない。写真を模写して問題になった池上遼一さんの「信長」は復刻されたのに。なぜなんだろうどしてなんだろう。安藤さんには、是非に、突撃を。


【2月27日】 ニーヒャがまたしてもとっつかまって話題豊富なドリームズ・カム・トゥルー新譜がガン鳴る横で売られてたCrystal Kayクリスタル・ケイの新譜「Call me Miss...」を買って聴く。今となっては懐かしさもひとしおで苦笑すら浮かぶ六本木ヒルズが舞台のIT成金ドラマ「恋に落ちたら」の主題歌として一時期ラジオで流行っていたけど、改めて聴いてもやっぱり巧くてイントロからサビから心にしんみり響いて心地良い。囁くような呟くような唄い方がとりあえずはマッチしている。

 ただ個人的に好きな唄い方かとゆーと、この若さにしてはウィスパーボイスな部分が前へと出過ぎて芯とゆーかベースになる声が耳に響いてこないのが気になるところ。マライヤ・キャリーの如くに徹底して張り上げる声なり、ゴスペルっぽく胸と腹から響き渡らせるよーな唄い方が好きで憧れている面が多分にあって、日本人だとMISIAのよーにしっかりとした太さを芯に持ちつつ唄う人に興味を弾かれる。

 最近は歳をとった山下達郎さんもウィスパーボイスに移って来ているけれど、声量があるのか耳にずしっと響いてそれほど違和感がない。Crystal Kayの出して来る声はその辺の重さがまだなくて、張り出す部分も腹からって感じがあんまりなくて聴いていてどーにも気持ちが引っかかる。ケミストリーも混じった「Two As One」は供に巧さで光るシンガー&ユニットだけど、囁きに呟きが絡んで見かけは綺麗に仕上がってはいても、熱情の欠けたアクリル画を見ているよう。原始の熱情を叫びに変えて出した「うた」って感じがしてこない。

 巧いかどーかは微妙だけどDVDで見た木村カエラさんのライブをその後も繰り返し何度も見返しているのは、提供されている楽曲の良さもあるけど一方でしっかりと頑張って声を張り出してる感じが伝わって来るからだったりする。声量だってそれなりにありそーだし。ドリームズ・カム・トゥルーなんて声量のカタマリみたいな唄い方で初聴からいっぺんでファンになった。そんな驚きを感じさせてくれるシンガーが最近、少なくなった気がするなあ。狭い家で囁き呟く歌ばかりを唄って育ったから声量が足りないのかなあ。まあとりあえずCrystal Kayちゃん、楽曲は嫌いじゃないんで聞き込みつつ将来どんなシンガーに育つのかを見守ろう。

 倫理的には宜しくないけどエンターテインメント的には面白い。「閉鎖師ユウ」のシリーズが微妙なうちに幕を閉じ、続くシリーズも立ち消え気味な中で独立したエピソードとして扇智史さんが書いた「永遠のフローズンチョコレート」(ファミ通文庫)は、のっけから女子高生が人を真面目に真っ当にぶち殺してはそれを特段に悔やみもしないで歩み去り、そして同級生の男子にそのことを話して平気な顔でいる。同級生の男の子もそれを虚言ではなく事実として認識している。

 少女はそれ以前にも何人も行きずりの人を殺しているんだけど、そこに深い理由なんて描かれないし、心理的なプロセスなんかも分析されない。そんな彼女が道で見かけて、なぜか心から殺したいと思い殺そうとした女の子との出会いが、ファンタジックなのかミステリアスなのかは分からないけど、ひとつエンターテインメント的なフックとなって物語を引っ張っていく。けどでもそれはあくまでもひとつのスパイスであって、本質的な部分にある見かけは平凡で育ちも苦労こそあってもとりたてて悲惨ではない女の子が、どうした訳か連続殺人鬼となっては殺人を淡々と繰り返しつつ同級生の男子との間でチョコレートを渡し合ったりする、淡々として平凡な青春ストーリーが繰り広げられる。

 読み終えて主人公の女の子の中にわき上がった、虚無的で退廃的な心理ってものが浮かんで来るけれど、そーしたネガティブさにまみれた感情なり、あるいはネガティブさすら存在しない無感動さを原因とした殺人行為を、ライトノベルの主軸を湿るティーンに読ませて何を訴えたかったのかが掴めない。読んで多感な世代がいったいどんな影響を受けるのかって悩みも付きまとう。ファンタジックなフックはあっても、物語世界における”現実”で少女は人を殺しまくって罰も受けない。殺された人への救いもない。倫理の底が抜けている。

 なるほど物語に描かれた、世界の殺人も恋愛も等価に感じる世代がいたりするってゆーシチュエーションは、今のこの底が割れてしまった日本の実状を現しているって言えば言える。でもやっぱりそーした状況を、正し前向きに生きる力ってものを物語からは欲しいもの。その意味で言うなら虚無と退廃しか与え得ない「永遠のフローズンチョコレート」の存在は、忌み嫌うのが筋としては真っ当なのだろー。だから忠告。この本はとてつもなく面白い。そしてとてつもなく危険だ。それでも読むかは自己責任。「毒入り危険。読んだら殺したくなるで」。

 ドボチョンドロドロの時代から古い屋敷にモンスターは付き物で、じゃない憑き者らしくて電撃大賞を受賞した「お留守バンシー」なんかもそんなモンスターに溢れた西洋のお屋敷の楽しくも明るい日々を描いて評判になっているけれど、佐々原史緒さんの「世界で一番いらない遺産1」(ファミ通文庫、580円)も舞台は欧州のとある小国のお城が舞台。高校を卒業したその日に黒塗りに拉致され少年が連れてこられた場所がレーゲンシュヴァンツ王国。何でもそこの領主が少年の曾祖父で、死ぬ間際に一目会いたいってことで連れてこられたとか。

 残念にも少年がお目通り叶う直前に曾祖父は死に、あとには年の若い後妻が残され少年に遺産相続があるという。けれどもそれには城に住まなくてはいけない。還りたいと叫んだものの体の良い働き手が来たと舌なめずりして若い後妻は少年をこきつかっては家へと帰さない。家の方でも少年の父親の経営する会社が傾き欠けてとてもじゃないけど少年を養えない。哀れ少年はその城で、貴族の曾孫とは名ばかりの暮らしを始めて程なくして気が付いた。この城には何かいる。かくして始まった少年の喧騒と狂乱の日々は、城の財産を狙う一味の侵略に城の者たちを使い率いて戦いを経て少年を成長させていく。ホームコメディホラー風味ちょっとだけヘルシング。堪能させられます面白いです続編ととっとと出すのです。


