縮刷版2006年12月中旬号


【12月20日】 売上の大半を占める商品の信頼性を疑うコメントだから、売上に比して損害賠償額も大きくなるのは当然で、従って5000万円を支払えとゆーロジックは、相手がそれだけの支払い能力を持った人間であれば通用するし、たとえ個人であってもそれが決定的な損害につながるコメントだったならば、やむを得ないって場合もある。けどこれは拙いだろう。ネットニュースの「J−CAST」が、例の烏賀陽弘道さんに対するオリコンによる損害賠償請求訴訟を取り上げているけれど、その中でオリコン側のIR担当者とゆー人が、こともあろーに「賠償金が欲しいというのではなく、これ以上の事実誤認の情報が流れないように(多額の賠償金を課すことで)抑制力を発揮させたい」なんて言ってしまっている。

 コメントだからこれをこのまま額面どおりに受け止めてしまうのは、烏賀陽さんのコメントの真否が問題にされている今回の裁判において問題とはいえ、そーした状況を踏まえてのコメント掲載ってことは、「J−CAST」側にだって相手がそう言ったって自信があるだろー。だから真と認めた上でこのコメントを検討した時、単純な損害とはまた別の“懲罰的”な意図がそこに込められているんだってことを、当の提訴者が自ら示してしまっていることに、それだけの損害があったんだから賠償金額の大きいのもやむを得ないと感じた人も、何かしらの引っかかりを覚えるんじゃなかろーか。

 「事実誤認」かどーかは立場によって変わるもの。時には暴かれたくない情報が出されてしまった時でも「事実誤認」を言い募ることだってあり得る訳で、そんな時に巨大企業が資本を嵩に巨額の賠償を「抑制力」のために求めるよーになった時、果たして言葉とゆーものが自由に、そして正当に発せられるのだろーか。考えるほどに薄気味悪い状況が訪れそー。そーした事態への想像力をいたずらに刺激しかねないオリコン側のコメントは、今回の係争の行方にオリコン側によって芳しくない方向で、あれこれと影響を与えそー。虎の尾を踏んでしまった上に、虎の口に唐辛子まで放り込むとは。舐めているのか慌てているのか。ともあれ先行きを見守ろう。

 しかし反応とかだと音楽CDのランキングでもってユーザーがCDを買うってことはあんまりなく、単なる目安としてしか見ていないって傾向が見えて来ているんだけど、そんなランキングをどーしてレコードを出している側なり発行している側がこだわっているかってゆーと、おそらくはメディアの側にそれほど小さくない要因があるんじゃないかって気がしてる。初登場1位です、って言ったって2週目に10位まで落ちて結局数万枚しか売れなかったら営業的には意味がない。出したCDが20枚連続1位を取りましたってゆーのも同じ。なのにそーしたタイトルを”獲り”にいくのはそーしたタイトルをもらうことによってメディアに登場させてもらいやすいから。単にCD出しましたってことだけじゃあ、今のメディアはなかなか記事にしないんだよね。

 メディアのコンテンツを吟味する能力が衰えているのは明白で、だから今は無名だけれど将来性の極めて高い才能を、自ら発掘して育てるってことはせず、人気タレントに頼ったドラマを作ったり、音楽番組に人気があって安心して視聴率なろ読者を獲得できるタレントを出して、数字を稼ごうとする。最近はスポーツの中継にまでそーした風潮が蔓延って来ていて、スポーツの面白さを伝える努力を積み重ねていき視聴者を育てる労力をはなっから放棄して、数字の取れるタレントを集めて踊らせたり、唄わせたりして数字の帳尻合わせをしよーとする。もちろんそーしたドーピングはドーピングでしかなく、スポーツを知る視聴者が消えスポーツそのものへの関心も薄れてしまい、番組そのものが成り立たなくなっていく。あるいはすでになっている。

 CDの売上ランキングなんてのも、今やそーした記事化・番組化におけるアリバイにしかなっていない気がしてならない。実力はあやしく人気も限定的。だけどそれを取り上げなくっちゃいけないってゆープレッシャーがかかっている時に、ランキングで1位とかいったタイトルは、それだったら載せても、俺たちは恥はかかないってゆー言い訳になる。出しましたよって理由になる。1人の記者がこいつは素晴らしいとプッシュしたくても、デスクや局長がそーした“独断”を許さない。そんなのを出して売れなかったら、数字がとれなかったら責任を被るのことになる。そいつは面倒だ。でも権威あるランキング調査会社から出たタイトルがあれば、堂々と記事にできてどこからも文句は出ない。だからメディアはタイトルを求める。レコード会社はタイトルを欲しがる。ランキング会社はそんな人たちに向けてタイトルを発行する。

 今度のランキングで1位になるかもしれないってゆー情報さえあれば、事前にだって記事化ができる。露出が増えればレコード会社は嬉しいし、ランキングの会社だって気分は悪くない。誰もが得をする構図って奴が出来上がって、強固なトライアングルが形作られた。今もそんなトライアングルが、古くからあるマスメディアを絡めて出来上がっていしまっている。しかし。情報源がマスメディアしかなかった時代はなるほど、レコード会社とマスメディアとランキングの会社とゆートライアングルも大きな意味を持っていた。けれどもネットが登場し、新しいメディアとして使われ始めるようになり、個々人が散らばる情報を取捨選択し、吟味できるよーになった時代に、どこかの誰かが出した“初登場1位”とかいったタイトルが、どれだけの価値を持って受け止められているんだろー?

 今の時代、みんなが支持しているってランキングより、誰かがプッシュしているってゆーリスペクトの方が、実は結果としてセールスにつながっている。そのことに気づき始めたアーティストたちは、個々にネットを活用してリスナーとのコミュニケーションを取り始めているし、レコード会社の中にも、そーした個々人とのコミュニケーションを強化しようって動き始めている。けれどもマスメディアはそのことに気づいていない。責任をとりたくないから、タイトルがなければ記事にしない。歌番組にも起用しない。ランキングのタイトルをありがたがる。タイトルさえあれば安心できる。それ故にレコード会社はランキングのタイトルを是が非でも求める。外側に巨大な音楽に関わる新しいマーケットが生まれて来ている状況から背を向けて、旧態依然としたトライアングルのどんどんと狭くなる範囲に留まりつづけるマスメディアとレコード会社が辿る道。それは決して明るいものではないだろーなー。なるほどだから部数も視聴率も売上枚数も落ちているんだな。納得。

 天災があったとかで大陸辺りの管轄に入って東西に分断された日本列島の東は独立を果たしたものの南は未だ大陸の統治下にあるとゆー近未来。東の独立を戦っていたゲリラのリーダーが西で医業を営む親友の所に娘を預けに来た。折しも医者のところには息子が誕生したばかり。これなら性別の違う双子として育てられると受け入れたものの東に何かがあったのか、5歳ほどまで育っていた娘と息子のなぜか息子がゲリラの娘と勘違いされてさらわれてしまった。やがて長じた娘は西にある学校へと進学してそこで友人たちと日々を送っていたが、次第に強まる東からの解放の運動に西の町はテロが頻発。娘も巻き込まれ逃げまどう中で離ればなれになってしまった少年との再会を消して望まれない形で果たす。

 ってな具合いに幕を開けた高丘しずるさん「エパタイ・ユカラ 愚か者の恋」(ビーズログ文庫、460円)は続きとなって南ベトナムよろしく解放戦線が東から入って起こる騒乱の中を本当は東のゲリラの指導者という男の娘が本当は西の医者の息子でありながらゲリラの息子として役目を果たしている少年との仲をついたりはなれたりしながらも、示唆されるすべてが落ち着いた未来へと向かって進んでいくことになるんだろー。果たしてどれくらいの大河ドラマになるのかな。そこには大陸とか米国といった国々も絡んだ世界規模の騒乱も絡んでくるのかそれとも分断国家となった日本の中での悲恋に的が絞られるのかな。とりあえず楽しみつつ見ていこう。


【12月19日】 ネットで今いちばんの話題といったら烏賀陽弘道さんへのオリコンの……だったはずなのにわずか1日にしてランキングトップ(推定)の座を明け渡してしまった様子。今朝方から巨大掲示板やらソーシャルなネットやらで騒がれまくっているのは「涼宮ハルヒ、パレスチナに立つ」の報で、パレスチナ自治区のガザ市で行われたデモに「子供を殺さないで」と書かれたプラカードを持った女の子がいて、そのプラカードになぜかあの腰に片腕をあてもう片方の手の人差し指を立ててギュッと突き出す名ポーズをする涼宮ハルヒのイラストが描かれている。

 「子供を殺したらいけないんだからっ!」って平野綾さんの声まで聞こえてきそうな迫力は、見た全世界の人の心にきっと何かを語りかけたに違いないけどとりわけ日本人が受けた衝撃は大きそう。「なぜそこにハルヒが?」。真っ先に思ったのは誰かのコラってことだったけど掲載されているのが天下のAFPのページで撮影したのはパレスチナでこーした扮装を取材し続けているカメラマン。すなわち正真正銘の本物ってことでそれだけに一体どーゆー経緯でこれが掲載されたのかを知りたくなる。パレスチナでアニメが放映されているのかデモを支援している人に日本人がいるのかハルヒなだけに世界のあらゆる場所に偏在しているのか。「世界を大いに盛り上げるため」にはどこにでも現れ弱気を助けるハルヒの侠気。それかなあ。

 シリアスに考えればここでこのプラカードを持っている女の子が、ハルヒの年齢まで生きられるって保証はまるでなく、明日にだって何かに巻き込まれて命を落とす可能性だってあったりする。ハルヒの登場に日本のオタクな文化が世界に進出しているってゆー喜びを感じる一方で、世界には明日をも知れない子供たちが大勢いるんだとう現実を受け止め、そういう状況がどういう理由から起こっているんだということを考え、子供が明日の命を心配しないで暮らせるようにするために何ができるんだということを探る想像力をこの1枚の写真から、養って欲しいものだよなあ。世界が平和で穏やかに暮らせるために日本の漫画とか、アニメとかが役立ってくれればそれはそれでとっても嬉しい。そんな運動の結果として、穏やかになってプラカードを持った少女がハルヒくらいの歳になった時に、パレスチナの地に涼宮ハルヒが再臨するシーンを夢見つつ。10年後にこの少女にハルヒのコスプレをしてもらうってのもアリかなあ。

 人間とは違う存在が人間に感心をもってあれやこれやちょっかいを出していたら敵が現れ巻き込んでしまってもう大変、なんて伝奇小説になるかと思ったんだけど涼元悠一さんの「ナハトイェーガー 〜菩提樹荘の闇狩姫〜」(GA文庫)は事件なんて起こらず最初から百合で最後まで百合。菩提樹荘に暮らす洋風の女の子はしっかりしていながらも粗忽な所も併せ持ったメイドを従え見初めた? 女子校生を誘い買い物に行ってはデパートの支配人をも跪かせる地位の高さを見せ、女子校生が通う学校に出没しては子供の癖して無理矢理にクラスに入り込んで授業を受ける。

