縮刷版2002年5月上旬号


【5月10日】 取りあげるとは聞いていたけどまさかここまで大きく長く、それも年に1度の大イベント「アニメグランプリ」の発表を差し置いて巻頭で特集してしまうなんて、大野修一編集長のコダワリぶりが伝わって来る「アニメージュ」2002年6月号。その「ほしのこえ」特集は冒頭から富野由悠季さん森岡浩之さん藤島康介さんあさりよしとおさんにジブリの高橋望プロデューサー、”萌え”脚本では今の日本で青龍白虎の活躍ぶりを見せる黒田洋介さん倉田英之さんといった面々がそれぞれに賛成コメントを寄せていて、技術的にも内容的にも単に1人で作ったってことだけじゃない、何かがあるってことが伺われる。

 見開きのイラストには美加子の表情ノボルのポーズにある種のチャレンジブルなものがあるけれど、本編からデュープされ(データで抜いただけかな)並べられたそれぞれの画像はどれもが他のページにあるプロのスタジオで作られた作品に負けず劣らないハイクオリティぶりで、改めてその凄さを見せつけられた思いがする。インタビューに登場の新海さんはこれまた現在発売中の「広告批評」2002年5月号に掲載のインタビューと内容的にはほぼ同じながら、本人の顔写真が4枚も載るとゆー大盤振舞で、これだけ出まくってしまうともう、1人でレンタルビデオ店にも歌舞伎町にもいけないかもって心配してしまう。行ってるかどうかは知らないけれど。

 量がある分「広告批評」のインタビューはなかなかに細かい部分にまで言及してあって、例えば「アニメ作家」と呼ばれることに「居心地悪いですよ」(68ページ)と謙遜してみせたり、演出の巧みさを指摘されて「うまく騙せたかな」(同)と照れっぽさを見せつつ「動画が描けないんだったら、なるべく動きは派手にしないで、そのぶん3DCGの動きを派手にする。とはいえ3DCGにしてもすごい技術があるわけじゃないから、そこは既存のアニメのフォーマットに乗っかって、みんなが見覚えのある動きで省力化してしまう」(同)って手の内をあっさり明かしてしまう。もちろん見ればこれらは分かることなんだけど、それでも感銘を覚えたのはやっぱり本筋にある遠距離時間差恋愛とゆー主題と、それらを描き出す絵の美しさがあったからで、読んで手抜きだったのかと憤るなんてことはまるでなく、むしろどんどんと感嘆の度合いが深まって行く。

 次回作については「アニメージュ」では「30分とか、それ前後の尺で、オリジナルでやっていきたいな」って話してて、「広告批評」では「次の作品も個人ベースでやっていきたい」「見せたいものだけを突きつめた作品にしたい」「プライベートでとんがっていて、エンターテインメントとして広がりのあるものを目指したい」と割に自覚的。「なるべく間をおかずに発表していきたい」って話しているから8年も待ってようやく届く、って「ほしのこえ」なことにはならないと思うけど、とにかく良い物を、でもって面白い物を見せて頂けたら嬉しくってカレー、10杯だって食べちゃいます。用意してくれれば。

 さて「アニメージュ」。「アニメグランプリ」が「千と千尋の神隠し」じゃないのに驚いていては失礼なんだけど、「フルーツバスケット」が1位ってのにも自分が見てなかったってこともあってちょい、意外な感じを持ってしまった。それほどまでにアニメのファンに受けた作品だったのか、って驚きの意味も込めて。まあ同じことは3位の「スクライド」にも言えるんだけど。それにしても驚きなのはあれほどまでに評判の良かった「コメットさん」が14位で、「ギャラクシーエンジェル」が10位に入ってさらには「シスター・プリンセス」が5位に入ってしまっているってこと。いやもう個人的には全然以上のオッケーなんだけど、アニメの良心にこだわり抜いているおじさま方には、見てやっぱり愕然としたランキングだったかも。

 その流れは女性キャラクター部門のランキングにも続いていたりして、11位の「コメット」のすぐ上の10位に「でじこ」が居座り、さらにその上を「ミルフィーユ・桜葉」が押さえるとゆー並びはやっぱり見ていて感じるものがあっただろー。それを言うなら「ミント・ブラマンシュ」が21位で「ヴァニラ・H」が51位とゆーのもノーマッド的には許せないんだろーけれど、75位の「蘭花・フランオワーズ」にも負けてランキングから名前の落ちてしまった「フォルテ・シュトーレン」的には新橋の本社ビルを私物の迫撃砲で破壊し尽くしたい気持ちでいっぱいだっただろー。でも良いのか、移転するって話もあったりするから。

 男性キャラクターで「ウォルコット中佐」が52位で「ノーマッド」は56位。不満かなあ「ノーマッド」的には(2人とも入ったって方が驚きだけど)。それにしてもそんなに人気だったのか「ギャラクシー・エンジェル」。いやだから個人的には当然至極のことなんだけど、本誌で改めての特集があったその上に、付録の「2002ANIME SONG BOOK」の表紙と裏表紙にまで「エンジェル隊」の面々が登場とあってはもはや「アニメージュ」的には来年の「アニメグランプリ」をこの「ギャラクシーエンジェル」で固めたい意向があるに違いない、いやだから個人的には当然取ると思ってるんだけど、「星雲賞」ともども。

 まあ「アニメージュ」の感性が僕色に染まりつつあるってのは、「ソングブック」に掲載されたアニソンの順でも見え見えで、まず冒頭に「ぴたテン」が来てオープニングにエンディングが並び、それから「あずまんが大王」の「空耳ケーキ」と「Raspberry heaven」がそれぞれにオープニングのスチル入りで紹介されててよみの下着姿(けどこのショーツは卑怯千万)も拝めて最高。さらには3番目に「HAPPY LESSON」が来て今期のエンディングでは個人的にトップの「夢の都TOKYO LIFE」が3Dキャラ大集合とともども掲載されている。どれがトップって訳でもないけど偶然にも今期、見ている数少ないアニメの3本が3本とも冒頭に紹介されているって事実を勘案するならば、アニメの殿堂「アニメージュ」のアニメ様的感性に、ファン歴30年にしてよーやく追いついたってことなのかも。折角だからこの3作品の計6曲、「ソングブック」を頼りに覚えていつかどこかで披露しよー、1人でカラオケボックスで唄うとかって感じで(披露じゃねー)。

 「アニメ様」といえば元祖にして本家アニメ様の小黒祐一郎さんが「広告批評」で90年代アニメを総括してて、媒体が媒体だけにいつもの深過ぎて広すぎる知識人脈をふんだんに盛り込んだ濃さ200%の記事じゃなく、割に俯瞰し網羅した感じになっていて読んで記憶を刺激され、あの喧噪の時代が走馬燈のよーに甦る、って少なくとも僕的な90年代前半は「きんぎょ注意報」に「とんでブーリン」に「美少女戦士セーラームーン」に「スラムダンク」に「幽々白書」でしかなかったんだけど。90年代後半については森本晃司さんをはじめとする「スタジオ4℃」系への意識に違いがある程度で、ほかは割に似通っていて「アニメ様」にはお呼びはせぬが、せめてなりたや「アニメちゃん」には近づいているかも。「アリーテ姫」を除いて今は苦手な「スタジオ4℃」系も凄さは存分に分かってるんで、あとは”萌え”に振られた感情の針先をちょい戻して、格好良さスタイリッシュさに憧れる気持ちを高めていけば、お話し的に見て面白い「永久家族」とかのリリースなんかも重なれば(出してくれー)、信者化する可能性も結構な高さであったりする。適うかな。


【5月9日】 ゴールデンウィークが挟まって何か間延びしてしまった感じもあったけど、それでも始まっていきなりの休載はよほどの事(文体が気に入らない、というタテマエ的な理由で2回しか乗らなかった「中央公論」の山形浩生さんとか)がなければ無いよーで。「週刊新潮」でゴールデンウィーク前から始まった女性誌向けとしか思えない女性コラムニスト3連星は2002年5月16日付けも消えずに掲載。「窓際OL」ってカタガキで登場の斎藤由香さんが自分を作家の娘と書いててハテいったい誰の娘さんなんだろーかと考えたけれど、斎藤ってもたくさん居過ぎてちょっとさっぱり、まさか斎藤綾子さんではないだろーし斎藤茂吉じゃあ娘はBGでああってもOLではなさそー。あるいはその息子の北杜夫さんか斎藤茂太さんのどちらかの娘さんかとも想像したけどさてはて。まさか斎藤十一さん?

 まずは小手調べって感じだった三浦しをんさんの「人生激場」は2回目にして本領発揮な感じ。「アリバイがない!」ってタイトルで昔いっしょに働いていた店に泥棒がはいって、その手口に内部犯行あるいは関係者による犯行が疑われていると感じた三浦さんがとった行動は? ってあたりを軸に話が組み立てられていて、もしかしたら警察官がやって来るかもしてないとアリバイを確かめ身辺整理をし身支度と整え……ってな感じでエスカレートしていく杞憂が読んでいて身につまされるものがあってなかなかに楽しい。さすがに爆裂的な妄想へとふくらむことはないけれど、このくらいの程良さが読者の大半を占めるオジサン連中に「初いヤツ」って感じを与えて親しまれる糸口になったりするのかも。「しをんのしおり」も新潮社から刊行間近だし、それに会わせてグラビアに登場なんかしたりするのかも、パジャマ姿で。

 早起きして「東京おもちゃショー」。途中、京葉線がなかなか新木場駅に入らず何かあったんだろーかと思ってプラットフォームから降りて改札を抜けると何やら救急隊員が来ていてそこに大勢の人がむらがっている光景が目に飛び込んで来た。貧血で倒れた喧嘩で殴られた線路でミンチになったってんなら別に大勢の人が行列を作る必要はないから、おそらくは異臭騒ぎか何かだと思っていたら夕刊に記事が載って正解で喜ぶ、いや喜んだら被害に遭った人に失礼か。後で知ったら何のこともないけれど、その場じゃ危ないガスかもしれないと脅えに震えてたかもしれないし。ちょっと横切っただけの僕だって後でちょい、不安になったほどだから。

