縮刷版2001年4月上旬号


【4月10日】 猫に引かれてベルリン詣で。ってのが概略で説明するところの奥泉光さんの新刊「鳥類学者のファンタジア」(集英社、2300円)のあらすじだけど、もうちょっと親切に言うなら至高の音楽を巡る時空を超えた旅ってことになるんだろーか。ジャズ・ピアニストの池永希梨子ことフォギーが田舎の土蔵にあったオルゴールの音とパパゲーノって名前の光る猫に導かれて着いた先は何と1944年のナチスドイツが支配しつつも連合軍がジリジリと迫って来ている第二次大戦末期のベルリン。そこで出会ったのがドイツ留学中に行方不明になったとゆー音楽家だった祖母の霧子で、戻る方法も分からないままベルリンに留まって何やら謎めいた音楽の久々の演奏が行われる場へと連れて行かれる。

 宇宙の秘密に近ける音楽ってな感じで音楽の神秘性が延々と語られる一方で、現代の東京や山形と過去のベルリンやニューヨークをつなぐ光る猫の神秘性なんかも語られていて、そういえば昔に奥泉さんが書いた「『我が輩は猫である』殺人事件」にも人間とは時空の仕切り方が異なる猫の不思議性なんかが描かれていたなあ、とか思っていたら作中にもその「『我が輩は猫である』殺人事件」のことが登場してちょっと吃驚、ひょっとして読者サービスなのかな。エンディングに近づくに連れて音楽がもたらす至高の体験なんかが再びクローズアップされるよーになって、ズラリ居並ぶジャズの御大たちに交じって主人公のフォギーが一発かます場面なんか、音楽をやっている人なら羨ましく、そーでない人でも音楽の素晴らしさが感じられて心がうきうきとして来る。

 「葦と百合」とか「石の来歴」あたりの純文学な作品から一転して「『我が輩は猫である』殺人事件」あたりからメリメリと出て来て「グランド・ミステリー」で爆発した物語師としての腕前も、さらに磨きがかかってギャグっぽい比喩やら描写やらをあちらこちらに散りばめながら、軽妙に、けれども敬虔に深淵なる宇宙を形作る音楽の神秘を読む人に垣間見せてくれる。ヒロインとは言いながらもすでに歳は30半ばで可愛さよりは強さが目立つフォギーはもとより、フォギーとは別に1944年のベルリンへと跳ばされてしまうフォギーの教え子の佐和子ちゃんの物怖じしなさぶりとか、現代でフォギーの祖母について書こうとしていたルポライターの加藤さんって女性の訥々としながらもどこか謎めいた雰囲気とか、登場するキャラクターのキャラ立ちぶりも結構な長さを読ませて読者に飽きさせない要因かも。そして何より音楽がもたらす体験の素晴らしさが読み終えて心に解放感を与えてくれる。ジャズ、ちょっとかじってみたくなって来たなあ。

 「山形道場」特別編は場所を東京・霞ヶ関は東京地方裁判所第611号法廷へと移して日本の民事裁判のお勉強。「文化」をめぐる裁判とは言え表現の自由とプライバシーとの関係に司法が絡んで話題沸騰の柳美里さんの裁判と比べると、世間的な注目度って意味ではちょっと低いものがあるから、傍聴の人もいったいどれくらい果たして集まるんだろーかと思っていたけど、例の「オルタカルチャー」を発端とした原告小谷真理さんで被告山形浩生さんの名誉毀損裁判は、事が名誉毀損の有無の認定を超えて、女性の書いたものに対する否定がすなわち女性への蔑視中傷に類するものではないかとゆー、いわゆる「テクスチュアル・ハラスメント」の存在をクローズアップさせる活動になっているせいもあってか、こうした活動に興味のある人たちが集まって来て傍聴した関係で、50席くらいあった傍聴席がほぼ満席になってちょっと驚く。

 何となく顔を見たことがある新聞の文化部関係の人とかも来ていたみたいで、メディアの関心を引きつけてこれから大きく広がって行く可能性も見えて来た。裁判が始まった時は無名の翻訳家だった山形さんも、今だと書店の週刊ベストセラーに著書が入る有名人だから、何かとバリューに縛られるメディアも、デスクの「裁判やってる山形って誰?」ってなバリアーをかいくぐって記事に取り上げ中身を盛り上げるに困らないだろーし、秋とかに京都で開催されるらしー「世界女性文化会議」をフックにすれば取り上げる意味もグッと上がるから、「裁判とかやってるよねえ」と思いながら事情も経過も分からなかった人たちが、メディアを通じて何がいったいどうなっているかを知る機会も増えて来そー。

 ただしメディアの伝える情報が正確か否かは別なんで、何が論点になっていて双方にどんな主張をしているのかを確認するにはやっぱり現場を踏むしかない。なるほど双方から感触は伺い聞いていたけれど、実際に見物した証人尋問でのやりとりで分かって来たことは、小谷さんに対する名誉毀損に関して山形さんは謝ると言っていることで、どうしてあんなことを書いてしまったかというと冗談だからで、対するに小谷真理さん側の主張は山形さんがああいった文章を書いたのは女性には素晴らしいものは書けないという認識があったからで、すなわち女性の業績が搾取もしくは誹謗されて来た「テクスチュアル・ハラスメント」の実例であるってことで、すれ違うってゆーか噛み合ってないってゆーか、異なるレイヤーで争っているよーに見える。

 たとえ冗談であってもそれを書いてしまった思想信条の奥底に、「テクスチュアル・ハラスメント」を生じさせる原因があったかもしれないから、原告側の弁護士の尋問は、山形さんがああいった文章を書くに至った状況を体系的にまとめて克明にするよー求めて来ている。遠因として小谷さんと巽さんの文章が似ている、といった話がどこかで話題になったそーで、だいたいそこら辺で話題にされていたっかを山形さんの陳述から辿って小谷さん側の弁護士さんが挙げて来た日次が1997年7月12日。西葛西でカラオケがあって大森望さん水鏡子さん柳下毅一郎さんといっしょに行ったでしょ、って話が弁護士さんから出て即座に山形さんは行ってませんと答えた辺りは認識に行き違いがあったみたいだけど、大森さんの日記から山形さんの行動をチェックして、どの辺りで話題になっていたかを調べよーとする弁護士さんの追究にかける意欲の強さは伺える。

 もっとも尋問ではカラオケの前のパーティーでのやりとりも含めて山形さんは誰が言ったかってな個別の名前は記憶にないからと挙げなくって、対して小谷さん側の弁護士の人が「大事なところだ」と強い口調で言っていた所から類推するに、「テクハラ」だと原告側が認識する文章が出るに至ったきっかけだと考えられる同日のシチュエーションの詳細化が、今後の展開で行われそーな気がする。関係者前へ?

 もちろん、いくら場の空気からニュアンスが生まれてそれを山形さんが字にしたとは言っても、裁判で争っているのは結果としての名誉毀損であって、いかなるプロセスがあったとしても、毀損された名誉の回復が果たされるよー、間違えましたすいませんと謝罪すれば一応の決着は見るんじゃないのかってゆー考え方も出来る訳で、実際に裁判官の人も次回を協議にして被告の謝意を認めて裁判をまとめよーとする動きを見せていたけど、「テクハラ」が生み出された状況を解き明かしたいんだろー原告側の弁護士の人は、1つに山形さん自身の資質なり思想なり心情に「テクハラ」を生み出す要素があっただろーことを導き出して、だからこーゆー事件が起こったんだと持って行きたいみたい。

 尋問の場で繰り返し聞いていたのもそーいった部分で、例えば山形さんが小林よしのりさんの「ゴーマニズム宣言」を支持しているからと言って「従軍慰安婦への主張も支持するのか」と突っ込んで来て、即座に山形さんはエイズ問題に関する部分(「脱・正義論」かな)への支持はあっても従軍慰安婦については否定してると別に書いた文章を挙げて反駁してとりあえずの落着は見たけれど、「小林よしのり支持」=「従軍慰安婦支持」=「女性差別主義者」といったニュアンスを瞬間でも作り出そうとする戦術には、テレビで見た丁々発止の法廷ドラマみたいだなーと目を見張る。「意義あり」「質問を変えて下さい」とかって弁護士と裁判官のやりとりとかも、確かドラマで見た記憶があったなー。原告側の弁護士の人の立ち居振る舞いもなかなかに見た目の威圧感があったし。文章がどこなるって聞かれて証人台の上にある書面をあごで指し示したポーズは怖かったなあ。

 ほかには「2ちゃんねる」の社会学板で争点となっている元の文章のアップを誰かが希望して、別の人がたしなめたところで山形さん本人とおぼしき人が「このぼくが、著作権だなんだとかくだらんことを言うとでも思ってるとしたら、そのほうがよっぽどバカよーん。あ、でももちろんぼくの文章によって女性性だかチュチェだかを傷つけられた原告の感情を鑑みて そのような行為を奨励するものではありませんが」と答えた直後に当の文章が誰かによってアップされたことを挙げて、著作権者として止められるのに止めなかったのは何故かと聞いて、放置したのは不作為の罪だってなことを言って、山形さん側を牽制している。答えた山形さんは自分の著作権フリーの活動を鑑みるに著作権の主張はしないことを説明した後、後段の文章を示して奨励はしないと断ったと話したけれど、なかなかにオープンソースとかフリーソフトとか著作権フリーに関する活動は理解し難いよーで、「止めることは出来ないけれども奨励はしない」とゆーポリシーを踏まえたスタンスが、「奨励はしないけれども止めはしない」とゆー放任のスタンスなんだと思われてしまう。

