縮刷版2001年3月上旬号


【3月10日】 動かないレクター博士との会話から醸し出される底知れない闇の深さに反発しながらも絡みとられていくよーな雰囲気の確かあった「羊たちの沈黙」からえっと10年くらい? いよいよ登場の「ハンニバル」(ギャガ・ヒューマックス共同配給)は一転してレクター的”殺しの美学”の集大成って言ったら何かアクション映画あるいは猟奇映画っぽくなってしまうけれど、前作での仕込みもあったのか心の隙間にそっと埋め込まれたレクター博士って人間への興味、あるいは俗な言葉で言うなら”恋心”が年月を経てクラリスの中に醸成されてしまっていたんだろーか、不思議なんだけど不思議じゃないかもしれない行動心情をクラリスに取らせてしまう辺りの心理戦なんかを気にしながら見ていると、表向きのドンパチにグサドロベチャにモグモグモグな描写の隙間から空恐ろしい、けれども甘美な香りを放って悪への誘いが立ち上って来て心を鷲掴みにされる。まさに「あの人は奪って行きました、あなたの(クラリス)心です」って感じ? 奪ったのはルパンじゃなくってカリオストロ伯爵の方だけど。

 とはいえ目で見られる描写のすさまじさは前作以上でとりわけラストの……おっとこれは公開までのお楽しみとしてあんな風になれるのも人間としてはもしかしたら至高で究極の食体験なのかもしれない、海原雄三と山岡士郎がお互いにスプーンで取り合ってる様なんてのを見てみたい気もして来た。冒頭の銃撃戦の容赦なさとかローマの映像とか見ていて綺麗だたり格好良い絵がたくさんあって保養になる、ジャンカルロ・ジャンニーニのよれっとした格好もアンソニー・ホプキンスのパリッとした格好もファッションのお手本になりそーだけど、地がジャンニーニでホプキンスだから良いんであってこれが日本人だったら草臥れたサラリーマン刑事に油ぎった金融屋のおやじになりかねないからなあ、人種的偏見は抜きにやっぱりスーツは西欧人のものなんだねえ。

 それにしても9日のギャガの試写室は凄い人で、ちょい前にホールで2日、4回もの試写をやっているにも関わらず、補助椅子が出るほどになっていて公開が迫るとますますかけ込みな人が多くなって混雑することになるんだろー。昼の1時ってのが他の試写と重ならないこともあったのかな。去年の「グリーンマイル」に続いての大物掴みにギャガも株式公開への期待も弾むってことで。ちなみに「ハンニバル」公開は4月7日だけどこれに先だって3月17日から「シネマクスエアとうきゅう」で「羊たちの沈黙」もリバイバルでこっちもそれなりに人が入りそー。ジョディ・フォスターとジュリアン・ムーアが比べられ易くなるけどまあ、アメリカの女優に入れ込んでない見としては関係なかったりするから絵の見せ方あたりを気にして折角なで見て来よー。

 先にノベライズの方を読んじゃったんで否応なく知らされてしまったんだけど、「アニメージュ」4月号の大森望さんのコラム「わるものオーバードライブ」の中では今ん所まだ「ほんとに××××だったとは!」と書かれているメディカル・メカニカ。とは言え隣の河内実加さんの絵にはちゃっかりしっかり描かれてしまっているから、そのビジュアル的なインパクトなり持ち出し方の突飛さなりで仰天して楽しむのはあくまでもきっかけにして、だからどうして「ほんとに××××」なのかって辺りへの考察を巡らせるのが味わい尽くせる「フリクリ」第6話の受け取り方ってことにあるんだろー。映像では「そういうSFな部分をあえて作中で説明し」てないそーで、けれどもノベライズの方では宇宙的な話までしっかり描き込んであるから、見た人も「ノベライズなんて」と思わず読んでみるのが良いでしょう、でもやっぱり我慢できないからと言ってノベライズから先に読むもんじゃなかったなあ、時既に遅いけど。

 格好良いぞ「ドッコイダー」。手から火を出し相手を焼殺したり肘を繰り出して敵を粉砕したり手刀を振り下ろして目標をスライスする場面での、ポーズの決まり具合といい表情といい、「スーパーミラクルデンジャラスエキサイティングパンチ」なんかを繰り出している時より実にヒーローしてるよーに見える「電撃アニメーションマガジン」4月号所収のコミック版「住めば都のコスモス荘」。けどのこの格好良さが見られるのは世界の敵とか相手にした時なんかじゃないのはファンにはちょっと残念かも、何しろ「裏返し要らずの炭火焼きファイヤー」に「微塵切りエルボー」に3枚おろしチョップ」だからなー、技の名前が。同じく「アニマガ」4月号所収のコミック版「ブギーポップはわらわない」はマンティコア萌えー。コクられて「は?」と言ったり頬赤らめて「好きよ」と言うのがマンティコアっぽいか否かはこの際別に、絵の持つインパクトの強さを改めて実感させられた次第、男だった相手が美女ならたとえ喰われたってコクられりゃよろめくもんです。

 連載も快調な水野良さんの「スターシップ・オペレーターズ」(メディアワークス、510円)に待望の第1巻が登場、銀河の何とかってな王国によって占領されてしまった日本からの植民惑星が保有していた宇宙戦艦に搭乗していた防衛大学校の生徒たちが画策して船を買い取り代わりに銀河ネットワークに戦闘の模様を中継させるってなことになり、見栄えの良い様に美少女ばかりがオペレーターになって愛想を振りまきながらも迫り来る敵戦艦とのこれはリアルな戦闘に挑み続けるって内容で、結果としての美少女ばっかな戦艦とゆーキャッチーさはあってもそこへと至る設定の積み上げ、つまりは少女たちが宇宙にいたこと、戦艦に搭乗していたこと、戦艦を買えてしまったこと、少女ばかりが艦橋を仕切るようになったことへの納得力十分な説明があって、面白がりつつも眉を顰めずに世界にスンナリと入っていける。

 何故某リヴァイアスのルクスンみたいな野郎がいないか美男美女ばっかりか、ってのはまあ”お約束”なんで気にしないことにして、どうやら浮かび上がって来た黒幕の存在なんかを想像して、例えばあいつなんだろーかそれともあいつなんだろーかと思うのは結構楽しい。あるいは敵方なんかも巻き込んで宇宙規模の壮大な陰謀なんかも立ち現れて来るのかな。期待してるけど続くのかな。9人いる「オペレーターズ」では主役のルリルリ的だとやっぱり思われてしまう頭脳明晰な香月シノンちゃんへの人気はそれとして、黒幕っぷりなら首相の娘とかゆー間宮リオもそそられる、けど内藤隆さんのイラストだとあんまり怜悧な印象を受けないんだよなー、それも世を偽る仮の姿ってことなのか。射撃管制のチームだと身長187センチで90センチとかゆー神谷イマリが迫力だけど、逆に157センチな七瀬ユキノちゃんは78センチでこれはこれで良いものです、顔とか威張りんぼのとこなんか神楽綜合警備のシャチョーに似てる。

 「エンダーの子どもたち」を途中まで読んで頭を捻る、うーん何故名古屋? おまけに全然名古屋っぽくないし、例えば道路の幅が1000メートルあって中心部に1万メートルの塔が立っていて吝嗇なのに見栄っぱりばっで朝御飯がういろうで昼御飯が櫃まぶしで晩御飯が味噌カツで言葉がみゃあ(妙の意)でうどんもスパゲティもラーメンも冷や麦も全部が平べったく、夏暑く冬寒く野球は龍でサッカーは鯱でそんなことを散々っぱらワルクチ言うのにピーターとシー・ワンムが同意しよーものなら途端に不機嫌になるとかいった描写でもあれうば流石はオーソン・スコット・カード、名古屋を知り尽くしている偉大なSF作家だと名古屋SF大賞を授けるのに。真面目に考えてもカードと名古屋の関係が繋がらないけど例えば信教の部分とかで伝があるんだろーか、名古屋と。ソルトレイクシティなみに田舎って意味ではまあ、似てるっぽいけどね。


【3月9日】 大手町の紀伊国屋書店だと宮台真司さんの「サイファなんとか」(原文ママ)とか宮崎哲哉さんの「新世紀の美徳」(何故これだけフルネーム?)とかってなどちらかと言えば社会時評の本なんかの側に一緒に置かれてあったのに近所の旭屋書店だと扶桑社の「サブカルなんとか」とか竹書房の「宇宙戦艦ヤマトなんとか」ってなサブカルチャー関連のコーナーにも置かれていたりする山形浩生さんの「山形道場」(イーストプレス、1500円)は、ビジネスだったりハッカーだったり経済だったり社会だったりるいろんな領域の全般にまたがって、それぞれの分野でしか通用しないよーなジャーゴンを使わないで「個別のチマチマしたディテールでもない、かといってそれだけじゃどうしようもない大原則でもない、なんか中間レベル」(35ページ)について話したコラム集になっている。

 まえがきの副題にあるよーに世間のあれやこれやを”要するに”どうなんだと説明するのが主目的だけあって、投資家の気分でしかないニューヨーク証券取引所のダウ平均のヒミツとか、インターネットでデジキャッシュとかビットキャッシュとかサイバーキャッシュ(潰れたのはどれでしょう)なんて代替貨幣が使われるなんてことがなく決済はクレジットカードになるってな予言とか、PKO・NGOの時としてある訳の分からなさとか、ちょっとしたことへの異論なり意見が声高でも卑屈でもなくサラリ&チクリと書かれてある。口振りの「だからいい加減だ、場当たり的、口が悪い、ピアスが悪趣味、ぬらぬらしてる、えらそー」(27ページ)なのはそれとして、人によっては「だからこうなのか」が分かる啓蒙の書ってことになるのかも。それにしても「ぬらぬらしてる」はなー、もしかして「ぬらぬら」してたっけ、うーん今度の講演会で観察してみよー。

