縮刷版2002年3月上旬号


【3月10日】 背負った看板の大きさを自分のものだと勘違いして、知らず育んでしまった尊大さを打ち捨て、新聞記者が自ら庶民の目線へと降りて「新聞休刊日明けも産経新聞は駅売店で朝刊を売ります」キャンペーンを案内するティッシュを早朝から駅頭で配り、社会を見つめ直す格好の機会にもなった、ジャーナリズム史上にも残る画期的な1日からほとんど1カ月が経って、再びめぐって来た休刊日。前回の素晴らしい効果を今度はあまねく全社員に体験してもらうべく、前回果たせなかった首都圏数百の駅頭での大キャンペーンをいよいよ挙行するのかと思っていたんだけど、どーゆー風が吹いたか今回はティッシュ配りのお呼びがかからず、どーしたんだろーと首をかしげる。

 報道なんかで世間的にも認知され、新聞記者だって人間なんだトモダチなんだと理解されてティッシュを受け取ってもらいやすくなっただろーし、1回の経験でどーやって手渡せば受け取ってもらえるのか、ってテクニックも個人個人でちょっとは身についたはず。集団としても道路使用許可の取り方とか、住居不法侵入にならないポスティングの仕方とか、得たノウハウもたくさんあっただろーに、1回こっきりで終わってしまうのはちょっと不思議。あるいはワークシェアリングな昨今、ティッシュ配りの仕事に立ち入るのは僭越と考えたのかもしれないなー。ティッシュはもらえないかもしれないけれど、「産経新聞」は明朝も駅で100円で売ってまーす。「Y賣」は配ってくれたりするかもしれないけれど。

 偉大なり声優。すでにしっかり日曜日の朝のスケジュールへと刻まれてしまったリアルタイムでの「ギャラクシーエンジェル」の観賞だけど、いつもだったら寝不足に惚けた頭がよけいに惚けさせられる展開に心和ませられるところを今日は、のっけから耳にシリアスな展開で、惚けたあたまを急速覚醒させてじっと画面に見入り耳そばだてる。映ったのは起き抜けもミルフィーユで声もしっかりミルフィーユなのに喋る口調はまるでフォルテ。なるほどいわゆるメンバー入れ替わりの巻って奴だと瞬時に理解はしたものの、よくあるパターンは声優ごと入れ替えて顔はミルフィーユでも声はフォルテさんの声を付けたりする所なのに、今回はごっちゃになったメンバーのすべてがメンバーの顔に割り当てられた声でそのまま、中に入ってるキャラクターの口調を見事にマネして演じてて、フォルテ口調で喋るミルフィーユ声やら蘭花声のミントやら、ウォルコット声にミルフィーユやらを聞かされて、その似てるっぷりにさすがは声優と感動する。ノーマッドだけがシャッフルから除外されてたんでノーマッド口調のヴァニラ声もその逆も、聴けなかったのが残念っちゃー残念だけど。

 後半は後半で一転してのシリアス編。ただの武器オタクじゃなかったフォルテさんの過去に関わる話でまだ若くピチピチしてたころのフォルテさんが、恐怖にひきつらせた表情で夜の森を駆け抜ける場面に「きゃー可愛い」と思わず叫んでしまいました。それが今ではあんな年増でムレムレな……いやムレムレもムレムレでなかなかなんだけど。展開によく分からないところがあってラストがどーゆー風に決着したのかよく見えず、後でDVDで補完したいところ、って買うのか(買うさ)。次回予告は再びなノーマッドがひたすらに「ヴァニラさん」と言う展開でさてはていったいどんな次回なんだと思いつつも、何度重ねよーと抑揚もトーンも一切変化しない「ヴァニラさん」の口調にこれまた声優さんの声を制御するスキルの凄さに感嘆する。テープで重ねただけかどーかは知らないけれど。

 バッサバッサと「鬼武者2」。噂には聞いていたけれど、血しぶきをあげながら斬って斬って斬りまくる感じはなるほど壮快で、この辺が人気の秘密なんだろーと理解する。刃物を振り回して相手を倒す感じを壮快感と言い切ってしまって良いんだろーかと、健全娯楽万歳な立場で悩むところもあるけれど、それを言うならチャンバラだって人間を相手に斬れば倒れる演出で子供心をワクワクさせて来たもので、幻魔やら怪物やらを相手にしているゲームの方がまだ、人間じゃないって部分で配慮がなされているのかもしれない。血が吹き出す画面のリアルさは感覚を麻痺させるどころかむしろ、見た目のおぞましさを身に感じさせてくれる効果もあるんだろーか、現実で決してやってみたいなどと思わせるよーにはあんまりならない感じ。リアルさが現実感を失わせる云々といった議論がときどき出るけど、様は見せ方、描き方に問題があるのかも。

 もっとも、金を稼なきゃけなくなったり体力を取り戻したくなったりした時は、幻魔を斬りに山へと登って何度も同じ場所を通って幻魔たちを誘い出し、斬りまくっては金品を奪い魂を吸い取らなきゃいけないってのはちょっぴり複雑。襲われたから反撃するんじゃなくって、金品のためにこちらから出向いて殺るって行動はまるで強盗か山賊みたい。それがだからそのまま「何とか狩り」ってリアル社会での風潮に結びつく訳では決してないけれど、大人だったらリアル社会では犯罪的な行為なんだと直に理解できることでも、そこに至るまでにはやっぱり学びがあった訳なんで、その辺でゲームをする人間させる人間に、自覚と意志がやっぱり必要になって来るんだろー、とか言いつつ今日も山へと幻魔狩り、いや金、足りねーんだよ、店であれこれ買い込み過ぎてしまって。

 とりあえず10時間くらい遊んで岐阜城の攻防1回目をどーにかクリアして、豚女を追いかけて「柳生の庄」まで戻って陣屋から謎の空間へと迷い込むあたりまで進行。さすがに相手が強くなって来て停滞しはじめたけど、それを乗り越えていく楽しみってのがこーゆーゲームの醍醐味なんで、頑張って鍛えて月内のクリアを目指そー。最初のうちはボタン操作でキャラクターを前に進めることさえ難渋してて、キャラクター主体で前後左右が決められてる関係で、こっちを向いている時に、左右のどっちを押せばどっちを向くかを瞬間理解できず、反対方向を向けてしまてあわてて回れ右をさせる場面が続出。とりわけボタンを押してから、15秒くらいのうちに角を2つ曲がって簡易エレベーターへとたどり着かせなきゃいけない場面で何十回となく失敗を重ねてちょっとばかり嫌になる。けど頑張ればそのうち操作にも慣れて、ぎりぎりながらもしっかりとたどり着かせることが出来るあたりがバランスの妙。トライしているうちに操作も体にそれとなく仕込めるって寸法で、こーした辺りに物書きとも、映像作家とも違うゲームを作る人たちに備わっている感覚の面白さを今さらながらに見る。

 一方でゲームならではのフラグ立てってゆーのか経験値上げってゆーのか、文脈上ドラマ上で妙な部分も結構あるのはご愛敬。最強の戦士であるはずの主人公が頑張って突破した先に別のキャラクターがすでに到着してて待っていたりとか、敵陣も深い場所になぜか主人公たちにとって強い見方になるものが存在していたりとか(そんなの置いておくなよ)、行く途中ですら怪物が襲ってくる山上の金山で鉱夫たちが堂々と働いていたりとか(もしかして強いのか)、やってて何故って思う部分も多々あるけれど、「志村そこっ!」じゃないけど分かってても見えないフリをするのがお約束ってものなんだろーし、何よりゲームとして面白いことが大切な訳なんで、槍と刀と弓矢2種類をどこに持っているのかもしかして4次元ポケットがついているのか、なんてことも考えずに楽しむことにしよー。オウムと鶏はどこに入ってるんだろ?


【3月9日】 正直言うなら”マンガ映画”の発展系としてのアニメーション、ってゆーかアニメが好きな身としては、カートゥーンっぽかったりアメコミテイストだったりするタイプがあったり、またシュヴァイクマイエルがノルシュテインな実験テイストだったりするタイプがあったりする「スタジオ4℃」のとりわけ実験テイスト爆発なショートフィルムは苦手だったりするんだけど、こと新しい映像作品として見ればなるほどスタイリッシュだったり画期的だったり目に新しかったりするんで見過ごせない。加えて限定物とか大好きな性格も災いして、昨晩の「ロフトプラスワン」で開催された「アニメスタイル」との合同イベントの会場で、上映もされたしちょっとだけ販売もされた「STUDIO4℃コレクション第一弾 リミテッド・ボックス」が目の前でまたたく間に売り切れた場面を見るにつけ、どーあっても手に入れてやるぞと朝から秋葉原へと繰り出しさあ、どぶ板だってひっくり返して探してやるぞと意気込んだら。

 意外や最初に寄った角にある「ダイナミックオーディオ」の3階のアニメフロアで早速発見、あのあさりよしとおさんが「アニメージュ」2002年4号で星を4つもつけてて仰天な「エイリアン9」の4巻ともども購入して一息つく。出て缶コーヒーを飲みながら、さてはてひしひしと浮かぶのは手に入れられた感慨かそれとも「買っちまったよ好きでもないのに」って後悔か。まあアニメじゃなくってもアニメーションとしては意義ある作品ばかりなんで持っていて悪くはないし後、柳沼和良さんの「月夜の晩に」のオーバーオールのストラップ脇からのぞく胸ポッチを何時でも何度でも楽しめるよーになった訳なんで、後悔とかせず諦観でもなく前向きに受け止めることにしよー。ちなみに角の「ダイナミックオーディオ」はまた店頭在庫があったみたいで手前の「石丸ソフトワン」にも1つ、店頭在庫があったみたいで探さなくても秋葉原なら手に入りそー。ステージ上で即座に万冊を切ったのに油断してたら売り切れてしまって買えずガッカリだったパルコキノシタさんもさあ行こう、夢に見た秋葉原へと、不思議なDVDが待っているから。

