縮刷版2001年7月上旬号


【7月10日】 藤木稟さんの新刊で表紙のとっても格好良い「テンダーワールド」(講談社、1900円)をやっとこさ読み終える。買った後から届いてちょっと不思議。それはともかく民俗モノっぽかった「スクリーミング・ブルー」(集英社、1800円)から転じて、ってゆーか「イツロベ」(講談社、1800円)で見せてくれたサイバーな世界に戻って発表された、「イツロベ」と世界観を一緒にする最新作はあらすじはともかく(こーゆー時に感想文にあらすじを混ぜておくと役に立つ)細かい設定とか人物なんかが全然思い出せなかったりして、出てくる天才女性科学者のロザリーってのが果たして前作にも出てたんだろーか、「ゴスペル」って「イツロベ」だとどんな感じで使われていたんだろーかってな辺りを、記憶を手繰りつつ読んでいってもやっぱりはっきり思い出せない。真相が分かってしまうのを避けて感想文をほのめかしに止めておくのもやっぱり良し悪しって感じ、けどもー1度「イツロベ」を読む楽しみもあるから良いってことにしておこー。

 帯からたぐるなら「ラスベガス郊外に建設された巨大ネットシティ。郵政省から独立した情報省が管轄するそこは、世界の情報と経済の一大中心地となった」って基本部分があって、富裕層からスラムまで格差のある住人たちがいて遺伝子改造とか平気で行われていてってサイバーパンクっぽい雰囲気があって、あるいは映画の「マトリックス」とか最新刊も出た「攻殻機動隊」の世界なんかを思い浮かべるととりあえずの状況は認識できる。問題は登場して来る人たちがいったい何に向かって進んでいるのかがなかなか見えない所で、冒頭に登場する体は不自由ながらも頭脳明晰なツォロスティアって女性の不思議な言動があり、優秀な遺伝子を持って生み出されたカトラーと日系人で禅に凝り拳法も学び自分をニンジャと言い切るロバート・オカザキって2人組のFBI捜査官による謎の殺人事件の犯人追跡があり、ネット専門にスクープ映像を流しては稼ぐ鳴海ってトップ屋と台頭著しい新興宗教の一派との諍いありと、いろんなストーリーが絡み合って登場して来てどこに物語の核があるのかがなかなか見えない。

 それでも途中からは、カトラー&オカザキの一派と鳴海がともに、肉体から意識を脱却させよーとしている謎の宗教団体が企む陰謀に絡むことで1つの筋が見えて来て、そーこーしているうちに遺伝子レベルの実験とか、意識を集合化させる装置とかいった人間の存在と意識との関係についての問題がクローズアップされて来て、次代の人間の可能性なんかに関する稀有壮大なビジョンが繰り出されて来る、よーに見える。テーマ自体もさることながら描かれる未来都市のスモッグと紫外線と放射線にさらされた日常生活とか、タブレットと呼ばれるモバイル端末が絶対的な必需品になっている状況でのコミュニケーションとかいった部分の描写はなかなかに緻密で熱気があって、読んでいて目の前に世界が浮かぶ。

 もっとも電脳な描写、量子論な描写、宗教な描写を読んでいかにも知った気になって、その実全然分かっていなかったりすると消されちゃったりする恐れがあるからあんまり突っ込まない方が良いかもって気も。訳は東野圭吾さんの「超・殺人事件 推理作家の苦悩」(新潮社、1400円)に入っている「超・理系殺人事件」を読めば分かるけど、ちょっとだけ種を明かせば本当は最後の1行の「誰それが犯人だ」って所だけ分かれば個人的には十分に満足で頭脳的にも存分に適当なのに、頭が良いんだってことを確認しよーと数学的な謎解きとか、物理学的な検証とか、哲学的な論陣とかを何分も何十分もかけて読んで、本当は分かってないのに分かった振りをするのは健康のために宜しくないってことで。ただ「テンダーワールド」はラスト5ページでなおいっそう高みへと上ってしまう所があるから読んで納得で終われない。宗教っぽい部分との関連は「攻殻機動隊2」とも関連してそーで比較してみたい気もするけれど、「攻殻2」がこれまた1度や2度じゃあ判読不能な難しさなんで、頭にもうちょっと余裕が出来たら「イツロベ」と共に読み返してみよー。

 イチローの大活躍が全米を包み込むだろーその日に全米公開だなんて、同じ日本産の大活躍ってことを狙ってタイミングを合わせたのか、それとも注目が大リーグのオールスターに集まる日にこっそり公開してネガティブな意見をかわそうと企んだのか、いろいろ想像もできたりして面白いけれど、確か「スター・ウォーズ エピソード1」だったも週央の公開だったよーな記憶があるし、全米では別に珍しいことでもないんだろー、って訳で明日11日に全米のえっと2000館くらい? とにかく日本人の監督作品としては当然ながら最大規模の劇場で封切りとなるオールCG映画「ファイナルファンタジー」の日本での試写があるってんで、これは絶対に十重二十重と試写会場を取りまく人が来ているに違いないと思いこみ、ちょっと早めにいそいそと会場にかけつけると誰もいなかった。

 もしかして間違えた? あるいは中止になった? ってな心配に気弱な精神が蝕まれそーになったけど、待っていたら三々五々と関係者が集まって来て、そーこーしているうちに1カ月くらい前に地下鉄の都営新宿線岩本町駅でも見かけたTBSは「かれいどすこおぷ」に出ているヒゲのアナウンサーさんとおぼしき人とか含めて行列も出来て、試写の方も時間どーりに始まり17分と短いダイジェストながらも、全米がたぶんイチローの次くらいに注目してるんじゃないかと思いたがってる人の多い、映画「ファイナルファンタジー」の一端に触れることが出来た。感想は……凄い。これには嫌味とか皮肉とか全然なくって、リアルな人物とか景色とかの描写をCGでやったものとしては世界最高峰の映像がそこにあったとだけは断言しておきたい。

 フルCGって点では例えば「VISITOR」とか「A・LI・CE」とかがあったりしたけれど、アニメっぽさでもって人間の気持ちに妥協をさせてたこーいった「フィギュアニメーション」的なものとはまったく趣を異にして、そのものズバリの「人間」がちゃんとCGによって作り出されていて、SFなんかでは一般的だったデジタル俳優のガジェットが、ほぼ現実のものになりつつあることがこれで明らかになった。生身の演技を取り込んで、デジタルで加工する押井守さん的なアプローチとどっちが良いかとなると今はまだやっぱり”肉”の匂いが漂う(と先入観込みで思ってしまう)「Avalon」的な世界の方に気持ちは傾くけれど、気持なんて時とか環境が変われば一緒に変わるもの。フルCGであっても服の下の肉の手触り、体温、匂いなんかを感じられる脳味噌が作られてくれば、先入観とか偏見を超えてスンナリと受け止められるよーになるんだろー。先入観すら抱かせないリアルな絵だっていずれは出来るだろーし。

 まあ遠いか近いかはともかくいずれは現実になるだろー技術だとは思っていたんで、リアルであるそのこと自体に感心はするし日本人がやったとゆーことに感銘は受けても、そこから先の展開が果たしてどーなるか、「ファイナルファンタジー」で言うなら映画としてちゃんとしたものなのかどーかって方にむしろ関心があって、例えばシナリオであったり、あるいはCG俳優の演技のつけかたといった部分が技術の凄さに拮抗し得るものなのかを見たいと思ったけれど、演技については微妙な息遣いが出ているかといわれれば難しいものの、見ているうちに慣れる程度には人間っぽさが感じられて結構”萌え”られる。胸とか揺れると楽しかったけど現実の人間だってそうそう揺れるもんじゃないんで仕方がない。

 肝心のシナリオについては17分じゃ判断のしようがなく、「スターシップトゥルーパーズ」みたく山ほどのバグに襲いかかられているかと思ったら、「風の谷のナウシカ」よろしくバグに奉られていたりして、どんな話かちょっと見えない。その辺りは公開されてから伝わって来る評判と、日本での本格的なプロモーションを待って判断しよー。とか言ってるうちに終わってしまった村山由佳さんにキリコに双子の弟の誕生日。お祝いなんてしてくれるとは期待もなければ願望もなく、一人部屋で「ラフロイグ」を引っかけ摘みをかじってまた1歩大台が近づいたことへの感慨にむせぶ。来年くらいはせめてどこかの小綺麗なバーでぐびぐびやっていたいもの、だけどまあ、家で気兼ねなくってのも嫌いじゃないからやっぱり同じ日々を繰り返しているんだろー、生きてれば。


【7月9日】 ユーハイムの謎。それはさておき酒見賢一さんの「文學界」に発表されたってことは純文学な作品ってことになるんだろー「語り手の事情」(文春文庫、524円)が文庫で登場。新潮のハードカバーから移籍して同じ文藝春秋社からようやくやっと文庫化なった佐藤亜紀さんの「バルダサールの遍歴」に比べるとわずか3年での文庫化って早いって印象もあるけれど、同じ新刊で石田衣良さんの「池袋ウエストゲートパーク」も文庫落ちしてるから今時の回転ではこれが普通かも。裏表紙にある「19世紀の好色文学に材を採った」は分かるけど「21世紀の奇書」にはハテナ。だって発表されたの20世紀じゃん。22世紀になって出たらやっぱり「22世紀の奇書」って書くのかな、書きそーだな。

 ちなみに解説は同じ新潮社の「ファンタジーノベル大賞」から出た佐藤亜紀さん。身辺雑記もあらすじ紹介もなく作品を世紀の傑作とも最悪の愚作とも言っておらず、「秘密」とか書いて直木賞にもっとも近いんじゃないかと思われる人気作家の作品には見えない爆笑と衝撃にあふれた東野圭吾さんの「超・殺人事件 推理作家の苦悩」(新潮社、1400円)に入っている、「超読書機械殺人事件」に出てくるショヒョックスは絶対に使っていない文学的な解説で、それでいてしっかり酒見さんの文体の妙、小説家が語ることの意味について触れてあったりするする辺りは流石なもの。本人のあとがきも読んでみたかったけど解説だけでも文庫版を買って悔いなし。