 なるほど旧来的な、あるいは一般的な感覚だと止められるのに止めないのは何故だって疑問は当然で、対して情報を共有化しよーとする著作権フリーの運動があってその意義はこれこれこうで自分はそれに賛同している立場であるから自分の著作権は主張できないんだ、とゆーことを説明できれば良いんだろーけれど、裁判ではそんな時間もないし概念として一般化していない著作権フリーの考え方を、数分で納得させることも不可能だから、今後の展開の中で補っていかざるを得ない。あくまでも信念であってそこに「テクハラ」の意図はないんだと分かってもらえないことには、後段の「奨励するものではない」とゆー言葉も言い訳にしか取られない。ただしそーゆー段階を踏みパーツパーツを切り分けて議論してもらえるかとゆーと、1つには目的に向かった証拠としての価値を保つ必要があり、1つに著作権フリーという概念の新し過ぎるが故の訳の分からなさがあって、なかなかに難しいと言えそー。尋問後の小谷さんたちを囲んだレクチャーでも、三枝和子さんだったのかな、著作権者でありながら著作権を主張しないことへの不思議さを話していたし。リーナス・トーバルズとかリチャード・ストールマンとかに喋ってもらうか。

 論点の切り分けって意味で気になったのは、尋問の最後で原告の弁護士さんが「山形道場」の中にある老人蔑視的な文章を挙げて来たことで、山形さんは経済学の端にいる人間として効率の面から老人の役に立たなさを言ってみたんであって、別の部分で役には立ってると尋問では説明したけれど、これをどーやら弱者蔑視の思想の持ち主であるとゆーニュアンスを形作る論拠にしよーとしている印象があって、そこまで押し広げられるものかと不思議に思う。なるほど経済的な効率以前に老人蔑視の心情があったとしても、それが今回の裁判の争点になって来ている女性蔑視の心情と重なるかどうかは別の問題ではなかろーか。老人は嫌いでも女性は尊敬している人の存在を除外しているよーな論の立て方は、情には強く働きかけても醒めると首がちょっと傾ぐ。

 印象を言うなら名誉毀損は名誉毀損として一件落着をさせ、「テクハラ」は「テクハラ」として司法の場から切り分けて、今回の一件を契機に司法とゆー場ではなく論壇なりジャーナリズムの場でじっくりと議論していって欲しいとゆーのが心情。今のままだと個人の人格信条資質心情から起こった事件であるとゆー結論から、それ以上の所に発展していかないよーな気がしてならない。名誉回復を求めた裁判は、謝罪によって名誉が回復されれた時点でひとまず終わって、個人の資質ではなく「テクハラ」を生み出す社会構造なりメディアの状況なりを摘出し指弾していく活動に早く移って欲しい。「山形道場」の老人蔑視的な文章をもってこーゆー心情の持ち主である山形さんの台頭を未然に防ぎたい旨、原告側の弁護士の人は訴えていたけれど、思想信条の自由が保証されているこの国で論争にはなっても司法で白黒決着を付けるテーマではない。むしろ現実問題として存在する老人を役に立たないものと見なさざるを得ない経済的社会的な構造なり問題点を嫡出し、反証し議論し解決策を探すのが前向きなスタンスではなかろーか。

 勿論当方、男性として「テクハラ」をやられ続けて来た側の哀しみの心情への明解な理解にはほど遠いところがあって、そうした哀しみを乗り越えるための重要にして重大な運動なんだとゆー主張があっての裁判で、安易に切り分けることなんて出来ないんだと言われたら謝るしか他にない。ないけれども裁判での目的と、運動での目的を1つの器の中で求めては収まるものも収まらない。大きなもの、大切なものを目指している運動の場は、小さな法廷よりは大きな会議の場、コミュニティの場、世界規模でのネットワークの場が相応しい。前へ。


【4月9日】 半分寝ながら「闇の末裔」と「こみっくパーティ」。相変わらず絵は綺麗な「闇の末裔」は、ゾンビめいた中国人歌手がラストに唄う場面のなめまかしさにグッと来てしまってDVDを買ってしまおうかってな財布にイケナイ気持ちがむくむくと沸き起こって来る。放映が始まったばかりで既にDVDが出てるってことは既にどっかで放映済みってことなんだろーけれど、この1年くらい地上波のアニメがググッと減ってしまった関係でちょっとアニメ離れが進んでたんであんまりチェック入れてなくって放映してたかどーかが分からない。評判になったんだろーか。それともOVAだったっけ。

 「こみっくパーティ」は「おたくのビデオ」程なエスカレーションはないみたいで同人の世界へとのめり込んでいく少年の標準的な姿が描かれていく感じ。階段でぶつかった美少女(体型口調は美幼女なんだけど)との因縁とか、ギャルもののお約束を踏まえながらオタクいじりも重ねてくって雰囲気が立ち上ってる。パソコンもドリームキャストもゲーム版はどっちも触ってないんでストーリー知らないんでどんな展開になるんだろーかと創造しながらつらつらと見ていく楽しみは味わえそー。かくして月曜朝の寝不足は続く。

 だったらさっさと眠れば良いのに寝付けなかったんで森岡浩之さんの「星界の戦旗3」(ハヤカワ文庫、560円)を一気読み、エクリュアの突っ慳貪な仏頂面が想像できそーな展開がちょっと好き。その昔にどっかで出たか聞いた話ではジントがどうにかなっちゃいそうな感じだったけど、お話がどうにもならなくなるって感じたのかキャラ萌えになっても構わないと開き直ったのかジントを故郷に釘付けにせずに、ってゆーか故郷に居られなくって且つ故郷がちゃんと平和に統治されるよーな状況を巧みに作り出して、ラフィールとジントのでこぼこコンビがこれからも成立するよーにしてくれた。あれだけ立ちまくったキャラたちを捨てて話を先とか他とかに進めるのって難しいから、とりあえずは妥当な選択だと思うしファンとしてとっても嬉しい。

 こーなると浮かんで来るのは主役たち2人の逆シンデレラチックにラブラブな関係なんだろーけれど、そこは皇帝にもなろーかとゆー御方に貴族とはいえ元は庶民な人間との間柄。歳の取りかただって違うから付いた離れたってな関係を描くことはできそーもない。となればサザエさんチックとまではいかないまでもそれほど進行しない時間の中で起こる2人が関わった細かいエピソードを重ねて行くって展開が浮かぶけど、最初からハードな設定の上で繰り広げられるキャラクターたちの日常を描こーとした話だったんならまだしも、宇宙に生きる人々の興亡を描く壮大な叙事詩チックな話って印象も最初はあったし、始まったばかりの戦争がどんな帰結をするのか興味もあるから迷うところ。別シリーズを立ち上げて欲しい気分だけど、ただでさえ遅れ気味な「星界」がさらに遅れるのも困る。やっぱ1兎に絞ってラフィール&ジントときどきエクリュアなドタバタを飽きるまで書き続けていって下さいな。

 電子書籍絡みの発表をハシゴ。印刷会社なんかとの組み方の関係もあって対立してるっぽいグループだけに、時間をぶつけて客を争ったんだろーかなんて冗談半分に思ったけれど、一方の勢力が出してる「本とコンピュータ」って雑誌にちゃんともう一方のイーブックイニシアティブジャパンで社長をやってる鈴木雄介・元小学館インターメディア部次長のコメントも出ていたから、単なる偶然だったんだろー。もっとも方向性の違いは確かにあって、イーブックイニシアティブジャパンが発表したのは携帯情報端末で本を読もうってプロジェクトの要となる「イーブック端末」のコンセプト機で、「本とコンピュータ」と大日本印刷の方はオンデマンド出版で少部数でも紙の本を出して読者に届けましょうって内容で、電子へのこだわりと紙へのこだわりとゆー、電子出版をめぐって起こっている動きの両極が1日で見られたってことになる。

 どちらがどちらとゆー訳ではなく、どちらもどちらなりな意味を持っていて試みに賛辞を贈るのはやぶさかではないんだけど、どちらにしても本を良く読む人の要望とはどこかずれてる出したい側、普及させたい側の意識の強さが前面に出ていて高尚な存在に対するコンプレックスまみれな心のどこかに引っかかる。もちろん「本とコンピュータ」を引っ張る津野海太郎さんもそんなことは先刻承知で、最新号の「本とコンピュータ」で「紙の本を生きのびさせるためにも電子出版をバカにしない方がいい」と牽制してはいるけれど、本当に良いものだったらバカにされるはずもなく、何歩が譲ってバカにされてもそれ以上の賛意を贈られていて不思議はないのに、そうはなっていない所をみるとやっぱりバカにされてしかるべき部分がなおも色濃く残っているんだろー。

 それは例えば見開きにこだわっている「イーブック端末」の2面付け液晶ディスプレーだったりするかもしれず、なるほど本を読んで来た人本を作って来た人本を書いて来た人の意識をそのまま受け継ぐために心の障壁を下げる意味合いを持っているし、見開きにまたがったマンガのコマ割りなんかをそのまま活かす役割も果たしてはいるけれど、圧倒的に利用されるだろー活字のコンテンツでは見開きであることが決してマストな条件とは言えないし、見開きで見なければならないマンガも決して多数ではない。

 「ディスプレイ画面で本が読めるか読めないか。読みたいかよみたくないか。そういう議論に意味がないわけではないが、いささかあきてきたのもたしか」と「本とコンピュータ」の中で津野さんは言っていて、なるほどそれはその通りで「イーブック端末」の綺麗な画面なら本でもマンガでも読むのにいささかの苦労もないけれど、だからこそ見開きにこだわるあまりに価格とか、軽快さといった携帯端末に大切な部分がなおざりにされる可能性にももう少し目を向けてもらわないと、どこかの電子新聞みたいな末路をたどる可能性だって皆無じゃない。