【2月26日】 ロベルト・バッジョ選手のカリスマ性はサッカー界でも確かに頭抜けたものがあって、90年代のサッカー界をディエゴ・マラドーナ選手からエリック・カントナ選手と続く流れに沿って代表させるに相応しい活躍を見せたし支持も集めてあいたけどそのカリスマ性を真正面から語るときに、どうしても彼の信仰が一種煙幕のようになってその真性の把握を疎外する。つまりは彼の所属する教団が持つアクティブさが、その教団と関わりと持たない人たちにとって時に激しさを持って受け止められていて、それを信じるバッジョ選手を讃えれば讃えるほどにその教団へのポジティブさを表明しかねないかもしれないと、信じる人たち以外の読者も対象にしなくてはならないメディアにとってどこか腫れ物を触るような扱いにせざるを得なかったりするのである。

 けれども2月25日にいよいよ本創刊なった「月刊スター・サッカー」は同等と、サッカー界のカリスマとしてあげた何人かの選手の代表にマラドーナ選手でもジョー所・ベスト選手でもヨハン・クライフ選手でもなくロベルト・バッジョ選手を選んで掲載し、且つ本文でもその信仰についてしっかりと言及している。「われわれ日本人は、宗教とか信仰という言葉そのものに、ネガティブな印象を抱く傾向を持っている。バッジョについても、創価学会が、仏教のオーセンティックな宗派ではなく新興宗教のカテゴリーに入る教団であるがゆえに、なおさら偏見にさらされやすい部分がある」(70ページ)。

 「しかし、宗派や教義以前に、信仰という好意が、どれだけ深く人の心を穿ち、どれだけの力を与え得るのかに目を向けた時、バッジョの言葉は、そしてそれ以上に『一本半の脚』で戦い続けたそのキャリアは、我々の深いところで何かを響かせる」(同)。まだキャリアの走りにあっった85年5月5日、レギュラーとして始めてシーズンと戦ったそのシーズンも終盤にさしかかった試合でバッジョ選手は何でもない転倒をして、そして膝をねじり右膝前十字靱帯および外側靱帯断裂、膝蓋骨骨折という怪我を負った。220針かけ靱帯を縫う手術を経たバッジョ選手の脚が真っ当に機能するはずがないにも関わらず、バッジョ選手は半分になってしまったその脚と、もう1本の脚を使って奇跡的な活躍を見せ続ける。

 「どうして自分にあの災いが起こらなければならなかったのか。説明のつけようがない不条理にバッジョの心が苛まれ続けたことは、想像に難くない。そこに光を与えたのが、友人を通じて出会った仏教の世界観だった」(69ページ)。その宗教が日本で例えどんな言われ方をしていようとも、仏教的な考え方によって人は因果応報を認め恨まず悩まず今を生き未来を拓く力を得た、という事実はやっぱり受け止めなくちゃいけないってことだけは確かだろー。

 悩ましいのは教義を学び自己を改革したバッジョ選手の回復ぶりを、別のカリスマによるカリスマ性と結びつけ、どこか超常的な力と搦めて語ろうとする可能性があることで、そこへと陥らないためにも最初から触れない処世術が蔓延ってしまった。そこを逃げずに真正面から捉え阿らずに書いた筆者の片野道郎さんと、彼に依頼し掲載した「月刊スター・サッカー」に拍手。表紙にまで選んだ理由はちょっと分からないけど。カントナ選手じゃあやっぱり一目見て分からな過ぎだしジョージ・ベスト選手ではむさ苦しいしロナウド選手では店頭で引かれるから? まあそうだよなあ。並べた顔ではバッジョ選手が1番精悍だもんなあ。

 カリスマの選び方も他にエリック・カントナ選手だったりロナウド選手だったりで、誰もが名選手と認めるジネディーヌ・ジダン選手ではなくスター性だけなら当代一のデビッド・ベッカム選手でもない”主張”も、好悪は別にして支持したい。あの「カンフーキック」の写真を今時雑誌でこれだけ大きく眺められるとは思わなかったよ。70年代を象徴する事件で選んだベトナム戦争の写真がナパーム弾で焼かれ逃げるすっぽんぽんの女の子とゆーピューリッツァー賞受賞の写真ってのも良いねえ。クライフ選手とベッドに座る美女のスカートの奥がのぞけるって点も。さすがは写真にこだわるサッカー誌だけのことはある。

 全体を見渡すと創刊準備号よりもサッカー成分がやや高めってところか。カリスマ選手の紹介に半分くらいが裂かれていて、半ばメイン企画になっていた感もあるノエル・ギャラガーへのインタビューに匹敵するだけの、異文化コミュニケーション的な記事が少なくなっててそっち方面を期待していた人は肩すかしを食らうかも。それでも「モグワイ」ってバンドのメンバーにセルティックのシャツを着せ緑と白のシマシマなマフラーを巻いてもらって”セルティック愛”を方ってもらったインタビューは、そっちの人たちにとってのセルティックなりスコットランド代表なりといったものへの考え方が分かって立派に異文化コミュニケーション。

 子供がレンジャーズのファンになったらどうするとの問いにノエル・ギャラガーはケツをけ飛ばすって堪えていたけど、「モグワイ」の面々は更に過激に「生け贄にする」だの「養子に出す」だのと怖いことを言っている。もっともこれが100年に渡って代々続くサポーター魂って奴なんだろー。日本にこんな魂が根付くのは10年後か20年後か30年後か。それにしてもグラスゴー特集に現れるセルティックサポーターの家族、いい味出てます。爺さんも孫娘もみんななぜか丸いいけど。

 時代は実朝。なのかなもしかして。刊行されたばかりの「黎明に叛くもの」に続いて宇月原晴明さんが出した「安徳天皇漂海記」(中央公論新社)は、壇ノ浦の海で没したはずの安徳天皇がそのままの姿で将軍家も三代目となった源実朝の時代に現れるって展開から、政治の実験を北条時政義時親子に握られ、また周囲で陰謀が巡らされることを知りつつも何も出来ずにいる中で、雅やかなものへと傾注しては和歌を嗜むよーになる実朝の哀しく寂しい生き様が描かれていて感銘を読んだけど、いよいよ完結なった藤木稟さんの「陰陽師 鬼一法眼」は前巻の「駕籠の鳥之巻」で源実朝が将軍となっては、やっぱり北条氏や御家人たちの行う統治に関われず権力争いに翻弄される姿が描かれていたりした。

 そして登場の最終巻「陰陽師 鬼一法眼 ときじく之巻」(光文社)で権力争いの渦中にあって己が命までをも左右される状況の中、都より妻を迎え和歌を学びそして「安徳天皇漂海記」でも登場した宋へと渡る船を造ろうとするエピソードへと至って実質的な鎌倉最後の将軍に祭り上げられた右大臣実朝の生き様を浮かび上がらせる。すべてを達観して逝った「安徳天皇漂海記」の実朝に比べて、政治への関心がやや強いもののそれでも時を幾度と無く繰り返させられる中で、自らの運命を悟り役割を理解し公暁の手に掛かって死ぬ運命を選ぶ実朝の姿は「安徳天皇漂海記」と同様の潔さを見せてくれる。

