縮刷版2001年2月中旬号


【2月20日】 ヤスケンさんが無茶ら苦茶らコキ下ろしたんでもしかしたら歴史から抹殺でもしよーとしたのかしらと「新宿鮫」シリーズの直近での最新刊だった「風化水脈」のことを瞬間思ってしまったのは、帯にズラリと並んだシリーズの中にノベルズじゃないんで当然入ってないことは別にして、ローマ字で打たれた通し番号がまさしく最新刊の「灰夜」(光文社、838円)に続いていたから。シリーズ最初の「新宿鮫」から始まって「毒猿」「屍蘭」「無間人形」「炎蛹」「氷舞」と6冊続いた後に当然来るべき「7」の番号が、どーして「風化水脈」じゃなくこの「灰夜」に打たれていたのかを考えると、誰だって歴史からの抹殺をもくろんでいるんじゃないかと思うだろー。ちょっと時代が下がり過ぎる「撃つ薔薇」は勿論別にして。

 実際の所は大沢在昌さんもちゃんと8作目の「新宿鮫」だと認知はしていて、けれども事件発生の順番によって通し番号を決めていることからおそらくはちょっとだけ後になってる「風化水脈」は「7」にはならなかったんだろー。読んでいる時はそんな時系列なんてまったく考えてなかったけど、調べるとなんだかんだでちゃんと整合性はとれているんだろー、すでに疎遠になりつつある晶との関係なんかも含めて。ただちょっとだけ違和感があったのは、他が「無間人形」だけは出張があるもののおおむね新宿がちゃんと舞台になっているのに対して、この「灰夜」は晶どころかまったくもって新宿すら出てこない点で、時系列には注意をはらっても舞台となる場所についてはたとえ意外の上に異例を重ねていてもちゃんとシリーズのナンバー付きで呼んでしまう、その運用のゆとりの大きさにちょっとばかり戸惑う。

 とはいえそこは「新宿鮫」、鮫島が新宿鮫であり続けて無くてはいけない自殺した同期の男とのやりとりなんかを改めて紹介した上で、彼の法事に出るために九州へと行った鮫島が現地で拉致られ監禁されてしまう事件を発端にして、割と大きな陰謀めいた事態を浮かび上がらせていくスリリングな展開を繰り広げていて、いったい何がどーなっているのか、誰が見方で誰が敵なのかを悩み考えさせながら次々とページをめくらせる。キャリアとノンキャリアの違いとか刑事警察と公安警察との諍いとか、複雑怪奇なパワーバランスを持った警察機構のどこをどう押したら何が動くのかが結構リアルでかつ合理的に描かれていているあたりの濃さもなかなか。自動車の窃盗事件とゆー小さな枠組みの中で人間の心の機微を描いてみせて、それなりにまとまっていはいた「風化水脈」も決して嫌いじゃないけれど、鮫島のハードボイルドぶりが際だった新作の方がやっぱり「鮫」っぽい、たとえ「新宿」じゃなくっても。さてもヤスケン何と評するか、恐々と期待。

 「次世代ワールドホビーフェア」でみかけた「神風怪盗ジャンヌ」もどきなゴム紐ボールの玩具「バンジーボール」の話を書くにあたって本当にこれってアメリカで人気なのかなあ、と思って調べたらこんなページを発見、英語読めないんで分からないけどど=やら「こんなに流行ってまっせ」ってな感じの宣伝文句が並んでいるみたいで、「雑誌も取りあげてくれました」風の煽りもつけてあって「バンジーボール」がそれなりな人気を持っていたことを改めて知る。作った人の苦労話めいたものもあるみたいで、別にってゆーか当然なんだけど日本の「ジャンヌ」と見てインスピレーションが来たってこともなさそー。でも「ジャンヌ」作った人がこの玩具を見ているとも思えないし……うーんシンクロニシティ(用法ちょっと違う)。

 記事はどーやら発売された前後の話みたいで1999年に700万ドルだか売れたとあっても今どーなっているかはちょっと不明。もっとも別のページを見たら「10ドル以下の玩具では最高」ってなことをアメリカのPTAだかが言っているってな記述もあって、一過性の流行が瞬間的に全国を席巻する日本とは違う風土の中、あちらの州からこちらの州へと移っていってる可能性もあるんで(「ハイパーヨーヨー」だって地道ながらも全米て何十年も残ってたし)、あるいは「バンジーボール」もどこかの州のどこかの街で突発的大ブームを引き起こしているのかも。日本じゃあ……やっぱり流行りそーもないなー、「ジャンヌ」も終わってることだし。


【2月19日】 こないだのカラオケん時に確か浜崎あゆみだかの曲のバックでギターを弾いてるよっちゃん野村義夫の姿が写って、手に職がある人が最後には勝つんだなあ尊大さを芸に昇華できなかったトシちゃん田原俊彦の落ちぶれぶりなんて悲惨だもんなあ、幾ら一時一世を風靡したとしても10年20年に亙って人気を意地し実力を見せ続けることは大変だなあ、とか思いつつだったら現在も現役第一線で活躍バリバリな矢沢永吉さんてのはハンパじゃなく凄い人なんだなあ、これが才能かなあ、とか安易に考えたら実は違って裏で相当な努力を積み重ねていたってことが、かの「成りあがり」からえっとだいたい20年くらいかな、とにかく長い時間を経て登場した50男になったヤザワの自伝「ア・ユー・ハッピー?」(日経BP社、1300円)を読んで分かってちょっとばかりヤザワを見直す。

