縮刷版2005年9月下旬号


【9月30日】 とりあえずは切りのよい竹本の帰還エピソードで終了した「ハチミツとクローバー」の最終回。ラストにスネオヘアーの「ワルツ」が還ってきて、ひとつのエピソードの終わりをチャンってカッティングではじまるイントロで象徴しつつ、見たエピソードで覚えた切なさを思い返させてくれて、そして明日に物語を残すような牽引力も持っている歌を聴いて「ハチクロ」を見たなあ、また来週もみたいなあ、って気分が盛り上がったけど来週はもうないんだなあ。ラストに出てきた次回予告の一言がなかったもんなあ。

 けどDVDでは5巻だかにはローマイヤ先輩のエピソードが入るらしくって、それがハムを喰わせる話なのかそれとも遊園地で大勢を楽しませた話なのかは分からないけどどっちも見てみたい気が。声は山寺宏一さん! きっと格好欲って頼りがいのあるローマイヤ先輩を見せてくれることでしょー。それから7巻だかには藤原デザイン事務所が舞台となった特別編も入る模様。だけどこれは漫画原作のエピソードがちょっと思い浮かばない。あゆと美和子さんのスーパー銭湯話だったら見目も麗しくって嬉しいけれど、藤原兄弟の話って可能性もあるからちょっと怖い。リーダーの1日? それはそれでふわふわしそう。とりあえずDVDは全部揃えよう。安いしね。

   終わった悲しみを嫌そうと集英社側のサイトにあった「森田の金運占い」で遊ぶ。150万円ゲットでタイプはあゆ。2回目は200万円ゲットではぐタイプになったから次は頑張って250万円300万円をゲットしよう。あゆよりはぐより上の運気といったらやっぱり森田先輩かと思ったら120万円で森田が出たから違うのか。堅実に貯めそうってことで真山かなあ、それか野宮、あるいは美和子。がっちりしてそうだし。100万円以下はもちろん竹本。0円でも竹本。報われないキャラはきっといつまでも報われないまま終わるのだろう。せめてラストにはバランスの取れたカップリングになることを祈ろう。

 栄子ちゃんの透けブラでお腹いっぱい。「ヤングキングアワーズ」の2005年11月号はいきなり超絶シリアスになった「ジオブリーダーズ」で蘭東栄子と梅崎真紀とが方針をめぐって船のキャビンで対立する構図が、それまでのどこかギャグめいた雰囲気をまるで感じさせず、今にも弾が発射されて血しぶきと供に人が倒れて命を落とす可能性のきわめて高そうな空気に見ているあたりに、物語りのフェーズの完全に転換してしまったことを改めて感じる。姫萩夕の顔もすっげえシリアスで、いつも寝ぼけ眼だったそれまでの顔を忘れてしまいそーになる。

 けどそんな触ると爆発しそーなキャラだからこそ放たれるエネルギーとエクスタシーの何と香しいことか。しょせんはギャグ漫画のキャラでしかなかった彼女たちが、伊藤剛さんが超画期的漫画表現論集(漫画評論集ではない)の「テズカ・イズ・デッド」(NTT出版)で分析するところのキャラクターへと昇華しドラマの中でその生命を燃やし尽くそうとしている様に、もはや1号たりとも1ページたりとも見逃せない、見逃してはいけないんだって強く思う。先にあるのは決して平坦な道ではないだろーけど、切れた体から吹き出す血しぶきも含めて僕は彼女たちを慈しもう。だから行け。戦いの水平線に。高見ちゃんは蚊帳の外かあ。

終戦記念日でも一般参賀でもないのに揺れる日の丸が示す日本の未来やいかに  取材と称して小松左京賞の見物に。去年がステージをしつらえ「ギャル侍」なる発表を行いさらには社員一同で森山直太朗の歌を唄いまくる宴会芸を見せてくれたから今年はきっと巨大な大和を社員一同で担ぎ上げて赤坂の街を練り歩くんじゃないかって、期待したけどさすがにそこまで派手なことはせずステージも通常のままで去年のゴージャスから一転、通常営業に戻ったかと思ったら甘かった。御歳63歳とゆーかつてない高齢者への受賞となった「小松左京賞」の贈賞式で伊藤致雄さんって受賞者の人が小松さんと並んでも遜色のない恰幅を見せていたシーンだって十分にニュースになる。けどその後に「男たちのYAMATO」で主題歌を歌っている長渕剛さんが現れ2曲を最初はオケで、それから手にしたギターと口元のブルースハープで唄うに至って、去年にも増して異様なテンションが場内に溢れて来る。

 長渕さんの次男がボブ・ディランを唄ったのも驚きだったけど、やっぱり凄かったのはクライマックス。社員の人たちが場内を回って日の丸の小旗を配り始めるに至って終戦記念日が一般参賀な雰囲気が場内を満たし始める。そんな中をひときわ大きな日の丸を背後に角川春樹さんがステージの中央に陣取り周囲を日の丸の小旗を手にした社員の人たちが囲んで唄うはまずは長渕剛さんの「JAPAN」? そして去年と同様に森山直太朗さんの「生けとし生ける物へ」を吟じそして場内は無頼な北方謙三さんも、パンクな町田康さんも手に日の丸を持ってステージを見つめるとゆー、終戦記念日にも正月にも見られない光景がそこに現出しては、「小松左京賞」のために訪れていたSFな人たちのコスモポリタニズムな感性に悩ましげな情動を喚起させる。

 なるほどサッカーの日本代表の試合なんかでニッポンを応援して歓声を挙げる若い人たちを見て見慣れてはいるけれど、ワールドカップとゆー場だからこそ半ば無礼講とばかりに日の丸への愛を言ってみせたりするだけって言えば言える。一方で文学とゆーどこか社会に背を向け徒党とは縁遠い感性にとらわれていて不思議はないカテゴリーに何らかの形で関わる人たちの多く集まった場で、かくも多数の日の丸が振られ老いどころか若いギャルまで手に日の丸を持って歓声を上げる光景を見るにつけ、何かが変化して来ているかもしれないって可能性に思い至って身をよじらせる。

 果たしてそれはパーティーって場限りの一種のお祭りなのか、それとも心底からの崇拝なのか。分からないけど年末には公開される「男たちのYAMATO」の興行の成績が、ひとつ日本の状況って奴を映してくれることになりそーで、その意味からもどれだけの客を集めるかに目を向けて見守る必要がありそー。しかし去年があれで今年がこれなら来年はいったいどんなに凄い演出を見せてくれるんだろー。海底に眠る大和を浮上させてその一部を会場に並べて鎮魂の歌とか唄ったりして。そーなる前に頼むからゆりえ神さま、大和を海中から消して呉へと連れて返ってやってくれい。


【9月29日】 風邪ひいったっぽくって薬を飲み眠って起きたら午前1時半。テレビを付けて「極上生徒会」の最終回を見て大団円に良い半年間だったと感じ入る。っても最近の10話くらいはまるで見てなかったんだけど。始まった時にはいわゆる美少女アニメ萌えアニメの類例にそぐわない描線のキャラクターと、平板なギャグが並ぶ展開にいったいこれは1980何年のアニメなんだと訝りヒットもおぼつかないかもって不安を抱いたけれど、どういう訳か微妙に受けて知らず大勢が毎週を楽しみにする作品になって、イベントを開けば即売会に行列が出来、DVDもそれなりに売れる作品になってしまった。

 特定の層を中心に周辺をも巻き込んでそれなりな認知度を確保しグッズもDVDもそれなりに売れる作品は、深夜帯に放映されるアニメとしてはまさに理想のフォーマット。制作費もそれほどべらぼうにかかっているとは思えないだけに、きっとそれなりの収益を上げたか上げるんではなかろーか。喋るぬいぐるみのプッチャンの正体めいたものも明らかにされたし生徒会長の秘密も明らかにされたけどそれがだから作品にとってどんな意味を持つのかは微妙。そんな本来だったら本筋の謎解きをさしおいて、極上生徒会に集う面々の様々な力や技や性格を楽しみ小温いけれど嫌な気持ちには絶対にならないストーリーに浸って過ごす30分に実に極上なことか。そんな気分が世間に蔓延してのヒットってことになるんだろー。今後に登場するアニメにもある意味でお手本になる作品。それよかいっそ続編って奴を作ってしまっては、如何。

