縮刷版2005年1月上旬号


【1月10日】 今年も10日が経ってしまって時の過ぎる速さを噛みしめる今日この頃。日付の代わる直前に見たアニメーションで男が男に股間を刷り寄せている場面がいきなり出てきていったこれはどういうことだと確かめ理解。その名も「好きなものは好きだからしょうがない!」は知らないうちに女性の間で人気になっているらしーボーイズラブなゲームを原作にして二重人格の少年たちが性格を入れ替わり立ち替わりさせながらくんずほぐれつするって頭が痛くなる設定のお話らしーけど、子安武人さんに緑川光さんに三木慎一郎さんにほかいろいろ、豪華な声優陣が起用されている辺りをみると作り手の気合いも十分ならそれでセールスが見込めるくらいに市場性もあるってことが伺え、今まで関心を持たずに来た我が身を恥じる。けど知ってどうなるってものでもないからなあ。

 アニメとしては意外に真っ当な出来ですらりとした二枚目の兄ちゃんたちが時々三枚目風に頭身を下げて暴れる切り替えも見られる水準になってて面白く、描かれるボーイズがラブラブなシーンへの耐性さえあれば男性だって見ていてくんずほぐれつする人間関係から描からえるドラマを楽しめそう。どう見たって女性にしか見えない兄ちゃんとかいて見目麗しいところもあるんで活躍に期待。一方で女だらけの学園ショウな「舞−HiME」が続いていて、萌えキャラ美少女にまみれたアニメも山と始まるなかで女子に受けるんだってポリシーがしっかりしている点を今のところは評価しよう。とか言って僕は「まほらば」を見るんだけど。おお良い出来だ最高の絵だ美少女だ。「スターシップ・オペレーターズ」に裂く人材をこっちに回してないかJ・C・スタッフ。

 そんな間にも得体の知れないアニメが2本あかり。前半後半の15分づつの前半は「UGアルティメットガール」は突き出される太くて先っぽがちょい盛り上がった棒を握ると白いものが吹きだし全身を包んで巨大ヒロインに変身する女の子が出てきて良いのかこんなアニメを放映してって心配に周囲を見渡す。誰もいなくて良かったよ。こんなの見ている所を見られるときっと不思議な野郎だと思われるよ。けどその程度で安心するのは早かった。後半の15分に登場した「ヒットをねらえ!」はクマのパンツから火を吹き空へと飛び上がる絵をバックに、「いくたみつきーしんしょう146せんちー」って脳天気にも程がある主題歌が流れて夜中に霞んでいた目が覚める。

 どちらのアニメも絵は最高で動きも万全。なのに描かれているのがこれってところに日本のアニメ市場における才能と願望と志と将来展望のかみ合っているのかどうなのか、微妙な状況がますます深まっている様を思い知る。アニメの人は本当にこーゆーのが作りたいのかなあ。見る方は平気なんだけどでももっと凄くって歴史に名を刻む作品を見たいよなあ。「ギャラリーフェイク」はすでにしてマイナス地平からのスタートとなってしまったよーだし「スターシップ・オペレーターズ」は意欲に描写が及ばない。「ネギま」は見てないけれどあれこれ聞こえてくる評判がどれそれで頭痛アップ。今クールも「ファンタジックチルドレン」に賭けるしかないのかも。あと再放送中の「機動戦士ガンダム」に

首にはマフラー、顔にはペイント。それこそクラブチームみたいなサポーターのいる市立船橋は高校サッカー界では異端なのかそれともあるべき姿なのか。実際クラブチームを作って1年2年を送り込んでいるしねえ。  船橋市民として当然の如くに我らが市立船橋を応援するべく高校サッカーの決勝戦へと国立競技場に赴く。値段が安いからなのか休日だからなのか日本に高校サッカーを愛する人が何万人もいるからなのかスタジアムの良い席はいっぱいになっていて上の方とかゴールの裏の方とかしか余っていなかったけどそこは1人身の気軽さで空いている席を見つけて1人ごそごそと潜り込んでは船橋のチアリーダーたちが踊りを練習する様を遠目に眺めて脚の立派さに感動する。これでなければ2時間近くを踊り続けられないってことなんだろー。乙女の強い意志は肉体をも変貌させるのだ。あの立派さから放たれるキックの破壊力よいかばかりか。回し蹴られてみたいなあ。

 謎だったのはたかだか高校サッカーでメインスタンド中央の指定席が速攻完売になってしまうって状況だけど到着して遠目に眺めてそこに若い女子ばかりが座っている光景に想像、そして理解。つまりは高校サッカーのテーマソングを歌っている「W−inds」のファンが来場するメンバーを間近に見たいと押し寄せたってこと。サッカーを見に来るべき場所にそーした”不純”なファンがいることをどう思うかって疑問も瞬間頭をよぎったけれど、歌が終わっても帰らずちゃんと席に座って試合を見続けウェーブにも応えて上下に動いた彼女たちの生真面目さに、例えば「モーニング娘。」とかが来て冒頭に歌って帰った時に男性ファンも同じ行動が出来るのかを問いたくなる。どーするんだろモーなおたさんたち。

 さても試合は市立船橋が4バックのサイドがまるで駆け上がらないリアル4バックをまるで上げずゴール前にべったりと張り付かせる超守備的陣形をとって、果敢に攻め上がり華麗にパスを回すシーンも見せてくれた鹿児島実業の攻撃をことごとく跳ね返す。ただ跳ね返したボールをトップに預けようにも10番なんて立派な番号を背負った巨大な選手がただ大きいだけでロングボールは常に鹿児島実業の選手に競り負け、たまにボールが飛んできても最初のとらっぷのことごとくをミスして相手に奪われ反撃されるという体たらく。ヒールパスなんてものを見せるんだけどその先には必ずと言っていいほど見方の選手がおらず、そんな一人舞台を最前線で重ねるものだからまるで攻撃が繋がらない。

 最前線を走り回って攪乱するでもなく、かといって2列目に入ってボールをさばくでもない背番号10。放り込まれたボールには脚が遅いのか追いつけず、ボールをもらおうとディフェンダーを振りきる動きもないため見方からボールを預けられることもない背番号10をけれども前半後半の90分間、使い続けた真意ってがどこにあったのかを市立船橋の監督に尋ねてみたいところ。あれだけの強豪校で背番号10を預けられた選手って以上は持っている素質は相当のものだと思うんだけど、そんな片鱗を今大会でまるで見せてくれなかったのはあるいはどこか体調を崩していたからなのか。これからの復活に期待しつつその動向を見守っていこう榎本健太郎選手。

 試合は攻める鹿児島実業を市立船橋が跳ね返す一進一退ってよりは一方的に近い展開。ながらも最後まで1点が奪えず延長も過ぎてPK戦へと突入する。どちらかといえば縁起の悪かったPK戦を今大会では2回制した市立船橋にあるは部があるかとも思ったけれどサッカーの神様は頑張った方を見捨てていなかった。攻めて何度も惜しいチャンスを作り出していた鹿児島実業が4人決め、市立船橋は2人がはずしてゲームセット。晴れて初の日本一を遠く桜島の噴煙たなびく鹿児島へと持ち帰ることになった。父が鹿児島出身で本籍も一時は鹿児島にあった身として当然のように予想していた鹿児島実業の優勝を心から祝福しよー。変わり身の速さが生き残る秘訣。


【1月9日】 陸上からサッカーであとテニスって辺りをメインにバスケットボールとかへと手を出している印象はあっても、アディダスとラグビーって組み合わせには未だどこか違和感を覚えてしまうのは、アディダスを使って大活躍しているラグビーのチームなり選手がこの国ではまだあまり知られていないからで、これがサッカーだとベッカム選手にジダン選手といった世界トップの2人がいてサッカー=アディダスってイメージをぐんと高めてくれている。ラグビーの英国代表でキックのスペシャリスト、ジョニー・ウィルキンス選手がベッカム選手と一緒に出ているCMもあるにはあったけどでも、日本人にそれほどなじみのないウィルキンス選手が出ていよーとあくまでベッカム選手のオマケでしかなかった。

 日本で「ラグビーもアディダス」ってイメージを印象づけるには何をすべきか、ってところで考えたんだろー。ラグビーだったらどこと組むのが1番知名度をアピールできるのか、社会人もあるけどそれが全国民的な人気を得ていたのは新日鐵釜石で松尾雄治が走っていた時代と神戸製鋼所で平尾大八木といった面々が爆裂していた時代くらい。メディアが東芝府中だ三洋だって書いてもそれで東芝や三洋の製品が売れたりすることもなく、そんな程度の影響力しかないチームに支援をしても効果はとっても薄そう。企業のPRでやってるチームに別の企業が協力するって構図も妙だしね。