 比較するのはどちらに対しても申し訳ない気が実はあんまりしないんだけど、今時の女性に「プラトニック・セックス」が目茶売れな飯島愛さんが大昔に書いた「どうせバカだと思ってんでしょ!」をそのまま男性版に当てはめて、ロックンローラーは一種の音楽バカであって世の中のこと社会のこと経済のこと政治のことにはてんで疎く行き当たりばったりで無茶ばかりして苦労してるんだけど本人は気付いていないってなパターンを例えばオーストラリアで何十億円もパクられた事件の背景に想像していたんだけど、なるほど確かに音楽バカではあっても自分がより良い音楽を作り出すためには何だってやるという意味での音楽バカで、その最大目標のためには難しい経理でも面倒くさい版権管理でも経験のないステージ制作でも既得権益に縛られた興行でも、何だってやってやるんだってことが本を読んで分かって、そーした徹底ぶりが「時間よ止まれ」から20年とか「キャロル」から25年とかってな長期に亙ってヤザワをナンバー・ワンにしていたんだと気付く。

 音楽の話の中で突然「戦国の時代、家康だけが生き残って、徳川二百五十年の歴史を作った。なぜ家康は成功したのか」ってなまるでビジネス書のよーな質問をなげていて、人心掌握術が優れていたとか権謀術数に長けていたとかいった答えが返って来るのかと思いきや「いちばん長生きしたからだ」ってな意見になって後ろから膝カックンを喰らった気分になったけど、よくよく考えるとある意味真理だったりするから困ったもので、リストラされた人間に向かってリストラする会社だって辛いんだと言いくよくよしている人に向かって自立が大事なだと言う、ある意味脳天気さにあふれた言葉ではあるけれどやっぱりこれも一面真理だったりする訳で、裏表なく配慮とか忖度とか考えずに世の中をストレートに見抜く力は、なるほど直観に優れたアーティストだけのことはあると感心してしまう。たぶんサブカルのコーナーに置かれるだろーけど、案外とビジネス書として売った方が悩める団塊迷う40代息詰まる30代にバイブルとして売れるかもしれない、真似はちょっと難しいけどね。

 読んで面白いのは既得権益と柵にギッチギチにされている音楽業界にたてつき自分たちでビジネスを組み立てて行く部分。ステージ制作を自分たちでやって最初は持ち出しもあったけど今ではそこそこになったって話とか、外国人タレントを日本に招聘するライセンスを他の白い目を気にせず獲得してしまう話とか、興行に乗り出す話とかキャラクター商品を自前で作って他に一切任せない話とか、出版権に肖像権に著作権著作隣接権にその他諸々の権利をしっかり自分たちで管理しよーとする話とか、あのヤザワがそこまで考えてるのかってことが分かって参考にはならないけれど勉強にはなる。単に突っ張ってるだけなのかもしれないけれど突っ張るのがロッカーの仕事なんでそれもやむなし。俺様な部分を割り引きながらもヤザワの意図と狙いを我が身に出来れば、読んだ人はリストラされたサラリーマンから未来に悩む若い者まで、何かと世知辛いこの世の中も何とか生きていけるだろー。変だけど妙だけど粋な1冊。世間はどう受け止めるか。

 音楽ビジネスの凄さって点では負けてないのが水草岳司さんって人が書いた「エイ・ドリーム」(新風舎、1143円)ってノンフィクション。聞き慣れない出版社に聞き慣れない著者名でいったいどんな本だろーと思う人がいて当然だけど、ここで言う「エイ」とはすなわりローマ字の「a」でありかつ今をときめくレコード会社「エイベックス」の「a」でもある。なぜエイベックス? それはこの水草さんて人が町田に立ち上がったばかりの洋楽CD輸入・販売会社に入社して、ダンスミュージックを売りユーロビートを売り「trf」を売って今の世界に冠たる「エイベックス」の成長にそれなりな働きを果たして来た経験を赤裸々に綴った本だから。そこではそのあまりの急成長ぶりが想像させる組織の歪み、業界内の歪みがちゃんと指摘されていて、止めた人間が言うことだとゆー部分を差し引いても、相当な努力と根性が「エイベックス」を育て、やっぱりな大企業化がスタッフの間に不協和音を引き起こしているんだってことが伺える。

 作ったフリーペーパーを断られよーと嫌がられよーと丹念にディスコを回ってDJにプロモート挨拶して置かせてもらって幾星霜、その甲斐に加えて欧米との付き合いに最適な人材を引っ張って来れた幸運もあって、町田の中小企業がたちどころに業界でも1位、2位を争う巨大企業へと発展していく様はなかなかに今日日深い。あれほどまでに既得権益にがっちりと守られた業界に、こーーやって切り込んでいけばそれなりな成果が得られるんだってことで、上の「アー・ユー・ハッピー」ともどもこれから音楽業界へと脚を踏み入れ手を伸ばしたい人にはいろいろと為になる。人が増え権力が1つ所に集中してその網から外れた者が苦労する展開の、どこまでは客観的に事実かどーかは判断のしよーがないけれど、そーした現象が大企業には必然としてつきまとうものだとゆー認識で読めば、何が問題かが分かって対処の立てよーもあるとゆーもの。2冊とも音楽業界物だけど、やっぱり2冊ともビジネス書として売っても良いのかも。

