裏日本工業新聞2002・8中

縮刷版2002年8月中旬号


【8月20日】 意表を衝かれまくった前週から一転して元に戻った「あずまんが大王」は、単行本に収録の4コマ漫画をほとんどまんま映像化した感じに一部付け足しもある内容で、予想できる展開を果たしてどーゆー感じに映像として見せるかって方に関心がいってしまって且つ、漫画として読んで感じていたリズムとの差異が浮かび上がってしまって第1回目を見た時と同じよーなささくれ感を覚えてしまってしばし悩む。

 ゆかり先生が怒り慌て焦りつつ「ハッピーバースデー」を唄うシーンは静止画の漫画だと緊張感みなぎって良い感じだけど実際に唄われると恥ずかしさが先にたってしまって画面に気持ちを入れ込めない。さらにかぶさる木村の歌が気をさらに萎えさせて、オリジナルの良し悪しってものを強く考えさせられる。もっとも漫画だと存在感希薄なかおりんの怒り悲しむ感情の起伏がアニメで存分に感じられたのが収穫っちゃー収穫か。この感じで卒業式での横っ飛びカメラシューティングの技を見せてやって頂きたい。ちよ父は強いなあ。

 神保町で取材した前後に「東京堂書店」で平積みになってた三浦佑之さんの「口語訳古事記完全版」(文藝春秋、3333円)を買う。これまでもあちらこちらで見かけていたけどW杯症候群の影響であんまり書店を回ってなかった間に刊行されてはアッとゆー間にはけてしまったよーで、今出ているほとんどが3刷りになってしまってて買うのに躊躇していたんだけど、そこは「東京堂書店」だけあってしっかり仕入れていたのか未だに1刷が平積みになっていたんでこれ幸いと所望する。近くにある「三省堂神田本店」はベストセラーの棚に置かれてるんだけどベストセラーだけあって3刷ばかりだったんだよなー。

 体力があれば「日本沈没」の全刷集めをもくろむマニアみたいなこともしてみたいけどそれは無理。マニア的って意味でいうなら、「ハリー・ポッター」のよーなお化けは別にして大抵の本って2刷、3刷の方が1刷よりは少なくなるんで、考えようによっては2刷3刷の方が数的には貴重かも、なんて考えてしまうけどそこはやっぱり本フェチの性って奴で、1刷じゃないと妙に損した気分になってしまうんだよなー、別に売る気もないのにね、何だろ、この心理って。

 ちなみに「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」は5刷も決まったとか、これはゲームソフトのリピートみたいな適宜出荷みたいものか、それとも連鎖爆破みたいな幾何級数的売れ行きの現れなんだろーか。「朝日新聞」の「ベストセラー診断」で取りあげられれば中身も分かるんだけどなー、半年以上経って返本もジャカジャカ始まる時点で刷り増しがあるなんて昨今の出版状況じゃ異例の範疇に入ると思うんだけどなー。3刷の「口語訳古事記完全版」も候補になり得るけれど、何せモノが「古事記」だけに「朝日」的にはいろいろやっぱりあるのかな、「産経新聞」だったら逆に1面で「売れてまーす」とやりそーだし(やったりして)。

 洋モノに飽きたってのとやっぱり生まれながらに育った大地への親近感ってのとあって、ヤングアダルトとかファンタジーとかの中に和モノが結構見受けられるってのはいつぞやの「SFマガジン」の感想コーナーの枕に使った文言だけど、そーした和モノの中でもある程度史実を踏まえた作品を読む際に、この「口語訳古事記完全版」は、巻末に神々の系図と推古帝までの天皇の系図がついててとっても参考になる。継体天皇の話がテーマになった小松多聞さんの「神異帝紀」(郁朋社、1500円)はヤマトの神々の話が結構出て来て戸惑った部分の結構あったんで、今度読む時は「口語訳古事記完全版」を手元において参考にしよー。9月3日には池袋の「ジュンク堂」で講演会もあるみたい。行ってどんな演技で古老の語りを再現するのか見てみよーかな。永井一郎さんみたくなるのかな。

 新刊からは北野勇作さん「イカ星人」(徳間デュアル文庫、505円)を買って一気読み、うーんまたいつもの話だなあ。イカ星人ってのがいるらしくって人間といろいろやってるみたいなんだけど、新刊が出ず食うに困ってるSF作家には関係なくって、コンビニで誘われたアルバイトって形でイカ星人の秘密工場に行ってイカソーメンやら何やらな、得体の知れない製品を作り続けるってゆー展開に、「かめくん」でも「ザリガニマン」でも見たよーな既知感にとらわれる。断片が積み重なってパッチワークのよーに張り合わされて、イカ星人をめぐるカタマリとしてのお話しは出来上がっているんだけど、大きな物語はなくって感情を容れる相手も心躍らされるよーな展開も圧倒されるメッセージも得られないまま、読み終えてやっぱりカタマリを見せられたよーな気分になる。

 「イカ星人」のあとがき、ってあるから案外小説の一部かもしれないあとがきで、本当のこととか深い意味とか別に考えられてはいなくって、自分の中にあるカタマリをただ取り出して置いただけって言っている、その言い分を信じるならばまさしく言い分どーりの内容って言えそー。撒かれ散りばめられる断片のただ中に身を漂わせて雰囲気を味わうタイプの小説ってことになるのかな。面白いし続けて欲しいけど一方にある飽きっぽさがより派手な展開を求めていたりするんで難しいところ。次はどんなだ、やっぱりヒトデマンか、腔腸動物の(棘皮動物だってばさ)。


【8月19日】 真夜中の「プレミアリーグ」中継でフラム稲本のプレイを見物、それまでの圧倒的なスピード感と前に向かう意志の強さが稲本の登場でちょい緩んだよーに見えたのは気のせいか、迷い戸惑った挙げ句にとってもヤバ気なバックパスをしてしまう場面もあったし。とはいえ左サイドに切れ込んでから上げたセンタリングが混戦の中で得点につながってしまったよーに、縦横無尽の活動が生み出す効果もあるにはあるよーで、今後そっちの良い方の資質がどう引っぱり出されていくのかを含めて、ロリポップ・ティガナ監督の手腕に注意したい。中村俊輔の練習試合での得点は切り返しの鮮やかさは目立ったけど相手は格下も格下なんでどれほどの価値があるかは不明。トラップしてすぐシュートが鉄則だって本人も言ってたよーなんで、プレッシャーのきつい同格なり上位チームと当たった時の動きとか強さを見ないと判断は難しそー。けどやっぱり日本のマスコミは飛びつき盛り上げちゃうんだろーな、それを見てトゥルシェが文句をつけるんだ、「お前はナカムラか?」って(ナカムラじゃん)。

 「もうもうとした空気の立ちこめる作業場。そのなかでもひときわ高温の熱気を放っている窯からやっとこに挟まれ取り出されたのは1本の金属製のパイプだった。強い炎に何時間もあぶられたそれは、真っ赤を通り越した白銀色の輝きを放って裸眼では5分と見ていられず、1メートル以内に近づけば発せられる熱で全身の皮膚が例えではなく本当に、ジリジリと音をたてて焼けていくほどだった。耐熱副に身を固め、パイプを窯から引っぱり出した作業員はもとより、作業場で働く全員が30メートル以内には近寄れず見守るなかを、古びたツナギを来た1人の老人が光も熱もまるで存在しないかのような涼しい顔、軽い足どりでパイプへと近づいていった」

 「老人は、下がったとはいえ未だに数百度はあろうかと思われるパイプの一端を素手でむんずと掴み、それから一気呵成に両手を動かし始めた。熱いとは言わないし、眉も毛1本動かさない。相変わらずの涼しい顔で、握った反対側から何本もの短いパーツを手刀で叩き落とすと、それを拾い上げてはジリ、ジリと曲げ始めた。残るパイプも同様に、角度をかえて曲げたあと、それぞれの端を寄せては残っていた1本のパイプの端へと繋ぎ遠目には熊手とも、人の手ともつかない形状のパイプの集合体ができていた。こうして出来上がった手曲げの集合マフラーを積み、チーム・ヨシムラは翌日のデイトナで2位以下を3周以上も引き離し、チェッカーの栄冠を受けた」

 なんてレジェンドはもちろん乗ってないけど、まるで人間ばなれした活躍って意味では割に近いこともやって来てたんだってことを富樫ヨーコさん「ポップ吉村の伝説」(講談社α文庫、上下各800円)を読んで改めて強く感じさせられる。ポップ吉村とは言わずと知れたバイクのチューニングで世界にその名を轟かせた吉村秀雄さんのことで、レースでの勝利で証明したそのチューニングの技術の素晴らしさは言うまでもないことだけど、そうした技術をささえた精神力のすさまじいばかりの強さにはもう驚かされっぱなし。商標を奪われたアメリカに再度なぐり込んでは奪った相手を結局倒す奮闘を見せ、本田から部品の供給がとまれば逆に見返してやるってな意気込みで戦い見事に打ち倒す、その不撓不屈ぶりにはとにかく頭が下がる。伝説の陰に努力あり、努力の底に負けん気あり、ってな感じかな。