 一方で紙へのこだわりをまず見せた「本とコンピュータ」が中心となって打ち出したオンデマンド出版の企画「リキエスタ」はどうだって言われると、単行本にまとめるには短くパンフレットにするには長い文章をちゃんとした「本」の形で採算のとれる出版物として出す手法として、オンデマンド出版の仕組みを使うってのは実に良い考えだと思う。思うけれどもただそれがどうして人文書なのかっていった部分になると、日本の教育が人文係の学問に厳しくって教養が全体に低下している中でなかなか売れなくなっている人文書を、少部数でも良いから売って教養の底上げに役立ちてたいからって理由がすべてだはないけれど一部として出てきて、まずは出版する側の啓蒙めいた意識があって、そこに理性と見栄を持った読者が合わせなくてはならないような上意下達的、あるいは共同体的な”運動性”が感じられて教養に興味を持たない目にはちょっぴり奇異に映る。

 まあ出版自体がそーいった共同体なりムラなりの構成員に向けて等しく同じ教養の土台を作る活動なんだと考えれば、極めて正しい振る舞いなんだと「リキエスタ」は言える訳で、刊行される本の中にも中平卓馬さんの名著「なぜ、植物図鑑か」から一部を抜粋した「中平卓馬の写真論」とか、木村毅さんの「明治文学余話」に柳田泉さんの「明治文学研究柔」中国史をかじった人間として興味を示さざるを得ない増淵龍夫さんの「日本の近代史学における中国と日本 津田左右吉と内藤湖南」といった気分をそそられる企画もあって、利用してみたいって気持ちが巻き起こる。ただ気持ちにフィットする企画がすべてではなく、出版の新しい形を模索する動きとゆーよりも人文の啓蒙といった高踏な”運動性”が目についてしまった時に感じる居心地の悪さも別にあって、なかなか素直になれない。

 まあこれもあくまで通過点ととらえて、だったら科学書とか、あるいはSFとか、少ないけれども確実に読者がいそーな部分に短編中編論文の類を本として送り届ける装置として、この「リキエスタ」の仕組みがそのまま機能して来れば嬉しい訳で、とりあえずは人文の啓蒙といった高尚さが似たもの同士の高尚なメディアによって称揚されるだろーけれど、その延長線上にあるだろー別のコンテンツによるオンデマンド出版の可能性についても、忘れないで考えていってくれれば嬉しい。岩波書店に晶文社に筑摩書房に白水社に平凡社にみすず書房といった「リキエスタ」に参加しているメンバーの中でも比較的サブカルに縁のありそーな筑摩書房の企画に期待。会見に出席していた編集者たちの1人で、枡野浩一さんの「かんたん短歌の作り方(ますの短歌教を信じますの?」を担当した鶴見智佳子さんなら何かきっとしてくれるでしょー、会見場でほとんど真正面で観察するだにこぢんまりとはしているけれど理知的な雰囲気を全身に漂よわせていた方だったし。

 「噂の眞相」5月号の「メディア異人列伝」に「日本工業新聞」のOBてことでは森喜朗首相と知名度だったら双璧なジャーナリストの斎藤貴男さんが登場。最近文庫化なった「梶原一騎伝」にちょっと前の「カルト資本主義」に近著の「機会不平等」といった話題の本の書き手だから当の昔に取りあげられてて(それこそ森さんの首相就任より以前に)不思議はない人だったけど、ともかくもおめでとうと迷惑を承知で烏滸がましいと認めつつ後輩としてエールを贈ろー、たとえ「どうしようもないところだったんですよ」と「日本工業新聞」のことを言われても。それにしても「公称40万部といいながら、実売は4万部にも満たなかった」なんて現役でも脳内に認知していないことをどーして知っているんだろー、謎っす。あと「なにしろ認知度が低いから、いやでも腰が低くなる」って言ってるけれど中には結構腰高な人も多いから、結局は置かれた状況を認識する力の有無に依るんだろー。斎藤さんは真っ当故に今がある、ってことで。


【4月8日】 4月に入ってスポーツ新聞の1面は「イチロー」だったり「野茂」だったりで開幕して間もない日本のプロ野球がなかなか1面を飾らななくって、スポーツ新聞も単なる人気じゃなくってスポーツの本質に目覚めたんだろーかと一瞬考えたものの、練習試合でホームランを打っただけの人間を1面に持って来て恥じない行為もあった訳で何のことはない個々人の言動の珍しさでもって右往左往しているだけに過ぎず、相変わらずのスポーツ新聞ならぬスポーツ選手新聞ぶりを見せてくれている。なるほどメジャーの中でも傑出した成績を今の所残しているイチローの活躍ぶりを伝える意味はあるけれど、これで成績が下がって来てもやっぱり1面を飾り続けるよーだったら、負けてもジャイアンツが1面を飾る某紙と同様の人気でもってすべてを測る日本的スポーツ新聞の体質は全然変わってなかったってことになる。

 もちろん個人にスポットを当てるってのは個人の立ち居振る舞いに強い関心を示してアイドル的に称揚したい日本人のスポーツを見る目の独特さってゆーか稚拙さってゆーか、そんなメンタリティーに依る部分も多くって新聞ばかりは責められないんだけど、当のイチローが小松成美さんのインタビューに答えた言葉を集めた「イチロー・インタビュー」(新潮社、1200円)を読むと、「強いてあげれば情報を入れないことでしょうね。情報というのは、わかりやすく言えば日本のスポーツ新聞であり、雑誌です。日本のメディアは現在の僕に対してどういう思いを抱いているとか、それを気にすることがストレスになる」(47ページ)なんて言われていて、身の下まで含めて伝えるのが商売の雑誌と同じカテゴリーに入れられてしまっている日本のスポーツ新聞の置かれた状況が伺える。

 「でも、そこで、アメリカで一番美味しいものは何ですか、と聞かれたら話は出来ないですよね」(48ページ)って言葉はアメリカの記者が新米のイチローをアレックス・ロドリゲスと並べて”移籍”の意味について聞いたってゆーエピソードへの感想として話したもので、なるほど日本のメディアだったらやりそーなことだし実際に多々やられた挙げ句にこーゆー感想を言うまでになったんだろーと、ちょっぴり傲慢さも感じるけれどスポーツ選手としての自意識の高さも同時に感じる。スポーツを伝えないスポーツ新聞が専門のメディアの発達を前によりゴシップ化していくのかそれとも原点に立ち戻ろうとするのか。情報にアクセスする強い権利はやっぱり原点回帰で活かして戴きたいものだけど、現場の記者がイチローに小馬鹿にされて目覚めても、中間で仕切る奴らがアレだからなー、そこんところは一般紙も同様なんだけど。

 椅子の上でひとしきり眠った後でふらり起き出して佐倉へ。別に笙野頼子さんの猫屋敷な新居にストーキングに行った訳じゃなくって、ってゆーかどこら辺に住んでるかあの土地に広大な余裕のある佐倉で探せる筈もないからそもそもが論外で、本当は佐倉にある川村記念美術館に「ゲルハルト・リヒター展」を見に行っただけのことで、前に佐倉に行ったのは煮えたぎるチョコレートを見に行って以来だからえっと何年ぶりなんだろーかと考えたけれど、誰と行ったってな思い出が蘇らない虚しさに心が盛り下がって来たんで考えるのを止めにする。映画館といー美術館といー行くなら自由に静かに見ていられる1人がやっぱり最高だよなと負け惜しみ、って負けなのか?

 写真を模写する感じでペインティングの作品を作る人として有名らしーゲルハルト・リヒターだけど今回の展覧会ではそーいった「写真絵画」はほとんど無くって、リヒターのもう1つの代表作、と言って良いのかそれとも作品として結実する以前の思考のプロセスをまとめた一種のメモとしてとらえるべきなのかちょっと迷う「ATLAS」が今回の展覧会ではメインになっている。展覧会のタイトルにもなっているくらいだし。従って会場は子供の頃から雑誌の切り抜きから風景から空撮からナチスから赤軍からデッサンから何から何までを整然に貼りまくって並べたパネルで埋め尽くされていて、それはそれで壮観なんだけど、一方で「写真絵画」へと結実するプロセスでもある「ATLAS」を、果たしてそのままアートだと捉えて良いものかと悩む。

 もっとも河原温さんみたいに行為を記録する作品でもって評価されているアーティストも存在している訳で、パフォーマンスにインスタレーションといった行為そのものだってアートなんだから、自分の記憶なり関心なり思考なりを写真なり記事の切り抜きなりでピックアップして並べていく、それを何十年も繰り返して積み重ねていく行為は立派にアートなんだと言えるんだろー。山嶺にしても草原にしても砂漠にしてもナイアガラにしても切り取られた瞬間にそこに人為が入る訳で、あまつさえ並べて貼る行為は人為の発露の最たるもの、すなわちアートの究極なんだと言って言えなくもない、かもしれない。「絵画芸術」化された作品と元の写真との間にある類似と差異の顕在化とゆー行為を媒介するベースとして、トータルでのアートの重要なパートを成しているとも言えるんだろー。とにかくやり続ける意志の強さ探求心の旺盛さは見習って損はない。

 膨大なデータでもって構成された作品を目の当たりにして、膨大なデータを収録して自在に繰り出せるCD−ROMなりマルチメディアといった存在との親和性なんかを考えてみたくなったけど、何百枚何千枚もの写真を目でザッと見てところどころ立ち止まって見入って進んでは戻って見たりできる展覧会の持つ強さは、マルチメディアでは絶対に実現不可能なものだろー。特定の空間内でもって配置して見せる展覧会のよーな形式は、アーティストの殿堂で作品を披露することへの自己満足なんてものを超越して、それ自体がアートとしての重要な構成要因になっているのかもしれないと考えたけれど、当のアーティスト自体が「ATLAS」をアートな作品として位置づけているのかそれとも思考のプロセスと感じているのか分からないんで、この作品についてハッキリしたことは言えそーもない。願わくばリヒターの”本業”な「写真絵画」の良いところをもっと見せてくれて、その強さが「ATLAS」の写真と表裏一体なのかそれとも「ATLAS」を土台に発展したものなのかを確かめさせてくれれば嬉しい。適うかな。