 うーん。いや趣旨はとってもよく分かる。冲方丁さんのいずれ書かれる新作「マルドゥック・ヴェロシティ」が日本初の原著作管理信託の対象になるって話は、それまでどちらかといえば編集者が編集仕事のかたわらで頑張っていたり作者本人が執筆のかたわら張り切っていたり、出版社にあるライツ事業部なんかが受け持っていたり、所属事務所があればそこの担当者が権限を持って仕切っていた著作権管理の業務がジャパン・デジタル・コンテンツ信託に一本化されて、編集者は余計な仕事をせずとも済むようになり作者も煩わしさから解放され、資金集めにノウハウを持つ会社がさまざまな方面へとライセンス利用の働きかけを行い二次使用料がそれまで以上にウハウハと入ってくる道が開けたってことを多分意味する。

 それは結構。ただ原著作が作り上げられる課程で担当編集者との関係が重要なのは昔も今もこれからも不変で、半ば共生関係でもってひとつの作品を作り上げては世に送り出す。なのにそうやって送り出された作品が、原著作の管理信託が行われてしまったら、後どーやって使われるかが編集者の指導なり影響の及ぶところではなくなってしまい、JDCなり作家のエージェントなりが計り自在にメディアミックス展開でも何でも行えるって状況になってしまう。

 「ボイルドエッグズ」みたくエージェントが作品のほとんど完成までを面倒見る欧米型だったとしたら、編集者は本とゆーパッケージへの変換を受け持つ職人と割り切ることも可能だけど、冲方丁さんのエージェントがそーゆー役割を果たしているのかは不明だし、「マルドゥック・ヴェロシティ」の場合はおそらく早川書房の編集者が、完成までに相当の尽力をはかるはず。そんな貢献者が本以外の展開では蚊帳の外におかれてしまうって状況が、果たして作品全体のクオリティ維持に良いことなのかそれとも悪いことなのか。まだ始まっていないことに難癖を付ける気はないけれど、それでも様々な課題が浮かんで消えない。

 作品を著者に継いで知る、場合によっては著者以上に知る編集者の考え方よりも、信託を受けた会社に儲けられる窓口が抱く、原著作者に何が何でも最高クラスの収益をもたらそーとする功利の考え方の方が優先されてしまいかねないこのスキーム。信託の窓口が作品の内容までをも理解して、最善の案件を受け入れ収益とクオリティのバランスのとれた発展を望むスタンスを取ってくれるんだったら構わないけど、そんなノウハウが果たしてJDCなりエージェントなりに存在しているのか。その辺りも見つつ第1号案件がどんんな展開を見せてそれが作品のポジションにどんな影響を与えるのかを注意して見ていきたい。それより何より作品をいち早く出すことの方が最重要。それが面白くなくっちゃすべてのスキームが根底から崩れてしまうから。編集が叩いても感じない尻をお金って分かりやすい結果を見せられる管理信託受託会社が叩けばあるいは。そっちへの影響も観察だ。

 おお達郎。「SPA!」にも登場していた山下達郎さんが今週は「R25」にも登場して新作アルバム「SONORITE」のプロモーションを行っている。見開き2ページにそれほど目新しい内容はないけれど、つぶやきタツローともささやきタツローとも思ったオープニング曲「MIDAS TOUCH」の唄い方が本当はシャウトにしたかったところを、デジタルで作られたオケにシャウトが乗らず仕方がなしに別の唄い方を試したところ、ファルセットにしてマイクに近づき唄うとピッタリだったからそうなったって明かしてて、なるほどそこまで考えた上での唄い方なのかと感心すること仕切り。流行ではなく最善を追求し続けた姿勢がデビューから30年を経った今も音楽シーンの最前線に彼をとどめさせている原点なんだろー。

 「よく『売れるためには妥協しろ、売れたら何でもできるんだぜ』って言うけど、それは絶対にないですよ。自分がやりたいことで成就しない限り、絶対にいい結果は生まない」。それは音楽に限らず小説にアートに他あらゆる表現活動に普遍の真理。ビジネスの世界にだって有用で、妥協するより妥協させた方が後々まで繋がるってことを教えてくれる。けどクリエーターへのリスペクトが皆無ではないエンターテインメントの世界以上に上下関係が激しく指揮系統も明確なビジネスの世界で己を貫き通すのは難しい。それでも明日ではなく1年後、5年後ではなく20年後の自分を考えたら妥協を重ね続けるより、開き直ってさらけ出し続ける方がきっと成果を産むんだと信じたい。だから逆らおう、上の間抜けな施策には。逆らわなくっちゃ自分の居場所がなくなるだけじゃなくってすべての居場所が奪われるんだから。


【9月28日】 やあ豆腐ちゃんだ久しぶり。でもこれでさようなら。7月から始まった「かみちゅ!」は26話だって保たせられそーな雰囲気なのをたったの1クールで終了させてしまう勿体なさ。けどでも下手に長引かせてはノスタルジックな展開に特定の層を喜ばせつつ大勢を迷わせるのも何なんで、学園物と魔法物をバランス良く並べられる今のうちに、すっぱりと終わって見せるのも作り手のテンション維持も含めてベストだったのかもしれない。あの作画を半年続けたら逝っちゃう人だって出かねないからね。

 それにしてもこれだけの品質と、それこそ宮崎駿さんの作品なり「猫の恩返し」なりとも通じる面白さを持った作品が、深夜の2時から3時にかけた深い時間にひっそりと放映されてはひっそりと終了してしまって、DVDもひっそりと販売されては20代とか30代が買って終わりになりそーなのってどうなんだろう。作り手としては自分たちの作りたかった、見たかったアニメを世に送り出せて満足なのかもしれないけれど、それを受け止め将来は自分もって考える、夢多き世代に果たして届いていたんだろーか。これから届くんだろーか。

 大人が大人に向けて作る作品だったら深夜の2時だろーと早朝7時だろーと構わない。けど中学生が主人公で中学生の日常を描いて中学生なら見れば楽しい内容を持った作品が、中学生に届くよーな時間帯で放映されない状況がこれに限らず頻発しているのって、見ていて何だか息苦しい。そこから未来につながる可能性って奴が最初から狭められている気がしてならない。30代40代が見て「懐かしいね」では、商売にはなっても後に続いて凄い作品を作るんだって人は生み出さない。

 証券化だとか信託だとか、作品を作って商売に乗せる仕組みはできても、作品を届かせる仕組みが旧態依然どことかどんどんと隘路にハマり込んでいる状況はやっぱりないかが違う。なおかつ商売に乗せる仕組みも依然代わらずDVD化に海外販売、そしてキャラクターマーチャンダイジング。けどレコーダーが普及して人は確実にDVDを買わなくなってるし、キャラクターグッズだって余程じゃなければ「アンパンマン」には勝てはしない。某マクロスに似たジングルが流れるアニメなんて商品化の説明を放映開始の2週間前にしていたほどで、そこから作って並べる頃にはアニメ自体が終わってる。それも誰にも知られずひっそりと。

 大人としては3カ月ごと、6カ月ごとに山のようにアニメが始まり見たかった原作の動く様、新しい物語が生まれる様を楽しめるのは有り難い。こんなに幸せなことはないけれど、そんな悦楽にひたる世代がそっくりそのまま歳を重ねて上がっていってしまって果たして10年後20年後に下から今のこの豊穣さを上回る中身を持った作品が生まれて来るんだろーか。「マクロス」だって「ガンダム」だって普通に見られる時間だからこそあれだけの影響力を今に残した。「エヴァ」も同様。でもそれ以降、この10年に映画の宮崎アニメを除いて、どれだけの作品が大勢の目を引きつけては中高生にアニメづくりを志させたんだろーか。