 啓蟄って何時だったっけ。それはそれとして長の秋眠冬眠から甦ったらしー助教授の人の任天堂「ゲームボーイアドバンス」&「ゲームキューブ」への認識がまんま実現するとしたら(多分実現するんだろーけど、山内さんそう断言してたし)やっぱり21世紀も任天堂の時代が来ることになるんだろー、ほかの2つを遥か後塵へと押しやって。残る個人的な興味はやっぱり「ゲームキューブ」が幾らくらいになるかってことで、願わくば着々と部品点数の削減に取り組んでいる「プレイステーション2」がマイクロソフトの参入なんかをにらみながらやってくるだろー価格の調整に為を張れるだけの値段にして頂きたいところ。「ハードで損はしまへん」と別に得もしないけどマーケットが納得するだけの値段にしてくるだろーことは想像に難くなく、さてもいったいどんな値段で僕たちを納得させてくれるのか、いつ発売かは信用せずにじっくりと成りゆきを見ていこー。


【2月18日】 やっぱ真っ先に浮かぶのあ「アーシュ・キッド」なんだけど、「プチ・アップルパイ」とかで活躍してたのを見ていた頃からおよそ経過して15年くらい? 90年代に入って以降だとまったくチェックしてなかったんだけど突然ばったりと曲がり角で正面衝突した幼なじみみたいな感覚で店頭に名前を見つけて買ってしまった水縞とおるさんの「SO−DOM」(ソニー・マガジンズ、520円)は帯に「近未来サイバーパンク」なんてまるで21世紀とは思えない懐かしさ漂うジャンル名が書かれてはいるものの、中身はまっとうに極限まで文明が行き着いてしまった果ての都市に住む人類と自然の中に住む人類との対立めいた展開の中で、何やら得たいの知れない人類全体の未来を揺るがす大きな陰謀に、都会に住むアウトローと美少女が挑んでいく展開が描かれていて、昔の様式が先行して断片的だった短編とは全然違った物語性のあるストーリーを楽しめる。しかし絵柄、変わったなあ。

 田舎の美少女を虜にしていたゴールドに都会の闇を仕切るフィンガーの足すと何だかMI6みたいな名前の謎めいた人物が登場していたりして、その裏表な関係を突き詰めていった先に浮かび上がる田舎も都会もない大きな物語の行方にとりあえず注目。タイトルの由来になった「旧約聖書」に確か出てくる頽廃の果てに滅びた街「ソドム」の故事にならっているらしく、主人公たちは「SO−DOM」の街で10人の善人を見つけることになるんだろーか。でもってその果てに一体何が現れるんだろーか。

 かたや文明を享受する「クラークの民」(A・C・クラーク?)、こなた自然に生きる「ルイスの民」(C・S・ルイス?)なんていかにもな名前が案外と曲者で、どこか書き割りめいた設定がうち破られた果てに「ギブスンの民」なんてものが現れて、まさしく「近未来サイバーパンク」としての面目を躍如するのかもしれないし、しないのかもしれない。妙に力持ちのお姫さまとかキャラもなかなかで先行きちょっと期待してるけど、何せ漫画は苦手なソニー・マガジンだからなあ、続きとかちゃんと出るのかなあ。ところで浅田寅ヲさん描く「コミックバーズ」連載の「すべてがFになる」ってどんなんなんしょ。

 「美少女戦士セーラームーン」が大流行して「新世紀エヴァンゲリオン」がマスメディアマイナーメディアを騒がして「ポケットモンスター」が世界を席巻して人によっては「どりるがるんるん」で「にょにょにょにょ」なんかも加わる1990年代は、決して「失われた10年」なんかじゃなく、歴史に残るだろう「サブカルな10年」なんだと信じたい気持ちがファンとして心の結構大きな部分を占めているけど、ふと現実にかえって果たしてこーしたサブカル的なものが、どこまで社会を、世界を動かしているんだろーかと考えた時に、案外とたいしたことないのかもしれない、むしろ「TK」であり「つんく」であり「モーニング娘。」といったものの方がよほど社会にコミットしているんじゃないか、ってな疑心暗鬼にちょっとかられてしまった、橋本治さんの「二十世紀」(毎日新聞社)をペラペラとめくってみて。

 タイトルのとおりに1900年から2000年までの101年、その年にいったい何が起こってそれがどーゆー意味あいのもだったのかってことを鋭さで鳴る橋本さんが綿密な調査と独特の完成で書きつづっていった労作なんだけど、第二次世界大戦前後までは仕方がないとしても戦後に日本で花開き今や世界的な産業にもなりつつある漫画とかアニメとかいったものへの言及が、その起源とも言える手塚治虫さんの「鉄腕アトム」くらいを除いてほとんど皆無で、ゲームが登場してアニメや漫画とともに隆盛を極めた1980年代、90年代に至ってもそれらについての言及はまるでない、あってかろーじて1989年の手塚治虫さん死去くらい、あと同じく89年の「M」事件とか。