 露悪的な所がたまにあって筒井康隆さんならではの芸風だなあと感嘆していた「噂の眞相」連載「笑犬樓の逆襲」だけど、最新8月号では露悪的な所にちょっぴり自虐の話も交じってて、どこまで真実かどーかは分からないけど読んでなかなか胸に響くところがある。例えばえっと確かあれは「腹立ち半分日記」だったっけ、それとも別の日記本だったかもしれないけれど結構な額(確か億円単位だった記憶が。こーゆー時に自宅に「筒井康隆全集」がないのが辛い。買い直すか。でも置場所が)を支払って購入したって記述のあったミレー後期の傑作らしー「鵞鳥番の少女」を遂に手放したってあって、あれほどの大ベストセラー作家であっても歳を取ればこーゆー事態になるんだと感慨にむせる。

 とか言いつつ支払う税金が1日10万円ってことはつまり年間で3650万円払ってることそれだけ収入があるってことになる訳で、初版の数だって最盛期の18万部に比べれば少ないとは言え短い警句めいた言葉がいっぱい並んだ「天狗の落し文」(もう出てたっけ?)が3万部も出るとゆーから羨ましい、いや別に作家じゃないんで直接的に羨ましいってことはないんだけど、聞き及ぶ初版部数の少なさに鑑みれば十分過ぎるくらいで、やっぱり露悪的かもって気にもなる。インタビュー料が自宅でやる場合は15万円なんて取材費ゼロでタクシー代すらケチる我が社じゃ絶対に出来ません、ってゆーかインタビューとかに金払うなんて発想がそもそもない。まあ筒井さんの場合は記事に出来ないんでやらないけど。明日開催とかの「ブロードバンドフェア」だったっけ、サンケイビルで開催しているイベントにパネリストとして来た時にタカシロマンさんと喋った内容を記事にする分にはタダなのかな。

 小説1枚2万円、エッセイの類1枚3万円が果たして高いの安いのか。ライター仕事でそこまでもらったことはないけれど、雑誌によってはページ単価が良くって字数が少ない仕事だったらそれくらいいっちゃいそうな気もしないでもなく、あの筒井さんであっても作家価格ってのはなるほど結構厳しいものだと改めて思う。むろん言ってる数字が事実として、だけど。それを言うなら新聞屋だって1日せいぜい60行から100行で字数だったら10字詰めで600字から1000字、原稿用紙換算で1枚半から2枚半ってところを1カ月25日やってプラスアルファで100枚に届かないにも関わらず、月給で税抜きで50万円くらいもらって経費は会社持ちなんだから最低でも1枚1万円は超えているだろう、それもフォーマットの決まった話を書くだけでとお叱りになる方々もおられることは百も承知。ただしこれとて一般紙の真っ当な所の場合であって当方、1日に書くのは200行なら少ない方で今時分だと300行、今週なんて1ページを1人で埋めてたりする訳で400行は行ってたりして月間だったら1万行、なのに月給は手取りで歳の数に及ばなかったりする訳で、やっぱり小説の人って稼いでるんだなーと羨ましさが沸き起こる。

 まあけど筒井さんほどの人にしては少ないかもって気もしないでもなく、これだったら徹底的に枚数稼ぎに挑むみっともなさを批評しつつ、現実に果てしなく長い小説を書いて笑いといっしょにお金も取れば筒井さんらしくて面白いかも。もっとも兵隊の号令の昔から長くするテクニックについてはネタになってるし、東野圭吾さんの「超・殺人事件 推理作家の苦悩」に入っている、世間の風潮に引っ張られてどんどんと小説を長くしていった挙げ句の壮絶な様を描いた「超長編小説殺人事件」で、目的も方法も違うけど小説を長くする話がやられちゃっていたりするから、すぐさま真似は出来なさそー。いっそ「百萬男」から100万円でもセシめたら、ってこればっかりはSF技でも駆使しなければ無理なんで、やっぱり地道に枚数を稼ぐ一方、使う方もそれなりにして生き延びて頑張って小説を書き続けていって下さいな。パネルに仕立てたばっかの背広とか着て来たらやっぱりやっかむけど。

 1行情報。「盗作騒動中の田口ランディが山本周五郎賞のノミネートを自ら辞退説」。夏の直木賞が楽しみだなー。「月刊ナカモリ効果」欄外「西部邁と猪瀬直樹と宮崎哲弥のミニモニとか」。山形浩生さんを入れればタンポポにだってなるぞ。記事「週刊誌上で突如離婚宣言を発表した高橋源一郎・室井佑月夫妻の裏事情」。枡野浩一さんのイベントで見たあの睦まじさはいったい……恋愛って怖い、恋愛に縁はないけど。ちなみに文末に室井さん彼氏募集中でタイプは「痩せ形で病弱で色が白く、顎の尖ったダメ男君タイプ」って書いてあって、髪を後ろで束ねたデブで首からキャラクターが付いた携帯電話とか下げてて記者会見に出ていたらしー当方には収入なんかも含めてまるで高嶺の華なんで、頑張りたい人には頑張って下さいとエールを贈ろう。


【7月8日】 タカノ綾さんの新作イラスト集を買ったら穂村弘さんの短歌がいっぱい付いてきて得した気分、ってのはいかにも穂村さんに失礼ではあるけど面識があるって意味ではタカノさんの方だったりする訳で、そんなこんなんで最近の仕事っぷりに触れて嬉しかったって意味での錯綜したコメントとなりましたんで平にご容赦を、別に穂村さんに会うこともきっとないから良いんだけど。さてそのタカノ綾さんの、じゃないタカノ綾さんが絵を寄せている穂村さんの新作歌集「手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)」(小学館、1600円)は、タイトルからして何やらコンセプトがあるっぽいけどその辺り読み込んでないんでちょっと不明。ただ表紙のウサギ耳したパンツいっちょうのスレンダーな美少女が手に荷物いっぱいかかえて向かって来る絵を見るにつけ、少女のなにやら繊細さと痛さにあふれた日常めいたものとか妄想めいたものとかが詰まった歌集っぽい雰囲気が浮かんで来る。

 短歌はそれぞれに読んで頂くとして当人の叫びぼやき怒りつぶやきめいたニュアンスが割とストレートに伝わって来る枡野浩一さんの短歌とは穂村さんの短歌は違っていて、言葉選びの妙とか描く場面のシュールさとかいったものがあって敢えて言うなら現代詩的(現代詩ってもろくすっぽ読んだことはないんだけど。吉益剛造さんくらいか)な雰囲気があって解釈したり読み込んだりしながら場面を想像し前後をつなぎあわせ全体を思うかべる楽しさがあるしその分苦労も多そう。ただこの歌集についてはそれぞのれ作品はとってもシュールでニューウェーブなんだけど、少女を軸にした具象的なタカノ綾さんのイラストがついている関係で、そこをとっかかりに割と印象を浮かべやすい。まあ絵のとてつもなく強烈なイメージに引っ張られてありもしない印象を抱き間違った解釈にたどりつくって心配もあるけれど、個人的には絵がメインだったりするんでそれでも良いか、良くないな。

 SFなんかからタイトルを持ってくることが多いタカノ綾さんだけに描かれた絵にいったいどんなタイトルが付けられているのか知りたいところ。9ページにあるどこかの惑星の表面で超長いマフラーを編んでいる少女とか、穂村さんの短歌のイメージってよりはやっぱりSFっぽい雰囲気があるし、天気図をバックにテーブルの植えのパスタの上に乗っかった大きな伊勢エビを見つめるナイフとフォークを持った少女の絵はそれだけで面白い。ムクムクとした黒いウサギの頬摺りしながら足を広げてスリットを見せている少女の絵なんて官能たっぷりで気恥ずかしさと同時に愛しさが浮かぶ。裸のお腹にウサギを乗せた女の子の絵。気持ちよさそーだなー、ウサギ乗せてみたいなー、顔の上とかにも。ウサギが出てくるここいらあたりは作品との関係性も感じられるけど、「マフラーを編みつつ想う輪メリカのたいそう合理的な魔女のこと」(72ページ)って短歌がさっきの惑星マフラー娘と繋がっているとも思えないだけに、短歌と絵のどーゆーコラボレーションがあって1冊にまとまったのか知りたいところ。トークショーとかやってくれると嬉しいけれど、タカノさん今大活躍な人だし忙しいから無理かなー。

 たまの日曜日(毎週来ます)だってのに発表会があるってんで恵比寿まで。行ってなるほど一般の人も集めてのお披露目会なら日曜開催も仕方がないか。発表されたのは「Xenosaga(ゼノサーガ)」ってゆーナムコとモノリスソフトって所が作っている新作ソフトで、何でもスクウェアから出ていた「ゼノギアス」の河岸を変えての続編ってことになるらしーけど、「ゼノギアス」がどーゆー内容だったのか覚えてないんで詳しいことは不明。とりあえず「ゼノサーガ」だけを見るなら地球から人間たちがたたき出された果てに宇宙に行き渡るよーになった遠い遠い未来を舞台に、人間たちが形作っている勢力と、得体の知れない海洋生物っぽい怪物を繰り出す(「青の6号」みたいだね)敵勢力の「グノーシス」とが戦っているらしー状況の中で、陰謀とか侵略とかいった政治的な物語と、ロボットを駆使したバトルと人間を操ってのアドベンチャーめいたものが繰り広げられることになっている、らしー。