 まあ午後6時台とか朝8時台9時台に放映されてる作品にだって素晴らしいものはある訳で、そんな中から「『マイメロ』のよーな優しさを黒さを併せ持った作品を作りたい」とか言ってアニメをお仕事にする人だって出てこないとも限らない。レコーダーの普及が深夜帯の作品を昼間に見る子供たちを大勢生み出している可能性だってあったりする。ケーブルテレビに衛星放送で普通に見て育つ人だっているだろう。そう考えれば未来は安心、なんだけど今度は商売の方が崩れて来る可能性もあるんだよなあ。

 DVDが売れずグッズにならず海外だって飽和状態。どうやって回収するんだろう? ペイ・パー・ビューとかオン・ザ・デマンドとかで細かく集めるんだろうか? それはありそう。ただ今はまだそこまでに至っていない状況で、DVDが売れれば回収できます、グッズが売れればロイヤルティが入ります、なんて言って資金集めをしようとしている金融屋さんに、それを凄いと讃える新聞屋さん行政屋さんばかりが目立っているのはちょっと怖い。どこかで行き詰まった時、昔だったら制作会社が1つ消えて噂が広まる程度だったのに、今は投資家となった人も巻き込んで話が広がる。リアクションも大きそう。そうはならないことを祈りたいけどでもやっぱり不安は残る。そうならないためには、立ち上がった今の仕組みを維持して未来に禍根を残さないためには、大人が買い支えるしかないのかなあ。でもなあ、高いんだよなあ「バジリスク」。

 「ゴーゴーカレー」のあの濃さが脳天に響いて心を引きつける今日このごろ。「CoCo壱番屋」のさらさらっとしたソースの対極を行く粘性、とゆーかほとんど固形に近い濃さを持ったソースが固めに炊きあげられたご飯の上に黒々とかけられていて、一口噛みしめれば下を焼いて喉をかきわけ胃へと転がり落ちていく。流し込むってよりは押し込む感じで何かを食べているって実感を強く感じさせる。その衝撃に、秋葉原の書泉ブックタワーほど近くにできた店にしばし通って、ビジネスサイズのソーセージから豚カツからチキンカツから試して来たけれど、未だにオールトッピングのメジャーだけは頼めずにいる。見るからに胃に来そうなのが理由だけど涼しくなって来たことだし、おなかを空っぽにしていずれ挑んでみるか。


【9月27日】 もはや記憶の彼方へと押しやられた学生時代に通った豊橋にある我が母校には法経学部というものがあって在校生も卒業生も「出身は?」と聞かれた時に半ば苦衷の表情でもって「ほ、ほうけいです」と答えていたっけか。幸いとゆーか在学中に法経学部は法学部と経済学部と経営学部に分離されたしそもそも自身は文学部であって恥ずかしい思いに苛まれることはなかったけれど、あれから20年近く経った今、そうした恥じらいの心理が実は不必要なものだったことが分かって驚きおののく。

 それは石川英二さんとゆー石川クリニック泌尿器科院長の書いた「切ってはいけません!」(新潮社、1000円)とゆー本に記されていることで、つまるところは先っちょの皮を切って剥き出しにすることをこそ正しいとする風潮がかつて世界を席巻していて、日本人もそれを尊びそうでないことを恥じ入らせ、雑誌に掲載されている徳利セーターから頭をのぞかせている男性の写った広告に目を向けさせていたけれど、それがすべて間違いだったことが最新の医学情報によって証明されているのである。おおそうだったのかと驚くこと仕切り。そして安心すること仕切り。安心するってつまりはそういうこと? そういうこと。

 切れば先っちょがあちらこちらに触れて固くなる。それを早出しを予防し相手を満足させる上で必要なことだと説く向きもあったけど「切ってはいけません!」によるとそれは嘘らしい。感じにくいから長持ちする。裏返せばそれだけ強い刺激を与えなくてはならず、繊細に造形された相手の柔らかい部分に強いプレッシャーを与えて相手を傷つける可能性が高くなる。逆に包まれ柔らかいままなら相手を静かに刺激しつつ自分も繊細な刺激を受けて、ナイーブな中に緊張感のあるコミュニケーションをそこに現出させる、のだそーな。本当かどーかは不明ながらもなるほどと思わせる一文。何より切ることによって生じる事故の多々あることが切らないことの正しさを証明する。ってことで読めば納得の1冊。そして安心の1冊。もう徳利セーターを気にしなくて良いんだよ。

 リーナ合体ですべて良し、ああん、しびれるーーーーっ。って言ってニマついていたって別に構わない気もするけれど、一応はお話の方も完結した訳で、そっちについての所感を述べるならば「創聖のアクエリオン」は、仲違いしていた人間と天翔が地球のピンチに仲直りを果たし合一して立ち向かうとゆー、まさに大団円と言うに相応しい終わり方を見せてくれてとりあえずは納得。強く納得。激しく納得。オッケーっす。

 過去と今とがキャラ的にどうつながっているとか、不動GENって存在はだったら人間よりも天翔よりも高次のそれこそ宇宙を統べる大天使様だったのかとか、いろいろ考え直してみたいところはあるけれど、それは録画してあるHDから暇を見て引っ張り出していくことにして、今はただただリーナの戦闘服のなめまかしさと、合体時のうめき声を目と耳への福として、甘い余韻に浸らせて頂こう。すっぽんぽんのシルヴィアよりもスーツ姿のリーナの方が可愛らしいってのはどんなもんだか。

 お話のあっち行きこっち行きして繰り広げられたエピソードを終演にかけて複線として生かし盛り上げていくとか、敵であったトーマと和解し地球の明日のために戦う転校の部分をもう少し、何週かかけてプロセスとして見せて大逆転に大どんでん返しの快楽を感じさせて欲しかった気もしないでもなく、その辺りを整えれば1本の映画だって作れそー。スクリーンいっぱいにシルヴィアや麗花の「きもちいーーーっ」の叫びなり、シリウスやアポロの「うぉーっ」の叫びを映し出してくれたら感動に震える男子も女子も、大勢が劇場に詰めかけ喝采を浴びせそう。あるいは男子向け、女子向けを別々に作って男子に見られたくない女子、女子の目線が気になる男子それぞれが固まって見られる環境を作るとか。

 あとCGで描かれながらもアクエリオンやその敵たちが、重量感とスピード感を失わず、また見ていてちゃんと目で追える戦闘シーンを繰り広げてくれたビジュアル的な新鮮さは、最初から最後まで貫き通されていたのがこの作品の最高の凄味が。なおかつ最終回に至っては、無限拳の多様を鬱陶しく見せないでちゃんと描く巧みさもあって、その当たりを手がけた人たちの、これからの働きぶりに期待が浮かぶ。誰が何とどこでどう戦っているかがまるで見えない「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」あたりにそんなエッセンスが生かされればなあ。あっちも程なく終わるからもう遅いんだけど。

 猿が喋って盗みを働けばさすがにファンタジーだけど、乳癌の手術を控えた女性に相次いで巡り会うって程度はいわゆるシンクロニシティー、あって不思議な話じゃない。かといって階段で2フロアを上に行く途中に消えて20日後に遠くで発見される話しはどっちだろう、瞬間移動をした訳じゃないからやっぱりただの失踪か。だから奇譚集と言われてもちょっぴり微妙さを覚えてしまった村上春樹さんの最新短編集「東京奇譚集」(新潮社、1400円)だったけど、日常にあるちょっぴりの不思議に人間の気持ちが揺れ動き揺り動かされる様が読む人の心も動かして微笑みを浮かべさせ悲しみを覚えさせる。サメに襲われ死んだ息子の最期の地へと毎年訪れ若者と交流しつつ自分の悲しみを埋めていく、「ハナレイ・ベイ」が1番好きな作品かな。「品川猿」は意味不明だけどまあ、書き下ろしってことで村上さんがそんな気分だったと理解。しかしなぜ品川。