 しかし喧嘩になったからといって満員の電車内で催涙ガスを撒く「場の見えて無さ」ってのは一体何だろー。もちろん周囲におかまいなしにヘッドホンからどデカい音を漏れさせながら音楽を聴いていたりする奴も、着メロを大音量で流して取った電話に大声で喋っている奴とか「見えてない」人間の多さは兼ねてから指摘されていたけれど、迷惑の度合いが半端じゃない催涙ガスの噴霧を激情にたとえ駆られたとしてもやってしまえる飛びっぷりはやっぱり尋常じゃない。個人の資質の問題なのかそれとも人間全体に及んでいる動物化の類例なのか。ガスじゃなくってクリームパイを投げるなり、シェービングクリームを吹き付けるなりした方が場も和んで言いのにね。喧嘩用携帯型(ロングライフ)パイ、「なんちゃって」シリーズのタカラは是非に開発して頂きたい。

 そのタカラも出ている「東京おもちゃショー」、「なんちゃって」シリーズにもいろいろと新製品があったみたいだけどバカっぷりで目を引くほどのものがちょいなくって、そろそろネタも切れてきたのかなって印象を受ける。もっとも現在、某「SPA!」でおちまさとさんがタカラと共同で新製品のプロデュースをしてるみたいなんで、あるいは案外に面白いものが出てくるかも。代わってゲームの世界から入って最近はメリメリと玩具の世界に版図を広げよーとしているコナミが電子の技術を使ったコナミらしー商品を幾つか発表。めぼしいところだと「デジQ」シリーズのフォーミュラカー版を新製品として発表してて、そのリアルさそのスピード感に、模型業界ラジコン業界から来た玩具メーカーさんはボヤボヤしてられないぞ、って気になる。

 ハンドルを操作できる訳じゃないのに後輪の回転差で曲がった時にちゃんと前輪が左右に振れるよーになっている点はアイディア賞。全長が11センチもあるから直進性は抜群で地を這って走るよーな感じはまさにフォーミュラカーって雰囲気なんで、家に直線とカーブを組み合わせた長いコースを作って走らせてレースをさせてみたくなった。和が部屋じゃあ絶対に無理。実家でだってやっぱり無理なんだけど。だったらどーやって遊ぶんだろ。大会とか開いてくれるのかなあ。コナミだと他に充電すると手だけが繰り返しバタバタとパンチを放つよーになった、トントコ相撲を立体にしたよーな感じの人形が出ていた。

 キャラに「あしたのジョー」を採用してるってあたりがミソで、リングの中でジョーと段平が明日のためにその12345678910……100101ってな感じで素早くパンチの応酬をするシーンとか、ホセにカーロスに力石なんかと戦う場面なんかを目の前で再現できそでーちょっと欲しくなった。ほかにキャラだと「K−1」もあって、こちらはパンチだけじゃなくって片方の足がキックを放つよーになっていて、向かい合わせて立たせれば、パンチパンチパンチキックッキックパンチパンチキックの応酬ってゆー「K−1」よりさらにスピーディーな闘いを楽しめそー。問題はカカト落としは再現不可能ってことかな。

 あと昔懐かしい「光線銃SP」みたいにガンから何かを発射するとコップが吹っ飛んだりロボットが動いたりするおもちゃとか、向かい合ってそれぞれに頭に赤外線だかの受光部を付け、手には赤外線だか電波を発する装置をつけてお互いに殴りっこをすると、成績に反映されるおもちゃとか、赤外線リモコンを使った玩具が幾つも提案されていて、技術だけじゃなくアイディアの豊富さでも玩具業界の中でトップレベルにありそーな印象を受ける。

 「デジQ」シリーズは個人的に待望の「コンバットデジQ」とかも発売を待っているし、メンコに消しゴム飛ばしはイベントをやればしっかりと売れていくって話。午後の決算で「遊戯王」が300億円以上も減収になってCP事業は大変みたいだけど、なかなかに良い筋の玩具をこれだけ集められてるんだから、今をしのげば将来はそれなりな位置を玩具業界の中でも、またコナミの中でも占めている可能性だってありそー。だからそんなにジラさないで、とっとと「デジQフォーミュラ」も「コンバットデジQ」も出しとくれ。

 新聞とか通信社なんかはこの辺の「温故知新」玩具を夕刊でしきりに取りあげてブームだなんて煽っているけどそんなの2、3年前から言われてたことで大マスメディアがいかに流行に疎いかを改めて満天下に示した感じ。ザッと見た印象はどちらかといえば心を癒すよーな内容の玩具が増えている感じがあって、やっぱり時代なんだなーと思うこと仕切り。抱いていると動くか鳴くかしてくれるゴマフアザラシのぬいぐるみ人形にしても、動物とのコミュニケーションに役立つ装置にしても、人間相手にバトルするより動物相手に癒しを求めたい今時の人間の心境を現しているよーに見えたけど、全体的にはどーだったんだろー。週末にまた行って詳しく見て来よー。

 それにしても癒しを求める人いれば、苛立ちを動物で発散する輩もあって世の中ますます混迷の一途を辿る感じ。産経新聞の朝刊が「2ちゃんねる」にあたかも猫虐め写真が掲載されているかのよーな記事を書いて「2ちゃんねる」叩きっぽさを出していたけど、同じ会社ながら「夕刊フジ」はちゃんとリンクでもって別の画像掲示板に猫虐め写真が上がったって段取りを説明した上で、「2ちゃんねる」の読者もその残虐さに憤って犯人探しに懸命だっったって感じに記事を書いていて、それなりな理解力状況認識力がネットに対してあるんだってことが分かって安心した。さすがは管理人のインタビューを載せた新聞だけのことはある。あの犯人を「オタク」と言った精神科医のコメントを載せてしまったのはちょいアレだけど。

 ふと思ったのはあれが生きた猫じゃなくって「AIBO祭り」だった場合にどんな反応が起こったんだろーか、ってこと。アイボの手足をもいで(「OPEN−R」だったら付け替え自由なんだけど)吊して水をかけて尻尾を引っ張って最後は首を万力で締め付け潰す、その一部始終をネットで公開したとして、やっぱり非道だ虐待だてな声はあがるんだろーか。もちろん「AIBO」を好きで育てているオーナーの多いことは知っているけど、生命を持たない、言ってしまえばモノでしかない「AIBO」への虐待を非難する論理を展開することはいずれは、ロボットの人権を認めるかって話になって行くことなのかそれとも、単純にその場限りの論理で終わって未来はやっぱりロボットは差別され「A.I」みたいにロボットの虐待が最高の娯楽になってしまうんだろーか。実験とかしてみたい気もするけど何しろ安くなったとは言え10万円以上はするモノだけに、買えないし買ったらきっと壊せない。「サウスパーク」のケニー君人形だったら値段的にもキャラ的にもオッケー、かな。


【5月8日】 文学界悪の枢軸として笙野頼子さんから総力戦を挑まれている大塚英志さんが「群像」2002年6月号で反論ってゆーか逆提案ってゆーか興味深い原稿を発表中。題して「不良債権としての『文学』」はその名のとーり出版社の経営の上で数字から見れば不良債権化している文学の一体どれだけ不良債権化しているかを経験から数字を挙げて説明するとともに、だったらどーすれば収支のとれるものになるのかって提案をしてる。

 どちらかとえいば「文学とは収益で図るもんじゃねーんだ」的憤りから大塚さんを槍玉にあげた笙野さんの神経を輪をかけて逆撫でしそーで、 来月以降の再反論があるのか興味津々戦々恐々。大塚さんの文章では、出版社がなぜそれほどまでに儲からない文学にこだわるのか、ってゆー理由付けに当たる未だ信じられている文学の「権威」の数値的換算がないのが気にかかるけど、今はまだ「権威」として機能しても5年後10年後50年後はどうなのよ? ってゆー遠視眼的な考察があるかもしれないんで、いずれその辺も含めてどこかで書いてもらえたら参考になるかも。

 あと文末で「文学コミケ」の開催を提案して作家が出版社に寄らず文学を披露してみせる覚悟を暗に求めているのが印象的。そんなに文学やりたきゃ出版社の看板にすがらず出版社に権威として利用されない環境で文学してみせやがれ、ってゆーか。多分に大見得を切ったっぽいところはあるけれど、言って引っ込めるタイプの人じゃないのもまた知られているんで、乗ればきっとマジで開催してくれることだろー。って訳で大塚英志さん仕切りの「文学コミケ」に参加しブンガクの新しい夜明けを経験したい人は、東京都文京区音羽2の12の21、講談社「群像」編集部気付で大塚英志さん宛てに往復葉書で住所氏名を明記して「参加希望」する旨書いて送ってみては如何。大塚さんと最近あれこれ交流のありそーな東浩紀さんとか福田和也さんが参加したらこれはブンガク的大ニュース、なんだがなー。

 届く数少ないヤングアダルト文庫の電撃文庫から「大唐風雲記 始皇帝と3000人の子供たち」(田村登正、電撃文庫、530円)に続いて新刊をあれこれ。「天国に涙はいらない」(佐藤ケイ、電撃文庫、510円)は確か2巻だかの畜生道に墜ちて狐になった主人公を弟のよーに面倒みてた狐の少女が人間の姿になってはるばる訪ねて来る話。そーいえば「実は狐」ってオプションは滝本竜彦さんの「NHKにようこそ!」に描かれていたエロゲーのヒロインキャラの設定作りにもあったよなー。ともかくも主人公の賀茂是雄を今も狐が化けていると思っている妖狐変じて葉子たん、あれやこれやとお節介をやくけどそれが妙に空回りになっているのが見ていてちょっぴり可哀想。

 おまけにあれやこれや事情があってエンディングにはちょっぴりホロリと来たけれど、素気なさ呆気なさでは他の追随を許さない飛ばし設定の作者だけあって、ちゃんとどんでん返しも用意されてて一安心、おそらくは遠からず登場しては悪魔っ娘こと桂たまちゃん化け猫娘の鍋島真央ちゃんとの恋の鍔迫り合いなり、人間なのに悪魔以上の破壊力を持つ佐々木律子との死闘を演じてくれるだろー。問題は物語が春を迎えても学年が上がらないの呪いにかかってるっぽい所がある点だけど、まあそこは無理筋設定でもひょうひょうと乗り切ってしらん顔の作者なんで、爆裂キャラのオンパレードに混じって必ずや復活を遂げてくれるだろー。表紙裏の尻尾付き葉乗せ葉子たん、フィギュアか縫いぐるみにならないかなー。