 こーした部分に疎い橋本さんのパーソナリティに帰結して考えるのは容易いけれど、1948年生まれのほとんど「団塊の世代」に入ってる橋本さんの社会とか文化状況に対する認知度具合は、良くも悪くも今の日本を最前線で支える中堅・ベテラン世代の代表的な認知度だと言っていえないこともなく、決定権者でもあるそーしたサブカル音痴な世代が上にフタのよーにデンと構えて存在している状況では、20代30代がいくらアニメだゲームだ漫画だコンテンツだと叫んでその保護育成をお上に求めた所で、動く気配がまったく見えないのも道理だと改めて納得してしまう。コンテンツの時代ネットの時代とか言って旗を振ってもおよそコンテンツにもネットにも理解の及んでなさそーなインパクの醜態を見ればそれも如実に分かるけど。

 もっとも若い層にだって断絶はあって、リニューアルなった博報堂が題している隔月誌「広告」の最新号なんかをみると、これまでの「スタジオ・ボイス」風な体裁がいきなりグラフィックもある「インターコミュニケーション」ってゆーか紙の質が豪奢な「TOKION」ってゆーかこぎれいで且つハイエンドな内容に変わっていて、過去に結構取り組んで来たオタク的なものへの言及が吹き飛んでしまっている。こーゆー作りをカッコ良いと思う世代は確実にあって、サブカル的なものにハマることはせずそーしたものが持つビビッドなフォルムとか感性とかを拾い上げては咀嚼し取り込む術に長けていたりするから、出来上がったものはなるほどカッコ良いことは良いんだけど、オタクな気持ちにはちょっとなかなかフィットしない。

 版形が変わってバイリンガルなデザインになってマルチメディアってゆーかメディアアート的なアプローチからゲームっぽいものにも切り込んではいるものの、ディープさとはほど遠い取りあげ方でそっち好きな気持ちから言えばマルなんだけどオタクっぽいものへの共感が先に立つ側の気持ちからはがっかり感が沸き起こる。東浩紀さんに伊藤剛さんに篠田匡浩さん竹熊健太郎さんといった見知った名前も執筆陣から落ちていて、オタク的な部分が世界に冠たる広告代理店に浸透しつつあのかもってな感じで抱いていた、世間から純粋に認知されたいってな願望の成就に至る扉が眼前でバタリと閉じられてしまった気がして悩む。

 かろーじて「ハローキティ」 からインスパイアされたよーなデザインのキャラクターを据えて東京の街でカラスをシンボルにして笑いながら平和を楽しんでいこーとする運動「LOUGH&PEACE」なんかにサブカルっぽい部分も見えないこともないけれど、ニュアンスとしてはかつてのアンデパンダン展なんかかの作品にも通じる権力への揶揄めいたメッセージ性が強くあって、その手段として流行りのサブカルっぽいものを取り入れてみました的スタンスが見え隠れしていて納得できるけど納得したくない。

 結局のところオタク的な思い入れで動くほど世の中甘くはないんだってことのなのかもしれないけれど、それでも10年、20年、100年経った時に団塊とは絶対的に無縁な世代が社会性とも政治性とも絡まない目で1900年のとりわけ終わり10年を見て、手塚以外のサブカル的な何かを吸い上げ汲み取って歴史の中に位置付けてくれるのかもしれない。それを確認するのは年齢的に容易どころは不可能だけど、だとしたらせめて時分の心の中だけでも、「失われるどころかとっても面白かったにょ、な10年」として1990年代を称揚して行くことにしよー。幸いにして理論武装してくれる偉い人も若手の研究者とかジャーナリストに結構出てきているし、きっと何とかなるでしょー。


【2月17日】 締め切りが近いのかもう過ぎているのか、あんまり知りたくないんで調べないよーにしつつも不安に駆られてちょっとだけ、「モーニング娘。」のゲームなのかマルチメディアなのかいまいち不明な「スペースヴィーナス」をやり込もうとしたけどやり込むだけの厚さ深さもお盆まで、上っ面をなぜまわすのが精一杯な作りに歯痒い思いを持ちながら、それでもバックステージの模様を収録した映像集とかを23本続けざまに見て、誕生日に細工を加えてオープニングで挨拶をもらってちょっとだけ良い気分になる。さらにはこのソフトで唯一まとも、だと個人的には思ってる「DANCEするのだ」をいじくり回して遊ぶコーナーをチェック、ゴマキは可愛く飯田はデカいことを確認する、途中なんてカメラ固定なんで首から上が見えなくなってるし。