 レースでの活躍はそれとして、ライダーだったらやっぱり憧れたのは集合マフラーで、雑誌なんかに「手曲げ」なんて言葉が書いてあって「機械曲げ」とは性能も値段も違うってな感じになっていて、それでもまさかあんなに固いものを手で曲げているとは思っても見ず、手作業で道具を使って曲げているんだろーと高をくくっていたら本当に手で曲げていたみたいで、「ポップ吉村の伝説」の中にも吉村自身がバーナーで炙ったマフラーを手で曲げていった話が紹介されてて、あんなに熱いものをどーやって曲げたんだろーやっぱり手の皮が人一倍厚かったんだろーかなんて妄想はさておき、性能のためには手間を厭わないって根性の凄さにとことん感心する。あるいは本当に真っ赤に焼けたパイプを手でぐにゅぐにゅやってたのかな。

 個人的にはバイクには乗らないしレースも熱心に見る口でもないけど、そうあれは中学生から高校辺りにかけて妙にバイクが流行った時代があって、カワサキが400CCの4気筒バイク「Z400FX」を出してナポレオンクロスミラーともども大流行をしてそれからクオーターの250CCバイクもブームになって、ヤマハのRD250だったかがスタイルの先鋭性カラーリングの斬新性と相まって人気になって、情報だけは耳年増みたく集めてて、そんな中でヨシムラにモリワキの名前は神、ってゆーか羨望の対象として崇めるべき存在だってことを頭に価値づけられた。

 漫画もバイクがブームになってて、「バリバリ伝説」が峠のカメ合戦から4時間耐久の勝利そしてヒデヨシの死とゆー、そこまで読めば充分ってゆーかそこまでしか読んでない話で世間の涙を誘った一方で、「ふたり鷹」が脳天気と天才のライバル2人の戦いを軸にバイクレースの格好良さなんかを見せてくれていたっけか。「ふたり鷹」にはポップ吉村も出演していたなあ。自宅にあって手元に見えるんで抜き出して今度読み返して見よう、上の数十冊が崩れてくるのは覚悟して。そうそう富樫さんの文庫はもう読む「プロジェクトX」ってゆーか初刊はテレビなんかよりもはるかに早い95年。日本の職人魂の凄さってのを世界が集う舞台で見せつけてくれる展開に心躍るし、そんな魂を踏みにじった一時の本田なり大資本には嫌味のひとつも言いたくなる。

 とはいえその死去から7年、ブランドだったヨシムラの名前が2輪レースの世界で未だどれだけの価値を持っているのかが本書では分からず隔靴掻痒な感も。技術と素材の進歩に伴い、大資本の圧倒的な体力技術力がなければレースってやれなくなっている観もあるなかで、どんな不撓不屈ぶりを見せているのか、ちょっと調べてみたくなった。「月刊モーターサイクリスト」でも久々に買うかな、もうそれこそ20年ぶりくらいに久々に。「ミスター・バイク」って手もあるぞ。「月刊オートバイ」は……人気なかったなあ、当時は、今もあるのかな。


【8月18日】 時代が変われば人の認識も変わるってゆーのかそれとも対象としている読者層が違うだけなのか、似たよーな話題を盛り込みながらも柾悟郎さんの1993年の作品「シャドウ・オーキッド」(コアマガジン、1800円)とつだみきよさんの2002年の最新作「プリンセス・プリンセス」(新書館、520円)における「姫」の在りようの余りの差異に、文学の多彩さセクシャリティの多様さなんてものを考えてみたりする今日この頃。時代で言うならわずか10年で変わるかってゆーと実は案外変わってたりするもので、性同一性障害が新聞に載るなんて10年前では想像もできなかった。病気とされてしまうのはそれで問題だけど。

 男子ばかりの学園に叩き込まれた生徒がそこで「姫」なる存在に出会っていろいろするって話がともにベーシックなストーリーにあるけれど、「シャドウ・オーキッド」の場合の「姫」が権威の代弁者であると同時に罰の象徴として学園内に暗然たる影響力を放っているのに対して、「プリンセス・プリンセス」では生徒の中から単純に見目麗しい男子が「姫」と呼ばれる立場になって女装して全校生徒を喜ばせるって程度。「姫」にさせられる生徒も、人前で女装する恥ずかしさを表明はするもののアイデンティティそのものが崩壊させられるよーな状況には至ってない。

 この「プリンセス・プリンセス」のあっけらかんぶりは想像するに、やでおでいな本なんかで攻めに対する受けなんかがロールとして必須で登場することからすれば男子校で「姫」みたいな役割を果たす人が出てくるのも当然ってゆー、「月刊ウィングス」なんかが対象にしている読者層の受け止めを見越して、とくだんに「姫」の存在の男子にとっての単に恥ずかしいってだけじゃない、落ちつかない感じを描く必要もなかったってことなのかもしれないし、そもそもが意識することがテーマになること自体、女性が男装することとはまるで違う、男性が女装することにある種の平等ではない感情を根源として持っていることの現れなのかもしれない。

 だからこそ同じよーなシチュエーションでも「シャドウ・オーキッド」は読む対象の主流と意図された男性のセンスがワンダーさせられSFとして成立し、「プリンセス・プリンセス」はとりたてて仰天することもない、当たり前でちょっとだけ面白い事態と処理されあっけらかんと進んでいくのかもしれない。かもしれないばかりだけど想像するより他にないんだよね、中性でも両性でもないんで。てな難しい話はそれが専門の研究人さんたちにおまかせするとして、単純に言って「プリンセス・プリンセス」はこれがなかなか掴みにくい作品で、読んでなかなかに評価に戸惑う。

 それとゆーのも「姫」にさせられる男子生徒が実に3人も登場するんだけど、その中のひとりに転向して早々選ばれてしまった主人公が決して「姫」になることを厭がってみせず、むしろ学食のタダ券やら制服代教科書代の免除やら「姫」として活動した際のブロマイド売上の一部還元といった特典に大乗り気で積極的に「姫」の役を務めよーとするんで、そこに全然ドラマが生まれない。むしろ立場的には脇になる、同じ「姫」に選ばれた生徒が徹底して抵抗するそぶりを見せるんで主人公ももうひとりの「姫」役のこれが1番美形っぽい生徒もかすんでしまっている。

 誰かの人生のドラマの上げ下げに気持ちをフィットさせて読むのが人情の人にはつまり、これが掴み所のなさとして感じられてしまうんだろー。まあ読んでるうちに誰をピックアップするでもなく3人と周囲の人たちの日常を淡々と描く風になって来てるんで、巻とか重ねればそれぞれの差異めいたものが分かって楽しめるおかも。1巻の終わりだと主役に久々の主役っぽいドラマが与えられそーな引きもあったんで、次巻以降の展開にも期待しよー。

 あの感動から約一月半。ロナウドの天才とリバウドの鬼才ロナウジーニョの異才でもって栄冠を勝ち取ったフル代表チームに続けとばかりにサンバのリズムを心に響かせ乗り込んできたブラジル代表チームと、オリバー・カーンの奮闘虚しく敗れ去ったフル代表チームの屈辱を晴らすべく乗り込んだドイツ代表チームとが激突する注目中の注目の試合が行われるってんでこれは見逃す手はないと、知的障害のある人たちが作るサッカーチームの世界大会「INAS―FIDサッカー世界選手権」の準々決勝を見に板橋にある「西ケ丘競技場」へと出向く。四角いグラウンドを小さいけどスタンドがグルリと囲む専用競技場で間近に選手がプレイする姿を楽しめるのがちょっと嬉しい、駅からも近いし。今度JFLとかあったら見に来るか。

 正直言っていわゆるハンディキャップを持った人たちがするサッカーの果たしてどれくらいのものなのかって辺りに懸念があって、試合がちゃんと試合になっているのかそれとも「頑張りましたね」と暖かく見守るものなのか分からなかったけど、練習の時からすでにボールを扱う足さばきは草サッカーチームではおよぶべくもない巧みさで、さすがはサッカー王国ブラジルとサッカー帝国ドイツを代表する人たちだと感心する。中学生代表くらいの試合になるのかな、ってな期待も抱く。

