縮刷版2001年9月中旬号


【9月30日】 ロルーペを抜きシューレス・ジョーを抜いて世界に冠たる記録が生まれた翌日のスポーツ新聞の1面が「長嶋ドームでお別れ」だったら幾ら「スポーツ報知」でも怒るよもー。すでにして某工業新聞が神戸の迎木監督名古屋の星野監督所沢の東尾監督の辞任退任にはかけらも触れず、組織的に偉い人の鶴の一声でもって長嶋監督の辞任にかこつけた財界経済界の偉い人のコメント集めに記者を総動員してたりするから他紙のことはあんまり言えなかったりするんだけど、スポーツを伝えてナンボのスポーツ新聞がスポーツとして最も大切な選手の活躍、それも世紀に残る大活躍を差し置いて、30年以上も前に活躍していたらしー人のたかだか第一線からの退出を持って来たらやっぱりそれは異常とゆーより他にない。

 さすがにそこまで気張るスポーツ新聞はないとは思うけど(「スポーツ報知」はでも分からんなあ)、それでも中面で見開きとか使っていたらやっぱり怒ってしまいそー。実のところは監督辞任報道ですら、あそこまで騒いでホントに良いの? って気持ちが浮かんだ位だったりする。それは別に長嶋監督が嫌いとかってんじゃなく、30歳以下の人にとっては記憶にすら絶対に選手時代の活躍が残っていない人で、監督としても成績的に圧倒的とはいいがたかった人をどーしてあそこまで大フィーチャーするのか、って感じのスポーツマスコミのスタンスに対する違和感に起因するもので、現役時代の圧倒的に格好良かった長嶋の記憶を持ったおそらくは40歳以上の人しかほとんど相手にしていないよーな紙面作り、番組作りをしていて、メディアとして果たして未来はあるんだろーかと心配してしまった、自分家のことは棚に上げて、だけど。

 「巨人軍は永遠に不滅です」と大見得を切った翌年に最下位とゆー不滅の不名誉な記録を作った野郎、とゆーのが個人的な長嶋の第一印象で、以来ときどきは優勝してもたいていは優柔不断な采配ぶりでチームを混乱の渦へと陥れた名とゆーよりは迷監督、ってのが長嶋監督への偽らざる印象。社会人生活10余年の僕をしてそんな印象しかない人間を、さらに下の人間が心より讃美し崇め奉っているのが実のところ不思議でしょうがなく、それはあるいは一種のダメ萌えなんだろーかと訝ってみたりするけれど真相は不明。ともかくも30歳未満の現役記者が50歳、60歳代のロートル経営幹部に編集幹部の古びた感性に嫌々ながらも従って、40歳50歳代の世代以外の誰が読むとも知れない長嶋礼賛の紙面を作りまた、番組を作って一切の疑問を抱かないスポーツマスコミの、勘性いかばかりかと眉間に皺寄せて思考にのたうち回る。これでヤクルトの優勝が長嶋の最終戦に潰されたら(潰されると感じる時点ですでにどこかズレてるんだけど)、疑念はますますの憤りとなって吹き出しそー。スポーツマスコミの今とそして未来が問われる一週間が始まった。

 まさか忌野清志郎だったとは。って何のことかと言えば浅田寅ヲさんが作画を担当した森博嗣さん原作のコミック「すべてがFになる」(ソニー・マガジンズ、620円)に描かれた犀川蒼平助教授のこと。あれこれ想像をたくましく姿を思い描いてはいたけれど、まさかこうまでパンクにロックな風体だとは予想だにしていなかった、眼鏡なんてアンダーフレームだし、それも角の尖った珍しいタイプの。けど不思議と読んでいると彼こそが犀川蒼平だって思えて来るのがビジュアルの持つ魔力とそして浅田さんの本編を窮め尽くした上で描いたストーリーテリングの力。時にあせあせしながらもやるときにはビチッとやる、指向性に優れ思索力に溢れた名探偵の姿がそこに浮かんで来る。

 萌絵も萌絵で最初にちょい抱いた違和感がたちまちのうちに払拭されていくから不思議なもの。秀才っぽさを冒頭て披露させながらもどこか抜けた所をちゃんと押さえて描いている辺りから、まさしくこれが西之園萌絵だと思えて来るから素晴らしい。真賀田四季博士の研究所へと向かって砂浜を蒼平と歩く萌絵のピースマークもどきなにへら顔(30ページ)とか、直後の蒼平が心で放ったつぶやきを鋭敏に察して「はい?」と疑念混じりの声を放った萌絵の点目顔(31ページ)とかが、切れ者にしてキレ者な萌絵の雰囲気を巧みに醸し出している、よーな気がする。国枝桃子だけはちょい美麗過ぎるって気もしないでもないけれど、ともあれ圧倒的にスタイリッシュな人物描写に情景描写背景描写でもって描かれたコミック版「すべてがFになる」が、ビジュアル面での「すべてがFになる」の今やスタンダードになってしまったことは事実。後に続く人がいたとしたら、これが基準になる訳で、何もなかった時以上に苦闘と苦労が見られそー。出来れば浅田さんにシリーズ全作、無理なら最終話だけでも再びの漫画化に挑んでもらいたい。頼みます。

 「電撃アニマガSPECIAL」だなんて「ジ・アニメ増刊」とか「マイ・アニメ別冊」とか「アニメVムック」とかより親近感と懐かしさが湧くシリーズ名だなあ、なんてふと遠い目をしてしまった「電撃アニマガSPECIAL ギャラクシーエンジェル エンジェル隊お仕事ファイル」(メディアワークス、950円)。ちなみに既に知らない人がいるかも知れないから書いておくと「アニマガ」は「アニメーションマガジン」の略だったりするんだけど、言っても詮無いんで脇へとおいて「エンジェル隊お仕事ファイル」について書くとするなら、版型の小さい割にはストーリー紹介もキャラクター紹介も声優紹介も監督紹介もちゃんと載っててそれなりに役立つムックであることだけは間違いない。

 本編よりも人気かもしれないオープニングを小さいコマながらもほとんどすべておさえている辺りの気の使いようはなかなかだし、各話紹介の脇にそえられたスタッフインタビューとおまけイラストも結構結構。2話目までしか見てない状況で言うのも何だけど、時に15分ですら抑え切れていない時もあるシナリオのテンポが、絵だけだとまったく分からず純粋に楽しくお茶目な作品に思えてくるから素晴らしい。未見の2話目以降のストーリーとかを詳しく読むのは今は差し控えているけれど、2話目までではほとんど姿の見せないミントが「悪党」で「腹黒い」って情報はとても気になる所。最新の「フロムゲーマーズ」でもちょっぴり悪党ぶりを見せてくれていたけれど、早く2巻3巻を買って3話から10話までを一気見して、その悪党ぶり、その腹黒さをこの目でしかと確かめたい。何か泥沼へとハマり込んで行きそーな予感。まいっか、お気楽アニメだし。


【9月29日】 ドナドナドナ。狂牛病になった牛が現れたってゆー千葉県の農場にいた乳牛が検査のためにまとめて連れていかれるってゆー映像をニュースで見て、荷台の隙間から鼻面とかのぞかせながらトラックで運ばれていく牛たちの姿にオーバーラップして、牛舎に手向けられた花束と家族からの「ご苦労さまでした。ほかに発生のないことを願っています 家族より」とゆーメッセージが映し出された場面で不覚にも涙ぐむ、嗚呼ドナドナドナ。

 「検査」ってゆーから無事だったらまた帰ってくるのかを思っていたらさにあらず、延髄斬りして脳味噌取り出してスポンジになっているかはともかくプリオン病原体がいるかどーかを確認するってことらしく、つまりは終わった時には誰も生きちゃいないって訳で、子牛の頃から可愛がって育てて来ただろー牛たちを根こそぎ失ってしまう牧場主の家族たちのいたたまれない気持ちに何か同情してしまい、じんわりと涙が浮かんで来る。歳かなあ、「SPA!」でもおっさんの落涙に関する記事とか特集してたし。