 実朝とゆー像を透して、傀儡とゆー立場の何とも言えない辛さ儚さを感じさせ、そんな中で己をどう処するべきなのかを考えさせる2冊の物語。これが今のこの時代に並んで出たって意味は何だろー? 強いリーダーシップに引っ張られているよーで、その実誰も責任をとらないまま流されていく世にあって、そんな流れに逆らうこともできず叫べずただただ流れに身を任せるしかない人たちの、諦念とも達観とも言える心情を象徴しているんだろーか。変えられる力を仮初めであっても持ち得た権力者なり政治家なりには、だからこそ踏みとどまって欲しいんもの。

 なんだけど、でもなあ、「サンデープロジェクト」に出演した民主党の前原党首の、壊れたテープレコーダーみたいに「報告は伺っております」とただ繰り返すだけで、スタジオにいた人たちからの「謝っちゃって出直して攻めようよ」ってアドバイスにまるで耳を傾けず、あまつさえ「学者に何が分かる!」と逆ギレしている姿を見せられると、もはや駄目だって思うより他にないもんなあ。だったらあんたたちに何が分かっているってんだ。逃げたいよ宋でもハワイでも。

 「週刊エウレカ批評」。見えたのは日本列島でも着陸したのはインドあたりでそこからずんずんとニルヴァーシュで歩いてアフリカの象牙海岸あたりまで行ったってことなのレントンたち。まあ単純に地図を適当に見ているだけなんだろーけれど、どこで何かをする訳でもなしにただひたすら歩き続けるって心理が今ひとつ理解できない。何をしたら良いのか分からないって状況を説明しているんだろーけれど、それだったらまずは何より”生きること”が大事な訳で、歩くより先に拠点を作りそこで生きる算段をしろよって言ってやりたくなる。服も汚れておらず髪も伸びていないってことはまだ来て数日? それでもやっぱり何か考えよーよレントン君。

 歩いた果てに水平線が見えて雲間から光が射し降りている光景に驚いているけど意味不明。レントンたちが前にいた星が実は巨大な空洞の中でどこまで言っても地続きで空を渡れば反対側の地上に降りる世界だったってんなら別だけど、ホランドたちが今やっているミサイル落としのシーンを見るとそこは成層圏で宇宙で地球はしっかり丸い。空と地はつながってなんかない。それとも海が存在しない世界なんだろーか。だから地表でサーフィンをする習慣が生まれたんだろーか。

 海を見て驚いたのか空から射す何かを見てびっくりしたのか。吃驚するならそーゆー背景を積み上げておいてくれないと、一緒になって驚けないんだよ全くもう。人体実験めいた場面もそれが何? って衝撃度。まだ死んだ元オトメがジェムの原料になってたって「舞−乙HiME」の世界観の方が恐ろしい。整形する意味って奴を語っておいて欲しかった。けどきっとこれで説明したことになってしまうんだろー。かくして謎を積み残したまま最後の決戦へと向かう……のか? 残り少ない話数でどう決着を付けるのか、目がはなせません。ガリバーはしかし一体何で出来ているんだろう?


【2月25日】 サッカー成分が不足気味なんで噂を聞いて超久々に「よみうりランド」横にある東京ヴェルディ1969のグラウンドへと向かいジェフユナイテッド市原・千葉との練習試合を見物することに。向かうは京王の「よみうりランド駅:だったけど急行に乗ったら「京王稲田堤」の次から何駅かすっ飛ばしてしまって目的の駅で降りられず。仕方なしに降りた駅から戻ろうとしたら今度も急行で「京王稲田堤」まで止まらず言ったり来たりも面倒だと、とりあえずは稲田堤まで戻りそこから徒歩で「ヴェルディグラウンド」まで向かう。

あの目でにらまれちゃ怠慢なんで出来ねえよ。強くなるかなヴェルディ。  バスで行く手もあったけど面倒だからと歩き始めたものの前にはひたすらに上り坂が続き、折からの好天にも恵まれ着込んだコートの中に汗が滲む。ふくらはぎにも張りが出て来て大変だったけどそれでも程なくして日本テレビの生田スタジオ脇から中へと折れてグラウンドに到着。そのままさらに山頂にあるグラウンドへと赴き既に始まっていた練習試合の1試合目、サテライトのメンバー同士による試合を見物する。到着時は汗も滲んでいたけれど、山頂だけあって下界より気温が低いのか、吹く風も冷たくって汗も引く。それでも天気が良かったこともあって体には大きく響かず、「天皇杯」とか05年12月の「トヨタカップ」決勝の時ほどには震えないで済んだ。やっぱり冬はサッカーは昼間にやろう。

 そういえば最後にここに来たのも真冬だったっけ? 03年の「トヨタカップ」と同じ日に確か全日本女子サッカー選手権大会だかLリーグだかの試合が開かれいて、「ACミラン」の来日でチケットが買えなかった事もあってこっちに日テレ・ベレーザの試合を見に来たっけか。4面あるグラウンドは芝生に人工芝と整備も行き届き、クラブハウスもあって環境としては最高。そんな場所で近隣よりサッカーに覚えのある若い人たちをわんさと集めて鍛えていて、どーしてJ2に落ちるかねえ、ヴェルディは。環境の良さが逆に妙な意識を若い頃からここでプレーする選手たちに植え付けてしまうんだろーか。でも条件は全盛期だって同じだった訳だし。やっぱり気の持ちよう、指導のしようって奴なのか。

 その点で今年は全盛期の「ランド」での切磋琢磨を知るラモス監督が就任して睨みを聞かせているから安心か。サテライトの試合でもゴール裏に陣取り選手達の一挙手一投足をじっと見入っては新しい才能たちが溺れず奢らず試合に臨んでいるかを観察してた。後にトップの試合が控えているのに、最後まで若い選手たちの姿を見続けていたってことはそれだけ期待するものがあるんだろー。ってか活躍してもらわなくっちゃ長く果てしないJ2リーグとそしてアジアチャンピオンズリーグは戦えないからね。

 試合はジェフ千葉に3点を奪われ負けたけど、そんな試合からもきっと良い選手を見つけたことだろう。個人的には練習生で来ているリカって多分ブラジルかどこかの出身の18歳の選手が見せたキレに興味。FC琉球から引っ張ってきた27歳の佐藤拓也選手も頑張っていたなあ。トップからはデジマール選手が呼ばれてディフェンスに入ってこれもなかなかの利きっぷり。前半は結構な攻めを見せてはサテライトとは言え、櫛野亮選手が守りクルプニ選手が調整も兼ねてフル出場したチームを追い込んでいたから、慣れて来れば結構な戦いを見せてくれるかも。トップに至ってはジェフの代表選手も入れたベストに近い布陣を相手に互角の戦いを見せた模様でこれまた期待。1年で戻る可能性、高いかも。

