縮刷版2005年9月中旬号


【9月20日】 出た中では位として最も上の「第17回ファンタジア大賞 準入選」を獲得した淡路穂希さん「紅牙のルビーウルフ」(富士見ファンタジア文庫、580円)は、城で起こった家臣の反乱によって王様お后様を殺され自らも命の危険にあったところを忠義者の家臣によって救われた赤ん坊の姫君が、盗賊に育てられ狼といっしょに育って腕白な女の子に育ったところで城を支配する反乱を起こした家臣に見つかり連れ戻されるという話。聞けば過去に類例もあってとりたてて設定に新味はないし、展開もとらわれの身から逃げ出したお姫様の狼娘が美貌の魔法使いの助けを得、隣国の理解も得て城へと攻め返しては奪還に成功するという、これまた王道中の王道ストーリーでさすがは変化球よりは王道を尊ぶ風潮のある「富士見ファンタジア文庫」らしー選考と言えそー。

 それでも狼に育てられた姫君のルビーウルフの性格がこざっぱりして明晰で時には残酷なまでに冷酷。城の兵士に盗賊の仲間を殺された時にいっしょにいた狼たちに無駄死にはしないで逃げろと諭し捕らえられても、無駄に暴れることなく虎視眈々と抜け出すチャンスをうかがう冷静さを常に持ち、逃げ出せば鳥をさばいて火にかけ食べる生活力の高さも見せ生き抜いては、自分が姫であることから逃げず民のためにと戦い勝利するしたたかさと人情味を併せ持つ。

 そんなルビーウルフを助ける隣国のお姫様もこれまた合理性のカタマリみたいな造形。世界は女性2人とさらに1人の女魔法使いに支えられ、導かれるのだなって思わせられつつも熱血なだけの野郎に引っ張られた挙げ句にとりあえずの安寧だけを得るよりはるかに真っ当で納得性の高い読後感を味わえる。対する男どもはろくに力もないのに享楽のために隣国を攻め取ろうなんて考える間抜けそろい。そこまで貴族も阿呆ではないだろうって疑念も浮かぶけど過去をひもとけばそんな阿呆な男どもが滅ぼした国の死屍累々。省みて女性の合理性とねばり強さと向上心が導くのだと思えばなるほど納得も得られる。すらりと読めて喝采を捧げたくなる冒険活劇。しかしやっぱり女の子は強いねえ。

 こちらも強すぎる女の子たちの物語。準入選で王道を引きつつ革新性のある作品も逃さずとらえて残し育てるのも新人賞の常って奴で「第17回ファンタジア大賞 審査委員賞」を獲得した瀬尾つかささん「琥珀の心臓」(富士見ファンタジア文庫、620円)は、異境に飛ばされた少女たちが苛烈な運命を生き抜こうと見せる激しいまでに強さが心を貫き読後にしばし呆然とさせられることだろう。世界を救いたいと願う力によってクラスがまるごと森の生い茂る異世界へと引きずり込まれ、否応なしに戦いを強いられるという設定もこれまた新味はないし、そんな引きずり込まれた中の1人が適合者ってことで巨大ロボットに載って戦う話もそれこそ「MAIZE」から「イコノクラスト」から「デュアル ぱられるんるん物語」から挙げれば数限りない。

 この「琥珀の心臓」で凄いのはそんな巨大ロボットの乗り手になった遙という少女と同級生で委員長で眼鏡っ娘の優子の造形。戦えば消耗していく遙をいたわりつつもクラスの全員で元の世界へと戻るんだという責任感をどんな状況になっても失わず、遙にその命を賭けてでもクラスの全員を守るために戦いなさいと命令する。こう聞くと単なる冷酷無比な人間って印象も持たれるけれど、優子は優子なりに葛藤し悩み遙という少女の気持ちも理解した上でひとり責任を背負い込んでみせる強さと優しさを併せ持った人間だってことが読めば分かるよーになっていて、そんな彼女を認めこれまた過酷な運命を受け入れる遙ともどもその強さに感銘を受ける。

 対する男たちの自分勝手で情動に先走ってはかえって事態を悪化させてしまう間抜けぶりたるや。その心理が理解できない訳ではないけれど、すべてを飲み込んだ上で苛烈にふるまう優子の前にはただの子供にしか見えない。そんなヒーロー性を否定する内容とある面で救いのない展開、人間の心の奥底にまで踏み込むような描写が物語としての王道を探る新人賞には合致しにくいってのもよく分かる。そんな話を審査委員賞として救い上げ、改稿の上で刊行させてみせる懐の深さにも感心。漂流記ものにありがちな他のクラスメート達の鬱憤や不満を群像劇的には描かず中の1人がつづる学級日誌に集約させてさばいた構成も見事。これで展開がすんなりまとまった。続きは不可能に近いけれど残された者たちの人間として拓いた運命が何十年後、何百年後かに結実してそこから始まる新たな物語って奴も読んでみたい気が。けどその場合だと優子さまの貞操が……。やっぱり続きは良いです。

 んでもって「第17回ファンタジア大賞 佳作」となった大楽絢太さんの「七人の武器屋 レジェンド・オブ・ビギナーズ!」(富士見ファンタジア文庫)は取り柄の1つを持った人たちが集まり武器屋経営に乗り出しては苦難を乗り越え成功させるって商売繁盛ファンタジー。狭い街で詐欺のまねごとなんかをして小銭を稼いでいた少年2人。先行きに不安を覚え何とかしたいなあ、と思っていたところに見つけた張り紙は、武器屋の経営に乗り出さないかって誘いだった。さっそくゆくとそこには総勢で7人のオーナー候補者が。1人をオーナーにするって路もあったけど、7人がそれぞれお金を出し合い共同経営に乗り出すことになって無事に契約も終わらせる。

 仕入れも終わってさあ開店、となったものの何故かお客さんが寄りつかない。理由はいろいろ。まず高い。低価格で武器を提供するチェーンもあれば高級な武器を格安でレンタルする店もあったりて中途半端に高い彼らの店なんて誰も見向きもしない。そこで一念発起、可愛い看板娘をオーナーの中から仕立て上げ、口八丁と手八丁の割引セールを始め武器づくりの神童ながらも悩める少年にニセモノの武器を作らせ売りつけどーにかこーにか店を軌道に乗せる。

 これですべてがうまくいく、と思ったところにまたまた降りかかった難題を7人は無事に解決できるのか。とまあ聞けばこれもない訳じゃない物語だけど、テンポの良い展開や、キャラクターの能力の振り分け方と発揮のタイミングの良さ、そしてビジネスって奴をある程度ふまえた店舗運営の描写等々、読んで楽しく納得性も高い内容になっているから引っかからずに最後まですんなり読めて気持ちも良い。いちおう完結しているいs、主要メンバーも1人減ってしまって7人じゃなくなってしまうけど、残るメンバーもそれぞれに才能あふれた人たちなんでその活躍ぶりを書いて書き継いでくれたら嬉しいかも。

 友人を殺された復讐だとばかりに、魔物から心の隙をつけ込まれて犯罪へと走ってしまった犯人をぶち殺そうとして諫められ、それでも収まらなかった怒りの実は根元が自分の未熟さにあったんだと分かったらふつうは怒りの度合いに比例して激しく落ち込んで、立ち直れないくらいの衝撃を受けて彷徨い流離うはずのところがあっさりと自分を切り替え眼前の敵を倒すことに邁進するとゆー、そんな切り替えの良さが天晴れな少年魔術師が主人公になった「第4回集英社スーパーダッシュ小説新人賞 佳作」受賞の影名浅海さん「影≒光 シャドウ・ライト」(集英社スーパーダッシュ文庫、670円)を読み終える。

 双子の少年少女が魔術師と退魔師にそれぞれなって敵と戦うその上に強い父親と超強い母親がいて退魔師の一族郎党がいたりるす「バイトでウィザード」好きには親和性の高い設定なんかもあったりと、フックになるポイントがたんまりとあって有り過ぎくらいにあって読んで感情の入れどころに迷ったりしてなかなかに悩ましい。父親との相克を軸にしつつ姉弟の頑張りと成長を描くとか、頑張る姉弟が父を超え母も超えて世界を脅かす敵に挑む活劇なんてことになっていたらもっとすんなり気持ちに入って来たかも。けどそれだとありがちさも増してしまうんで頑張っていろいろな要素を盛り込んだのかなあ。ドン・キホーテみたいな賑やかでたんまりなライトノベルの一例を興味ある人はご堪能あれ。


【9月19日】 不変であるからといってそれが絶対的に素晴らしいなんてことはなく、人が生まれ生きていく以上はそこに何かしらの流転があってしかるべき。時代が移り人が変われば自然と変化は生まれるもので、それすらも含めて不変であることを強制するのは傲慢以外の何物でもない。んでもって浅羽嬉子ことアニエスが望んでいるのは、母が作り先達が守った街並みをまんま残していこうってことで、なるほどあの美しい街並みと長閑な暮らしは永遠に残しておきたいものではあるけれど、娯楽もなく快適さも犠牲にして頑なに不変を貫けば、やっぱりどこかに無理が出る。

 かといってそれを大きく変えてしまうのもまた傲慢。暮らす人が望むように保たれ望むがままに変わる自然な流転が必要なんだけど「奥様は魔法少女」はそんな中庸を認めておらず、不変を貫きたい嬉子の気持ちがまずあってそんな気持ちが次の管理者のクルージェにも伝わるといいなってことにはなっても、クルージェやその周りにいる若い魔法少女たちの変わりたい、変えなきゃいけないって気持ちの根底にある自然の流れに逆らった不変さへの疑義があんまり浮かび上がって来ないところがどうにも見ていて鬱陶しい。

 暮らしていれば普通に不変を望むようにんるんだ、なんて押しつけがましい論理がまかり通るのって正直窮屈で鬱陶しい。とはいえだからといって放っておけば安きに流れ欲望に導かれて激変の一途をたどってしまうのが世の常って奴で、不自然ながらも不変であることを望む気持ちを自然に持ち得るよーな環境ってのが今の世の中では求められていて、それがこの「奥様は魔法少女」って一見いわゆる「魔法少女物」の設定を横にズラして、おばさん魔法少女の珍奇さに笑いと官能を感じてもらおうって企みを見る人に見抜かせ苦笑とともに引きつけつつ、そこから何層にも重なるメッセージを発して不変の要不要を考えてもらおうって企画につながったのかもしれないと、眠れない真夜中の天井を見ながら考えたってのは大嘘だ。本当は「ぱにぽにだっしゅ」のベッキーの耽美な服装と橘玲のチャイナ姿に高ぶって寝られなかっただけだ。

