縮刷版2002年11月中旬号


【11月20日】 「ザ・ロック」を「ロック様」と呼ぶなら「ハマーン様」は「ザ・ハマーン」とでも言うんだろーか、って悩みはさておいて一般に「ハマーン様」と僕らが呼ぶのは例の、黒色だか紫色のマント付きな衣装に身を包んだおかっぱ頭で眼光は鋭く口調は居丈高なくせに内心には焦りってゆーか寂しがりってゆーか、そんなモヤモヤとした心理を抱えた複雑な女性のことであって、だからこそ「ハマーン様」と慕い水たまりに身を投げ出してその細く長い脚が濡れないよう踏み石になる覚悟も示せるんだけど、最近書店に出回っている北爪宏幸さん画によるコミックス「若き彗星の肖像」の限定版に、「ハマーン様を手に入れろ」とゆーコメントと一緒に付けられた少女のフィギュアはどー見ても「ハマーン様」ではない。

 居丈高ではないし眼光鋭くなく、表情にもどこかはにかんだよーな表情のいったいどこが「ハマーン様」なのか。跪きたいのは高く尖ったヒールを履いた足下であって底がペタペタのパンブスだかスリッポンではないのである。こんな「”自称”ハマーン様」を「”真”ハマーン様」の親派として買うべきかどーか悩む。けどやっぱり買ってしまったのはこれで手元においておけばいずれは立派な「ハマーン様」に、育っては絶対にくれないとしてもその将来を想像して楽しむことは可能だろーと考えたからで、今日も今日とて箱から出さずに手に取っては、目線より上へと本体を持っていって足下からそのお姿を拝み倒すのであった。あっ「白」だ。

 「ワールドカップ」の「ブラジルvsトルコ戦」の時は午後8時半のキックオフに合わせて行った7時頃でも全体に明るさが漂っていた「埼玉高速鉄道」の「浦和美園駅」も、冬至が迫った時期だけにすでに真っ暗であれから経った5カ月とゆー時の長さを改めて思い出して懐かしさに浸りつつ「埼玉スタジアム2002」へと向かう。生まれて始めての観戦となるサッカー日本代表が出場する試合がかつてない位に最強の敵を迎えていったいどんな展開になるんだろーと胸躍らせつつ、1キロ以上はある道を歩き倒してスタジアムへと入り、バックスタンドの上段の丁度「SAITAMA」と椅子の色を変えて描いた文字の2番目くらいの「A」が書かれた辺りに席を発見して、センタ付近からピッチ全体を見おろせる好位置だったことに、何でこれが追加発売になったんだろーと思いながらもこれは僥倖とほくそ笑む。

 1階のスタンドに比べれば確かにピッチからは遠いけど、これが間にトラックのある「横浜国際総合競技場」だったら縦にも増して横の距離も結構あるんで遥か彼方で試合する米粒になってしまうんだけど、そこはサッカー専用競技場だけあって大豆くらいの大きさには見えて専用の有難みを改めて知る。アルゼンチン戦もジャマイカ戦も外したセカンドチャンスの抽選で当たるとゆー幸運に恵まれ確保できた「トヨタカップ」はカテゴリーも3になって場所もコーナーらしーけど、列は1階なんで果たしてアルゼンチン戦とどっちが見やすいのか思案のしどころ。全体を俯瞰するには埼玉の2階は最適だけど臨場感なら横浜であっても1階、なのかな、ゴール裏に近くって応援も熱を帯びそーだし。

 ピッチに選手が並んだ後でいきなり「ジーコ監督の亡くなったお母さんに黙祷を」と言われてコケる。もちろん母親を亡くした人への哀悼の念をまるで持っていない訳ではないけれど、サッカーの試合でサッカーの発展に貢献した人の死去に黙祷するならまだしも、監督の母親ではあっても公式にはサッカーとの直接的な関わりを持たない人に、アルゼンチン選手やアルゼンチン協会の関係者も含めてセレモニーの場で黙祷させるのが真っ当なことなのか、ちょっと分からなかった。それともサッカー界ではそれが普通なんだろーか。代表合宿中に母親を亡くした伊東輝悦選手を慮って当時のトルシェ監督が会見を拒否したことがあったけど、あの時も試合の前に全員で黙祷を捧げたんだろーか。アルゼンチン選手がどう思っていたのかも聞いてみたい所。事情も分からず頷いていた観もあり。

 さて試合。前半はまあ互角。ソリンの左からのボレーを片手で弾いた楢崎選手に救われた所もあったけど、それ以外には決定的な場面とか作られず上手く相手をいなした格好。前線中盤と結構プレスも効いてたしパスカットの場面も何度かあったし。目を見張ったのは後半。ピッチに登場したアルゼンチン選手にベロンが指をつかってあっちゃこっちゃ支持をしていてやる気が入って来たなと思ったら案の定、後半スタート早々のまだディフェンスが集中し切れていない所を立て続けにソリン、クレスポと決められて得点ショーの予感が漂う。クレスポはフリーにしてしまったディフェンスのミスだろーけどソリンの真ん中からの1点はもらったボールを振り向き様に叩き込んだソリンの勝ち。ゴール前での得点意識のこれが強さってゆー奴か。

 それを言うなら高原選手の前を向いて得点しよーとする意識の強さもアルゼンチンの選手たちにまるで引けを取っていなくって、名良橋から足下に入ったボールをすかさず流し込もうとして数十センチ外してしまった前半の場面とか、中山からのこぼれ球を拾って振り向き様に間髪入れず脚を一閃させてゴールの枠内に強いシュートを放ってキーパーに止められた場面とか、うまくすればどちらも得点できた可能性があって、俊輔の折り返しを頭で合わせた場面も含めてフカしまくったり弱々しかったりするのが常だった日本のシュートシーンとはちょっと違う空気を感じさせてくれた。この高原全部と名良橋の”上がり”がワールドクラスって感じか。とてつもないスピードでタイミング良く上がっても入れるボールに得点へと結びつく可能性をあんまり感じないのが名良橋の”上がり”限定な所ではあるんだけど。これにベロンの正確さがあったらなあ。

 俊輔は普通。あんまりコネなかったし前への供給も出来てたし高原へのセンタリングも良かったし、高原と秋田と名良橋の次くらいには目立ってたかも。でも日本の新聞はきっと中村を1面トップでドカンと報道するんだろーなー、スターだもんなー、ナカムラだもんなー。アルゼンチンだとやっぱり怪僧ベロン。左サイドに貼り付いていたと思ったらいつの間にか右サイドに来てたりするし中央にもいて守備もする、縦横無尽な出没ぶりにもしかしてアルゼンチンにはベロンが3人いるんじゃないかって思えて来る。前へと送ったりサイドを変えたりする超ロングパスでクレスポとかC・ロペスとかオルテガとかいったを自在に操る上に自身も仕掛けるパワーがあるんで油断も隙もあったもんじゃない。秋田が良く良く読んでいたせいもあって防げたシーンも何回か。アイマールと比べてみたかったけど、幸いにしてアルゼンチン、また試合してくれるそーなんでその時には2人の競演なりを見たいもの。日本も今度は揃えること。ジーコ監督はどっちでもいいや。


【11月19日】 先日の「東京ドーム」での「日米野球」でチケットに書かれている自分の席を探せなかったり間違えるって人が周囲にやたらと多くって、もしかすると「地図を読めない○○」じゃないけど人間の思考力からそういったものを論理的に判断する力が失われていってるんじゃないか、なんてことも考える。書き方が分かりにくいってことはあるけど決して書かれてない訳じゃないし、ドームなんで席に振ってある番号が雨で消えてるってこともない。ゲートの番号だってある訳でそこから何百メートルも探す必要なんてなく、縦の列に横の番号を見てチケットと照らせば誰にだって分かるはずなのに、自分の座るべき列を間違えて10列も後ろだったり前だったりに座ってしまう人たちが、両手の数くらい周囲で発生していたのにはよっと驚いてしまった。あるいは偶然にせっかちな人が集まってしまっただけなのかもしれないし、自分の席が本当にあるのかすら疑ってびくびくしている自意識過剰な臆病者(つまりは僕)が気にしすぎているだけなのかもしれないから、次に機会があったらもうちょっと力を入れて「席を探せない○○」がどれくらいいてどのくらいの歳なのかを観察してみよー。

 怒ってる怒ってるセルジオ越後さんが「サッカーダイジェスト」の2002年12月3日号掲載コラム「天国と地獄」で久々のアングリーマークでジーコジャパンに喝。敵アルゼンチンが怪我でアイマール選手リケルメ選手を最終的には欠いたものの現時点でのほとんどベストと言われるメンバーを揃えてはるばる日本は埼玉へと乗り込んで来たにも関わらず、迎えるホストの日本が海外から中田選手小野選手稲本選手といった主力をまるで呼べなかったことに「ずいぶん失礼な話だよ」って怒ってる。論旨は妥当。忙しいったってそれは相手も同じ条件で天下分け目の「クラシコ」を控えたバルセロナからだって何人も引っこ抜いて来てるから言い訳にならない。ジュビロ磐田の優勝争いに配慮したってんなら争ってる他のチームに配慮しないのは論理矛盾。中村の招集を協会に一任したってゆージーコさんあんた一体何なのよ? って誰もが抱いているはずなのに、誰も突っ込まずやれ優しさだの、思いやりだのともてはやすだけのメディアへの不信なんかも含めて怒り心頭の風を装っている。