 店頭のスタンドで「吸血鬼美夕」の「CONPLETE−SLIM−BOX」の案内を見て欲しさ爆発。人のよって毀誉褒貶、いろいろあったアニメだけど僕はあの幽玄な感じが大好きなんです、ノーマッドも出てるし(違う、死夢だ)。「LD−BOX」は持ってるんだけどDVDならではの簡便性に加えてTV放映版もインテグラル版といっしょに入れてあったりとなかなかなに卑怯な構成で、ピクチャーレーベルの魅力にスペシャルブックレットへの関心も含めてフトコロに強烈なビームを投げて来る。耐えられるか、劇場版「セーラームーン」のBOX攻撃とそして既に発売中の「コメットさん」ボックスの攻撃に耐えて。「ギャラクシーエンジェルZ」も出るんだなあ。「グリーンジャンボ」当たらないかなあ。

 上野の「国立西洋美術館」で開催中の「プラド美術館展」を見物、結構な人が来ていたけれど開幕したてってこともあってまだ、チケットを買うのに行列で30分待ちそれから入場まで1時間待ち、なんてことにはなっていなくって改装なった美術館へとスンナリはいってスペイン自慢の至宝とやらを見物する。メインはやっぱりゴヤなんだろーけどゴヤって言われて思い出す、子供を食べるサトゥルヌスを描いた絵みたいな猛々しくってパワフルな作品は、雲を突く巨人がケツ見せて歩き去っていくあの絵くらいでちょっと拍子抜け。とはいえ他の人たちが描く美人とはちょっとタイプの違う、丸顔で愛敬のある表情をした女の子が描かれた「日傘」はなかなかに「萌え」っぽかったんで行った甲斐はあった。ベラスケスはまあベラスケス。あとサム・グレコ、じゃなかったエル・グレコの見ればそのままエル・グレコってタッチの作品も何点かあって眼福を授けてくれた。

 ミーハーの半可通なんで至宝と呼ばれるこの3人以外にはそれほど興味を引かれなかったけど、最後の部屋に置いてあった日本風の部屋に置かれた横長のベンチだかベッドに2人の少女の1人が寝ころび足を組み、1人が着物を脱いで腰までずらして上半身裸で座っている絵がなかなかなにストライク。もちろん美少女(に決まってる、顔は描かれてないけれど)がモチーフになっているからってのもあるけれど、組まれた少女の足のぷにぷにっつとした感じとかが実に良く、ゴヤもベラスケスもグレコも半ば素通りだったのにその絵の前でだけで軽く10分は立ち止まっていた。けど人気で言うならあんまりないみたいで絵はがきもポートレートもその絵についてはなし。「萌え」心の解らなんキュレーターってだから嫌い(いねーよそんなキュレーター)。

 そうそう秋葉原ではラオックスの「ゲーム館(げーむ・やかた)」に寄って本当に「Xbox」の販売を止めているのか確かめよーとしたらいきなりエスカレーター前に張り紙が。読むと報道を受けて一瞬、販売を中止していたもののよくよく聞けば修理が必要なものはごくごく1部ってことらしく、即座に販売を再会したってことが書かれてあって、おまけに同じ張り紙が店内でもいたるところに張られてて、販売中止へのフォローを相当に激しくやっていることが伺える。階段にまで張られてた張り紙、ここまで派手フォローを入れるのは一体なぜなんだろーと逆に不思議に思えて来た。考えられるのは例えば過剰に反応してしまったか、あるいはそーメディアに受け止められ報道されてしまったことへの自戒の意味を込めた大フォローだったりするものなのか、あるいは突出してしまったことをマイクロソフトからたしなめられて、本意かどーかは別にして大フォローすることになったのか、ってな辺りだけど真偽は不明。ともかくも店内にはちょこちょことお客さんがいて、それなりにゲームを楽しんでいたよーなんで楽しいゲームさえ出し続ければ、それなりな立て直しは利くだろー。とりあえずは白罰箱が全部売り切れるくらいには、回復して頂きたいものだけど。


【3月8日】 まただ「アニメージュ」。昔懐かしいカタカナロゴでの表紙は前にも確か去年の夏頃、「千と千尋の神隠し」が公開されたあたりで使われていて後ろで「スタジオジブリ」の鈴木敏夫プロデューサーがあれやこれや画策して突発的にそーなったそーだけど、今回に至ってはさらに突発度が増したのか何と本来の「Animage」の表紙を中に折り込みながらも1番最初に「アニメージュ」が来る異様自体。加えて言うならおそらくは多分本来の表紙になるはずだったんだろー「ラーゼフォン」の「如月久遠」をフィーチャーした山田章博さん描いた表紙は胸元もたわわに露なら、両の太股の奥にしっかりと三角の白がのぞいている目にも猛毒なイラストで、なるほど個人的には21世紀でも最大に近い快挙だって思い大喜びをする。

 もし仮にこれがそのまま店頭に並んでいたとして、健全なヨイコは果たして持ってレジに行けただろーか、なんて心配も浮かんでちょっと悩んだけど、もしかして「アニメージュ」、精神年齢肉体年齢ともどもヨイコな人がどれだけ読んでるかってのもあるんできっと、三角の白が双球の胸元であっても平気にレジへと運ぶだけじゃなく、700円の定額小為替を山と積み上げ同じイラストのテレホンカードに代える行動に出るだろーから、あんまり関係なかったのかもしれない。

 今回は残念にも想像するにお家の事情って奴で色気の皆無なガキのお子さま(個人的には好きですが)が表紙になってしまったけれど、それでも例の「ベルリン映画祭」での金熊賞受賞を報告する会見で吠えた宮崎駿監督のシビアにハードなコメントを、すべて収録してアニメの沈滞に教育の崩壊への警鐘を鳴らしてたりするんで、裏の表紙には超絶的な好感を抱きつつも最初の表紙で一気に萎えてしまった人でも買って、絶対に損はない。大野修一新編集長最初の1冊、勝利への階段にちょっとだけ足がかかりました。渡辺季子さんは副編集長って立場になるのかな? 皆さんどんどん偉くなっていくなあ。

 その大野編集長もチラリ姿を見せていた「ロフトプラスワン」で開催の「スタジオ4℃」「アニメスタイル」が合同して開くイベントをのぞく。渡辺季子さんもいたよーだけど前に2度目に会った時も、印象薄かったみたいなんで当方には気付かず、って僕も最初はどこかで観た記憶のある人だなあー、くらいにしか思わなかったから同罪なんだけど。見た記憶のある人ってことでは「スタジオ4℃」が作ったデジタルなアニメの作品集「デジタルジュース」には作品を寄せてはいないけど、去年だかの「デジタルコンテンツグランプリ」でも何か賞とかとってた「PinMen」の池田爆発郎さんも、ステージ脇の階段を上がったり下がったりしてる姿に拝謁する。

 その昔に「東京ファンタスティック映画祭」の「デジタルナイト」で、今イベントのメインなゲストだった森本晃司さんの「永久家族」と同時に上映されたのを見てファンとなり、早くDVDとかにまとまらないかと思ってるんだけど一向に気配はなく残念。それとも既にどっかでまとまってるのかな。会場に来ていた人にはあんまり、知られてなかったみたいなんでトリロジー(ってまだあるの?)、もうちょっとプッシュしてやって頂きたいものなんだけど。「デジタルジュース2」とかに無理矢理入れちゃうってのはダメなのかな、でもそれだとやっぱり数年後になっちゃいそーだからなー。ちなみに「永久家族」はDVD化が進んでいるよーなんでこちらも期待、CMとして放映された数分の短い作品を約50本、つなげて見ると疑似家族に芽生える愛の物語(だったっけ)になったりする、映像的にもストーリー的にもとてつもない作品なんでやっぱり早く見てみたい。

 さてイベントの方はといえば、前の「マッドハウス」イベントに続いて相変わらずな高すぎるテンションを引っ提げパルコキノシタさんが登場しては「宝島」のテーマソングを、今回はさすがに謳わなかったけどアイパッチをして強烈な印象をふりまき次に、我らがアニメ様こと小黒祐一郎さんがジャージじゃないエッジなデザインのカットソー姿で登場。そして「リスト制作委員会」の原口正宏さんを迎えたステージに、かくもサイバーでエッジがきいてちょっぴりエッチでスタイリッシュな作品ばかりを送り出し続ける、割には決して一般メディアには知られていない(「東映アニメーション」と「スタジオジブリ」と「サンライズ」くらいしか知られてないけど)アニメスタジオを率いているのはいったいどんな人間だ? ってな興味の視線を受けつつ田中栄子プロデューサーが登壇、年齢こそ不肖ながらも割に長身でかつ痩躯、けれども脱いだら凄いんです級のボディの上に乗っかる聡明そうな顔とそして、つむがれる強い口調の言葉がなるほどこれならあーいった作品が出てくるのも不思議はないと納得する。

 まずは設立以後の「スタジオ4℃」の作品を繋いだプロモーション用のビデオを観賞、凄いすごい。ケン・イシイの「EXTRA」とかGLAYの「サバイバル」とかいった音楽につけられた映像はまだ時折見たこともあったけど、香港だかシンガポールだかのCM用に作られた映像だったり「SMAP」のコンサートで流された「スポーン」調のダークヒーローが飛ぶ映像だったり名古屋だったら多分見られたけど東京にいたんで目にしなかった「コンピューター学園HAL」のCM映像だったり野球場で流れていたらしー「日本プロ野球機構」の宣伝映像だったりと、ありとあらゆるジャンルでその映像作品が使われていたことを知って、その芸域の広さに感嘆するとともにそう言った部分にもニッポンのアニメが浸透して来てるんだと、驚きつつも嬉しくなる。看板でキリンが跳ねてたあのCMのキリンのCGも「スタジオ4℃」だったのか。

 そんなエッジばりばり利きまくった作品だけじゃない所も芸域の広さを裏付けてて、例えば教科書に載ってる韓国の民話かなにかを再現した作品はまるで「日本昔話」でさらには童話の「もちもちの木」をあのまんま、アニメーション(止め絵中心だけど)にしていたってことも知ってどんな映像なんだろーと見てみたくなる。ほのぼの風といえば去年のベストに選ばれるべき、なのに「アニメージュ」2002年4月号で大森望さんも「小一時間問い詰めたい」と憤慨するよーに世間はまるで無視な「アリーテ姫」も「スタジオ4℃」の作品で、プロモに入ってた映像で久々に2人のアリーテ姫の顔に出会って、映画をまた見たくなった、けど田中さんによれば「外に逃げられない状態で見て欲しい」からって、あと10年はDVD化しないそーで代わりに全国にフィルムを担いで上映に回って歩くとか。近観たい人は上映場所を探して歩いてはいかが。突然街に「アリーテ姫来る」って看板が出てどこからともなく観客が集まって街宣車が来て警察が警備に入って、ってそれじゃーまるで「腹腹時計」だ。

