縮刷版2001年3月中旬号


【3月20日】 「サクラ大戦2」を明け方の6時くらいまでかけてクリスマスのエピソードの手前まで1話分だけ進めて寝て起きたら昼でやんの。優雅にもならない休日の午後は流石に歳も歳なんで「横浜アリーナ」にぷちこ復活祭を見に行く気力が湧くはずもなく、寝たり起きたりまた寝たりしながらダラダラとした時間を過ごす。3週間分に溜まった洗濯物の実は全部を洗濯できる訳じゃなく、積み残してしまう分がどーしても発生してしまってそれがその時はシャツ数に靴下数足だったとしても、それが重なった挙げ句にいつしか部屋の隅にはうずたかく積み上がった衣類がしっかり場所を取っていて、脇のこちらは腰の高さを超えた本やら雑誌の山と空間占拠を競い合ってる状況に、改めて部屋をやっぱりどうにかしなければってな気持ちが一瞬だけ沸き起こる。

 とはいえそこは名古屋出身、天下に聞こえるケチな野郎にはどーしても引っ越しにかかる数十万円はかかるだろー費用が勿体なくって仕方なく、怠惰さも加わってすぐに「まいっか」となってしまってはや幾年、気が付くとフローリングだった床はすでに視界から消えて見えるは地層化した文庫に褶曲山脈化した雑誌に昭和新山も仰天の本の間を衣類の海が埋めるネイチャーな風景。隙間をギラギラを輝くあれは船虫? いえいえいわゆる油虫って奴がはいずり回る箱庭的野生の王国で湿っぽい空気を吸いながら、外は彼岸の賑わいの中を1人思索に耽るのであった、晩御飯何食べよー、とかってな。

 そんな部屋に1日居ると、花粉症にはかからないけど代わりに何か人類としてどうしたものかとゆーよーな病気にかかる可能性もありそーなんで、ちょっとだけ外を出歩いて新聞なんかを買ってみる、といっても「週刊将棋」だけど。指せもしないのに業界動向には妙に執心する本末転倒野郎の性でもあるけれど、たとえ滅茶苦茶強くっても「名人」に挑戦するためには最低でも確か5年を必要とする将棋界のゆるぎない仕組みの中で頑張ったりあがいたりしている棋士の人たちの集大成とも言える「順位戦」での昇級降級が出そろい始めてて、そこに生まれるあと1つ勝てば確実だったとか勝ち負け同じでも順位が下なんで頭ハネになったとかいったドラマめいたものも含めて結果を見るのはなかなかに楽しい。

 とりわけ大量44人が所属するプロになった初っぱなに属するC級2組は、あの羽生修治5冠王ですら確か抜けるのに2年かかった”鬼の住処”。その昔に河口俊彦7段だかが雑誌のコラムとか朝日新聞の社会面に「大山15世名人の再来」として紹介し、その評判に違わずしっかりとプロになった渡辺明4段ですら、最終局の負けが響いて相手に昇級を持っていかれるドラマがあって、こちらは名人への挑戦権を争うA級への昇格がかかったB級1組での争いで、最終局に勝てば文句なしにA級への夢がひらいた郷田真隆8段が敗れる事態になって、代わりに去年の4月に昇級したばかりとゆー強さの波に乗ってるって言えば乗ってる2人、三浦弘行7段と藤井猛竜王がそろって昇級となるとゆー、やっぱりドラマが生まれてたよーでこれだからたとえ指せなくっても棋界ウォッチは楽しいんだってことを改めて実感する。

 藤井竜王の昇級でとりあえず最高な10人プラス名人も入れれば11人のトップ棋士だけしたたどり着けないとか言われてたA級の地位に、丸山忠久名人は当然として羽生5冠王も併せてすべてのタイトルホルダーがA級以上に揃った訳で、時に快進撃を伝える若手でも最低のクラスだったりした状況から一転して、強い人たちが強い集団を形成する至極真っ当な「順位」に「順位戦」もなって来たって言えそー。まあ1人で5つもタイトルを持っている人がいるからこその状況なのかもしれないけれど。

 その羽生は棋王戦でくらいついて来た久保6段を下して11連覇を達成の快挙。年間大局数ではタイを記録して次も決まってて更新は確実で、勝ち星でも自分の持ってた年間最多を更新中だったりする、将棋界にとっては記念希に見る話題性の豊富なシーズンになったみたいだけど、あの7冠王とゆー空前にして事実絶後な快挙の達成に湧いた時から比べると、丸山って知らない人は全然知らない人が名人についている状況は、どーも床の間の石みたく座りが甚だ悪いし、名人と同格(賞金の額が同じだから?)な竜王の藤井さんもやっぱり羽生5冠王の実績の前には霞んでしまう。ここはやっぱり渡辺さんにとっとと上へと上がってもらって、秘められた”強さ”を事実としての”強さ”でもって見せつけてもらえれば、今再びな将棋ブーム(1度目があったかどーかは知らない)の熱が高まるってこともありそー。ヒーローはやっぱりどこの世界でも必要不可欠な存在なんだねー。

 読んでいて見つけたのは朝日新聞が「全日本プロトーナメント」の仕組みをがらりと変えたってゆー記事で、全国紙ではすっかり弱者になってしまった毎日新聞が主催する「名人戦」に、新興成金よろしくお金だけはボンと張り込んだっぽい読売新聞主催の「竜王戦」とゆー2大タイトルを頂点に、合計で7つのタイトル戦が年がら年中繰り広げられているんだけど、クオリティーでは世界一と自負する朝日になぜか「タイトル戦」てのがなくって、それゆえに改革を通じてタイトル戦では常套な「挑戦者を名乗りを上げよ」的システムへと変えて番勝負の制度を導入することで、すぐには無理でもタイトル戦へと育てたいってな意志の現れなんじゃないかと瞬間思う。けどまあそこは将棋界、タイトル戦にするならするでメディアの力に見合った応援を求められるだろーから、やりたいって意志はあっても前途は揚々とはいかなさそー。タイトル戦にするならどんな名前になるんだろーか、日本の雰囲気に浚われない感性が生み出す、かつての「竜王」誕生時以上の衝撃をもたらす名前になるんだろーか、「築地魚市場王」? それじゃー「TVチャンピオン」だよ。

 山之口洋さんが稀代の詩人にして天下無双の泥棒に自分語りをさせたエンターテインメント歴史小説の傑作「われはフランソワ」(新潮社、1800円)の面白さも醒めやらぬ中で、遠くローマ帝国の初期に為政者となった皇帝たちの列にあって、先代の「カリギュラ」に跡継ぎの「ネロ」とゆー不埒な悪行三昧な人ばかりをしていた皇帝の間に挟まって、目立たないことこの上なかった第4代ローマ帝国皇帝「クラウディス」の、苦労しながらも頑張った話を収録してある「この私、クラウディス」(ロバート・グレーヴズ著、みすず書房、3800円)が満を持しての登場に、同じく人間の生涯をつづった歴史小説として、「われはフランソワ」との共通項なんかも探して読み比べなんかしてみたくなる、タイトルにも何か似た所があるし。

 クラウディスの自伝として20世紀の作家が書いてみた本だってゆー仕掛けは最初から分かっているから良いとして、結婚離婚再婚を繰り返す男女の津波が人の名前を覚えるのが苦手な神経を襲って、誰のことを書いてあるのか迷ったり見失わせる場面もあって、エンターテインメントとして圧倒的な面白さだった「われはフランソワ」以上の時間が読み込むためにはかかりそー。とはいえ15時間ばかりをかけてよーやくフィニッシュしてシステムファイルにセーブデータを残せた「サクラ大戦2」に続いて多忙の「サクラ大戦3」が登場して、猫レオタードなんて衝撃的な映像を目の当たりに見せてくれるだろー週末に、果たして本なんか読んでいる暇があるんだろーか多分んないんだろーな。値段は高いけど導入部ですでに面白そーな匂いたなびく「この私、クラウディス」。読み終えて感動に嘆息できるだろー時が訪れんことを切に願う。嗚呼やっぱり本の山脈にフルタイムで押しつぶされるんじゃなく、活字の海にフルタイムで溺れていられる時間が欲しいよー。


【3月19日】 一瞬、イザヤ・ベンダサン=山本七平的なガイアツを使っての日本論めいた本かと思ったんだけどM.k.シャルマって人の書いた「喪失の国、日本 インド・エリートビジネスマンの日本体験記」(山田和訳、文藝春秋、1762円)、98年から去年くらいまで「諸君」ってオピニオン誌の上で分載だか連載だかされていたからには偽書なら偽書だってな話題も巻き起こっただろーはずなのに、あんまり噂を聞かない所を見るとちゃんと帯にもあるよーに「インドの寂れた本屋で発掘した一冊の『自家本』、そこには瞠目すべき日本人論が展開されていた」ってな感じで、偶然に訳者が巡り会ったものを「これは!」と思って翻訳したものだと考えて果たして良いのかそれともやっぱり違うのか。表紙にその私家版の本の写真がちゃんと掲載されている所をみると実在してたと考えて不思議はないんだけど、日の丸の扇子が描かれていたりしてイカニモ感があって悩ましい。

 けどまあ、著者のプロフィルの細かさとか日本で出逢った人のおそらくは実在しているっぽい雰囲気があって、例えば20章の「さん、君、先生、ちゃん、坊……」に出てくるインドに関する本を出した重松さんって多分重松伸司さんのことで、調べるとちゃんと93年に「マドラス物語」って出してたりするから、その辺りから調べれば多分ちゃんとシャルマさんも実在したんだろーと分かるだろーし、そんな実在云々よりもこの本に書かれてある内容の、日本人には当たり前のよーに思われていることでも外国人には奇異だったり意外だったりする、行動習慣味覚思考ほか諸々についての指摘も多分に納得できるものが多いから、誰がどーとか考えることなく読んで楽しめば良いんだろー。ビジネス慣行とか住環境への指摘よりも、日本で出されているカリーの実は真に「インド人もびっくり」な状況への言及も含めた食習慣のギャップがやっぱり面白く思えてしまうのは、やっぱり食が万国に共通な「言語」としてより身近な問題として感じられるからなのかも。なるほどご飯にかかったカレーは誰かの食べ指しだったのか。