 本選は4年先だし予選だって2年は先。今はジーコジャパンの力量を図りつつ日本が次に取るべき戦術を固めていくときだから相手がマジならこっちは真っ向受けて立つより、胸を借りる感じで当たっても良いんじゃないって意見もある。「ワールドカップ」で決勝リーグに進めなかった屈辱を晴らし外に向かっても内に向けても意を示さなくっちゃいけないアルゼンチンとは立場が違うって意見もあって不思議じゃない。けどいくら「ワールドカップ」では不甲斐なかったとは言え実力だけなら今も以前も世界のトップ3に入って不思議のないチーム。そんなところが本気でかかって来てくれる、一昨年のフランス相手にコテンパンにされた試合すら越えてら98年のフランス大会でのアルゼンチン戦以来の超強豪国による真剣勝負に半身で逃げる情けなさってのは、やっぱりしっかり認識しておかなきゃいけないのかも。

 セルジオさんが危惧するよーに「アルゼンチン代表は当分のあいだ日本とテス  トマッチをしようなんて思ってくれない」かどーかはお金の関係タイミングの関係いろいろあって判然としないけど、経験知識で天を行く人がそう感じたとゆーことは、可能性としてあるんだと思っておいて差し支えはない。それでもメディアはジーコ監督の威光があるからアルゼンチン代表は嫌がってもブラジル代表なり、かつてプレーしたイタリアのチームなりとの試合くらいは簡単に実現してくれるから大丈夫だと言い続けるんだろー。それが今回のアルゼンチン代表以上の本気モードになるかどーかは分からないにも関わらず。

 同じ週に発売の「サッカーマガジン」掲載の李国秀さんはさらに過激にジーコ監督は「日本にはふさわしくない」って言い切っていて、ジーコ万歳な口幅ったいメディアの中では超目立つ。これは力量とゆーより特性として拾い上げるのが得意なブラジル方式よりも育てることに長けた欧州方式の方が「天才」の少ない日本にはベストとゆー論旨。目新しくはないけれど、ここに来てこーゆー意見がサッカーメディアに相次いで掲載されるよーになったことには注目しておいて良いのかも。本人不在のアルゼンチン戦では結論は出そーもないけれど、選んだメンバーの動向と来年春に予定されているとかゆー遠征の結果が、セルジオさんの危惧と李さんの疑念を証明するなり晴らすなりして、ダラダラせずに次のステップに進んでくれれば有り難い、トルシェビキの残党として(結局それかい)。

 しかしその対戦を「クラシコ」なんてサッカーファンが自賛するカードの片翼を担うバルセロナですら国内では国民なりカタロニア地方の住人なりのすべてから圧倒的な支持を受けている訳じゃないんだってことが「ワールドサッカーダイジェストエクストラ」の12月2日号で露呈したのには驚いたとゆーか。何でも11月13日にバルサの本拠地「カンプ・ノウ」で開催された「チャンピオンズ・リーグ」の対ガラタサライ戦では、14歳以下の子供が入場無料にされていたにも関わらず、多くがトルコの強豪と”我らが”バルサの試合そっちのけで別のものに見入っていたんだとか。テレビの中継も同様で家では激しいチャンネル争いが行われた結果、「バルセロナvsガラタサライ」の中継はもろくも破れ去ったとゆー。

 あの情熱の国スペインのとりわけ民族意識の強いバルセロナでバルサの試合の前に立ちはだかったものは一体何だったのか。日本だったら野球とかって答えが返って来そうだけどスペインで野球なんで100人(推定)も知っていれば良い方で、サッカーに比類する人気のスポーツなんてありはしない。ならば「クラシコ」のもう1つ、レアル・マドリッドの試合かというとそれは絶対にあり得ない、何故ならバルサにとってレアルは仇敵も仇敵、憎んでも余りある相手だから。人気女優が出てくるドラマが放映されたのかな。それともどっかに拉致されていた人が帰ってきたのかな。

 考えるほどに分からなくなって来るけれど、答えを聞けばきっと誰もが納得するはず。バルセロナを葬り去ったものの名は「Crayon Shin Chan」、そう、あの野原しんのすけとその一家の前には天下のバルサであろーと一蹴されてしまうのだ。サッカーは弱いし景気もダメダメだけど、こう聞くと日本って国にもまだまだとてつもない底力があるんじゃないかと思えて来るなー。弱くて相手にされない日本代表も、いっそフランスでは「セーラームーン」の格好で試合に臨み、イタリアでは「マジンガーZ」の音楽で入場し、スペインでは「クレヨンしんちゃん」のダンスを踊るよーにすれば世界から親善試合の相手に指名されて経験不足も解消されるんじゃなかろーか。中田のムーンに俊輔のマーキュリー小野のマーズ稲本のヴィーナスのカルテットに鈴木のジュピター、ビジュアルだけなら無敵です。


【11月18日】 惜しい。実に惜しい。「ギャラクシーエンジェル」の17日分の放映は前半「激レアフォーチュンクッキー」に野尻抱介さんの脚本を仰ぎ、かつて「鉄腕アトム」に豊田有恒さんが関わり「エイトマン」に平井和正さんが関わり半村良さん筒井康隆さんが「スーパージェッター」だか「宇宙少年ソラン」だかに関わった、日本SF黎明期とテレビアニメ黎明期の再来とも言えそーなアニメーション史的にもSF的にも貴重にして重要な1話となった上に、中身的にも野尻さんのハードSF魂炸裂の……もとい「ギャラクシーエンジェル」魂爆裂のエピソードに仕上がっていてこれが通常の週だったら、アニメ専門紙「ガゼッタ・デロ・アニメション」で8点を獲得してベストアニメに選ばれただろーことは確実だったと言って決して過言はない、そう通常の週だったら。

 しかしだがしかし。今週の後半が凄すぎた。アニメ史的にも萌え史的にもすさまじすぎる内容だった。「激辛お子さまランチ」に登場したお子さま化したミントのあどけなくも腹黒っぽさへの萌芽がのぞく笑顔泣き顔つぶらな瞳を目の当たりにしてしまっては、すべてのキャラクターの特徴をふんだん以上に引き出した上に最近ちょっと甘やかされ過ぎてた感じのあったノーマッドを徹底して虐げなお且つ最後にヴァニラさんのマイペースぶりで落とす、「ギャラクシーエンジェル」への愛なくしてはつづれないシナリオの上に描かれたポップでキャッチーな「激レアフォーチュンクッキー」であっても、その魅力がかき消されてしまって当然かもしれない。「コリエレ・デロ・アニメション」で9点間違いなし。お子さまメアリー少佐も凶悪だったよ眼鏡っ娘でもあったことだし。かくも高密度高品質高GAな話を2話、続けてしまってバランス的に平気ってことはこれ以上の話が次週以降も続くんだと信じて良いのかな。とりあえずは16話の「ヒゲつきカルビ丼こい口ソース」に超期待、出るか「ガゼッタ」「コリエレ」初のダブル10点満点が。

 この人が今の日本にいればあるいは別次元ながらも「ギャラクシーエンジェル」に対抗し得るアニメを送り出していたかもしれないだろー幾原邦彦さんがどこにいるかと言ったらこれが仰天、「少女革命ウテナ」でコミック版を担当していたさいとうちほさんがビーパパスと組み(ってかさいとうさんってビーパパスに入ってなかったっけ?)送り出したその名も「SとMの世界 1巻」(角川書店、400円)のカバーの折り返し部分に幾ピーさんの近況が書かれてあってそれが「僕はLos Angelsで暮らしています」ってなっていて、一体いつの間に、でもって何の為にロスに行ったんだろーって疑問に悩む。去年は幕張で「日本SF大会」に出てたのになあ。それともアメリカで企画を練っているのかな。

 案外にこの聞くに猥雑な響きを持った「SとMの世界」が新しい企画なのかもしれないけれど、タイトルの淫靡さとは別に内容の方は時空を超えた天使と悪魔の闘いってゆーか少女と少年の愛別離苦ってゆーか、現代から一気に革命前のフランスに飛んだ少女が好きった少年と同じ面影を持つなぞの男から過去の因縁とかもあっていろいろちょっかいを出される展開で、アニメ版の「ウテナ」が持ってた突拍子のなさとはちょっと縁遠い。とはいえコミック版「ウテナ」は割に真っ当な展開だったことを考えると仮にアニメになったとしたらやっぱり「ウテナ」のよーにアレしたりソレしたりするシーンも満載の、まさしくSでMな話として映像になったりするのかも。どーなんだろ。何でも良いから幾ピー様のアニメを見せて下さいな。