 案外と1番リキが入ってるかもしれない「まえがき」は全編が書き下ろしで、前述したよーな自分の立ち位置とか文章を書く上での前提なんかを話しているけれど、その枕的にふられているのが哲学を主領域としながらもアニメとかコミックの話を積極的にして哲学な世界へと窓を開こーとする活動を続けている東浩紀さんで、ジャンルミックスってゆーかクロスオーバーな部分って結構似ている所もあるのかなー、対談だってしてたしなーってなことを思って読んでいた人には、まえがきにある山形さんの東さん的活動への批判ってゆーか異論めいた文章がちょっと意外に写るかも。

 要約し過ぎればその意見は主として「哲学の人にアニメの話を教えてだから何?」ってな感じで、なるほど確かに「だから何なんだろー」とゆー部分もあるけれど、一方で「もしかしたら何か」ってな期待も皆無じゃないだけ抱かせてくれるのがアニメに対する注目で、それは半ばビジネス的な視点があるかもしれないけれどやっぱり増してい来ている現実を鑑みると、あるいは「何か」がそこに生まれるのかもしれないし、やっぱり生まれないのかもしれない。どっちの見方も一理あって難しい(と言っておけば蝙蝠野郎としても顔向けが立つ、信頼性とかは二の次に)。

 それにしてもな山形さん、永江朗さんのインタビューで遂にかの「噂の眞相」の田口ランディさんも登場した名物コーナー「メディア異人列伝」に堂々の登場はいよいよ世の中のオヤジも知る有名人リストへの掲載も間近ってことなのかな、オヤジが牛耳る新聞だとなかなか若手って気付いてもらえないんだけど、それでもメディアな人間だったら「噂眞」の持つ情報の伝播力浸透力はなかなかで、あのあそこに出ていたあれならどうと言って起用を説得しやすくなる、と思う。まあ貧乏なメディアの当方ではお声掛けなんで出来ないんだけど。「かつてすごくいい翻訳をしていた先輩が、専業の翻訳家になってから役の質が変わってしまったから」専業にならないとゆー理由はフリーになることへの半ば戒めにもとれるけど、肝心なのは両立できてどちらも面白いことだから、条件はちょっと違う。むしろ「社会との接触が少ないと、ああなるのかな」ってことを自問し続ける方が大切なんだろー、クリエーターはともかく受け手は突飛でも愚鈍でもない一般の世間なんだし。

 ネット絡みに強い山形さんだけど「インパク」についての異論めいた話は載ってなく、意外だったけど代わりにって訳でもないだろーけど例の裁判について「悪い冗談」で「反省している」と書いてあってちょっと吃驚、結審前でこうまで頭下げてて裁判がまだ続いているのは何か不思議な感じがする。それは多分単純な名誉毀損とかじゃなかったからで、スタート時はともかく現時点での争点に双方それぞれの主張があってそれがぶつかり合ってるよーな気がする。これまたどっちつかずの筒井順慶野郎には敵対するにも見方になるにも判断に困る争点だけど、とりあえず4月の結審あたりを踏まえて様子を観察しよー。それがだから日和見だって。

 わかったどーせ日和見だってことで先週の唐沢俊一さん出演イベントに続いて今度は東浩紀さん出演イベントを見るため「ロフトプラスワン」へ。お題は発売なったOVAの「ねこぢる草」(キングレコード)についてでステージにはキングレコードの大月プロデューサーに何故この人がねこぢるなのかちょっと分からず作品を見てもやっぱり分からなかった監督の佐藤竜雄さんに作画監督をやった「クレヨンしんちゃん」で有名な湯浅政明さんがアニメ側から登壇、でもって精神科医の斎藤環さんと東さんとゆー「戦闘美少女」「ひきこもり」なイベントでは馴染みがありながらもやっぱり「ねこぢる」とはちょっと線が違ってそーなアカデミックな2人を加えてのトークが繰り広げられた。

 何しろ最期が最期だっただけに「ねこぢる」さん、作品における残酷描写も含めて斎藤さん的には語り始めたら1時間2時間では利かないくらいにいろいろと分析ができる作品だっただろーけれど、絞って例えば意味忘れたドイツ語で「レピッシュ」的な雰囲気があってシュールとかって言うよりは幼児っぽい残酷さを持った作品だよねってなことを話してくれた。東さんはこだわりなのか性的な描写がなく代わりに食事のシーンが多いことを指摘してそのスタンスについての思考を巡らしていたけれど、何せ稀代の異才だった「ねこぢる」相手に一朝一夕で答えなんか出るはずもなく、分析的にはやっぱり不思議な人だったってな感じの話が繰り広げられる。

 監督的には食べるシーンが好きみたいで「ちびまる子ちゃん」の時代からそれこそ食堂のコックが主人公だった「機動戦艦ナデシコ」も含めて食事のシーンをいっぱい書いてアニメーターから顰蹙を勝っていたとか。大月さんは昭和的な雰囲気のある内容とか夢が醒めるっぽい話になったって点で、大昔に見た坂本九さんが出演してた「ガリバー」なんかが出てくるらしーアニメでの描写とか別の昭和30年代のアニメの描写とかが重なっていたことを話していた。流石にその辺はキング入社前だろーけれど(生まれてさえいないかも)、覚えてるってことはやっぱりアニメが好きなプロデューサーだったんだろー。それにしてもどんなアニメなんだろ。

 休憩時間になったんで東さんに「『山形道場』であれやこれや言われてますよ」と教えておく。読めばもちろんお互いの立ち位置なり目的なりスタンスの違いなんかも分かるんだろーけれど、日和見な蝙蝠野郎と違って東さん最近はこんな場所にも顔を出していたりするくらいで、当然ながら「日本SF大賞」な人たちとは近くなった訳だったりして、純然とスタンスの違いから来る相互批判ではないもっと違うマインドに関わる部分での牽制なんかもあるんだろーか、なんて考えてしまう人が出て来たって不思議はない。多分杞憂と信じたいしそもそもがそんな要素を重要視するほどの政治的な人には見えないんだよなー、山形さん。まあこれも想像なんでやっぱり19日のイベントで好きか嫌いか聞いてみよー。東さんのCD−ROMとか購入するんだろーかってな店内での尾行・観察もやれたらやるけどやれなかったらやらない。


【3月8日】 池袋のサンシャインで始まった「シルバーサービス展」をのぞく。もらったパンフレットの爺さんが笑ってるのか怒っているのかちょっと曖昧な顔をした写真を撮影しているのが荒木経惟さんだったりしてその豪華さにちょっと驚いたけれど、こーゆーものも平気で撮ってなおかつ荒木さんっぽさをしっかりと見せつけてしまえる辺り、やっぱり凄い写真家だってことを改めて思い知らされる。けどギャラだって相当なものだろーに主催の「シルバーサービス振興会」ってそんなに裕福なんだろーかそれとも還暦で遠からずシルバーなサービスが必要になるだろー荒木さんに対して展示してある介護に関連する品々やバリアフリー関連商品や老人食や保険年金なんかを現物支給するとか。実際歳とか関係なしに見てると欲しくなるんだよねー、背中が持ち上がるベッドとか本読むのもご飯食べるのにも楽そーで。部屋にあれ1台あれば椅子も机もいらなくなるし。

 もちろん「シルバーサービス展」はベッドとか車椅子とか見にいったんじゃなくって歴としたゲームの取材、ちょっと前に「ピープル」なんかを買収してヘルスケアエンタテインメント事業なんかに手を出しはじめていることを喧伝していたコナミが折角のイベントってことでヘルスケアエンタテインメント関連の商品を初披露してるってことで見物に行ったもので、見ると他が結構老人にも楽しめる余暇に関連した商品とかを展示している中で、老人に限らず使って楽しく体力も鍛えられそーな商品を展示していて、若いお姉ちゃんのコンパニオンなんかもいてそれなりに目立ってた。老いたりとは言え健全な男性だったらやっぱりミニスカートの女性がいれば近寄ってみたくなるもの、その意味で掴みはオッケーだったと言えるだろー。

 肝心の品物はとなると未だ開発中だったりするから評価はちょっと難しいけれど、上に乗って体を左右に回すツイスターみたいな道具とか2つついたペダルの上に立って足を交互に踏み込む道具とかは音楽が鳴るってな付加的な楽しみはそれとして、普通にエクササイズに使えるくらいの中身はあったからまずは大丈夫そー。問題はダンベルみたいな形をした道具で一体何だろーと思ってコンパニオンがやっているよーにダンベルみたいに水平に握って振ってもウンともスンとも言わない。アレと思って説明をよくよくみるとどーやらダンベルじゃなくベルってのが正解らしく、鈴を上に向けて前後に振るとちゃんと、と言っても音が小さくってよく分からなかったけど「モーニング娘。」なんかの曲がちゃんと流れているっぽくって、ついつい調子に乗って振っていたら腕が疲れた。その意味で一応は使える商品になっているのかも、あとは使い方さえ間違えなければ(これが1番大切なんだけど)。