【4月7日】 21世紀ってことでリバイバル上映されることになった「2001年宇宙の旅」を見に行く。21世紀になってやっぱ最初の上映を見るのが義務でしょ、ってことで股間からナニが突き出た美少女声で喋る巨大ロボットが脳味噌をこねまわしてくれたアニメを見終わって、しばし呆然としながら夜明けを迎えたあたりでしばし微睡んだだけなんで眠不足なのか、それとも花粉でイカれただけなのか、ヤニのたまってヒリヒリと痛む目をこすりながら銀座へと向かう。9年後には「2010」もきっとリバイバル上映されるはずだからその時も行こー、「2300年未来への旅」も頑張るぞ(無理です)。

 銀座のはずれの「ル・テアトル銀座」には短いながらも行列が出来ていて、最初の上映が始まる前には「セゾン劇場」だった部屋の埋まり具合もだいたい6割くらい。DVDでだって見られる映画(実際持ってるし)をいまさらどうして劇場で、なんて他人事のよーに思ったけれど、当方に関しては見飽きてるほどは見てないし見ていると大抵途中で眠ってしまうんで、劇場のよーな動きが拘束された場所で見ておきたいと思ったのが実際のところ。70ミリを再現した迫力のワイド画面でクッキリってな触れ込みもあったけど、後ろの方で見たんで言われるほどの圧倒感はなくってちょっと拍子抜け。同じ場所にいて同じものを経験することの素晴らしさ、みたいなイベント盛り上がり的感情に支えられた幻想以上に大きなスクリーンで見る意味が映画には果たしてあるんだろーか、あるんだろーけどだったらそれって何だろーかと今さらながらに考えてしまう。やっぱり眠れないことか。デートのダシに使える? 俺に限ってそれはないね。

 なるほど真っ暗な画面をバックに得体のしれない音声がひとしきり流れた後で始まった、猿がモノリスに触って猿知恵を付けてイモを海水で洗うよーになる、じゃない骨を使ってバトルを始めるシーンとか、月面でのモノリスをバックに記念写真を撮影しよーとするシーンとかは最初の方なんで当然として、だいたいこの辺りからいつも記憶が妖しくなる、「HAL9000」がだんだんとおかしくなり始めるシーンにポッドでプールが吹き飛ばされるシーンにコンピュータがデイジーデイジーを唄うシーンもちゃんと、小説版で作られた模造記憶じゃなくって目でもって確かめられた。スターゲートってサイケな点滅だけじゃなかったんだなあ、ここんとこ大抵気を失ってるんで知らなかったよ。

 お話し自体に今さら感銘を受けることも新しい発見をすることもないんで、見るのはもっぱら映画が最初に公開された68年当時の人が映画の中で予想した2001年と、今とのリアルタイムで実感できるズレ具合ってことになるんだけど、宇宙ステーションが出来ていないとか木星への有人探査が実現していないってのは、技術的には出来ても資金的に無理だったりするだけなんだろー部分もあるから別に外れたとは思わない。むしろ時代を映しやすいファッションの方が気になって、ハーディ・エイミスが担当していた全体に細身のシルエットをしたスーツは、10年前のズルズルブカブカとしたソフトスーツ全盛時代には時代遅れと見られたかもしれないけれど、最近のスーツは再びどんどんと細身になっているから、2001年の今だとかえって流行をうまく取り入れてあるよーに見える。

 ただしフロイド博士たちがネクタイを止めて首のところにブローチめいた飾りを付けていたよーな習慣は未だに出来てなくって、まったくもって無意味なアイティムであるにも関わらずかくも長き時代を21世紀まで生き抜いたネクタイの偉大さ不思議さを改めて強く感じる。夏なんて暑いだけなんで早く廃れて欲しいんだけどねー、勤め人でもなけりゃあんまり関係ないんだけど。リバイバルに併せ制作されたパンフレットには、食事のシーンを不味そうに撮ることに関しては日本有数の押井守さんが、「2001年」に出てくる食事の不味そうさ加減について書いているからアニメファンじゃなくても押井ファンの人は絶対に手に入れて読もう。押井さんだったら瀟洒なインテリアで固められた宇宙ステーションの中できっと牛丼屋に立ち食いそば屋をつけたに違いない。パンフレットにはあと筒井康隆さんも寄稿。「人類の馬鹿さ加減がますます明確になり、明るみにさらけだされてきている現在こそ、この映画の再上映は大きな意義を持っている」とは今さらなコメントだけど今だからこそなコメントでもあって、人類の変われなさに改めてスターチャイルドの来臨を願う。オーバーロードでも良いけれど。

 こっちはリバイバルじゃなくって再アニメ化の「逮捕しちゃうぞ」。オープニングの絵の良さは本編ではあてにならないと前回つくづく思い知らされたんで身構えて見ていたけれど、1回目ってこともあってか中島敦子さんがリキ入れて作画監督したんだろーだけのことはあって、と言っても前回は実質の1話目からアレだったんだけど、それはともかくトゥデイにしてもモトコンポにしてもディティール崩れてなくって他のアイティムもちゃんと記号じゃなくって実在しているものに見えて、視覚的には安心して眺めていられた。葵ちゃんどんどん美人になっていく、美女じゃないけど。

 ただしお話しに関しては赴任して来た新人の婦警が中心になって彼女から見た墨東署のおかしな面々ってなシチュエーションになっているのが気になるところ。夏実に美幸の凸凹コンビの大活躍も後輩が目覚める狂言回しにしかならなくって、毎回お説教されている気分に見ているこっちがさせられるんじゃないかってな心配が頭をよぎる。まあ最初のうちできっと前みたく2人を軸にコメディありーの恋愛ありーののどたばたが繰り広げられることと期待しよー。ついでに絵もOVAクオリティとは言わないから1話程度は維持してね。
【4月6日】 眼精疲労な日々。「ドリラー」の最低レベルクリアすら無理と判断した反射神経低下中なおっさんが性懲りもなく挑んだ「F−ZERO for GBA」は、「ニンテンドウ64」版のあれは秒間60フレームだったっけ、虚仮威しの豪華さじゃなくスピード感をとことんまで追究したグラフィックに圧倒された目にあった、携帯ゲーム機の小さな液晶の上をちょこまか動くゴーカートくらいにしか見えないんじゃないかってな先入観が即座にひっくり返さるくらいに美麗で且つスピード感に溢れてて、目まぐるしく変わるコースに目が全然ついていけず縁石を削りカーブに激突し追い抜で追突を繰り返して爆発即リタイアの連続。それでもしくこくプレイしているうちに目は血走り指は連打で痙攣し、四捨五入の四十肩をも引き起こすくらい体にジクジクとダメージが溜まって行く。

 ビギナー相手で未だ1つたりともグランプリを制してなくって、ビショップに至ってはすべてのコースすら出し切っていない体たらくはなるほど「ブロック崩し」で7点とかしかいかなくって「インベーダーゲーム」で1面をクリアできたのが過去にわずかに1度とゆー、ゲーム神経がゼロどころかきっとマイナス100は超えてる人間に相応しい成績だけど、そんな人間でもふとしたはずみでエラく早いタイムをたたき出せたりする時もあるから不思議なもの。決していたずらに難しくするんじゃなくって、手の届きそーな所に目標をチラつかせてゲームを置く手を休ませないレベル設定なりの巧みさが、あるいは任天堂のソフトを最高峰にしてロングセラーたらしめている要因か。デモ画面に出てくる空中を斜めにジャンプするコースが早く見たいよお。

 そうだ思い出した昨日新宿で某ババンババンバンバンなパソコンスクールの社長の人に会った帰りに寄った西新宿の「ヨドバシカメラ」で、「ファイトクラブ」のDVDがたったの1000円で叩き売られていたのを発見、それも豪華なパッケージの初回限定生産とかゆープレミアムエディションで、平台への山積み具合にもしかして売れると踏んで大量に仕入れた挙げ句に爆発したか、それとも大量に生産してしまったものが巡り巡って流れて来たかと考える。まあどっちにしたって1000円は安いよなあ、ちょっと分厚い文庫本より安いもん、一瞬香港製のビデオCDかと思ったよ。

 本編は本八幡の封切り館なのに場末感が漂う劇場で見てたけれど、この値段で特典も結構付いてて1000円札に税金の50円を足せば手元にずっと置いておけるってのはなかなかに魅力的。劇場じゃあ聴けない日本語音声まで入ってるからねえ、それもブラッド・ピットなんか山寺宏一さんで。ちなみにエドワード・ノートンは平田広明さんでヘレナ・ボナム・カーターは高乃麗さんとゆー豪華キャスト。山ちゃんの演技っぷりを聴くだけで1000円の価値はあるかも、まだ聴いてないけど。まあ単なる投げ売りで滅多にあることじゃないけれど、安くしたら逆に儲かったってマクドナルドの例にもならって、バリュー価格なDVDとかどんどん出して頂きたいもんです、特にアニメな会社には。

 よりによって今日から学校が始まるって日の午前中とゆーメインターゲットが誰も見られないよーな時間に放映しなくても良いのにとか思ったけれど、大きなお友達はまだ多分本格的な学校シーズンじゃないしもっと大きなお友達はビデオに撮るなり午前の仕事をサボって見るなりするだろーから関係ないんだろー「デ・ジ・キャラット お花見スペシャル」。実はまだ見てなかった「クリスマススペシャル」が毀誉褒貶数々あった「サマースペシャル」から一転してナゴミ系になっていたって噂は聞いていたけど、なるほど「お花見スペシャル」は春眠で花粉症で気ぜわしさよりもまったりが似合う季節に相応しく、のんびりとしてほんわかとしてほかほかごはんとして目肩腰の疲れを取ってくれる内容に仕上がっていた。

