縮刷版2002年10月下旬号


【10月31日】 下からアオってるんだから当然、見せるべきであるにも関わらず高見ちゃんはミニスカートから脚しか伸びていなくって白は見えず、蘭堂さんも下にハミ出たバストの生ラインを見せるよーなショートレングスのタンクトップ系の服じゃなく、心に寂しさを募らせながら晩秋の夜、「ヤングキングアワーズ」12月号の表紙に溜息を付く。あともーちょっとなのになあ。自制したのかなあ。しなければ2万部は数字が上がったかもしれないのになー。規制されて隔離あれて逆に下がるって可能性もあるけれど。

 表紙はそれなりな「ジオブリーダーズ」、なかばインターミッション的ながらもフラグ立てには重要だったみたいな本編ラストのベッド上でセンチメントな秋に悶える成沢の表情格好にドキドキ。官給品といった以上は携帯が鳴るのを待っているとは思えないからかけようかどーしよーかと迷って悶々としているところだったりするのかな。脚の裏にストラップが回った大昔のスキーパンツのよーなスパッツにピチピチなタートルのセーターをあわせた姿はモダンともシックとも違う渋さが漂っているけど、こーゆー時流から一線を画すよーなスタイルが好みのかな成沢嬢、だとすると田波くんデートとか大変だぞ、笠寺観音は並んで歩けても「名古屋パルコ」はちょっとハズいぞ。八事のファションビルの「ステージ」は別に平気か、ってまだあるのか「ステージ」は。

 ITベンチャーの勇者ががまたひとり戦場から消滅。タレントさんとかミュージシャンとか山と使ってテレビとかでCMをガンガン流す一方で、創業者の人がそれなりなマスクをあちらこちらのメディアで披露しては一般からアナリストからジャーナリストまで幅広い層の会社への関心を引き出して、一躍ITなんとかの寵児として祭り上げられた感のあったライブドアが31日に民事再生手続を申請。っても立て直すんじゃなく事業の主力のプロバイダー事業を同じITベンチャーながらもそれなりにこじっかりと経営しながらジワジワと海外に手を広げて来ているオン・ザ・エッヂに譲渡するってスキームで、ライブドアって会社はこのまま雲散霧消していってしまう可能性が見え隠れしている。

 オン・ザ・エッヂだってひっくくれば同じITベンチャーの旗手ってゆーか、すでに陳腐化して死語となった言葉でいうなら”びっとばれえ”な感じの会社のお仲間なんだけど、片やわずか数年を経ずして崩壊の憂き目を見、こなたアスキー・イーシーとか買ったりバンダイネットワークスから仕事を受けたりコンサルティング業務を始めたりってな感じにジワジワと業容を広げて来てたりする、この違いは何だっていえばやっぱり財布の紐の固さってことになるみたい。ポッと出のプロバイダーが会員を獲得するにはなりふり構わず大宣伝をしなくちゃいけなかったって言い分も分からないでもないし、だからこそ150万人だなんて会員数を獲得できたんだろーけれど、それを土台に何かをしていく上で財布の中身の計算をミスったってゆーか気持ちを大きくし過ぎたってゆーか、とにかく出すものを出しすぎて気が付くと財布はスッカラカン、にっちもさっちもいかなくなってしまった模様。

 思い出すのは”びっとばれえ”なんて騒がれる以前に華々しく登場しては行き詰まって消えてしまった、と思ったらどっこい自身の失敗を本にして語って事業家としてではないけれどとりあえずの復活を遂げたハイパーネットの板倉雄一郎さん。本はバカ売れしてテレビドラマにまでなって今じゃあ当人も負け組代表みたいな形でテレビに出ているくらいで、失敗もあながち悪いことばかりではないみたい。なので前刀さんも本を書けば見栄えの良さと失敗の華々しさなんかで板倉さんを超える負け組のスタア、とは名ばかりの電波芸者経済班員としてテレビとかで引っ張りだこになりそー。板倉さんに再びのピンチ? あとにも大物とかどんどん続いて来そーだし、水天宮あたりにいたりする。

 エド・マクベインを見に行ったら舞台にいたのはろーどくろーどくと吠える北野勇作さんに坂田明ばりなサックスでガナる田中啓文さんでいったい何事が起こっているのかと、思った人はそんあにはおらずやっぱり北野さんは妙で田中さんも妙で妙だからこそあんなに妙な作品が書けるんだろー妙って素晴らしいと改めて認識しただろー「ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション」刊行記念シンポジウム。急場をしのいだ割には「Jコレクション」から出している作家さんの恩田陸さんをのぞくメンバーがズラリと勢揃いして壇上に並ぶとゆー21世紀の日本SF史に残る場面にまみえて今まさにここに21世紀SFの可能性が集まっているんだと感動する一方で、皆さまにおかれましては急な呼びかけだったにも関わらず時間に融通を利かせられたものだなー、それほどまでにSFってレーベルに強い思いを寄せているんだなーと感嘆する。だってトークはともかく演劇までちゃんと練習して披露してしまうんだから。

 割にそれなりな広さの会場が無料とはいえ「SF」で埋まるんだろーかとゆー自虐的な心配も始まる前は持っていたけど始まってみたらこれがまずまずの入りで、一部に背広の集団とかもいたけど目立つほどじゃなく、文学好きなおじいさんとかの姿もあって日本にSFを読んでいる人のまだまだいることを目で確認できただけでも、貴重なイベントだったと言えそー。ただし後で早川書房の社長の人が編集の人と話てて気づいたよーに皆さん相当な年齢だったことがひとつあって、たぶん10年前に同じイベントを開いても同じ人が来ていて10年後に開いても同じ人がそのまま繰り上がって同窓会を開きそーな所にちょっと、いろいろと考えるべき課題がありそー。並んだパネリストの人が高野史緒さんをのぞいていいおっさんの僕より年上だった所にもジャンルのハイエイジ化が進んでいるのが見てとれる。

 人間の経験とか積み重ねた思考が盛り込まれてこそお話に厚みと説得力が出るんだと考えれば、ハイエイジな人たちが書いて読んでいる状況がそのまま悪いことではないけれど、2050年に同じイベントを開いて90歳代のパネリストを80歳代の観客だったりするのは傍目にも怪奇現象なんで、ここは今再びの「ハヤカワHi」じゃないけど10歳代の読者がついていそーな20歳代の作家を引っ張って若返りを図っていただきたいところ。でも2070年にはやっぱり90歳代の本を80歳代が読んでいたりする可能性があるからなー。ハヤカワはSF作家にお願いしてSF読者が死なない薬を作ってもらうしか生き残る道がないのかも。無理だって。


【10月30日】 凄い人だと「めぐりくるはる」(ワニマガジン社、505円)を読んだ辺りで遅ればせながら感じていたけど改めて読んだ最新刊の「華札」(ワニマガジン、1500円)でOKAMAさんの当代に類を見ない実力を突きつけられて身悶える。時代はたぶん平安あたり、桐姫という死んだ許嫁が忘れられず捉えた狐を許嫁と同じ姿に化けさせては交わおうとした、いずなという貴族のエピソードから起こした筆が過去へと戻って桐姫を慕っていた狐のエピソードへと続き、その狐が桐姫を慕うあまりにとてつもないことをしでかすものの、当の桐姫もまたとてつもないことをしでかしてしまってもう大変。戻っていずなと交わったことでいずなを慕うようになった狐といずなが姫の仇を討とうとさすらう物語となって、挙げ句にいずなと桐姫が過去にしでかしたとんでもないことの結果が立ち現れて来る。

 何層にも重なった構成の複雑さもさりながら、強く相手を想う自分の気持ちにこだわるあまりに相手の想いに気づかず相手もそして自分をも不幸へと追い込んでいってしまう、生き物どものあさましくも激しい恋慕の情のほとばしる様に圧倒され感嘆させられる。加えて何より漫画家としての絵の巧さ、描写のエロさ。スレンダーでコケティッシュな表情を持った美少女たちが胸も下半身もあらわに男たちと交わる姿の何と淫靡で可憐なことか。それだけでも楽しめること請け負いなところにもって来て、さっきも言った多層的で多感なドラマが必然としてついて来るところに、以前からエロを目的化していなかったOKAMAさんならではの創作態度の筋の通りぶりが伺え、オールカラーで大判なのにどのページをとっても画集のよーなハイクオリティーさを見せるくらいにまで精進した絵の巧みさが感じられる。まさに傑作。マスターピース。巧くなった挙げ句に省略に走ってしまう漫画家の人が少なくないなかで、背景までしっかりと描き込んでは鮮やかな世界を見せてくれている所に心からの賛辞を贈ろう。今もまだそうなのかは知らないけれど、多分そうだしこれからもきっとそうであってくれるでしょー。

 彼が「アトムの子」なら僕らは彼の子「達郎の子」。そのサウンドに乗ってその声が流れて来ただけでもう心が踊り出す。ってことでふらり立ち寄ったレコードも売ってる本屋で聞こえてきた山下達郎さんのの声にそうだ今日が発売日だったってことを直観し、財布に残っていたなけなしの金を引っぱり出して山下さんのシングルカップリング曲とかアルバム未収録曲を集めたアルバム「REARITIES」を買って帰って聞きまくる。いやもう達郎、どこまでも達郎、冒頭の今はなつかしい「アメリカズ・カップ」の番組でテーマソングとして流れていた「BLOW」に始まってこれもその昔に鈴木雅之さんのアルバムを買って聞いた中に入っていたのをセルフカバーした「MISTY MAUVE」の鈴木さん的厚みとはまた違った山下さん的鋭さに感嘆し、朝のワイドショーのエンディング曲としてチラチラと聞いていたもののアルバムには入らずガッカリしていた「モーニング・シャイン」のアップテンポな歌声にユニゾンしながらその楽曲の流れの良さ、歌声の昔とまるで変わらない粒立ちの良さに感動する。達郎未だ健在なり。