 なにしろ4000年とかゆーとてつもないスパンでもって語られる物語なんで、それこそこれまた数千どころか数万のオーダーで年表が書かれた「ファイブ・スター・ストーリーズ」並みに奥深く幅広い設定とかあるんだろーけれど、ゲームになっていそーなのは美少女とか美少年とか美ロボットとかを操作してバトルをする場面なんでとりあえずは分かりやすい。天才技師って設定らしーシオン・ウツキって少女(といっても22歳)が建物だか戦艦の中だかをかけまわっては敵をバンバンと撃って行く場面は走る後ろ姿のお尻の形がなかなかで、歩く場面でも左右にちゃんと上下する辺りは作り手に相当のこだわりがあると勝手に見た。「劇エヴァ」で廊下を向こうに真っ直ぐ歩くミサトさんの後ろ姿に萌えた人なら買いだ。数千年後の医療もテクノロジーも発達しているだろー未来ガブ隊になっているにも関わらずシオンが眼鏡っ娘ってのが個人的には大ツボで、地球じゃないのに1G環境みたく身長が163センチと高からず低からずってのも嬉しいところ。もしかしてここいらあたりの現代から見た変わってなさも物語に迫る鍵になっているのか? 戦闘場面じゃ現代的なイコンとも言える”魔法少女”も出てくるし。

 メカについては良いモンの戦闘平気「エイグス」は今のところ極度に印象に残るデザインじゃないけれど、某ゲームが原作のアニメでデザイン的には特別新しいって訳じゃなかったのに、いざ番組が始まると股間にはコクピットがそそり立っているのに喋ると桑島法子でセリフが「おじさま」でアンテナがピコピコで鉄クズ丸めて薔薇なんて作ったりした、そのすさまじさに仰天したちまちファンになり挙げ句にデザインも良さげに見えて来た辺りから連想するに、ストーリーと結びつくなり設定の奥深さで惹き付けるなりすればきっとそれなりな評価を受けることになる、かもしれない。個人的にはゾロゾロと登場する有機っぽい雰囲気の敵メカが好きです。担当している人の1人で麦谷興一さんって名前があって作品が「イグナクロス零号駅」ってあってなんだChocoさんかと気づく、って遅すぎか。

 事あるごとに謝れ謝れ謝れと突っ込んで来る相手方の態度にもちろん悪いことは過去にやったんだと認識しつつもいい加減にしろってな責められた人間が当然ながら抱く逆ギレの心理に働きかけつつ、それをあからさまに逆ギレとしては再び突っ込まれた時に潰されるだろーと理解して、想定される突っ込みへの答えを吟味しつつ綿密な作戦を積み重ね、自分たちは悪くないんだと信じたい情動を巧みにつかんで下手から登場して来た「新しい歴史教科書をつくる会」の論を打ち破るのが容易ではないことは、しばらく前の「朝まで生テレビ」での反対派が繰り広げた論の説得力のなさと、結果として現れた推進派圧勝とゆー数字でもって示されていたりするにも関わらず、今までどーりに例えそれが偏狭なものであっても守っていたいプライドを逆撫でするよーな、日本からすれば自虐的な内容を繰り出して使うな使うな使うなと言ったところで、かえって反感を煽るよーな真似をどーして反対派の人たちは続けるんだろーか、ちょっと不思議でしかたがない。

 あからさまなまでに「反つくる会」だった「ニュースステーション」の報道とか、なるほどそれでそう思う視聴者もたぶん少なくはないんだろーけれど、どこかタブー視されていたなかでうやむやにされていたひと昔前とは違って、準備期間を経て反証も固めた上で登場して来た「つくる会」の意見が世に流通するよーになり、ネットなんかでも支持する言説があふれて来ている状況で、かつそれが情動と結託しやすい内容をはらむものだったりする状況では、決して1つの意見が世の中全体を覆うことはないし、むしろ「またやってるよ」的な反発を受けて忌避されてしまう。にも関わらずの昔ながらの悪い悪い悪いってな言説の一方的押しつけしかできないってのは、状況が見えてないのか人間の理性と良心を脳天気にも信じてるってことなのか。どっちでもいいけどもどかしい。

 公平性の維持を唄いつつもトーンは「反つくる会」だったりするのが見え見えな記事を掲載してしまう7月8日付けの「朝日新聞」もしかり。「一からわかる教科書採択」って特集の「公正さはどう保つの」って記事なんか、「内容解説のパンフレット類も自粛するように求めており、業界内では自主ルールも作られている」のに市販本を売る扶桑社はけしからんとゆーニュアンスを漂わせているけれど、自主ルールなんて業界の談合だと常に批判しているのはどこの新聞社かってことに対する自意識が働いているよーには見えないし、そもそもが「白表紙本」と言われる検定中の教科書の内容は報道しないってゆー「自主ルール」を破って積極的な報道に勤め、指摘されると「問題があったら報道しない方がおかしいんだ」的トーンの記事まで掲載したのが当の朝日。この意見自体には賛成だけど、だったらどーしてここでは「自主ルール」の存在をことさらに強調して「抜け駆け」と世間に思わせるのか。都合にあわせて言説を使い分けてるんじゃないかってなこと読者や世間に想像をさせてしまうと分かっているのにやってしまうこの遮二無二ぶりに、共闘したい人もきっと気持ちが萎えてしまうだろー。

 1面の「日本の予感」って記事もなかなかで、例の日本が農産物に関連して中国に対し発動したセーフガードに関連して、議員の人が農産物を輸入してたり種苗を持っていったりしている会社の人を「国賊!」と呼んだって書き出しになっていて、なるほど国内の事業者よりも外国の事業者を重用する行為を日本が好きな人だったら「国賊!」と呼んで当然かもとか思うけど、誰だって知っているよーに議員が「国賊!」と叫ぶのは一種国元の有権者への配慮であって、つまりは単なる選挙運動の一貫でしかなく、そこにあるのは「国を愛する」ってよりは「票を愛する」気持ち。記事だってその辺りはちゃんと抑えてて、セーフガードの発動が決まった「この3品目の産地には、いずれも農林族の有力議員の地元が含まれている」と指摘していて、「日本農業を守れといいながら、実は占拠基盤の利益を優先させるのだとしたら、露骨な利益誘導政治ということ」という農水省の担当者の声も紹介している。

 「国賊」なのはそーした国民全体の利益を考えないで有権者の顔にばかり目を向ける議員の方で、名前くらい出して批判するのが利益誘導政治大嫌いな新聞社の勤めだと思うんだけどさにあらず。記事が問題にしているのはセーフガードの発動がすなわち「ナショナリズム」の台頭につながっているんじゃないかってゆー点で、「前政権から継続するセーフガードは『構造改革』とは逆の方向を向く。底に見え隠れするナショナリズム。それは歴史教科書問題、靖国問題と同じ流れと映る」と結んでいて、呼んでいて目がひっくり返る。こじつけにもなってないこんな意見で読者を説得できると思っているなら、読者は相当に舐められてるってことになる。

 「『遅れている』と見下していた中国が、日本の手を借りて日本産に負けない野菜を作っていることの反発が強くうかがえる」ってどこの誰が思ってるんだ。人件費や物価の違いがあって価格での勝負が出来なくなっていることが問題で、そーゆー事態への僻みはあったとしても中国が良い物を作りのが気にくわないなんて農家の人たち本当に思っているんですか。朝日はそう思っているそうです、農家の人たちも食糧自給の観点から日本の農家を守ろうとしている人たちも、心の中では中国を見下しているんだと。これってすっげー失礼な話じゃなかろーか。

 言いたいことがあって言いたいことは分かるけど言い方の段取りにどーしてこうも理性がないのか。あるいはわざと取り乱しているよーに振る舞って「反つくる会」な動きともども共倒れをして逆説的に「つくる会」を持ち上げよーとする「泣いた赤鬼」作戦か。恵比寿の「東京写真美術館」で開催されていた桑原甲子雄さんの写真展に出ていた昭和11年の写真に「支那事変ニュース」の張り紙が写っていて、書いてある言葉は「暴虐支那軍の空襲、我が無敵空軍の敵機撃墜の大空中戦」「壮烈戦史に輝く敵前上陸」と実に戦争中っぽさに溢れたもの。提供は朝日新聞と同盟通信社。こーゆー事態をそーゆー時代だったからと言っているのかいないのか、ともあれ真摯に反省し毎年夏に大謝罪しているかとゆーとそーではない辺りの不思議さに頭を向けつつ、不穏な空気と戦っている人たちは、メディアが最前線で戦ってくれているなんてもう思わないで、情動に働きかけて来る手強い相手にちゃんと勝てる戦略を考えていかないと、マジで大変な事態になりそー。


【7月7日】 「A.I」を見に行く、「止まらない」はついてなかった。原作読んでないんでなんとも言えないけれど「ロボットは人間になれるか」ってなやってるテーマの何とも今さら感はどーしたものかってゆー気分で、ちょっと前に見た「メトロポリス」の方が主役が2次元とはいえ女性で少女で可愛かっただけ上ってな気もするし、そもそもが原作で手塚治虫さんが50年も昔に描いていたりする話なんで、こと人間と隣り合わせに暮らすロボット物には歴史があって造詣も深い日本人に、これで驚き怒り感動しろって言ってもちょっと無理だろー。

 だとすれば残るは同じテーマながらもどーゆー文脈に乗せてくれるのかってゆーテクニカルな部分への興味と、ハリウッドならではの超絶的なビジュアルだったりするけれど、後者についてはロボット女性の顔がパカンと開く場面とか、見かけは全然普通の縫いぐるみなのに喋ったりヨタヨタと歩いたりするティディベアとか、森のなかをぬって走る未来カーだとか海に沈んだマンハッタンとか、見て目になかなかに吃驚なビジュアルがあって結構楽しめた。ニタついていたロボット顔のデビッドが母親からキーワードをインプットされていくに連れて人間っぽくなっていく場面の劇的な変化たるや、ってこれは演技か。