 10日後に紙面刷新なんかを考えていそーな割には人員配置も面割りも紙面構成もレイアウトもてんで決まっていなかったり決まっていても上のホンの一握りの人しか知らない状況で果たして現場は動けるのか紙面を組む整理の人はついていけるのか新連載が始まるならカットはどうするんだそもそも原稿の依頼は出来ているのか云々ってな、直面している問題があるんだけど現状ではやっぱり上の方しか知らない状況になってて下っ端には関係ないんで粛々と終業して有名人ストーキングに行く。1年前ならどれほどの影響力認知度があったかは分からないけど現状では例えば「噂の眞相」に写真入りでインタビューが出て今日発売の「週刊プレイボーイ」にはネクタイを締めてる写真も掲載されてるってな具合に露出が相次ぎ著作翻訳も相次いでいる山形浩生さんだけに、トークショウの会場になった「青山ブックセンター」には100人だか150人だかの人が詰めかけほとんど満席状態で、例の裁判が始まった当時は無記名のライターあるいは翻訳家としか新聞の紹介されなかった時代との隔世の感を抱く。

 誰か相手にセッションでも繰り広げるのかと思ったら壇上に並んでいた椅子は1つで登壇するなり喋りはじめた山形さんは質問コーナーも入れてキッチリ2時間喋り通して、初めてとゆー割にはあるいはプレゼン馴れ? している所を見せてくれる。内容は最初が「山形道場 社会ケイザイの迷走に喝!!」に絡んだ自らが中間レベルでいることの意味めいたものについて話してくれて、入門書と銘打ちながらも内輪なり専門家でしか通用しない言葉やら見方が並んでいる本の多すぎる現状とか、言文一致なんて言いながらも書き言葉による小説でのセリフの格好付けぶりの不自然さ(女性言葉についても同様)なんかに触れつつ本当に専門の人と、本当に普通の人ととを接続させる言葉の無さへの疑義を表明してはそーした部分に「紹介屋」として絡んで行く自分のスタンスについて、後の質疑応答なんかも含めて話してた。

 思いつきなら誰でも出来てそれを立証する人が偉いんだとゆー教えに納得しつつも、だからといって立証に向かうには根気がない、あるいは立証しなくても肌で感じ空気で伝わって来る部分があって、それを分かりやすく言語化して見せる方が心落ちつくタイプの人間だからこそ、アカデミズムとはちょっと違った場所に立って世間に喝を入れる行動が中心になってしまうのかも、何かもったいない気もしないでもないけれど。続いて話し始めた最新の訳書「インターネットの合法・違法・プライバシー」(ローレンス・レッシング著、山形浩生・柏木亮二訳、翔泳社、2800円)に書かれた内容の紹介でも、もやもやとした中で気付いてはいたことでも理論化して本にまとめてみせる仕事ではレッシングに先を行かれてしまっている訳で、思想とか輸入に頼らざるを得ないこの国から世界に通用する思想が生まれるチャンスを逃してしまったよーな気もしないでもない。それを翻訳して紹介する仕事でも十分に意義はあるし有り難いことなんだけど。

 「週刊プレボーイ」の著者近況の中では「コードとサイバー空間のその他いろんな方法」なんてタイトルになっているのは、原題を直訳したからなのか元がそーゆータイトルで出そーとしたからなのかは知らないけれどこっちの方がそれっぽい気もしないでもない。書店でちょっと大きめの半で黄色い放射状の線が描かれた上に「インターネットの合法・違法・プライバシー」なんて日本語の題名が書かれると、コンピューターに絡んだ難しい法律関連書のよーに見えてしまって、あるいは損をしないかなーとか思うけど、まあ訳者が訳者なんで知ってる人なら名前買い、そーでなくても数週間のうちに話題になるだろーこと必定の本なんで、タイトルの堅さなんてこの際関係なさそー。

 内容についてはあんまり読んでないから後日考えるとして、先の「山形道場」に続いてこの本もやっぱり表紙に穴があいているのは不思議な共通点。直接つながらないけどサイバーっぽいって意味でマーク・ペシってVRMLを作った人の書いた「ファービー」に「マインドストーム」に「プレイステーション2」とかを取りあげた「プレイフル・ワールド」(金子浩訳、早川書房、2400円)も明治のチョコレートみたな装丁にしっかり穴が開いていたりするから或いは何かしらの狙いでもあったのか、ブックオフに持っていくとマニュアルでは破れと診断されるから売られないってな効果を狙った、とか)。

 休憩も挟まないけどパート3ではウィリアム・バロウズに関することを幾つか。何でも夏頃をメドにバロウズ関連の本をまとまった形で出すみたいで、それに関連してカットアップの手法で書かれた単語の羅列のよーなバロウズの文章を、自分でシーンを補い流れを整理して物語的な文章にしなおして翻訳することに挑戦していて、実はほとんど読んだことのないバロウズだけど、例文として上げられた「時の風」のとにかく場景描写の不規則な羅列に過ぎない原翻訳が、長くなるって意味では正反対な意味での超訳を経たリライト版では分かりやすい物語になっていて、難解なものをまさしく”翻訳”してみせる自らの役割めいたものを例示して見せてくれた。

 想像するならバロウズを読んだ人が頭に描いたシーンが果たして他の人と同じではなく従ってリライト版の描写がどこまで万人に共通のバロウズになり得ているかは不明、とは言えそこは昔からバロウズやって来た人ならではのバックボーンもあるだろーから、描き直された絵を見てそこから逆に単語の羅列へと戻り突き合わせながら羅列された単語の意味の汲み取り型を身に付ける訓練のテキストとして使えそー。慣れると何でもナボコフをバロウズ風に出来るとかで、それも夏の本に入る予定でバロウズな人には乞うご期待。

 自由を規制させないような規制を作るとゆー、矛盾していそーだけど実際問題そーするしか自由は守れない状況について書かれてあるらしー「コード」を引き合いにしつつ、結婚からも子どもからも仕事からも自由であろーとして事実そーあったけど最後はちょっと寂しかったらしーバロウズの、定型から自由であろーとしてあり過ぎた挙げ句に自由でなければならないという”自己規制”めいたものにからめ取られてともすれば訳の分からない文章になってしまった著作についての印象も話していて、自由について考える時の不自由さ全否定なんて現実世界では押し通すのに苦労しそーな理想論をふり上げて降ろせなくなるよりは、戦略として「規制」を使うことも選択肢に入れておく、でないとまずもって規制ありきな奴等の狡猾さには勝てないってな主張を、例えばメディアに対してかかろーとしている様々な規制の問題に敷衍させて考えることは可能か、なんてこともふと思ったけど当方バカなんですぐにはちょっと理解が及ばない。まあ「横浜アリーナ」も行かない事だし明日にでもユルユルと考えてみよー。


【3月18日】 タイミング良過ぎ、なのか悪過ぎなのか判断にちょっと困る「サイゾー」4月号の特集「消えた話消された話」に登場の我らが功さん。「大川功CSK会長が手がけた常識を超えた3つの”潰し”」って記事にしたためられたネットバブル潰しにセガ潰しに食道ガン潰しのうち、ネットバブル潰しに関しては結果的に潰れて良かった訳なんでもしかしたら誉められたことかもしれないし、セガ潰しに関しても中山さんが陣頭指揮を執っていた時代から正直「サターン」の在庫の山をどうするこうする数百億円の社債をどうするこうするって問題になっていた訳だから、当事者ではあっても原責任者とまで言えるか否か、むしろ延命に寄与した事実をもって原罪は消えてるって説もないでもないで正否はちょっと保留したい。

 タイミング的に可愛そうだったのが食道癌潰しの「クラッシュ3」で、潰し切れなかった結果が一昨日からの大騒ぎになってたりするんでやぱり無理筋だったんだろーかとも思うけど、11月1日に登場した時に見かけはヒョロヒョロでも喋りはしっかりしていて1時間を直立したまま話し続ける体力も見せてくれた、その姿にありはもしかして快復したんだろーかと思ってしまっても不思議はなかった。あるいは武田信玄よろしく影武者で中には西和彦さんでも入っていたんだろーかと想像したけどあの細さでは西さんはちょっと無理だろーからやっぱり当人がセガのために気力を振り絞って耐え切ったってことになるんだろー、下に恐ろしきは執着なり。

 「潰れた愛すべき雑誌の”ホンネとタテマエ”」にどーして偉大な電脳カルチャー(死語)の伝道誌にして我らが(こればっか)コバヘンの今へと至る地歩固めに多大な役割を果たした「WIRED」日本版が入ってなんだろーかと悩んだけれど、2つ3つは当たり前な「マガジンクラッシャー」の列伝に名を轟かせるにはきっと1冊では洟垂れ扱いされるんで遠慮したんだろー。同じ雑誌を持った人がレジの列に並んでいる姿を実は初めて見た以上は、某「サイゾー」を引っ提げクラッシャー編集長の列伝にその名が刻まれるのはしばらく先になりそーで、ネタへのしがいはないけれど面白い雑誌がしばらくは続くんだと考えればまあ気も休まるとゆーもの。今の所も未来的にもきっと永遠にマイナーな当方に「病」の矛先が向けられる可能性は皆無だったりするから、応援もきっと当面は続けられそー。でもやっぱり続いて欲しいかなー、本人の体裁と社員の雇用を向こうに回して大見得を張る「クラッシャー藝」をそろそろ見せて欲しいなー。

