縮刷版2001年5月下旬号


【5月31日】 エロの足りないナポレオン文庫、って読んで絵を見て思ってしまった人のおそらく全国に1万人はいるだろーこと想像に難くないけれど、ナポレオン文庫からエロを取って残るものが何かと聞かれた時、作者によってストーリー性だったり圧倒的な設定だったり魅力的なキャラクター造形だったりと答えられたりする一方で、何の答えも浮かばない例も決して皆無ではなかったことを考えると、例えとしてはちょっと曖昧過ぎるかもしれない。だったらスーパーダッシュ文庫から刊行された霜越かほるさん待望の最新作「ヴァージン・ブラッディ 妖しの女教師」(集英社、514円)はどっちなんだってことになるけれど、ストーリー性はなるほど「高天原なリアル」(集英社、533円)譲りで描写のリアルさは「双色の瞳 ヘルズガルド戦史」(集英社、495円)譲りかなー、とか思ったけれど全体としてはやっぱりエロの少ないナポレオン文庫すなわちちょっぴりハードなヤングアダルト文庫って言うのがやっぱりぴったりハマるかも。やっぱりちょっと曖昧。

 タイトルだけならナポレオン度は結構高いと思うしスレンダーなショートカットの眼鏡美女のシャツがちぎれかかっている表紙の絵も十分にナポレオン的にエロティック、帯をとったらなおいっそう官能度は上がってあるいはグリーンドアでも間に合うよーな気すらする。でもって口絵ミニポスターの裏側のショートヘアの美女に後ろから抱きしめられ乳房に手を触れられた少女が目もうつろに口の端から涎を流している絵を見るにつけ、マンガっぽいのに無理して官能やってる雰囲気なんかも含めてますますなナポレオンの懐かしい香りが漂って来たけれど、男子生徒が美女の持つ秘密の力に溺れていかざるを得なくなる展開から期待する激しくも嬉しい熱烈歓迎な官能描写はレーベルの関係もあって流石になく、余韻としての恐怖感は残るけれどもおあずけを食らったよーな気持ちも同時に下から突き上がって来て戸惑う。

 まあ一種のちょっぴり長めの怪談を読んだとゆーことにしておけば、死ぬことと快楽を得ることを両天秤にかけて戦慄しながらも究極の快楽を選ばざるを得ないだろー人間の恐れとおののきへの考察といったそれなりの物語と、絶世の美女とのベッドインすら越えるだろー究極の快楽に迫ろうーとするそれなりの官能とは得られるから、夏のキモダメしシーズンを控えた軽めのジャブとして受け取って、ちょっぴりの恐さとちょっぴりの快楽に時間をかけてみても悪区はない。ただ次はやっぱり「双色の瞳」の続きをちゃんとしっかり読ませてもらいたいし、編集さんは妙なマーケティングなんか意識せずに霜越さんには思う存分「双色の瞳」を書かせてやって頂きたい。でなければレーベルなんて意識しないで18禁もかくやな描写のテンコ盛な「学園もの」をお願いします頼みます。

 偽善とか言って断じることは簡単だけどそこまで意地悪く考えたくないのは、ポーズであっても自省することによって芽生える相対化であったり客体化の感情が、棘となってささるなり記憶となって残ることで後々に同じ過ちを繰り返さない役に立つんだと思えるから。「ニュースステーション」で久米宏さんがポロリ口にしたニュースステーションは何をやって来たのかってな自問に絡めて例えば「ニュースステーション」が検証番組を作るとか、別のどこかメディアのあら探しを得意にしている雑誌なんかが特集を組んで来るかと思ったら、意外や「朝日新聞」が5月31日付けの社会面で「『不作為』報道もまた」って見出しで過去70年に及ぶハンセン病に関する記事の内容とか、報道のされ具合とかを検証しながら自分たちの「不作為ぶり」を検証している。このあたりは天晴れ「朝日」としか言いようがない。

 「朝日」がどう伝え、あるいはどう伝えなかったのかという個別の記事を挙げての検証とかがないのは気になって、「不作為の罪」をメディア全体に分散しようとするタクラミか、なんて穿った見方もちょっとは浮かんで来るけれど、記事を読む限りはそーいった雰囲気はなく、他社自社関係なくメディアが犯した「不作為の罪」に対する自省の意図が浮かんで来ているし、元記者とゆー藤田真一さんに出てもらって「言い訳はできない。『ハンセン病問題』というが、これは差別する社会の問題。差別のことは差別されている人に聞かねばならないのに、しなかった」とゆーコメントなんかも織り交ぜて、自社の「不作為」ぶりを明らかにしている。

 これすらもたった1人の当事者に責任を帰結させよーとする小賢しい技と言ってしまえばキリがなく、なるほど安全圏から反省めいた言葉を口にしていても、その「不作為ぶり」を非難する人が具体的直裁的に攻めて来たらどんな逃げを打つんだろーかってヒネた見方もそりゃ出来る。出来るけれどもまずは1歩、足を踏み出したことをここは素直に評価しつつ、藤田さんがコメントで投げた「新聞によって、国民の偏見が作り出された。これまでの報道をどうするのか、報道機関は自己検証すべきだ」とゆー指摘に従って、過去の偏見が再びの差別を生むよーなことのないよー配慮しながらも、固有名詞の「朝日新聞」がどう伝えたのか、あるいはどう伝えなかったのか、それはどういう事情からだったのかを検証して記事にして、記者の人も読者の人も含めて次の世代へと「不作為」の怖さ、流される恐ろしさ、ポピュリズムの愚かしさを伝えていって戴きたい。ジャーナリズム研究の人も負けずに。

 「イイっす!」。なんて叫ぶ人の日本全国に300万人はいるだろーこと確実なのは、そのスレンダーな姿態から発散される健康さとふくらみ始めた肉体から滲み出る淫靡さの同居して表裏一体となったあやうい年頃にいる少女を見ればもはや一目瞭然。そのタイトル「イクない?」(ワニマガジン、1900円)に対してやっぱり「イイっす!」と答えるより他に選択肢はない。いや可愛いです美しいです宮崎あおい様さま様。例の青山真治監督の映画「EUREKA」に出てバスの中でバスジャック犯が人をバンバンと撃ち殺す場面なんかを見てしまったからか事件後3人の生き残りの1人となってからはあまり喋らなくなって、同じよーに壊れかかっている兄からの暴力にも反応を見せず静かに死んでるよーに生きている少女の役を演じて注目された人ですね。

 映画だとモノクロで淡々と進んでいくストーリーの中でもっとも寡黙でもっとも可憐なイメージを出していた人だけど、これが写真集だと一転して、水着姿にスレンダーな姿態を包んで海辺をかけまわり、木切れをばっと替わりに振り回し、花を見て笑い木に登って笑う健康快活美少女ぶりを見せてくれていて、映画のイメージからはかけはなれてしまって残念ではあるけれど、これはこれでな喜びも浮かんで一段とファンになりました。DVDとか出るのか知らないけれど出たら「EUREKA」の仏頂面演技を比べてみたいなー、あと陽気な監督のアクション映画とかでどんな喋りを聞かせてくれるかにも興味いっぱい。活躍に期待。


【5月30日】 巧いなあ、って言葉がまず漏れる京極夏彦さんの「続巷説百物語」(角川書店、2000円)は江戸の大店の隠居した若旦那の百介を「京極堂」シリーズの関口巽よろしく事件に巻き込まれせては関口よりは頭も冴えて行動力もあるみたいでそれなりな働きをさせつつも、基本的はやっぱり又市なる小股潜りや山猫廻しのおぎんと言った一癖ふた癖ありそーな奴等の仕掛けによって事件を解決していく展開は、京極堂ならさしずめ「この世には不思議なことなどないのです」と言うだろー妖怪変化による怪異の種明かし場面の鮮やかさもさることながら、怪異の裏側に渦巻いている人間の欲望や怨念といったものを浮かび上がらせて、読む人にあれやこれやと考えさせる。

 北林藩をめぐる仕掛けとその事後譚で全編に一応のケリもついたみたいで続々編はなさそーだけど、それにしても又市ほか一党、義憤っぽいスタンスで仕掛けにのぞんでどーやって食べる算段とかしてるんだろー。あと間抜けな奴等もいるけれどそれなりに凄い奴等もいるだろーお上なんて相手にして、10年以上も小股潜りをやって捕まらなければ罰せられもしない又市の暗躍ぶりも謎。別のバックがあるかそれともよほどの力の持ち主と見るしかなさそーだけれど、その辺り前の巻で説明あったんだろーか、なかったんならやっぱり知りたいなー。けどご落胤の類ってのはツマらないし公儀とかってんでも面白くない。やっぱここは妖怪変化ってことにしておくか、だったら不思議なことなんていくらでも出来ちゃうし、自分にとって不思議なことなんてないだろうし。

 凄いなあ、って言葉が漏れるのは堀江敏幸さんの最新の著書「回送電車」(中央公論新社、1900円)を読んでの感想、何よりタイトルに含蓄がある。踏み切りを走っていく回送電車から筆を起こして客を乗せてなく時刻表にも載っていない、にも関わらず現実に線路の上を走っていく回送電車とゆー存在の役に立っていないよーでいないとこまる奇妙な立ち位置から想像を働かせて、小説というのはまとまりがなく、エッセイとゆーには事実に縛られていない曖昧さの極地にあるよーな自分の散文はまるで「回送電車」みたいだと気づく展開の切れの良さ。「書店という特定の線路上にあってなお分類不能な、まさしく回送電車的存在だったではないか」(13ページ)と言う指摘には、そんな文章を書き本を出して来た本人でなくてもなるほどそーだよとうなずいてしまう。

 「一瞬の空気の弛緩にかぎりない愛着を覚えずにいられない者にとっては、回送電車こそ、永遠にみつからない逃避への道を探っている寂しい漂泊者の似姿なのかもしれない」(13ページ)とゆー堀江さんの言葉は、文筆業者の中での自分の立ち位置に対する自負だし何かを書く上でのスタンスでもあるけれど、一方で山をあるエッセイ小説コミックルポルタージュほか表現物の中でもあえて曖昧さを主張する堀江さんの作品を好んで読む人のスタンスにも等しい。ジャンルだ何だとガチガチい縛られ作法だ礼儀だと強制される中で何かを読むなんてつまらない、曖昧だけれどど弛緩しているけれどそれが心地よさとなって身をなごませる文章に触れたい人が多くなっていることが、最近の堀江さんの人気ぶりにつながっているのかも。この世知辛い世の中、寂しくたって逃げ出したいよね誰だって。

 労働者は苦労に汗を流し資本家は喜悦に涙を流すとゆー産業革命の時代から続く構造は、多少は労働者と資本家の差が縮まったとは言っても基本的には変化がないってことなのか。鳴り物入りで政府が始めた割には笛吹けど踊らなずな観もある「インターネット博覧会」こと「インパク」で、2000年の大晦日から始まって3月末までの第一四半期を大賞に優れたパビリオンとかアクセス数の多かったパビリオンを表彰するって式典があったけど、世界に冠たる日本でもトップの収益を上げている田舎の自動車会社を始め企業がいっぱい表彰されても、現場で頑張っている個人にそれが果たしてどこまで励みになるんだろーかってな気が起こって仕方がない。