 物語の方は何とゆーか前半中盤後半にちょっと雰囲気的な差がありすぎて、家庭内で虐げられてロボットサカースに売られる、んじゃないけれどとにかく叩き出される場面へと到るロボットと人間との葛藤めいたものが描かれて一種心理劇的な雰囲気もあった前半から、中盤はそれこそ愛を求めてさまようロボット少年のロード・ムービー的な展開になって行く先々でいろんな人に出会いロボットたちとも助け合い、なるほどこーゆー中から成長していくんだろーなーとか思っていたらさにあらず。詳しくは映画を見ていただくとしてあまりに急激な展開に、わくわくしていた気持ちが吹き飛んでしまう。

 ジゴロのロボットのジゴロっぷりは楽しかったし(首スイッチのラジオとか)、ロボット虐めの会場でティディを拾った女の子は可愛くってデビッドと一緒に逃げるか暮らすかしてもっと見ていた買った気もするけれど、それはそれとしてロボット虐めの会場に来ているのは、ロボットが大砲で飛ばされ硫酸か何かをかけられ粉々ドロドロに破壊される場面を見るのがほとんと快感になっている人たちなんだから、相手が見かけ子供だろーと老人だろーとロボットと認知した段階でただの生け贄と普通思いそーなものなのに、そーはならない部分にちょっと違和感を感じてしまう。

 まあ異論はあるけど個人的に気持ちがグッとなったのは実はこの場面で、あざとくっても陳腐でも情動に働きかけるのはやっぱりそーゆー憐れみなんだから最後までその辺りで徹底すればいいものを、何故か後半はデビッドが自分が何者かを悟り、けれどもあきらめずにジタバタしていた所、大変な事態になってしまい、そーこーしているうちに願いの1つが適いそうになるって展開に向かってしまい気が醒める。加えてその願いってのがホントにお前その程度で良いのかってなチンケなもので、自分さえ幸せだったら他はどーだって良い的なガキっぽさが感じられて、見ていてはなはだ気分が滅入る。

 まあガキなんだからガキっぽい甘えっぷりを見せるのは普通なんだろーし、無理矢理自己犠牲とか強いるよりははるかにマシなのかもしれないけれど、あまりに視野が母親側に偏り過ぎていて、父親もちょっとだけ兄だった本当の子供も脇において母親を独占してみせる姿を見たときに、浮かぶのはなんてジコチューな奴ってなどちらかと言えば軽蔑に近い感情だったりする。叩き出されるまでをこってりとやって舞台みたいな心理劇にしてしまうか、あるいはあっさりとやってロード・ノベル的な部分を伸ばしてラストを端折り悲惨な中で一筋の巧妙として愛にすがった姿とか見せれば、もーちょっと盛り上がったかもしれない。ちょっと残念。未来世界のビジュアルイメージを確かめ、夫婦が住む家のモダンなデザインとかインテリアの建築史的な意義を探り、歩くティディベアの妙な可愛さやジゴロな野郎の快演を確認する意味だけなら見ておいて不足のない映画と言っておこー。

 こんな映画だったら払った1800円の代わりに1200球くらいは返してもらいたい気分かも、っていきなり「球」なんて言ったら何だ野球のノックでも始めたのかと思われてしまいそーだけど、新宿は紀伊国屋ホールで開催された季刊誌「批評空間」の第3期立ち上げをとりあえず応援する決起集会みたいなイベントの中で、柄谷行人さんが地域通貨的なものの単位として持ち出したのがこの「球」で、理由は2次元の「円」より3次元なだけ上ってことらしー、柄谷さんってばお茶目。もっとも口伝えに聞いた発音だから本当はキューかもしれないしCUEかもしれない。この辺「NAM」とかに書いてあったかなー、買ったんだけど読んでないんでちょっと分かりません。でもやっぱり「球」が感じなんで「球」にしとこー。

 協同組合的な運動の「NAM」のイメージから地域通貨的な概念を持ってこられると、なるほど新しい「批評空間」ってのは流言飛語の類でもってまことしやかに語られている、「新しい村」とかシュタイナーとかいった農村をベースにした共同生産的な集団への展開を考えている集団なのかと眉に顰みが浮かんでしまったけど、居並ぶパネリストを相手にテキパキと発言の振り返事をとりまとめる見事なまでの進行役ぶりを務めた浅田彰さんが冒頭で「閉じられたセクトみたいなものじゃない」と明言したよーに、アカデミズムに閉じこもるんでもなければ商業主義におもねるんでもない、間を行く新しい批評的な言説を紡ぎ出す場が今度の「批評空間」であって、既存のアカデミズムともコマーシャリズムとも違った基準で言説を評価していく上で、「円」じゃない別の概念が必要だったってことらしー。

 アイディアの源を出したらしー、ゲストに来ていたアーティストの岡崎乾二郎さんによれば、「球」とか地域通貨のLETSってのは一種「コミュニケーションの数値化」であって、家庭内での親子間でのやりとりであっても世界規模での資源なり資産のやりとりであっても、等しくその人にとって価値があるかどーかだけをとっかかりにすることで、資本主義的な貧富の格差を生まない価値のやりとりを行うことが可能になる。岡崎の場合だったら例えば絵を見に行ってそれが自分の気に入れば「球」を与えるってことになるし、文芸批評の柄谷さんだったら本の値段じゃなく読んだ後の評価でもって「球」を著者に還元することになる。

 「今の作家なんてほとんど金返せってもので球なら赤字になるよ」と言い切るあたりは柄谷さんらしー(って柄谷さんがどんな人かは実は全然知らないんだけど。喋りを聞いていると何か疲れて悩んでいるオジサンって印象)厳しさものぞくけど、今の新人賞が「戦略で選ぶとか話題性で選ぶとかいったもの」ばかりな状況で、商売っ気の多い本が商業上流通するのは仕方のないことで、そーした価値をは別に「球」めいた価値を与えていくことで、いずれ積み重なるか赤字が膨らむかは別にして、「円」とは違った判断基準がそこに発生して、次第に「円」を浸食するなり取り込むなり融合していくなりしていけば、商業と学術、経済と芸術が完全じゃないまでも一致した、「批評空間」が目指す批評の空間がそこに出来上がる、ってことらしー。ほんまかいな。

 もちろん「球」が金本位制時代のドルを支えた金みたく、それなりなバックボーンを持たない限りは貨幣として流通しないのは自明の理。ならばってことで柄谷さんから公表された計画によれば「批評空間」が立ち上げる、日本の文学でアカデミズムとかコマーシャリズムとか抜きにして最も優れた作品に与える「中上健次賞」は、ホントに賞金を「球」で贈って選考委員の人にも報酬は「球」で与えることになっている。当面のところは交換できて「農産物や便所掃除や運転や介護」といったものに限定されるんで、現ナマの好きな人にはちょっと嬉しくないかもしれないけれど、柄谷さんが断言するに「名誉が伴うもの」であるし、選ぶ側も「最高の批評家を集めます。これに入っていない人はダメってことです」とまで言うんだから、名誉だけは賞に関わって確実に得られそー。それを名誉を感じるかどーかはまた別の問題であるけれど。

 ただ思うのは今時の人って何事も価値を判断するのにアカデミズムのお墨付きだったり商業的な価値すなわち「これおいくら」な値札を知ってか知らずか使わざるを得ず、それ以外に価値を判断する基準を持っていなかったりする。違う好悪は自分の純粋な価値基準だと言う人も当然いるだろーけど、そーした好悪の感情が資本主義だったり学歴主義だったりする社会で形作られて来たものである以上、そうそう感嘆に純粋にして絶対の「批評眼」なんて持てるものじゃない。そんな状況で果たして経済や芸術を統合するよーな価値の概念を人が容易に使いこなせるかって疑問があって、結局は商売っ気たっぷりな価値だったり、権威にすがった価値だったりに留まってしまいそーな懸念が浮かぶ。あるいは使っているうちに統合されていくのかもしれないけれど、現時点では先行き不明。とりあえずはメルクマールとして「中上健次賞」に何が選ばれて、選考委員に誰が選ばれるのか辺りから「球」の普遍にして絶対な価値の拠り所を探ってみよー。

 これが初見だったりする浅田さんはなるほと頭の回転の速さが全身ににじんでいる人で、話のさばき方発言のまとめ方なんかにそれが良く現れている。話ぶりを聞いていると悪口も小馬鹿にした感じとか嫌味ったらしさとかなくむしろ真摯に、それでいてちょっとばかり愛情めいたニュアンスも含みつつ斬っているよーに思えて来て、たとえ悪口雑言であっても活字になって読んだ時とはずいぶんとイメージが違う。青山真治さんが小説版の「ユリイカ」で三島由紀夫賞を受賞したことについては「映画は傑作だったが小説は中上健次のパスティーシュで人様の前に出せるものではない」と言い切った口調にも、当人への怒りっておりは通した選考委員への憤りにむしろ溢れていて、聞いていてなんか気持ち良い。

 まあ当方が何をどうしたところで浅田さんの悪口の対象になることはないから、平気で聞いていられるだけかもしれず、実際に悪口雑言で一刀両断された人には活字だろーとコメントだろーと一緒なのかもしれない。とはいえ第2期批評空間から生まれた東浩紀さんの「存在論的、郵便的」は90年代において「もっともブリリアントな本」と言っていたし、気分で根に持つとかせず純粋に作品でもって云々する度量と眼鏡は持っている人ってことで、聞くべきところは聞いて差し障りはないよーに思う。浅田さんや柄谷さんや山城むつみが気にしていた批評の二極分化の問題なんて、まさに東さんが気にし続けていた問題だったりする訳で、協同組合的なスタンスでしか今の産業構造は代えられないと考えてしまうかどーかはさておいて、共通する問題意識と、その先に構築を目指す一般名詞としての「批評空間」の中で、再びの共闘なり無関係ながらも目指す方向の同じベクトルでもって活動していってくれると日本の批評界もまだまだ面白くなるのかも。