 2代目ってやっぱりいろいろプレッシャーもあるんだろーけど、話ぶりを聞いた限りはまったく屈託もなく元気いっぱいに事業に取り組み今日の良き日を迎えたよーだったマーベラスエンターテイメントの中山晴喜社長。「ギャラクシーエンジェル」のゲームを売ってる会社として「ギャラクシーエンジェル」な人には知られているしそーでない人にもアニメの「ハンター×ハンター」とかやってる会社でゲームの「キング・オブ・ファイター」を出してる会社としてCMなんかでお馴染みだけど、それが本日ジャスダック市場に株式を公開したんでどんな話をするのか聞きにいったところ、淀まず濁らず割にしゃきしゃきと今のアニメーションが置かれている状況と、そーした中でどんな関わり方をすればリスクをとらずにビジネス出来るのかを話してくれて、かの中山隼雄セガ元社長の長男ってゆーイメージだけでは簡単には括れない、ここまで会社を引っ張り挙げて来た人ならではの活きの良さだけは感じる。

 オールライツで行きたいとかヒット作をいち早くつかみたいとか言って、他のアニメ会社に玩具メーカーに商社にテレビ局にCMプロダクションがくんずほぐれつ参入してはパイを奪い合ってる状況の中で、昨日今日公開した売上規模でもそれほど大きくはない会社が果たしてどこまで成し遂げられるのか疑問に思って聞いたけど答えは割に筋が通ってて意外と言えば意外、なるほどと言えばなるほどってな感想を抱く。そーは言ってものっぴきならないのがアニメの世界で良いと思った作品が案外に伸びなかったりするのはよくあること。株式公開で一花咲かせたと喜んでいるとすぐさま後から追い越されるなり上から吸い上げられるなりするんで、気を引き締めてかかっていって欲しいもの。面白いアニメを僕たちはもっともーっと見たいのです。


【11月17日】 凄い凄い凄すぎるイチロー選手。金曜日に見たプロ野球オールスター「全米vs全日本」の試合の帰りに運良く、ってゆーか財布的には運悪く最終戦のチケットが購入できてしまい、日本で巨人の松井選手を見るのもこれが最後になるんだと半分くらいは優雅に感傷的な気持ちで行ったんだけど、登場したイチロー選手がのっけからヒットを放ったのに続いて次打席では三塁線にバントしたのを上原選手が見送ろうとしたものの切れずに内野安打。以下もヒットヒットと4打席で4つのヒットを重ねるダブルマルチなヒッターぶりに、もはや日本では相手なしと思って米国へと旅立った理由も分かるよーな気がして来た。オフシーズンに入って力が下がっているとはいえ、140キロにいくかいかないかしか出ない日本のピッチャー陣じゃあ、コースがどこでもテニスラケットよろしくボールを打ち返せるんじゃなかろーか。

来た見た撮った、松井選手は最終打席も快音なし  そんな活躍で今試合MVPのイチロー選手だけど遠目に見るベンチでは奥の割に端っこの方にひとりっきりで座っているケースが多いよーで、普段から寡黙に孤高なイメージがあるとはいえ、実際に目の当たりにするとやっぱりなかなか溶け込めないのかなー、なんてことも想像してしまう。まあ同じシアトル・マリナーズの選手がいないってこともあるし、日本ではベテランでも大リーグじゃあ2年目が終わったペーペーで知り合いもそんなにいないから仕方がないのかも。むしろ試合の前にベンチにどっかと座ってたkonishikiさんの方が、怖い顔したアリゾナ・ダイヤモンドバックスのフェターズ選手の確かいとこってこともあって馴染んでたみたい。元がハワイ出身の米国人ってこともあるから向こうに知り合いも多いし体格でも他の誰にも負けてないから仕方がないのかも。体格で勝てそーなのフェターズくらいだし。

 目に付いたことあれこれ。途中、同じミネソタ・ツインズのハンター選手とジョーンズ選手がピッチャーの交代時間に左中間で寄り添って並んで腕組みしてマウンド方面を眺めてる姿がコンビ芸みたいで妙だった。ここでもライトのイチローは蚊帳の外、って当たり前か、そんな場所まで行ったらそっちが妙だし。アナハイム・エンゼルスのエックスタイン選手は今日も元気でネクストバッターズサークルではやっぱり重り付きのバットをヌンチャクよろしく振り回しては遠目にも熱血さをアピールしてた。ピート・ローズ2世って称号は彼が継ぐか。日本人だと松井選手は守備に関してはとりたてて問題なし。バッティングはなあ、ポストシーズンに入って落とした調子が日本シリーズを経てもついに回復しなかったってことなのか。それでも最後の最後まで全イニングに出て全打席に立ったのは偉いというか。値踏みされていることが分かって調子が上がらないことも知っていて、それでも集まった観客の方を優先するプロ魂をこそメジャーのスカウトの人たちも、評価して頂きたいところ。普段の力なんてビデオを見れば分かるんだし。

 かくして終わった超大スポーツイベント観戦月間、ってのは嘘で今週はいよいよ個人的には初となるサッカーの日本代表選が控えているんだけど、ここに来てジーコ監督が家族の不幸とかで帰国してしまうことになって、代わりにこの前まで韓国での「アジア大会」で日本代表を率いていた山本監督が替わって指揮をとることになったとか。4バック&中盤中村ファンタジスタ的なジーコ式の戦術が本気度120%のアルゼンチン相手に木っ端微塵にされる可能性を高く想定していただけに、それを本人が見ないってのは仕方がないとは言えどうにも釈然としない。<BR>  あるいは山本監督が代行っとてついこの前まで採用していた3バックに戻してトルシェ式の布陣を取ってくれたら、その良かったところと良くなかった所も明らかになってトルシェは嫌いだからジーコってゆー短絡ではなく戦術のどこが良くどこが悪かったかを把握し直した上で、次につなげることも可能になるかもしれない。ただなあ、それをやるためのセンターバックに宮本選手も森岡選手も入ってないし、汗かきボランチの戸田選手もいないんだよなあ。やっぱジーコ式しかないのか。でもってダメダメでもジーコのオーラがなかったからと山本監督の責任にされジーコは不問にされるのか。やりきれんなあ。代行権限でせめて戸田選手、宮本選手は呼べないのかなあ。名良橋選手も怪我だそーだし引っ込んでいてくれんかなあ。

もーちょい左、もーちょい上、芸術家はこだわります。  昨日に続いて今日も今日とて江東区佐賀町にある「食糧ビル」で開催中のアートイベント「Emotional Site」を見物。3時から始まるとゆー三宅信太郎さんのパフォーマンスの最中にはちょっと間に合わなかったけど、描き上げた後で大見得切っている場面には間に合って、中庭の地面いっぱいに広げられた布の上に、お得意の横にバナナかラグビーボールのよーに細長い顔の下に三角形の胴体が付く、子どもが描く女の子の顔に近いんだけどでもちょっぴり宇宙人っぽい人物像が描かれた様を目の当たりにする。とにかく凄い人出で中庭を囲む回廊はもとより2階のバルコニーも3階のテラスも屋上も人、人、人の列。もしかするとこの1年くらいに開かれた「食糧ビル」にあるギャラリーの展覧会に集まった人の総数よりも多いんじゃないかと思える人の出で、この場所がなくなってしまうことへの感傷的かは知らないけれど何らかの関心を抱く人の多さを改めて知る。これがもう少し早ければ、お米のビルも粉屋さんの家みたく保存・移築の話が出たのになー。

 人出の中には著名な方々も結構な割合でいたみたいで、はるばる西から都心部を抜けて来ていた東浩紀さんとかともすれ違う。昨日に続いて奈良美智さんの作品が飾ってある部屋で、遠山杏が彼を家に招いて母親といっしょに「勝手にしやがれ」を見るあたりから部屋にあるソファーに座って例の「東京タワー」での「ニューロンばちばち爆発するよー」を鑑賞して、何でここでこれが流れているのかな、確かに近所が舞台にはなっているんだけど、ってな懐疑を抱きつつも若かった頃のりょんりょんのあどけなさふくよかさに今の荒み具合を重ねて涙ぐむ。来場していた人が多すぎたってこともあって地下室のどんつきまで入り込む森村泰昌さんの作品には入場待ちの長蛇の列で今日は見るのをパス。代わって昼間に仕上げられた三宅さんの作品が屋上から中庭に面した壁の一角にかけられるまでを、陽も落ち空気がどんどんと冷たくなる中で待ってどうにか展示まで含めて完成した姿を目の当たりにする。大きいなあ。

