縮刷版2001年9月中旬号


【9月20日】 やっぱベストだな、それもポケットのいっぱいついた奴を着なくっちゃ、今時のジャーナリストって言えないかもと、パキスタンのペシャワールから中継してくる各局の記者のそろいもそろってのベスト姿にふと思って、明日「ユニクロ」にでも買いに行こーかと考える。でも「ユニクロ」にあれほどまでに非ファッショナブルなポケット付きベストなんて売ってたっけ。「GAP」ならあったかな。山関係の店にだったらありそーなんで探して記者会見とかあったら着て行こー。でもって日銀の公定歩合引き下げに関する日銀前からのリポートとか、小泉純一郎首相の「サンケイスポーツ」的には「自衛隊”参戦”」容認発言に関する国会記者開館前からのリポートとかにベスト姿で出演するんだ。下はスーツなんだけど。

 暑さ避けにも寒さしのぎにもならないのがベストって衣料。それもファッションセンスで言うなら皆無に近い7つ道具が49道具でも入りそーなポケット付き。身ひとつで歩くペン記者とか、カメラマンとかならフィルムとかフィルターとかいった道具を入れてて不思議はないんだけど、テレビ記者にはカメラのクルーってものがくっついて歩いている訳で、ビデオジャーナリストでもなければほとんどはクルーといっしょに行動するから道具をかをわざわざベストのポケットに入れて歩く必要なんてない。せいぜいがメモする紙と鉛筆かあるいは流行りのICレコーダーでもあればOKで、あれほどまでの数のポケットは入りはしない。となると一体全体あのポケットの中にはいったい何が入ってるんだろーとゆーのが目下の所の謎だけど、通じない携帯入れてる間抜けはいないだろーし酢こんぶってのも芸がないし。まさかブロマイド? モー娘。の? ここはひとつホリイのずんずん調査にでも「パキスタンからの中継に出てくる記者のベスト着用率&ベストの中身調査」でもやってもらって頂きたいもんだなー。

 既にして阿部和重さんによる文学的に社会学的な分析まである「ヤングマガジン」所収の2本のレース漫画「湾岸ミッドナイト」と「頭文字D」。そのテクニック的であったりメカニック的であったりするアプローチの違いがもたらす作風の違いに引いては人気の差なんかへの言及は、原作に全然慣れ親しんでない身にはなるほどと思わせる部分も結構あったりしたんだけど、だとしたら阿部さんにはこの週末、是非とも東京・有明は「東京ビッグサイト」で開催中の「第39回アミューズメントマシンショー」へと足を向けて頂きたい所。世の中の出来事には不思議なシンクロニシティーがあると良く言われているけれど、掲載誌も同じでジャンルも似通った2つの漫画がほぼ同時期に、業務用ゲーム機になって登場するとあって、それぞれのゲーム機が持つ「湾岸ミッドナイト」ならその「ミッドナイト」ぶり、「頭文字D」ならその「D」ぶりを体感して分析して欲しいって気がしてる。

 片やセガが送り出す「頭文字D」は例のどう考えたって「スカイラインGT−R」には直線だったら負ける豆腐屋の「トヨタカローラレビン」が登場しては峠をかっとんでいく漫画を題材にしたもので、ファンも多いのか結構な行列が試遊台の後ろに出来ていたけど遠目に見る分には普通の市販車ベースのレーシングマシンと区別がつかず、キャラクターがどうゲームに絡んで来るのか、それが本編の味を活かしたものかのか、でもってゲームそのものも本編に違和感のないものなのかってのを知りたい気がちょっとする。隣にあった「ルパン三世」ってのがもう「ルパン三世」と名乗られるも烏滸がまし過ぎるゲーム機で、別に赤ジャケがいけないとか鼻が鉤鼻の次元はダメとか言う訳じゃなく、それはそれで新ルパンの特徴だからリアルタイムな世代には案外と懐かしいのかもしれないけれど、シューティングの画面に登場して来る敵キャラとか展開に軽妙で軽薄な「新ルパン」の面影が微塵もなくって、見ていて何とも複雑な思いに駆られたりしたんで、根っからの「D」ファンがレーシングゲームの「頭文字D」をどー思ったのかが気になって仕方がない。

 一方の「湾岸ミッドナイト」はナムコからリリースの新型ゲーム機で、名前どおりに「湾岸道路」あたりを舞台にした、市販車が制限速度に多分挑戦しまくった内容のレーシングゲームになっているんだとは思うけど、これまた原作を読んでないんで内容に共通項があるのか、あるいは齟齬が生じているのかはやっぱり熱く語れ冷たく分析できる阿部和重さんにプレイしてもらって判断してもらいたいところ。明日の21日は業者デーだから無理だけど朝っての22日まで開催中なんで物は試しと足を運んで試してみるってのは如何でしょー。今時なこの時期にタイミングも悪くトキへのテロリズムを描いた作品を出してしまった人だから、場合に忍び込んだ権力によっては会場でチェックされてしまうかもしれないけれど、会場には剣をふりまわしてズンバラリンと斬っていくコナミのゲーム機とかも出てたんで、そーゆーブツとしてのアブナ系に目が向いて、普通の観客は見向きもされないだろーから、安心して行って見て来て下さいな。「サーキットの狼」はいつ頃出るんだろー。沖田が死んだ公道レースとか、「流石島レース」とか走ってみてーんだよなー、あの頃を知る身としては。

 漫画対決って意味ではこれまた同じ「週刊少年マガジン」の旧連載と新連載も「AMショー」では激突中。ボクシング漫画と言えば歴史に燦然と輝く「あしたのジョー」をコナミが例のセンサーによるスウェイの有効化なんかの昨日を組み込んでゲーム化していて、その第2弾が披露されてはかつての人気を知る年配層からリアルなボクシングに近い雰囲気を味わえるゲーム機としてそれなりな注目を集めていた。一方で現在のボクシング漫画を代表する「はじめの一歩」をゲーム化したのがタイトーで、こちらはスウェイとか入った技はなくパンチングパッドが順繰りに立ち上がってくる訳でもない、どちらかと言えばローテクな昔ながらのパンチングマシンなんだけど、キャラを織りまぜゲームに単純さを加味することで初めての人でも安心なマシンに仕上がっていて、単純さを求めるファンに或いは注目されそーな雰囲気があった。意気込みではコナミだけど気楽さではタイトー、さて人気はどちらがより出るんだろー。

 ここに上げた4作が車もボクシングもいずれも「マガジン」系ってあたりに漫画業界を取りまく市場環境と、その中で勝ち残りを図りつつある組の構図がほのかに浮かび上がって来たよーな気もしたけれど、現実には場内を回っていると「銀河鉄道999」のキャラが乗ったメダルゲームとかが出ていたり、映画「ジュラシックパーク3」の内容を業務用で楽しめるよーにしたゲーム機が出ていたりして、ゲーム以外から発生したキャラのパワーに頼ろうって雰囲気も感じられた。それはそれで決して正しくない訳じゃないけれど、「鉄拳」にしろ「バーチャファイター」にしろゲーム発で世界を席巻しかかったキャラクターもいる訳で、いたずらに人気キャラをワンポイントマークよろしくゲームにはりつけるんじゃなくって、そんな余力を自前のキャラの発掘と育成をプロモートにあてた方が、より有意義って考えて考えられないこともない。増殖するキャラ物がキャラのバリエーションへと回収されてゲーム性がなおざりにされる可能性があることが目下の疑念。そんな疑念を晴らすパワフルなキャラクターなりソフトを、任天堂にも他のサードパーティにものぞみたい所、期待してます心から。


【9月19日】 別にイキナリ第3部だなんてやらなくったって、ちょい長目のプロローグとかにしておけば普通に一種のキャラ紹介っぽいイメージで読めたはずなんだけど、そこをそーしないのが作者の作品へのコダワリかそれとも編集H田さんの作戦かはともかくとして、大澤良貴さんって多分ゲームな人とかだったら前にどっかで聞いたことのある、らしー名前の人が書いた小説「累卵の朱」(白泉社My文庫、600円)は、幼少よりの因縁を経て長じた永冬なる軍師が企む「三国志」になぞらえれば「天下三分の計」に当たる物語的な部分での根幹をなす一大イベントが冒頭から繰り広げられて、なかなかな掴みっぷりを見せてくれる。

 まずもってキャラクター描写が特徴的。帝国にはなかなかに切れ者の帝がいて超能力者っぽい”見”(まみえ)なる傀儡(くぐつ)がいて、目がついていて作戦をぞんざいな口調で喋る”賓”なる本があって結構な面白味を見せてくれるし、対峙する後蓮国は後蓮国で帝国に逆らい国を立ち上げた暴君ながらも統治においては合理的な英明さを極限まで発揮しては部下から絶大な信頼を得ている黒瞳なるリーダーがいてその下を歴戦の武将らが固めていて、それぞれが特技を活かしては帝国との一大決戦で後蓮国に恒久の天下をもたらさんばかりの八面六臂の大活躍を見せてくれる、途中までは。

 この途中までってのが重要で、後蓮国で黒瞳から全権を預かった武将・岳斗を支える軍師の永冬が巡らす策謀が、敵も味方もなく激しい戦いの泥沼へとおそらくは物語を引っ張っていくことになりそー。つまりはまさしく全編にとっても重要なターニングポイントともいえるエピソードが、冒頭の第3部って奴で描かれている訳で、「グインサーガ」で例えるならノスフェラトゥでの火攻めにも匹敵する大バトルをこんな冒頭に持ってきて、ちょっともったいない気もしたけれど、後に続く第1部、どーやら永冬の生い立ちめいたものから始まるエピソードを読むにつけ、バトルもなければ巨乳もない地味な導入部が大勢の人を惹き付けて、かくも絢爛たる第3部へと果たしてつながっただろーかとゆー疑問も浮かんだりして、なるほど美味しい所を先に持って来て、まずはどうだと読者に見栄を切ったのも分かる気がして来る。

