縮刷版2005年3月中旬号


【3月20日】 ラジオをどうするっていった具体的な戦略を当人から聴取した訳でもないのに、「リスナーへの愛情がまったく感じられない」とライブドアの堀江貴文社長を、社員総出で名指しで非難するくらいにリスナーへの愛情をたっぷりと持った社員でいっぱいのニッポン放送だけに、仮に堀江社長が乗り込んできたってそれが嫌だと会社を逃げ出しどっかに移籍して、ニッポン放送を愛して聞いてくれているリスナーを放り出すよーな真似はしないで、入り口では全社員がスクラムを組んで堀江社長の社屋入りを断固阻止。スタジオ前にもバリケードを作り電源も食料も確保した上で、24時間365日の闘争放送をリスナーのために続けてくれるはずだから、昨今のニュースに取り上げられている退職者が出たら他のグループ会社で引き取るなんて施策が必要とされる場面はないだろー。そうだよね? 有楽町の中心でリスナー愛を叫ぶ社員さん。

 ってかそーゆー方面への頭をまるで回さないでこーゆー話を外に平気で出しては世間の同情を買おうって雰囲気を浮かび上がらせてしまうのって、戦術的にとっても拙いと思うんだけどメディアの中心にあって人心を左右させることに長けてるはずのグループで、どーしてこーゆー稚拙な策を次から次へと出しては世間から「やれやれ」と思われてしまうのかが謎。それともそーした世間のメディアに対する見方が徐々に変化し厳しくなって来ていることに気がつかなかったからこそ、今のこーゆー事態を招いてしまったってことなのか。本丸の方ではニッポン放送の最終的には数千億円に及ぶ増資を引き受けるって決定してお金を拠出する予定を立てた次の段階で、今度は株主への配当を増やしてまたしても資金を外に流出させるとゆーチグハグな資本政策を立て、更に今度は第三者割当増資を行い株主利益の希薄化を招くとゆー施策を検討しているとの報。もう訳が分かりません。どうなることやら。

 もう何度目かになる「GEISAI7」を「東京ビッグサイト」まで見物に行く。いつものことながら開場間もない時間に通路に行列が出来ているなんてことはなく、閑散としたチケット売り場で入場券がわりのカタログを買い見せて入っても中は一般の観客よりも出店している「参加者」の方が多い状況。行列が出来ている店はといえば「ベアブリック」に独自の紋様だかイラストをほどこしているクリエーターさんの所を、日本に根強い信者を持つ「LV」モノグラムが混じったイラストを始め村上隆さんデザインの版画にポスターを取り扱っている所ばかり。「ワンファーフェスティバル」で言うなら「企業ブース」って奴で昨今の食玩ブームで企業ブースに大行列が出来る「ワンフェス」に似た光景って言えそう。ただしケタが違うけど。

 あと「ワンフェス」はそれでも一般ブースに大勢の人がいてそれを買いに来る大勢の人もいて、そこにマーケットがちゃんと出来上がっているんだけど「GEISAI」の場合はそーした「来た人に見てもらいたい」「買ってもらいたい」オーラよりも会場を回る村上隆さんはじめ審査員の人に「認めてもらいたい」オーラの方が何だか強いって感じ? いやもちろんちゃんと来場者とコミュニケーションを取って自分の作品を見えもらおうとしている人が大半なんだけど、いかんせん来場者の数が今ひとつでがやがやとしたマーケットの雰囲気が出ず、青いハッピを来た関係者の人たちだけが行ったり来たりしながらゲスト審査員の”御成”を露払いしている光景が目立ってしまって「デザインフェスタ」にあるような”お祭り”な感じが漂って来ない。

 歴代のグランプリとか入賞作品とかを並べ大きなブースに展示していることも、お金を払って出展している「参加者」の人の陰を薄くしてしまっている要因の1つに映る。それでグランプリを受賞した人が村上隆さんの10分の1でも活躍していれば、大きく飾られても目標になるからって理屈も成り立つけれど、アートシーンはもとよりデザインのシーンでも受賞者を見かける機会なんてまるでなく、頼りにしていたテレビ番組「誰でもピカソ」も昨今はアートってよりはパフォーマンスにお笑いへと軸足を移した感じで、そこですら活躍している雰囲気はなくただ単に、「GEISAI」内でのヒーロー&ヒロインに留まっている印象がある。目標にするには小さすぎる。

 ”主宰・村上隆”という場においてその掌中で権威づけられあるいは戯れるって意味ではなるほど「参加者」にとって居心地の良い場所なのかもしれないけれど、ポスト村上なアーティストをそこから見出し広く世に出していくきっかけとするイベントって「GEISAI」の本来担っていた役割、世間のアートシーンに殴り込みヒエラルキーを破壊するって目論見が外れ初期にあった挑戦的な熱量がどこか減退しているよーな雰囲気を覚えてしまう。「東京モダンアート娘」は可愛いけれど5回6回も見れば正直飽きも来ます。対抗する集団は何故出てこない? 場内でつかみ合いのバトルでもしてくれれば世間も少しは話題にするぞ。ってかそれより以前に「東京モダンアート娘」、どこまで世間に知られているんだろ?

 思想も何もないけど大勢の参加者があり来場者がある中で膨らみ巨大化していく「デザインフェスタ」にも功罪両面があるけれどそれでも前向きのベクトルがあって将来に期待が持てる。「GEISAI」は? 嘘でも良いから同じ戯れの範囲内ではない、別の世界からの刺激があって外に大きく弾けるよーな動きがないと、この先大きくブレイクするよーなことにはならないよーな心配があって悩ましい。入り口正面に村上さんの花の巨大なオブジェが飾られそれが一番目立っているよーに、いつまでたっても「若手アーティストの育成にも務めている村上隆の偉大さ」を裏付ける、一種のパフォーマンスとしてのイベントのままで終始してしまいそーな気がする。

 それが目的だったのなら別に良いけれど、そうでないなら何か新たな仕掛けが1つ2つ欲しいところ。それとは関係無しに新進気鋭のアーティストを捜している業界は通い審査員の目なんかけ飛ばし村上さんのお墨付きなんかも自前で発掘し自前で売り出すくらいのフットワークを見せて欲しいんだけど、そーゆー軽さがないからこそ村上さんが権威なんて壊し新しい道を開こうと奮闘しては結果、自分が1つの権威めいた存在になってしまう皮肉にまみれてしまうんだ。難しいなあ、枠組みを壊すのって。メディアといっしょだね。

 ぞらっと見渡して気になったのがOOTAKUMIKOさんって人のフィギュア類。どこかで見たことがあるなって記憶を探ったら何のことはない「ワンダーフェスティバル」であさのまさひこさんが選んでる「ワンダーショーケース」の1つに作品がセレクトされた人だった。ポップな造型がキャラクターフィギュア全盛の「ワンフェス」にあってひときわ異彩を放ってたっけ。「うし」なんてカラーリングとか着色とかをいじれば「ベアブリック」とか「フロッグスタイル」に並ぶアイテムに昇華しそーな気がするけれど。どっか玩具メーカーとか目を付けていないのかな。

 大畑伸太郎さんは今回も登場。コンビニ前に立って空を見上げる少女が相変わらず可愛い。この人の絵を表紙に使う出版社ってどーして出てこないんだろう? 「愛の種」ってもろ「モーニング娘。」を主題にしたよーな作品でデビューした橋口いくよさんの作品にイラストなんかを寄せている真珠子さんのイラストはやっぱりそれなりのインパクトで目に留まる。当日は何だか橋口さんのデビュー前の詩とかが収録された本も売られ橋口さんもいたよーだけど人も少ない中で横目で通り過ぎて本は買えず橋口さんがどんな人かも見られず残念。次の機会はあるのかな。あったら買おう。それより橋口さん、「亡国のイージス」絡みの仕事もしてたんだ。どんな話になっているのやら。興味。会場では他にスチールドラムのサンバ隊が轟音で音楽を奏でていて喧しかったけど良いリズム。フロントで叩いてた女子に可愛い人がいたけど恥ずかしいので写真は撮らず。こーゆー時の望遠なんだけどなあ。我に勇気を。


【3月19日】 恐竜が現れたってんで上野に行く。国立科学博物館のチケット売り場に大行列が出来ているんじゃないかと心配して、上野駅の改札脇にあるチケット売り場で当日券を買って勇んで行ったら何のことはないガラ好きで、スルーで中へと入ってエスカレーターを降りて会場に入るとそこはまあそれなりな人数の親子連れがいて、シカゴからはるばる海を渡ってやって来たティラノサウルスレックス「スー」の化石の”複製”を囲んでパシャパシャ記念写真を撮っていた、っておいおい撮影禁止じゃないのかよ。

 ああ当然にして世界的な遺産でもある本物の化石がやって来るとは思えなかったし記者会見でも”複製”だって聞いていたから別に驚きはしなかったけど、横にある解説で「スー」を掘り当てたのが”化石ハンター”のスーザン・ヘンドリクスンって人で努力の果てに偶然にも見つけて掘り返したけど土地の所有者に横取りされて売り払われてしまったって何だか悲劇のヒロインめいた仕立てになっているのには違和感。だって「スー」ってピーター・ローソン率いるブラックヒルズ地質学研究所の長年の調査の結果、掘り当てられたんじゃなかったっけ?