 もちろん企業のサイトだからって単純に企業PRじゃなく後世に役立つ資料価値の高いコンテンツを作っていたりするけれど、結果として前面に出てくるのは企業名だったり自治体名だったりしてある種バブル期によく見られた「僕たちこんなに社会貢献してます」調のメセナ的なものに感じた居心地の悪さが漂う。経営的な判断ではメセナでも携わっているのは給料もらってお仕事としてやってる人。サイトを作った代理店の人とかも来て受賞を祝いあっていたけど、その人たちが醸し出すお仕事色はなおいっそう強かったりする訳で、理想として抱くオープンソースでボランティアなネットのイメージとのズレが感じられて釈然としない。お金をかければ良いものは出来るし存在だってアピールしやすい。一度評判が定着すればそこにアクセスが集中していくインフレスパイラルな構図から考えると、今回アクセス賞を獲得したトヨタ自動車が次の四半期次の次の四半期も同じ賞に輝く可能性は高く、4枚のクォータリー賞に総合の1枚を並べて表彰楯をコンプリートして喜んでいる一方で、お金はかけていないなりに有意義な内容を持つコンテンツが埋没していかないかと心配になる。

楯&賞状  1枚が幾らするか知らないけれどドッグイヤーだからなのか短い四半期とゆースパンで毎回10数パビリオンかを表彰する度に毎回10何枚かの楯を調達しては名前を刻んで配る手間に、どれくらいの資金と何人のスタッフが関わっているのやら。ほとんど1人がおそらくはたいしかお金にもならない状況で「インパク」を楽しみましょうと編集長として呼びかけている傍らで、「インパク」で何かをしよーとしているんじゃなくって、「インパク」をすることにのみ存在意義を見出している人の案外といそーな雰囲気が漂って来て、やっぱりどうにもスッキリとしない。だいたい表彰する相手のサイト名とかを読み間違えるなんてどういう了見? フツーのお爺さんには流行りのネット言葉はそりゃ辛いかもしれないけれど、「インパク」を率先垂範している人たちなんだから、通ぶるくらいはやってもらわないとネットにかけるマジ度は伝わらない。

 滞在した海外では自分の国でも参考にしたいってゆー声を聞いたとゆーし、国内でも歩いた先の地方で評判になってますよって言われると堺屋太一さんはスピーチしたけど、そりゃ堺屋さんが解題でも地方でも行けば誰だって言います「評判ですよ」って。最初から印篭見せっぱなしでは「水戸黄門」は成立しません。マスメディアが東京に一極集中していよーといなかろーと、ネットの世界は万国共通で中央も地方も無関係、にも関わらず「インパク」について話題にしているサイトの果たしていったいどれほどあることか。これはまあ普段見ているサイトの偏りぶりにも問題があるんだけど、それにしてはあまりにも評判を聞かなさ過ぎる。内閣が小泉メールマガジンを発行するくらいなら「インパク」に小泉コーナーでも作れば誰だって見てみたくなるはず、だけど多分そーゆー”政治的”なコンテンツは乗せられないんだろー、高踏な決まりとかあって。

 まあ福祉関係とかでは個人の頑張りをすくい上げてる部分があったし、トップページも見易くなってメジャーじゃないけど個別の面白そーなサイトも見つけやすくなって来たんで、あとは作り手と受け手の個人としての頑張りをどこまでサポートできるかって部分があれば、「インパク」につきまとっている胡散臭さも払拭されるて参加者のやる気にユーザーの楽しむ気も出ようってもの。次の第二四半期にどんなところが表彰されるかは知らないけれど、大賞をもらったところで当然としか思えないよーな大企業なんぞにあげないで、それこそ大賞はとれなかったけど2番目の賞と編集長賞を取った紙飛行機大会をやったサイトのよーに、意外性があって誰もが見ないと損をするかもと思えるよーなサイトを探しては盛り立てるよーな良き作為でもって、次につなげていって欲しいもの。「私はこうインパクを楽しみました」ってなユーザーの忌憚ない意見に賞を出すくらいの余裕も欲しい。万博の4分3は後半に入場するって言うけれど、今のままだと尻すぼみに終わる可能性だってゼロじゃない、ってゆーか100に近い。まだやるんなら(止める訳ないけど)発想は柔らかく行動は大胆に。


【5月29日】 「産経新聞」の5月29日付朝刊によれば磐田市役所の記者クラブが自主的な「脱・記者クラブ」を宣言して外部のメディアでも記者室とかに出入りできるよーにして一応は記者クラブが主催する形を取る会見にも出られるよーにするんだとか。果たしてどこまでのメディアあるいは個人資格のジャーナリストが出席できるのかは分からないけれど、もとより磐田市の市政を逐次ウォッチしたいってメディアがどれほどあるとも思えず地域のミニコミ学校の新聞部を含めてもせいぜいが10とか20とかいった程度だろーから、開放後も粛々と業務は行われて結局のところはだったら「記者クラブって何だったの」って話の材料になって行くんだろー。常駐の資格とかがどーなるかが分からず家賃とかも含めた維持費の問題がグレーな点が開放と引き替えに黙認される可能性もあるけれど、ともあれ長野で投じられた一石がまずは天竜川を下って起こした次の動きが、さてはて東海道を左右に進んで行くのやら。遂に出たらしー退去の正式な要請への対応も含めて成りゆきをカンサツして行きたい。

 応援している「湘南ベルマーレ」が好調で2chサッカー板には関連スレッドも立ってにょにょにょにょと人気で監督はネルシーニョにしろ選手はトニーニョベッチーニョまえぞにょだってなコメントが自分的にツボだったブロッコリーが、新しいカードゲームの説明会なんかを開くってんでサンシャインへ。説明会っても別にルールとかを教えてくれるんじゃなく、ビジネス的にどんな展開をしていくかって真面目なミーティングで集まっている人たちも流通とか取引先の人が大半だったけど、挨拶に立った木谷高明社長が「アクエリアンエイジ」のメインビジュアルに起用されたキャラクターを指して「萌え系にしましたが」と言って多分通じているあたりが食品とか金融とか鉄鋼とかいったフツーの業界にいる人たちとはちょっと違うか、でもやっぱり通じてなかったかな。

 出すのは「ベイブレード」のトレーディングカードゲームで一緒に「ゲームボーイカラー」対応のゲームも出すとかで、「デ・ジ・キャラット」も多少は子供に人気があるけどどちらかと言えばオタクなマニアな人たちが中心だったユーザー層を、小学生の主に男子に人気のアイティムでもって一気に広げようって目算が伝わって来る。興味深かったのは木谷社長が「コロコロコミック」の人から聞いたとゆー「男の子って女の子嫌いなんですよ」とゆー言葉。思い返せば小学生の頃に可愛い女の子のついたキャラクターグッズなんて持っている男の子はたいてい”ヘンタイ”呼ばわりされて弾かれていたし、現実子供たちが結構集まったイベントで配った「フロム・ゲーマーズ」は表紙が「アクエリアンエイジ 悠久の処女宮」で裏表紙が「デ・ジ・キャラット」でどっちも女の子で、寄ってきた女の子は「可愛い」といって持っていってくれたけど、男の子はほとんど置いていったか捨てていったとか。

 やがて中高大学生を経て立派なマニアになって「萌えーっ」とかやってた人がその感覚を持ち込んで小学生男の子向けアイティムなんかを作った日には、ミスマッチが起こるのは自明の理。マニアの感性は感性として重要だけど、一方で冷徹に事実を踏まえてマーケットを見る目もビジネスには必要ってことなんだろー。ブロッコリーでも「ベイブレード」に続けてアニメにもなった「ARMS」のカードを中高生向けに出すよーで、ラインアップを揃えて世代を広げて目指すは総合キャラクターグッズ会社、ってことになるみたい。入社試験を受けよーとするならマニアとしての知識を賢しらにひけらかすよりは、世代別マーケティングの違いなんかを含んだ上でキャラクタービジネスの可能性なんかを訴える方が良いのかも。返事の語尾に「にょ」なんか付けたらダメだよー、っていねえか(いたりして)。

 復活して3年目の太宰治賞の1番新しい受賞作をまとめた「太宰治賞2001」(筑摩書房、1000円)を読む。受賞作の「一滴の嵐」を書いた小島小陸さんって人の写真だけ見ると何だか結構年輩っぽい落ち着いたたたずまいに、最近台頭著しいカルチャースクールとかで頑張って来た元文学少女な人がよーやくデビューした口かなあ、なんて思って略歴を読むと1976年生まれとゆーから若いわかい。作品はまだ読んでないけど鉛筆職人の息子が貴族の令息と仲良くなってあれこれってゆーあらすじから、あるいは耽美な系統に属する小説って気がしないでもなく、なるほどだったら76年生まれのブンガクしてそーな女性が物にするにはピッタリの作品だったってことになる。いわゆるボーイズラブって奴? こーゆー類の小説の引き合いに今時池田理代子さんを出して来る高井有一さんの小説観ってのに興味があるけど、選考委員が池田さんで留まっているからこそ選んでもらえたって可能性もあるから応募先としては正しかったのかも。もちろん高井さん1人の趣味で選ばれたんじゃなく、純粋に小説として優れているからこそ選ばれたって可能性の方が高い訳で、その辺どーなのかを読んで改めて考えてよー。

 選考委員の反応の良さにベストマッチだっんだなーと感じた「一滴の嵐」とは対称的に、もしかすると応募する場所が悪かったのかもと選評を読んで思ったのが永沢光雄さんの「グッドモーニング・トーキョー」。名前を聞いてピンと来た人はよほどの風俗通、じゃない風俗ライター通で、それもそのはず永沢さんと言えばAV女優の骨身に迫るインタビュー集で高い評価を受けた「AV女優」の書いたことで結構な評判になったノンフィクション・ライター。それがどーして小説を、それもわざわざ新人賞の太宰治賞に応募をって考えるのが普通だけど、最終候補作に残った「グッドモーニング・トーキョー」を読むと、その理由も何となく分かって来る、たぶん小説が書きたかっだなあってことに。

 主人公の保志は風俗嬢やAV女優へのインタビュー記事を書いて食べている風俗ライターで結婚もしていてそれなりな評判は取っているけれど、本人に仕事をバリバリとこなす意欲がなく家賃くらいを稼げる程度の仕事しかせず、奥さんの菜々子が焼鳥屋の店員をして働いていて何とか食べて行けている。そんなある時菜々子の母親が肺ガンで余命幾ばくもないと判明して、母親の看病のために菜々子は仕事をやめることになり、保志はちょっとばかり気合いを入れて働かなければはらない羽目となる。合間に仕事に疲れ人生に不安を感じた保志が精神科の医者にかかる話とか、取材したSM嬢とその客との奇妙なやりを目撃する話といった、未来に不安をかかえながらひた走る風俗系ライターの日常めいたものが描かれていて、半ば私小説めいた雰囲気も浮かんで来て、その中で何度か小説を書こうとして原稿用紙を積み上げては1度目は挫折し、いろいろあった後の2度目はどうにかマス目が埋まりつつある描写があって、現実にこーして1本の小説を書いた永沢さんの姿と重なる。