 タカラとの提携なんかもしているコナミらしく展示してある商品にも例の「eカラ」と同じチップ内にOSなんかを全部組み込んであってテレビに接続するだけでゲームが出来ちゃう仕組みを使った一種の「ダンスダンスレボリューション」が登場。カセットも「eカラ」に使えるのがちょっと巧いやり方で、本家に比べるとちょっとカッタルイけど音楽だけなら最新で雰囲気も結構味わえる簡易版「DDR」を6800円で手に入れられるとなれば、まあそれなりな需要もありそーな気がする。ちなみに「eカラ」に使えるプラチナカートリッジは別売りで2980円。「ミニモニ」の「じゃんけんぴょん」とか慎吾ママの「おはロック」とか島倉千代子の「人生いろいろ」とか入ってるのは老若男女にありがたいけど、全部唄える人とかいたらちょっといやかも、若ければ特に。

 感情に逆らい欲望を抑え世を拗ね自分を偽ってシニカルに生きることが妙に格好良く思える時もあるけれど、やっぱり自分に降り懸かるすべての事柄をあるがままに受け入れ時に怒り時に哀しみながらも生きていくことの方が多分、人間にとってより人間らいしものなんだろーか、なんてことを山之口洋さんの新刊「われはフランソワ」(新潮社、1800円)なんかを読みながら考える。主人公はフランス文学史上で最高の抒情詩人と呼ばれているフランソワ・ヴィヨンって男。出自もその存在すらも謎めいた所の多い人らしーけど、現実に残されている詩は洒脱だったり軽妙だったりしながらも人間の思いの強さ激しさを放っていて今に至るまで大勢の人に愛され親しまれている、らしい、実は良く知らないんだけど、詩人とかフランスの文学者とか。

 パリ大学を出て詩作で名を轟かせながらも学生を煽動したお遊びが過ぎた挙げ句に人を殺してしまってパリを出奔、挙げ句に悪い一味に尻尾を握られ手伝いをする羽目となったのが運の尽きかそれても運命の始まりか、泥棒稼業と詩人の2枚看板を引っ提げフランスを渡り歩いては素晴らしい詩の数々を残す。最後は死罪になりかかった所を罪一等減じられてパリを放逐されて幾星霜、以後の運命は一応は誰も知らないことになっている。巻き込まれタイプに見えながらも結構な部分で自分の世間に逆らい欲望を露にする意志を見せている部分の身軽な様が目に心地よく、物語の中でフランソワが世話になるどこか世を儚んで「無関心」を決め込んでいる大公との対比もあって、ますますその生き方が羨ましく思えて来る。

 出自のよく分からないフランソワだけど決してよくある自分探しの物語のようなパターンにはまらず、自分が何者だなんてお構いなしに才能と感情の赴くまま、生きていくフランソワの姿はともすれば自分探しに悩む主人公の生き方に共感を覚え、結果として見つけた自分の姿にカタルシスを覚えて安心したいってな今時の読み手の目を、眩しさでもって一瞬そむけさせるかもしれないけれど、たとえ自分なんて見つけられなくっても決して悩まず怯まず突き進むフランソワの、ときどきピンチになるけれどそれも自業自得なんだと思わせてくれるよーな態度なんかを読むにつけ、自分が何者かなんてことは実はどうでもよくって、とにかく生きること、進むことのの方が楽しいし結果として自分を見つけることに繋がる可能性もあるんだってことが見えて来る。

 ジャンヌ・ダルクの狂信ぶりに始まって飄々としながらも運命を切り開いていくフランソワの遍歴から驚くべき出生の秘密といったさまざまなポイントを持つ大きなストーリーの中で繰り広げられる、オルレアン公との詩作という共通の趣味を間に挟みながらも大きく異なっている生き方を巡る対話とか、自業自得めいた悪事との関わりの中でそれでも自分を卑下しないフランソワの強さとかいった生きる上での指針を得られてなかなかに読みごたえがある。且つ途中に挟まれるロマンスがもたらす結果への綺麗にハマり過ぎてはいるけどやっぱりニヤリとしてしまう仕掛けとか、クライマックスに明かされる意外ではありながらも案外と妥当な秘密、そして清々しさに溢れたエンディングと物語としても一級品。佐藤賢一さんとも藤本ひとみさんとも佐藤亜紀さんともまた違う、エンターテインメント性と思弁性を両立させた歴史小説に仕上がっている。山周賞だって直木賞だってイケますよ。


【3月7日】 どれくらい昔になるんだろうかもう思い出せないくらいに大昔(っても数年前だろーけれど)、オリンパス光学工業が細密なバーコードの中に音声とかをデジタル化して記録できる技術を開発したって会見があって見に行った記憶があって、なかなか面白いんだけど何しろバーコードなんで印刷するとどうしてもグニャグニョとした紋がプリントされて目に優しくなくって、どんな分野に普及するんだろーかとあれこれ想像を巡らしていた。結果例えば学習教材とか絵本とか妖怪の本とかに音声やら鳴き声やらをバーコード化して印刷して、セットでリーダーも付けて売るってなビジネスが「東京国際ブックフェア」の会場なんかで展示されているのを見たけれど、主流になるにはもう1つ足りないなってな印象が強くあった。

 それが何となんと一気にメジャーも超メジャーに躍りでたから驚いたってゆーか仰天したってゆーか。任天堂の「ゲームボーイアドバンス」に関連した発表会の会場で、かの「ポケットモンスター」を育て上げた石原プロデューサーが新しいポケモンカードの遊び方としてカードにそのオリンパスのバーコードを印刷して、一方では「GBA」に取り付けるバーコードリーダーなんかも開発してカードを通すと「ピチュウ」が「ピカチュウ」になって「ライチュウ」へと進化する系統なんかを絵とか文字にしてモニターに映し出してくれる仕組みを大披露。カードの別の辺には「ピチュウ」が歩いては転んでは無く動画が収録されていたりして、ただの絵と字でしかなかったカードが一気に死語だけど「マルチメディア」な製品になっていて、行き着いた観もあった「ポケモンカード」に次への可能性を垣間見せてくれた。

 何しろ世界で何億枚も売れる「ポケモンカード」に使われれば開発元のオリンパスだってそれなりなビジネスが立ち上がるだろーし、「ポケモンカード」が駆動力となってリーダーが普及すれば別のカードでも同じバーコードが使われるってな具合に2次元バーコードの世界で一種でファクトを取れる可能性だってこれで見えて来た。筒状のリーダーがこれで売れなくなってしまう可能性はさておいても、それをカバーして余りあるボリュームがこれで一気に成立することになるだろー。遊びの方でも例えばレアなカードにゲームのモンスターなりキャラクターなりを成長させるデータを入れておくとかすれば、それを求めてカードは売れるしゲームにも注目が集まるってな具合にいろいろな提案が出て来そー。1枚1枚は数キロしかデータ容量がないけれど、トレカみたく100枚をコンプリートして初めて見られるデータを仕込んであったりしたら面白いかもしれない。ともかく1つの技術がこれで救われ伸ばされる可能性が出たってことで、やっぱり凄いなあ「ポケモン」は。

 常人の及び知れない突飛な行動なりシチュエーションを書くから例えば「銀河帝国の弘法も筆の誤り」も「激突カンフーファイター」もギャグになるんであってあるがまま、事実だけを延々と書き連ねた所で一体何の面白い所があるものか、なんて思っていたら大呆然、おそらくは事実しか書かれていないにも関わらず、全編がこれギャグとコメディとパロディに溢れて読み進みながらも笑いが吹き出し涙が溢れて来る本があったとは、なるほど”事実は小説より珍奇なり”である。

 本のタイトルは「大使館なんていらない」(幻冬舎、1600円)で著者は元外務省医務官の久家義之さん。33歳で外務省に入ってサウジアラビアとオーストラリアとパプアニューギニアの大使館に勤務した経験を持つ人らしーけど、そこに書き連ねられた大使館で会った人たち見た事柄のどれもがおよそ現代の感覚では真っ当とは思われないものなかりで、真っ当な感覚を持った人が会ったり見たりしたなら毎日がきっと楽しい浅草演芸場それとも梅田花月に匹敵する笑いを体感できただろー、ただし部外者なら。当事者にとってはそこは多分永遠を1億倍したくらいに長く続く地獄だっただろーけど。

 「アリさん、ユーね、これ、向こうにブリングね。オッケー?」「ユー、ダメよ。イッツ、ノーグッドでしょ」(いずれも53ページ)。まさしく「これって何語だ。こいつらトニー谷か!?(ちょっと古いですが)」(54ページ)ってなもんで、これが日本のちょっとだけ英語をかじったドメスティックなおっさんから出ている言葉だったら何もおかしくはないけれど、心智人望の類はともかく英語若しくは語学に関してはそれなりな物を持っていて不思議じゃない大使館の人が使っているからちょっと驚く。説明だと館内での事務が多い人は英語なんて訓練されてなくって外国に放り込まれるらしく、算盤こそチャカチャカやってなくても言葉ばかりはサイザンスな人が結構いるらしー。

 この辺りは序の口で、この人の機嫌を損ねると大変なことになる会計係の理不尽さとか大使公使の公費の乱用ぶり私費の吝嗇ぶりとか挙げれば珍奇なる人々による珍妙な言動数知れずだけど、これってどうやら別に大使館に限ったことではなく、とかく体面ばかりを気にして実が伴わずそれでも決まっていることだと曲げずに突き進んでは爆発する傾向は、日本と日本人全体にあるみたい。湾岸戦争の時に海部首相がサウジアラビアを訪問した際に朝食に出すゆで卵を100個、半熟じゃない固すぎると私設秘書(息子じゃない方)が茹で直させた話がギャグだったらこんなに愉快なことはないけれど、一国を預かる人の周囲で実際に(多分)起こってるんだから笑えない。