 ちなみに今号の「メディカルラボ・サイゾー」はちょっと前には誌面にだって出ていたエッセイとかコラムとか映画評とか美女とか野球とかを書いてる、らしーリリー・フランキーさんが対象で、題して「A巴里型怠惰性自我過肥大症」なんて付けられて可愛そう、かと思うもののしかし字面から受ける印象も案外とスンナリあてはまってしまいそーで、つまりはそれほどまでにキャラクターも際だって来たってことで、一介の業界系だった人もメディカルな分析の対象になり得るだけの偉大な存在になったんだと、笑わず真面目に受け止めることにしよー。月20本の連載も「マガジンハウス」での仕事もおそらくは100年経っても無理だろーから、せめてキャラくらいは立てとかないと生き残れないんだろーなーこの業界、下北沢に住んで自信満々に人生について語るか、やっぱ。

 「神風怪盗ジャンヌ」の時は受け止める側にどーしても「セーラムーン」の印象に加えて「キャッツアイ」みたいな怪盗物の要素も見てしまう傾向があってちょっと存したかもしれなかった種村有菜さんだけど、新刊の「時空異邦人KYOKO」(りぼんコミックス、390円)は極端に目が巨大になることもなくバランスのとれた顔立ちで、且つ体も顔との大きさの対比とか手足の太さのバランスとか動きの人間っぽさが確実に要素として深化している節があって、とにかく見る人の目に対する絵が持つ健康度が上がっていて驚いた。表紙の絵とか連載時の扉の絵とかをとって見てもデザイン的にまとまっていて絵画的にも綺麗で、それでいて「ジャンヌ」とも共通する種村さんらしさがちゃんと絵にあって、1度見たらしばらく忘れられない存在になっていた。

 肝心のお話しはと言えば、一見ただの高校生なのに本当は未来の地球を統べる「地球国」のお姫さまで、お忍びで学校にいってフツーの学生生活を満喫していた所に、しきたりとしてやって来たお姫さまの誕生式典に出なければならない事態となり、それでもフツーでいたい姫君の響古(キョーコ)は夢をかなえられる代わりに双子ながら生まれて16年間を眠り続ける妹を目覚めさせるヒミツの小道具を集めなくてはならなくなる。高校なんてあるから都会っぽい王国なのかと思ったら外に出れば森もあるし魔人とかが棲んでいるファンタジー調の田舎っぽさ漂う王国で、不思議な時代のネジレを感じずにはおかれないけど、小気味良く進むテンポに挟み込まれる小ネタのギャグ、それでいて結構深刻な伏線も張ってあったりする物語としての楽しさも用意してあって読んでいて不思議を違和感も反感も抱かず読み進んでいける。

 絵だと4話の扉絵に描いた緻密な時計の文字盤をバックに主要キャラクターたちがそれぞれのポーズを決めてる絵の巧みさ細かさ美麗さといったら。おそらくはカラーで描かれてたんだろー連載時の色遣いとかちょっと見てみたい、原画集はまだ出てないだろーからやっぱ古本屋を探すか、っても「りぼん」なんてないよなー。姫のボディーガードについているたった2人だけ生き残った竜族の兄弟に秘められていそーな過去とか裏話とかありそーで、今後の展開の中でどんな裏切りなり信頼の関係が描かれるのかに興味が及ぶ。早く続きとか出ないかな。キャラクターだと国王のペットとかゆー猫型アンドロイドと言いながも見かけは「ぷちこ」なその名も「ちょこら」が良い味出してて楽しい。こーゆー部分でのインスパイアなのかそれともシンクロニシティーは歓迎します、だって可愛いし。「肉球」さわりたいよー。


【3月17日】 って訳で会社に行ってお悔やみ原稿をグジグジと。とにかく山ほどの人間を集めて来ては相手の企業へと送り込んでソフト開発関連の仕事をしてもらってお足を頂戴するまるで人材派遣みたいな仕事が中心だった時代が果たしてあったかなかったかは知らないけれど、それとてモノ作りとはちょっと違った良く言えばヒューマンリソースを活用したソフトビジネスって言えないこともないかなあ、なんてことを思いながら「形のないものを売ってる会社を初めて東証に上場させた」ってな感じのコメントから引っ張ってソフト化した日本経済を早い段階に予見した偉大な人、ってな心のたぶんどこかで思っていることを引っぱり出して美辞麗句にしたためる、これぞ御用記者の真骨頂。

 95年だかに開かれた経済サミットに民間代表として乗り込んではアスキーの西和彦さんが発案したらしー例の「ジュニアサミット」を提唱してかつ秋に日本で開催してそれなりな成果を修めたのが果たして腐れ縁だったのか、後に経営が悪化したアスキーを助けよーとしたは良いものの中身を見ては吃驚仰天、それでも西さんを助けたかったかあるいは「ファミ通」「アスキー」のブランドに固執したか莫大なお金を突っ込んでどーにかこーにか立て直してしまったくらいに西さんのことを買っていたりして、そんなことを人間に対する情愛の深さを現すエピソードとして記事に盛り込む。えっ中山? 入交? 廣瀬? 誰だったっけ。

 経歴を振り返ってみると早稲田大学への多額の寄付とか米MITへの莫大な寄付とかいった名前を残す行為もたくさんしているから、もしかしたら2年先3年先には無駄になってしまう、かもしれないお金であっても850億円くらい好きに使ってもそれが本望なら仕方がない。正直マジにこの人が去年とか一昨年だかの段階で莫大な第三者割り当て増資に応えなければ、でもって今回の財産贈与を果たして経営危機の懸念を払拭しておかなかったら22日に発売の「サクラ大戦」は出なかった訳で、例えゼネラルプロデューサーが入交昭一郎さんじゃない初の「サクラ大戦」になっていたってそんな瑣事など気にせず誰もがありがとう功さんと心の中で叫びながら、コントローラーを握りしめ夜を明かす日々が間もなく始まることになるだろー。

 少なくともオープニングだかのムービーのクオリティのバカ高さは感嘆もので、中身がどーかは知らないけれどテレビCMの猫耳レオタードでのダンスシーンを目にした段階で既に頭の中では10点が連続のプラチナ殿堂ソフト入りしてたりするんで、今はちゃんと「ドリームキャストダイレクト」からソフトが多分限定版のオルゴール付きで届くことを祈りつつ、ついでにちゃんと「セガガガ」も喪中につき不謹慎だなんて非難から自粛されるよーな羽目にならず発売されることを願いつつ、実はまだプレイしてなかった「ドリームキャスト」版の方の「サクラ大戦2」をどーしよー、やっぱり「すみれ大戦2」が良いのかな、それともやっぱり「紅蘭大戦2」がいーんだろーか、とにかくプレイしてデータをビジュアルメモリに残すよー、不眠不休の日々に浸ろう、埋もれてしまったコントローラーの代わりに今日、ちゃんと別のコントローラーも買って来たし、「サクラ大戦」仕様2800円也のを。

 もしかして社員から目茶愛されてたんだろーかそれとも人間としての理性が働いたんだろーか、新宿某所で開催の「ドリキャス終了記念 サターン復活祭!」にはセガな人は誰も姿をみせず昨日の今日でどんな良い思い出話が聞けるんだろーかと期待してていたからちょっと肩すかしを喰らった気分、でも代わりに去年の11月1日、多分最後くらいに大勢の人の前へと姿を見せた大川さんをショットした写真を伸ばして飾って集まった熱狂的なセガファンの人たちに黙祷を捧げてもらう。奇妙なゲームが多かったとか経営が滅茶苦茶だったとかファンの気持ちを裏切ったとか行って憤ったり茶化しているよーでも、ことセガのソフトに対する情熱では世界の誰にも負けない人たちばかりが集まっていたイベント、そのセガがここまで延命できたのもすべては大川さんのお陰だってことをちゃんを分かっている、と思う人たちばかりなんで、権謀術数をしたためた視線でもビジネス上のクールな視線でもない、ひたすらに熱い思いを受けてきっとシアワセだったことだろー。届いたかな、あの喧噪が。

 しかし噂には聞いていたけど「デスクリムゾン」、まったくの初心者がプレイしてマジで10秒もたない高度さには驚嘆すより他にない。いったい何がどーなっているのか分からないマッハでミクロな展開は、まさしくナノテクノロジー時代に相応しいゲームと言えるだろー、って心にもない誉め言葉をしてしまったよ小野さんみたいだ。「風水先生」の家を動かすチカラワザとか見ても驚嘆、あのガビガビのテクスチャーってもしかして芸ですか芸術ですか。ポリゴンってゆーのか羊羹の組み合わせみたいなキャラがバトルする「フィスト」も凄いなあ、「バーチャ」の後であれを出すか。「ふっくん」こと「ワンチャイコネクション」は確か羽田の発表会に行って杉本彩さんを見たなあ、懐かしい。懐かしいままにしておきたかったけど。

 「ドリキャス」になって絵だけならそれほど酷い作品は少なくなった、よーに思うし(「ゴジラ」とかってどーだったんだろう)「プレステーション2」はクオリティに輪がかかっているから、ソフトの出来を見て驚くってことがあんまりないんだけど、「セガサターン」の時だととにかく平べったい絵が切り替わっていただけの世界から、一気に立体だったり派手に動いたりする世界がテレビから飛び出して来て、その衝撃に脳天を直撃されたっけ。トレジャーの名前忘れた複数のキャラクターが登場しては群がる敵をぶち倒して行くゲームとか、「エネミーゼロ」の長いけどクールな(寒いっていみではない)オープニングとか、今見てもなあのハードをよくぞここまで使い切ったってなゲームが数多くあって、何だい良いハードだったじゃんってな思いを抱く、けどやっぱり今さらだなー。これだけのものを作って会場にあつまるこれだけのファンがいて何故勝てなかったのか。これだけしかファンがいなかったからなのか。後代の人は歴史として研究してくれい。