 見出された永冬が2部でどのよーな経験をして、挙げ句に第3部でのかくもすさまじい所業へと至るのかが想像するだに楽しく、どうでも良いからとにかく早く続巻を出してくれとゆー気が今は浮かんで仕方がない。作者に出版社の作戦勝ちってことだけど、間はおそらくはどうにか埋まるとして、3分された天下をさてはてどーいった施策によって対立させ同盟させ栄えさえ滅ぼしていくのか、そちらへの興味も浮かんでちょっぴり不安も募る。なにしろ「三国志」とゆー偉大な先達があっての偽中国的国取りファンタジー。出てくる人も半端な数ではきかないし、軍政以外の地勢に政治経済社会文化といったものも折り込まなければ話に深みが出てこない。中国史を勉強した見でもキツいことを、滑り出したばかりの新鋭がどこまでつきつめて行けるのか。商業的に続くかどーかも含めて、これからの展開をまずは見定めたい。とりあえずは巨乳はいいからせめて美少女くらいは出してくれー。

 ウイルスがあっちゃこっちゃのサーバーを攻撃しているとかで大騒ぎ。通信社とか官庁とか学校とかメディアとかもどっかのページをのぞいた時にヤられたか、それとも間抜けに添付ファイルを開けたかで感染したみたいで対策に追われたよーだけど、でもいくら時期が時期だからといって先週のリアルなテロにつづくサイバーテロの始まりだって大騒ぎして関連づけて来られると、ちょっと騒ぎ過ぎかもって気になって溜息が出てくる。もちろん可能性を否定する訳じゃないけれど、巷間言われていたセキュリティホールをご丁寧もついて来て、すぐに発見されてしまうウィルスは騒動こそ起こしてもテロと言うほどの影響はそれほど起こさない。世間は騒がせてもペンタゴンは潰さないし金融や医療といった部分に影響を与えて経済、人命の累を脅かす可能性も低い。

 にもかかわらずウィルスをサイバーテロの一種を決めつけ、いたずらに世の中に不安を植え付けテロへの反感を煽るよーなスタンスを、テロの当事国でもない極東のメディアが取る意味ってのがどこにあるんだろーって悩むけど、そーゆー後先は考えずに気分で走る日本のメディアの前には良識とか見識とかってのはなかなか見えて来ないもの。かくして明日の新聞各紙は「サイバーテロの恐怖」とかって見出しが踊ってテロリストへのなおいっそうの憤りを募らせ、テロリストならぬクラッカーたちのほくそ笑みにまみれたりするんだろー。まあどっちにしたってマックな野郎には関係のない話。シアトルのお方におかれましては結果としてテロリストを利し一般市民に迷惑をかけた状況に対して、早急に何らかの手を打っていただきたいところだけど、何しろ手前のサーバーを真っ先にやられたりしたからなー。大丈夫かなー。もしかしてテロに共鳴する人とかがいて、世の不安の増大に間接的未必の故意的に手を貸そーとしたってこと? どちらかといえばテロへの世間の反発を増すために囮的に穴をあけてたって方が気分だけど、何考えてるか分からない会社なんで真相は不明。いずれ歴史が明らかにしてくれることを期待しよー。


【9月18日】 そうそう「三鷹の森ジブリ美術館」ではここでだけした見られない新作アニメの上映があるってのが特徴なんだけど、「順調に遅れています」のコピーってうーかポリシーに沿って製作が順調に遅れていたりするよーで、誰もが待望の「となりのトトロ」から派生した「メイと小ネコバス」だったかは今回は見られずもう1本もまだまだみたい。とは言え開館時に上映される「くじらとり」は福音館書店から出ている中川李枝子さん作、大村百合子さん絵の名作「いやいやえん」に入っている話を宮崎駿さんが監督した作品で、いわゆる宮崎さん的キャラが宮崎さん的アクションで動いていない宮崎さん自身の作品を見られるって意味で、貴重にして重要な1作ってことが言えそー。

 幼稚園の年長組とその1つだか下の組との間にある差が鞄をかける取っ手の高さなんかで表現してある辺りの観察力はたぶん、原作からのものだと思うしストーリーの途中はちょっぴりドッキリさせらるけど最後はちゃんとホクホクさせられる感じもやっぱり「いやいやえん」ならではのものだろーけど、子供はひょこひょこと動くあたりの動かし方の丁寧さとか、くじらが投げ縄にひっかかった際にギョッと驚く場面のコミカルさとかは多分ジブリ的。釣竿をパクパクと食べて行ってしまうくじらの動きとか、砂浜に上がった後で後ずさりするくじらの動きとかなんかにも派手なアクションとは対極にある細部の動きの丁寧さが活きていて、アニメーションが持つ表現力の豊かさや可能性なんかについて考えさせられる。

 くじらをバックに年長組の男の子たちがカメラに向かって「わっはっは」と笑い出迎えた女の子とか他の園児たちもいっしょになって「わっはっは」と大笑いする場面はきっと、場内も笑いで溢れるんだろーなーとか思うと、プレスの日でおっさんおばさんたちが宮崎アニメの新作だと有り難がって見入るのとは違う、ただのおもしろくって楽しいアニメだと喜んで見ている姿を目に納めに改めて訪問したくなる。階段をかけ上がったり渡り廊下から身を乗り出してたりする姿も含めて、子供たちが居て大騒ぎしていてこその「三鷹の森ジブリ美術館」。けど大の大人がひとりでそんな姿を見に行くと、やっぱりアレだと思われるから恥ずかしいなあ。親戚でも知人の子でもいいからどっかで出汁になる子供でも調達して来て見に行くか。堂々と同好の(子供心を持った、って意味だぞ)大人ばかりで行くって手もあるけれど、周囲にゃあんまりいないからなー。

 「くじらとり」は声も現役の子供たちばかりで、宮崎さんの最近のプロ声優嫌いが出ているって言えば言えそーだけどでもあの作品で子供声が得意な声優がハメたら多分、作品的にカチっとした雰囲気になってしまってのんびりホノボノとした雰囲気が消えてしまうからこれで適当なのかも。個人的には下手とか上手いとかゆー次元で語る作品じゃないと思ってるんで(「千と千尋」の柊冬美さんだってあんまり下手だと思わない鈍感な耳の持ち主でもあるんだけど)、別に全然平気だと思う。逆に新作「メイと子ネコバス」のメイを「となりのトトロ」の時と一緒に坂本千夏さんが演じた場合、最近の宮崎アニメで上手すぎて浮かないかが心配。開館記念にもらったDVDで聴くと「となりのトトロ」では、日高のり子さん島本須美さんとプロの声優さんたちばかりだったからバランス取れてたけど、周囲が普通の人ばかりになると、やっぱり声優さんになっちゃいそーなんだろやー。耳触り感はピッタリだったものの辿々しさにはちょっと戸惑った糸井重里さんだけは大袈裟な演技をする人の少ない最近の宮崎監督作品だとハマりそー。もしかしてテレビとか結構出て足りしたこの10年で、糸井さんの演技がむっちゃ上手くなっちゃってるってこと、ないよね?

 「サイゾー」の10月号は前々から指摘していた延長として「三鷹の森ジブリ美術館」の批判記事。市民が知らず議会も知らない所で建設が決定してしまった手続き面での問題は問題としていつまでも残るとして、それが本当に必要かどーかは趣味が違えば変わるものだけに難しい。市が土地を拠出している以上はやっぱり市民への還元なりは必要になって来そーで、「東京ディズニーシー」じゃないけど周辺市民をまるめ込むよーな施策があるいは出て来るんだろー。それを美術館側が認めるかどーかは知らないけれど。吉祥寺駅が近いってのを隠すために地図でも案内でも三鷹駅から行こうと書くのは大人げない気がしないでもないけれど、客観的には楽しく面白い施設を提供してくれたってことへの敬意をはらって、次からは玉川上水べりを歩いて行くとしよー。太宰も見たいし。

 建物を建てて市に寄付したことが「美談」かどーか、記事が言うよーにジブリにとって「土地代抜きで美術館が手に入ったも同然」だったかどーか、「寄付は徳間側に利益を誘導するために行われたようなもの」かどーかは目先のジブリなら何だってオッケーな状況がやや沈静化して、それこそ「千と千尋の神隠し」の冒頭に出てくる廃墟となったテーマパークと同じ目に会った時なんかも想定した上で、どこか1番損しているのかを勘案してみないと何とも言えない。新作アニメの製作費はどこから出てるんだろー。他で上映されない以上はパッケージで回収できない作品だけにどーゆーモデルになっているのか興味ある。財団の基本財産か、それとも市の提供か。展示物の美術館からジブリへの賃貸料あるいは提供料みたいなものは発生していてそれはどこから出ているのか、なんてことも突き詰め出すと切りがないけれど、当面は利益がどれくらい出て、それがどーゆー形に配分されていくかってあたりで市にとっての美術館の意味、めいたものを考えていくことしかないんだろー。