 発見したのは確かにスーザンだけど、その場所を1979年からフィールドにして調査を繰り返していたのはブラックヒルズ地質学研究所。地元とか政府とかとの交渉なんかはそこがやっていた訳だし、費用も当然そこが調達してはスーザンを始め大勢の発掘員を雇って調査を行わせていた。「スー」の化石に連邦政府が目を付けネイティブアメリカンの居留地から発見されたものは連邦政府に帰属するって話が降って湧き、また所有者もネイティブアメリカンも発掘されたものの”うま味”を感じて訴訟を起こして四面楚歌の状態になった時もブラックヒルズ地質学研究所が矢面に立って戦い敗北を喫した。費用もきっとかかったんだろう。

 結果「スー」はオークションに出されてそれをシカゴのフィールズ博物館が落札。そして修復され復元され複製も作られてそれが晴れて上野の国立科学博物館にお目見えしたってことになる。そーした歴史をぜんぶ吹っ飛ばして1人の熱情と悲劇、そして再開のドラマへと持っていってしまうのはいかにも日本のメディア的な振る舞いって感じ。ピーター・ラーソン本人にインタビューした時「スー」の話も聞いて悔しがっていたものの結果として納まる所に納まり、これでいつでも会えるよーになったからって言っててその”恐竜バカ”ぶりに感心したけど、歴史から抹消されてしまうのは何とも気持ち悪い。なので今回の展覧会に絡んで朝日とその周辺メディアがドラマを作ろうとしないかを、注意深く見ていくことにしよー。

 本体の「スー」は複製でも今回は特別にスーの化石の一部分(肋骨)が門が言う出の掟を破って来日していて一見の価値有り。あと「スー」の向かいのタルボサウルスは本物なんで見て何万年とかの昔から蘇ったその巨体と、時を超えて対面している気分に浸るのも悪くないかも。外の物販売り場は混雑が酷い。海洋堂謹製のティラノサウルスレックスのフィギュアの骨バージョン肉バージョンは良い出来だけど買っても置いておく場所がないんで遠慮。トミーの「ゾイド」の「恐竜博2005」バージョンはベージュな色がシックで格好良かったけどこれもパス。買うなら朝一に行って見る物も見ないで会場をスルーし物販売り場に駆け込むのが良いでしょー。入り口ですれ違った巨大な荷物を抱えた奴らみたいに。オタクって大変な稼業です。

 そのまま今度は国立西洋美術館で「ジョルジュ・ラ・トゥール展」を見物。17世紀のロレーヌ地方で活躍しながらもその後歴史から抹消されて幾星霜、1900年代に入って発見されて評価もされてこれまでに40点ばかりの作品が認定された幻の画家で、その作品が日本でこれだけ会するのはもちろん初。貴重な展覧会ってことで見ておくにこしたことはないっていった学術的文化的な関心があったかとゆーとありません。ポスターに出ていたヌードな女性の胸に惹かれただけです。そんなもんだよ芸術は。

 それは半分くらいは本当のことだけど作品自体も闇の中に光で浮かび上がった人物像が中心で、レンブラントのレアリスムとフェルメールの静謐さを足して割った感じって言えば言えるのかな。ディテールの巧さは感じるけれどレンブラントほど圧倒的でもないしフェルメールほど神々しくもなく、どこか俗っぽさを覚えるのはモデルとなった人たちがおそらくはロレーヌの地元の農民層で聖人を描いても女性を描いても無骨さが漂ってしまうからかも。12使途なんてどうみたって近所のおっさんって感じだもんなあ。

 そんな中でもヨゼフだっけ、その前に天使の少女が現れ手をかざす絵は手の向こう側にある蝋燭の光に照らされ浮かび上がった少女の横顔が実にリアルで美しく、着ている衣装の飾りも細やかで繊細で構図の良さとも相まって見ていて何時間でも見たくなる。個人的には最高傑作。あとタイプがガラリと変わってテーブルを囲みトランプをしている男たち女たちの絵の背中にカードを隠していかさまをやろーとしている男の顔が鹿賀丈史さんっぽくっていかにもな感じ。そんな男を横目でじとっと見る貴婦人の視線のイケズっぷりもなかなかなで、こーゆー絵も描きドクロをかかえて黙想するマグダラのマリアの静謐な絵も描くラ・トゥールの幅の広さを思い知る。何で消えてしまったのかなあ。不肖の息子が親の偉大さと出自の卑小さを消そうと図ったって理由が本当なのかなあ。まだ見つかっていない絵も結構あるみたいなんでフランスに行ったらノミの市とか回って探してみよー。見つかれば10億円らしーし。

 移動の途中で読書。「第11回ホワイトハート大賞」を受賞した青目京子さんの「暗夜変 ピストル夜想曲」(講談社X文庫、600円)は妖しい輩が群れる「なまくび横町」で人探しから暗殺まで何だってやってのける仕事をしている壇上映のところに日向子という1人の少女が訪ねて来たところから開幕。華族の娘という少女は映をかつて別れた姉と呼び、自分を捨てた男に復讐して欲しいと仕事を依頼する。

 金を積まれたら断れないという掟とそして日向子への関心もあって動き出す映の前に立ちふさがったのは同じ「なまくび横町」で同じ”闇掌”として仕事をしている霧江沙久也。映を幼少の頃から愛しみ育てて来た華族の女性の依頼もうけて映の邪魔をする。そんな妨害を退け日向子から逃げた男を見つけて分かった事件の真実。大人たちの策謀に翻弄された少女や青年の哀しみが大正の帝都に響いて胸を打つ。

 割に普通の生い立ちだった映がどーして凄腕の殺しの技術を持つ沙久也をもしのぐ”闇掌”になれたのかって当たりに疑問も浮かぶし、母親の想い出もかすれている彼女を突き動かすエネルギーもあまり見えず感情をどこに入れればいいのか戸惑う。妖しい輩が集う割には「なまくび横町」の妖しさが浮かび上がって来ないのも悩ましいけどそれは掟破りと横町から追われ、育ててくれた華族の女性からも追われる身となった映が国の走狗となって苦しみながらも戦っていく中で明らかになっていくだろー。ともあれ登場した戦う美少女のこれからに注目。


【3月18日】 素晴らしい。社会の木鐸を自称し天下の公器と満天下に訴える新聞はやっぱりこーじゃなくっちゃね。産経新聞が「主張」って他紙だと社説にあたる所で「異議申し立て却下、見定めたい真の企業価値」ってタイトルで論陣を張っているけど中に「報道機関の”企業価値”は、言論の自由、表現の自由の担い手として負うべき重い責任が、その重要な部分を構成する。単にモノ、カネだけで測れない価値を見落としてはなるまい」って言葉があって今時の、メディアを宣伝の場なり自己顕示欲の発表の場としか考えていない経営者の割にいたりするなかで、己だけは商業主義を廃して公共性公正性を貫くんだって決意が伺えて清々しい。

 こーゆー主張をしているだけあって流石は産経、テレビ欄では系列のフジテレビジョンの欄の上に色を重ねて他に比べてわざわざ見づらくしては、独立性にかける矜持を表明しているし、グループがやってるイベントの記事だって1面ってゆー、テレビ欄から読む読者にとって最終ページに当たる部分に乗せて読者に配慮している。他の新聞各紙が大事ととらえた1つのことにこだわり大きく紙面を割くときでも、それに載らず他にあるもっと大切なことを紹介しては自主性をアピールしている。

 関連する他の媒体だってスタンスは共通にして首尾一貫。広告が出るからってその企業の記事を大きくしたり、社会的にあんまり認知されていない、むしろ消費者生活センターあたりにクレームがつくよーなマルチなネットワークのサービスをしている企業を記事として取り上げ広告も載せたり、偉い人の所を訪ねてきたどっかの誰かの記事を大きく載せたりなんてことは多分していない。自由にして自在な紙面に踊る記事はだから偏向も偏重もなく素直に読まれ根強い支持を集めて、これからも鰻登りに部数を獲得して行くんだろー。ならばきっと給料も上がるはずだ。信じて待とうその時を。

 朝日新聞およびその周辺の媒体が「ブームだ」と言って取り上げた時にそのブームはすでにしてピークを過ぎ終焉へと向かっているとゆー”法則”に則るならば「小説トリッパー」の2005年春号が「特集 ポストライトノベルの時代」ってライトノベルにスポットを当てた特集をしている現在、ライトノベルの人気はすでにしてピークを過ぎてあとは落ちるばっかって事態になってこれからそっち方面で稼いでいかないと将来も危うい状況に置かれている我が身的にまずいんじゃないかって心配して、900円を出して買って特集を読んで安心。「ライトノベル」を取り上げていてもそれは僕の好きな、僕が読んでる「ライトノベル」ではなかった。