 続いて渡瀬草一郎さん「陰陽ノ京 巻の3」(電撃文庫、550円)。龍神の血を引く外法師、弓削鷹晃が謎の老人と出会って交流を深めつつも、折からの長雨でゆるんだ地盤を抜けて復活した化け百足を相手に都の陰陽師が総出で戦うことになって鷹晃も巻き込まれてしまうってストーリー。問題はすでにして鷹晃ってのがどーゆーシチュエーションで登場した人物で家来にしている紗夜姫とその父の義仲ってのがどんなキャラクターだったかをすっかり失念していることで、それでも何だか良い奴っぽいものの実は素性に秘密があるってことだけは理解して読み進む。

 1巻では相当に重要なキャラクターで全編を通してのヒロインになると思った美少女戦士・時継がまるで狂言回しとしても活躍していないのにはちょっとガッカリ。せめて紗夜姫の酒乱でも見たかったけど好きな割には下戸で寝入る方らしくって、これまたあんまり活躍しなくって全体にもやもやとした気分が残る。けどまあ、口絵で可愛く眠る紗夜姫の姿を見られたからそれだけで十分かな。けどどー見ても安倍晴明の奥さんの梨花の方が若く見えるぞ。それと賀茂保憲と息子の光栄のイラスト、どっちがどっちだ?

 仕事となると正午までだって寝ていたくなるのに、こーゆー時だけパッチリと目がさめるのはやっぱりご都合野郎って言うんだろーか。鳴る目覚ましの音もそこそこにパッチリと醒めた目をこらして午前4時過ぎから始まったサッカー「日本代表対レアル・マドリッド」のテレビ中継を見たけれど、映し出されたスタジアムの広さが逆に目立ってしまうほどの空席ぶりにまずは愕然。相手が極東のど田舎から来たサッカー後進国の代表チームだからといって、地元にはレアル・マドリッドのファンが大勢いるはずなんでせめてスタジアムの半分くらいは埋まってたって不思議はないと思っただけに、降りしきる雨の凄さを差し引いても、マドリッドの人たちにとって日本代表ってのは金を払って見るに値しない、まるで全然魅力のないチームだったのかなって哀しくなる。日本でセネガル代表とジュビロ磐田の試合に人がどれだけ集まるかって考えても、あの少なさはちょっと異常だったよなー。

 試合の方はといえば雨中でグラウンドもプール1歩手前とゆー最悪のコンデションだった割には前半についてはまあ盛り上がった方。プレスに積極的に行ってタックルもチャージもガンガンって訳じゃないからパスもレアルだけじゃなく日本代表も含めて結構つながって、攻守を代えて違いに責め合いを繰り返す見ていて楽しい試合だったよーな気がする。それでもレアルの選手の鮮やかなパス回しを見るにつけ、ゴール間際でシュートなりパスに至ろーとする日本代表のタイミングがことごとく少しづつ遅いよーに感じたのはやっぱり才能の違いって奴、なんだろーか。

 後半はもう見るところもない水球試合。空中でつなげるテクを持つレアルに対してグラウンダーのパスを出しては水たまりにとられる日本の考えてなさが目について、いよいよもってセンスの違いを見せつけられた感じ。とはいえ2軍相手に点をとれなかったと非難される日本代表だってフォワードに高原はいない西澤もいない、中盤には中田もいない小野もいない中村もいない名波もいない……といった2軍状態だった訳で、それでもあれだけの善戦を見せたってことは出ていなかったメンバーが揃えば1軍相手にだって互した試合をやった、かもしれない、と思いたい。だったら本番は大丈夫かというとこれがまた、ねえ、高原はいない西澤も無理で中村は果たして大丈夫か、って状況なんで結局は1軍半でのぞんで予選で木っ端微塵に粉砕されるのかも。せめてロシアには一矢報いたかったなー(過去形)、影響力を持つムネヲが生きていればなー(生きてます)。

 大袈裟、ではあったけどナムコが任天堂の「ニンテンドーゲームキューブ」向けにソフトをたくさん供給していくって記者発表、それでもソニー・コンピュータエンタテインメントと表裏一体に「プレイステーション」の開発に携わって来た会社が、1度は袖にしたって思われても不思議はなかった任天堂と組んで「スターフォックスGC」は作るはナムコで作った任天堂ハード向けソフトを任天堂流通で売ってもらうわって提携に踏み切ったって当たりに、先行きまだまだ不透明なゲーム業界の実状と、その中でゲームとは何だ? これがゲームだ! ってゆー貫き通して来た任天堂信念が、今また脚光を浴び賞賛を受けて来てるって現状が伺えるのかも。

 会見で任天堂にソフト販売を委託する理由として「プロモーションで射幸心を煽るよーなことをせず1本1本をしっかり売ってくれる」ってナムコの人が言っていたのはつまり、射幸心を煽るよーなプロモーションをして1本1本をあんまり丁寧に売ってくれない会社がどこかにあったってことなのかな。「仲直り、すれば背中で仲違い」。あとカプコンの「バイオハザード」のGC参入の時やちょっと前のセガによる「F−ZERO」新作開発公表の時と同様、世界がその動向を注目する宮本茂さん直々の登場は、任天堂ソフト帝国の版図を広げに諸国を旅して回る王子様って雰囲気があって好印象。同じ印象が各社のうるさ型のクリエーターの心をとかして任天堂にはせ参じさせているのかな。王子様にしてはいささか歳は取っているけど、王様ががあの歳だから仕方がないか。


【5月7日】  いや凄い。とっても素晴らしい。ってゆーか素晴らし過ぎて他にどんな美辞麗句を発しても嘘になってしまう可能性が大だったりするアニメーション版「あずまんが大王」。もちろん水着が大量に出てくるエピソードだったってこともあるし、そのあまりにあまりな展開でもってゆかり先生およびゆかり車のすさまじさを満天下に印象づけた、全編を通して1、2を争う衝撃度を誇るエピソードだったってこともあるけれど、そーしたエピソードを絶妙の間合いを持った演出とオリジナルな解釈も加わったシナリオでもって見せてくれたってことで、これはもう絶賛するより他にない作品に仕上がっていた。いやいや本当に素晴らしい。

 同じシーンの繰り返しは作画枚数の節約につながっているよーな気がするけれど、まったりとしたシーンでは繰り返しによって生まれるそこはかとない”おかしみ”が、またテンポのいいシーンでは繰り返しによって高められるテンションが、それぞれに作品への気持ちの移入につながって見ている人の目を離さなくする。駅前での智による雄叫びの繰り返しの気持ちを急かされるよーな快調なテンポ。直後の大阪による売店の爺さんへの目配せの繰り返しの気持ちをおっとりとさせるよーなスローなテンポ。殴られて撫でられるよーな快楽にもう見ていて脳がとろけそーになる。

 榊さんによる噛み猫への度々のアプローチの決して容れられない事実からわき上がる哀しみへの同情と、それでも触れられたことでポッと頬赤らめる榊さんの気持ちを思っての嬉しさが、伝わって来てもう泣けてくる。ちよちゃんの間合いにもだんだんと馴染んで来たってこともあって、もう完全にアニメ版「あずまんが大王」の虜にさせられたって感じだけど、これにも増して次週はまたまた古文・木村先生によるブルマー談義が披露される予定みたいで、その迫力の前に今度も空いた口を広げられ、脳味噌をぐるぐるとかき回される気分を味わえそー。「あずまんが大王」が続いている限り、ブルー・マンデーきっと来ないね。もっとも夏秋冬春とブルーな気分になりそーだけど。「ギャラクシー・エンジェル」復活しねーかなー。

 これはフィクションだけど、「e−ジャパン」って国の構想なんかにもそぐう形で自治体なんかが進めている情報の電子化事業をもってして「電子自治体」とか称して、その動向を完全に賞賛の方向で報じるだけに留まらず、自治体およびそのバックで「電子自治体」構想なんかを支えている中央官庁ともタッグを組んで、企画特集にイベントに邁進しているプチメディアがあったとしよう。そんなプチメディアのトップがこれまたスノビッシュな人で負けることが大嫌いで、大メディアがこぞって取りあげるよーになった話題に乗り遅れたくないって性格を遺憾なく発揮して、もう1年以上も前から大メディアも良識派のメディアも取りあげては来たものの、ここに来て国会に上程されるにあたって改めて大騒ぎになった「個人情報保護法案」に関心を持つに至ったらしー。

 でだ。当然ながらプチメディアのトップはよその報道を追いかけるよーに「個人情報保護法案」を取りあげろって言い出した訳だけど、果たしてこれって整合性の維持が可能なものなんだろーか。なるほど「個人情報保護法案」で目下の懸案だとマスメディアが騒いでいるのは、メディアの仕事が規制されるってことへの懸念から。頭の良すぎる官僚はそーしたメディアの矛先を和らげよーと、新聞とかテレビとかを適用対象から除外する項目を盛り込んで懐柔しよーとしているけれど、そこは流石に良識を持ったメディアだけあって、いずれは我が身に及ぶ可能性も踏まえつつ、広く「言論、表現の自由」という大義名分を基本として、廃案に追い込もーと頑張っている。

 けれどもそーしたメディア規制への不備を主張する声はあくまでも「個人情報保護法案」への反対要件の一部分。むしろ本来の目的ともいえる、国とか自治体とかに集まる個人に関する情報を、いかに保護するかって点でのあまりにも不備だったりする部分に対して、これはマスメディアに限らず市民から地方自治体で働く良識のある人たちまで含めて、成り行きを見守っている状況にある。国や自治体などが持つ個人情報は絶対に保護されなくてはならない。民間よりも強い罰則で縛られなければならない。敷衍するならそうした保護が担保されないような中で、センシティブな個人情報を国や自治体などがかきあつめ、電子化して保存しことあらば自在に取り出せるような状態に置くことを認めてはならない。この考え方は、あらゆる個人情報を国や自治体が電子化して管理下に置く「電子自治体」構想とは決定的に相反する。