 2部では先にもチラリと触れた若手なクリエーターが採算度外視市場無視、なのかは分からないけどともかく自分の想いをこめて作ったデジタルな作品ばかりを集めたDVDコレクション「デジタルジュース」の上映とそして監督たちのトークショー。演壇に並んだ監督がこちらを向く中を、監督たちの背後に映し出される映像を観るってシチュエーションは監督にとっても観客の反応が逐一観られて地獄のよーだろーけれど、観る側もそれなりに気を使わないと行けないから大変、とか心配したけどそこは流石に「スタジオ4℃」。ぐりぐりぐにょぐにょぐいぐいと動くデジタルな演出の映像に目を奪われ、それぞれが短いってこともあって監督の顔色を伺う間もなく唖然呆然としながら作品を観ていけた。空いた大口は観られたかな。

 それにしてもそれぞれなデジタルっていうか、監督によって使い方にも結果出てくる表現にも随分と違いがあって、飲んでたのか地なのか快活によく喋ってた小林治さんの「table&fishman」はエアカーか何かで失踪するシーンなんかが奥行きと広がりがあって見ていて楽しかったし、かつて「EXTRA」で森本晃司さんと組んでCGIを担当した安藤裕章さんの「チキン保険に加入ください」 は、カートゥーンみたいなリミテッドの動きでキャラを動かしつつもしっかり3Dっぽい動きに、絵の具でセルに塗っててはできないだろー色を見せてくれて感心、安藤さんのは話としてもちゃんとオチがついてて短編として楽しめる。

 漫画家として活動したあとアニメの世界でいろいろやってる、らしー柳沼和良さんの「月夜の晩に」は「月刊アフタヌーン」で「四季賞」を取るっぽいテイスト(なんだそりゃ)の絵がそのまま動いていてなんか感動。例のあれでハワイへと行って得た資金を注ぎ込んで2年間、こもって作り上げた作品だけあって監督の趣味がキャラクターか色から背景からすべてに出ていて「アフタヌーン」な人なら楽しめる、かもしれない。燈台の光がこちらを向く一瞬が、「シャチハタ」のハンコあるいは「金太郎雨」っぽく星になってる辺りがなかなかメルヘンでした。

 それより何より、素肌の上にオーバーオールを来た少女のストラップの周囲でピンクのポッチがチラチラとのぞく場面とか、その少女が美形の男に足をとられあまつさえ指をしゃぶられる場面とかがフェチ心をそそられる。パルコキノシタさんは上条淳士さんの懐かしの「Toy」に出てきたキャラクターを思い出したって言ったけど、言われてなるほどそんな感じのエロティックさがあって目が惹き付けられる。最初のコンテとかではそこまでの描写はなかったそーで、オーケーを出した田中さんも上がったのを見て吃驚したとかしないとか。そんな時に「勝ったな」とかって思うのかな、クリエーターの人って。

 おおむねがアメコミテイストだったり森本さん描く目の細い今風の表情だったりする女性のキャラクターが多い「スタジオ4℃」作品にあってこの柳沼さんの作品だけは作者のテイストがまんま入った関係で、目も割に大きく「萌え」と呼ばれる感情を駆動させる要素を備えたキャラクターだったけど、これからそーゆーテイストな作品をガンガン作ってグッズを作ってショップで売って大儲けするか、ってゆーとそーでもないよーで、なぜかと言えば田中プロデューサー、「萌え」って言葉を知らなかったよーで、アニメといえば「萌え」であり「萌え」なくしてヒットなし、ってな考えに染められつつあった頭がちょっとだけリセットされる。

 パルコキノシタさんが手にしてた「アニメージュ」2002年3月号(田中さんのインタビュー入り)の表紙に堂々掲載の「ミルフィーユ」&「でじこ」を指して「こんなのです」って言ったけど、「萌え」ってのは平面に描かれたキャラクターの顔かたちから発せられるものじゃなくって、そーした顔かたちに染まりつづけた我が身に内在する納得の感情がキャラクターに反射して我が身に自覚されるもの、みたいなんで内在するものがなければ発動するはずもない。「目の大きなキャラクターも好きですよ」って田中さんは言っていたけど、どこまで分かって頂けたかどーか。むしろ分かってしまった上であざとい作品を作られるより、普通にやっているなかでチラリとのぞくエロチシズムにフェティシズムがあってくれた方が、「萌え」の洪水に溺れそうな身としてはむしろ有り難いんだけど。

 その意味では「デジタルジュース」に予告だけ入った田中達之さんの「陶人キット」には期待大。出ていたのはスパッツにTシャツの今時な女の子なんだけど、3Dだからなのか絵のせいなのか立体感があって、ってつまりは肉感があって目に嬉しいキャラクターになっていて、走ればTシャツの下できっと跳ねたりずれたりしているだろーバストへの想像力とかかきたてられる。これまたデジタルの凄みが多分、存分に使われた作品で電車が走り去っていくシーンなんてまるで本物の電車を見ているよーで、けれども本物とは違った色味質感があって不思議な印象を受けるし、揺れながら廊下を進んでいくシーンの奥行き感スピード感も圧倒的。1分あるかないかの映像なのに、10分の映像とかよりよほど強烈なインパクトを受ける。

 小黒さんがこれが見られるんなら9800円は惜しくないって他の監督もいる前なのに言ってしまって、後でそれだけ期待してたってフォローを入れたほどの出来映えで、完成すればきっととてつもない映像に仕上がるんだろーとは思うけど、例によって例のごとく計画が上がっては止まり進まず運が悪ければ消えてしまうのがアニメの企画なんで予断を許さない。それでも小黒さんがかつて「劇場版ナディア」だかで田中さんのイメージボードを見て来たいした挙げ句の心境に至らせるほどには環境も悪化しておらず、むしろ世間の注目は集まって来ているんでここは是非、最後まで作ってやって頂きたいし作らせてやって頂きたいもの。「東京国際ファニメーションフェア」では「スタジオ4℃」のブースに大ゲーム会社の大オーナーが20分かばり入り浸ってる姿も見かけたんで、そんな辺りから資金をかきあつめては是非是非完成の暁を迎えさせて欲しいなー。


【3月7日】 似てる、って言われればまあ似ているんだろーけれど、でもテレビとかで見せてた熱い魂だったり強い意志だったりってな感情が、まるで見えない表情がちょっと不気味で買うのどーしよーかなー、って思ってた「鬼武者2」がいよいよ発売になって、とりあえずはどんな感じなんだろーかと寄った秋葉原のラオックス「ゲーム館(げーむ・やかた)」が、開業10周年とかでちょい安めの値段設定で売っていたのを発見して、ついふらふらと買ってしまう。1だって幻魔だってまだやってないのに……。けどまあ、発表会で見せられたオープニングのキャラクター紹介のムービーが、ケレン味たっぷりで格好良くって見てみたいかもって思ってたんで、まあ良しとしておこー。これでしばらく「Xbox」ともお別れかあ。服まだ全部出し切ってないんだよなー「DEAD OR ALIVE2」の。

せっかくなんで2階へと上って「Xbox」の状況を確認、うーん微妙に売れてない、かも。何しろまだ例の白い箱のやつがレジ裏とかに積み上げてあったりして、引き取ってくれる人を所在なげに見ている捨て猫みたいな冴えないオーラが出ていて、ビル・ゲイツくらいお金持ちなら今すぐ目の前の白罰箱をぜーんぶ引き取って、アフガニスタンかソマリアには送っても意味がないからリアカーにつんで「ドリームキャストいかがっすかあ」と嘘をつきながら配って歩きたいなって思ったけれど、残念ながらビル・ゲイツの家の庭の鯉ほどにも多分裕福じゃないんで、見て見ぬふりをしながらフロアを後にする。来年までには売れるといいなあ。来年度まではおそらく多分、無理だろーけど、1ヶ月ないし。

 をを凄いぞ再版だ。およそ大方の物書きな人にとって願望とも切望とも言える著作物の増刷をデビュー作およびデビュー2作でともに達成したよーで、神田神保町の「三省堂書店神田本店」のミステリーっぽい本が売られているコーナーに、両方ともに再版分が平積みになって置かれててまずは善哉。日の丸アマゾンの方もちょくちょくながら出荷が再会されたみたいで、このまま行き渡れば「イーエスブックス」「ビーケーワン」でも品切れとか、出荷まで2週間とかいったステータスが出て買うに二の足を踏んでしまう人も少なくなることだろー。頑張ったなあ角川書店。6ヶ月先が怖いなあ。怖がってどうする。

 甘く見積もれば4月スタートのラジオドラマでちょっとは人気がふくらんで、新作ともども話題になって新聞とかにも真っ当な書評が出て、3刷4刷くらいまでは順調にはけていくんじゃないかって思ってるし、うまくすれば国民雑誌にインタビューが出て夜7時代でのアニメ化が決まって声優のお披露目があってついでにハリウッドで映画化が決まってチェーンソー男がアーノルド・シュワルツネッガーに決定して、ってな感じになって英訳仏訳独訳伊訳西訳中訳を含めて軽く1000万部は売れるんじゃないかって妄想も浮かんでたりする。そーなれば、年末あたりは富士見あたりに「タキモトハウス」なるビルが、音羽の「オトタケハウス」を越える高さにそびえたっていることだろー。そーなったら初版で手に入れた人のひとりとして、柱の1本くらいに僕の名前も小さくでいいから刻んでくれたらちょっと嬉しい。柱の下には埋めないでね。