講堂前に下がる巨大なジャージ。肩には三本線が走り胸にもマークが輝く。見上げて老いも若きも「都の西北」。ああ愛校心。そこに付け入るドイツ企業  人気だったらやっぱり学生。それも全国区的な人気を持ち得ている所ってことで選ぶなら早稲田明治に慶應ってところ。分けても早稲田の蹴球部が持つ人気の高さは国立競技場が満杯になるくらいで、出身者も多くメディアの扱いだって最高ランク。そんな所を支援すればその事自体がニュースとして破格の扱いになるし、以後も勝とうと負けようと存在するだけで、例えば11位と惨敗したって箱根駅伝でその成績が必ず紹介されるように、メディアに確実に露出する早稲田のラグビー部と一緒に三本線をアピールできるって結論に至ったと考えて不思議はない。

 ってことで早稲田と組んだアディダスジャパン。提携は確かに話題になったし三本線が入ったジャージも売れてそれなりに知名度をアップしつつも、ちょっぴり今ひとつなシーズンを重ねて大々的なアピールをするには至っていなかったけれど、大学選手権で晴れて早稲田が決勝に進出してあと1つで優勝ってことが決まった段階で早々と大隈講堂前で祝勝会を勝てばやるってことを決定。まだ試合をやっている最中からグループの「サロモン」のロゴが描かれたトレーラーを横付けしてはモニターやらスピーカーやらライトやらを設営して、勝利の瞬間を待っている人がいて、ここで負けたらすべてが無駄になってしまうにも関わらず、それだけの予算をかけて支援する価値が「早稲田ブランド」にはあるんだとアディダスが認識していることが伺える。

 幸いにして(OBにしてみりゃ当然か)早稲田が関東学院大学を破り全国選手権で久々の優勝。その会場から三々五々、早稲田へと駆け付ける観客たちで大隈講堂前は埋まって午後6時に祝勝会が始まった時は正門前から奥へと延びる広い通路を埋めて1000人くらいの人が大隈講堂に掲げられる巨大なジャージを眺めつつ大声で「都の西北」を唄っていやがった。サッカーの応援なんかではゴール裏を大きく埋める巨大ジャージだけどラグビーにもあったんだなあ。しかも学生ラグビーに。オックスブリッジ向けにこんな旗を作ってるんだろーかアディダス。ってかオックスブリッジがそんな支援を認めているんだろうか。

 それにしても底が割れたように漏れ広がって漂い沸き立つ早稲田な人の愛校精神には部外者ながらも感嘆。マイナーな母校に愛着はあっても熱烈に応援する程の意識は持ち合わせていない目から見れば、老いも若い女性も含めて腕を振り上げ下ろしながら「都の西北」を唄っている光景はなかなかに不思議で、きっと勤めている会社のラグビー部が優勝したって一緒に社歌を唄うなんてことはしないだろーと思ったけれど一方で会社よりも愛を向けられる対象を持ち合わせていることの羨ましさを抱き、そんなたくさんの愛を向けられるだけの存在感、ブランド力を早稲田が未だ衰えさせないどころかますます強めていることを目の当たりに出来てなるほど、アディダスも惚れる訳だと納得する。それが純粋な羨望か冷徹な計算かは知らないけれど。

 イベントの方にはアディダス・ジャパンの社長もかけつけ首に早稲田のエンジのマフラーを巻きアディダス謹製の「荒ぶるTシャツ」を着てスピーチをする大盤振る舞い。ここまでののめり込みを見せると流石に他の学校にも支援して、例えば明治大学のようなライバル校へも支援を行ってそこで明治のジャージを着てマフラーを巻きスピーチする、なんてことは難しくなるだろー。けどそうするよりも早稲田1校を支援することで与えるメディアも含めたOBたちへの影響力、それからラグビーをプレーして早大に憧れる高校生以下のアスリートたちへのアピール度を考えて早稲田を選んだってことなんだろー。

 成功するかどうなのか。成功しつつあるけどでもこれがサッカーほどのすそ野を持ったマーケットへと発展していく可能性は、世界での実力を考えるとまだまだ遠そう。いくら学生でブームになってもそこから先へと繋がり世界へと繋がる道が細くなってしまっている競技が、メディアの発達によって世界から本場のプレーも入って来るよーになった時代に果たして人気を保っていけるのか。愛校精神は100年の後まで続くだろーしその中でそれなりな市場は確保できても、サッカーの日本代表のユニフォームが60万枚も売れるよーなムーブメントを起こせるとは考えにくい。それとも早稲田を支援することでラグビーを強くし日本代表も強くしてワールドカップの場で日本が活躍してラグビーファンが日本にも増えてその中で、ナイキでもなくカンタベリーでもなくアディダスがラグビーの用具のトップとして君臨する時を見据えているのか。見据えていたって不思議はないなあアディダス。ならばその戦略に載って日本を強くしてもらおう。いっそ代表の強化にも口を出しては如何。

 そうそう祝勝会。アディダスから巨大なシャンパンのボトルが手渡されてそれがステージから振りまかれるってことになっていたみたいで寒空にシャンパンをかけられるのは辛いなあ、なんて怯えつつ見ていたんだけど栓が固いのかなかなか飛ばず、ラグビーをやってる選手の巨大な手から放たれる強力なパワーをもってしても飛ばず人が入れ替わり立ち替わって押しても飛ばずシャンパンは吹き上がらない。業を煮やして懸命に押し上げようとした結果、起こったのはコルクの栓が途中でぶち切れてしまうとゆー悲劇。それだけ固くはまっていたってことなんだろうけどラグビー選手が抱えるくらいの太さがあるボトルの栓はそれだけでも結構な太さがある訳で、それを途中からねじ斬ってしまうパワーを鍛え上げられたアスリートは持っているってことが分かって面白かった。ファイトの瞬間を待ち望んでいたテレビとスポーツ新聞のカメラマンにはご愁傷様と言っておこう。しかし一体どうしたんだろー開かなかったシャンパン。空手部を読んで首を飛ばしてもらったのか。それともコークスクリューで引っ張り上げたのか。


【1月8日】 週末を待って倉庫に留め置いていたのか「電撃文庫」の新刊が届いたけれど読むのは12月の刊行分から荻野目悠樹さんの「撃墜魔女ヒミカ3」(電撃文庫、683円)。普段は戦闘機乗りとして敵国を相手にプロペラ機を駆って空へと上がり類い希なるテクニックでもって撃墜王の名をほしいままにしているヒミカだけど、夜になると部屋の中に籠もっては宝石を持ってくるお客があればその願いを聞き魔術を使って叶えてみせる魔女として、様々な依頼に応えつつ悪辣な相手には罰を与える黒井ミサ的な所も見せていた。

 そんな彼女の行動を通して人の真っ当な生き方を称揚していく物語だったと思っていたら第3巻では一転、世界の成り立ちへと迫る大仕掛けの物語となっていて、そんな中でヒミカが取っていた行動にも説明がつけられる。その説明で存分に納得できたかって言うと実はあんまり分からなくってどうしてそんな状態が成立するのか、心理か魔法か量子論かと頭をめぐらせてしまったけどそれはそれとしてそんな状態に、置かれた人たちが一方にあるらしい相手を敬う気持ちも正義を貫こうとする精神も存在しない世界への懐疑を唱える物語から、真っ当に生きることの楽しさ素晴らしさが浮かんで来るから良しとしよー。けどしかし本当にあんな世界があるのかなあ。あったら行ってみたいなあ。

 折角だからと届いた中から秋山瑞人さんの「ミナミノミナミノ」(電撃文庫、530円)も読む。父の妹という女性が勉強出来ないからってくよくよするなぞ彼女の夫が育った南の島へと送り込まれた少年が、島でも古い家柄だけに島の人たちからも一風変わったポジションにいる家庭の一人娘と出会うとゆーボーイ・ミーツ・ガールの物語。その娘の春留が一本気とゆーか生真面目とゆーかなかなかな性格で、都会で過ごし引っ越しを繰り返す家庭で妙に大人びた処世術を覚えてしまった少年の曖昧な中に居場所を見出す性格とぶつかり合ってしまう様が、純真でいることの素晴らしさと難しさを考えさせる。