 ヤングアダルトの世界で結構なベテランらしーけど、最近はとんと新作がご無沙汰だった日野鏡子さんの実に4年ぶりとかゆー新刊「ブルー・ポイント」(朝日ソノラマ、476円)を読んで涙ぐむ、またかい。手にはめた赤い指輪をこちらに向けて足八の字にして空中に浮かぶおしゃまな顔した魔女っ娘な美少女に萌えて買ったって訳では決してないけれど、表紙から受けるイメージとはまるで正反対のハードで深淵な内容に、生きていることの素晴らしさと難しさなんかを改めて考えさせられて、背筋をピンと立てさせられる。

 目覚めるとそこは謎の国。南を壁、北を山、東西は果てしない荒野だかが続いて狩人が跳梁する土地で、誰1人として逃げ出すことが適わないその閉鎖空間から出るには、善行を積んで「青ポイント」なるものを貯めるしかないのだという。そんな国に気がつくといた穂積和人は、閉じこめられたことへの憤りか単なる押しつけへの反発か、言うことをきかず3人の仲間を集めてひたすらに脱走を繰り返すばかりだったが、何度やっても失敗する状況に仲間は1人去り2人去り、3人目には裏切られるとゆー始末。自棄になりかかっていた所に、現れては住人たちを溶かしてしまう魔女を退治すれば「青ポイント」が沢山与えられるとゆー話が国を治める太守から出てきて、和人は渋々ながらも魔女狩りへと赴くことになる。

 シニカルでいることが格好良いと思える時期にいる人だと、読んでも多分「ケッ」としか感じないだろーし、まさしくそんな世代の代表格みたいな人物も物語に登場してはひたすらにシニカルな態度を撮り続けているけれど、そーゆー時期にある人がいることを了解しつつも何時までもそーではいられない事実を提示して、さあどーするんだと語りかけて来る感じがあって、社会人生活10余年、あらえっさっさの時代を抜けて多少はこの世もあの世も考えなくっちゃいけない時期に入って来た身にジンと響く。優しさや慈しみを、格好良いとか悪いとかいった価値観抜きに示せる域にはまだまだ到達できてはいないけど、優しさと慈しみを、少しは意識して生きていかなくちゃいかんかなあー、とか読み終えて考える。電車で席はちゃんと譲ろう。

 内容で言うならタイトルを出すとバレバレになってしまうから隠しておくけど夢枕獏さんが割と初期に雑誌に発表した短編を主題の重なる作品で、主義としては存在を否定したい場所が舞台になっていて取り扱いにちょっと悩むけど、間違った方向への希望に対してきちんと釘をさした上で、今、そしてこれから何をしたら良いんだろうかと考えさせる意味で、何を読んでもシニカルに受け止めるよーになる前の若い人にも読んでもらいたい本だし、作者と同様に社会人としてもまれまくり、経済的な苦境(プロフィールの「経済状態・よろしくない」に涙、ベテラン作家で「ポヤッチオ」のシナリオライターでもこーなのか)も経た上で、人生に決着をつける時期にある人もいろいろと感じられる1冊。昔のとか探して読んでみよ。


【9月28日】 「ヤングキングアワーズ」11月号は真紀ちゃん大サービス。ミニスカートの奥底をモロ覗かせているなんて程度じゃきなかいくらいにスッポンポンのポポンな姿を披露してくれていて、ページをめくる程に目に嬉しく、心に楽しくなって来る。そのあまりなスッポンポンぶりにかえって意欲が(どんな意欲だ)減殺されてしまうのがちょっど残念、水着程度じゃ今さらピクつかないのと似た理由。もちろん現物をナマで直に見せられたとしたらその時はその時、真っ直ぐ立っているのが苦しい状況へと追い込まれること確実なんだろーけれど。温泉バトルに続いて永久保存級の号ですね。

 シーンとして登場する御在所嶽のロープウェイや山頂の様子や飛び出すニホンカモシカ、はいないけどともかく三重県の奥地にある昔はスキーだって出来た(今もできるのかな)山をちゃんと描写している辺りから類推するに、何事においても取材を綿密にこなした上で絵に描きそーな伊藤明弘さんだけに、真紀ちゃんの実にトリンプがワコールな格好も、ちゃんと取材した上での描写なのかもしれず、嫉妬混じりの羨望を遠く綾金に向けてジグジグと発信したくなってしまった。中身も真紀ちゃん級だったのかな。まさかモデルは自分……考えない考えたくない。口先だけの野郎かと思っていたらトカレフの柾の圧倒的な火力ぶりが登場して見直すことしきり。両手の2丁拳銃でマガジンの好感とチェンバーへの初弾の送り込みをいったいどーやったんだろー。セーフティとかうまく使ってるよーにも見えるけどハッキリした所は不明。誰か実演して見せてくれー。

 「エクセルサーガ」な新たなる謎キャラ登場、可愛いんだけどボケてる辺りが大人好みなんだろーけど残念にも四王寺のゾーンではなかったみたい、って彼狭いしね(人のことは言えん)。「朝霧の巫女」は柚子の「馬鹿はあんまりだよう…」のセリフに発情。可憐だ……毒吐いてないと。「ピルグリム・イェーガー」は話がまだ見えないけれど美少女の美少女ぶりは流石に伊藤真美さん、アクションも含めてきっちり描かれていて目に嬉しい。あれを「芸」と呼び彼女たちを「芸人」とゆー背景はいつごろになったら明かされるんだろー。一仕事追えた後の決めセリフ「お後がよろしいようで」はなるほど芸人っぽいけど同時に日本の落語っぽさもあって、中世ヨーロッパっぽい絵柄にキャラとのマッチングが取りづらい。かといって19世紀末ロンドンを舞台に猟奇殺人の真相と夫殺しの女の生涯を描いたピーター・アクロイドの「切り裂き魔、ゴーレム」(池田栄一訳、白水社)に出てくる曲芸師みたく、「またもや、まかり出ました!」なんて言わせてもちょっと分からないだろーし。まあ読んでいれば慣れるんだろ。とりあえず要経過観察。

 年に1度の(3度も4度もあったら価値ないけど)電撃ブランドの新人賞、「第8回電撃ゲーム3大賞」の授賞式に潜り込む。まずは授賞式で漫画にイラストの部門から順に受賞者の発表があって、若い人若く見える人男性の人女性っぽい人ほかいろいろな人が壇上に上がっては、選考委員の人から表彰状と記念品なんかを贈られていた。小説部門ばかりが注目されるけど「電撃ゲーム3大賞」、イラストとか漫画からもそれなりな人がちゃんと出ている、んじゃないかと思うし現実に出ているらしーんだけど、根が小説読みなもんであんまり気合いを入れて観察しておらず実力なんかの評価も不能。印象で言うならイラスト部門で金賞を獲得した仲秋勇作さんって人は、プロとして活躍してるらしー人だけあって絵柄もデザインもしっかりしていて、寺田克也さんぽくも村田蓮爾さんぽくもあるけれど可愛らしさと迫力を兼ね備えたなかなかな実力で将来が期待できそー。唾つけとけば良かったかな。

 小説部門では3部門で唯一の大賞が出現。田村登正ってが書いたその大賞受賞作品は、「大唐風雲記 長安の履児、虎の尾を踏む」なんて講談か何かみたいな大仰な古めかしいタイトルが付けられていて、あるいは古めかしいことを若い人がスラスラと書いて評価されたんだろーかなんて考えたけれど、登壇した受賞者の見るからに年季入っていそーな姿言葉に、見せかけのチャイニーズ物とは違うかもしれないってな気分が沸いて来る。「中国の史実をモチーフに、ユニークなキャラクターたちが繰り広げるタイム・トリップ・アドベンチャー」ってあるけど楊貴妃とか武則天とかに史実以上の脚色があるらしくちょっと楽しみ。20世紀半ば生まれってプロフィールにあるけれど、これってどーやら韜晦でも自虐でもないらしー。ライトノベル関連新人賞始まっていらいの最高齢者か、もしかして。

 女性の活躍が目立ち初めてた電撃文庫だけあって今回の大賞銀賞2人選考委員奨励賞2人の5人ともが男性とゆーのはちょっと意外、でもって全員がピチッとしたスーツ姿で神妙な面もちで壇上に並んでいる姿を見るにつけ、無頼の徒ばかりが小説を書くんじゃなく、ごくごく普通の人が一所懸命書いて応募して来る時代なんだなー、ってことを考える。でも受賞後に本性が出て来る可能性もあるから未来は不明。現に会場に集まっていた歴代受賞者とか先輩作家の人たちの中には……あれれ皆さん真っ当だ。暴れてる人もいないし寝転がっている人もいないしコスプレ姿の人もいないし水着もヌードも1人もいない。常識あっての小説書き、ってことなのかな。とは言え遠巻きに観察していただけなんで、グラス片手の会話があるいは時宜にかなっていたか否かまでは分からないけどね。