 そこで取り上げられている「ライトノベル」ってのはつまりは「ファウスト」を主軸に「講談社ノベルズ」あたりで活躍している西尾維新さん舞城王太郎さん佐藤友哉さんといった面々と、滝本竜彦さんも上遠野浩平さんといった他でデビューした人たちが書く他で書いてきたものとはちょっと違ったテイストの作品群で、角川スニーカー文庫でも富士見ファンタジア文庫でも電撃文庫でも集英社スーパーダッシュ文庫でもMF文庫Jでもファミ通文庫でもコバルト文庫ですらもない。いわゆる「ライトノベル」と僕が感じ考え読み支持しているこーしたレーベルについての話ではない以上、そこで語られている言説は毀誉褒貶のいずれであっても無問題。自在におやりなさいと言って後は成り行きを見守ることしかできない。

 ただ「イタリアン」なる食物についての毀誉褒貶が取りざたされてそれが僕の好きなケチャップスパゲティではなく新潟あたりで人気の食べ物だったとしても僕の好きな「イタリアン」に影響が及ぶ可能性が皆無ではないよーに、朝日が取り上げたことで「ライトノベル」のブームも終焉だって思われてしまって、そのとばっちりを僕が読むライトノベルに波及しないとも限らないだけに、警戒だけは強めておく必要がありそー。幸いにして斎藤環さんと対談している大塚英志さんは斎藤さんがいくら「ライトノベル」と言っても頑なに「ライトノベズル」と言って明確な区別をつけている。

 得意とする角川スニーカーなり富士見ファンタジアなり電撃文庫については一切語らず、「ファウスト」系なり講談社ノベルズなりを主軸に活躍する面々の新本格とは違う作品群を「ライトノベルズ」と規定し、その先頭を走る佐藤さん西尾さん舞城さん等々の持てはやされる状況を作品面、状況面から的確に指摘していてそれはそれで1つの文学に関わるムーブメントを理解する上で役に立つ。こーやって意識して語り批判を行う批評家が存在している以上、同じ「ライトノベル」とゆー言葉で僕の好きな「ライトノベル」と朝日がそれと認める「ライトノベル」が混同された挙げ句に共倒れになる事態は避けられそー。ああ良かった。

 それはそれとしてやっぱり不思議な「ライトノベル」特集。敢えて「ライトノベルズ」と割り切って望んだ大塚さんはともかくとして斎藤環さんは西尾舞城佐藤に滝本上遠野と秋山瑞人さんくらい? ともかく”本流”とはかけはなれた所に「ライトノベル」の沃野を見ている節がある。インタビューをした作家も乙一さんに冲方丁さんと、ライトノベルの方面で確かに活躍しているけれど世に名を認められたのはSFの「マルドゥック・スクランブル」だったりミステリーの「GOTH」だったりで、これまた本流の「ライトノベル」から微妙にズレている。人気はあるけどトップランナーとはちょっと違うポジションにいる。

 笠井潔さんはいわずもがな。目配りはあるけどしょせんは秋山瑞人さんのそれも「イリヤの夏、UFOの空」あたりで「セカイ系」なるものとの絡みで「ライトノベル」を語ってる。中でいちばん真っ当だったのが中島梓さんで、さすがは「JUNE」でやおいの元祖みたいな耽美小説の道を開きノベルズの分野でも「魔界水滸伝」を出し、文庫ではキャラクター小説の嚆矢とも言える「グイン・サーガ」をかれこれ25年に渡って書き続けている「ライトノベル」の先達にして重鎮。その感性は今も摩耗していないよーで、息子(大介くん?)に探して買ってきてもらったライトノベルを読んでは実に的確な批評を行っている。

 「キノの旅」は主人公のキノが社会に積極的に関わらず傍観者的な立場を貫くことをちゃんと読みとり「ブギーポップ」シリーズも読んでそこに少年たちの絶望を感じ取る。「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」を「JUNE」編集長に勧められて読んで以前だったら少女たちが絶望を感じ取る小説として少女たちの好む媒体に発表されていただろーこの話が、今は敬遠されるらしー事態に少女たちが好むBL小説の置かれた環境のある意味で行き着いてしまった様を見、また成長仕切れない大人の弱さを喝破する。なるほど実直に読んでいる。

 最高だったのがおかゆまさきさん「撲殺天使ドクロちゃん」への感想。息子が勝ってきた「これはひどい」という2冊のうちの1冊らしーけど読んで「『普通のやつ』より百倍のインパクトがあったことだけは認めざるを得ないなあ。あれがこののち『文学』のスタンダードとか、古典になってゆくとすると、それはそれで、ある種いっそアナーキーな痛快感はありますね。とりあえずセカチュウや冬ソナをよしとするよりは私はまだしも好感たもてるかもしれない」とまで言っている。

 あれを読んで酷いとも、凄いとも思いそれを素直に吐露する本読みとしての誠実さには、大塚さんが舞城さんを読んで褒め称える人たちにあるのではと指摘する、共同幻想的なムラの論理が中島さんの「ドクロ」ちゃん語りや「キノ」語りにはなく、素直に頷ける。こーゆー答えが果たして編集部としては欲しかったのか? ミステリー作家・栗本薫であるところの中島さんに舞城西尾佐藤といった面々すなわち朝日的(斎藤環さん的?)「ライトノベル」の真贋を聞きたかったのかもしれないけれど、そうはならず真っ当に、つまりは21歳の息子が「ライトノベル」と認める作品を「ライトノベル」と読んでその優劣を語る文章を寄せてしまって受け取った編集があたふたしてしまった、なんてことはないのかな。御大ますます健在なり。尊敬します。インタビューの仕事、したかったなあ。


【3月17日】 あちらこちらで擦れ合ってる感じ。春か? とか言ってるこっちも鬱々として来たんで前に買った「アース・ウインド・アンド・ファイアー」のDVDを見て「セプテンバー」のビデオクリップ映像をながめてモーリス・ホワイトの髪型に笑いつつ陽気な歌声ささくれ立ちかけた心を和らげる。格好良いなあ。同じ「セプテンバー」でリミックスバージョンも収録されているけれどこれもテンポが良くって家の中で手だけでばたばたと踊っていたら積み上げたフィギュアが崩れて下敷きになった。自業自得。

 陽気な気持ちで眠って早起きして「東京ビッグサイト」で開幕した「フォトイメージングエキスポ2005」を見物。新製品はほとんど発表されているんで目新しいものは何もないけれど、普段見慣れていないものをじっくりと、まじまじと見物する機会だけは沢山あるから行かずにはいられない。何しろカメラが主役の展示会。あちらこちらにいるコンパニオンにカメラを向けても誰からも咎められるおとなく、むしろ喜ばれるって貴重極まりないシチュエーションを堪能できるって訳で、大勢のカメラ小僧に混じって臆面もなくモデルにレンズを向けて撮りまくる。至福千年。

 弱すぎるペンタックスのストロボの根っ子が再び折れて死亡してしまって(2台目だぜ2台目、何とかせいやペンタックス)光量が足りず思うに任せない展開ながら、それでも頑張ってあちらのブース、こちらのブースをさまよい歩くにわかカメコ。初日ってこともあって平日なんで水着もタレントもそれほどはいなかったけれど、銀座とか新宿とかの道を歩いていて水着に出会うことなんて滅多にないんでこれだけでも個人的には十分って感じ。あと水着じゃなくてもピタピタなスカートは下に履いているもののラインが透けて見えるんで、これもこれで目の保養になって嬉しい。ブイブイブイ、ビクトリー。

柔らかく、そして深いその谷へと迷い込みたい想いに悶える春の昼下がり  あとこれも水着じゃないけどコニカミノルタのブースにいる説明員が超凄い。何が凄いって胸部に横にスリットの入った衣装を身につけソファーに座って横に人を座らせ説明する形を取っているんで、上から眺め下ろすとそこには当然ながら谷間が見えてさらに説明のためにかがむと衣装と双房の間に着用しているアンダーなウエアも見えてしまう。アンダーなウエアの下にある突起までは流石に遠くて目に入らないけど谷間だけでもお腹は一杯。眺めてしばしの悦楽にひたる。そんな横を堂々と現れ見下ろす形でレンズを向けて撮る少年。嗚呼カメラ小僧はここまでの割り切りがないとなれないのかと羨望。明日はなるぞカメラ小僧に(ならんで宜しい)。

 アグファのコーナーでX星人に似たコンパニオンを発見。ワレワレワウチュウジンダと話しかけたら無視された。これも体にタイトなデザインでヒップにアンダーなウェアのラインがシースルー。富士写真フイルムのブースでは椎名誠さんを発見。2000年の「パシフィコ横浜」で開催された「日本SF大会」以来って感じだけど結構な年齢であるにも関わらず格好良い。酒飲み放題で肉食い放題な生活をしているのに、何でこんなに格好良いオヤジになれるんだろー。あやかりたい。けどすでに毛のない段階で追いつけない。やっぱりショーン・コネリーを追い掛けよう。