 綺麗に見える裏側にははいろいろなことがあり、権威をまとっていても内側はドロドロとしていて、決して世の中1つの価値基準で割り切れるものじゃないんだよ、ってなことを教えてくれている小説に実に相応しい、SMクラブの取材を終えて出た六本木のビルの1階の喫茶店でアベックが談笑している姿に「君たちの頭の上では、紳士然としたオジサンがウンコを食べているんだよ」と保志がつぶやく冒頭の描写を、「なぜ作者は、初めに排泄物を出したのだろうか」と非難がましいことを言う吉村昭さんの微妙なハズしっぷりを読むにつけ、こーゆー横紙破り的な小説が受け入れられる賞もしくは選考委員じゃなかったのかもと思えて来る。

 もっとも設定は破天荒ながら妙に類型的な人物描写にハマり過ぎてる展開、そして見事に決まってしまう結末には、たぎるパワーほてる熱めいたものがいささか足りないと感じてしまったのもまた事実。「構成など無視して、もっと不細工に事実を積み重ねて行ったほうが、仕合わせを揺さぶる時間の破壊力は、より衝撃的に読者を打ったのでは」「語りの枠を壊して例えばそこへ無遠慮に踏みこんだとき、この小説は人情噺を越えるだろうし、この作者にはその力が充分にある」とい柴田翔さんの選評、「これを書いた時作者は、きっとよい文章が書けたと思ったかもしれない。しかし、そう思った時にはもう遅い。すでに何かがなぞられている。こういうことが、書かれてみると『通俗的』だからこそ、多くの書き手は、苦労しているのである」という加藤典洋さんの選評はその意味で実に有意義で、端正さに固めて通俗に堕すよりも、取材でため込んだ知識と人生でため込んだ経験をナマにぶつければ、あの永沢さんだ、きっととてつもない小説が出来上がるに違いない。期待してます心から。

 2月に出た山之口洋さんの「われはフランソワ」(新潮社、1800円)がいろいろあって全冊回収の後に改訂版が再発行されたらしいって話は聞いていたけど、ふらりと寄ったサンシャインの中にある本屋で売っていた「われはフランソワ」は奥付が2001年2月20日発行のまんまで改訂されたらしいって雰囲気はなく、あるいはハンセン病に関する問題から改訂版が出た「グインサーガ」の1巻とは違って知らずこっそりと取り替えられているんだろーか、それとも単に書店が返品し忘れているんだろーかと悩む。具体的にどこの描写がどーゆー理由でひっかかったか分からないだけに調べよーがないけれど、買って前に買ったのと比べてみて違っている場所を見つけるなりすれば分かるんだろーか。もちろん書店に改訂版ってのが並んでいれば一目瞭然なんだけど、どーなんだろ。別の本屋も調べてみよっと。


【5月28日】 築地魚市場系の週刊誌は引き続いて「脱・記者クラブ宣言」は報道する価値なし夫ちゃんなよーで。ついでに更に先週の金曜深夜の「朝まで生テレビ」における「新しい歴史教科書をつくる会」の圧勝(推定)ネットアンケート結果も黙殺してくれたらそれはそれで矜持って奴が分かって嬉しいんだけど。ちなみに夜明けまで見ていた「朝生」は憲法だがかアジアで最初に作られたのは日本だって書いた「新歴」な人に「トルコの方が早い」と言って「トルコがアジアか」と返されて「そうだ」と断言した否定はのおっさんがお茶目でした。トルコがアジアなら日本ってワールドカップ出られないじゃん、アジアのクラブ選手権でもきっと負けるぞJリーグもKリーグも雁首そろえてガラタサライに。

 まあそれは極端な例だったとしても(言ってる人はマジっぽかったけど)、さすがは4年とかに及ぶ世間の突っ込みに鍛えぬかれた「新歴」の面々、どこをどうあげつらってもちゃっきり返して来るからちょっとやそっとじゃ落ちそーもない。ってゆーか突っ込む否定派も枝葉末節をつついてその度に切り替えされては轟沈してみたり、「アメノウズメ」のストリップは恥ずかしくって教えられないけれど「従軍慰安婦」は教えるべきだってな不思議な価値基準を主張しては見ている人の目を白黒させたりと言った具合に、何だか全身にパワーアンクルパワーリストを付けて「さあ殴れ」と言わんばかりのスタンスに見えてしまう。

 言うに事欠いて「その教科書ではテストに通らないぞ」と受験生を人質に取るよーなニュアンスで、ゆとりが大事な人権派の人たちにしては珍しく知識詰め込み型の受験戦争を肯定するよーな発言を最後の方に放っていた否定派の人たちには呆然。今の受験のシステムでは現実問題そーゆー事態になる可能性がない訳ではなけれど、だったらテストで問う内容ってのを変えれば良いだけのことであって1つの見方だけを採用しなければならない理由はない。ってゆーか見方にはいろいろあるんだってことの方を重要視するよーな教育が求められている訳で、そーした思考能力を問えないマルペケだったりマークシートだったりするクイズのよーなテストの仕組みの方がむしろ問題だったりするのに、そーした部分へと思考を巡らせることなく、正しい知識は1つしかなくそれ以外は異端だってな一時の異端審問めいたスタンスを主張してためらわない否定派の人に、ちょっと恐さ感じてしまう。

 もしかして弱気を助けるのが正義だってことで絶対悪にして負ける運命にある「新歴」の人たちにちょっとは頑張ってもらおうと、人選でも主張でも手を抜いたんじゃないかと思ってしまったほどだった。言わせて馬脚を出させて骨でも断つ先方だったのかな、けどそれ以前に骨まで粉砕された感じがしたけれど。いずれにしてもインターネット・アンケートの結果次第が今は知りたい気分、魚市場の息がかかった会社のアンケートがその意にそった内容を弾き出すか否か、メディアの矜持がここでも問われていたりする。どこぞの役所みたく、アンケート自体をなかったことにするためにサーバーごと燃やす、なんてことはしないだろーね。

 パソコンのOSの世界をほとんど独占して世界有数の大金持ちになったビル・ゲイツを3月に「東京ゲームショウ」で見物してから2カ月で、そのゲイツと知名度だったらほぼ同等、人気だったらきっと100倍は上を行ってそーな人間に会えるってんで、これと言って担当でもなかったけれど物珍しさも手伝って「東京ドームホテル」へと見物に行く。その人物が成し遂げたことこそが、「Linux」ってOSの開発と普及。基本的な仕様をネットの上に公開しては無償で誰でも使えるよーにする代わりに、改良されたものもやっぱり無償で公開するんだぞ、ってな自慢比べと善意がちょっとづつ入り交じった雰囲気もある「オープンソース」って名前の運動を立ち上げてから3年くらい? リーナス・トーバルズによって送り出された「リナックス」は今や先駆者にして大金持ちのゲイツ率いる「マイクロソフト」の牙城をゆるがす存在になっている。

 お金持ちにならないで人気持ちになった理由が如実にあらわれた「それがぼくには楽しかったから」(小学館プロダクション、1800円)ってタイトルの自伝がを引っ提げて来日したリーナス・トーバルズの会見は、スピーチが大嫌いってなリーナスの意向もあって共著者のデイビッド・ダイヤモンドが原稿を読み上げる形で挨拶して、以下質疑応答の時間に。のっけから「眼鏡はやめたの」って質問が飛び出すあたり、ビジネスの人みたく汲々とはしていなくって、どこかふわふわとした雰囲気のあるリーナスを象徴しているよーで、答えて「レーザーで治療したんだ。プールに入っている時に子供が見えないんじゃ困るから」ってなこれまたリーナスっぽい答えが返って来て場がちょっぴりなごむ。似た質問には「寿司好き?」ってものがあってこれにも「トロとかイクラとか」って言っていたあたりが和み系。本当は「スパイシーロール」とかが好きらしーんだけど日本にゃそんなメニュー、ないんでちょっと残念そう。けどいったいスパイシーな何が巻き込んであるんだろ、ちょっと興味津々。

 そーこーして場が和んだところで専門な人から専門な質問も出てくるよーになって、例えば「リナックス」が次に進みそーな分野としては大きなクラスター・ハードウエアからチップに組み込み型のOS市場なんかを上げていて、ミッドレンジから一方で巨大に、もう一方で最小に向かって普遍化していくイメージが伺えた。あとBK1から来ていた寺島さんが「本はどーしてただで売らないの?」って聞くと答えてリーナス「ソフトだったらオープンソースにする意味があるけど本ってそんな必要ないじゃん」と、知識の共有化が進歩をもたらす場合にオープンソースにするべきだってな考えを話してくれたのが印象的。当たり前なよーでいて実は案外見落とされていたかもしれない「オープンソース」の本質を、これって結構ストレートに現しているよーな気がする。

 それに比べると「印刷とか製本ってなコストがかかってるから」って言った版元のコメントはちょっと本質からズレてるよーな気が。「リナックス」を作るんだって個人の余暇とか削られてパソコンを動かす電気代とかかかっているのにそのコストを勘定に入れないところが「オープンソース」だった訳で、費用がかかってるかかてないっていった単なる原価の問題じゃない。「それが楽しかったから」とゆー基本理念から生み出された、世界のみんなが1つ事を成し遂げよーと頑張る運動の意味をあんまり理解してなさそーな版元のコメントだったけど、そんな版元だからこそリーナス・トーバルズとゆー21世紀の偉人候補を日本に呼んで会わせてくれた訳で、ゲイツにガン飛ばされた以上の価値をあるいは持つかもしれない経験をさせてくれたってことで、小学館プロダクション様にはとりあえず有り難う御座いますと御礼を言っておこー。


【5月27日】 「メトロポリス」がはじまる前に流れていた「千と千尋の神隠し」って宮崎駿監督の最新作の予告編を見て、宮崎監督だからファミリー向けだから子供だって大丈夫と思って連れて行った子供が進むストーリー出てくるキャラクターのあまりな禍々しさに泣き出しやしないかと思って嬉しくなる、いや別に子供に恨みがある訳じゃないけれど、宮さんだからって国民的アニメ監督だからって決して善人じゃないってことが、この1本をしてよーやく伝わるじゃないですか。「ラピュタ」「トトロ」「魔女の宅急便」と子供向けっぽい作品がそーしたイメージを作った要因なんだろーけれど、「ナウシカ」だって「ホルス」だって決して脳天気な娯楽作品じゃなかった訳で、リアルな現実シリアスな人間関係を滲ませて大人も子供もハッとさせてこその宮崎アニメ、それが「千と千尋」にはふんだんに溢れていそーで、見ればきっと誰でも心に何かが残るだろー、傷とかトラウマとか。

 前の「もののけ姫」だってストーリーはシリアスで描写も首がとんだり肉が崩れたりして結構オドロオドロしかったのに、どーゆー理由か邦画の興行記録を塗り替えるヒットになってしまって宮さんの本質がイマイチ伝わらなかった。それは製作発表記者会見の席でこれから作るぞって意気込みを見せていた宮さんに「次は」なんてハズした質問をして起こらせて「これが最後だ」なんて言わせて挙げ句に「最後の宮崎アニメ」だなんて風評を読んでヒットに繋げてしまったどっかの記者の責任でもあるんだけど(僕じゃないよ)、ともかくも今度の見るからに禍々しさの漂う「千と千尋」で、観客に思う存分恐怖心を与えてやるのがやっぱり正しいアニメ教育ってものだろー。もっとも前半シリアス後半ギャグだった「うる星やつら」の銭湯編みたく、予告編だけ不気味で本編は案外とコメディだったりする可能性もあるから安心はまだ。洋画の強いのも来るけれど敢えて選んで場末の劇場で子供たちと一緒に見よう。「宮さんも落ちたわねえ」「30過ぎたオタクしか誉めねえよな」なんて10歳のガキに笑われてたらどーしよ。