 懐かしいどころか懐かしすぎる「スプリンクラー」はロングバージョンが収録されていてそーいや昔マキシシングルなんてもんじゃなく12インチシングルアナログレコードなんてものがあったなー、なんてことを思い出す。このロングバージョンが12インチシングルで出たかどーかは覚えてないけど。83年の楽曲ってことはつまり20年も前に出来たってことだけど、大正琴めいたキンキンキンキンって冒頭の音の使われ方の80年代っぽさをのぞけば曲も歌声も未だに通用しそーな完成度、って想うのは「達の子」だったりするからなのかもしれないけれど、子の欲目をさておいてもトータルとして素晴らしい完成度を持った曲が、アルバムにも入らずに半ば埋もれかかっていたってことにそれだけアルバムの完成度が高かったんだってことを思い知る。出しまくったシングルを寄せ集めてアルバムを仕立て上げては売れてオッケーなアーティストの多すぎる中で何とゆーストイシズム。だからこそ30年近くも超一線を走り続けて来れたしこれからも走り続けていくんだろー。ついていくよ達郎、ともに髪の消えるまで(しかし抜くとは20年前には思わなかったよ)。

 何故かもう何年も買い続けている(「コータローまかりとおる」と「はじめの一歩」くらいしか読み始めた当時の漫画が残っていないくらいの年月)「少年マガジン」で先週から新しく始まった小林尽さんって人のショートコミック「スクールランブル」に妙に好感。ぼーっとした美少年が好きな女の子の塚本天満ちゃんがドジしながらも一所懸命頑張る姿を描いたラブコメって言えるけど、1ページで起承転結めいたオチをつけならも数ページ分のストーリーに仕立て上げる感じは4コマ漫画ではないけどちょっぴり「あずまんが大王」に通じるところがあるのかも、日常をそれほど逸脱せずにシチュエーションのおかしさで笑わせるって辺りも含めて。

 あるいは天満ちゃんのドジだけど頑張ってますぶりを描くシリーズがある一方でそんな天満ちゃんに行為を寄せる髭面不良の播磨健治を主役に据えたシリーズがあって続けて収録されているところは、2つか3つのエピソードを毎回重ねて読ませる同じ「マガジン」所収の「魁! クロマティ高校」とも重なるのかな、ギャグへのアプローチの仕方はまるで違うけど。割に巧い人が多い「マガジン」の作家陣の中においても遜色のない巧さと可愛さを実現している辺りで安心できる上に、読んでまずまず面白いんで案外にしばらくたったら注目とか集めて来るおかも。「クロマティ高校」ほどの突き抜けぶりがないのは(ラブコメであんなに突き抜けられません)不利な部分かもしれないけれど、とりあえずの掴みはオッケーだったと思うからあとはとにかく描いて描き続けて毎週の荒んだ気持ちを天満ちゃんの明るさ播磨の一途さで解してやって下さない。ところで「コータローまかりとおる」っていつから載ってなかったんだろー、毎度のことだと思って気にしてないかったらすっかり忘れてしまってたよ。


【10月29日】 お台場ってゆーか青海へ毛利衛さんを見に行く、宮地真緒さんはいなかった、って当たり前か、「まんてん」のロケなんじゃかないし。だったら何かと言えば毛利さんが本職の「日本科学未来館」館長としてあの「ゴジラ」と握手するって場面を見に行ったもので、明日からスタートする「ゴジラと科学展」ってイベントのプレスレビューの最中にメカゴジラをバックに登場した毛利さん、最初のうちはあの傍若無人なまんてんをたじろがせた地球規模の微笑みを見せてくれていたけれど、着ぐるみのゴジラが登場した瞬間はハッと身を引いて、ちょっとこわごわとした格好に。何でも小学校1年生の時に見た初代ゴジラの映画で相当に恐い思いをしたそーで、3作目まで見て以降は見ておらず、子供たちのヒーローとして珍獣化していく哀しさを味わわなくても済んだものの、その分未だゴジラを凶悪無比な怪獣と理解していた心理が働いて、身を引かせ顔をひきつらせたらしー。ちょっと言い話(どこがだ)。

 それでもそこは科学の未来を担う館の館長さん、どこが科学だと突っ込みも科学者から入っていたゴジラをそれでも「科学の負の部分を表す存在」って位置づて理解しようと務め、着ぐるみとも握手し肩に手をやり最後は抱き合って……はいなかったけどほとんど間近に並んで写真撮影に応えていた。展示の方はゴジラを科学的生物学的に分析した「ゴジラ生物学序説」なんかを出した方々が協力している風情もなく、従って大怪獣ゴジラを軸に広がっていくよーな内容にはまるで全然なっていない。映画に使われたプロップが並べられ映画で使われているクロマキー合成やミニチュアの逆さ宙吊りといった技術が紹介されている一方で、ゴジラの存在ではなく造型すなわち映画の小道具としてのロボット性を土台に構造を紹介したりロボットを並べたりしている程度の広がり方で、これなら去年に「花やしき」で見たイベントの方が、プロップも充実してたし予告編の上映も面白かったよーな気がする。それでも「ゴジラ」だからってイベントが通り予算が降りてしまうあたりがビッグネームの素晴らしさ、かくしてゴジラをネタにしたショボい展示がコンクリートの砂防ダムと同様に全国に広まっていくのです。日本的、だねえ。

 まんまるお月様の涙顔が評判を呼んでる「週刊朝日」の11月8日号ではあるけどコラムの方は妙に充実してたりするから評価はなかなかに微妙な感じ。金子達仁さんのサッカーコラム「ピッチの記憶」はジーコジャパンが示した「自由」が果たして「義務」を伴うことを理解された上で選手なり、報道するメディアに伝わり理解され使われているんだろーかって疑問をなげかけていて、ジーコの考え方なりやろーとしていることがとりあえずは分かって勉強になる。最終的には同じでもそこへと至るアプローチが「性悪説に立った統制のサッカー」なのかそれとも「性善説に立った自己責任のサッカー」なのかが違っている、といった感じの指摘はトルシェがやろーとしたことへの理解もあって「トルシェビキ」としては有り難い限り。よーするに僕はジーコ本人が嫌いな訳じゃなく、小馬鹿にされた恨みからトルシェ憎しの怨念だけでジーコ万歳を連発しているメディアが嫌いなんですね、いわゆる取り巻きって奴等が。

 それはそれとして問題はジーコが目指そうとしている「自己責任のサッカー」なんてものが日本人に可能か、って部分で現実、それをとりあえずやらせてみよーとした先のジャマイカ戦は悲惨きわまりない事態になったことを考えると、やっぱり無理じゃないかトルシェみたく締め上げなくっちゃいけないんじゃないかって思えてしまう。金子さんの狡いところはそーした部分でジーコの方法トルシェの方法の両方を併記するだけでどちらがより日本人に合ってるのかって部分について自己言及していない所で、「トルシェのサッカーが嫌い」と言い切る馳星周さんみたく割り切った言い方をしない分サッカーライターらしくはあるんだけど、どこか責任を回避しているよーな印象は否めない。こーやってどっちつかずに両論平気な態度でいることが処世の術なんだろーけれど。

 分かりやすさで言うなら「週刊プレイボーイ」11月12日号の湯浅健二さんによる「サッカーを語れ」も黄金のカルテットとかいってメディアがもてはやした4人の中盤のあの試合に限ってのたいしたことなさを指摘していてなるほどとこれも納得させられる。「パスを受けるための動きが少ない。そして、動きを止めている選手の足下へのパスがおおすぎる」って観察はスピード感にあふれる欧州リーグの試合を見たあとでJリーグの試合なんかを見るといつも感じることで(止まっている選手が後ろを向いてボールをもらうシーンのなんと多いこと)、まるでラン・アンド・ガンが身上のチームによるバスケットボールのよーに入れ替わり立ち替わりしながら選手がボールを運んでいったワールドカップでのトルコ代表の試合なんかに比べると、とてもなじゃいけど同じスポーツをやっているよーに見えない。

 そりゃまあ世界の一流リーグで活躍する4人のこと、やって出来ない訳じゃーないんだろーけどあの相手ではやる必要に迫られなかったってことで、このままダレ場が続いてしまうとホント、湯浅さんの友人を感嘆させた組織プレイが出せなくなってしまうよーな気さえする。だから11月のアルゼンチンでこそ4人を揃えてそのイケてなさぶりを満天下に見せつけもてはやすメディアにキャプテン川淵があたふたする場面を見たかったんだけど、残念とゆーかやっぱりとゆーか肝心の試合であるにも関わらず出られそーなのは中村俊輔選手くらいだったっけ、これだと中田も小野も稲本もいないから負けたんだってゆー言い訳をメディアにされてしまう可能性が大で「トルシェビキ」としては面白くない。来年春とかゆーブラジル戦までやっぱり待つしかないのかなー、キャプテン川淵の尻が燃え始めるのを見るのは。トルシェの講演では反論とか出ないのかなあ。でも出てもメディアは遠吠えとか書くだけだろーしなあ。4年後は限りなく暗いぞお。