 キヤノンの「EOS KISSデジタルN」がしばらく前からロックバンドの「KISS」のロゴを使っているって話題になっていたけど会場に行って理由が判明。まさに「KISS」でありました。例のあの独特なメイクを施した子供の写真が大きく張られて上からは耳に聞き覚えのある曲が流れて雰囲気を70年代へとスリップさせる。問題は今時の若い人がこれを見てそれが人気ロックバンド「KISS」の真似だって分かるかってことか。「聖餓魔2」のパロディと思われたら嫌かも。「カブキロックス」だったらなお嫌かも。製品は最初の機種よりやや小さくなって画素は上がって使い勝手アップ。価格もボディ9万9800円でレンズがついても12万円とかでデジ一眼初心者の最初の1台として売れそー。撮る時はもちろん顔にメイクだ。


【3月16日】 ライブドアがニッポン放送株の株式を議決権ベースで50%獲得したってことはつまりニッポン放送はライブドアの子会社になったってことで、その子会社に議決権は消えているけどフジテレビがあってそこが産経新聞の株を持っているってことはつまり産経新聞が100%の株式を持っている会社は、ライブドアにとって曾曾孫に当たるってことでそこに所属する人から見れば堀江貴文様は曾曾曾お爺ちゃんってことになるのかな。お年玉ちょうだい曾曾曾お爺ちゃん。1億円で我慢するから。

 それはそれとしてこーなるともはや刑事民事に絡むよーな話を掘り起こしてはライブドアのイメージダウンを誘って身を引いてもらうことを狙っても、時既に遅く効き目も薄く逆にここまでの資本を投下して誘いをかけて来る相手を端から拒否し、公共性の御旗をかかげて私怨を晴らしているに過ぎないのではと、視聴者読者の悪感情を惹起しフジサンケイグループのイメージを低下させるだけって予想もますます強まってくる。相手を叩きのめして勝っても1度ついたイメージは10年は払拭できず低迷から沈下へと、30年前の道を再び辿りかねない岐路に今あるよーにも見える。

 よほど相手が全世界的な非難を浴びるよーなことをしでかしていなければ、新規参入を目論む経営者を旧体制が官憲メディアを総動員して潰す市場だと海外からも見られ、海外からの投資家を日本市場から一斉に引かせかねない。それを分からないほどの間抜けでも日本の市場関係者や金融行政担当者、そして政治家ではないし当事者になってるメディアだって叡智の結集した一団だけあって分からない訳ではないだろー。仮に現場が忠義の心から先走っても、被る影響を考えればカウンターキャンペーンもそろそろひとつの潮時として、次の段階へと進む時期に来ているって自覚がトップには生まれているって見るのが妥当だろう。そこが健全で真っ当な思考と経営観を持っている会社だとするならば、だけど。

 ってことで少なくなって来ている選択肢から想像するに保有株式50%とゆー事態を受けて、残る手段ははトップどうしの会談、そして妥協策を探る意見の摺り合わせってことで、遠からずそっちの方向へと向かって不思議はない。そこから導き出される妥協策がいったいどんなものになるのかはまるで分からないけれど、傷ついたイメージを一気に回復させたいのならここは両社のトップが過去を水に流して衆目の面前で笑顔で握手をかわし、事業の一部統合なんかを発表してしまうってのが意外性もあって市場から好感をもって迎え入れられるかも。

 笑顔で握手をしていったん相手を土俵の中へと引きずり込んで、グループCTOとかになってもらってIT戦略を担わせ地上デジタルとか著作権問題とかいった伏魔殿に関わる問題の解決に勤しんでもらい、成功したらそれはそれ、荷が重すぎて失敗したらしたで責任をとってもらうって柔軟な戦略を、ここで取れればフジサンケイグループもAOLタイムワーナーに匹敵して、世界にその名を轟かせられるんだろーけど。母屋を取られる可能性? あるけどそれも経営って奴だ。

 「ニューズウィーク」の2005年3月23日号に「ローレライ」の評。日本の漫画の英訳なんかも手がけているデーナ・ルイスってコラムニストの記事は冒頭で「ニッポンよ、面舵いっぱい! 右へ突き進め!」って感じで戦争映画の台頭に日本のナショナリズムへの傾斜を見ているよーな振りをしつつも「いや、ちょっと待ってほしい」とそーゆー見方をひっくり返す。「『ローレライ』は確かに戦争映画だが、テーマ曲には軍艦マーチではなく『宇宙戦艦ヤマト』の”さらば地球よ……”のメロディーがぴったりだ」と続けて、軍国主義なんかではなく「おたく世代の価値観」を、「ローレライ」って映画は伝えているんだと訴えている。

 「『宇宙戦艦ヤマト』『ガンダム』『風の谷のナウシカ』。日本のアニメ戦士たちはみんな、逃げることなく戦う」「子供たちがこんなアニメを見ながら育つのだから、日本が再軍備に走るのは当然?」「いや、そう決めつけるのは早い」「アニメの世界の戦士たちは、国のために戦うのではない。彼らにとって、命をかけて戦う価値があるのは国家や大義ではなく、個人として”守るべきもの”」だと分析する。国家へのプライドを抱けない現代、軍国主義を上が唱えてもそれについていく市民はそんなにいないってこと、なんだろー。

 難しいのはそーした「国家へのプライド」が、親や子供や兄弟や街への情愛へとすり替えられていく可能性が絶対にないとは言い切れないこと。同調圧力がじわじわと高まっていく中でそれを無視して流れに逆らい続けるのは結構面倒、だったら流されてしまえば楽だって気分があってそこに家族を守れ街を救えって”大義名分”が乗った時、意外にすんなりとそれに乗ってしまいそーな心配もあったりする。

 否、そーゆー風潮を斜にかまえて流してしまうのがオタクって奴で、無理強いすれば引きこもって出てこなくなるだけって意見もあるからはっきりしたところは分からない。あるいは「ガンダム」「ヤマト」に「ガンパレ」あたりを全面にオタク世代が乗ってくる戦争って奴を、考え出して来たりするのかも。「ローレライ」がどう受け「亡国のイージス」がどう見られるのか、それに周囲がどう付いて動くのかをしばらく観察して行こう。

 筑波の住民に次ぐ。「筑波西武」の「エジソン展」に行きなさい。18日から30日まで開かれる展覧会あの”発明王”トーマス・アルバ・エジソンが発明した電球に蓄音機に映写機といった20世紀を作った数々の品々が190点も並べられる世にも貴重な展覧会。バンダイがコレクターから購入して秘蔵していたものだけど、いつかミュージアムを作りたいってゆー意欲もあってそれに向けて少しづつ、あちらこちらで公開していくその第1弾ってことになるのかな。

 飾ってあるのは電球にミシンにトースターに扇風機、ラジオの輪転謄写版にアンベロール蓄音機といったもの。蓄音機とか電球、トースター、ヒーターなどは毎日実演もされるそーでそれが発明された当時のものか、後に作られたレプリカなのかは分からないけど当時の家電製品の雰囲気を堪能しつつ、それらを発明してみせた男の偉大さって奴を間近に実感できることは確か。「ニューズウィーク」3月23日号には窮地にあるソニーの大特集が掲載されているけれど、画期的な商品とは何かを探して彷徨っているソニーの人は行って発明とは何か、ユーザーが求め喜んだ製品とは何なのかを目の当たりにすると良いのかも。東京には巡回しないかな。


【3月15日】 まさかトーマが。だったとは。「ファンタジックチルドレン」はアニメに常套のクライマックスへと向かうならば、ギリシアと地球に分かれ離ればなれになったティナとソランの魂が、方やヘルガでこなたヘルガの思い人へと転生しては再び出会ってハッピーエンドってなって当然なんだけど、そこは予定調和の心地よさよりも自らの想いを優先させるなかむらたかし監督。誰もが信じて止まなかった展開を無視してそれも間際になってひっくり返して残る少ない話数であっても、何が起こるのかまるで見えない状況に視聴者を置いて楽しませる。

 トーマがそうだったとするならばではいったい、誰が誰に当たるんだとゆーのが目下の関心事でそれによって転生装置から逃れデュマからも離れて地球でヘルガとしての生を全うしようと決める彼女の運命もがらりと変わってくる。ベフォールの子供たちがギリシアへの帰還を諦め7人のこびとよろしくティナを支えるのだとしても、コンラート・ローレンツみたいにメモリーを失い記憶をすり減らせてしまたらティナを支える意味がなくなる。元の家へと帰って子供から大人になって人間として死んでいくだけになってしまう。

 それともやっぱりティナはティナへと戻りその体で生を全うした後、ゾーンを抜けて地球での次なる生を選択するのか。その果てに彼と巡り会うのか。今生での幸せが見られないのは悲しいけれど来世での幸福が約束される展開も、それはそれで悪くはない。ただやっぱりそこはなかむらたかし監督だけに、どんな意外な結末を用意してくれているのか分からない。残る2回はリアルタイムの視聴が基本。寝るな撮り忘れるな。

 子供の頃から幾星霜、作り続けら紙製のロボット「kami−robo」を含めた青木克憲さんプロデュースの作品が、大日本印刷の運営している「銀座・グラフィック・ギャラリー」で開かれているってんで銀座へと出た次いでに見物。他に山ほどの作品を手がけている人なんだけど「kami−robo」はほとんどメインの扱いで、1階には大きなロボットの模型が立てられ壁にはバンダイが手がけることになる筋肉マンけしごむ的な「kami−robo」の人形が貼られて壮観。