【9月26日】 とはいえしかしこうまで言われてしまうとちょっぴり同情も浮かんで来る香山リカさん。花田編集長が立ち上げた「WiLL」って雑誌が最新の2005年11月号で朝日新聞の記者たちによる覆面座談会をやっていて、中で「識者談話」ばかりを求めるようになった最近の新聞の悪い部分を指摘する場面で、「何でもかんでも香山リカ」って小見出しをとって香山さんのコメントを載っけておけば安心的な、押さえキャラの代表格として扱われていることが明らかにされている。

 悩ましいのはここでこうして一種の象徴として名前が挙げられてしまったことで本当に必要なコメントがあった時でも「何でもかんでも」のひとつと見なされこれではまずい、というのは紙面的にまずいんじゃなく体裁として格好悪いといった心理が働き香山さんへのコメントを遠慮する風潮が、一気に広まる可能性が出て来たこと。座談会でもすでにして「今はくらたま」って感じに主流が倉田真由美さんへと移り始めていることが指摘されていて、そんな流行廃りの波も被ってあらゆる場から「香山リカさんの談話」が消滅していく、今は大きな転換点にあるって言えそう。

 思えばおそらくは90年代初頭よりコメンテーターの最前線を張ってきた香山さんの危機に「SFマガジン」でそのコラムを超長く読まされ続けている身としてやっぱり立ち上がるべきなのか、それともこれが時代と見て流れに巻かれるべきなのか。いいやこれでコメント界はなかなかに厳しく激しいもの、香山さんの域へと達して不安をあおりたいメディアの考え方にマッチしたコメントをしっかりとしてくれる人は他にいないってことで、やっぱり続けて第一線の地位を保ち続けるのかもしれない。さてどうなることか。見守っていこう横目でちらちらと。

 千葉テレビームな日曜深夜のアニメが相次ぎ最終回。「奥さまは魔法少女」は住み触れあえば生まれる柵に、人は結局縛られ続けるんだって話と取って取れないこともないけれど、それでもそうした柵を嬉しいものだと感じ受け止め受け継ぎ受け渡していく人の気持ちの大切さを、より表へと出して見せてくれているところが過去を押しつける者たちへの反発には向かわず、今を重ねて明日を作ろうという意欲を引っ張り出した。ベタな設定を逆手に取って見せニマつかせる大人向けのパロディかと思わせて、しっかりと良作としてまとめあげた制作陣に拍手。

 焼けた木造校舎が綺麗になってしまったラストは好みではあるけれど、一方にノスタルジーへの耽溺を感じさせてしまって悩ましいところ。それでも優勝フラッグの隅にそのまま焦げ跡を残したのは、過ちであっても辛い出来事であってもそれが重なり思い出につながるんだというメッセージを示そうとしたのかも。単に焼ける校舎の中でのラブが芽生えた記念の品を残したいクルージュの我が儘だったんだろーけれど、大好きだった巽を嬉子に取られてしまったんだからそれくらいは許してあげよう。

 ラスボスの見栄えのみすぼらしさが気になったけど高橋留美子さんの絵で凶悪無比なキャラクターなんてそうそう滅多に出るもんじゃないから「萌えよ剣」のラストに登場しては機動新撰組の面々を危機に陥れたモンターニュ伯爵の面構えが、「うる星やつら」に出てきたっけそれとも出てこなかったっけ、曖昧模糊とした記憶しかないけれどあたるやラムたちが食べてたニンニクに撃退される吸血鬼ほどに貧弱で弱々しく見えても仕方がない。ただし実力はさすがにラスボスだけあって地球からマンドラゴラを生やしてはその悲鳴で近藤土方の魂を吹き飛ばして昇天させ、沖田の命も奪い果ては竜之介までも絶命させる悪の限りを尽くす。

 けどそこは「萌えよ剣」だけあって最後は大団円で終わってくれて近年希に見るぬるさであってもそのぬるさが、心地よさとなって深夜に惚けた頭の波長を優しく整えてくるアニメに仕上がった。でもって30分後には「ぱにぽにだっしゅ」が整った脳波を捻転させては妄想の彼方へと見る人を飛ばして程なく始まる一週間をハイな中に過ごさせることになるのだ。千葉県民に生まれて良かったよ。来週からはえっと何が始まるんだろう? 「奥さまは魔法使い」の後は「キャンバス2 虹色のスケッチ」か。これはベタな萌え作品だなあ。けど違うのかな。「萌えよ剣」の後は「はっぴぃセブン」!!! うーん「ぱにぽに」まで起きていられるかな。萌え死にしてそーだなあ。

 けどでも起きて見ていなければあのまったりとしてへんてこりんな展開を心ゆくまで味わうことはできないし、主題歌が衆が割りでくるくる回る現象をリアルタイムに楽しむこともできないから頑張るしかない。先週に「ルーレット☆ルーレット」へと戻ったはずの主題歌がまた「黄色いバカンス」に代わってておまけに唄っている人も最初と違う。誰だろう? エンディングまでもが違ってて劇中劇っぽく出てきたロボットバトルにマッチした熱血なエンディングが午前1時49分なんて中途半端な時間に流れてこれでおわりかい! ってつっこみを全日本的に引き起こす。チョップでつぶれたテレビの数は1万台を超えただろー。白鳥鈴音だったらつぶれるだけじゃ利かないか。


【9月25日】 ガキとは空気が読めないからガキなんだけどそれでも空気の読めないガキは嫌いだ大嫌いだと、近づく台風に荒れる天候と同じ気持ちがどんよりと胸を包む午前7時。だったら見なきゃいいのに見てしまうのが我ながら嫌らしい。「交響詩篇エウレカセブン」は脱走して拾われたチャールズ&レイに連れられいった病院で瀕死になっていたヴォダラクの少女を救おうとしてヴォダラク教徒によるものらしーテロの被害者が集まる病院へ、少女を引っ張っていっては激しい反発をくらい戸惑うレントン。結局少女は死んでしまって落ち込むレントンに激怒するかと思いきや、レイもチャールズも何か妙に優しくレントンを包み込む。

 これがホランドだったら殴り蹴り突き飛ばしては体で分からせよーとするんだけど、月光号でそれを喰らっても結局空気を読めず自分の責任を棚に上げては飛び出して来たレントンに学び育つ意志なんてまるで見えず。優しくされた相手が諭そうとしても己の考えに先走っては結局誰も救えず自分も傷つき激しく落ち込む。落とす涙にひとつ成長してくれたんだと思い、これからどんな分別を見せてくれるのかに期待をかけるべきなんだろーけど、それにしては1人のガキに世の中の厳しさって奴を分からせるまでに何でここまで見ている方を苛立たせる展開にするんだろーかと作り手側の考え方への違和感が浮かぶ。

 もしかするとそこまで懇切丁寧に段階を踏んで説明をしていってやらないと、今時の子供って奴は自分がどんな場所に立っていて何をすべきなのかを分からないとでも思っているのだろーか。いやまあたしかにそんな感じはなきにしもあらずだけど、でも反応なんかで叱らず優しく成長を見守るレイとチャールズへの共感が多くって、そんなにも理不尽な暴力によって子供たちは怯え不安を抱えていて、だからこそ見ていてどうにも苛立つこの何週間かの展開が、若い世代の人たちに逆に喝采を持って迎え入れられていたりするのかもしれない。まだるっこしい時代になったもんだ。

 開き直りかそれとも。「SFマガジン」2005年11月号に所収の香山リカさんのコラムは先の衆議院議員選挙に関して「不安だから」という理由で小泉自民党に投票したんだという分析を、小倉千加子さんが「週刊朝日」で「イエスか、ノーかの単純な二者択一で選んだのは国民の不安の現れだとかいう分析は全部、違うと思う」と名指しではないけれど批判していたことを受けた内容。「我ながら『ナショナリズムも改憲も小泉支持もすべての背後に”不安”がある、じゃ芸がなさるぎるな』とは思いつつ、何度考えてもそうとしか思えない」からずっとそう言い続けて来たんだと反論している。