 そうそう「週刊朝日」で笑ったのは小林旭さんのコラム「甦るマイトガイ」での主張。「歌も芝居もろくに勉強もしていない、昨日まで街を歩いていたアンちゃんやネエちゃんがスター気取りでテレビ画面を占領している」ってコメント自体はさほど珍しいものじゃないけれど、笑ったのはこのコラムの裏側のページが飯島愛さんの「錦糸町風印税生活」だったってこと。自分のページだと読んで次をめくってマイトガイのシロウトを使うメディアは間抜けってな感じのコラムをどんな思いで読んだかを是非に聞いてみたいところ。気にするってことは自分はもしかしたら小林さんのいうスター気取りのアンちゃんネエちゃんと自覚しているってことだし気にも止めないってことは自分は正真正銘、マイトガイだって認めるに吝かではないスターと自認していることになる。どっちだろー。「爆笑問題」の楽屋で寝てしまう大物ぶりからすれば自分とは無関係と思ってたりするのかな、そもそもが昨日まで街を歩いてたんじゃなくって股を開いてたんだから(お下品失礼)。


【10月28日】 3周目まで終わってでじこ、うさだ、ぷちこの順でプレイした「でじこミュケーション」はラックも9台まで増やせてお金も160万円くらいまで貯められて、「天才店長」にあと1歩のところまで到達。ラックを増設したのは良いものの今度は商品を仕入れるお金がなくなる事態を意識して、増設のタイミングとか計りながらやったらとりあえずは旨くいったみたいで、あとは最後の時点での店頭在庫がゼロに近くなるくらいまで減らして現金に代えておけば、お金をもーちょっと上積みできて「天才」を獲得できたかも。「ゲマ」クッション、ちょっと仕入れすぎてしまったんだよなー、最後の最後で利幅の大きさに目が眩んで。欲目は商売の仇なりけり。

 もっとも例えば3人の仕事ぶりをエキスパートレベルまで持っていかなきゃいけないとか、他にパラメータがあるかもしれないからその辺は、出るかは知らないけれど攻略本の刊行を待とう、あと埋まっていないグラフィックの出し方とか。気になるのは声に「PKO」の3人とそれからぴよこが入っていたのにプレイしている間にはまるで聞かなかったことで、何でも昨日の「横浜アリーナ」のイベントで配ってた名刺が「ブラックゲマゲマ団」関係のデータだったって話も聞こえて来たけれど、本当だったら買ってあったのに荷物になると持って行かなかったことが悔やまれる。現場でソフトを買えば入れてもらえたかもしれないけど、そこまでは流石に貢げません。どっかでの再配布希望、あるいは直接練馬に乗り込むか?

 下司なのは存じていたけどここまで下品だと流石に引くなあ、いくら下郎な僕でも「週刊朝日」の11月8日号の表紙には。日本だったら別に不思議でもないくらいにプクプクと丸く育った頬に涙を垂らして口をおさえる少女のどアップが写っているんだけど、その顔を見てたとえば貴方、こーゆーいたいけな少女が面前で泣かなきゃいけなくなるよーな境遇に追い込まれた原因は北朝鮮の拉致作戦に直接の原因があるんだ北朝鮮はイケナイんだって思い至るものですか? そーゆー意図が皆無だったとは思わないし末席ながらもメディアの端に位置する物として同じメディアの矜持を信じたいけれど、一般的な情感に寄れば泣く少女がその祖父母に与える心理的な圧迫感に思い至って哀しい思いにさせられる。見ればすぐに飛んでいきたい気持ちになるだろーけど、だからといって行けば相手の思惑にはまってしまう恐れがあるからすぐには無理。私情と公益の間に揺れる心情をまるで忖度しないその態度に自然と眉間に皺が寄る。売れてナンボの週刊誌、親族の心情よりも下司な大衆の心情が大事って割り切るならそれもアリなんだけど、そーでもないから判断に困るんだよなー。

 「キムタクの弟と呼ばれるのはイヤだ」と言ってる相手を引っぱり出して「キムタクの弟と言われるのがイヤだと言ってるキムタクの弟」って感じで紹介してしまうスタンスも謎。イヤだといいつつもしっかりポーズ写真を撮らせてるキムタクの弟に何か口とは違う下心があったかもしれないけれど、だったらそーゆー裏まで読んで茶化してやるのが親切ってもの。そんな下心も含めて結託している感じがあって読んでいて心がささくれ立つ。本当に弟と呼んでほしくないと主張して、あくまでも「アサヒビールシルバースターズ」の期待のラインバッカーとして紹介して欲しいと言った相手の言い分を裏切って「キムタクの弟」呼ばわりしたんだとしたらそれはそれで大問題。そのあたりどんな取材の経緯があったのかを、真相が噂な雑誌とか週刊誌とかの方々に大いに期待したいところ。Tシャツのデザイン会社やってます、なんて言ったらますます「キムタクの弟のデザインしたTシャツ」って言われやすくなるのになー、やっぱり出来レースなのかなー。

 そんな「週刊朝日」以上に下司って言葉も吐きたくなるくらいに脱力な事態があって今週を生きる気力が失せた、ここはやっぱり「ギャラクシーエンジェル」を見て力を気持ちをホンワカさせる必要があるかもなー。何がそんなに脱力かって聞かれればまずはたとえ話で答えよう。小説の賞でも漫画の賞でもいいけど何か作品を評価する賞があってそれはそれでメインだけど、別に小説のたとえばある1章とか、漫画の一部のコマとかを読んだり見てその面白くなりそーな感じに与える賞を設けましょうってことに果たしてなるものだろーか。アカデミー賞に映画の予告編に対する賞が記憶ではないよーに、完成してナンボの作品の途中を評価する賞なんてあっていいはずがないし、矜持を持ったクリエーターならもらって喜べる類のものでもない。完成したものこそが唯一にして絶対のもの、あらすじだけで評価なんかされたくないと物作りに心底から関わっている人なら思うだろー。

 なのにどーした、コンピュータエンターテインメント協会ってところが例年開いている旧「CESAゲーム大賞」、今は「CESA GAME AWARDS」の名称で実施されているゲーム業界にとってはオフィシャルな、映画で言うとやっぱりアカデミー賞くらいの意味を持つ表彰制度の中に、未だ登場せざる未完成のソフトに与える「GAME AWARDS FUTURE」ってカテゴリーが出来ていて唖然とした。メンバーは完璧、グラフィックの見た目も立派、触った感じは楽しそう、なのに完成したソフトは芋が蛸ってのは過去に山ほどあったし未来にも星ほどあるだろー。そんなソフトに「将来期待できるソフト」って賞を与える意味がいったいどこにあるんだろー、前述のよーに嬉しがるクリエーターがいる「はず」がない。

 だいたいが「GAME AWARDS FUTURE」に選ばれた優秀賞のソフトが15本もあるんだから不思議とゆーか呆れるとゆーか。実際に発売されたソフトに与えられる賞が最優秀賞、優秀賞、特別賞あわせても10タイトルしかないのに、未完成の海の物とも山の物とも知れないソフトをちょい見ただけでどーして15本が優秀だって判断できてしまえるんだろー。もちろん受賞した15本に期待は存分に抱けるけれど、これを賞って形でランク付けするのは性急も性急、勘違いも甚だしい。作っているクリエーターの方だって仕方がないから受け取ったけど本当はこんな先物買のレッテルなんていらねえ、出たもんで判断して欲しいって思っているはずだよね、そーだよね、そーだと言ってよ、超有名クリエーターの皆々様方。

 あるいは未来を期待されるソフトだとお墨付きを受けたんだってことを、シールか何かにして発売する時に貼って人目を引こうとでも考えているんだろーか。ソフトメーカーの寄り合いな団体だからといって、それほどまでにクリエーター心を無視する先走りをするとは思えないんだけど。うーん分からない。仮にそーだとしても、賞を商売に使おーとしている割には全体のトーンがダウンしている印象が否めなかったんだよねー、今回の「CESA GAME AWARDS」は。前回までは「東京国際フォーラム」を使って一般のゲームファンも交えた華やかな舞台、例えるならば「アカデミー賞」なみの権威と知名度を得ようと必死なところが見えたのに、今回は関係者と受賞しか呼ばず場所もホテルの宴会場で華やかなプレゼンターも呼ばず、有名人は審査委員長の養老孟司さんがいたくらいのショボいもの、だったんだよね。

 ハードを足せば1兆円あるゲーム市場はレコードなんかよりも映画なんかよりも大きくて、そんなゲーム業界を取り仕切る団体は映画とかレコードの団体をも上回るエンターテインメントの中核にあって悪いものではない、ってのが僕の認識だしゲーム業界に籍を置く人の希望でもあるだろー。そこが出す賞である以上は「日本アカデミー賞」も「東京国際映画祭」も「日本レコード大賞」だって超えて華やかで荘厳なものであるのが当然なのに、今日の雰囲気だとゲーム専門誌が取りあげるくらいで一般紙もスポーツ紙もとりげる可能性は低そー。業界のために内輪に向けた賞にしたみたいだけど、外にまるでアピールしない賞じゃあはっきりって意味がない。同じ業界向けだってソニー・コンピュータエンタテインメントの「PLAYSTATION AWARDS」は今年もど派手だったぞ、イエローキャブのツインバストがお出まししてたし。

 「東京国際フォーラム」ではお金がかかり過ぎるってことになったのかもしれないし、それはそれでこのご時世に分からないでもないけれど、でも低迷にあえぐレコード業界がやる「ゴールドディスク大賞」は来年やっぱり華やかに開催されるだろーし、「日本アカデミー賞」だってテレビで放映されるだろー。虚勢でも張り続ければ中身がついて来るものなのに、わざわざ小さい服に身を包んで日陰に隠れよーとする性根の真意が分からない。来年もこのままで行くのかどーかは分からないけど、もしこんな華やかさもなければ権威も怪しい(「期待賞」なんて作って平気な団体の出す賞に権威なんて付くのかな?)状況が続くんだとしたら、SCEIの賞とは違って1つのプラットフォームに縛られずにソフトを面白さから公明正大に判定して表彰する賞を、出版社でもどこでもいいから作るべきだしクリエーターもプレーヤーもそれを求めているはず。「サンケイスポーツ」とか「朝日新聞」とかでやれば面白いんだけど。やりそーもないけど。