 脚を上げる場面の輝くフラッシュにはやっぱり頭に来たけれど、ふと思いついて光った瞬間にポーズのボタンを押してみると、輝いた直後の光がスッと消えていく場面でメンバーが割としっかり写ってるのを発見、もしやと思い視点をグルリと回してみると……見えているではないか。ならばとポーズのための「○」ボタンをトトンと連打してちょっとだけコマを送って再びグルリと回してみると、光が消えかかっている中にかなりの確立でスカート組が「見えて」いることを確認、ゴマキも多分矢口もあとえっとなっち? 分からない保田かもしれないけれどスカートの人が脚を上げた場面を正面から撮った場合に見えるものが、光の残像もほぼ消えた中にしっかりと見えている。敗れたりソニー・ミュージックエンタテインメント、って何が勝ち負けかはともかくとして、あるいは何らかの方法で映像だけ吸い出して質のよいビデオでコマ送りするなりすれば、よりしっかりと確認できるんだろーけれど、そこまでするほどの妄執と根性はないし(すでに十分あるとの意見も)、とりあえずは光る場面での「○」ボタン連打&方向スティック移動の術で眼福に浸るとしよー、なんだやり込み可能じゃん。

 下着なのか、と思えば見る目もギラギラとして来るけれどパッと見は体にフィットする茶系のタイトなホットパンツと下着どころか街着として夏場なんか誰でも着ては渋谷だろーが青山だろーが闊歩しているグレーのキャミソールのセットアップにしか見えないんで、明らかに分かる水着の方がまだ知的とは正反対の本能的衝動を刺激されるんだけど、「サイゾー」3月号の「今月の美少女」に登場した関野沙織さんが語る所の「プールでも海でもないのに、水着を着るなんて変じゃないですか、だから下着っぽくない、水着にもみえるような下着で撮影しているんです」とゆーコメントを読んでにわかにムラムラとして来る。男の心理ってフクザツです。

 本人がそれでオッケーしているのは良いとして、グラビアの中で顔は出てないけれど同じ格好をしている人の心理は果たしてどーだったんだろーとゆーのが目下の疑問で、開き直りによって恥ずかしさを吹き飛ばしている人とは違った内心の葛藤なんかを想像することで、なおいっそうのムラムラを感じられるのもちょっと嬉しい。バストの量感に関しては関野さん本人がなかなかに立派なのに比べて顔出さずな同じ格好をしたカップリングで登場のモデルの人は結構スレンダーだったりして、関野さんには多分ない下着で人前に出る恥ずかしさの心理をそこに重ね合わせることで、薄物好きなファンは地獄の果てへと連れていかれる。巻末で2人が写ったポラをプレゼントしていて表紙に起用された黒沢優さんのサイン入りポラロイドより欲しい度が高い辺りに、自分のダメさ加減を感じて反省するかってゆーとそーなんだから仕方ないじゃんと開き直ってみたり。頑張って当てるぞ関野さん”も”写ってるポラ。

 しかしよく調べてあるよなあと毎度感心する「メディカルラボ・サイゾー」は、登場する人が持っているプロフィルから業績から交友関係から何からなにまでを、調べ尽くした上で揶揄反論の類をぶつけるから辛辣だけど読んで思わず納得してしまう。そりゃ誇張も中にはあるだろーけど、1つの事実を見方によってはこーいった感じに超ネガティブにとらえることも可能なんだってことが分かるって意味で、なかなかに貴重な連載なのかもしれない。とりわけ今回は相手が大物な糸井重里さんで、誕生からつい先だって開催された「AMDアワード」の功労賞受賞までの綿密な年表に過去手がけたコピーの分類まで糸井さんに関連した情報が山のよーに溢れていて、好悪はともかく読んでなかなかに参考になる。

 コピーだけじゃなくゲームなんかには携わっていたってゆー情報は知っていても、子供の頃に良くみたNHKの若者向けトーク番組「YOU」が82年の放映で、その時糸井さんは33歳だったてことが年表によって整理されて掲載されているため、当時のテレビに結構釘付けになりながら見ていた記憶がいったいいつ頃のものかを思い出させてくれる。あと「埋蔵金」とは対照的に記憶から飛んでいたりする「モノポリー」への傾倒とか。今の自分とそれほど年齢の違わなかった時分から世の中を騒がせ続けていた存在は、なるほどある種突出した「病」と言えないこともなく、これだったら罹ってもいーなー、ってゆーか人間のとりわけ見栄とか対面とかを気にする男の子なら多かれ少なかれ罹りたいと思っている「病」に、毀誉褒貶あれど未だに罹り続けていられる羨ましさに記事を読みながらひたる。症例は残間理江子さんはともかく中沢新一さんが意外、西川りゅうなんとかっていったキッチュみたいな顔をしてトレンディな人ならではの目端の良さでゲーム大賞にも吉祥寺をオタクで盛り上げるイベントにも丁髷をのぞかせている人はさらに別の症状なんだろうか。


【2月16日】 「君がいて僕がいる」ってのはえっとチャーリー浜のギャグだったっけ? これが面白いかどーかは今は問題にしないけど、何十億人もの脳味噌を持った「我思う故に我有り」な人間がうようよと生きているこの地球で、人間たちが思考でも行動でもお互いに関係し合って生きているだってことを、ある面で端的に表現した言葉じゃないかってな気はしてる。考えさせる間もなく人間の心に働きかけて感情を揺さぶるのが得意なギャグだけに、知性とか計算といかいったガードを突き破って人間の本質に迫る力を持っているのかもしれない。でも「ごめんくさい」はちょっと、なあ。