 体育ならブルマー姿になって胸に手書きのゼッケンまで張るサービスぶり。その横でメイドもブルマー姿になるものの靴はロングブーツでその下にはニーソックスまで履いているから目にも妖しくそして艶やか。かくも珍妙な2人に見初められた少女にはさらに別のこっちは和風の少女までもが付きまとうよーになってもう大変。とはいえ和洋の少女が女子校生を巡り手足を引っ張り争うって話しでもなく再会を祝しそして学園の中に起こっていた奇妙な出来事の原因を探るって展開になっててその結果、現れたのものは強大な敵でなく現れた理由も実に可愛いというか哀れというか、とるに足らない理由でオチまでついていて笑わせてくれる。黒くて艶々とした甘い菓子。日本育ちならそっちを思い浮かべて当然だよなあ。

 結局和洋の美少女が何者で、何故に女子校生に関心を抱いたのかは不明(単に気に入っただけってこともあるけれど)だし血脇肉踊るよーなバトルも起こらなくって「灼眼のシャナ」みたいな美少女による伝奇バトルとか期待した人には肩すかしって印象を与えるかもしれないけれど、大事が起こらないまでも何事か起こりそうな雰囲気を引っ張りつつ、ロングストレッチのメルセデスのリムジンをメイド自ら運伝しては狭い路地にぶつけて破損させてみせたり、女子校生が入っている弓道部の部長がおたつくと暴発する性格だったりと笑える要素も混ぜ込んであるから飽きずにするすると読んで笑えて楽しめる。まあ1巻は一種の顔見せ的なものとしてここを土台に伝奇百合コメディでいくのかそれともバトル要素を加味していくのか、分からないけど何か進展があるだろーと期待しつつ辿って行こう。しかし出るのか続きとか。

 アニメ化も決まって盛り上がりを期待しつつもいったいどの作品がアニメ化になるんだろーと興味も尽きない「神曲奏界ポリフォニカシリーズ」から大迫純一さんによる「黒ポリ」の最新巻「神曲奏界ポリフォニカ プレイヤー・ブラック」(GA文庫)が登場。マナガとマティアに降って湧いた長期休暇。することもない2人はスキーでもしようかと山に向かったもののシーズンたけなわで宿がなく、帰ろうかとうろうろしていたところに出会った学生のグループから誘われ彼らの止まる別荘へと足を向ける。学生の1人の母親が名の通った神曲楽士だけあって別荘もなかなかのもの。そこに泊まってさあ休暇と思っていた夜に事件は起きた。

 とある部屋が突然爆発。中にいた男は女性の部屋へと忍び込んでいて無事だったけどそれをきかっけに何やら黒い影みたいなものが別荘へと迫るよーになる。精霊らしいその影の謎を解くべく精霊課刑事とゆー身分を明かしてマナガとマティアが調査に入るが原因は見つからず、そんなうちにも学生たちの間に疑心が生まれさぐりあいが始まってしまいますます別荘の雰囲気が悪くなる。マナガまでもが体調を崩してパワーを発揮できなくなってしまう中、一行は迫る黒い影の恐怖に立ち向かえるのか。意外な真相へと迫る流れは「黒ポリ」に共通のミステリー仕立て。加えてマティアの過去めいたものも少しばかり仄めかされて、キャラクターの見かけだけに留まらない奥深いドラマが見えてくる。マナガの正体にも興味が膨らむ中でさて次の展開は? 赤も白も良いけど黒がやっぱり好きだなあ。

 ジグザグノベルから出ていた夏緑さんの「ドンこい」を読んだらちょっぴりバカ丁寧になってた才人が王族の娘になってたルイズからキスしてもらってた。違う? まあそんな話だと思って貰えればあんまり大きくは違わないと。ついでにいうならちょっぴり「舞−HiME」も入っているかなあ。それから志井明広さんの「ガジェットガール」(集英社スーパーダッシュ文庫)を読んだら清麿ん家に女の子のガッシュがやって来てはマヤウルみたいな話し方で清麿を弟と読んで抱きついてきた。違う? まあそんな話だと思ってもらればそれほど大きくは違わないと。うーん先達に類例がある作品だと読んでいて世界観に没入がしやすいなあ。読み終えてどこまで覚えていられるかが謎だけど。うーむ。

 そうだ出たんだオリコンによる反論。つまりは問い合わせたらコメントの責任はコメントした人間にあるって当人が言ったんでそれじゃあって当人を訴えたってゆー段取り? いちおうの整合性はとれているけどそれでもなお残るのは5000万円ってゆー額が本当に損害を受けたのか、ってことか。ひとつにはオリコンがデータをこそ最大の商品としてそのクオリティに絶大の自身を持っているしそのクオリティこそがそのまま価値にもつながっているところに疑義を挟んだ訳で、それは商品のクオリティを下げ価値を貶めるものであるからして、全売上に占めるデータ商品の割合を考えれば、5000万円くらいはいって当然ってゆー理屈もある。

 けれどもそーしたクオリティに対する考え方で企業側と、一般側の間に温度差が生まれている中で譲れない1線としてこだわり続けた果てに何か大きな陥穽が、ありはしないかって気にもなって来る。あとはたとえそれだけの損害を受けているんだからと主張しても、個人に追わせるには大きすぎる金額って点が言論へのプレッシャーを引き起こしかねないって点に同調する言論関係者が多いってことか。オリコンシンパの人からも「もしこれで『オリコン』のイメージダウンにつながるとすれば、こんなに残念なことはありません」って危惧が上がっているだけに、上げた拳を振り下ろさずとも納める道って奴をお互いに、探っていければこれはこれで幸いなんだけど。どうなるものやら。


【12月18日】 真っ当さが歪んで来ているなあって感じることの増えている今日このごろ。スポーツに対するリスペクトのかけらもない日本テレビ放送網による「FIFAクラブワールドカップ」関連の特別番組の構成なんてのも、そんな一つではあるけれどこれはもはや末期症状で言って直るようなものじゃなく、もはや死を待つのみって所だから今さら声高には論わない。むしろ最近はソフトバンクモバイルがテレビで流し始めたCMの、見て実に不愉快にさせられる構成が、これを平気で作れてしまう広告会社なり流せてしまうテレビ局の心の歪みを象徴しているよーで、気分がズーンと重くなる。

 録画して見返している訳じゃないんで、コピーの細かいところまでは分からないけど、ざっと見て記憶に残っているのは、同じソフトバンクの携帯電話を持っていない女の子が、ソフトバンクの携帯どうして定額通話をしている同じ部活の他の女の子たちにごめんなさい、自分のはソフトバンクじゃなくって余計にお金を使わせて、ってなニュアンスのことを言って謝っているストーリー。どう見てもこれってイジメじゃない? 集団に同調できず、足を引っ張るよーな存在はもはや仲間じゃないってことを示して、そんな存在は集団からはじき出されても当然って風潮を助長しない? いやいや仲間を思いやってこそ、それに同調できないのは追い出されても当然って思う人もいるかもしれないけれど、それだって物には言い方がある。

 本当に大切な仲間だったらたとえ3倍の料金がかかっても、話をするのが友情ってもの、友情の価値はプライスレスなんだよってことを訴えつつ、それでも同じ携帯で安くかけられれば友情にもうちょっとだけ、喫茶店でパフェが余分に食べられるとかって余録があるんだと見せて笑いを誘いつつ、同キャリア間の優位性を仄めかすとか、3倍とか5倍の料金がかかる他キャリアの持ち主への通話に関しては通常の3倍とか5倍のスピードで喋って大変さを示すとか、そんな見せ方だって可能だろー。それだったらちょっとソフトバンクモバイルに替えてみようかなって気分も起こる、かもしれない。

 同じキャリアを持たない人は集団に迷惑をかける存在だと、言外に仲間外れにするよーな筋なんて表現として下も下の手法。なのにそれを笑いにも包まずシリアスなドラマ風のCMで見せて平気なソフトバンクモバイルの感性を、僕はちょっと受け入れられない。イジメが社会的な問題となっている時だけに、こんなCMを作れてしまう会社も流せてしまえるテレビ局も、いったい何を考えているんだって憤りも浮かぶけど、そーゆー真っ当さに考え及ばないくらい、今って時代のとりわけメディアの前線にいる人たちの感性って奴が、削られしびれているってことなんだろー。嫌な時代になったなあ。

 さらに嫌な時代の到来か。退社した朝日新聞社でどんなことが行われていたかを赤裸々につづった話題の本、「『朝日』ともあろうものが」(徳間書店、1500円)を世に問いつつ、日本の音楽シーンが抱える問題について書き続けてきた音楽ジャーナリストの烏賀陽弘道さんに対して何と、5000万円なんて高額の賠償金を求める訴訟が起こされた、らしー。事実関係は未だ不明ながらも、関わりのあるジャーナリストの人には烏賀陽さんからSOSメールが発信されたそーで、その全容が音楽ジャーナリストの津田大介さんの「音楽配信メモ」でつまびらかにされている。

 おおまかな概略は、06年4月号の「サイゾー」で烏賀陽さんが音楽チャートで有名な会社について語った20行のコメントが、何かその会社にとって迷惑なもので損害があったから、それを賠償しろとゆーもの。20行のコメントで5000万円のダメージを与えられるかどうか、って点についてはそーゆーこともあるとは思うけど、当該の20行がだったら5000万円の損害を与え得るものなのか、読んでもちょっと想像がつかない。むしろチャートを作ってる会社は、チャートを操作されているる被害者だよ、って同情している風にすら読める。見方したのに訴えられては正直たまらないって気分だろーなー、宇賀陽さん。CCCDは音に問題があるから新しい録音方法を開発して問題をなくしたんだよ頑張ったんだよって某レコード会社に見方する記事を書いてあげたのに、CCCDにはそもそも問題がないんだとゆー態度を某レコード会社の偉い人が取っている以上は逆らえず、その意を組んで某レコード会社の広報の人が怒鳴り込んで来た時に感じた気持ちと似てる、かな。

 そーしたこっちの気持ちは気持ちとして、当該者としてはやっぱり迷惑なコメントであって、5000万円の損害があったんだと信じていたんだとして、だったらどーしてコメントした当人を訴えるのかって所が次に大きくひっかかる。編集したのは「サイゾー」で、責任の所在は「サイゾー」にまず求めるとゆーのがこの業界でのスタンダードなのに、津田さんの所の経緯を見る限りでは、そーした版元へのアクションはまるでなく、コメントした人にのみ向かっている。これって一体どーゆーことだろー。コメントした人に相当の憤りを以前からチャートで有名な会社が抱いていたってこと? だからこれを契機に懲らしめてやろうって思ったってこと? だとしたら分かる。5000万円の賠償金が仮に認められたら個人でやってるジャーナリストはとてもじゃないが払えない。

 それ以前に裁判を受けて立とうにも弁護士への着手金が払えない。裁判が始まれば始まったでやっぱり相当な費用はかかる。裁判にかまけていれば時間がそちらに奪われ執筆活動に支障が出る。フリーだから仕事ができなければ収入はゼロ。仕事が途切れれば将来にわたってゼロは続く。これはフリーライターの生命にかかわる。再起不能。それを狙っての訴訟だって言われればそうかもしれないって思えて来るくらいに、厳しい展開を想起させる。1人のジャーナリストがこれで生命を奪われる。問題とは直接関係ない人たちにとてはそれだけのことなのかもしれない。

 けど、これは烏賀陽さん1人の問題じゃない。あらゆる場所で言葉を使って戦っている人たちに対する大いなる威嚇となり得る。フリーかどうかなんて関係ない。企業に所属する記者だって同じ。掲載した媒体ではなく書いた個人に訴訟が向かう。それも個人ではまかないきれない金額を要求される。どうする? どうしようもない。戦える? 戦える訳はない。そして挑戦的な言葉は生まれなくなる。暴かれるべき事象は面へと出ずに埋もれていく。行き着く先は言論の死。そして世界の死。