【9月17日】 本当は三鷹駅から玉川上水沿いを歩いて行くのが行政的に正しい行き方らしーんだけど、途中で太宰治さんとか流れていると失格な気分に心が沈むんで、地勢的にたぶんこちらが正解に近い吉祥寺駅からトコトコと歩いて井の頭公園の端を突っ切って、10月1日に晴れてオープンを迎える「三鷹の森ジブリ美術館」のプレス向け内覧会を見物に行く。「アニメージュ」だかのアニメ誌が取りあげていた建築途中の姿なんかから、都市の雑木林にありがちなまばらな木々の間に色彩のグロテスクな建物が場違いな威容を誇ってて、それこそ「千と千尋の神隠し」の冒頭に出てきた美しい草原に不似合いな東洋趣味にあふれた極彩色の時計台っぽい外観に、将来の「宮崎バブル」が弾けた後の寂れた未来までをも含めて違和感を覚えるのかなー、とか思って行ったらこれが大違い。建物の色自体はパステルっぽい色に染められてはいたものの、夏の高温多湿が良かったのか、生えまくった雑草に囲まれ新しい施設にありがちな場違い感があんまりなく、すでにして馴染んでいる雰囲気があって、自然とか環境とかへの美術館側の気遣いぶりが感じられた。

 入り口へと続くアプローチにしてからが自然っぽさに配慮されていて、アスファルトで固めるとかタイルで被うってことをせず、ワラとか土を練って固めたよーな素材が敷き詰めてあって歩くと柔らかく転んだって痛くなさそーで、足の裏を2、3回こすると表面がはがれてくるよーな状況からは、降った雨だってきっと中まで染み込んで、周囲に残った雑木林にちゃんと水を供給するんだろーなってことを想像させる。一方でアプローチを仕切る土手は石詰みがされているんだけど、こちらもコンクリートで隙間をガッチリと固めるなんてせず、隙間から草が生えるよーになっていて、ここにも清潔感より統一感より凸凹とした自然な感じを大事にしよーとするコダワリが感じられて頬がゆるむ。

 施設はなおいっそうの凸凹ぶり。別に壁が歪んでるとかゆーものじゃないけれど、例えば床材ひとつとっても最近出てきた表面をいかにも本物っぽい模様が手触り感まで含めてプリントされたシールで被った新開発の床材なんて使うことなく、節穴がいっぱい残っていてもかまわず調達しては並べてあって、高級志向とはちょっと違った素材へのコダワリを感じさせてくれた。会見だと宮崎駿”館主”は「壁はまっすぐでなくてもいい、床はデコボコでもいいんだってことを感じて欲しい。コンピューターで図面を引けないのが面白いんだ」って話していたけどなるほどその通り。「養老天命反転地」ほど感覚を歪めさせてはいないけど、微妙な不統一感が与えてくれる落ちつきは、規格化された今の建物にはないもの。入って感じる居心地の良さに滞留する人が溢れてしまって、入場宣言はするけど入れ替え制にはなってない内部に人が溢れ返る、なんてことになってしまうかも。

 トイレにはゴッホが描いたよーな籐で編まれた座面のついた椅子があって1日だって座っていたい気分。階段の下にはちょっとした空間があって1日だって引きこもっていたい気分。壁に扉を開けると中に吃驚仰天のものがいて手なんか振ってやりたい気分。潜り戸を抜けるとホールを見おろすバルコニーがあってムスカみたく演説してやりたい気分。猫バスを挟んで「まっくろくろすけ」がいっぱいいて、放り投げ合ってバトルしたい気分。大の大人が気持ちを解放したくなるよーな仕掛けにあふれた建物に、子供だったらきっと入った途端にいろいろな”発見”をして遊び始めることだろー。大人の思惑も越えてたとえば猫バスをひっくり返したり(下に貼り付けてはあるけれど)、掘り下げた土手を転げ落ちたり屋上のロボットを倒したりしないかと心配になるけど、そーゆー無邪気さも含めて包容してくれそーな雰囲気。でもって親には別に請求書が行くと。

 アニメーションの製作現場が”再現”されたとゆー展示は、人がいっぱいあふれていて下にも人が転がっていてくろみちゃんがかけずり回っていそーな現実のスタジオで働く人が見たらたぶん、羨ましさに吠え出しそーな感じ。木の壁と木のインテリアに囲まれ本やグッズに埋もれた中で仕事できれば、用具の古さはともかくとして発想だけなら良いものが出て来そー。もちろん単なる「古き良きアニメスタジオ」のイメージ展示に止めることなく、大きな瓶の中とか箱の中とかにチビた鉛筆が詰め込まれ積み上げられたものが置かれていたり、机の脇にボイラー室で千尋がエンガチョする場面のラフなのか動画なのか分からないけど歴とした使用済みの「千と千尋の神隠し」の絵が山と詰まれてあったりと、そこで誰から本当に仕事していたっぽい雰囲気があって、純真な子供たちをアニメの世界に誘っていた。でもって入ると待ち受けているのはハードな日常? うーんやっぱり危険な場かも。

蚊っ来いーとはこういうことさ  建築様式が一方は英国風の静かで落ちついた雰囲気なのにカフェテリア側が「紅の豚」っぽい南欧風なあたりの無茶苦茶さはいかにもな宮崎様式。カフェに置いて有る豚の香取線香入れが「ポルコ」になっているあたりの芸の細かさには笑ってしまった。ほかにも細かく見ていくと、取っ手ひとつ、ライトひとつ、猪の紋様がレリーフされた煉瓦ひとつ、上で回る大型のプロペラひとつとっても一部に工業品を使いながらそれぞれにやっぱりコダワリが込められているよーで、アニメと同様の宮崎館主の妥協しない仕事ぶりがうかがえる。「職人さん探すのが難しくって。誰もが図面を寄越せと行ってくるんですよ。職人だったら図面なんて見なくても出来るはず。ざから図面を寄越せと言わない人たちにお願いしました」とゆーのが現代において正しいかどうかは分からないけど、出来上がったものの素晴らしさを見ればそれもなるほどと思えて来る。

 「キキ」やら「シシ神」やら「トトロ」やら「五月」やらが描かれたステンドグラスは1年係で作られたものだそーだし、天井のプロペラは70歳を越えている2人の爺さんが作ったもの。「ゆっくり回るものにアルミだとかいった素材は不要。グライダーの経験があれば出来るんです。現役のメーカーは無力。ローテクをばかにするなと言いたい」なんていかにも宮崎さん。そんな技術が継承される場になれば面白いんだけど(ジブリ風ステンドグラス教室とか)、館内には場もないし。とりあえずとてつもないコンテンツを得た三鷹市には、おんぶでだっこと寄り掛かるだけじゃなくって、ここを中心にそーした古いんだけど良くって且つ、残していかなくっちゃならない技術なりスピリッツを繋ぎ育てる場を美術館の近所でも、あるいは別の場所でも良いから作って頂きたいもの。美術館が単なる箱モノ行政の域を越えたものを見せてくれそーなだけに、仕切る行政も支援するスポンサーも何かを見せて欲しいです。せめて最低限、次の作品なり美術館で流す作品をどんどんと作らせてあげる、ってことだけでも。


【9月16日】 そうそう、昨日「両国国技館」で見てたのは三段目辺りからで十両よりも幕下よりもさらに下のランクってことで出てくる人たちがお相撲さんも行司も呼出も含めて皆若くってどこか発展途上って感じがしてなかなかに妙。テレビで放映される関取衆の巨躯をぶつけあってはしっかと組んで押し合いへし合いする取り組みとは全然違ったパツン、パツンと体をぶつけあってはあっけなく幕切れへと至る取り組みが、ほとんど2分間隔くらいで繰り返されて朝早かったってこともあって途中、ちょっと微睡んでしまった。

 行司はそれでも服装が服装だけに格好がついているけれど、呼出さんは唄うよーな声がどこか調子っぱずれで耳に居心地が悪く、あれだと呼び出された方も気合いが入らないんじゃないかと心配なんかしてみる。西とか東とか言う部分での伸びがないのとしこ名の部分での高音が出切っていないのが耳に馴染まない原因か。最近の若い人は高い唄を唄うよーになって声も高くなっていると言われているけれど、所詮はマイクを通して喉の上の方だけで唄っている上擦り気味の声なんで、いざマイクをつかわずに胸の中から出さなきゃいけない高音になると、まだまだついていけないのかも。

 声楽の専門化じゃないんでその辺りの仕組みは分からないけれど、これが取組表で例えば結びの1番で呼び出しを務める米吉さん辺りになると、鍛え上げられた喉から浪々と声が響くよーになるから、やっぱり日頃の訓練が大切ってことで。実は相撲界には呼出になれそーな子供たちを幼い頃から養成する組織があって、声変わりをしないよーにいろいろ処置をすることが行われていたりして、そんな呼出さんたちに教会ならに相撲協会のヒエラルキーで頂点に立つ関取衆があれこれちょっかいを出す、なんて話が思い浮かんだけれど誰か描いているのかな、岡野玲子さんの漫画とかいしかわじゅんさんの漫画とかに出て来そーなシチュエーションでもあるし。

 強そうに見える、って意味だとやっぱり四股を踏む時に足が上へとピンと上がるお相撲さんはどこか強そうに見えるし、じっさい体が柔らかくってかつ強靭じゃないと、貴乃花が全盛の時に踏んでいたよーな華麗な四股は踏めないから、肉体としてはそれなりのレベルにあるんだろー。徳豪山って人の四股は上げてからちょい止めて一気に下ろすタイプで足下がバチン、とはじけて遠目で見てもいい感じ。ほかにも何人か良い四股を踏む人がいたけど結構勝ってたからやっぱり関連性があるのかな、でもあっけなく負けた人もいたから肉体よりも体重がやっぱり物を言うのかな。個人的に受けたのは「山崎×山本」って名前のお相撲さんの取組。まだお相撲さんに相応しい名前がついてないんだろーけれど、2人そろうとプロレスの前座の試合みたいで、早くどうでも良いから名前をつけておあげよって親方に言ってあげたくなる。川なり山なり付けるだけでもそれっぽくなるんだけど。でも川と山だと「山崎川×山本山」でそれもやっぱり妙だしなあ。