 とまあそんあ辺りで終われば秋山瑞人さんらしーかはともかくひとつの青春小説として好意を持って迎えられたんだろーけど、クライマックスでとんでもないことが起こってそれまでの単なる青春小説の衣ががらがらと崩れ、本当にそうなのかその設定で行くのかって驚きと懐疑に胸をかき回される。なるほどそれでも秋山さんにしては展開に驚きはあってもヒネたところがないし文体も割に普通の青春ものとして、読んで読まれてしまう所もありそーだけど表紙で入れ墨を見せている「ネオランガ」少女の春留のイリヤとはまた違った真面目キャラぶりが驚天動地の展開の中でどう描かれていくのか、また繰り出された設定が客人の少年の目と経験を通してどこに着地するのかって所で、らしさを出していってくれると期待して続きが出るのを待とう。とりあえず完結はさせてくれ。

 そうか決勝は千葉県と鹿児島県か。去年の大会でも確かあった組み合わせだけどその時は苦手のPK戦で破れて船橋が決勝に進めなず地元として残念な気持ちを味わっただけに今度は勝って優勝旗を船橋市へと持ち帰ってほしいもの、全国高校サッカーに優勝旗があったかは知らない。鹿児島県もまんざら知らない県じゃないけど今はやっぱり住んでる場所が大事ってことで。市船とPK戦の相性の悪さは半ば伝説になっていたのに、今年は2度のPK戦に勝ってき来ているだけに度胸もついているだろーから、決勝でもPK戦になれば勝てるってくらいの気持ちでリードされたら追いつく覚悟、リードしたらあとはしゃにむに頑張った挙げ句に隙を作るんじゃなく肩の力を抜いて気を楽にして1点取られたって平気って気分で挑んでほしいもの。10日は行こう国立へ。その前に原稿仕上げなきゃ。


  【1月7日】 アリッサ喋り過ぎ。これまで「うー」とか「あー」としか言わなかったのに正体がバレるっていうかバラした途端に、陰険系を演じさせても当代一だったりするみやむー宮村優子さんのボイスも得て陰険系なキャラクターを炸裂させ始めたアリッサを得て「舞−HiME」はガラリとフェーズを変えて、謎めいた力を秘めた美少女たちをめぐる日米の争奪戦、その狭間で揺れたり開き直ったり燃え上がったりする少女(と自称少女)の物語へと突入した。

 いきなり橋を吹っ飛ばすは「AWOL」に出てたよーな女性兵士をはじめ軍隊が上陸して来るわと、ことはいったいどこの国ですか状態になってて自衛隊は何をしてるんだ警察はどこに行ったんだと訝りたくもなるけれど、そういった権力にまで影響を及ぼせるのがシアーズ財団で、そんな彼らが狙うほどに「姫」あるいは「ワルキューレ」ってものが持つ力の大きさを、ここは想像して納得しておくことにしよう。深優・グーリアの戦闘服はなかなか。晶は未だに正義の忍者なまんまでその美少女っぷりを披露してくれず残念。萌えはなくなったけど燃えたっぷりなんで期待して見続けよう。ラストで卓袱台ひっくり返してくれるなよ。

 目の前で「ゲキテイ」を見られる幸せを去年に続いて今年も早々に満喫。7日からスタートする「サクラ大戦 新春歌謡ショウ」のゲネプロ(通し稽古)があったんで「青山劇場」へと言ったら正午過ぎなのにすでに何人かがグッズの先行販売列に並んでいて未だ衰えない「サクラ」人気ぶりに感嘆。入交昭一郎さんに大川功さんに廣瀬禎彦さんに香山哲さんで今は小口久雄さんといった面々が上をずらずらと通り過ぎて来てもしっかりと存続しそれなりに存在感を示し続けるこの作品を、セガはやっぱり大切にすべきなんだろーけど果たしてこの先どうなることやら。

 「歌謡ショウ」はまずまず。前半は劇で中盤は朗読劇&ミュージカルでエンディングにコーラスそして「ゲキテイ」へと続く展開が新春早々、七草粥を食べる頃合いに入って学校が始まる受験が本格化する冬が厳しくなるって思ってもたれた気持ちをスカッとさせtくれるだろー。ゲネプロなんで誰も立ち上がって一緒に腕を振る人が見られなかったのは残念だけど10日までやっていることだし時間があったら後ろからでもいいから覗いて、燃え上がるパッションを少しもらって厄年の厄をふき飛ばして来ようかな。原稿書き? ああ連休が。連休できるのか。

 年末に宅配便が受け取れないまま送り返されてみたいで「電撃文庫」の新刊が手元に届かず秋山瑞人さんの新刊とやらに触れられないけれど、その分を溜まっていた12月分の読書へと振り向けようやくやっと、水落晴美さんの「空曜日の神様」(電撃文庫、610円)を読む。たとえば4月31日とか9月31日っていった存在しない日”空曜日”が描かれたカレンダーが流行始めた学園で、学生が自殺未遂を起こしたりと奇妙な出来事が起こり始めたある日。コンビニでバイトしていた少年は交通事故に遭った少女を目撃してやがて彼女たちと関わりを持つようになり、そしてこの世とあの世に隙間にある虚ろな世界に漂う「あわい」に引きずり込まれていく。

 美少女2人が手を組み胸を寄せ合ってこっちを見つめる表紙がとってもキュート。あるいは昨今隆盛の「プリキュア」的美少女2人が大活躍物語ファンを狙ったのかもしれないけれど実を言うとまるで「プリキュア」を見ていないので関連性があるかは不明。ただ彼女たち、葵と茜の秘密に関する設定とかはいろいろと考えてあってそれらが明らかになっていく段階は面白い。運命を背負った美少女2人の戦いの物語はそれとして、存在しない”空曜日”という設定、そこに願いをかける意味とそれからどこか遠くに行きたい若い人たちの願望といったドラマを、取りだして描けば「天夢航海」にも重なる痛くて淡くて切ない青春ストーリーにもなった気もして勿体ない気が。ハードカバーの単行本として書かせてみないかな。


【1月6日】 そうかだったらこれから佐藤友哉さんを見かけたら”いようっ綿金世代っ”ってかけ声をかけなくっちゃいけないのか。77年生まれの冲方丁さんも78年生まれの滝本竜彦さんも80年生まれの成田良悟さんも81年生まれの西尾維新さんもみんないっしょくたに”綿金世代”ってことになってしまうのか。そんな訳ねーじゃん。6日発表になった芥川賞と直木賞の候補作。毎日新聞の夕刊が21歳の白岩玄さんが候補になっているってことと1年前に19歳の綿矢りささんと20歳の金原ひとみさんの2人が受賞したことを絡めつつ「日本文学の地殻変動は、この70年代後半〜80年代前半生まれの“綿金世代”の進出で加速している」なんて書いてて鼻から血が出るくらいに笑う。

 別に綿矢さん金原さんが芥川賞を取る以前から佐藤さんも滝本さんも冲方さんも乙一さんも立派に作家として活躍してて本も何冊も出してたのに、芥川賞っを20歳そこそこの女性2人が揃って取ったってゆートピックがさもきっかけだったかのよーに70年代後半から80年代前半の作家達がわんさと出てきて活動を始めたかのよーな印象を、この記事って与えかねない感じがある。メディアのとりわけ旧態依然度が極めた高い新聞から見れば、芥川賞こそが賞の中の賞であってそれを取ったものこそが、世代を代表するに相応しいのかもしれないけれど現実は”綿金”なんて括られるより以前から、10代作家20代作家は世に出て活動を行ってきた。

 むしろ綿矢金原が”ゼロ波の新人(by講談社)”の後継って言って言えそうなのに、メディア的にはやっぱり芥川こそがナンバーワンであり時代の代表であって、故に”綿金世代”ってのが標準となって定着して、吉行淳之介さん安岡章太郎さんあたりが爺さんになっても”第三の新人”と呼ばれたよーに婆さんとなった2人とそして爺さんになった佐藤友哉さん滝本竜彦さんあたりをいっしょくたにして”綿金世代”と呼び続けることになったらちょっと気持ち悪いな。かといって乙ユヤ世代とか舞滝世代ってのもなあ。ともあれ作家になりたいと考えている10代20代の人は自分達が”綿金世代”とひとくくりにされる栄誉に浴せるんだって覚悟を持って、小説を書きデビューして来てくださいな。それで何か賞を取ったらかけつけ”綿金屋っ”て茶々を入れてあげるから。