 起き出して森美術館の「杉本博司:時間の終わり」を見物に出向く。休日で人が多いけどお洒落な方々ばかりでうろんな格好をした人間が出入りするには息苦しさも募る地域。だけどしょうがないそんな場所のそれも物理的にハイソな場所にある以上は出向いてエレベーターで50階以上へと上らなくてはならないと意を決しシャワーも浴びて身を清め、秋葉原に行く格好とはやや違えた服装を選んで地下鉄で六本木駅へと降り立ちエスカレーターを上り細身の女性達が闊歩する後ろ姿を堪能しつつも追いかけずまっすぐ森美術館へと向かう。これだけでエナジーのポイントが30は減った。

 んで見た杉本博司さんは世界を切り取り印画紙の上に定着させる写真ってゆー表現技法が持つ、現実を切り取りそれを平面の中におしこめることによって見る人にその平面の向こう側にあるのは現実だと想像させる特徴を逆手にとって、現実と虚構との狭間でゆらぐ人間の感覚って奴を声高にではなく静かに搦め手から刺激する作品が多数あって、そのモチーフの選び方に感心しつつ写真って技法が持つ可能性に感嘆しつつ、人間が認識する現実の案外に薄っぺらで、けれどもだからこそ人間はさまざまな虚構をも含めて自分にとっての現実なんだと飲み込んで、日々を明るく生きていけるのかんもしれないと考える。

 まずは最新のシリーズだという歯車だとか数式を立体化したものだとかを撮った写真が何点か。フォルムの美って奴がそこに定着されていて、メイプルソープが自然の生み出したもっとも美しいフォルムであるところの花ってやつをモノクロの印画紙に写し取ってみせたのとはまた別の、合理性によって生み出されたシンプルなフォルムもまた美しく、生存競争を勝ち抜いたが故にある意味合理的な自然のフォルムと背中合わせの関係にあったりするのかもしれない。それから前に銀座の「ギャラリー小柳」でも見た海のシリーズ。暗闇に浮かぶ水平線の上に空が漂い下に海がたゆたう写真は、太古よりかわらぬ光景ならではの時空を超えた安定感を感じさせては億年の過去から億年の未来へと続く時間の狭間に見る物を引きずり込んで心を鎮める。

 それらが時空や数式を平面に取り込むシリーズだとしたら、現実と虚構を重ね合わせて平面に閉じこめたのがどっかの自然博物館にあるジオラマを撮った一連のシリーズ。イヌワシがいたりシロクマがいたり原始人がいたりする作品は見るからに自然でそれらが生きて歩き飛び喰っている場面に行ってとったかのよーだけど、すべては剥製なり模型なりが自然を模した舞台の上におかれたジオラマであって、もしも実物を見れば誰もがそれはニセモノなんだとすぐにわかる。けれども写真に撮られモノクロにされて平面に押し込められたとたんに増すリアルさってのは何だろう、二次元だから当然に立体よりも情報量は減っているし、モノクロだからカラーよりも当然情報量は少ない。

 よりニセモノに近づいてしかるべきものが、逆にホンモノへと近づくこの矛盾。それはおそらく人間が写真というもの、平面の表現というものを長く現実の代替物として認知し認識して接触して来た結果、現実より少なくなった情報量を想像によって埋め補正しホンモノだと感じる力を養って来たからなんだろー。ホルバインが描いたよーな超リアルな中世の王侯貴族をこれまたホンモノと見間違えるようなリアルな再現で知られるマダム・タッソーの蝋人形館が人形にしたものを、敢えてふたたびモノクロの写真に撮って印画紙へと定着させたシリーズに至っては、現物を絵にし人形にし写真にして色を抜いた訳でそこには幾重もの情報を減衰させるフィルターがある。

 それなのに、写真となったヘンリー八世の姿の何とホンモノらしいことか。現実を増幅させカンバスに写し取ろうとした画家の遺業を蝋人形づくりの職人が引き継ぎ3次元へと復元し、それを写真家が印画紙に写っているものはリアルなものに違いない、といった観念の支配する世界へと引きずり込むことによって、ホンモノ以上にリアルなホンモノとして見る人には写る作品がそこにできあがったのかもしれない。技術が進んでホンモノと見間違えるような三次元CGの世界をモニターの中に作り出せるゲーム機が登場して来ているけれど、ホンモノに迫ろうとすればするほどホンモノになれない限界が生まれて見る人の疑念をふくらませ気持ちを萎えさせる。むしろ簡単に描かれたマンガのような、イラストのような絵のぎくしゃくとした動きにこそホンモノらしさを感じて喜ぶ人間の多さとも、あるいは通じる現象なのかもしれない。リアルさばかりを追求して悦に入るゲーム機会社の人に、見てホンモノとはなんだ、リアルとはどういうことなんだって考えて欲しい展覧会だって言えそー。

 そんなゲーム機会社のひとつともいえるマイクロソフトで1番偉いビル・ゲイツが持てる財力を注ぎ込んでは収集したレオナルド・ダ・ヴィンチのレスター書簡って奴を展示する「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」って奴も開かれていたんで見物。独特の鏡像文字でかかれた世界と宇宙と自然と科学に関する思考がつづられたノートってことで1年に1回、それも1カ国だけでしか公開されないらしく次に日本でお目にかかれるには何十年も先になるから、ダヴィンチの字を拝んでおきたい人は行くしかない。とはいえ展示してあるノートは水流に関する話が多くって、あと読んでも外国語なんでまるで分からず珍しいものが見られる有り難みがあっても有り難いお言葉を得られるうれしさはそんなにない。それでも山頂にある化石を海底の隆起が原因と指摘したり月の光を太陽光や地球光の反射と指摘したりと科学者として聡明だった様を伺わせる文章もあるよーなんで、読めずともそれに生で対峙したい人は行って見物してみてはいかが。


【9月18日】 主人公が電車で気分を悪くしている所に話しかけて来た女子大生にくしゃみを吐きかけてしまって慌ててハンカチを差し出すとそこにいたのはのっぺらぼう。慌てて逃げ出し休んで翌日学校に行って歓談しているとそこに中学生に見える女子がやって来ては居丈高な態度で主人公に向かいよくも正体をバラしたなと難癖を付ける。何でも彼女は一種の超能力者で神様に近い存在で何にでもなれる力を持っていて、それが災いして本当の正体を自失してしまって本性がのっぺらぼうになってしまったらしくそれを、やっぱり超能力を持っていた主人公に見破られてしまったらし。

 んでもってのっぺらぼうこと神野真綾は主人公の正体までをも見破り主人公の家に居候しては高飛車なところを見せつつつきまとい、主人公に行為を寄せる同級生の少女と見かけ上は恋のバトルを繰り広げる。って展開だったらよくある設定であってあるいは珍しくもないと却下されかねない所を「第4回スーパーダッシュ小説新人賞」で大賞を受賞した岡崎裕信さん「滅びのマヤウェル」(集英社、552円)は主人公の氏素性に一ひねりがる上に、神野真綾がヒロインでもなければライバルでもない暴れん坊の悪役と化し、かつ主人公に心を寄せる少女までもがダークサイドなパワーを持った存在だったりと異能なパワーのバーゲンセール。三つ巴になって戦うことになる物語の主軸が右に左にぶれまくって筋をなかなか掴みづらい。

 ここで主人公が秘められた力を持った純真まっすぐな少年だったら話もわかりやすくって、暴れん坊な魎呼をいなし純真無垢な阿重霞を押さえつつより神我人のよーな宇宙を脅かす強大な敵へと秘められた力を爆発させて挑むって壮大希有な物語へともっていけるところなんだけど、そんな少年ではない主人公だけに読み手の感情をそこに重ねつつ腐れ縁的三角関係を楽しむことはちょっと困難。且つヒロインの設定も本能を爆発させる右のマヤウェル、欲望を暴走させる左の玉樹のともに感情を入れづらくどこに心を向けて良いのか戸惑う。

 ありがちな腐れ縁的三角関係ラブコメディには陥らせまいとした挑戦的な部分は買うし、勇ましくも可愛い主人公の正体も実は嫌いじゃないんだけどキャラクターのバランスとか、物語の主線とかいった部分をさらに整理・調整してくれた方がもっともっと楽しめる作品になったよーな気もしないでもない。せめて第1巻はマヤウェルとの邂逅に暴走そして鎮静といった部分に絞った方が読みやすかったかも。でもって最後の最後で主人公の正体を明かして驚かせつつ、次ぎはだったらアポロン神のごとき美丈夫をぶつけて反応を見る、なんて展開もあったかな。ともかくも出てしまった以上は後はぶちまけられた設定を御しつつ続く展開を考え物語を紡いでいって欲しいもの。西E田さんの豪華なイラストも光る美少女たちの活躍を是非に。

 最終日なんで一般人が次世代ゲーム機なかをどう見ているかを観察しに「東京ゲームショウ2005」へ。午前11時近くで入場列はほとんどなくスムースに入れはしたものの中はそれぞれのブースに人がわんさとたかってなかなかの賑わい。昔ほど出展ブースが多くなく通路も広く取ってあるため動きにくさはなかったけど、それでも大手を振って歩けるほどではなくってゲームが未だそれなりに大勢の感心の埒内にあるホビーだってことを痛感させられる。1200円とかって入場料を払って新作ゲームを一足早くプレーできることが果たして嬉しいの? って気持ちも一方にはあったりするけれど、今回については「プレイステーション3」の映像とか、「Xbox360」の試遊台とかって街ではまだ当分、先にならないと観られなかったり触れなかったりする出展も多々あったから、行ってみたいって思う人も多かったんだろー。

 女性の比率が増えたかは印象としてはそれほどでもなかったけれど、コナミの「極上生徒会」グッズなかを売ってるブースに女の子が並んでいたりガンホーのオンラインゲーム「ECO」のデモプレーを女の子が楽しんでいたりする場面が見かけられたってところに女性を狙って仕込んだ部分のあるコンテンツに狙いどおりのお客さんが付いて来ているって感じも見えたよーな。「極上生徒会」に女性狙いの要素なんてあったっけ、って気もしないでもないけれど、だったら男性狙いかってゆーとあのキャラクター、最初は男性の食いつきだって悪かったのに、キャラクターたちの魅力でもって強引に引っ張り込んだ所がある。楽しげな女の子たちの本音も伺える物語性に惹かれる女の子のファン、ってのもあるいはそれなりにいたりするのかも。それとも女子には「プッチャン」が頼れるダンディに見えたりするのか?