 「個人情報保護法案」について物を言うという意味、反対するという意味を考えたときに、利便性のためにはプライバシーに制約が生まれてもやむをえないという考え方を是にする可能性を秘めた「電子自治体」構想には、賛成するには留保をつける必要があるしいわんや国の尻馬に乗るなんてことはやってはいけない。逆に国を後押しするなら、その同じ口で軽々しく「個人情報保護法案」への反対など口にしてはいけない。

 あるいは人の良さ、細かいところを気にしたい思考の大胆さでもって相矛盾する施策であり法案であっても流行りとあらばどちらにも乗り、稼げるとあればどちらも支持する意見が出てきたのかもしれないけれど、世に影響力を激しく持った大メディアが似たよーな二枚舌を、こちらは深く理解した上で使っていたりする傾向があるのは問題で、けれどもそんな二枚舌をいけしゃあしゃあと使って省みない高邁さが見えてしまっているからこそ、こればっかりはやっぱり絶対に廃案にしなければならないとの思いが込められた「個人情報保護法案」への反対運動が、自らの権益を守ろうとするだけのエゴと思われ見捨てられてしまうんだろー。やっぱまっぺん(もう一編の意)滅びんとあかんのかもな、ニッポンは。

 おじさん新人にしては意外に”萌え”的要素もあってなおかつ物語の構成に時空の移動を巧みに使った冴えがあって、ラストともども感動した田村登正さんの「大唐風雲記 洛陽の少女」(電撃文庫)。待望だった第2作目の「大唐風雲期 始皇帝と3000人の子供たち」(電撃文庫)は入り組んだ構成って意味ではやや後退気味だけど、まとまりはあるし何より始皇帝が残した兵馬俑に関する圧倒的な情報量が読んでとっても勉強になって、中学生くらいが中国の歴史に関心を持つきっかけになりそー。あと中国の女神信仰についても。大きな物語とも言えそーな主人公で導士見習いの履児の目覚めを促す試練に全然、至っていないのが難だけどあくまでインターミッションとして考えて、餓えた気持ちを満たす1冊と位置付けた上で今後登場の3巻4巻に本格的な大冒険を期待することにしよー。


【5月6日】 そうそう5月5日付「朝日新聞」といえば読書面に山形浩生さんがたぶん2度目くらいの登場、だけど大枠じゃなくって脇の小さい方での登場なんで前回以上に独特の文章芸が発揮されてなくって読んで全然山形さんを感じない。400字程度の小ささとは言え、こーまで自身の特質を消してアサヒ風読書面文体をパスティーシュしてみせる腕前にさてはて、感嘆すべきなのかそれとも嘆息すべきなのかを今はちょっと決めあぐねている。「八六五頁を一気に読ませる。著者の力量が遺憾なく発揮された大作」なんて真っ当にストレート過ぎる締め、やればちゃんと出来るんですね。

 文体と言えば「SFセミナー」の古本バザールで500円の廉価で手に入れた山形さん訳、W・S・バロウズ著の「映画ブレードランナー」(トレヴィル)なんかはまだ20代半ばだっただろー山形さんのあとがきが巻末に載ってるんだけど、これがもー見事なまでの山形節(「ややっ、つい自分の専門の話になると長くなってしまう」といあ「じゃあこいつはいったいなんなのか、ということだけれど、こいついは非常に簡潔に書かれた、ニューヨーク市マンハッタンを舞台にした都市小説である」って具合)。できれば本当は「朝日」にもこーしたぞんざいな口調での的確な論評が欲しいんだけど、そこは有楽町を経て今は築地に長くふかーく渦巻くインギンブレイッシュな空気が山形さんをしてあーした文体を採らしてしまうのかなー、吸いたくないなー。

 「鋼鉄天使くるみpure」素晴らし過ぎ。えっとNASA名物「エンデバー饅頭」だったっけ、そんなものが登場するだけでも妙なのに、それを食べる作法の実に細かいこと不思議なこと、風呂に入った後に70度だか80度だかのお湯でお茶を鋳れつつまずはまっぷたつに割って中の餡だけなめとったあと、周りを頂くとゆー細かさで、それで本当に美味しいのかってゆー疑念もわくけれど、そーした描写をしつっこく描くことによってお話しに妙なテンションが生まれて来るのも事実で見ているとグググッと引き込まれてしまう。酔っぱらいの謎姉ちゃんにエプロン姿のM男と訳分からないキャラクターの味も絶妙。次回はいよいよ新型も登場のよーでドタバタッシュさを増す中でどんな荒唐無稽で不条理なドラマが展開されるのかに、今から期待が高まって仕方がない。凄いものを作りやがったなあ。

 中田選手の活躍を見て寝て起きて「東京都現代美術館」へとフェラーリを見に行く。美術館でなぜフェラーリ? って誰でも思うだろーけどそこはこれまでも漫画とか村上隆さんといった現代美術の権威の枠組みからは微妙にズレたりとっても外れた面々を取りあげて来た美術館。むしろ工業製品ではあっても一方で20世紀のデザイン界でとてつもなく重要なフェラーリ=ピニンファリーナを取りあげる方がよほど「現代美術館」っぽいって言えるだろー。加えて2001年は「日本におけるイタリア年」。「フェラーリ&マセラッティ展」はそれの記念イベントの掉尾を飾る展覧会にも位置付けられているもので、国際交流って大義名分が立っている分、漫画よりも漫画アートよりもやっぱり現代美術的、ってことになる。むろん個人的には手塚も村上もピニファリーナも等しくアートなんだけど。

 もっとも来ている客層にはそこが「現代美術館」って意識はあんまりない、ってゆーかあんまりありそーには見えなかったのも事実で、むしろ例えばスポーツカーの収集では世界的な「松田コレクション」とか愛知県は長久手町にある「トヨタ博物館」に行くよーな人たちがいっぱい来ていたっぽい所があったみたい。展示してある歴代のフェラーリのツーリングカーからフォーミュラカーを眺める目は、デザインの美に性能の凄さ、積み重ねてきた歴史の重さを噛みしめるよーな熱い熱いエネルギーに満ちていて、なるほどこれが「エンスー」って奴なのかと車そっちのけで観客の観察に勤しむ。

 とにかく凄い人。休日だって普段は滅多に客のいない「東京都現代美術館」なのに、どの部屋に行っても人がいて展示物を見てるって事実が自動車の持つポピュラリティを感じさせる。入り口に、入場者を誘導するロープが張られてたってことも、いかに多くの来場者を「フェラーリ&マセラッティ展」ともーひとつの「ルイス・バラガン展」が集めてるかってことを伺わせる。ただ大勢来ているだけじゃなく、その熱さも普段以上。通路に工業製品ってゆーよりはむしろ工芸品に近い微妙なラインを誇るフェラーリ用のマニホールドを立てて並べる展示の冴えもなかなかだったけど、それをジッと見入る目は彫刻作品のフォルムを眺めるアートファンの目に加えて、フェラーリとゆー歴史への憧れであり敬意が伺える。アートにもこれだけ熱いファンがいたら、もっともっと客が増えてより楽しいアートの展覧会が開かれるにになあ。

 むしろ「ランボルギーニ・カウンタック」のフォルムの凄さに圧倒された「スーパーカー世代」としてはフェラーリだったら例えば「512BB」とか、あるいは沖田の乗ってた「ディーノ」が展示してあった方が嬉しかったし他だと山梨鐐平さんが歌に唄った「308GTB」が見たかったけどそれらはなし。とはいえフェラーリのファンには垂涎のマシンが多く並べられていたよーで、なるほど見るにつけそのフォルムの美しさ秘められた性能の凄さには、ただただ圧倒された。ほとんど全部が真っ赤、ってのも潔くって良いねえ。今の日本でここまでカラー・アイデンティティを主張できる車ってないからねー、昔だったら「スカイライン」のガンメタリックみたくあったんだけどねー、日本車がアートになり得ない理由もその辺にあるのかねー。

 あと次代の限定スーパースポーツのコードネームとなる「FX」を冠された車のモックアップが全世界に先がけて転じされているってのも大きな特徴か。個人的には「F40」以降の算盤みたい板チョコみたいで筋が入ったフォルムが苦手なんだけど、新しい奴のやっぱり薄べったいものの先進性を伺わせる滑らかなボディラインは、20世紀に夢見られた21世紀を実直に体現しているよーでSFファンとして見ていて興奮させせられる。これが走る都市がまるで未来っぽくないのはやっぱり、車がってよりはフェラーリがどこまでも時代におもねる工業製品なんかじゃなく、時代を作り出すアート作品だってことの証明なのかも。

 続けて同じ「東京都現代美術館」で開催中の「ルイス・バラガン展」も見物、って実はあんまり知らなかったりするルイス・バラガンさんだけど、昨日の「日曜美術館」で建築家の安藤忠雄さんが出演して紹介していた建築家だけあって、安藤さんの「光の教会」にも通じるシンプルな構造でもって空間を巧みに間仕切りして、そこに光を加えてアレンジしてみせた作品が写真と模型と映像でもって紹介されていた。色使いに関しては打ちっ放しのコンクリートが特徴の安藤さんとは違ってピンクとか黄色とか青とかを使う多彩ぶり。あとメキシコの人だけあって宗主国のえっとスペインだったっけ、あとイスラムっぽい感じも取り入れてあって、モダンとエスニックが同在した面白味のある作品になっている。近代的な建物の屋根が瓦な愛知県庁みたいなものか(違うでしょう)。

 とにかく凝った展示でそれだけでもキュレーターの気合いの入り方が伺える。ほとんどすべての展示に映像での紹介ゾーンを設けたり、ある建築の特徴的なキッチンだけをまるまる再現してみせたり、小さいのぞき窓からなかを見ると部屋の様子が小さい模型で再現されていたりと言った具合に、それだけでひとつの建築作品っぽい展示内容になっていて、これだけのものを作るにはいったいどれだけのお金がかかったんだろー、それは一体どこから出たんだろー、ってな疑問もいっしょに浮かび上がる。とはいえこちらも「フェラーリ&マセラッティ展」に劣らず人気で人がぎっしりで、5000円もするカタログも即座に売り切れたみたいで下手したら(下手しないでも)「森万里子展」より成功しちゃっている感じ。その対象にいささか僕的な関心とはズレがあるけれど、ともかくもこーして僻地にある過疎美術館でも人を集める展示を行えるって事実をバックに、ますますの興味深い企画の実行を望みたいところ、です。