 一方のジェフ千葉はとにかく田中淳也選手がデカかった。それはもう圧倒的なデカさで188センチってゆー長身でもって来るボール来るボールのことごとくを跳ね返してヴェルディの選手に触らせずに守りきった。この巨大さは小兵揃いのジェフにあって極めて貴重だし、日本代表にだってそれなりな貢献を果たしてくれるかも。攻めに関してもジェフにいたなら否応なしに巧く成らざるをえない。でないと斎藤大輔選手や水本裕貴選手に取って代わることなんで出来ないから。

 大卒で入ってまだ22歳と若い選手だけど、佐藤勇人選手も阿部勇樹選手もその歳ではレギュラーだったし水本選手は20歳で水野晃樹選手もやっぱり20歳。うかうかしてると下からだってさらに若いのが追いかけてくる訳で、それを踏まえて奮闘してくれるとジェフのみならず日本に大きな糧となる。頑張れ田中淳也選手。オシムを見下ろすその日まで。永久に無理だけど。だってオシムは223センチもあるんだから(そんなにはない)。

 若手と言えば高卒(まだ卒業してないけど)ルーキーの青木孝太選手がキレッキレで才能の片鱗を大爆発。前半はそれでもやや中盤に下がり気味だったけど、トップに収まった後半は持てばドリブルでもって切れ込んでいって自分でシュートを放つジェフにはちょっと珍しいプレーを見せてくれて、なおかつそれがちゃんと決まっていたから素晴らしい。1点を奪った場面も1人で局面を打開し奪った得点で、最後にプルクニ選手が決めたPKもゴール前へとドリブルで走り込んだ青木選手をディフェンダーが止め損なって与えたもの。他にもサイドネットを揺らしたシュートもあって、全部を決めていたらハットトリックだて達成してしまったかもしれない。

 体力面が不安だけどそれより技術の素晴らしさと向こうっ気の強さはなかなかのもの。ハイスピード系のフォワードだった林丈統選手を失った最前線に加わった才能は、それに負けないだけのポテンシャルを秘めていてもしかすると数年で抜いてしまうかもしれないものだった。これは早々にベンチ入りさせデビューってこともあるかも。カピタンと同じ名字の川淵勇祐選手は走りが足りないなあ。前の選手がボールを持って走り込もうとしているのにその後ろを追いかけ追い越しもらおうとする動きがないのが見ていても分かる。だから後半には代えられてしまったんだろう。マリオ・ハース選手に巻誠一郎選手を筆頭に、チェックは激しく無駄走りも厭わない要田勇一選手がいて19歳には見えない大きさと強さを見せかけてくれた後半登場の金東秀選手がいて青木選手まで入ってきた中ではフォワードは厳しいか。けど中盤はさらに人材が抱負だし。頑張りどころだぞ。

 そのまま見ていたかたけど遅くなって凍え死ぬ可能性もあったんで、トップ選手たちが勢揃いした試合はパスして今度は「よみうりランド」上空を突っ切るゴンドラを使い下山して帰途へ。遊園地はそれなりな人出でジェットコースターも満席で、週末いこんな所まで来てお楽しみな方々の実に大勢いることに何かを思うと惨めになるから何も思わない。ジャイアンツ休場はお休みな模様で誰もおらず。多摩川の河川敷とは違ってスタンドもある立派な休場が、使われもしないで山上に眠っているのは時期が時期とは言え勿体ない気もしないでもない。

 それにしても読売グループ、多摩の丘陵に巨大なサッカー練習施設を作りクラブチームを作ってサッカー界の発展に大きく貢献し、また立派な野球練習場を持てるくらいの人気野球チームを長く運営し、このご時世に来場者もそれなりにある遊園地を作って今も運営し続けていて、これを見ると、娯楽とスポーツに対する貢献ってものには並々ならぬものがあるんだって改めて実感させらる。その割にはこの何年か、スポーツの敵めいた視線を浴び続けてるのはなぜなんだろー? 多分に見栄もあったみたいだけど、クラブチームが日本に必要と読売クラブを作り、相手も強くて興業は成り立つとリーグ運営の健全化に理解を示した大正力と、狭く自分の会社のことしか考えないナベツネとの器量の差って奴なのか。それでも喇叭を吹き鳴らしては世間の耳目を集めるだけの器量はあるからまだましか。立場に汲々としては回りから茶坊主以外を廃し続けるメディアトップもいることだし。誰かは言わない。


【2月24日】 表彰式には出られずマンガ部門で大賞を獲得した吾妻ひでおさんのご尊顔は拝見できなかったけど、展示物ではそれなりに珍しいものが見られた「第9回文化庁メディア芸術祭」。アート部門で大賞を獲得したウルグアイ出身で今は東大で助手をしているらしーアルバロ・カシネリって人の作品「クロノスプロジェクター」は、裏側からプロジェクターで映し出される映像に触れるとそこだけ時間が変化して、風景だったら夜になったり顔だったら歪んで正面を向いたりしたりと、インタラクティブな反応を楽しめる。

 時の神になって時間をその手のひらで差配できるって感覚? それにはちょっと及ばないけど人の顔なり猫の髭なりを引っ張り歪ませて遊ぶと、相手から反撃をくらうことを思えば見た目が変わるだけの「クロノスプロジェクター」の方が、遊ぶに容易いって言えそー。技術的にはどーなんだろー、結構難しい技術が使われているのかな、触れた部分がどこかをサーチして映像の出力側に働きかけなくちゃいけない訳だし。うーん謎。アイディアはあってもその実現に技術をいろいろ考えなくちゃいけないのが、メディアアートの面倒なところなんだよなー。

ホーリーブラウニーも現実になってくれないかなあ  その顕著な例が、東京工業大学のロボット技術研究会に所属する青木孝文さんって人の一派が推薦作品として送り込んで来た「バーチャルブラウニー」って作品。テーブルの上に紅茶の缶が置かれていて、それが誰の手も借りずにテーブルの上を左右前後に動き回っている。手前に置いてあるモニターをのぞくと、そこには紅茶缶を動かす小人たちの姿が! 目には見えないけれどモニターには捉えられる小人がいて、テーブルの上の紅茶缶も実は彼らが押したり引いたりしているんだってことが表現されている。