 通っているとはいってもただの見物客で書き物が仕事といっても美術関係はまるで無縁なんでなにやら始まる雰囲気があっても無関係と早々に退散、けど最後の日もまた来てやじ馬的に最後の場面にもぐり込もう。返りの地下鉄でジョージ・R・R・マーティンの超分厚いファンタジーの新刊「七王国の玉座」(早川書房、岡部宏之訳、上下各2800円)の上巻をちょろり、と読んですでに挫折気味。いやお話的にはとてつもなく面白そーなんだけど、出てくる人の多さと関係の複雑さを頭でリアルタイムに処理できず、確認しては進んで気が付くと忘れていて戻って読み返して確認してる関係で、ページがまるで進まない。そうこうしているうちに課題図書も回ってくるしヤングアダルトも10冊単位で読まなくっちゃいけなくなりそーで、読み終えられるのは一体いつになるのやらと今から不安な日々。でもって担当がファンタジーでも海外SFでもなくって良かったと胸をなで下ろす日々。担当の人は頑張って下さいな。FTでも上下巻でキイズ「錬金術師の魔砲」とか出てたなあ。


【11月16日】 「らしくねえ」。って言ったら作った人には申し訳ないけど何っていうか「ロマンアルバム」って言ったら、長四角の大判でいかにもなシーンが表紙に配されていて番組を見ていた人の目を書店の店頭でガバッと引きつけ、体裁よりも設定とか美術とかスタッフインタビューとかいった中身で勝負するイメージがずっとあったから、そんなイメージで「コミック高岡」の棚差しとか平台を探してまるで見つからずまだ発売されてないのかな、なんてふと振り向いたレジ前の新刊雑誌が並んでいる台に、ピンクの帯がされた小版で真四角のお料理本みたいに可愛らしい本が出ていて、よくよく見ると見慣れた2人が頬寄せ合って描かれていた表紙絵に、ようやくやっとこさ「ギャラクシーエンジェル」の「ロマンアルバム」を発見できて有無を言わずに購入する。

 お料理本みたいなのもまあ仕方のない話で、本編のサブタイトルに料理の名前が使われている関係もあってかそれを切り口にして「レシピブック」として仕立て上げよーとしたデザイナーに企画者の勝利、って言えば言えそー。「ロマンアルバム」とは、ってな固定観念では探せないけど作品とかに合わせてこーやっていろいろイジった方が、内容に応じて多様化しているアニメの視聴者に見てもらい手に取ってもらいやすくなるんだろー。お料理本と間違える人とかもいそーだし。かといって中身の方は相変わらずの充実ぶり。グラビア風の版権イラスト総ざらえにポップな感じのキャラクター紹介、豊富なフィルムの切り取りと要点を押さえたあらすじで読むだけで雰囲気を理解できる各話紹介、小さいけれど綺麗に出ている設定資料、声優監督脚本構成他のキャスト&スタッフインタビューがしっかりと押さえられていて、読めば過去2シリーズの概要がおおむね分かる。でもやっぱりあの脱力感は動く絵を見ないと分からないだろーなー、秋葉原で「ブロ」ってDVDを揃えないといけないのかなー。

 けどいくら今から「ブロ」ってもこの人にはもはやかなわないかもしれない。ハードSFファン注目の野尻抱介さんによるハードSF作品であるところの「ギャラクシーエンジェル」サイドストーリー「太陽の浮気者」は「ギャラクシーエンジェル」のみならず、「ブロッコリー」についても微に入り細を穿った分析がなされた話になっていて、ただ「ギャラクシーエンジェル」だけを見ている人には理解できない可能性もあるかも。もっとも「ギャラクシーエンジェル」を見て「ヴァニラさん」「ミントたん」と言ってる人の推定9割9分9厘9毛は秋葉ならずとも日々「ブロ」っては「フロゲー」読んだり携帯キャラゲーとしては出色の出来な「でじコミュニケーション」をプレイしているだろーから、出てくる「ガーディアン・フェアリー」とか「サイコロ」ってガジェットも、「チャンドラセカール限界」に「双極分子流」ともどもしっかり理解してしまうんだろー。それが「ブロッカー」(ブロッガーとはちょっと違う)ってもんだ。

ここから王女様でも嫁いでいれば保存運動も起きたのに  京都まで行く金も気力も失せてて13時間寝ても足りない怠惰な生活の中をそれでもと気分を盛り上げて江東区佐賀町にある「食糧ビル」までお米を買いに、じゃなくって現代美術を見に行く。大正年間の1927年に建てられたこのビルは中庭を囲む形で回廊状に部屋が作られた、霞ヶ関だと財務省の建物に規模こそ違え似た雰囲気を持っていたなかなかに立派な建物で、アーチが窓とか門とかに使われた意匠が当時のモダンさを今に遺していたりする、お嫁さんがそこから出たとかいうことで記念館にして残しましょうと騒がれた粉屋さんの家に勝るとも劣らない資料的価値を持っているんだけど、老朽化して不良債権化してマンションに建て替えられるってことになってすでに一部工事も始まっている。粉屋さん家は散々っぱら取り上げるのにこっちはまるで取り上げない、これが日本のメディアの勘性って奴です、人気コラムニストも含めて。

 そんな中で、この20年くらいの間に「食糧ビル」で活動をして来た来た現代アートのギャラリーとそこから出たアーティストの人たちが、建物全体を巨大なアートの空間に見立てて、それぞれに作品を飾って思い出の場所の最期を看取ろう、って目的でアートイベント「Emotional Site」を開いてて、今日がその初日だったんで見物に行ったもの。伝説の「佐賀町エキジビット・スペース」には縁がなくって行かなかったけど、この何年か「小山登美夫ギャラリー」とかに通った身としていっしょに最期を看取りたかったし、美術館の四角い箱の四方の平たい壁じゃない、間もなく消え失せてしまう空間を使い、その空間が持つ歴史や形なんかも含めてアーティストたちがどんな表現をぶつけてくるのか興味があった。

 実際にのぞいた「Emotional Site」はとにかく「見ておけでないと後悔するぞ」の一言。これまでは事務所とか入ってて歩けなかった場所にも自在に出入り可能で、階段脇の倉庫とか地下室の奥まで展示場所に使われているから、当時の建築がどんなだったかを実地で見聞できる。屋上にだって上がれるんだからこれはもう高いところ好きにはたまらない。前に旧国鉄のビルが取り壊される前に行って中を歩いて屋上にも上がった、あの時以上のわくわく感が得られるはず。アートには興味のない人でも建築に関心があるならとりあえずは見ておくべき、でしょー。アートな人なら参加メンバーの豪華ぶりに瞠目。入って最初にのぞく地下室には、あの森村泰昌さんがレンブラントのシリーズとも、女優のシリーズとも違った面を持った作品を展示していて(森村さんのあの顔が出てないんだよ)、それが暗い地下室だからこその作品になっていてのっけから「Emotional Site」のエモーショナルな空間ぶりを見せつけられる。

 ぐるりと部屋を回っていけば深淵と静寂が場にピッタリな杉本博司さんの写真があり、崩壊のビジョンが浮かぶ戸谷成雄さんの作品があり、といった具合に今の現代アートを代表する人たちの作品がズラリ。若手(といってもすでに人気は国際級)の村上隆さんが懐かしい田宮模型のマークのシリーズとおそらくは「ルイ・ヴィトン」のショーで使われたヴィトンマニアなら垂涎、かもしれないLVマーク入りの銀風船を飾れば奈良美智さんも部屋いっぱいにドローイングを飾り独特な空間を演出していて、作家の記憶の中に入り込んだよーな感覚を起こさせニューロンがばちばちする。いやホントにニューロンばちばちしてたんだよ、理由は行けば分かる。爆発するよー。

 ほかにもヤン・ファーブルがいてポール・マッカーシーがいて森万里子がいて杉戸洋がいてダン・アッシャーがいて中村哲也がいて……って具合にどこもかしこもアートだらけ。なのに例えば「デザインフェスタ」なんかで感じられるよーなキッチュでカラフルな雰囲気がないのは、崩壊していく場に合わせた作品が多かったからなのかそれとも作品を崩壊していく場が包み込んだからなのか。もっとも1人、「小山登美夫ギャラリー」のある場所で壁一面に横に顔の長い人間を描きまくってる三宅信太郎さんは色遣いも派手ならやることも派手。聞くと明日は午後の3時くらいから中庭で大パフォーマンスを繰り広げるそーで、「GEI−SAI2」で見た「スター・ウォーズ漫才」的なキッチュでポップな”芸”が、滅び行く空間の魂を慰撫し逆に盛り上げて、ここを起点に次の空間へと広がっていく人の営みと、現代アートの進化を祝うことになれば面白いし楽しいかも。「日米野球」が終わったら寄ろうかな。雨降らないといいな。イベントは24日まで。最終日も行きたいな。