 さて候補作からは話題性ってことで芥川賞は”綿金世代”らしー白岩玄人さんが来てしまいそうな予感。阿部和重さんは何度目の候補になるのか分からないけど何度もなる人ほど取れない傾向がある感じなんで永遠の候補として島田雅彦さんの後を継ぎそー。それって不吉? いえいえ幾つになっても最前線で活躍できるって意味で幸運でしょー。直木賞は角田光代さんかなあ、最近の”女流”偏重からすれば。もちろん角田さんはいつ受賞してもおかしくない実力の人だから問題はないんだけど、政治性が働きやすい賞だけにやっぱり傾向に絡みとられて本来評価されるべき実力へ目が向かないのが残念というかやるせないというか。福井晴敏さんは悪くな無いけど短編集だからなあ。「ローレライ」やら「イージス」に与えてないのにサイドストーリーに与えて良いのか、ってもし取れば論議を呼びそう。直木はやっぱり伊坂幸太郎さんかな。あと売れ行きで本多孝好さんか。もっと大勢、候補になって不思議じゃない作家がたよーな気がするんだがなあ。

 ゲーム業界の新年賀詞交換会があったんでのぞいてソニー・コンピュータエンタテインメントの偉い人に「プレイステーション・ポータブル」を見せびらかしながら「奇跡的に動きます」と言ったら怒られた。いや怒られはしないけれどでも聞くと言われているよーな不具合ってのはほとんどなく、とくにUMDが飛び出すよーな故障はそれほど聞かず唯一ボタンの部品にバリがあって押した感じに違和感が出ていたってことはあったけど、それも改善が済んでてこれから出てくるものに不具合はまずないってことだとか。

 液晶もシャープの特別な奴を使い続ける覚悟だそーで一部に噂のあった韓国製の液晶に切り替えるなんてことはしないと断言。UMDへの映画業界の参入も遠からずあるとかで、これから後いろいろと使い勝手が向上して行きそう。なんだけど我が家の「PSP」は相変わらず「みんなのGOLF」専用機。12月12日からひたすらプレーをし続けよーやく「みんごる王」まで来て、ランクも「シルバー」まで上がって次のステップまで星あと3つって所まで来てちょっと足踏み状態にあるけれど、まあそれでも少しづつ星も溜まっていってるんでいずれ遠からずクリア出来ると信じたい。次は何して遊ぼかな。「ニンテンドーDS」の「大合奏バンドブラザーズ」もクリアしたいけど、これって友達がいないと面白さは半分くらいしか味わえないからなー。「みんごる」を対戦できたり「バンブラ」で合奏できる会社。ないっすか?

 「ジオン公国に栄光あれ」も今年2回目。最初は劇場版の第1作目が千葉テレビで放映されている時に見ていて割にあっさり騙されてやがるなあと可哀想に思ったけれど昨年秋からテレビ版を放映している千葉テレビ水曜深夜で「ガルマ散る」の放映があって続けざまにみるとあっさり騙されていやがるぜって苦笑が浮かんでしまう。シャアが謀らなくたってこのお人好しぶりでは遠からず地上で撃たれたか、あるいは慕われる正確を嫌ってギレンあたりから粛正されただろーから物語に華を沿えシャアの引き立て役となって散ってある意味正解だったかも。「やらせはせんぞ」と言ってたドズルよりも100万倍は印象に残るキャラになった訳だし。テレビはしばらく鬱展開でランバ・ラルにハモンの追撃があって葛藤するアムロに格好良すぎるオヤジの戦いぶりが拝めそー。「ククルス・ドアンの島」は見るべきか。何話だったっけ。


【1月5日】 年明け早々ノ「エル・ゴラッソ」は天皇杯の記事より「全日本女子サッカー選手権」の決勝の記事を目的に購入。スペースこそ男子の天皇杯煮も高校サッカーの3回戦あたりにも大きく負けているけど半ページを超える分量で取り上げているのは新聞メディアとしては恐らく最大。荒川恵理子選手がカップを被ってパーマをかけ直している(違います)写真を使って横に福々しい小林弥生選手の顔を並べるあたりもまあ、それなりに分かっている感じがして好感が持てる。普通は雛壇でカップや楯を掲げている写真だよな。それだと澤穂希選手も酒井與惠選手も写ったんだけど、まあいいや。

 記事は江橋よしのりさん。良く知らないけど女子サッカーとか見てみました風記事ではなく、ちゃんと試合の内容から選手の感情までを尋ねて字にしてる。荒川選手のプレート工事の話を尋ねたのもこの人? いつかは抜かなくちゃいけないものだったんだろーから、とりあえずタイトルを1つとってチームも上向きになっていて、大野忍選手がグレードアップして永里優季選手がメディアのスポット的な扱いじゃなく戦力として確立されて来れば分厚い中盤に強固なディフェンス陣とも相まって、荒川選手がいなくても4月から始まるリーグの緒戦を勝ち抜けるだろー。今季から試合数も増えそうでその分、取り返しも利くし。気になるのは澤選手の去就か。米国リーグは再会するのかな。山口麻美選手はどうしてるんだろ。

 「文藝」か「小説トリッパー」あたりに一挙掲載された上で海なり空なりの写真が使われたハードカバーの単行本として出版されたとしたらあるいは、芥川賞の候補にもなって年ごろの少女たちが苛烈な状況におかれる中で、さまざまな思いや経験をしながら懸命に生きようとして成功したり挫折したりする姿を描く新世代の旗手として、メディアの注目を浴びワイドショーから写真誌からその動勢を追っかけ回されるくらいの存在に、なったかもしれないなあと桜庭一樹さん「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」(富士見ミステリー文庫、500円)を読んで思う。当人のビジュアルが綿谷りささん金原ひろみさんに互しているかは知らないけれど。

 転向してきた美少女は何やらエキセントリックさで知られる二枚目タレントの娘だそうで確かに美少女だけどどっっか不思議。自分を「僕」といい「人魚だ」ともいってクラスの人たちを戸惑わせる。脚を引っかけられて転ばされても負けず転ばした男子ではなく無関係な女子を向いて「死んじゃえ」と毒を吐く。吐かれた女子は戸惑いながらもなぜかその美少女と関わりを持つようになって家を尋ねたり映画を見に行ったりするけれど、友情が芽生えたかというとそうでもなく、反発したり喧嘩もしたりしながら日々を過ごしてる。

 学校では不思議さ爆裂な美少女だったけどスーパーで父親と一緒にいるとこをみかけた彼女は大人しく父親に従う娘。時にエスカレートする父親の言葉と肉体的な虐待にもその場では絶え、親がいなくなると一部始終を見ていたクラスメートにやっぱり学校のように悪態を付く。父親に逆らえない心理。父親に逆らいたい感情。ACな物語の典型を行きそうな人間関係を設定した上で、逃げ出せもせずかといって耐えることも難しくなって来た少女のもがき足掻く姿を、クラスメートの目から描いてどうなってしまうんだろうと焦燥感を募らせる。

 というか既に冒頭で結末は明らかにされているんだけど、クラスメートの少女自身がひきこもりの兄を家に抱えていて、お金の足りないため高校進学は諦め中学校を出たら地元にある自衛隊に入隊するんだと決心している境遇。そんな妹の苦渋を知ってか知らずか、兄はただ知識だけをむさぼる王子様となっていて、探偵役として美少女に起こっている問題の解決に示唆を与えようとするけれど、すでに見えている結末は揺るぎなくラストに大きな悲劇が到来し、避けられなかったのか、避ける方法はなかったのかと嘆息させられる。

 SFではないしファンタジーでもなくミステリーと言うよりはやっぱり青春小説で、それも苦さと痛さがたっぷり入った物語。読んで共感し安い世代に届くって意味で「富士見ミステリー文庫」のパッケージは適当だけど、この才能をより広く、遠くへと届けたくても今の社会を左右するおっちゃんメディアではライトノベル系を紹介するコーナーもなければ人もいない。しょせんは砂糖菓子だと言っておっちゃんたちはつまみもしない。なるほど世間って奴は撃ち抜けない、砂糖菓子の弾丸では。まあ小野不由美さんだって近頃ようやくおっちゃんメディアに乗って遅蒔きながらも認知された訳でそのあたり、段階を踏みつつ浸透していけば良いってことで、桜庭さんにはこの路線を探求し続けていってくれることを願おう。

 待望、と言っていいのかな、大昔にあった「電撃アニメーションマガジン」(今の「電撃アニマガ」とは別物)とゆーアニメ誌で連載が始まるや、その楽しくってシリアスな設定に歓喜し連載を読み文庫本も買って展開を見守ってきた「スターシップ・オペレーターズ」が遂にアニメーションとなってテレビに登場。録画して見た作品は……作品は……なるほど米国市場を意識したってこともあるのか原作のイラストにあるコミカルな雰囲気をばっさりと落としてキャラもシリアス系に振り、話もリアル系へと振って大人が見ても呆れず飽きない内容になっている。