【10月27日】 で、吉野朔実さんの新刊「記憶の技法」(小学館、505円)なんだけど「恋愛の瞬間」とか「僕だけが知っている」とかいった作品みたいな妙な小難しさはないし「瞳子」みたいなノスタルジーをくすぐるものでもない、謎解き要素が盛り込まれたサスペンスしてる話でその筋の人でも楽しめるそー。韓国に修学旅行に行くことになった女子高生が戸籍をとったらどうも今の両親が本当の両親ではなかったっぽい様子で、けれどもいろいろ戸籍に細工がしてあって真相は不明だし元の両親もこれまた不明。おまけに自分にはポコンと記憶が抜けてしまう持病ってゆーのか性癖があって過去がどうにもこーにも思い出せない。

 それでも記憶を辿りつつ、また学校で割に不良扱いされてる少年の協力なんかももらいながら戸籍の謎を解き過去を洗っていこーとした果てに現れる、とてつもなく恐ろしい状況には正直なかなかの戦慄を感じる。記憶が封印さえる程度で良かったって思ったくらいだし。それにしても自分の戸籍がちょい、妙だと人ってやっぱり”本当の親”ってものを探してみたくなるものなんだろーか。今がとてつもなく幸福で今の両親もとてつもなく親切だったらそれでいーじゃん、とならない辺りに感情とか情愛とかってものを持つ人間ならではの素敵さとそして億劫さを覚えてしまう。親なんてどーだっていーじゃん、なんてもし誰もが思うよーになった世界は果たして真っ当か、って問題もあるけれど。絵は「少年は荒野をめざす」の頃はもはや遠くなりにけりなタッチだけど物語で読ませる話だから顔アップにバストショットばっかりでもそれほど気にならず。でもやっぱりかつての細くなめらかな線で新作を読みたいなあ、かないそーもない夢だけどなあ。

 「ノーマッド」美味いのか? って疑問には即座に「違う」って答えが返って来たけどでも、人間って空腹も度が過ぎるといろいろと得体の知れない行為に出てしまうものなんだろーなー。「ギャラクシーエンジェル」は今週も万事快調で前半は食われるノーマッド、後半は輝くミントを見られて朝っぱらから「やれやれ」って呆れつつも含む笑いに胃袋をヒクつかせる。前半は盛り上げも見事なら落ちの展開も万全で尾籠なし、後半についてはラストが割に余韻を残さずあっさりと落とされていてもっとミントさんに暴れさせろと突っ込みたくなったけど、落ちがなく尻切れになるよりは昔ながらの「こんな顔かい?」的終わり方をされている方が健康にも良いから構わないってことにしておこー。しかし髪の毛はいずれは生えて来るけどほかのパーツはどんな復活のさせかたをするんだろー。消えないマジックインキで描き直すのかな。

 そんなこんなで生「ギャラクシーエンジェル」とか見に「横浜アリーナ」へ。巷間いろいろ言われて株価が妙に下がり気味なブロッコリーだけにそろそろ人気も陰りかな、アリーナなんてキャパは無理かななんて、半ば心配して行ってみたけどこれがどうした午後3時半からの開演だとゆーのに午後1時の段階ですでにアリーナ周辺には人人人の固まりがあちらこちらに点々とあって好調な出足。中がまたすごくて1階は「アクエリアンエイジ」をプレイする人のテーブルが満員盛況で2階はアリーナをぐるりと回る通路に座ったり寝転がったりして開演までを待つファンの群。僕も持ってて持ってはいかなかった「ぷちこ」の縫いぐるみを背負ったり「でじこ」帽子をかぶったり蘭花と同じ格好をしたり(男)でじこと同じ服を着たり(やっぱり男)ぴよこと同じ扮装をしたり(これは少女、ちょっと可愛い)した人がジョロジョロと歩いたり座ったりしてなかなかにコンサート前的な雰囲気を醸し出していた。いや素晴らしい。

いわゆるそっち系の男性ばかりと思いきや女性の若い層とか多いのも特色か。「デ・ジ・キャラット」に出てくるリク・カイ・クウの3人を演じてる「PKO」目当ての人とかそれなりな比率含まれていたよーで会場のそこかしこで腕章したりミリタリー風な格好した女性を目にして、そっち系の女性も狙ってのキャラクター作り戦略もあながち間違ってなかったと思い知らされる。コンサートの中でも後半戦に登場してはそろそろ疲れてきた来場者にロックな音楽とトークでもって喝を入れる役割を果たしてたみたいで、さまざまなパターンを作ってさまざまなニーズに応えられるキャラ作りをして来た成果が、時間を感じさせない密度と構成で繰り広げられた5時間ものコンサートの実現につながったんだろー。

 その意味から言うなら新作「ギャラクシーエンジェル」に出ている「ツインスター隊」がいわゆるショタ萌え婦女子のファンゲットの先兵役となる予定だったんだろーけれど、4週目にしてはや無登場とゆー脚本家に愛されないキャラとなり果てていることもあってか或いは、未だ浸透しきってないと見てかコンサートにはカケラも(片割れは別役でいたけど)登場しなかったのがちょっと不思議に思ったところ。もっとも「ハロプロ」的なセット販売は「ゲーマーズ」各店のイメージガールを集めた「G.G.F」を先にする必要があったから今はそちらに手一杯なのかも。新しく決まったあれは神戸だったっけどこだったっけ、登場した娘は飯田並にデカかったなあ。

 さてコンサートはその「G.G.F」による「ウェルカム」で幕を開けて以下全員によるイベントのテーマソングへと続いた後で「ぴたテン」から1曲が入って前座、じゃないけど耳慣らしは終了。そこからいよいよ「ギャラクシーエンジェル」の「エンジェル隊」によるステージが始まって一気に(ってゆーかすでに最初からだったけど)盛り上がりを見せる。東方はただひたすらに2階の通路から(プレスは席とかないんで)立って田村ゆかりさんを眺めていたけど遠目からでも可愛さ爆裂、眼福に浸る。山口眞弓さんはひたすら吠えてて格好良い。ウォルコット中佐は意外に若い。大神少尉が大神さんじゃなかった。ノーマッドのTシャツはクッション用の画像を使ったのか背中側にもちゃんと裏がプリントしてあった、なぜこれを売らない?

 怒濤の1時間の後はいよいよ個人的な目当てでもあった飯島真理さんの生ライブ(ライブは生だ当たり前だ)。とりあえずはゲーム版「ギャラクシーエンジェル」のテーマでも唄って帰るんだろーかと思ったら何と、あの、20年近くも大昔にさんざんっぱら聴かされて耳に覚えた「愛・おぼえていますか」を唄ってくれてオールディーズなファン感激。心配もあって某「ザ・ベストテン」にアイドル風な役回りで出た時に今ひとつだった高音部をどう処理するか固唾をのんで聴き入っていたけど亀の甲より年の功、山下達郎さんが「ラブスペース」を今演る時にとるよーな音程を下げ裏メロディを唄うよーなことはしないで喉を楽にして吐き出すよーな感じでちゃんと、元の音程で出していて聞き惚れた。これなら来月出る「超時空要塞マクロス」での「リン・ミンメイ」の曲のセルフカバー集もきっと、素晴らしい作品に仕上がっていることだろー。期待大、予約しなくちゃ。

 以下、「新世紀エヴァンゲリオン」のテーマソングで引っ張りだこだった高橋洋子さんを久々に拝見拝聴、入りの「魂のルフラン」であの静かに始まるイントロ部分が始まったとたんに、記憶が90年代末期に引き戻された辺りに未だ癒えない「エヴァ」の傷のあることを思い出す。「エヴァ」以降しばらくフリーでやっていたらしー高橋さんだけど、ブロッコリー音楽出版と契約したそーで「アクエリアンエイジ」のテーマソングとかでいろいろ活躍してくれそー。それにしても流れればオールディーズなアニメファンのアンテナを刺激しまくるヒット曲を持ってる2人を引っ張り出すなんて、やるなあブロッコリー。意識してのことかどーかは知らないけれど、でもやっぱり2人が出るってだけで懐かしさに気持ちを高揚させるファンとかいるんだよね、ここにも1人。

 正直立ちっぱなしで疲れて来たんで帰ろうかと思ったものの、おそらくは演られるだろー「PARTY NIGHT」の大熱唱を見るまではこれは帰れんと覚悟を決めて見続けた後半戦、登場した榎本温子さんのローラライズの素晴らしさに目尻を下げまくり、ライブのDVDが出たら買おうと心に決める、いやホントお尻半分見えてたし(見えてません)。「ぱにょぱにょ」に出演の小桜エツ子さんとかも1曲だけだけど登場。「パイオニアLDC」の10周年ライブでは確か見られなかっただけに有り難い。「ぴよこ」のあの人はやっぱり登場せず。その分は「PKO」がカバーしてたし女性層とかしっかり取り込んでいたから、ライブとかには出てくれないあの人の代わりになってもらおうって意図もあっての「PKO」結成だったとしら、十二分に目的は果たしてたってことになるのかな。

 「PARTY NIGHT」はやっぱり凄くで場内は振り上げる手も波濤のよーで上から見ていてもそのパワフルさにしびれる。アリーナ席を埋め尽くした人と両脇のスタンドが4時間以上ものコンサートを経てもなお動き続けるこの凄さ。数字だけ見て本質をなかなか理解しないアナリストの人たちとか連れてきて見せれば、あーゆービジネスがどーゆー層に支えられてるか理解してもらえただろーから、IR代わりにやれば良かったのに、なんて思ったけれどちょっと違う人たちと間違えられる可能性もあるから微妙な所。けどアイドル系のコンサートなんてこれ以上だからなあ、やっぱりアニメはまだまだ認知が低いのかなあ。アンコールで2度目の「PARTY NIGHT」を聴く行幸に恵まれながらお開き。入るのを見た哲学の人は最後まで見ていたよーで何を思ったか聴いてみたいところ。「魂のルフラン」はやっぱりツボだったのかな。