 歴史とまではいかないけれど過ぎ去って行くゲーム雑誌搖籃期の話を「Hippon super」なんかで活躍して今は「フォー・ザ・バレル」なんかで知られる大塚ギチさんにインタビューして経緯を記録する役割を果たしている同人誌「インタら」を赤尾先生ん所の学生にもらう。インタビューする側の人間なんであんまりどんな経歴があってどんなスタンスで文章を書いたり取材したりしているのか分からない大塚さんが珍しく自分の話をしていて、ゲームライターというジャンルの中と外との求められるスキルの違いみたいな部分とかライターの向上心の話とか、ライターとして仕事をしたいと思っている人にはちょっと面白い内容かもしれない。

 内にこもって内輪にしか通用しないスキルで仕事をすることを嫌っている一方で一般の新聞やら雑誌やらテレビが歴史も経緯もふまえずヌルく世の中をしたり顔でまとめる風潮も嫌いみたいで、とりわけ後者への指摘には耳も痛む。そんな針の上を歩くよーなスタンスから果たしてどんな仕事が生まれて来るのか。これまでもこれからも当方とは重なる仕事はなさそーだけど(会ったことも見かけたこともないし)、インタビューでの心情も踏まえてその行く末を観察していこー。ちなみに同人誌「インタら」は夏コミでも発売するとかしないとか。頑張って刷って売って下さい、その前にとりあえず当選するのが先だけど。


【3月16日】 大川功死去。ふーんそれで? ってな具合に気乗り薄な感慨しか湧かないのは、どうにも死という人間にとっていつか訪れるものに対してそれほどの感情を持っていないことに加えて、夏に大病を患い一時は復帰を果たしたもののこの所の重要な席にてんで姿を見せなかったことから多分、そろそろだろーと思っていたからで、だいたいが年齢からして70を半ばも過ぎた人だから、たとえ日本の平均年齢が80歳近くになっていたとしても、決して若死にだとは思えず従って驚きとゆーよーな感想なんか浮かんでくる余地はない。強いていうならあの秋にもらった「全快祝い」の饅頭はいったい何だったんだろーってことで、それが本人も了解の上でのパフォーマンスだったとしたら流石は武田信玄、じゃない大川さん、経営の根幹に関わる自らの存命をアピールするために大きな芝居をそれも徹底して打ったんだねと感心する。本人が本当に信じていたとしたらそれはちょっと寂しいことだけど。

大川功饅頭  1人の故人として哀悼の意は送るとして、しかし人の評価は棺を覆ってから決まると言ってもことセガの場合は冠を覆った布をはねのけて本人の意識が飛び出して来るんじゃないかと思わせるくらいに未だ先行きの見えない状況の中を航海していて、その行く末が分からないうちはとてもじゃないがセガにおける大川さんの評価はちょっとたてられそーもない。なるほど中途半端な「セガサターン」事業からネットワーク機能を売りに出来る「ドリームキャスト」へと駒を進める先見の明はあったし、発売前後の大CM攻勢でもって「ドリキャス」をその年で1番とか2番とかに注目される商品へと押し上げた秋元康さんを起用する柔軟性はあった。ただし秋元さんの路線は例えば訳の分からない「ゴッキー」シリーズとかではまったく尻尾をつかねなかった訳だし、これは一体誰の発案だか未だ知らないんだけどそれをCMにしよーと言った発想からして下品な湯川専務の常務降格人事での悪ノリぶりもあった訳で、生産の遅れが招いた商機の逸失を結局最期まで取り戻せなかった。黒星白星で言うなら圧倒的に黒星の方が多かっただろー。

 ネットワークネットワークとお題目のよーにとなえた割には肝心のコンテンツが付いてこず、キラーコンテンツになりえるパワーを持った「ファンタシースターオンライン」が登場した時点ではすでに遅いどころか終末も決まりかかっていた訳で、某社外役員の人はそんな大川さんにコンテンツの重要さを説いたにも関わらず結果入れられず、そればっかりがじゃいんだろーけどそーした路線の違いもあって結局役員を降りてしまった、らしー。最近になって会社に850億円とかを寄付して会社を立て直そーとしたけれど、雇用は維持しても結局は狭い範囲での誰かさん(つまりは自分)のしりぬぐいにしか役に立たないお金な訳で、同じ額が例えば何かの基金に回って世のため恵まれない人のために使われるべきじゃなかったか、ってな意見も聞こえて来たよーに結局は自分の手の中にある玉が可愛く磨いてばかりいただけの人だったのかもしれない、セガでの活動に限って言えば。

 日本でソフトがまだコンピュータのおまけだった時代にソフトを作ってサポートすることがビジネスになると考え計算センターを作って後にCSKとして成功させた人として、大いに高い評価を与えられるべきだとは思う。買収した会社の中にも例えばベルシステム24のよーにテレマーケティングの分野では日本でも有数の会社があったりするし、弱体化していたアスキーを救った結果がパソコン週刊誌としては異例な売れ行きらしー「週刊アスキー」の発行につながったとも言える訳で、部分部分での成功話はそれこそ枚挙に暇がない。ただ最後の最後に惚れて惚れぬいてしまったセガが実にやっかいな存在で、かつ自分の寿命への焦りもあったのか事を急いた挙げ句にし損じた感が多分にあって、残念だけれども少しポジションを見誤ったのかな、ってな気がしないでもない。

 そんな時間の待ち切れなさがスカウトして来た人材の性急には結果を出せないことへの苛立ちとなって排除につながったって可能性も否定できないだけに、老いらくの恋の成り難さを示す1つの実例として見てしまう。乗り出すタイミングがあと10年早かったら……終わるのも10年早くなってた? それは分からないけれど、ともあれ布石だけは打っていった跡を襲って残された人たちが託された遺産ともども果たしてセガをどう切り盛りしていくのかが、覆った棺の下にある大川さんの人を見る目の冴え曇りのいずれかを判断する材料になる。死んだ人に恥をかかせたくなかったら頑張るしかないんだろーけど、振られた賽子の出た目が指す方向は一直線でかつ不可逆な道、それを越えていくために回る車のタイヤのメーカーも特性も実にバラエティーに富んでいて、途中で分解するか立ち往生するがスンナリ走ってゴールへたどり着くかは全然見えないだけに、やっぱりしばらくはぐっすりとは眠れない日が続きそー。合唱、って言える日が来ることをとにかく願おう。

 表紙の写真を見て一瞬、中上健次さんだとは気付かなかった「小説トリッパー」の春季号はタイミングが良いのか悪いのかは知らないけれど中上さん特集で、青山真治監督と松浦寿輝さんとの対談なんかもあったり大塚英志さんに初期の中上さんの担当者だった鈴木孝一さんのエッセイも入っていて、それなりに豪華かつつかみ所のありそーな特集になっている、ただ問題は僕が中上健次さんにあんまり興味がないことだけど。連載の東浩紀さんによる評論「誤状況論」は「僕」が消えて「私」になってそれも回数はめっきりと減って、自分語り的なニュアンスがないから受け付けない人でもそれなりに読んで普通に分かりやすい論になっている。ただ繰り出されているのは内輪でしか流通しないさまざまなカテゴリーなりジャンルにおける批評を包括し通底するものを遠くから見出そーとする言うなれば”大統一理論”だったりする訳で、そんな理論を導き出すんだってな1種の宣言として読んで「果たして出来るんだろーか」ってな気持ちが起こって来た。

 某な新聞社の某書評委員からそんなものを読んでいるのかとあしらわれたらしーSFについても言及していて、だからクラブ員にされちゃったのかもしれないけれど抑えてあるのがグレッグ・イーガンだったりするから筋は悪くはない。同じ頃に発売の「SIGHT」でも確か大森望さんが「大きな物語」「小さな物語」の関係に言及しながらあっさりと深く思弁的なテーマを描いて人にあれやこれや考えさせてしまう作家だってな感じに「祈りの海」のイーガンを紹介していた、よーに記憶しているけど立ち読みしただけなんでちょっと不明。一方で東さんも「誤状況論」で大きな物語が崩壊した後に立ち上がるラディカルな思考実験としてイーガンの著作なりその中における思弁をとらえている節があって、もしかしたら捉え方が全然逆なのかもしれないけれど、つまりはそれだけいろいろな人にいろいろなことを考えさせるのがイーガンなんだってことを分からせてくれるって意味で、あんまり目にしない本だけどSFな人も「小説トリッパー」、パラ読みしてあれやこれや突っ込んでやっておくんなまし。


【3月15日】 このお方にかかれば直木賞の作家で美人女優たち(複数形)の元旦那&現旦那であっても途端にボロボロでメタメタな人生ダメ男ちゃん(新庄風)になってしまう西原理恵子さん。確かに競輪競馬麻雀とギャンブルに身のすべてを捧げる一方で洋酒日本酒原料用アルコールほかのすべてに身のすべてを浸していることを「二日酔い主義」ってな連載ですべて暴露していたりするから今さら何をか言わんやだけど伊集院静さん、さすがによれよれのシャツにズボンに靴の姿で泣きながら寒風を風上に向かって歩く姿なんかに描かれてしまうとちょっと吃驚してしまう、髪だってヤバそーになってるし。写真写りだけでは未だに眉目秀麗な優男風に見えたりするその化けの皮を、ボロボロと剥がして魂の姿を暴き出してしまう西原さんのこれこそ真骨頂ってものだろー、単にイヤガラセってこともあるかもしれないけれど。