 「アンセム」に乗っての入場と両国国歌の演奏付きのセレモニーが「もうひとつのワールドカップ」ぶりを感じさせてくれてあの喧噪の1カ月が脳裏を走ってW杯症候群がぶり返しそーになる、マズいなあ。そんでもってスタートした試合は中学生代表なんて目じゃないくらいの激しさとスピード感で仰天。立派に大人の体躯と体力を持った人たちがプレイするんだから当たり前っちゃー当たり前なんだけど、最初に抱いていた「暖かく見守る」視線なんてすぐさま吹き飛び、試合そのものを興奮と感動の渦のなかで堪能できた。

 中には多少、動きに鈍重さの見える選手もいたけどそれでもブラジル代表だけあってドリブルとかのボールさばきは流石なもの。それとブラジル選手では背番号8番をつけてた選手が背の高さ足の長さでリバウドばりの巧みなプレイを見せてくれて、中盤でキーマンになって左右に散らし時には自ら突破を図る8番の選手を軸にして、ブラジルが怒涛の攻撃を見せてこれはやっぱりW杯同様にブラジルの勝利で終わるのかな、なんて予想が頭をよぎる。ところがドイツもしたたかなもの、トップの選手を2人でマークし仕事をさせず放り込まれるセンタリングもヘディングでタックルでことごとく跳ね返す鉄壁ぶり。そこからビルドアップしていく攻撃は堅実にして実直で、なるほど代表はフルからユースから何から何までドイツ的なんだなーと感心してしまう。

ゴルゴルゴルゴルゴルゴルゴルゴルゴル×200くらい叫びたくなったよ  後半に入ってもブラジル怒涛の攻撃は続いてゴールポストを叩く惜しいシュートもあったりで、やっぱりブラジル有意かと思われたもののドイツのディフェンスは硬くまた、ブラジルの最後の詰めの緩さもあって得点にはいたらず。そーこーしているうちに時計もすすんだ後半35分頃、ドイツ選手が放ったフリーキックだったかを左サイドからニアに低い弾道で放り込んだところにピタリと足が合ったかそれともスルーで直接抜けたかボールは見事にゴールの右隅へと転がりドイツに待望の1点が。負けじとブラジルも最後の粘りを見せてゴール前へと迫り、これまたブラジル的ともいえる個人技で突破し狭い場所でのパス回しでディフェンスをかき回して放ったシュートが枠の外へ。打てば枠内が掟なブラジルにあって珍しい失敗の連続で、結局そのままタイムアップとなって晴れてドイツがブラジル相手のリベンジを果たした。

 いやもうその時のドイツの喜びようったら優勝したかの如くに激しく熱く、叫び手を振り上げ観客席まで近寄っていっては握手をするとゆーはしゃぎぶり。聞いた訳じゃないけど去年の準優勝国相手に勝利して準決勝へと進めるって喜びに加えて、やっぱりW杯で敗戦したフル代表に変わって雪辱を果たしたって喜びもあったんじゃなかろーか。そーした選手の肉声なんかをサッカーで食べてるジャーナリストなりライターの人たちには伝えて頂きたいところだけど、これだけのドラマをはらんだカードであるにも関わらず来ていた観客はわずかに200人で、ライターやらジャーナリストの人が来ていた風はまるでない。

 マヨネーズみたいな体型の金髪サングラス姿のノワール作家の姿もヨハン・クライフ万歳なサッカージャーナリストの姿もW杯観戦の感想やらサッカー日本代表選手との交流ぶりを滔々と綴った本を出したばかりのサッカーライターの姿も当然なし。真のプロが激突する最高峰の試合こそが見るに値すると考えてるっぽいノワール作家にクライフ万歳ジャーナリストはまだしも、愛国心って何かを考えてるライターの人にはフル代表ではなくても国の旗を背負って戦い勝てば喜ぶ選手たちの姿を見て何かを書いて欲しかった。それともどこか別の会場に行っていたのかな、事実上の決勝って言われたポーランドVSオランダ戦もあったみたいだし、それならそれでリポートを待とう。次はドイツVSオランダが21日に「西ケ丘」で。平日なんで流石に無理だけどどちらが出ても決勝は大層な試合になりそー。あれから1カ月半が経った「横浜国際総合競技場」で25日に開催される決勝の地に立つのはどのチーム? でもって優勝の栄冠を勝ち取るのは? もう見に行くっきゃないね。


【8月17日】 美味しそうな匂いを発しているテクノロジーとかビジネスに近寄っていっては地引き網よろしくガサッと漁船に引き上げ大漁旗掲げて港に凱旋、こんな大きな鮪が釣れました、これは市場に持っていったらとんでもないセリ値で売れて行きまっせと網元相手に一席ぶって期待を持たせたのも束の間、信じて買い取り市場に出したらこれが意外や身は締まりがなく脂もぜんぜんのってない、近海どころか天然ですらない養殖のそれも冷凍もので、セリ値が上がるどころか逆に下げても下げても引き取り手がないとゆー体たらく、仕方なく言い値で処分し港へと返った網元に、またしてもこんなに大きな真鯛が釣れました、なんて持ってきた魚の実は南米はアマゾン川に住むピラニアだったりする、これがいわゆる”柔らか銀行”って会社のやって来たことだって言えば果たして言えるのか、それとも単に市場の奴等に見る目がないだけなのか。

 どちらがどうかは後世の経営史家に判断をゆだねるとしても、現実問題この何年かにおいて”柔らか銀行”が大言壮語して釣り上げた魚の、例えばアメリカだかでビジネスを展開していた増設メモリーボードの会社とか、海外が中心のパソコン誌の会社とかを育てようとして果たせずまるごと捨てたか下ろして切り身にして食べられそーな部分だけよけてあとはやっぱり捨てたかし、外国の漁師を組んで放送屋の株を買い占めよーと企んだものの果たせずやっぱり途中で放り出してしまった、ビジネス上での紆余曲折ぶりを見るにつけ、これがいわゆる「孫氏の生兵法」って奴なんだろーと思えて来た。自分をとてつもない先見の明の持ち主と信じ込み、付け焼き刃の知識に裏打ちされたビジョンを絶対のものと過信しては馴れないことに手を出し、挙げ句に大怪我を繰り返すって行動パターンを表す言葉、ね。

 なるほど大阪の新しい株式市場を企画していた会社が清算される事態になっても、あくまで一出資企業として10何億円だかの損が出るだけで本業にさほど影響はないのかもしれないけれど、ことは企画会社が清算されるってことだけではとどまらない。市場の可能性にかけて株式を公開した企業も、そんな企業の将来性に期待して株式を購入した投資家も、すべてが多大な影響を被ることになる訳で、そんな事態の根本に、近海鮪だ明石の鯛だといって魚の活きの良さを喧伝し、ある意味で保証役も果たしてきた存在の責任があるだろーことは容易に類推できる。にも関わらずそーした責任より先に自らの安全性のみをアピールするスタンスの、ビジネス的には正しくても漁師の義理人情に照らしてやっぱり受け入れがたい。「孫氏は豹変す」じゃないけれど、株価が好調な時は時価総額経営と言い悪くなるとネット財閥を目線をすり替え今は本当は通信こそが本意で実業を目指すと主張する、良く言えば臨機応変だけど悪く言えば無定見なスタンスも含めてひとつやっぱり誰がガツンと言ってやらないと、今度はウナギだといってナマズを食べされられかねないぞ、いやナマズはナマズで美味しいんだけど。

 よーやっとゆうきまさみさんの「パンゲアの娘 KUNIE」(小学館、390円)の第4巻を買う。周知のよーに悲しくも残念ながら連載の方は作者急病でもないのにうち止めってゆーか打ち切りになってしまって、日本のカラバオと呼ばれている(いねーよ)名古屋の出身者としては酷く悲しい思いをしているんだけど、4巻を読む限りにおいてまるで全然終わっていないどころか謎また謎が増殖し、新キャラまた新キャラが続出している状況を、いったいどーやって収拾させたのか、連載を読んでない身として非常なまでの興味にとらわれる。

 ライバル誌では野球がテーマなのに予定されてた甲子園に行かず(行ったっけ?)次の連載でも主人公が宇宙へと行きっぱなしのままだった漫画があったりしたけど、シュールなギャグが持ち味だっただけに終わり方もシュールと世間は納得しかたあるいは最初から無関心だったかでさほど騒ぎにはならなかったけど、見かけはコミカルでも設定の奥は相当に深そーな「KUNIE」の突然の幕引きは、漫画史に残る事態と言って良いだろー、ってゆーか言う、名古屋人として。できればどこかで再開してやって頂きたいものだけど、増刊に掲載されてたコレも1巻とかナンバリングされてたにも関わらず2巻を出せる状態が訪れそーな気配はないからなー。いや実は気配はあるって噂もあったりするけど、いずれにしても何にせよ、どうであってもその作品を読んでいたい漫画家さんなんで、はやーとこ仕事始めさせたってちょ、っと小学館なりどこぞの出版社の人に臥して請い願おー。