 だからこの問題に対してあらゆる物書きは対抗しなくちゃいけない。訴訟が本当に行われたものかどうかって所についてこれからの情報を待つ必要はあるけれど、もしも本当だったらこれは言葉を使った活動に対する、とてつもない挑戦だってことを感じて立ち向かっていかなくてはならない。お金を募って裁判を受けて立つ、ってこともひとつには対抗手段としてあるけれど、こんな裁判がボコボコと起こされてしまえば、いくら集まって対抗しようとしたって追いつかない。むしろこんな提訴があり得ないものだってことを世間的に認知させ、無茶で理不尽な提訴をするよーな企業があったとしたら、その企業には計り知れないイメージダウンが待っているんだってことを理解させ、根源から摘み取るような方向へともっていかないと後によくない尾を引きそう。

 こういう時にペンの力で世界の理不尽と戦おうとしている日本ペンクラブの言論表現委員会が事態を精査し、問題があるなら問題だと言って会見でも開いてくれれば、個人の抵抗よりも企業の利益に目を向けがちな大手のメディアであっても、取り上げざるを得なくなるんだけどなあ。でも共謀罪とか北朝鮮の核実験とか具体的な暴力事件以外で、個人に対して行われる訴訟に言論表現委員会が立ちあがったて話はあまり聞かないし。雑誌の特集内のコメントに対して行われた懲罰的な高額損害賠償請求訴訟があり得てしまうとゆー薄気味悪い事態、反論の機会を持つメディア企業がいきなり訴訟に打って出るとゆー不思議な事態が、言論の自由に与える影響の計り知れなさを思えば、今回の1件は見て見過ごせるものじゃないって思うけど、果たしてそうは偉い人たちが思ってくれるか。舞台となった「サイゾー」で長く連載を持っている神保哲生さんが委員にいるから、これは放ってはおけなと提起してくれるとちょっとは期待したいんだけど。見守ろう。


【12月17日】 何かテレビをつけたら中国だかカトマンズだかでロックミュージシャンがライブを行ったなんて映像が出ていて、どこのジョージ・ハリスンかと見ていたら全然違って我らが日本のゴダイゴだった。そういや中国だの南アジアだのを回ってコンサートとか開いたよなあ谷村新司さんよりも昔に。何で今頃そんな映像がって思って見ていたら、どーやら最近になって復活したゴダイゴにいろいろ聞いていく番組だと判明。何故か英語でのインタビューだったのは「英語でしゃべらナイト」か何かの特番だったからなのかは分からないけどインタビューしているお嬢ちゃんが可愛かったことだけは強く記憶に残った。誰?

 一方でゴダイゴって言えば昔っから英語に強いバンドって印象もあって、それにちなんでの英語でのインタビューだったのかもしれないけれど英語で歌詞を書き歌も英語で唄うタケカワユキヒデさんにバークリー音楽院留学経験のあるミッキー吉野さんは流石に流暢。あとトミー・スナイダーさんもッスティーブ・フォックスさんは発音も完璧なら顔立ちまでも外国の人みたい。てか外国の人なんだけど長く日本で活動していても英語は忘れないでしっかりと喋ってた。

 1人、見たことのない人が座っていてこれは誰、って思うことは流石になくってギターの浅野孝巳さんだとは分かったけれど昔の長髪を流していた頃とはすっかりかわってまるでミッキー・カーチス風。あるいはバイク屋のオヤジ風の長髪を縛った風貌に30年以上の時の流れって奴を強く感じる。タケカワユキヒデさんも太ったしなあ。でもミッキー吉野さんはあんまり変わってない。つるつるとしてつやつやとしてぷくぷくとして。ちなみに浅野さん、英語で質問はされていたけれど返す答えは単語の羅列で途中からタケカワユキヒデさんとかが引き取って返事をしていた。アフリカからの留学生だからマラソンが得意だとは限らないのと同様にゴダイゴなんだから英語がペラペラって訳じゃない。のだ。

 テレビでは大ブレイクしていた時代のオリジナルメンバーで大ブレイクしていいた時代の「ガンダーラ」とか「銀河鉄道999」とか聞かせてくれて大満足。タケカワユキヒデさんの歌は体型故かややくぐもっていはいたけれどその分味も出ていい感じ。演奏についてはベースにギターにドラムにキーボードの腕前に衰えは見られず当時良く聞いていた「モンキーマジック」だってテレビドラマ「西遊記」に使われた曲がメーンとなったオリジナルアルバムのまんまのサウンドを聴かせてくれて懐かしさに涙が出てきた。このアルバムは冒頭から何やら仰々しいインストが響いてそして「アチャー!」って叫びとともにあの、「モンキーマジック」の激しいキーボードのイントロが鳴り渡って、それがめちゃめちゃ恰好良いんだよ。「セレブレーション」って曲も入ってたっけ。また聞きたくなって来た。つかオフコースといい村下孝蔵さんといい、昔の曲ばっかり聞いてるなあ。ノスタルジー? でも昔の曲や歌の方が明らかに良いんだよなあ。「ケミストリー」なんてまるで聞く気、起きないし。

 でも世間じゃ「ケミストリー」って奴の人気が凄いらいしくって今日も今日とて横浜国際競技場で開かれていた「FIFAクラブワールドカップ2006」のテレビ中継の冒頭で登場しては何やらくねくねと歌を唄ってた。でもきっと遠くバルセロナとそしてポルト・アレグロから来ていたバルセロナとインテルナシオナルのサポーターには、何が何だか分からなかったに違いない。選手たちがいよいよ登場して来るってところで、1発気合いを入れ直して応援のチャントでも歌い出そうかって時にいきなり出てきては、意味不明の日本語で唄われるんだからサポーターたちもたまらないよなあ。

 日本人のお客さんだって、別にあの場でケミストリーなんぞ見たくはないだろう。これから大一番が始まるって時に、試合とはまるで無関係な奴らが出てきて見せるパフォーマンスなんて、はっきり言って無意味。テレビの中継を見ている人にだってバンドを出すより選手を出せ、試合の見所を教えろって気分が強いはずなのに、テレビを作っている奴らはここで「ケミストリー」でも出しとけば視聴率が稼げるかも、なんて未だに思っているから始末に負えない。それとも何だろう、あそこで「ケミストリー」を出すことで何か宣伝料でも入る仕組みになっているんだろーか、テレビ局か、ディレクターか、代理店か誰かに、観客の懐には1銭にもならないのに。なったらあんな値段にゃならないぜ。

 演出も悲惨なら中継も悲惨。そのあまりの悲惨さにここのところ日本代表絡みでは滑りがちだった千野圭一さんの筆も真っ当さを取り戻したみたいで「サッカーの実況中継に辟易 もっと勉強と工夫を」 って憤っている。レベル的に大きく劣るニュージーランドのチームが世界の舞台に出場してしまうのはレギュレーションの問題だから日本テレビに責任はく、そんなチームをだからといってこき下ろすのはしのびないって気もしないでもないけれど、だったらせめてレベルの違いがどこにあってそれが試合にどう現れているのかと伝えるのが真っ当な手法。なのに引退間際の日本人選手がすっかり細くなってしまった足で届かないミドルシュートとかを蹴る姿をお涙頂戴とばかりに伝えたりするのはやっぱりスポーツ的じゃない。

 まあそんな前座は前座だかた仕方がないとして、世界のトップを狙う欧州と南米のチームを迎えた決勝でもはしゃぎっぷりが変わらないのには千野さんならずとも辟易とさせられる。試合の始まる前に日本代表のオシム監督と横浜FCの三浦和良選手が同席する場面を作っておきながらオシム監督に日本のチームが出るにはどうすれば良いのかって聞いて「アジアチャンピオンズリーグで勝つか開催国枠をとれば良い」って当たり前のことを言われて詰まり「浦和レッドダイヤモンズがACLに出ますねえ」と聞いて「浦和レッズがこの大会に出れば盛り上がりますね」とあっさり言われて結果として何も引き出せず。カメラが切り替わってカズ選手が憮然とした表情をしていたのは、この手のありがちだけれど無くして行かなくちゃいけない質問を、平然として恥じないアナウンサーの無様さに虚しさを覚えたからなのかも。

 中継に入ればややバルセロナ寄りではあったものの試合はそれなりに的確に伝えてくれて聞きやすかった。北沢豪選手の解説も適切でライカールト監督の指示の意図がどのあたりにあるかってところをピッチの状況も踏まえて説明してくれて勉強になった。でも試合後に始まった特別番組が予想を超えて酷いというか惨たらしいというか。ゲストが明石家さんまさんでいきなりバルセロナのユニフォームを着ていてそれで、インテルナシオナル出身のドゥンガ監督を迎えおめでとうという厚顔ぶり。いつぞやも確か似たことをしてロナウド選手だかからどーして手前はドイツのユニフォームなんか着てるんだいって言われていなかったっけ、さんまさん。つかそもそもバルセロナよりレアル・マドリッドのファンじゃなかったっけ、さんまさん。ああ恥ずかしい。

 おまけに指摘されるとそれを脱いでいそいそとインテルナシオナルのユニフォームに着替えるさんまさん。そりゃバルセロナに対しても失礼だろう、本気で応援してたんなら目の前にインテルナシオナルの選手が来たって着通すのがサポーター魂って奴なのに。まあそーやってあたふたする所を見せて笑いを取るのが芸人だから仕方がないとしても、番組の仕切りの所で折角迎えたインテルナシオナルの選手たちに対して、これも折角迎えたドゥンガがどう思ったかを聞くこともしないで選手たちを帰してしまうんだから意味がないというか、スポーツ的な期待をまるで無視しているというか。

 それともバルセロナが勝った時の台本しか用意していなかたのか。でもって古巣を破ったバルセロナの選手にドゥンガから声を掛けさせるよーな不敬な段取りでも組んであったのか。いずれにしたってこーゆーことばっかりやっているから、みな鬱陶しいゲストとかいないシンプルな衛星なりケーブルなりに逃げてしまうんだ。上戸彩はお飾りだからともかくとして社員でもない福澤朗アナウンサーを起用し続けることだけはやめておくれ日テレ。もはや彼のスタイルはギャグにしかならないんだよ、報道やスポーツといったシリアスさが求められる場において逆効果でしかないんだよ。分かっているのかなあ、分かっていないんだろうなあ。

 おっと肝心の試合はといえばインテルナシオナルの守備陣がよく頑張った。耐え抜いたって感じじゃなくってしっかりした読みとフィジカルの強さで相手を押さえ込んでは中盤で張るイアルレイ選手がポストになりさばき運んで攻撃の起点となる活躍ぶりを見せて最後もそんな頑張りから出たボールに走り抜けたアドリアーノが間髪入れずに合わせてゴール。1瞬の隙を逃さず1回のチャンスを決めることが勝利につながる道なんだってことを改めて教えてくれた。バルセロナもデコ選手のすごいミドルがキーパーに弾かれ、ロナウジーニョ選手の2度のフリーキックが1度目はキーパーに抑えられ、2度目はわずかに外れる運のなさもあって敗戦。トヨタカップの時代から掴めなかった世界一を今回もとりのがしてしまった。まあバルセロナには今期のチャンピオンズリーグで勝つチャンスがまだあるんで、落胆せずに気を取り直して来年の出場を狙って欲しいもの。んで開催はいったいどこなんだ。やっぱり日本か。だったら今度は埼玉にしてくれ。横浜じゃあ行く気がしねえんだ。