【5月5日】 それはまあ、癖みたいなもんでそもそもが「TINAMIX」連載がスタートするはるか以前からずっと、イベントとあらば通ってのぞいて彷徨(うろつ)いていたんで別に、終わってしまったからといって行かなくなるってもんじゃなく、今日もきょうとてゴールデンウィークに合わせて全国各地で開催された、大きかったり小さかったりするイベントへと誰の誘いも受けずもちろん誰を一緒に誘うでもなく、せっせと足を運んでは誰とも一言も喋らずに帰ってくる、外向性ひきこもりの真骨頂とやらを実演してみせる。

 まずは今やオンリーの殿堂と化した観すらあるらしー、「東京都立産業貿易会館」で開催のあれやこれやをまとめて見物。とっかかりとしてのぞいた2階の「エンイー(¥e)3」すなわち「”何か。”関連総合展示即売会」つまりは「偽春奈」関連の同人誌ばかりを集めたイベントを散策、いちはやくカタログは売り切れたよーで入場フリーとなった会場を入って卓をざざざっとなめてはみたものの、歳から来る気恥ずかしさもあって手に取り眺める勇気がわかず、何も買わないで後にする。「うにゅう帽」を被っている男子を場内のあちらこちらに発見して、欲しくなったけどこれは即完売みたいだったんで残念無念、これを被ればどんな毒舌を吐いても許される魔法のアイティムなだけに(そうなのか?)、今度あったらちゃんと朝から並んで頑張って手に入れよー。色は黒が正しいのかそれとも白か水色か。別にどれでもいいのか、任意なんだから。

 続いてえっと、どれだったっけ、下から上がっていったんで順番で行くなら3階で開催されていたギャラクシーエンジェルONLY同人誌即売会「私の天使サマ」ってことになるのかな、こちらも入場時にはカタログ売り切れでフリーになってて、喜んでいいのか悲しむべきなのかにちょっと悩む。カタログってブースの位置とか確認するのにも役立つけどそんなに大きくないイベントだとそれほど重要って訳でもないんで必要ないっちゃー必要ない。

 けど、掲載されている事務局からの諸注意をしたためた漫画みたいなものが、後で読んで面白かったりする場合もあるし実際、この後で寄った「アイスちゃん」こと「えここ中心イメージキャラクターONLY同人誌即売会「エコケット5」で買ったカタログに掲載されてる諸注意漫画の「えここ」の凶悪ぶりが面白かったんで、「私の天使サマ」のカタログにはどんな諸注意漫画が掲載されていたのかやっぱりミントたんが陰険ぶりを発揮してたのかそれともノーマッドが毒を吐きまくっていたのか、ちょっと知りたいところではある。そんな諸注漫なんてなかったなら、別にどーでも良いんだけど。

 さて「私の天使サマ」。見れば見るほど欲しい本とかあったけど買うためには卓に近づき立ち読みしてから「これ下さい」と喋らなくてはならいのがネックで結局買えず。ミントたんヴァニラさんフォルテさまほか(ミルフィーユ蘭花はその他かい!)のあーしたりこーしたりする本がたんと(沢山の意)あって、今にして思えば勇気をふりしぼって買っておけばよかったと夜のひとり寝の侘びしさを感じつつ後悔にひたる。それでもどーにかこーにか1つだけ、これを着てさえいれば唯一ヴァニラさんだけを除いて世の誰に向かってどんな毒舌を吐いても構わない(ただし後で踏まれ撃たれ土に埋められ燃やされることになる)ってゆー必殺アイティム「ノーマッドTシャツ」を購入。ピンクの地にあの目と唇と「Z」の文字が染め抜かれた逸品で、着ていればもしかしたら間違えたヴァニラさんに抱っこしてもらえるかもしれない。その目立ち様に遠くからでもフォルテさまの的にされる可能性も高いけど。高すぎるけど。

 そのまま上の会へと上がってこちらは久々の「エコケット5」。遠い昔にこれまたオンリーの殿堂「文具会館」で開かれたあれは1回目だったっけ、2回目だったかに行った記憶があるけれど回を重ねて大きなフロアを使って結構な数のブースが並ぶ立派なオンリーイベントへと成長を遂げた姿を見るにつけ、「えここ」人気の続きっぷりもそれとして、企業とかがこーゆーイベントに耐えうる”萌え”的要素を持ったキャラクターを数多く出すよーになって来たんだってことを実感する。

 巻末の「イメージキャラクター人気投票」なんかを読んでも1位の「えここ」に2位の「デ・ジ・キャラット」ほか「うさだ」に「ぷちこ」といった1回目から中心になってたキャラクターのほかにたとえば「とらのあな」が「でじこ」の後を襲うかのごとく出して来たっぽい「美虎」とか「虎々」とかが並んでいたり、下でオンリーが開かれるまでに至った「うにゅう」や「2ch」のアイドル「モナー」にメロンブックスの「めろんちゃん」等々、知ってる名前知らない名前のオンパレードでこれが全部、人気になってグッズになったらいったい何兆円のマーケットが出来るんだろーと想像してしまう。やっぱ日本経済を救うのは”萌え”なんだか。ところで「中富良野ラベンダー娘」って何? 「ふさおとめ」ってどこのイメージキャラクター?

 「でじこ」の目からビーム攻撃を耳コプターのうさだがフォローする謎画面にしばし見入った後で「竹芝」から「ゆりかもめ」に乗って「ドールズ・パーティー7」を見物、いや相変わらずってゆーかむしろ益々発展している「スーパードルフィー」の人気にあるいは日本の小子化の原因ってのもこの辺にあるんだろーか、なんていい加減過ぎる妄想に頭を悩ませる。だって可愛くなるまで育てるのに5年は最低必要な(そこから7年は保つけど、ってどーゆー意味だ)人間の子供よりも買って着せれば即完了、手に乗る美少女といっしょに繰らせる幸せを得られる「スーパードルフィー」が絶対に良いに決まってるからね、個人的には。

 一方で新作続々っぽい美少年系「ドルフィー」は婦女子の愛を一身に集めて周囲のよほど凄いのをのぞいた男共を毛虫並みにしてしまうだろーから、これではますます小子化も進もうってゆーもの。いっそこの際ベビー用品メーカーも子供服メーカーも玩具メーカーも、「ドルフィー」用の商品を出してみたら売れるかな。今やDCブランド界のユニクロと化しているファイブフォックスとかから、「コムサ・デ・モード・フォー・フォ・ドルフィー」なんて立ち上ったりして。それにしても同じ会場で開催されてて大人気だった「ちよれん大サーカス in ドルパ」の「ちよれん」って一体なんの連合会? 「あかのれん」の親戚?

 そこで止めておけば良かったものをせっかくだからと(何がせっかくなんだ)「幕張メッセ」まで「どきどきフリーマーケット」を見物に。あの巨大な「幕張メッセ」の1ホールから8ホールまでをすべて使って開いてしまうとゆー世界でもおそらくは屈指の(そんなのやる所なんてないだろーし)規模で、入るとホールには車が頭どうしを付き合わせてずらりと並んでは、お尻から取り出した品物を並べて売っていて、なかなかに壮観だった。これだけ天気が良いんだから「フリーマーケット」も外でやったらさぞや壮快だっただろーけど、これだけ暑いと出ている方も見る方もきっと大変だっただろーから、こーゆー管理された空間で入場料を取ってまでやる非フリーダムな「フリーマーケット」も案外に悪くはないのかも。歩いて掘り出し物っぽい商品を探して飽きたらステージを見て出店のケバブとかシューマイとかラーメンを食べてって、1日楽しめて500円なら入場料だってそんなに高くはないし。

 例えば。「ミネラルウォーター超大手の食品メーカーが、在庫品を川へと流して原材料として再利用していることが分かった。同社によると、工場や倉庫にある出荷の見込みがない在庫品のうち、未開封で3年の賞味期限内の製品を川へと流し、海へとたどり着いてから蒸発して雲となってから雪として降って川に戻ってきた水を、ミネラルウォーターとして再びボトルにつめて新たな賞味期限付けて出荷している」って記事があったらやっぱりそのミネラルウォーターを再生品だと思っただろーか、思わねーよな。

 それは大袈裟としても5月5日付けの「朝日新聞」1面に掲載された「在庫珈琲ネスレ再利用」って記事、インスタントコーヒーの売れ残りを溶かして新しい抽出液を混ぜて再びフリーズドライさせて出荷した製品への疑問を呈していたりするんだけど、その呈し方がどこか嫌味っぽくって読んでもやもやとした気分が浮かんで来る。言ってしまえばインスタントコーヒーとゆー、新鮮さとかにこだわるなんて無駄もいいところの代用品を牛肉のラベル張り替え問題の流れで報じることがそもそも無理筋なんだけど、それはまーそれとして、真正面から堂々と「これはいけません」と言うならまだしも消費者代表って人のコメントを並べて「不誠実だ」って言わせて結果として「いかがなものか」的な空気をそこに醸し出す記事の作り方に、客観報道の名を借りた新聞の無責任さが現れているよーに感じて眉を顰めてしまう。

 そもそもが消費者団来の人が言うように「製品を原材料に使い回すなど、消費者は夢にも思っていない」のか。いないとしてもだからといって「作り直しがきくなんて、宣伝の印象と違う」のか。一方でペットボトルの再生とか、紙のリサイクルとかを奨励するよーな論調を掲げつつも他方で食品業界で相次いだラベル張り替え問題原産地偽り問題とかの尻馬に、無理矢理乗っけるよーな形でそれも自前の責任を微妙に回避しつつ「インスタントコーヒー再生問題」を挙げてみせるそのスタンスに、やっぱり釈然としないものとを感じてしまう。