 「ニュータイプ」のコラムによればW杯症候群らしーゆうきさんももしかしたらどっかに行ってたかもしれないけれど、珍しく連勝街道をひたはしる「名古屋グランパスエイト」の一体何がそんなに強いのかを確かめるべく、首都圏で開催された優勝の絡む試合はうっちゃって、優勝争いとは無縁な「FC東京VS名古屋グランパスエイト」の試合を見に「東京スタジアム」へと出向く。さすがに開場が巨大なだけあって試合が始まっても空席が目立ったけど、人数だけなら20001人と一時に比べたらとんでもない入りで、熱心なサポーターたちに加えて確実にW杯症候群に罹ってナマのサッカーを見ないと体が落ちつかない人が増えているんだってことがわかる。

 あとは今はまだ急逝の患者を慢性化させることだけど、それにはやっぱり試合のクオリティ向上が何よりも大切。その点で「名古屋グランパスエイト」のプレーは今日に限って言えばちょい、スペクタクルが足りなかったよーに思えて、この程度だったら次に首都圏に来ても見に行くかどうしようか迷いそう。得点王争いに名を連ねるだけあってウェズレイはボールを持てば何かやってくれそーな雰囲気を放っていて、実際ボールを持って最後の最後に大仕事をしてくれた訳だけど、途中のほとんどの時間帯を前線に貼り付いて過ごしてて、たまに渡ればオフサイドばっかりとゆー状況で、見ていてちょっとストレスがたまった。それでも数多くボールに触ればチャンスも増えそーなものなんだけど、足を止めて後ろを向いてボールをもらい次へとつなげる展開が多かったせいかスピード感たっぷりに前線へとボールが回りウェズレイにラストパスが渡るってシチュエーションがそれほどなく、むしろ途中でパスをカットされてはサイドから崩され放り込まれるってパターンが多く見受けられ、なおのことストレスで胃が痛くなった。

 逸材と期待されて入団したものの結局は代表に及びじゃなかった、おそらくはその理由にもなったフィードの下手さ加減をまざまざと見せつけてくれた古賀選手のセンターバックぶりにはハラハラドキドキしどおしで、これがもし休場していた外国人ディフェンダーだったら、もーちょっとしまった展開になっていたのかも、なんて想像する。トーレスが欠場した時の弱さといー、名古屋はセンターバックで苦労するなー、ファーディナンド来ないかなー(来ません)。それでも途中に山口慶選手が入ってからはテンポも上がりボールもぐりぐり回るよーになり、結果ロスタイムの逆転弾へとつながって、見事勝利を獲得したから途中の眠たさもすべて帳消し。シアワセな気分で帰途につくことができた。明日は「INAS―FIDサッカー世界選手権」でも因縁の好カード、6月31日のリベンジなるかな「ドイツVSブラジル戦」を板橋の「西が丘球技場」まで見に行く予定、台風来ないといいな。


【8月16日】 ほかの例えば野球とかに関する仕事の良さは心底リスペクトしているものの、ことサッカーの日本代表のとりわけトルシェ監督のことになると、出るメディアの会う人ごとに悪口雑言の限りをつくして罵倒するその激烈なスタンスに、昔イジめられでもしたんだろーかと勘ぐりたくなってしまう玉木正之さんだけど、開幕を目前に控えたプレミアリーグを特集した「スポーツ・ヤア」の48号でも、今度は元日本代表監督の岡田武史さんを相手にやっぱりトルシェ監督の至らなさをチクチクとやっていて、極東のどこからも注目されていなかったチームをベスト16にまで導いた手腕のどこにも認める部分を発見できないのか、しよーともしない態度が果たしてスポーツライターとして正しいのか否か、スポーツじゃないけどライターの僻地で食べてる身として悩ましい気持ちになった。

 もっともそこは実戦を踏み賞賛と非難の両極端をくぐりぬけてきた百戦錬磨の岡田さんだけあって、誘い込むよーな玉木さんの言葉に同意し増幅していっしょにワルクチを言いまくった川淵三郎日本サッカー協会会長なんかとは違って、「最後に負けたのも、もちろんトルシェの責任だと重いまうし、グループ・リーグの試合内容もワケがわからないことが少なくなかった」と印象批判で誘う玉木さんにキッパリ「ベスト16に行ったんだから、トルシェが失敗したとは言えないと想うんです」「1対1とか、キックの制度など、もっと基本的なことが重要だと思うんですよ」と返して、実力のいたらなさそのものに原因を求めて、いたずらに監督を神格化しては犯罪者扱いへと貶めるよーな、わかりやすいけど本質ではなく未来に進歩ももたらさない議論に封をする。

 諦めきれない玉木さん、「川淵快調は、監督とやったら負けると断言していましたが、トルシェのままなら負けるでしょうが(笑)」と今度はベスト4まで進んだ韓国を引き合いに、韓国を率いたヒディング監督の采配を持ち上げつつトルシェを貶めようと誘い水をかけるけど、ここでも流石は冷静沈着な岡田さん、「実力的には互角ですよ」と一刀両断。加えて「でも、韓国は過去に5度W杯に出場して1勝もできない歴史を背負ってた。だから、勝って、あれだけ喜んで、さらにファイティングポーズがとれた。日本は、喜び過ぎちゃったな。それに、日本の選手はトルコに負けたあと、『いい勉強になった』とコメントした選手が多かったけど、韓国には、洪明甫をはじめ、これが最後という選手が多かった」ってな感じに、トルシェでは如何ともしがたい歴史のなさや、選手自身の心構えに原因を探って、今後の糧にしよーとしていて好感が持てるし、納得感も得られる。

 野球界なりサッカー界といった”業界”のマクロ的な動向だったり、逆に選手個人個人の思考思想といったミクロ的な機微を探り拾い集めて記事にすることは、熱意と足があれば物書きに素養のある人だったらやってやれないことはなくって、それに文章のセンスなり関心の持ち方の意外さがあれば、玉木さんのように一流のスポーツライターとして上りつめていけるし、支持も得られる。けどことがスポーツの戦略的戦術的な部分の分析になると、じっさいにそーした現場を踏んだ人たちの方が圧倒的に有利だったりする訳で、そこに文章なり言葉なりにする表現力が加われば、凡百のスポーツライターが適うべくもない。野球だったら江川卓なり江夏豊の言葉と文章、サッカーだったらちょっぴりスター化しているけど中西哲生の実施にもとづく言葉はやっぱり人に対する説得力がある。「ベンゲル・ノート」(幻冬舎、1500円)は良い本です。

 そうじゃない、スポーツを経験していないからこその視点も分析もあるんだとゆー言葉にも別に異論はない。凡百とは違うベテランジャーナリストの玉木さんなんだから、同じこきおろすにしても短い言葉で印象をつぶやくだけじゃなくって、采配が間違っているならそれがどう間違っているかはもちろん、どうして間違えたのかを当人に聞くなり、関係者に取材しまくるなりした上でそれでもやっぱり間違っているんだと、言ったり書いたり出来ない訳ではないだろー。だからこそ、同意する相手だと盛り上がってコキおろしまくる癖に、豊富な経験を土台にして、合理的かつ論理的に反論してくる岡田さん相手にまるで再反論を試みたりしていない玉木さんのコメントを読むと、ちょっぴり感情的になり過ぎてるか、手を抜いてるかなって思えてしまう。

 W杯があって日本人選手の大リーグでの活躍もあって、スポーツライターの分野にスポットが当たっている今だからこそ、私怨にしか聞こえない感情的な言葉、身辺雑記と感想のられつに過ぎないリポートを排して、読んで未来を感じるよーなリポートを玉木さんをはじめ実戦経験の重みで勝負できないライターの方々には、是非にも期待したいところです。でないとほら、魂魂としかいわないよーな元カリスマ選手が、益体のない言動でいっそうスポーツジャーナリズムの世界を退行させてしまうから。

 経験は豊富な玉木さんは別格として、この人の場合ははたしてそこまでの期待をして良いんだろーかと思いながら乙武洋匡さんのW杯リポート本「残像」(ネコ・パブリッシング、1600円)をペラペラと読んで、うーみゅと頭を抱える。なるほどいっぱいW杯の試合を見て、感じたことが書いてあって過去に取材して知り合いになったらしー選手たちのナマのコメントが入っていて、読めばそれなりにあの喧噪の1カ月が思い出されて来るけれど、選手のコメントを別にすればそれらは全部、現地に行って試合を見た何万人、何十万人のうちの何人かがネットなりでリポートしていることと五十歩百歩。読んで蒙を拓かれるような感じはそれほど受けず、むしろ韓国代表には愛国心があって、日本にはそれがなかったから負けたのかもしれないって部分とか、そんな愛国心のなさがイングランド代表の試合にはイングランドのユニフォーム、ブラジルの試合にはブラジルのユニフォームを着ていく日本人の節操のなさにつながっているのかもしれないって部分とか、あまりに定型的な感想が綴られていて、口中が苦くなって来た。