 神保町ってことで評判の「くだん書房」へと回って荒らす。くだんだけあって店長の人が生のくだんで……なんてことはなくって普通のお兄さんで、代わりといっては何だけど入り口のシールとか、マスコットキャラクターにしっかりくだんが描かれていて、その人間面をさらしてた、ってくだんが人間面じゃなかったらくだんじゃないんだけど。置いてある本はといえば、昭和30年代半ばから昭和40年代半ばあたりに生まれた人の家のマンガ棚を見ているよーなラインアップで、元気にマンガの単行本を出していた頃の東京三世社の堀泉下さんとか、坂口尚さんとか山田ミネコさんとかが並んでて、持ってるなあ家のどこかに埋もれてるなあ、ってな懐かしい気持ちになった。徳間書店の「アニメージュコミックス」の揃いもまずまず。あと白夜書房の「漫画ブリッコ」から出た藤原カムイさんの単行本とか。いくたまきさんの傑作「アブナーズ」はなかったみたいだけど。

 あと吾妻ひでおさんの懐かしの全集が、本当は全集じゃない「ぱるぷちゃんの大冒険」ともどもあったりふくやまけいこさんの幻の「何がジェーンにおこったか」もあったりで、思わず財布の中身を確認しては持ち合わせがなく救出を断念。とり・みきさんの白泉社から出た初期の単行本も割に揃ってて、角川書店版の大判の「愛のさかあがり」も天地無用の3冊がともに揃ってて、実家にもちろんあるんだけどこっち用にも欲しくなった。けどやっぱり断念。週末こそは。とかいいつつ銀行に行ってお金をおろして戻って内田善美さんのりぼんコミックスから出て他「星くず色のふんえ」と「秋のおわりのピアニシモ」の2冊とあと、追悼の意味もこめて半村良さんの「産霊山秘録」のハードカバー初版とついでに大原まり子さんの「機械神アスラ」なんかを購入。内田さんはほかに「空の色ににている」「ひぐらしの森」のぶーけコミックスから出た傑作2冊もあったけど、こちらは実家にも今の住処にもあるんで遠慮する。けど買っちゃうかも。欲しい人は急げいそげ。


【3月6日】 聞けば耳がちょっとは傾くし、目も少しは開かれるから、多少なりとも血となり肉にもなっているとは思うけど、遺伝子というところまでは実はあんまり刷り込まれていなかったりする「機動戦士ガンダム」。いわゆる「ガンプラ」は片手で数える程度しか作っていないしソフトはファーストのLDボックスを持っている程度で、最新作の「逆A」に至っては実は話、ぜんぜん知らなかったりする。さらに言うなら「X」も「W」も「V」も「G」もまるっきり、ファーストの系譜に直でつながる「逆シャア」ですら1度たりとも見たことがないってんだから、血となり肉になってるってことすら案外怪しかったりするかもしれない。

 実際、「SPA!」の3月12日号に掲載された「ガンダム遺伝子の増殖・拡散はどこまで続く!?」って記事を読んでなるほど世の中には、かくもDNAレベルにまで「ガンダム」が刷り込まれている人たちがいるってことに口あんぐりで、例のミニモニ級ザク(3倍速い方)を買ったがために4畳半から引っ越したなんて立川志加吾さんなんかの話を聞くと、口ではオタクとかひきこもりとか社会不適応者とか言って自嘲しつつも自慢している我が身の実は、それらの入り口にすら立てていない実態が鏡のよーに映し出されてしまって、反省の文字を半紙に1000個、書いて上井草に向かって100扁、頭を地面にこすりつけたくなってくる。「ガンプラ」ずらりな小室友里さんにすら、僕、負けてるもんなー。

 ずらり居並ぶインタビューイの中で1番、シリアスで客観的だったりするのが実は監督にして産みの親の富野由悠紀さんだったりするのは興味深いところで、わざわざそのあたりを重点的に拾ったのかもしれないけれど、インタビューの中で例えば「新しいビジネスを見せてもらえて、嬉しく思います」って感じで、数ある「ガンダム」派生商品について作品世界のひろがりとかってんじゃなく、「ビジネス」って言葉を使っていることに、内心の忸怩は不明だけれど商品としてのアニメーションとゆー自覚が伺える。

 あと「リアルとの接点があるガンダムははしゃぐときにマテリアルとして誰もが使いやすかったのでしょう。だからガンダムは文化とは呼べないと感じる部分がありますね」って言葉も、「ガンダム」が騒がれもてはやされていることの本質を冷徹に見つつ、アニメーション全体の浮つきにも醒めた目を向けている感じがあって、のめりこんだ挙げ句に隘路にはまるクリエーターの多いなかで、商業との折り合いをつけつつ作品をちゃんと作り続けている富野監督の、自意識の高さが伺えて興味深かった。けど富野さん本人とつかまえて「富野シンパ度」を現すのって、なかなか勇気ある所業だねえ、突き抜けててるってことは富野さん、相当に自分に惚れ込んでるってことなのかな。あとズラリ並んだライターの布陣に大笑い。なるほどこれならこれだけの濃く厚くそして熱い記事になるはずだよ。

 日の丸アマゾンでもう1週間以上は軽く品切れが続いている滝本竜彦さんの両作品は、ほかのオンライン書店でもやっぱり品切れ続出みたいで、売れまくっているって考えることも可能だけど、それにしてもやっぱり相当な数、売り逃してるんじゃないかって心配になって来る。人気があることは品切れ中のアマゾンでもランキングが今のところそれなりな場所にあり続けてるってことからも分かるし、「イーエスブックス」ってところが出している面白ランキングだと20歳代で何と「NHKにようこそ!」と「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」の両方がベストテンにランクインしてる。SFな人たちの間だとあんまり読んでる人が少ない感じで評判があんまり聞こえて来なくって、どーなんだろーと悩んでたけど、作者と同世代の人たちには、しっかり読まれてておまけに支持されてるみたいで安心する。

 とはいえやっぱり「イーエスブックス」も品切れみたいで、発売されて半年も経っておらず、おまけに人気もしっかりある本を、つまりは今が売り時な本をかくも長い期間に渡って品切れ状態にしてしまう角川書店の体制に、ちょっとばかり悩ましいものを感じてしまう。ちょっと前だったら鈴木光司さんの「リング」とか、瀬名秀明さんの「パラサイト・イブ」とか、馳星周さんの「不夜城」とかをちょっと売れるとみるやガンガン増刷をかけて書店にドーンと積み上げて、一気呵成に「旬」を作っていた感じがあったけど、長引く出版不況が尾を引いているんだろーかちょっと慎重居士になってるみたいで、メディアミックス型の出版でもって名を馳せた角川書店をしてどーしてこーなってしまったんだろーかと、頭を捻りたくなって来る。

 もっともそーした「旬」を作る遺伝子は、スピンアウトした幻冬舎あたりには健在なところがあって、天童荒太さんの「永遠の仔」を広告宣伝に装丁まで含めてトータルプロデュースして、結果大ベストセラーにしてしまったくらいで、結果さえ伴えばいくら不況だからって、どこの出版社でもやってやれないことではないんだろー。角川書店だって辻仁成さん江國香織さんの「冷静と情熱の間」なんかで、映画の公開ってファクターもあったからなんだろー、珍しく大展開をしてそれなりなベストセラーにしてしまったから、やってやれないこともないんだろーとは思うけど、辻さん江國さんほどにまだ名前の知られていない滝本さんでは、たとえネット書店で品切れ続出で一般書店でも置いてないところ多数って状況になってても、その他の書店であるいは残ってしまっている分が帰って来る、かもしれない半年後くらいまでは慎重なスタンスでいたいのかも。それはそれでやっぱりちょっともったいないんで、とりあえずでもいいからネット書店に本が回ってランキングの上位に食い込むくらいには、刷ってまわしてやって下さいな。

 なるほどほのかな「やおい」っぽさはないでもないけれど、それよりは兄弟愛なり友情なりってな部分のニュアンスの強さを物語の中で人間関係からしっかりを描いている関係で、こづみ那巳さんの「真名の系譜 魂郷篇」(角川ビーンズ文庫、457円)と続編の「真名の系譜 言ノ領篇」(角川ビーンズ文庫、457円)を読んでもそれほど戸惑わずむしろ微笑ましい感情を抱くことができた。権力に取り付かれた老人がいて、日本の古来より伝わる異能の血を復活させて権力を握ろーとして、異能の血を引く女性に娘を生ませてそれぞれを旧家にとつがせて、異能の子供たちを作らせたのは言いけれど、相当に無理をしたからなんだろー反感を抱く異能の子供たちがいたりして、それでも支配しよーと企む老人とその正統な子供たちの一統と、ちょっとしたバトルが始まりそーな感じになっている。

 1巻の「魂郷篇」では異能の血を引く4姉妹の末妹の子供のうち、末子の少年が自らの異能の力に目覚め、幼いうちに離れて暮らすよーになった兄と再会するって話になっていて、本家と異能の一家をめぐる複雑な関係についてのおおかたの概況が説明される。でもって続編「言ノ領篇」ではいよいよバトルが勃発して、さらなる秘密も明らかになってさあこれからって所で続きになってしまってて、先への興味が引き起こされる。権力にこだわるわりには脇の甘い老人のキャラクターにちょい甘さも感じられるけど、世界設定の甘さはそれとして兄を慕い老人に優しい主人公の荻乃のカワイさが結構ツボで、これからどーなってしまうんだろーかとこれまた興味をかきたてられる。なるほどこれもちょっとした「やおい」なのかな。異能の子供たちの中で唯一の女性でその血故に激しい睡眠障害を持っている鈴子に萌え。元気になって欲しいし幸せになって欲しいけど、女性にあんまり優しくなさそーな物語だしなー。次での登場と頑張りに期待を抱きつつ続編の刊行を待とう。


【3月5日】 NHKによくもまあ。突っ込めたものだと思うのはその名も「NHKにようこそ!」(角川書店、1700円)なんてタイトルの本を出しているからだけど、そもそもがそんなタイトルの本を出している人の著作「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」(角川書店、1500円)をかの名番組「青春アドベンチャー」で放映することを決めて平気なNHKの度量の広さに驚くべきで、あれでなかなか茶目っ気がある放送局だなーと感心する。とはいえまあ、さわやかな朝ドラにドカンドカンな宮地真緒さんをヒロインとして起用するくらいだから、これくらいの茶目っ気、別に何でもないんだろーけれど。