 ビル・トッテンさんってソフト会社のアシストを作って社長をやってる人がいて、多分アメリカ人なのに日本びいきで日本よ奮起せよって訴える一方で、アメリカがどれほど間違った施策をこれまで積み重ねてきたかを海外のメディアに掲載された記事とかウェブ上の意見なんかを翻訳・紹介しつつ訴えてる。予言でもあり警告でもある文章にあふれていて、例えば「憎悪の種がもたらす苦い果実」なんかを読むと、当のアメリカ人たちが予見しながらも回避できず、まさしく「憎悪の実」という苦い苦い実を刈り取り味わう時が来てしまったことへのやるせない気持ちがわき起こる。

 「イスラムの脅威に対する正義の戦争で敗北する米国」が指摘する「法の支配とテロリズム」のどちら側にいるのか? という問いに対するアクションが今、まさに出されようとしている訳だけど、果たしてどちらに転ぶのか。「もちろん法の支配に決まってる」とブッシュ大統領だったら言いそうだけど、同じアメリカにいながらもそれほどは政府を信頼していない人も少なくないようで、「インターナショナル・アクション・センター」 って反戦絡みでよくデモなんかやってブッシュが就任の時にも大々的なデモを敢行した団体が、9月29日にアメリカが戦争なんか仕掛けないようデモしようぜって呼びかけている。果たしてどれくらいの人が集まるかは分からないけれど、米国内はともかく日本じゃ情報が紹介すらされない可能性もあるんで、動向はウオッチしておこう。

 イラクでの民間人を巻き込んでの所業に、スーダンでの毒ガスとは無関係だったと今では判明している化学工場の爆撃といったことを書いている、先の2つの文章を読むにつけ、軍事的な優秀さを信頼したくてもなかかなしづらいとゆー人たちがいるって理由も分かる。フセインの国の国民でそのイデオロギーを支持しているからといって、あるいはスーダンに工場を持っているからといって、巻き添えをくらってっも仕方がないなんてちょっと言えない。窓からタオルを振っている姿が見えたことはなるほど、その確実だったろう死の哀しみを想像しやすいけれど、腸チフスや赤痢やコレラ、小児麻痺で死んでいった数千人といわれるイラクの民間人には、情報が伝わらないし姿も見えないってことなのなのか、なかなか心は及ばないもので、情報の過多が招く感情のぶれってのを時として恐ろしく感じてしまう。

 ミリタリーの人ならなるほど最新の兵器で武装したアメリカの特殊部隊がどれだけ訓練に訓練を重ねてピンポイントでサーチ&デストロイできる知っているから、今度はそれほど民間人に被害は及ばないって分かっているのかもしれないけれど、こちとら結果でしか判断できないトウシロなんで、例えば戦車もわたれないような橋を破壊して女子大生らを殺害したり無関係な中国大使館を爆撃 してしまった話を聞くと、優秀な兵器も優秀な人間も、間違いは犯すものだってな懐疑も浮かぶ。あるいは橋の爆破も大使館も意図してやったんだから狙いはドンピシャ、外してないから技術は全然問題ないって言うんだったら、今度は「法の支配」という言葉が揺らぐ。「俺が法だ」なんて言われたらもう反論のしようもないけれど。

 それにしても思うのは、過去さまざまな事態に関して欧米のメディアが取った、決して空気に流されずかといって「何でも反対」にもならない冷静にして緻密な分析ぶり。もちろんトッテンさんが自分の思うところを補完する傾向の記事ばかりをピックアップしてて、メディアは実は両論併記的だったりするのかもしれないけれど、それとて皆無に近い日本のメディアに比べれば健全さでははるかに上かも。「社論会議」みたいなものでいったん「アメリカ万歳、戦争やむなし」と決まったら、「戦争いかがなものか」なんて記事、載らなくなるからなー。もっとも今回の事件に関しては足下をやられたってことでどこまで冷静さを保っているかは分からないから、英語の不自由な僕のためにもトッテンさんにはコラムの更新、急ぎお願いしたいところ。どんな記事を見つけて来てくれるかな。あとお隣カナダにあるオープンソースのコミュニティーとかでは起こりうるバイオレンスな事態を避けようと世界中から署名を集めているところもあって、アメリカの人も署名してたりするんで当たり前だけど人それぞれに考える所はあるみたい。どこまで伸びるか人の輪は。

 池袋へ。「シネ・リーブル池袋」でタイミング的にアレな「カウボーイ・ビバップ」の映画を見たあと(これで2回目、筋を追ってる時は邪魔に見えたアクションのスピード感とかドッグファイトの迫力とかを今度は余計と思わず楽しめました)、「TINAMIX」ってまんざら無関係でもないウェブマガジンが珍しくも開いたリアルなイベントを見物に行く。名付けて「網状言論F」は東浩紀さんのホームページで斎藤環さんの著書「戦闘美少女の精神分析」をめぐって繰り広げられつつも現在中断中の議論をリアルな場に持って来て、且つ話の対象ももうちょっと広げていろいろ話し合うってイベントで、東さんをはじめ伊藤剛さん小谷真里さん斎藤環さん竹熊健太郎さん永山薫さんといったメンバーが「ロフトプラスワン」でもないのに集まるってことで、夜の歌舞伎町は無理でも夕方の「メトロポリタンプラザ」だったら大丈夫ってことなのか、150人くらいの会場はほとんど満席の状況で、サブカルでオタクなんだけど「オタクアミーゴス」みたくエンターテインメントはしてないイベントでも、関心を持つ人が結構いるんだってことが伺える。

 あるいは単純に、来場が予告されていた「デ・ジ・キャラット」こと「でじこ」のCMでもお馴染みの着ぐるみが来場してはあれこれやってくれるってことに惹かれた人が多かったかもしれないけれど、平塚競技場に「でじこ」が来た時にはそれほどサッカーファン以外の人がいたよーには見えなかったから真偽の程は不明。個人的には「東京ゲームショー」でも「東京キャラクターショー」でも見てたんで別に今さら会ったって、って思っていたけど間近で見るとやっぱり頬が緩んでしまうのがちょっと哀しい。最初はメタでギャグだったのが次第に遺伝子に刷り込まれてしまったってことなのか。ちなみにこっちは着ぐるみじゃない「でじこ」もいたけど誰が演ってたかは秘密。身長的にはこっちの方が本物に近かったかもしれない。

 イベントの方は時間こそ2時間半もあったんだけど人数がそれなりにいて喋り出せば一家言ある人たちばかりで時間はどんどんと流れてしまって、1時間とか予定されていた出席者によるディスカッションも場内からの質疑応答もなく、それでもちょい時間オーバーで終わってしまったのが残念な所。自分の場合はまあ、「ロフトプラスワン」とか「日本SF大会」とか「青山ブックセンター」といった場所でのトークセッションなり、ウェブでの「網状言論」なりで見知っていた意見がほとんどだったんで、半ば再確認的にたどることが出来たけど、これが初めてだった人には概説的な役割を果たしつつも、結構早足で大変だったかも。あるいは既にどっぷりとオタクな世界に足を突っ込んでいる人は、自己確認めいた話が大半で時間的に長く感じたかも。

 竹熊さんの自分が歩んで来たオタク道は同時代的に重なりつつも年齢的に若干向こうが先行している関係で、同じ経験をしたって共感よりはちょっと先輩な人たちの後をついて情報を吸収していった10代の頃を思い出せたのが収穫。3時間くらい講演してくれたら聞いちゃいそーだけど、世代が離れていると今度は逆に分からないことが多すぎて通訳になる人が必要だったかも。テロに絡んでハワイから戻って来れなかった斎藤さんは電話での参加。「所有したい」とゆーオタク的な思考と「なりたい」とゆーやおい的な思考を対立軸にして語っていて、だとしたら永山薫さんがエロ漫画で時として起こっている「ロリ」的な対象への所有欲が「ショタ」的な対象への投影欲へと横滑り(あるいは深化)していく状況をどう説明するんだって東さん側の突っ込みがあって、話が広がりそーだったけど「個人レベルでは以降はあるけど総体としては差はある」とか言った(記憶曖昧)斎藤さんの説明に、時間の無さも重なって議論が深化しなかったのが残念なところ。

 小谷さんの核家族で一億総中流な家庭環境から生まれた「お宅」意識にマザコン的性向がもたらした影響とゆー、ある意味あんまり突っ込んで欲しくない部分への指摘もあって、竹熊さん的な時代の総括とは別の意味で、時間をとってもっともっと聞いていきたい気がしたけれど、聞くと相当に痛いからなー。それにしてもキャリアもさまざまな豪華メンバーだけに集まった客層も結構ばらばらな状況では、誰もが満足ってイベントは作りにくいもの。ここでの成果を次の糧にして、深くなるにしても広くなるにしても、さらに楽しくタメになるイベントを作ってくれれば良しとしよー。詳しくは「TINAMIX」で。本とかにもなるのかな。


【9月15日】 起床午前7時。会社がある時より仕事に行く時より早起き、ってもまあ昨日だって半分は……1割は仕事だったし今日だって立派に映画「ファイナルファンタジー」の初日&坂口博信監督舞台挨拶の見物とゆー目的があった訳だから、むしろ仕事熱心と言われたっておかしくない。どこで行われてるって訳じゃなくあくまでも仮定の話だけれど、ありがたくないご高説を社長から直々に承り、下らない堂々巡りに終始した挙げ句、結局は上意下達な状況を受け入れる大会とが3月に1度は開かれて、それに全員出席が義務づけられていて出ないと後で社長室に呼び出しをくらうってな、管理教育で成る学校も真っ青になるよーな状況に大の大人が諾々と従うってのは、多分仕事とは呼ばれないからね。それこそが仕事だって思ってる人もまあ世の中には若干名いるけれど。