 なるほど作品としては分かりやすい。虚構であるはずの小人が実在していることを表現したいってアイディアを実現したものってことになるんだけど、見た目は明快でもその裏側で動く技術を考えると、これは相当に凄い作品じゃないのかって気になって来る。浮かぶのは紅茶の缶をテーブルの裏から磁石で前後左右に動かす仕組みがあって、それから紅茶缶の動きをとらえるセンサーが情報にあって、そこから判断した位置情報に合わせてモニター上に紅茶の側に後付的に小人を映し出しては、動く紅茶缶に沿わせる形で小人も動かしているんじゃないかって理屈だけど、脇にいた人に聞くとどうもそうではないらしい。

 磁石で上下左右に引っ張る理屈は当たり。センサーで紅茶缶の位置も把握しているけれど、紅茶缶の動きに沿わせる形で小人のCGを出しているんじゃなく、小人は自在にテーブル上を動き回って紅茶缶に当たったら紅茶缶を押し始めるよーなプログラムになっていて、且つそんな小人の紅茶缶を押す力の強さや角度に応じて、テーブルの下から磁石の位置を操作し紅茶缶を前後左右に移動させるんだとか。缶を手に持ち左右に振ってそれが見えない小人に当たると、モニター上で小人が缶にはじき飛ばされ転がる様が映し出される。缶の後付ではきっと不可能な表現。見た目の整合性ではなく理念として、見えない小人を現出せしめようとしたものってことになる。アート的ではあるけれど、応用によってはアミューズメントとかエンターテインメントに応用も利きそう。だけどそこまでのアイディアがないのが情けない。言って見て感じた人が何か考えてくださいな。

 素手でだって男の兵士より強靱なシズル・ヴィオーラ。手錠を外され別室へと案内されたら即座に逃げ出すかと思ったけれど、とりあえずは何やら賢しげに企むトモエ・マルグリットの動向を探るべく学園に留まる模様。そのトモエはおそらくは「蒼天の静玉」の前の持ち主を母胎に作られたジェムを耳にマテリアライズする部隊に入って一旗揚げよーと画策中。そんな動きを牽制するためかチエまでもが部隊に入ってガルデローベは大混乱の極みへと至りそー。セルゲイも間抜けじゃないからきっとチエの到来に何かを覚え何かを含めたに違いない。それが発動する時が楽しみ。

 一方で宮殿地下では前に1度現れたハルモニウムが再び動き始めて、中からシルエットだけなら「舞−HiME」の命にそっくりなキャラクターが現れて何かを引き起こしそー。アスワドに拾われミドリちゃん17歳と供にハルカとマシロは行動しそーで、そんなくんずほぐれつの状況に先行きへの楽しみも募るけど、でもやっぱり目はエアリーズへとたどり着いたナツキ・クルーガーが、准将のハルカちゃんから腹の底より溢れる笑いを浴びせかけられる場面へと釘付けになってしまう。ナオに引きずり落とされたズボンの下、やっぱり何も履いてなかったのかなあ、履いてるっとシルエットに響きそうな素材&スタイルだし。だとしたら捕まった時にナツキとナオが問われた猥褻物陳列の罪、よく分かるよくわかる。

 目覚めたら表彰台でフィギュアスケート女子のサーシャ・コーエン選手がメダルを授与されている場面が映っててやっぱりコーエンが金かやっぱり納得しつつ目を横にそらすとそこに更に1段高い場所が。ってことはイリーナ・スルツカヤが逆転したのと思っていたら何とそこには見慣れた日本人選手がいるではないか! 荒川静香選手。もとより逆転の可能性が十分にある3位ではあったけれど、上位の2人がともに転倒のミスを犯したところを1人大きなミスをせず、きっちりと固め点数を伸ばして逆転・優勝と至ったらしー。直前に曲も慣れたものへと変えてのぞんだ荒川選手の、ベテランでありまたコーエンにスルツカヤとゆー2枚看板の間で比較的喧騒にまみれないまま、自力を発揮し尽くせたことが大きかったんだろー。おめでとうおめでとう。

 一方の安藤美姫選手は4回転ジャンプを盛大にコケて新聞なんかには割に恥ずかしい写真も載っててファン的には嬉しさもあるんだけど、終わってからのインタビューにもあんまり屈託はないみたいで、ここで分をわきまえ至らない部分を伸ばす覚悟を固めてくれたら、後に続くバンクーバーなりその次の五輪にも臨んでは、荒川選手に続くメダル獲得って可能性もまだありそー。逆に屈託の無さが未練の無さと重なるものだったとしたら、これで最後って可能性もあるんだけど。どっちだろー。どっちにしても次は”本命”の浅田真央選手も堂々の出場を果たす訳で、ロートルが固めるスキージャンプやスターの乏しいアルペン、ノルディックに内弁慶も極まったスノーボードといった競技を脇に、こと女子フィギュアスケートだけは我が世の春を続けてくれそー。カーリングもそこに加わってくれたら嬉しいね。

 イオン岡田と俗に呼ばれる岡田克也さんを前党首に仰ぎ担いた民主党。その意を組んで選任された新党首の下、秘密のメールをネタに自民党の武部幹事長の二男がどうとか攻めよーとしたけどそれがガセだとバレて逆襲をくらい、質問者の辞職はもはや避けられないって状況まで来たにもかかわらず、依然として党首は強気を崩さず謝るそぶりも見せずに戦闘継続を宣言しては、その往生際の悪さを有権者にしっかりと見られて今後の党運営に大いなる禍根を残しまくっている。引くべきところはさっさと引いてそれから本論であるところの自民党の施策における拙い部分をちゃんと指摘してけば、信頼だって取り戻せたかもしれないのに、謝りどころを間違えてしまって後はひたすら転げ落ちるばかりってのが情けない。

 その点、兄貴の岡田元也社長が率いる本当のイオンは、オリジン東秀って弁当チェーンの株を欲しいとドン・キホーテに岡田社長が自ら乗り込み、ドンキの安田隆夫会長と直談判。結果安田会長からTOBに応じてもらえる確約を取り付け、これでオリジンをめぐるイオンとドン・キホーテの対立は、握手によって幕を閉じる結果となった。オリジンにしてみれば意中のイオンに救ってもらえて万々歳だし、イオンも価格を引き上げるとか買い付けに倍額を払うとかいった無駄な金を使わずに済んだ。

 ドンキはドンキでやや上乗せの利益が数十億円入る上に、イオンとの提携話も実現性はともかく浮上し将来性に展望が見えて来た。ゴネずに引くべきベストなタイミングで引いてイメージも向上。イオンにオリジンにドンキの三方がいずれも損をしないで済んだ今回の着地点。TOB不成立直後に株を買いましたドンキの手法を「真っ白」だと認め頭を下げては相手から譲歩を引き出した兄貴の、商売の世界で生きて来て期を見るに敏な感性と、硬直ぶりが目立つ民主党の一時の顔であり今なお何もできずにいる弟の役人上がりな感性の、これが決定的な差って奴なんだろーなー。