【11月15日】 何でまたこんなに著作権縛り版権固めを乗り越えた刊行物が山と集まるんだろーかと某教授も興味津々な夏と冬の祭りが行われる殿堂で、著作権版権を商売にしましょうそれがこれからの企業の生きる道です的なイベントも開かれるこの状況こそが案外に、見て見ぬふりをしつつお互いにメリットを分け合う美徳的曖昧さの現れだったりするのかな、とか想いつつ「東京ビッグサイト」で開かれた「ライセシングアジア2002」って展示会を見物する。いきなり長蛇の列でそれも女性がいっぱいで何かと想ったら実りの秋がどうとかゆー物産展で、金気も良いけど食い気が勝るこれは人間の本能を現しているよーで勉強になりました。

 去年は「東京ドーム」脇のホールで開かれていた展示会だったけど今年はちょい、規模も大きくなったみたいで主催者側の頑張りに加えてライセンスに興味のある会社ライセンスで商売したい会社のじわじわと増えて来ていることが伺える。中にはノベルティ用だかのブラジャーの会社もあって首をひねったけれど、それ以外だと例えばゲームの会社なんかが、いかにもゲームゲームしたものじゃない一般受けしそーなファンシーさを持ったキャラクターを開発してはゲームに使ったり、グッズ向けにライセンスしよーって意識で出展していて、それほどまでに本業が行き詰まっているのかは別にして、新しい道に取り組む意欲が感じられた。当たる保証はまるでないけど。キャラクターってそーゆーものだから。

 見ていて思ったのは飽きずに長くやればそのうちに何とかなる、かもしれないってことで、挙げるなら「グッディベア」って小さい熊をモチーフにしたキャラクターなんてえっと3年くらいだろーか、それくらい前から日本で広めよーと取り組んできた会社があって、ここに来てちょっとづつだけど認知・浸透して来たみたいで最近だと大和生命のキャラクターなんかに採用されたとか。作ったダグラス・テンネーベルさんは「クレイマン・クレイマン」で有名ではあったけど、こっちの方とそれから最近では向こうでクリーチャーが出てくるマンガなんかで一段を名前が知られるよーになったみたいで、あと数年頑張れば多方面での話題から火がつくこともありそー。やっぱり保証はないけれど。

 「ギャラクシーエンジェル」を毎週日曜日にテレビの前で正座して始まる30分前から待ってる人にはすでにお馴染みとなりつつある箱形ペンギンの「ペコラ」ってのも遡れば3年とか4年とか前からミルキーカートゥーンがずっと作り続けて来たキャラクターで、最初は「ポンキッキーズ」の中のちびちびアニメから始めたみたいでその当時、取材にいってキャラクターライセンス展開したいんだってことで作ったマルカワのフーセンガムをもらった記憶があるけれど、それからも地道に世界でセールスをかけたり本を出したりして来た成果が、国内外での認知になって現れて来てる。フーセンガムはそーいえばどこに行ったんだろ、地層の下の方に埋もれているのは確かなんだけど。

 裏ペコラ的な雰囲気の「グレゴリーホラーショー」ってのもあったけど、似たテイストで今度は子どもが対象のものを今作ってて、あと新幹線とか電車がモチーフになった作品も現在製作中とか。絵本の中に入って世界を探訪するって設定から、出てくるオブジェクトが見た目平面になっているのが特徴。3Dの空間でペラペラのキャラが動き回って裏返ってって感じは「ミニパト」とか「パラッパラッパー」にも通じるところがあるけれど、華やかな画面と巧みなカメラワークは日本が誇るアニメ制作会社にも負けず劣らず。3Dの自在なところと2Dの馴染むところが合わさったCGアニメのひとつの進化形として関心を集めそー。放映はいつからだろ。

 もともとはキャラクターを売りたかったんだろーけどそこに持ち前の技術を持ってきて別のビジネスにつなげようって意識で取り組んでたのがスイスイって会社の「フェイバリッチ」ってサービス。エリート銀行マンが何を思ったかスイスで作った会社が日本に戻ってウェブ構築やらデザインやらを手がけるよーになったみたいで、最近だと「タイツくん」ってキャラをヒットさせよーとしてるみたい。タイツのおっさん2人が妙なことをしまくってる絵に警句めいたコピーが重なるキャラクター。昔やってた「とんねるず」の「もじもじくん」を思い出したよ。

 「フェイバリッチ」ってのは簡単に言えばホームページ作成・公開ツールのASP提供サービスみたいなもので出てくるページのブランクに必要事項を書きこんでいくだけで、日記でもトピックでもお構いなしに自分の意見を発信できて写真なんかも貼れちゃってリンクも入れられて、そこに誰かから寄せられたコメントもぶらさげられてあと、自分の関心事(フェイバリット)も別にリスト化してぶら下げておけるとか、ってこれ「blog」じゃん。いやいや「blog」がワールドワイドな意見交換を意識しているんだとしたら(違うかもしれない、交換よりもパブリッシュのみに関心のある人とか、形式をこそ重んじる人とかいろいろいるし)この「フェイバリッチ」は閲覧はともかく意見交換は場の荒れるのを防ぐために会員どうしでしかできないよーになっているからあんまり「blog」的ではないのかな。

 もっともそれはあくまでも「フェイバリッチ」内だけのこと。仕組み自体は転用可能なんでそれこそ企業がECサービスにコミュニケーション機能をつけたいってことで、「フェイバリッチ」の仕組みをカスマイズ導入したり、スイスイがASP提供する際に、その辺りの成約はいかようにもできる。商売のネタってのもこの辺に見ているよー。たまたま「フェイバリッチ」では郵便屋さんのブタの「ピギー」がメインキャラになっていて、「ポストペット」よろしくメールの会員向け配送なんかもしれくれるけど、他に転用する際には別のキャラを使いたいって話があれば、専属のイラストレーターさんをかかえたここの強みがさらに発揮されるって寸法。もちろん半年1年で結果が出るほど楽ではないけど耐えて頑張って頂きたいところ。「タイツくん」にもね。

えんげつさっぽー、って感じで呑まれてしまうのかな、ピッチャーは  しかしやっぱりすごかったバリー・ボンズ。日米オールスター野球の第5戦が始まる前に開かれた巨人の松井選手とのホームラン競争は最終的な本数こそ8本対5本(だったっけ)とそう差はないけど飛ぶ打球のすさまじさではボンズはやっぱり大リーガーのそれも頂点に立つ男。「東京ドーム」の右翼最奥にある照明付近にぶつけたと思ったら次ぎは3階席っていうのかな、1番上にある席に打ったその勢いのまんまぶち込む離れ業を見せてくれて、壁がなかったらいったいどこまで飛んだんだろーと仰天させられた。対する松井もファールになった当たりを含めれば柵越えの数はそれほど違わなくなるけれど、ボンズがあまりにも凄すぎて打球の威力がちょっとばかり減殺されて見えてしまうし実際、調子が今ひとつなのか力がないよーな印象を持った。まあ入れればどんな球筋だろーと威力だろーとホームランには代わりがないし、日本人の中ではやっぱり圧倒的だし、調子が戻れば勢いだって戻ると思うから大リーグに行ってもきっと、やっれくれるはずだと信じたい、サインボールも記念に買ったし(にわか巨人ファン)。

 イチローは流石の一言。打席に立った時の居住まいの毅然とした雰囲気は遠目にも伝わる迫力を持っていたし、構えたバットが一閃した直後に放たれるヒットの打球の威力もなかなか。打った2本のヒットはどちらも完璧なヒットでこれが安打製造人の技なのかと感心する。例のバットをピッチャーの方に差し出して袖を引くポーズは何だか「いつもより長めにやっております」って感じがしたけど、いつもあんなものだったっけ。そのポーズをしたときに煌めくフラッシュの多さがかつての「振り子打法」から脱却したメジャーリーガーとしてのイチローのスタイルの定着ぶりを現しているのかも。中村ノリ選手が棒立ちしてバッドを天空につきだしてもイチローほどのフラッシュは煌めかなかったし。試合は貧打で途中寝そーになったけどイチローのヒットで救われた感じ。あとエンゼルスの内野手のデビット・エックスタインがネクストサークルの中でバットをぶんぶんと振り回している姿が闘志満々で目を引いた。守備から戻る時もダッシュで他の誰よりも先にベンチについてしまう元気っぷり。メジャーリーガーのベースボールにかける心意気って奴を見せてもらいました。最終戦にも出るのかな、いや試合終了後に何故か売り出してた最終戦のチケットを金もろくにないのに買ってしまったんで。


【11月14日】 いつの間にか撤退していた「大手町ビル」内のレコードショップに代わってこれまたいつの間にか登場した廃盤系中古レコードとCDの店に目を捕まえられてしばし立ち往生、CDからまずは眺めてビデオの映画ってよりはアニメーションとライブビデオをざざっとチェックして最後にアナログ版の主に日本のポップスと女性アイドルの箱を1枚1枚抜き差ししながらチェックして、心の琴線にひっかかったものだけを選んで購入して数歩あるいてラインアップを思い出して、やっぱり僕は80年代にタマシイのフルサトがあるんだなあ、ってことを強く激しく実感する。あるいは呪縛とっても良いかも。