 テイストで言うなら2話目のお花見編が「ワンダフル」版の「ほかほかごはん」的だったけど、「ほかほかごはん」にもちょっぴりあった毒はさらに薄まっていて、せいぜいがぴよことの繰り返しな掛け合いとか「口からバズーカ」「目からビーム」でのお花見客吹き飛ばしシーンに笑いの要素があるくらい。散る花びらを追いかけ集めるぷちこのぶいぶい良いながら動き回る見目麗しさに蝶々を取ろうとするぷちこを止めるうさだの優しさ、でじことぴよこのライバルなんだけど仲良し風な関係あたりを前面に出して「いい奴らじゃん」的ニュアンスを醸し出してご家族でも安心なアニメにしたいってな思惑がそこはかとなく感じられる。ぷちこの幼稚園編も同様、迎えに来るでじこにあたしゃ泣きましたよ、いや結構マジで。

 「ワンダフル」版では前面に立っていた作品中の毒が大幅に減っているのは多分に戦略で、キャラクターの人気の幅を大きなお友達から徐々に歴としたお友達層へと広げよーとするには毒より萌えってことなんだろー。「ワンダフル」の時は爆裂したエピソードの合間に「ほかほかごはん」とか「PARTY NAIGHT」とか心ほかほかエピソードが挟まって良い味を出していて、上げたり下げたりな感じがヒネた大きなお友達にもちょっぴり残ってる良いアニメを見たいなあ的感情に結構ヒットしたけど、世の中がこうもギスギスして来るとせめてアニメくらいはホッとしたいって感情もあるんだろーか、毒から萌えへとシフトして来た「デ・ジ・キャラット」シリーズでもまあ、許せるなあ許しちゃうよなあと思えて来る。それにしても本当は子供層に見せたかったんだったら子供層がちゃんと見られる時間に放映して欲しかったって気もしないでもない。もしかして春休みを冬休み並みに長く見積もり過ぎたとか。

 声も姿も可憐なクラリスに言われるんなら文句なしで許すけど、バルキリーっぽいってゆーかアーマードコアぽいってゆーかバーチャロンぽいってゆーかとにかくヒューマノイドとはかけはなれた巨大なロボットから声だけ可憐に「おじさま」なんて言われた日には、いったいどんな反応を返せば良いのやら、頭の後ろに手を回そうにも届かねえし。いくら若者だからって真夜中の一体誰に見せようとしているのか分からない時間帯に放映が始まったアニメ版「Z.O.E」はしなを作って恥ずかしがる巨大ロボットに疲れよどんだ目をカッ見開かせ、コレハイッタイナニゴトとデンジャラスアニメに接近した時に光る黄信号が頭の中で点滅する。もっと無重力下で作用反作用を気にせず殴り合ったり拳銃を撃ちまくれる秘訣は? 真空の宇宙でパイロットの頭をぶち抜いたどう見たって火薬で弾を飛ばしているよーにしか見えない拳銃の秘密は? ってな謎の前には媚態を見せるロボットなんて別に珍しくもないかも。刮目して次回を見よう、録画して。


【4月5日】 オープニングに突如現れた主題歌を唄うあれは多分堀江由衣さん? の声優さんなんで声優フェイスなビジュアルショックに愕然としつつわき上がるヤバげな気持ちは本編が始まってもちょっとばかり引きずっていたけど、くどい重ねに不思議な音響奇矯なシチュエーションで畳み掛けられているうちに、次第にもしかしてこれはイケるのかもと思えて来たテレビ東京系で放映な「シスタープリンセス」。美少女たちに囲まれ「お兄ちゃん」と言われる背筋にズガンと来る快楽とは裏腹な関係にある尻に来る自己嫌悪に果たして陥ろーとする寸前、ギャグを交じえ冗談を走らせる技が効いているのか不思議と落ちついて見ていられて、そのうちに知らず展開に引き込まれている自分があった、これは凄い。

 日曜の夜とかやっぱ似たよーに親近感と近親憎悪の入り交じる展開の「こみっくパーティー」が始まっていてこちらは絵の筋の良さとかでかろーじて見せている感があったけど、絵だけなら実にオーソドックスな美少女アニメな「シスプリ」の場合はむしろ展開と音響の妙でもってベタにならずあざとくもせずに寸止めでこちらの見る気持ちを引きつけてくれる。まあ1回目なんでこれが重なるとあざとさが許容量を超えて見る目に痛く映る可能性も結構あるけれど、そこは演出の人とか千葉繁さんとかがしっちゃかめっちゃかに頑張って、同じメディアワークスが絡んだ20世紀末に輝く珍奇アニメ「セラフィムコール」に匹敵する、21世紀の頭を飾る変格恋愛アニメとなる可能性も決して皆無とは言えない。さてはて以後の展開はいかに。来週も見よう、でもって「お兄ちゃん」の呼びかけに背中をゾワリと逆立てよう。

 何故かふと目についたんで高屋未央さんって人の「機械仕掛けの王様1」(大洋図書、800円)を買って読む。耽美なんだけどくどくなくシンプルなんだけど華麗とゆー絵で、上質の美少年美少女美男子美女がズラリとそろったも作品を描く女性に大いに受けそーな漫画家さんだなあと最初ペラペラと読んで思ったけれど、なかなかどーしてストーリー自体に込められた滅亡しかかった地球をめぐる人造人間と人間たちの愛憎入り交じった関係なんかは実にSF的な趣向に溢れていて、未だプロローグに過ぎない物語の背景例えば地球がいったいどーなってしまっているのか、でもって次々と眠って行く都市が意味するもはといった部分への興味をかきたてる。母親そっくりの息子と父親そっくりの生体人形とが織りなす禁断の物語の行方や如何に。見かけない本なんで次が出ても気付かないかもしれないけれど目立つ絵なんで見落とさないよー店頭なんかで注意して行こー。画集も買っちゃうかな。

 春の怠惰な風に流され長い文章を打つ気も本を読む体力も奪われてしまってボーッとテレビばかり見て過ごしている新年度の夕暮れ時は寂しそう。普段だったら見ればどーして放っておかないんだと腹が立つ「あの人は今」風な番組も今は娯楽性の高さに好奇心が先に立ってながめてしまって、「ニャンギラス」の消息とか香取洋子印の梅干しがある話とかその香取洋子が松屋(牛めし屋じゃない方)でときどき手作りのアクセサリーを売ってる話とか、久々の宅八郎さんのテレビ登場を見て往時の「おたくイメージ」がいかにもなものだった話とかに見たくないけど見入ってしまう。西脇美智子さんがハリウッドにいて西崎みどりさんがヌード写真集出してて別に驚きはしないけど往時の活躍ぶりを知る身として懐かしさがついつい目を番組に釘付けにしてしまう。チャンネル権を持つ中年の郷愁に訴える企画、強いんだよなー、やっぱり。

 惰性は夜中まで続いて吉田拓郎さん高見澤俊彦さん出演なトーク番組に出演した釈由美子さんの座右の銘を効いて夜も更けて眠い目がいっきに醒める。「ふんにゃか ふんにゃか」だそーです、ってどこが座右の銘やねん、ってゆーか意味分かんねーぞ、でも釈ちゃんの受け答えとか喋りとか(効かれると「そうですよ」ってコロコロ応えるあの声音とか)を効いていると「ふんにゃかふんにゃか」ぶりもちょっぴり分かって来る気が。もしも釈さんが将来棋士とかになって扇子に揮毫を頼まれた時、やっぱり書くのかなあ「ふんにゃか ふんにゃか」って(棋士になんかなりません)。あるいは新社長に就任した釈ちゃんについて書かれた人モノ記事の最後も「座右の銘はふんにゃかふんやか。○○出身、○○歳」って感じなるのかな(社長になんかなりませんてば)。出演していた衣装のピッタリ系なんで前につきでた膨らみを「ふんにゃか ふんにゃか」したい気持ちはしたけれど、そーゆーのでも「貴女の座右の銘なんだから許して」って言えば許してくれるのかなあ。許して欲しいなあ。

 まんま呆然と見ていたテレビをひょいとひねったら今晩スタートのアニメ「NOIR」(ノワール)がスタート、ややオバ入った女性の実は凄腕の拳銃使いってキャラクターの声が三石琴乃さんでハマり過ぎとか思ったけれど、考えてみれば同じプロデューサーの作品だったと記憶している某へっぽこ実験アニメでやってたビックカメラのMC以上に早口で爆裂したトークを聞かせてくれいていた訳で、ミサトさんじゃなくってうさぎちゃんでも勿論なくって「ウィッス」なそっちがメインな人にとっては、大人びてシリアスな三石琴乃さんの演技を聴ける番組ってことになるのかも。ちなみに自分が誰だか分からないけど銃を扱わせたら凄腕だった不思議な美少女の声は桑島法子さん。訥々としか喋らないんで三石さんとの掛け合いはなさそー。まあお互いにハードボイルドな雰囲気のある所を見せてその芸域の幅広さを天下に知らしめてやって下さいな。

 拳銃の描写は「ジオブリーダーズ」なんかも手がけているプロデューサーっぽいってゆーかそれなりに緻密で、プロじゃないから分からないけど両手で構える撃ち方とかスライドが下がって薬莢がちゃんと排出される描写とか、結構凝っていそーでミリタリーな人の興味を惹き付けるかも。向こうが撃っても当たらないのにこっちが撃つと1発で当たる「正義は勝つ」(殺し屋が正義かねえ)法則は健在なのはお約束。あと銃のディティールなんか実に良く描けてる感じで、あれはいったいどんな銃? H&KかSIGかGLOCKかコルトかベレッタか、勉強している人たちから情報が出るのを待ってよっと。

 ただ高い場所から超ミニなスカート姿で降りるシーンで風圧がスカートをお猪口状態にしなかったのは何故、とかあれだけ太股が見えるのに谷間の三角はまるで見えないのはどーしてとか、憤る所も多くって真夜中のアニメとは言え受ける風当たりはまだまだ強いんだってことを作品を通して実感させられる。三角白見せがもう少しあれば21世紀に残るアニメになれたのにぃ。ストーリーは凄腕なんだけど記憶のない美少女とフランスでは右に出る者のいなさそーなプロの殺し屋姉ちゃんとの邂逅から始まってしばらくはパリ編が続きそーで、まさに「ノワール」な雰囲気の中で美少女に美女が繰り広げるど派手だったりどシリアスだったりするドラマに期待十分。ちなみに「巴里花劇団」は出て来ません。