しかしなんでフリフリヒラヒラなんだろう野球場で  抜け出して「千葉マリンスタジアム」へと行って「千葉ロッテマリーンズvs西武ライオンズ」の試合を見物。本当はアンダースロー渡辺の当番する日に行きたかっくってそれが今日だと思っていたんだけど違って加藤って今季2勝しかしていない人で残念。でもあんまり観られない選手が観られるのもそれで楽しいかもと2500円払いバックネット裏の2階席に陣取り炎天下の中で試合開始を待つ。ってか2階でもバックネット裏が2500円ってどーゆーこと? 「東京ドーム」だったらおそらくはあり得ない金額だと思うんだけどそれが普通になっているところにマリーンズの球団が今季から激しく行っている観客動員アップのための努力って奴が伺える。

 高くして開けておいたって1銭にもなりゃしない、だったら下げていっぱい入れようぜ、って腹なんだろー。なおかつ今季はチームの躍進もあってこの日も満杯近い観客動員。ほかにもカトリーナの被災者に対する募金を集めよーとサインするボビー・バレンタイン監督の高いホスピタリティとか、前庭で開催されていたプリキュアかキャバクラかは不明ながらもフリヒラな衣装で司会する女の子たちとか、ずらりと居並ぶ屋台とかか試合以外でも楽しみどころの豊富なスタジアムってところに、1度のみならず2度3度を足を運びたいって気持ちにさせる要因があるんだろー。

 スポーツの生観戦に乗り出しウォッチを始めた2000年頃にマリンスタジアムへと足を運んで、その応援団のすごさに驚き感心した記憶があるけれど、当時はスタジアムの1塁側外野席だけがいっぱいたったのが今や場内が満杯になって白い声援を贈る状況。例え弱くても応援し続けたファンの努力に球団の意識もチームの実力も追いついて来たってことか。某球団は衰退していてもプロ野球は、少なくとも千葉ロッテマリーンズは衰退なんかしていない。これだけは言える。あとは他も努力すること。なんだけど大物揃えりゃ何とかなるって考えから、抜けきれない球団があるからなあ。それが悪目立ちするものだからプロ野球全体が歪んでいるかのよーに思われる。困ったものです。

 ずっと伝奇で格闘な人かと思っていたけど渡辺裕太多郎さん、圧巻のスペースオペラも書いて平気な人だったとは。朝日ソノラマから刊行の「光速のMIB」(朝日ソノラマ、533円)は神様に近い高次元の存在から預けられた宇宙船を駆って地球独自の文明発展に横やりを入れる輩を取り締まる賞金稼ぎの少年・壬生攻介が主人公。口のなかなかに厳しいサイバノイドを従え戦っていた彼の今度の相手はなかなかに強敵で、偶然にも再会した幼なじみだった少女を助手に迎え入れて立ち向かうもののおぼつかない。なおかつ背後にさらに強大な敵が現れピンチに陥る攻介たち。果たして彼らに世界は救えるのかって物語が地球と宇宙を舞台に激しく楽しく繰り広げられる。

 超科学を使用可能な立場に近いところにいながらもそれを拒絶し、10回限りの使用しか認められない立場に身を置いて戦い続ける主人公のこだわりっぷりとそんな風にしてオールマイティーな戦いへと至らせなかった筆者の設定ぶりに感心。出てくる科学的疑似科学的ガジェットの豊富さといー攻介をサポートするサイバノイドのアイのどこか「終わりのクロニクル」のSF的、あるいはラジェンドラ的なヌケた堅苦しさといー助手に採用される少女の強欲ぶりといー最初はライバルで最後は仲間として戦う奴らの格好良さ潔さといー、心地よいキャラクターたちが多くて呼んでいて爽快感に浸れるのも嬉しいところ。さらに続く強敵との戦いにどんな活躍ぶりを見せてくれるのか、って興味も津々で早く続きが読みたいけれど果たして書いてくれるかな。「日出る国の吸血鬼」も快調に刊行されたことだし期待して待とう。「疾走!千マイル急行」の下巻も出たし今月の朝日ソノラマは豊穣だ。「銀盤カレイドスコープ vol.5」も出た集英社スーパーダッシュ文庫ともども秋の夜長を読書に浸ろう。


【9月17日】 記憶が記録となってことで人は進化できた。記憶が本に記録されるようになったことで人は過去の経験をふまえ危険から逃れ叡智を受け入れて、文化を育み文明を発展させられた。時にはそんあ記録が人に危険をもたらすこともあったけど、そんな危険から人を記録が救ってくれることがある。記録は大切にしなければならない。記録は守られなければならない。そこで登場したのが司書という仕事。あらゆる記録を認知し分類し利用する能力を持った人たちによって、記録はより正しく人を導く役目を果たすようになった。

 危険な記録を悪用しようとする輩と戦うために司書は強くなる必要があった。武装司書。魔法のような異能の力を持った人々がその星では死者の記憶が記録された”本”を集め守り戦っていた。ハミュッツ=メセタはそんな司書たちの中でも最強の力を持った女性で、今はすべての”本”を管理するパントーラ図書館の館長代行、実質的なトップとして君臨 していた。うさぎのアップリケが縫いつけられたシャツを羽織り男物のズボンをはいた30絡みの女。だらしなさげで磨かれていない風貌からは想像もできない力を彼女は秘めていた。

 そんな彼女を狙う勢力あり。記憶を奪われ、胸に爆弾を埋め込まれた人たちが続々と送り込まれては司書を狙い自爆する事件が相次いで起こった。そしてコリオという名だけが与えられた少年も人間爆弾となって街へと送り込まれ、ハミュッツ=メセタを殺せとの指令だけを頭に街をさまよっていた。彼を操る勢力とは何なのか。その勢力によって繰り広げられた陰謀にハミュッツ=メセタは勝てるのか。世界が危機に瀕したとき、コリオという名の少年が偶然手にしていた”本”から過去の記憶がよみがえり、街を危機から救う。

 「第4回スーパーダッシュ小説新人賞」を獲得した山形石雄さんの「戦う司書と恋する爆弾」(集英社、571ページ)は陰鬱さの漂う雰囲気の中、操られさまよいながらも恋を見つけ目覚めようとあがく少年の物語があり、”本”に込められた過去が世界の危機に時空を超えて大きな意味を持つ設定があり、一件テキトーな感じながらも戦いの場では圧巻の力を発揮するハミュッツ=メセタを始め屹立したキャラクター描写ありと読みどころにあふれたファンタジー。前島重機さんのイラストも美麗さと爛れた感じが物語の世界に陰と光を与えて世界の想像に大きな役割を果たしてる。

 ”本”ってアイテムを通して過去から未来へと時空を超えて物語をつなげられるところといー、武装司書のバラエティーあふれる異能合戦といー書き次ぐ材料は豊富。敵勢力との戦いと、さらにはその背後で蠢く謎の勢力の動向とも相まって、大きなスケールのシリーズへと発展していく可能性があって期待が持てる。とりあえずはハミュッツ=メセタの飛鳥井全死ばりな”悪女”っぷり”凶暴”っぷりに注目。大きく開いたシャツの胸元からのぞく双房のはじけっぷりにも。しかしなぜにうさぎのアップリケ?

 虚しさとは何だ? 感じるんだったら恥ずかしさじゃないのか。「週刊朝日」の9月30日号に掲載の田原総一朗さん「ギロン堂」は、先の総選挙に関した内容なんだけど冒頭からこんな言葉が吐かれて萎えること仕切り。曰く「今回の自民党の大勝に終わった総選挙で、マスメディアの人間たちは、いずれも深いむなしさを覚えたはずである」。それは政権交代の必要性を感じ小泉自民党の拙さを覚えたメディアの人たちが新聞もテレビもそろい批判を繰り広げたにも関わらず、政権交代が実現されるどころか逆に民主党が大惨敗する結果となってしまったことに、虚脱感を覚えているって内容のコラムだったりする。

 新聞が書きたててもテレビのワイドショーが”刺客”の候補を取り上げることでそちらに注目が集まって自民党を勝たせてしまったと嘆く新聞があり、けれどもワイドショーだってさんざんっぱら嫌みをもって小泉自民党の施策を「彼らはそれぞれ精いっぱい皮肉を込めて評し、直説法ではないが、懸命に批判したつもり」であって、にも関わらず「結果としてワイドショーが”小泉劇場”を盛り上げる役割を演じて」しまい、「スタッフたちもその原因をつかめず、困惑している」んだという。だから虚しさを覚えているんだという。

 いやもう阿呆かと。莫迦かと。はっきり言って手前たちの伝え方が拙かったから批判も皮肉も伝わらなかっただけだろう? 信頼に足る情報だと視聴者から思われなかったからだろう。”政局”だなんて上っ面の勢力争いばかりを取り上げ国をどうすべきであってそれにはどの政党が、政治家が適切な施策を行おうとしているのかを背後に押しやってしまうメディアの政治報道の愚に誰もが飽きているんだっていう状況が新聞雑誌の書き立てる、感傷まみれルサンチマンまみれの記事に左右されない人たちを必然として生み出した。

 ワイドショーもしかり。皮肉や批判を込めたのにそれが伝わらなかった、表層の騒ぎだけしか視聴者は見なかったんだと言いたいんだろーけどとんでもない、視聴者はそーした揶揄とか下心も含めてテレビが作り出すアングルに飽きていて、”刺客”だマドンナだといったワイドショー的な話題に引っ張られたりなんてしない。そんな構図を作りだそうとするテレビの意図も含めて見抜き嘲笑し慨嘆しつつも本質にある、誰が何をしてくれるのかって部分を読みとり投票所へと向かい投票した。その結果が9月11日の自民圧勝民主大敗だった。

 皮肉・批判が伝わらなかったんじゃない。皮肉にも批判にもなっていなかっただけ、メディアに有権者を動かす影響力も信頼感もなかっただけのこと。それで虚しさを覚えるってのは何だ、視聴者を阿呆だとも思っているのだろうか? 思い上がりも甚だしい。情報のプロを自認するメディアって立場であるにも関わらず、情報を”支配”できなかった己が不甲斐なさを恥じるのが先ではないのか? 信頼を失い影響力を減退させてしまっていることを何よりも恥じ入るべきではないのか? でなければ同じ過ちを繰り返しては本当に必要な時に、メディアがその役割と果たせなくなる。実際そうなりかけているし。