 仮定の話はさておき映画「ファイナルファンタジー」の初日、9時半からとゆー「日本劇場」の第1回目上映を見るために劇場に8時半くらいに到着すると大行列はなく、あれれと思って近寄るとすでに劇場は開いていて、中に入るとすでにそれなりな人たちで座席が埋まってて、アニメ映画の上映初日にありがちなセル画を配ってアニメファンに動員をかけるプロモーションを仕掛けた訳でもないのにこの入りは、果たしてゲームシリーズのファンなのか、それとも坂口監督のファンなのかあるいは純粋に映画のファンなのかと悩む、ってそこに既にして満員になって当たり前って発想が欠けていたりするんだけど、海の向こうや雑誌のレビューやあちらこちらから聴こえて来る評判を勘案すれば、初日とは言え舞台挨拶があるとは言え客が入るのを意外と思うのが普通。にも関わらずの動員は、東京って街の人口の多さを感じないではいられない。

 そうこうしているうちに上映時間。すでに場内は満員で立ち見も出る盛況で、こっそりでもなく見に来ていたギャガ・コミュニケーションの藤村哲哉社長もスクウェアの鈴木尚社長もまずは一安心といったところ。聞くと地方でもまずまずの入りだったそーで、アメリカではちょい残念な興行結果になったけれど、ゲームの映像に見慣れ坂口監督の知名度もあり、小難しい理屈が混じった話にも「新世紀エヴァンゲリオン」だの「もののけ姫」だの理屈っぽさではさらに上を行く作品がとった評判に鑑みれば免疫ありまくりな日本市場の場合は、ちょっと違う結果になるかもってな興行側の思惑どおりに行った感じ。舞台挨拶の終わった後の2回目の上映にも、劇場前にちょっとした行列が出来てたし、決してナマ坂口さん目当ての人ばかりじゃなく、作品に関心を持っている人がそれなりにいるってことなのかも。関心が感動に変わったかは知らないけれど。

 それにしても日本人、ブーイングの作法も苦手だけど拍手喝采の習慣にもやっぱり馴染がないみたい。8月に同じ「日本劇場」で試写を見た後、坂口監督にインタビューした時に「映画が終わって監督の名前が出た所で拍手が起こらなくって、1番最後の『ギャガ・ヒューマックス』って所で一斉に拍手が起こってあれれと思った」とかって言われたけれど、今日もやっぱりエンディングが始まった直後に出る監督名では拍手が起こらず、最後の最後で拍手が出たのにはきっと舞台裏で坂口監督も苦笑いしていたことでしょー、「おれはギャガ・ヒューマックスじゃねえ」とか。そー言えば先週見た「VERSUS」では数人だけどエンディングで真っ先に出た監督名にちゃんと拍手してたっけ、拍手の作法に通じた人がいたのかな。

 もっとも映画「ファイナルファンタジー」の場合、監督名で拍手しちゃうと続いてしばらく流れる静かなエンディングの間はいったいどうすれば良いんだろーと思ってしまうのが日本人的な感覚。おまけに「ラクル・アン・シエル」のロックなエンディングが接ぎ木されて結構な長さになっているんで、拍手しっぱなしってのもなかなか辛い。エンディングも含めてすべてが終わった後で拍手ってのが、やっぱりしっくり来るんだろー。もっとも拍手が欲しければスタッフロールの最後に監督名を出しなさい、とは言えないしなー、あれはあれでやっぱり作法があるんだろーし。まもなく「東京国際映画祭」とか「東京ファンタスティック映画祭」とか始まるんで、拍手の作法がどーなってるのかをちょっと観察してこよー。とりあえず映画「ファイナルファンタジー」を見る人はちゃんと監督名に拍手を。

 2回目だったんでそれぞれのカットが余韻を味わう暇のないテンポで繋げられた作品も割を余裕で見られて、最初の時は謎だったワードに謎だった設定に謎いっぱいのストーリーも9割くらいはつながって来て、ジダン似のおっさんとアキとの最後の場面なんかでそれなりな感動も得ることができたし、「トラストミー」と最初は女性が男性に言って、後で男性が女性に言うセリフの上の味ともか確認できて、いろいろと練り込まれた部分があるんだってことが分かって面白かった。繋ぎのせっかち感はやっぱり気になったんで、DVD化する時はカットしたエピソードを無理に詰め込むよりは余韻を持たせて頂きたいところ。説明不足に感じるのは字幕のせいかもしれないんで、日本語吹き替え版もできれば是非。広川太一郎&小原乃梨子のコンビは止めてね。山寺宏一&林原めぐみなら良いかも。

 ファントムに襲われた人間たちが街をシールドで被って住んでいるのが映画「ファイナルファンタジー」の設定だけど、舞台になっているのがニューヨークでドームに被われているのがマンハッタン島の南端だったことが確認できて複雑な気持ち。世界貿易センタービルは2本とも真ん中あたりから折れた感じに描かれているよーに描かれていて、決して明るいビジョンではないけれど、こーゆービジョンですら今では夢でしかなくなってしまった状況にはちょっと愕然とする。「A.I.」ではどんな感じに描かれていたっけ。もっとも聴こえてくる声には、ニューヨークの象徴としてツインタワーは再建すべきって声もあるから、あるいは可能性があるのかも。どっちの映画も人類、滅んでるか滅びかかってるんだけど。

 「スタジアムへ行こう」継続中。「秋場所」開催中の「両国国技館」で相撲をちょっとだけ見物、3600円する椅子席のCってゆーからどの辺りかと思って入ったら、2階席の最後列から前に3番目ってゆー場所でちょっとゲンナリ。とはいえそーゆー場所しか当日券なら残ってなくって、マス席はもちろん椅子席も前の方は売り切れてたりする状況を鑑みるに、人気低迷とは言ってもこれでなかなかに底堅い支持を相撲は未だ集めてるんだなってことが確認できたのは収穫だったかも。メディアってのは持ち上げる時ははるか高みに持ち上げる分、下げる時は一気にたたき落とすから、それだけ見てると相撲が今、とてつもなく不入りになってるんじゃないかと思えてしまうんだよなー。国技館の周りは宝塚じゃないけど入り待ちするファンがつめかけて群をなしてたし、中では若いお相撲さんを喋る女性ファンとかも見られたし。行って初めて分かることって多い。明日はどのスタジアムをのぞこっか。


【9月14日】 起床午前5時半。うにゃむにゃと寝とぼけた頭を珈琲で覚ました後、適当にまわしをして(支度をして)総武線のほとんど始発に近い電車に飛び乗って向かうはいわずもがなの秋葉原。3年後の天下統一が昨日の「バイオハザード」確保でぐぐっと近づいた任天堂の新型家庭用ゲーム機「ニンテンドーゲームキューブ」の華々しい出陣を、おそらくは長蛇の行列にはばまれながらも遠くからお祝いしよーと駆け付けた目に飛び込んで来たのは、まるで閑散としてただカラスだけが飛び泣く早朝の都会にありがちな風景。もしかすると発売日は15日の土曜日で1日間違えてしまったのかこれはお兄さん1本とられたと思いつつ、だったら明日は何時から発売なんだろーと張り紙なんかを確かめに「ラオックスゲーム館」の前に行くと……並んでた、うん確かに人が並んでた。

 並んでたんだけどその数およそ20人ばかりで、おまけにその半分くらいが西洋人に東洋人でも日本っぽくない言葉遣いの人たちとゆー状況に、いったいこれはどーゆー事なんだろーと首をかしげる。コンビニエンスストアで予約して買う習慣が任天堂のハードなりソフトでは定着してきた昨今、無理に並ばなくたって買えるからと秋葉原なり新宿なり、渋谷なり池袋の量販店前に行列を作って並ぶのはあくまで一種の儀式であって、従う人はよほどの趣味性向の持ち主だってことは分かっているけど、例えば「ドリームキャスト」発売時のメディアは数十じゃきかない数が来て、行列も数百人は出来ていた状況を実際に見、またネットでの予約が始まっていたハードで200万台とかゆーけた違いの数を最初に揃えた「プレイステーション2」でも、「ドリームキャスト」を越える喧噪を秋葉原に現出させた。

 それから1年半、なるほどゲームの市場は全体に沈滞ムードにあるとは言っても、お目出たい場にはそれなりの数が集まって来るのが道理かと思っていたらさにあらず。午前7時の開店から1時間前で20番目くらいだった僕の後ろに人がついたのがその10分後。でもって1時間経過した開店時でせいぜいが50人程度とゆー行列の数は、コマーシャルが少なくソフトの本数も少なくネットでの予約がいっぱいで製造台数も「PS2」に比べて少ないハードであるのは承知としても、やっぱり少な過ぎるよーな気がした。よぎるのはやっぱろ「NINTENDO64」の悪夢、1000万台を積み上げた「PS2」の後塵をやっぱり拝し続けるんだろーか「GC」は?