【12月16日】 そうかやっぱりあれはエプロンだったのか。てっきりドレスのひとつの形であって決して裸じゃないけど下着の上にエプロンだけ着けた若奥様とかが、キッチンなんかで披露してみせるいささかシチュエーションを特別にするファッションとは違うんだって信じていたけど、ガキのお子さまになっていっそう直截さに磨きのかかった白雪姫が見たまんまのことを指摘したらそれがグレーテルの心に突き刺さっていたみたいだったんで、着ている方でもそれがエプロンだって自覚がやっぱりあったんだろー。「おとぎ銃士赤ずきん」。ちゃんとしっかり続いてます。

 絵の方はヴァルが犬にしか見えなかったりしてどことなく頼りなかったりして、とても「BLACK LAGOON」と同じマッドハウスとは思えないけれどでも、丸山正雄さんの名前が企画に入っている以上はやっぱりマッドハウスの作品ってことなんだろーなー。ちなみにアニメの企画とかエグゼクティブプロデューサーでよく名前を見る川城和実さんはバンダイビジュアルの社長の人だから、って別に「赤ずきん」とは無関係の話をしつつ戻ってそうだ「赤ずきん」は絵こそ微妙ながらもお話の方はいよいよ白雪姫の過去辺へとつながって、白雪姫がいばら姫と同様に本当にお姫様だったことが明らかにされ、けれどもサンドリヨンの手下らしき女の悪巧みによって父王を誑かされて国をのっとられて自身は放逐の身であることが判明する。苦労してたんだなあ。その苦労が猜疑心と口の悪さにつながっているのか。

 そんな口の悪さも普段の大きい白雪から出るんじゃなくって小さくなった白雪から出ると赤ずきんにいばらじゃないけどやっぱり口をついて出るのは「かわいいっ!」って言葉だねえ。魔法を使おうとしても小さいだけあって威力も小さいのに、それでも一所懸命に魔法を使おうって頑張るところとか実に健気、本人的には負けず嫌いのプライドから出た諦めの悪さなんだろーけれど、傍目にはよちよち歩きする子供が母親のところへと懸命に駆け寄ろうとしている姿に重なってしまうんだろー。ずっと子供のままなら良いのに。でもそれだと草太たちの存在が結界に隠されなくなってしまうから戻って正解か。いや結界がないと裸エプロンちゃんがまた現れてくれるんでそっちの方が嬉しいか。やられ役が定着しちゃった感があって可愛そうになって来てるんで、そろそろグレーテルには脱走して赤ずきんご一行に合流して洗脳されてる兄貴を目ざめさせる役回りへと転じて欲しいんだけどなあ。ランダージョそーいやどこ行った。

 「俺は、書くよ」って言って半年。金子達仁さんが「FIFAワールドカップ独大会」における日本代表の敗因を、選手や対戦相手へのインタビューから分析した「敗因と」(光文社)がようやく出た。金子さんの本ってよりは、戸塚啓さんとと木崎伸也さんの「拳組」に所属する他の面々の書いた分量の方が多いけど、それでもタイトルにもなっている「敗因」を書いたのは金子さんで、全体のトーンをまとめたのも金子さんだとすると、ここんところ何年か、精神論やら感情論やらが先に立って具体的な戦術論なり戦略論が見えず、スポーツライターじゃねえなって読む人の大半が抱いてきた印象を覆す、ロジカルで網羅的で考察も充分に行われた本書の緻密な仕事っぷりは、あの終戦の時期に「俺は、書くよ」と言い切るくらいに受けた衝撃がそれだけ大きくって、ここまで書かなきゃいけないって痛感したってことの現れなんだろー。

 そんな仕事から浮かび上がってきたのは、誰もが敗因でありそしてなおかつ誰もが敗因とは言えない、どこにも責任の所在を求めることが難しい、中心のポッカリとあいた、チームなんてっても言えない単なる人間たちの集団が、ドイツに行きそして帰ってきただけだったのが、06年のワールドカップに出た日本代表だったってこと。なるほど確かにジーコの采配の拙さはあったけれど、それを咀嚼し自ら行動していくだけの大人の行動を選手が取りきれなかったことも敗因だし、メディア受けを狙ってのことなのか、目立つ選手を味方し目立たない選手を脇に追いやる発言を繰り返した日本サッカー協会の見栄っぱりな所もやっぱり敗因のひとつだった。そんな代表の惨状に目をつぶり勝てるぞと煽り特定選手ばかりを持ち上げ続けたメディアの愚劣さもやっぱり敗因。そーしたものがすべて原因となり結果となって、日本代表を蝕んでいたらしい。

 リーダーシップを欠き雰囲気に流された挙げ句の惨敗ってったら思い出すなあ太平洋戦争。日本のこれが伝統って奴なのかなあ。黒船トルシェがジーコとなって中心なき国体の中で右往左往した挙げ句に焼け野原となった所をオシム進駐軍が大改革に乗り出したってゆー図式もなるほどあてはまる訳だ。それはさておき金子さんが担当している少ない記事の中でも豪州代表の監督として日本に相対したフース・ヒディンク監督へのインタビューの緊張感が凄まじい。ロシア代表監督として忙しい日々を送っている所に昔の話を蒸し返しに日本からインタビュアーが来ていたことに不機嫌極まりない態度を見せたヒディンク監督だったけど、何かがきかっけになって相手に興味を抱き滔々と話し始める切り替わり。インタビューを仕事にしている身として実に背筋をヒヤッとさせられる。

 このくそ忙しいときに何しに来やがったんだ的な態度を取って、激昂していたヒディンク監督が、何がきっかけとなったのか金子さんの質問に興味を示して語り始めた内容は、サイドのエマートン選手を中央に持ってきたりした采配の意図を聞き出すことで、豪州の良さを示しつつ結果としてそーした采配にしてやられた日本の拙さを浮かび上がらせてくれていて、なるほどそうだったのかと勉強になる。屈強なディフェンス相手に2トップで真正面から攻めるなんて愚の骨頂って感じのことを言うヒディンクの、何と真っ当で適切な采配ぶりか。これが監督の仕事って奴なのに、相手を見ずただ機械的に選手を選んでさらには前日にスタメンを発表してしまうジーコとの違いが実に際だつ。ヒディンクの言う攻撃的な選手を守らせるようにさせれば見方は倍、得するんだって理論。なるほどまさにその通り。そーいやオシムも同じことを言ってたなあ、守りに回ったロナウジーニョはロナウジーニョじゃないんだとか。欧州トップモードを肌で感じてきた監督ならではの感性が、06年のピッチにも働いていれば、ちょっとは仲違いやら誤解も解けて一丸となり戦う集団になれたかなあ。残念。だけど仕方がない。発足して好成績を残しているオシム監督の率いる日本代表が、どんな戦いぶりを見せてくれるかに今は注目。

 神保町から秋葉原を回って本とか漁る。GA文庫で涼元悠一さんの「ナハトイェーガー」が刊行されていた。それにも驚いたけれど略歴でアクアプラスに入社したってあってさらに驚いた。ビジュアルアーツ退社で小説家に専念するんだと思っていたけどやっぱりゲームの仕事も好きらしい。GA文庫だと「黒ポリ」も出てて「ジョン平」も出てたなあ。とりあえず読まないと。あと「絶望先生」と「よつばと!」の新刊を見たり触ったり。「絶望先生」は毎回よくもネタが尽きないものだ。1発決めるだけじゃなくって細かいネタを積み重ねていくから頭が幾つあっても足りないはずなのに。そんなのを読んで家に帰ってパスタをゆでてもりもり食って寝て起きて寝て。太るなあ。忘年会とかないからいっか。


【12月15日】 たぶん1回目くらいからずっと取材している「平成18年度文化庁メディア芸術祭」の栄えある第10回目の受賞作が決定したってんで、京橋にある「CG−ARTS協会」まで発表会を聴きに行く。途中に銀座の靴屋さんをのぞいて、幼女たちが隔離された環境で戯れる映画「エコール」を見て妙に欲しくなった、レッドウィング系のワークブーツではない編み上げのブーツで出物はないかと探してみたものの、リーガルショップにあるオールデンのタンカーブーツはコードバンってこともあって10万円近くして手が出ず、ロイドフットウェアのブーツは5万円を切っててお買い得ではあるんだけど、フォーマル寄りでサンプルだけ見るとカチッとし過ぎていてやや迷う。

 編み上げブーツと言えばなトリッカーズのカントリーブーツも見かけたけれど、店頭に出ている奴のサンプルが大きめなのかトゥーが丸っこくてちょいゴツい。ワークブーツとそんなに変わらない雰囲気もあってこれならロイドフットウェアの方が良いかなあ、なんて思い迷ったものの結局は買わずにネットで見つけたクラークスの日本じゃあんまり撃ってない編み上げ式のデザートブーツを注文してとりあえずの物欲を満足させる。でもサイズは残っているのかなあ。届くかどうかを心待ち。届いたら履いて「エコール」をまた見に行こう。

 さて「メディア芸術祭」はアート部門で木本圭子さんって人の作品「イマジナリー・ナンバーズ2006」が受賞。コンピューターの複雑な計算結果をグラフィックとして描画する系のメディアアートって言えそうだけど生み出されるグラフィックが粒子の踊る様だったり、大気が揺れて渦巻く様だったりを再現しているよーで見ていてついつい引き込まれる。おそらくは計算に使っているプログラムがそーした非線形の現象を計算するもので、そーした計算結果をビジュアライゼーションするソフトをアートに応用したもの、って言えば言えるのかな。コンピューター任せで結果をご覧じろ、ってゆー作品を果たしてアートと呼ぶべきかって言う人もいそーだけどそーしたものが何を生み出すかを想像し、実際にグラフィックとして創出してみせる“行為”もアートと思えば立派にアートと言えるんだろー。とにかく不思議な作品。

 そしてアニメーション部門には細田守監督の「時をかける少女」が受賞。前に「もののけ姫」やら「千と千尋の神隠し」やら「千年女優」といった時々を代表する傑作が居並ぶ賞だけに、「時かけ」が年間で1番のアニメだって認められた証と言えそう。審査に関わっていた浜野保樹さんに細田さん、絶対にメディア芸術祭の大賞を取るぞって宣言していたそーでそれについて聞かれて会場にいた細田さんは「長編の映画を作る気合いの現れとして言ったまで」と説明したけどでもやっぱり嬉しいことには違いない。「主人公と同じ高校生や中学生といった10代の子供が、初めて『時をかける少女』という作品について接することを年頭において、彼らにとって未来ってどういう風になっていくんだろう、あどんな未来を抱いて成長していくんだろうか、みたいなことを考えて作りました」と振り返った細田さん。ロングランの作品になって大人たちが感涙に噎ぶ話しは聞こえて来るけれど、肝心の中高生はどんな感想を持ったんだろー? その辺を検証する記事が読みたい。お前が書けって?