 艦長のおっさんが目をまるで演技させないまま口パクだけで喋っていたりするシーンとか、あってなかなかに微妙な印象を冒頭では受けたし、現代でさえ禁煙オフィスが増大し、部屋の中ではまず煙草が吸えないよーになっている上に、デリケートな電子機器が山と置かれて火の気なんて厳禁な筈の調整室で煙草を吸い、ジッポライターをかちゃかちゃとやるプロデューサーが出てくるのには驚いたけれど、一種記号としてのプロデューサーだと思えば記号を成り立たせる小道具として不可分なのだと理解。段落ついて戦艦アマテラスが候補生のものとなって以降、最初の戦闘シーンへと飛ぶととたんに話に緊張感が出てキャラクターの表情もそんなに気にならなくなる。美少女キャラだからそこにいるだけで良いってこともあるのかも。

 たかだか士官候補生が強大な敵と、たとえ最新鋭の戦艦を持ち補給も受けられるとしても戦う事を決意するまでの心理的な葛藤が、まるですっ飛ばされていたのは残念だけど、そこはそれ、好奇心に支えられたメディアが戦争の生中継という美味しすぎる素材に金を出すという構図を、そういったことが現実にありそうなのに表立っては不謹慎と言って隠す既存のメディア的構造の上に載せてみせたにとりあえず拍手を贈ろう。女子プロレスなシーンはやっぱりやるのかな。この大人チックなキャラでやってくれると迫力は満点なんだけどな。


【1月4日】 真っ当な会社の真っ当な仕事始めがどんな感じか知らない身には社長さんお挨拶があって部長さん課長さんの挨拶もあってそれから取引先なんかに年賀の挨拶電話をしたところでほぼ正午。半ドンでもって午後には新橋新宿渋谷へと繰り出しすき焼きか鮟鱇鍋でもつっつき、2軒3軒と回って午後の8時くらいに家へと赤らめた顔で帰り着き、手に提げた寿司の折り詰めを渡しておーい今帰ったぞ、あらあらこんなになっちゃって今お茶淹れますからといった会話がなされる横で息子が黙々と「グランツーリスモ4」で遊んでいるとゆー情景こそが、サラリマン的な仕事始めの1日だって想像したし願望もしているんだけど果たして現実や如何に。こっちは朝から晩まで原稿書きだ。その量はほぼ1ページ分。うむ。

 少々買い出しにジュンク堂まで出向き「放課後退魔録」の1巻から3巻までを仕入れ(4巻がない)とっても偉い店員さんが横を通り過ぎるのを横目で見つつ1階へと上がり松本零士さんの「大四畳半物語」を……じゃなく野坂昭如さん「四畳半襖の下張り」を……でもないけれどいずれ日本3大四畳半と呼ばれることになるかもしれない森見登美彦さん「四畳半神話体系」(太田出版)も買ってついでに「アニメイト」から「K−BOOKS」から同人誌ショップが並ぶ通りをなめてこの何年かで店構え品揃えが女性向けになっていることに改めて気付く。まだ学校が休みだから高校生っぽい子とか中学生っぽい子とか大勢いて階段の下とかで屯していて彼女たちが育ち可処分所得をいっぱい得るようになった暁には、日本のオタク産業はますます発展すると安心して胸をなでおろす。でもきっとやおいでお姉さまに憧れていて二次元な男のオタクとは永遠に平行線を辿り子々孫々の繁栄にはつながらないんだ。

 夕方も近いんでご飯をかきこめる所を探しているうちに「タレが変わった」ってポスターを見て「吉野家」の豚丼を登場からほぼ10カ月ぶりくらいに試して見る。最初の登場時煮も食べたけれどあの頃が牛丼のレシピに加えて豚の臭みを消そうとしたのがゴボウが中に刻まれていて、味はともかく店内に漂う臭いが逆にゴボウの独特な香りでいっぱいになっていて、冬場の暖房にもあおられなかなかに悩ましい感じとなっていて2度3度と食べるのを妨げていたけれど、空いた店内で試した今の豚丼はタレと豚肉とのマッチングがそれなりによろしくこれなら2杯3杯といけそーな感じ。でもやっぱりらんぷ亭の牛丼なり、すき家のハーブチーズ牛丼なり松屋のデミ玉ハンバーグ定食の方を店が並んでいたなら選びそう。吉野家の牛焼肉丼は前に頼んで焼きが足りず裏が冷たかったのでしばらくパス。店員さんが未だに慣れないってどういう教育をしてるんだろ。

 まあ元が牛丼オンリーでせいぜいが牛皿定食にあとは朝定食当たりしかない関係で、提供する側のコストも店作りにかかる設備もそれを使いこなす店員さんの教育も、最小限で済んでいたものがいつまで経っても解禁とならない牛肉の輸入と、それに伴う売り上げのダウンに遅蒔きながら対応しよーとメニューを増やしていったのは良いものの、未だ牛肉輸入が再会されないのはおかしいおかしいと言い続けている社長の未練が悪い形で伝播したのか、増えるメニューに現場の仕組みも意識もなかなか追いつけないって所があって結果、それがサービスとか味に何らかのネガティブな影響をもたらしているって感じ。店頭の活気のなさがやる気もそいでしまっているのかもしれない。

 牛肉の輸入再開がされないことに異論があるのは分かるけど、何年か前にやっぱりBSE騒動ってのが起こって牛肉の輸入が停止になる可能性が予見されたにも関わらず、収益面から単品販売に傾斜した挙げ句に売り上げを落としなおかつ、こだわりを捨てきれずまたコストが嵩むことも嫌って新メニューを増やせず、売り上げを3割落としてしまった経営陣が未だに被害者意識を持っているのだとしたら、でもってそれが転機を逃す原因になっているのだとしたら株主なり親会社の人もそろそろ抜本的な対策を講じた方が良いのかも。新しい取引先に対して誠意を見せなくてはといいつつ一方では単品メニューこそが生命線だとインタビューに対して応えてみたりと揺れまくった初期の印象が、1年近く経った今も拭い切れてないんだよなー、あの社長さんから。でもまあ豚丼の味は良くなって来たんで高い授業料は払ったもののここからの巻き返しも期待できるのかも。輸入再開が本格的に決まってからの言動立ち居振る舞いに注目。

 「放課後退魔録」を3巻まで。最大の問題はやはり遊天童子にはついているのかどうなのか、って部分で上についていたって下にもついていたらそれはそれでなかなかに微妙。かといって下に付いていなくても上までついていないとちょっぴり寂しい気持ちになるんでおのあたりを作者の人にはいつかきっちりして頂きたい。まあウェイトレスの格好をしているって外見だけでも愛でる価値はあるんだけど。さてお話はといえばアマタケ雨神丈人がどーしてああまで凄い野郎になっていったかって辺りがちゃんと段階を踏んで書かれてあって本編らしさ十分。つまりは新しく始まった「○」に「る」のシリーズは事が終わった後の外伝ってポジションに見えるけど、世界自体は地続きで地球が攻められてるって状況は変わりなく且つ一段の強敵が襲い掛かっているって感じもあるから本編シリーズの熱いファンだった人でもそのまま読んでいって良さそう。前のが4巻出るまでに3年くらいかかったのかな、年に3冊4冊出るシリーズも多い中で埋没してしまいそーな感じもあるけど、とりあえず続き完結し続編も出てるってことはそれなりにファンもいるってことで、途絶える心配はしなくて良さそうなんで歩みは遅そうだけど気長に読んで行こう。


【1月3日】 発売日を除いて在庫のあるところを見たことのない「プレイステーション・ポータブル」がやっぱりどこにも売っていない秋葉原へと行き、開いていた「K−BOOKS」で今年もやっぱりパンツをはいてない一ノ瀬弓子クリスティーナに挨拶した後、買い残していた佐々原史緒さんの「トワイライト・トパァズ」シリーズ「かくて災厄の旅がはじまる」&「かくて流転の定めはつづく」(ファミ通文庫)を仕入れて一気に読む。何だか「サウザンド・メイジ」ってシリーズと関わりがあるらしーけどすでに脳の中から記憶が失われていて読み返した方が良いのかな、って思ったけれど心配無用。新シリーズは「サウザンド・メイジ」から時代も随分と下がってドラマに直接的な関連はなさそーで、実際に2巻まで読んで新シリーズとして独立して楽しめる感じになっていた。