遊べや遊べ遊ぶ彫刻は遊んでこそその意味を知る  あるいはもしかしたら多くのメディアは恥ずかしさを覚え改善に努めようと歩き始めているのかもしれない。反省に立って実直さを旨として真面目に情報を伝える努力を始めようとしているのかもしれない。そんな中にあって未だに”はずかしさ”ではなく”むなしさ”をメディアは覚えていると感じている田原さんなり、田原さんにそう感じさせてしまう取り巻きのメディアは夕日となって沈み、もはや朝日として上ることはないだろう。もっともそれより先に経済的事情で沈むメディアもありそうだけど。今時ブリトニー・スピアーズが1面トップになるビジネス紙とか。

イサム・ノグチが来るってんで見物に言った「東京都現代美術館」だったけど広い空間の地下だけを使った展示で数もそれほど多くなくってややがっかり。昔にどこかで見た時の方がまだ数があったよーな記憶もあるけど本当に見たのか定かじゃなかったりしれ比べられないのが情けない。これが老いか。四角くくりぬかれた石のゲートが巨大で迫力あって吹き抜けで3階まで届く空間に置いてなかなかな収まり具合。とはいえ作品が放つパワーにあの広い吹く抜けですら追いついていない気もしれやっぱり野口の作品は野外で青空を背に見たいものだと改めて感じ入る。前庭には2台の遊具があって遊んでいる大人が多数。上って滑り台よろしく蛇みたいな作品で遊んだり、ブロックの中に潜り上がって飛び降りたりと遊んでいたら体の節々が痛くなった。これぞ老いだ。


【9月16日】 任天堂が来年に投入を予定している次世代家庭用ゲーム機「レボリューション」の全貌が16日、明らかとなった。「ニンテンドーDS」でタッチパネルを2面スクリーンを採用して、ゲームの操作方法に革命をもたらした任天堂だけに、家庭用ゲーム機でも画期的な操作方法が取り入れられると噂されていたが、5月に米国で開催された「E3」では本体とメディア、一部ダウンロードサービスのアナウンスにとどまり、発表が待たれていた。

 そして16日、千葉市美浜区にある「幕張メッセ」でこの日から始まった「東京ゲームショウ2005」で基調講演を行った岩田聡・任天堂社長が遂に「レボリューション」のコントローラーを公表した。「誰の目にも明らかに見えて直感的に理解できる物でないといけない」。そう告げて岩田社長が見せたのは前へと伸ばした両腕。だが、いわゆるコントローラーと呼ばれるデバイスはその手にはなかった。あったのは両腕にはめられた白いバンド。そしてそのリングこそが、次世代家庭用ゲーム機「レボリューション」に冠せられたその名に応しい”革命的”なコントローラーだったのだ。

 岩田社長が右手をスクリーンに伸ばすと、画面の中にいたキャラクタが前方へと向かい歩き始めた。左に振ると左に、右に振ると右へと向かい手のひらを上に向けて指を曲げるとキャラクターは後ずさりを始めた。手のひらの動き、腕の角度や動く速度を腕のホワイトバンドがキャッチして、無線によってゲーム機へと動きを伝えキャラクターを反応させていたのだった。さらに、岩田社長が指をパチンと一回鳴らすと、キャラクターが手の中に武器を出した。もう1回鳴らすと武器が構えられ、3回目が鳴ると同時にキャラクターは武器を手に敵へと斬りかかっていった。

 別のゲームでは指を鳴らすと銃が発射され、別のゲームでは両手を合わせると様々な物が錬成された。ボールを掴んで投げること、拳を握りしめて殴りかかることも思いのまま。細いホワイトバンドが両手の動きのみならず、微妙なねじれや上がる体温、脈拍までをも読みとってゲーム画面のキャラクターの行動や心理、オブジェクトの動きを作り出していた。「娯楽商品の作り手は、良い意味で人を驚かせる仕事をしている。人を驚かせられなくなったら人々はゲームに飽きる」と岩田社長。誰もが驚いたこの「ホワイトバンドコントローラー」が果たして生み出す新しいゲーム体験とはどのようなものなのか。発売が待たれる。

 とゆーのは大嘘だけど、ある意味ではちょっぴりながら真実は語っているといって良いんじゃないんじゃない。「東京ゲームショウ2005」で公表された本当の「レボリューション」のコントローラーはテレビのリモコン型。それもちょっぴりスティックが飛び出てぐりぐりできるタイプのリモコンで、ぷれーやーはそれを両手ではなく片手で持ってテレビに向かってぐりぐりしたりポチポチしたりしてゲームの中のキャラクターを動かしたり、ゲームを進めたりできる。何だそれなら丸かったりごつごつしていたりするコントローラーが縦型になっただけって反応も出そうだけど、凄いのはこの先。何しろこのリモコン、振れば振った動きをゲームに反映させられるのだ。

 そう例えるならばそれは「Xavix」のチップが搭載された野球ゲームのバットでもあるし卓球ゲームのラケットでもあるしゴルフゲームのゴルフクラブでもある。あるいはスクウェア・エニックスが出した「剣神ドラゴンクエスト 甦りし伝説の剣」でスライムを両断した剣にもなる。リモコン型のコントローラーはそうした様々な特別なデバイスををそれ1台で再現することが可能で、エポック社やタカラやトミーやスクウェア・エニックスのそうした「Xavix」利用玩具が操作の分かりやすさと体感できる楽しさからヒットしたことを鑑みれば、そうした体感型玩具に操作性でかなり近づける「レボリューション」もまた、子供や大人のゲームをそれほどやらない層、ゲームを始めたばかりの層に受け入れられる可能性はとても高い。

 .ナムコやセガやカプコンやコナミといったメーカーが出すガンシューティングゲームのガンコントローラーにもなるし、両手に持って振り回せばドラムのスティックにだってなる。釣り竿にだって鞭にだって懐中電灯にだってなるリモコン型のコントローラーを使えば果たしてどんなゲームができるのか。それは指先だけだったゲーム画面の中で起こるさまざまな出来事、ゲームの中にあるさまざまなオブジェクトとのつながりを、手のひらから腕全体、はては体全体へと広げてより体感できるゲーム、よりはまりこめるゲームってことになるんだろー。

 筆の代わりにしてキャンバスにも世界のあらゆる場所にも絵を描くことだってできるんだ。メスの代わりにして世紀末ロンドンを徘徊してジャックよろしく切り刻むことだって可能なんだ。そんな広がる夢を想像力にかけては世界トップクラスにある日本のクリエーターたちがどう掴みどうゲームへと昇華させるのか。楽しみ。ゲームクリエーターにとっては才能を試されて大変な日々が続くかも。ただでさえ「ニンテンドーDS」で「ニンテンドッグス」やら「大合奏バンドブラザーズ」っていった任天堂発のタイトルを超えられるアイディアを出せずにいるだけに。

次世代バーチャルボーイは形も小さく手に持ってプレーできる、って言われても不思議じゃない光景  いやあるいはこの人だったらとんでもないアイディアをひっさげ「レボリューション」のリモコン型コントローラー(コントローラーが重複するなあ)を活用してみせるかもしれないコナミの小島秀夫さん。その前哨戦とばかりに「東京ゲームショウ2005」には「プレイステーションポータブル」を何と飛び出す立体映像で見られるよーにする機器をチームから送り出してきた。シャッター眼鏡を使ったあれ? ノー。だったら遠山式の重なった映像をセロファン張った眼鏡で見る? それもノー。原価で100円しない紙製のゴーグルを組み立て「PSP」にはめてレンズをのぞく。それだけで立体映像が見えてしまう。

 原理は簡単。古くからあるステレオ写真の映像版ってのが正体だ。あるいは週刊誌のグラビアにときどき付いてくる「飛び出す立体ヌード」って奴。2枚のわずかに角度を変えて取られた写真が並べられているページをじっと見つめるとあら不思議、2枚の絵が重なってきてやがてそこに立体になった女の子のヌードが現れるって企画をそのまま映像にして「PSP」で再生しただけって言えばとっても言えたりする。コナミの開発した3D映像ってのは、「PSP」の横長の画面を左右に割って映し出された角度の異なる映像を、右側の映像は右目、左側の映像は左目で見て脳内で重ね合わせることで現れる。だから本当はゴーグルなんてなくてもヌードグラビアよろしく裸眼で立体映像を楽しむことはできる。

ただ週刊誌のグラビアを見る時には、距離を前後に動かしてぴったり来る場所を探る努力が結構いるし、合ったら合ったで距離を保つのが難しい。また重ねった映像ってのはどうしても小さくなってしまって面白みが激しく減殺されてしまう。ゴーグルは画面との最適な距離を保つ役割を持っているし、左右の画面の間に間仕切りをしてのぞくだけで努力もいらずに平行法での立体視ができるよーになっている。そして取り付けられているのが透明アクリルではなくレンズってのも味噌。小さくなってしまう重なった画像を大きく拡大してのぞいても「PSP」なりの迫力を維持して目に見せてくれる。高精細で横長の「PSP」だからこその映像のステレオ化って言えそー。

 拡大されるから光の三原色がやや大きくなって目に入るけどドット絵に比べればはるかに全う。割にクッキリと見える立体映像に光源もそれほど気にならずに済む。CGだとプログラムをいじって左右でわずかづつに角度を変えた映像を出すだけだからコストもかからない。ムービーでもリアルタイムにレンダリングするゲーム画面でも対応は可能ってことは格闘ゲームだって3D空間の中で楽しめるってことになる。ゆれるバストが立体? いやもうとっても期待が持てます。「PSP」で遊べるそんなゲームがあるかどーかは知らないけれど。

 期待するのはあとやっぱり実写の3D映像で、これはあらかじめステレオ撮影しておく必要があるけれど、グラビアアイドルなんかのUMDタイトルが出る昨今、DVDへのアドバンテージとしてUMDだけの3D映像を入れてくれればDVD盤じゃないUMD盤を買おうって思えたりするかも。ライブとかビデオクリップだってUMDでわざわざ買う意味ってのを見いだしにくいだけにUMD盤には特別に撮影された3D映像が入ってますよ、それはこのゴーグルを取り付けることによって楽しめますよ、ってやればちょっとは特徴が出て特徴ありまくりの「ニンテンドーDS」に迫れるのになあ。ちなみにコナミの第1弾「立体ゲーム」は12月8日の「メタルギアアシッド2」になる予定。どんな楽しい世界を見せてくれるのか、期待大。あとどんな評判を得るかにも。

 ほかにつらつら。”実機”の「プレイステーション3」で出力している映像として初披露された「メタルギアソリッド4」は高精細って言葉が陳腐に思えるくらいに細かく作り込まれてなおかつ質感もたっぷりあって驚きの連続。ただCG映像にありがちな作り込まれたが故の情報の多さが目になかなか厳しくって、ありとあらゆる情報を理解しよーと画面に向け続けた目に多少の疲れが残るって可能性もあって悩ましい。実写だったら当たり前の背景と処理できる脳がCG映像だと間引かず手抜かずすべてを理解しようと脳CPUをフル回転させてしまうのは何なんだろー?