 おまけにゲームセンターによくあるショベルでお菓子を救ってスライドするテーブルの上に落とすと押されて落ちてポケットから取り出せるようになるマシンに、ゴムだかプラスチックだかで作られた「kami−robo」の模型の人形が入っていてそれを掬って取り出し遊べるよーになっている。ボタンをおしても接触が悪いのか仕掛けがあるのかショベルが動かなかったりするんだけど、何回かやっているうちに2個、「kami−robo」の模型のゲットに成功する。立てると簡単に自立するバランスの良い製品。これをとんとん相撲の土俵の上に立てて闘わせたりも出来るかも。

 「ゲッターロボ」の合体が”現実”には不可能だって気付いたのは一体いつ頃のことだろー。リアルタイムで見ていた時からそんなに経っていない小学生の頃にはすでに、あのぐにょんと伸びたり縮んだりする変形合体を玩具で再現するのは不可能って分かってて、だからこそ「コンバトラーV」のよーな、あるいは「ゴッドマーズ」のよーな合体の現実的な可能性に驚嘆し、「機動戦士ガンダム」の合体とゆーよりは接合に違い変形でも、これがリアルなロボットの合体だって大喜びできた。

 そんな時代から幾星霜、21世紀も5年が経って現れたロボットアニメは「ゲッターロボ」の不可能性にしょせんは合体ロボットなんて架空のmのだと諦め嘆いた記憶を晴らして未来に大いなる希望をひらくものだった。その名も「創聖のアクエリオン」は「超時空要塞マクロス」でもって飛行機からロボットへと”完全変形”を成し遂げる画期的メカ「バルキリー」を生み出した河森正治さんがその叡智を注いで生み出した、3体のメカによる完全変形・完全合体が売りのロボットアニメ。何しろキャッチからして「あなたと合体したい」ってくらいで全編にながれる「合体」への強い想いの1つが「ゲッターロボ」では夢だった3体のメカによる3種類のロボットへの変形合体を現実のものにしてくれている。

 レゴを使って動きをチェックしコンピュータを使って精度を測って生まれたそのメカは、3機ある乗り物がそれぞれにそれなりな格好をしている上にいざとゆー時には変形して、いずれがヘッドになった形で合体しては3種類のロボットへと姿を変える。なるほど映像で見ているだけならどこかにごまかしがあるかもしれないけれど、そこは絶対にごまかしの利かないバンダイの「超合金」でもって販売が決定しているメカ。リリースの暁には組み合わせを代えてもプロポーションがアニメのままの格好良さ、リアルさでそこに屹立するメカを見られるものと信じたい。「バルキリー」みたく足が入らないとかってこともなしに。

 んで肝心の作品の方はというと「創聖のアクエリオン」、これほどまでに見ながら呵々大笑できるアニメを21世紀になって、ってかこの100年の間に見たことがないってのが率直な感想。なるほど設定は1万2000年の昔に地上を舞台におこった騒乱の後、眠りについた堕天使が現代からちょい先の未来に蘇っては人類をエネルギー源として取り扱うようになって人類を滅亡の渕へと向かあせつつある時、1万2000年の昔に堕天使を退けたロボットを蘇らせるとともにこれを操ることのできる能力者も集めて、ロボットに乗せて闘わせるよーにしたって展開で、聞けば決して目新しいものではない。

 けど見れば瞭然、過去に数多あるロボット物とはまるで違ったテンションでもって視聴者に迫ってくるものがある。それは一方では映像的な迫力で、巨大なロボットがその重量感を見せつつもスピード感も合わせて見せてくれたり、人間と人間の格闘シーンでもスピード感たっぷりに拳と拳のぶつかり合いを見せてくれたりする。第2話ではややトーンも下がったかな、って気もしないでもなかったけれどもう一方の物語における突き抜けっぷりは1話から健在。いやむしろスケールを増して見る人の脳天をとろけさせる。

 合体シーン。3機のマシンのパイロットがそれぞれの気持ちをシンクロさせてはマシンの合体へと向かうんだけどその時に心も”合体”を果たすよーでパイロットシートに腰掛けながらも全身を身もだえさせつつ「きもちいいっ!」って叫びを発するからもうたまらない。もちろん「釣りバカ日誌」のハマちゃん家みたいな物理的”合体”ではないけれど、眼前で美女が身をくねらせ喘ぐ姿にはやっぱり官能を覚えさせられてしまう。真夜中に見ていたらきっとその夜は疼いて寝付けなくなること確実かも。

 そんな気恥ずかしい設定を、けれども何の衒いもなくやってしまっているところがこの「創聖のアクエリオン」の凄くて素晴らしいところ。ほかにも登場して来る熱血系の指令が圧巻の体技を見せつつ圧倒的なセリフを履いて周囲の誰をも従わせる場面とか、覚醒した主人公の少年に神話の時代に出てくるよーなキャラクターが過去世として重なってしまう演出とか、世の中を斜めに見下ろし何であってもネタとしてニヤつきながら楽しむ風潮の蔓延る現代にあって、そんなひねた対処を許さないくらいのストレートさでもって迫ってきては脳を激しく揺さぶる。

 例えば「超重神グラヴィオン」、あるいは「勇者王ガオガイガー」といった巨大ロボット物が持っていた熱さを現代に蘇らせてはオールドファンを楽しませてくれたアニメがあったけど、そーしたノスタルジックなものを求めて止まない作り手側と受け手側の感情面の結託を見透かし新しいファンは寄りつかなかった。けれども「創聖のアクエリオン」は、斜に構えたネタ的な視線も高見の見物を決め込もうとするメタ的なスタンスも許さない。圧巻のビジュアルと陶然の物語が、見ている人を年齢も経験も無関係に引きずり込んではベタな感情の渦に身を委ねさせ、作品の虜にさせてしまう。

 世紀に残るアニメになることが確実な「ファンタジックチルドレン」の後に放映されるこの「創聖のアクエリオン」が果たして前作ほどの話題を巻き起こすかはタイプが違い過ぎることもあって判断できないけれど、空前絶後とゆー意味では「ファンタジックチルドレン」すらも超えて凄まじい世界を見せてくれるアニメだけに、あるいはとてつもないムーブメントを引きおこしては21世紀の最初の10年を象徴する作品として、その名を歴史に刻むことになるのかも。とにもかくにも注目。1話2話だけで投げず最終話までちゃんと見ろ。ヒットの暁には「合体したい」が流行語大賞になったりして。合体したいなあ。


【3月14日】 本田靖春さんの「我、拗ね者として生涯を閉ず」(講談社、2500円)で本田さんが読売新聞を辞めた理由のひとつに、社主の正力松太郎さんを持ち上げる風潮への嫌気があったことを挙げているけど、無名ゴルファーとの対面を当の正力社主に記事にしなくて良いかと聞いたら必要なしといわれたエピソードを読んで、当人が望んでいなくても周囲の茶坊主どもが己の立身に社主の権威を使おうとして、あれこれゴマを擦っているって構図が見えて、企業社会の何ともいえない奇妙さに頭悩ませる。

 トップに立つ者、些事なんて本当は気にしてないのにも関わらず、トップを訪問して来た歌手だかミュージシャンだか指揮者の記事を、「正力コーナー」なんて目じゃないページの半分とか4分の3とかを使って1度ならず2度3度と紹介してみたりとかいった、そんな現象が起こるメディアがもしも仮にあったとしたらそれはもはやメディアではなくパブリシティ、それも内向けの回覧板でしかないんだけど、幸いにして周囲にそんなメディアならぬ回覧板は存在していないんで有り難いとゆーかホッとしたとゆーか。単に気付いていないだけ? 気付きたくもないから良いさ。

 同じ意味ではその日その日が勝負の新聞であるにも関わらず、電車に中吊り広告を出そうとして何週間も前からその広告に載せる記事とか企画を挙げさせ、当日どんな天変地異があったとしてもその中吊り広告で紹介されている記事なり企画が何が何でも載せるとゆーおよそ新聞とは思えない施策を取った上に印刷の関係で数日前には確実に判明しているだろー広告に掲載の企画を、明日電車に中吊りを掲出するってタイミングでもって伝えて夕刻までに記事にしろってゆー、中吊りを常用している雑誌ですら考えられない仕事の進行を平気で行い恥じず、それで売れる紙面が出来ると信じて疑わない人が上に蔓延る新聞ってのが、この世界に存在しているはずもないから個人としては超安心、檄安心。もし存在していたら? そりゃ世界のメディアが驚き注目してアンビリーバブルって言って報じるぜ。

 背中のチャックが全開になったウルトラマンとかミッキーなんとかはあんまり見たいと思わないけど(チャックなんてないとゆー意見は脇へ)、前のチャックが全開になった美女とゆーのには是非にお目に掛かりたいもの。それあ女子サッカー界でも屈指の美女のチャックともなれば開いた中にいったい何がのぞいているのかとっても気になる大いに気になる。