【2月23日】 って言ってたら発表になったドイツでのサッカー「日本代表vsボスニア・ヘルツェゴビナ戦」のメンバーから巻誠一郎選手も阿部勇樹選手も外れてやんの。けどこれはつまり3月5日に行われるJリーグの開幕戦に万全の体制で臨んで欲しいってゆージーコ監督の親心であってリーグで活躍してチームも上位へと躍進すれば、世論が代表に選出せよってことになって本番のメンバーに選びやすくなるんだってことを、あのモシャモシャとした頭で考え出したに違いない、ああ違いないともさ。

 大活躍だった長谷部誠選手もおらず得点を上げた佐藤寿人選手もおらず、フォワードではひとり日本から久保竜彦選手だけが渡欧の模様。シーズン前の大事な時に一番大切に扱わなくちゃいけない選手を長距離の飛行機に乗せてまだ寒いドイツへと送り込むジーコ監督は、横浜F・マリノスの復調に何やら含むところがあるのかも。岡田監督今頃ウルウルしているに違いない、「サッカーダイジェスト」の漫画と同様に「まだ接着剤が乾いていないのに!」って叫びながら。

 しかし相変わらずだなジーコ監督。セリエAで試合にまるで出ていない柳沢敦選手を呼び、ブンデスリーガで得点をまるで取っていない高原直泰選手を呼ぶんだったら、エールディビジではあっても大量に得点している平山相太選手を入れるのが筋ってものだろー。同じ欧州リーグの2部だったらフランスのグルノーブルにいる大黒選手よりもスペイン2部のカステリョンで経験を積み重ねて来ている福田健二選手の方がランク的なんだけど、ジーコ監督の記憶にそんな選手のカケラもきっと無いんだろー。

 大久保嘉人選手だってマジョルカがリーグ最下位に沈んでいるし本人も活躍していないとはいえ試合には出ている訳で、柳沢敦選手よりかは遥かにコンディションも良いはずなのに呼ばれない。どうせ日本に帰って来るんだから鹿島アントラーズでの調子を見てから選べば良いのになあ。まあそれもやっぱりジーコジャパン・クオリティってことで、相変わらずの底の見えなさ腹の伺えなさに溢れた選手選考。これで大黒高原柳沢に一切の結果が出なくても、巻選手は入って来ないんだろーなー。だからせめてリーグで見返し、続くオシムジャパンの正フォワードに収まってくれよ巻選手。

 丸の内にある「OAZO」の中の丸善に寄って橋本紡さんの新刊「流れ星が消えないうちに」(新潮社)を探したけれど見つからず。店頭の検索端末で引っ張ると何と女流作家の棚にあるってことが判明して行くとちゃんとそこに平積みされていた。そっかあ女流だったんあ。そんな訳あるかい。けどでも知らずに冒頭とか読むと、女子大生の一人語りで始まるナチュラルで繊細な文体は柴崎友香さんとか綿谷りささんといった女性の作家に流行の内容だって思われそっちに引っ張られてしまうかもしれないなあ。

 幼なじみで高校生の時に本当につきあい始めた男子が外国を旅行中に死んでしまって、残された大学生の女性は彼の残り香が漂うような自分の部屋では眠れず今は玄関先に布団を敷いて寝起きしている。そんな彼女のぽっかりと開いた心に滑り込んで来たのは死んだ彼氏と高校時代の知り合いで、当然女性とも知り合いだった青年で、死んだ男に申し訳なさを覚えつつも女性との距離を詰めようと懸命になるんだけど、普段は平静に見えてもやっぱり心に残るものがあるのか女性は時々ふっと気持ちを死んだ男性の方に向けてしまう。

 そんな所に女性の父親が母親と妹を連れて赴任していた九州からひょっこりと戻ってくる。家出したって理由を言うけどどうやら夫婦げんかをしたみたい。ただその原因がはっきしりないまま女性は戻ってきた父親と暮らし始める。不思議なことに玄関先で眠る女性を別に父親はとがめ立てもしなければ、やって来た今つき合ってる彼氏とも妙に仲良くなっては彼から諭されて、というより彼にそれを伝えた死んだ元彼氏の言葉をまた聞きする形で考えてばっかりの日々を止め、町内会のためにとチラシを刷ったりパトロールをしたりと体を動かし始める。

 そんな父親をかたわらに、ぎこちない関係を続けていた女性と今の彼氏との間にもちょっぴりの進展が見られるよーになる。そして女性は1年ほどのわだかまりから脱却し、死んだ元彼が学生時代に作り、今の彼氏も協力していた自家製のプラネタリウムを押し入れの中から引っ張り出してくる。それは過去を思い出しては飲み込み明日へと向かうための一種の儀式。その中から女性は今の彼氏との新しい日々を探り父親も彼なりの明日を見つけようとする。

 様々な関係性の中に組み込まれていたひとつの存在が突然にポッカリと抜けてしまった時に襲ってくる喪失感と、それがもたらす世界のぐらぐらとする感じが描かれそんな穴が進展するコミュニケーションの中で塞がれ、世界が新しい安定感を取り戻そうとする様が綴られた物語。タイプとしては「毛布お化けと金曜日の階段」に似て、失われてしまったものをめぐって家族や友人が悩みもだえながらも、快復へと向かう確かさって奴を見せてくれる。ラストの完璧に解決した訳じゃないのに妙に残る清々しさが嬉しい。改段下にある玄関の布団は、誰かを迎えそしてどこかへ向かう中間に位置する子宮にも似た存在であり、また決意がぐらつきそうになった時に優しく受け止める存在である所が、単なる隠れ場所だった踊り場の毛布とはやや違う意味合いを持っていそー。比較検討の要あり。

 半歩外せば古代帝国だとか遠く彼方の惑星からの転生者たちが集い還ろうと呼びかける、電波ともカルトともつかないどこか胡散臭げな領域と混同されかねないんだけど、今村恭子さんって人の書いたファンタジーの「月族」(海竜社、1300円)はテーマが日本人にとってかぐや姫の時代より馴染みの深い月であり、また危ない世界へと誘導するってゆーよりは、多感で不安げな時期に誰かと共通項を見つけすがりたい繋がりたいって心理を客観的に示そーとしている親切さがあり、何より物語りとして身に迫るものがあるってところがこの本を文学の領域に押しとどめ読む人に不安ではなく感銘を与えるんだろー。何より表紙が天野嘉孝さんて所がゴージャス。どーゆー伝の人なんだろう?