 作家の人は作家の人たちで固まっていて業界の人は業界の人で固まっていたりするのがパーティーの常、間に挟まって出没の人はどっちにも行けず壁際でひたすら状況の観察に務める。ブギーポップの人とかタツモリ家の人とか鋼鉄の同志の人とかガンヘッド作りの人とかバトルシップの人とかドッコイダーの人とかダブルブリッドらしー人とか勝ち戦の君とかいっぱいいっぱい立っていて、会社創立からそろそろ10年、賞自体も創設から今回で8回とゆー、それなりの歴史を重ねた結果がそこにちゃんと出て来ているなーってことを実感する。目の前を「ウィザーズ・ブレイン」(メディアワークス、610円)の三枝零一さんとか「天剣王器」(メディアワークス、570円)の海羽超史郎さんとかも通り過ぎて、こーゆー人だったんだってことを確認する。確認しただけだけど。

 編集の人で知っている人がいたんで挨拶、「シスタープリンセス」のとてつもない秘密を聞く、そそそそそそーだったんですか。適当に見計らって辞去するとくれたのが「陰陽ノ京」に「ウィザーズ・ブレイン」に「天国に涙はいらない」の第7回受賞作3点セット、全部読んでんですけど。奥付を見て「天国に涙はいらない」が5刷になっているのを見てちょっとだけ吃驚。たしかに3巻まで発売されててどんどんと面白さが染み出て来ているからこの増刷ぶりは当然なんだけど、小説読みの受けが良かった「陰陽ノ京」がまだ初版ってのはやや意外。ヤングアダルトってレーベルで求められているものが何かってことを改めて思い知らされる。まあ、たまちゃんには誰だってかなわないんだけど。


【9月27日】 何でか知らないけど送られて来た石井隆さん「名美・イン・ブルー」(ロッキング・オン、1500円)なんかをペラペラ。巻末のあとがきの文章がなかなかに泣かせる内容で、「三流エロ劇画」とゆーレッテルの下、何を描いても女性蔑視的なスタンスからしか語られず絵の巧みさ内容の深さを指摘されてもそれとて表面的な域を出ず、悶々として鬱々としていた話が綴られていて今も昔も著名過ぎるくらいに著名な漫画家ですらこの屈折ぶりなら、今どきの有名無名とりまぜたエロ漫画描きの人たちたるやどれほどの鬱屈を抱えているんだろーと想像してしまったけれど、規制は規制として未だに存在していても、あっけらかんと性交の場面まで含めて表現された作品が、コンビニエンスストアの店頭なんかで半ば公然と売られてしまう状況なんかを考えると、石井さんが今みたく映画監督としてではなく、漫画描きとして活躍していた時代とはやっぱり違った開放感があるのかもしれない。

 なにしろ石井さんの後書きには、自分の作品を今は亡くなってしまった奥さんの実家に1度たりとも贈ったことがないって話が書かれていて、それが単なる”日陰者”としての矜持だったのか、それともやっぱり公然と送れる内容じゃないと自覚していたのかは判然とはいないけれど、少なくとも楽な気持ちで自分の作品を語れる状況には、以前はなかったんだろーってことが伺える。「名美」シリーズの名高さはもう10年以上も前から存分に言われて来たにも関わらず、こーゆーどこか自虐的、自嘲的なスタンスに自分を置き続けざるを得なかったその心理が、今読んでもストレートな官能とは別に思索的、思弁的な雰囲気を作品から感じさせる源流になっている、なんてこともあるんだろーかないんだろーか。その辺はやっぱりプロのエロ漫画描きなりエロ漫画批評家なりに検討し検証してもらいたい。

 吉本ばななさんが何故か文章を巻末に寄せていて、それが載っているこの本だったら妻は多分実家に贈っただろーとゆーのが分かるよーで分からないよーでちょっと複雑、吉本ばななさんってそれほどまでにある種のネームバリューなり権威なり潔癖さを醸し出すキーワードたり得るんだろーか。あと表現形式なりストーリー展開については語る口をあんまり持ってないけれど、描かれた70年代のとりわけ後半に依拠する意匠が多く見られるのが、その頃にティーンだった自分の記憶を刺激して懐かしさに目が潤む。例えば173ページに描かれたカセットデッキに入ったテープがTDKの「SA」ってのが懐かしい。ノーマルより高音質だけどメタルほど高くなかったクロムのこのテープ、僕も結構使ったんだよなー、エアチェックとかに。

 登場する1万円札はまだ聖徳太子だし、ストーブはファンヒーターじゃなく反射鏡つきの石油ストーブで上に薬缶がかけられそー。車の形なんかにも見覚えがあって(トレノとかギャランシグマとか)記憶が一気に70年代へと引き戻される。残念にも当然ながら女性との漫画に描かれているよーなくんずほぐれつな関係は、そーした思い出には一切入らないし、従って当時のラブホテルの意匠なり備え付けられた装置なりへの同時代的な感傷も沸かないんだけど、そーいったものも含めて記憶を刺激してくれるくらいに緻密な絵(写真も混じっているんだろーけど)を描く人だったってことを改めて思い知らされる。これがきっかけになって絶版作品も復刻して来てくれれば勢いで買っちゃいそー。ついでに映画も見直しちゃいそー。葉月里緒奈さん主演の「黒の天使 Vol.1」とか、深夜に見てなかなかの迫力だったし。

 今やユーゴスラビアサッカー協会会長とゆー重責にあり、たかだかJリーグチェアマンでしかない川淵三郎さんなんかを立場的に下に見るよーになってしまったドラガン・ストイコビッチのサッカー人生を、実に3時間28分とゆー超大なビデオおよび500枚もの写真で振り返るDVD「ザ・レジェンド・オブ・ストイコビッチ」を買う、もち国民の義務なんで。DVDクオリティだけあってピクシーがピッチ上を華麗に舞い、ゴールネットにシュートを突き刺すシーンが実に鮮やかな映像で収録されていて、そのクッキリさに今もまだ現役にいてすぐ向こうで活躍してるんじゃないかってな錯覚に陥る。2001年に入ってのラスト2戦は、ピクシー専用カメラで撮った映像もふんだんい使われていて、動きがつぶさに分かってファンには答えられない内容。それにしても引退間際でこれだけ動けるんだから、やっぱり凄い選手だったとしか他に言いようがない。引退、まだしなくても良かったんじゃないかなー。見られないけどレッドスターを招いた引退記念試合、どれだけ動くか楽しみだね。

 フリーキックの正確さ、ラストパスのアイディアの豊富さもさることながら、左サイドからディフェンダーを1人だろーが2人だろーが構わず抜き去り突破していく技の何とまあ素晴らしいことよ。パッと見でまずはテクニックの凄さを確認し、スローで再生して重心のかけかた足首の使い方なんかをチェックしていく楽しみ方ができるのも、DVDならではの利点と言えるかも。繰り返し見ているとあるいは自分も明日からピクシー、なんて思えて来るけれど実際にやれと言われて出来ないのがピクシーのピクシーたる所以。それでも子供の頃からその動きを記憶に焼き付けさせておけば、目から入った動きの情報が筋肉をも支配するよーになって、ピクシーならではの動きをさせるよーになるかも。サッカー選手のそれもとびっきりのサッカー選手に子供を育て上げたい親は1家に1枚必携のDVD。買っておいて損なし。

 うーんそう来たか「NOIR」最終回。途中2回ほど見てなかったんでクロエがどーなったかは知らなかったけど、とはいえ多分あーなるとは想像していたけれど、まるでトリトンのよーな格好に霧香がなっているとまでは気がつかなかった。ラスボスとの対決とその結果もまあ、想像の域を出るものではなかったし想像を越えた感動をそれほど与えてもくれなかったけど、順当さで言うならこれほどまでに順当な終わり方もなかった訳で、それなりに楽しめたとだけは言えそー。ラストに響いた2発はやっぱり……なんだろーか。