 最低限としてはハイ・エルフの女性で御歳1500歳、なんだけど見かけはドジっ娘なアダマスさんと、その相方みたいな役回りだったオニキス・ドーナって魔導士の存在くらいは認知しておいた方がよさそうだけど、個人的にはまるで記憶がなくっても何とかなったんで機会と時間があれば「サウザンド・メイジ」は読み返すことにして先を急ぐ。新シリーズでは主役はトパァズって魔宝士の見習いだった少女で、口は悪く金遣いも荒いけれど実力だけはピカ一とゆー師匠のルキウスの下で修行をしていたある日、町で起こったテロに巻き込まれて気がつくと途中で助けに入ってくれた師匠のルキウスが行方不明。探すと師匠はとんでもない姿にされていて、かくしてトパァズのルキウスを元に戻す方法を探す流浪の旅が幕を開ける。

 師匠を人間に戻せるアイテムの在処を知っていると聞いてまずはハイ・エルフのアダマスを探しに向かったトパァズは、とある商店で強靱なおばさんたちとバーゲンの布地をとりあっている少女を見かける。どこかヌけた所のあるその少女こそが実は……といった感じで1巻はトパァズとアダマスが出会いルキウスがとんでもない姿にされてしまった理由も明かとなり、魔宝が外法の使われ方をされないように見張る「黒曜守護団(オニキス・ガードナー)」なる集団も現れトパァズの旅は、王政復古を目論むテロリストたちとの戦いに巻き込まれつ、強力な力を持ったオニキス・ガードナーとの戦いへと向けて進んでいく。

 超高齢にはまるで見えないアダマスの役立たずっぷりとか、彼女が連れている親友だったオニキス・ドーナの使い魔・琥珀といった突き抜けたキャラに引っ張り回され引きずり回されるトパァズの苦労っぷりはおかしく、そんなトパァズが単なるオチコボレ魔宝士なんかじゃなく、何やらとっても強い力を秘めていそうなところを伺わせてくれて先への興味をかきたてられる。テロリストに利用されそーになって逃げ出すといった感じにエピソードのスケールがまだ珍道中レベルでしょぼいけど、最初ちょろちょろなかぼうぼう、やがてトパァズも己の力に目覚めて世界を揺るがす巨大な敵へと挑んでいく、スケールの大きな物語へと展開していってくれると思いたいけど、でもアダマスさまが終始一貫おとぼけキャラだからなあ。このまま珍道中で終わったりして。

 こちらは前のシリーズを読んでおかないとちょっと繋がらない感じ。岡本賢一さんの「放課後退魔録る」(角川スニーカー文庫)は「る」の字が「○」で囲まれているんだけど一体何かが分からない。「○」に「ま」が入ったシリーズが妙に売れているからあやかっただけ? なのかは分からないけどまあそのうちおいおい説明があるでしょー。話はうさみみのカチューシャを拾った少女の米子が妖魔術クラブに入って地球を狙う秘密結社のベロルを相手に闘うって話で、途中から九堂とか五郎八(いろは)とかサヤとかいろいろ遊天童子とかキャラも増えてきて、何やら曰く因縁ありげに会話しながら米子とそして幼なじみの少年カネルを巻き込み強大な敵との戦いへと引きずり込んでいく。

 脳味噌が弱っていて「放課後退魔録」を読み切っていたか記憶になく、出て来るキャラの属性特徴も分からず大ネタ的な部分が果たして周知のことなのかそれとも意外な展開とシリーズの愛好者たちを驚かせる事実なのかも判然とせず、新シリーズとしてどう価値を判断して良いのか迷うけれど迫る妖怪たちとの戦いは何ともスリリングだし宇宙から来た敵との戦いはさらに大迫力。何やら含みのありそうなエンディングもあって続きをとっても気にさせる。けどやっぱり読むなら前のシリーズも読んでおいた方が良いのかな。黒星紅白さん描く遊天童子が可愛い。

 中部関西四国九州の人間にとって関東ローカルな大学が寄り合い箱根までかけっこするだけの、国際陸連的にもオリンピック的にもまるで無意味な大会にどーしてこうもメディアが感心を示し観客がいるのかって所が謎だけど、そこは首都圏モンロー主義にそまるメディアの常、東京が雪なら沖縄が晴れでも北海道は2カ月も前から雪に閉ざされていても、全国中継のワイドショーで「今日は雪で大変でして」とやるキャスターにアナウンサーの山といたりする状況では、関東ローカルの大学のかけっこがフレームアップしてさも全国民的関心事とされてしまうのも仕方がないことなのかもしれない。箱根駅伝のことですね。

 年々派手さが増しているとは思っていたけど東京に出て来て満15年となる今年は大手町の読売新聞前に儲けられたゴールへと続く沿道に、各大学の応援団が連なりチアリーダーも出て大応援合戦を繰り返すとゆー一大イベントとなっていて、人は集まってもせいぜいが沿道で旗を振る程度だったこれまでとは大きく様子を変えていた。こんなところで応援したって勝敗は決しているのになあ。でも応援団が一般の人に間近でパフォーマンスを見てもらう機会、なおかつ他校とパフォーマンスを競い合える機会って滅多にないんで来年以降、その勇姿を見るイベントとして定着して行きそう。今年は近寄れなかったけど来年はチアリーダーの前まで行くぞ。

 読売新聞とスポーツ報知が仕切り日本テレビが放送する箱根駅伝とはまるで関係のない、むしろライバル的なイベントのはずなのに産経新聞も本社前のサンケイプラザを開放してオーロラビジョンでレースの模様を中継するわ、ミズノとか読売新聞のブースを作ってグッズを販売するわといった協力ぶり。家主のサンケイビルがやっていることとはいえお膝元で読売やら報知の旗が振られて産経幹部の心情いかばかりかと推察する。それともやっぱり”我が校”の頑張りを応援したいって気持ちの方が強いのかな。でもって編集担当の母校が勝つと扱いも途端に大きくなる、と。東大は出場してないんだけど。朝日じゃないから別に良いのか。早稲田は11位に惨敗だったんだけど。負けてもニュースになるから関係ないのか。


【1月2日】 男の大厄を来年に控えたつまりは前厄ってことでこれは一大事と朝から近所にある中山鬼子母神こと大本山法華経寺へと向かい厄払いをしてもらう。法華経とか日蓮聖人とか信心しているわけじゃないけどでも、古来から(本当に古来からなのかは知らない)言われている厄年ってものには何某かの根拠ってものがあるはずで、たとえ気休めでも、というより気力体力の衰えから来るガタにミスが厄年の根底にあるものだとするならばなおのこと気を休めておいて悪いことはないだろう。実際に健康は今ひとつで身辺も何かとあわただしいし。

 ってことで到着した中山鬼子母神は朝がまだ早かったこともあって行列はまだ少なく、すんなりとお札をもらい祈祷してもらって厄を祓ってもらって1時間も経たずにに終わる。聞くとこの中山鬼子母神、日蓮聖人が最初に開いた寺で小松原での法難とやらにあった際に救ってくれた鬼子母神を、法華経寺で療養している時に自ら刻んだものだそうで末法と言われて久しいこの世に立ち向かうには絶好の存在って言えそう。

 そんな鬼子母神の前で名前を読み上げられ厄を祓ってもらえたんだから今年1年はきっとそれなりに真っ当な、年になるって思いたいけど新春早々、「大人のディズニーランド化」だなんて見出しを付けられたデパートの改装記事が元旦1面トップを飾る新聞を目の当たりにしてまって不幸と絶望のどん底へと叩き込まれた気分を味わったからなあ。大丈夫じゃないかもなあ。なお大厄は本厄があって後厄があって3年連続じゃないと意味がないんで来年も行かなくっちゃ。行けるかな。都落ちせず留まっていられるかな。

 流れに逆らうのはなかなかに難しいことで、たとえ心の奥底で異論を抱いていても周りが、全体が認め奉っていることに真正面から異を唱え反旗を翻しておこる迫害とか、弾圧か無視とかいった仕打ちに耐えられるだけの強さを持ち合わせている人間は少ないし、強さだけあっても現実社会で生きていけなければ宝も腐る。ならばいっそ流れに身を委ねてしまえば気も楽だし、いい目もみられるってことでかくして社会はひとつ意見に染め上げられ、同じ方向を向いて突き進んでいく。そこに奈落があっても。