 大津波が襲ったパプアニューギニアを援助しようとした外務省が首都のポートモレスビーに物資を送ったは良い物の、それを4000メートル級の山を越えて津波の被害が出ている島の北側までどう運んだら良いのか分からず、オーストラリア軍に頼んで届けてもらったというから大唖然。「地図だけ見て島の北側からポートモレスビー攻略を命じた太平洋戦争の時と同じ過ちを繰り返しているのだ」(63ページ)なんて指摘、どうすれば笑って見過ごせよう、不謹慎を承知で次は負けないなんて想像を巡らせる人がいたとしても指揮するのが今の国じゃあやっぱり負ける、ってゆーか負けさせられるでしょー。一時が万事ではないにしても日本の不思議さを濃縮した形で見せてくる大使館、これを純粋なギャグだと笑って読める日が……来る訳ないよなあ。

 あんまり人ん家のことは言えなかったりするのは、なんかゴチャゴチャやっているけど掲げる「科学技術」と「IT」の看板の元に紙面を強化すべしとゆーおふれが回る一方で、だったら人数もどっちゃりと増えるのかと思ったら逆に減るってんだから大わらわ、でもって更に紙面の品質向上を課して来るとあって一体何をどーすれば良いんだろーかと決してはまらないパズルを考えなくてはならない人が大勢いるから。連日1ページを3にんで作っている新聞が日本のどこにあるんだろーかと悩んでいるうちはまだ良かった、今度は連日2ページを5人だそーで土日は出してないから1週間に1人が1ページ分を書けってことになりそーで、これまでも「いつか良くなる」と多少の減員にも我慢して来た堪忍袋がややもすれば解れかって来ている、みたい。

 もしも仮にこんな状況でもしも「現状維持はダメだ冒険が必要だ」なんて例の「チーズとうじ虫」? 違う「チーズはどこへ行った」を訓辞よろしく持ち出そうものなら何かしてくれていた会社ってチーズがどっかへ行っちゃった今、小人は誰もそこに留まりませんよと反論が出て必然だけど、まずは体面で現実を見ずに突っ走っては連戦連敗な日本軍よろしく、この10年の連戦連敗をさらに20年の連戦連敗へと延長する改悪が現在進行形、さてどうなることやら。これだけ煽ってるのにグループの人は何が起こっているのか本当に気付いてないんだろーか、気付いてないんだろーな、何しろ同じグループ内には経済専門の媒体はない、なんて思ってる人がいたんだから、これぞ傍目には大笑い、こちらは当事者なんで待っているのは煮えたぎる地獄の窯。逃げるかやっぱ。


【3月6日】 ホームページ とかチェックしてなかったから全然気づかなかったけど、最近のミステリー業界な人たちの日記とかにあんまり名前、出てこないなあと思っていたら「朝日新聞」3月6日付の夕刊にある「テーブルトーク」ってコーナーに登場の津原泰水さん、出身の広島に昨年6月から帰っていてそこでジグジグと連載中断になっていた小説「ペニス」を書いていたらしー。見出しにある「服のサイズがMからSに」はあまりに苦悩した小説書きに精神を絞られ経済的に苦しかったってことで肉体的にも絞られた結果で、なるほど作家という商売に本気で取り組んだ時に被る精神的肉体的プレッシャーの凄まじさが、記事からひしひしと伝わって来る。

 相生橋の欄干に腰掛けて膝を組みやや上を向いた表情は白黒ってこともあってそれほど痩せているよーには見えないけれど、今は脱稿し間もなく刊行な「ペニス」の行方を見守って内心はやっぱりドキドキしているんだろーか。よく田舎に帰ることを”都落ち”なんて言って揶揄したり卑下させたりするけれど、記事を読むと決して逃げた訳じゃなくってどちらかと言えば前進の為の退却といった感じ。現実に作品は書き上げた訳だし5月には「少年チトレア」って本も出るみたいで、記事にあるような小休止なんてものでは決してなくって、着実に歩を進めていたんじゃなかろーか。

 「東京での生活は、休まらなかった。注目を浴びなければならない切迫感。それに脚光を浴びれば、せん望に耐えなければならないでしょう」と話している言葉から想像するに、同業者もファンも大勢いる東京の生活はそれなりに楽しいんだろうけれど、自己をよほど制約するなり自己によほど自信があるなりしないと流されてしまう可能性があるのかも。思い出したのは東京は原宿なんて素晴らしい場所に若くして家を買って東京でのスター作家生活を謳歌していた筒井康隆さんが集まり騒ぐ友人達との生活が最後には「東京が地獄になった」とまで言って神戸に戻ってしまったことで、けれども帰神後の筒井さんは変わらず創作を続けた挙げ句に大作家となり再びな東京凱旋を果たした。”都落ち”なんて言うけれどどこに居たって仕事の出来る作家にとっての”都”なんてないと考えれば、よりより環境を求めて動くことをこの際当然と見て、揶揄せず卑下もさせないで作品が結実する時を待ち且つ作品を楽しむのが筋なのかも。期待してます新作に。

 気分としては田舎の方が家だってあるし車だって運転し放題だし綾金なんで化け猫だっていっぱい歩いてるのかもしれないけれど、作家と違ってライター稼業はこれまたちょっと勝手が違って東京近郊にいることが結構重要だったりするから難しい。書評仕事に限って言うならあるいは可能かもしれないけれどそれで食べられるほどの量はないし、新刊だったらネット書店で手に入れられるよーになっても古い本だとやっぱり神保町あたりの古本屋を回って探さなくっちゃいけないこともあるからなあ。取材が必要な仕事だったら電話とかネットがこうまで発達した現代でもやっぱりフェイス・トゥ・フェイス重要だったりするからリアルな対面が不可欠。だいたいがイベント出没なんてリアルな肉体があって始めて成立する仕事だし。うーん作家かあ、森下一仁さんの説に倣えば顔の大きさは作家の道に結構大きいらしいんで、帽子がLじゃなければ入らない僕にも可能性はあるのかな、才能はともかくとして(ともかくじゃない)。

 才能あるのかな、それともないのかな、ちょっと分からない小説が結構「J」大好きな河出書房新社から出ていてチョロいかも、とかこりゃ無理だとか思ったりすることがあるけれど、柴崎友香さんって人の書いた「次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?」(河出書房新社、1300円)は、書かれてある内容の何とものんべんだらりとした日常ぶりに、たいして盛り上がる訳でもないストーリーを読むにつけ、もしかしたら自分にだって書けるんじゃないかってな思いを抱かせるけれど、読み込むうちにこの何ともありふれた日常ぶり、なのにちょっとした心の機微を匂わせて同世代な人たちをほんのりとさせがっかりとさせ切なくさせ歯がゆくさせる腕前は、なるほどやっぱり作家としてデビューできた人らしー。

 主人公の望は高校の時に学園生活を撮った写真集を出して結構将来を嘱望されて、音楽の才能もあったんでますます未来を期待されてて本人も多分その気になっていた。けれども大学を出て2年経った今は別に就職するでもなければ大学に残って研究を続ける訳でもないいわゆるただのフリーター。だったらすべてを諦めているかというとそうではなくって何かしらの才能が残っているんじゃないかと多分心のどこかに思っていて、それが発動する日かあるいは他力本願的に発動させられる日を待っている。友人の彼女が好きで2人が東京まで車でディズニーランド見物に行くと聞いて別の友人を誘って付いていくけど、妙に気張って浮いていて、そんな姿が誰しも経験のあるってゆーかリアルタイムで経験している自分にちょっとだけ自惚れている様を描き出していて、心をチクチクと刺して来る。

 大阪弁が使ってあるけど大阪弁に東京の人なんかが勝手に抱いているベタベタな肌触りとか騒々しい雰囲気とかはまるでなくって、道頓堀とか北新地とか通天閣とか心斎橋とか(例は適当)いったイメージよりもファッションはお洒落で女の子は美人でけれども言葉は大阪弁な「アメリカ村」っぽい(これも想像)雰囲気が全体に漂っている。もちろん吉本新喜劇的な関西のイメージは明らかに妄想で、リアルタイムに学生している若い人には原宿とか青山とか代官山のイメージの中で生きているんだろーけれど、そんな雰囲気を知らない人にもちゃんと感じさせてくれたってことで、やっぱり面白い本だと言えそー。引きこもって眠ってばかりいた女子学生がちょっぴりだけど立ち直って、それでもやっぱり先生の話を聞きながら眠ってしまう仕草が妙に可笑しい短編も併録。これも大阪弁が可愛いっす。

 週末のイベントに向けた予習もかねてDVDの「ねこぢる草」(キングレコード)を買って見る、うーん暗い、暗いし痛い、でも所々に心が懐かしく暖かくなって来る。貧しく質素だけれど家族がいることの大切さ、死の哀しさと生の有り難さがそこはかとなく伝わって来て、それだけにどうして本人が死を選ばなくっちゃならなくなったのかと不思議に思い、だからこそ考え抜いた挙げ句の死ではなかったのかと考えながら、やっぱり切なくなって来る。デジタルも駆使しただろー映像の不思議な質感と、セリフを排除して淡々と進んで行く展開に、繰り出される幻想的な舞台装置や背景やシチュエーションが佐藤竜雄さんの新境地を感じさせ、そこに「ファンタスマゴリア」「クジラの跳躍」といったたむらしげる作品で幻想と耽美と清冽を合わせ持った音楽世界を聴かせてくれた手使海ユトロさんがピタリはまった音楽を付けて、妖しくも懐かしいねこぢるワールドを作り上げてくれている。短いけれど濃密な1本。よくぞ作ったキングレコード。大和堂も頑張ってるなあ。