【10月26日】 すでに遠く前世紀だったかそれとも新世紀に入って早々だったか、まだ薄寒さの残る季節に駿河台にある某出版社がパーティーで、クイズだかビンゴだかの景品にしていて何時か完成したら贈るとかいう手形が切られたのを目撃して、その時は当たりはしなかったものの出たら買おうと思ったまでは良かったものの、その後一向に商品化される気配がなかったどころかその出版社からの商品化そのものがどういう事情からた立ち消えになってしまって以来、どれほどの時間が流れたのだろう時期に聞こえてきた情報で、版権元が自ら商品化しているという話を聞くに及んでまずは一安心、あとは発売を待つばかりだと思っていたらこれがどうしてなかなか発売にならず、またしてもお蔵かなんて心配もしていたけれど、会社を赤字に追い込む覚悟も省みずに取り組んだ成果もあってかこの10月25日、遂に市場へと送り出されることにあいなった。「でじこミュニケーション」発売おめでとう。

 さても一体どんな中身になったのかと秋葉原駅前にある本店にて1つ所望し黄色いポーチも合わせてもらい、なおかつ家のどこかに埋もれてしまって出てこない透明パープルの「ゲームボーイアドバンス」の発掘は諦め新しく透明ピンクの本体を1台買ってソフトをぶち込み始めたゲームの、実に「デ・ジ・キャラット」なことかと感嘆、でじこにぷちこにうさだにゲマの主要メンバーが織りなす店舗運営シミュレーションの、出てくるキャラクターの動きなりポーズなりグラフィックなりが醸し出す「デ・ジ・キャラット」ぶりに時間をおいて作り続けて来ただけのものがあったと安心する。体操着姿のでじことかうさだとか、見目なかなかで嬉しさに踊ったくらいだし。

 10万円を元手に賞品を仕入れて売り3人のジョブを割り当てる操作を1週間と1単元として繰り返していくゲーム内容は、単調と言えば単調だけど描かれているグラフィックの質が見て「でじこ」にしっかり見えることが助けになって、ゲームをとりあえずは操作へと至らしめる。且つゲーム自体も元手がなかなか増えず売りたくっても仕入れられない苦労なんかを突きつけられて、株価低迷に悩む経営者の苦労が心底よりしのばれる。棚を増やせば売れるけど、棚の代金を払うと品物が仕入れられなくなるこのシビアさ。ビラをまいて客を集めても販促費で利益を食いつぶしてしまうこの痛々しさ。プレイするおよそすべての店員は目に涙を浮かべながら増えない売上げに歯がみすることだろー。現実は大変だ。

 それでも1巡目はどうにか6つくらいまでラックも増やして元手も数倍にまで増やして「ふつう」の評価を獲得するに至ったけど、さらに上を目指すとしても何をどう仕入れ売りプロモーションを仕掛ければ良いのか、パラメータへの感触がまだ掴めていなくって、最高ランクなんてしばらくは出せそーもない。まあそこは隠しイラストめいたものなんかを探しつつ潰すか競うかってな目標に向かって、しこしことボタンを押し続けつつ「にょにょにょにょにょ」と叫ぶ真田アサミさんのボイスとかカラオケバージョンになってる「PARTY NIGHT」に耳傾けつつ、時間をかけてすべてを解き明かしてみよー。1年くらい遊べるかな。

 ナムコの「太鼓の達人」が文字通り飛ぶ勢いで売れていく「ラオックス アソビットシティ」のレジとか嘗めつつすれ違ったゲーム誌の編集者の人に挨拶とかしつつ時間を潰してから、表参道にある「青山ブックセンター本店」で開催された「山形浩生講演会」ってのを見物に。ここでは2度目の講演だけど前回同様に割にワンサと人が詰めかける人気ぶりで、今をときめく知性にまみえてお利口さを分けてもらいたいと願う知性体マニアの熱意にそんな一味の我ながら驚く。11月10日の大沢真幸さんと東浩紀さんのトークもきっと満席になるんだろーなー、前に「ジュンク堂池袋店」でやった時もさっさと満席になって立ち聞きする羽目になったし。

 講演はおおまかにはアスキーから出ていた「コンピュータのきもち」の概略をざっと振り返りつつあれやこれやと語っていく内容で、言文一致を推奨するだけあって書いてあることくらいに分かりやすい内容で来ていた人も何かしら納得するところがあったのか、しきりにうなずいていたのが印象的。隣に座っていた赤いシャツに雨蛙色のスカートにピンクの網ソックスとゆー出で立ちの、おそらくは日本に急速に増えつつある”山形ギャル”のひとりと目される女性もメモとりながらうんうんうなずいてたほどで、いろいろあったにも関わらず以前にも増してウオッチャーを増やして来ている事実と、その事実を支える力にはいろいろあってもやっぱり前向きな視線を贈る必要がありそー。講演の内容は意識が半分くらい飛んでたんで思い出したらそのうちに。ピースピースな手の動きの説明を図解入りでしていた場面は見ていたけど。

 レイ・ブラッドベリの新作(!)とか白倉由美さんのチラリと見るだけで心のズキズキ来そーな本とか吉野朔実さんのコミックの新刊とか田口ランディさんのアレとか購入、白倉さんのは表紙と挿し絵が鶴田謙二さんで、セーラー服とか来ているロングヘアーの美少女のイラストそれだけでもファンは買ってしまいそー。吉野朔実さんの「少年は荒野をめざす」の狩野都とセーラー服美少女では双璧かも。ちなみに鶴田さんは森博嗣さんの「スカイクロラ」の新書版にも表紙と口絵を寄せてて、こちらは巨乳&眼鏡%ショートヘアとゆー今いちばんのフックにあふれた美女とそれから戦闘機とゆーメカマニアの心モガッチリな組み合わせのイラストで、秋葉原とかの書店だったら見た瞬間に誰もその場から動けなくなりそーなパワーを放ってる。どーするアイフル。空と雲の美麗な表紙で従来からの森マニアを獲得して今度は美女&メカのファンまで狙うこのたくましさ。商売って工夫です。


【10月25日】10周年を迎えた記念の天女を東京芸大出身の若手アーティストにデザインさせたとゆーパイオニアLDCからリリースのお知らせとか来たんでペラペラ、一部に「俺たちゃ裸がユニフォーム!」っとの頓狂な歌声とセットで(ってゆーか見終わった直後の記憶の鮮度はこっちが上だったりする)話題に上って来ている「灰羽連盟」に関して、東京芸大出身の若手アニメ原作者の安倍吉俊さんが毒質問に毒混じりで答えてて、2話見ただけでは全然分からなかった部分が毒理解できる、なるほど毒々しいアニメだなあ。

 曰く、灰羽とは「背中が煤けている人たち」で、話師なる人たちは「神出鬼没のお話おじいさん」、まともな人間と灰羽の比率は「耳あかの乾いている人、湿っている人くらい(ウソですが)」だそーな。ほかメカはスクーターとか時計とか沢山でてくるしメイドも寮母さん的な役割の人がおばさんだけど出てくるからメカフェチメイド萌えな人でも頑張ればフェチれるし萌えられるとか。そーでなくてもすでにラッカのセーラー服姿に悶えのたうちまわり、東丈もしくはプリンセスルナのオーラ(劇場映画版)にも似た髪の毛の逆立ち具合に興奮している身としては、これからどんなフックが出てきて真夜中の目を醒ましてくれるか楽しみで仕方がない。もっともいくらメイドが眼鏡っ娘でも「俺たちゃ裸がユニフォーム!」にかないやしねーけど。いっそオールドホームの灰羽全部に裸ユニフォームでビーチバレーでもさせてみたら? 大受け間違いなし。次の週が続く保証なし。

ドラえもん風船とか売ってる30年代ってのも、なあ  えっと「マグマ大使」って昭和30年代だったっけ、ってとりあえず思ったお台場は「デックス東京ビーチ」にオープンした「台場一丁目商店街」。昭和30年代の街並みを再現したショッピングモールって奴で中にはいるとなるほど3丁目の夕焼けに照らされていそーな街並みに、駄菓子屋やら射的場やら屋台やらが並んでいたりして知っている人にはなんとはなしの懐かしさ、知らない人にもオールディーズな感じを与えてくれるけど、スピーカーからなぜか「マグマ大使」の例のテーマソングが流れて来て、ついでに「インドの山奥で」ってな「レインボーマン」の主題歌も流れて来て30年代固めのコンセプトにちょい、ズレが出てるなって印象を受ける。

 まあそれほと徹底してこだわっている訳じゃなく、そもそもが売っているものだって駄菓子とかあるけどファッションは30年代ってよりは1970年代の復活みたいなものだったりヒッピーライクなものだったり、それよりさらに後の「POPEYE」御用達みたいなシューズ&グッズだったりと適当だったりするんだけど、「宇宙大戦争」が「マグマ大使」と並んであることで前後20年分くらいの世代に”懐かしい”ってイメージを喚起させられるだから、あまり厳密に10年の間に絞り込む必要はないのかも。テープカットに登場した司会の女の子だって圧底ブーツにパンタロン、頭はアップで額にトンボ眼鏡ってゆー、いつの時代だわりゃあ、ってな格好をしてたし、とっても可愛かったけど、しゃべりは時々噛んでたけど。