 上映規模はケタ違いだし知名度だってまだまだだから、きっと「千と千尋の神隠し」の対抗馬にはならないだろーけど、宮崎監督とはまんざら知らない仲じゃないどころか「魔女の宅急便」だったっけ、その演出補として宮さんと一緒に仕事した片渕須直さんて監督の作品「アリーテ姫」が七月二十一日から東京都写真美術館、シネ・リーブル池袋などで公開予定。お金のかけ方もたぶん全然少ないんだろーけれど、物語が持っている子供に限らずすべての人たちに通用するメッセージの強さはたぶん「千と千尋」を下回らないはずで、超大作目白押しなタイミングの悪さの中で埋没してしまって忘れ去られる可能性もあるだけに、判官贔屓も働いて「千と千尋」以上に応援したくなっている。予告編を見た限りなら「ジュラシックパーク3」の3倍は応援するね、「ファイナルファンタジー」だったら100倍? これは未見だから推定だけど。見たら1000倍になる? その可能性は否定できないなあ。

 大友克洋さんとか森本晃司さんと仕事している「4℃」ってスタジオが作っているからデジタルもきっとバリバリなアニメなんだろーと思いきや、なるほどデジタルは使われているけれどそれは決して「デジタルでござい」ってな主義主張の強いものじゃなくって、彩色としてのデジタル化はともかくとしてエフェクトとしてのデジタルも、立体物とか街をかと作ってカメラの中で自在に動かしたり逆にカメラを自在に動かしたりして見せるための手段でしかなく、ごちゃごちゃとしてこれどもかってな自慢げな雰囲気もあったモブシーンとか、崩れ落ちる「ジグラット」のいかにもペカーとした感じがデジタルを感じさせた「メトロポリス」よりも、デジタルを使いこなしているよーな気がした。もしかしてデジタル使ってなかったりしたらどーしよ。

 物語の方はと言えば、高い塔に押し込められて婿が来る日をただ待つことだけが求められていたはずのアリーテ姫が、実は好奇心旺盛で知識欲にもあふれていて、本を読んでは秘密の抜け穴から街に出たり城のあちらこちらに忍び込んでは、なおいっそう外の世界への好奇心を募らせ、塔に閉じこめら自分の意志では未来を選べない生活に強い疑問と不満を募らせていた。そんなある日、遠い国から前世紀の不思議な力を今に伝える「魔法使い」最後の生き残りが城へとやって来ては、アリーテ姫を自分の婿にしたいと王様に告げる。本当は予言で自分の永遠の命を脅かす存在がアリーテという名の姫だと知った魔法使いが、姫をさらいに来たもので、もちろんアリーテ姫は抵抗して逃げよーとしたけれど、魔法使いに魔法の力で見目麗しいものの誰かの言うことに素直に従う、ってゆーか誰かの言うことにしか反応できない愚鈍な姫に変えられて、連れ去られてしまう。

 そこからはじまる自問自答のストーリー。与えられた目的に沿って誰かを待ち続けたり何かに従い続ける生活が良いのか、それとも例え辛くても厳しくっても自分の意志で未来を切り拓く方が幸せなのか、ってな人生に普遍の問いかけが見ている人のきっと心に刺さるはず。もちろん完全な自由が与えられても友人なんておらず仲間も皆無の魔法使いのよーに日々をダラダラと過ごすだけの生活もあったりする訳で、一生を決められた生活の中でレールに沿いつつ行くのも決して捨てたものではない、実際ラクだし。あるいは自由を手に入れたアリーテ姫が最初にしよーとしたことも、決して自分の中から湧いてでたものではなく与えられた目的だったりした訳で、自由も案外と不自由なものって気がしないでもない。とは言え例えきっかけは命令でも、最後に自分の意志で選んだとゆー事実は大きい。自由なことが幸せではなく自由であろうとすることの方が幸せなんだと教えてくれるアニメとして、未来の豊富な子供から今に悩む大人たち、残る日々を悔いなく送りたい老人まで幅広い層に届いて欲しい。CGがリアルなことなんて重要じゃな。メッセージがリアルなことの方が重要なんだ、よね、きっと。

 これは凄い、そんでもって素晴らしい。決して数多く作品に接した訳じゃないし直接の面識もないから本人の中でどーゆー序列にあるのかは検討もつかないけれど(「聖ミカエラ学園漂流記」への思い入れとか「家畜人ヤプー」の手応えとかを重く見ている可能性もあるし)、個人的には今まで見た中で高取英快心の脚本であり演出であり舞台だったと感じた「月蝕歌劇団」の最新公演「怪盗ルパン 満州奇岩城篇」。第二次世界大戦を目前にした上海の地に満州からは「東洋のマタ・ハリ」こと川島芳子に女優・李香蘭そして怪人・甘粕正彦、日本からは名探偵・明智小五郎に小林少年を筆頭とした「少年探偵団」の綿々さらには遠くフランスの地から世紀の怪盗アルセーヌ・ルパンとルパン逮捕に執念を燃やすガニマール警部が終結して繰り広げる、はるか蒙古の財宝をめぐるくんずほぐれつの大激闘と丁々発止の知恵比べが、観客たちを惑乱と興奮と驚嘆と感銘さらには爆笑の彼方へと引きずり込んでは至福の経験をもたらす。

 蒙古から伝わる秘宝の在処を示した品物を身に持つ美少女コレットと、戦前の日本人たちを熱中させた女優にして歌手の李香蘭、それからガニマールがフランスより招聘した少年探偵イシドールの3つの役をそれぞれのタイプに見事なり切って演じ唄ってみせる長崎萌さんのなんだかんだ言ってもさすがはプロとして活躍している人らしー巧みな演技も確かに良い。日本軍の思惑に翻弄された挙げ句に最後は日本に協力した裏切り者として中華民国によって処刑される悲しい女性、川島芳子になり切った野口員代さんも素晴らしかった、胸を開けてペンダントを取り出す場面、間近で上から見たかったなあ。まるで本当の少年のよーに胸ぺったんこにして白いシャツに身を包んだ一ノ瀬めぐみさんもナイス。スリットの入った黒いチャイナ服で剣舞を演じた川上史津子さん、佐川くんに食べてもらうお肉なんてないじゃない。そしてそして喋りは大声でハキハキとして、動きの方でも長崎さんを軽々と担ぎ上げては客席から袖へと運び去ったパワフルさに唸らされた三坂千絵子さん、引っ越し屋になれますよ。

 ほかにも多々ある役者たちの名演だけど、そーした名演を引き出した大元に作・演出の高取英さんがいることは自明の理。1人2役3役のキャストを暗転を利用して入れ替わらせてはしっかりと本編の大どんでんがえしに絡ませる筋立ての巧みさ、途中起こった悲劇を実にルパンらしー、それもどちらかと言えばルパン3世っぽい驚天動地の仕掛けでもってひっくり返してみせるアイディアの鮮やかさ、その直後に繰り広げられるこれまたアニメがギャグ漫画かと思わせるシーンの楽しさと、どこを見てもどれを取ってもユルんだ所がなくって、見ていて本当に興奮させられる。それでもってラストに繰り広げられるなおいっそうのどんでん返しと心にグッと来るエピローグ。嬉しさに頬がゆるむ、涙腺が熱くなる。明日の千秋楽もきっと大勢の人が詰めかけるだろー、そして叫ぶだろー、ブラボー、高取英。マジでこれ、大舞台でもいけまっせ。

 ギッシリの会場に集まって来た人のあるいは長崎萌さんファンが多数を占めていたかもしれないけれど、出てくる人たちの頑張りにオトナな女性たちのチャイナドレスからのぞく白い足、吉田恭子さんのボンデージなファッションは「ヤプー」流れっぽかったけど食い込むVゾーンにあふれ出しそうなバストなんかを目の当たりにしてきっと、今晩は眠れないくらいのオカズをもらって帰った事だろー。それより「ピーターパン」は見なかったけれど「家畜人ヤプー」の高いテンションを維持しつつ娯楽としても楽しめる舞台となった今公演「怪盗ルパン 満州・奇岩城篇」に触れて、末永い「月蝕歌劇団」のリピーターとなったことだろー。何しろ次は「ルパン」にも増して面白そーな題材「陰陽師 安倍晴明 最終決戦」だ(チラシは”清明”だけど誤植? 意識的?)。晴明ファンに増えるリピーターに昔からのマニアが集って繰り広げられるチケット争奪戦。勝たねば、決戦に。


【5月26日】 偉大なる手塚治虫さんの作品を観るのに多分今の日本でここ以上に相応しい場所はないだろー舞浜は「東京ディズニーリゾート」前にあるショッピングモール「イクスピアリ」の中の「AMC」まで行って「メトロポリス」を観る。わざわざ行った訳じゃなくってたまたま近所で開催予定のイベントがあって時間があったんで覗いたらちょーど良い時間帯だったんで観てしまってのが真相だったりするけれど、卵と鶏みたいなもので終わりよければすべて良し、眼前にシンデレラ城をのぞむ憧れのウォルト・ディズニーの世界で自分の作品が上演されるってことに手塚先生もきっと喜んでいるだろーから、後付けの理由でも正解だったってことにしておこー。最近は別にディズニーからの口をつぐんだままのリスペクトもないし(他をリスペクトしてるって話もあるけれど)。

 しかしあの初期の手塚キャラが完璧に動いているとゆーだけで観る価値があったと思ってしまった「メトロポリス」、ひょっとすると過去に山ほどある手塚さん原作のアニメ作品の中で時代の前後はあっても最も忠実に手塚キャラを動かした作品かもしれない。加えてCGを多様して作り上げた圧倒的な街並みの図像。高いビルがにょきにょきとそびえる間を透明のパイプが走り高速道路をエアカーが走り空中をホバーだかエアーだか気球だか知らないけれどとにかく飛行物体が行き交うとゆー、70年代に夢見ていた21世紀の姿がそこに描かれていて「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ」とは違った意味で懐かしい感情に囚われる。そう僕たちは21世紀になったらあんな摩天楼そびえる都市に住めると思っていたんだ、ビッグブラザーに支配されててマリアによって開放されて最後はレイチェルと禁断の地へと向かって海岸線に傾く焼けただれた鎌倉大仏を眺める未来を。