【3月5日】 バイクの形が何とも「AKIRA」っぽいけど物語の中に含有されている知性の高さと学識の深さは流石な坂口尚さん、ギリシア神話のアポロンとその子パエトーンをモチーフにしたその名も「紀元ギルシア」(「坂口尚短編集第2巻」所収、チクマ秀版社、1600円)は、想像するなら遠い未来の滅亡に瀕している人類が、最後の足掻きめいたことをしている物語のよーで、描かれる異形のものどものおぞましさと言い、繰り広げられる父と子の相剋だったり権力を巡る闘争だったりする物語が、人類の生への執着めいたものを感じさせて心を熱くさせる。

 良い所でズドンと終わってしまっていて作品として評価しよーがないのが残念で、今さらながらにその死が惜しまれるけれど、併録の哀しい少女の運命を描いた「エストレリータ(小さな星)」やこれとテーマの似通った「8月の草原」のよーな小品こそに案外と叙情あふれセンス・オブ・ワンダーに満ちた坂口さんのSFマインドがあって。そーいった作品が哀しいけれども死によって改めてこーやってまとまってくれることを、頑張ってくれている出版社への感謝も含めて喜んでおきたい。次ぎは何時、でもってどんな作品が収録されるんだろー、気長に、けれども心うち震わせつつ刊行を待とう。

 だから賞なんて欺瞞なんだとぶち斬るつもりは毛頭ないんだけれど、写真の世界だと土門拳賞と確か並び称されている木村伊兵衛写真賞に、長島有里枝さんにHIROMIXさんに蜷川実花さんの「ガーリー系」ってゆーかつまりは同じ傾向のある人たちとして括られて見られがちだった3人の女性写真家を、本当に一括りにして受賞者に選んでしまっているのには、やっぱり奇妙な感覚を覚えてしまう、それはもう「日本SF大賞」以上の(まだ拘ってる)。

  選んだ側の言い分としては別に3人をまとめたなんてことはなく、それぞれがそれぞれに傑出した存在で且つ、同じ時期に活躍していたことを頂点に横一線と捉えて授賞したんだってな理由があったんだと思いたいけれど、客観的つまりは野次馬的に見るなら若い女性でスナップな3人をひとまとめにして”傾向”として授賞したんじゃないかってな想像が浮かんで来る。だったら花代さん飯島愛(同姓同名)さんも混ぜればいいのに、売れてるし。

 もっとも”傾向”として似ていても作品にはそれぞれに特色がある、よーに記憶していて長島さんはセルフポートレートなんかも含めて割に乾いた感じがあって蜷川さんはカラフル、でもっとHIROMIXさんは怜悧ってイメージを「光」(ロッキング・オン刊)なんかから受けているんだけど勘違いかもしれないから深くは考えないことにして、それでもやっぱり各様の特徴があるはずだろー、だって別人なんだから。

 今のところ選評が読める訳じゃないから果たして3人のそーした差異をも考慮した上でそれぞれが水準に達していたと言うのか、足して1つの”傾向”を見出しそれが水準に来ていたと言うのかは分からないけれど、現段階ではやっぱり足して1なイメージがつきまとって、一体それぞれのアイデンティティはどー思われているんだろーか、そもそも受ける当人たちはこーゆー形での授賞を何と考えているんだろーかってな疑問がつきまとう、まあ余計なお世話だろーけれど。

 複数授賞が確立している芥川賞とか直木賞とかいった文学賞の場合は各個に独立しての受賞なんだと理解は出来るけど、「1度に3人の女性に授賞」してしまった今回の木村伊兵衛写真賞の場合は、ことさらに恣意性なり運動性なりが浮かび上がって来てしまって、どこか下心の透けて見えそーな賞を与える側の態度が報道を通じて伝わって来て、気持をささくれ立たす。もっとも賞ってのはそもそもが与える側の意図によって決まるものだとゆー意見もあるし、既にしてそれぞれに活躍していて今さらな権威付けなんて必要もな3人だから、括られよーと押し込められよーと気にせず無関係に活躍してくだろー。

 そもそもが3人の良いファンたちは木村伊兵衛写真賞なんて見るだに古めかしい名前が冠された賞の持つ意味なんて知らないし、おそらくは賞なんてものが存在することすら知らなくって、今までどーりに可愛い格好良いといった感じに3人を受け止め応援し、憧れ真似していくことになるんだろー。あるいはオヤジの下心を逆手にとって3人がそれぞれに撮った写真をシャッフルして無名で展示してしまう展覧会とか、それぞれがお互いを撮り有ったポートレートを並べるとかしてくれればニヤリと笑いも浮かんで楽しいかも。とりあえず19日発売の「アサヒカメラ」掲載の選評とか受賞の言葉とかを待とう。

 変身美少女だか戦闘美少女だかはともかくパターンに倣うなら変身のシーンに脱げるか透けるか脱げないかがとりあえず重要なことは言うまでもないけれど、スタートした「Dr.コパ」じゃなかった「Drリンにきいてみて!」は珍しく第1回目では肝心の変身シーンは見られず、何やら謎めいた力が発動したり敵らしき存在は見えてはいるものの果たしてどこまで話が広がっていくのか現時点ではちょっと掴みきれない。前世の因縁なのか異次元からの侵略なのか悪魔の復活なのか妖怪の仕業なのか単なる悪の秘密結社のちょっかいなのか。規模によって話は全然変わってしまうからね。風水がテーマで式鬼らしきものも出てたんで東洋趣味な奴らの勢力争いって辺りになるのかな。

 絵的にはまずまず。”萌え”な要素はほとんどなくって男への媚びよりは主ターゲットな女の子へのアピールに主眼を置いた作りになってるよーだけど、そーいった部分を超えても例えば隙間の広い両足の間とかに目を向けて勝手に”萌え”てしまうのが不健全な男児って奴で、これはまあ仕方がないです病気だから。ギャグになる部分とか飛ばし過ぎてもないしかといって滑ってもない辺りで月曜の夕方を淡々と過ごすのに最適かも、あと歩く所を後ろから描いた場面のでヒップの振り方とか。

 キャラだと主役の波目になった口の描き方とか結構好きだし、陸上部だかに所属している同級生の女の子のスレンダーな姿態はなかなかにグッドっす。冒頭に出てきたおそらくは変身後のデザインは東洋風な部分で「神風怪盗ジャンヌ」に「魔法少女プリティサミー」の融合っぽさはあったし色も紫がかって目にチカッと来たけれど、目のとにかく大きな顔が先鋭的だったジャンヌよりは普通っぽいしサミーほどゴチャついてもないから長く見るには適度かも、問題は見えるかって所だな、白いのとかが。


【3月4日】 違和感があるとか釈然としないとか唸ってはいても呼ばれればホイホイと出向いては愛想を振りまくのが無節操な主張なき世代の良くも悪くも特質で、或いは常日頃から有ること1%に無いこと99%を吹きまくってる野郎の顔を満天下に晒してつるし上げてやろーってな魂胆でもあるのかと、これまた過剰な自意識を膨らませつつ覗いてみた「巽孝之戴冠式」だったけど、駆け出しのさらに尻尾な当方には無縁な一昨日の「日本SF大賞」授賞式に大方の作家先生がずらりと勢揃いしていたとは言いながらも、自主的なお祝いの席ってことで発起人の柴野拓美翁に夢枕獏さんひかわ玲子さん永瀬唯さん(チェリオさん、とやっぱり呼ばれてた)といった重鎮を筆頭にして、主に評論陣ライター陣ミュージシャンイラストレーター当たりの日本SFファンダムを支える重鎮がズラリと勢揃いしていて、その輝きぶりに当方なんぞは帽子被ってなくても輝き負けて霞む霞む。まあその分見知らぬ方々の動きを部屋の隅にひっそりと棲息して観察できたけど、それにしてもやっぱりズラリと居並ぶSFな偉い人たちの結束の強さを見るにつけ、ファンダムファンジンと無縁で来た身が少しばかり悔やまれる、知り合いとか皆無だし。うーんやっぱり裏道を地道に行こう。

法王&王子様  ともあれ見物できただけでも良かった「戴冠式」。なるほど「柴野拓美賞」とかは受賞していても一応はプロな世界が出すれっきとした文学賞(なんだろーね)の「日本SF大賞」を受賞したってことで、初の栄冠に輝いた巽さんがいよいよ「無冠の帝王」の座を返上することになったってことで、だったらその名のとーりに「冠」を与えてお祝いしよーとゆー何とも仲間たちのホヤホヤとした関係が10年20年と続く世界らしー催しになっていて、それでも普通にマラソンの選手なんかが貰う月桂冠でも送るんだろーかと思っていたらさにあらず、まさしくSF界隈の法王なのか教皇なのかは判然としないけれどもとにかく偉い人な柴野さんが錫杖を持って登場すれば、巽さんも赤いマントとゆー小谷真理さん曰く「初コスプレ」な扮装で御前に向かい、柴野法王から輝く冠を授けてもらっていた。それにしても似合ってたなあ柴野さん。