 何を唐突にチャーリー浜かと言えばおそらくはこれが近況の2月8日付の中で触れられていた東浩紀さんに対する「批判文」らしー「早稲田文学」2001年3月号掲載の鎌田哲哉さんによる批評「『東浩紀的なもの』の問題」を読んだから。そこで提示されているのは、バカなんで本質からズレている可能性が高いことは勘弁してねと前置きした上で、東さんは浅田彰さんを否定し党派的なものを否定し80年代的なものを否定し世代論を否定しようとしているって言いながらも案外と「いま現に自分が『党派的』にふるまいつつある」んじゃないのか、ってな疑問らしー。なるほど仮想でも現実でも「敵」を設定してしまった段階で、相対化された自分もしくは自分たちが生まれてしまうんだよなあ、すなわち「君がいて僕がいる」んだよなあ、なんてことをペラペラと読み飛ばしながら考えてしまった。

 もっとも「君がいて僕がいる」とゆー、大勢の人がいれば起こるだろー事態を当然として受け止め、そこから何かを立ち上げていこーと考えるのが当たり前、って発想では世の中読めないこともある、むしろ「君がいる」と「僕がいる」を別々に認識するなり「僕がいる」し「君もいる」といった具合に自分を主体に置くなりした上で、過去との関係性の中に絡め取られる可能性を避けていろいろと考えていこーと、東さんの方で自覚的に浅田さんなり党派制なり世代論を切り離しているとも考えられるだけに難しい。「『固有名化』の暴力に『暫定的』に翻弄されながら『固有名』と『古名』の差異を普段に明晰にする過程の中にしか、『固有名化』への真の批判(古名化?)は存在しない」(93ページ、難しい……)と鎌田さんが誘っても、「デリダ派の問題を扱うには、私はデリダにあまり深く転移している。(中略)それゆれ突然ながら、この仕事はもう打ち切られねばならない」(『存在論的、郵便的』335ページ)ってな感じで東さんが乗らなければ、そこに議論を生みだす「君がいて僕がいる」関係は成り立たないからね。

 逃げるな、いや逃げてないとゆー議論はそれぞれの主観だから他人にはどうしよーもなく、対立はこれからも平行線をたどっていきそー。何が間違いなのかを説明して反論するよーなことをしないで、浅田さん柄谷行人さんから「攻撃」され「中傷」されたと言っているのは変だとする鎌田さんの指摘は何となく分かるけど、そーした議論から生まれる「君がいて僕がいる」的な関係は嫌だといった感じのスタンスにある以上、やっぱり議論はかみ合わないどころか平行線をたどって永遠に重なることはない。浅田さんは遠い読者を向いていないのか近い読者を向いていないのかどっちやねん、といった矛盾への指摘はちょっと判定不能。言った本人なら分かるでしょー。

 客観的に見て党派制があるかないかは、どちらの陣営に関してもその「党派」を支える思想的な背景とか人脈的な関係とかに疎いんでやっぱり判断にしよーがなく、被害妄想なのか現実的脅威なのかは小谷野敦さんの「バカのための読書術」なんて必要のない人に任せてるしかない。「不潔と汚さ」とゆーこれまた厳しい罵倒に対しては、野次馬的には反論を聞いてみたいところだけど、本人でもない人間が激しい言葉を繰り出して反論してくる当たりに「党派性」を見たとするならば、そこに限って反論するよーなこともないだろー。スタンスの違いなり発言して来たことの変遷を丹念に追いかけて逐一しているこの文章の、冒頭と結末のこーした罵倒がちょっと浮いているよーな気もするけれど、これがあるいは「党派性」ってことなのかもしれず、論壇とはいろいろな関係でもって動いている所なんだなー、ってな思いを改めて持つ。まあ永遠にそこに加わることとはないけれど、だって「わたしバカだから」。

 思い出の1冊を持って来いとの指令が出てるけどそんな本はすべて実家に置きっぱなしになってるからちょっと無理だし第一残ってなんかいない。とは言え転機になった本くらいなら古本屋でも探せるだろーと神保町で僕が本屋での立ち読みじゃなく初めて自分のお小遣いから買った「SFマガジン」1981年10月号を拾って来る。鹿児島にいる父方の祖母がそろそろヤバイってんで夏休みを利用して行った川内市内の本屋で時間潰しの意味も含めて買ったのがこれで、時間がたっぷりあったってこともあって隅々までしっかりと目を通したらしく、今手に取ってみてもほとんどの内容を覚えているのには驚いた、そうかプロンジーニ&マルツバーグの「プローズ・ボウル」もスピンラッドの「美しきもの」もこの号に掲載だったんだよなー。あと「銀の三角」の多重予知夢も。

 この号の翌月号が「第7回ハヤカワSFコンテスト」の発表で、佳作第一席に入って作品が掲載されたんだけど以後どこで何をしているのか分からない冬川正左さんの「放浪者目覚めるとき」を読み直してみたいと思っていたこともあって一緒に81年11月号も購入、せっかくなんで冬川さんの本名を検索してみたところ、何とご本人のページがあって驚きつつもネット時代の便利さを強く実感する。見ると受賞してから割とすぐに社会人になって映像関係の仕事をして、今は吹田市の方でフリーランスの映像関連クリエーターをしているらしい。プロフィールのページの顔写真には「SFマガジン」掲載の頃の面影もあるけど同時に年月の重さも加わっていて、ひるがえって当方にも同じどころかそれ以上の年月の重みがのしかかっているだろーことにしばし愕然とする。同じコンテストでは当時は艸上仁さん今は草上仁さんが「ふたご」で第二席に入って間もなくデビューし今は押しも押されぬ重鎮作家。同じ関西在住みたいだけど交流はあるのかな。