 ちなみにアニメ部門ではよく分からないアートっぽい作品ばかりが優秀賞に奨励賞をとっていて、真正面からの商業作品が「時かけ」だけだったのが何とも“芸術祭”っぽいというか。推薦作品には「ブレイブストーリー」もあれば「結界師」もあれば「涼宮ハルヒの湯鬱」もあれば「トップをねらえ!」もあったんだけど見事に受賞からは外れてる。「画ニメ」の類も入らなかったか。東映アニメーションとか幻冬舎とか、あんなにいろいろプロモーションをしてたのに。時代のあだ花として消えていく前に全品回収しておくか、「画ニメ」とやらを。

 ほかエンターテインメント部門は高橋名人もご推奨だったゲームの「大神」、漫画部門はオッサン好みも極まっている感じのかわぐちかいじさん「太陽の黙示録」がそれぞれ大賞を受賞。「大神」は希望されながらもセールス面の不具合から、続編が作られる可能性の乏しいだけに作り手にも、熱烈なファンにも嬉しい受賞となっただろー。これをきっかけに続編……とは行かないよなあ、会社が会社だし。「PS3」も買ってマシンが手元にあることだし、ベスト版で出た「大神」を試してみるか。漫画は「よつばと!」「百鬼夜行抄」「大奥」と好みの揃い踏みに喚起。それだけに大賞がなあ。2月の授賞式には今市子さんとかよしながふみさんとか来られるのかな。是非に行ってご尊顔を拝して来よう。

 をを村上達朗さんがテレビに出ているぞ。NHKの教育テレビで放送された「ビジネス未来人」に出版エージェントとしてご登場してあれやこれやとお話中。万城目学さんも連れて幻冬舎へと向かったりしている場面とか見てそっか幻冬舎ってあんな建物に入っているのかとモダンさに吃驚。続いて三浦しをんさんもご登場。続いて滝本竜彦さん。何か恰好良い所で仕事しているなあ。本にもフィギュアにも埋もれていない場所でサブノートから大きめのモニターに映し出して楽なスタイルで仕事している。羨ましいなあ。ベッドの上にあぐらをかいて段ボールの上にパソコンを置いて仕事している身とは大違い。嗚呼いつかは僕も大きな部屋で脚を伸ばして眠りたい。何か書こう、頑張って。

 もしかしてイラストレーター変わった? ってきっと見て手に取り誰もが思うかもしれないけれどしっかり前嶋重機さんだってことは変わったのは前嶋さんのタッチってことか。「戦う司書」シリーズの最新作「戦う司書と追想の魔女」(集英社スーパーダッシュ文庫)は前々作「黒蟻の迷宮」に登場したレナスが表紙にもなって再登場。単なる通りすがりの脇役かって見ていたらこれが主役級へとのし上がっては純真故にどこか胡散臭くて後ろ暗いところのあるハミュッツ・メセタの横暴が我慢ならず、図書館を飛び出しハミュッツの悪事の証拠を掴もうとしていた若き武装司書のウォルケンともどもいろいろと事件を巻き起こす。

 神溺教団ってのがあって悪さをするもんだから武装司書が退治に向かい戦う対立の構造こそが基本って見ていたところにラスコール=オセロなる謎の存在が絡み始めてからこっち、単純な対立の物語ではないことが示唆されていたけれど「追想の魔女」を経て実はさらに上の次元で武装司書とも、神溺教団とも対立する存在が登場しては事態を混乱の方向へと引っ張っていく。敗北を喫して圧倒的な存在感に陰りが見えたハミュッツ・メセタを今後もすべての中心に置いて展開していくことに難しさが見えてしまっただけに、結局はただ強いだけの武装司書に過ぎなかったハミュッツを物語りの進行役程度の位置まで下げて壮大な黙示録的世界を描くのか、それともやっぱりハミュッツを中心に据えて三つ巴の対立の中で強者として振る舞わせるのか。差配も含めていろいろと先が楽しみ。しかしやっぱり前嶋さんい見えないなあ。口絵のハミュッツ、可愛い過ぎ。


【12月14日】 「週刊文春」の2006年12月21日号に中日ドラゴンズの落合博満監督が登場しているってんで買って読む。阿川佐和子さんとの対談で珍しくちゃんと長く喋っているのは聞き方が巧いからなのかそれとも落合監督の趣味なのか。とはいえ阿川佐和子さんって今も何ともお美しいけれど「いつだったか私が監督と同い年だとわかり」って一筆御礼に書いているよーに実はなご年齢。とてもじゃないって思うのは以外に落合監督が若かったからなのか阿川さんが……だったからなのかはともかくとして、2人とも実に長く一線で活躍しているんだなあと改めてしんみり。NHKのFM放送で渋谷陽一さんがやってた番組に落合さんが三冠王を始めてとって出演していたのを聞いたのって何歳の頃だったんだろー。谷川浩二さんも史上最年少で名人取得して出演してたっけ。懐かしい。つか僕も歳を取ったものだ。嗚呼。

 何というか勿体ないというか。それしか言葉の思い浮かばない「スポーツyeah!」の第155号をもっての休刊。 1番最後のページで編集長の人が「その経緯についての恨み骨髄、反省は胸にしまいます」って敢えて書くくらいにいろいろあったみたいで、それも「反省」よりも「恨み」が先に立つくらいのドタバタだったんだなあってことが文章からも伺える。誌面の方では玉木正之さんに与田剛さんに飯田覚志さんに藤島大さんの4人が休刊に関してあれやこれや対談しているけれど、そこでは聞き手となった編集長の人が「続ける手段はあると思いますが…角川グループの分社化も影響して、その責任者一にの独断に近い決定じゃないですか」とも言ってて手厳しい。その編集長の本郷さんが角川側の人なのか、産経新聞社側の人なのか分からないから当てつけとか混じっているのかどうかは判断できないけれど、少なくとも今は身内となっている人に対してこの厳しさって辺りにも、事の急さがよく分かる。

 それとも個人的なわだかまりから出る愚痴なのか。責任者ってのはつまり出版社「角川書店」の社長になったあの人ってことだと類推できるんだけど、スポーツ雑誌なんていらないよってゆー“独断”をそれこそ即決でもってしてしまえるメンタリティーの持ち主なのか、話したことがないんでちょっと分からない。ただ仮にもしも現行の数字だけを見て決断したんだとしたら、それにはちょっと待って欲しかったって言葉が口を付いて出る。だってこれからだよ、スポーツは。というよりスポーツジャーナリズムは。対談でも話されているけれどテレビのとりわけ民放は、もはやスポーツをスポーツとして伝えることを放棄してしまっているし、新聞は年齢の高い面々が昔のバリュー判断と感性で描いているから確実に、スポーツをスポーツとして楽しみたい人たちのニーズを外してる。

 そんなスポーツをスポーツとして楽しみたい人がいないから、テレビはタレント起用に走るし「yeah!」は休刊になるんだろう? って意見もあるけれど、でも今とゆー時代を見れば、そーした受け手の感覚が確実に変わってきていることが分かるだろー。野球は巨人だけじゃなくって、地域の球団が地元密着で人気を増して観客を集めている。それはテレビに出ている人気選手を見たいからってんじゃなく、我らが球団が頑張る姿を応援したい、彼らのスポーツに親しみたいってゆー人が増えているからだ。サッカーは先にそーなった。だからテレビにしょっちゅう出る訳じゃない浦和レッドダイヤモンズに、あれだけの観客が集まり、熱狂する。

 目が肥えて、人気や顔立ちなんかじゃ満足できなくなった人たちが見るのは選手たちが繰り広げるスポーツの質。その質の善し悪しを伝え、どうして生まれたかを追いこれからどうなるのかを伝えるスポーツジャーナリズムが、これから存分に求められて来る、確実に。人気スポーツに限らない。女子ホッケーに女子サッカー。カーリングにソフトボール。ほか諸々のスポーツがスポーツとして認知され、そうしたスポーツに携わる人たちのドラマと、それらがどうして面白いのかを語るジャーナルが、どんどんと必要になって来る。

 多チャンネル化にネットの台頭も加わって、どんなスポーツだって見ようと思えば見られ伝えようと思えば伝えられる時代が、すぐそこにまでやって来ている。一部にはもう来ている。そんな時代にこそスポーツをスポーツとして伝えるメディアが求められないはずがない。まさに変わり目の時期。なのにこの潮目の変化を読み違えたのか闇の訪れ、それも開けない闇の訪れと読んで雑誌を閉じてしまうことの、何という勿体なさよ。いずれ闇は開けるのだ。今はその寸前なのだ。ここで諦めては目覚めは来ない。それでも良いのか? 良いんだろうなあ、今が大事な経営者って人たちは。

 小説の世界でだって佐藤多佳子さんに三浦しをんさんにあさのあつこさんんといった面々の書くスポーツ小説が大人気になっている。あさのさんの「バッテリー」を文庫で出してる版元はどこよ? それを思えばスポーツが”金”になることは分かっているだろー。漫画誌にだってスポーツ選手の評伝が載り、それが割に公表をもって子供たちに受けいれられている時代。スポーツへの興味は決して失われていない。ビジネスって観点からも糾弾経営サッカークラブ運営なんかのモデルに企業の注目が集まっていて、スポーツマネジメントの雑誌が刊行されているくらい。スポーツに関する情報は求められこそすれ拒否される理由はどこにもない。

 だからいっそスポーツ中心のライトノベルにスポーツがテーマのコミックを掲載し、スポーツのアニメを紹介しつつグラビアページでスポーツ選手を取り上げるインタビュー記事を載せ、間にスポーツの紹介なりスポーツに関するコラムを掲載する総合スポーツ・エンタテインメント雑誌なんてのを創刊しちゃあ、どうなんだ。誌名はもちろん「月刊スポーツA(エース)」だ。

 冗談なんかじゃない。そーゆー誰もが面白がれることをやってこその角川書店って奴じゃあないのか。「yeah!」で育てたスポーツライター陣だっている訳で、それらをスタッフに漫画の原作の取材やら、小説のネタ出しなんかをさせつつコラムを執筆させてみたらどーなんだろー。売れるかな、売れないかな。分からないけど人気アニメやら特撮番組やらを中心に据えて出す、確実い市場は見えているけれど新しさって意味ではあんまり感動を呼ばない雑誌づくりを続ける一方で、何か新しいことにチャレンジしてやって欲しいなあ。角川ならできる。産経なら……できる……かもしれない……かな。

 ちょっと前に池袋の路上で献血のキャンペーンに登場しつつ舞台のPRを行った「劇団スタジオライフ」の新作「銀のキス」を誘われ見物に行く。男性ばかりの劇団で前に萩尾望都さんの「トーマの心臓」とか「訪問者」とか「メッシュ」とか、清水怜子さんの「月の子」とか皆川博子さんの「死の泉」といった作品を舞台化したって話を伝え聞いて、つまりは耽美な世界を舞台で演じて倒錯の境地へと観客を迷わすアンダーグラウンドのやや入った劇団で、観客もゴシックにロリータな黒い人たちがたっぷりと集い歓声を飛ばすか逆に黙して見つめ続けるものっていった、シーンが浮かんだけれど現場に行くとまず劇場が広い。

 北千住にある「シアター1010」はちょっとしたホールで2階席もあって「阿佐ヶ谷ラピュタ」とかとは規模が違う。それだけのホールが始まった時にはほぼ満席になっていたのにも驚いた。千秋楽は満席でソールドアウト。全15回をそれだけの客で埋めるってことは相当な人気なんだろうって想像が付く。なおかつそーした観客のほぼ全員がごくごく普通の女性たちで、中には男性もちらりほらり。着飾ったり黒かったり化粧が濃かったり体から鋲を生やしていたりするよーな人はおらず、見に来る人たちが集まったロビーの雰囲気は映画館あたりと大きく違わない。つまりは一般化しているってことで特殊な人気に支えられた特殊な劇団ではないらしー。