 それにしても放送開始まであと1カ月だってのーに、日の丸アマゾンは「NHK」も「ネガティブ」もともに在庫切れ。おそらくは出版社側の事情だろーから、角川書店におかれましては折角の売り時を見過ごして、なおいっそうの苦境へと陥る前に、とっとと増刷して配本しましょー、って言って伝わるんなら話題沸騰の世評を受け手とっくに3刷5刷りして書店に山積みにしてプロモーションして、ついでに映画化アニメ化コミック化とか決めてるんだろーけれど。小林泰三の「玩具修理者」が映画になった時でもそんなにプロモーション、かけてるっぽい感じがなかったからなー、編集と営業とがそれほどうまく噛み合ってないのかなー。

 恵比寿の地の果てに立つ「ウエスティンホテル東京」で「エレクトロニック・アーツ・スクウェア」が新しいF1ゲームの発表会をするってんで、恵比寿駅から動く歩道を乗り継ぎかけつける。ホント行き着くまでに京極夏彦さんの単行本の1冊くらい読めちゃうくらいに遠いんだよね(そんなことはない)。そーまで駆けつけたってのは、ゲームの発表そのものよりもむしろイメージキャラクターとして一昨日だかに「オーストラリアGP」でデビューした、3年ぶりになるフル参戦する日本人F1ドライバーの佐藤琢磨さんが登場するからで、なるほど同じ目的の人が多かったのか会場には結構な人が詰めかけて、久方ぶりのF1ドライバーって存在への関心の高さを見せてくれた。

 さて登場した佐藤さん、前に参戦していた高木虎之介さんがどちらかといえばあんまり喋らない、愛想のそれほど豊富じゃないキャラクターでなるほど天才肌のF1ドライバーっぽかったけれど、眺める分にはあんまり面白くなったものが、今回登場の佐藤さんは大学在学中にカートをはじめてみるみるうちに上達して、鈴鹿のスクールか何かで認められて英国のF3へと転戦してそこでも大活躍を見せたやっぱり天才肌の人ながら、喋れば快活で話題も豊富で人あたりも良くって何より顔が抜群で、求道者的なセナとも狡猾そうなプロストとも血圧高そーなシューマッハーとも違うその雰囲気に、こんな感じで果たしてコンマ001秒とかのクールにしてハードな世界の頂点を狙えるんだろーかと心配になった。

 とはいえそこはF1ドライバー、単にお金を積んだだけでは絶対に、とは言い切れないけれど少なくともそれに加えて腕前が伴っていなければ、絶対に取れない「ジョーダン・ホンダ」ってチームのシートをゲットした人だけあって、コクピット風にしつらえられたブースでロジクールのハンドル型コントローラーを握って行ったデモンストレーションも、インカムを通してインタビュアーの質問に答えながらもマシンの方はしっかりと、それも普通の人より絶対にハイスピードで操縦していてやっぱり半端じゃF1ドライバーにはなれないんだってことを実感する。初戦は残念にもリタイアだったけど、出直しになる次のレースには是非とも活躍を期待したいところ。日本人選手も消えたしシューマッハー以外が散々だった去年あたりはちょい、F1から関心が外れていたけど今年は佐藤さん目当てで夜中の中継も見て行こー。

 ひとつ事が起こるとそこに関心を集中させ、それ以前にあったことはすべて無視してしまうのがメディアの特性ってゆーか悪弊で、今だとそーだな、狂牛病に関連して起こった食品のラベル張り替え事件が尾を引いて、あちらこちらで明るみに出てきた鶏だかハムだかの原産地のごまかしが、紙面を賑わしテレビ番組を賑わしているけれど、同じ食品絡みで一昨年だか、3年前だかにあれだけ世間を賑わした、食品への異物混入の問題は今はすっかりなりを顰めていて、まるで日本のどこでも起こってないよーな印象を受ける。想像すればおそらくは起こってないことはないんだろーけれど、報告とかあっても多分「ネタにならない」と捨てられてしまうのかも。一方で原産地製造年月日のごまかしは、食べても分からず健康にだって無関係だったとしても、大罪として糾弾されてしまうことになる。

 養老武孟司さんのシャープな文章でもって綴られた時評が収録された「『都市主義』の限界」(中央公論新社、1700円)って本に入っている、「饒舌はものごとの本質を隠す」って文章の末尾に、「書かれていないことはなにか、論じられていないことはなにか。われわれはそこに注目するしかない。その意味でことばは必ずしも内容ではない。形式なのである」(200ページ)って言葉はなるほど至言で、”風潮”あるいは”ブーム”と化している観もある食品ごまかし報道に埋め尽くされれる報道の向こう側に、異物混入はもとより報じられず従って「なかったこと」にされてしまう事柄が、山どころか山地山脈のごとく広がり横たわっているんだろー。

 同じことは昨今のムネオバッシングにも言える。たった1人の政治家のちょっとした行きすぎのあげつらいに埋め尽くされた饒舌な報道の向こう側に、政治制度そのもののグズグズさ、日本経済の抱えるガタガタさ、日本人が陥っている心のボロボロさが隠されてしまい、「なかったこと」として忘れられてしまうのが怖い。「戦時中には肝心なことをいわず、戦闘の詳細を述べてごまかした。その詳細もほとんど嘘に近かった。嘘でなければ、希望的観測に過ぎなかった。その傾向が訂正されたちおうなら、相変わらずであろう。それならそろそろ、それをわれわれの性質を見なすほうがいい。それならそれ自体を、チェックするしかあるまい」(200ページ)。さあ、チェックしよう、メディアを、政治を。


【3月4日】 鼻とか目とかムズムズとする割には決定的な状況にはならず、一昨日飲んだ薬が効いているからだけで本質的には花粉症なのか、それとも単なる春先によくある鼻風邪で花粉症とは無関係なのかをあれやこれや考えながら、会社に行って金曜日にのぞいた「徳間3賞」の記事なんかを書いて入れる。実はしっかり取材と称して(称さなくたって取材だってば)入り込んではいたんだけれど、誰に呼ばれた訳でもなく半ばおしかけ気味に入ったからってこともあったしまた、生来の人見知り系だったりする関係もあって、当日は表彰式の写真を撮った以外は場内でも隅っこの方で静かにしていた。

 本当だったら、わんさと来ている作家の人とかに「SFマガジン」で本の感想とか書かせて頂いている若輩者で御座いますよろしくお願いしますとかって挨拶すべきところを、根が臆病で自意識過剰で「えっ、誰?」って言われると(たいていそう言われる)哀しくなってしまうんで、見回せば有名な方々がいるにも関わらず回って名刺を切るなんてことはまったくせず、せいぜいがあちらこちらで見かけて見知った東浩紀さんとか、「機動警察パトレイバー」の第3作の公開も近いとり・みきさんとか、その昔あって期待したものの完結しなかった黄色い背表紙の叢書の二の舞にはならないで欲しい日本SFの新しい叢書を立ち上げる「SFマガジン」の塩澤編集長とか、哺乳壜にやたらと詳しいさいとうよしこさんとかと、ぼそぼそ話してた程度。もちろん2次会とかにおしかけるだけの度胸もなく、とっとと帰った薄い人間なんで別に言うこともないだろーと、今日まで黙っていた次第。

 もちろん記者なんて所詮は壁紙の花柄なんで、目立たずひっそりのまんまでいたって良いんだろーけど、その記者の仕事の方がちょい、行き詰まっていたりするんで悩ましい。例えば、元天才ハッカーって触れ込みで、「google」で検索してもほとんどカスリもしない「Phillip.J.Allen」って人(知ってる? ハッカーな業界に詳しい人)を呼んで自社主催で講演を開いては、せっかくだからと紙面で大々的に講演の内容を紹介するってゆー姿勢は、無名な人間のプロデュースに全紙を挙げて取り組むって点で実に素晴らしいことだけど、有名人を紹介することで価値を上げよう、って考える陳腐な人間には、なかなかついていくのが難しいい。

 あるいは、何か新しい表彰制度を創設するってアナウンスがあったと思ったら、1カ月経ったか経たないかすでに1回目の表彰が行われることになって、選考委員も決まっていなければ応募者と募った記憶もないうちに、受賞者まで決まっていた、なんて事態が最近あって、こうと決めたらすぐにやり研げる、そのスピーディーな経営姿勢にひとしきり感心はしたものの、どちらかといえば段取りを踏んでそれなりの識見を持った人たちから成る選考委員を決め、一方で広く応募を集めた上で、適性な審査を経て受賞作を決めるとゆー、このスピーディーな世のかなにはちょいそぐわない、旧態依然とした仕組みの方に強いシンパシーを感じる旧人類では、出世どころかもはや生き残る事すら難しい。

 となればここは、外部で得られる折角のチャンスを活かして、多少なりとも顔とかつないでおきたいところで、ここはどうでも引っ込み思案を改めて、もうちょい積極的に行くべきなのかも。次の機会がすぐにある訳じゃないけれど、手始めに「ライトのベルフェスティバル」辺りか、あるいは「SFセミナー」辺りのプロな人が大勢集まるイベントで、サンドイッチマンよろしく名前を書いた看板を下げて歩くか。それならそれが誰だか知らなくっても、誰なんだろうって関心は(嘲笑も含めて)持ってもらえるし、うーむ。

 そうそう「徳間3賞」の会場で、帰りがけに巽孝之さんから読んでないのは何故? って言われたんで探してよーやっと「早稲田文学」の2002年3月号を買って、高原英理さんが書いた「テクスチュアル・ハラスメント裁判」って文章を読む。「1」の「報告と所見」での「要するにこの裁判は山形氏へのものであるよりは、むしろ山形氏のような発言をしたがる人へのメッセージであるというとこだ」(30ページ)、」「要するに、この裁判は、以後、ひとことふたこと『ある種類の冗談』を公の場で発することがこれほどまでに面倒で苦痛の多いロスタイムを引き起こす、という実例として記憶されればよいということである」(同)って認識はなるほど本質を突いていて、つまりは「テクスチュアル・ハラスメント」とゆー事態を起こらないよーにしよーと、そーした時代を引き起こす社会状況なり認識なりを相手取って戦う「運動」であって、だからこそ途中、幾度も和解とゆー段取りが示唆されならがも、特定個人に対する勝利でしかない和解に応じず、判決を勝ち取るまで戦ったんだろー。