【7月6日】 景気がそんなに良いとは思えないしむしろ経営は大変な所だったりするんだけれど、そこは写真家とか文筆家ってな文化にうるさい社長が歴代続いた会社でファッションについて勉強させてもらった「ファッション通信」も長くスポンサードして来た老舗の化粧品屋さんだけあって、立て直された銀座の新しい「東京資生堂ビル」の9階にあるダンスだって出来そーな広さと、トイレへと繋がる片隅に「文學界」の表紙なんかでお馴染みな野又穣さんらしき人の絵なんかが張り付けてあったりするゴージャスさにあふれている会場で、資生堂文化デザイン部なんて聞く程に近寄りがたい知性と教養と眩しさに溢れた部署が運営している「ワードフライデイ」って連続講座の、50音順にタイトルを決めている18回目にあたる「つ」すなわち「つんぐうすいんせきのなぞ」、じゃなかった「つらい時こそ作品が生まれますか?」とゆータイトルのプログラムを見物する。

 出演はイラストレーターで川柳の人で「OLはえらい」(いそっぷ社、1300円)とゆーエッセイコミックを刊行した益田ミリさんと、そして歌人改め(たかどうかは客観的には不明だけど当人によれば止めたい肩書きだそーな)ライターの枡野浩一さん。登場するなりいきなり腋を上げて永久脱毛して遠目にはツルツルな腋の下に緊張で汗が滲んでいる様を見せてくれた益田さんに大阪な人っぽいあけすけさを感じたりしたけれど、喋り声なんかを聞いてまるで「あしたまにやーな」の濱田マリさんっぽい響きがあってますます大阪っぽさが強まって、シャキシャキなのにどこか抜けてる楽しいキャラクターにファンになる。当方の席が舞台に向かって右端で益田さんサイドだった関係で耳くらいしか見えない、ってのは大袈裟だけどもっぱら横顔と腋の下ににじむ汗しか見えなかった関係で、正面がどんなお顔だったのかが確認できなかったのが残念だけど、あのキャラならきっと真正面がどんなでもきっと楽しい日々を送れるに違いない。でもって毎晩「あしたまにやーな」って言ってもらうんだ。

 トークはもっぱら枡野さんは短歌で濱田さん、じゃなかった益田さんは川柳とゆー57577&575と形式は違うけれども共通して日常のちょっとした気持ちの揺れめいたものを口語っぽく流してドキリとさせる作風を持った2人の生い立ちやら成り立ちやら作品作りへの考え方を話していくって展開で、枡野さんの方はこれまでもいろんな場所でトークを聞いたことがあって(その割には直接の面識なし、いや知らない人に挨拶するのって何よりも苦手で)だいたいの流れは分かっていたけど、これが初見の益田さんの場合は大阪でOLやっていたのが突然の上京そしてイラストデビュー川柳デビューとゆー傍目から見れば羨ましいばかりの幸運児、激しい情熱と計算されつくしたプレゼンテーションそして溢れんばかりの才能にあふれた才女才媛の類を思い浮かべて当然だったりもするけれど、これがまったく違ってたみたいで繰り返される仕事が苦手で辞めたくなって辞めるんなら何かにならなきゃってことで部長にも家族にも東京に行ってイラストレーターになると宣言、でもってそれを実行してしまったとゆーから驚いた。

 川柳って武器も別に幼少のみぎりから短冊相手にひねりまくってた訳じゃなく、食べていくためには連載が欲しいんだけどイラストだけよりも川柳なんてものがセットになったら売りになるしお金だってイラスト代に川柳代と倍増しでもらえるだろーと妄想したのがそもそもの始まり。実際に話が決まってさてはていったいどーやって川柳を書けばいいのかと迷って本なんか読んだとゆーくらいの言ってしまえば”ド素人”だったはずなのが、才能もあったんだろー何故かとんとんびょうしにあちらこちらで連載が決まり「ダ・カーポ」に「ダ・ヴィンチ」って日本2大「ダ」が付く雑誌に連載を持つ売れっ子になってしまったらしー。マイナーなネットマガジンに売られている店も限られているゲーム系の小さい雑誌がやっとの当方では足元にひれ伏して踏まれて地面にめり込まさせられても文句の言えない偉大な人だけど、これに加えて近く「朝日新聞社」のウェブでも連載を始めるとかで、ますますに眩しさがふくらむ、別に向こう側い一時伸ばしていた頭をそりあげた枡野さんがいるからじゃなく。

 「怒り」が川柳でもエッセイでも物書きの仕事の原動力になっているらしー益田さんだけお傍目にはそんなにあれやこれやに怒っている風に見えないのは大阪人ならではの剽軽さかそれとも持って生まれた人徳か。いっぽう落ち込んでいたり暗かったり哀しかったりする時にこそ短歌が生まれるとゆー自説を披露してくれた枡野さん。結婚して子供もできて生活だけならシアワセいっぱいに見える雰囲気があって、最近短歌をあんまり書かなくなった理由ってこの辺にあるんでしょーかどーなんでしょーかとゆー益田さんからの問いとか自分自身での自問自答もあったりして、枡野短歌のファンにはもしかしたら新作が読めずもどかしい状況にあるんだろーかと考えさせる場面もあった。

 もっとも、一所懸命自分の作品を世に出すために頑張ったのにヤッカミの類を結構な数食らったりすることへの憤りを示してシアワセに決して溺れてないことを伺わせ、最初読んだ時には「読まなかったことにします」と手紙にそれだけ書いて送ったとゆー益田さんの割とシアワセ系な内容の短歌の話を引き合いにしながら、シアワセであっても生まれる短歌があるって事実を認知していた当たりから想像すれば、短歌として表現する必然性があるならそれでまだまだ枡野短歌は生まれ続けるかもしれないんだとゆー可能性は消えてなさそー。益田さんみたく短歌とエッセイで倍増しで稿料がもらえるよーになればどんどんと出てくるのかな。

 眼前にいる相手の短歌をまるでダメと言い切る強さってゆーか短歌とゆー表現形式へのこだわりにはやっぱり枡野さん、短歌を相当に気にしているよーに見えたけどどーなんだろー。とにかくハッキリと益田さんが書く短歌への強烈な意見を枡野さんは言っていて、知らない人が見たら壇上の2人、喧嘩でもしているか仲が険悪なよーに感じたかもしれない。トイレに枡野さんが立った合間にうにゅうにゅと良いながら自作の短歌イラスト付きをOHPに乗せて「怒られるー」とか良いながら披露していた益田さん、ちょっと面白かった。しかし相手が知人でも知らない人でも関係なく意見を良う正直さに、こうと決めたらとことんまでやり抜く強さがあるからこそ、慕っていろんな媒体が枡野さんを使うしクリエーターの人たちとの関係も出来るし、ファンも慕って集まって来るんだろー。

 ちょっと(とてつもなく)羨ましいけど当方、正直で鳴るには根が正直すぎて逆に相手の反応なんかが気になって仕方がない質で、言いたいことの1割も言えないことが多く、あるいは言いたいことなんてまるで思いつかないくらいに状況に取り込まれてしまうからなー、喜ばれはしても慕われはしない。まあ歳も歳だし誉め専門の便利屋稼業で業界綱渡りに勤しむとしよー。枡野さんには自称謙虚な正直さ、強さでいっそうの信望を勝ち取ってもらい益田さんには物怖じしない柔軟さでもって苦労が芸の肥やしだなんて観念を吹き飛ばし、飄々と世渡りをしていって僕たちを羨ましがらせてもらおー。

 買ったけど見られるのは相当先になりそーな「ルパン三世」のファーストシリーズのDVD−BOXを脇に置いて購入時にもらったサービス券にちょっとだけ上乗せして限定版は買えなかったけど音楽には大差があるはずもないアニメ「NOIR」のサントラを聞く。ロッテリアのピクシーがどーしたってオープニングは最初聞いた時には背筋に震えが走ったけれど、番組を見続けオープニングなんで毎回のよーに聴き続けるに従って不思議な旋律が耳に心地よくなって来て、ロッテリアの前に行くとついつい口ずさんでしまう、ってのは嘘ですが。ストリングスを使った時にメロディアスで時にノスタルジックな気持ちを引き起こす梶浦由記さんの音楽は単独で聴いてもなかなか。エンディングの新居昭乃さん「きれいな感情」はテレビ版よりは長いけど新作のアルバム「鉱石ラジヲ」とバージョン同じかな、違うんあらあっちも聴いてみたいな。

 昨晩放映の回はミレイユが兄みたいな若い叔父さん相手にノスタルジーを膨らませつつ最後はやっぱりなクライマックスへと向かう、ありがちなパターンながらもありがちだからこそ安心しながら見ていられる回だったけど、出番こそ少なかったものの霧香がポケットに手を入れたまままず正面の相手をガンとやり、続いておそらくはポケットの中で手首を返してノールックのマジック・ジョンション状態で背後の相手もドンとやる、クールな場面が裏クライマックス的に目に残る。あーゆー動作が拳銃使い的に可能かどーかは別にして拳銃使い的に格好良いのは事実、リアルよりもリアルっぽい方が好まれる表現のが表現の世界ってことで。土曜日は紀伊国屋で「批評空間」のシンポ。やっぱ着ていくべきかな「でじこ」のアロハを。


【7月5日】 今なら差詰め「朝目をさますと巨大な飯田香織になっていた後藤真希」とでもなるんだろーけれど後藤が飯田が加護が安倍でも見ている側はもちろん当の本人たちだって案外と身分差別は気にならないくらいにユニットとして微妙なバランスの上に成り立っているから「モーニング娘。」ではちょっと成立しないかもしれないなー、なんて思ったとり・みきさんの87年に刊行された懐かしくも素晴らしい傑作「ひいびい・じいびい」(ぶんか社、1600円)復刻本巻頭に収録の漫画「あさ」。15年ばかり時代が昔な単行本だけあって収録されているグループは当時鬼のよーに流行っていたあのグループ「おニャン子クラブ」で入れ替わるのはフロントに立って人気は常にトップ5で会員番号は流石に知らない新田恵利と、巨大だったとゆーうすらおぼろな記憶はあるけれど2メートルだったか3メートルだったかまでは覚えていない樹原亜紀。4メートルはなかったと思うけどもしかしてあったかもしれない。