 それは劇の内容にも現れていた。母が入院していて父は母に付きっきり。中の良い友人も遠くに引っ越してしまい寂しがっていた少女がある時1人の銀髪をした青年と出会う。彼は何者? 折しも町では喉を切り裂かれて全身の血を奪われてて惨殺される女性が続出。彼が犯人? そんな疑惑を抱きながらも少女は青年に惹かれていき、そして青年から過去にあった悲劇とそして、今なお続く苦悩を聞かされる。外国の小説を題材にして作り上げた舞台に出てくるキャラクターでは主人公の少女がいて友人の女の子がいて少女の母親がいてといった具合に女性が重要な役割を占めている。それを演じるのは男性で皆ちゃんと髪を伸ばし化粧をし、胸にもパッドをいれて臨んでいて最初こそそこまでやるかって違和感が浮かぶけど、舞台が進むにつれてそれが男性であるってゆことが気にならなってくるから面白い。

 女性らしい、って訳じゃない。声を作っている感じじゃないし歌舞伎のよーなしなを作って媚態を見せる訳でもない。やや高めながらも声は地声に近くそれが女性のよーな口調で喋るんだから奇妙だと思われて当然なのに、見ていて別に何の不思議も覚えないのはたぶん少女であり友人であり母親といった役柄に、形ではなく心からなりきり演じようとしているからなんだろー。歌舞伎だとやっぱり口調や仕草が女性っぽさを見せる大きな要素になっているし、宝塚だと女性が男役を演じているんだってゆーことが強烈に見る人の頭にあって、男装の麗人的な倒錯をそこにどーしても見てしまう。あるいはそーした倒錯を最初っから含めて見るのが習わしになっている。

 「スタジオライフ」の場合もそんな倒錯が逆の立場であるんだろーと思っていたけど実際の舞台を見れば倒錯なんて起こしている暇はない。自身をを孤独へと追い込んでは悩み苦しむ少女という役柄を、体に入れ込み演じることで口調や声のトーンや仕草や体型を無理に作らなくっても、それが少女なんだと見ている人に感じさせることができる。母親であり、友人であり娼婦であってもそれは同じ。男性が男性のキャラクターを演じる時と同じ自然な気持ちで、役柄の心を理解しそれになり切ること、言うなれば演じることの根源が「スタジオライフ」の舞台には、示されているんだって言えば言えるのかもしれない。本当に少女だったよゾーイ役の松本慎也さん。そして母親役の人友人役の人。

 訴えかけて来るメッセージも素晴らしかった。自身を孤独だと信じ込みたいヒロインが、永遠の時を彷徨い続ける孤独さに悶えるサイモンと出会い、生き続けることが幸せなのではないと知り、一方で死んでいこうとしている母親の言葉から、死ぬことは恐ろしいことだけれど生きていたことを誰にも覚えられていない方がよほど恐ろしい、人が死ぬことは避けられないなら、生きている人たちの心に思い出となって生き続ける方が大切なんだってことを教えられる。

 最後の戦い。そして別離。感動のフィナーレ。喝采を浴びせたくなり、感涙にむせた心で帰れるなあと思わせておいてドキリとさせるシーンを加えるあたりのこれは意地が悪いのか、それとも安易な幸せに溺れるず生きる大変さを改めて噛みしめろってゆー警告なのか。ともあれ素晴らしい舞台と素晴らしい役者たちに拍手。同じ配役をやや年輩っぽい人たちが演じるバージョンだとどんな印象になるのかなあ。ちょっと興味があって観劇したい気になったけど行けるかなあ、行けたら行こう。でも見ると今日の感動を壊されるかなあ。まあ良い誰であっても演じきってくれてさえいれば違和感先入観なんて吹き飛ぶんだ。よおし行くか。でもやっぱり。うーん悩ましい。


【12月13日】 年明けにロサンゼルスへ行ってしまう堺三保さんの壮行会から帰って写真を整理。見ながらバウンスの効かないフラッシュでは限界があることを実感。故障中のはビックカメラから修理に回っているはずなんだが直るのは何時なんだ。会自体はアニメの監督に科学の人に宇宙の人に翻訳の人に作家の人にその他いろんな人がいろいろと、掘り下げられて吹き抜けになった空間にひしめき合って見下ろすと何とも不思議な感じ。テラス部分に立ちスポットを浴びながらギターを抱えて弾き語りして、それからフロアへと誰か飛び降りれば恰好良かったかも。特撮の人にそれはお願いしたい。ワイヤーは無しだ。

 その壮行会ではちらっと見かけた本郷みつる監督も登場するって聞いていた、オーストラリアのファンタジー作家、エミリー・ロッダさん01年から発表して来たシリーズ「デルトラクエスト」のアニメーション化発表会だったんだけど三田から慶応大学の横路を抜け、ゴージャスなマンションとか立ち並ぶ通りを抜けて三井倶楽部とやらの角を曲がってたどり着いた豪州大使館は大使館だけあって警備が厳しく入るのに検査されて金属探知器をくぐる面倒さ。しばらく行ってないけど検査の厳重さはアメリカ大使館より上かもしれない。サッカーの代表が日本と同じアジア協会に加盟して日本との対戦が増えて来るのを見越したフーリガン対策か?

 入ると中庭があって女優が2人会話してたら途中で1人が血を流して絶命した、ってのは恩田陸さん「中庭の出来事」(新潮社)か。そんなパーティーでもできそうな中庭があって抜けて入って地下に降りたホールで始まった発表会に本郷さんの姿はなし。追い込みか。まあこの時期だから仕方がない。来年春の「ライディーン」だって確か手がけていたし。だから会見に制作陣の姿は見えず駐日オーストラリア大使が挨拶してそれから作者のエミリー・ロッダさんが挨拶。「これまでにもいろいろとアニメ化の話しがあったけど、原作を大きく変えられてしまうのが嫌で断っていた。今回はジェンコから話があって、信頼できるところだと思い依頼した」って話していろいろ思いが去来する。ジェンコが、世界に、認められた、のか。数は沢山作っているし良い作品も増えているからなあ、ジェンコ。

 んでもって試写会。豪州の市を姉妹都市提携を結んでいる越谷市の小学生が来ていて眼鏡っ娘とかいて小学生っぽさを横目で堪能。でも男のお子様は大使館の美人にも臆さず「デルトラクエスト読んだことない」って断言してちょっと弾かせてた。日本の美徳の謙虚さって奴を叩き込むなり「世界で400万部ったって日本じゃ100万行ってるかどうかのファンタジーなんて知らねえよ」とやっぱり美徳の正直さを教え込むなりしてやならいと、いずれ国際摩擦を引き起こすかも。そんな男のお子様も有名人らしい人には弱いのか、試写会が終わった後でエミリー・ロッダさんからサインをもらおうとしていたのは内緒だ。誰でもいいのか。良いんだろうなあ、この年頃だと。

 さてアニメはといえば割りに良い出来。特にキャラクター。癖はないけど雰囲気はあって崩れてもいなくって万人受けしそー。若い少年のリーフと大柄な男のバルダが森を旅していて、襲われ気を失って怪物のエサにされそうになっていた所をジャスミンって森で暮らす少女が助け出す。リーフとバルダは何か宝物を探していて、森の奥に眠るそれを見つけに来たらしいんだけど無茶苦茶強いかってゆーとそーでもなくって怪物相手に手間取るは、現れた宝の万人に手こずるわと秘めた力とかなく狡猾さもなく真正面からぶち当たっては退けられる繰り返し。これじゃあ先が思いやられるけれど、そんな普通な人たちがあれやこれやと力を合わせ、智恵を出し合って進んでいくのが良いのかも。

 主役のリーフを当ててる坂巻亮祐さんはこれが本格的な主役は始めて? 若くて高くて良い声をしている。相方のバルダはベテランの屋良優作さん。「クレヨンしんちゃん アッパレ! 戦国大合戦」の又兵衛もやれば「ちびまる子ちゃん」の父親も当てる偉い人。体格に合った声を出している。そして森に住む少女のジャスミンを当てるのは高垣彩陽さん。誰? って思ったのも当然でまだそんなに数は出ていない人っぽい。「桜蘭高校ホスト部」の上賀茂椿役、って「ホスト部」あんまり見てなかったから知らないや。でも強気でちょっぴり寂しいところも持っている娘役にはハマってた。これをきっかけにいろいろ出ていくよーになるのかな。なれば良いな。

 それとあと主題歌を唄う「MARIA」って女性ばかりのバンドが来ていて、中に荒荒川恵理子(ボンバー)と時東ぁみ(眼鏡)が混じっていたけどそれはさておきリーダーな人が元ZONEの人らしい、って聞かされて見たけど誰が誰なのか不明。ZONEってみんな同じ顔してなかったっけ? してないか。まあともかくツインベースとかってゆー迫力のサウンドを聴かせてくれることでしょー。とりあえずアフロな人が何やっているのかに注目したい。ヘディング?

 そんなボンバー荒川の元祖が出場するアジア大会でのサッカー女子日本代表と北朝鮮代表との試合はトップに入った荒川選手がチェイスし下がってカバーする大活躍を見せて完調ぶりをアピール。サイドで大野忍選手も走り回っていたけれど、中盤を北朝鮮に制圧された上に有効なサイドチェンジを何本も出されて押され気味の展開となり、トップの2にがスピードを活かして攻める場面がほとんと見られなかったのが残念。とりわけ北朝鮮のサイドチェンジは素晴らしく、日本だとキック力が弱くてそこまで届かないってパスでも男子並にバンバンと決めるから、「なでしこリーグ」なんかでサイドチェンジなんてほとんど経験していない選手たちには守りにくかったんじゃなかろーか。

 それでもよく食らいついて抑えてシュートを許さず打たれてもキーパーにカバーの選手が守ってしのぎきる。途中に荒川選手が2人を抜き去りゴール横まで迫りぶち抜け! って叫んだけれど走り込んで来ていた澤穂希選手にパスしてそれがマイナスになり過ぎ打てず得点にならず。延長に入り大野選手がクロスをトラップして決めたゴールがオフサイドで取り消される不運もあってそのままPK戦に入ると場数の差かフィジカルの差か、それとも感じるプレッシャーの差からか北朝鮮がしっかりと決め日本は外して万事休す。アジアでの初の優勝って栄冠をとりのがした。

 これで同じ北朝鮮に男女とも苦杯を喫することになったアジア大会でのサッカー競技だったけど、攻めあぐねて破れた男子に比べれば、同じフィジカル勝負で押し切られながらも2人3人で守り有効なシュートを打たせなかった女子の方が見た目は上。荒川選手が完全復活した様子だしボランチのベテラン酒井與惠選手も読み鋭く動きも上々で、ここに復活して来た宮本ともみ選手が加われば中盤も相当に制圧できるよーになるんじゃなかろーか。課題は折角の安藤梢選手を回しながらもサイド攻撃につなげる攻めが見せられなかった点で、繋ぎ役になって攻め上がりをさせる選手がサイドに必要となりそー。