【2月15日】 「SFクズ論争」ふたたび、なんて意図はないだろーけど鏡明さんが「本の雑誌」97年3月号での対談「この10年のSFはみんなクズだ」とそれを取りあげた日経新聞の記事を発端に始まった「SFクズ論争」に関連して当時なんであーゆー発言をしたのかってことを喋ってる対談が「SFが読みたい! 2001年版」(早川書房、660円)に掲載されてて、つまりは「書かれたSFが世の中に何かを与えたのかっていう、ただそれだけ」のことからどうやらあんまり世間に影響を与えていない、「表面的に言えばう、売れていないじゃないか」ってなことから近年のSFを憂いてみせたのがあの対談で、まあ何となくは感じていたけどそーゆー意味だったんだってことが分かって得心する。

 売れている、いないは問題じゃない、とゆー反論は当時もあったしまったく売れてないかとゆーと読者がいる以上はそれなりに売れていたんだろーから、今さらな鏡さんの発言に「やれやれ」と眉を顰める人もいそー。本が商品として流通している世の中でマーケットの中に存在感を得ているかいないかとゆーモノサシは確実にあって、あくまでもそのモノサシを基準に考えた場合に鏡さんのよーな意見も出てくることは間違いじゃない。モノサシ違いの議論を重ねても平行線をたどるだけでここから再び論争が起こることはないだろー、そもそもが売れていないとゆー状況に関しては、「このSFが読みたい!」なんてムックが2年も続けて出てしまうくらいに、ちょっとは状況が改善されていいるんだろーから。

 ただ同時に鏡さんは「たとえ売れなくてもそこから別のものが生まれてくれば、それはそれでいい。だから本質的には書かれたSFが何を残したのか、何も残していないじゃないか、ってことだよね」とも言っているからややこしい。これには作家としての山田正紀さんにも感じるところがあるみたいで、「作家に力がないことだよね。反響を呼び起こす魅力が作品になかった。作家としては、状況のせいにすれば簡単だけど」と言って作品の持つ力の問題に分け入っている。仲間うちジャンルうちから絶賛とか誉めことばとかは出てきて内側にいれば心地よく聞こえるのかもしれないけれど、我に返って「何を書いても誉められるのは、何も言われないことと同じ」とゆー境地にいったん至ってしまうと、ジャンルとしては堅調であってもマーケットとしては閉じている部分が見えて来て、なんだかなあってな気持ちが浮かんで来るんだろー。

 だったらどうするんだ、ってことでより難解な方向へと進むべきか、カバーじゃなくリミックス的な発想で古(いにしえ)の小松左京SFなり海外の優れた設定をモチーフにして新しい物語を提示してみせるべきかってな明示がなされていて、山田さん的には「同じアイディアでも、切り口さえ変えれば全然違うものになる」ってな見解もあって「神狩り」「弥勒戦争」なんて古典を持ち出してテーマは同じで別の切り口にしてSFを書いてくれるそーな、これはちょっと楽しみ。あと鏡さんがヤングアダルト系が90年代のベストにほとんど入って来ていないことを不思議がっていることも重要で、あーいったキャラクターとストーリーテリングを前面に立てる色気を見せつつ、ときに前衛だったり時に循環だったりしながらSFの味を振りまいているジャンルへの鏡さん的な期待が垣間見えて面白かった。さてどんな反響が飛び出すことやら。「SFはみんなクズだ! 2001年版」なんて出来たら今ならネットもあって新しいファンも大勢いるからよろ幅広く、かつ「SFマガジン」誌上以外のメディアへも論争が波及して、この何年かに進歩したよーに見えるSFの「影響力」も目に見えるってことなんだけど。

 それにしても「SFが読みたい! 2001年版」は全体に写真がなんだか。山田さんはバックが黒いし鏡さんはキレが今一つ。もう1本の対談の「SFという名の博物館にて」は野尻抱介さん瀬名秀明さん菅浩江さんに座業の大森望さんまでが同じ方向を向いていて思わず視線の先を探してしまいました、もちろん何にもないけれど。貧乏で写真部がお取り潰しにあった関係で、記者がカメラもかついで言って相手が「ゲームっちゅうのはねえ」とますます意気軒昂な京都の大御所でも「遊戯王」で目茶儲けた会社の偉い人でも構わず手カメラでパチパチ撮って紙面に掲載している身ではあんまり説得力はないけれど、せめてSFな人はカッコ良いんだ可愛いんだ的幻想を世の中に広めるためにも、写真はもうとっとこぎれいなのを使って頂きたいものです。だったらカメラマンやれよとか言われるとちょっと困っちゃうけど。