【4月4日】 「SFセミナー2001」申し込み。なんかダブルヘッダーになってて2回も麗しいスタッフの方々とお目にかかえるかと思うと嬉しい気持ち恐ろしい気持ちがないまぜになって浮かぶ、いぢめないでね。前段にあたる29日に開催の「SFセミナー特別編:カナダSFの世界」は日本SFのそれもユーモア系ヤングアダルト系な人間にとっては勉強になることがたくさんありそーで、「ジュディス・メリルという人がいた」で競馬の世界から一時復帰? な山野浩一さんに円盤の世界から帰還? な南山宏さんならぬ森優さんそして浅倉久志さんをパネラーに牧眞司さんが聞くとゆー魅力的な企画を経て「ろばーと・J・ソウヤー インタビュー」へと続く盛りだくさんな内容が、たったの2000円とは何とゆー大盤振舞かと感嘆する。ゴールデンウィークの頭を飾る知的な体験としてはなかなかなものでしょー。

 5月3日の本編「SFセミナー2001」の方は瀬名秀明さん池上永一さんとゆー方やホラーでこなたファンタジーの新人賞からデビューしたプロパーなSFとゆーよりはSFから見れば終焉でエンターテインメントのジャンルから見れば今時の本流に近い2人がそれぞれに登壇の予定。「『SF』へのファースト・コンタクト」ってタイトルで話す瀬名さんの方は瀬名さん自身が感じているSFへの違和感とか編集者が喋る忌憚なきSFへの見解なんかが明らかにされるそーで、何年か前の「SFセミナー」で執り行われてその後の泥沼な論争へと発展して今なお尾を引く梅原克文さんの講演ほどのアジっぽさがあるかどーかは分からないけど、それなりに我が身にも迫る興味深い話が聞けそー。「瀬名秀明の法則」とか言い出したらどーしよー。

 池上永一さんの方はやっぱり壮絶にして怪絶だった「レキオス」を核にして、「怪奇へび女」とか「パガーヌ・マジパヌス」とかいったオキナワンな風土をバックにしたマジックリアリズムなテイストあふれるファンタジーが生まれた背景なんかを聞いていくことになるんだろーけれど、個人的にはちょっと前の「朝日新聞」だったかに池上さんが寄せていた、最近の若者のなってなさについての激白なり小言なり悪口雑言なりを聞きたい気分。記事だと手に煙草を持ってホームを歩いていた女性がいてその火がかすった子どもが泣き出した場面に行き当たって、注意しようと思った瞬間に別の男性が脱兎のごとく煙草の女性に近寄って何てことするんだと怒鳴り、それでも状況が理解できなかったのか理解するだけの頭がなかったのか鬱陶しいオヤジにつかまったと携帯電話で誰かと話そうとした女性から、携帯電話を取りあげ叩きつけ踏みつぶしたってシチュエーションを紹介していて、その男性がやらなかったら多分自分がやっていたらしー血気盛んな性格が、「SFセミナー」の場でも発揮されたら怖いけどちょっと面白いかも。聞き手の鈴木力さん、覚悟かくご。

 新聞記者と戦い叩きのめし評論家と戦い敵前逃亡を誘い猫嫌いな住民と戦いことらは名誉ある撤退を選んで千葉県佐倉市あたりに一軒家をローンで買わざるを得ない羽目となって今は猫たち暮らしている笙野頼子さんだけに、帯の「『ブスでどん臭い』地方出身小説家を差別抑圧するトレンド帝国に、純文学の暴風が大逆襲」なんて文句と冒頭を読んだ印象から得た”オバさん作家渋谷で若者文化を見てショック”的な単純な内容になっているとは思わなかったけど、「渋谷色浅川」(新潮社、1400円)の表題作が書かれた96年から以降、笙野さんを襲った前述の数々のバトルがよりいっそうの戦闘意欲を惹起したのか予想を超えての毒とクスリがいっぱいの内容になっていて身がギュギュギュっと引き締まる。モデルもバレバレな仮名の人たちの活躍ぶりやモデルは分からないけど業界に居がちなヘンな人横柄な人無神経な人たちの跳梁ぶりへの時に賛歌、時に罵倒の言葉のテンコ盛り。ここまで世間に堂々と挑んで且つ、単なる身辺雑記とはせずに世代の違い思想の違い感性の違いを浮き上がらせてみせる腕前はやはりタダモノではない。関係ありそーな人は読んで果たして赤く怒り憤るか、それとも蒼く醒め落ち込むか。

 中の「中目黒前衛聖誕」って短編に登場している慶応大学助教授でアメリカ文学が専門の乾信彦さんが誰って聞かれて「ああ」と思った人ならそのパートナーで日本へのアヴァンポップの紹介者でジャンル小説と純文学との最近の共振現象の研究者でもある細波鋭利さんが誰かもきっと分かるだろーけど、巽が乾は理解できても小谷が細波ってのも……並べてみたらなんか理解できちゃった。小さくなくって細くって谷じゃなくって波ってことか。真理は鋭利は未だにつながり不明だけど。この2人に絡んだ話だったら当然とゆーべきか「通称O事件」についての言及もあったりして、「しかも書いた人間はその事を指摘されても、反省もせず開き直って、インターネットでまた彼らを無名(違う!)扱いしたり、夫妻の仕事を両方ともバカにしたりして自分の嫌がらせをレトリックと称してしまっていた」(137ページ)ってゆー認識を書いている。

 「書いた人物の詳細を私は別ルートから聞いていたから、それが超エリートあという事に仰天していたから、勤め人なら会社に言ってやる方が早くないのか、と話に入った時にすぐ尋ねた」「自分ならすぐ追い込む。粗相なんかしなくてもそういうお偉い方にダメイジを与える事はなんでもなかろうと無神経に言った」「もともと乾氏の周辺にいて憧れていたような若者ではないのかと尋ねてみた。答えはなかった」(137ページ)ともあって、別ルートって何だろーか、とか会社も知ってるんじゃないのかな、とか思いつつも戦うんだったらとことんまでをも勝つ道を探る気迫の凄さには身がギュッと引き締まる。引き締まったでしょ? それにしても片方では「反省もせずに開き直って」って話を聞き書きして「書いた人物は謝ってない」的なニュアンスを伝えている一方で、片方の当事者が「噂の眞相」で「謝ったんだけど許してくれない」と反論している辺りにも、問題が係争となって3年とか続いてしまっている原因がうかがえる。とりあえず10日に直接対決があるから、何がどーしてあーなったのかをお互いのやりとりから見て来よー。強い方におもねる蝙蝠野郎が持って行くのは「勝訴」の紙だけで良いかな。

 96年の最初の短編でインターネットに初めて触って面白かった話を書いていた人が、2000年の短編ではインターネットを「2秒で固まる猫ちゃんの『しっこ』砂で出来たゴビ砂漠」と例えていて、汚くも激しい例えに一体どーゆー変化があったんだろーかネットでいじられたんだろーかなんて考えつつも、現実問題大勢が日常的にネットに触れるよーになった今、ネットの特質は確実に変化していて、その変化によって生じる状況を例える時にこの例えはなかなか真理を付いている。「チイサくチイサく固まったしっこ塊は接合したり流れたり増えたりすんだ。そのしっこ塊の、なんらかの関連性を持つ事が出来て、しっこの上にしっこを掛ける事も存分に出来るし、誰かが来てちゃんとしっこしたのをもし頬っておけばそのしっこはたちまちその猫砂砂漠の一員になってしまう」(125ページ)。当人のあずかりしらないところで生まれ澱み溜まって埋もれれる噂のサイクルはなるほど例えのよーな雰囲気を持っている。

 中沢新一さんも西田幾多郎と田邊元の対立を取りあげた「フィロソフィア・ヤポニカ」(集英社、2600円)の中で「ネットワーク化した社会を生きる大衆は、小さな自己意識の周辺に集まってくる無数の前対象を、反省に送り返すことなくイメージ化することによって、現実の表現をおこなっているのにすぎない。」「このような主体でもなく対処うでもない、社会でもなく自然でもない、人間であると同時にモノであり、愛であると同時に量子的現実であり、グローバルでありながらローカルでもあんる、ハイブリッドな前対象の氾濫が、私たちの世界に危機をつくりだしている」(365−366ページ)と書いている。狭い所でチマチマしてる、ってなネットへのイメージは笙野さんに共通する部分がありそーだけど、ただし中沢さんはそーしたハイブリッドの氾濫を現実の基体と位置付けていて、それを排除も抑圧もせずそれに翻弄もされずに統御していく方法として田邊元の「種の論理」を持ち出して、今を否定せず未来を探るための1つの指針を示している。細かくタコツボ化して閉じこもっている世界の中間をつないごーとする試みこそが必要かもと思っていただけに、田邊元って人の哲学がその証明に果たして役立つものなのか、ちょっと調べて見たくなったけど中沢さんの本すら読み切れないからなー、ムズかしーことは哲学な人にまかせとこっと。


【4月3日】 掘り起こすとやっぱり83年の「プチアップルパイ2」に掲載された「ヒョウイ」あたりがルーツになるのかもしれない藤原カムイさんとの出会いだけど、以来20年近くが経過した今なお現役のそれも第一線で活躍できる漫画家さんになったとゆーのは実力から言えば当然とは思いながらも、一方ではかくも特殊な画風作風の人をちゃんと残せるだけの土壌が出し手と受け手、その双方にちゃんとあったってことで日本の漫画文化が持つ懐の深さ目利きの確かさに改めて感嘆の拍手を贈りたい、パチパチ。1冊3800円で高すぎる気もするけれど、これだけ詰まってるなら仕方がないし、ファンだからまあお布施みたいなもんだ、功徳もたっぷりあるし。

 ライフワークとも言える「H2O image」をどーにか完結させて凍結版の刊行も進んでいる藤原さんがここいらで過去の余りにも膨大でかつ雑多な仕事をまとめておこーって気になったのか、それとも20年近くを誇るキャリアが惹き付ける熱烈なファンの声に出版社も押されたのか、いきさつはしらないけれど過去にそれほど付き合いがあったよーには思えなかったエンターブレインから2冊の画集が刊行。題して「藤原カムイ画集 40GB」は膨大な仕事の量をそのまま言い表すよーな40GBだなんて我が家のマックな環境のおよそ40倍にもあたるデータがギッシリと詰め込まれていて、それこそ子どもの頃からの絵も含めて藤原カムイさんの絵とかデザインにかけてきた全精力をつぶさに見て取ることが出来る。巻末の年表といーとにかく労作の一冊。ここらへんにリストとかあるらしー。なぜ「フランケン」?