 って訳で読んだ「静と理恵子の血みどろ絵日誌 アホー鳥が行く」(伊集院静・西原理恵子、双葉社、1400円)は、借金しまくりで仕事はとばしまくりらしー伊集院さんのことを西原さんが描いている漫画はともすれば西原さん流の罵倒芸が染み出たものかと思いきや、本文に書かれた西に東にギャンブルしまくってる伊集院さんの日常の方は案外と漫画の上を行ってるよーにも思えて、つまりは結局どっちもどっちじゃんってことに気付く。神田でサイン会があるからと二日酔いで出かける途中で場外馬券売場に言ったらお腹がいたくなってトイレに入ったら眠ってしまって気付くとサイン会に1時間も遅れてしまった、にも関わらず既にそーじゃないかってことがお客さんに知れ渡っていたりする、この状況を「淋しいと言えば淋しいが、元々そういう存在なのだと、あらためて己のポジションを思い知った」と言ってしまう開き直り方からして、西原さんの漫画に輪を掛けての無頼ぶりが溢れている。綾辻さんでもここまでの開き直りはなかったなあ。

 「フリクリ」は「フリクラ」で行こう行こうあの山へ。今までの派手な色遣いから一転しての白いパッケージに治められた物語は大団円へと向かい例のアイロンみたいなメディカルメカ二かの正体がつまりはそのものずばり○○○○だったことが明らかにされ、でもっていったいハル子は何しに地球までやって来たのかが分かってそれは決してナオ太のためでもなければ地球のためですらないことも知れ渡り、けれどもそんなハル子がナオ太は好きってことが示されて少年はちょっとだけ成長したのでありました、ってな感じの収まり具合になっている、まあ妥当だね。マミミックスことマミ美のパンチラもあればニナモリのブルマー背面飛びもあってとサービスシーンにも事欠かず、話とにかくまとめなくっちゃいけないんで得体の知れないサブストーリーへのはまり込みもないからストーリーも全巻を通して1番くらいに分かりやすい。

 何の関係もなさそうな場面での積み重ねられ交わされる会話の中で物語をすすめシチュエーションを説明するテクニックは相変わらずでそれはそれなりに格好良いことなんだけど、映像とセリフだけではやっぱり説明し切れない部分も山ほどあって、例えばメディカルメカ二かの目的だとか果たしてニナモリとナオ太は良い関係に発展していくんだとかハル子の腕についててときどきカチャカチャと鳴る鎖の切れ端は結局何なんだってこととかは、6巻を通して見ていてもよく分からない。アトムスクとハル子との関係ってゆーかそもそもがハル子の立場自体はよく分かんなかったりする訳で、なおかつ眉毛海苔のアマラオと色黒でキュートな千葉千恵巳ちゃん声なキツルバミの一党との果たしてどんな2角なのか3角なのかメディカルメカ二かも交じれば4角とか5角な関係も、いまひとつ判然としない、まあしなくたって基本線で惚れた野郎がいるハル子がそいつを助けだそーとしてナオ太に近づいたけどナオ太が思いの外成長してて困ったこまったってな話だと、思って見ればだいだいのことは分かるんだけど。

 そこで取り出したるは脚本の榎戸洋司さんによるノベライズ版の「フリクリ」(角川スニーカー文庫)の第3巻。読むとおお、つまりやっぱりニナモリはナオ太への気持ちに決着をとうの昔の「伊達よ」のあたりにつけていたりして、ハル子の腕の鎖ってのはその昔のアトムスクとの甘く危険な関係の名残でアマラオ管理官たちとはのっぴきならない関係にあってメディカルメカはアイロンみたいなあれでつまりはどーして皺を伸ばそうとしているかが、松本零士さんの「大純情くん」級かそれ以上の高尚な設定も含めて説明してあってなーるほどと納得できる、説得されるかは人それぞれかもしれないけれど。さらにはナオ太の家庭の事情例えば姿の見えない母親の謎とかにもノベライズ版ではケリが付けられていて、映像を見終えた後に読むとやっぱりなーるほどってな驚きとともに改めて作品世界の作り込まれている、よーに見える設定を咀嚼できるよーになる。読んでから見ても映像表現はそれなりに楽しめるんだけど、先の見えない面白さを味わいたいなら書店より先にDVDショップに行け、僕は失敗してしまったんだよなあ、でも良いさっさと驚きを味わえたんだから(負け惜しみ)。

 海外なんかだと一般的に行われているかもしれないという可能性は考慮する必要は認めるけれど、東芝が発表した経営陣に対する新しいインセンティブの仕組みを考えるにつけ、どこか時代とのズレってゆーか日本的な一蓮托生経営の残滓をそこに見出したくなってしまうんだけど、これって間違いなんだろーか。「ストックオプション」ってゆーと経営陣でも社員でも株を購入できる権利をやるから働いて株価が上がればあんたら大金持ちになれるよってな感じの制度は、人参をぶら下げられた兎だか馬のごとくに前向きに仕事に取り組ませよーとする一種の「飴」だと思うけど、対して東芝が7月から導入するって制度は、年収の1部を強制的に吐き出させて自社の株を無理矢理にでも購入させて、仕事をサボれば株価下がってあんたの財産も目減りするぜってな感じのもので、どこかに「鞭」な雰囲気を漂わせる。

 もちろん分かりやすい制度だから海外になんか結構事例があるのかもしれないけれど、世の中がどちらかと言えば結果に報償が付いてくる風潮つまりは”加点法”の思想へと流れよーとしている中で、自社株購入を義務づける今回の東芝の制度ってのはサボれば罰が下るってな感じの日本がお得意な”減点法”の思想に通じるものがあるよーに思えて仕方がない。年収の一部を会社に”人質”として差し出して身を粉に働くのが将来の経営陣だとして、果たして下に人間にやる気ってものが芽生えるんだろーかどーなんだろーか。株価下落の痛みを”株主”と共有させようってハラらしーけど株価下落の責任は経営の失敗なんだからそれは給料とか地位とかで取るのが筋なよーな気がする、けどまあフトコロ具合と株価を会して直結する訳でもあるから、十分過ぎる尻叩きにはなるのかな、海外なんかの事例と日本的な風土も併せて研究してみる価値あるかも、僕は面倒だからしないけど。ちないみ計画だと年間最低で100万円の購入が必要だそーで、それだけ払える年収がきっとあるってことんだろーと想像すると、制度の可否なんか超えて企業そのものへのヤッカミが生まれてしまう。そんな金払ったらフツーに食べていけなくなるからなー、僕ん家の場合は。


【3月14日】 「電撃アニメーションマガジン」の本紹介コーナーでは吉田直さんの「トリニティ・ブラッド リボーン・オン・ザ・マルス 嘆きの星」(角川スニーカー文庫、540円)なんかと絡めて吸血鬼関連の本でまとめよーとも思っていたけど最新刊の出た「吸血鬼D」はいきなりの登場だとやっぱり不具合があって悩ましくって決定打に欠けたんでパスしたってのが真相。それでも1冊コミックで見つけた「ディストピア」(桂木すずし、ワニマブックス、900円)は単なる吸血鬼モノとはちょっと違った設定があって、いささかテーマが分裂気味ながらも結構楽しめる。

 主となるのは手に紋章が浮き上がる「神の手」を持った人はとてつもない超能力を発揮できるんだけど、その人間を殺すと殺した人に「神の手」が受け継がれたりするから大変で、おまけに全部で13個だかある「神の手」を集めると人智を超えた力を得られるんだという。その「神の手」を手に入れたのが吸血鬼のアンジェラで、先輩だかの吸血鬼の人形だった女の子のキリエの寿命を伸ばそうと他の「神の手」を集めようとするんだけど行く手に別の力が登場する、ってな感じで説明するのも複雑な設定があってかつ、妙に尻切れ蜻蛉で終わってしまったからやっぱりちょっと紹介するのは迷いがあって、パスさせて頂いた次第。「ヘルシング」のアンデルセンみたいな野郎とか出てたりして「トリニティ・ブラッド」でも感じたよーにキリスト教もの吸血鬼もの耽美もののリミックス的作品として並べるって手もあったけど、その割には設定に個性もあるから難しい。もう何冊か似た傾向の話が出てきたらそれはそれで並べてみるのも楽しいかも。

 狂信的、って面で「トリニティ・ブラッド」と比べたくなった漫画もあって、やっぱり帯に短し襷に流しでパスしたんだけど三部敬さんって人の「テスタロト」(富士見書房、900円)はキリスト教の教皇派に属する暗殺集団だかの「頭でっかちの神父(テスタロト)」たちが教皇派にさからう王室派とか異端とかをぶち殺していくストーリーで、自分が帰依するものが黒と言えば白でも黒くなく状況の中で果たして正義とか真実って何なんだろーと考えさせてくれる。これまた「トライガン」のヴァッシュとか「トリニティ・ブラッド」の主人公よろしく眼鏡をかけた3枚目っぽい表情の割には闘うと目茶強い兄ちゃんキャラが出ていたりして、使うのも特別あつらえの巨大なライフルだかショットガンだったりする当たりに脈々と流れる系譜なんかを感じてしまう。

 これまた先が見えず設定の大きさも掴めず判断のしようがなく紹介はパス。それでも狂言回し的に殺しのプロばかりがメンバーな「テスタロト」に入ったグラマーな美少女(何故かチャイナ服)の肢体はなかなかだったりして、目で追う分にはなかなかに楽しめる漫画って言えそー。絵はなかなかに上手だし信教と意志について問う重いテーマも漫画には珍しいんで、果たしてこれほどまでに重いテーマを今後どこまで作品内部に折り込んでいけるのかに注目しながら、先行きの展開を見守っていくことにしよー。