 コミューンめいた運動があってひとりの発起人が「入植地」という自給自足の共同体を作り上げる。一種共産主義チックな思想を持った運動に参加したもののついていけず脱落する人もいたりして、まあよくある世間からの醒めた目の中でそれでも新たな参加者を得て活動していたのだけれども、そんな状況が別の運動が起こったことによって一変する。北陸で発生した「土踊り」。仮面を付け太鼓のリズムにあわせてくるくると踊るその踊りがなぜか北陸に留まらず全国に広がって、全国民を”信者”めいたものにしてしまったのだった。

 すばる文学賞を受賞した朝倉祐弥さんの「白の咆吼」(集英社、1400円)は、やがて「土踊り」が沖縄も陥れて九州もほとんどを席巻し、あとは「入植地」のみを残す場面へと進んでいく。中には「土踊り」の熱狂から離れたくって入植した人もいて迫る土踊りを相手に戦いを主張するものもいたものの、かつて「入植地」にいながら「土踊り」の側についた男の説得と、客観的な情勢から戦いの困難さも感じ取れたこともあって、「入植地」の発起人は迷いつつも決断をする。ところが時すでに遅く、入植地には軍靴ならぬ群衆の跫音が迫っていた。

 ひとつ主義主張にこりかたまっているようにメディアなんかでは捉えられがちで非難されがちなコミューンだけど、日本全土がひとつ思想に染めあげられた中でただ一カ所、自由な思想が残った場所として浮き上がってくるのは何とも皮相的。異論を認めず異分子を排除したがる日本の傾向を寓意的に現しているって言えるし何より昨今の、右向け右な感じに染め上げられつつある社会の雰囲気が象徴的に描かれてるようで読んで慄然とさせられる。

 最初は少年達の純粋な想いに過ぎなかった「土踊り」が世間にひろまり社会に認知されオーソライズされるに従い純粋性が後退し、統制の手段となって人々を絡め取り引きずり込んでいく様の何という不気味さよ。個人のレベルでの思いが為政者と情動的なメディアによって国民全体の思いに引き上げられ、同情はできても賛意はできないといった論理的な意見は異論と見なされ排除され、従わないものはすなわち「入植者」として抹消されかねない状況の、おそらくは障子一枚隔ててそこに迫っていることに気付かされる。かといって「入植地」を出て「土踊り」の是々非々を問える状況にはすでになく、かくして日本を覆った「土踊り」は、やがてこの国を熱狂の渦とともにかつて来た道へと再び、辿らせていくことになるのだろう。

 戦争への疑問を隣町どうしの事業としての戦争が起こり得る社会を描いて寓意的に現した三崎亜記さんの「となり町戦争」(集英社、1400円)が中間小説系の小説すばる新人賞を受賞して、同じように社会で起こっている流れを寓意的で観念的に描いた「白の咆吼」が純文学系のすばる文学賞という、この差異がどこにあるのかがなかなかに曖昧で、帯をかえて出してもそれなりに納得してしまいそうだけどつまりは文学の境界なんてものは曖昧で、とりあえずはパッケージなりレッテルによって分けてはみるけど読む側の意識によってはどうにでもなるってことの現れなのかも。これで「白の咆吼」が直木賞で「となり町戦争」が芥川賞、発表形式から難しいから三島由紀夫賞でも取れば、混乱がメディアのレベルにも伝わって面白いんだけど固定観念に染まり同調圧力に染めたがるメディアにそんな柔軟性が果たしてあるのか。それを問う意味でも是非にたすきがけノミネート、やってみて欲しいもの。

 社会の変化に適応できない怪物たちの哀しみ、ってんなら筒井康隆さんか平井和正さんの短編SFにあったような記憶があるけどあからさまに怪物たちの側に立って怪物たちの居心地を描いている訳ではなさそう。ならば登場する怪物たちは主人公の少年が社会との折り合いの悪さから見た妄想なり幻想の類でそんな少年の彷徨を観念的に描いた小説なのかというとそれも当てはまりそうもない。平山瑞穂さんの日本ファンタジーのベル大賞受賞作品「ラス・マンチャス通信」(新潮社)はだったらいった何だというと日本ファンタジーノベル大賞受賞作ってことになるんだろー。つまりファンタジー? 違います。日本ファンタジーノベル大賞受賞作。何でもありで何でもなくって何がしかであるってゆーそんな小説が集まる賞の特質を、ある意味代弁している小説って言えそー。

 父母と姉と住んでいる家には「アレ」と呼ばれる得体の知れない生き物が勝手に上がってきてはやりたい放題をして、けれども父母はそんな「アレ」がすることを見てみないふりをする。少年と姉も最初はそうしていたけれど、次第にエスカレートする「アレ」の行動が姉へと及んだとき、少年は「アレ」を退け殺してしまった。何も言わない父母。結局何でもなかったのかと安心したのもつかの間、父母は少年を収容所へと入れ、そこで少年は3年を過ごすことになる。出てきても少年に真っ当な暮らしは訪れず、食堂に勤めさせられそこでの至極真っ当な振る舞いを咎められて首になって次に父の知人の知り合いに預けられ、降る灰がこびりついた空気パイプの掃除という奇妙な仕事をさせられる。

 そこでも言い伝えにある奇妙な生き物に手を出してしまった少年は町を出て世話になっていた男の配下で詐欺師まがいの仕事をはじめそして離ればなれになっていた姉と再会する。聞くと姉は結婚してしてその相手もまた奇妙な人物だった。悩ましいのはそうやって描かれる怪物たちの存在が、物語世界ではリアルなものとして認知されているのかそれとも、姉への言い表せない思いを抱いていた少年の抱いた妄想幻想の類でしかなく自分の思い込みにすべてを染め上げた少年がひとり相撲を取っている姿を少年の視線からのみ描いて異様さを出したものなのか。

 前者だったらホラーでファンタジーだし後者だったら純文学で観念小説ってことになるけどそこは日本で唯一”境界文学”を選び取れる日本ファンタジーノベル小説大賞受賞作。どちらでもありどちらでもない、曖昧な場所に位置する小説っことになるんだろー。メディアが直木芥川に拘泥する現状ではどちらにも分類しづらいこうした小説がメジャーになるのは難しいけれど、半世紀を過ぎて未だ直木芥川にこだわる方が不思議な訳でメディアもそろそろ商売っ気抜きにすぐれた”文学”をこそ認めアピールする手段と気概を持たないと、長きに巻かれ体験に拘泥する体質にまみれた既存のメディアには絶対に無理だろー。かくして現状と乖離したメディアに支持は失われ、滅び去っていくと。次の仕事を探そう。


【1月1日】 あー新年だ。数えじゃなく不惑になる年だ。でもって前厄だけど厄はすでに去年から訪れ過ぎだからこれ以上の物となると一体。でもって本厄に来るのは全体。ガクガクブルブル。晴明神社で買ってきたお札と方位除けに効果を期待しよう。もしかすると去年1年はそれがあったからあの程度で済んだのかもしれないし。というわけで今年もよろしくお願い申し上げます。最近は「mixi」方面に人が流れてこっちも閑散としているけれど。って「mixi」にも一部日記を流しているけれど。やっぱり人来ないけど。ピクトチャットしてもひとり。

 戦争が始まって戦争が行われて戦争が終わってまたどこかで戦争が始まって。世界はそれほどまでに戦争に溢れているのに妙に戦争への実感が乏しいのはたぶん、身近なところに如実に戦争の影って奴が現れていないからで想像はできても切実なものとして、感じ取ることができないからだろう。だから戦争に協力するような法案が通って戦場に(戦場とは口が裂けても言わないけれど)人が送り込まれても、送り込まれた人に身近な人のないうちは無関心でいられ続ける。

 「となり町戦争」(集英社、1400円)って小説すばる新人賞を受賞した三崎亜記さんの小説はある日となりどうしにある町が戦争を始めるって内容で、公報でそれを知った主人公は何が起こるんだろうと思いつつもそのまま会社勤めをしていたらある日役場に呼ばれて偵察という仕事を依頼される。といっても通勤途中に隣町の様子を見て報告するだけ。引き受け報告するとそれのお陰で損害率が何%下がったと言われて役に立っていると安心したもののやっぱり実感が湧かない。戦死者は出ているようだけど目の前で銃弾が飛ぶ訳でもなく死体が転がっている訳でもない。