 「今回に限っては私の悲観的な読みがはずれ、せめて小倉さんが言う程度には有権者が前向き、希望的な思いを持っていることを心から願っています」と香山さん。読みがはずれたとしても「『なんだ、そうだったんだ』と希望を持つことができる気がします」って言っているけど専門家が専門家の立場で出した分析を自ら「取り越し苦労」と言ってしまわれては、それを受けて世の中が抱く不安に思いをはせた側は一体どっちなんだと困ってしまうだろー。あるいは香山さんのアドバイスを受けていた人たちも同様に、香山さんの見立てに”取り越し苦労”を見て信頼性に不安を覚えてしまうだろー。

 迷うな、とは言わないし間違えるな、とも言わないけれども国政とゆー大事な問題に関して国民が取った行動の背後に”不安”を診立てたのなら、”取り越し苦労”などと言わずに最後まで貫き”不安”の根源はどこにあるのかまでを含めて指摘して、且つそれを”診療”するような言動をしていって欲しいもの。失っても構わないくらいの「コメンテーターとしての小さなポジション」から世を迷わせる言動をしてそれが間違ったら「取り越し苦労でした」ってんじゃあ世の中浮かばれませんぜ。まあ選挙結果を派手に読み間違えても平気の平左な選挙専門の学者も世にはいるからなあ、香山さんの悩みなんて可愛いものかもなあ。

 曇り空に湘南まで女子サッカーを見に行くのを断念して近所にできたエロショップに入荷していた三浦冬さんの「花喰幻燈機」(ワニマガジン、905円)を買って家にこもって読む。いわゆるロリ系のエロ漫画ではあるんだけれども前作前々作の「おつきさまのかえりみち」「とわにみるゆめ」と同様にロボットの少女と患者との一瞬に重なり合った関係とか、幼心に愛しい人を思う感情の発露とかを丁寧きわまりない描線でもって描いた切々として心に染みる作品に仕上がっていて、いわゆる性描写を厭わなければ読んでいろいろと感じるところも多いはず。早く一般の世界にも認めてもらいたい漫画家の最右翼。和風の庭に少女が黒猫とたたずむノスタルジックな表紙が目印。けどでもやっぱりエロでは世界がなかなか認めてくれないんだよなあ。

 さらに買ったグレッグ・イーガンの「ディアスポラ」(山岸誠訳、早川文庫JA、900円)を読んだら気絶。目覚めたらテレビで朝青龍が琴欧州をかわしていなして6連覇を達成してた。モンゴル人とブルガリア人の頂上決戦。どこの国の国技だよ。でもまあ国技以前に神事であって神様の前ですべての人間は平等。努力し頑張った人たちがたまたまモンゴル人とブルガリア人だったってことでチャンスは日本人にもあるってことで来場所こそは誰か生きの良い日本人力士が台頭しては千秋楽に賜杯を受け取ってくれるだろーことを願おう。

 とかいってると十両では期待のエストニア出身力士の把留都凱人が12勝3敗と勝ち越して来場所は番付を上げ正月の初場所には幕内に敗って来そう。そこでも勝ち抜けばいずれ遠からず琴欧州に並び黒海にも混じって欧州出身の力士として初の優勝を狙って来るだろーし、負けじとモンゴル出身の力士たちも頑張りそして日本出身の力士も奮起し巻き返しを狙ってくるはず。そこに遠からずアフリカ出身の力士も入ってパワーと柔軟性が共に要求される相撲に最適ともいえる肉体で、勝ち抜き優勝争いに加わってくるだろー。そんな時代の相撲が果たしてどれほどに面白くって楽しいかを想像しては、人気ばかりが先行した若貴時代とはまた違った実力本位の相撲ブームの到来を待ち望もう。その次は遠くポロロッカ人も参加しての銀河場所だ。ちなみに「ディアスポラ」はまだ30ページ。


【9月24日】 なるほど確かに少女には殺人者は向かないなあ。ってかすべてのあらゆる”職業”って奴をこなすには少女は少女過ぎるってことを強く知った桜庭一樹さん「少女には向かない職業」(東京創元社、1400円)は主人公の大西葵という名の少女がまずは義理の父親をどうにか何とかしたいと思っていたところに現れた宮乃下静香という名の少女。冷徹冷静な静香に示唆されるように葵は義父を貶めそれから今度は静香の冷徹な言葉に誘われるがままに静香を狙う人物を貶めようとする。

 狙うのは半ば完全犯罪っぽいものでそれを身の回りにある品々でやってのけようってことになるけど、後で調べられればいずれやがては露見するアイディアばかり。すりこぎを踏めば片づけたってそこに痕が残るし菜種油も気化したって成分の残留は避けられない。血痕の一滴までも検出できる現代警察の力を侮り過ぎたよーな完全犯罪の手法を並べて、それが成功するんだと信じる、信じ込む葵と静香の少女たちの幼さが彼女たちの視点で描かれることによってかえってくっきり浮かび上がって、そうせざるを得ない切実な事情とも相まって痛みに囲まれた世代の辛さを漂わせる。

 乱暴者の義父と葵とのエピソードが現実にもあり得る話だったりする一方で、網元の孫娘である静香と後見人の青年との関係をめぐるエピソードはどちらかといえばフィクションとしてありがちで、それが地続きで続く展開はあるいは創元のミステリー叢書「ミステリ・フロンティア」に即した内容に填めようとしたのかもしれないけれど事情は不明。個人的にはライトノベルという購入世代に限定はあってもジャンル的には自在さがある場で発表された「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」の方に、少女世代の問題、実社会の問題と地続きの圧倒的なドラマがあって読む側の胸に迫るよーな気がする。とはいえ叢書という場が読み手を選ぶことのあるのが読書界。壁を超えて挑んだ場に合わせつつ自分を出そうと試行した作品として語られそー。さあこれからだ。

とんがりあたまににこにこえがおビリケンさまはふくのかみ? 起き出してちらっと「ふたご姫」を見て走る描写が漫画みたいに渦を巻かせる方式だったことに笑ってから渋谷へと出て「大・大阪博」を東急本店で見物。500円払って見るものといえば「ビリケンさん」くらいであとは大阪万博に関連したチケットとか模型とかペナントとか各パビリオンの制服くらいだけど大阪に行かなくては見られない「ビリケンさん」を間近で見られて触れることだってできる機会なんてこの先一生ないだろーから惜しくない。あと桂春団治の落語がレコードで再生されているのを聞けることか。坂田三吉の駒を打つ音とかあったら聞きたかったかも。たこ焼きを焼く音はどこでも一緒だから良いや。

 間近に見ると木彫りの跡が残ってて触れるとざらざらとしていた「ビリケンさん」。石じゃないからあんまり触られるとすり減るはずなのにそんなに黒々ともつるつるともなっていない所を見るともしかして触れてはいけないものだったのか。会場を出たところにある売店は大阪関連の商品がメインなんだけどやっぱり今が旬ってことで阪神タイガース関連の商品もいっぱい。法被をはじめとした応援グッズのほかに阪神タイガース公認の背広ってのもあって表地の普通さからひっくり返せば裏地が阪神のマークや阪神のフラッグが張り付けられて表地よりは裏地を見せて歩きたい気分にさせられるけどやると恥ずかしいからやらない。白地に金色の極太ストライプが走った背広もあったけどこれも売り物? 着れば歌舞伎町だって路地の真ん中を闊歩できます。

 会場を出る途中に2階の紳士服売り場で「波達」ってブランドのショップがあってそこにも阪神グッズを発見。元は和風に染めたTシャツとかスウェットとかシャツを売ってる工房みたいなんだけどそんな中に例の虎のマークを大きく抜いたり胸に小さく入れて背中にでっかく「虎達」と入れたりしたロングスリーブのシャツがあってベタさとシンプルさが微妙に重なり1・2割増しくらいに関西マインドな主張が出ている感じが気に入って買ってしまう。黒字で胸に虎のマークが白で抜かれたおとなしめの奴で方に「TH」を組み合わせた例のマークが小さく抜かれているのがなかなかのアクセント。袖にも「HANSHIN」のアルファベットが抜かれているのもいい感じ。だけどでも着られるのは今年だけかなあ、それとも永遠にタイガースの時代が来るのかなあ。