 ともあれそーした部分への対処も含めてハイデフ、ってのはマイクロソフトの言い分だからここは単にハイクオリティ・エンターテインメントと言っておく、次世代家庭用ゲーム機上で繰り広げられる、こちらもこちらでひとつの”革命”と言えるゲームの進化の向かう先に注目だ。ハイクオリティ化を拒否して遊びの面白さをまず全面へと出した任天堂の「レボリューション」ではあり得ない悩みかもしれないなあ。でもってゲームの”未来”を代表するのはリアルの追求がエンジョイの探求か、どっちの路線になるのかなあ。あと5年はこの業界、目が離せません。


【9月15日】 なんだかなあ民主党。岡田克也代表の後の代表を誰にするかって喧々囂々な議論が起こりそうなんだけどそんな中でぶら下がりの記者に答えた鳩山由起夫前代表が党首選みたいなのをやると立候補者がいっぱい立って後で党内にしこりを残す、なんて言ってたのを聴いてがっくし。おまえねえ、主張をしあってそれをみんなで議論して、最善のものが賛成多数を集めたらそれに従うってのが議会制民主義って奴だろう、でもってそれを護持しようとしているんだろう、だから小泉自民党を”一党独裁”だなんて非難しているんだろう、それが自分の所の代表選びでは議論も選挙もしこりを残すから談合で決めようだなんて矛盾も甚だしいったりゃありゃしない。

 小沢一郎菅直人っていった名前があがり気色悪さを放っているところに加えて田中真紀子なんて名前までもが取りざたされて一体どこに向かっているんだって感じ。今さらこれらの名前を代表に仰いだところでワイドショーを作るテレビ局ならいざしらず、見ている視聴者もワイドショーなんていない有権者も誰も喜びもうれしがりもしない。ただただ小馬鹿にして見ているだけ。それを党が分かっていないってのは問題だけど、テレビ局までもが分かっていないってところに先だっての選挙で民主党が勝つと予想し勝たないと有権者は衆愚だと誹って責任を他に押しつけて平気な体質が見て取れる。40歳50歳のレフトシフトでなおかつ事大主義でなおかつ経験を脊髄反射的に下に押しつけるおっさんたちが支配しているうちはメディアはやっぱりダメかもなあ。ともあれ民主党代表選、誰が来るかが目下の注目。候補になってるおっさんも、しゃべりが岡田代表以上に拙くって小泉首相と対峙したら一蹴されそうで心配。枝野幸夫さんはまだ出られないのかなあ。松下政経塾はもう良いよ。

 大昔に聴いていた曲をネットから見つけては「iPod nano」に移す日々。基本的にはあればCDを購入するけど探してもデビッド・シルヴィアンの「ブリリアント・トゥリーズ」はCCCD盤くらいしか店頭に残っておらずネットから購入しておよそ15年とか17年とかぶりに聞き返す。おおすごい。タイミングをズラしたドラムがズドン、ダンと鳴る上でノイジーだったりグランジだったりする(意味を分からず使ってる)メロディーが重なりそこを渋く耽美なデビッド・シルヴィアンの声が貫くサウンドは、聴いてた当時も圧倒的に格好良かったけれど今のこの時代だとなおいっそうの独特さ、そして格好良さを持って耳に響き渡る。

 「JAPAN」ってバンドが解散して幾星霜、耽美さで鳴ったデビッド・シルヴィアンの最近がどんな風貌になっているかは知らないけれど、「戦場のメリークリスマス」のテーマミュージックにデビッドが歌を乗せた名曲「禁じられた色彩」から22年経って坂本龍一がそれなりな雰囲気を保っていることから想像するに、きっと今も映画で主演していたデビッド・ボウイもかくやと思わせる雰囲気を保ち、壮年の魅力を振りまいていたりするんだろー。音楽的にどんな所に来ているかは知らないけれど、遡って「JAPAN」もそして最近の「Blemish」も聴いてみたくなって来た。まずは名盤の誉れも高い「シークレット・オブ・ザ・ビーハイヴ」からだ。CCCDじゃない奴を渋谷のHMVで見かけたんで今度買おう。UK盤だと10曲目が「Forbidden Colors(=禁じられた色彩)」で日本版とかだと「Promise」なんだけどどっちが本当?

 それが分からず買うのをパスして何故かスティーブ・ウィンウッドの「バック・イン・ザ・ハイ・ライフ」を購入。その昔に「ベストヒットUSA」を見て洋楽を勉強していた自分に流れた「ヴァレリー」って曲が大好きで、LPの「トーキング・バック・トゥ・ザ・ナイト」を買って録音してこっちに来てからも中古のLPを買って持っていたりするんだけど、CDではそのタイトルが見あたらなかったんで最大のヒット作だったと言われながらも実は聴いてなかった「バック・イン・ザ・ハイ・ライフ」にしたって寸法。ストレートでからっと青空に突き抜けるよーな音楽が奏でられるって思っているけど実際は不明。ただでもあの時代ならではの未来を伺う明るさを、感じさせてくれるんじゃなかろーか。かえって聴こう。

 ついでに2枚買えば1枚が1690円だか何だかになるってことでカーラ・ブルーニってスーパーモデルが唄ったらしーアルバム「Quelqu’un m’a dit」も買う。いやなに店頭をぶらぶらと見ていたら横たわる女性が写ったジャケットが目に入って見ると胸がシャラポワになっていたのが気になったからってのが真相なんだけど、調べると相当に巧いらしくそれなりな評判になっている。フランスでも100万枚売れたってことでこれは相当な大ヒット。とにかく声が素晴らしいって話なんで声好きな身としては早く聴いてみたいこと仕切り。日本版だとビデオクリップがCD EXTRAで付いていたのか。けど別に良いや声が良ければ顔なんて。でないと山下達郎ファンなんてやってられませんって。

 それからセルリアン東急へと回って「Xbox360」の発表会に行ったら今をときめくインデックスグループの新入社員の人がいた。ロマンポルノよろしく。さても「Xbox360」は価格が37900円税抜きと微妙に中途半端。これだったらいっそ切れもよく3万6000円にすれば覚えてもらえやすかったんだろーけれど、あと1900が下げられないくらいにきっとギチギチのコスト計算がされていたりするんだろー。とはいえ20ギガバイトのハードディスクドライブはあらかじめ搭載されているんで、すぐにベータテストが始まる「ファイナルファンタジー11」を「Xbox360」で楽しみたい人にはマシンとして最適かも。

 海外だとHDDのないバージョンも発売されるらしーんだけど、日本は最初から搭載されたバージョンのみ。理由は「FF11」の他にもハードディスクを使うオンラインゲームが日本だといっぱい出てきそうだからってことで、「プレイステーション2」が最初はHDD搭載可能だったのに途中で超薄型になって梯子を外され怒り心頭だった模様のスクウェア・エニックスも、これなら次々と新しいオンラインゲームを「Xbox360」向けに開発してくれるかも。ソニー・コンピュータエンタテインメントだと最初にPCカードスロットを付けたのに途中で消えたりHDDが搭載不能になったりしたからやっぱり怖いよね、次の「プレイステーション3」でもそんなことをするとは思えないけど、それでもやっぱり不安だもんね。マイクロソフトはそんな心理を付いて安心を訴えソフト会社を誘うんだろー。果たして成功するか。それにや何よりインストール台数を増やさなきゃ。12月10日の売れ行きとその後の推移に注目だ。


【9月14日】 すげえぞ「かみちゅ!」。いつも凄かったけど今回も作画が頑張り過ぎで見ていてここまでやってよくぞ人が死なないものだと感謝感激雨霰。だってさあ、3人が拍手しているそのタイミングが3人とも微妙に違うんだよ、実写だとそんな違いはただ撮影するだけで簡単に出せるんだけど、全部を手で描かなくっちゃいけないアニメでそれをやろーとしたらいったいどれだけの苦労が必要なのか。考えるほどにその苦労が忍ばれ涙が浮かぶ。

 拍手する手の部分だけを瞬きする目のよーな感じで差し替えて済むって話じゃない。全部の動画を全部描いてはじめてできることを平気でやってしまってる。でもってそれが別に本編のストーリーに絡んで来る訳じゃない。ただただひたすらに雰囲気をリアルに見せること。そのために頑張る努力の素晴らしさに拍手喝采が知らず心からわき起こる。お話も転校した少女が自分を開放できずに悩みその悩みを回りの疎外に移して嘆くんだけど後になって自分も至らなかったんだと気づく、人間の成長を描いたいいお話でした。弁天さんのCDも出す気かなあ。

 県紙の存在しない滋賀県で自分たちの県紙を作ろうと地元の経済人たちが頑張って作ったって話の「みんなの滋賀新聞」だったけど4月の創刊からわずか5カ月であえなく休刊の運びに。共同通信に加盟できずに中央のニュースが配信されなかったってゆーけど某ビジネス新聞だって共同未加盟で原稿は使えず写真も使用不可。そこを時事通信とかブルームバーグといった内外の通信社から買うことで補って政治とか社会とか外信とか本家の経済までも含めて紙面を作っていたりする訳で、共同への加盟拒否がそのまま休刊の大きな要因になっとはちょっと言えないかも。

 んじゃ何かってゆーとやっぱり販売面で追いつかなかったってことになるのかなあ。新聞で大事なのは紙面もそーだけど販売も同じくらい、時には紙面以上に大切なのは世界に冠たる1000万部紙で”販売の神様”と讃えられた人がかつて「白紙でも売ってみせる」と嘯いたことにも現れていて、販売網がしっかりしていないといくら作っても刷ってもそれが読者の所に届かない。県紙が存在しなかった滋賀県では東から中日新聞、西から京都新聞がせめて関ヶ原ならぬ大津の戦いを繰り広げ、そこに読売朝日といった全国紙も入り込んでは琵琶湖をのぞく陸上で覇権を争っていた。そーした戦場にあってすでにびっちりと固められた販売網に新しい新聞が割って入るなんて無理も無理。2万部を予定していた購読数が1万部にも届かなかったってのはひとつにはそーした販売力の弱さがあったんじゃなかろーか。