 タイトルも同じフリッツ・ラングの「メトロポリス」に街並みなんか良く似ていてラングの「メトロポリス」に登場していたロボットの美女・マリアにフォルムの似た巨大な像なんかも出てきてあるいはリスペクトな気持ちがそこに篭っている可能性なんかも考えたし、支配する階級に対して虐げられた人々が反乱を起こすとゆー物語の筋書きにも共通項が感じられたけど、手塚版、とゆーよりはむしろ脚本を担当した大友克洋さんの描くところのアニメーション「メトロポリス」は資本階級と労働者階級とゆー対立軸にもう1本、ロボットとゆー階級も入れ混ぜてあって、その代弁者として人造人間ミッチィ、じゃないティマとゆーキャラが作られ人間に対して虐げらて来たことへの大反攻を見せて戦慄させる。

 ところがティマには途中記憶を無くしたまま自分は人間かもと思うきっかけになったケンイチ少年との出会いと逃避行していた時間ってのがあって、機械である自分に目覚めた時もこの逃避行の経験がケンイチとティマ、双方の運命にに大きくモノを言うことになるんだけど、詳しくはとりあえず劇場で、あのラストはやっぱり泣きます。全体にありきたりな話でありきたりな終わり方で、個人的にはさらにありきたりにケンイチの横で甲斐甲斐しく家事なんかするティマのエプロン姿なんてものを見てみたい気がしたけれど、それほど大友さんは優しくなかったってことで。

 生まれたままの姿で登場した以上は当然全裸なティマなんだけどそーゆーシーンはほとんどなくって大半は服を着たまま。なのにあの服の中には最高峰のボディを持った体があるんだってことを想像してしまい、時折のぞく脚とか手塚アニメなのに珍しく正面を向いても崩れないティマの麗しい顔とかに気持ちが持っていかれてしまって「ターザン」のジェーンくらいしか見るべき女性の出なかったご当地ディズニーのアニメではいささか苦しかった”萌え”の感情を強く覚える。”萌え”あっての日本アニメ、その意味で場所は適地でも手塚は日本の魂を出し切ったってことになる。万歳。DVDは出たら買おう。

 音楽については賛否両論毀誉褒貶、なるほどレイ・チャールズでもあれほど陽気な曲をクライマックスに持ってこんでも、とかシンミリとしたい時にガチャガチャうるさいジャズなんて迷惑、とか決して思わないでもなかったけれど、それほど邪魔になる訳でもないし全体に薄暗いムードの漂い決してメリハリの豊富ではない作品を家族でも楽しめる作品にするって点で致し方なかったってことなのかも。欧米でもあーいった音楽の方が観客も掴みやすいだろーし。声優は忘れたけれどティマ&ケンイチはピッタリ、ロックは父思いなガキって部分にスポットを当てたかったのかニヒルさのちょっと足りない感じがちらほら、役柄から浮かぶ気分だと池田秀一なんだよなー、やっぱ世代的に。

 レッド公の石田太郎にヒゲオヤジの富田耕生さんは他にない適役、ってーか富田さんはもはや一心同体でしょー。アセチレンランプにハムエッグにヒョウタンツギまで含めた手塚式スターシステムに今なら適役の声優さん、暇な時にでも考えてみよっと。ロックは……いきなり詰まった、神谷さんだとどうだろー、塩澤さんはもう無理だし、曽我部さんだとバンコラン、ダメだ年寄り&故人ばかりになってしまう。いっそ男は全員山寺宏一さん、ってのはどーだ、大丈夫か? 大丈夫だな、きっと。でもって女性は全部林原めぐみさんで子供は全部野沢雅子さん、うんこれなら安上がりに……ならんわな。

 さて本番。そもそもがカップルとアベックと恋人たちでわんさかな土曜日の舞浜へとひとりがフラフラと出かけた理由は男ひとりだからこそ観る価値のある日本男児の今大半がその言動い注目しては密かに憧れなんかしちゃったりしている、かもしれない思想家鳥肌実さんの演説会を「東京ベイNKホール」へと聞きに行くためで、ピープルがブルーだったりするイベントとか文明がナンバー3だったりしそーなイベントとかに行ってそーな(推定)、並べると盛夏と厳冬にお台場あたりで見かける人たちとか、ゴールデンウィークに新御茶ノ水あたりでたむろってそーな人たちと案外区別のつかない(想像)、奥ゆかしくも引っ込み思案な人たちがワンサと詰めかけているのかと想像したらこれがどーした、「デザインフェスタ」に来ていたって不思議はないオシャレちゃんな女性とか、「スマート」「ゲッツオン」でも今時なのに読んでいそーな男性とかが大半で、あの危なっかしくもハイブロウな芸のどこにこーした客層を引き寄せたんだと頭を捻る。

 なるほど「噂の眞相」6月号によれば僕も行った去年夏の「日比谷野外音楽堂」でのイベントが「ニュース23」に紹介されて以降、若者層に大ブレイクしたってあるけれど、そもそもそんな若者層が頭は白いし顔は黒いけど喋りも暗いキャスターの顔なんてとても観ているとは思えないし、実を言うとそのイベントの時もすでにやっぱり似たよーなファッションを気にしてそーな男子女子が客層の大半で、遡ってその前の「日本青年館」の時でもすでに似た客層で鳥肌実はすでにして渋谷原宿系ヤング(死語)のアイドルだったりする訳で、彼ら彼女らのいったいどーゆー回路が働いて、たいしたことはないけれどそれなりな新聞読むとか参考書を読むとかいった基礎教養が必要な芸人のわざわざライブまで観に来ているんだろーかと首をひねる。それも今回はおそらく5000人も。たった1人の芸人が値段はともかくあれだけの会場を埋めたのって松本人志さんの「日本武道館」ライブくらいしかちょっと記憶にない。もっとも鳥肌さんと松本さんでは露出は天と地だし、松本さんの1度は”お代は観てのお帰り”だったし。

 加えて「日比谷野音」にしても行かなかったけど「中野サンプラザ」にしてもちょっぴりキレに不安があってウロでも出始めたのかな、ってな気持ちにさせるライブだったってこともあって、足踏みこそすれ拡大なんで出来る時期にあるとは思えなかったこの時期に、一気「NK」へとステップアップしてしまってそれも満杯にしてしまう。ブームだ何だとゆーけれど、このキャパを埋められるだけの何かがやっぱり鳥肌さんにはあるんだとゆーしか他にない。言っては悪いけれど山田花子が1人で1000人、集められますか。関係ないけど「ジュディ&マリー」ベストを山田花子が薦めて誰が買うんでしょー、花田兄に言われたって暑苦しいだけです、今が旬っぽい有名人に大挙誉めてもらえば関心持ってもらえるかも、なんてセンスずれ過ぎです、人選も手法も。閑話休題そうそう山田花子が山崎邦正でも「東京ベイNKホール」満杯はとても無理な話であって、テレビの力をほとんど借りずにそれをやってのけた人間として、やっぱり関心を持たれて当然な芸人だろー、鳥肌実さんは。

 じゃあ実際どーだったのかと言えば実は今回、ちょっと良かったかも、「日本青年館」よりも当然あんがら「日比谷野音」よりも。音楽に載ってあの巨大なアリーナ席の最後列かサーチライトの光を浴びて登場した鳥肌さん、真っ赤なスリーピースの前にも背中にも脱いだ裏地にも「ことり事務所」のマークになってる火焔渦巻き換えが枯れてあって、そんな姿で埋め尽くす観客の間を愛想振りまきながら歩く姿はもはや教祖さまか人気政治家か。そーして拍手の中をしずしずと歩いて演壇に上った鳥肌さんがまずとうとうと語りだしたエピソードが、妻の夏枝が遠く樺太で行方不明になって探していた夫の所に届いた知らせが稚内の病院に「エキノコックス」で入院している、とゆー頼り。何でも「ろすけ」のペニスに宿る寄生虫だそーで移されたってことはつまりそーゆーことで、悲嘆にくれて尋ねた病室で出会った左とん平似の男が「苫小牧宗男」とゆー何して夏江の夫、つまりは重婚だったのですと言って病院でのあれやこれやを語るパートが暫く続く。

 見ると病室にはとロシア人がいて名をセルゲイ・ドブサライノフ、夏江の担任だった男で両親をスターリンに粛正されたブリキ職人あがりの体育教師。以下夏江と体育教師の関係なんかを総括しつつ「ろすけ」批判を交えつつそれでもスルリと抜けて終わる話は、あのどくどくの絞り出すよーなドスの聞いた声とあいまってなかなかに緊迫感があって、近年聞いた話の中でもまとまり具合面白さの結構上位に来そーな気がする。このペースで「日比谷野音」みたく小道具を使ったり映像を使った展開に流れ込むのかと思ったらさにあらず、今回は80分ほどの開催時間のすべてを演壇の上に立った鳥肌さん1人が演じ切るまったくのガチンコ勝負でこれもちょっと驚いた。間を外した瞬間にそれが数秒でもスッと醒めるのが人間の気分、果たして掴みきったまま1時間何十分だかを引っ張れるのかってゆー不安がつきまとって離れなかった、「噂の眞相」なんか読むとアドリブきかないって書いてあったし。

 けれどもそーした不安をものともしないで今度は一転、陽気な成金めいた人物になって自分はロールスロイスで妻はベンツで息子はシーマに乗っていて、シェパード700匹を飼っていて国士舘大学に60人を確保して角丸(字違い)の襲撃に備えてるってなホラを吹き、自分の刈り上げをやっているのはルドルフ・ハインリッヒとゆー名のドイツ人で元ゲシュタポで97歳でA級戦犯筋金入りだと畳み掛けるナチスギャグ、信濃町から代々木へと言って国会に周り演説をして「死ねお国のために」で締めるライティーなギャグを畳み掛けては受けを取る。扇千景の悪趣味な衣装が税金で許せん宝塚出身は嘘で本当は木下サーカスの空中ブランコ乗りだったとゆーあるいはホントかも、なんて思ってしまう(思いません、思いたいけど)毒を吐き、内閣にマントヒヒがいると言って眞紀子を茶化す。

 辻本清美はグリーンピースのピースボートでボートピープルで偽善活動をしていて鯨が好物の潮吹きだと、これも勿論ギャグだと分かるけれども辻本清美さんがピースボート上がりだったと知っていて初めて楽しめるギャグなんかも織りまぜるあたりが鳥肌的。もっとも多くはもっと簡単に信濃町代々木が絡めば笑うし(それもそれで結構なものだけど)「少年犯罪は死刑」とゆー暴言で大笑いしてしまうあたりが単なる気のディファレントなおっさんを演じてるんだと思った人たちに、男子は自虐的で女子は加虐的なニュアンスでもって受けているだけなのかも、なんてことも考えてしまう。「日本青年館」で見た時の第二次世界大戦に関わった将軍やら指導者やらを使ったギャグなんて、ホント知ってる人しか分からなかったからなー。

 このままだと「コント・ニュースペーパー」ともちょっと違う時事ズラし芸人として「ワイドショー」の幕間に消費されそーな懸念なんかもあるけれど、それでもラストまでを場内のテンションを上げ切ったまんま(「日比谷野音」は辛かったからなー、引き際も含めて)ラストまでを持っていった腕前はやっぱり流石。再びアリーナ席の後ろへと消えていってアンコールもなく終わる展開でも、誰もブーイングをしなかったところを見ると満足だったんだろー。ともあれ「大成功」だったと言って良い今回の「玉砕」に続く九州セッションに大阪の「神風」を経て、東京へと戻るだろー鳥肌さんが次に狙うのはもはや「日本武道館」しかあり得ない、あるいは「東京ドーム」とか。数で倍はいく人々を相手にこのテンションを保てるネタが出来オーラが身を包むだろーとこを願って、今は行く末を応援しつつ見守ろー。けどあのスーツ本当に君島一郎デザイン?