 高校生の頃から絵の巧さはやっぱり抜群だったけど驚くべきはやっぱりデザインのセンスで、シンプルな線でもってフォルムを描き出しそれをスタイリッシュに配置してみせる腕前は、今なお装丁とかでも発揮されてるよーな仕事の素晴らしさにちゃんと受け継がれていて、3つ子の魂踊り忘れずだったっけ、ちょっと違うけどつまりは子どもの頃から才能がある人はやっぱり大人になっても才能があるんだってことを見せつけてくれる。いや凄い。辿った仕事の中では「王立宇宙軍 オネアミスの翼」で衣装デザインなんかを担当していたのがちょっと意外、ビデオもDVDも持っているけど詳しく見たことないからクレジットが出ているかどーかちょっと分からない、でもどこか異国情緒漂いながらも妙にアジアっぽかったりするデザインはカムイさん的だったりするのかも。影山民夫さんの「トラブルバスター」のイラストは覚えているけど久美沙織さんの「百九十センチの迷惑」のイラストは元の本の存在すらも知らなかった。探してみよー、あればだけど。

 例の歴史教科書が検定通過した瞬間に時事通信がフラッシュを流したのにはよっと吃驚、それだけのバリューがあるニュースってことなのかもしれないけれど、たかだか教科書の1冊や2冊ごときにかくも世間が騒ぎ立てる状況さは、やっぱりどこか不思議な気がする。教科書なんて情報の羅列でしかなく、そこに書かかれてある記述はある出来事の側面は確かに映し出してはいても、思想心情のすべてを網羅しているものでは決してなく、歴史の全体像を写しているとは言えない。そんなものを唯一絶対の認識のよーに後生大事に仰ぎ奉り、一方的な思想心情を刷り込んで行く方が問題な訳で、いっそ左右両極に寄った2冊の教科書を両方使って何がどう違うのかを理解させて、その差異の背景にある運動なり政治なり思想なりをつぶさに解説してあげた方が、よほど教育に良いよーな気がするんだけど、不思議とそーゆー議論にはならない、何故だろー。

 例えばそんなことをやられると、「権威」に裏打ちされた「正義」を振りかざしても実は偏ってるんだってことを見透かされてメディアが特権に立てなくなるから、知らせず考えさせずに耳障りの良い意見を洪水のよーに流して受け手の感性を鈍化させているのかもしれない、ちょっと陰謀史観入ってるかな。そもそもが教科書ごときでこの幅広く奥深い歴史を学ばせようってことが不遜で、巷にあふれる歴史書時代小説年表その他の歴史に関わる書籍雑誌コミック講談のあらゆる要素を採り入れ検討しないことには、歴史認識の多様性は決して養われないと思うんだけど、そこは”単一民族”な思考が未だ根強い国だけに、多様性両義性よりは唯一性絶対性に取り込んで一枚岩の幻想に浸っているのが好きらしー。かくしてそんな教育を経て成長した人たちが、価値観の多様性に思い至らず状況認識の客観性を保持できない、どこかの総理大臣みたいなオレサマ系人物になって社会を埋め尽くして行く。譲らず絶対の自信を持って生きる人たちの熱意で世の中の温度は上がるかもしれないけれど、息苦しさも増しそーで気弱な人間としてちょっと先が思いやられる。思いやりって、どこに消えたんだろー。

 「電撃ゲーム小説大賞」で何故か金賞を獲得してしまった佐藤ケイさんの「天国に涙はいらない」の続編「天国に涙はいらない 畜生道五十二次」(メディアワークス、530円)がはやくも登場で、設定のちょっとどころではな不思議さに頭をトロケさせた前作のイメージを引っ張りながらも、前作での無茶苦茶過ぎるキャラクター設定が頭に慣れたかそれとも繰り出し方の緩急を作者が覚えたのか、読んで赤面するよーな設定なりキャラクターの言動のすさまじさはなく、オーソドックスにアバンギャルドな(どっちなんだ)ハードボイルドの涙物語(だからどっちやねん)となっている。化け猫と猫耳娘との何がどー違うのかってな重要問題の提起はなかなか。こーゆー不思議さでいっぱいの路線を突き進めば結構な人気シリーズになりそー、肉球はそーだよな、あった方がいーよな。死とゆー小道具へのドライさは相変わらずで、どーゆー感性が死への恐れめいたものから心を脱却させているのか、生い立ちなのか性格なのかも含めてちょっと聞いてみたくなった。ところで佐藤ケイって男性女性のいったどっち?


【4月2日】 こー言うと愛社精神バリバリのウヨだと思われてちょっぴり心外なんだけど、ちょっと前の一連の「新しい歴史教科書を作る会」が検定に出していた教科書に関する朝日新聞の報道っぷりから受けたのはやっぱり「ここまでやるのか」ってな行き過ぎを恐怖する感情で、「正論」の5月号で小堀桂一郎さんが書いているよーな「<ああ又やつているな>との感想が湧く。一種の不快感には違ひないが、もっと下位の、紙面作りの程度の低さに対する軽蔑の情である」(58ページ)とまで言い切るの潔さの域にはまだ到達してないけれど、いくら朝日新聞的な思考ロジックの結果生まれた政治的で意図的な記事だったとしても、どこか根本の部分で踏み間違えているよーな気がしてならなかった。

 つまりは予断を与えないためにどこの出自かは秘密にされている「白表紙本」の1冊をどこが出したものと特定して責めたてている不思議であり、真っ向から社論として批判するんじゃなくって「中国韓国にとっていかがなものか」ってな感じで外圧を引き寄せて懸念を示す良く言えば中立で悪く言うなら虎の威を借るスタンスを言論機関が取る珍奇さでもある。それとて確固たる信念に依っての1つの”悪書”を世に出さないために止むに止まれず取ったスタンスだったら許せはしなくても認めることは可能なんだけど、同じ「正論」5月号に掲載の稲垣武さんと石川水穂さんとの対談を呼んでいると、世のため人のためアジアのためってよりはむしろ内で上を見る心根から生まれた築地方面に特異な示威行為だったりする可能性が指摘されていて、そーした気分が1つの公器の顔を彩るまでになってしまっている現状に、政治ともどもこの国が抱える個も公もない”無責任”の蔓延の問題を改めて感じる。

 一大事が発生した時にゴルフを平気で続けてしまう総理の状況の見えてなさをメディアは批判しているけれど、外圧を招くだろーことが見え見えどころか外圧を誘ってる雰囲気すらある記事を1面のトップで流し、こーゆー教科書を作る人たちの意見はバランスが欠けていると、一方に組するバランスの悪さ丸出しな意見を堂々と開陳してしまえるメディアを、果たして世間が喝采して支持してくれるのかそんなはずはないよなってな可能性に、頭が少し回っていないメディアの状況の見えてなさも深刻とゆーより末期的。もちろん相手が白というならあくまで黒と突っ張り通して自説をカケラも曲げないカウンター勢力がいたとしたら問題だけど、思想心情への理解は理解としてそれが絶対ではなく当然反対意見もあるんだと承知の上でなお筋を通して来る”低姿勢”ぶりが最近の「正論」な一派にはあって、そんな真っ当さが心情は依然サヨであっても同情をウヨへと向けてしまう。「正論」が売れてるのは決して愛国心の復古でも半自虐を求めるマッチョへの回帰でもない、天秤に載せた際に傾くのはどちらかをちゃんと理解した上でのことだろー。

 もっとも「今の局次長、部長クラスというのは全共闘世代でしょう(中略)これが上のほうにおるもんだから、若い記者はこれはおかしいと思っても路線を変えようと思ってもなかなかうまくいかない」(72ページ)って見解は、左を180度ひっくり返した右の勢力もも割とあてはまったりするから難しい。例えばビジネスとして左右どちらかに旗幟を鮮明にするのは是認できるかはともかくあって不思議はないスタンスなんだけど、そーした方便が抜けてしまって「だめなものはだめ」とゆー具合に「絶対の正義」に凝り固まってしまった人たちが、左なメディアに限らず右のメディアにも溢れていたりするから始末に負えない。前線での紙面作りに発言権を持つそんな人たちが上へと進んで含蓄も諧謔もなしにただ「だめなものはだめ」と言い、そんな人に媚びるがごとく何の疑問もなしに同じく「だめなものはだめなんだからだめ」と輪をかけて訴える後進が続き、外圧ならぬ内心を煽るスタンスしかとれなくなった時、たどる運命は左とさほど変わらない、ってゆーか体力的に先に参っちゃうだろーから問題はより深刻だろー。