 日本代表「なでしこジャパン」のメンバーにも選ばれた日本体育大学の丸山桂里奈選手がYKKAPからチームを譲り受けて本拠地も宮城県から福島県へと代えて発足した東京電力のTEPCOマリーゼに入団。その選手紹介ページで恥ずかしかったこととか自慢できることを聞かれてこんな答えを返してる。

 「電車に乗ってたら、前に座ったおばさんが見るので、何見てんのかなって思ったら、おばさんが降りる時に、『チャック開いてるわよ』って言ってきて、見たらズボンのチャックが全開だったこと」。おーチャック。ドンチャック。ロッキーチャック。コルチャック。いったいどこの電車に乗って前を全開にしていたのか、知りたいところだけど既にして拠点を福島県に代えてしまった以上は地元・常磐線のローカル線に揺られて磐城なり、仙台なりへ買い出しに行く丸山選手の正面へと座り、全開になったチャックのその奥がどうなっていくのかを確認したいぞ、とってもしたいぞ。

 何しろ試合には勝負パンツを欠かさずにはくとアテネ五輪の時に宣言していた丸山選手。それだけこだわりを持っている人のチャックに奥にのぞくのは、白いレースかブルーのストライプかヒョウ柄か。熊のプリントか苺のアップリケってことは流石にないだろーけど女子サッカーの人気を背負ってたつトレンドリーダーのはくものだけに、見れば素晴らしく涙もにじむものだったりするんだろー。まさか黒々? でもってチリチリ?

 まあそれはそれとして丸山選手を迎えて選手層も充実のマリーゼが、ベレーザにレイナスにペルーレにくノ一の”4強”に割って入って女子サッカーの活性化に、ビジュアル面だけじゃなく務めてくれそーな感じがあるんで4月9日から開幕する「なでしこリーグ」には出来うる限り通って勝負パンツ……ではなく勝負の様を見届けることにしよー。今季はホーム&アウェイ&プラス1の3回総当たり。試合数も増えて会場も近くなって年中楽しめそう。行くぜ待ってろチャック全開にして。

 ダイイングメッセージからたぐられた謎解きはあっけなく、なおかつ体力的な限界を超えかねない状況にこれを果たしてミステリーと呼んでよいのかミステリーの偉い人たちに聞いてみたい所だけど、見開き2ページでもって1つのセンテンスが片づいていくスピード感ある展開と、常識を越えて繰り広げられる殺人の派手さ華やかさにこれは1つのジャンルであると納得させられてしまった清涼院流水さんの「とくまつ」(徳間デュアル文庫、638円)は、前作で刑殺って組織が現れ日本の社会を脅かす犯罪者を始末する仕事がエスカレートした挙げ句に、女子高生を自殺に見せかけ連続して殺す輩が現れたのをどーにか打倒した出有徳馬に山本新吾に双月クレアとフレアの双子姉妹。ところが事件の終結もつかの間、こもって1000人のボディガードに固められた安全であるはずの屋敷に賊が入って100人200人とまとめて殺していく。

 結果訪れた意外とゆーか唖然呆然とゆーか、驚くばかりの結末の救いのなさに前作で終わっていれば良かったのにって想いも浮かんで来たけど、そこはそれひとつのジャンル、すなわち”流水大説”とやらの披露と思い読めばなるほど描かれた画家の絵の如く、バリエーションとして過去の作品に並べられ飾られアクセントとなる気もしないでもないんでこれはこれで楽しめましたと評しておこー。ラストからいったい果たして彼ら彼女たちはどこへと向かうのか? 今度はいったい何万人が瞬殺されるのか。唖然呆然させて下さいまたしても。


【3月13日】 仕事が家では捗らないのでパソコン抱えて西東。とりあえず銀座の「ヴェローチェ」で競馬新聞を眺めるおっさんたちの隙間に籠もってぱちりぱりちと原稿を打って半分くらいを仕上げ、電池がなくなって来たんで畳んで「ビックカメラ」をのぞいてコンパクトなデジカメでも買おうかどうか迷いつつどれを買ったらいいのかを悩みつつカタログだけをもらって退散。「GAP」へと回り綿のセーターをバーゲン価格で買ってそれから内幸町まで歩き都営三田線で神保町へと向かいそこの「ヴェローチェ」で今度は電源を拝借してバッテリーをチャージしつつ原稿を最後までとりあえず仕上げてメールする。

 噂のラジオ局に務める某アナの結婚披露援後の二次会があって有名人がわんさと来ると聞いてのぞきたかったけど時間も迫っていたことと、地味な職場で地味に働く身では場違い感も多々あるだろーと遠慮し内心でご結婚おめでとうと数寄屋橋を向いて3度柏手を打ってお祝い。この不義理はいずれ我が部屋に転がっているオタクなグッズで不要なものを無理矢理贈り届けることで解消させて頂こう。しかしはたして連れ合いまでもがオタクかどーかは不明。それより旅行から帰ってきたら会社が売り飛ばされている可能性を心配した方が良いのかも。って言ってるとこっちが売り飛ばされてる可能性もあるから怖ろしい。いや本当に怖ろしい。

 それにしても今回のライブドアvsフジテレビの一件、政治方面からの”援護射撃”めいたものはあるけどそのあからさまな援護ぶりが見ている人の神経を逆撫でして世論を決して政治方面の都合の良い方へと導かなかったのはそれだけ政治方面に影響力が無くなっていたのかそれとも政治方面の能力に至らない部分があったのか。TBSで社会部から政治部を経て国会チャンネルなんかを立ち上げ電波に関する政治と役所の剛腕ぶりを知り尽くしている田中良紹さんが書いた「メディア裏支配」(講談社、1600円)を読むと、これほどまでの大きな問題を昔だったら総務省なり総務を牛耳る政治家が出てきてきっちり取りまとめつつ、メディアもコントロールしつつ国民も納得のいく形で事態を収拾させたのではと思えて来る。

 何しろ田中角栄が病で倒れる直前まで邸宅に通って政界の情報を聞かせつつ、一方では中曽根康弘総理の政務秘書とも連絡を取り合うくらいに政治に通暁してた記者。さらに退社後は国会チャンネルを作ってCSで流していたものの「ディレクTV」崩壊の煽りをくらい「スカイパーフェクTV」へと鞍替えしたものの、政界官界そしてメディア界のプレッシャーもあって戦線縮小を余儀なくされるとゆー闘争の経験を持っているだけに、政治や官僚やメディアがスクラムを組んだ時に起こる熱情なんて歯牙にもかけず、それでいて世間の情はしっかり取り付けていく様の見事さを綴る筆には高い信憑性がある。

 そんなコントロールが働けば、今回の一件だって既存メディアの圧倒的な勝利で終わるはずなのに、なぜかそうならず政治家は底の浅い発言で失笑されメディアは違法の可能性を示唆されながらもその策を選んでは当然のように敗れ去る。他のメディアはてんでばらばらに足を引っ張り合い、それを見ている国民はしらけつつこれよりはマシかもって消極的な意志でもって新興ライブドアの参入を是としてその成り行きを見守っている。政官メディアの鉄壁のトライアングルがメディアの自覚によって崩れたと見るならそれは支持できるけど、決してそうではなくって政官メディアのいずれもが知性と熱情と意志によって裏付けられた信念を失い、彷徨い漂っているだけに過ぎない可能性があるだけに怖ろしい。打開の道はあるのか? それはライブドアによって果たされるのかそれとも黒船によって開国されて起こるのか。答えはすぐにでも出るだろうし出なければその時は崩壊が待っている。

 いやすでに崩壊は始まりすでに崩壊し切ってしまったのかも。本田靖春さんが記者とライターの人生を振り返って死の直前まで書き続けて未完に終わった「我、拗ね者として生涯を閉ず」(講談社、2500円)を読むと大正力こと正力松太郎健在なりし頃の読売新聞ではすでに40年近い昔の時点で、正力社主の気にいられようとする茶坊主どもの策動によって記者が正力社主を訪ねる人の記事を書き、社主に阿るようなトーンに直して貴重な紙面に掲載しては歓心を買おうとしてたって話が紹介されていて、すでにして権力と闘い市民の期待に応える新聞は消滅しかかっていたんだってことが伺える。

 そんな状況にあって本田さんは反骨、とゆーか小骨となって喉に刺さってちくちくといたぶろうと頑張り、正力コーナーを嫌ってもう取らないと電話をかけてきた読者に話す電話に周囲の部長とかにも聞こえる大声で正力の阿呆ぶり、というより正力に取り入ろうとする茶坊主どもの間抜けっぷりを揶揄していたんだけどそれも適わず退社して後、権力に翻弄されたエース記者の立松和博さんを描いた「不当逮捕」なんかを発表しては社会に対する小骨になろーと頑張った。その功績は大きく今も燦然と輝く。