 不思議がりつつも海外のメディアが、新しい応援のスタイルかもしれないと注目もし、また日本人の和を尊ぶメンタリティーの発露かもしれないと分析もされた、他国ユニフォームを着て他国を応援する行動への、洞察もなければ分析もないその感想。同行していた人の言葉なり、訪れた韓国での状況に流されるよーに右往左往した挙げ句、ポルトガル代表のユニフォームを着て、それにわざわざ「HISASHI」とか「MABO」と入れて韓国に応援に行った人を”ポルトガル君”と揶揄し、「その背中の文字は僕にはとっても悲しく、また滑稽に思えた」(93ページ)と言ってのけるスタンスに、反感とはいかないまでもザワついた感情を覚えてしまう。

 忙しくあちらこちらを動き回ってはいろいろな試合を見たんだろー、その行動力はなるほど凄いと思うけど、結果生まれて来た言葉が「乙武洋匡」というネームバリューなくしてはまるで重みも粘り気も持って来ないのは、果たして僕の嫉妬心によるものなのだろーか。「うまいことやりやがって」ってゆー反感が先に立って光る言葉を見逃しているのだろーか。決勝戦のチケットを家に置き忘れた事件を通して、チケットは人に預けて持っていってもらい、時にはプレスのパスで入っていた自分のお大尽ぶりを紹介する項を、読んで「乙武さんってお茶目」なんて思える人がいるんだろーか。いたら正直尊敬するぜ。

 言ってしまえば”あの”乙武さんなんだから、その肉体的な不満足さがW杯とゆー世界最大規模のスポーツイベントを観戦するにあたってどんな困難さにぶつかったのか、あるいは徹底したホスピタリティが発揮された結果、まるで困難さを感じなかったのかってな部分を経験を踏まえて取りあげて、他の類似のイベントに糧となるよーなリポートだって書けただろー。それを敢えてまったくやらないって部分に、自立するジャーナリストとしての矜持とプライドが見える。絶対的な評価をされ難いポジションに身を置くなり置かされることで人から親しまれる某作曲家なり某詩人とは違うんだってゆー強い自負と自信がうかがえる。けど自信やプライドが実力とイコールなのかってゆーと話は別で、「残像」においてネット上でのリポートなり、掲示板での議論なりを凌駕する言葉を発見することはなかなかに難しい。

 とはいえ問題はキャリアでいえば駆け出しでしかないスポーツライターを他の大ベテランたちを比べてしまう無理さにあって、玉木さんほどではないけれど、経験を積み競争の中で鍛えられもまれていくことで、スポーツの感動を人に伝えられる言葉を、筆者のネームバリューとは無関係に伝えられるよーになれるだろー。電通のパーティーの呼ばれて自分は場違いだなんて言っているうちはまだまだ。まるで一切書かないか、書くんなら呼ばれて当然ってゆー自信をみなぎらせつつ、圧倒的な文章力取材力分析力でもって読む人を無理矢理にでも納得させられるよーになってこそ、改めてその名前がいっさいのスポーツとは無関係な情動を人に起こさせず、スポーツライターとしての実力のみとイコールで結ばれることになるんだろー。そんな日を期待しつつ21日の三省堂神田本店での乙武さんのサイン会に行くことにしよー。えっサイン会?


【8月15日】 サイクルがぐるりと回って真夜中でも起きていられる体質が戻って来たみたいなんで月曜日の「あずまんが大王」に続いて深夜アニメを見物する。うーみゅ。たぶん小学生くらいな美少女3人のドジっ娘にお嬢に関西とゆー最強トリオがくんずほぐれつドタバタを演じる鉄板に定番な番組の、なのにどこにもつかみ所のない「陸上防衛隊まおちゃん」の微妙な存在感に口が半開きになる。でも写真に取られる時はちゃんと閉じまっせ。

 なるほどCSだかBSで放映されてるオマケみたいな地上波だから、あかほりさとるさんのエロならまだしも赤松健さんの萌えともちょっと違った可愛さでもって週末の早朝なり、夕刻なりに放映されて不思議のない内容であっても、アスタリスクすらつかない真夜中に放映されて仕方がないんだろーけれど、かといって夕方とか夕刻とか朝とかに流されても、怒涛の展開が溢れる時間帯ではちょい淡白過ぎる嫌いもなきしもあらずで、そんなアニメを一体どーゆー層がどーゆーシチュエーションで見て何を感じているのか、ちょっと調べてみたくなった。短距離層のホイッスルの「ぼえー」ってな腑抜けたサウンドはズラし具合が最高。これ1コでも真夜中まで起きてた甲斐はあった……かな。

 続けて「朝霧の巫女」。うーみゅ×5。巫女委員会が学園の平和を守って強いんだかドジなんだかわからない天狗野郎と戦う話のよーにしか見えないのは見た回が悪かったのかそれともアニメ版は最初っからこーだったのか。「リリカル・フラッシュ」に「風神之舞」に「タキオンプラムマ返」に「乙女豪快一本槍」に「光念白射」をレディース戦隊者大流行の90年代初頭の大いなる遺産を笑って受け入れるに吝かではないけれど、そもそもの「ヤングキングアワーズ」での連載の、少年を主人公にしたラブコメ&バトルな展開とのあまりの乖離具合に、眠気とは違う別の衝撃が走って意識が飛びそーになったよ。これも地上波の夕刻にはユル過ぎるけど真夜中にしては冒険の少ない微妙な内容。誰が見てどう喜んでいるのか、教えて下さい企画のFさん。

 ウスいだのユルいだの言いながらもしっかり技の名前を言えたりしてるのは手元にアンチョコがあったから。けどこのアンチョコ、タイトルが「電撃アニマガVol.1」ってあって一体何時の間にリスタートを切ったんだと、アニメから受けたものとはまた違った衝撃にページをめくる手が震える、いや水着美少女ばっかりなんだよね、ポスターも版権イラストも記事もコラムも何もかもが。思い起こせば今世紀初頭の春に「電撃アニメーションマガジン」としての短かった活動期間に終止符を打って幾年月、世紀の大ヒットなんて呼び声がまるで聞こえなくなり、浸透が拡散して雲散から霧消へと向かうんじゃないかと言われるくらいに熱さに欠けるアニメ界、新雑誌の復活なんて夢のまた夢と想っていただけに、なるほどこーゆー甦り方もあったんだってちょっぴり蒙を拓かれる。さすがは有永”兄チャマ”真仁編集長、記事も巻頭から”兄や”づくしだ。

 それにしても恐るべきはアニメ界、熱さのかわりに蔓延る萌えがかくも爆発していたのかってことが、目次に示された番組名からも伺える。「あずまんが大王」「ぴたテン」はまーそれとして、「HAPPY・LESSON」に「シスター・プリンセス Re Pure」に「藍より青し」に「りぜるまいん」、「おねがい・ティーチャー」「ナースウチッィ小麦ちゃんマジカルて」「こすぷれCOMPLEX」「陸上防衛隊まおちゃん」「円盤皇女ワるきゅーレ!」「ギャラクシー・エンジェル」と、聞くだに萌えよと言わんばかりのタイトルばかりで今のアニメ界の相当数のリソースが、熱血でも青春でも友情努力勝利でもなく萌えの創造に注ぎ込まれているんだってことが見えてくる、それと雑誌づくりのリソースも。こーゆー内容にいい歳したおっさんが出て何かをするってことはちょい難しい。前世紀にその名を記したことを思い出しつつ、”兄ぃ”の作る新生「電撃アニマガ」の行く末を関心をもって見守っていこー。水着もいいけど下着もね。

 上野の松坂屋ではじまった「ロボットステーション2002」ってイベントをちょっと見物、夏休みのデパートによくあるちょっとした展示とグッズ販売コーナーから成るイベントだけど、入り口にいきなり知る人と知る「学天則」のレプリカが飾ってあったりして、それなりな人が監修に関わっただけのことはある渋い展示も楽しめる。っても渋いのはそれくらいで、あとはブリキのロボットの大群に、歩いて回って胸を開ける昭和40年代くらいの電動ロボットの大群に、歩行リモコンロボットの歴史に最近のペットロボットまでといったロボット玩具の編年的展示と、「アトム」「鉄人」「マジンガー」「ガンダム」「エヴァンゲリオン」といった歴史を彩るキャラクターロボットの紹介、そして例のミニモニ級ザクの展示といったディスプレーがある程度と、マニアだったら家で充分に再現出来る程度なんでそれだけを見に行くとなると、なかなかに気合いがいりそー。