 それすらもまあ順当どころか決まり過ぎなうちに入るんだけど、妙な続編期待なんかを持たせるよりは「カウボーイ・ビバップ」よろしく作品としてケリをちゃんと付ける意味で正しい選択だったのかも。といっても「ビバップ」ほどハッキリはしていないから、あるいは再びの登場なんてものが……ないよなあ。途中霧香の喋りがアリーテ姫っぽくなったのが耳に楽しかった1点、TARAKOさんはいつまでたってもまる子にならなかったのが残念な1点。まる子吹き替えのアルテナ対月野うさぎなミレイユ&ミスマルユリカの霧香を聞いてみてえ。


【9月26日】 「ヘルシング」(平野耕太、少年画報社、495円)の第4巻を読む。「アニメ化決定!」とかって帯がついてないのは潔さの現れか、それとも店によってはついてるのかな。裏側の表紙に描かれている美少年が一瞬、誰か分からずこんなキャラいたっけと頭の中を走査したけど出てこず脇に書かれた名前を読んで納得、ウォルターのどえりゃー(ものすごく)若い頃、でした。とりあえず連載で全部読んでるんで改めての発見は本編以外のそんな部分くらいだけど(カラオケに励む大佐とか)、中にあった少佐の「世の中には手段の為ならば目的を選ばないという様などうしようもない連中も確実に存在するのだ」とゆーセリフが今のタイミングになかななか含蓄で、目的を標榜しているアルカイーダの面々の、成り立ちはともかく今となっては目的が抜けて手段にのみ、重点が移ってる可能性はないんだろーかと想像してみる。テロって往々にしてそーなりがちだし。

 もちろんイスラム原理主義の復興ってゆー”目的”が今でも深く横たわっているんだろーけれど、それとて初期のいかんともしがたい状況から立ち上がるための原動力だったものが、今は人々をたばねるための方便になってる可能性も考えられたりする訳で、現状の茫洋としら不安感に怯え、心にぽっかりと空いた穴に入り込んで根付いてしまった”目的”とやらに付き動かされて、その実現状の破壊とゆー”手段”を楽しんでいる、のかもしれない。目的を持った人たちだったらその目的が適うなり、潰えるなりすればそこで一段落がつくんだろーけれど、手段が目的にすりかわってしまった人たち相手に事を構えるとなると、やっぱり根こそぎひっこぬくしかなさそーな気もして、これからの展開にいささかの不安が募る。長い闘いにやっぱり、なるんだろーなー、それこそ1000年、2000年規模の。

 タリバン封じ込めに米国が北部同盟とかいった敵対勢力との連帯を図ろーとしているってなニュースが流れているけれど、たまさか増刷なった「タリバン」(アハメド・ラシッド、坂井定雄、伊藤地力司訳、講談社、2800円)なんかを読むと、米国のそんな態度がいかに自国の、とゆーか自政権のご都合主義に根ざしているものかがわかってちょっぴり辟易する。ソ連相手にドンパチやっていた時は大国の威信をかけてあれこれ援助をしたものの、終わるとさっさと引き上げて国の安定化には一切手をかさず、結局それが今の混乱につながっていたりするし、ソ連崩壊で中央アジアの石油資源に注目が集まるよーになると、今度は安定化を求めて手っ取り早くタリバンを支援して、結果あのとんでもない「フランケンシュタイン」を作り出してしまった。

 それが一転、タリバンの女性抑圧政策が市民運動の間で問題になってくると、大統領選挙とかでの票が気になるのか手を翻したよーに反タリバンへ。ほかにも要素はいろいろあるけれど、そんな経緯を見ていると今回の一件、たとえ理はあってもあまりに居丈高な米国の態度に心底からなかなか組みすることができない。もっともこの「タリバン」なんかで仔細に分析され、指摘されたことを今になってよーやく理解したんだろーか、大見得を切って戦争だ何だと叫ぶ一方で、全面戦争が決して得策ではないことを米国もしっかり分かってるっぽい感じがしないでもない。

 軍事力を集結させて力の違いを見せつけながらも、周辺の国々や敵対勢力なんかと結んで包囲網をつくって兵糧責めって訳じゃないけどプレッシャーでもって弱体化させ、話し合いの場へと引っ張り出そーとしている節もあってと、なかなかしたたかな所も今のところは見せている。ホットに見えて実はクールなのかも。まあ高まる世論やメディアの論調に流されるのも過去の常なんで将来は分からないけれど、ここをうまく切り抜けられたら小ブッシュ大統領、世紀に名を残すことだってあるかも。引っ張られ番犬よろしく吠えまくった挙げ句に踏み台外される日本の総理は誰にも知られずに退場、それもそれで日本らしーけど。

 「エクセル・サーガ」(六道神士、少年画報社、495円)の8巻を読む。表紙だけ見ると「ハイアット&エルガーラ・サーガ」になっててビジュアル的には良い感じ、でも可哀想。これも大体全部連載で読んでいるけど相変わらず一体どこへと話が向かおうとしているのかが見えない所が良くも悪くも「エクセル・サーガ」。イルパラッィオ様と蒲腐とのほのめかされ続けてきた因縁はまだまだほのめかされ続けるだけになりそーだし、エルガーラって新キャラ加わっても三つ巴で安定するなんてことはなく、かえってエクセルの焦りから来る暴走と挙げ句の大失敗を招いて話をさらなるスター・ボウの彼方へと引っ張って行きそーで、8巻まで重なった話数はきっとまだまだ伸びて、今はどれが記録保持者かは知らないけれど「ヤングキング・アワーズ」の最長不至を達成し後進し継続し、サザエさんドラえもん的な国民的漫画として世にその名を轟かせることになるんだろー、とか言ってたら来年とかにあっさり終わったりして。その前に雑誌自体の将来だって……不況は怖いからなあ。


【9月25日】 とか思ってたら「SFオンライン」の9月25日発行号に掲載された「第40回日本SF大会」を振り返ったインタビューの中で、小松左京さんがしっかりと米国同時多発テロについて言及されているのを発見、加えて「SFができること」についてもちゃんと話していて、こーゆーコメントが欲しかったんだと嬉しくなる。昔だったら驚天動地な事件が起これば新聞雑誌テレビが必ずや、真っ先にSF作家のところへいって、コメントをとっていたものなんだがなあ、三島由紀夫さんの割腹について筒井康隆さんが、見事鮮やかに唖然とした時代の気分を捉えてみせた「いたかっただらうな」とゆー文章を発表した例も確かあったし。

 SFは力不足なの? と下手に振った質問に答えた「そやない。そんなことはない。必勝の信念とか、必殺の信念とか、僕は第二次大戦の時に実際に体験してるけど、ああいう危ないものを相対化して扱えるのがSFなわけで、逆にSFをそういうものとして考え直さなあかん」とゆー小松さんの言葉の何と強く響くことか。怒られ覚悟で聞いた堺三保さんには厚く御礼、この言葉が聞きたかったんです。問題はこーした、あらゆる事象について表向きは茶化しつつもその実本質をとらえ、相対化して俯瞰する技と力を持っていたし今も人によってはちゃんと持っているSF作家を使いこなせる余裕が世のメディアにないことで、分かりやすく白だ白だ(黒はいらない)と言ってくれる人が受け且つ求められてしまう世の中では、小松さんと言えども出る幕がなかなかないんだろー。ウチでは予算がなあ……取材費はもとよりタクシー代もカットだからなあ。「小松左京賞」で何かスピーチしてくれたら賞に絡めてそれを記事にしよー。

 バンダイからリリース。今もまだある「ワンダースワンカラー」に今さらとゆーかよーやくとゆーか、ソニー・コンピュータエンタテインメントジャパンとセガがソフトをちょろちょろ小出しに供給していくとゆー内容で、セガに関しては開発はやるけど発売ばバンダイってゆー請け負い仕事めいた感じにして多分リスクをなくしてるっぽい感じがあって、上っ面の「ソフトラインアップが増えまっせ」的雰囲気をなかなか素直に見られない。とはいえかつて「ゲームボーイ」だって苦節3年だか5年だか7年を経て「ポケットモンスター」で息を吹き返した訳で、性能がとてつもなく向上した一方で、手にはデカく腕には重たくなってしまった「ゲームボーイアドバンス」に比べて圧倒的に小さく軽く電池だって長持ちな「ワンダースワンカラー」のアドバンテージが活かせれば、隙間にもぐりこんで蔓延る余地は決して皆無ではなさそー、とか思っていたら携帯電話に次世代携帯電話が続々登場、性能はともかく小さくて軽くて電話までかけられる。うーんやっぱり時代の隙間にひっそりさいた徒花になるのかWSC(ワンダーショウケースじゃないよ)。