 結果としてこーして、さまざまなメディアで裁判とゆー「運動」を経て得られた成果が喧伝され、「テクスチュアル・ハラスメント」をなくす一歩として大いに効果を挙げた訳だけど、たとえ目的は大局的なものだったとしても、その目的の達成に不可欠だった裁判とゆー制度が、運動そのものの妥当性を認める内容ではなく、個人の欠点すなわちこの場合だと山形浩生さんの言説の非妥当性をのみ指弾する内容にならざるを得ず、畢竟、公判の場でも法廷戦術としてそーした言説が飛び交わざるを得なかったりして、見ていて違和感と感じたってのが、去年4月の双方が出廷しての証人尋問でのこと。個人の向こう側にある社会を相手に戦っているってゆー姿勢を伺わせながらも、とりあえずは眼前の個人を叩かざるを得ない戦術にさて、原告側がどーいった意識を持っていたのかは分からないけれど、傍目にはどこか矛先の揺れが感じられて、裁判で運動するのはそぐわない、やっぱり言論には言論で対抗すべきじゃないか、って当時は書いたし今も基本的には変わっていない。

 そーした矛先の揺れが、あるいは「テクスチュアル・ハラスメント」そのものを裁く法律がなく、次善の策として名誉毀損とちゅー対個人で戦う制度を選び、結果あーいった闘い方にならざるを得なかったと想像するこも可能だけど、だからといって「テクスチュアル・ハラスメント」そのものを裁く法律が出来るべきかどーかってゆーと、法理に詳しくないから分からないけど、世の中にあまねく遍在するさまざまな差別の問題を考えると、なかなかに困難な道が待ちかまえているよーな気がする。性別に限らず国籍人種職業学歴貧富身長体重禿髭デブ等など、あらゆる差異の指摘がすべて差別にとられかねない可能性をはらんでいる以上、そーした差別を個別に禁止するよりは、差別的な意識そのものを包括的に指弾できる法律を、あれば使うべきだしなければ作るべき、なんてことを考える。

 「テクスチュアル・ハラスメント裁判」の場合、幸いにして裁判が、単なる「名誉毀損」としてだけでなく、「運動」としての対「テクスチュアル・ハラスメント」に理解を示した判決を出していた部分があった。「名誉毀損」であってもつまりは、あまねく差別を排除しよーとする意志をそこに込め、判例として残すことは可能だって言えないこともない訳で、高原さんのよーに敢えて「テクスチュアル・ハラスメント」を裁く法律の制定を求める気持ちは現時点では薄い。むしろすべきは、高原さんのよーにそーした裁判に込められていた「運動性」を汲み取って、ことあるごとに言及していくこと。そーすることによって、見かけの公判がそーだったとしても、個人対個人のバトルに押し込められることはなくなる。

 さらに望むなら「運動」によって勝ち取った、「ある種類の冗談」がもたらす「苦痛の多いロスタイム」とゆーレッドカードが、「テクスチュアル・ハラスメント」だけでなく、より広い範囲に適用されていけば、「運動」もさらに意義を増す、と思うんだけどメディアは「虐げられた女性の言説」とゆー、相対化によって顕在化する弱者への同情に乗って正義をアピールすることにかまけがちに成りかねない所があるからなー、自覚しつつ自重しつつどう伝えていくかを考えよー、ってな感じですが如何。

 ものはついでと巽孝之さんの新刊「リンカーンの世紀 アメリカ大統領たちの文学思想史」(青土社、2400円)も購入。ジェファーソンだかが登場するスティーブ・エリクソンだかの小説を紹介していた前後から、アメリカ大統領をひとつの軸にしてアメリカの近代文学史を語って来た巽さんが、歴代大統領の中でも偉大さではナンバー1に位置しているよーに一般には見られてて、実際アメリカの歴史の大きな転換点に立つ大統領、エイブラハム・リンカーンを取りまく政治状況社会状況を文学の中から探り出した労作で、まだ全部は読んではいないんだけど、奴隷を解放し南北戦争を勝ったリンカーンの毅然とし過ぎた政治が、100年近くを経てケネディのスタンスを縛り今またアメリカとゆー国のスタンスに影を落としている、ってな感じのことが書かれてありそーで、アメリカはどーしてこーまで独善的なのか、ってな部分に悩んでいる身として何か答えを得られるかもしれない。歴代大統領の表とか乗っててこれは便利。こーまでアメリカ大統領に詳しい巽さんだけど、サウスダコタのマウントラシュモアにある断崖に刻まれた大統領の顔は見たのかな。僕は上にも上ったんだけど。


【3月3日】 ってことで「千年女優」のエンディングに格好良く使われていた格好良い平沢進さんの「ロタティオン(LOTUS−2)」の入ったCDとかを探しに秋葉原から銀座を回って見つけられず、新宿の「ヴァージン・メガストア」でよーやく発見、したのはCDの「賢者のプロペラ」じゃなくってDVDの方で、2000年12月18日に「東京メルパルクホール」で開催された「INTERACTIVE LIVE SHOW2000 賢者のプロペラ version1.4」ってのが収録されてて、再生すると画面に「Lを選べR選べ」なんて出てくる不思議なディスクになっている。ライブに行った人は知ってるんだろーけれど、ステージ上にも同じものが登場しては右か左かを「シャウト」とかで選ぶよーになっていて、結果出てくる内容も違ったものになっていく仕掛けがあって、なるほどこれが「インタラクティブライブ」のインタラクティブたる所以になんだと気が付く。

 DVDだとメニューに「MAP」の画面もあって、見るとトーナメント表みたいに枝分かれしたチャート図があって、ライブで使われなかった方を選ぶと、画面に文字は出るんだけどライブの画像は出なくって、そのまま辿っていくと最後には外れみたいな画面が出てきて、ゲームの「バッドエンド」みたいな気分を味わえるい、いやそれだけでも面白いんで決して気分は「バッド」じゃないんだけど。DVDが登場した時に、マルチアングル機能と並んで、こーしたCD−ROMみたいなゲームみたいな機能が結構話題になって、いろいろなソフトが作られるんじゃないかって話題になったし実際、アダルトDVDなんかに使われてたものもあったけど、作るには費用とかかかるしハードによってはうまく再生できなかったりするものもあって、知らず立ち消えになっていた。平沢さんの場合は、ステージ自体がインタラクティブなものだったからだろー、ライブの雰囲気をまんま盛り込むのにDVDのこの機能が有効に働いていて、見るには面倒だけどその分楽しめるソフトに仕上がっている。

 値段こそ7000円とちょいお高いけれど、6000円とか7000円とかしやがった「プレイステーション2」対応の「モーニング娘。」のDVD−ROMに比べたら、「モーニング娘。」が出てないって欠点(欠点なのか?)はあるものの中身の充実度では5倍は……10倍は中身の濃い作品。もちろん行った人だからこそ味わえるリアルタイムで進行するインタラクティブ性ってものがあっただろーし、だからこそ正しい選択がなされて壁が全部壊されて、賢者のプロペラを回せた瞬間に場内も一体化しておおいに湧いたんだろーけど、そんな喜びのほんのほんの一端だけでもDVDに入っていた映像が感じさせてくれれたんで、「千年女優」の感涙と呆然な気持ちの中にあった魂をゆさぶった壮大な「ロタティオン(LOTUS−2)」を改めて聴けたことと合わせて、買って良かったと言っておこー。発売はケイオスユニオンから。

 今市子さんの「楽園まであともうちょっと」(芳文社、562円)が出てたんで読む。「あしながおじさんん達の行方」を出してるシリーズだけあって中身はやっぱり男性どーしのアレな描写が折り込まれているけれど、それだけあればいいって作品とは違うのも「あしながおじさん」と同様で、つぶれかかった旅行代理店に社長の娘の元婿だった関係で呼び戻されて、社長の死去とともにそのまま社長にされてしまった川江務青年と、その旅行代理店が借金をしていた金融会社の社長の菊池とそして部下の浅田とゆーいずれも男性のどたばたな関係がスタートする。絡むのが川江の別れた妻だった小百合とか、菊池の妻とかいろいろで、菊池の妻は亭主の不倫(?)に気付いているよーでさらに別の思惑もあるよーで、話はさらに複雑な様相を見せそーな余韻を残して2巻へと続く。

 男たちのあわてふためきぶりをよそに、すさまじくも素晴らしいのが小百合って女性のキャラクターで、別れた亭主を社長に据えて借金の連帯保証人にしてしまって引きずり込むは、代金を払うのがもったいないからと父親の葬式代を踏み倒して夜逃げするわともうやりたい放題。おまけに今市子さんの描く人間のキャラクターの中でも屈指の美女だったりするんで(「百鬼夜行抄」には美女は山と出るけど妖怪なのが多いからなあ)、見て目に嬉しく読んで腹におかしく、何度も何度もページをめくり返してしまう。次巻以降にどんな悪賢さを見せてくれるのか楽しみ。菊池の奥さんも奥さんでなかなかたいした性格っぽくて、これまた次巻で一波乱も二波乱も起こしてくれそー。連載されてる「花音」とかあんまり立ち読みはしなかったけれど、これからはちょっと気を付けてみよー。でも本屋で背広な人間が読んでるとどーにか思われる類のコミック誌なんだろーか、読んだことないから知らないんだよね、「花音」って。