 原稿は何とかなったかな、とりあえず。しかしスタートした1年前にはすさまじくも素晴らしい有名人たちがズラリと名前を連ねている中で、無名さでは1番2番を争いながらも無名さ故の身の軽さで適当なことをダラダラダラダラを書き連ねて来てどうにか1年、振り返って見ると途中でニューヨークとかロサンゼルスで大うけらしいアーティストの人がとっとと姿を見せなくなり、漫画原作者でもありライターでもある凄い人は頑張ってたけど遂には途切れて最近では一気喋りでどうにかケリを付けようとしてはいるけど自伝的クロニクルの完成はちょっと遠のいてしまい、後で復活して大きな対談も載せてくれたけど哲学研究者者の人が出たり入ったりしてまだ落ちついてはいない中を、僕ともう1人の人の漫画評だけがレギュラーとして1年ちょい、休みもせず休めもせずに回数をしっかりを重ねている。

 まあ当方に限っていうならテーマを絞らず中身は場当たり、10枚だろーと15枚だろーと2時間3時間でぱぱっとでっち上げてる内容の統一性も思想性も皆無だったりして、そーゆー気の緩さまとまりの無さ故に1年続けられたんだろーから、毎度いろいろと練り上げているクールごとの素晴らしい企画なり最近力が入って来ている「マンガ夜話」にも迫るよーな俊英マンガ家さん評なんかに比べれば、続いたからといっても決して密度で及ぶべくもない。量でいうなら毎回の平均が400字詰めで10枚から13枚くらいで、それが近々アップされる最新版まで含めると13回だから130枚とか169枚とかいった厚さに達しようとはしているものの、どれほどの誰がどこまで読んでいるのかも謎だったりするんで、プレッシャーもかからず何とかやっていけている。こうなったら過去現在未来に幾つか潰れた雑誌ともども消えた連載同様、続く限りは穴埋めだろーと壁花だろーとしがみついてでも原稿を突っ込んではお茶を濁して行くぞ、迷惑でも。

 相変わらず悩んでますねえリカちゃんは。メールマガジンの3月13日付で例の柳下毅一郎さんと青山真治監督とのネットを媒体にした応酬について言及しているんだけど、ネットが持つ悪意を醸成して濃縮しやすい環境とかへの心配とかに言及していて、始める前から掲示板とかどーしよーかと考え込んでるあたりが何ともリカちゃんっぽい。もっとも青山監督は日記の方で何故に自分はあれほどまでの罵倒をするのかってな理由を語っていたりしたから、単純に売り言葉vs買い言葉的な闘い以上の、ネットにおける人格の一般との差異とか公人私人の違いとかいった部分も勘案して検証してみるのが面白いテーマで、試写会で会った柳下さんの解説にフムフムと頷いてるだけだと情報が一方向からしか入ってこずに、やっぱり悩むことになっちゃいそーなんだけど。それがリカちゃんっぽいって言えば言えるから良いのか。30日開幕の「東京ゲームショウ」に今回も登場みたいなんでまた見物に行こー、前回みたくスリッパ脱いで足でクルクル回してくれるかな。


【3月13日】 締め切り間際の原稿書きから逃亡中、でもまあ明日中には何とかしたいと神に頼んでいるのできっと何とかなるでしょう、何とかって選択肢に「落ちる」って言葉があるかどーかは怖くてちょっと言えないけれど。「週刊プレイボーイ」はかの田中康夫長野県知事が登場して大川豊総裁と対談、知事と総裁のどっちが偉いかは知らないけれど相手が総裁でも浅田彰さんでも関係なしに剽軽で、けれどもシリアスに時局を語れる人ってやっぱりちょっと凄い。それにしてもマスコミで長く仕事して来ただけあってマスコミの欺瞞と偽善に詳しいヤスオちゃん、「『ダムやめろ。公共事業やめろ』って書いていたから『脱ダム宣言』自体は否定できない。だけど市民運動の側じゃなくて行政の側でそれを実行する人間が出てきちゃうと、今度は何て書いていいか思考停止状態でさ、批判し始めるわけ。醜悪なる自家撞着」って言葉なんてまさしく事実で、同日発売の「週刊朝日」なんか代替案もなければどうして「脱ダム」を宣言したかなんてことへの思考を一切せずに、決定のプロセスとか仲間割れとかいった枝葉末節でもって田中知事の揚げ足を取ろうと頑張っている。

 大川総裁が「なんでも批判するパターンでしか書けないんでね」と言えば「それがバランスだと勘違いしているわけ」と田中知事。擁護するならたぶん現場の記者だってそれが自家撞着だって分かっているんだと思うけど、紙面なり社論を決定していくプロセスのどこかで「けしからん田中知事のやることなすことすべて悪」ってなベクトルが出来上がってしまって、現場の人間的な体温を感じさせる部分がスポイルされてしまうんだろー、と思いたいけどもしかすると新聞の珍妙な客観性なりバランス感覚に実直で、良く言えば素直で悪く言うなら融通の聞かない性質でもってなおいっそう融通の聞かない上の覚えもめでたい若手が、それが当然だと思って「田中=悪」の論理を組み上げていたりするかもしれないんで難しい。もしもそーなら新聞も先が長くないんだけど、それ以上に欺瞞がまかり通ってる政治が現実には長生きしやってる状況を見るにつけ、案外としぶとく「社会の木鐸」面して生き残って行くのかも。かくして日本は洞穴の底へ。長野に逃げたくなって来た。

 せっかくなんで「メディア芸術祭」のシンポジウム「押井守×井上雄彦」を見物に「東京都写真美術館」へ行く、どっちが受けで攻めでもないよ。政府のマルチメディアな表彰制度にこの人ありな東京大学大学院助教授の浜野保樹さんをコーディネーターに迎えた対談は、どうやってそんなに才能を伸ばしたのってな問いかけに対して「スラムダンク」が1億冊なんて数を売って「バガボンド」も世界で人気な井上さんが「毎週やりながら成長していくんです。ちょっとづつレベルが鍛えられるんです。でもまだ感性にはほど遠いけど」と謙遜しながらも継続する重要さを訴えれば、押井さんは「僕はアニメなんか見てなくってでスタジオに入って見るようになって、それが良かったのかな、他人の目で人の絵を扱うことが出来たんです」とまずはアニメとの馴れ初めを説明。それから「3週間でコンテを切って3カ月で演出をやって3年目には監督になって、ものなんて考える暇がなくって恒に10本から12本をかかえてひたすらやっていた」とテレビシリーズにかかっていた時代を振り返りつつ、「考えるより早く動かし人をつかまえれるようになるのが重要、場数を踏むことが大切です」と話してくれた。

 「今の日本で量産の表現に関われるのは漫画とアニメくらい。下手をすれば消耗品になるけれど、そこで自分に踏みとどるっていう緊張感を持つことが表現を支えるんです」とも言っていて、若いうちから悩まず考えずとにかく突っ走れってことを強調していた。シンポジウムの最期で来場していた若手のクリエーターとかその卵たちに訴えたことでも「考えるよりとりあえずやっちまう。四の五のいわずに描け」と井上さんが言えば「自分になることが大事で自分に十分に自身を持て。自分は映画館しか行かなかったけどそれでやっている。ファンで終わってもいい。巧みになるには鍛錬のみ」と”継続は力なり”的な叱咤激励を珍しく饒舌に語っていた。あと「映画監督になるのはやめた方がいいよ」とも。理由は「間尺に会わない」からで、映画監督のとりわけ実写を監督してみたいと言った井上さんに対しても、「稼ぎを全部失うよ」と忠告していて、最近でこそ映画で食べられるよーになったけど、やっぱり今でも「アニメで稼いで来てと言われる」らしー立場への忸怩たる思いをぶちまけることで、この国で映画監督を職業にする困難さを経験も含めて話してくれた。

 もっとも「別の世界で成功してからスライドすれば好きな映画が作れる」と嫌味でもなく言えるあたりが、「映画人」としての妙なプライドを持たずアニメから来て世界にその名前を知られるまでになった押井さんならではで、井上さんにも「井上さんが監督をする、となった時点で観客動員が約束されます。プロデューサーだって企画を通しやすい。そういう考えがあるならいくらでも企画は集まるし、すぐに撮らせてもらえます」とプロデューサー的な立場からとりあえずの”成功”を約束していた。ただし「監督をやるともとに戻れない。例えば大友克洋さんも漫画を描く気はないみたいで、井上さんの漫画を読みたいという人には悪魔のささやきでしょう。それと貧乏になる」と言っていて、答えて井上さんは「考えさせて」と真摯な所を見せたけど、すぐに「それでもやりたい」と言っていたから或いは「監督・井上雄彦」の誕生もあるいは間近に迫っているのかも。やっぱりバスケの映画になるのかな。

 面白かったのはキャラクターの息をどれだけ長く保たせるかってな議論に至った部分で、なるほど同じ会場の地下でキャラクタービジネスの将来性なんかを考えるイベントも開かれていたからどーやったら世界に誇れる日本のキャラクターが「ミッキーマウス」のよーに全世界から金を巻き上げられるキャラクターに育つんだろーかと浜野さん的に聞いてみたかったんだと思うけど、答えて井上さんが「自分のキャラクターを大事にするのは出し過ぎないこと。漫画には出るけどキャラクターだけが描かれたようなちょっと薄まったものには出さないようにしています」と言っていて、まず作品ありきでそこからキャラクターの存在感が出て来るんだってなある意味正鵠を射る指摘をしていた。ちょっと人気が出るとすぐにグッズへと展開しては消費し尽くしてしまう日本の悪い癖に、気付いている当たりは流石に「週刊少年ジャンプ」の呪縛を脱して自分ならではのスタンスを築き上げた井上さんだけのことはある。