【2月22日】 午前の4時くらいに起きてNHKでトリノ五輪の女子フィギュアスケート。リアルタイムで競技を見るのってもしかするとこれが初めてか。そーいや男子のフィギュアは最後のフリーを朝に見たっけ。ともかくもそれくらいに関心が及ばないし今回のトリノ五輪だけど、女子フィギュアだけややっぱり見ておいた方が良いかなって下心が立ち上がっては朝の布団を持ち上げる。すでに結構進んでいるかと思ったらまだ数人で、日本人選手は1人も滑っていなかったのはラッキー。優勝候補のスルツカヤもまだでここから本番が始まると目をテレビ画面へと集中させる。

 んでもって登場の安藤美姫選手。なぜ黒タイツなんだ黒タイツなんだ黒タイツなんだ黒タイツなんだ黒タイツなんだ黒タイツなんだ黒たいつなんだ黒タイツなんだ。パナソニックのCMなんかで高速カメラによって撮られた安藤選手が白くて立派な足を抱えてスピンする映像なんかが映し出されて、その頑健な感じにきっと素晴らしいジャンプを見せてくれるに違いないって安心感も抱いていたのに、黒いタイツに包まれた足は何だか妙に細っこく見えてジャンプしてもしっかと安定して降りられる感じがせず、事実飛べないで点数を稼げなかったりしてあんまり良い印象を持てなかった。

 コスチューム全体もどこかフィギュアならではの若々しさから乖離した、シックと言えば聞こえは良いし見栄えも確かに良いんだけどそれでもやっぱりどことなくそぐわないスタイルで、若さと強さをアピールしなくちゃいけない人に何でこんな衣装を着せたのかって気分が見ながらむくむくと沸き起こる。それとも黒タイツによって細く見せなくちゃいけないくらいに足、丸く立派に育ってしまっていたのかなあ。街着にこんな格好をしてくれていたら嬉しいんだけどやっぱり表情ではしっかりと白い部分を見せて欲しいもの。たとえそれがタイツの色に過ぎなくっても。

 その点で言うならどこだったっけ、どっかの選手の格好は背中が大きく開いたチアリーダーみたいなファッションだったし、別の選手も後ろがV字に深くカットされ、且つ前もV字にカットされたデザインになっていて、たとえそこが肌色のジャージー素材で覆われていても遠目にはV字カットされてのぞくリアル肌に見えて心疼かせる。ウクライナの選手は露出こそ少ないものの足は立派に見せてくれてて感謝感激雨霰。朝のまどろみを吹き飛ばしてくれた。安藤美姫選手でこんなスタイルでの縁起を見たかったなあ。誰があの衣装を押し進めたんだろう? 日本スケート協会だとしたら分かってなさはやっぱり伝統だったってことなんだなあ。

 とはいえスルツカヤ選手だって何故にパンタロン? って衣装でおまけに髪型もショートになってて遠目にはおばさんが滑っているよーに見える。それでも縁起で強さしなやかさを見せるところは世界レベル。得点でもサーシャ・コーエンに次いで2位に付けてて”女王”の金看板はやっぱり伊達じゃないところを満天下に示したって言えそー。そんな2人に付けて荒川静香選手が3位、村主章枝選手も4位と大健闘。ここで大きな失敗をせず逆に上位にコケる選手が出れば2人ともメダルって可能性も皆無じゃない。

 と言いつつ土壇場で大コケするのが今トリノでの日本なだけに終わってメダルゼロの可能性もこれまたかいむじゃないところが悩ましいやら楽しいやら。五輪にシフトしよーとしつつもあまりの盛り上がらなさに番組を変更したりするテレビ局も多い中で、いったん決めたことだと引かず五輪にページを大々的に割いたまんま閉幕までを突っ走ってるビジネス新聞もあったりするけど、メダルラッシュに湧いたアテネ五輪で同じよーに5ページとか裂いて伝えた際の数的な結果が微妙なだったけに、より盛り上がっていない今回の成果はいかばかりか。半ば心中する覚悟で臨んでいるんだろー。結果が出せない責任を取らなきゃいけないのは、JOCと各競技団体だけじゃないってことで。

 「お上人、やっとかめじゃんか。待っとっただわ。話は聞いただでー、石見屋敷の陣衆がどれやーたけたそうじゃんか。たーけたことをー、むちゃするでかんわー」って三河弁? 「じゃんだらりん」の1つも使われていないこの言葉、どっちかってゆーとバリバリの尾張弁名古屋弁に聞こえるんだけど、出身が愛知は名古屋の山田正紀さんが、境川を超えた三河に伝わる言葉と尾張の言葉を混同するはずもないから、きっと調べた結果の三河弁なんだろー。

 そんな言葉が登場するのは、山田さんがSFでもなければミステリーでもなしに、何かを思ってか挑んだ時代小説「早春賦」(角川書店、1700円)。江戸幕府が開けたばかりの時代、八王子に勢力を誇っていた大久保長安が死没した後に直轄領だった八王子を名実ともに直轄地にしよーと謀る幕府に対し、大久保長安配下の者たちが反乱を起こそうとしてその地に住みついていた元武田家配下の半農半士な郷士の人たちも、見方に引き入れようとしたものの恩義はないとこれを突っぱねた郷士の重鎮たちを送り込まれた大久保長安配下の家臣団がなで切りにする。

 殺されたそんな郷士の息子・風一も、家臣団に付くかそれとも幕府に付くかを迫られる。家臣団には親の敵ではありながらも幼なじみでもある少年たちがいたりするけど、かといって幕府に逆らうのはリスクも大きすぎる。悩んだ風一や友人たちが選んだ道は? といった展開になりそーなんだけど未読なんで結果は不明。ともあれそーした当時の事情に通じ身分に通じた描写と、尾張弁みたいな三河弁を操る謎の武士と風一との緊張感にあふれた戦いの描写が流石はベテラン作家って感じでぐっと読ませて引きつける。観念のバラ捲かれた話に山田さんの小説を敬遠していた人でも、理詰めで展開されて物語もしっかりしている「早春賦」は読んでちゃんと楽しめそー。だと思うけどラスト10ページで戦いの相手が神となり時代がスリップしないとも限らないからなあ。ともあれじっくり読んで行こー。

 巻だよね、巻誠一郎のゴールで良いんだよね、長谷部選手のシュートは確かに鋭かったけど、もしかしたらあそこでグインとそれてゴールを外れてたかもしれないものを確実にゴールへと向かう角度に変えた訳だからやっぱりゴールは巻で大丈夫なんだよね、うん巻だおめでとうこれで代表2点目だ。ほかにもゴール前で競って落としクロスに飛び込み誰かのシュートにもほとんどだいたいにフォローに行ってこぼれ球を狙おうって動きを見せてた。そんな動きをするフォワードなんてこれまでいた? おまけにそんな動きを交代間際までまったく緩めよーとしない巻選手の有効的な献身ぶりは、厳しい戦いを続ける日本代表にとって是非に必要だ。