 漫画の中で慌てて樹原がかけつけるフジテレビが曙橋にあったころの建物だったりするのも感慨深いけれど、「おニャン子」として登場するす2人とも既にして芸能界の一線からはリタイアしてたりする状況を鑑みるに、たとえば2015年くらいに「モー娘。」関連のネタとか振ってある昔の本とか漫画とかを読み返した時、やっぱり同じよーな時代の残酷さを感じるんだろーかと考えたけれど、何しろ「モー娘。」なんで「つんく」のワルダクミに引っ張られてメンバーの脱退と募集を繰り返した挙げ句、「大一座モーニング娘。」とかいって常打ちの小屋なんかで公演やってて雑誌でもテレビでも未だ引っ張りだこだたりするかもしれないからなー。とりあえず「セーラーズ」のマークのオーバーオールみたく描くと15年後に天然記念物になりそーな意匠だけは外しておくのが吉かも。

 加えて言うなら「らくだ」の項目に登場して来るサングラスにくわえタバコのときどき頻繁にしょっちゅう永遠に原稿を落とす某作家をモデルにしたかと思われる人物の説明が「若手SF作家」ってなっているのも時代感がありありで、これは当時でも古かったよーに思うけど実は案外記憶がなかったりする「るすばんでんわはねむらない」に出てくるダイヤル式電話機の下に接続して置いておく巨大なソニー製の留守番電話機の何とも古めかしい様に15年とゆー時が起こした文化文明の発達ぶりを思い知る。漫画を読み返しても誰も携帯電話を使ってないしパソコンもワープロすらも使ってないんだよなー。

 とは言えそーした風俗習俗文化の要素とは無関係な部分で項目ごとの漫画は面白いし通して読んだ時のさまざまな主題が何度も出たり首をのぞかせながらラストへと収斂していく構成の妙もなかなかで、今ほどメジャーになる以前からもしっかりと後のさまざまな作品で使う手法をしっかり完成させていたんだってことが分かってその才に改めて感嘆する。あとがきに安野モヨコさんはそれとして町田ひらくさんが参加してるのも不思議なつながりだけどとりさんファンの多さ幅の広さがうかがえる。この作品が今さら復刻されるってゆーか復刻しなければいけないよーな絶版状況におかれてたことにちょっと驚き。けどまあこれを機会に改めてとり・みきさんは昔から凄く火浦功さんは昔から原稿が遅かったことを読んで知ろう。

 絵はなかなかに巧みで密度があってテンポ良く冗漫になっていないネームもなかかなな草川為(くさかわ・なり)さんって人の初の単行本らしー「ガートルードのレシピ」(白泉社、390円)を読む。天才的な男によって悪魔のさまざまなパーツを寄せ集めて作られた結構強い悪魔のガートルードが地上に逃げて来て出会ったのがサハラとゆー女の子。悪魔と分かって逃げるかと思ったら結構に良い性格をしているよーで追手の攻撃に苦しむガートルードをかくまったりするよーになった第一話からスタートして、表面にはガートルードを作る時に必要だった合成悪魔の製造法が書かれた書「レシピ」を探すストーリーなんかが立っていて、かかる追手をかわしながらも戦っていくガートルードと彼を助けるサハラとのラブストーリーが進行する。どこかに行ってしまったらしーレシピの在処はちょっと凄いけど、これは読んでのお楽しみ。関係者が1カ所に集まり過ぎてるご都合主義もないではないけれど、エンターテインメントってのはそーゆーもんだ。

 人間界に来たガートルードに頭をぶつけてそれが出会いのきっかけになったサハラが最初にかけた「何度も通けどはじめて人がいたわ。っていうかハワユー」と頭をおさえつつ相手が悪魔なのに英語でにへらにへらしながら聞くコマにキャラクター造形の奥深さと作家が持つギャグテイストの魂を見た気がして、飽きずに楽しめるかもってな予感が浮かんだらこれがなかなかにピッタリで、邪気がたまって来た場所に置かれそーになったサハラが「レシピ」を探す悪魔に「それは頭痛くらいじゃすまないってことよね」と沈着冷静さを装って聞いてみている外しの芸当も割と綺麗にきまっている。もちろん主テーマの追手と戦い自分に悩み最強の敵に脅えつつも対峙するガトルードの格好良さってのが魅力なのは言うまでもなく、おかしさと格好良さ、謎への興味といった美味しい要素がこれからどう展開していくのかを含めて、ちょっと見過ごせないシリーズになって来た。2巻とか出るのかな。併録の「マイグランドファーザー」は西炯子さん「三番町萩原屋の美人」の御隠居をちょっと思い浮かべてしまいました。まあ存分に良い話ではあるけれど。


【7月4日】 「義」がついた兄に妹なら良いらしい。歳さえ曖昧だったら言い訳はきくらしい。って何が良くってどこに言い訳がきくのかは読んで頂けば分かるとして、ついに第3弾まで出てしまった佐藤ケイさん「天国に涙は要らない あだ討ちケ原の鬼女」(メディアワークス、510円)は、10万人殺しの美少女悪魔にロリコンで美形の天使に1度死んでしまった主人公に金儲けしか考えない同級生の美少女とゆー突拍子もないど外れたキャラクターに1巻こそ身を引いてしまったけれど、巻を重ねるごとに馴れて来たのか筆の滑りが軽くなって来たのかギャグがこなれて来たのか逆に突拍子のなさが面白くなって来たよーで、次は果たしてどんな無理に無茶が飛び出すのかと期待してたりする自分がいて心外だけど仕方がない、だって面白いんだから。

 今回の出番は巫女さんだけど、とにかくヘンな人しか出てこないシリーズらしく、兄の仇を探して全国を貧乏旅行していて、ご飯を食べるための慰謝料をかせごうと自動車に向かって飛び込んでいく辺りの純粋真っ直ぐさにもう頭がクラクラ。神託に従って巫女の装束を赤いのにしなければいけなかったのに買い換えるお金がないとゆーことで最後の手段で真っ赤にしてしまう抜けっぷりにも感動を覚えて萌えて来る。前の巻では天然猫耳に美少女をゲットしそこねた天使のアブデルは、天然の巫女さんの登場に萌えて燃えまくってて相変わらずの奸計をめぐらせていて、それが冒頭の義をつけて呼べとか歳は言うなとかいった発言へとつながっている。主人公の賀茂是雄が復活して来ても「視えたから」と受け入れる家族も家族で、とりわけたまちゃん相手に13万5000円とかの家賃を請求する母親の豪傑ぶりにはしばし呆然、途中から出番がなくなってしまったけど、次の巻ではもうちょっと活躍して欲しいものです。

 どがちゃかしたキャラクターたちが繰り広げるお笑いな言動のその土台で、贖罪の意識に悩むたまと兄の敵討ちに燃える巫女さんの対比を描きつつ、人を赦す意味について考えさせるシリアスなストリーもあって物語作りの部分でもこれでなかなかあなどれない。友だちが心配でお見舞いにいった挙げ句に死に至らしめてしまった事実を背負って生きるたまの悲しみたるやいかばかりかと、同情に枕も濡れて来る。10万人とゆー殺してしまった人数に最初は記号的な部分しか感じなくってやれやれ大袈裟に、とか思ったけれど具体的な事例が浮かび上がらせる「死」への感情の痛さは流石に身に応え、そこから積み重なった10万人とゆー数字の重さに慄然として、アブデルの鬼畜ぶり律子の守銭奴ぶりを超えてたまちゃんとゆー存在が持つシビアさ、ハードさに笑いも醒める。とか言ってる先からやっぱり鬼畜な展開へと向かってしまうのも持ち味で、新キャラも加わってこの先果たしてアブデルの暴走はどこまで進むのか、ますます影の薄くなる是雄は主役に復活できるのか、ってな予想ともども先への興味をかきたてられる。悪魔に猫耳に巫女と来たら次は天使、なんだけど天使はアブデルがいるしなあ、眼鏡っ娘は属性がおとなし過ぎるしメイドの天然ってのも無理があるし、うーん次が出るまでに考えよ。

 尻パンツパンツ尻パンツ尻尻パンツパンツ乳乳乳尻乳パンツ乳メカメカメカ。それが「攻殻機動隊2」(士郎正宗、講談社、1500円)のすべてである。って違う? 電脳世界を主観客観の見えたり見せられたりするシーンを織りまぜて描き重ねていく展開はとにかく一読では理解不能で、くわえて畳み掛けられる格闘シーンのまる見えっぷりに目も惹き付けられっ放しで、細かいネームも背後の絵も欄外の脚注も読めない現時点では感想と聴かれてもやっぱり冒頭の言葉しか浮かんでこない、すなわち……くどいし恥ずかしいから繰り返すのは止め。それにしてもこの重層的で多元的なストーリーを設定ともども組み立て描ける士郎さんはやっぱり凄いってゆーかすさまじいってゆーか、とにかく士郎さんにしか描けず漫画でしか再現できない世界って感じが「攻殻2」をよむとありありで、押井守さんが饒舌な部分は一切カットしてエッセンスだけしか抜き出さずにアニメ化した理由も良く分かる。キャラだけ抜こーとしてマズると史上初の口ズレ無限ナルトなアニメになる訳で、某大家みたく漫画を止めてアニメに走るとかせずに士郎さんには時間がかかっても間隔は空いても漫画の世界で活躍していって頂きたい、もちろん尻パンツ乳も忘れずに。