 恵比寿へと回って東浩紀さんを挟んで若いSFのファンの人が「SFマガジン」が命名した「リアル・フィクション」って言葉にさまざまな反応を示す会合を見学。「リアル・フィクションは見事な解決を見せてくれましたなあ」「どんでん返しですね」「どんでん返さんよリアル・リクションは、なあ」「どんでん返さんでしょう、リアル・フィクションは」。なんて会話はなかったけれど人それぞれに好きなものがあって、それに共感できない人があれやこれやと言葉を紡ぎに参上し、共感しているか違和感を抱かなかったか、関心すら抱かなかった人たちは到来していなかった模様で、雰囲気としては、「リアル・フィクション」という言葉への懐疑と、それからその中心としてもてはやされる西島大介さんへの違和感が示される会合になっていた感じ。けど一方で「ディエンビエンフー」のサインをもらいに100人以上がジュンク堂へと現れる現実もある訳で、特定の集合において否定されることがすなわち全否定となるのではない、ってことはつまりだから「僕のリアル貴方のリアル」なんだよな。好き語り結構。けれどもそれは普遍ではない。


【9月23日】 宗谷へと向け走り去った竹本を見送り眠り起きてから霜島ケイさんの新刊を濫読。メディアファクトリーには初お目見えになる「空と月の王」(MF文庫J、580円)は幽霊を鎮められる力を持った「鎮魂屋」って職業の少年トキが仕事に赴いた先で出会ったマユとゆー名の少女が世にはばかるところの召還師。過去からあらゆるものを引き寄せる力を持っていて、それがために神に逆らう行為と危険視されて追われる身なのにどこか天然ボケっぽいところを見せては世間を動き回り事件を解決して歩く。

 トキが行った先でもマユは霊害によって起こった事件を結果的に解決することになるんだけれど、その時に力になったのが彼女の連れで一言も口をきかない男のヒューゴ。この時代には禁忌の武器と言われている銃の扱いに長けていて、マユが過去から召還した銃を手にしては群がる化け物をいとも軽々と討ち果たし彼女を狙う賞金稼ぎも返り討ちにしてみせる。そんな感じに出会った一行お腐れ縁的珍道中になるかと思いきやさにあらず。マユの背負った宿命が彼女を危地へと陥れる。

 ただのバイプレーヤーでしかなかったトキの活躍は果たしてそこから始まるのか。それともやっぱり傍観者としてマユ流転の運命を見つめ続けるのか。1巻ではほのかに示唆された魔物とか何とかいった謎が明らかになり、マユの力の意味もきっと明かされていって世界全体に及ぶ壮大な物語がそこに紡ぎ上げられることになるのかな。なってくれてもそうでなくって悲しい宿命を負ったマユを助けてトキが頑張る話でもとりあえずはオッケー。とりあえずは17歳にして未だ洗濯板がお似合いと言われる賞金稼ぎの少女キィラのスレンダーと呼ぶことすらはばかられる姿態を拝ませ続けてください。これはこれでなかなかに良いものなので。

 立ち上がり家を出て向かうはまずは秋葉原。人ででごった返す「ヨドバシカメラ」方面には寄らず駅前の「ゲーマーズ」を物色しレジが並んでいたんで「石丸電器」のソフトタワーで「lain」のDVDボックスと「ハチミツとクローバー」の2巻と「ファンタジックチルドレン」の最終巻を仕入れる。「lain」はもちろん初回の放映時に出たDVDを持っているけど部屋のどこにいったか不明。後に出たボックスを買い逃していたら中古で犯罪的な値段になっていて逡巡していたところに格安で出てくれたんでこれは僥倖と飛びついた。この値段なら海外版の熊缶入りボックスってのを買っておけば良かったかもしれないなあ。前のボックスがどこまで下がるかに興味。

 池袋へと回って桜庭一樹さんの「少女には向かない職業」(東京創元社、1400円)の出版記念サイン会で順番を待つ間に山之口洋さんの「完全演技者 トータル・パフォーマー」(角川書店、1500円)を一気に読み終える。つまりは1980年代初頭にロック・オペラをひっさげニューヨークあたりで評判を取ったアーティストのクラウス・ノミがモデルになった小説で、白面にした顔を奇妙な衣装でもってステージに立っては高音域のど派手な声とクラシックからオペラから含めた音楽でもってショッキングな話題を振りきながらもさあこれからって時期に当時は未だ謎の病気とされたAIDSによって死去するとゆー、これまたらしいといえばらしい生涯を送ったクラウス・ノミの生き様が、クラウス・ネモって名前を変えながらも同様のパフォーマンスをする男に準えられて蘇る。

 日本でロックバンドを組んでいながらもパンク好きなリーダーの方針に従えず止めた井野修。バイト先の洋楽レコード屋で聞いたクラウス・ネモの音楽に惹かれ渡米してライブを聴いてこれまたハマってしまい、なおかつ何故か彼らに誘われグループに迎え入れられてしまう。けれどもそこは徹底したパフォーマンスでもって世間を欺くどころか自らもその境地へと至らしめることを旨としていたクラウス・ネモ。イーノを鍛え上げてはクラウス・ネモの変わりがつとまる、というよりクラウス・ネモそのものになれるくらいにしてしまう。しかし好事魔多し。というよりそもそもネモに魔が予見されていたからこそのイーノにとっての好事だった様子で、デビッド・ボウイのプロデュースも得て順風満帆に見えたノミに襲いかかった運命が、イーノを巻き込み不安と恐怖と怒りと悲しみの渦中へと叩き込む。

 出自も謎なら経歴も不明のネモはステージでも路上でも完全なまでの演技者たらんとし、支えるメンバーのBもエンジニアのキャリアをなげうちネモのためにサウンドを作り紅一点と目されるジェニファーもその超絶的にグラマラスなボディの裏側に激しい憤りを秘め悩める心境を抱き求める恋情を高ぶらせてている。そしてイーノ。冴えないパンクシンガーの過去を棄てネモたちの仲間となって開けた未来に襲いかかった恐怖を、迷いながらも噛みしめひとつの未来を選び取る。それは常識の範囲を超えて非道の未来かもしれないけれど、一度得た快楽の頂点に立ち続ける困難さを知っての振る舞いだと思えばその勇気を、その意志を讃えたい気持ちも一方に浮かぶ。たった1度の人生をどう選ぶのか。その意義って奴を感じさせてくれる物語かもしれない。

 しかしクラウス・ネモ、いやクラウス・ノミ。1980年頃から「POPEYE」を読み始めた中で冒頭のコラム「POP−EYE」だかあるいはニューヨークのカルチャーを紹介したコーナーだかでクラウス・ノミってアーティストが掲載されていた記憶があってその容貌の奇異さに強い印象を受けた。でもって同じ「POPEYE」で「ゲイだけがかかる奇病」といった感じで紹介された病気があって、「AIDS」と当時は名付けられたその病気にクラウス・ノミが罹りなくなったって話をやっぱり「POPEYE」で読だ記憶あったりする。

 それが模造記憶でないって保証はないけれど、事実だとしたら「POPEYE」って雑誌は情報においても流行においても当時は最先端を行っていたんだってことが伺える。内外の文化からファッションからスポーツから音楽からアートからゴッタ煮的に紹介されていて今をときめく有名人たちもコラムを書いていた70年代末から80年代初頭の「POPEYE」は確実に今の僕の興味とか関心とか知識とかってものの土台になり血肉になっていたりする。今そんな気分にさせてくっる雑誌ってのはどれなんだろう。一時の「WIRED日本版」にコラムと情報の先端っぷりを感じて小躍りしたけど今の「サイゾー」はゴシップが前に出て流行を作り出す機能とは別物だからやっぱり違うか。あるいはジャンルが細分化されてしまいジャンルごとに雑誌が出るよーになった時代にもはや当時の「POPEYE」のよーな雑誌は生き残れないのかもしれない。読み返したいなああの頃の「POPEYE」。戻れるならそれも。