 のっけから手に取ったのがビデオ「うる星やつら ラブ・ミー・モア」ってんだからその80年代ぶりは押してしるべし、あと趣味の偏りぶりも。内容とかよくは知らないんだけど「ラムのラブソング」から始まって「宇宙は大ヘンだ」「影ふみのワルツ」「I.I.You&I」「星空サイクリング」っていった並びかするとアニメの主題歌のクリップ集か何かのよーな感じがする。「影ふみのワルツ」は映画からだったっけ、だとしたら「恋はブーメラン」が入っていないのは構成を担当した高橋留美子さんの何か気持ちに引っかかるものでもあったのかな。ジャケットが高橋さん絵のラムちゃんで初期のどちらかといえば拙いころでもなく末期の可愛く丸くなってしまった頃でもない微妙にツリ目で顔ふっくら目で線の細い感じが大人っぽくってちょっと好き。真夜中に見て10代の夢とか希望とかあった時代を想い出して泣こう。そして「へんとへんをくっつけて」と唄おう。五月蝿いって怒鳴られるまで。

 次に拾ったのが映画のサウンドトラックってことになる「BIg Wave」のアナログ盤。だけど一般的には山下達郎さんの手がけたサーフィン音楽集ってことで知られて、「夏だ海だ達郎だ」って「フォー・ユー」とか出した前後かわ言われていた本人的には今一つなキャッチフレーズを、お仕事だったのか「ビーチボーイズ」マニアとして実は喜んでかまるで体現するかのよーにして作ったアルバムで、80年代の真ん中あたりに大学に入ってアルバイトして(奨学金を使い込んで)レコードプレーヤーを買って真っ先に集めた達郎さんのアルバムを揃えた時に、これはほとんど新譜に近い時期に購入したって記憶がある。ちなみに真っ先に買った達郎さんのアルバムは最初の「オン・ザ・ストリート・コーナー」。高校の時にまだレコードプレーヤーを持ってなかったのに買ったんだから、当時からよっぽど達郎さんが好きだったんだろー。まさか髪の毛で追い越すとは想わなかったけど。

 だから今も実家に行けば「BIg Wave」もどこかにしまってあるんだけど、出たかどーか記憶にないCDでは持ってなくって、だからこっちにも持って来てなくって、最近になってRCA時代の古いCDとかがリマスターされたのを契機にこれは「MOON」だけど聞き直してみたいなあ、なんて探したらCDなんてどこにも売ってない。そんな折も折に開かれていた廃盤フェアで箱から出して手前に飾ってあるのを見てしまったらもう手を出さない訳にはいかない。幸いにして一昨年あたりだったっけ、妙に「少女隊」のアルバムが聞きたくなって(「十兵衛ちゃん」の流れか)アナログ盤を探した時にいっしょにアナログプレーヤーも買ってあったんで、聴ける環境だけは整っていたりする。これが「備えあれば憂いなし」って奴か(違います)。

 さらにしばらく前から妙に思い出されて仕方がなかったスティーヴ・ウィンウッドってシンガーの「青空のヴァレリー」って曲が入っているアナログ盤のアルバム「トーキング・バック・トゥ・ザ・ナイト」までもが、箱の中じゃなく箱の手前に「BIg Wave」と同様に見本よろしくディスプレーされているのを見つけてしまって、もしかするとここん家の店員は僕の気持ちを見透かしているかそれとも80年代育ちだったりするのかと、ついつい顔を見てしまったけど20代っぽかったから違うみたい。もちろんただの偶然なんだろーけれど、重なり方にタイミングの余りの良さに得体の知れない輩による”運命”めいたものを感じてしまう。見た後に飛び散った意識が見る前だったとゆー記憶に捏造されたって可能性はこの場合ない。だって先にCDでスティーヴ・ウィンウッドを探してみたんだから。でもってそこにはなかったんだから。偶然、ってのは恐ろしいなあ。

 帰って聞いた「トーキング・バック・トゥ・ザ・ナイト」はやっぱり名盤で、オルガンのよーな感じすらするキーボードのサウンドがバックに流れる中を時に高らかに、時に朗々と歌い上げるスティーヴ・ウィンウッドの声とそれから曲の良さに浸り込む。「ベストヒットUSA」のお陰で80年代のとくに前半から中盤は毎週のよーにアメリカのヒットチャートの情報が耳に入って曲も結構聴いていたんだけど、数あった中でもこの「青空のヴァレリー」としれからジョー・ジャクソンの「ステッピン・アウト」って曲が気持ちに妙にフィットして、挙げれば上位に来てしまう。いずれも曲の良さテンポの良さ歌声の良さってのが理由なのかなあ。グループだと「ポリス」に「ジェネシス」に「クイーン」辺りで、まるでつながりが分からない。探ればこのあたりから音楽的な趣味の向こうにある心理的な思考も掴めるのかもしれないなあ。ちなみにスティングとフィル・コリンズとジョー・ジャクソンは頭薄いです。それだったのか? 自分の未来をそこに見ていたのか?

 仕事て高田の馬場に寄ったついでに折角だからと久々に「侍フィギュア」でマニアには深く知られた「アルフレックス」のショールームを見物。飾ってはなかったけど知ってる社員の人に間もなく発売とゆー「怪奇大作戦」で牧史郎を演じた岸田森さんのフィギュアとそして、エビぞりの姿でゴロゴロと転がっていくらしー「キングアラジン」のフィギュアを見せてもらって、相変わらずの作り込みの良さに感心する。とりわけ「キングアラジン」は、「究極超人あーる」で新歓コンパの芸としてR・田中一郎が見せよーとした芸も再現可能な背中の作りになっているらしく、仏像も付いててお買い得感すら漂っている関係から早くも相当の予約が入っているとか。急がねば。岸田さんは「傷だらけの天使」の時の軟弱な僕って感じではなく昔の不気味さを悶々とさせている表情がファンには好評らしい。これも欲しい。欲しい。欲しい。けどお金がない。

 さらには遂にとゆーか1億時代劇ファンの希望に答えてとゆーか、「新撰組3人衆」も年末には登場する予定とかで、こちらもなかなな良品そーで心惹かれる。財布は空。困ったなあ。それにしても相変わらずのすさまじいばかりのこだわり様。「新撰組血煙録」などの新撰組もので彼こそがナンバーワンの土方歳三役者だと言われている栗塚旭さんを起用し、栗塚さんが役者として尊敬している三船敏郎さんを近藤勇の役に据える気の配り方には涙が出る。御本人も喜ぶしファンもきっと喜んでいるだろー。実は個人的には栗塚さんがどれくらいの土方ぶりかを知らないんだけど、聞くところではあの実相寺昭雄監督なんかも栗塚土方に強い思いを抱いているらしく、それほどまでの人だったらと機会があれば「新撰組血風録」なり「燃えよ剣」を見てみたくなる。今はそれほど目立ってないけど(京都で喫茶店を開いているという話もあり、ホントか?)、フィギュアの発売を機にメディアとかに出て来てくれて映像なんかも流れてくれると、その凄さが分かって嬉しいかも。フィギュアも売れるし。

 京本政樹さんの沖田総司はいろいろとあるだろーし、時代によって沖田役者ってものへの思い入れも変わるだろーから(僕だと草刈正雄かなあ)異論もいろいろあるだろーけど、本人のキャラはともかく顔立ち佇まいの美しさだけなら美剣士・沖田をはめて遜色はない。何より京本さん自身の思い入れも並々ならぬものがあったらしく、その熱意が作品にどんな形で反映されているのかを見るのも楽しみ。しかし3つ揃えれば税を入れて5万円弱。岸田森さんキングアラジンを加えて8万ちょい。僕のボーナスは歳を越しません(出るだけマシって声もあるけど)。


【11月13日】 「週刊少年マガジン」連載の小林尽さん「スクールランブル」はますます快調、優等生の少年を想う熱血妄想系女の子の話とその女の子を想うワイルド系不良の話が前編後編みたく続く体裁がちょっと変わって今回は7ページ1話の中に融合。少年といっしょに自転車通学できたらと女の子が考え女の子と自転車通学したいとバイクを降りた不良が出会うか出会わないかしたうちに起こる驚異のデッドヒートに7ページしかな見開きの2ページを使ってしまう気前の良さに惚れる。1ページ2コマであわせてたった4コマからあふれ出るパワーとスピードには誰も絶対に参るはず、コンビニで見かけたらそのページだけでも開いてみよー、きっと風を感じるはずだ。しかし見えねーな天満ちゃんの白。あの大暮維人さんの先週から始まった新連載も今週はほとんど白なしだし。何かあったんだろーか、白Gメンに踏み込まれたとか音羽一帯に白禁止警報が発令されたとかいったこととか。