 あとはやっぱり紙面の問題だけどその当たりは1度たりとも実物を見たことがないんで不明。ただやっぱり地元志向を強くして地域の情報なりを載せたとしても、そーしたコミュニティ情報を求める人たちがこのご時世でどれだけいるのかって所がネックになる。ネットを見れば無料で情報がとれる時代に新聞まで買って情報をほしがる人なんていない。情報をあまねく伝える機能としての新聞はとうの昔にその役割をネットやテレビに譲ってる。だったら新聞の価値は何か、ってゆーと掲載されることによって情報に箔が付く、信頼性が加わるって部分にあって、だからこそ新聞は名目上であっても不偏不党で公平中立な存在であろーとし続ける。

 そんな新聞に掲載されることで、情報元は一種ステイタスを得られ読者はプライオリティの高い情報に接することができる、ってのが一種理想的な新聞のあり方。地元企業もだから情報を載せてもらえてステイタスを得られ易い”わたしたちの県紙”を欲したんだろーけれど、貧すれば鈍するってゆーのか売れなくなると情報を載せる代わりに購読をお願いってゆー本末転倒した状況が生まれるのがこの業界の倣いって奴。それで一時期に命脈は保っても公平性は薄れ信頼性は霞んでしまいあとはじり貧。そんな蛇がしっぽを喰うよーな状況に、あるいは「みんなの滋賀新聞」も陥っていたのかもしれない。当初予定していたページ数がだんだんと減り、記事も大作りになっていったって話がそんな苦境を裏付ける。

 とはいえどこかの新聞も、32ページ建てを標榜してCMまで打ってリニューアルしながら1年も経たずにページ数を24ページとかに減らし、部数も予定していた数になかなか乗ってこないってことで、その辺りは「みんなの滋賀新聞」なんかと置かれている状況は似たり寄ったりする模様。遂には名刺の裏に購読申込書を印刷して、渡した相手にその場で記入してもらい、持ち帰らせようとしているって話もあるとかないとかで、信頼を裏付ける証明書の代わりに切ってる名刺を、その場で取り戻すような振る舞いが相手に何と思われるのかが今ひとつ不透明だったりするし、取材に来た人が名刺を出すことによって、当人にそんな意識はなくても印象として記事を書くことで購読を求めているんじゃないかって、名刺を渡した相手に受け取られかねない可能性もあったりして、なかなかに微妙だったりするんだけど、それでも今のところ続いているってことは、これで結構新聞業界ってのも底堅い商売なのかもしれない。

 ともあれ「みんなの滋賀新聞」は、みんなに行き渡る前に敢えなく休刊っとなってしまった訳で、東京に一時期登場した「日刊アスカ」とか「レディコング」といった新聞とは一線を画した、真面目に県紙として屹立しよーと頑張っていたって印象の遠目に見えた新聞だけに、残念に思う気持ちは結構あったりする。フリーペーパーの日刊紙として登場した「トウキョウ・ヘッドライン」が、やっぱり日刊を断念して週刊へと切り替えた時も残念だったけど、一方でこの業界への新規参入のなかなか容易ではない有様を、満天下に印象づけたって言えそう。分析することによって新聞業界のどこにどんな問題があるのかが見えて来るけれど、それを同じ新聞業界がやるとは絶対に思えないからなあ。雑誌に頑張ってもらおう。でも小さい話だから無視かなあ。

 新聞も大変だけどテレビはもっと大変か。「週刊新潮」の9月22日号。林操さんの「見ずにすませるワイドショー」は結語が「いやもうTV、本格的にダメなんじゃない?」ってなっているよーにここのところ相次いだテレビの至らなさを挙げて紹介しては指弾している。冒頭が台風14号の中継で某リポーターが取った有名な振る舞い。カメラが回っているって意識している間は激しい風に立っていられないって所を見せているのに、中継が終わったとたんにすっくと立ち上がってはスタスタと画面の外に歩いてく。たまたま中継のスイッチが切り替わるタイミングがずれて、そこまで中継されてしまったから見ている人はすぐさま”演技”だと騒ぎ立てて今、ちょっとしたお祭りになっている。阿部祐二リポーター。今度もしも台風中継をするチャンスがあったなら、そよそよと吹く風雨の中をふと飛びそのままキングアラジンよろしくごろごろと転がっては、その”演技力”の素晴らしさを満天下にご披露頂きたいものです。

 ほかにBSデジタルの受信可能件数が1000万件を超えたって自画自賛気味な報道を取り上げ、受信可能ったってそれはケーブルテレビでBSデジタルの番組が見られる人たちも含めた数で別にアンテナぶったててBSデジタルを受信しては見て楽しんでいる人の数じゃない。こんな統計がまかり通るんだったらいずれ地上デジタルに関する統計が行われる時も、ネットでの配信が平行して行われていることを勘定に入れてブロードバンドに接続可能なパソコンの台数も含め数千万台とかって数字を出しては悦に入るんじゃなかろーか。

 杉並で局地的な集中豪雨が起こっても一切を報ぜず日付が変わって水が引いてからかけつけたテレビに変わって情報を刻一刻と伝えたのはそんなパソコンたち。「使えねぇ!」と林さんが憤り揶揄するのもなるほどと頷ける。幸いにしてこのコラムには先の衆議院議員選挙に関する特番の話が締め切りの関係からか入っていないんだけど、見たらたとえば古館キャスターの逆ギレぶりとか筑紫キャスターの沈鬱うりとかファイヤー福澤アナのはしゃぎっぷりとかをまとめてテレビの使えなさ、つまりは誰も求めておらず誰も望んではいないフォーマットを平気で繰り広げては悦に入るあの世界の体質を、突いて笑ってくれたんじゃなかろーか。来週の同じコラムにちょっと期待。でもすでにそーした話もネットでは古ぼけてしまっているからなあ。紙もそろそろ使えねぇ?

 いやまあマスメディアにはマスメディアなりの役割があるってことでなぜか産経新聞の9月14日号に写真入りで登場してインタビューに答えているチャーリー鈴木謙介さんが「ネットがマスメディアに取って代わるといわれてきたが、そんなことはないことが分かってきた。おそらく両者は二層構造で共存し、ネットから出たことがマスコミを飛び越えて一気に社会を変えることはない」って言っている。問題なのは「ネットであふれる情報に対して、ジャーナリズムがどやって差異化するかと」という点で、ここで「マスコミ」ではなく「ジャーナリズム」という言葉が使われている所に、情報をただ漫然と伝えるんじゃなくって意識を持って切り取り伝えることの必要性が、既存のマスメディアには求められて来ているんだってことが伺える。

 聞き手の記者はそれを果たして理解しているかは分からないけれど、質問の部分で「不安定な時代だからこそ、マスメディアは社会の信頼を支える存在であるべきでしょう」と半ば主張がこもったニュアンスで鈴木さんに振っている部分に、ある主の旧来からあるマスメディアとしての気位が見てとれてしまう。でもマスメディアはマスにリーチするメディアなだけで、そこに載せられる情報が信頼に足るものであることは当たり前であって、そんな当たり前の振る舞いをもって社会なりなんなりを”支えているんだ”と思うのは、思い上がりと取られかねない。それを言うなら米を作る人も電車を運転する人も郵便を配達する人も電話をつなぐ人も等しく社会を”支えて”いる。マスメディアだけが特別じゃない。

 信頼の上に加えて分析であり論評といった、ジャーナリスティックな振る舞いがあってこそ、マスメディアは次代へと生き残れる。「報道の正しさが非常に高い水準で要求されるのはもちろんです。しかしそれ以上に、そのメディアがどのような立場を選択しているのかということへの説明責任が必要になっていると思います」とチャーリー鈴木謙介さんん。そんなインタビューを掲載している新聞が、書いた記者が果たしてそこまでを理解しているのか否か。いるんだと信じたいなあ。よもや名刺の裏に購読申込書なんて印刷していないよなあ。


【9月13日】 告りあい、ディーバ。ってサブタイトルではないけれどシルヴィアがアポロといい仲になりかけクロエがピエールにケーキを食べさせジュンはつぐみに呼びかけるけどつぐみは麗花へと気持ちを向けて禁断の愛へと足を踏み入れる。泰然自若の不動GENに誰が意中か未だ不明なソフィアの間でジェローム副指令が一念発起、決断を下したそのとたんに全身からプラーナを吸い取る花が咲いて倒れ哀れにもジェローム最大の見せ場は一瞬にして消える。これではソフィアさん、振り向いてくれないよなあ。

 とはいえそんなジェロームを襲った花は麗花も冒しシルヴィアをさらいディーバの基地を浸食して食い尽くす。先週までの力対力で何とかなった展開から一転、圧倒的な敵の侵攻の前に人類の弱さが浮き彫りにされて「創聖のアクエリオン」は次回から再び堕天翔族と人間との激しいバトルへと突入の兆し。堕天翔族の羽をクローニングして搭載した黒いアクエリオンの編隊が向かったアトランディアで巻き起こるのは殺戮かそれとも。残る輪数もきっと少ないだろー中でまとまるのかが心配だし、アポロの存在感もどんどんと気迫になっている感じがあるけれど、そこは畳みかけえぐり出すよーテンポ良く力強く物語りを攻め立ててやっていただきたい。もう1話たりとも録画では見られない。1秒たりとも見逃せない。

 つぶやきタツロー。あるいはささやきタツロー? 近年のアルバムの多くがかつてのよーなハイトーンの叫びから遠ざかってつぶやくよーに、ささやくよーに唄って人の心に染みいっていく歌になっている山下達郎さんの実に7年ぶりとかゆー新譜「SONORITE」はやっぱりどちらかといえば囁き呟く歌が多くって仮に自動車の中でノリ良く行こうと聴くなとしたらちょっと不向きな作品集になっているかもしれない。