 同じページに掲載されている、最近「正論」誌上で日垣隆さんがその無茶苦茶ぶりをあげつらって話題の「天声人語」がこれまたスコポン。「現代の子どもたちに刻み込まれる記憶について考えさせられた。テレビの衝撃的画面やテレビゲームの人工映像が中心を占めるのだろうか。音といえば、身のまわりにあふれる電子音だろうか。においや感触は何だろうか」なんて書いて、バーチャルの台頭に対して懐疑を唱えているけど、その旧態依然としたノスタル爺ぶりはそれとして、例の9月11日のテロの後、子供が積み木に飛行機をぶつけて遊んでいた姿が直、テレビの影響と断じてしまうナイーブさのカケラもない論旨には正直あきれてしまった。

 テレビはなるほど映像を伝えたけれど、だったら新聞は飛行機がぶつかる写真を1枚たりとも掲載しなかったのか。崩れ落ちる世界貿易センタービルの写真を1枚たりとも掲載しなかったのか。影響の大小はあるけれど、決して皆無ではない自らの影響力をまったく省みないそのスタンスにはやっぱり違和感を覚える。新聞は手触りを伝えているのか。匂いを届けているのか。電子音でも音すら伝えていない、ただ文字と写真によって恣意性を持った情報を伝えて世の中の人たちを知った気にさせることしか出来ていない新聞に、非難されてはテレビもゲームも迷惑だろー。どうせ同じ穴の狢なら、自省した上でメディアとして、リアルなものへと興味を惹き付け向かわせる記事を載せてみては如何。新聞に折れ線とかいれて兜とか、鶴とかが簡単に作れるよーにするとかね。


【5月4日】 (承前)喋る喋る喋る喋る怒る引っ込む探る喋る喋る喋る頷く笑う黙る黙る囁く喋る喋る喋る喋る喋るトイレに行って戻って喋る喋る喋る喋る……って感じがおそらくは10回、繰り返されただろー「SFセミナー」合宿301号室で繰り広げられた「朝まで生アズマ」。まずは例の「動物化するポストモダン」をたたき台にして暗喩抜きに叩きにかかる若者や、問題点に突っ込むアニメライターやおい少女(含む元やおい少女、ちなみに元は少女にかかる)と論争。ある時は哲学ある時は法学ある時はサブカルチャーある時は文学の言語をバルカン砲のよーに繰り出しては、相手の議論をガシッと受け跳ね返しまるめ込んでは次第に対立点を顕在化させ、妥協点を探り最後にはしっかりとまとめて見せる、言葉使い師ならではの冴えを目の前で見せてくれて勉強になる。

 対談の相手と当初されていた大森望さんの時々のいなしはあったけど、ほぼ1人で周囲のすべての視線を集めて言葉を受け取り咀嚼しているのかしていないのか分からない反射神経で返してさらに受け取って、ってな感じで続けていった約5時間。しきりに話に入ろうとするあの永瀬唯さんをかわしたしなめやがて永瀬さんは飲み過ぎからしばしの沈黙へ。また飲みっぷりでは東さん以上の浅暮三文さんとのポストモダン後の文学論についてしばしに意見交換を繰り広げては、やがて逸れていった話に浅暮さんがしばしの退室を見せるまで、淀まずひるまず言葉を発して続けてひるむ隙を見せない。それも間に缶ビールを5本は空けウイスキーの「サントリーローヤル12年」を紙コップに数杯は空けた酩酊状態での所業で、頭に引き出しがあって言葉が圧縮状態で詰まってて、開けば反射的に流れ出して来るんじゃないかと想像してしまった、いや凄かった。

 話はやがて文学論から技術論政治論文明論へとめまぐるしく代わり、日本を包み込むあぶなっかしい風潮になかなか世間の普通の人が感心を持ってくれないことへの苛立ちを表明しつつ、かといって押し寄せる愛国的意識ばかりを醸成させるよーな言説風潮に、対抗するためのロジックが見つからない状況を指摘。セキュリティが行き渡った果てに生まれる危ない状況への想像力を喚起させるには小説分けてもSF、ってゆーか一種のポリティカルフィクションが必要ってな話をして、いつの間にか大森さんに代わって横にいた「SFマガジン」編集長の塩澤快浩さんを相手にポリティカルフィクションの特集をやろうと呼びかける。水鏡子さんの実地に基づく国家による監視の行き過ぎへの警鐘なり、集まった人から寄せられる意見なりが飛び交ってとても「SFセミナー」とは思えないアッチッッチの空間がそこに出来上がる。

 やがてさらなるパワーアップを遂げて帰室した浅暮さんが、ポリティカルフィクションとして描くんなら今は何を置いてもイスラエルとパレスチナの問題だろうと主張して譲らない所を、ループしつつ譲りつつ攻め返しつつ、それでもどーにか何かが問題になっているんだってことを周囲に考えさせつつ午前5時を前に白けて来た空を見ながら閉幕、浅暮さんの徹底しての拘りも凄かったけど、それをガッシと受けて立つ東さんも凄かったし見ていて楽しかった。言葉を選ばず言うならギャグを交えない漫才、って感じかも。批評家としてタイムリーかつ直接的に社会と斬り結ぶ言葉を求めたい東さんに対して、北野勇作さんをはじめ作家の側や塩澤さんら編集者の側では批評性を持ちつつもそれをお話しとしてどう面白いものにするか、っていった問題の提起があって、やや平行線を辿ったけれど、実を言うならそーした平行線をうまく交差させ社会へと開いたものにするのがジャーナリズムなり書評といった存在の役割だったりする訳で、半端ながらもその両方に足の小指の先をかけている身として、何かをしようかって気にさせられる。それを現場で言ったらバルカン砲の餌食になりそーだったんで黙ってたけど。

 トイレに行ったまま東さんが帰って来なかったんでお開きになった会場から大広間に戻ると、そちらでは東さんが「ほしのこえ」を作った新海誠さんとマッキントッシュを前に歓談中。脇に近づき話を横で聞きつつそのうちに始まった新海さん直々による雲バンクを作った夕焼け空の作り方とかロボットの動かし方の実演に、用意してあるとはいっても素材を巧みに組み合わせた上でそれっぽい色と光線をその場で作って組み合わせて、しっかりと夕焼け空を作ってみせた腕前に、ツールの発達はそれとしてクリエーターとして持つ能力のとてつもない高さに圧倒される。さらには完全復活を遂げた永瀬唯さんがモニターの前に座って「ほしのこえ」を繰り返し見ながらしきりに「うまいうまい」と言いどこがどう巧いのかを解説しつつ例えば雨はブラウン管のテレビとかで見る場合を考えてあんまり細かくしない方が良かったとか、いろいろとアドバイスをしているのを聞く豪華なセッションを間近で見る僥倖にまみえる。

 永瀬さんが絶賛していたのがタイミングの取り方とか省力化のための省略の仕方で、それが感覚的なのか勉強の成果がしっかりと出来ている新海さんには今でもテレビシリーズをプロデューサーとして任せられると太鼓判を押す。カタパルトからびしゃーっ、と発信していくロボットのシーンで手前にぐっと寄ってから向こうにぱあっと去っていく絵の少なさが醸し出すスピード感、落ちてくる踏み切りが下がり切った時にちょい、沈んで跳ね返っておさまる妙なそれっぽさ、雪の感じに花びらの感じにその他もろもろの巧さを、河森正治さん庵野秀明さんの動かし方の巧かった部分を紹介しながら解説をしてくれて、聞いているだけで何だかこっちも作れそうな気になって来る。

 もっとも、ベースとなる絵の巧さがなければ話にならないし、タイミングをコンテの段階でキッチリ思い描いておいて実作に移るだけの感性も不可欠。1人で出来るようになったからといって誰もが1人で出来る訳ではない、って事実を知らしめられ、だからこそ「ほしのこえ」は光ってるんだと納得する。お話の飛び方にシチュエーションの無理筋っぽさは、これも目立つ上での特徴と考えれば理解できないこともないか。始終訥々と喋り永瀬さんの言葉にうなずき当方の無知蒙昧な問いにもちゃんと答えてくれる人の良さで、もうすっかりファンになって新聞でガンガンと取りあげたくなったけど、マイナーさで鳴るウチみたいな新聞じゃあ、紹介しても外に開く回路にはななかなり辛いからなー、長大メジャーの大特集を是非にも望みたいところ。「アニマゲ丼」とかは月イチだしなー。「日経ワールドビジネスサテライト」で取りあげないかなー。

 帰宅してひとねむりしたらもう夕方。ご飯を食べてからNHKの教育テレビで放映されたゴールデンウィークに恒例の「ローザンヌ国際バレエコンクール」の放送に見入る。その毒舌ぶりにファンも多かったクロード・ベッシーさんは引退してしまったそうだけど、続く解説の人たちもやっぱり変わらず容赦なく、楽しまされると同時にしっかりとした知識を持っているからこその批判批評を行えるんだってことを強く実感させられる。曰く「首のラインに問題がある」「ぽっちゃりしすぎ」「努力が必要」と真正面から切り捨て「うなじが硬い」「緊張感が欠けていた」「バレエを楽しんでいるように見えない」「粗野な感じ」「勘違いしている」と一刀両断。フリーのバリエーションで雰囲気にそぐわない演技を見せたダンサーに「子供にさせるな」「カリカチュアだ」「年齢に合っていない」と突っ込みまくるその言葉の、どれもが事実なだけに反論のしよーがないけれど、だからこそ次へとつながる糧になる。あきらめろ、ってのも才能が物を言う世界では絶対に必要な言葉なんだと改めて認識させられる。臆病なんで真似は出来ないけど。