 「無冠の帝王」に冠を与えるんだってことで成立しているイベントだから次がどうってことはないんだろーけれど、もしも仮に今回巽さんに授与された冠が例えば次に「日本SF大賞」を受賞する人に回るかとゆーとチャンピオンベルト方式あるいは真紅の優勝旗方式だったとしたら果たして「冠が欲しいから頑張る」て人が増えて今年はSFが栄えるんだろーか、それとも「あれを被るくらいなら」と1年を引きこもる人ばかりになって衰退するんだろーか。今年に入ってすでにして」日本SF大賞」に輝きそーな大傑作を書いてしまった人は、マントを羽織り輝く冠を被って休日の銀座を練り歩く夢(悪夢)に胸躍らせおくのが正しいSF人としての心がけってことになるんだろー。「かめくん」の北野勇作さんに「銀河帝国の弘法も筆の誤り」の田中啓文さんあたりが候補の線上に名前を現時点では連ねていそー、もっとも2人とも喜んでやりそーだからできればもうちょっとだけお笑いな線から外れた実直な人への「戴冠」を期待しよー、野尻抱介さんか。

 とりたてて居残るでもなく営業出来るだけの甲斐性もなくそそくさと会場を後にしてリクルートのビルで開催されたメディアファクトリー発売になる大宮ソフト開発な名作ゲーム「カルドセプト」の最新作、「カルドセプト2」の発表会を見物する。何しろ「ドリームキャスト」なんておそらくは国民の1割も知らなくなってしまうよーな今年の7月に発売とゆータイトルで、もしかするとそんなハードの末期も末期に投入するにも関わらず、その面白さでもってハードを救おうなんて考えと自信を抱いているんだろーかとも思ったけれど、よしんばそーした下心は皆無だったとして、少なくとも前作で培ったファン層が結構な数いそーな気もするから、あるいはハードに最後の花を咲かせるタイトルになるのかも、どっちにしたって所詮は最後ってことなんだろーけれど。ちなみに新作はネット対戦なんかも出来て遊びの枠組みも広がってるんで、意に反して(どんな意だよ)それなりな実績を上げることになるのかも。

 あとイラストを担当している人の凄さはさっきの「巽孝之戴冠式」にも負けない濃さを誇ってるってゆーか、あっちのパーティーの会場を歩いいてもおかしくないくらいに日本のSF界を最も代表していると言って良いほどで、何しろメインが長く「SFマガジン」の表紙とか最新作だと「エンダーの子どもたち」なんかも含めた文庫本の表紙とかを担当している加藤直之さんで、ほかに怪獣画の巨匠・開田裕二さんに「少年の時間」「少女の空間」でドンピシャリなデザインワークを見せてくれていて、マッスルな人物のイラストではフラゼッタかメビウスかってな迫力と画力を見せてくれる寺田克也さんら有名どころがズラリズラリ。そのセレクトでは圧倒的意外になりよーのないイラストが、現実にはテレビ画面の中のドット絵でしか再現されないってのは残念だけど、展覧会とかやってくれそーなんでマジと見るのはそっちの機会にさせて頂こー。

 夜になったんで「ロフトプラスワン」へ。実は今回が初見になる”おたささ”とはちょっと芸風が違う若手なオタクの代表者らしーやまけんさんってゆー人とその一党が、オタクの第3世代となって唐沢俊一さんに眠田直さんのいわゆる第1世代とトークバトルを繰り広げるってな企画だったみたいだけれど、何しろどちらもオタクなんで深い部分へと向かうと話はどーしても重なりあってバトルにならず、若者層の出だしから片時も休むことなく続くハイテンションなトークに、先回の「トゥーン大好き」の時はまったりしていた唐沢さんも引っ張られてか声が大きくテンションが高くなっていて、それだけでも若い人たちと組んでイベントを開く意味があったのかもと考える。もっとも意に反して飛ばし過ぎた後って反動で自己嫌悪に陥ることもあるから、よほど自分に自信のある人じゃないと逆に引き込まれて血管切らされるから注意が必要でしょー。

 第1世代も第3世代も共通して「サブカル嫌い」の気があって、若者は例の「ワンフェス」での村上隆さん事件を取りあげてガレージキットをカルチャーに”引き上げる”とかってな村上さんの言い草に怒っていたけど、怒れるだけの自意識を持っている分まだまだ当方の理解の範疇にあるオタクで、これが一切の試行的なステップも入らずストレートにあの性器波動法がついた人形を「良い」と叫べる人が出てくる可能性も皆無ではないだけに、今回は抜かされた第2世代を交えてのトークへと向かうよりも、第3世代の屈託のなさすら超越し、屈託なんて心理的なメカニズムを経ることなしに対象物を納得できてしまえる第4世代第5世代の人たちの発見と育成あるは撲滅な方向へと、目を向けてくれた方が同好の士による納得のし合いなんかより、破壊でも誕生でも良いから何か動きを生むよーな気がしたけれど、どーだろ。

 ちなみに9日の金曜日には第1世代と第3世代が無条件に団結できる相手としてサブカルと並んで挙げられたアカデミズムの代表選手、東浩紀さんが「ロフトプラスワン」に登場してはアニメ「ねこぢる」について語る(何を語るんだ?)らしーんで団結ついでに見物はいかが。無節操な主張なき世代の蝙蝠野郎はもち行きますが。途中で抜けて来たんでテンションの上がり切ったところでどんな話があったかは不明、暴言が得意な人も若いメンバーにはいたそーだけど、言って当たり前のことが多くってそれほど気にはならなかった、例えばSF界隈における視覚的な要素への絶対ではなく相対評価の問題とかって今更指摘されなくっても知ってるし、理想を言えば切りのない絶対評価よりも今日のご飯が大事な身としては関係のない話。だいいちSFに限っての現象でもないと思うんだけどねー、今日のイベント自体からしてそんな現象を如実に現していた感じだったし、違う、ねえ。


【3月3日】 ならぬガンジー、するが鑑真。宗教者でもタイプはいろいろあるってことで。なんて下手な戯れ言は抜きにして見物に行った東京都美術館で開催中の「鑑真和上展」は午前中なのに早15分待ちの行列が出来ていて、「モナリザ」ほどではないけれど日本人の感性に鑑真の何としてでも日本に行こうと頑張った行動力の人、鑑真の業績が深く浸透していることを知る、あと例の座像のイメージが。実際に見た座像はなるほど流石の出来で、西洋的なリアリズムとは違うけれど決して様式的でもない、簡略化されている部分はあるのに見れば見るほどに生きているよーな顔とか今にも立ち上がりそうな体とか、静けさの中からわき上がって来るエネルギーの強さに打たれて邪魔を承知でしばしの時間を座像に見入る。1200年とかを経てなお残る技術の高さを見せつけられた訳で、欧化してしまった日本で果たしてこーゆー技術は伝承されているのかと気になったけれど、あるいはガレージキットのような部分にリアルとも抽象的とも違う伝統が生きているのかもしれないと、思うと「サブカルチャーを搾取している」と言われそーだから黙っておこー。そー言えば仏像のガレージキットってないなあ、版権取得が難しいのかなあ、ってゆーか版権なんてあるの、1000年も昔の仏像に。

 顔の話で言うなら浅暮三文さんの大きさは6センチ2ミリで師匠の森下一仁さんを1センチ1ミリ上回っている「SFJapan」2001年春季号所収の座談「SF作家への長い道」。「森下一仁のショート・ノベル塾」から出た作家さんたちが森下さんを囲んで話しているコーナーで、それぞれが1人づつ取りあげられている写真の大きさが気になって調べた結果がこれで、さらに調べてみたら北野勇作さんも6センチあって師匠の5センチを上回っていて横幅もあるから面積は多分浅暮さんより3割(推定)増し。でもって森岡浩之さんもやっぱり5センチ2ミリあるから師匠より大きいわけで、覆面な鯨統一郎さんは不明として全員が師匠を超えているこの事実を鑑みるに、プロの作家になるにはまずは森下さんより顔が大きくなければいけないとゆー推定が思い浮かんだけど果たして真偽の程は。お会いする機会があったら比べてみよー。

 ってのは半分は冗談、1人づつ抜いた場合の縮尺が変わってしまうのは仕方がないことで、とはいえ先生なんだから編集の人も気を使って森下さんの写真をちょっと大きめに載せれば良いのにとか思ったりもしたけれど、ほとんどが同じバストショットであるにも関わらず、1センチ近い違いが出てしまうってことは、やっぱりそれなりな大きさを皆さん誇っておられるのかもしれない。顔の大きさはやっぱり重要なんだろーか、だったら勝てる(勝ってどうする)。それにしても森下さん、作風にしても雰囲気にしても温厚っぽいところがあるよーに見えて、対談だと「ぼくは就職してサラリーマンを五年近くやったあたりで、仕事に飽きてしまって辞めることに決めたんです」なんて話していて案外と思い切る人なんだってことが伺える。踏ん切りのつかない身としてはあやかりたいものですが、今は「SFバブル」じゃないからなあ、「アニメバブル」でもないし、「ITバブル」も1年前に終わったし……地道に行こう。