【5月25日】 誰だこれ、と100人が100人思うだろー「文藝賞受賞直後」ってキャプションの振られたどこかイタリアン・レストランの看板を背に座っている人物がどーしても今のふっくらまるまるとした田中康夫さんに重ならず目をパチクリ。その横のたぶん1年くらい前の撮影になるんだろーか「日本興業銀行内定」って写真にはほのかに今の康夫ちゃんらしさが滲んでいるから単に角度の問題かもしれないけれど、もともと目鼻立ちのしっかりした顔の頬なんかこけて影が入った表情を見るにつけ、頑張ってこのままを通していたら今頃は島田雅彦さんと並び称される文壇の二枚目としてブロマイドの売上1位2位を競っていたかもしれない。文士のブロマイドがあるかどーかは知らないけれど。

 そんな写真が「KAWADE夢ムック 田中康夫」(河出書房新社、1143円)に掲載されているのも「文藝賞」で田中さんを世に出した出版社だからなんだけど、ロングインタビューやら昔のインタビューやら「ファディッシュ考現学」に掲載されたジャーナリスティックな文章やら文学論やらをギッチリ集めて1冊にまとめてみせた腕前はさすがなもので、単なる身内意識に留まらず、今いったい何が求められているのかを的確に判断して企画し編集して出版した編集者の勝利って気がする。多分もう亡くなられた元「朝日ジャーナル」編集長の伊藤正孝さんが「ファディッシュ考現学2」の解説用に書いた、徹底して権威を衝きその虚飾を剥ぎ落とし、ジャーナリズムがシステムに中に傲慢さを組み込んでいくことを指摘した田中さんの筆致に鋭さに関する文章は、今なお同じ態度であり続けている田中さんの実態を的確に掴んだ一文。ジャーナリズムの側にこーゆー勘性鋭き人がいた時代も今は遠い昔、なのか。人気批評家を斬りまくって話題になった「噂の眞相談」収録の浅田彰さん中森明夫さんとの対談も収録されているんで買い逃していた人はどーぞ。

 12時間睡眠。夢に出てきたあれは山形さんか? もしかして遠いお空の星になったとか。何とかかんとか体調もどーにか元通りになったんでノタノタと出勤。途中に岡田斗司夫さんと山本宏さんがホストになってオタクな人たちと対談をする「ヨイコ」(音楽専科社、1500円)を買って読んで笑い転げて気持ちも一気に快方へと向かう。「史上最強のオタク座談会」から忙しいのか差し障りがあるのか田中公平さんが抜けた後を2人&ゲストで続けよーとした座談会だけど、来る人来る人とにかく田中さんに優るとも劣らないディープ過ぎる人ばかりだから、出てくる話も裏から奥から業界のことを暴露しまくっていてすさまじい。帯の「さらに過激になって帰って来た」って文言もまんざらどころか大当たり。連載の方は読んでないけどこれで続いているとしたらアニメ業界もよほど心が広いってことなのかも、もっとも”虫プロ倒産の元凶”だなんて揶揄られている人は読めない場所にいたりするけど。

 冒頭に登場は「アニメック」元編集長の小牧雅伸さん。「メージュ」読まずに「メック」買ってた人間にとっては神様みたいな人で「ミンキーモモ」については一家言お持ちらしく岡田さんが嘆き入れながら「作画のいい悪いじゃなくて、俺の周りにいるヤツは、こんな小さい女の子がパンチラちらちら、変身ぴゃかぴゃか…」と言うと即座に「いや、『ミンキーモモ』はいい…!」と断言。加えてさらに「今、腹立つのがさ、あとの『マリンナーサ』を一緒の「モモ」って言うヤツがいるじゃない!?一緒にしてくれるな! と思うけどね」と細かいけれど重要な指摘。「ガンダム」には熱い人だと聞いてはいたけど「モモ」にも熱かったなあってことを今さらながらに知る。対するに岡田さんは「SF研とかで話てて、こいつの脳味噌が正常かどうかを判断する方法としてやってたなあ。「『ミンキーモモ』好き?」「好き!」って答えたら、こいつはメインスタッフには使わないとか(笑)」。僕はたぶんメインスタッフにはなれなかっただろー。

 金がなくなったガイナックスが「ワンダーフェスティバル」で「トップをねらえ」のセル売って急場をしのいだた庵野秀明さんが怒ったエピソードとか、今はどーだか知らないけれど「SF大会」の会員証を巧く偽造して夜中のホテルの企画に潜り込むのは”暗黙の了解”になっている話とかいろいろ。けど業界的には超メジャーでも後に大槻ケンヂさんとか大地丙太郎さんとの対談なんかを控えて小牧さんを企画の冒頭に持って来たってあたりがやっぱり、濃さと過激さを追究死まくった企画だけのことはある。登場はあとタツノコでメカ・デザイナーをやっている柿沼秀樹さんって人。「ガッチャマン」話に始まって特撮系の濃い話満載で楽しめる。231ページ「ジェダイの逆襲」ってのはこのシリーズにお約束の言葉のはずみって奴か。そんなユルさも含めて圧倒的な知識と話芸で押しまくる「ヨイコ」を読もうよい子たち。テストには絶対出ないけど。

 派手でカッコ良くって楽しくはあったんだけど、チープな通信環境には重くってガチャガチャと動いて見づらくってどこにどんなページがあるのか探しにくかった「インターネット博覧会」こと「インパク」のトップページが知らない間にリニューアルされていて吃驚。もっともこんな程度のことですら吃驚しなきゃいけないくらいに「インパク」のことが世間に伝わってないって状況が一方にはあったりする訳で、森前総理がテレビのCMに登場しては「面白いですよ」と面白くなさそーに伝えて世間の耳目を集める中スタートした「インパク」も、すでにして“前世紀の遺物”化している雰囲気が漂っている。つまりは注目されたのは開幕した2000年大晦日だけだった、ってことか。モロ前世紀の。

 それでも動き始めたらとまらないのがお上のやる事。もちろん総理が変わったからといってITが国にとって重要事項でネットワークのインフラ整備もコンテンツの充実も日本が世界にITの分野で互していく上で大切なファクターになっている以上は、「インパク」を続けること自体にさしあたっての異論はない、金もダムに比べるとかからないし。とはいえ1970年のこんにちわby三波春夫の「EXPO’70」だったら評判が評判を呼んでインフレスパイラルに来場者数を増やしたところが、無関心が無関心を読んで大手のメディアもネットワーカーも忘れ去ってしまうデフレスパイラルの中、広大だわby草薙素子のネットの海に沈没しかかっているのが実状。それなりな時間にネットを漂っていても、「インパク」絡みのネタに出会うことなんて滅多にない。行き先も行き先だけど。

 問題はここからどーやって再び耳目を集めるよーな存在にしていくかってことなんだろーけれど、トップページのリニューアルすらネット上で評判にならずリリースを巻いてよーやく知られるくらいネットの情報網から隔絶されている観があって道はちょい厳しい。せめてリニューアルを機会にもうちょっと、ネットの口コミがドライブするよーな話題を振りまいてポジティブネガティブ含めて耳目を集める存在にならないと、せっかく参加してくれたパビリオンなんかにも悪いよーな気がしないでもない。「えここ」に迫るインパクトをもしかしたら持っているかもしれないエコ乃ちゃんのネットアイドル化だって……ちょっと無理か。まあともかくも一新されて近く第一四半期のそれなりなアクセスを稼いだサイトを表彰するイベントもあるみたいだし、その辺から再びな情報の浸透と拡散を果たしていけば巻き返せる可能性もゼロじゃない、ないと思う、ないんじゃないかな。覚悟しときます。


【5月24日】 体調いまいち。風邪が抜け切ってない時は1日に20時間でも寝て頭をカラッポにするのが良いだんけれど珍しく朝っぱらから発表会があるんでいそいそと支度して出かける。「週刊文春」。この雑誌の読者ってどれだけ二谷友里絵さんのことが気になるんだろう。自分のところで出した本だからうじゃらうじゃらとコメントを付けてプッシュしたい気も分からないでもないけれど、およそ大半の男性読者ってその美貌には憧れても主張しまくる人はちょっと苦手に思ってしまう感じがあって、あんまり真正面から持ち上げてもかえってさらになおいっそうの反発くらいそーな気もするんだけど。田中康夫長野県知事の「脱・記者クラブ宣言」はしっかりとフォロー、まあ真っ当な反応だけど、中央のメディアがほとんど無視している状態で鎌倉市のその後みたく埋没させられやしないかと心配。つたわってこその情報なんだから。週刊誌のフォローになお期待。

 到着した全日空ホテルでアスキーがブロードバンドネットワークにゲームコンテンツを供給していくって話を聞く。一昨日見たばかりの鈴木憲一社長はやっぱり色のシャツだった、前が青で今回はピンク? うっすらと伸ばした髭が何ともアヤしいです。とはいえコンテンツを供給する先のプロバイダーにはアスキーに元いてセガからアットホームジャパンに移った廣瀬禎彦社長もいて、たぶん麻かなにかのシャツにジャケットもあれはリネンかな、眼鏡はいつもの上下に2つづつレンズのついた4つ玉で、日本のミドルのそれもビジネスシーンにはなかなかいないファッションを見せてくれていて面白い。凝りたいもんだけど算盤はじくと夏のボーナス飛びそうだし、先週に買った「999・9」の眼鏡のローンも残っているんで躊躇、仕事入らないしなー。

 ミドルのファッションと言えば直後に同じホテルで開催された「コンピュータ・エンターテインメントソフトウェア協会」の総会後の懇親会に来賓として登場した経済産業省の岸本周平課長。なんだかどっかから”中年になって頑張って英語を勉強しました本”を出していた人で当然ながら在外勤務の経験もあるだけに官僚にしてはなかなかなファッション、細身で長身なだけに何を着ても似合うんだけど、ただちょっと3つボタンの割とダボっとしたラインは細身にはどこかスモックでも着せられているよーな印象も受ける、ワイドスプレッドのシャツにシングルノットは主義だとしてもちょっと弱いし。テーラードのもっとラインにフィットしたのなんか着せたら似合いそう。連れて歩いてた「ゲーム産業係」なんて聞くも素晴らしい部署の人の顔とか見ると30前後って雰囲気があって、記憶力抜群なエスタブリッシュな方々の飛び魚のよーな出世ぶりを痛感する。ゲーム世代っぽいけどでも、ゲームなんかやってて上れる地位でもないし、どんな仕事ぶりなんだろ、まずはファミコン1000本ノックか。