 体験コーナーは二足歩行で徒競走させる玩具メーカーがこの春にこぞって出したロボット玩具とかが並んでいたり、タカラの5万円ロボットのもったいなくも迫力のどつき合いが演じられて居たりと、子供ならまあそれなりに遊べる空間に。「ゴマちゃん」「ファービー」「ウブラブ」「プリモプエル」等々のさわって楽しいロボットに自在に触れられるコーナーもあって、こっちは幼児とその親に結構受けていた。場内を出た販売コーナーにはブリキロボットとASIMOをそれぞれ模したよーなカラーリングの「キューブリック」とか、汚しに燃やしが入ったカラーリングの「トランスフォーマー」とか、メタルカラーの「ミクロマン」っていった、このイベントだけの玩具が何点が出ていたけれど、結構な数が並んでいたのはマニアがまだ到来していないからなのかな、それともマニアにはヌルい商品ってことなのかな。大食堂でもロボットランチってのを出してたみたいだけど、「お子さまランチ」なんでどんな内容なのかを確かめることが出来ずにちょっぴり心残り。やっぱりカップに油とか注いであったりするのかな、でもって皿からはボルトとナットをフォークとスプーンで切り分けながら食べるんだ。

 竹野内豊情報を頂く。多謝。精神科医に扮するドラマは「週刊コミックモーニング」に連載の「サイコドクター」が原作とか。なるほどこれなら似合ってます。けどこの時期でドラマタイトルが未定ってのは何だろう、「サイコ」な「ドクター」じゃあメスとか持って夜な夜な都会の暗闇を歩き回るジャックなバンディだと勘違いされないかって配慮でも働いているのかな。「モーニング」だとあと「天才柳沢教授のなんとか」もドラマ化だそーで主演は松本幸四郎さん、イメージはいつぞやのうらぶれたレストランを立て直す一味を描いた三谷幸喜ドラマの時に沈着冷静な演技(実はほとんど見てないけど)を延長させた感じになるのかな、けどまだどこかに違和感も、柳沢教授ってもっと水気色気山気が少なそーなんだよな。幸四郎さんってイメージの土台が「黄金の日々」の助左右衛門とか「騎馬奉行」の火盗改めのお頭で、無表情の中にうちに秘めた闘志が感じられる役柄にあってる気がするんだけど。まあお手並み拝見といきましょー。佐々木規子「HEAVEN」ドラマ化しねーかな、安達佑実主演の「昴」も見たいぞ、激情な部分だけ演らせてダンスは吹き替えかCGbyILM。


【8月14日】 もしも自分が最後の明治人だったとしたらやっぱり「明治村」に剥製として残してくれって遺言しただろーな、場所は西郷従道邸のバルコニーなんか最高。それはそれとして、5年だかはDVDにしないと確か片渕須直監督が「ロフトプラスワン」でのイベントで話していた「アリーテ姫」だけど、フィルムを担いで全国を回る上映会ではさすがに見られる人の数にも限界があって、せっかくの良作が埋もれてしまいかねないと心配していたところに、東宝のディストリビューションで小学館ビデオから11月8日にレンタルビデオがリリースされるって報が届いてまずは一安心。「ユンカース・カム・ヒヤ」みたくマボロシになりかからずに済みそー。「ガンドレス」みたいな伝説には最初からなってなかったけど。

 フィルムをかついでの行脚もまだまだ続いていて、「下高井戸シネマ」で16日までモーニング上映もされてるし23日から東京都写真美術館で始まる「新世紀東京国際アニメフェア」の関連イベントでも上映されるみたいで頑張れば大きなスクリーンで見られるけれど、東京在住でこその利点とも言え地方の人たちにとってはやっぱり、ビデオがリリースされる方が嬉しいんじゃなかろーか。セルのDVD化となると届いたリリースでは不明で、こちらは明言どーりに5年は出ない可能性もあるけれど、レンタルするんだったらものはついでとゆーことで、向こう1年くらいの間に是非にDVDの発売をのぞみたいもの。理想は理想として、でもやっぱり商売しましょーよ。

 商売したくてもできなかったのかそれとも商売する気がなかったのか、シリーズでも屈指の出来ってゆーかアニメーションの歴史にもその名を燦然と輝かせている押井守監督の最高傑作(断定!)「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」のチラシも入ってて、友引町に向かって落下しているよーな格好のラムちゃんがデザインされたチラシの懐かしさ色っぽさに目から涙がにじむ、5年とかなんて大甘な18年だもんなあ、私大に合格したんでこれはもう安心と国立なんて放り出して、伏見の東宝会館に2時間前から並んでロバート・ストールマン「野獣の書3部作」なんかを読みながら開場を待ったっけ、あの頃僕は若かった、髪もフサフサしていたよ。

 実を言うならアメリカで英語版も収録されたリージョンフリーのDVDを買って持ってるんだけど、DVDにしては画質がビデオライクで不満があっただけに押井監督の監修によるニュープリント・ハイビジョンテレシネされた画質には期待大。押井さんと千葉繁さんのオーディオコメンタリーも付くそーで、メガネの独白が大爆発した作品がいったいどんな感じで作られたのか、って辺りを18年経って改めて知ることができそー。劇場パンフレットも復刻され封入されるそーだけど縮刷版だからなー、それでも無いよりはマシか。いっそ松谷祐子さんの「愛はブーメラン」もシングルCD化して封入すればよかったのに、今でも歌えってんなら歌えるぞ、「ユアビーナス? ノン ユアビースト!」、だったけ。

 竹之内豊さんが精神科医クリニックでクライアントを相手にカウンセリングをするってドラマが10月から始まるって芸能ニュースを見て瞬間、日本のテレビドラマに顕著なアレを想像してしまって記事を読む目が厳しくなる。アレってのはつまり「人間」と「失格」の間にナカポツを入れたから太宰じゃないと言い抜けるとか、作者の了解が確定してない時点でタイトルを「動物のお医者さん」って発表してしまって結局使われなくって中身も大きく変わってしまったりするとかいったことで、翻って白衣を着ない美形のカウンセラーが訊ねて来る女性クライアントを相手にいろいろ相談に乗るって竹野内さんの新作ドラマの設定に、あるいは森依なんとかって役名とクリニック名を想像してしまった。

 幸いなことに(幸いなのか)記事を読む限りでは仮にこの竹野内先生、心理療法士ではなく精神科医で大学病院時代には将来を嘱望された医師だった人で訊ねてくるクライアントには親身になって相対する、熱の入ってそーな設定になっているんでどちらかといえば親身ってよりは突き放しているよーな印象すら与えかねない冷静さが特徴の森依四月とは対極で、よっておそらくは衆人環視の中でいきなり手首を切る美女とかも、さしたるスキャンダルもないままベテランの域にまで来てしまったエンジェルボイスな元アイドルのシンガーとかも、きっと出ないと信じておいて良いあろー。この時期でタイトルが未決定なのはちょっと気になるけれど、インパクトのあるタイトルを考えている所なんだろー。やっぱり「恋愛・的・瞬間」かな。


【8月13日】 締切の過ぎた仕事をしているとシュークリーム分が足りなくなったので近所にシュークリームを買いに行く。ちなみにシュークリーム分とはシュークリームに含まれている成分でシュークリーム分が足りなくなると披露や集中力・思考力の低下などの症状が現れるのだそーで水原暦にはとくに大切な成分らしー。あるいはシュークリーム分が足りなくなったから締切が過ぎた可能性もあるので締切が過ぎているなと思われた方は「ビアード・パパの作りたて工房」で5つ、焼き立てのシュークリームを買って届けると即座にシュークリーム分が補充されて素晴らしい原稿が上がると期待してくれたまい。なに上がってない? それはまだまだシュークリーム分が足りないのだ。

 それでシュークリームなんだけど昔だったらヒロタがパッと頭に浮かんだけど最近は行列の出来る店ってことで「ビアード・パパ」が大人気。東京近郊だと去年だか今年だかに、渋谷駅の道玄坂側のガード下に確か1軒店が出来てそれなりな行列が出来てるってニュースを見た記憶がある。船橋はそれより早くって、1年くらい前に船橋駅の駅ビルが改装になって1軒、店が出来たんだけど以来、いつ通りがかっても長蛇の列が出来てて凄い凄いと思いつつ、この歳で(どの歳だ)行列に並ぶのも恥ずかしいと(ビッグサイト前なら平気なのに)思って手を出すのを避けていたものが、ここに来て極度のシュークリーム分欠乏症に襲われたまさかお盆ってことで行列も少なかったこともあって、ついフラフラと5つばかり買ってしまって食べたらこれが何とまあ、ただのシュークリームだったとさ、当たり前か。