 一方で押井さんは「キャラクターは消費されるのが宿命で耐えられるのは少ない。そもそもアニメで20年も経って滅びていないのは結構痛々しい」と単に延命だけを図っている温故知新的なキャラクタービジネスに批判的なスタンスを見せていて、「作品として生まれたものはそこで目を閉じて欲しい」「終わらせるべきものは終わらせる」と繰り返し言っていた当たりにピンと来たのか浜野さん、「それってどれのこと」と突っ込みつつも問わず語りに「ルパン3世を押井さんが監督する伝説」なんかへの押井さんなりの答えなんですかそれはと聞いていて、折しも同じ会場で開催中の「キャラミックス・コム」が掲げるキャラクターが「ルパン3世」の峰不二子ちゃんだったりする当たりするから話は複雑な展開を見せはじめて、果たして押井さんがどう答えるんだろーかと考えながら、集まっていた関係者をきっとハラハラドキドキさせたかも。

 結論を言うなら「ルパンで集めたものはその後の作品に全部使ってしまったから出来ない」そーで、それでも浜野さんが「宮崎駿監督はいやいやながらもルパンを作って『カリオストロの城』のような傑作にした」と食い下がると、「まだ若かったんでしょう。あの時に抱えていたものを出し切って素晴らしい作品になったんです。今の自分には後先なく吐き出したいって欲求がない。死人を甦らせるんだとしたら、フランケンシュタインはもっと若い人が作るべきです」とまで言って、やっぱり気乗り薄なところを見せていた。もちろんクリエーターとして興味がゼロって訳でもなく、「あの時は本当に作りたかった」とルパンのことを言い、「今でも押入を開けるとラムが顔を出す瞬間を夢見る」とも。もっとも「だからと言って押入は開けちゃいけない」と釘を指すあたりにやっぱり「暗いルパン、悩む次元を見たいんです」ってな浜野さんの夢がかなう日は遠いのかも。

 かくして築地あたりの若いアニメファンたちが立ち上げたがてるプロジェクトは泡を消えるのかと思いきや、浜野さんの熱烈な要望におそらくは集まったファンの「見たい」ってな思念が伝わったのか「……やればできるのかなあ……うーん」ってな言葉が押井さんから飛び出してちょっぴりだけど心に希望の火が灯る。自身「あの時は本当に作りたかった」と言い切り、実現しなかったことが「天使のたまご」に向かって3年干されて実写やら「御先祖様万々歳」へと行って「パトレイバー」から「攻殻」から「アヴァロン」へと進んで世界をリードする監督の地位を確たるするものにした、そのフィルもグラフィーにおいて「分岐点になった」と言うだけあって、やっぱり何かしらの思いが「ルパン3世」とゆーキャラクターにあるんだろー。「あの時僕が作っていればこんな風にはならなかった」とゆー言葉もこれありで、つまりは今の押井さんが「ルパン3世」を作る意味なり意義が提案できて本人をその気にさせられれば、10余年の時を超えて僕の貴方の私の君の、「押井版ルパン3世」を見たいとゆー夢がかなうのかも。築地頑張れ。


【3月12日】 実はまだ読んでなかった原作版「ハンニバル」のラストを読んでみてなーるほど、これが映像化されてるんならやっぱり誰だって吃驚する筈だってことは分かったけれど、展開にちょっとした差異があって原作をまんまなぞっているより余計心がドキドキするよーな描写が映画にはあるから怖い物見たさで怖い物を見て仰天した精神をさらに襲う衝撃に、映画を見る人はそなえておくのが良いのかも。けど原作ってこれで更に続きが書けるシチュエーションなんだろーか、それを気にして映画はあんな感じになったんだろーか。すでに結構いい歳になっているはずだけどアンソニー・ホプキンス、生きているうちはベジタリアンであってもやぱり肉食(それもホモサピエンス中心)だって思われるのが当たり役って奴だろーから、ここはやっぱりもうひとふんばり、頑張って悪食にその身を没入してもらいたい。期待してますしちゃいます。

 空転する頑張りに気鬱さが募る会社にいるのも健康に良くないんで東京・恵比寿で今回から開かれるよーになった「文化庁メディア芸術祭」の授賞式を見物に行く。ガレージキットの芸術化を叫んでいるアーティストを非難するんだったら、文化庁なんて権威の権化がアニメや漫画やゲームを「ゲージュツ」として表彰してやるってなこの制度の方をフンサイするとか騒ぐのが先のよーな気もするけれど、落下傘よろしくドイツ軍の陣地に降り立ってヒトラーのアホバカマヌケと叫ぶ姿は目についても、遠く異国の地で叫んでいるうちは聞こえもしなければ反発も買わないものなのか、4回目を迎えても「メディア芸術祭」へのオタク業界の意見はあんまり聞かれない。目につかないし影響もないんで勝手にやればってなことなんだろーね。

 もっとも受賞する人にとってはやっぱりそれなりな意味があるのか、インタラクティブなソフトの部門で大賞を受賞した「ドラゴンクエスト7」の堀井雄二さんが「ゲームが認められた」って喜んでいて、音楽のすぎやまこういちさんも「総合芸術としてのゲームが云々」と喋っていた当たりを聞くにつけ、俗悪だの低劣だのといった批判と正面切って闘って来た世代ならではの認められたとう安堵感があるいは受賞に際して浮かんだのかも。あるいは単に賞を与える側に気を配っていただけなのかもしれないけれど、そーした意識を逆撫でするよーに文化庁あたりの人は「マンガが文学などに追いついた」だの「ゲームはこれからの芸術」だのとどこか旧態依然とした芸術を前提に見る発現を繰り返していて、やっぱり釈然としない気持ちが浮かぶ。あと10回とか表彰制度が続いて「日本アカデミー賞」なんて珍奇なイベントより大きな見出しで報道されるくらいになった暁に、世間も立派なものだと認知したんだと思うことにしよー。闘いは続く。

 珍しくサングラスをかけていない堀井雄二さんだったけど、この方がむしろ理知的に見えてこれからは普通の眼鏡でいーんじゃないかと思ったり。刻んだ年輪とともに立ち現れる徳の深さが顔ににじんでいるのかな。大賞だとマンガ部門ではあの「バガボンド」の井上雄彦さんが堂々の受賞で表彰式には本人がちゃんと来場して壇上で表彰状を受けていた。漫画家さんを滅多に見る機会のない身にとって、生きている本物の井上さんを見られたのはちょっとうれしい。さすがに「『スラムダンク』はいつ復活するんですか」とは聞けなかったけど。あと優秀賞を獲得した「まっすぐにいこう」のきらさんって人も歩いてて、作品さながらなのなかなかな美女ぶりでお近づきになりたかったけど奥手なんで声もかけられず遠巻きに観察するに止める。臆病な自分が哀しい。

 滅茶苦茶売れてる井上さんは年収もきっと億単位だろーし400万本なんて空前絶後の本数を売った堀井雄二さんもすぎゃまこういちさんもおそらくは結構な年収を稼いでいるだろー間にはさまって、アニメーション部門で大賞を受賞した我らが北久保弘之さんの果たして給料ハウマッチ? なんて想像するだけてちょっと怖くなるけど優秀なクリエーターにはそれなりな金額を払うらしー「プロダクションI.G」であっても流石に井上さん堀井さんクラスのサラリーは出せないだろーこの現実を、単純にアニメとゲームやマンガのシステムの差マーケットの差ととらえて良いんだろーかと悩む。確かに山ほどの人数がアニメの場合はかかるけど、同様に人数をかけるゲームはミリオンを超えてヒットする可能性があったりして、数万本売れれば大ヒットとかゆーアニメとは所詮市場の規模が違うのかもしれない。

 もっともハリウッドの映画関係者がミリオンダラーを稼ぐ現実を見るにつけ、ドメスティックさがつきまとう実写と違って世界を相手に商売しやすいアニメなら、あるいは億万長者が続々と出る可能性だってあるのかもしれず、だったらどーやって世界を相手に商売できるかを、折角の日本が誇る芸術とアニメを讃える文化庁あたりも加わって、深く検討していく必要があるのかも。「BLOOD」とゆー世界がおそらく注目する作品を作り上げた北久保監督がライセンス物のモールトンでも勿論ブリジストンモールトンでもない正真正銘のアレックスモールトンをダースで買えるよーになる日の訪れを、不況にあえぐ日本がアニメにゲームにマンガを軸にして復活した暁の光景として抱きながら待とう。コルナゴとチネリとデ・ローザを日替わりで乗り捨てられる至福の日は果たして到来するか。

 それにしてもな北久保監督、晴れの席でもTシャツ姿はいかにと思いきや、見るとそのデザインはマルコ・パンターニの凶悪な横顔も鮮やかな「クラブ・パンターニ」のユニフォーム。聞くとクラブ員は公式の場にはこのTシャツを着て出るのが義務づけられているそーで、だったら一昨年のマルチメディア・コンテンツ振興協会の「マルチメディアグランプリ」に登場した大友克洋さんはTシャツちゃんと着てたっけと思いを巡らせたけど記憶にない。当時はまだそーゆー規約がなかったのかな、今は漫画家さんのパーティーとかでちゃんと着てるのかな。ちなみに東京ビッグサイトでのイベントとか「ロフトプラスワン」のトークショウとかに来場していた寺田克也さんは確かちゃんとTシャツを着ていたよーな。素晴らしいこの結束力があれば今年の「ツール・ド・信州」の勝利は確実だ。