 合間に流れたかつての金賞受賞者の動きの凄さを見るにつけ、才能ってのは年齢に関係なく現れるものだってことを実感する。熊川哲也のジャンプなんてそりゃもう高くて早くて素晴らし過ぎ。英国ロイヤルバレエ団のプリンシパルに選ばれたってのもよく分かる。さて審査結果。見て動きが艶やかで綺麗で絶対に上位に入るだろーと思ったし、解説の人も誉めてたアメリカのジンジャー・スミスさんが奨励賞に留まったのに、自分の見る目の無さを今さらなが深く痛感すると同時に、解説がどーして誉めたのかが知りたくなる。もしかして気になる人ほど酷評するタイプなのかな。新人賞に日本から参加の竹田仁美さんが入ったのは喜ばしいけれど、今回のトップに当たるスカラシップの第1位も日本のバレエ学校にいて今はフランスに留学中らしい北朝鮮籍らしいユフィ・チェさんが入ったのも喜ばしい限り、なるほど見るにつけ滑らかさ艶やかさだけじゃない強さが見てとれる、って見る目のなさを表明した口が言うことじゃないか、けど素晴らしい。再放送があったら今度は最初のクラシックからしっかりと見直そー。


【5月3日】 夜半にかけて溜めすぎた挙げ句に溢れた風呂水だかが上から水が降ってくる災難に、ユニット形式のバスルームから天井裏へと上って水気をふき取ったりして大騒ぎしつつもしっかりと眠って起きて「SFセミナー2002」へ。事前にちゃんと準備をした「東急ハンズ」謹製の巨大巾着に「ちよ父」を詰めて神保町から本屋を荒らしつつ会場の「全電通労働会館ホール」へと入って最上段の通路に「父」を起き、「SFセミナー」を見物させるとゆー親孝行をする、ってお前は「ちよ」か。ディーラーズでは「GAINAX」の武田康廣さんに「のーてんき通信 エヴァンゲリオンを創った男たち」(ワニブックス、1400円)の御礼を言いつつも次回作みたいなものの構想をチラと伺い、当面は続くだろーアニメ大量制作状況の中で果たしてどれほどのビジネスが成立しているか、ってな根元的な悩みに答えが得られそーな気がして期待を申し述べる。

北野さん西島さんのサイン会には行列ができているというのに  「ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション」は3冊とも即買いしてたんで流石にサイン入りと言えども購入しなかったけど、同時に並んでいた高野史緒さんの懐かしくも復刊されて嬉しい「ムジカ・マキーナ」(ハヤカワ文庫、800円)を購入、何年か前のまだ水道橋で開催されていた頃の「SFセミナー」で古本のディーラーズに出ていたのを見て買おうか迷ってやめてしまったのが今に至って激しく悔やまれていただけに、お手軽になっての再登場をまずは善哉を喜ぶ。けど昔のハードカバーも欲しいよー。「カント・アンジェリコ」以降はとりあえず持っているんで復刊はとりあえずさきにおいて「ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション」での予定に入っている「エレス・オペレ・オペラート」の順調な刊行をまずは待とう。20年前の黄背の完結は……20年後?

 企画はゆるゆると「父」の面倒を見つつ最上段から観察。1時限目の「SF入門というジャンル」は「SF入門」というジャンルがあることが確認されて善哉。って訳でもないけれど、日本SF作家クラブが編纂して去年出た「SF入門」の編集意図について作家が独自の見方でもってSFについて語ることの意義、みたいなものを重要視したってゆー巽孝之さんの説明なんかがあって、とりあえずはなるほどとゆー気にさせられる、ってゆーか「入門」とゆー言葉から受けるイメージとの齟齬が当方にとって問題なだけだった訳なんで、それさえ外せば本として読んでいろいろと参考になるものであることには間違いない、んじゃないかな、但し読み手として十分に咀嚼するには修行があと5年は必要なんで、その時に改めて読み返して再度の印象を語ろう、あの確実に従前の「入門」のイメージで描かれた表紙すら、5年後のトレンドで最先端を行ってたりする可能性だってある訳だし。

 2時限目はよそ行きの短パンでかけつけた北野勇作さんがフォークリフトの運転にかけては日本SF界でトップクラスにある、ってな話を聞く。それがメインじゃないけどそれが妙に印象に残ってしまったのは、学歴経歴とのギャップの大きさ故、だろー。それにしてもいろいろな人生、落語研究会に落語の研究が出来るからと引っぱり込まれ、非破壊検査だかの装置が壊れて卒研が途中でもオッケーになって学校を出されてそれでも積極的に働くのは苦手だったからと適当に選んでビールのケースをフォークリフトで上げ下げする仕事へ。以来7年くらいに分かって通う途中の喫茶店で2時間とか居座って、ノートに小説をしたためる毎日を続け、結果溜まった話を「日本ファンタジーノベル大賞」に送ったら見事250万円だかの優秀賞を獲得したってゆー、出世魚のよーな話が訥々とした語り口から紡がれる。

 問題はそれ以降。新潮社からのはそれほど売れず次に角川から出たのも難渋して、けれども仕事や辞めてしまっていてさあ大変。そうこうしているうちに震災があって2年ばかりを今の奥さんの実家のアパートだかで作家っぽいことをして、やがて見かけた「小松左京賞」に応募したものの最終選考で落ちてしまう憂き目に会い、これはマズいと牛丼屋でバイトを始めた矢先に徳間書店から「徳間デュアル文庫」で出せるとゆー話になって牛丼屋を辞めてしまうとゆージェットコースター人生に、作家になるのも大変なんだってことを思い知らされる。とりあえずは「ザリガニマン」が出て昔のも復刊されてさらには「どーなつ」も出て、って感じに本は沢山出るよーになって、喜ばしいことは喜ばしいけれど昔以上にメジャー化してるかってゆーと相対的ではそーでも絶対値ではやっぱりまだまだ上は高い。”日本の椋鳩十”を目指す上で越えなくてはいけない山はまだまだありそーで、ここはやっぱりあの独特の作風を、主要購買層のSFファン北野ファンから広がるよーな場への展開なりそちらへと届くよーなプロモーションなりが、必要な時期に着ているのかも。「どーなつ」なんてもやは実験小説現代文学、だもんなー、読んでも1度じゃ理解に難渋、って感じだし。

 3時限目は角川春樹事務所に徳間書店に祥伝社に早川書房で新しいSF系のレーベルを立ち上げた編集者によるパネルディスカッションを見物。バード中津こと中津宗一郎さんにいきなり「角川春樹社長はお元気ですか」と聞いた司会の小浜徹也さんも小浜さんだけど、答えて差し入れられた「指輪物語」を読んでるって話を聞いて今もって最前線を捉えよーと遠い場所からも意欲を燃やし続ける角川春樹さんの飽くなきバイタリティーに凄みを覚える。さらに「徳間社長はお元気ですか」と聞いた小浜さんはなお一層の凄みがあったりするけれど。ディスカッションではこーゆー場には珍しい祥伝社の「400円文庫」に関する話に興味。ジャンル出身者のシンパシーからじゃなく、今面白そーな作家を集めたらSF系の人が多くなったって当たりに作家陣の駒が揃って作品も揃って来ているって意味でのSFの豊饒なんかを予感する。

 4限目は「鳥類学者のファンタジア」を柱にSFっぽい話を最近立て続けに書いている奥泉光さんの意識なんかを聞いていくセッション。あんなに快活に喋る人とは思わなかった、ってのが率直な印象で、ジャズの話から時間を使った小説へのシンパシーから「ハイペリオンの没落」を面白く読んだ話、J・P・ホーガンが好きだってな話を聞くにつけ、ますますぐいぐいと興味の度合いが増していく。とはいえ次に「群像」に載るらしー話は第二次世界大戦と湾岸戦争とほかいろいろな戦争の時空が行き来する相当に暗くて直球ストレートな話になるみたいで、「鳥類学者」の当人曰く「ジャズ」な話にシンパシーを感じた目として、どこまで終えるのかが目下の悩み。けど今ってゆー時期に相当な重みを持っていそーな話だけに、読むしかやっぱりないんだろー。9月売り、だっかた8月売り、だったかに登場の予定、期して待とう。

 終わって中華食べて旅館へと向かって合宿。とりあえずは大野典宏さんが持ち込んだ「T・VOX」のテルミンを「ちよ父」に弾かせて手を人間の手でそえてやらないと鳴らない、すなわち人間には反応するけど生命の存在しない縫いぐるみでは鳴らせないって事実を確認する。回って「アニパロとヤオイ」についてあれやこれやと話し合う企画や、和算家の男女が離ればなれになって邂逅したり吉良と赤穂の双方に、和算家がついて喧嘩したり、といった数学が登場するフィクションの歴史と現在に関して話す部屋をのぞいて時間を過ごす。行けなかった「SF十段」の初代は日下三蔵さんが獲得した模様だけどどんな本を持ち出して聴衆の支持を集め段位の認定を受けたのかは不明、誰かのリポートに期待したい。2時限目は映像の部屋でファンタジー映画について話し合うイベントを遠目で見物、アーサー王がエクスカリバーを抜く時ってどーして「エクスカリバーーーーッ!」って叫ばないなろー、でもって抜けた剣ガピカーッと光らないんだろーと、分かりやすさに毒された感性で物足りなさを覚える。

 そーこーしているうちに懸案の3時限目が到来。いったん「全電通労働会館ホール」に顔を出した後、下北沢の「トリウッド」へと戻ってイベントをこなしてからパソコンを抱えて戻ってきた新海誠さんが直々に語る「ほしのこえ」の話も聞きたかったけど、何か白熱してるっぽい空気を感じて東浩紀さんを囲みまくって「動物化するポストモダン」の僕はここがいけないと思いますショウへと出向くとこれがもうすさまじいばかりの活気と熱気で、「ギャルゲー」と「エロゲー」の用法の使い方への異論にアニメの歴史を捉える認識の誤謬への異論が飛び交う「朝生」空間。それが単なる暗喩ではなく本当に「朝まで生アズマ」になろーとは、その時はまだ誰も思いもよらなかたのであった(続く)。


【5月2日】 なるほど”萌え”とゆー反射にすべてを集約させて壁を突破するよーな観賞の仕方は、決してできない訳ではないもののどちらかと言えば難しいんじゃないかと、DVD「ほしのこえ」をよーやく見てみて感じたけれど、一方で繰り広げられる物語の真っ当に考えたら無理筋も無理筋なシチュエーションを認識し、強引に理解し納得した上で、描き出されるテーマの純粋さにのみ感動感涙してみせるってゆー捉え方は、ある意味で”動物化”の一例なんかじゃないか、ってな想像も浮かんでなおいっそう「東浩紀×新海誠」の対峙を見てみたいって気が湧いて来る。