 ここで言ってる「ただの」ってはもちろん誉め言葉で、ブームだか何だか知らないけれど皮をあれこれ細工したり中身をいろいろなクリームに入れ替えたりしたゴージャスな奴が多いなかで、ここん家は皮はふっくらとしてサクサクとした焼き立ての食感がありクリームは冷え冷えのカスタードとゆー、まさしく王道を行くシュークリームでこれならシュークリーム分もたっぷりと含まれているに違いなく、お陰っちゃー何だけど買った5つを食べ切った直後から集中力はアップし思考力も急上昇。過ぎてた締切を取り返すべく(取り返せないって)書き出した原稿は快調に進み、原稿用紙の4枚の原稿がたったの4時間で(4時間も?)出来てしまったよ。中身については……読み返すのがちょっと恐い。

 流れで久々のアニメ「あずまんが大王」。泣く。放っておいても淡々と過ぎていく高校時代の3年間を後をか振り返らせず感傷的な部分を極力抜かして描ききった漫画版の良さは良さとして大好きだけど、インターハイ出場に向けた神楽の頑張りを軸にして周囲の何にもしてないレギュラーメンバーの様を浮かび上がらせた展開とか、受験勉強をしながら真夜中のラジオを聴いて自分の投稿に赤面してしまう様とかが盛り込まれた内容に、高校時代の何にもしてなかったけどいろいろあった3年間が妙に思い出されてしんみりしてしまった。同級生が家に遊びに来るなんてことすらなかったからなあ、単に友だちが少なかったからなんだけど。今もいないけど。

 3年経てば次を選べる生徒と違ってそこが1つの終着点、あとはひたすら大人の世界を生き続けなくてはならない先生たちの、学生時代の仲間やお見合を勧める親といった”社会”との避けることのできない関わりに悩み戸惑う(ゆかり先生はまるで堪えてないかったけど)姿がやっぱり否応のない”社会”に生きる我が身に重なり、何ともいえない苦さ痛さを味わわされた。現実と向かい合わない閉鎖された空間での決まり事のおかしさ面白さ不思議さをデフォルメしオーバーにして見せる原作漫画に挑戦して僕的にはヒットだった今回を見てDVDの購入はほぼ確定。けど毎回これやられると痛みと後悔の念に火曜日会社に行きたくなくなるんで1回で勘弁、次回以降はもとの脳天気野郎共の爆発エピソードに戻ってやって頂きたい。

 好きか嫌いかで言えば嫌いにゲージの傾く横尾忠則さんだけど、凄いか凄くないかで言うならゲージは凄いを振り切るだろーことは間違いなく、「東京都現代美術館」で10日からスタートした「横尾忠則 森羅万象」に飾られたまさしく森羅万象な作品群を見て、改めてその凄さに圧倒される、でもやっぱり好きにはなれなかったな。いや決してすべてが嫌いって訳じゃなく、例えばごくごく初期の真正面から女性が大口あけて笑ってるよーなイラスト類とか、土方巽さん唐十郎さんといった舞踏に芝居の公演のために描かれたポスター類とかは、他に言いようのないくらいに横尾調に染め抜かれていて見ていて実に格好良い。レトロニグロテスクなポスターのデザインなんて最近でも他の宝塚とかの公演なんかに応用されて綺麗さとは対極の存在感を放っているくらいだし。

 それを言うなら80年代以降、仏教だか神道だかに傾倒したのか妙に神秘がかったモチーフが増えて来てからの横尾さんだって存分に横尾調だってことになるけれど、デザインとして制約の中でキッチュだったりフェイクだったりジャンクだったりするモチーフを詰め込み仕上げるグラフィックデザインの仕事とは違って野放図に、それこそぶちまけられたよーにキッチュでフェイクでジャンクでグロテスクなモチーフが踊り回る「絵画作品」は、普通だったら人を落ちつかせる神秘的な内容であるにも関わらず、見ていて気を時に沸き立たせ、時に萎えさせる。はっきり言えば薄気味悪い。

 これが90年前後、いったん描いたモチーフを切り刻むかした上でサイド張り合わせてみせた一連の作品群になると、感じられた気色の悪さがなぜか消えて落ちついて先鋭的な作品に見えて来るから不思議なもの。その意味でやっぱり横尾さんは圧倒的に優れたデザイナーってことが言えるのかもしれず、だからこその自分の殻を打ち壊そーとしての「画家宣言」だったとも言える。66年とかのアンリ・ルソーの一連の作品群をパロった作品は、タッチはまんまルソーで内容だけはライオンに眠っていたジプシー女が食べられてたりする爆笑もので、着想の良さテクニックの充分さが伝わって来るだけに着想とテクニックが肝心なデザインの世界でやってたら、素晴らしい存在になっていたかも、なんて考えてしまう。けどそれだと凄い存在にはなっていなかっただろーから、湧き出る奔放なアイディアを形にはめずに爆発させた挙げ句、支離滅裂になってしまった作品群があってこその横尾忠則ってことにやっぱりなるんだろー。

 そんな横尾さんにあって「暗夜光路」と銘打たれた作品群をはじめとした「Y字路」のシリーズはアイディアと技巧が平面の中で見事におさまっていて、絵画作品として惹き付けられる。闇へと向かって伸びるY字路を描いた絵には、右と左のどちらを選んだとしても、決してバラ色などではない混沌と暗黒、不安と戸惑いに溢れた世界に向かって進まざるを得ない人生の葛藤を覚える一方で、暗い闇から何かがこちら側に向かってやって来そうな恐怖心もかきたてられて、しばし見入ってしまった。そこらへんにあるY字路を写生しただけじゃなく、現実にあるY字路の両脇を別のY字路ではない通りなんかの風景を当てはめたり、あるいは現実にはない通りを2つ、重ね合わせるよーにして描いたんだろー。どこかいびつな感じもあって、それが余計に不安感を煽る。

 心理的な効果を持って哲学的な深遠さすら感じさせた、そんな連作を有り体の画家だったら3年5年10年とやってしまうところを横尾さん、翌年弐は同じY字路でも明るい感じにしてしまったりリアリズムだったタッチを印象派っぽくしてしまったりデザインっぽく描いてみたりともう崩し放題膨らませ放題。それもそれで面白くはあるんだけど、勿体ないって気もあって悩ましい。とはいえやっぱりそれもまた横尾忠則の凄さってことで、次に果たしてどんなぶち壊れ方をするのかを、関心を持って見ていくことにしよー。好感はやっぱり抱けそーもないけれど。


【8月12日】 そうそうコミケで思ったのは、10何万人が訪れたあの場所でわずか1カ月半前まで世間に溢れていたサッカージャージを着た人の数が両手に余るくらいしか見られなかったことで、もちろん同人誌とワールドカップのファン層の違いってのも考慮に入れなくちゃいけないし、サッカーを含めたスポーツのジャンルが日曜日は確か立ってなかったってこともあるんだろーけど、一時は渋谷原宿新宿あたりを歩けば3ケタは確実に見られたものだけに、喉元過ぎれば熱さどころか食べたことすら忘れてしまうよーな、世間の関心の移り変わりの早さってものを強く強く実感する。今時引きずってるって方が異常ちゃー異常なんだろーけれど。

 会場で見たのは日本代表のレプリカが1人にスペイン代表が1人とブラジル代表が1人とチュニジアだかトルコだか忘れた月に星のマークが描かれた白い奴と、あとは「カニトップ」を胸に印したベガルタ仙台だったっけ、Jリーグのチームが2、3枚。イングランド代表なんてまるで見かけなかったぞ、コミケの客にとってイケメンなベッカムはやっぱり敵か。イタリア代表のピチピチユニは流石に着れないもんなー、胸板より腹が出てるか逆に肋骨が浮き出ている人種には。

 ちなみに当方が着ていったのは韓国代表のユニフォーム。折角買ったんだからあと10回は着なきゃ勿体ないって心理があるのと、梅雨時の蒸し暑さの中で動き回っても大丈夫なよーに作られたハイテク素材のオーセンティック・ユニフォームなだけにきっと館内の蒸し暑さにも実に快適だってゆー判断があっての着用だけど、実際あの暑さの中で汗とかに体がベトベトになることなく過ごせたから狙いは外れてなかったよーだけど、何しろ色が遠めにはピンクで近くで見てもピンクピンク、合わせた韓国代表マーク入り帽子もピンクとゆーピンク尽くしで人によってはボウリングの選手とか、温泉街のポン引きに見えたかもしれない。今度は靴もピンクにしよー、ペーさんパー子さんが履いてたよーな。