 記者には広報が取り次がないんだったら夜回りでも何でもして直に情報を取ってこいといいながら身内のこととなると途端にすべては広報を通してしか喋るなと引き締めてみせる神経質ぶりもお互い様で、結局は鏡の裏と表で同じことをしてるんじゃないかってな思考を常にじゃなくっても良いから思い出してみる真摯で冷静で客観的な視線を、外から内からすべてのおいて持ち続けることが大切なんだけど、それじゃー出世できないどころか望む仕事すら出来ないからなー、やっぱりメディアも政治ともどもフンサイされなきゃいかんのか、けど誰がフンサイしてくれるんだ。政治だったら極端な対立の構造ではない部分から出てきた勝手連が堂本暁子さんを千葉県知事へと押し上げてしまう人々の絶妙にして巧妙なバランス感覚の発露の場があるんだけど、マスコミにもそーいった変革のうねりが襲う時が来るのか。もしも訪れるよーなら末席ながらも当事者として座して待ちとう、死ぬ時を。

 「桜亭」ってゆーから何だと思ったら本当に桜の木が立っていたリンクスデジワークスのスタジオであれやこれやの見物会。「鬼武者」のオープニングにエンディング近くのCGを見せてもらって流石に表情までをも人間のリアルさに近づけるにはまだ相当の鍛錬なり資金が必要だってことを確認する一方で、それがクリアできさえすれば実写にマジで迫るリアル系な3DCGも珍しくなくなるだろーってことも感じる。つまりは金も技術もおそらくは最高峰なスクウェアの映画はおそらく映像的な面で文句はつけられないくらいの出来になっているんだろーけれど、映画ってのは別にシナリオって要素に演出って要素もあるから判断は保留。「日本ゲーム大賞」のビジュアル賞のノミネート5作品に4作品を送り込んだビジュアルな会社のビジュアルだけじゃない所をはてさて、7月には見せてくれるんだろーか。期待はともかく待とう。

 リンクスデジワークスではあと黒沢清監督の「回路」で長回ししているシーンで給水塔から人がドサリと落ちる場面のヒミツとかも教えてもらって、いわゆるエフェクト系なCGとは違うけれどフィルムの上じゃ難しいけど現実にはありうる映像を再現してみせる方向でのCGの使い方の可能性に改めて感嘆する。でも落ちて来る飛行機の迫力はあんまりなかったなあ、音響がついてなかったからかな。劇場では見逃したけどめDVDは出たら買おう、メイキングとか付いているのかな。他にスタジオでは金城武さんが「鬼武者」の時に使ったフェイシャルキャプチャーを簡略化したよーな、カメラが人間の顔を瞬時に認識して口の動き目の動き表情の変化を読みとって顔が描かれたCGに伝える仕組みも展示してあって、顔のパーツを認識する時間の1秒2秒ってな速さに時代はここまで進んでいるのかとちょっと驚く。CGのキャラの表情をパソコン前に座った訳者が自分の顔を動かして変化させられるってシステム、テレビでタレントなり司会者をCGキャラと掛け合いさせる時とか、いろいろな場で出て来そー。でもジム・キャリーみたいなゴム顔だと動きにCGが付いていけなかったりして。人間の偉大さはやっぱり機会では超えられない?


【4月1日】 ”新兵募集”を振り出しにいろいろな会社でいろいろなことをやって来て今もいろいろとやっているかのお人とか、その人とも繋がっていていろいろなことをいろいろな場所で言ったり書いたりしてテレビにも出てしまった人とかに、いろいろと言いたいことがあったみたいで実際にいろいろなことを言っていた組長で遅刻魔人でAIBO3匹な人の招集で、かのお人がやって来たいろいろなことを表にしてまとめる意向を表明しつつ171億円とかメモしてた黒幕な人なんかと連れだって新宿の西口から南口へと流れて続けられた飲み会を途中退場して帰る裏切り者に天罰を。

 けど仕方ない帰ったのはもちろん、「カウントダウンTV」にゲスト出演の宇多田ヒカルさんを見たかったから、ではないけれど半分くらいはそのとーりで、ちょっと前に出たDVDの何ともムッチリした姿態にフックラしたお顔から一転してスリムになったヒッキーの、かすれ気味なのに抜ける不思議な声が奏でる吐息のよーになめまかしい歌声を聴き、スリムな姿態だけにいっそう目立つよーになった胸のでっぱりに目を奪われてしまったのが運の尽き。明けて日曜出勤のために会社に向かう途中で近所のWAVEに世って最近出たセカンドアルバム「Distance」を買おうとしたら積まれた浜崎あゆみさんのベストに対して品切れでちょっと驚く。船橋受けするって事なのかな、ヒッキー。

 あるいは勝てないと分かって仕入れを絞ったのかもしれず、別の店に行くとちゃんと残っていたんでライブのDVDもこの際ついでとゆーことで購入する、しまった及川光博さんのDVDを買うの忘れた。会社で早速CD−ROMドライブをパソコンにつないで聴いたヒッキーのアルバムは、とにかく聴き飽きた感が聴く前から強くって結局買わずにすましてしまったファーストに比べると、ちょっとは聴いたことがあるけれど飽きるってほどじゃない曲が数曲くらいしか入ってない関係で割と新鮮に聴くことが出来て、独特の声質に身を悶えさせながらも耳に響くアレンジとか耳に残るメロディーとかを結構真剣に楽しむ。

 「CDTV」でも唄った「Can You Keep A Seacret?」の喉をヒュッとと抜けるよーに出てくる声が醸し出す切ない雰囲気も悪くはなかったけど、個人的に気に入った1曲は3番目に入っているアルバムタイトルにもなってる「DISTANCE」。アレンジでピコポコ入ってるオカズなメロディーも心地良いしサビの部分のヒネったメロディーの着地ぶりも鮮やかで、あの歳でこんなメロディーを若さの特権とか使わずサラリと書いてしまえる才能に、改めて感嘆の気持ちがわき起こって来る。ジャケットの写真もスリムで綺麗で藤圭子似で(藤圭子って実はあんまり見たことないけど)、ブームに終わらない活躍がこれからも期待できそー。良いアルバムです。

 重なる時には重なるもメディアの特性に加えて、かいったん気になると気になって仕方がない質も加わって、スリムになったヒッキーが表紙になって登場の「anan」4月6日号も購入、たったの3ページしか登場してないけれど角度も良いのか顎の線がちゃんと出ていて目のしたのダブつき感とかとれて顎もキリリととがった表情がなかなかで、髪をバックになでつけたロッカー風の写真のスカートからつきでた股のこれまた写真の魔術は真実なのかは判断のしよーがない細さが目に素晴らしく、人間やる気になれば出来るんだってことを実例として確認する、もちダイエット。

 そんな心境に応えよーとしているのか、同じ号の後の方はアサミだとか高須だとか渋谷だとか聖心だとか共立といった痩身豊胸ほか美しくなりたい人にとっての聖地みたいな場所の広告が詰まっていて、直接の関係はないんだろーけれどスーパースターの実例を前で見せつつ後ろで具体的な方法論を語る巧みな雑誌づくりの手法に、衰えたとはいえさすがは雑誌界のトップリーダーだと感心する。金重なった広告の後に来る一番ラストのコラムが林真理子さんてのもナイス、乙女心つかんでます。それにしても世の中にこんなに女性の体型とか見かけの改善に働きかけるビジネスがあるとは。某ネットワーク系な健康食品に鍋に洗剤会社とか換金系な30兆円産業とかからお金を頑張ってもらっている某新聞も、あるいは「エステ面」なんか作って記事を引き替えに広告を狙って来るかもしれないなあ、担当させられたらどーしよー、術後写真(バスト限定)くれるんなら考えても良いかなー。

 仕事しながら今日からテレビ東京系でスタートの「新・プラレス三四郎」を見る。萌えな時代の番組っぽく主人公は女の子になっていて操る「柔王丸」も美少女系と目に嬉しい内容に仕上がっている、大嘘です、けど操縦者の思い通りに動く人形をバトルフィールドで戦わせるって「機動天使エンジェリックレイヤー」の設定は、歳いっちゃった男の子にはどーしても昔懐かしい「プラレス三四郎」を思い出させるんだよなー。いきなりなお風呂シーンとか人形とは言え美女ぞろいな「エンジェル」たちの興奮と迫力にあふれたバトルシーンとか楽しみ所は満載で、”常識の女神”と呼ばれる強豪の操縦者(デウス)ながら実は5歳とかゆー小林鳩子ちゃんのおそらくはとてつもない愛らしさ(生意気らしーけどそれはそれで)にも興味が募る。日曜放映ってのも嬉しい所で来週あたりから移ってくる「ワンピース」ともども、その脳天気なオープニングを聞いたとたんに翌日から始まる辛い一週間が頭をよぎって気を落ち込ませる現象、人呼んで「笑点症候群」に沈んだ心をその愛らしさ、その爆裂さでもって吹き飛ばして欲しいねー。

 「MUSIX」に登場の辻&加護が案内嬢なエレベーターに乗れるんだったら10万円でも払って良いかもとか思いつつ後藤真希さまの新曲の振り付けでスカートのすそをちょっとだけ引っ張るシーンを抜いたカメラに羨望しつつ「フードファイト・香港死闘編」のベタなんだけど引っ張った挙げ句にちゃんと逆転のカタルシスへと持っていくあざとい巧さに時間を奪われつつ夜中までテレビ三昧。ふらりと変えた千葉テレビで放映が始まった「闇の末裔」を見て、耽美さで成る「西遊記」とまあ似たよーなもんかと思っていたら妙にちゃんとした絵ってゆーか、紙芝居じゃなくってしっかりと動いていたんで驚く。何時まで保つんだろー。続いて「こみっくパーティー」。眼鏡っ娘が関西弁だったりする設定のそれっぽさはそれとして、絵とかは割とちゃんとしてるからついつい見入ってしまう、流石はO.L.M。ノンケが場違いな即売会に行って熱気にハメられる展開は懐かしきガイナックスの「おたくのビデオ」と一緒、ってことはなるほどきっと「ガレージ同人誌」を作って最後はお台場に「同人誌ランド」を作る、ってすでにどれも出来てるじゃん、時代はすでにおたくの妄想に追いついていたんだなあ、涙。


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