 にょにょにょにょにょっとブロッコリーの年末にかけての商品説明会。主にバイヤー向けの会合だけどオタクビジネスを雑誌で取りあげたいからと今をときめくブロッコリーの状況を観察に来た編集の人とか、ビジネス絡みで見に来させられた業界の人とかも混じってて世の関心の高さを伺わせる。僕? 僕は単なるでじこファン。けど発表のメインは主に人気の「ベイブレード」関連で、「ゲームボーイアドバンス」向けのゲームに「ベイブレード」を題材にしたカードゲームといった商品を紹介しつつ、まだまだ行けるぞ「ベイブレード」ってな感じで意気を上げていた。実際のところどーよ、と言われても子供がいない身では人気の程とかちょっと体感できないけれど、聞くと11月に何と「両国国技館」で「ベイブレード」の全国大会が開催されるそーで、「東京ドーム」を喧噪の渦へと叩き込んだ「遊戯王カード」の、騒動じゃない人気の部分での二の舞をちゃんと演じてるみたい。土俵の上でブレード回すと面白いけどそれは流石にやらないだろーな。国技館自体がコマっぽい形をしてるんで、クリストに頼んでコマみたくラッピングしてもられば受けるんだど。

 「デ・ジ・キャラット」関連でも幾つか発表。何か「ちゃお」で連載が始まるそーで、ほかの媒体で繰り広げられている迂闊者でイジワルなでじこに毒舌のぷちこに貧乏なうさだといった面々とはちょい違う(のかな)、ほのぽのぱにょぱにょした「でじこワールド」が繰り広げら得ることになるらしー。子供受け対策、やね。カードゲームの新しいCMは「TINAMIX」のイベントにも出没した例の着ぐるみでじこがやっぱり登場して今度はうさだと対戦、相変わらずのビジュアル的な凄みを見せてくれてます。関係ないけど「フロムゲーマーズ」の連載ではほっけみりんに子供が誕生してこれがなかなかの可愛らしさ、背中の文字ってのは何? ってゆーかそもそもほっけみりんて猫だったの? あと「アクエリアンエイジ」はアニメ化も控えて新しいシリーズも登場して新しいプロモーション映像も完成して、これがなかなかな出来でDVDで欲しくなる。カードかったらもらえるんだったらカードカートンで買ってしまいそー。ああハマってるハメられてる(今さら言うか)。


【9月24日】 22日にはすでに1部の店頭に並んでいて買って帰ったら家にも届いていた「SFマガジン」の11月号で果たして、11日に起こった米国同時多発テロの話題に触れられたかどーかとゆー疑問はおそらく、与えられた締め切りとゆー課題にどこまで挑戦的になれるのか、とゆー書き手にとっては甚だ魅力的に映りまた、編集者にとってはとてつもなく恐怖心を煽られる問題に迫るものだろーけれど、「日本SF大会2001」の大会リポートを1本、「小松左京SFのビジョンを問う」で寄せている身として確か、事件なんてまだカケラもなかった時期に原稿を送付したと記憶していることから想像するに、後日書くよーに言われた近況はともかくとして、本文で言及できる状況には確かなかったはずだろー。

 にも関わらず鹿野司さん、香山リカさんの2人が事件について言及できているとゆーことからつまり、相当にギリギリのスケジュールでの作業が編集部内で繰り広げられたことだろーと想像して、その苦労に涙する。香山さんは16日時点、って書いているから製本まで1週間もなかったはずだろーし。しかしながらも事件発生からそれほど間がなかった段階で、香山さん鹿野さんともに事件の背後に漂う「闇雲感」(香山さん)なり「深い怨念と絶望」(鹿野さん)といったものに言及しているのはなかなか。それが冷戦構造から進んで「文明の衝突」と捉えたものだとしても、しょせんはぶつかりあう思想・信条の違いめいたものへと、今の状況を図式化してしまいがちな世の風潮なりメディアの短絡とは違った部分から解読しよーとしていて、事が一筋縄では解決しない難しさを改めて感じさせてくれる。文明が発達し人は物心の面で豊かになっているはずなのに、物はともかく心については迷い惑う人が逆に増えているってことなのか。

 思い返せば同じ「SFマガジン」でリポートとして僕が深い理由もなく単にメモが残っていたからとゆーことで(リポート書くとは思わなかったもんで)取りあげた「小松左京SFのビジョンを問う」のトークで、小松さんは大きな戦争なんかもう起こらない、これからは心が問題になる、人間の内面的な危機が重要なテーマになって来ると言っていて、わずか20日後にそれが現実のものとなってしまった。さすがは小松御大と果たして喜んで良いのかは悩ましいけど、だからこそ今、あの知性でもってこの困難な状況を打ち破る物語を、紡ぎ出していって頂きたいもの。”老人力”(なんて言って御免なさい)もエネルギーにかえてバリバリ頑張っていって下さいな。

 もしかしてユーモア小説なんだろーか、なんてことを読み終えて考えてしまった鈴木光司さんの「エール」(徳間書店、1600円)。いや本当は「著者初の本格恋愛小説」で内容も途中まではとてつもなく真摯で、中年に差し掛かった人ならあれこれ考えさせられること請け負いの小説なんだけど、クライマックスの場面で繰り広げられるシチュエーションの映像的な珍奇さに、そこまで書かれてきた痛みと苦しみを乗り越えてたどり着いた愛の素晴らしさも、書かれなかったその後の重苦しいゴタゴタもすべて吹っ飛んで、なにともいえないおかしさを感じて笑みがこぼれてしまった。

 主人公は女性の編集者で既婚だけど旦那とは上手くいかず離婚寸前の状況。担当している女性ノンフィクションライターが癌と闘っていたりして、恋愛に絡んだニュアンスを含む修羅場もあれば文字どおりの生きに死に関わる修羅場もあって、なかなかに大変な日々を送っている。彼女には格闘家の知り合いがいて、かつてインタビューした彼は当時は駆け出しのペーペーだったのが今では総合格闘技のエースとして注目される存在になっていて、心の通わなくなった旦那と相対的に心の中でのウエートがどんどんと重くなっている。一方その格闘家の方も初対面の時から彼女に気があったよーで、いったんはあきらめた彼女が今は離婚寸前と聞いて、俄然はりきるよーになって来た。

 あとはまあ、お定まりのヨロメキなドラマが展開されると思ってもらえれば大丈夫で、途中その格闘家が学生時代に友人を殴って直接じゃないけど死なせてしまっていたエピソードが伏線よろしく挟み込まれたりして、ラスト辺りに来るだろー悲劇を予感させてくれるんだけど、その悲劇が襲って来る場面とゆーのがなかなかに喜劇でちょっと吃驚。もしも同じシチュエーションが「あしたのジョー」の力石とお嬢様の間で繰り広げられていたとしたら、「ジョー」もあれほどの名作にはならなかったし、誰も力石のお葬式なんて開かなかっただろー。

 あるいはそんなありきたりの感動モノにするより、喜劇っぽい余韻は持たせながらも現実的には相当に厳しい状況であることを示して読者の想像力を試したのかもしれず、サイン会で見た鈴木さんの笑顔と太い腕を思いだしつつ、あれでなかなかにイジワルな所があるんだなーと感心する。それでも最後の最後でタイトルどーりに失意の底にある人への「エール」をちゃんと送っている辺りは作家的良心の現れか。とにもかくにも今までに余りないタイプの恋愛小説であることは確か。薄いし優しい内容でアッとゆー間に読めるんで、気が向いた人は店頭でペラペラっと読むなり買って通勤電車で読むなりして、それぞれに「エール」をもらって下さい。映画化とかしないかなー、船木か誰かを起用して。