 なのでジーコ監督は巻選手を残してボスニア・ヘルツェゴビナ戦へと連れていって頂きたい。行けばイビチャ・オシムの下で学んだ選手と歓待されてやっぱりゴールを決めて代表定着への階段を駆け上がってくれるから。それは阿部勇樹選手にも言えるか、出してくれないかなあ。ともあれ前半はまるで駄目だったインド戦も終わってみれば6対0。行けたのに行けなくなって悔しかったけど前半の体たらくをスタジアムで見たら気持ちも憤りに凍えてしまったんで録画でとりあえずは良かったってことで。次に代表を見るのはワールドカップ明けかなあ、監督は誰になっているかなあ、オシム? だったら最高、巻も阿部も佐藤勇人までもいたりするぞ。でもって佐藤寿人もいて。強そーだなー。それでワールドカップを戦っていれば……。考えない考えない。


【2月21日】 久々に録画分を見た「Fate/Stay Night」。”透き通る金色の髪と深緑の瞳を持つ美しい少女”であり西洋風の甲冑に身をまとい戦う姿もあでやかなサーヴァントのセイバーが、畳敷きの座敷に正座し芋の煮っ転がしとかを箸でもりもりと食う姿は果たしてマジなのか、それとも狙ってやっているものなのか。そりゃ日本なんだからそーゆー暮らしに馴染まなくっちゃやって行けないんだろーけど、そーゆー部分なんて別にすっ飛ばしても構わないのにしっかり描いて見せるところに作り手たちのこだわりってものがあるんだろー。どんなこだわりかは知らないけれど。ご町内で繰り広げられる世界を左右する聖杯戦争の行方はあるいは和食が握るか?

 はっきり言えば全然違う。これは決して僕たちが求めていた”めがねっ娘写真集”などではないと、太田出版から出た「ガールズメガネ」(撮影・西村智晴、1300円)を手に取り読んで確信する。なるほど女の子たちがメガネをかけた姿で登場している。けれどもそのメガネのことごとくが横に細長いタイプだ。かければ原宿代官山あたりでオシャレに見えるタイプで言葉を換えればトミフェブ系。そんな女の子たちの顔をまじまじと見たときに覚えるのは憧れでもなければ感嘆でもない。

 異質感。そう、まるで自分たちとは違う場所に生きる人たちの、まるで違う場所に生きている自分たちなど眼中にはないとった澄ました態度だ。共感など抱けないし、ましてや”萌え”など欠片も感じられない。せめて蔑んでくれていたりしたら、その視線に何かを感じて身もだえ出来た。あるいは嫌悪してくれていたら、その悪意を好意に読み替え妄想の中に閉じこもることが出来た。それができない、彼女たちのあっけらかんとしたメガネ顔では、そんな喜びを感じることがまるで出来ない。

 三つ編みのお下げにメタルフレームのウェリントン。セーラー服の腕に委員長を書かれた腕章を巻いた少女から、ガラス越しに冷たい視線が突き刺ささるようなシチュエーションなどかけらもない。前髪の切りそろえられたストレートヘアの下にのぞくやや大きめの細いセルフレーム製ボストン。ぞろりとしたピンクハウス系の衣装を着て手にバスケットなんぞを持った少女の鼻にかかったメガネにはまるプラスチックレンズを透して、くりくりとした好奇心旺盛な眼差しが向けられるシチュエーションも存在しない。

 あるのはひたすらにトミフェブ系な女たちによるわたしきれい的な視線であり、また銀座表参道を闊歩する演出知性派の女たちによる何だよ一体写真に撮って誰が読むってんだよ的胡散臭げな眼差しばかり。そんな写真集をいったい誰が買い何を目的に眺めるんだと企画した人に聞いてみたい。いや僕が聞かなくたって「妄想戦士ヤマモト」に登場するメガネ団の面々が、太田出版へと乗り込みその意図を正しその企みを粉砕しては、正統にして伝統的な”めがねっ娘”の写真集を作り送り出してくれるだろう。

 「街のおしゃれなメガネ女子、総ざらいスナップ。」だぁ? どこの街だよそこは一体。原宿か? 江古田か? 秋葉原に行け。夏と冬の有明にいって撮れ。それでこその「ガールズメガネforボーイズ」だ。なんてことをまあ写真を眺めながら思った訳だけど、そんな中にあって心底よりのメガネガールズ好きであり、またメガネガールズの神髄に通じた桜坂洋さんが短編「サーティースリー・マイナスマイナス・ドットドット」を寄せているのが本書の救いか。

 ドジではないと力説するドジっ娘で「どちらかというと真面目でメガネでスカート長め」で「いわゆる委員長顔というやつで、全国委員長コンテストなどというものを開催したらけっこういいところまで行くかもしれない」顔立ちで、素顔を見られたと興り猫パンチを顎に繰り出す少女を描いた物語。これだよこの少女をこそ写真で表現するべきだよ。そう想ってあるいは作者も綴ったのだとしたら、やはり桜坂洋さんは心底よりのメガネストであると讃えよう。逆に掲載されるすべてのメガネガールを知ってそれをメガネガールズだと認めていたのだとしたら。妄想戦士ヤマモトよりメガネ団が立ちどころに向かい本意を糾すだろう。果たしてどちら?

 実は読んだことがない「バッテリー」だけどそこでおそらくは繰り広げられているだろー青春さわやか系とはまるで違った暗くてどろどろとした情感を、江戸の町を舞台に描いたあさのあつこさんの時代ミステリー「弥勒の月」(光文社)が登場。大勢から親しまれた父親の跡を継いで同心になった信次郎と、父親の下で岡っ引きとして働いた恩義に報いようと息子の下でも働き始めたベテランの伊佐治が出会った女の水死事件。橋から落ちたか飛び降りたかしたらしくおそらくは自殺と断定するも、女の夫で小間物問屋に婿として入った清之介という男から、商人とは違った気配を感じた上にその清之介から事件の謎を解き明かして欲しいとも頼まれて、女の身辺を洗い聞き込みを行い加えて清之介の秘められた過去にも迫っていく。

 怜悧ながらも人情味が乏しく、けれども仕事意欲だけは持った若いキャリアとそんな若者を支えなくてはと想いながらも心底に迫れず悩むベテラン刑事の時代を違えた捜査ミステリーと言って言えなくもない物語。清之介のとてつもなく暗くて激しい過去が明らかになり、また橋から川に身を投げ死んだ女のとてつもなく明るくて優しい心根が明かされて、闇を歩いた人間が光を求める気持ちの激しさと、それでも一度踏んでしまった闇から抜け出すことの難しさというものを強く感じさせられる。主役とも言うべき信次郎の今ひとつ掴みきれない性格が、様々な事件を経る内にどう変わっていくのか、それは光に傾くのか闇へと堕ちるのか、知りたい気もあり是非にあさのさんには続編を書いて頂きたいもの。こーゆー作品でなら十二分に直木賞、狙えます。宮部みゆきさんの後継者、決定。


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