 もっとも。ハード的な実力はともかく会社っ的な体力に鑑みると騒ぎすぎな感もあった「DC」が今は存在せず、「PS2」も度過ぎた喧噪が逆に情報へのセンシティブさを増してしまって通常に戻った状況を沈滞と取られ、PS2低迷説の論拠にされてしまった状況を鑑みるに、スタートダッシュをかけて無理矢理煽った挙げ句にソフトがない状況をあげつらわれたり大切な年末商戦にブツがないなんて状況を作ってしまったら本末転倒になりかえない。とりあえず出てまっせ、ってあたりを匂わせるのを今回の目的と位置づけ、ちょっと凄いゲームができるよね、ってな反応を口コミで広げてもらって徐々に、けれども確実に浸透させていこーとゆー戦略らしーんで、行列の少なさはむしろ予定どーりの大成功、小さく生んで超絶巨大に育てるその第一歩が、この日この場所で刻まれたんだと理解するのが正しいんだろー。居合わせた我が身を幸せに思おー。フジテレビのお昼前のニュースにもバッチリ映ってたし。

 とはいえ購入者の数は数として取材の数の少なさにもちょっと愕然。僕はまあ半分取材の……すいません1割取材の9割客だったんで除外するとしても秋葉原に来ていたメディアの数たるやおそらく両手に余るくらいで、新聞の夕刊なんて写真を出してたのが日本経済新聞社くらいで後は読売がおさえてたくらいかな、産経は無視だよ無視。幾ら世界的にとてつもないニュースが現在進行形で起こっていると言っても、世界的な知名度を持つ会社の起死回生の製品が登場したってゆーバリューも脇においやられるどころか没るとはちょっと思わなかった。まあ新聞はそれでも記事にバリエーションがまだあるけれど、昼間のニュースで映してくれたフジは夕方のニュースは2時間枠のうちの実に1時間40分がテロ関係。恐牛病も沖縄に居座る台風も番組の上では「なかったこと」にされていて、世界の危機の前に国民の危機が脇においやられてしまっている状況にちょっと気分が沈んで来る。メディアって奴はこれだから。

 ともあれ並ばなくっても買えたけど並んで確実に買えた訳なんでそれはそれでラッキー、さっそく会社へと運んで組み立てて「ウェーブレース ブルーストーム」をプレイする、うーん難しい。旨い人だとホント曲がる時でもアクセル踏むときでも微妙な指遣いで巧みにジェットスキーを操縦するんだけど、素人でおまけにレースゲームに免疫がゼロのポン酢野郎なんで、グランプリのモードでは抜けないどころかミス連発で完走すらできない体たらく。面白さが湧き出て来るまでには相当な修業が必要だろーなーと気分がまたまた沈みかかる。ターボの使い方もタイミングよく分からないんだよなー。攻略本とか読んでおくべきなんだろーか、それとも走り込んだ果てにタイミングもすべて体感するのが筋なんだろーか。個人的には個人で頑張りたいとは思うけど。

 とはいえ練習用のフリー走行になると時間もルートも気にせず走れて、そーなるとジェットスキーの実在感に波の描写のリアル感、コース上のさまざまなオブジェクトの存在感がひしひしと感じられて、「ウェーブレース」はやっぱり凄いゲームでそれを可能にする「GC」はやっぱり凄いハードなんだってことに感じ入る。見ていて目がチカチカせず、スピードに頭が興奮し切って気持ちが高ぶり眠れなくなる、ってことも少なそーだし。これが柔らかいCGって奴なのかな、けど柔らかいCGってPS2の時に言われた言葉だったっけ。いずれにしてもGCのCGは僕の目には優しく見えます。どーゆー秘密があるんだろ。

 はるか海の彼方まで行けたらそれはそれで面白かったんだろーけれど、ブイを越えて走る過ぎるとリタイアにされてしまうから無理な模様。まあデカいとはいっても容量は無限じゃないから海まで無限にできなくっても仕方がない。レースの舞台となる場に限って言えばカンペキなまでの箱庭を心ゆくまで楽しめるってゆー事実はある訳で、それについては心から諸手を上げて喜びたい。ソフトはほかに「ルイージマンション」を購入。これもどこまで楽しめるかは属性もあって不明だけど、デモで見た時のCGの凄みを感じることは可能だろーから、時間を見て世界へと入り込んでは目に優しいCGが描くオモシロ怖い世界を追々、堪能していくことにしよー、とりあえず「ピクミン」出るまでは。


【9月13日】 あっ、そうかと思い出したのは随分と前、福田和也さんの出版記念コンサート(になってしまった半分くらい)の幕間に開かれた漫才に、福田和也福田和子(ニセ)のコンビで登場したのがかの有名な中瀬ゆかりさんだったんだってこと。最前列で見ていた目の前に現れた女性が、五月蝿型な福田さんを相手にタメってよりは半分くらいは上手に立って喋っていた姿を今も鮮明に覚えている。

 「新潮45」の編集部員たちをまるで「編集会議」の表紙で作家画家評論家の後ろに下僕のごとく居並ぶ編集者然と従え、事実婚状態の白川道さんとも一緒に登場の「週刊SPA」の9月19日号に掲載の「ニュースな女たち」によると、「初対面で酔っぱらって林真理子の首を絞めた。福田和也とパンク衣装で舞台に立った。産気づく柳美里を小泉純一郎と対談させ、原稿を上げるまで入院を拒んだ……」とか。衣装はパンクってよりはいかにも漫才師っぽい格好だっよーな記憶もあるけどこれは曖昧。いずれにしてもその豪快さはコワモテで知られる白川道さんだってなびきそーだったことは間違いない。あちらこちらに出没していると時としてこーゆー貴重な人に会えるもの。これからも頑張って出没に励もう。確かあの時の漫才、どっかに録音が残っていたなあ。探してみよ。

 おや砂さんだ。同じく「週刊SPA」9月19日号で漫画家で「フェミニズムセックスマシーン」(太田出版)の砂さんがかの芥川賞作家、花村萬月さんと「失われてしまったエロ・ダンディズムを求めて」ってタイトルで対談している。見るからに「エロ・ダンディズム」な風貌の花村さんを相手にしても、砂さん堂々の貫禄で写真には写っててなかなかな感じ、とても30歳には見えないなあ。和室で前菜つまみながら水割り、っぽいものを飲んでたりする絵面なんかもあるからなんだろーけれど。

 前に「ロフトプラスワン」で初期の同人誌ってのを掲げて見せてもらったけど、あの時の実にいかにもな絵柄から遠く離れて最近の腹筋もりもり尻パチパチな女性に至ったプロセスを「主に流通するエロの記号から排除されていたものを寄席有るメルような形で」作ったって言っていて、花村さんがすかさず「ただ、砂さんの描く女は多くの人が巨乳じゃない?」と突っ込んでるのが印象的、ちゃんと読んでるんだ花村さん。対して砂さん「確かにそうですえど、自分の描く巨乳派垂れているんです。垂れたらダメっていうのが、日本のマスで流通する巨乳進行ですから」と解釈。改めて本を読んでそうかなるほどって思ったけれど、こーゆー会話をポンポンと、それも瀟洒な和室でやれてしまうあたりに2人のエロ・ダンディズムにかける意義込みを感じてしまう。ホットパンツ話とカットジーンズ話はなかったけど、花村さんはどっちが好き、なんだろー。

 カプコンが「バイオハザード」を「ニンテンドーゲームキューブ」にしか出さなくするって会見があってちょっと吃驚。ひとつには前に「プレイステーション2」が「ゲームキューブ」で「Xbox」でもすべてに等しくソフトを供給していく「マルチプラットフォーム」の戦略を取るんだって去年だか一昨年だかに同じ「赤坂プリンスホテル五色」で会見しているのを聞いてただけに、「バイオ」に限ってとは言えここに来ての単一ハード絞り込みがちょい逆行しているよーな気がして仕方がなかった。

 もうひとつは任天堂とゆーどちらかといえば「良いゲーム」を出すのを旨としている会社が、決して健全とは見えずそれが証拠に暴力的なシーンがあるとあらかじめ断ってあって、ゾンビとはいえ撃ち刺し叩き殴っていくゲームを、それも以前より造形がくっきり鮮明でしっかりリアルな内容になっているものを独占的に供給してもらって喜び、宮本茂さんまでを会見の場に出席させて歓迎の意を現したってことで、どこかにパラダイム的な変化でもあったんだろーかと不思議に思えた。

 まあ任天堂に限っていえば「バイオ」は確か前にも出していたはずで、他にもシューティングとか結構あって徐々にだけど「子供に健全なゲーム」って枠組みを意識しなくしていたよーな感じがあったから、急激な方針転換って訳ではないのかも。こと子供向けってイメージがついて伸び悩んでしまった「NINTENDO64」の轍を踏まないよー、大人でも楽しめるゲームを出していくし出してもらうんだってスタンスも見えていただけに(「ソウルキャリバー2」とかあるし)、「プレイステーション」で開拓してもらった大人のマーケットに向けて売り込む”核弾頭”として「バイオ」シリーズを位置付けているのかも。

 あと、遊んでみて初めて分かるとゆー視覚とか聴覚だけじゃなく触覚の部分が重要なゲームとゆーエンターテインメントの本質に「バイオ」シリーズの三上さんが迫っていて、それを宮本さんが認めたってことも。会見に登場した宮本さん、その辺のことで三上さんを誉めてたし。三上さん的にもゲームとして作りたいものを作れる環境がGCにはあったってことで、クリエーターとしての欲とゆーか感性が、現状でのマーケットサイズといった商業的経済的な誘惑を越えてGCへと向かわせたのかも。

 もしかすると商業的にだって、目先はなるほど世界1000万台の普及数があってミリオンヒットだって出始めているPS2を袖にするのってキツいかもしれないけれど、ソフトあってのハード、三上さんのよーな人が続々と登場しては例えば5年、あるいは7年8年とハードを守りソフト市場を育んで「良いゲーム市場」にしよーとゆー強い意志をとりあえず見せている任天堂になびけば、将来の1億台(?)を相手に商売をしたって方が結果的には吉ってことになるのかも。まあ普及台数は正直水物だったりするんで、明日の発売の様子なんかを観察しつつ客の反応なんかを伺いつつ、GCと「バイオ」の結婚が果たして銀婚金婚ダイヤモンド婚クラスの長期に亘る蜜月へと至るのか、それとも4作目まで出すとゆー方針がくつがえって元サヤあるいは別ザヤへと収まるのかを見ていこー。しかし任天堂のハードで「バイオ」、やりたいものなのかなー、任天堂ライクな人たちは。