 これが「サイファイ」とゆーなら僕には「サイファイ」は必要ないよーな気がする。だって僕にはすでに平井和正さんと半村良さんがいる訳で、この2人が書くものから、たった1人でも世界を相手に闘うんだとゆーたぎるよーな情念とか、世界の裏側に蠢くものを見通そーとする怜悧な眼差しとがずっぽりと抜け落ちたよーな小説をもって、これこそが「サイファイ」なんて言われたとしても、僕には間にあってるとしか言いようがない。「現実的で日常的な世界から物語が開幕して、読者を徐々に超自然や、超科学の世界に誘導していく大衆娯楽作品」とゆー定義自体に異論はない。読んで楽しく為になる、それが小説の醍醐味だろーから。問題は娯楽がしっかりと娯楽たりえているかとゆー点で、少なくともその「サイファイ」は、情念の欠けた平井さん、伝奇の香り薄い半村さんとしか思えず娯楽にまでは至らなかった。能のある人が場を与えられてそれを無為に使うのはたまらなく寂しい。もっといっぱいの娯楽を次はお願いします。


【9月23日】 女忍者を見に行く。違った「2001世界新体操クラブ選手権 イオンカップ2001」って奴を「東京体育館」に見物に行く。目当ては勿論、軟体動物もかくやと思わせるくらいに柔軟な体でもって人間業にはとても見えない動きを繰り出し、目の肥えた新体操のファンも選手もアッと言わせ続けて来たのみならず、「北京原人」ほどではないにしろ、公開されて間もない時点で既に忘れかけられている感もある映画「赤影」に出演して、こっちは世間を唖然とさせたロシアのアリーナ・カバエバ選手。団体戦では圧倒的な強さで勝ち進んでいながら、個人成績だと初日あたりの不調が響いて前日までの計算で2位とゆー位置にあって、果たして大逆転から2年ぶりの女王に返り咲くのかどーかって点でも、強い関心を集めていた。

 とかゆー体育的に真面目な関心も一方にはあるけれど、健康な男子が1人で新体操のイベントに出かけるってゆーとまずもって疑われることが別にある。新体操と言えば、コスチューム的に露出が著しいのみならず、ポーズにおいても数あるスポーツの中でトップクラスに美麗な競技。その意味から、それを瞼の裏側なんてものじゃなく、あるいはフィルムに、あるいはメモリーカードに、あるいは8ミリビデオに記録しよーって輩の一味じゃないかって疑いがかかること必定で、実際にそーゆー輩の跳梁が過去に幾度もあってのことか、すべての来場者に対して入り口で身分確認の上で撮影許可証を発行するシステムがとられていて、主催者側の防衛意識の高さが強くうかがえる。

 もっとも教材代わりに記録したいとか、純粋にファンなんで撮っておきたいといった人たちも含めての発行になる関係上、いちいち機材の中身をチェックしたり撮影中をとがめることはなく、数百ミリはあろーかとゆー望遠を持ち込み三脚は禁止なんで一脚をたててモータードライブでシャコシャコやってるおっさん兄ちゃんが山といて、競技中のシャコシャコシャコとやるそのシャッター音のやかましいこと。目的がハッキリしているだけに周囲の女性陣の目はなかなかに厳しく、80ミリにも届かないデジカメ程度で遠くから「スタジアムへ行こう」シリーズの資料用に撮影している当方にも、そーした冷たい視線が及んで来そうでちょっとビビる。

 言い訳じゃないけど当方、遠くで競技している選手より、数列前とかに座ってる新体操をやってそーな小学生の群とかを眺めているだけで幸せなんです、ってそれはそれで危ないか。ともあれ個人の嗜好はともかく周囲への迷惑だけは何とかして頂きたいもの、1カ所にまとめてそこからだけ、ってのが記者会見なんかの手法だけど、度が過ぎるよーだと、小さいカメラや使い捨てカメラはともかく長玉でのべつまくなし撮るよーな人には、そーゆー手法が適用される日なんか来るのかも。提案。男だったらカメラに頼るな、瞼にくっきり焼き付けろ。来年は300ミリ買って行くぞ(ダメじゃん)。

 しかし流石は女忍者。尻上がりに調子をあげていたよーで最終日の今日はカバエバ選手、ほとんどノーミスで準決勝、決勝で各2回づつ、都合4回の試技をクリアして逆転で個人総合優勝を達成するとゆードラマを見せてくれて、集まった大勢のカバエバファンにとっては嬉しい日になったかも。昨日までトップだった同じロシアのガズプロムってクラブに所属しているイリナ・チャシナ選手も決して悪くはなかったんだけど、直線的な動きでキレの良いスピード感のある演技をするチャシナ選手の良さよりはやっぱり柔軟さの中に力強さを秘め、優雅に可憐にパワフルに演技するカバエバ選手の完璧な演技には”美”を追究する競技ってこともあってちょっと及ばなかったみたい。実は見ていてちょっぴり太めな感じも受けたカバエバ選手だったけど、肉付きの良さも柔軟性の前では逆になめまかしさを現す要素になっていたみたい。

 大トリとして出場したカバエバ選手が、最後のロープの演技で放り投げたロープを脚に絡ませキャッチして鮮やかにフィニッシュを決めた場面を見るにつけ、選ばれた人が選ばれた人なりの演技をして相応しい場所に帰って来たんだってことが強く実感させられた。いや、凄かった、感動した。このカバエバ選手に個人総合2位のチャシナ選手、ジュニアトップのオルガ・ペスキシェバ選手がいるロシアが総合優勝しないはずがなく、2位のウクライナに圧倒的な大差を付けて見事に「イオンカップ」を獲得。軍事とか経済とかいった部分ではアメリカの独り勝ちみたいに言われているけれど、美の部分ではまだまだロシアなり旧ソ連邦、旧東欧圏に及ぶべくもないって事か。ロシアウクライナブルガリアベラルーシって準決勝進出組の選手が並んだ姿なんて遠くから見ていても眩しさに目がくらむほど。良いものを拝ませてもらいました。でもやっぱり10年経つと、全員が横幅パンパンになってたりするんだろーか。

 表彰式が終わった後に今回は、例の米国での同時多発テロの被災者を悼み励ますって意味で、特別な演技が披露されて見に来た人は事情は事情として決して喜ぶべきものではないけれど、良いものを見られてちょっと得した気になったかも。何しろ出場した全選手が2枚あるコートに入っていっせいに演技を行うってゆーエキシビション、チームによっては3人がそろって1つの演技に取り組むところもあれば、めいめいが勝手に自分なりの演技をするところもあって、演じている人たちの気持ちはともかく傍目にはなかなかに不思議な空間がアリーナ上に出来ていて、見ていてうーむと唸らされた。

 せめてカバエバ選手を筆頭にして、チームを代表する人だけが交互に演技する形にすれば見た目としてはしまったかもしれないけれど、全員で悼むってのがやっぱり相応しいってことであーゆー形になったんだろー。ともかくも事情が事情だけにてんでばらばらな演技の様を微笑ましいと思う訳にもいかず、悼みたい心理とニヤつきたい心理との葛藤に見ている間ちょっと呻吟した。もしも柔道の大会だったとして全員が登場して追悼の乱取りとか始めたら、やっぱりヘンだろーし空手の演武を全員が出てきてやるのもやっぱり妙。水泳の飛び込みだったら全員が一斉に飛び込むんだろーか、フィギュアだったらぶつかってけが人が出るかも、とか考えたけれど実際の所どーなんだろう。大相撲で全幕内力士が土俵に上がって四股を踏んだら土俵、壊れちゃうしなー。黙祷だけ、ってのがやっぱり自然だったかな。

 帰って「新日曜美術館」。奈良美智さん村上隆さんをフィーチャーした番組で、村上さんの「東京都現代美術館」での個展を紹介する場面に僕を発見、オープニングの日に会場内に法被を来て立っていた村上さんが誰かに呼ばれて横へとかけていくカットの最初にチラリと映ってる、白黒縞模様のニット帽を被って黒っぽいTシャツ姿でリュック背負ってる髭の横顔の兄ちゃんが僕ですビデオで録画した人はチェックチェック、鬱陶しいぞー。後半は奈良美智さんでこっちでも新作が出来る過程を紹介していて、最初に描いた絵がどんどんと変わっていく様がビデオに撮られていたけれど、4日を要した「誰でもピカソ」に比べるとあんまり悩まなかっみたいで2日で1枚が仕上がった。どっちにしたって早い速い。