 さらに小川一水さん「ここほれONE−ON! 2」(集英社スーパーダッシュ文庫、533円)。いちおうの完結になっててこれなら「1」とか「2」じゃなく「上」と「下」にすれば良かったんじゃないかって思ったけれど、「長老」たちの太陽系に残したお宝を探して歩くストーリーが番外編っぽく続いて欲しい気もするんで、「2」として後に含みを持たせてあるのも良いのかも。テコでも動かない鉄床石ってのが遠く昔に埋められたロストテクノロジーな品物だったらしーことから集めて歩いていた山水備絵率いる「山水ジオテクノ」とその社員とそして高校生の竹葉要平&渡拓丸だったけど、鉄床石を集めるたびに地震が起こっていたらしーことが分かり、調べるうちに鉄床石に秘められていたとんでない秘密が明らかになる。相変わらずの勉強ぶりで地質学とか地震学とか駆使した「日本沈没」ばりの仕掛けを見せてくれているけれど、あれほど物語的に深刻にならないのもまた小川一水さん的で、一致団結集中突破なところを見せてくれて読んで気持ちに清々しい。バレちまっていーの? って気もするけどまあ、人間にもしっかりする時が来たってことで。高木章次さんのイラストは備絵ちゃんのカットジーンズ&爆乳ぶりも健在で目に嬉しい。誰かコスプレとかしてくれないかなー、ツルハシとか調達してくればしてくれるかなー。


【3月2日】 久方ぶりに品川の「原美術館」へ。途中、振り返ると品川駅の海側に建ち並ぶ工事中の高層ビルの、屋上にクレーンがニョキニョキと生えている様に、資本家の貪欲さを受け止めセッセと物を持ち上げ運ぶ魂なき労働者の悲しみを、見たかというと全然見なかったりする。むしろ何だか格好良い。思い出すのは、90年代始めに今の「恵比寿ガーデンプレイス」がまだ工事中だった頃、ぐるりと囲われた壁の向こう側を、それこそ何十本ものクレーンが建ち並んでいた光景で、クレーンそのものが持つ直線だけで構成され、余計なものを殺ぎ落とされた機能美、みたいなものに目を奪われつつ、それが幾つも重なって目の前の画面を切り裂いている感じに、しばし見取れていたっけか。カメラとかまだ持ってなかった時期で、写真とか撮っておけば良かったとちょっと後悔。なかなかにすさまじい光景だったなー。

 新橋の汐留あたりに今だとビルが何棟も工事中で、上に取り付けられた大小さまざまなクレーンの姿が目にも鮮やか。ほかにも神田神保町とか工事中の場所がたくさんあって、何機ものクレーンがビルの上とかに取り付けられてゲシゲシ何かを運んでる。六本木とか御殿山とか、東京のあちらこちらがバブルでもないのに、バブルの時と比べて遜色のないくらい再開発が行われてて、いったい誰が中にはいるんだろーか、景気ってそんなに良いんだろーかとちょっぴり心配になるけれど、ことクレーンに限ってはどこの工事現場でも立派にその威容を誇ってて目を奪う。誰か「東京のクレーン」とかって写真集でも作ってくれたら、買うんだけど。

 機能美、っていうのは機能を追究したが上に登場する贅肉のないスタイルのことなんだろーけど、機能すなわち目的が優先するあまりにそれを使う人の使い心地とか、見た目に感じるゆとりとかって部分までもが殺ぎ落とされてしまうことも多々あって、だから批判も起きたんだろーか、70年代以降のオーストリアで生まれた、「利用者の多様なニーズに、デザインをする側が可能な限り柔軟に対応しようとする、デザインの原理と発展における大転換」(パンフレットより)の結果登場したさまざまなプロダクツを集めた展覧会が、「原美術館」で開催されていた「オーストリア・デザイン」の現在で、入ると例えば椅子とか、ライトとかプレヤーヤーとか眼鏡とかスキー板とかいろいろな製品が置かれていて、それぞれが使い心地に配慮されつつも見てスタイリッシュなデザインになってて、こーゆー製品に囲まれて暮らすと人間、心も体も優雅になるんだろーなー、とデザインとは無関係な住居で雑多な物に囲まれて暮らし、日々心を磨耗させている我が生活を省みる。物ちょっと減らすか(無理です)。

 30分くらい見てタダ券で珈琲を飲んでから大崎へと回り、山手線で恵比寿まで乗って、10年前はまだ工事中で暫定の建物で営業していた「東京都写真美術館」へと向かう。「文化庁メディア芸術祭」でアニメーション部門の大賞を「千と千尋の神隠し」を分け合った、今敏さんの「千年女優」が本邦で初めて一般の人の前で上映されるってんで見物に行く。さぞや大勢の人が見に来て長蛇の列が出来ているんだろーと思いきや、12時半くらいに到着するとほとんど人がおらず、あれっと思って聞くと整理券を配布したとかで、しまったこれは出遅れたと心配したものの、整理券はまだ残っていたみたいで、110番のを1枚もらってしばし時間を潰してから、今敏さんと、同じく「メディア芸術祭」のマンガ部門で大賞を授賞した福山庸治さんの2人が登場したシンポジウムで話を聞く。

 今さんの無理にアメリカの市場に内容を合わせるんじゃなく、日本人なら日本的なものを追究して、結果それが海外に受け入れられるんだったらその方が良い、って言葉が「ベルリン映画祭」の「金熊賞」授賞記念記者会見で言った、宮崎駿監督の言葉と共通だったのが興味を惹かれた点。今さん自身はまだ「千と千尋の神隠し」を見ていなかったそーだけど、予告編なんかから想像して指摘した「八百万の神々が出てくる多神教の世界が一神教の人たちに受け入れられるのか」って部分は確かにあったみたいで、それでも「金熊賞」なんてものを半ば物珍しさを含みつつも授賞してしまったあたりに、同じ心性でもって媚びずおもねらないで作品を作る今さんも、海外でガンガンと受け入れられる可能性があるんじゃないかって思ったけれど、さてどーだろー。冗談で言った「金熊賞の『千と千尋』と同じ『メディア芸術祭大賞』を受けた『千年女優』も金熊賞」って言葉、あながち外れではないかも。

 いよいよ上映。シンポジウムのあとにいったん外へと出されて、再び整理番号順に入場させる仕切りに、シンポジウムを飛ばして上映だけ見に来た人がいて、そんな人たちに良い席を取られたら嫌だなーと心配したけど、真ん中辺で1つ空いていた場所があってシンポジウムよりも良い席だったんでちょっとラッキー、と思ったらすぐ後ろの関係者席に今敏さんが座って、これは上映中におかしな場所で笑えないぞと背筋に緊張が走る。タイトルが出た辺りでフラッシュ焚いて写真を撮ったり主役のキャラクターが登場した場面でやっぱり写真を撮ってた人がいたのは多分、上映の模様を取材しに来たカメラマンか関係者だとは思うけど、場面や枚数こそ絞って撮影していたとはいえやっぱりあんまり感心しないんで、次回からは是非とも考慮していただきたい所。しかしフラッシュ焚いてスクリーンとかちゃんと映るものなんだろーか。

 感想はと言えばとにかく良い映画。名女優と讃えられながらも30年前に突如引退してしまい、以降誰にも会わずに過ごしていた藤原千代子が、熱烈なファンでもあった映像製作会社の社長の取材に応じて過去を振り返っているうちに、その言葉どおりの世界が画面上に繰り広げられ、千代子も社長も付き添いのカメラマンも引っぱり込まれ、戦国時代から戦争中から月世界にいたる時空を超えて旅をするって内容で、女優が女優であるが故に必然的に持っていただろー、浅ましさってゆーか凄まじさを突きつけられる。アニメーションだからこそ嘘っぽくも陳腐にもならない、切り替わった画面といっしょにシチュエーションも変わる仕掛けの楽しさとか、ビジュアル化した千代子の言葉の中に紛れ込んで戸惑いながらも取材を続ける2人組のおかしさとかにしばし酔う。

 現実と虚構が地続きで繰り広げられる辺りに押井守さんの「御先祖様万々歳」なんかを思い出したけど、あっちが演劇的なら「千年女優」は映画的。加えてスクリーンのこちら側(ビデオの「御先祖様」だとブラウン管のこちら側かな)にいる観客までをも巻き込むよーな感じはないし、押井さん的蘊蓄の長口舌もないんで、突如切り替わる場面転換の文法にさえ納得できれば、あとはすんなりと繰り広げられる時空の旅の物語に入っていける。新作「ミニパト」なんかでも健在だった、セリフも含めて見せ聴かせようって感じの押井さんに比べてそのあたり、絵でもってまず見せよーってスタンスが今さんの場合は土台あるのかな。どう転換するか分からない場面に徹底して目が惹き付けられた映画、でした。

 音楽は平沢進さんで、電子な音楽が虚実ないまぜになった世界に実にマッチしているよーに感じられた。何よりもエンディングロールで流れるマーチ「ロタティオン(LOTUS−2)」が死ぬほど格好良くって、あまりに感動したんで帰りにCDショップで探したけれど平沢さんも「P−MODEL」もどこも置いていなくってちょっと愕然、こっちは経済産業省が主催する「デジタルコンテンツグランプリ2001」(旧「マルチメディアグランプリ」。官庁が出す賞では1番歴史があったりする)でグランプリまで授賞した平沢さんをして、脇へと追いやってしまう商業主義どっぷりな音楽業界の不思議さに思いを馳せる、うーむ。確か10日過ぎくらいに「デジタルコンテンツグランプリ2001」の授賞式があったけど平沢さんも来るのかな、「千年女優」のサントラはいつごろ出るのか聞いてみたいな。


【3月1日】 朝刊の折り込みチラシに見慣れた(見慣れてるのか?)13人に顔が写ったチラシがあってアレレこれは一体何だろう、CMをやってるインターネットのプロバイダーのチラシかなって思って手に取って吃驚。天下の「読売新聞」が新聞を読んでくれている人と新聞をこれから取ってくれる人を対象にした「読売大懸賞」の商品に、何と「モーニング娘。」のミュージカルのチケットをはじめ「モー娘。」関連グッズを取りそろえたって内容で、見事1等賞に輝いた人には6月だかに「青山劇場」で開催される「モーニング・タウン」にペアで1000組、実に2000人もを招待してしまうとか。どーゆー経緯でこんな企画が持ち上がったのかは謎だけど、あるいは正月だかに放映されたメンバーによるナベツネさんインタビューとかが効いたのかな。ワンマンマンはモーヲタだった、なんて見出しが今度は週刊誌とかに踊るのかな。