【7月3日】 名を捨てて実を取るってゆーか肉を斬らせて骨を断つってゆーか、押されるんだったらちょっとだけ引いて相手がそれ以上押せなくなったところで一気に押し返すってのも立派にひとつの戦術で、とかくかまびすしい媒体あげての築地グループの突っ込みをかわし代々木チームのプレッシャーをそらす意味でもここはいったん内容を書き改めておくってのが妥当と判断しての自主的な修正になったんだと思うけど、だとしたら6月の頭から書店で売られて来たあの市販本ってのは、検定前の白表紙本はもちろんだけど実際に教育現場に配られる教科書ともやっぱり違ったものになってしまった訳で、こじつけるなら”欠陥本”を何十万部も売ってしまった責任に、さてはてこれからどーやってケリをつけてくれるのかが楽しみたのしみ。豪気でなる「新しい歴史教科書をつくる会」、該当ページの差し替えなんて柔い手段じゃなくまるごとお取り替えくらいしてくれるんじゃなかろーか、ってゆーかするのが筋ってもんでしょー。冬のボーナス減っちゃうけれど「チーズはどこへ消えた」が売れたからバーターってことで。「バター」じゃないよ。

 かくも純文学的にシビアなテイストを持った作品に出来たのも全編完全描き下ろしってゆー形態だからなんだろーか江ノ本瞳さんの「シェハキム・ゲート」(発行・ホーム社、発売・集英社、505円)は、男と暮らす少女・碧のところに友人らしーレヴィって少年が彼を慕うサリオって少年を虐待したって話が伝わって来て、病院に行くとサリオ助かったみたいで碧はその足でレヴィのところへと行くと何やら得体の知れないマシンドラッグでラリってるレヴィがそこにいた。どーやら碧とレヴィは昔からの知り合いみたいで2人とも不思議な超能力を持っていて、おまけに2人とも身近な人を殺害した過去があるらしーことが分かって来る。

 それだけでも普通の少女少年を対象にしたエンターテインメントな漫画にあんまりない、ってゆーかまずない設定だけど実は碧がいっしょに住んでるグザファンってのも相当なワルで真っ当な奴といえば碧とレヴィを探していた、薬で成長をとめてしまった行方不明児童専門調査員のラジェルくらい。碧はそんなラジェルと連れだってシェハキム・ゲートを使ったことから生まれてしまった謎の生命体ビジターによる悪意に満ちた侵略と戦うんだけど、なにしろキャラクターがキャラクターだけにラストまで秘めた力を爆発させる戦闘美少女なんて感じにはならず、幸せなのかもしれないけれど傍目にはなかなかに悲惨なエンディングが待っていて読んでいてちょっと胸が苦しくなる。

 タイトルになっている電脳ドラッグが果たしてどーゆー謂われのあるものなのかが見えないのと、作品に流れる聖書の暗喩がちょっぴり難しいのとで1読むではなかなかに理解のし難い作品だけど、全体に流れるやるせない雰囲気を感じ、明示される絶対の悪意を汲み取り、破断のエンディングに慄然とする純文学的なテイストは高く、読み返し読み込むうちに見えてくる不思議な感動があって楽しめる。前に読んだ「セシリア・ドアーズ」(新書館、1、2巻各520円)で不治の病の「染視病」とゆー設定に魅力を覚えながらも、死んでしまった赤ちゃんをポイっと棄てたり自分のバッグを盗ろーとした子供を溺れ死ぬと解っていて見捨てたりする主人公の女の子の行動様式にたまげた記憶があるけれど、そーした持ち味を極限にまで押し出しつつ物語の痛さを突き詰めた作品と言えそー。問題作にして注目作。

 眼鏡っ娘、それもアラレちゃん眼鏡、でもって取ると目茶美人、とゆー三重苦ならぬ三重楽に恵まれた人がこの21世紀に現存しているとはなんとゆー奇跡だと、夜中にやってたNHKのドラマDモード「グッド☆コンビネーション」に漫才師の卵役で脇役っぽく出演していたたぶん中村栄美子さんとかゆー女優さんの姿に戦慄を覚える。もともとがショートな体躯にボリューム感のあるボディを持って顔は童顔とゆーこれまた三重楽に溢れた奇跡(そー思うターゲットがどれだけいるかは知らないけれど、って眼鏡っ娘も似たよーなものだけど)の女優、安達佑実さま様さまを見たくって眺めていた番組だけど、2人が並んで始めた漫才のかたや170センチの長身でこなたミニモニ級な身長の醸し出すR2D2&C3POもしくは飯田香織&矢口真里な雰囲気と、その雰囲気をマジで活かした番組内の漫才ネタに引き込まれて、続いて告白タイムへとなだれこんだ中村さんが眼鏡をペロンと外した時のおっとりとした美しさに、安達さんに優らずとも劣らない(この辺微妙)恋慕の情を覚えてしまった。今まであんまり知らなかったことが悔やまれるけど、「グッド☆コンビネーション」で眼鏡をかけていたからこその恋慕の情だったりもするから難しい。ともあれ来週も要チェック、安達佑実さんとの凸凹漫才はマジで長編で見てみたいなー。


【7月2日】 政治が激動して「教科書問題」なんかもあって取りあげる話題に困るくらいな状況なのに、何故か「IN・POCKET」の連載は休載つづきでこれだったら打ち切りと変わらなく、何事かあったんだろーかと心配している「アカシック・ファイル」の明石散人さん。行き着けだった銀座東急ホテルのコーヒーショップもホテルごとなくなってしまって、どこに行ったらいるんだろーかと悩んでいるけど、そんな中でもコミック版の「鳥玄坊 根源の謎」(原作・明石散人、画・うちやましゅうぞう、ソニー・マガジンズ、630円)は2巻「鳥玄坊 天の理」(630円)はちゃんと出ていて、教科書問題なんてものがちゃっちい話に思えてくるくらい、相変わらずの奇想の爆発を見せてくれている。

 何しろ日本で信仰されていた神様は8億年前に実在していて人類を創造したのは235万年前に実在していたイザナギ・イザナミってゆーから仰天。かつ宇宙は数百億年の単位で同じ歴史を繰り返しているんだってな話もあって、眉に唾して聞きたくなってくるけれど、現実の社会については文献その他を引いて地に足をつけながら思考してみせる人だけに、あるはなにがしかの拠り所でもあっての奇想なのかもしれない。今のところはエンターテインメントなんで無視されているんであってこれが論争だったら途端に学者が出てきて文献を持ち出し証拠を並べて妄想空想の類と批判し冷笑を浴びせてくることは確実。そこに颯爽と「だったらこんな史料はどうよ」と取り出して来てくれると何とも痛快なんだけど、さていかに。ともあれ場所はどこでも早期の復活、期待しています。漫画はこれで終わりなの?

 「郷愁」と「憧憬」がたぶんキーワードでありツボなんだろーと、新刊で出た吉野朔実さんの「瞳子」(小学館、990円)を読みながら自分にとっての吉野さんの作品が持つ魅力について考える。例えば「月下の一群」の場合は、大学生活という夢とか希望とかにあふれていた時代への「郷愁」に浸りつつも、自分は送れなかった漫画に描かれているようなガヤガヤとした活気に溢れた大学生活への「憧憬」に煽られて落ちつきながらもソワソワとする不思議な気持ちにさせられる。

 「少年は荒野をめざす」も同様に、わいわいがやがやとやっていれば良かった学生時代を懐かしむと同時に、仲間どうしでの知的な会話とか甘くて酸っぱい恋愛とか、学生作家デビューとか有名人との邂逅といった自分が得たくても得られなかった事柄への憧れが引き起こす悔しさやら嫉妬心に引っ張られて身悶えさせらる。加えてあるいは歳をくった今でももしかして描かれているような楽しくもほろ苦いセーシュンの日々を送れるんじゃないかとゆー儚くも脆い期待がちょっぴりだけどしっかり心の隅に浮かんで、気持ちをせかすってことも魅力の大きな要素になっているのかもしれない。

 ちょっと前に出た「栗林かなえの犯罪」(小学館、505円)が、あんまり肌に合わなかったけれど、それはたぶん描かれているシチュエーションがどこか形式的で繰り広げられるドラマが演劇的で、「郷愁」も呼び覚まさなければ「憧憬」も引き起こさなかったから、なんだと思う。「瞳子」にも若干、シチュエーションづくりに走ってドラマが心理劇っぽくなっていいるエピソードがあるけれど。例えば「ドッペルゲンガー」の同じ陶器屋さんでバイトを始めた女の子たちが本の話題とか同窓会への意識とかで丁々発止とやりあう場面、それからストンと落ちすぎるオチなんかか。

 もっともそんな設定に抱く心の予防線も、繰り広げられる会話のネタの実になんとも自分にとっての同時代っぷりにあっけなく破壊され、作品が放っている「郷愁」の渦へと引きずり込まれる。80年代後半に大学を出て就職もせず家でブラブラとしている瞳子(とうこ、って読む)って設定が、年齢の点時代設定の点でまずもって自分と実にどんぴしゃり。欲しい皿があるからとバイトを始めた陶器屋でライバルっぽい少女とかわす本の話題の題材が「アルジャーノンに花束を」は長編が良いか短編が良いか、「エンダーのゲーム」は以下同文ってな感じでツボ押されまくり。でもってポール・オースターの「幽霊たち」でトドメを指される。キイスの「心の鏡」は94年くらいの刊行だったと思うけどまーいーか。