 このスピードで”悪の画商”こと小山登美夫さんが「誰ピカ」で付けた値段の1枚200万円する絵を描き続けたら、年に50枚は簡単にいけそーで合計すれば1億円だって売り上げられそー。それは大袈裟としても稼ぎだけなら他のアーティストを圧していそーな気がするのに、登場する奈良さんはいつもTシャツ姿で服装とかにお金をかけている風もなく、いったいどこに貯まっているのかちょっと謎。「誰ピカ」だと冗談めかして画商の所に預かってもらっているっぽいことを言っていたけど、それだっていずれは作家に支払われる訳で、最近の売れ行きなんか見ていると、もの凄いことになっていそーな気もしないでもない。玉輿、狙う女子とかこれからざくざく出て来るんだろーなー。


【9月22日】 最終的に仕上がった子供の絵、1枚見ただけだとイラストとどう違うの? ってのが正直分かり辛かった奈良美智さんの作品だけど「たけしの誰でもピカソ」に登場してペインティングの作品を仕上げている場面をビデオに撮られていた奈良さんを見ると、1枚のカンバスに向かって下書きどころか位置も形もはっきりと決めず、ベタベタと雲とも影ともつかないものを描いていったと思ったら、それが次第に子供っぽい形になって最近の奈良さんらしー絵に仕上がって来て、塗り重ねていっているのにどこか削り出していっているよーな印象が、まず絵ありき、なイラストとは違ったアートっぽさを醸し出してくれいた。粘土をこねて付けたり取ったりしながら仕上げていく彫塑でも見ている感じで、作品と格闘している雰囲気が出ていて、なかなかに興味深いビデオだった。

 いったん決まりかかった形でも、気に入らないと塗りつぶしてしまうのもペインティング作品ならではの特徴か、それとも奈良さん流の作品づくりのポリシーって奴か。目を開けていたと思ったらすぐに閉じて眠っているよーな形にしてしまったり、足を描いたと思ったら消して雲に乗って漂っているよーな形にして、それでも気にいらず幽霊のよーな足がなく尻尾みたいに「ぽわーん」(水木風)と後ろに漂った形にしてしまい、あわせるよーに腕も下にダラリと下げてしまう。その思いに合わせて形を変化させていくプロセスを見ていると、同時代の現代アーティストとしてまさに並び立っていながら、厳密な設計図を決めて色の指定も行ってから作品づくりに入る村上隆さんともまるで違っていて面白い。村上さんもたぶん、設計図段階で相当に呻吟するんだろーとは思うけど。

 ほかの現代アーティストがどんなプロセスで作品を作っているのかは分からないけれど、その昔見た舟越桂さんの彫刻づくりを撮ったビデオでも、最後の最後で色を塗り替えてしまったり、新しい素材をつけ加えたりして、完成へと向けて格闘している場面が映っていて、適当でいーじゃん、がモットーで書いたものもろくすっぽ推敲しない5流ライターな当方にはとうてい到達できない、アーティストの苦悩と情熱を見せつけられた思いがしたっけ。奈良さんが「誰ピカ」用の作品づくりにかけた、それでも長い方らしー4日とゆー期間は油絵で何カ月もかける画家の人と比べて決して長い方じゃないけれど、集中の上に集中を重ねて形を絞り出していくプロセスを見せつけられると、改めて真剣な人の凄みって奴に感嘆させられる。ちょっとでも良いから爪の垢、煎じて飲ませて下さいな。

 番組には例の横浜美術館での「奈良美智展」で見かけた吉本ばななさんらしー人がちゃんと吉本ばななさんとしてインタビューに応えてて、そーかあれはやっぱり吉本ばななさんだったのかと納得する。背負ってたリュックに描かれていた奈良絵、可愛かったんだよなー、番組では映してなかったけど。あと興味の幅が広いってゆーか腰が軽いっていゆーか糸井重里さん、奈良さんにもちゃんとチェックを入れているよーで、「誰ピカ」に出て奈良さんについて語っていた。っても実は何も語っていなくって、語らないことによってその作品が醸し出す味なり匂いなり空気ってものを巧みに説明していた。

 コピーライターとゆー言葉使いの人、それも極限にまで練り上げた言葉で勝負する人に言葉を封印させる作品ってゆーことで、その凄みってものが伝わると思う。もちろん普段から言葉使いに細心の注意を払っている人だからこそ使える技でもある訳で、何かについけて過剰に言葉を繰り出し気味な当方が、何も言わないと言ったところで何も言えないだけじゃんか、って言われるのが関の山。まあそれはそれ、持てる言葉の才の違いを自覚しつつ、せめて先んじて町場の空気を読みとり、その空気にちょっとでも風を起こすんだとゆー気概を持ちつつ、過小な力を過剰に過剰を重ねた言葉で補って行くことにしよー。おじさんにフットワークで負けている訳にはいかないからね。

 って訳でフットワーク軽く午前の10時には家を出て「東京都現代美術館」へ。午後に開かれる村上隆さんと奈良美智さんのトークショーに参加するためのチケットが正午から発売されるってことで買いに行く。どーせマイナーな現代アートのイベント、正午から売出しなら正午に行けば良いとか、午後3時からの開演だったらそのちょっと前に行けば入れるでしょー、って思っていたら大間違い。今をときめく2人の対談、おまけに前日は「誰ピカ」で翌日は「日曜美術館」とゆー2大アート番組(ホントか?)にサンドイッチで紹介される日程での開催に人が集まらない訳がない。1時間15分ほど早い時刻に到着すると、すでにロビーには2列分の行列が出来ていて、正午のチケット発売時にはそれが5列に増える大賑わいで、改めて2人の人気の凄さを知る。開場時間に来てプレスでーす、とか言って入るんじゃ、この”熱量”ってのは半分くらいしか分からねーよな、ってマイナー過ぎてプレスの範疇に入れてもらえず並ばざるをえない身の強がりもちょい混じっているけど。

 それにしても驚いたのは、会場に集まった400人以上の実に目分量で9割が女性だったってことで、文学でも写真でも漫画でも活発な”ガーリー”たちの活躍が、いよいよマジで現代アートの分野にも及んで来たのかってな印象を強くする、タカノ綾さん青島千穂さんとかも活躍中だし。そーいえば会場にタカノさんいた? 集まった9割の女性の推定でおよそ9割は奈良さんのファンだったみたいで、プロセスはともかく出来上がって来た絵の可愛さに惹かれた、根がファンシーな人の集まりだった可能性もあるから単純に現代アートの”ガーリー化”が進んでいるとも言えないけれど、まずもって注目を集める所からジャンルの興隆ってのは始まるもの。開場待ちしている女の子たちがベンチにすわってノートの切れ端にイラストとか描いている姿を見るにつけ、ブームによって裾野が広がったファン層の中から、次代のプロが大勢出てくる可能性なんかもあるのかも、って考えてしまう。スターって大事。

 さてトークショー。まずはやっぱりな感じで例の世界貿易センターを襲ったテロについての所感から始まって、ビルをダイナマイトで解体する作業の映像なんかを見ていた時は中に人がいないことが分かっているから面白いし綺麗だと思っていたものが、中に人がいるビルが壊れていく場面を見てしまって「紙一重で価値観が逆転してしまった」と奈良さんが言えば、村上さんも「戦争がない世界の芸術についてやって来たけど、もう1回白紙に戻さなくっちゃいけなくなった」とパラダイム的な変化があったことを吐露してた。

 ただここでも2人の作品に現れるような方や情念、こなら理知ってイメージの差が出ていた感じがあって、ビルの倒壊に伴う人間の死とゆー重たい現実にたじろぎつつ、グローバリズムの根本にある西洋中心主義への懐疑を口にした奈良さんが、目の前で今起こっている事態を我が身としてどう受け止めるのか、って辺りに関心を抱いているよーに見えたのに対して、村上さんの方は日本にとって平和が続いた戦後の50年をひとつ総決算しつつ、これから始まる新しい時代をどうとらえるか、ってな俯瞰的とも設計図的ともいえそーな事態の捉え方をしているよーな印象を受けた。まあ作品性に引っ張られた強引なごじつけかもしれないけれど、詳しくインタビューなんかしてみると、そーした時代認識なり状況把握の手法の違いが、作風の違いに現れているのかもしれないんで、アートなジャーナルの人にはお願いしてみたい所。