 巽孝之さんの「日本SF論争史」が「日本SF大賞」を受賞した時に覚えたどーして創作を押しのけて評論のみが大賞を受賞するんだろーかとゆー違和感が、実は割と意図的に選考委員の人たちによって醸し出されていたことが選評を読んで判明、賞ってもののとりわけSFとゆー特定のジャンルを冠した賞ってものが持つ、純粋な文学的尺度のみではない”運動”としての役割を突きつけられているよーでいろいろと考えさせられる。現場にいてどんな議論があったかは余人には伺い知れるものではないし、業界に知り合いもいない素人には巷間漏れ伝え聞くことも不可能だけど、掲載された選評から想像するにおそらくは菅浩江さんの「永遠の森」と池上永一さんの「レキオス」あたりが抜けていて、例年だったら合議の中でどちらかに(多分菅さんの方に)収斂していって1等賞が与えられ、巽さんは特別賞になって一件落着、違和感どころか納得感を覚える賞に今回も収まったことだろー、その納得感こそが実は微温的な空気の中で育まれ固定化してしまった、半ば馴れ合いの観念だったかもしれないとゆーことに気付かないままに。

 毀誉褒貶あれどSFとゆー限定された場所以外で他流試合を挑んで、とゆーよりもともとが他流に人だったのかもしれない中島梓さんは、さすがにそーいった微温的な空気にセンシティブだったらしく、その時々の尺度でもってルーティンワーク的に1等賞を選ぶことに一石を投じることにしたらしー。「もっともっとSFは偏向しなくてはいかん。我田引水の妙な地方文化を作り上げてしまえばいいのではないか、私はそう考えて巽孝之さんの労作『日本SF論争史』を本年度の日本SF大賞に推しました」と言っていて、これに呼応するよーに荒俣宏さんも「小説陣も、できるだけ大胆になるべきだ。かたよるべきだ−すくなくとも、ここ数年は」と話している。結果水準ではありながらも小説が落ち巽さんの評論が獲得することになったみたい。落ちた小説には間が悪かったと言うより他にないけれど、これが賞が持つ”運動性”ってものなんだろー。

 だとすると「日本SF論争史」にはSFに関わる人たちが「SFって何だろう」ともう1度考える機会を与える一種の”毒薬”としての意図を持って賞が与えられた訳で、見方を変えると「奮起せよSF作家よ」ってなニュアンスでもって言葉は悪いけど”当て馬”として賞が与えられたってことにもなって、選ばれた巽さんがどう思っているかは別にして(「認識の衝撃」とゆー受賞にあたっての言葉が含むニュアンスにはどこか戸惑いもあるよーに思えるけれど)やっぱり素直に喜べない所が悩ましい。もちろん「論争史」への授賞を新たな「論争」を生むきっかけにするってゆー意図がちゃんと果たされて、より凄いSFが登場して来れば結果として正解だったってことになるんだけれど、業界の内輪性がさらに強化されてしまうのではってな不安もこれありで、なるほど世界がSF的なビジョンに満ち巷にSF的なコンテンツが溢れている状況では、中島さんの言う「地方文化を作り上げろ」とゆー主張も分かるけど、こと小説に限っては未だ決して所業的に満たされているとは言えない状況のなかで、急進的な動きがまさしく今の株価並みに商売としてのSF市場の急落につながらないかと心配もしてしまう。こっちもご飯の種だし。

 あと論争がいくら活発化しても結局はコップの中では楽しくないってことで、「地方文化」化の結果とてつもなく先鋭化した作品が登場しても限定されたマーケットで知る人ぞ知る作品であったらやっぱりSFファンとして哀しい。後の巽さんと笠井潔さん山田正紀さんが出席している対談で巽さんは「<SFクズ論争>の時につくづく思ったのは、ひとつの論争をやるにもあらかじめ戦略を練って、商業的メディアの協力を得ていかない限り意味はない、発展性もない」と言って「SFマガジン」誌上を使った理由を説明しているけれど、「SFマガジン」も間口は広がってもやっぱり同じコップの中で、会社の同僚学校の同級生井戸端の主婦が「SFクズ論争が云々」と話すよーな事態にはならなかった。なる訳ないしなって欲しくもないけど、でもちょっとは外への広がりが欲しかった。

 いみじくも同じ対談で笠井さんが、「『機械じかけの夢』で石は投げたつもりなんですが、しかし黙殺でしたね。僕が標的にしたのは拡散していくSFであり、他方ではタコ壺化していくSFでした」と話していて、だったら先鋭的でもなければポピュラリティも持たない通俗なのが良いのかってことになるけれど、欲を言うならその両方を持った作品が登場しては大は付かなくてもベストセラーに登場するのが理想で、同じ徳間が絡んでいる賞の「大薮春彦賞」と確か合同で開催されていた受賞パーティーの会場で、鵜倏じゃなかった五倏瑛と巽さんが並んだ写真と記事が例えばスポーツ新聞なんかに掲載されたとして、五倏さんのコメントだけが紹介されたり巽さんが見切れたりその他にされたりしないくらいに「日本SF大賞」及び「SF」が重たく知名度があって見出しになるものであって欲しいけど、「サンケイスポーツ」を見たらどっちも無視されていてガッカリ、SFとか言ってるより文芸全体の危機と今は考えなくっちゃいけないのかも。

 「盗まれたワールド・カップ」ほどのトピックはないし「黒い輪」ほどのインパクトもないけれど、最近はリアルなサッカーも始めたらしー柳下毅一郎さんが翻訳している「サッカーの敵」(サイモン・クーパー、白水社、2700円)は、東欧に西欧にアフリカに南米で起こっているサッカーにまつわる単にスポーツ的なだけではない経済的だったり政治的だったりする出来事をつぶさにおいかけていて、読んでいるとそれぞれの地域でサッカーがどんな位置づけを持っているのかが浮かび上がって来て勉強になる。アフリカなんて普段はあんまり記事も情報も載らないから、カメルーンが90年の大会で大躍進した前後にどんなことが起こったのか、この本を読んでやっと理解できた、あと南アフリカの状況とかも。

 原題が「Football Against the Enemy」で本文も記述は全部「フットボール」なのにタイトルだけが「サッカー」なのはちょっと不思議で、翻訳者に並べて後藤健生さんの名前を「解説」として表紙に刷り込んである部分もタイトルと柳下さんの名前だけでは押しが弱いと思ったんだろーかと想像する。例えば訳者略歴に並ぶ本がバラードだったりスラディックだったりウォーターズだったりバロウズだったり著書が「世界殺人ツアー」だったりするから、果たしてサッカーの事分かってんのかいなと手に取ったサッカーな人が心配しないよーに後藤さんの名前を入れたとか。けどまあこの仕事がきっかけで「ワールドカップが見たいなあ」と言えばチケットやらパスが出てくる金子達仁さん馳星周さん状態、までは行かなくってもワールドカップの観戦の仕事が回って来る可能性も出来た訳だから意味はあったのかも。あとは売れることだな、ちょっと高いけど。


【3月2日】 並ぶと意外と良く似てるなー上遠野浩平さんと三雲岳斗さん、なんてことを徳間書店刊行「SF Japan」2001年春季号の対談「サイエンス・フィクションのいくつかの聖痕」の写真を見ながら思う、まあ歳も近く顔の形も比較的近い眼鏡をかけてる人が目を細めて笑えばだいたいが同じ顔になるんだけど。もっとも双方のSF的なガジェットに対するスタンスは対称的で、例えば三雲さんがアシモフでハインラインなら上遠野さんはディック、三雲さんが宇宙人を倒すんだったらたとえ無茶でもマックでコンピューターウィルスを流し込むとゆー描写がある「インデペンデンス・デイ」で上遠野さんはトム・ジョーンズの歌で勝っても構わない「マーズ・アタック」といった具合。人間が縮むんだったら三雲さんは嘘でも放射能で縮む方が良く上遠野さんはエイリアンの謎の光線でオッケーといった感じで、なるほどそんなスタンスが書いている作品にも現れている気がする。

 「新人賞にはまだ送ってるんですか?(笑)」とゆー上遠野さんの突っ込みがお茶目。まあ知ってのことで嫌味でもなんでもないんだけど、電撃ゲーム小説大賞にスニーカー新人賞に日本SF新人賞と3つも賞を穫ってしまったことにちょっとは気になるところがあるのかな、でもまあ上遠野さんは電撃1発でも活躍の幅は講談社に徳間書店と広がっているから気にすることでもないでしょー。答えて三雲さんが明かした「『M.G.H』だけ、どこに送っていいかわからなくて、困ってたんですね。メフィスト賞にしようかな、とか」がもしも実現していたとして、果たしてどんなコメントが「メフィスト」巻末に載っただろーか興味津々、もっとも上遠野さんの反応「それは……(笑)」に代表されているよーな気もするけれど。

 あと三雲さん「『M.G.H』って、あんまりSFではなくて。自分の作品の中では『アースリバース』のほうがSFなんですけど。パッケージのせいかなんなのか、誰もそう言ってくれないのがちょと悲しい」って言っていて、「SFマガジン」2000年9月号だかで紹介した身としてちょっと悲しい、まあ誉めまくってはなかったからなあ、「どんな好意的な評価でも必ず『この部分はこうだが』って但し書きたつくのはつらいですね」って三雲さんも言ってるし。埋まってしまって出てこないけど結構な但し書きつけてたよーな気がするなー、オレ。

 でもさまざまな評価軸が存在している世の中で場所が変われば全面肯定が一部肯定に変わるのも仕方がない所で、それをつらいと言われてしまうとこっちもつらい。作家が誉められることに対してどー思っているかは「SFが読みたい! 2001年版」の山田正紀さんの鏡明さんとの対談に出てきた言葉なんかがちょっと対照的。まあすでに功成り名遂げた人だからこその客観的相対的な自己観察があって言える言葉なんで、伸びて欲しい新人と同一線上で考えるのも無理なのかも、うーん書評って難しい。