 生きていたのか火浦功、って今年に入ってからでも何冊か、本は出ていてあとがきなんかも書いているし21世紀にんなってからだって「未来放浪ガルディーン」の新刊が出たりしているんで一応は生きていることくらいは認識していたけれど、すでに記憶も「東京オリンピック」とか「大阪万国博覧会」とごっちゃになっているくらいの大昔に出た「トリガーマン」のリニューアル版が、堂々の書き下ろしによる初収録作品まで込みでリリースされるとさすがにやっぱり「生きていたんだなあ」って感慨も深くなる。それともまさかすでにこの世から消え失せていて、あの世からスチャラカな電波に乗せて新作部分をコックリさん形式で口述させていたりするのかな、あれ文字盤の上をたどる指を読んでいくのが大変なんだよね、とっても素早く動かせる某ママさんとかは別にして。それは冗談としても本当に生きているのかな、SF関係のイベントとか見物しても歩いている大原まり子さん神林長平さんはいてもテニスしている火浦功さんだけは見たことがないんだよなー、机の下とかに潜伏してたりするのかな、忍者装束で、テニスラケット持って。

 しかし凄いぞ「トリガーマン1 2/5」(朝日ソノラマ、476円)、繰り出されるネタがそもそも今は亡き「必殺仕事人」からのものだし登場するメンバーのうちの1組が「そめたろーそめのすけ」でこれまた今は片方が鬼籍の人、あと5年も経すれば元ネタを知らず「わたしは頭脳労働」のオモシロサが伝わらなくなっただろーから、この時期での復刊はまさにベストタイミングだったと言えるかも。まあ元ネタを知らなくってもスチャラカでお呼びでないな植木等さんがモデルの小説でも、読めばその面白さは何となくでも分かったりするから、その辺はお笑いの達人・火浦功さんの筆でもって元ネタの面白さ込みで描き込んでいけば良いのかも、って描き込む気はまだあるの? これが21世紀最後の著作にならないことを切に願おう。


【10月24日】 オレンジ色のニクい奴等が出てくるまでの人心地をほのぼのとした田園風景に溢れたアニメーションでも見て凄そーかと思った深夜2時58分だったけど、始まりこそどこかまだ世界に違和感を覚えていたラッカが仲間たちの導きで徐々に馴染んでいくよーな展開を見せてなるほどうんうんと思わせて、すぐに「灰羽は古着しか着られない」「灰羽は壁には近づけない」といった区別を他の人たちから受けている、ある種特別な立場にある一族だってことが分かってきて、単純に天使っぽい女の子たちの寄宿生活的ドラマだと思っていると、後でとんでもない気分にさせられそーだとゆー気持ちの壁が心の中に立ち上がる。第2話をよーやく終えた「灰羽連盟」はこれでなかなか一筋縄ではいかなさそー。

 そもそも壁に取り囲まれて住民すら外に出られないっていったい何? 外から来たあの得体の知れない人たちは誰? でもってそんな人たちを相手に手話で喋っていた羽持ちの正体は? 考えれば例えば日野鏡子さんの「ブルー・ポイント」(朝日ソノラマ、476円)に描かれた世界なんかが浮かぶけど、それだと割に悲惨とゆーか暗い展開になりそーで、今から相応の心構えをしておかないといけないのかなー、なんてことを考える。そーはならないにしても、見るからに「天使」を直喩したよーなスタイルの「灰羽」たちが行き着く運命が極楽ハッピーであるとも考えられないだけに、そーした想像を良い意味で裏切ってくれるよーなシナリオを安倍吉俊さんほかスタッフの皆様方には望みたいところ。でも徹底して暗いのも見てみたい気が。ともあれ最後まで今のクオリティを崩さず進んで下さいな。ヤシガニはいらん。

 トルシェ贔屓の「トルシェビキ」であり手に言行録の「トルシェ革命」を持って、「ラ・マルセイユーズ」を唄いなが三色旗を掲げて革命に殉じる覚悟はあったりなかったりするけれど、それはそれとしてあまりに現体制を賞賛したいばかりにトルシェを貶めよーとする発言をことさら声高に繰り広げよーとする風潮が、スポーツ新聞なんて似非っぽさ漂うシーンに限らずスポーツ専門誌の所にまで蔓延り始めているのはさすがに気色悪いってゆーか、しょせんは日本のジャーナリズムとやらもそのくらいのものだったとゆーか、とにかくゲンナリとさせられた「スポーツ・ヤア」53号掲載の「ジーコジャパンのコンセプトを探る」とゆー記事、筆者は永井洋一さんね。

 なるほどジーコを称揚したい気持ちは分かるけど、だからといってトルシェにとって「日本代表はあくまで自分の名声を高めるための『手段』だった。多くの可能性を秘めた日本代表というチームは、未熟なプロコーチとしてのキャリアアップのための、またとない材料だった。だから、過去の試合内容、選手の特性、国民性などまったく分析せずに、有無を言わさずに既成のフォーメーション、戦術に選手を押し込めた」って果たして言えるのか。ジーコを指して「この先、チームの成績によっては彼の輝かしいキャリアに傷がつく恐れさえある。それでも敢えて監督を引き受けたのは、ジーコが日本サッカーの強化、発展を真剣に考えたからだ」って見解が、今以上に力の未知数だった日本代表の監督を引き受けたトルシェには何故あてはまらないのか。我田引水にも程がある。

 出たばっかりのフローラン・ダバディの本で中西哲生と話している項目を読むとトルコ戦でのメンバー選びに交替をトルシェがどれだけ呻吟して行ったかが分かるけど、そーしたことに想像力がないのかあっても見解と違ってくるから知らないフリをしたいのか、まるで無視して「W杯トルコ戦のように、チームの進化より監督自身の自己アピールが先に立つような采配はないはずだ」とトルシェを批判しジーコを持ち上げる、その言葉の詐術が読んでいて「トルシェビキ」としては当然として、人間としてどーにも落ちつかない。中村俊輔選手がジャマイカ戦で不調だったのに使い続けた理由をジーコが述べたことに「情の深さを示した」って書くけれど、同じことをトルシェがやったら「情に迷って冷静さを失った」とか書くに違いないと思わせてしまう辺りに、ライターとしての冷静さを越えた「ジーコニスタ」な意識が空けて見えてしまって眉間に皺が寄る。

 その点、「トルシェが良い悪いということではない。わたしはとにもかくにも、トルシェがやろうとしたサッカーが嫌いだったのだ」と言い切る馳星周さんの言葉の方が読んでいて納得できるし、「ナンバー」の11月7日号でジャマイカ戦の選評を書いている金子達仁さんの「優劣というよりは哲学の違いというべき問題」といった解釈の方が分かりやすい。金子さんの続く「日本サッカーの未来を考えた場合、私は後者のやり方を強く支持する」って言ってジュビロとアントラーズからコンビネーションなんかも考えて多くのメンバーを引いたジーコのチーム主義を称える態度には半ば賛意、半ば否定の気持ちはあるけどこれもまあ「哲学」の問題で、共感はできなくても認識はできる。まあ相手を慮る文章を書くのもこれまた「哲学」なんで無理強いはしないけど、入れ込んだ挙げ句にジーコジャパンがどう転ぼうとも、徹底して支持したって事実だけは永遠に胸に飾って仕事をしていって頂ければこれ幸い、信念の人と覚えておきます、共感は絶対にしないだろーけど。

 明日に迫ったオープニング上映のチケットも即時完売となって日本でのヒット確実な韓国映画の「火山高」で主演のちょーのーりょく青年と剣道少女と重量挙げ莫迦を演じた3人&監督が来日して会見したんで見物に行く。ツンツンヘアで金髪だった主役のチャン・ヒョクさんも今ではすっかりアン・ジョンファンばりの挑発で色ももちろん黒髪で、肉体が破裂するよーなパワーに満ちていた映画とはまるで違う印象だったのにちょっと驚く。剣道美少女役でこれが映画デビューだったシン・ミナさんは映画とほぼ同じ雰囲気の10代美少女で納得、勝ち気さを貫いていた映画と違ってはにかむ笑顔を見せてくれてその可愛さになおいっそうのファンになる。

 重量挙げ部の部長でワルモノ役でパワーが取り柄の髪型は「シャ乱Q」のはたけだったキム・スロさんは映画だと満面のニヤついた笑顔に激怒仰天と目一杯の表情がウリだったけどさすがに普段からそれでは疲れてしまうのかごくごく普通の兄ちゃん顔。それでも根が明るいのか喋りに時折笑いを交えていたよーで、3人では1番のベテランってところを見せてくれた。「反則王」の最後のレスラーだった人だけあって背もデカかったね。3人とそれから監督が言っていたのはとにかくマンガチックな演技とアクションにしたかったってことで、なるほど映画はどこをとっても漫画の1場面のよーな気連と迫力、笑いと感動に溢れていて見るほどに圧倒される。その一端がまずは明日、本邦では初お披露目される訳だけど当然ながらチケットはないんで今再びのシン・ミナ様さま様との体面は年末の公開か12月4日の渋谷公会堂での音楽担当「DAITA」による生演奏もついた特別上映会まで待つことにしよー。人生、先に楽しみがあると時間も経つのが早いだろーし。


【10月23日】 2、3の本屋を回った昨晩の感触ではまだどこも、売り出してはいなかった「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」(J・K・ローリング作、松岡佑子訳、静山社、上下巻セット3800円)を朝から売り出していた近所の書店で購入する。京成の船橋駅方面からJR船橋駅へと続く道の途中にある書店の入り口に机を出して上に並べて売る格好。通勤途中で重たい物を持つのが嫌って人もいるけれど、サラリーマン姿の人でも買っている人がいたから書店の頑張りもとりあえずは功を奏したみたい。普段から深夜0時くらいまで開いている書店だけに、店員さんはもしかしたら泊まり込んだのかもしれない、ご苦労さまでした。