 けれども読売新聞在籍当時にはまだいた、売血と闘う医師や制度の改善に意欲を見せる役人や、そんな意欲に折れて補助金を出すことを即決した大蔵官僚もやがて姿を消して世間は政治も官僚もメディアもそして国民も、無気力で無関心な中にただ楽しくて刺激的な事柄ばかりを求めるよーになってしまった。今のライブドアvsフジテレビの騒動を見て本田さんなら何を想いどう書くか。しょせんは同じ穴の狢がかみ合う周りを狢が囲んでいるだけと、謗り嘆いて絶望するだけか。2004年12月4日の没はメディアの完全なる死を見ずに済んだという意味で幸いだったか。合掌。


【3月12日】 「世界の終わりの魔法使い」(河出書房新社、1200円)を出した西島大介さんと「極西文学論」(晶文社、1600円)が発売中の仲俣暁生さんが対談をするってんで渋谷にある「ブックファースト」へ。当日だけど席は余っていたよーでもらった整理券の番号は26番で、なおかつスタートの午後3時になっても来ていた人は10人前後といささか寂しい状況も覚悟したけど遅れて来るファンに関係者を見越していたのか10分とか遅れて2人が登場した時にはまあそれなりに席も埋まっていい感じの車座集会がスタートする。関係者がうち何人いたのかは知らない。

 とりあえず「ザ・ローリング・ストーンズ」のCDをかけつつ「世界の終わりと魔法使い」についてあれやこれや。SFのレーベルで出した「凹村戦争」よりも実は構造的に「世界の終わりの魔法使い」の方がSFしてたりするって説明には納得で、読めば割にストレートにお話が進んでいく「凹村戦争」に対して世界の成り立ちへの懐疑があり、存在への疑問がある「世界の終わりの魔法使い」の方が考えさせられることも多い。にも関わらずトークショーに来ていた観客にSFのイベントなんかでよく見る人があまり(全く?)いなかったのは不思議とゆーか。

 これが早川書房の「Jコレクション」で出た「凹村戦争」のトークで対談相手が新海誠さん辺りだったらもっとSFのファンも来たんじゃないかって印象。「Jコレクション」で「西島大介」が出した「凹村戦争」を「SF」と意識はしても、「世界の終わりの魔法使い」や「凹村戦争」を描いた「西島大介」を「SF」と想い興味を持って追っかける人ってのはそれほどいないってことなのかも。それはそれで何だかちょっと勿体ない気もしないでもないけれど、無理に引きずり込んでは将来のビッグバン的活躍へと羽ばたく西島さんのマントを引っ張ることにも繋がりかねないんで、騒がずその活動を眺め個人として追い掛けることにしよー。次はハヤカワだかで上下巻400ページくらいのすっごい話を描くとか。期待。でも果たして何時になる?

 仲俣さんとはうーん、多分トランスアートって「本とコンピュータ」を出してる大日本印刷の子会社のオフィスで出会っていた可能性があって、頂戴した名刺も手元にあるんだけどそれはもはや7年とか6年とかそんな大昔のことで、向こうもこっちを覚えているはずもなければ当方に関心を抱いているとも思えないんで、遠目にその発言を観察するに留める。「極西文学論」は西島さんも指摘していたよーに「文学論」だと背筋を立てて読んで何か結論めいたものを望むと肩すかしを食らう評論集、ってゆーかある意味”ドキュメンタリー”に近い作品で、音楽とか映画とか時事の話題とかを交錯させながらそうしたものから浮かび上がってきた小説を紹介しつつ、世界が激変するなかでそれらがどこかへと向かっている様を切り取り見せようとしている。らしい、ってまだ詳しくは読んでないんで。

 何やら「東京新聞」のコラム「大波小波」で揶揄されているそーでそれは村上春樹さんを「純文学」と言ったことへのツッコミだそーで、ブンガクの世界の何とも微妙に堅苦しい感じが伺えて興味深い。そう聞くと村上春樹さんから始まって舞城王太郎さんに吉田修一さん阿部和重さん保坂和志さん星野智幸さんといった”旬”も旬な作家たちを扱ってトレンディー、って感じたスタンスへの印象もガラリと変わっていわゆる”文壇”ってところからはみ出しがちな面々を、ブンガクの檻に閉じこめておくことなしに音楽映画といったポップカルチャーと、ベトナム戦争に全共闘から昨今の「ポスト9・11」構造といった社会政治風俗なんかとも絡めて語ろうとしているスタンスに興味を覚えて深く読んでみたい気にさせられる。

 いわゆる「J文学」とやらがもてはやされた時代に旗手的なポジションに置かれていた藤沢周さんが入っていないのは、トークショーでも話していたよーに仲俣さんが藤沢さんを苦手としているからなんだろー。あと昨今の活躍も著しい女性作家が入っていないのは女性作家の描く心理を読みとるまでにまだ、研鑽が必要だと仲俣さんが自覚しているからみたいで、これについては目下いろいろと研鑽を重ねて何らかの文章を書きたいって意向をトークショーで示していてくれたら期待。2時間近くに渡って行われたトークショーの後は著書にサインをしていたけれど気恥ずかしいので買ったばかりの「極西文学論」は鞄にしまっったまんま会場を抜けて帰宅。夜にじっくりと読もう、と思いつつもライトノベルに走る私。ライト(明)な文学を語る「極明文学論」でも書くか? 書けないよなあ、読みが浅いし良もないし。

 ライブドアによるニッポン放送株の買い占めから派生したニッポン放送によるフジテレビを対象とした新株引受権の割当を、ライブドアが不当だといって東京地方裁判所に発行を差し止めるよう求めていた仮処分のライブドア側の”勝利”に新聞放送各メディアが反応。当然ながら産経新聞はニッポン放送側を支持するトーンの内容になっているけど司法の判断が示された後だけあって真正面から反論してはかえって”公共性”を自ら否定することになりかねなって自覚もある模様。岩倉正和弁護士のように「従来の判例をくむ極めて穏当な判決」といった識者コメントも載せて裁判所の論旨を肯定している。

 その上で焦点を「企業価値」って部分に当てて攻める考えに至った様子で、伊藤壽英・中央大法科大学院教授のや弁護士の牛島信さんたちを集めて、「敵対的買収に対抗するためには『買収されれば企業価値が下がる』ことを証明する必要があるということだ」(伊藤教授)、「企業価値が著しく下がることを裁判所に納得させなければならないが、それが不十分だったのではないか」(牛島弁護士)と言わせて、ニッポン放送側の戦略上の手違いを指摘している。

 岩倉弁護士も「『企業価値の著しい低減』というニッポン放送の主張は新しい議論を持ち込んだ点で野心的だったが、残念ながら裁判所を説得するまでには至らなかった」って具合に「企業価値」の揃い踏み。社説に当たる「正論」でも見出しに「違和感残る企業価値判断」と立て、「一般事業会社とは異なる放送の公共性、報道の使命も重要な企業価値である。司法には慎重な審理を望みたい」と結んでいる。その論自体に違和感はない。

 ただ悩ましいのは審尋の過程でニッポン放送側が主張した”企業価値”って奴が極めてフジテレビの生み出すコンテンツパワーと、それに依拠する収益力にかかっているってこと。何故にフジテレビがそれだけのパワーを誇れるかといえば、原点に”電波”をゆー”国民の財産”を国民に代表して国から預けられているからで、他の幾つもない放送局と並んでほぼ独占的にテレビとゆーメディアを差配できることが、テレビとゆーメディアを利用したい広告主をそこに集め資金を落とさせ、タレントを集めさせて国民が納得して楽しむ番組作りを可能たらしめている。

 もちろんひとりひとりのクリエーターの才能と努力がそこにあることは言うまでもないし、広告主を集める営業の努力も少なくはないけれど、それにも増してキー局で5局しかない民放地上波での競争でのこと。何十何百何千ものクリエーターがイーブンな状態からしのぎを削るネットの苦労の比ではない。

 3月12日付の「日本経済新聞」に掲載されていた仮処分についての東京地裁の文書によると、ニッポン放送は審尋の過程でフジサンケイグループにあることで得られる利益って奴を数字をいちいち数字を挙げて主張していた。グループで共催しているイベントがあってそれがなくなると売り上げで71億円、粗利益で28億円が消えてしまうと言い、またポニーキャニオンとの間では、フジテレビが企画・製作したコンテンツをパッケージ化して売ることなんかで234億円の収入を上げ80億円もの粗利益を稼いでいるけど、これも消えてしまうと主張している。

 グループ内でのイベントなんかも含めると、ライブドア傘下になればあれやこれやで100億円以上の利益が吹っ飛ぶって主張していたことが書かれているけれど、こーした利益をそのままニッポン放送の”企業価値”に含めていいのかどうかって判断する時に、一方で声高に主張していた電波の”公共性”って奴が二律背反的な悩ましい問題となってのしかかってくる。

 ニッポン放送が放送しているプロ野球中継は独自の努力で集めたコンテンツと言えるから除くとしても、ポニーキャニオンがライブドア傘下になることで消えると主張している80億円の利益を生み出すコンテンツは、すなわちフジテレビが免許を与えられ”公共性”を任じることを期待された環境において、有利な条件で資金とそして人材を集めた結果結果生み出されたもの。そこから生まれる利益は換言すれば国民の”財産”であって、国民に還元されなくてはならいって論理が果たして成り立たないか。