 けれども今時の音楽の聴取環境は携帯型の音楽プレーヤーからイヤホンで聴くなりヘッドホンで聴くといったスタイルがほとんど。耳元で高らかに浪々を唄われてはかえって奥へと突き抜け脳天から突きだしてしまう。むしろ囁かれ呟かれた方が耳の鼓膜を静かにふるわせ心へと、頭へと、体へと音楽を染み渡らせることになるんだろう。そんな時代になるほど合わせて歌い方も曲の雰囲気も変えて来たんだとしたら山下達郎、やはりミュージシャンとしてアーティストとしてのみならずプロデューサーとしてただ者ではない。

 歳もそれなりになって高らかな声が出なくなった? それはちょっとはあるけれど、入っている「LIGHTNING BOY」ってアップテンポな曲なんかは「レアリティ」に入っている「モーニングシャイン」と同じタイプの曲で張り上げ延ばす部分もしっかりあって、耳に響き心浮き立たせてくれる。「ポケットミュージック」以降に試行錯誤して探って来たデジタルの上で滑らかにリズムと歌声を鳴り渡らせる作業が、完成のさらに先を行ったって言えば良いのかな。詳しいことは分からないけれどともかく心地よさではアルバムの中ではトップかも。

 凄いのはやっぱり「KISSからはじまるミステリー」か。ケツメイシのRYOさんが冒頭でラップをしてるんだけどこの声が達郎さんそっくりで知らずに聴くと達郎さんも遂にラップを始めたのかって10人中の8人が思いそう。TOKYO FMが発行しているリーフレットの「80」の9月号で達郎さんとRYOさんの対談が載ってるんだけどそこでもやっぱり声のそっくり具合が話題になってて達郎さんが友達に聴かせたら「おまえがやってるんだろ、自分で?」って言われたらしー。ドラムも叩けばギターも弾けばキーボードも奏でればコーラスも1人で全部やる達郎さん。ラップだって自分でやって不思議はない。

 でもって達郎さん、自分でRYOさんのラップを真似してやってみたけど「ぜんぜんできない(笑)。あのスピード感が出ない。だから、やっぱり餅は餅屋だと思」ったらしー。そこまで入れ込みRYOをフィーチャーして作った曲に、追悼の意を込めて吹き込んだ「WHEEN YOU WISH UPON A STAR 〜星に願いを〜」も入り「ラッキー・ガールに花束を」「2000トンの雨」といった楽曲も入ったニューアルバムはたったの税込み3059円だ。おそらくは確実に配信はされない(CDを媒体にした音づくりにあれだけこだわる人がCDより劣る配信なんて媒体を受け入れるとは思えないんだよなあ)んでみんな買うのだ。難波弘之さんのピアノも聴けるぞ。

 香山リカさんに「『セカチュウ』のようなメガヒット小説だけが読まれる今の日本社会は『メジャーなほうにつきたい』『私も遅れたくない』というムードに覆われている」ため勝ち組だと思われた自民党に大勢が乗ったことが大勝の理由だと言わせて、回りの目ばかり気にする国民の至らなさに民主党大敗の責任を押しつけ、福岡政行さんに「20、30代の若い層が『小泉劇場』のマインドコントロールのなかで出かけていったのだろう」と言わせて、高まった投票率の裏にはやっぱり「勝ち馬に乗れ」的な惰性の心理しかなかったんだと国民の思考停止ぶりを指弾する「週刊朝日」の2005年9月23日号。小泉首相に重ねてヒトラーの写真をコラージュしてみせるあたりからも、小泉自民党の勝ちっぷりへの嫌悪感が強く激しく見て取れる。

 そんな誌面にあって小倉千加子さんの寄せた文章がわかりやすくて痛快無比。「そして自民党はマドンナにもかかわらず勝った」と見出しの取られた文章は、「久米宏は『地滑り的勝利』と称したが。地滑りは、天災であるが、この投票結果は天災などではない」と切り出し「国民は、郵政民営化に意識をフォーカスなどされていない。組織に属さないフリーの有権者は、ただ閉塞した状況を打破してほしいために、命を賭けている小泉さんに賭けたのである」と投票行動に前向きの意志があったことを指摘する。

 民主党が少子化対策をマニフェストで訴えたが郵政民営化の一本見出しに吹き飛ばされたと言い訳する輩がいる。けれども小倉さんは「お金で援助するという野党案が少子化対策であるはずがない」と切り捨てる。「いかにも場当たり的な子育て支援で、なんら抜本的なものではないことは誰にでも分かることである」。働きながら子育てをしたい人にとって欲しいのはお金ではない。産休してもキャリアが認められる風潮であり働いている間に子供を預けられる施設であり、何より働きながらも結婚相手を見つけられる環境だろう。そうした抜本的な部分への踏み込みがまるでなかった、上辺だけの案だったからこそそっぽを向かれた。分かっていて拒否された。郵政民営化に押された訳では決してない。絶対にない。

 「自民党から浪花節的政治家が追放された。小泉さんに『改革』は期待しても、国民は憲法改正や靖国参拝を望んでいるわけではない。少しの判断ミスで国民は自民党を見棄てるだろう」。そう国民は全権を預けてなどいない。今を最良最善にしてくれる道を選んだだけであってそれが曲がればすぐさま戻れと声をあげる。言いなりになって大変なことになると脅す人たちはそれだけの意識を国民が持っていることに気づかないのか。本当に国民は莫迦だと思っているのか。だから負けたのだよ。とまあそんなことを思わせてくれる痛快な文章が、アリバイ的にでも掲載されているところが「週刊朝日」の良心かそれとも両睨みの処世術か。分かっている国民庶民一般人と分かっていないマスメディア内記者編集者の差って奴なのかもしれないなあ。そんなメディアが路を過たせるのだよ。国民が過つのではないのだよ。


【9月12日】 絶望なんてしてない。というよりすでに何年も前から絶望していた。民主党が政権を取って何かが大きく変わる可能性があったのか。かつて日本新党が政権を奪い自民党が野に下って細川総理が誕生して、行われた改革がどれほどあったのか。あるいは社会党が自民党と連合して村山総理を押し立てた時代に、めざましい改革の成果はあがったのか。同じことの繰り返し。あっちを立てればこっちが立たずの堂々巡りで時間ばかりが過ぎ去って、その変わらなさに政権交代を願われるのがオチだっただろう。

 なるほどじわじわと絞まりつつある人権への、表現への規制に逆らい抵抗してくれた人もいたけれど、一方にはそんな与党の規制を上回る規制案を示して与党から支持者を奪おうとする勢力もあった。右と左に大きくのびて前後上下に広がって、バラバラな方を向きながらもとりあえず同じ党名にまとまっているだけの民主党が打ち出すだろう政策が、果たして実効性を持つものなのか、あるいは規制を嫌がる人たちの見方いなり得るものなのか、不安と疑心が以前からあって、それは今に至るまで払拭されていない。

 そんな彼らが上辺だけ取り繕って支持を訴えても気軽には乗れない。乗ったら最後、一部の強行派が世間に媚び声の大きな勢力に阿って繰り広げるだろう政策に、蹂躙され追い立てられるのがオチ。ならば彼らには抵抗勢力であり続けてもらい、権勢し続けてもらうだけで十分だと考えた人の案外に多かったことがあるいは、民主党が今回の選挙で政権奪取の失敗に至った原因だったりするのだろうか。それにしては惨敗し過ぎだった。あまりの不甲斐なさに見方とするなら与党の中にある良識的な勢力を、当てにする方がマシだと思ったのかもしれない。だから雪崩を打って自民党が議席を獲得し、民主が議席を失った。ブームではない。やって来たことの、あるいは何もやらなかったことの応報でしかない。

 結果を前に何を言い訳してもそれは負け犬の遠吠えにすぎない。遊説では手応えがあったと新党日本の党首が言う。いくら手応えがあろうとも票をとれない手応えなど意味がない。刺客を送り込んで殺そうとしたと非難する離党候補がいる。けれどもそんな資格を支持するのはかつてのあなた達の支持者だ。自分に向けられた支持は喜び刺客への支持は認めないと言えばそれはすなわち有権者への背信だ。議会制民主主義の是非を問うなら選挙での支持不支持は民主主義の根幹。その是非を問えるはずがない。

 にも関わらず結果が及ばなかったことを今さら吠えて啼く人々など何の役にも立たない。事実立ちそうもないと思われ忌避され勢力を減退させた。結果がすべて。結果こそがすべて。結果を得られなかった人々に存在の価値はない。これはメディアも同様だ。いくらメディアが国民の振る舞いを非難しようと結果がすべてを示している。そんな結果しかメディアは招き得なかった。非難するのはすなわち己の無力さをさらけ出すことに他ならない。結果が不満なら民主党の無策を非難するより先にまず己の無力さを自省しろ。それなくしては次も同じ愚を犯し、世論を導けないまま敵の大勝を呼び込むことになりかねない。

 ともあれ結果は出た。郵政法案は改革される。それから何が起こるのか。暮らしは安定し自殺は減り生きていて安らげる世界が来るのか否か。それが果たされるのだったら政権与党などどこだって構わない。それが果たされなかった時にこそ政権は問われる。果たしてどのような政治が執り行われるのか。それだけを誰もが見守る必要がある。忙しくなる。緊張が続く。絶望していた人は起き目をこらして何が行われるかを監視せよ。遺漏があればそれはすべてチャンスへと変わる。もはや絶望なんてしている暇などないのだ。

 とかなんとか考えながあ「ぱにぽにだっしゅ」を見る明け方。変わったはずのオープニングが「黄色いバカンス」に戻っていたけど唄っている声が始まった頃を違ってる。これは誰の声なんだろう、エヴァンジェリン? ってそれは別の番組だ。けど同じクラスの誰かってことになるんだろー。妙な大人っぽさがあるから玲役の雪野五月さんかなあ、ベッッキーでは絶対にないなあ。こんな感じに声を変えながら同じ歌を繋げていくのかなって可能性も浮かんだ直後に、流れたCMで新オープニングの宣伝なんかがあってもう訳が分からない。どーゆー感じになるんだろう? 来週もやっぱり起きてそのまま生で見そうだ「ぱにぽにだっしゅ」。時間の同じ「極上生徒会」は見られないのになぜ? やっぱりブルーマンデーの訪れが嫌で眠れないんだろーなー。ブルーマンデー止めたいなあ。