 何か突然並んでて驚いた白泉社の「白泉社My文庫」。名前的に記憶にあったりする大澤良貴さんの「累卵の朱」(イラスト・志水アキ)に若杉桂さん「イノセント・サマー 骨董屋店長事件簿」(イラスト・あとり硅子)に徳田央生さん「フェイク 有村央生のアート事件ファイル」(イラスト・杉本要)の3冊があってとりあえずやっぱり3冊とも買ったうちの厚みが1番あった「フェイク」から読む。どーやら以前に「メイド・イン・ロンドン」とゆータイトルで10冊出ていたシリーズのキャラを引き継いだ作品らしーけど、想像するにボーイズがなにしてあれするタイプの小説だったらしく未読。とはいえ「フェイク」に限っていえば、キャラクターの来歴に位置関係をとりあえず了解しておけば、後はいわゆるアート・ミステリーとして楽しめるから「シリーズ物かよ」なんて敬遠する必要はないみたい。ってゆーか単独で読んでも全然読めるし面白い。

 美術史専攻の大学院生の主人公がキュレーターの友人に頼まれ参加したオークションで見かけた作品が実は……って所から始まって嫌疑をかけられそれを晴らすために自分とそれから知り合った刑事といっしょに真相究明を始めるとゆー展開は、贋作の蘊蓄なんかが挟まれあれこれ勉強になるし、真相に迫るステップも入り組んでこそないけれどその分頭にスンナリと入って楽しめる。一緒に捜査に乗り出す中年の刑事の心に残るわだかまりと、それがきっかけとなった奥さんとの諍い、なんてキャラクター的なドラマもあって、物語の流れが平板な感じがしないもの良い。柵の塗り替えのエピソードなんて独り者だけど身にちょっとつまされる。”敵”の姿なんかも見えて果てしない戦いへとつながるプロローグにもなっていそーなストーリー。次があるとしたらさてはて、どんな”フェイク”とのバトルを見せてくれることやら。作者とそれから担当編集のH田さんの頑張りに期待してます。


【9月12日】 1999年3月27日、神戸ユニバーシアード記念競技場。ヴィッセル神戸の試合に出場していたドラガン・ストイコヴィッチは後半44分にフォワードの福田へと通したラストパスがゴールに結びついた瞬間、「ユニフォームをたくし上げて咆哮した。Tシャツには試合前にひとりシャワールームで印した文字。『NATO STOP STRIKES(NATOは空爆を止めよ)』が浮かんでいた」(木村元彦「悪者見参上」213ページ)。ミロシェビッチ政権がコソボで行ったという虐殺に対抗して、NATOがユーゴスラビアの表向きは軍事施設、けれども実態は民間施設も含んだ無差別に近い空爆を行ったことへの抗議を、過去絶対にスポーツの場に政治を持ち込まなかった男がやってのけた。

 けれどもリーグは彼の行動を規制し、喪章を付けることすら認めなかった。メディアも報道こそしたものの彼の行為を讃えることはしなかった。4月25日、ストイコビッチをはじめ4人のJリーガーと監督がユーゴスラビア大使館で会見をひらいて、改めてNATOの空爆を非難する言葉を放った。「歴史上初めてのことが起こっています。現在、どこの国へも侵略を企てたわけでない主権国家(ユーゴスラビア)が空爆の標的になり、全く罪のない市民が日々、命を落としているのです」「宣戦布告すらしていない奇襲攻撃によるものは、国際法上からも許されるものではありません」(同書239ページ)。

 ミロシェビッチは多分良くないことをした。だからといってユーゴスラビアの市民が殺されて良いはずがない。市民を巻き添えにするような空爆は止めろ、市民全体を人質に取ったような経済制裁も解除せよ、といった当たり前のことを、支持されこそすれ非難される筋合いのない言葉を発した彼らの会見はけれども、「せいぜいがストイコビッチの一コメントをストレートニュースで流した程度に終わった。『ユーゴ人がユーゴスラビア空爆反対の発言をするのは、当たり前過ぎてニュースにならない』私がかけあったある新聞社のデスクは冷たく言い放ったのだった」(同書250ページ)。

 考えてみよう。いま仮に、日本に来ているアメリカ出身のプロ野球選手たちが、試合の前後でも良い、記者会見を開いてでもいいからテロを起こしたという勢力に向かって「テロをやめろ」と訴えて、取りあげないメディアがあるだろうか。「だってミロシェビッチが悪いんだろう」といった同じ論理で「ブッシュの政策が巻き起こしたんだろう」と茶々を入れられる空気にあるだろうか。多分、というより絶対にない。テレビを通して繰り広げられた惨劇を目の当たりにしてなお、冷血漢と謗られることを覚悟で「アメリカの自業自得」と言い切ることは僕にはできない。というより誰にもできない。ただアメリカ人というだけで、アメリカで働いていたというだけでアメリカもろとも葬り去られて良いはずがない。「人の命は重い」。そういう言葉に政治はない。経済もない。

 だからこそいま、悔やまれて仕方がない。ストイコビッチが肉親に迫る危機に怒りと恐れを抱きつつ、勇気を振り絞ってTシャツにメッセージを書いて見せた時、あるいはその後にユーゴ大使館で会見をやった時に、どうして今抱く気持ちと等しく「人の命は重い」と言わなかったのかが。あるいはこの何年か。パレスチナでアメリカの支援を受けているイスラエルの軍隊によってパレスチナ難民たちが、指導者たちが殺害されていく状況にやっぱり「人の命は重い」と言わなかったのかが。

 言えなかった、ということもある。ブラウン管を通してまさにいま、すぐ目の前で繰り広げられている惨劇に感情を移入することはた易い。けれども遠くユーゴスラビアから、「ミロシェビッチ=悪」という公式を経て送り出されてくるわずかな情報にはなかなか気持ちが乗らない。パレスチナも同様。かろうじてピクシーというフックのあるユーゴスラビアはともかく、知人が務めている訳でもなければ取引先の会社がある訳でもないパレスチナの地で、助けを乞いながらもバタバタと倒れていく姿を見せられもしない状況で、ニューヨークと、ワシントンと同様に「命は重い」などとはなかなか言えない。言わねばならないということは分かっている。分かっているけれども人間、そうそう簡単にはものごとを割り切れない。情報の過多、親近感の有無で知らず命の重さに差をつけてしまう。メディアななおのこと、別のモノサシで差を作る。

 重ねていうが「命は重い」。ニューヨークで、ワシントンで奪われた命は果てしなく重い。けれども考えなくてはならないことは、その重い命がどうして奪われなければならなかったのかということ。すなわちどこかで別の重たい命が奪われ続けてきたのだということ。こう書けば必ずや「ならば目には目を、ということなのか」と問う人が出てくるだろう。はっきりと言う。違う。命が奪われた理由を考えることは、奪った相手の置かれた状況への理解であって容認ではない。理解なくして解決はない。

 あるいはまた、命の価値の同等さを感じることでもある。情報の過多とか、親近感の有無といった条件を排して、等しく命は重たいものだと認識するための道を探ることでもある。目の前で繰り広げられた惨劇に可哀想と言い、悲しいと言う気持ちはそれとして大切にしたい。けれどもそれを単純な敵愾心へと転化はしたくない。それは憎悪のエスカレーションしか招かない。果てしない命の奪い合いへしか続かない。情報の入らない、あるいは故意に隠蔽されている情報の向こう側で、等しく重たい命が奪われていることに目をつぶってはいけない。浴びせかけられる一方からの情報に流されず、当事者ならまだしも傍観者なら感情に溺れず、情報を集め、想像し、その上で考えよう。どうしてそうなるのかを。そして探ろう。どうすれば良いのかを。

 携帯電話の向こう、両親の声の後ろから爆撃音が聴こえて来る状況にあってなお、ストイコビットはこう話す。「私が信念として持っているのは、『すべての出来事は、平和的な方法をもって解決できる。すべての出来事は、平和的な方法を持って解決しなくてはならない』、そういうことです」(同書240ページ)。世界の大勢に歓迎されていない。家族とともに住み、子供たちに夢を与える仕事をしている日本のメディアからも関心を抱いてもらえない、むしろ敵視すらされている状況にあったピクシーだからこそ、この言葉が持つ意味は大きくて、清く、尊い。哀しんで構わない。けれども惑わされるな。怒って当然。けれども相手を間違えるな。己の中に巣くうナショナリズムやセンチメンタリズムやグローバリズムを苦い思いで噛みしめながら、撃つべき敵に向かって進みたい。

 しっかしまるで「月刊日本SF大会2001」って感じだねー、今月号の「月刊アニメージュ」。「アニメは虚空にSFの夢を視る」だなんていかにも徳間っぽいタイトルで堂々の4ページも特集を組んでいるかと思ったら、コラムのページでも大森望さんが「SFひろば」に立てられていたモノリスの変遷なんかについて河内実加さんのイラストも交えて紹介し、また伊藤伸平さんがやっぱりモノリスを本尊にした「原始宗教の発生」なんかについて漫画に描いていて、さらに水玉螢之丞さんもモノリス話は他に回したよーだけど変わって「でじこの人生ゲーム」「てんちょ」「カラオケ」「幾原&さいとうちほ」話なんかをイラストでギュウギュウ詰めにして描いてて、行った人が読めば見聞した事が思い出されてニヤリとし、行かなかった人も「そんなに楽しいことがあったの? 来年は行ってみたいなあ」なんて思わせる内容になっている。