 形としては広告費の低下となって商品価格の低下に繋がっても良いし、よりよい番組づくりの原資として使われても構わない。少なくともグループ会社の利益に繰り入れられて良しとされるものではなない。ライブドアに反論したいがあまり、フジテレビを中核としたグループにいることこそが”企業価値”なんだと声高に主張すればする程、そーしたグループ内で巨額の利益がやりとりされている実態が白日の下にさらされてしまい、なんだそんなに儲かっているのか、だったらどーして国民に、スポンサーに還元しないんだよ? って声を起こしかねない。

 一般企業の場合ならグループを離れることによって逸する”企業価値”って論理は成り立つ。トヨタグループから離れたら、ソニーグループから離れたら取引がうち切られて収益が下がるって理由から防衛に走りたい心理は理解できるけど、それとて持ち合い構造が崩壊し、グループの乳母日傘に入ってぬくぬくと経営していく状況は正しくない、むしろ独立して経営していく動きを良しとする風潮を尊ぶよーになっている昨今、主張して決して美しいものとは思われない。むしろ経営努力のなさを非難されるだろー。

 ましてや”公共性”を理由に電波という貴重な財産を付託されている放送局が、そこから生み出された利益を注ぎ込んで生み出すさらに巨大な利益を声高に”企業価値”と主張し続けて、果たして世間の納得を得られるものかどうなのか。総合力として生み出される素晴らしいコンテンツが国民の期待に答えたものになっているって主張も、もちろん出来るから一概に判断は出来ないけれど、周囲への目配り気配りをせず、いたずらに防衛意識を募らせて声高に主張した果てに生まれる国民の意識の離反は怖ろしい。

 東京地裁での結果を受けたグループのリアクションを見るにつけ、戦術としてますます”企業価値”を重視し、それをより事細かに説明して裁判所を説得しよーとしている雰囲気があるけれど、言えば言う程周囲では”公共性”を超えた内向きの意識がそこに働いているんじゃないかと勘ぐる国民が増えはしまいか、結果離反を招いて築き上げてきた地位を下げることに繋がらないかと心配しているけれど、電波を預かり仕事をしているって意識を今の放送の人って、どれだけ持っているのか分からないからなあ。ともあれ今後の展開と、巻き起こるだろーさまざまな意見に注意を向けつつ自戒して行こう。新聞だって”知る権利”を付託されて記者クラブってゆー情報入手の特権を得ているにも関わらず、それを収益にのみ結びつけて良しとする傾向があったりするから。


【3月11日】 急ぎすぎというか急がなければ間に合わないとゆーか、「舞−HiME」は玖珂なつきラブがバレて開き直った会長はんがなつきとの恋を成就させるためかそれとも自分が消えればなつきも消えてしまうからか他の姫たちをすべてバラす意志を固めまずは眼前の鬱陶しいデコを排除しよーと手に長刀を持ち地中よりチャイルド清姫を引っ張り出しては雪之のダイアナを瞬殺。かくして「舞−HiME」世界で最大級のバストサイズを誇った遙ちゃんは藻屑と消えて地中に柱が1本増えた。

 眼が完全にイっちゃってる会長はんはそのまま次の得物を狙って何処へ。おいおい弱ってるなつきを放っておいたらヤバいんじゃないのって言いたくなるけどデュランを呼び出せなくなってるなつきなら大丈夫と踏んだ、ってよりはやっぱりイっちゃい過ぎてそーした所に頭が回らなくなってしまったんだろーなー。恋は盲目。しかしあれだけ自制心の強かった会長はんが急に変わってしまったのにはやっぱり理由があるのかな。据え膳に脳がバーストしたって方がやっぱり正解かな。恋は魔物。

 でもって次回予告は何となく「学園ゲリオン」な予感。幻を見せる能力を持ったシスターのチャイルドパワーで舞衣が夢の世界へと叩き込まれては角を曲がった時に楯とぶつかり恋に墜ちるか、それとも転校していった学校で幼なじみだった楯を再開して最初は反発し愛ながらもやがて引かれ合うなんてベタなコメディへと向かっていくのか。そーした「あり得たかもしれない世界」を「水晶の姫」となった暁に取り戻して何事もなかったよーに贈り始めた途端に世界が暗転して多重次元の狭間へと送り込まれた舞衣が選び取った未来は、水平線に巨大ななつきがお尻をふりふり「ハーイ」ってやってる砂浜で、命にまがたり舞衣が首を絞めていると目を開いた命が言うんだ。「はらへった」。続きは夏に劇場で。

 映画と言えば荒川弘さん「鋼の錬金術師第10巻」(スクウェア・エニックス、390円)に挟み込まれてたミニチラシに映画の内容が紹介されてたけれどこれもなかなか凄そう。「ミュンヘン1923年、アルを蘇らせる代償としてエドに与えられた運命は、錬金術のない『現実世界』へと飛ばされることだった。グレイシアに似た家主の一失で、アルそっくりの若者と暮らすエド。見覚えのある顔はほかにもたくさんいる。しかしここはエドとその仲間たちのいた『錬金術世界』ではなかった」。なるほどこれは面白そう。作品を愛する人なら誰だって見たいと願う一種のパロディ的なストーリーだからね。

 ただあくまでフィクションにおける絶対的な”真実”として語られていた「鋼の錬金術師」の世界が、僕たちの暮らす現実世界とリンクさせてしまうことでエドの世界、現実世界のどちらかが”虚構”なんだって相対化されてしまう恐れがあって、真実としての作品世界にのめり込んでいた人たちの一本気な気持ちを、その時は喜ばせてもやがてななめ上へとズラして醒めた目線を与えてしまって、フィクションからの”卒業”を促す可能性も浮かんでしまう。

 押井守さんの「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」もそんな効果があったけど、ラストであたるとラムは彼らの”真実”へと戻って行き、一緒に視聴者も揺らぐ世界の基盤に懐疑を抱きつつもしょせんは”虚構”のアニメに入れ込む自分の態度を認識させられ、けれども”虚構”が良いんだと茨の道を歩む覚悟をさせせられた。劇場版「鋼の錬金術師」がそーゆー効果を持ち得るか、それとも現実と虚構の対峙を見せて卒業を促すかは分からないけど、一応は完結したテレビシリーズの続きを見せて喜んでもらうことだけではない、何らかの意図がそこにあるのかそれとも単純にサービスなのかを、劇場に足を運んで確認して来よう。その前にTVシリーズを見なきゃ。再放送するって本当?

 さて「鋼の錬金術師10」。ボインよさらば。ロイ・マスタング大佐の一党とウロボロスのホムンクルスたちとの戦いが本格化してリザ・ホークアイはグラトニーに襲われ東のシンから来た一党はエンヴィーに襲われるってゆーか襲い返して大乱闘。そんな中で1番安全な場所にいたはずのラストの所にマスタング一行が到着しては、ホムンクルスなんで当然強いラストを相手に大立ち回りを演じる。逆転また逆転に連続に読者も興奮。そして見せられた1つの幸せに喝采。そんな喜びもつかの間に訪れる暗雲に恐怖。何処より現れたエルリック兄弟の父ホーエンハイムが果たして敵なのか味方なのか(バレバレだけど)を想像させつつ、続くこれからの展開に否が応でも期待が膨らむ。ボインは減ったけどその分をホークアイか、あるいは他の新顔が埋めてくれると願って続きが出るのを待ち侘びよう。7月かあ。会社まだあるかなあ。

 なるほど冷戦終結の渦中に青春を過ごして世界の構造が決して確固としたものではないことを身をもって体感している世代ならではのお話なのかなあ。加えて世界の決して優しくない様を、寓話に託して語り続けるクリエーターならではの感性も籠もった話ってゆーか。少女と少年の冒険活劇に見えて二分された世界の構造があっけなく変わってしまう様を「アリソン」で描いた時雨沢恵一さんのシリーズ続編にあたる「リリアとトレイズ そして二人は旅行に行った<上>」(電撃文庫、510円)はアリソンとヴィルの冒険から10余年後が舞台になっている。

とりあえず穏やかになったよーに見える世界に渦巻くさまざまな不安や不満を所々に描きつつ、アリソンの娘のリリアとそして”英雄”と呼ばれたベネディクト、彼が救った王女フランチェスカの双子の娘と息子のうちの息子のトレイズが、一緒に旅行へと出かけた先。そこで出会う事件が2人とそして、2人の親をも巻き込んでふくれあがって行きそうなんだけど、巻き込まれたのがどんな事件かは現時点ではまるで見えず、5月に発売される下巻で繰り広げられる陰謀の種明かしが今からとっても楽しみ。戦争がなくなったため失業する人がいるとゆー現実、1つの観光地が栄えることで別の観光地が廃れ不幸な人が増える現実への目配りもあって読んで活劇の楽しさだけでない、生きる難しさみたいなものも感じさせてくれる。「アリソン」に負けず楽しい物語になりそー。イラストは今回も可愛いなあ。とりわけ裏表紙のリリア。何をそんなに憮然としてるの?


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