 「blogが一般的になったときに、『mesh抜きでは日本におけるblog草創期を語れない』と言われるようなサイトにしていきたいですね」との言葉で文字通りに「blog史に残る」人になってしまったけど、過去に遡ってページを読んでたら何のことはない11月5日の所で「個人の作成するホームページにおいてプロフィールと日記と掲示板が三大コンテンツと言えるでしょう」と言及していたことを今頃になって発見、騒動の初期に割にサルベージしたつもりだったのにどうして今まで見つけられなかったんだろう、という悔恨はともかくそうしたことを事前に”認識”していた上でなお、「草創期は語れない」と言い切ったことに、既存の三大コンテンツなんかとは「blog」は違うんだ、ってな感じの強い自意識と大きな期待の現れが伺える。その意識と期待が何で具体的に「blog」上でどう実践されているのかは日々の戯れ言が専門な僕にはちょっと分からないけど。

 例えば日付とかいった概念なんかから解放されて 1940年が1956年で1980年なんだとポストした年月日も含めて操って見せ、最後には元に戻してすべてなかったことにしてしまうことも、流れる時間を超越できない言論への”かれーなるちょーせん”なのかもしれない。過去に放った言説に縛られて時宜に合った正しい選択ができなくなるような羽目に陥る事態から脱却して、言説の海を自在に渡っていくことでより時代にマッチした言論活動が行えるのかもしれない。荒木経惟さんが日付入り写真なんかでよくやるよーに、コンパクトカメラの日付を適当に変えて撮った写真をその日付に並べ直して生まれる「偽」の時間から漂い出す、人生の虚構性みたいなものを表現することだって出来るのかもしれない。と、思えばこれでなかなかな策士、厳密性こそが基盤のジャーナリズムとも洞察性が求められるアカデミズムとも自在性が鍵のアートとも、違うとも言えるしそれぞれに重なっているとも言える、何か新しいものを「blog」とやらで体言して見せたってことになる。さすがは最高学府、気が付かなかったよ。なので彼らの認め進める「blog」とやらには僕は手を出せそうもありません。高踏に軽快に世界を蹂躙していってやって下さい。

 ってなことは脇において”いまblogとよばれている何か”がもたらすかもしれない事柄については期待したいところも結構あって、めんどくさがらずに手軽にさくさくと言葉をネット上へと送り出せてコメントももらえてリンクとかもはれて写真だって載せられちゃうツールがあるんだったら言葉や意見をそこに載せていろいろ言ってみようって人がいっぱい増えて、繋がって連帯して大きなうねりになっていくって可能性は可能性として存在する。壁はいっぱいあるし使い手の頑張りも相当に必要ではあるけれど、それでもいちいちタグを手打ちして(手打ちしてます)ダイアルアップ接続をしてFTPして載ってから体裁やら誤字脱字やらを見つけて慌てて手直しをして再アップするウザさに比べれば壁が1枚も2枚なくなってる。「さるさる日記」に有名人がいっぱい出てきて勝手自在に紙とかテレビじゃ言えないこと、言い切れないことを言うようになったことがもっと、いろいろな付加価値をもって行えるようになる。カッコ良いとか悪いとか、ハメられてるとかナメられてるとかいった本質とは無関係な部分は気にせずやりたい人はやってみてはいかがでしょう。日付だって自在だから後でアリバイ作りにだって使えるし。

 オールカラーの写真集ったらペラッペラでも2000円とか3000円とかするのが普通なのに、「青山ブックセンター本店」で拾った松村昭宏さんって人の「タマシイのゆくえ」(第三書館)は60ページ以上もあってそれが「6色刷」って結構なものらしー印刷技術が使われているにも関わらず1200円って超お値打ちになっていて、どーゆー経緯で出来上がったものなのか知りたくなる。これで中身が花とか山とかだったら逆に高すぎるかもしれないけれど、コインロッカーの前で携帯を使って電話をかける女の子の写真を表紙に渋谷とか、町田とかいった感じの町中での女子高生とかのポートレートやスナップと、海岸での水着姿の女の子や男の子たちのポートレートとほかに郊外の住宅地とかラブホテルの前とかにありそーな看板代わりの「自由の女神」とかを撮った今風も今風のコンポラ写真。時々空とかも混じってて、喧騒と静謐とが織りなす現代の社会の諸相を見る人に感じさせてくれる。

 解説が今の写真の動向にとても詳しい飯沢耕太郎さんてのも購入した理由のひとつで、言ってることはとりたてて目新しくはないんだけど今をときめく”女の子写真”のほとんどを早くからプッシュしてきた人ならではの選択眼を信じるならば、この写真集も確かに今のギラギラとはしていない、エネルギーの燃えず漂う空気を表現しているってことになるのかも。ヘキサクロームによる6色印刷のどれほど凄いかは分からないけど、どこかくすんだ感じがするにも関わらず色だけは赤も青も黄色もくっきり、ってがべっとりと出ている感じが目にも生々しい。女子高生かもしかすると女子中学生かもしれない水着姿の生々しさはグラビアアイドルの写真集では絶対に感じられないもので、見ていてちょっぴり興奮させられる。逆に人の誰もいない街並みとか空とか郊外の緑は静謐で怜悧。アラーキーの撮る空ともホンマタカシの街とも違った重さがある。ヌードは1枚もないけど水着とかセーラー服とか見られて1200円なら手元に置いておいて無駄ではない、と思うけどパンピーの水着姿って趣味が人によっていろいろあるから、立ち読めて気に入った人は買おう。僕は趣味が全方位なんで全然オッケー、保存用にもう1冊くらい欲しいかも。


【11月12日】 なおも「花とゆめコミックス」読み。及川七生さんって人の「月夜烏草紙」(白泉社、390円)は吸血鬼を倒すアーカードならぬ心を闇に染めた人間の精気を食らう妖怪変化とその連れの女の子と知り合ってしまった少女が、行く先々で人の心の闇の恐ろしさが絡んだ事件に遭い、戸惑いながらも少しづつ世の中のことを知って行くってストーリー。設定自体はよくある話で文明開化の並と江戸の闇とが半々くらいに解け合った明治30年辺りが舞台ってところは何だか小野不由美さんの「東京異聞」みたい。ただ「月夜烏草紙」はマンガだけあって悲劇的今日不適な展開にはならず最後に救いを描く内容が、端麗で繊細な絵柄とあいまって読むと心清らかな感じにさせられる。続きがあればずっと読んでいきたい作品。妖怪少女も団子は食うのか。

 だったら最初から付けて売れば良かったのに「Xbox」。クリスマス前ってこともあってこの辺りで一気にかっぱぎたいのかマイクロソフトが家庭用ゲーム機の「Xbox」に本当は別売りのDVD再生キットを付けたバージョンを作って値段は同じ24800円で販売を始めたとか。発売当日に当時の定価で買って別に3800円出してDVD再生キットも買った割にはこれまでDVDなんて3回も再生していない、すでに専用機が用意された環境にあった人間にとってはDVD再生キットがあろーとなかろーと関係ないんだけれど、未だに「プレイステーション2」すら持っていない人間にとってゲームも出来てDVDも見られる「Xbox」が専用機と並べた場合に有力な選択肢になる可能性はゼロじゃない。問題はできるゲームが「PS2」に比べて圧倒的に少ないことだけど、その辺りで天下無双で成るセガが「パンツァードラクーン」をぶっ込み、テクモが「デッド・オア・アライブ」のビーチバレーを叩き込めば、見てそのグラフィックの凄さに引かれつつDVDも見られると、購入に走る人もちょっとくらいは出て来そー。問題はなあ、やっぱりすでに「PS2」を持っていなくっDVDプレーヤーも持っていない人でゲームに関心があってDVDも見てみたい人の決して体勢ではないってことか。やっぱり最初からつけておくべきだったかな。

 「blog」はもしかすると「スターバックスコーヒー」かもしれなくって、アメリカからやって来たちょっとお洒落で雰囲気も良くってけれどもレストランみたく気取ってないって点が若い人とか流行の先っぽを行く人に受けて、お父さん御用達だった「ドトール」とか「プロント」とか「ヴェローチェ」を駆逐する勢いで広がって、何ちゃらかんちゃらってメニューの作法が面倒なのと禁煙ってのが古くからの単純に時間つぶしにコーヒーを飲んで休みたい人には不評だったにも関わらず、マスコミなんかがさんざんっぱら持ち上げた結果、隣り合った3つのビルのそれぞれに店ができるくらいにまで広がってしまったところが、アメリカから来てエッジな人が持ち上げてメディアが権威づけて云々って「blog」の行く末に重なるんだけど、僕にはやっぱり「コメダ珈琲店」のフォークな感じが合ってるな、って感じで毎日たとえ話を妄想して「blog」イジりを続けて遊ぼうとか思ったものの、1週間も経たっていないにも関わらず既に話題が陳腐化している風もあるんで止めにする。これがネットのドッグイヤーって奴か。関係ないけど1940年10月23日に「blog」は生まれたの? なんだだったら草創期だ白亜紀だ三畳紀だ三葉虫だ。62年よくやった。(とか行ってたら今度は1956年10月23日に。ちょっと育った)