 若干重めで始まったトークも、途中からは奈良さんの幼少の頃から最近までを撮った写真をスライドで見せていく流れになったんで、集まっていた目測で8割1分の奈良さんファンの人には嬉しかったかも。作品からも喋り口調からも朴訥さの漂う奈良さんだけど、ラグビーで活躍して大学ではプロレスの同好会みたいなのを作って活動してたらしくって、実は体育会系だったってことが分かって面白かった。そーいえば愛知県で学生プロレスって言えば南山大学の人がアナウンサーとして活躍していて後に中京テレビで本当のアナウンサーになったっけ、奈良さんがプロレスしてた時期と重なっているのかな。あと写真に1枚、巨大な鉛筆型のケースを手に持って絵を描いているフリをしているものがあって、見せながら奈良さん「いつか日の目を見るかもと思っていたけど、良かった」と言っていて、面白グッズを買う人に働く、それをやって見せたらウケるかも、って心理が伺えたのも収穫。内から湧き出るものに純粋そーでいて、案外と外からの目も気にする人で、それが自分語りや自己満足に暴走しない、均整の取れた作品になって現れているのかもしれない。


【9月21日】 子供時代。夏休み期間中のお楽しみと言えば午前中に集中して放映される「ふしぎなメルモちゃん」とか「宝島」とか「ジムボタン」だったけど、中でもひときわ気に入り見入っていたのがこれ、「海のトリトン」。何回くらい放映されたかははっきりと覚えてないけれど、オープニングの迫力に紆余曲折の経験を経て少年が成長していく物語の感動は、何度見てもいろいろと考えさせられる所があった。刷り込まれた感動は、大人になるに連れていちだんと高まって、いつか再放送される日を、あるいはビデオで発売される日を心待ちにしていたのに、聴こえてくるウワサはすでにフィルムが断裁されて再放送は不可能だとかいった話ばかり。ムックの類もまるで見ず、何度か見たうちでも実は1回しか見られなかった最終回の衝撃を、もう2度と実際に見る機会はないんだろーかとあきらめていたこの10数年だった。

 それがどーしたことか、DVDボックスで発売されるとゆー話を聞いてからかれこれ数カ月、店頭に並んだボックスを見るにつけ、あの噂はいったいなんだったんだろーとゆー思いにとらわれつつも、ここに再会できた感動にしばしうち震える。もう夏休みの午前中を勉強しない罪悪感(ちょっぴり)に脅えながらもテレビの前に座ってなくても良いんだな。入っているブックレットの登場人物一覧を見て、ポリペイモスだマーカスだクラゲだヘプタボーダだとわき上がる懐かしさにも感動。意外だったのは結構な話数出てたって記憶していたヘプタボーダが実はたったの2話しか出ていなかったことで、にも関わらずの強烈に残っている印象は、ガキの癖してやっぱり美女には弱かったってことの現れか。セイラさんといーハマーン・カーンといいどこか居丈高で高慢ちきだけど心の奥には傷ついた部分を持っている美女に弱い性格はあるいはこの辺りから醸成されていたのかも。「ルパン三世」すらまだ見てなんで何時見られるか分からないけどヘプタボーダの回と最終回は頑張って連休中に見よう、戦争で呼び出されなければ。

 これこそがアメリカ的なパワフルさの源泉なのかもしれないけれど、ワビサビが信条で引っ込み思案な所がある人間から見るとやっぱりどーしても鼻についてしまうんだよなー、この何日かのアメリカの指導者たちのあまりにもマッチョな言動とか見ていると。湾岸戦争の時当たりで使われた「砂漠の何とか」って作戦名はまあ、ネーミング的なセンスが決して良いとは言えないまでもまだ理解を示せたけれど、「無限の正義」とまで言われてしまうとあまりに独善的過ぎて、他の価値観を一切認めない気なのかってな感情が沸き起こって来て同情ができない。

 なるほど今回の一見に関して正義を口にする資格は確かにあるけれど、それは犯人に対してであってその他の無関係な人たちとか、直接行動はしていないけれど心情的に反米な人も現実にいる訳で、そんな人たちまでをも含めて”我が正義”の名のもとに組み入れるか、あるいは”正義の敵”と排除するしか選択肢を示せないのは何とも息苦しい。国会でのブッシュ大統領の演説に至っては「世界は決断を迫られている。アメリカの見方につくか、さもなければテロリストの見方につくかだ」なんて感じで、種々雑多な価値観が入り交じっている世界に向かって二者択一を迫る強引さ。繰り返すけど対テロって理念で世界が見方と敵に別れることは否定しないけれど、先走り気味の行動にまで同意か不同意かの二者択一を迫されると何か恐ろしくってたじろいでしまう。

 そーこーしているうちにも米軍の艦船が続々とペルシア湾あたりに集結して証拠も示さなず議論も経ないままに、傍目からだと憶測に基づいた恫喝にしか見えない圧力をかけてかえって激しい反発を引き出して、選択の幅をどんどんと狭めていてなし崩し的に”戦争”へと突入して行ってしまいそー。せめて週末くらいは気楽に過ごさせて欲しいけど、舐められまくりな日本だけに訪米した小泉首相から理解を引き出すことなんて不必要と一気にやっちゃいそーな感じもあって心配。尊敬されなくたって理解されなくたって、日本は誰の価値観にも縛られない絶対的な”正義”の見方でいたいもの。でも絶対の”正義”って何だろー? 難しい。難しいだけにやっぱり相対的な一方の主張する「無限の正義」とやらにはつきあいたくないよなー。

 これはギャグじゃない。あるイベント。情報技術関連の会社がモバイルコンピューティングに関連したフォーラムを主催して開催して世界各国とか日本の有力企業からゲストを読んで講演とかしてもらったんだけど、ハクとか付けたかったのかある新聞社に特別後援を依頼したついでにそこの社長にも挨拶とかしてくれって頼んで来たとか。新聞の名前をアピールするこれはチャンスだと社長が行って挨拶するのは別に構わないんだけど、そのイベントを特別後援した新聞が記事にするに当たって何故か、その社長の人の挨拶がもっとも大きな扱いになっているとゆー状況が起こってしまったとか。ビル・ゲイツが来た訳でもないイベントがどーして記事になるのか? ってバリューについての懐疑はこの際ちょっと脇に。読売の巨人戦、朝日の甲子園と主催イベントの記事が大きくなるのはこの業界の常だから。

 もっとも主催イベントであっても扱い方には常識ってのがあって、その常識に照らし合わせればおそらくは基調講演に呼ばれた要人の話こそがニュースな訳であって、それを紹介するのが記事としては不可欠なこと。あるいは譲っても主催者の挨拶が冒頭を飾ってしかるべきなのに、記事にはそーした人たちのコメントはカケラも載っていない。あまつさえ社長の人のコメントには、モバイルとは無関係な米国のテロに関する追悼の言葉が採られていたりして、読んだ人は一体何のフォーラムだったのかを知ることがまったくできない。要人の1人なんてテロで来日できなくって、ネットのチャットで登場だよ、もう1人もモバイルな世界の大立者だよ、言動のすべてがまさしくITの最先端の実例なのに、これを紹介せずしてどーしてITイベントの記事っていえるだろー。

 某宗教の偉い人の動静が1面を飾る新聞が世の中にはあるけれど、機関紙である以上はそれが普通だし、世の中への影響度って意味では一般紙だってもっと動静をおかっけたって良いよーな気がする。機関紙でもないごくごく普通の新聞が、主催もしていないイベントで社長の人のコメントしか紹介しないってのとはレベルが違うよーな気もするけれど、考え直してそれが普通の新聞ではなく機関紙だったとするならば、この程度の扱いは逆に失礼ってことにもなる。中途半端さがかえって器量の小ささを現しているよーで、そんなメディアで働く人はなかなかにかわいそーだなーと同情してしまった次第。同情されてもなあ。


"裏"日本工業新聞へ戻る
リウイチのホームページへ戻る