 1時間ばかりを並んで桜庭さんにサインを頂きサンボマスターについてコメントを頂きスキマスイッチの良さを力説するには至らなかったもののいずれまたそれはそれで。幸いにして編集者関係に同好の士は多そうだし。その桜庭さんが登場して桜坂洋さんとみなが貴和さんと対談している「小説新潮」の2005年10月号を購入。酒見賢一さんの連載が終わってた、っていつの話だよそれ。巻末の投書欄を盛ると50歳とか70歳とかいった高齢な方々の投書しか掲載されない小説誌に踊る「ライトノベル」とゆー言葉、「萌え」とゆー言葉が果たしてメインとしている読者のどれくらいに伝わるのかは興味深いところではあるけれど、いつものよーな楽しげな口調を押さえて真正面から順当に、ライトノベルとゆーカテゴリーがあってそこには多々興味深い小説があるんだってことを司会の大森望さんが伝えているから60歳くらいの人でも読んできっと訳の分からなさはあんまり感じないで済むんじゃないかな、済まないかな。

 その対談の中で”打倒! 伊坂幸太郎!を焚きつけられてた桜坂洋さんは短編「10月はSPAMで満ちている」を寄稿。ヒロインの名は坂崎嘉穂! そうあの「よくわかる現代魔法シリーズ」で独特の口調と価値観を披露しては全国の無表情美少女マニアを喜ばせてくれた坂崎嘉穂が20歳過ぎまで成長した姿を拾うしてくれているけど「小説新潮」なんでイラストが漫画絵じゃないんで嘉穂たんのせーちょーした麗しさは絵からは伝わってこないんで、読んだ人がそれぞれに描写から今の嘉穂たんの姿を自在に想像するよーに。想像……うん良い。

 そんな嘉穂たんが働く小さい事務所に派遣されて来た青年が、アルバイト的にSPAMメールの文面を考える仕事を与えられて頑張るって導入があって、その彼がコンビニで見かける魚肉ソーセージの買い主と行く先が問題になるミステリー的な展開があって、そこにアルバイトで作成したSPAMメールのできを峻別するプログラムの話が挟まって、これらが融合し関連しあってひとつの結論が導き出されるとゆー無駄がなくすべてが関連し会う短編の鏡、ミステリーの理想めいた話になっている。オチも最高。そーかなるほどSPAMはそうか。これを手始めに近隣で起こるちょっと不思議な出来事を、淡々と解決していく短編連作に発展していけば面白いんだけど果たしてそこまでの余裕が「小説新潮」にも、桜坂さんにもあるのかな。あればちょっと嬉しいんだけど。次は「12月にモカ・ジャバの香り漂う」とかそんな感じ?


【9月22日】 大昔はマジック・ジョンソンにラリー・バードで昔がマイケル・ジョーダンとチャールズ・バークリーとジョン・ストックトンとカール・マローンでちょい昔がシャキール・オニールにペニー・ハーダウェイだったとしたら今のNBAを背負って立つ選手ってのが誰なんだろうと聞かれて、たぶん誰もが真っ先に思い浮かべる選手がアレンン・アイバーソン選手ではなかろーか。フィラデルフィア・セブンティシクサーズに所属して4度の得点王に輝いく実績を持って”ポスト・ジョーダン”の名を恣(ほしいまま)にするスーパースター。並ぶならコービー・ブライアントかジェイソン・キッドといったところだろーけど彼らと比べても実績で1頭抜けている感じがする。NBAファイナルの勝利って冠が例え欠けていても。

 そんなアレン・アイバーソン選手が契約するリーボックの主催で中高生を相手にバスケの腕前を伝授するイベントのために突如の来日を果たすってんで、神谷町にある「ラフォーレミュージアム六本木」へとかけつけ待つこと数十分。アイバーソンがリーボックと契約して何年だとか来日したのは何年ぶりだとかいった、アイバーソン選手のファンなら誰でも知っているヌルいクイズでお茶を濁して登場までの時間を持たせよーとしていたけれど、中にアイバーソン選手がオールスターに初出場したのは何年って質問があってこれがファンにも難題だったよーで、外れたら抜ける方式のクイズで一気に減ってしまったのには驚いた。ってかデビューして以来ずっと大活躍して得点王にも輝いていたアイバーソン選手が、2000年代に入るまでオールスターに出ていなかったってことが意外。あれできっといろいろある世界なんだろーと改めて理解する。

 そんなこんなで待つこと40分とか50分、いよいよ現れるかと思われたアイバーソン選手だたけどここでも何度か登場シーンを繰り返す場面があって扉の向こう側まで来ているのになかなか中へと入って来てくれない。何を気取っているのか? っていぶかる気持ちもそこでは浮かんで反発心も芽生えたけれど実際に入ってきてからのアイバーソン選手の実にシャイで下を向きインタビュアーの方をやっと向いて話す仕草を観るになるほど、これでなかなかハニカミ屋で繊細な人なのかもって印象を振りまく。試合は試合だと集中するからこそのあの激しいパフォーマンスも生まれるんだけど、イベントではそこまで衆中心を高めることが難しく、だから何度も入場を後込みしたのかもしれない。可愛い人。ファンになりそう。それなりにファンだけど。

 クリニックを受ける中高生が試合を始めるとその動きを呆れた顔ではなくって笑顔で見守って時に拍手を贈る仕草もあったりとなかなの”良い人”っぷり。なおかつ途中で促されると最初は予定されていなかったのに中高生を相手に3対3とか4対4とかをやってくれたりと、根っからのバスケ好きってところを伺わせてくれる。しかしそこはアイバーソン選手、ドリブルからパスからチェックからクラッチから見せるテクニックにスピードはさすがNBA級って感じで公称183センチとは良いながらも実質は170センチ台かもしえれない身長で、高い背を持つ高校生の男子をものともしないで挑み抜き去りシュートやパスをしてみせる。実力の半分も出していないのにこの凄さ。本場の本当の戦いって奴の凄さがこんなところから伺える。一昨年だったかに埼玉アリーナでNBAのオープニングゲームを見たけれど、またぞろ本場の戦いを見たくなった。来てくれないかなあ、今度はロサンゼルス・クリッパーズでもシアトル・スーパーソニックスでもなくフィラデルフィア・セブンティシクサーズが。

 そのロサンゼルス・クリッパーズに去年日本人選手としては初めてNBAプレーヤーとなってデビューも果たした田臥勇太選手の入団が確定。もちろんレギュラーポジション獲得なり開幕ロースター入りなりが決まった訳ではなくってあくまで契約を果たしただけってことだけど、それでも他に日本人でここまでこぎ着けた人はいない訳でいかに田臥選手が日本人バスケプレーヤーで突出した存在かってことを伺わせる。フェニックス・サンズでは数試合を経て解雇に憂き目にあったけど、今度もその可能性は高いといはいえ去年よりは競争も緩くなりそーでそこに何とか忍び込んでは日本人だってここまでやれるんだって所を満天下に示してやって欲しいもの。期待しているよその時を。来ればだけど。

 アニメの偉い人たちが歓談するイベントがあるってんで新宿も奥地の職安通り沿いにある「ネイキッドロフト」へと赴いたら会場に見知った顔がちらりらり。けど当方が数年前より容貌をガラリと変えているのであまり気づかれずに終わりの50分くらいをひっそりと見物して楽しむ。おそらくは想像するに80年代のアニメ雑誌界をリードした「アニメック」の小牧編集長をメインにあれやこれやを聞くって内容だったんだろーけれど、当時に中学生から高校生を経て大学生へと至る中でリアルタイムに読んでいた人間は共感を覚えつつ聴けた内容が、まだ20歳代の人にとっては「プロジェクトX」的な秘話として響いているんだと思うとなかなかに面白い。でもって同時に自分も歳を取ったもんだとしんみり。

 ほんのちょっぴりしか聴けなかったけど、アニメの設定資料を本に掲載する時に縮小して線が細くなって消えてしまう心配を回避するために、斜めに焼いて影で線を太くしてから縮小することで足とかの細い線が消えずに見えるよーにしたって話は面白いし本を作る上で参考にもなる。今のデジタルでやりとりする時代もそのままスキャンして縮小するじゃなくって、いろいろとテクニックを使いちゃんと線が出るよーにするらしー。なるほどねえ。それにしてもテーブルに積み上げられた「アニメック」の数々の身に浮かぶ懐かしさ。「ガンダム」について最も詳しい情報が載っていると聞いて探しバックナンバーも取り寄せよーとして果たせなかったりした記憶が今に蘇る。