 村上隆さんの「Projekt.Ko2」に関した「彼の活動は、現代美術によるサブカルチャーの搾取、あるいはちょっとした流行や業界内の話題としてすぐに消費されてしまう。逆にオタクたちのほうにしても、ポストモダンのエピステーメーと自分たちの文化の関係を知らなければ、村上の作品の何が気に障るのか、いつまでも分からないままだ」(218ページ)とゆー「ユリイカ」3月号での東浩紀さんによる論考「過視的なものたち(2)」の最後に繰り出されている言葉をそのまま当てはめて、この論考自体に対して起こるさまざまな反応をも言い表しているよーな気がする。

 ってのはつまり、今のところ現代思想とゆー場所で東さんがオタクをまさしく”搾取”しよーとしているんだと見ている人がいるからで、なるほど「ユリイカ」なんてカタい場所にどかんと「でじこ」に「ぷちこ」に「ルリルリ」なんて図像を出されてしまうと、理由なんてないん純粋無垢な気持ちだと思いながら”萌え”を発動させている人間の頭に指を突っ込みかき回し、動きを観察してパターンを読もーとしているんじゃないかとゆー猜疑心を芽生えさせてしまう人もいるんだろー。

 もちろんムズかしいことなんて考えないで良いものは良いし好きなものは好き、悪いものは悪くって嫌いなものは大っ嫌いだと感覚ですべてを判断したって悪い訳じゃないけれど、ことが流行の範囲で留まっているうちは良いけれど、何だか世の中全体が直感ってゆーか気分に流されている雰囲気が溢れている中で、その気分がいったい何によってもたらされるものなのかを解明する心理的だったり物理的だったりする作業ってのが絶対に必要になって来る訳で、気分先行ながらもその実背後にさまざまな要素、例えば思考プロセスの変化だったり社会情勢の変革だったりするものがあるオタクの直感を糸口にして、どこか場当たり的になってしまっている世の中全体の風潮を解明できれば面白い、かもしれないけれど果たして可能か否か。そもそも東さんはどーしてこーまでオタクにこだわるのか。やっぱる好きだから? うーん聞いてみたい。

 東京ベイNKかよ、ディズニーランドの傍らかよ、そんなところで演説かよと鳥肌実さん家から届いた「召集令状」とゆー名の演説会「玉砕」の案内を見て吃驚。かつての軍人会館だった「九段会館」がハマり過ぎで日比谷の野外音楽堂が皮相的だったのと比べると今度は場違いが醸し出す面白味を狙ったのかな。日本青年館はまー妥当、中野サンプラザは行ったことがないから雰囲気ちょっとつかめない。ちょっと前に「夕刊フジ」なんかも大々的に取りあげていたし、ここに来てムクムクと人気が高まって来ていることもあっておそらくはチケット奪取も壮絶な戦いが予想されるだろーけれど、あるいは右翼的な”萌え”要素をシミュラークルして顕現化させた存在として「でじこ」なんかとは方向性は全然違っても比較するに相応しい対象って気もしないでもないし、場所が場所だけにいったいどんな得体の知れないことろやるのか、たとえば米帝の黒いねずみを日本刀でバシバシと切り刻んでくれるのか、ってな興味もあるんで頑張ってゲットに励もー、近衛兵で良かったよ。


【3月1日】 とか書いては見たものの実は知らなかった「♪聞いてアロエリーナ」の出典を調べて「蒟蒻畑」で有名なマンナンライフのアロエを使ったあれは飲料? か何かのCMでド素人が唄って顰蹙を買っているらしーCMソングだってことを知る、ちなみに作曲は「ムーンライダース」の鈴木慶一さんらしー、いろいろ仕事してますねえ。せっかくなんで本家にあたってマンナンライフのホームページ「フルーツ占い」なんてページがあってどーせ在り来たりの占いだろーと思って多分女性向けだから女性になった気分で選んだところが「ザクロ王子ですぅ エッチでーす。おっぱいポーンが好きでーす。じつは、ちょっとマザコンです。 デートは2人きりでしっぽりするのが好きです」なんて頓狂なコメントがあってちょっと見直す。

 と言っても既にして「聞いてアロエリーナ」「聞いてくれてあーりがと」なんてCMを作る会社だから、こーゆー気の抜けぶりがあっても全然不思議じゃなかったりするんだけど。ちなみに可愛いっぽくってでも凶悪なイラストは岩野希久子さんって人の作品。エキスパンドブックだかで有名な「光る花」の絵と物語を担当していた人だったんだんで驚いた、ボイジャーとかでよく見かけてたタイトルだったんで。それにしても経歴の「講談社フェイマススクール」イラストコンテスト入賞ってのは何だろー。明らかに答えの見え見えな絵心診断をやってハガキを絵を送るとあれこれ勧誘の五月蝿いスクールだけど純粋にアーティストの発掘なんかもやってたのかな。

 文藝春秋社から朝日新聞社を経て角川書店に腰掛けた後で宣伝会議へと移った花田紀凱編集長の次の去就が決定させられた。決定したのは花田編集長と言えばその後ろに付くなんてことはせず頭をかじっては食い潰す西原理恵子さん。華々しくもないけど創刊なった宣伝会議発行「編集会議」の巻末で、「この本がつぶれたら次はここへ。私が直で話をつけておきました」と言って末井昭さん大塚英志さんと名物傑物な編集長たちを次々と(ってもこの次はあんまり知らないんだけど)生みだした白夜書房を紹介している。花田編集長の将来を予言とゆーか強引にそー持っていってしまう陰謀力にかけては天下無双な西原さんのお言葉だけにかそーなる確率は高く、来年早々には月給8万円で作家ライターからコーヒーを飲ませてもらいながら打ち合わせをする花田編集長の姿がドトールあたりで見られそーだ、どんな雑誌なのかは全然不明だけど。

 なんて話はとりあえずは冗談にしておきたい新雑誌創刊早々、実際のところ花田さんを迎えて月刊化なった「編集会議」の4月号はマスコミのとりわけ出版メディアを希望する人にとては読み所の結構多くって、出版界の事情とか出版社での仕事とかを知りたい人が表「創(つくる)」めいた位置づけの雑誌として買ってしまいそー。先だって亡くなった新潮社の雑誌部門のドン斎藤十一さんへの最新の「ブロードキャスト」と93年の「インテリジェンス」のインタビューを再録してたり永江朗さんが「SPA!」の栄枯盛衰の歴史を花田さんと並んであちらこちらをさすらった果てに真打ちめいたポジションとも言えそーな「婦人公論」の編集長に就任した渡邊直樹さんとか、元社員で「アスキー・ドット・ピーシー」を記事によると3年で倍にした大島一夫さんとか、最新の「eプラスB」で副編集長を務めている田中雄二さんとかへのインタビューも含めて記事にしていたり、聞いていたよーに矢崎泰久さん堤尭さんのそれぞれ「話の特集」「文藝春秋」を振り返る記事があったりしていて歴史を学ぶ上で結構役にたつ。

 「週刊宝石」の休刊に絡んでも特集に加えて並河良・光文社社長にインタビューしているあたりが人脈なのか熱情なのか、トップの「週刊誌がつまらないっ!」はマスコミ・インサイダーでは伝統のある「創」と並べてもそう遜色のない作りになっている。「週刊誌編集者匿名座談会」は「噂の眞相」的かな、とにかくそれほど外してはいない。気になるのはミニコラムで「着メロの次は着匂い」だなんて奇をてらうフリをして半周先のトレンドを紹介してるんだ的ニュアンスを醸しだしている気になっていて、けれども気分的にはハズしな感じが否めない「秋元康のヒットの予感」は読んでやれやれだし、いしかわじゅんさんの世間に物申す的コラムも今は他であんまり読めないとは言っても今さらな気がしないでもない、中身も朝日新聞の夕刊漫画のつまらなさ、だし。もちろん御両人のネームバリューとご託宣は先達ならではの示唆に富んでる時もあるからあなどれないんだけど、次代の俊英を育てるのが雑誌の使命なんだからもうちょっと新しい人の意外な話を載せて頂きたかった気もする。おいおいどーにかして下さいついでに仕事下さい、っても当ページなんて全然読んでないんだけどね、花田さん、シクシク。ちなみに常連であっても西原さんは花田さんの先触れなんであって必然だし実際に面白いから良いんです。

 頭にフェミニズムは付かないしゲロッパともシャウトしてないけれど「セックス☆マシーン」(ヒロモト森一、エンターブレイン、620円)、砂さんの「フェミニズムセックスマシーン」(太田出版、1000円)にもジェームズ・ブラウンの歌にも並ぶくらいの問題作であることには違いなく、その猥雑さその荒々しさその神々しさにおいて恐らく2001年のコミック誌に残る作品になるだろー。鋼鉄の細胞を有する霊長類ヒト科2輪目って設定の「セックス☆マシーン」、戦国時代から馬の代わりに使われている乗り物で、メスは女性器でオスはアナルに乗り手のブツを突っ込まれることによって生まれる快感をエネルギーにして走るんだとか。でもってかの信長の乗機だった伝説のセックスマシーン「ZERO」と信長を殺したらしーセックスマシーンとのバトルが繰り広げられるみたいなんだけど、話自体は1巻ではまだ進んでおらず迫力の展開は次巻のお楽しみ。「銃夢」のパワーに「覚悟のススメ」のケレンを足して2をかけたよーなパワー溢れる漫画の誕生をとりあえず諸手を上げて歓迎しよー。


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