 「blog」が松浦亜弥だとするウェブ日記とかニュース系とかってな旧体制は「モーニング娘。」で見た目の良さとおそれを知らない傍若無人さで一躍トップスターに躍り出た「blog」すなわち松浦は最先端を愛するファンの支持を集めてアイドル史に新しい草創期をもたらすのだ(ハロプロ編)。「blog」が「トゥモローランド」だとすると旧体制は「ビームス」「シップス」だ。(セレクトショップ編)。「blog」が「藤井システム」だとすると旧体制は「四間飛車」か「塚田スペシャル」だ(将棋戦法編)。「blog」が「WWE」だとすると旧体制は「国際プロレス」だ(プロレス団体編)。「blog」は「機動戦士ガンダムSEED」だ(機動戦士ガンダム編)。「blog」は「DELL」だ(パソコン編)。「blog」は「舞城王太郎」だ(講談社ノベルズ編)、ううっつまらない。別に深い意味なくアナロジーにしたらどうなるだろうってのを身の回りにある物から連想してみただけで、想えば想うほどますます気持ちの中で「blog」が俗化していく感じがあって、風邪気味によどんだ頭がちょっとだけ晴れる。「日本SF編」だと「blog」は誰になるんだろ。旧体制はごまんといるのに若くてピチピチとして大流行しそうなメディア受けする新人が……。


【11月11日】 「花とゆめコミックス」日和。イチハって人の「女子妄想症候群」(白泉社、390円)は178センチとか身長のある長身痩躯でボーイッシュな感じの女の子と身長155センチで顔は超絶美形のまるで少女顔とゆーカップルを軸にした両想いなんだけどそれをハッキリさせるには女の子の方が純情過ぎるのか男の子との関係の妄想に悶々として鼻血を吹き出すキャラクターで、なかなかスッキリとはまとまらない中で周囲の男たち女たちがちょっかい出したりやきもきしたりとゆー展開が繰り広げられる。

 超絶グラマーに超絶美脚の女とか出てきて男の子の方にコナをかけたりもするけど実は男の子は顔に似合わないバイオレンスなキャラクターだったりして、美形にドスきかせながら女の子との恋路の成就に頑張る描写とかが結構笑える、あと周囲で悲惨な目にあう同級生たちの惨めな様とか。併録の短編「バトルフラワー」がまた爆笑もん。幼なじみの美少女に恋人を取られっぱなしの少女に出来た新彼氏。その彼にまたしても美少女の魔手が伸びるって展開の時折見られるギャグっぽい表情が美麗な絵との対比で目立つし面白い。どーして邪魔したのかってゆー理由はもちろんアレなんだけど、ソレも含めて濃くって深くって楽しくって面白い逸品。結末をボかしてシリーズで読みたい気もするなー。

 続いて勝田文さん「あのこにもらった音楽」(白泉社、390円)。死んだ母親の幼なじみが営んでいる旅館にもらわれる形で育った少女の梅子のもとに、母をおいて帰国してしまったというドイツ人の父親がやって来るとゆー話になってさあ大変。旅館のひとり息子でかつて天才と謳われながらもコンクールの前日に手を怪我して今は田舎で音楽の先生をしている蔵ノ介は、子供の頃から見ていた梅子が気にはなっていたけれど、恋人という関係でははっきりとはなかった所に永遠の別離の可能性もわき上がったものだから、いろいろとややこしいことになってしまう。

 って展開が最初の話のエピソードで、以後は元天才だった蔵之介がどうやってピアノを好きになったかとゆー話とか、かつての音楽仲間で今は親子ともどもバイオリニストとして活躍する友人を迎える話とか、コンクールで怪我する原因になった女性と邂逅して逡巡する話とか、もっぱら蔵之介サイドの話が展開されるんだけど、どの話にも共通して徹底して嫌味な人間とか出てこず、かつての友人で今は売れっ子のバイオリニストも嫌味な顔なんだけど蔵之介のことを買ってて見守っているキャラクターに描かれていたりして、読んでいて心がホクホクとしてくる。耽美じゃないしシブヤっぽい感じでもない絵柄もホクホクとした話に実にピッタリ。最先端の恋愛とか描いている訳じゃないから批評的に有名になる話じゃないけれど、読めば万人が気持ち良くなれる作品であることに間違いはない。表紙の絵はちょっと記号的過ぎ、中はもっと可愛いよ。

 もしかすると「blog」というのは「柔道」なのかもしれない。過去10年のインターネットの歴史の中で生まれてはそれぞれに発展して来たウェブ日記やニュース系やテキスト系や巨大掲示板といった、さまざまな個人による情報発信可能なインターネットのサイトを「柔術」のように過去のものへと押し退けようとしているのかもしれない。「blog」には「型式」を重んじるような所がある。それは礼儀と作法が重んじられている「柔道」に重なる。さまざまな流派はあっても「敵を倒す」という目的をおおむね保持していた「柔術」を越え、共通のルールと理解のもとに発展を遂げていった「柔道」のように「blog」は映る。

 「blog」はかようなまでに「形式」を重んじている。「身元を明かさなくてもコメントできる今のBlogのシステムにもかかわらず、ほとんど誰もコメントしてこないというのは、確かに問題だと思います」 と言うけれど、別にそこにコメントしなくてもどこからどういうリンクを張られて、そこでどんな言及がされているかは当人には多分わかっているだろう。だから逆リンクを張って言及を引きコメントを付け加える作業を重ねていく手間を主宰者がかければ、結果としてコメントのログが溜まった状態にはできる。けれどもそれは「blog的」ではないらしい。トピックの記述を読んだ人が用意されたツールを使ってそこにコメントを書いてそれが同一ページなり近隣なりに溜まっていく「形式」でないと「blog」とは言わないらしい。

 その「形式」が目指している「目的」はとても素晴らしい。個人の意見に対して多様な意見が重なってひとつの言論を形成し、うねりとなって既存のメディアの既存の言論をおびやかす姿はとても美しい。「blog」はだから「目的」としてそうした言論の多様性を実現しようとする方向性を持っていて、実現のために必要な「形式」としてあのスタイルへと進化・発展していったものだとずっと思っていた。でも違うらしい。まず「形式」があり、その上でのみ「目的」は実現されるものらしい。だから「形式」のないものを嫌う。無視する。個人による自由な言論の実現という、成し得た結果はともかくとしておおむね似た目的を持っていたウェブ日記やニュース系やテキスト系や巨大掲示板といったものを、「形式」がないと言って「blog」は認めない。「blog」を前向きに推進している一派の言葉を読むとどうにもそんな印象を持ってしまう。

 「形式」が先に立っても「目的」すなわち既成の言論に風穴を開けるという使命なりが実現しているのだったらそれでもまだ良い。柔道は「形式」は重んじるけれどもそれは「目的」に奉仕している。体を鍛え精神を鍛錬して最強を目指し敵を制するという「柔術」をより発展させた「目的」を成し遂げ、世界へと広がった。けれども「blog」もそうなっていくのかという懐疑が一方に浮かぶ。発言をする。肯定否定を含めてコメントが付く。どう返すのかと思ったら「いろんな意見があっていいのだと思います」としか答えない。気に入らないテレビ番組があって、電話して、「貴重な意見を承りました」と答えるテレビ局とプロセスはともかく実現し得ていることにおいて(というか何も実現されてないことにおいて)大差がない。「私もblog、といってもこのMTやBLOGGERのようなアプリの持つ可能性などを探っている段階です」という言葉からのぞくのも、「アプリ」すなわち「形式」を支えるシステムへの傾注のような気がしてならない。

 「柔道」の講道館が警視庁にも認められて発展していったように、「blog」の講道館「blog」にとっての警視庁の後押しを受け、「blog」における嘉納治五郎とその弟子たちによって高められ広く世界に流布されてオリンピックの種目となるくらいに発展するのだろう。そして草創期に巻きおこった数々の受難も殉教の物語として「blog史に残る」ことになるのだろう。けれども。「blog」の「形式」をのみ重んじる傾向、まずシステムありきの傾向がもしも本当のことだとしたら、数ある流派の良い部分を選んで「目的」のために洗練させた「柔道」を「blog」になぞらえては「柔道」に対して非礼にあたる。嘉納治五郎の同窓の師範・学徒によって推進されている「blog」の運動は「柔道」たりえるのか。世界に開かれ愛好家を数多く生み鍛錬と、修養の目的を実現した「柔道」のようにメディアに風穴を開けるのか。そうでないのだとしたら、「型式」こそが「blog」なのだとしたら僕もやはり「I can’t BLOG」と言おう。そしてグレーシー柔術の先兵となって「blog」の覇権に挑もう。でもって「blog」界のボブ・サップにコテンパンにされるんだ。


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