 そんなひとケタ台の号から終巻間際の数も少なくなって来た時代の号までを含めて保存していて、それを惜しげもなく引っ張り出して来ては開陳してみせたのは小川びいさん? さすがはアニメ言葉界の明日を背負って立つ人だけあってすべてを美麗に、表紙もはがさずおそらくは「ガンダム大辞典」の巻末のカードも切り取らずに並べていたに違いない。僕も買ったけど速攻切り抜いて重ねて持って歩いて楽しんでいたからなあ。そーゆーただのファンみたいなことをしていたから今のただのアニメファンでしかない自分がいるんだろーなー。それも自分だ仕方がない。これからもファン目線で楽しみ「エウレカセブン」に文句も言いいながらアニメを頑張って見ていこう。って訳で「エウレカセブン」への文句を叫ばず「ハチミツとクローバー」を生で見るために帰宅。竹本の走りはまだ続く。


【9月21日】 時間のすべてを炬燵から出ないで過ごすヒロインなんてかつてなかった「かみちゅ!」はお正月も4日目に入って炬燵でぐだぐだとしているゆりえの1日。這い出しては猫の顔を引っ張り新聞紙を丸めてテレビのスイッチを引っ張り蜜柑を転がし年賀状を読み猫にご飯を運ばせ食べては片づけさせ新聞を読んでは番組表をチェックする、日本人に平均的な冬休みの1日って奴を実に見事に描き出していた。伸びたパジャマの上と下との隙間に見えた背中の下にチラリとのぞく下着まで含めて完璧なまでの観察力。きっとスタッフ一同でスタジオに和室を作り炬燵を引き込み1日をそこで過ごして昔を思い出す努力をしたに違いない。

 ってゆーかこれっていったいいつの時代の話なんだろー。テレビがリモコンじゃなくってガチャガチャと回すチャンネルになっていたし缶ジュースは1本100円だったし5000円冊は新渡戸稲造でもなければ樋口一葉出もなく聖徳太子で1000円冊は伊藤博文。博文が漱石に変わったのは1984年11月だから昭和で言えば59年。テレビのリモコンが一般化したのって昭和55年よりたぶん後。電話のプッシュホンが登場したのは昭和44年でそれが一般にも普及したのは昭和50年より後だから(我が家は平成まで黒電話だった、かな?)「かみちゅ!」の世界は昭和60年あたりまでをお尻に、5年くらい遡れるくらいの時代ってことになるんだろー。

 だからなるほど「かみちゅ!」には携帯電話もパソコンも出てこないはずだ。けどテレビとか電話の描写を敢えて見せない間は普通に現代の田舎の中学校って思って思えなくないのは物語の中に時代を感じさせるよーな設定(「金八」的な説教とかアイドルなりヒーローといった時代を象徴する存在の物まねとか)を持ち込まず純粋に中学生たちが日常を過ごしている情景を描いているからなんだろー。生徒会長の選挙なんて今だってそれほど変わりらないはずだろーし。それにしても楽しげな寝正月。家に滅多に帰らない今となっては炬燵で寝正月なんで夢もまた夢だなあ。広い部屋に炬燵を持ち込み寝正月をやりたいなあ。儲け話はないかなあ。

 「プラモデル・ラジコンショー」へと行ってうろうろ。バンダイとその周辺では「webレーサー 爆シード」がにぎわっていてサポートする会社も増えているよーで見栄えだけならレーシングホビーの座をタミヤの「ミニ四駆」からも「ダンガンレーサー」からも奪った感じだけど実際の子供の現場でどんな感じになっているかは未だ不明。日曜日に「爆シード」のシールを貼った工具箱を持って電車に乗ってる子供をまだ見ないし。そのバンダイではガンダムのプラモデルの「MG」がバージョン2になって登場。「PG」ことパーフェクトグレードで採用されたさまざまな稼働の技術が小さい「MG」にも取り入れられている模様で置いてあった足なんかもかっちりとしてしっかりと動く。突くって飾っていても固くしっかりといつまでも屹立していてくれそー。とりあえずは「Zガンダム」辛みで「マーク2」が出るのかな。期待大。

 んでプラモデルでは「新世紀エヴァンゲリオン」が再発売となる模様。「LMHG」のシリーズから果ては「PG」までもが再発されては店頭に並ぶんだけど今この時期に映像として「エヴァ」がにぎわっている風もないにも関わらず、再発となるのは何だろー、やっぱりパチンコパチスロの業界で「エヴァ」が賑わっているからか、それともこの10月で放映開始10周年とゆー記念すべき時期を迎えるからか。とはいえあんまり10周年って盛り上がっている感じもないよなあ、DVDボックスとか出しちゃって盛り上がるネタもないからなあ。それとも知らない間に10周年記念企画とか進んでいるのかな、ハリウッドでの実写映画化とか(それ別に記念企画じゃない)。

机においておけば嫌な人が近寄ってきても討ってくれます嘘です  ほかでは大和関係がいろいろ。「男たちのYAMATO」絡みってことなのか。けど宇宙に行っていまう「ヤマト」までもが盛り上がっている風はなし。節操って奴かそれとも複雑に入り組んだ経済的関係の結果って奴か。しかし5年くらい前だったら同じショーでももーちょっと賑わっていたって記憶があるんだけど今回は会場もそれほど広くなく、出展しているメーカーも目立った展示はあまりなし。戦艦とか戦車といったプラ模型の王様だったジャンルも沈滞している感じで戦艦は数社、戦車も数社って感じでこれぞって商品がオーラを発しながらアピールしている感じがしない。

 東京マルイのラジコン戦車も砲塔に金属パーツの使われたティーガー戦車とかあって着々とラインアップは増やしているんだけど、対抗してタミヤがラジコン戦車のデモを見せてた数年前ほどの熱気ってのはなくなっている感じ。みんな大きな模型よりも食玩のミニチュアを愛でてひっそり楽しんでいるのかなあ。そんな中にあって唯一主張していた模型が「日本陸軍28cm榴弾砲」って模型。16900円とは高いけど精密に再現されている上に乃木希典大将のフィギュアまで付いているんで一家の大黒柱として買って床の間に飾れば連戦連勝は間違いなし、サラリーマンも買って机の上に置いておけば社内の敵を倒して出世も進むはず。どーですか1個。それにしても高いなあ。

 琴ヨーロッパが全勝で優勝すら伺う大相撲を見ていて気が付いた把瑠都凱斗って力士の存在。序の口で優勝し序二段で優勝して幕下も抜け十両と関取まで出世してまだ20歳とゆーから相当の有望株。その十両でも勝ち越して来場所は番付を上げ幕内を伺って来そーだけどそんな強さと同時に気になったのはやっぱりその四股名。読んで「ばると・かいと」は本名のカイド・ホーヴェルソンと出身地のエストニアが面するバルト海から取ったものだろーけどリトアニアにラトビアと3国あるバルト海沿岸の国から最初に来たからっていきなり「把瑠都」なんて名乗ってしまうところに相当の大物っぷりが伺える。

 これだとこの後に続くエストニアとラトビアの力士はいったい何って名乗れば良いのか迷いそー。リトアニアなら「千畝」?ラトビアはまるで思いつかないなあ。あと同じ欧州から今後来る力士の四股名にも注目したい気が満々。セルビア・モンテネグロ出身で「刃婁漢盤斗」とか、ノルウェイ出身で「洲漢児那火亜藩都」とか。出たら楽しいけどまるで読めません。ともあれ把瑠都は要注意。顔も琴欧州よりさらに欧州人っぽさがいっぱいでこの2人が土俵で対決する光景はきっときらびやかなものとなるだろー。「琴欧州対把瑠都」。いったいどこの国の国技なんだか。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る