 2等もロゴ入りウォームアップスーツが2000人、3等も「FILA」製の「モー娘。」ロゴ入りディパックが2000人と商品も豪華なら人数も大盤振る舞い。4等ですら金額こそ500円と少ないもののメンバーが描かれたオリジナルの図書カードが、5000人だか5万人だかの人に贈られるとあって、これだけの人数に当たるなら取ってみても良いかもね、って気持ちが心の奥底からムクムクムクっと浮かんで来る。まさに思うつぼって奴。既に取ってる人でも応募可能って辺りで、すでにして1000万部の読者がいる中からの1000組じゃあ、当たる確率は実際はとっても低そーだけど、これからの新就職、新就学のシーズン、家とか代わって新聞でも取ろうかって考えた時に、「モー娘。」のチケットが当たっちゃうかもしれないって勧誘されれば、例え確率は低くっても、もののついでに取っちゃいそーな気になるもの。「ジャイアンツ」のチケットじゃなく「モー娘。」のチケットって辺りに時代の変化、人々の嗜好の変化も見えたりするけれど、いずれにしても結構な上がりが期待できそーで、チケットを確保しキャンペーンを考えた人はきっと、それなりな評価を社内なんかでも受けることになるんだろー。

 ひるがえって隣りの「正論」な新聞社では、世界的にははるかにメジャーな「スヌーピー」のトートバッグを既にプレゼント中だけど、相手は日本に限っては今や飛ぶ鳥も落とす勢いの「モー娘。」。どこまで戦えるのかはちょっと見物で、3月の部数の動向なんが今から楽しみで仕方がない。ちなみに「産経新聞社」、新聞記者が目線を庶民ろり下に下げて街頭でティッシュを配るとゆー、ジャーナリズム史に残るイベントが行われた2月12日の朝、大勢の社員が来ていた黄色いウィンドブレーカーを産経の報道を讃える本「産経が変えた風」とセットで2950円で販売するんだとか。背中に「2950円 産経新聞」と書かれたウィンドブレーカーを渋谷で着ればきっと誰もが注目し、靖国で着ればきっと英霊たちも背中を押してくれそーなウィンドブレーカーだけに、その筋の人に「モー娘。」なんて眼じゃないくらいの売れ行きを、見せてくれると個人的には面白いんだけど。買う? 暖かいよ、着るとその周囲から浮きまくる色柄デザインの素晴らしさに顔とか恥じらいの気持ちにホカホカになるから。

 美人でさえあれば頭はそれほど働かなくってもいい、前向きな行動力とかもいらない、ひたすらに王子様を待ってればいいんだって感じに、人はとかくお姫さまを典型にあてはめがちだけど、そこは例えばアニメーションにもなった「アリーテ姫」のよーに、背格好はごくごく普通で好奇心が旺盛で知識欲にあふれてて、行動力も抜群ってゆーお姫さまだって決していない訳じゃなかったりするもの、だろー。いや違う、それは「アリーテ姫」が典型におしこめられることに対するアンチな本だからだ、って意見も出そーだけど、実際問題過去から今へと至る童話とかに登場するお姫さまを見ると、100年寝たきりのお姫さまもいれば、自ら魔女へと闘いを挑んで勝利するお姫さまだっていたりと結構さまざま。人が典型と思っているのは実はそれほど典型じゃなくって、むしろそーゆー典型に押しこめようって意識が無理矢理に作り出した幻想で、世の中は実にいろいろな人たちに溢れてて、決して典型なんてものに収まらない。

 女子高小説、って聞けば思い浮かぶ典型があって、友情があって嫉妬があって同級生との恋があって教師との愛があってってなエピソードの中から、醸成され深まる絆に読んで納得してしまうってのが普通だし、読む方もそんな典型が生むカタルシスに、気持ちをホッとさせよーとするんだろーけれど、間もなくマガジンハウスから発売になる三浦しをんさんの書き下ろし長編「秘密の花園」(マガジンハウス)は、パッと見は女子高小説にありがちな、同級生の3人組を中心に据えて友情と反発、恋愛と破局の物語のよーに取れても、その描かれ方が何とゆーか八方破れで、典型に気持ちを安心させることがない代わりに、棚上げされたよーな落ちつかない気分の中で、人間の決してパターンにおさまらない、複雑だけど面白い様が浮かび上がって来る、よーな気がする。

 3部構成の冒頭は、休刊が残念な「鳩よ」に分載された「あふれる」を改題した「洪水のあとに」で、実は全部を読んでないんでそのままなのか多少の改変が加えられているのかは分からないけれど、仲良し3人娘のうちの1人で、お嬢様たちが幼稚園からエスカーレーターで上がって来る学園に途中から入ってきた那由多って少女の、友だちとかを得て学校ではそれなりにやっているよーに見えて、実は過去に心とそして体に結構な”傷”を負っていて、それ故にときどき気持ちが激情におさえられなくなることがあって、ついにはとんでもないことをやらかしてしまう。外から転入して来た優等生っぽい部分は、川原泉さんの「笑う大天使」に出てくるケンシロウこと史緒さんにちょい似てるけど、心身にさまざまな痛みを抱えて生きているさまは、天然っぽい天才な史緒さんとは全然違う。この辺もいわゆる「マンガ」の典型に収まらない作品ならではの特色だって言って言えるかも。

 典型からのズレっぷりは3人娘のうちの可愛い娘ちゃんタイプ、「笑う大天使」だとそうだなー、イメージはちょい違うけど位置関係ではコロボックルな柚子ってことになるだろー坊家淑子も同様で、3部あるうちの中間の「地下を照らす光」で描かれている彼女の日常は、名前からして旧家の出だと分かるくらいのお嬢様ながらも、同じ名家の出身者とは相容れず、かといって3人組を形成している那由多と翠との関係でも、那由多と翠との強い結びつきの埒外に置かれているよーな疎外感を受けてしまっていて、苛立ちと嫉妬の気持ちから心に大きな闇を飼っている。「地下を照らす光」の最後では、そんな闇がはてしなく広がっていく様が描かれていて、しばしの恐怖にかられる。身に覚えのある人はさらに激しい恐怖を感じるかも、愛のない行為は止めよーとか思いつつ。

 3人組で3部構成ならラストの「廃園の花守りは唄う」の主役は、当然ながら寡黙でニヒリストっぽい所のある、「笑う大天使」なら当然の如くオスカル和音さんってことになる翠なんだけど、前の2編のうちの「洪水のあとに」でくじけた那由多、「地下を照らす光」で折れた淑子といった、主役な癖して沈黙しつつ逃走しつつな人たちの話をんまな受け継いでしまった関係で、トリオ漫才でのボケとツッコミの間で迷うメンバー的な感じで、最初のうちはなかなか正体が掴み辛い。けど読み進むに連れて、前のエピソードでくじけたり折れてしまった那由多に淑子の2人に対する、翠としての立ち位置が見えて来て、なるほど一種の要として、四方八方に飛び散ろーとしている那由多に淑子を引き留め引き寄せよーとしている役割があるんだな、ってことが見えて来て、キャラクターへの興味も増す。

 典型に収まらない三者三様なお姫さまたちの、折れてくじけて迷ってそれでも頑張って、ってな展開の中、性に関する決して淫靡でもなければ猥雑でもない描写を混ぜ込み、年頃にある少女たちの好奇心をほのかに煽りつつ引っ張りつつも、「援助交際」的なものを扱う物語の典型に陥るよーなこともせず、ハッピーエンドへとまとめないで、読む人にあれこれ考えさせる。エンディングも、どこか千尋の谷へと子供をポーンと突き落とすよーな感じの、青春小説には過去にあんまり類を見ない展開になっていて、カタルシスが得られないのはそれで残念ながらも、含みを残し余韻を与えつつの巻の終わりに、気持ちを強く刺激される。選ばれ紡がれる言葉のひとつひとつもなかなかに珠玉で、過去の小説3作品にも増して純分学的な要素が強いかも。個人的にはひとつ決着を付けて欲しいエピソードでもあったけど、予定調和へと陥らせず典型にも流れず、けれども実験臭さのまったく皆無な、読んで面白いし為になる内容に仕上がってたりするんで、その辺りに目を向けつつ、作者の巧妙な筆さばきとか絶妙な物語力とかに裏打ちされた、確かで画期的な三浦しおんんワールドへと、身を投じてみれは如何。

 「SFJapan」の2002年春季号に「第3回日本SF新人賞」を授賞した井上剛さんの「マーブル騒動記」が載っていたんで読む。札幌にある菓子メーカーが女の子ばっかりのプロ野球の球団を作って……ってのは川原泉さんの「メイプル戦記」で、「マーブル騒動記」の方は女の子ならぬ牛が、突然知能を持ってしまって人間に対して権利を要求して認めさせてしまうものの、やがて揺り返しが来てとんでもない事態へと発展していくって話で、聞けばまるでどこかの野党の党首が外国人プレス向けに半分は冗談だろーニュアンス(だと思う、マジだったらそれはそれで怖い)で言った、「牛にも人権が」云々って言葉を広げたよーな感じがするけど選評なんかを読むと「狂牛病」騒動よりは以前の応募だったみたいで、まさしくシンクロニシティって感じで生まれた小説らしー。それもそれでSF新人賞に相応しいけど。

 中身は予想されるとーりに、牛の人権闘争を通じて人間の、愛情と口出は言っても中身は単なるエゴだったりする心情とか、差別意識とかをえぐりだす寓話に近い内容で、どーゆー形態で出るのかは預かり知らないけれど、ハードカバーで竹内真さんとか荻原浩さんとかいった、「すこし不思議」なエンターテインメントの系譜に連なる作品として、売れば今のタイミングだと結構評判になりそーで、どれどれと飛びつく一般の人とかいそー。もちろんSFと言って何ら違和感もないしむしろ20年前だったら堂々にSFと銘打たれて店頭に並んでバカバカ売れた可能性もあったりするんだけど、今だとSFと言ってしまうとエンターテインメント的な楽しさ以上に仕組みの大切さにウエートがかかった小説ってな印象を、知らない人に与えてしまいかねないだけに難しいところ。まあその辺の事情は代わりつつあって、SFと銘打ってあっても存分に内容の楽しさが読む人に伝わって行くのかも。タイトルは原題の「さらば牛肉」の方が分かりやすくて中身そのままでセンセーショナルで良いよーな気もするんだけど。


"裏"日本工業新聞へ戻る
リウイチのホームページへ戻る