 まあそれは多分にコラムを書いた人たちに「SFファンってなーそーゆーこと(モノリスを崇め奉る)を楽しんでやれる人たちだ」ってな認識的な土台があって、且つ「月刊アニメージュ」の読者も読んでそれほど違和感を抱かないだろーとゆー前提があって、モノリスにネタが集中するよーな記事の掲載になったんだとは思うけど、9月11日の「毎日新聞」夕刊に掲載された菅浩江さんの「楽しんだ21世紀のSF大会」とゆー記事でもやっぱり「モノリス」話が取りあげられているのを読むと、内容的には「アニメージュ」と遜色はないんだけど、どこかやっぱり身の置き所の無さを感じてしまう。

 「しかしいつの間にかその傍には、サルの着ぐるみ、お賽銭、願い事を書いた何百枚もの名刺がおかれていき、ついには注連縄が張られた。モノリスは神格化すべき物体−その共通認識のもとに参加者たちは自主的に洒落た遊びを展開したのだ」って菅さんは書いているけど、もし仮に共通認識とは遠く離れた人がこれを読んだら、いったいSFファンってのは何を気色悪いことをしているんだろーと思わないかとちょい心配になってしまう。「アニメージュ」じゃなく「SFマガジン」でもない、比較的種々雑多で趣味も多様な人たちが読む新聞とゆー場でいきなり「それが共通認識なんです」と言われても、なあ。でもって「SFはけして特殊で閉塞したジャンルではない」と言われても、なあ。

 どうしてそれが共通認識なのか、でもってSFファンはそれがどうして楽しいのかをちょいつけ加えて、SFとSF大会の楽しみ方を知らない人にも教えるよーな記事が、できれば「毎日新聞」では読みたかった。せっかく全国紙で結構な分量で「SF大会」について書く機会が与えられたんだから、素人さんでも引っぱり込んでハメるよーな媚があっても面白かったかも。まあ「SFの醍醐味は、なんでもござれの守備範囲の広さと、知的遊戯感覚」とは書いてあるんで、そのあたりの説明を糸口にして守備範囲は広いってことが記事にも羅列してあるよーなイベントの多彩さにつながっているのかな、知的遊戯感覚ってのがモノリスなるものを崇め奉る行為へとつながっているのかな、なんて興味を抱いてもらえればそれはそれで未来へと繋がる可能性もあるでしょー。


【9月11日】 川端裕人さんの新刊「The S.O.U.P」(角川書店、1800円)を読む。人気ネットワークRPGを2人の仲間と作っで大成功したものの仲違いもあって今は一人、東京でネットセキュリティのコンサルタントをしている青年が、世界のネットに対して攻撃を始めたクラッカー集団から、かつての仲間が助けを求めてくるメッセージを寄せられて日本にアメリカに活動を始めるとゆーのが骨子。ネットワークRPGの実状とかハッカーの歴史とかクラッカーの活動とかインターネットの発達とか人工生命(アーティフィシャル・ライフ)の可能性なんかをギュウギュウに詰めつつも、それぞれがちゃんと意味や役割を持って物語に絡んで来て、最終的にはより大きな陰謀めいたものまでを示唆する筆の運びの技と冴えに激しく感嘆する。いや凄い、ほんと素晴らしい。

 ネットワークRPGに没入した挙げ句に現実と非現実との境目がなくなるくらいに没入してしまう感じとか、ゲーム会社を作ったシナリオライターとプログラマーとグラフィッカーがそれぞれに他のメンバーに対して劣等感と優越感を抱きつつ、次第に仲違いしていってしまう構図とか、うんうんあるあるってな印象を抱かせる適度なリアリティがあって良く調べてあるなあ、それを旨く小説に取り込んでいるなあと感心すること仕切り。コンピューターの進化とネットワークの発達を背景に想像がふくらんでいた、ネットの海で生まれ育つ新しい生命、「攻殻機動隊」で言うなら「人形使い」になぞらえられるALがどんな未来をもたらすんだろーかとゆー点への想像力なんかも読んで結構頷かされる。「クリスタル・サイレンス」なんかでもあったけど、かくも著しいネットの発達を見るとやっぱり可能性を考えてしまうんだよね、ネットへの”移住”とかって。

 ただそーしたテクノロジーの発展がもたらす可能性とそれに伴う人間の意識の変化といったSF的なテーマはテーマとして楽しめるんだけど、そこをメインにすえて膨らませて”夢”を見させるSF的エンターテインメントとはちょっと違った方向へと向かうのが「ニコチアナ」なんかでも見られた川端さんの特色で、確か「ニコチアナ」の場合はタバコ産業の攻防やタバコ文化の未来といった感じでファクターを前面に打ち出していたけれど、対して「The S.O.U.P」より政治的なファクターを取り込んで、ネットの可能性に水を差すよーな、より現実的でよりドロドロとしたものを見せてくれて居住まいと糺される。すべてをお見通しの上でテロリズムすら手のひらの上で踊らせて、自国に都合の良い方向へと引っ張って行こうとする”政治”の醜さと強さには正直ムッとするけど、それだけやってこそ守れる国家の安全って意識がそこにあるんだろー。アメリカって凄い国だなあ。

 とか思っていたのも一瞬で、太平洋戦争の発端になった真珠湾攻撃をルーズベルト大統領は事前に知っていて、なおに自国民の結束を図り日本を攻撃する口実にするためにやらせたとかゆー話を聞いてはいても、目の前で起こる真珠湾攻撃よりインパクトはもしかしたら大きく、人的被害でもはるかに上かもしれないテロの様相を見ていると、テロを半ば利用する形で自国に都合の良いよーな状況を作り出す、なんてことはやっぱり単なる陰謀史観じゃないかとゆー考えが頭を持ち上げてくる。

 いくらなんでも数千人、数万人を犠牲にして、空の輸送を完全に麻痺させ株式市場を閉鎖に追い込むとゆー、ただでさえ弱体化しかかっているアメリカ経済をなおいっそうどん底へと落としかねない事態を知っていて黙認するだけの悪い意味での”強さ””したたかさ”がアメリカにある筈がない。建国から200何年、建国前も含めて数100年に及ぶアメリカの歴史でも最大にして最悪の外国勢力による本国への直接攻撃だった訳で、そんなものをわざと見逃していただなんて、真珠湾の例みたく後でバレたら起こる非難はきっとハンパじゃないからね。

 だいたいが真珠湾で言われているよーな、古めの戦艦ばかりを集めて被害を少なくおさえたとかってゆー作為は今回、アメリカで起こった連続テロでは全然感じられない。アメリカの経済繁栄のまさしく象徴ともいえる世界貿易センタービルに、アメリカの大動脈とも言える航空機を乗っ取って突っ込ませるなんてことをやられて、受けるダメージは浮かぶ怒りなんかをはるかに越えたものになるだろー。「The S.O.U.P」の中には、テロはテロでもこちらはインターネットを麻痺させるとゆーサイバーテロをアメリカが受けて、ネットを使って治療中だった人が死亡して、それに大統領が怒り国民を煽りある状況に移行させる、って感じの災い煽って福をひとりじめな描写があるけれど、極東の真珠湾ならまだしも今回は本丸中の本丸「ペンタゴン」までアタックを受けているんだから、福に引き替えにして妥当な災いとはとても思えない。

 21世紀の現在、アメリカを混乱させ世界を相手に戦うんだったらやっぱりサイバーテロくらいしかないのかなあ、なんて考えていたけど昔ながらの肉弾戦が可能であり且つ効果も高いってことが分かって、これから続いてどんなテロが起こるのか今は心配で仕方がない。それよりかくも悲惨な結果を招き、宣戦布告をされたに等しい扱いを受けたアメリカが、いったいどんな報復に乗り出すのかが今は心配。イラクでもユーゴスラヴィアでも圧倒的に有為な立場で本国から遠く離れた場所で軍事的にも政治的にも圧力をかけるだけに留まって来たのが、これからは恐怖に脅えながらも本気で1つの勢力を潰しに行くとしたら、影響の及ぶ範囲はそれこそ世界レベルになる。中で日本も踏み絵を踏まされる可能性がある訳で、今のこのどこか全体に右側に触れつつある状況で、巻き起こる空気がいったいどんなものになり、それをメディアがどう膨らませるのか。他人事じゃなく見ていく必要がありそー。時代が動き始めたのかな。

 しかし不謹慎を自戒しつつも映画じゃなく飛行機が高層ビルへとぶつかるシーンを生中継のリアルタイム映像で見られたのには、やっぱり興奮してしまった。「ニュースステーション」が冒頭でビルに飛行機が突っ込んだってニュースをやっちえて、NHKに切り替えたら遠くにビルをのぞみつつ生中継をやっていて、しばらく見てたら遠くから飛行機が近づいて来て燃えてない方のビルに突っ込んだから驚いた。やればやれないことではないと知ってはいても、まさかやるとは思わなかったからなあ。カミカゼを見た米軍もやっぱり最初はこんな気持ちだったのかな。

 あとビルが2つとも倒壊してしまったのにもちょっと吃驚。ゴジラが突き抜けたって立ったまんまのアメリカのビル、沈火すればまんま残るかと見ていたけど、飛行機が抜けた隙間に上の何十階分が勢いをつけて崩れ落ちると、その重さその勢いに下も耐えられなかったんだろー。爆弾とかの可能性なんかも考えて、2本目の倒壊をシーンを観察したけど下で何かが爆発している感じはなかったし。周囲への被害とか要する時間とかを気にしなければ、高層ビルを倒壊させるんだったら上層部の何階分を吹き飛ばせばあとは自重で崩れるってことなのか。角川書店が製作しているプレイステーション2対応ソフト「ビルバク」で遊ぶ時にはその辺ちょっと考慮しよう、ってホントに出るのか、出せるのか、このソフト?


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