 そのうちに偵察を本格的に命じられた主人公は役場の女性と偽装結婚して隣町へと移り住む。役場の女性は公務員らしくてきぱきと主人公との新婚生活を演じる。彼女にどうして戦争が行われているのか、何故行われているのかときくとひとつには公共事業であってそれをすることで景気とか経済とかにいろいろとプラスがあるのだという。なるほどと思いつつも相変わらず戦争をしている実感を得ないまま任務をこなしていた主人公にやがて危機が訪れる。

 スパイであることがバレそうなので書類を持って逃げてくださいと同居の女性に言われ主人公は書類を抱えてアパートを離れ、見知らぬ家へと入りすぐさま裏口から抜け、暗渠をくぐり目隠しをされて山を越えて元の町へと脱出する。途中で段ボール箱に入れられ運ばれていた荷台にごろんと何かが転がされ、それはクリーンセンターへと運ばれたと聞かされる描写に戦争の、戦場のリアリティが立ち上る。

 そしてそれが主人公の回りに現れた人たちの死によって一気にリアルへと変貌ととげる。遠くで起こっている無関係の戦争が、実は人間にとって決して無関心でいられないものであるということを突きつけられる。一方でそんな個人的な感情から遙か高みなる次元で、国や企業といったものが政治や経済の方便として戦争を始め繰り広げる可能性、というより繰り広げている現実へと思い至らされる。娯楽的であると同時に観念的という、複雑で奥深い顔を持った小説って言えそう。

 筒井康隆の「三丁目が戦争です」の方が戦争の愚かさと哀しさを身近な場所と身近な人を出すことで強く現しているし、遠くで起こっている戦争に知らず人が巻き込まれていることだったら押井守が「機動警察パトレイバー THE MOVIE2」が指摘している。不条理にも戦場に放り込まれた少年たち少女たちが、戦いに明け暮れさせられる日常から虚しさとくみ取らせ、それでも賢明に生きようとする彼女たち彼らの姿から強さを感じ取らせる物語なんてヤングアダルトの定番。ゲームにだって山とある。

 「となり町戦争」にはだから五木寛之さん井上ひさしさんといったお歴々が言うほどの斬新さを覚えはしなかったけど、その淡々として抑制が利いた描写からじわりと浮かぶ、戦争の愚かさとやるせなさへの感情は格別 。選んだ文体と語り方によって「となり町戦争」は戦争とは何で戦争にどう向き合うべきなのかを示唆してくれる、秀でて優れた作品って言えそう。もっとも戦争を知れば良いってものでもなさそうなのがやりきんれない所。ひとり戦争の悲惨さを知る男性が、それ故に戦争に、人の生死に鈍感というか達観してしまっているのが怖ろしい。

抱き合っているのは荒川と小林の2人。なのに脚は6本。実は間に大野選手が埋まってます  皇后杯。って作れば良いのにとふと思った天皇杯と同じ元日開始になった「全日本女子サッカー選手権大会」の決勝戦「日テレ・ベレーザvsさいたまレイナスFC」の試合を国立競技場まで。同じ「読売クラブ」の系譜にあたる東京ヴェルディ1969が天皇杯決勝進出を決めて、サポーターも重なるベレーザはともかくとして、レイナスのファンがどれだけ応援に来てくれるのかって心配があったけど、レイナスのゴール裏側の中央をジュビロ磐田の応援に駆け付ける人たちのために開けた両翼を、レイナスのサポーターっぽい人たちが埋めていたのがやや意外。普段のL・リーグの試合だと数人から10数人って応援だったのに、今日だけを取ればヴェルディのサポーターも加わっているはずのベレーザサポーターををしのいでいるところがあった。

 もしかするとそのうちの多くは浦和レッドダイヤモンズの決勝進出を期待してチケットを買っていたファンたちだったのかも。レッズが敗退して浦和ファンが買い集めていたチケットがジュビロ磐田にうまく渡るのかどうなのか、って懸念が起こった時に同じ埼玉県のサッカーチームで監督はレッズOBの田口禎則さんなんだからレッズファンもそろって観戦に来れば良いのに、って言っていたけどそれが本当のことになったのかな。だとしたらレッズファン素晴らし過ぎ。サッカーの神様が今年は見捨てずファイナルの場へとあなたたちを連れていくでしょう。

 試合の方はそんな大応援団をバックにつけならも、ってかそんな晴れ舞台の雰囲気ののまれたのか出だしのレイナス守備陣にミスが続出してまずは1人抜け出した荒川恵理子選手に決められて1点を献上。そして大野忍選手の中央で1人かわして即座に振り抜いたシュートが鋭くゴールに突き刺さって2点。さらに鉄壁の守備を誇っているはずの山郷のぞみ選手がゴールエリア外なんで脚でタックルに行ったボールが大野選手に当たってこぼれてしまってそれを決められ3点と、リーグ戦での山郷選手だったらまずあり得ない失点を重ねて前半でほとんど試合を決めらてしまう。

 それでも前半途中から立ち直った山郷選手、再三のナイスセーブを見せ後半に入ってからは守備陣も落ち着いて相手をフリーにするような場面を作らせず、逆に1点を取り返したレイナスがベレーザを相手に互角な戦いを見せて、交互に責め合う激しい試合を繰り広げる。後半途中から投入されたベレーザの小林弥生選手は、去年の選手権決勝でTASAKIペルーレ相手の試合でPK戦になった時に1人はずして敗因となった苦さを1年、引きずっていたところがあったけれど、ふっ切れたのかそれともチームでは先発落ち、代表では選考から漏れてしまったことに奮起したのか持ち前のテクニシャンぶりに走りチェックしボールをもらいに行くスピードも見せてベレーザの攻撃に分厚さを与える。

 サイドを掛け上がる中地舞選手(半袖)のスピードと近賀ゆかり選手の1人2人ひらひらとかわすテクニック、中盤にひかえてこぼれ玉を散らしレイナスの攻めの手を切る酒井與惠選手の献身ぶりといったいつものながらの持ち味が存分に発揮されたベレーザ。それに前半途中からの50分くらいを耐えきり逆に1点返せたってことでレイナスの強さも分かるもの。願うなら左右の両サイドからの攻撃がベレーザほど分厚かったら、あるいは中央突破での仕掛けがもっとあって名フリーキッカーの高橋彩子選手によるセットプレーの場面が増えていたら、って感じたけれど課題があるってことは成長の余地もあるってこと。YKKも運営母体が代わり宮間あや選手の湯の郷も1部へと上がって来たりと、リーグ戦の楽しみが増えて来た。開幕まだぁ?

コーナーキックがみえません  続く男子の試合。の前にキャプテンの川淵三郎さんが現れては何かパフォーマンスを始めて見ると書き初めだった。それも英語の。「DREAM」って書いてその後にサッカーの人口を200万人にして1000万人にしってことを話し日本代表をFIFAのランキングで10位以内にするんだって吼えていたけどえっと確か日本で随分と前に10位前後まで上がったんじゃなかったっけ。たいして違いのないドイツを相手に完敗したり、パラグアイとかコロンビアとかセルビア・モンテネグロっていった国より上だったりするどこかよく分からないランキングで上位を狙うよりも、でもって2050年にワールドカップをもう1度開いて日本が優勝するって言うよりも、まずは目先のドイツ大会でベスト16に入れるチーム作りをする方が先だって、来ていた大勢のサッカーファンは内心でツッコミを入れたはずだけどそんな下々の声が届かない場所へと、行ってしまったみたいだしなあ川淵キャプテンと仲間たち。これでドイツに出られなかったらどうするんだろ。女子サッカーの隆盛って大役を果たしてくれた人だけに責めたくはないんだけど……でもなあ。

 さて試合。8年ぶりとゆー晴れ舞台に登場した東京ヴェルディ1969はなるほどこれが新生ヴェルディか、って所を存分に見せてくれた。何より選手たちが走る動く。テクニックに頼ったパスサッカーったって選手が動かなければパスは出せずもらえずつながらない。1人ドリブルでつっかけたって限界がある。なのに動かずもらいたがって出すだけのプレーが蔓延っていた一時期、低迷してたけれどアルディレス監督による仕込みがだんだんと聞いてきたのか誰もが動き走りもらい出してはまた走るという繰り返しをしっかりするようになっていて、そこに持ち前のテクニックも加わっておそろしく強そうなチームになっていた。左右のサイドが前へと出るチャンスを常にうかがいそこにしっかりとボールが出て、そこから折り返すとちゃんと2人3人がゴール前へと迫っている。そうえばベレーザも左右の使い方が巧みでテクニックもあってフォローもしっかりとしていたなあ。やっぱり兄妹チームだなあ。


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