 解禁時間を決めるなんて割に販売日に配本とかの関係でゆとりが生まれてしまう本にしては珍しい対応で、守らないと後々の配本がなくなってしまうとかいったペナルティがあったとも思えないんだけど、それでも多くの書店がしっかりと言いつけを守っていたのは、解禁日を特別な日として盛り上げよーとゆー配慮でもあったのかな。とはいえゲームと違って100人200人の大行列が出来た本屋はなかったみたいで、行列に並んで買っておくことが一種の儀式と化していることに加えて、その時に買っておかないとしばらく買えない可能性のあるゲームソフトや新型ゲーム機とは違って、いつ行っても買えそーな商品だってことが言えそそー。

 実際、午後に寄った書店はどこもかしこもビニールパックに入った上下巻セットが山積みで、飛ぶよーに売れている風体でもなく、ゲームみたく発売をイベントに仕立て上げよーと目論んでいたとしたら、それほど成功したとは言えなさそー。むしろ割に純な気持ちで本を読んでいた人に、「売らんかな」って態度を見せつけてしまったことが気持ちの萎えにつながって、ブームに穴を開けるなんて可能性も考えられないこともない。まだ書かれていない5巻から以降がいつ出るかによって、半ば年中行事化して盛り上がった関心がとぎれたりすることもあるだろーし。まあそれは映画がしばらくは代替するから良いのか。関係ないけど新作「ハリー・ポッターと秘密の部屋」のハーマイオニーちゃん写真だけ見るとちょい育ち過ぎ。こまっしゃくれた可愛さが小憎らしさに変わって来てる。

 たぶん久々の講演会も週末に迫ってて手を握ったり開いたりする姿に再びまみえられそーな山形生さんが、その昔に翻訳した本が自由価格本となって現在「ジュンク堂池袋店」で売られてて海外文学好きはちょい注目。売られているのは「ライターズX」のシリーズで出ていた・ブラムラインの「器官切除」とウィリアム・T・ボルマンの「蝶の物語」。持っていたか持っていないか記憶がなかなか曖昧だけど1000円しない値段だから買ってもまあ、それほど損した気分はしない。「ライターズX」シリーズからは他にカレン・ティ・ヤマシタの「熱帯雨林の彼方」とキャシー・アッカーの「ドン・キホーテ」なんかも出ていたからファンの人マニアの人買い逃していた人は要チェック、ニコルソン・ベイカーの珍作「フェルマータ」のハードカバーも出ていたぞ。表紙がこの本、良いんだよねー、ボンノーに溢れてて。

 栄ちゃんがいない高見ちゃんもいない成沢でもいいのにそれもいない「OURs増刊号」のおまけのアンダーウェア姿マウスパッド。夕に真紀ちゃんに社長が悪いって訳ではないけど順に並べるとリストでは下から数えたくなる面々だったりするんで、これは僕へのなにかイヤガラセじゃないかとすら被害妄想してしまった。せめてまやでもいればなあ、でも尻尾が生えてるんだよなー、穴を通してあるのかな。収録マンガは「頑張れウォルターくん」がなかなかのピンチだけど今こーして爺さんになって生きているってことは勝か逃げるかしたって訳なんでドキドキはしない。「オタがいく」はくるみ先輩のちょっと良い情報が深すぎてまるで分からない、精進せねば、週末のオンリーすべてを制覇するくらいに。次号のマウスパッドはちゃんと栄ちゃん高見ちゃんかな、ブリーフの田波は願い下げ、ビキニの黒猫だったら……うーんトキメかねえ。


【10月22日】 夜は午前零時を回ると途端に瞼が落ちるのに何故か朝は寒さもあって午前6時には目が覚めてしまうこの理不尽、もっと夜更かししたいのに、でもって朝はゆっくり眠っていたいのに出来ない辛さに風邪で流れ落ちる鼻水をすする。会社勤めも飽きたなあ。とりあえずテレビでも見ていると洪水のよーな朝鮮民主主義人民共和国からの帰国者が何したかにしたって報に交じって近づくハロウィンに重なるよーに何年だか前のハロウィンの晩、アメリカはバートンルージュで射殺された名古屋の高校生、服部君の母親がアメリカに行って現地を訪ねて銃社会の在り方なんかを見て回る、北朝鮮が能楽協会で右へ習えなワイドショーにあって独創的な企画が流れててしばし見物する。

 最初はただ息子を射殺された恨みをアメリカに行ってぶつけて回る、「ゆきゆきて神軍」を見るよーな愚直さにあふれ痛々しさに満ちた内容かと思っていたらちょっと違って、アメリカを悪と決めて掛からず銃はいかんと声高に唱える訳でもなく、現地で起こっている銃にまつわるあれやこれやをストレートに紹介していて、構えていた身の堅さをほぐして今、アメリカの現場でどんな風になっているかを感じさせ、考えさせてくれた。

 興味深かったのは銃の練習が行われてる場所へと出向いて撃っている人の姿を見、また銃を持っている若い女性に話を聞いてどうして銃を持っているのかと聞く場面。身を守るためでありそのためには殺すとと言われてそこでは面前とは反論せず、人を撃つならどうして殺すことを最初に考えるのかと自問する姿を流すシーンかはら、日本人にはなかなか理解しがたいものの、銃を必要だとごくごく自然に思い込んでいる国の姿が見えて来るし、自分たちが反撃しなければいつか誰かに自分たちの命を奪われるもしれないとゆー恐怖がごくごく自然に身に入っているアメリカの人の考え方もうかがえる。そう信じている人にそうじゃないって言っても一朝一夕で変わるはずもないし、そもそもそうじゃないって言える手持ちの材料がない。

 ホントのところはどーなんだろー、ってことでギャガ・コミュニケーションズが来年だかに日本で公開するドキュメンタリー映画の「ボウリング・フォー・コロンバイン」を試写で見る。コロンバインとはコロラド州にある高校の名前。1999年4月20日の朝に2人の高校生が銃を持って乗り込んでは乱射して12人の生徒と教師1人を殺害した事件が起こった場所で、ドキュメンタリー映画はそこでの話ともうひとつ、ミシガン州で6歳の子供が親戚の家で見つけた銃をもって学校に行って6歳の女の子を射殺してしまった事件なんかも折り込みながら、どうしてアメリカでは銃による犯罪が多いのか、それはやっぱりアメリカ人がアホだからなのか、ってことを関係者とか偉い人とか俳優とかに聞いて訊ねて歩いて回る様を撮っている。

 監督は最近日本で「アホでマヌケなアメリカ白人」(柏書房、1600円)って本が出たばかりのマイケル・ムーアって人で、ブッシュ大統領を失読症といって批判し白人でありながら白人ばかりが重用され過ぎるハリウッドとかを始めとしたアメリカ社会をとにかく罵倒した本は、聞くところ25週間も週間ベストセラーにランクインしているくらいに売れているとか。先の大統領選挙で、どちらかと言えばラルフ・ネーダーの陣営にいながらブッシュが当選しそうだと知るやブッシュを当選させないために両者が拮抗している地域の人ゴアに入れよう、そーでないな場所ならネーダーで構わない、って主張を繰り広げて物議を醸した話なんかも語られているけれど、本に紹介されているブッシュジュニアがやらかして来たことを読むとホント、とんでもない人を選んだんだね、ってことが見えて来る。それでも2年近く保ってるんだから世界って不思議。でも経済とかあんまり保ってないか。

 とにかく反権力なり理不尽なこと問題にすべきことを冗談と皮肉にくるんでエンターテインメント化して見せることに長けた人で、「ボウリング・フォー・コロンバイン」もドキュメンタリー映画にありがちな、反権力って御旗につきまとうピリピリした感じのまるでない、けれども伝えるべきことはしっかりと伝えて考えさせるべきおとはしっかり考えさせる内容になっている。もっともエンターテインメント的だと言っても特別に奇特なことをしている訳じゃなく、愚直さを装って当たり前のことをすると、帰って来る反応が笑うしかないくらいに奇異だったりしているだけで、ある意味アメリカって国の端から見てのおかしさにくっきりと輪郭線を与えているだけなのかもしれない。

 例えば事件が起こったといって駆けつけてくるマスコミ陣の中にいた一人のダンディなリポーターがカメラに向かって話している間はまじめくさった顔なのに、カメラが止まると風になびく髪を気にしてヘアスプレーはないのかと聞く場面しかり、スモッグにかくれて見えないハリウッドのサインを誰も気にせず子供が溺れたか誰かが銃を振り回したか判然としない事件にのみ強い感心を警官もマスコミも示す場面しかり。見ていてなるほどおかしいんだけど、そのおかしさがギャグではない、リアルな社会のごくごく普通の場面で見られることに居心地の悪さを覚える。っても他国のことなんて言ってる場合じゃないんだけどね、拉致被害者が帰国している話を何らかの形で記事にしなくちゃ乗り遅れているよーな気分を抱く経済が専門のメディアもあるくらいだし。

 それにしても銃犯罪がアメリカに集中的に起こる理由の不思議さには悩むばかり。「ボウリング・フォー・コロンバイン」でもその辺りにはいろいろ迫ってはいるんだけど明確な解答は出されていない。人種の坩堝だから? カナダだってフランスだってドイツにだっていろいろな人種はあふれてる。銃が身近にあるから? カナダの銃の所持率はとてつもなく高い。にもかかわらずアメリカでは毎年1万人以上が銃で死に、カナダでは165人、ドイツでは381人、フランスでは255人しか(結構いるにはいるけれど)死んでいない。英国なんて68人。この差はまったく何なのか。アメリカ人の気質なのか。英国に、ネイティブアメリカンに、黒人に、隣人たちに常に脅えているからなのか。そんな怯えが犯罪にしろ添加物にしろ疫病にしろ天災にしろさまざまな恐怖を日々、メディアが煽って増幅しているからなのか。たぶんいろいろな要素が絡み合ってデフレスパイラル的に銃を持つべきベクトルへと人の気持ちを向けているから、なんだろー。