 コミケといえばあの小学館が西館(にし・やかた)の企業ブースで同人誌を売っていたのにちょっと仰天。いちおーは「月刊サンデーGX」で島本和彦さんが連載している漫画に出てくる「月刊シャイニング」の仮面女編集者、星紅が仕切って「月刊サンデーGX」編集部と共同編集した、半分仮構が入って半分は「GX」をピーアールする体裁になっているけど、オチもイミもないキャラだけ使った話だったりエロいイラストだけだったり、ペン入れとかしてないネームあるいは下書きっぽいものだったりと、中身までもが同人誌に割にあるものだったりして、こんなのに天下の小学館マークを入れて出すことをホントに会社が認めたのかと悩みもだえる。値段も1000円とかしやがるし。

 冒頭の島本さんの絵日記は漫画とか時間もなくて描けないけど島本さんらしー味を出してるって点で一種、仮構の同人誌に相応しいものだし森明日見さんのもこいずみまりさんのも本編なりの番外編っぽい作品だったりするからピーアールの役割を充分に果たしてる。けど顔だけ海に突っ込んだスケキヨな全裸の逆立ちの女性がドラゴン花火を脚の先じゃなく付け根で支えてボウボウと燃やす浅野いにおさんの漫画ってのはなー、「小学館(しょうがく・やかた)」のイメージに核爆弾級のチャレンジ精神を発揮してるよなー。まあ責任はぜんぶ仮面デスク星紅に行くから伊藤明弘さんのイラストがハミどころかモロ乳で、吉崎観音さんのラムちゃんのビキニが机で読書する子供のシルエットすなわち小学館マーク柄でも平気なのか。

 同じ出版社系同人誌(ちょい不思議なカテゴリー)だったらメディアワークスの「電撃大玉」なんてのは元より萌え1番な出版社だけあってどんなのが出てもイメージを大きく損ねることはなく、お陰でコミケとかイベントで人気のアイティムになってて毎回売り切れ続出になっていたけど、その分買えなかった人も山といたことだろー。そんな「電撃大玉」が時は10月14日、所は「幕張メッセ」で開催される「電撃10年祭」に総集編として合本の上復刻されるってんだからこれは行かない訳にはいかなそー。ステージも「あずまんが大王」に「シスター・プリンセス」に「ハッピー・レッスン」と目白押し。よく知らないけど「瑠璃ちゃん」とやらに「萌絵ちゃん」とやらの等身大パネルとの撮影会もあるそーで、いっしょに並んで兄チャマチェキをしてもらわないと心残りで年を越せない。問題は入場券が抽選ってことか。会場で配ってたチラシの応募券じゃ足りない可能性もあるから電撃の雑誌を買い占めに走ろー。「DASACON6」が翌週で良かったよ、でないと徹夜明けで「ちよ父」担いで文京区から幕張までレッツゴーしなきゃいけなくなるところだった。


【8月11日】 2時間立ちっ放しを覚悟で午前の11時に有明に到着、したのに恒例の神殿へと向かう信徒の大行列が駅の前どころか神殿へと上がる階段の辺りにもまるで見あたらず拍子抜け。平日の金曜日ですら同じ時間で入場まで約20分は炎天下の中を待たされたのに、これは一体どーゆー訳だもしかして島へと渡る橋が米軍に爆破されて「ゆりかもめ」がストップでもしたかと想像してしまう。カタログ買ってないんで調べられないけど多分人気のジャンルが昨日とか一昨日に回ったか、あまりの暑さに行列を避けて昼過ぎからゆっくりと出向く人が増えたかしたのかも。とはいえ暑さは昼過ぎあたりがピークだから避けるってよりはむしろ直撃って感じだし。やっぱり単純にジャンル違いか。

 それでも中はそれなりにギッシリで、発せられる熱と汗で歪む空気を吸い込み吐き出しながら東館(ひがし・やかた)へと回ってまずは岡田斗司夫さんところで新刊チェック。何冊も並んでいるけど昔作った奴の再刊がほとんどで新刊は1冊ってのが普通だろーと舐めてかかったらこれが大違い。ピカピカの表紙に包まれた冊子のすべてが新刊のそれもコピーを簡易製本したいかにも即売的な本は一切なしのすべてが上質の本で、あれほどまでにあちらこちらで仕事をしながらもこれだけのものを作って見せる集中力ってゆーか執着力と、それを支えた事務所の方々のご苦労にひたすらに脱帽する。柳瀬さんやつれてた?

 わけても立派だったのが玩具へのコダワリと愛着を詰め込んだ「未来玩具2002」。2000円とゆー値段を書店で買う本と比べて高すぎるって思う人もいそーだけど、中を開けるとすべてがフルカラーとゆー体裁で、しっかりと編集もされて情報量も豊富だったりする内容をもってするならば、モノクロな漫画とイラストに見栄えのよいカラーの表紙をつけただけの漫画誌が1000円とかしやがったりする場ではむしろ安過ぎる方。ロケットのプラモデルから木製のインチキ模型から臭い本から巨大なミサイル発射スイッチまで、よくもまあ探し出して集めたもんだと思わせるコレクションが紹介されていて笑えると同時に勉強になる。

 「これはきっとネタになる」とゆー意識でしょーもないもん、かさばるもんを買ってしまう心理を綴った連載12回目の話は胸に痛く耳に厳しい内容。千年分には及ばないけど我が家にもそーやって買ったは良いものの、未だネタにしてないグッズが結構あったりするからなー、狭い部屋の本と衣類の地層の下に。そこで紹介されてる「エントリープラグ型ボールペン」は何故か14回目の「タイムマシンで過去に戻れるなら買い物する寸前の自分をとめたい」グッズとしても紹介されてて、よっぽど使えない品物だったんだろーと滲む悔恨の念に同情する。とかいいつつもしっかり2回分、ネタにしてたりする訳だからむしろ良い方の部類に入るのかな。これがクリスタルの中にレーザーで刻まれた「エバ初号機」の置物だったら、悔恨の念もきっと半端じゃなかっただろーなー、値段10万円くらい確かしたし。

 96年から2000年まで5年分の「おたく日記」を収録した本はペーパーバック風の装丁がなかなか。1年2年と期間のてんで短い勝谷正彦さんの日記が、身近な人に対する徹底的な誉めっぷりに敵であっても真正面から論破せず搦め手から揶揄し時には持ち上げるフリして誉め殺す、高尚過ぎて並の善人にはなかな神経に堪える内容で人気をとって、たちどろこに2冊も本になって出版されてそれなりな賑わいを得る一方で、岡田さんの方は写真も含めて刻み込まれた情報量たるやすさまじく、また低い目線からストレートな疑問を発してみせる時事的なものへの言及もあるにもも関わらず、有明止まり数千冊止まりってあたりの差異はつまり、高尚なるものを定義づけるにあたっての出版界言論界が持つ認識の差異、ってことなのかな。それでもこーして冊子になって(裏表紙の写真、誰?)売られるってだけでもシアワセな日記たち。量だけは世界レベルだけど内容の薄さ益体の無さもまた宇宙レベルな当方じゃあ、比べて及ぶどころか彼岸へとはじき飛ばされます。

 ほかに唐沢俊一さんのところで宗教漫画がスミソニアン博物館に収蔵されているジャック・チックを大特集した貴重にして奇特な冊子を購入し、近所の「本家立川流」で例の談志一門の前座一斉リストラに関して唐沢さんも出演して「ロフトプラスワン」で行われたトークショーが再録された冊子を購入。立川流の方は裏表紙に談志師匠の直筆コメントがプリントされるけれど、中身をちゃんと読んで寄せたものだったらちょっと面白いかも、ワルクチとまでは言わないけれどそれなりに酷いことも言ってるし。ああだから「小便をする様なもの也」ってコメントなのか。

 SF方面へと回って「SF作家の値うち 2」を拾ったら「サイファイ作家の値うち」がついて来てトクした気分、はそんなにしない、だってサイファイ作家って1人しかいないし、点数も今さら読んで驚く程のものじゃないし。「サイファイなんとか」の点が割に高いのはちょい意外、だけどSF作品の点数に対する規準は明記されていてもサイファイ作品の点数に対する規準は「SF作家の値うち」には明記されてないから、高いか低いか本当のところはわからない。もしかして52点満点か、だとしたら「サイファイなんとか」は再読に値してぜひとも読むべき傑作に近いってことになるのか、「カムなんとか」はそれでも忘れがたい、じゃなかった忘れたい1冊なのか。「ラストのあまりにもスケールの小さな展開」がどんなだったかすでに忘れてたりするんだけど。


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