 エースの澤選手は巧いんだけどそれだけマークも激しく消えてしまうことが多いかな。それならそれで周りがフリーになって攻めて行ければ良いんだけど。あとは何より体力筋力のアップか。走り回れてもパスが弱くて届かなかったりする場面の多さが気になった。前の上田栄治選手は徹底したスカウティングを行い体力面をアップさせて世界にのぞみ成果を上げたけれど、大橋浩二監督は組織力を上げることはできても攻めの部分でなかなか有効打を打てていない気が。サイドチェンジをしっかり決められるよーなフィジカル面の向上と、攻めに当たっての突破力の向上を来る3月のプレーオフに向けては望みたいところ。今度はメキシコの高地での試合だから、完全アウェーの雰囲気といっしょに体力面のキツさとも闘わなくちゃいけなくなる。そーした準備をさて、日本サッカー協会が一丸となって行えるか。行うよね。でなきゃキャプテンいらないし。


【12月12日】 この世界とは性別が入れ替わって環境も変わる別世界に飛ばされ、女の子になってメイドになって、現世では幼なじみの女の子だったけど別世界では貴族の跡取り息子にお仕えするって、ありがちだけれど心に響く設定でもってそーいったのが好きなファンを捉えた鷹野祐希さんの「ぼくのご主人様!」(富士見ミステリー文庫)だったけど、1発アイディアでもて続かせるのかと思いきや続編では入れ替わり状態こそ見せつつも、時代や性差や境遇が人間の想いに影響を及ぼしてしまう状況の切なさを、描いてみせて読者を驚かせてくれた。

 続く第3巻は入れ替わりこそあるけれどそれがメーンにすらならず、入れ替わった人を置きつつかつて入れ替わった経験のあるメイドの少女(本当に少女)とご主人様の少年(本当に少年)の2人が、立場がフラットになった別世界で交わし合った心を立場が戻ってしまった現在の世界で果たしてどんな関係を築くべきなのか、ってところを見せてくれる。そりゃ戻ったんだからメイドとご主人様、越えられない一線は守るべきってことになってしまうんだろーけど、そーした立場の差をいったん、越えてしまった心に再び壁なんて作れるの? そんな問いかけに爽やかな答えを見せてくれる。最初はちょっぴりエッチなコメディがこんなに社会性を持ったシリーズになるなんて。驚きつつも次に期待。

 性別が入れ替わる話と同じくらいに心をくすぐる要素が女装男装のシチュエーション。電撃文庫から出たハセガワケイスケさんの「みずたまぱにっく」ってのはまさにそんなくすぐりに溢れたストーリーで、読めば心に要素へのシンパシーを持つ人は七転八倒の果てに抱腹絶倒の境地へとたどり着けるだろー。そこは割にお金持ちとか家柄の良い子供たちが通う学校で、そこに学力でもって特別に入学はしたもののお金を稼ぐ必要があってバイトしていたとゆー生徒の水玉シローこと水田マシロが、涼橋アサミ子という底知れないものを秘めた女性から紹介されてアサミ子が運営している涼橋寮のお手伝いさんとゆー仕事にありついた。

 普段着はボロボロのジャージなんだけど、この時ばかりはと兄貴から借りたブランド品のジャージを羽織り良へと出かけていったらそこは広いお屋敷だったから驚いた。入ると見るからに長い黒髪が人形のように可愛らしい涼橋萌流って子がいてそれからフリフリヒラヒラの似合う立ったまんまでも眠れる藤間陽向って子がいて、案内されて入っていくと委員長みたいなシャキシャキっとしてちょっと恐い鳴海千尋って子がいてくノ一の真似をする跡見忍って子がいてと、個性的な子ばかり4人が寮生だと良いそんな場所にがさつな雰囲気のが入り込むのは問題だって一部が騒ぎ立てたものの、シローを引っ張ってきたアサミ子はシローにまるでメイドって恰好をさせて働くように厳命する。

 ほぼ無理矢理に汚いジャージを脱がされメイド服に着替えたシローはそこで衝撃の事実を告げる。実は。でもってそこからさらに衝撃の事実が明らかになって、いったい何でそーなっているんだとゆー疑問が沸き起こる中を1巻の終わり。続きをご覧じろって訳でとりあえず何でそんなことになっているかが明かされるのかどうかはともかく続きを早く。2重の倒錯。素晴らしいなあ羨ましいなあ。どっちが? シロー? 寮生たち?

 それほど遠くない時期に出る「ニンテンドーDS」向けのドラクエモンスターズに「Wii」対応の「ソード」を発表するだけだったらホテルのボールルームなんて使うこともないだろーから、きっと新しい発表もあるとは予想して言ったけれどスクウェア・エニックスの「ドラゴンクエスト」20周年記念発表会は場内に任天堂の岩田聡社長がわざわざ来臨してのスタートとなる一方で、ソニー・コンピュータエンタテインメントからの出席はおらずあるいはもしかして、って思いつらつらと発表会を見て発表済みの2作にタイトー買収の効果もあってか誕生した、業務用のカードゲーム機版「ドラクエ」の初披露をやり過ごした後で、いよいよ本命となる「ドラゴンクエスト9」の発表となってひっくり返る。

 登場したCGはそれなりの密度で、けれども「ゲームキューブ」上でだって再現できそーなものでつまりは「Wii」向けに回帰? って思わせておいて発表された対応ハードは「ニンテンドーDS」。かつて常に家庭用ゲーム機の上で発表され来た「ドラクエ」の正統的なナンバーシリーズが「9」にして始めて携帯型ゲーム機の上へと移り変わるとゆー発表に、こいつは世間も大騒ぎになるぞって震えていたけど会社に帰って周囲の反応を見ても「だから?」といった空気。普通一般の人にとっちゃあその程度の話なのかそれともこっちの方が世間から3週半くらい遅れていてビビッドな情報を理解できないだけなのか。後者である可能性99%。

 まずひとつは「ドラクエ」シリーズを獲得したこどで基盤を築いた「プレイステーション」陣営は確実にダメージを被るってこと。かつてやっぱり「プレイステーション」でミリオンを達成したカプコンの「バイオハザード」が「ゲームキューブ」への移籍を発表したもののハードを盛り上げるまでには届かず「GC」も浮かばないだけでなく「バイオ」って人気タイトルの息の根を止める結果になってしまったけれど、これは当時の趨勢として「プレイステーション2」が圧倒的で「GC」が厳しい戦いを強いられていた中での出来事で、且つ「GC」ってハードと「バイオハザード」のマーケット的な相性が、今ひとつ噛み合ってなかったってことがある。

 でも今は環境が違う。「プレイステーション3」は立ちあがったばかりで値段の高さと生産の少なさもあって圧倒的って空気を作り出せていない。加えて「ドラクエ」は、ハードが代わってもそれをやりたいって人の数は「バイオ」とは文字通りにケタ違いにいて、ハードの展開にとてつもなく、とまではいかないまでもそれなりの影響を与える。ハード立ち上げの時期で迷いがある時なだけにその影響は「すでにハードを買っちゃったから今回は『ドラクエ』諦めよう」って方向ではなく「まだハード買ってないけど『ドラクエ』できないんだったら買わなくてもいいかな」って方向に働く。それは空気となって「PS3」にまとわり付き、連鎖となって他のソフト会社を迷わせる。

 すでに1度「プレイステーション」立ち上げで経験している“雪崩”が今回は逆に起こる可能性って奴がある訳で、そこに対して「ドラクエ」以外の自分たちで育て上げた「GT」なり、スクウェア・エニックスのもう一方の雄で、こちらは美麗さを追求し続ける「ファイナルファンタジー」シリーズを未だ得続けていることでどこまで引っ張り続けられるのか。10年の自信が過信となっていたかいないかが、これからの数年間で分かって来そう。

 そしてそれ以上の驚きだったのが「DS」での発売ってこと。だって携帯型ゲーム機だよ、最新鋭のハードなんかじゃないんだよ、ここに持ってきたってことはつまり最新鋭のハードが生み出す演算能力描画能力操作性といったものをいったん拒絶したってことなんだよ、これって過去20年のゲームの世界じゃ考えられなかったことなんだよ、それをやってしまったんだよ「ドラクエ9」は。いやあ凄い判断だ。まあ任天堂的には「Wii」だってグラフィックの性能競争って奴からいったん降りて、別の方向を目指しましたって雰囲気を漂わせてはいるけれど、少なくとも「GC」よりは性能は上がってていろいろ試せるだけのプラットフォームにはなっている。でも「ドラクエ9」はその「Wii」すら拒絶して「DS」に行ってしまった。驚くより他にない。

 とはいえ作っている堀井雄二さんの側から見れば多分一環していて、その時に1番多く出ているハード向けに作るってのがひとつの選択肢で、なおかつ遊びとして面白いことができる方向を目指すってスタンスがいったんは「PS」へと「ドラクエ」を移籍させた。まあ当時の任天堂のソフト政策に会社側がいろいろ考えたってこともあったんだろーけど、現場もそんな経営的な判断を覆してまで「NINTENDO64」に留まることにこだわらなかったんだろー。今1番出ているハードといえば「ニンテンドーDS」で、だから「DS」向けに出すってことは良く分かるし、家で延々とゲームをやるより移動しながらサクサクとやるゲームのプレースタイルが一般化している中で、そーしたスタイルに合わせたゲームを作ることがユーザーに1番望まれているんだとゆー判断もあったんだろー。

 そして通信対戦機能。「プレイステーションポータブル」だって持ってはいるけど「DS」のそれは実に簡便。近所の4人がその場でスイッチポンで対戦できて、ネットを介すれば世界とだって交流できてしまうお手軽さが、ネットワークゲームに興味を持ちつつも躊躇していた作り手たちの背中を押したってことになるのかな。会見ですぎやまこういちさんが堀井さんを「『ポートピア殺人事件』で敷居の高かったアドベンチャーゲームを誰でも遊べるものに改革した。『ドラゴンクエスト』ではRPGを改革した。今度はネットワークゲームを簡単にする。革命家。大改革者だ」って評してた。面白そうなんだけどでもちょっと子供には躊躇われるものを子供でも手軽に楽しめるようにするプロフェッショナルの感性と、そんな感性を実現可能なマシンの登場が合わさっての「DS」移籍だったんだろー。

 じゃあ他のゲームでも「DS」への雪崩が起こるかってゆーとそこはなかなか難しいところ。ゲーム性の進化が止まってしまった所をグラフィックの進化でもって“お化粧”して人気を維持して来たゲームが、今になって「DS」の上でゲーム性を追求しよーとしたってそうはいかない。面白さとは何か? ってゆー根元的な希求をずっと行ってきたからこそ任天堂は「DS」の上であれだけのヒット作を送り出したし、堀井さんも「DS」向けに「ドラクエ」シリーズをあっさりと持っていける。

 ただひとつの切っ掛けにはなって、グラフィックの美麗さボリュームの拡大といった進化ではもはやとゆー判断が生まれ、クリエーターがだったら俺もゲーム性をとことん追求してやるって考えるよーになれば、ってかそーゆーゲームじゃないと売れない状況が来ればソフトの作り方は変わりどんなソフトを作るべきかって会社の判断も変わって、パラダイムシフトが起こってゲームの世界がさらに面白くなるってことは充分にある。それだけのインパクトを持つ発表会だったのに、「ふーんそれで」って反応ばかりってところに既存メディアのとりわけ近隣の弱体化していく理由ってのも見えてしまうなあ。冬期賞与が全業種平均以下になる訳だ。