 もっともどこかタガが外れているよーな所があっても一方ではちゃんと真面目さ、責任、プライドといったものが残っている分、肉偽装事件に絡んだスーパーの返金に事件とは無関係な輩が大行列を作る日本より遥かにアメリカの方がマシなのかも。警官でも市長でも銃万歳のチャールトン・ヘストンでもマリリン・マンソンまでもカメラの前に現れて自分の意見を自信を込めてしっかり話すし、コロンバイン高校の事件で銃撃を受けて怪我をした少年2人が弾丸を打った「Kマート」を訊ねて行く場面でも会社の偉い人たちがちゃんと話を聞くだけじゃなく何らかの対応も見せる。門前払いが関の山で下手すると入り口で警備員にたたき出され警察に通報されてお縄になりかねない日本とは多分偉い違い。マイケル・ムーアが名の通ったジャーナリストで他のメディアも動員したって所もあるにはあるけど、それでも対応を即断即決してみせる機敏さと、マイケル・ムーアの活動に一枚乗って「Kマート」を追いつめる役を買うマスコミのフットワークの軽さ、真っ当さには感心するより他にない。ってゆーか羨ましい。

 とにかくラストまで一直線。しかめっ面しなくても背筋をたださなくても見られてそれでいてあれこれ考えさせられる世界でも稀有なドキュメンタリー映画であることは確か。こーゆー作品がちゃんと作られ大規模に公開されるって事実だけでもアメリカって国はまだまだ捨てがたい。森達也さんの「A」がいったいどれだけの規模で上映されたのか。「A2」なんてどこに行ったら見られるのか。見て「ボウリング・フォー・コロンバイン」ほど面白いかどーかは知らないけれど、社会を扱うドキュメンタリーへの対応って面でどこかにお国柄を感じてしまう。日本でもどれだけの規模になるかは知らないけれど、とりあえずはちゃんと公開されるしきっと話題にもなるだろーからドキュメンタリーを目指す人もジャーナリストの人も行ってテクニックに学びメッセージに考えてみるのが良いでしょー。個人的には民兵のキャンプで上半身裸で映し出された女児に萌え。それでいいのか? それでもいいのだ。


【10月21日】 「毎日新聞」の夕刊だかに今の韓国を代表する漫画っぽい扱いで作品の絵が紹介されてた「新暗行御史」(原作・尹仁完、画・梁慶一、小学館、552円)の第4巻はますますもって絶好調。主人公のかつての部下で滅法強い剣術使いのリーダーを相手に寡黙な美貌でもって圧倒的な体術剣術を繰り出す山道とのバトルから続いてこれまたかつての部下の魔法使いや棒術使いと戦っていくエピソードにひとまず幕。目にも麗しいどんでん返しなんかもあって楽しめはしたものの、本編においてとりあえずは最強だったはずの暗行御史のさらに上をいってしまいそーな存在が出てきたりして、水戸光圀より偉い奴が出ても果たして「水戸黄門」は成り立つのかって疑問なんかも抱く。まあ続いている連載の方では何とかなっているんだろー。単行本に期待。

 それにしても巻を重ねるごとに素晴らしくなっていく「新暗行御史」シリーズ。こういうと韓国の漫画を低く見積もっていたよーに思われる可能性があるけれど、いちおうは漫画先進国を自認していたりする日本の作品にだって、これをなかなか比肩し得るものがないくらいの美麗さ&面白さ。これほどまでの作品とそれを手がけたクリエーターは韓国の果たしてトップなのか、それとも平均的な人たちなのかが知りたくなる。平均だとしたらもはや日本漫画は世界いちぃぃぃぃ、とは絶対に言えないし、そーでなくてもこれだけのものが出てきた以上は第2第3第4と続くことは確実だろーから、やっぱりおちおちとはしていられない。読者としては面白いものが読めればどこの人が描こーと関係ないからね。日本のネタもそろそろ絞り尽くした代理店が韓国に目を付けるのも遠くなさそー、ってかすでにやってるんだろーなー。

 とか言ってる先からやっぱり日本漫画は最強最高だって断言。岡本倫って人の「エルフェンリート」(集英社、505円)は某「ちぃ」みたく頭の横にヘンなものを付けた美少女が表紙でてっきり一般向け漫画誌でもギリギリのエロがありそーなコメディ調の作品かと思ったらとんでもない。どこぞの研究所にレクター博士よろしくグルグル巻きにされて拘束されながらも見えない手を動かして近寄る警備員を殺しまくるミュータントが登場しては、警備の隙を突いて研究所を脱走。途中撃たれた衝撃もあって記憶を失ってしまい独り暮らしの少年に助けられるものの、追ってきた特殊部隊員と渡り合う中で記憶を取り戻して相手を粘土細工でもしているよーに引き裂き捻る。

 グロテスクなはずのシチュエーションを可愛らしくもあっさり描く画調のギャップが読んでて身になかなかシビアで、絵柄と作風からそーなると分かっていた高橋しんさんの「最終兵器彼女」とはまた違った唐突感から来る衝撃にしばし凍り付く。単なる脇役なのに妙な存在感を出しながらミュータントにあっけなく首をひっこ抜かれて死んでしまう女性の描写には、生と髪の毛いっぽんすら隔てずによりそっている死の恐ろしさってものを強く感じさせられて、何度も読み返しては泣きそうになる。厳重な警備がされていてしかるべき施設にいるにはあまりにドジ過ぎるとゆー状況の不可思議さはあるけれど、そーした疑念を吹き飛ばして呆然とさせるインパクトがあった。今年読んだどんな漫画よりも大きいインパクトだったかも。

 お話しはまだ途中で2巻に続くよーだけど、脇じゃなくって本筋の方でもなお悲惨なシーンとか出て来そーで、どんな感じに驚かせてくれるのかに今から強い感心を抱く。いっしょに入っている「MOL」って短編がまた涙もの。姉たちの影響で人形フェチになった少年の所に迷い込んだ人形サイズの小さな少女。つかまえて聞くと側にある研究室から逃げ出してきた研究用の小型人間らしく、仲間たちが次々と殺され自分もあと1週間で死ぬとゆー注射を打たれたことがきっかけで、最後に外を見たいと研究所から逃げ出して来たとか。人形好きな少年は最初はそのサイズに惹かれて小さい少女を囲うけど、サイズの違いをのぞけば普通に会話して食事もすれば遊びにもいく少女に人形とは違った感情を向けるよーになっていく。けれどもそんな暮らしも長くは続かず、少女が言っていた1週間目はついにやって来てしまった。

 せっかく出会えた2人、方や人形フェチから抜けて生き物を相手にできるまでになった少年で、こなた自由を得ることができた少女であるにも関わらず、どうして離ればなれにならなくてはならないのか。「私、生まれる前になにか悪いことしたのかなあ」「だから私、普通の人間に生まれなかったのかなあ」と泣きながらつぶやく少女に笑わなかった少年の顔がほころび少女も微笑むシーンが一転、もはや人形を連れていない少年の姿になってひとやまあってから締められるエンディングの最後のコマに表された哀しい事実と激しい想いにこれまた泣きたくなって来た。カンドーのドラマなんかによくある別離のシーンが絵としては描かれずすっとばされている分、より能動的に頭で起こったことを想像して理解しなくてはならないからなのか、こみあげてくる感情も妙に強く胸に使える感じがする。ニュアンスで見せ感じさせ考えさせる芸はやっぱり日本の漫画のお家芸、絵の巧さとかじゃない部分でまだまだ世界をリードしていけるのかも。10度読んでも10度泣く、ある意味今年もっとも心に届いた漫画。単に純愛に餓えてるだけなのかもしれないけれど。

 マンネリで繰り返しで初心者向けだけどそこが良いって感じに一応は称えているよーに読める「AERA」の10月28日号の記事を出す一方で斎藤美奈子さんを押し立て先週の「虫」さんによる日本語としての不自由さなんかを挙げつらった文章に続けて村上春樹さんの「海辺のカフカ」を大批判する文章を掲載する「週刊朝日」11月1日月号とゆー、同じ会社が出ていながらもまるで感じの違う記事が出てしまう出版状況を見るにつけ、ひとつには作品のとらえどころのない偉大さめいたものを感じつつ、もうひとつには同じ会社でもあっちとこっちに立場を分けていろいな意見を出しては企業としての主体性をもった批判ではないってことを示唆しているよーにもとれて作品への評価以上にメディアとしての矜持への疑義がわき起こる。それで改める会社じゃないのは1億も承知だけど。

 それにしても「ファンを意識したサークルの内輪向け小説」と断じる斎藤さんの捉えるポイントの確かさには改めて敬服。過去の曲のタイトルを折り込んで強引に歌にしてしまったキャンディーズの「微笑みがえし」をファンじゃない一般の人が聞けばやっぱり不思議に想うだろー心理なんかに言及しつつ、「ノルウェイの森」でふくれあがった春樹ファンが「微笑みがえし」以上に拍手喝采で「海辺のカフカ」を受け入れてるなじゃないかって推察している。「文壇アイドル論」を広げた仕事ってことになるけどでもやっぱり個人的にはそーしたパーソナリティからたどる感じが色濃い文章ではなしに、純粋に文学として、小説として物語としてどーよ、ってあたりから煮るなり斬るなりして欲しかった気が。まあそれをやらないからこそ書評家じゃなく、文章の「芸」達者ぶりを見せつける文章の芸、文芸を評論する「文芸評論家」として斎藤さんに注目が集まっているのかな。


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