クリックで大画像  今回は漫画での受賞だったけど、アニメの世界では大どころか超先輩な安彦良和さんが授賞式に出席していて、式のあとで展示室を見学できる時間になった時にアニメで今回の大賞を受賞した北久保さんとあれやこれや会話していた姿を発見、そこは忍者な出没野郎と背中に前後にはりついて会話の内容を横聞きする。曰く「こういう人が出て来たんですねえ」と「BLOOD」でキャラクターデザインをやった寺田さんのことを安彦さんが誉めれば、「黄瀬さんが作画に入ってくれると分かった段階で寺田さんに参加してもらったんです」と、超絶テクニックを持つ寺田さんのキャラを動かすためには作画でも超絶的な人の力が必要だったことを北久保さんが説明。アニメ界に輝く新旧(といっても安彦さんはまだまだ現役なんだけど、漫画では)ヒーローの対話から見かけの格好良さだけではない、1つの作品を作り上げる時に関わるさまざまな人たちの努力の結晶としてのアニメの凄みみたいなものを感じる。

 デジタルを使ってあるとか実写のような広角とかいった表現技法での評価を最近のデジタルなアニメの場合に良く聞くけれど、「BLOOD」の場合は北久保さん曰く「カッコ良いアニメにしようぜ、って話し合った結果、1番カッコ良かったのがああいった広角を使った絵で、決して実写にコンプレックスがある訳じゃない」と話していてたのが耳に強く残る、っても横で盗み聞いてたんだけど。アニメではほかに優秀賞をかの「たれぱんだ」が受賞して会場にも映像が流されていたけれど、何しろ「たれぱんだ」なんで動きのトロい映像を、フランスだかドイツだかからはるばる自分たちの作品に対する授賞を受けるために来ていた外国のクリエーターの人が、熱っぽく見ていた姿が目にちょっと残る。実は「たれぱんだ」、香港とか台湾では大うけだったりした訳だけど、あのフォルムあのテイストを果たして西洋人がどう見ているかはデータ不足で、見ていた外国の人にどう思うって聞きたかったけど英語はちょっとでフランス語はまったくでドイツ語は全然だったりする身ではいかんともしがたくちょっと残念。でも見入りぷりからするに外国でも受けそーな気が。バンダイさんどーですヨーロッパで売りません?


【3月11日】 並んで1時間くらいなら頑張れるけどせいぜいが週に数回で確実に席がリザーブさえている身にでもならないと流石にイベント回りも厳しいし風邪っぽいのか熱っぽいのか動くのが億劫になっていたこともあって家でほとんどを過ごしながら仕事に向けて本を読んだり新聞を読んだり。世間様はご大層に巨大な見出しを付けて大騒ぎをしているけれど、信任されたばかりの森内閣が直後に終了確実となっても不思議さよりは諦念ばかりが先に立ち、次が誰になったことところで代わりばえのしそうにないことにひたすら虚脱感を覚えてしまう人が多いのは、今の政治を動かしている仕組みの中ではそうならざるを得ないってことが誰もがマスコミも含めて分かっているからで、だったらどうすれば良いんだ公選制にするれば変わるんだ納税拒否だボイコットだデモだってな具体的な活動方針でも示せば良いものを、相変わらずの「困ったものだ」「いかがなものか」ばかりが先行してやっぱり先は見えずますます虚脱感は募る。もっともだったらお前何かやれよと言われれば怒ろうと嘆こうと世の中たいして変わるもんでもなかったりするから、なんて言い抜けてしまう訳でそんな虚脱感の総体として世の中どんぶらこっこと流れていくのでありました。

 頭あんまり働かない中を次の「電撃アニマガ」のブックコーナーでメインに一体何を据えればいいんだろうかと呻吟、藤巻一保さんの「陰陽魔界伝」(徳間書店、838円)に東雅夫さん編纂の「陰陽師伝奇大全」(白泉社、2100円)なんかが出てあと電撃からも「陰陽ノ京」(渡瀬草一郎、610円)なんかも出ていたから陰陽師絡みでまとめようかなテレビ番組も始まることだしと思ったけれど、ちょうど1年前にも陰陽師モノでまとめてしまっていて同じネタを繰り返すことに気乗り薄だったことやらピカピカの新刊でもないってことから難渋。藤巻さんの「陰陽魔界伝」は平安が中心で時に鎌倉だったりする陰陽師モノの中で平城京へと遡って吉備真備と僧弦坊とが長屋王の怨霊と対決する話から始めてあって興味深く、歴史への造詣と陰陽道への傾注はそれとして、決して知識の開陳だけに頼っておらず巡らされる陰謀がじわじわと都の中枢へと迫っていく筆の運びなんかも巧みで、壮大なスケールのエンターテインメントの開幕を予見させる小説になっている。

 なってはいるけどやっぱり「開幕編」でしかなく「陰陽師モノの真打ち!」だなんて大々的に紹介するにはちょっと気がひける。チラチラと名前の出されている安倍晴明の登場までにはえっと100年くらい? 東洋史は勉強したけど日本史はちょっと疎いんで判然としないけどこの密度で書かれていったら多分1巻2巻ではききそうにもなかったりして、その分先への楽しみは募るけれど付き合うにはなかなかの根性がいりそう。「陰陽寮」だなんってこちらも壮大無比な巨編が進行しえいたりするから、双方が例えば同じ時期くらいに完結となったらその時はまとめて紹介したいけれどその時に果たして場所があるか。まあ良いネットならいつでもあるから。現代物から最新刊が出て文庫化もスタートした今市子さんの「百鬼夜行抄」も入れたかったけどこれもまたの機会に。うーんタイミングって難しい。

 あと例えば「世界サブカルチャー遺産」だなんて聞くになかなか背筋もゾクっと来るタイトルの中身だけなら結構頑張っていたりする本と、唐沢俊一さんの「キッチュの花園」(メディアワークス、1800円)を並べてサブカルvsキッチュ(それらが対立概念になるのかはあんまり考えてないけれど)とかってやってみよーかとも思ったけれど、もう何冊かサブカルorオタクがらみの総攬がないとちょっと厳しかったりしたんでパス、けど「キッチュの花園」はよくぞこれだけ集めてかつ、テーマによって分類したものだと感動できる1冊で、居並ぶフェイクな品々を見ていると単純に騙そうとする気持ちだけじゃなく、本物に似てさえいれば心がそちらに傾く人間の感情の流れとか、いっそ開き直って偽物であっても安いんだから買ってしまう感情とかに働きかけようとする人間の、何とも面白哀しい習性が感じられてニマニマさせられる。「タロットカード」も「007」ばかりじゃないんだなあ、今度気を付けて探してみよう。

 逡巡しながら水野良さんの「スターシップ・オペレーターズ」(メディアワークス)に萩原浩さんの「噂」(講談社)を並べてメディアの欺瞞ぶりとかに言及できないかとも考えて、たまたま課題図書に流れて来ていたメディアに翻弄されかかる女性を主人公にした柳美里さんの「ルージュ」(角川書店)も読んでみたけどタイプ違いすぎでやっぱりパス。とはいえ「ルージュ」はイタそーな先入観を持っていた柳さんの小説にしては読んで楽しめる1冊で、普段はスッピンながら化粧が映える顔を持ってアートディレクターの卵として化粧品会社に入った谷川里彩がひょん(ひょんって何?)なことから新作キャンペーンのモデルに抜擢されてしまっておおわらわ。普通の暮らしに憧れているのか逃避しているのか人間だと誰もが喜ぶサクセスのチャンスを歓迎せず、プロのモデルになりたくないと逃げ回る。

 男性とつきあったこともない彼女がそれでもモデル業の中で写真家にアートディレクターにコピーライターといった「感性バリバリ」な連中と出逢って別れて目覚めていく、そんな流れがともすればご都合主義に見えてしまうこともあるけれど、持って生まれた彼女の場合は美貌とゆー才能があって、それが誰かによって発見され磨かれているにも関わらず、本人としては自分の意志をそこに反映させて次第に変わっているんだと思いたいし思ってもいる他力本願による自力更正だなって何とも矛盾した想いを人間って誰もがきっと抱いていて、読んでいてそんな感情がさらりとなでられる気分になって心地よさに心浮かれる。こんな彼女が果たして柳美里の憧れの対象として描かれているのかそれとも侮蔑の代表として描かれているのか掴めないけど、あるいは自身が内なる才能を開花させて世間も男性も乗り越えた、その経験を反映させた小説だったらトんがっててキれてたりするよーで柳さん、結構に少女っぽいところがあるのかも。「anan」の表紙は写真家の個性が出すぎでモデルの個性を殺しているとか、実例かは別にして小道具設定の類に実名を上げているあたりは妥協なしの柳さんっぽいけど。

 結局まとまらずどうしよーかと逡巡、ふと手にとった「サトラレ」(佐藤マコト、講談社、505円)を読んで素直に正直にあり続けることの大切さ、めいた話に搦めて正義を貫き勇気をふり絞る大切さを唄ったスティーブン・キングの「ドラゴンの眼」(アーティストハウス)と人間臭さを炸裂させながら状況に流されていてもあるがまんまに生きていたフランソワ・ヴィヨンの生涯を描いている山之口洋さんの「われはフランソワ」(新潮社、1800円)あたりを無理矢理につないで何とか出来ないものかと逡巡、新刊ばかりでどれも紹介したかった本なんで、強引だけどどうにかしてまとめてみることにしよー、でもまとまらなかったら困ったなあ。国民全体が知っていることを「サトラレ」にだけは「サトラレ」なよーに出来るのか、それだけやって支払うコストに見合った業績を「サトラレ」の天才が上げてくれるのかってな疑問もあるけれど、そんな設定の中で、外面と内面の違いへの怯えや疑心から生まれる平穏だけどどこか息苦しい雰囲気が内面をさらけ出すことで変わるんだろーかと考えさせるきっかけにする一種の寓話と見れば良いんだろー。エルガーラってもしかして「サトラレ」?


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