 ほかにもブライアン・イーノにブライアン・フェリーに缶入りじゃない烏竜茶に陶磁器にサンシャイン水族館のマンボウにエトセトラ。青臭いガキの癖して世の中のことが分かったよーな気になり、スネをかじっている癖に親に妙に反抗してみせ、詳しく理解もできないのに難しい本やら流行り物の歌謡曲とは一線を画した音楽とか、しょせんは雑誌とかで得た知識なのに時代の半歩先を行っていると勘違いしていた風俗とか、知的っぽい場所で話題になっているらしー芝居や映画とかの、中味も意味も歴史もろくすっぽ知らないのに受け売りの知識で知った気になって会話に織りまぜて、けれどもそれがなんだか格好良いことのよーに受け止められていたバブル目前の微熱の時代に生きていた、微熱少年微熱少女の雰囲気が身をもって理解できて、恥ずかしさとともにノスタルジックな心を煽られぐぐぐぐっと魂を引きつけられる。

 「いたいけな瞳」とか「恋愛的瞬間」とか「栗林かなえの犯罪」とか割と現代的なテーマで切れ味たっぷりの話を描くよーになっていた吉野さんにしてはな原点回帰。何でまたとか思ったけれどあとがきなんかを読むと納得、たぶん20代だったら恥ずかしさばかりが先に立って振り返られられなかったセーシュンの日々を、30過ぎて40に乗っかって決して冷静って訳じゃないけれど郷愁めいた柔らかい気持ちが恥ずかしさをくるんで、微笑と苦笑の入り交じった気持ちで振り返られるよーになったらしく、堂々と漫画に描けるよーになったみたい。自分だってもしもこれを20代後半の血気盛んな時に読んだとしたら、DCブランドにとち狂って名鉄メルサのバーゲンに朝から並んだ思い出なんかといっしょになって赤面の彼方にぶん投げたくなったかもしれない。

 とは言え「年齢を重ねると少しづつ人生の謎は解けていきますが、だからといって不安が無くなる訳ではないし、情緒が安定するわけでもありません」とある「あとがき」からも伺えるよーに、過去へと戻って当時を振り返って抱く悔恨と嫉妬の向こう側に浮かぶ、やりなおせるかもしれないという願望めいたものが歳をくってもなおあって、過去への郷愁だけじゃない過去に戻って抱く未来への憧憬を、未来への不安とともに抱かせてくれる。

 まあこれだって老いの撹乱みたいなもので30年くらいたって振り返ると笑い話になってしまうかもしれないけれど、そーなってしまって今のよーに吉野さんの作品をどこかソワソワとしながら楽しめなくなるのも詰まらない。不安があってこその希望な訳で、いちおーは多少なりとも年下の身として吉野さんが不安を持ち続け、それを作品に描いてくれている間はこっちも達観諦観の類は抱かず、懐かしさ恥ずかしさに身をよじらせる気分を保ちなが吉野さんの作品を読んでいこー。だから書いてねこーゆー作品をもっとたくさん。

 くーっ泣ける、巨大な乳に。いや違う「わらびー」のヒロインこころちゃんを下から見上げて両に突き出た乳も本編の口絵にある水着美少女たちの砂沙美は子供だからそれなりに、阿重霞は婆さんなんでそれなりに、他もやっぱりそれなりにそれなりな量感でもって描かれた乳も確かに素晴らしいけれど、「あずまんが2」(パイのニアLDC、1905円)に入っている描き下ろし漫画の「ととと」の純粋まっすぐな幼女よつばの姿には、汚れちまった大人の心が露にされて泣けてくる。けどやっぱり「あずまんが」なんで理不尽な面白さもいっぱいで、遮断機にぶら下がって降りてくるよつばのシュールさとか、伝えることを忘れてしまって結局そのまま放ったらかしな展開とか、ありそーなシチュエーションの中になさそーなエピソードを挟んで気持ちのズレを楽しませる、「あずまんが」なテイストに気分もニタニタとなってくる。

 乱暴だけど優しいこころちゃんに髪型をみせびらかしに来るだけの天使といった立ちまくりキャラのおかしさも存分な「わらびー」ともども別冊が光る「あずまんが2」。パロディなんで元ネタ知らないと楽しめないかもしれない本編だって、「ドキドキプリティリーグ」やら「デュアル ぱられルンルン物語」やら見てもやってもいないアニメやゲームのパロディなのに「あずまんが」的モードに引きずり込まれて楽しめたりするんで、ファンならきっと絶対大丈夫でしょー。買って悔いなし。清音と泉の乳もあるし(結局それかい)。


【7月1日】 「MAX」の偉大さに目覚める、って遅すぎか。TBSの胡散臭く説教臭くって見るに苦々しい24時間ファイトなテレビの隙間をぬって特番っぽく放映されて、これは見るに清々しかった「CD−TV」に登場した「MAX」が、3曲だか5曲だかを激しい振り付けをものともせずに一気に唄いきった場面に接し、そのパワーに圧倒されたこともひとつにはあるけれど、なにより演じられた3曲だか5曲だかのすべてが耳に覚えのある曲で、つまりはどれもがメディアに載って耳に届いていた訳で、たとえ「SPEED」ほど目立たなくってもかつて仲間だったのにピン立ちして一気に頂点へと駆け上がったまんま今はどこにいるんだ状態な安室奈美恵ほど売れなくっても、確実にヒットを飛ばし確実にリスナーへと曲を送り届けられるアーティストになっていたんだってことを改めて知って、感慨に震えたことが目覚めた最大の理由になる。メンバー誰が誰だかは知らないけれど。

 「トラ・トラ・トラ」なんて歌を唄って眉を顰めた記憶もあって、それ以前の「スーパーモンキーズ」の時代から「マスカット」のCMとか歌番組とかいったテレビで見てたりはしていて、メンバーも代わっていたりするんだろーけど当時はお年頃ってこともあって見るになかなかなボリューム感があったりして、これじゃあ安室がピンで行くのも仕方がないなあ、とか思っていたけど今やどーだ、全員がそれなりにスリムで脚長そーで仮に今フロントに安室が立ったらギャップが生まれるくらいに大人な雰囲気漂っている。まあそれは、時が流れてすっかりしっかり歳相応(年齢が幾つかも知らないけれど)の貫禄が顔に刻まれているせいかもしれないけれど、そーした風貌も含めて成長を遂げられる時間が「MAX」にはあったってこと。移り変わり、流行り廃りの激しい世界を消えず逃げずに歩んで来た時代の結構な長さともども、改めてその偉大さに敬意を表して明日からメンバーの名前を覚える努力しよう。ナナとペペとルルとポポ、だったかな。

 暑かったらしいが幸いにして仕事で会社に詰めてて涼しく日中を過ごしながら適当に息抜きの読書。エンターブレインが主催している「第2回ファミ通エンタテインメント大賞」で、今期新人のデビュー作では10指に入る作品だと踏んでいる「バイオーム 深緑の魔女」(エンターブレイン、640円)で大賞を獲得した伊東京一さんと並んで、東放学園特別賞を受賞した鈴羽らふみさんの「アルシア・ハード 翼を継ぐものたち」(エンターブレイン、640円)は、事情がなかなか見えないなかでいきなり棒っ切れに乗って空を飛ぶ少女が登場して一体何だろーと訝ったけれど、どーやら地球人を大昔に作った魔法を使える種族がいて、その魔法使いがさらに大昔に作った科学を尊ぶ帝国があっていて、戦争している途中で地球を発見していろいろあった果てに、地球人でも魔法の力を持つ人を魔法使いの種族がピックアップして鍛えているんだってな背景を状況が分かって来て、世界がパアッと開けて来る感覚に脳細胞を刺激される。

 美少女スパルタ鍛錬物って感じの骨格に科学と魔法の対立といった軸が重なり反抗と和解のドラマが絡むとゆー、まーありがちの設定で魔法を科学的に説明しよーとする感じは「ウィザーズ・ブレイン」(三枝零一、メディアワークス、610円)にもちょっぴり通じるところがあるけれど、しじゅう飲んだくれている帝国の艦長とか小さくて可愛いけれど実は正体にいろいろ秘密があるらしー「魔法少女」とか楽しいキャラクターが満載で、読んでいて実は案外楽めたりしたのが意外といえば意外かも。地球の命運がかかっていたり大勢の命がかかっていたりする係争なのに敵も味方もどこか悠長で、ドラマ自体が抱える一色触発なシリアスさに噛み合わない部分も決して無い訳では無いけれど、そーした悠長さも含めて大人と子供のなれ合いにも似た係争でしかないんだってことを案外と伝えよーとしているのかもしれず、だとしたらこれでなかなかに噛み合っていると見るのが妥当かも。後藤圭二さん風味はあるんだけど様式的じゃなくちゃんと可愛いイラストは針玉ひろきさんとゆー人で、正体はともかく見かけは美少女のスレンダーに平ぺったいイラストもある最高の仕事ぶりを、物語ともども楽しもー。

 新人賞の受賞作家じゃないけれど「第7回電撃ゲーム小説大賞」で最終選考に残った中からデビューへとこぎ着けた、って意味では秋山瑞人さんとも共通するキャリアの持ち主だとも言える甲田学人さんの「Missing 神隠しの物語」(メディアワークス、580円)は、「神隠し」とゆー怪奇な現象に直面してしまった少年少女がどう解決していくのかを描いた物語。主役にしか見えない美しく醒めた風貌でオカルトや魔術に関する深い造詣を持ち性格もなかなかにユニークな空目恭一が、何者かに連れて行かれてしばらく姿を見せない辺りにうーんと首をひねり、怪奇現象が伝播増幅して日本を包み込もうとする事態を避けようと頑張るメン・イン・ブラック的な組織の存在に眉を顰めたりもしたけれど、空目って人間を半ば狂言廻しと位置づけ周囲に集まる人々の真剣さとか友情とか反感とかいった感情の機微を浮かび上がらせる内容だと思えば、それほどに不思議な感じは湧いてこない。キャラの強弱に出し入れをしっかりさせて、主眼を据えて紡ぎ直してみると案外と胸打つドラマになったかも。とりあえず妖怪ハンター的な展開を空目なんかを中軸に据えてやってくれないものかと、先への期待に含めて希望しておこー。


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