 興味があるのは宇宙にある戦場と、未来であるにも関わらずさほど現在と変化していない地上との通信手段に携帯電話のメールを使う、ってゆー誰がどう考えて摩訶不思議な印象を覚える設定を、新海さんがそれでも敢えて取り入れたのは何故なのか、って部分で考えるなら携帯メールってゆーコミュニケーションの手段を使って何か出来ないか、ってあたりから引き延ばしてそこに時差なんか入れたらどーだろー、時差だったらウラシマだな、って感じで宇宙へと舞台を広げていったよーに想像できる。

 確信をもって使ったというならそれはそれで納得するに吝かではないし、無理筋なら無理筋として半ば茶目っ気としてやってしまったと思えないこともなく、その延長で女子にずっと学校の制服っぽい衣装を着せているのかもしれない。携帯に出てくるメールが届くまでの呆気にとられるよーな時間表示とかも、普段使ってる携帯だったら未来だろーと(ってゆーか未来ならなおさら)絶対に使われないだろーものなんで、強引に押し切るつもりがないととても描けたものじゃない。おまけで入っている以前の作品「彼女と彼女の猫」からして、その超絶リアルな背景とか人間に比べてテキトーさが炸裂している猫の描写なんかを見ると、真面目な顔して内心でペロリと下を出してる作者の茶目っ気を感じてしまうんだよね。

 だとしたら見る方も非難であれ除外であれ、そこの部分についての認識だけは保持しておくのが筋というもので、それを割り引くなり逆に足し込んだ上でないとやっぱり「ほしのこえ」は語れないよーに思ったりする。もちろん諸手を挙げて賛意を示している人たちだって、「ひとりで作った」とゆー御旗の下にひれふして設定に文句を言わないって訳じゃなくって、そこを青筋立てて突っ込むことの無粋さを気にしているんだと思うけど、そーした好意的な沈黙がやがて無意識での肯定へとズレ込んでいかないとも限らないのがこの”動物化”している世界。実際その萌芽が見え始めているって感じもあるだけに、東さんにはこの「ほしのこえ」を僕たちはどう受容すべきかを、また新海さんにはどう受容してもらいたいかを並んで語ってもらえたらゴージャスかも。朝までやっぱり「ほしのこえ」。 えっ、制作プロデューサーの萩原嘉博さんってあの……と驚いてみたり、いや本名って気にしたことなかったんで。いろんな所でいろんな人が頑張ってます。

 ゴールデンウィークの谷間も新聞社には休みはない、ってことでとりあえず会社へ。まあ来週の水曜日まで新聞は出ないんでとりあえずは出席しましたって所で別段どこかに取材に出かけるでもなく資料整理とか「のぽぽん」の世話とかして帰る。電車では福田和也さんの「総理の値打ち」(文藝春秋、1143円)なんかをペラペラ、前に出した「作家の値うち」(飛鳥新社、1300円)といっしょで「点数」でもって歴代の内閣総理大臣を評価付けしていくって趣向の本で、評論家として同じ文壇で対峙している作家と違って昔の人なり偉い人なんで気兼ねなく点数を付けられたんだろー、なんて思う人もいそーだけどその辺は無頼でも仕事きっちりな福田さんだけあって、現政権におもねるでもなく思想に引きずられるでもなく、「国益」って軸からきっちりと点数を付けてある。むしろ石原慎太郎さんが妙に高得点だった「作家の値うち」の方が、”政治色”を感じさせる所があったかも。

 もちろん人によって軸の置き所は違う訳で、点数に異論のある人もこれまたたくさんいそーだけど、「作家の値うち」が毀誉褒貶を浴びた時にも確か語っていたよーに、異論を感じさせ反論させること自体が半ば強引な点数付けの目的にもなっていたりする訳で、実際「総理の値打ち」のあとがきでも、「かくも多くの異議が殺到したことによって、拙稿は成功を納めたと考えています。というのも、異議を、違和感を覚えるということは、当然申し立てるにたる価値観なり、座標軸なりを持たなくてはならない。つまりは異議を感じた方は、その異議のなかで、点の高い総理は誰なのかを、何をもって高得点をつけるべきか、を考えていらっしゃるのです」と言っていて、異論反論を歓迎している。

 当方として異論というか意外感があったのが80年代後半の繁栄を呼んだ中曽根康弘が90年代後半の凋落を呼んだ橋本龍太郎より下にある点で、その橋本がリクルート事件で飛んだ竹下登に比べてはるかに下って位置づけに、外面でもなければ虚勢でももちろんない、総理として何を成したか、って部分の実質を極力見ようとするスタンスが伺える。まあそーした異論反論から自分なりの座標軸を構築していくって楽しみ方もあるけれど、むしろ歴代総理の名前をプロフィルを簡潔にまとめた「総理事典」として活用できるのが有り難いやら嬉しいやら。岸信介以降宮沢喜一までは何となく分かっても岸以前のとりわけ第二次世界大戦前とかって誰がどーだか記憶もなければ記録も持っていなかったんで、改めて見てこんな名前が並んでたんだって分かって役に立つ。出来れば次はなかなか覚えられない「米大統領の値打ち」とかってのも作ってもらいたいもの。全員採点不能かもしれないれど。


【5月1日】 言霊ってのはやっぱり存在しているよーで、彼方から聞こえてきた噂によれば「SFセミナー」の夜の部で見たい企画ナンバーワンの座を僕の中で抜きつ抜かれつ争っている東浩紀さんによる「オタク第3世代は、本当に動物化しているのか?」とそれから、新海誠さん直々のお出ましによる「ほしのこえをきけ〜『ほしのこえ』上映会」はものの見事に裏と表で重なっているとかで、口には出さないまでも思っただけで願いをかなえやがったセミナーの神様に愚痴を垂れたくなる。参加者のみならずおそらくは出演する東さん大森望さんと新海さんの両方がともに見たかった企画だろーとも想像できるだけに、その哀しみでもって時間を割り振った人には強烈な呪いがふりかかることだろー、もはやいかなるアニメにもビジュアルノベルにも萌えられなくなるってゆー。いまどき萌えなくしてアニメの全てを見通すのは辛いぞー。

 まあ合宿は夜も長いし企画が始まる前だって時間はたっぷりと(他の企画は見ないと割り切れば)あるんでその時にご対面ってことも可能だし、DVDはとりあえず持っているんで上映時間中と見られる時間は対談を聞いて新海さんのトークが始まったらそちらに身柄を移すってゆー手も参加者は使えないこともないんで、臨機応変に対応しよー。いっそ2つの企画を一緒にして「動物化しているオタク第3世代は『ほしのこえ』に萌えられるか」なんてハイブリッドにコングロマリットな企画にしてしまうって手も……これはちょっと無理か、けど明らかに”萌え”メインとは一線を画している「ほしのこえ」を作った人のメンタリティを「動物化」の文脈の中で新種か変種かあるいはスタンダードと見るかを仔細に分析してもらえれば参考になるんで、やっぱり徹夜を覚悟で大広間なりでの意見交換に期待しよー。土曜日は死んだな、眠さで。

 2年とちょっとはよく保った方だとは思うけど、それでもやっぱり寂しいものがある「TINAMIX」の廃刊、ってまだ廃刊と決まった訳じゃ全然なかったりするんだけど、前に書評を2年ばかり書いてたアニメーション雑誌も「休刊」と銘打っていつかの復活を期しながらもすでに1年以上音沙汰なしだったりするよーに、それになぞらえて解釈するならやっぱり先行きは不透明どころか暗黒星雲、まるで見えない気がしないでもない。今はとにかく掲げられているしばしの充電とゆー言葉を信じて再会を待つしかないんだけど、別に月2回じゃなくたってウェブなんだからてきとーにやっていれば良さそーなものを、律儀にも刊行ペースを守ってしまった結果のネタ枯れ休刊に、さてはて律儀さ故の宣言どーりの日程での再会を期するべきかそれとも律儀さ故に溜まった疲労が抜けず復活が長引くと見るべきなのか分からない。それでも当方、書く書かないは別にして行きたいんで行ってたイベントが過去も多かったし今も大半がそーなんで、休眠中だからといって土日をひきこもっているなんてことはせず、ドシドシと出かけては見聞を広めることにしよー。でもやっぱり誰とも喋らないんだろーけれど。

 西炯子さんの「三番町萩原屋の美人」(新書館)が15巻で完結。ってゆーかしかし15巻まで続くよーな話と最初は思えなかっただけに、何がどーしてこれほどまでの人気シリーズになったのかを考えてみたい気になった。考えないけど。ただ、歳が増えない不思議な御隠居とその御隠居が作った、奥さんそっくりのロボットを軸にして話を展開していくことから徐々に御隠居を狂言回し的に扱って、欲望とか葛藤とかに揺れ動きながらも一途に真面目に行こうとあがく普通の人々の姿を描くストーリーへと移ったことが、読んでいてバラエティに飛んだ内容に読む人を感じさせてヒットにつながったのかもしれない。しかし兼森があんなことになってしまうとは。らしいといえばらしいけど、しかし真面目は長生き出来ない生き物なのかも。ともあれ完結お疲れさまでした。拍手。

 同じく新書館から登場の東城和実さん「赤蝕」は、久方ぶりって感じのシリアス路線で一見江戸時代とか明治大正といった感じの農村を舞台にしたストーリーを感じさせておいて、その実、空には人工衛星が浮かび山の向こうには巨大な超高層のアンテナが立っている、SFチックなビジュアルと設定を垣間見せて興味を惹き付ける。いったいどーゆー状況でそんな世界になったのか、主人公の少年がいた村にいったいなにが起こったのか、それを引き起こしたよーに思われていたハクって女性の正体は、ってあたりの詳細な理由が、漫画を読むだけではあんまり分からないのが難といえば難かも。おかっぱ頭に着飾った唯ってキャラのいたいけさには筆舌に尽くしがたいものがあって、それを見られただけでも意味は存分にあったし、ラストのエピソードの哀しさもクルーザー級に頭をノックアウト寸前まで追い込む。あれば続きが読みたいけれど、さてはてどーなっているんだろーか。


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