 飛び出して南北線なんて便利な線で白金高輪まで行って戻って三田にある「CMデータバンク」で2000年度の視聴者にちゃんと届いているかどーかを重要視したCMのランキング発表会を見る。クリエイティブな人が審査する賞だと面白さとかが美しさなんかが前面に出てしまいがちなんだけど、ここん家はたぶん普通の視聴者なんかを組織して、商品が伝わったかどうかまでも含めて調べているんで、スポンサーにとってはクリエイティブな自己満足じゃない、伝えるメディアとしての意味もしっかりと果たしているかどーかが分かる調査、ってことになるんだろー、でも見ている人だって最近はオール評論家みたいなもんだし、商品内容よりもやっぱり見た目の面白さストーリーの楽しさで判断しちゃいそーな気も。そのあたりをどれくらい送り手作り手受け手が意識して、結果どーゆーCMが生まれて着ているのか気になるところ。

 欲を言うなら面白くってアイドルも見られて中味もちゃんと伝わるってのが望ましく、なるほど上位に入ったCMは例えばサッポロの「黒ラベル」のビーチ焼き肉争奪戦にしても、サントリーの「ボスジャン」おーれんじ編にしてもエニックス「ドラゴンクエスト」香取慎吾はどこ行った編にしても、見て楽しく眺めて嬉しくしっかりと何を売ってるのかがちゃんと分かる。NTT東日本の「お下げします」もお下げで値下げがあの短いCMでしっかりすり込まれているし、岸辺一徳VS木村拓哉の富士通「FMV」だってパソコンのCMだ、ってくらいは分かる。やっぱCM作る人ってちゃんと考えているんだなー。それにしてもなSMAP一味の圧倒的な人気ぶり。グループでは当然1位だし、男子でも全員が上位に食い込んでいる。女性はグループだと「モーニング娘。」なんだけど、個人になると人気がバラけて記憶だと30位くらいまでに7人(含む中澤)しか入ってない。入らなかった3人は次のカット候補? 加護が入って辻が入らなかったってのはきっと区別がつかないからだと思うぞ。


【5月23日】 メディアの影響力を如実に感じながら日々キャスターとしての生活を送っている久米宏さんが、メディアのやっている欺瞞に気づかないはずはなく、それでもこれまでだとそーゆー裏側には触れずにあくまでも正義を気取って権力を相手に切り結んで来たけれど、「ダイオキシン報道」が引き起こした問題とか「脱・記者クラブ宣言」の呼び起こした波紋とかが身に染みて来ているんだろーか、世間がハンセン病訴訟に関する小泉首相の決断とそもそもの政府の無策にばかりスポットを当てて報道する中で、ひとり「ニュースステーションがハンセン病を伝えたのは97年が最初。もっと早く問題に触れられなかったのか」といったコメントを出していて、55年当たりにはすでに伝染性に疑問が投げかけられていたハンセン病への対応が、日本では遅れに遅れたことにメディアとしてどして切り込めなかったのかと悔やんでいる。

 それもポーズと思って思えないこともないけれど、反省あっての善処なり発展がある訳で、気づかないまま通り過ぎたメディアが同じ過ちを繰り返さないとも限らない中で、自身の過失に対する想像力を働かせるきっかけを与えた意味はやっぱり大きいと思う。願わくば杞憂どおりに単なる口先だけの免罪符にはせず、判決が出てからこれまでの報道の中で政府が控訴を断念するよーメディアがプレッシャーをかけ続けたんだ、ってな自慢にも留まらず、政府や国会と同様に不作為の”罪”を重ねて来た反省を次に活かして、今なお起こっている問題を顕在化させて、人々の注意を喚起してやってもらいたい。ただ顕在化していないからこそ見逃されているのも事実で、そこに気づくための努力なり情報収集を頑張ってやって欲しいしこちらとしても頑張りたい。まずはとやっぱり個人情報保護法案か。

 銃とか扱える文明を持ちながらも96%とゆー樹海の圧力に脅えて暮らす人類、って設定のリアリティにちょっとばかり悩んでしまった伊東京一さんの「バイオーム 深緑の魔女」(エンターブレイン、640円)だったけど、同じ「第2回ファミ通エンタテインメント大賞」の「ドラマ企画部門最優秀賞」を獲得したらしー原案を小説化した堀川しんらさんの「プラントハンター蘭」(エンターブレイン、640円)が持ち出して来た地表の植物の99・999%が多国籍企業によって遺伝子改造を施されたものだ、なんて設定にくらべれば真実味はずっと高いかも。いくら植物を支配すれば世界を支配できるっていっても、人間が呼吸に必要な酸素を生み出したり窒素を固定したりってな地球が地球であり人間が人間でいられる環境を作り出す植物までをも支配に入れる、それも広大な世界の遍在する圧倒的な自然にくらべればちっぽけな人間程度が支配するなんてことが出来るとはちょっと思えないし、そもそもが自然をちょっと弄んだだけでとんでもないことになるんだってことを人間が知らないはずがない。もしも知らないんだったら「BIOME」を読め。

 そーしたシチュエーションへの疑問をとりあえず棚上げして考えるなら、穀物メジャーをさらに押し広げた権力組織としての植物会社を想定したアイディアは面白いし、そーした組織と戦う美少女変身ヒーローってのもお約束ながら読んで楽しい。その美少女変身ヒーローに助けられて、一味に荷担することになる何だか事件めいた原因によって天才になってしまった少年とゆー存在のシリアスな立場も興味深いし何より美少女たちがバイオな知識を駆使して戦う場面の奇妙さは「BIOME」の生態学を駆使してのライカとゆー少女のバトルを双璧を成すだろー。

 とはいえ世界をそれこそ99・999%の植物を握ることで圧倒的に支配している勢力に、普段は学校に通いながらご飯も食べるし呼吸だでしているのにピンチがあると変身して戦う少女ってお釈迦様の手の上で独りよがる孫悟空より不思議な存在って気もしないでもないんで、やっぱり読んでちょっと眉間に皺がよる、それも深めの縦皺が。まあとりあえず綺麗なお兄さんの敵ってのも出てきたし高慢知己な美少女のライバルってのも出てきてくんずほぐれつのバトルを見せてくれそーなんで、パンツがキーポイントなMがんぢーって人のイラストともどもとりあえずはちゃんと次が出る時を待って判断しよー。でも続編出すなら「BIOME」の方が先。それより同じ「エンタメ」出の「闇色の戦天使」の後はどーなった、って聞くのはマズいのか?。「TVチョップ」より売れると思うけど。

 「猿楽町」と言われて思い出すのは千代田区神田神保町のそばにある方だけど、それだけじゃないってことは随分と昔に仕事で夜回りなんかをした時に、該当する人が住んでいたのが渋谷にある方の「猿楽町」だった関係で知っていて、その後も散歩がてら何度か歩いたことがあったんで小林恭二さんが「モンスターフルーツの熟れる時」(新潮社、1400円)で描いた「猿楽町」のイメージも、明治大学を上にのぞんだ書店街に近い町ってんじゃなく、スタイリッシュな建物が並びスタイリッシュな人々が歩くスタイリッシュな街ってイメージで読むことが出来た。まあ買い物をするにしても住むにしても縁は神保町の方に比べてとてつもなく薄いけど。

 不思議な小説で、最初の「君枝」って短編だと貧相な姿態を持っていた少女が頭こそアッパラながも肉体だけは熟れ顔も美しくなって次々に男たちと体を重ねて妊娠しては子を産み落として行って、街中に親族による売春ネットワークを作ってしまうってエピソードが描かれていて、主人公らしい「わたし」はそんな顛末を君枝も自分も子供だった頃から全部見ている。でもって次の「友子」って短編だと、学生時代の知り合いだった女性と代官山で再開して、見ると昔の面影がなく絶世の美女となっていて、誘われてついていくと同じよーな絶世の美男美女たちが彼女を取りまいて崇拝している場面に出会う。

 美男美女になれる秘密を求める人たちで代官山は大騒ぎになるけれど間もなく集結して、次も同じよーな不思議な女と主人公「わたし」との関わりが描かれるんだろーか、と思っていたら何やら様子は変わって来て、「わたし」自身が物語の中心へと祭り上げられていくプロセスが描かれて、どこに連れて行かれるんだろーかと戸惑う。有り触れた日常が人心の掌握によって変化して暴力と喧噪に溢れたものになっていく空恐ろしさが感じられ、無垢な子供の残酷だけれど真っ直ぐな気持ちのすさまじさが感じられて、「君枝」の巻き起こした混乱も「友子」が招いた喧噪も超えた、「わたし」の引き起こす災厄への予感に戦慄が走る。

 「猿楽町サーガ」という名で発表された各章を改めたらしーけど、そう聞くと「君枝」「友子」がそれぞれに独立し、「千原」と「わたし」が連続しているよーに感じた展開も、「猿楽町」とゆー町をめぐる諸相が結果として「わたし」へと収斂していく闇の英雄誕生物語の前段と本編みたいな関係だったったのかもと思えて来る。「ゼウスガーデン衰亡史」の時から感じられた事件を後年になって振り返って位置付けてみせる描写の方法は今回もあって、饒舌にして壮大な物語になるんだろーかと思ったけれどページもページなんでとりあえずは渋谷1つを征服するチンケと言えばチンケな枠に留まっている。けどチンケだからこそ卑近だからこそ見えてくる醜悪さってのもあって、その程度の欲望でも満足してしまいそーな俗物な自分をそこに投影させて歪んだ笑いが浮かんで来る。やっぱり不思議な小説。街の今に重ね合わせて読みたくなって来た。週末に猿楽町、歩いて来よーかなー。


【5月22日】 50歳で社長になった人が63歳になって61歳の人に社長を譲って代表権のある会長に就任することを言葉に敏感なジャーナリストなら多分「若返り」とは言わないだろーけど、それでも業界を見渡してみるとまだまだ全然若かったりするから良しとしておくしかないんだろーなー、お台場目ん玉放送局。記事だけだと西洋的に言うところのCEOがどっちに付いているのか分からないけど、社長から会長になってもやっぱりCEOは自分でもってグループ全体を見通す代表者として君臨し続ける人がいる一方で、昔だったら代表者と目されて相応しい社長の立場に就いてはいながらも内実はエレクトロニクス事業本部長的な立場でしかない人が出ているイッツ・アなソニーの例もあるから、やっぱりこれまでの顔は顔として、業績厳しい大手町に陣取る元会長な議長を遠目にお台場からギョロギョロとその目を輝かしては、いーかげん歳な麹町のなんだろう放送局の社長から4冠の覇権を取り戻すべく、大号令をかけ続けるんだろー。まあ実もある人だし仕方ない、それに引き替え……じっと手を見る。

 えっ終わりなの? と思ってしまった桑田乃梨子さんの「真夜中猫王子」(白泉社)第2巻。クーデターによって別の次元にある国を追放されてあまつさえ昼間は縫いぐるみで夜も着ぐるみの猫に変えられてしまった王子が、家来ともども少女の部屋へと居候していつか猫になる日まで、じゃないすでに猫なんだからいつか国へと帰る日を夢見て魔法をかけた当の魔法使いまでをも引き入れたところからスタートする第2巻。間抜けにも魔法をかけた後で自分まで縫いぐるみになって肉球付きの手になってしまった魔女に代わって魔法を覚えて王子たちを人間に戻そーと頑張る澄ちゃんの前に現れた敵の追手が登場したけど、のぽぽんが信条な桑田漫画の悪役だけあってやっぱりのぽぽんとしていて激しいバトルがある訳でなし相剋のドラマがある訳でもなし、のぽぽんとした展開の中で1つの恋を成就させてもう1つの恋を確認して、幸せの余韻を残しつつ鮮やかな結末を見せてくれる。たったの2巻で終わってしまったのはちょっと残念だけど長引かせても人間ドラマが深刻になるばかりだろーからこれで良かったってことで。誰か作らないかな真夜中猫王子猫バージョンの縫いぐるみ。