【12月11日】 「さよなら」の大ヒットあたりから「オフコース」を知って聞き始めた人間なんで東芝EMIから出たベストヒットの集大成「ai」は聴きたい曲がだいたい入ってて大満足の1枚、じゃなくって2枚組、でなおかつDVDもついた3枚組。「Yes−No」はラジオなんかで聴いてたまんまだし、「生まれくる子供たちのために」は入っているし透明感が好きな「緑の日々」も入っていたりと、小田和正さんの今だってそれなりだけれどハイトーンボイスという意味では全盛期の声を聴けるのが嬉しい。「Yes−No」とか「I LOVE YOU」なんて今出せないんじゃないのかなあ、そういう当方だって昔は頑張れば出せたけどもう無理。披露する場所もないから別に良いんだけど。

 ただあまりに小田さん作に偏っているって鈴木康博さんとの2人組だったデビュー当時からの「オフコース」ファンにはあんまり評判が芳しくないのが気になるところ。メーンでボーカルを取ってる曲は確かに少なく比率じゃあどーなんだろー、1対9って言っても良いくらいに鈴木さんが劣勢になっている。「一億の夜を越えて」くらいしか知らないって小田=オフコースな人間にはそれくらいの比率がちょうど良いんだろーけれど、根っからのファンで且つ鈴木さん脱退の遠因に思いを馳せる人には、今回のセレクトも当時の呪いが今再びって印象を抱くのかも。ポール・マッカートニーが9割のビートルズベストって感じ? でもだいたいポールじゃん。うーん難しい。とりあえずでもポール・ロジャースがボーカルのクイーンを聴くよりゃマシってことだけは確かだ。

 時間があったんで録画してあった「BLACK LAGOON」のボウリング場襲撃編をよーやく視聴、いやあすげえ、アニメ史上で最強にして最凶のエロス&バイオレンスシーンって言えそうで、よくぞこれを作っただけじゃなくって、よくぞ地上波で放映したもんだと千葉テレビに感謝。途中セリフにピー入ってたってそんなん漫画を読んだ身には関係ねえ。DVDだて買うからそっちでフルバージョンを見れば充分だけど、セリフなんかなくても絵だけで存分な迫力って奴は伝わってきた。いったい何人が殺されたんだろうなあ。無抵抗に近い不良どもがガシガシ撃たれ切られていく様は哀しいものだと少佐風。

 雪緒ちゃんも見せまくりだったりレヴィもストッキング越しとは言えチラ見せしてくれて、その意味でも金字塔として長く語り継がれることだろー。でもやっぱり前のシリーズから流れる完全悪と偽善との境界線上でどっちにも行けずに迷う良心って奴を今回も、引き続き見せようって演出が強く生きててあれやこれや考えさせられた。原作にも勿論通底しているテーマだけど、テレビアニメ版だと例えばロッカールームでの雪緒とロックとの会話に、潜水艦の中でのレヴィとロックの会話をインサートして、レヴィの側へと堕ちていく雪緒の哀れさを示唆しつつ、それがだったら本当にいけないことなのか、黄昏に留まり闇に抗うロックに雪緒を止める権利があるのかってのを強く突きつける。

 止める力もない野郎が吹いてんじゃねえ、って感じのことを言われタジタジとなるロックの情けなさが浮かび上がって来るけれど、情けなくっても言うべきは言い説き伏せようとするのも強さのひとつの現れ。恰好に拘泥して玉砕を選ぶより、妥協してでもはいつくばってでも良く在り良く生きる術を探ろうとする難しさと大切さって奴を、ロックってキャラクターが実に良く著してくれているよなあ。でもあんな迷い戸惑う生き方はやっぱり恰好悪いよなあ。そんな野郎にどーしてレヴィが……。あれでなかなか世話女房って奴なのか。それにしてもセーター姿になると突き出しも目立つなあ、レヴィ。次回はバラライカとの対決か。凄みのある演技、期待してます茉美姉。

 折角だからと「M−1グランプリ2006」の決勝進出組によるネタ順抽選会をテレビ朝日まで行き見物。専門家じゃないんでまるで分からないけれど、「フットボールアワー」とか「笑い飯」とか前に出ていてグランプリを取ったりグランプリに迫る活躍をしたコンビが割と出場していて、レベルは高いけれどもそれだけに厳しい戦いって奴が繰り広げられそうな予感。その程度じゃお前ららしくないとかって意見からベテラン(10年以内にベテランもないけれど)が得点を伸ばせない中でアマチュアながらもM−1では前回準決勝まで進んだ経歴を持つ「変ホ調長」が、アマチュアだからってことではなくて2年連続で好成績を収めた実績をひっさげつつも審査員たちにそれほど知られていない強みを活かして、ひょろひょろっと勝ってしまう可能性なんかもありそー。41歳に36歳のリアルOL2人組の活躍。12月24日がちょっと楽しみ。

 著作権の保護期間を欧米並に著作者の死後70年にするべきかそれとも現行の50年のまんまで据え置くかを考えようってゆー「著作権保護期間の延長を考える国民会議」ってところが賛成派反対派を集めてシンポジウムを開くってんで青山へ。途中で「POT&POT」に寄ってカレーでも食べようかと覗いたら店が消えてカレー饂飩の店になっていた。どうしてだ。そこでは立ち寄らず会場へと入り待っているとやがてパネリストの人たちが登場。三田誠広さんや平田オリザさんや松本零士さんといった文学戯曲漫画の重鎮たちに並んで山形浩生さんも来ていて、えっと何時以来になるんだろー池袋での「新教養主義宣言」刊行記念トークショーかそれとも横浜美術館でのトークショーか分からないくらいに久々に姿を見る。健康そう。それはとても健康そう。

 本業で発展途上国に何ヶ月ってことが最近はあまりないのか栄養も良さげで表情もおだやか。だからなのかパネルの席上でも突飛なことは言わず暴論も繰り出さずにロジカルに寿命が延びるから保護期間を伸ばすっていうけど一方で少子化の問題もあって子や孫の代まで面倒見るために伸ばすって言われたって子や孫のいない著作者だって出てくるぜ、ってなことを示唆しつつ遺伝子を残した肉親が作品に貢献するかっていうと必ずしもそうじゃない、ミームとして作品を後世に与えていく方がクリエーターとして意味のあることなんじゃないか、ってなことを喋ってパネルの先陣を切った。対して松本さんは、信念として書いた作品なんだから著作権保護期間が長いとか短いといった期間で議論する話じゃないと言いつつ作家は孤独に作品を生み出す永遠の浪人であると言いつつも、おじいちゃんが頑張った証を孫子の代まで伝えたいと言って一体どっちなんだ作家は作品を作り出せさえすれば幸せなのかそれで孫子を養えることが幸せなのかって混乱を覚える。

 平田オリザさんは著作者であるものの劇作家という書けば即上演されることを前提とした著作物の作り手でありまた、演出家として古典なり他の戯曲を使い翻案して板に乗せる使用者としての立場でもあるなかなかに錯綜したポジションから、延長にはやはり慎重な姿勢を見せる。チェーホフは早くに亡くなったから著作権も早く切れておかげでいっぱい上演されるよーになったけど、ブレヒトなんかは著作権が切れてない状況で頼んでも上演許可が下りず演じられない残念さがあると言って、文化のより芳醇な発展のためには短いままにしておく方が良いんじゃないかってスタンスを見せる。

 こんな平田さんに後の質疑応答で、著作権が残っていたって頼んで許諾を得れば良いだけのことで、その手間を惜しむのはどうよ、チェーホフだって生きてればオッケーしてくれただろうに、ってなことを質問したどっかの大学の人がいたけど話し合われているのは死後にいったいどれだけ、著作権の利用に融通が利くかってことであって生きているかどうかは無関係。チェーホフは死んだから自由になったんじゃなく、死後50年が経って著作権が切れたんで自由に使えるようになったのであって、これがもし、70年に伸びたら許可を取ろうにももしかしたら著作権継承者の反対があって上演され得ない可能性があったかもしれない。生者の当人による許諾と死後の継承者による許諾をごっちゃにしてしまっている辺りに、事を議論する上での難しさって奴を覚える。

 同じ人はまた別に、寿命が今はだいたい70年なんだから70年化には根拠がある、ってなことを発していたけど平均寿命が70年で作家が70歳くらいで亡くなることと、それから70年間も著作権が保護されることの繋がりがまるで分からない。日本じゃ70歳かもしれないけれどこれがアフリカあたりじゃ30歳だから著作権の保護期間は30年ね、って言っているのに等しい。あるいは日本じゃ女性は88歳くらいまで生きているから保護期間は88年にしましょうよ、って言っていることにも。根拠だと示せば示すほどその特殊性故に普遍化が効かずボロを出してしまっていると、言ってて気づかないものなんだろうか。うーん。

 孫子の平均寿命が延びているからそれに合わせました、ってことなのかもしれないけれど、別に著作権者が亡くなった直後に生まれて88歳まで生きる訳じゃない。30歳くらいで作った子供が40年後に40歳になって10歳くらいの子供を抱えて著作権を継承してそこから70年。子は110歳で死んでるし孫も80歳じゃあ死んでいる可能性が大。50年なら孫は60歳くらいで定年を迎える辺りまで面倒を見てもらたんだからもう、良いよねって言われれば強くは反論できない。爺ちゃんの頑張りで死ぬまで面倒を見てもらう? そりゃ幾らなんでも強欲だ。

 平田さんの言い分にはあと先進国だから先進国に合わせましょうって議論はつまり先進国として途上国からの収奪に力を貸そうってことなの? って世界における日本の立場にも目を向けた言及も含まれていて新鮮だった。これは環境問題とも同様で、先進国は製造業が海外にシフトして炭酸ガスの排出を減らせるけれど、途上国はこれから産業を発展させなくちゃいけないんで、炭酸ガスの排出は増えるばかりなのに、何らかの条約でもってそーした排出を抑えようとするのは、途上国には永遠に途上国で居続けろってことなのかってゆー、議論と重ねて途上国が海外の文化を採り入れ著作権を気にせず使い文化発展をしよーとするのを、妨げるものだって話してた。そりゃパクられるのは業腹だけど、一定期間が過ぎたものならそれを土台に何か作り上げてくれれば良いじゃん。むしろ問題にすべきは法律を破りパクって海賊版を作り儲けている人たちがいるってことで、そっちを政策的に取り締まることもしないで著作権の延長を議論したって意味ねえよってゆー、某人の意見にも納得。器を作りさえすれば収まるって話しじゃないんだなあ。

 意見としては70年に延長するのは仕方がないとしても、だったら権利者が誰なのかってことをしっかりデータベース化して、今みたく著作権者を探しても見つからないってことにはならず、どこに著作権者がいるのかをパッと探せて許諾をとりやすい状況をシステム的に作ってくれないかってことがあって、これは70年化とは関係無しに50年の今でも喫緊の課題として実現を考えるべきって意見もあって、今後の国とかの取り組みに期待がかかりそー。そんなシステムなんて絵空事、って言う意見もあってだから70年化はダメって言われても、でもやっぱりいつかは必要となるシステムなんで、頑張って作り上げて欲しいもの。あと70年にするなら20年分の上がりは全部パブリックなものとして寄付とかしちゃえば日本の独自性を発揮できて恰好良いよねって意見もあって、孫子に美田を残したい、ってゆー人にはちょっと向かない意見だけど、金のためじゃなくって後世に自分のいたことが伝わることが重要なんだ、だから70年化して欲しいんだってロジックの人には、だったらこれで良いじゃんって説得の種にはなりそー。まあ実現は無理だけど。


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