 んじゃあってことで日曜日に買っておいた「朝日新聞」なんかをぺらぺら。おおアスペクトが45歳まで募集中だ。書籍編集の営業に新規事業企画に一般事務だ。勤務先は神田錦町だ。神保町の書泉ブックマートまで歩いて10分弱だ。好環境。でも書籍とか作ったことないから無理だよね。ってか今のアスペクトってどんな本を作ってたっけ。平井和正さんのノベルズは出してないよなあ。そもそも今はいったいどこの系列なんだ。同じ新聞で筑摩書房も求人中。こちらは30歳まででお呼びじゃない。職種は編集と営業。行って誰か「『頓智』を復刊したい」と叫んでやってくれないかなあ。胸に痛みを抱える役員とかいそう。ってかまだいるのか松田哲夫さん。

 「TOKYO POP」ってところも募集かあ。けど日本の漫画を海外に紹介するビジネスをやっていた会社が日本での事業を強化するとしていったいどんなことをするんだろー。マンガ・書籍編集色とか編集マネージャーとかマーケティングとかいろいろ募っているけれど、具体的な仕事が見えないと応募したい人も応募しづらいかも。矢沢あいさんの原案で作ったマンガを向こうで英語で出した後に日本で出版したケースもあるから、そんなグローバルな視点で作品づくりをさせてくれるのかな。不明ながらも面白そう。普通にどんな会社か取材してみるか。

 やっぱり偉大だったんだなあイビチャ・オシム監督は。「エル・ゴラッソ」の9月13日号にJリーグの監督に関するあれやこれやを比較したランキングが載っているんだけど、今年の戦績を通した採点でオシム監督は平均ポイント5・98点となってトニーニョ・セレーゾ監督の5・95点を上回り堂々の1位を獲得。最近まで首位だった鹿島アントラーズの監督の上を行き、また首位を走るガンバ大阪の西野朗監督が5・77点で7位に沈んでいる遙か上を行くオシム監督。リーグでのチームの成績が反映されやすいランキングにあって、成績を超える何かを見せていることが評価を得ているんだってことが伺える。

 年齢でももちろん1位のオシム監督。64歳は松本育夫監督と同じだけど(意外)誕生日が5月で松本監督の11月より早く堂々の1位と相成りました。ちなみに最年少は大分トリニータのシャムスカ監督の39歳。四半世紀の差があるのか。身長でもやっぱり1位。あのドイツ代表の砦だったギド・ブッフバルト監督の188センチを4センチも上回っているんだから偉大だ。さらには体重でも1位だオシム監督。105キロ。ブッフバルト監督の96キロを9キロも上回っている。なるほどそうかナビスコカップの準決勝はリーグ1、2の高さと重さを誇る監督どうしの激突だったのか。ちなみにオールスターではこの2人が監督とコーチをつとめる模様。試合が荒れたり決着が付かない場面があったら、ツインタワーでツインヘビーなツープラトン攻撃を、反町西野のひょろひょろコンビにお見舞いしてやれば軽く勝てます、確実に。


【9月11日】 すっぽんぽんだすっぽんぽんで仰向けになっているのにトップもアンダーもまるで見えないレイアウトの素晴らしさに涙。描いた人の描きたいよおでも描くと警察がやって来るよおって逡巡葛藤が画面からびりびりと伝わって来ます。あと1本の線が描ければ。ともあれべとべとさん状態、に見えて実はかちこちさんだったエウレカがボダラクのお祈りによって元に戻った「交響詩篇エウレカセブン」。でも眉毛もいっしょにはがれてしまったみたいでちょっ怖い。それとももしかしてずっと描き眉だったのか。

 一方で人を殺していたことに半年近くも経ってよーやく気づいたレントンが、浮かれてちょび髭はやして岡持持って遊んでた享楽の日々を思い出して自己嫌悪に陥りこれでひとつ成長したかと思ったら、エウレカの所へと行って自分は彼女を守るためにやったんだからって言い訳じみたことを告げ責任をおっ被せ、自分の罪の意識を軽くしようとしたけど認めてもらえず拗ねて脱走。ガキはやっぱりガキだった。でもガンダム、じゃなくってニルヴァーシュを持って逃げなかったのは偉いなあ。追いかけてくるフラウ・ボウ役は今回はタルホさんになるのかな。

 ホランドと因縁のあるらしー元軍人のカップルも現れ2人でこれからレントンと絡む模様。つまりはランバ・ラルにハモンさんか。軍人としての勇敢さを持っていそーもないけれど、逆に世界となれ合いながらも生きていく大切さって奴を学んで毅然とした大人ではなく訳知り顔のオトナへと、レントンを導いていってくれるのか。まずはレントンの放浪の行方に注目。なぜ出てきたのか分からないけどゲシゲシと蹴るアネモネが復活の兆しで良い感じ。蹴られた目線で見上げたらやっぱり見えたのかなあ。見たかったなあ。でも描いてくれないんだよなあ原画の人たち。漫画では描いて欲しいなあ。

 「GEISAI♯8」など見学。会場に入るといきなりサンバでお尻がいっぱい踊ってた。眼福。だけどまんじりと見ていると気恥ずかしくなるので退散してブースを見物。大畑伸太郎さんは今回も出典で夜空を見上げる少女の絵がいい感じ。新作かは不明。しかしなぜ未だメジャー化しないんだろう。前に1枚買ったことのある畠山佳子さんも発見。ふわふわふーなドローイングが可愛い。絵本化してキャラグッズ化すれば大人向けのアーティスティックでファンシーな商品として行けそうな気もする雰囲気なんだけど。チャンスって転がっているようでそうはない、のかなあやっぱり。がんばれ。

ほっとけない、ムラカミの独壇場  それから今回は神崎智子さんって人に着目。エッチングみたいなんだけど聞くと版画は版画だけど光にあてると紫外線の影響でそこだけ削られるかどうにかされる版を使った作品。直線のかけ網にプリン型の銀閣寺なんかにある築山に魚なんかが組み合わされた作品は白地に黒い線とそして渦巻く墨っぽい塗りが重なりいい感じに侘び寂びしてる。見て一発で気になった作品。通りがかった審査員の人もなんか気にしていたから賞とか取ったかもしれない。小さい作品もあったけど大きくってプリントするのもぎりぎりな作品が面積の広い白と描かれる黒とのバランスに静と動、明と暗の緩急があって見ていて心に緊張と和みが走る。飾っておきたくなる一品。他のも見てみたいなあ。喋ってて関西弁だったからあっちの美大の人かなあ。今後に注目。

 売店では村上隆さんと青島千穂さんとタカノ綾さんのポスターを販売中。正午前の段階で村上さんのポスターは3万2000円だかするにも関わら5種類前後あった作品のすべてが限定30枚だかが売り切れる爆人気。だけど「DOBくん」でもオタクなピースでもない、六本木ヒルズ的な金ぴか感漂う村上さんの作品よりも絶対的にタカノ綾さんの方が凄いし素晴らしいし値段も8000円でお手頃、でもないか昔だったらドローイングだって買えた値段だけど今回はポスターだから、でもまあ村上さんよりは圧倒的に安いのに売れ行き的には各5枚とかそんなもの。結局のところ作品は内容ではなく知名度で売れるもんだってことなのか。あるいは「GEISAI」って場がどこまで行っても”村上祭”から抜け出せないってことなのか。

 まあ仕方がない、それだけの努力を村上さんはしたんだし。けどそろそろメディアも脱村上あるいは対村上の軸を立てていって欲しいなあ。でないとこれまでの10年を席巻されたアートな分野はこれからの30年を村上さんに牛耳られてしまうぞ。それもそれで状況として楽しいけれど作品としての村上隆さんには最近ちょっと、ってか例の東京都現代美術館に並べられた「たんたん坊」とそれから等身大フィギュアのシリーズをひとつの頂点にして、以後はズラしたりふくらましたり語ったりするだけで正直ツマらなくなっているんで、これをあと30年も続けられるのはタマらない。誰かいないのかなあ。いないなあ。

 せっかくだからとタカノさんのを1枚購入。画集の表紙になっている爆撃機だか旅客機だかをバックに巨大な顔が迫ってくるあれ。飾りたいけど部屋にそんな場所はない。飾れる部屋に引っ越したい。年末くらいに結論も出るんで考えよう。誰もいなくなったステージでは例のホワイトリングのCMが延々。あれやこれやと言われるキャンペーンだけど世の中に貧困は放っておけないよって動機を喚起させたことには意味がある。あとは率先垂範が周囲をどれだけ引っ張れるかだけど気分だけで盛り上がって終わりってことになりかねないのが難点か。集められた”活動費”がどう使われたかを監視管理する必要がありそー。そして関わった人たちの動静にも。ホワイトバンドと村上隆。共通点は……率先して頑張ってプロジェクトを立ち上げたことと、どこかビジネスライクなこと。胡散臭げ? きっと根がどっちも純粋なんでしょうとフォロー。

 夏風邪夏バテで体調停滞。眠り開票速報。おお圧勝。気持ち悪いけど仕方がない。どう考えたって民主党の主張に勝てる要素はない。個別に見れば良いところもあるけれどそれを果たして実行できるだけの体制にないからなあ、見た目は1つの党でも中は左右にバラバラの寄り合い所帯でリベラルな法案も出ればガチガチな法案も出たりして果たして見方して良いのかどうか分からない。今回の一件で旧態依然とした人たちを追い出した自民党に続いて今度は民主党で”再編”が始まり一部が自民党とくっついていくのかも。数合わせのために自民党を追い出されたおじさん人たちとくっつくようなら最低最悪。けどそれがありそうなのが民主党クオリティ。強烈なリーダーシップを取れる人が党首になって対決姿勢を打ち出さないと縮小分裂から社民党への路をたどるだろー。とはいえ誰がいる? 野田聖子さんを取り込めればそれはちょっと楽しいかも。さてどうなるか。怖いけど楽しみ。

 4年かあ。あのあと世界はいろいろあったけど未来が明るくなったかと言えばそうではなくって暗くなった感じもせず、まあそれなりに粛々と進んでいるって感じ。ニューヨークはもちろんアフガニスタンやイラクも世間的な関心のらち外へと押しやられ、手前のことで精一杯な人たちが目先のことで手一杯になりながら日々を送っている。ビジョンなき世界。ビジョンなき人々。そして世界はどこへと向かう? きっとなるようにんるんだろう。そうして人間は数千年の歴史を営々と刻んできた。きっとこれからの数百年もパワーバランスこそかわれ人間はしつこく存在し続けるんだろう。その時に世界は誰が導いているのか。考えても分からないけどそこに日本はいるのか。これも考えても分からない。まあどっちにしたってそこに僕の子孫とやらはいそうもないなあ。


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