 「女らしい事ができないからと彼氏に振られた玲央。家事オンチを克服し彼とやり直したい一心で『家庭部』に飛び込むが、そこは男子部員ばかりの厳しいクラブだった」とゆー裏表紙のあらすじ紹介が、学園物クラブ物根性物にありがちな割には「家庭部」とゆー所にいる男子って設定が気になって買ってみたサカモトミクさんの「ナデシコクラブ」(白泉社、390円)は、あらすじのまんまに家庭部に入った女の子が美形なんだけど料理なり掃除洗濯なり裁縫なり礼儀作法といった各分野にエキスパートな男子学生の助けを借りて欠点を克服していくとゆーストーリーで、王子様たちに囲まれ厳しいけれども欠点を克服していく女の子の前向きなスタンスを読んで、なるほどコミックスを手に取る対象になる女の子たちなら自分のことのよーに嬉しがれるんだろーなー、なんてことを考える、家事を克服したいかって部分はともかくとして。2話目移行の玲央の目的が見えにくくなってはいるけれど、自分を認めてくれる仲間たちってのがいる喜びを味わえる物語として楽しめる部分がきっと受けているんだろー。漢字で「いりなか」って名字の人が出ているあたりから類推するに名古屋に関わりのある漫画家さんぽい。まさか玲央に「甘口抹茶小倉スパ」とか作らせないだろーなー。

 秘書室の若山さん萌えーっ、と思った人が全国に100万人いたって全然不思議はないだろー「コミックバンチ」の第2号からスタートしたこせきこうじさんの「現在大無職 再就職活動中 山下たろーくん」第1話。もはや何年前になるのかすら定かじゃない遠い昔に甲子園で優勝したものの肩をこわして野球をやめて就職した会社もリストラになってそのまま不採用27連敗。落ち込みつつも持ち前の愛敬からか小学生たちに給食の残りを分けてもらって糊口をしのいでいたたろーが、見物していた草野球になぜか飛び込んでしまった所からはじまる新しい物語が、さてはていったい野球と関係したものになるのか、それとも持ち前の直球ぶりを発揮したサラリーマンばく進物になるのかは分からないけれど、頑張って頑張って頑張り抜いた果てに手にする成果の素晴らしさ、ってあたりの描き方は読んでいて気持ちにズドンと響いてジンワリと涙が滲んでくる。山沼の近藤と鞠子のエピソード、あの絵なのにってゆーかあの絵だからこそもう泣けて泣けて。それが若山さん萌えーっ、とどう関係があるかと言えば関係は全然ないんだけれど、草野球をやってたチームでマネジャーっぽく活躍していた女の子のコールドスプレーをかけたりねんざの箇所を握ったりする仕草とか、たろーに話しかけたり笑ったりする表情とかが妙に気になって気に入ってしまったのです。ユニフォームじゃないスーツ姿が期待できそーな来週の発売が待ち遠しい。


【5月21日】 吉野朔実さんの「プチフラワー」やら「ヤング・ユー」やら「コミック・アンアン」やらに発表されて来た短編がまとまった「栗林かなえの犯罪」は、相変わらずの奥深さ面白さ、ではあるもののベストなタイミングでベストな話をたくさん読み込んでしまったせいなのか、読んでいてどこかこちらの気持ちに1枚セロファンか色紙か何かが挟み込まれているらしく、気持ちへと響く直前で妙に冷静になってしまってちょっと悩む。描かれるシチュエーションで奏でられる旋律の吉野朔実さん的な鮮やかさに感心は出来るけれど、出てくる人々のどこか操られ人形っぽい言葉や行動に、いつかどこかで見た場景を思い出しててしまって感動ができない。それは吉野さんに責任がある訳では決してなくって、吉野さんが作品の対象にしている世代なり層からズレてしまったこちらの感情面の融通の利かなさでもあって、だからこそ世代とか無関係に楽しめてしまうファンタジーとかSFとかギャグとかに、読む対象がどんどんと絞り込まれていってしまうんだろう、あとスポコン物とか、努力と友情が勝利するみたいな。

 あるいは短編だからってこともあるんだろーか、シチュエーションの面白さで見せることが第一義になってしまう関係でキャラクターの心底からの気持ちってのが爆発する以前で寸止めされてしまっているように感じてしまうのも、戸惑いの原因かもしれない。携帯電話を拾った家出中なのかフリーターなのか分からない女の子が、飛び降り自殺しよーとしていた男の子と出会って万引きして寝転がって1日を過ごして、けれども何も得られなかったとゆー1日を描いた「誰もいない野原で」は、そーゆー空虚なんだけれど確実に存在した1日が積み重なった果てにある何かをカンジさせてくれる話で面白い。けど女の子も男の子も何を考え何が目的なのかがてんで見えず、今時な現実の若い人たちの妙にとらえどころの無さなんかも重なって、不気味な感じさえ受ける。同類にはなんにもない日常を生きている実感を与えつつ、年輩にはそんな不気味さを感じさせる凄い漫画ではあるけれど、それを積極的に肯定できるだけのゆとりがこちらに無くって受け止めきれない。

 「ピンホール・ケイブ 天然の天窓」の同棲なのか結婚しているのかは分からないけど2人暮らしの男女が、倦怠期なのか気持ちが醒めたのかケンカばかりしているシチュエーションがやがて本格的な修羅場へとなって、それでもだんだんと収斂されていく展開の演劇を見ているよーな印象には感銘を受ける。もっとも犬も喰わない夫婦喧嘩の修羅場を犬以下な当方が喰えるはずもないってのが実際のところで、暴力を振るいまくる女性のすさまじさを笑えても良さはなかなかに分からない。表題作にいたっては、前半と後半でメインとなるキャラクターが変わってしまう上にどちらにも気持ちを入れにくいとゆー難しさ。もてもてな会社員と水族館の謎めいた美女のどちらかにスポットを当てるなり、主導権の受け渡しをしっかりとやってくれていたらなあ、なんてことをこちらの理解不足を棚上げして思ってしまう。前半を飛ばして婆ちゃんの「女」を最後に打ち出し人間の「業」を気づかせよーとする話だったらもっと入り込めたよーな気がする。

 田舎から突然出てきた不思議な少女に自分の立場が脅かされた少女が頑張る「プライベート・ウィルス」がシチュエーション的にも情動的にも分かりやすさで1番、これは主役が比奈って少女に集中していて、その分カメって少女の健気さといたいけさも浮かび上がって来ているし、間で無神経な言動を取り続ける海って男の脳天気ぶりも明確になって、三角関係のバランスが良く出ているってことがあるんだろー。もっともこれが1番分かってしまって他のがよく分からないってことは、複雑化する世の中の人間関係についていけなくなってるってことなのかも。密な関係を厭っているのかかかわり合いになることから逃げているのか、外に出ず誰とも会わずデートなんてしたくともできず宴会にだって滅多にいかず会合に出ても会話すらせずひとりポツねんと背後霊をしているデス・コミュニケーションな人間のままでいては、吉野さんの漫画は理解できないってことなのか。うーんそれも哀しいんで頑張って人間関係を取り繕うよーにしよー、まずは人にあったら挨拶からだ。

「ピンホール・ケイブ 天然の天窓」に出てくる女性は同居している男性をグーで殴るし足蹴にするしと暴れ放題なんだけど、諍いの中で自分の正当性を示そうとするふるまいだったりするから事情は分からないでもない。対して梶原千遠さんて臨床審理士の人が書いた「快楽」(文藝春秋、1524円)によると、世の中には好きな相手であるにも関わらず、気持ちとは裏腹に暴力が出てしまうって女性がいるらしく、そのことで悩んで梶原さんの所に相談に来たらしー。大事にされていることを確かめたいがために関係を壊して試してるってことらしく、買い物に付き合ってと言われて「暇はない」と答えてしまい「これ以上時間を浪費しなくちゃならんのか」とまで言ってしまう、その表面的な意味とは裏腹な気持ちの強さは何となく分からないでもない。そーした相手に付き合って、殴られ蹴られ脚にヒビまで入れられてしまう男ってのも何だけど、ともあれ人間の「快楽」を求めて止まない心理には、一筋縄ではいかないものがあるってことで。勉強しなきゃ。

 まさかしかしそう来るとは。先週の火曜日に長野県知事の田中康夫さんが行った「脱・記者クラブ宣言」を、一方の当事者ともいえる新聞社とかいったメディアがそれほど大きく扱わなかったことに疑問を抱きつつも、本家筋じゃない週刊誌だったらもうちょっと違った視点で叩くなり褒めそやすなり眉をひそめるなりしてくれるだろー、とりわけ田中知事イジメに一所懸命な築地の新聞社の所の週刊誌だったら、新聞のよーな「権力による報道の排除は云々」なんて通り一遍なロジックじゃなく、表から裏から”ムソリーニ田中”の不埒な悪行三昧を暴き倒してくれるなんて期待していたらこれがどうしたことか。「週刊朝日」も「AERA」も「脱・記者クラブ宣言」についてはまるで無視。なおかつ「元週刊読売」こと「ヨミウリ・ウィークリー」も「サンデー毎日」も、新聞社系の週刊誌全てが「脱・記者クラブ宣言」なんて一切なかったかのよーな無視ぶりで、相も変わらず田中は田中でも田中眞紀子外務大臣を取り巻く言った言わない的な下らない揚げ足取りやら大臣vs官僚のそれがどーした的ニュースばかりを報じてる。

 もろちんニュースとして価値がないから報じなかった、とゆー言い方だって出来るだろーけれど、環境を愛で公共投資の無茶苦茶ぶりを非難してばかりのマスメディアだったら讃えて当然の「脱ダム宣言」のよーな行動ですら、その手続き面の不備をあげつらって”強権的だ”の”ヒトラーだ”のと批判しまくる以上はだ、常駐する記者の目が届かなくなって田中知事の強権ぶりがなおいっそう発揮される可能性を高めてしまうよーな「脱・記者クラブ宣言」は、「脱ダム宣言」のそれこそ10倍のスペースを割いて徹底的に批判したって不思議じゃない。あるいは戦前戦中の翼賛体制下に導入された制度や主義のすべてを、「非民主的」だとか「国粋主義的」だとか言って非難し排除しまくるリベラルで民主的なマスメディアが、権力側の情報統制を実現したい役所の意向を汲んで作られた「記者クラブ」制度なるものに、おそらくは戦後初めて果敢に挑戦した田中知事の行動を、最大級の賛辞でもって伝えずにいられるはずがない。にも関わらずの一切無視とゆー状況を、さてはて一体どーゆー風にとらえたら良いものか。出版社系は「週刊現代」「週刊ポスト」とも取り上げていて特に「ポスト」は「記者の人たち、タマついてんの」なんて挑発的な言葉なんかもヤスオちゃんから投げられていて、果たして来週もダマったまんまで居られるか。乞うご期待、けど無理かなあ。


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