 関係ないけど「2001年版」では基本線外しの裏狙い、な割には結構基本線だったりする2000年の国内ベストと90年代国内ベストの投票に90年代ベスト30の中から8本の紹介をやってたりするけど4回ばかり書き直した割には上達してもなければ芸もないのがちょっと寂しい。海外は読んではいるけど記憶になくってパス、した割には2000年ベストについてはランキングが出ていた20位までは全部読んでるし90年代の30傑も8割は既読だったりして、自分の記憶力の低下ぶりとちょっと嘆く、口絵の水玉螢之丞さん描く女の子みたく。サブジャンル別ベスト10は永瀬唯さんのコミックがなかなかに豪快、10本中の8本が講談社ってあたりは趣味なのか自信なのか。少女漫画にマイナーコミックから掘り出そーと格好付ける身としては、この潔さあるいは信念の固さもあるいは見習うべき部分なのかも。「なるたる」も「ニライカナイ」も「ぽちょむきん」すらも入ってないのは残念だけど、ってこれもやっぱり講談社だ、偉いぞやっぱり講談社は。

 買ったけど、作るのはちょっとなあ「宇宙戦艦ヤマト リアルペーパークラフト」(ワニマガジン社、2800円)、せめて数枚から10数枚かと思っていた型紙がヤマトだけでも60ページくらいあってそれぞれに何点かのパーツが付いてるってことは合計だと軽く300とか500とかってなパーツ数になりそーで、下手したら「MG」のガンプラよりも多いかもしれない部品を全部1から切り抜いて作っていくとなると果たして何週間からるものかと考えると夜も眠れない、昼間寝てるからその分はチャラだけど。けど全長85センチってのはなかなかに魅力で部屋が狭くなるリスクを冒しても正面からあの波動砲がぐわーんと迫ってくる松本パースの雰囲気を、不可能でも実物で見てみたい来もあって終末あたりに糊とハサミでチョキチョキぺたぺた頑張ってそー。出来たら写真、送るよ「bk1」。

 上遠野浩平さんじゃないのに、ってゆーと専属じゃないからと言われるのも当然あろーけどどこか密接につながっているよーな部分が意識に強くあって、あの独特な表情をした緒方剛志さんのキャラクターが表紙に描かれていると、やっぱり虚無的だったり寂寥感が中身にも漂っているのかなー、と先入観もいっぱいに柄刀一さんの新作「殺意は砂糖の右側」(祥伝社、819円)を読んだけど、雰囲気的には北村薫さんの短編あるは西澤保彦さんの短編に近いよーな近くないよーな、シリアスってよりはほのぼのとしてほんわかとした展開のなかで、事件が起こって探偵が出てきて解決するってなパターンの話が続いていてちょっと面食らう。

 だったらもう少しだけ、漫画版の「ブギーポップは笑わない」(メディアワークス、980円)のキャラクターみたく、シリアスなんだけどときどき絵が柔らかく微笑ましくなる感じのイラストに近かったらもっとマッチしていたかも、なんてことを考える。全体に言うなら理科の得意な青年が理科の知識をもとに事件の真相へと近づく理科教室ミステリー、とゆーよりはミステリーの形を借りた理科教室で、あるいはどっかの出版社が学習漫画の少しだけエンターテインメント寄りのものに仕立て上げれば、より広い範囲へのセールスと、若いうちからのミステリーファン養成に繋がるんじゃなかろーかと思ってみたり。会わなきゃいけない人がなかなかに世界を駆け回っていて敢えない展開も話を続けて行かざるを得ない理由の主軸にあって、これとあと探偵の青年と同居する主人公とその彼女との何がある訳でもないのに気になる関係とかにも興味を配ってある部分から、よくある少年探偵者に理科教室の要素が載った作品であっても、それなりに人気を獲得して行きそー。緒方さんは文中の挿し絵も担当してまーす。


【2月14日】 椅子の上に座って横のベッドに足を投げ出して長椅子に座っているよーな姿勢になって2時間ばかり仮眠しつつ微睡みつつも適当に目覚めて原稿をパチパチ、午前の7時くらいまでかけてとりあえず仕上げてメールする。森総理のあんまりお利口じゃなさ加減を枕にして小谷野敦さんの話題の本「バカのための読書術」(ちくま新書)を説明したけど、メールしてまた2時間ほど寝て起きて会社に行ったらさらに輪をかけての失言があったらしく、退陣すらささやかれている状況にちょっと青ざめる。今の総理を総理として揶揄った内容だからもしも掲載までの2週間に退陣なんてことになると、意味が通らなくなってしまうんだよなー。普段はせいぜいが2日後くらいの掲載を想定して書いている新聞原稿と、タイムラグを考えなくてはいけない雑誌原稿とのこれが大きく違うところ、うーん今は持ちこたえてくれとしか言いようがない、延命を願うのはあんまり本意じゃないけれど。

 もっとも新聞各紙が退陣の理由としてあげている、どーして実習船と原子力潜水艦との衝突があっても官邸にすぐさま向かわなかったのかって疑問に対して返ってきた、と言われている「危機管理じゃない、事故だ」って言葉は、それだけ聞くと見通しの甘さを示し状況を認識できない森総理の頭のふわふわぶりをあらわしているよーに取れるけど、新聞各紙に掲載されたちょっと詳しい発言要旨によると、「危機管理の上で対応は妥当だったのか」とゆー問いに対して「どうしてこれが危機管理なんですか」とゆー返事に始まって、「あなた方が危機管理と思いこんでいるから。危機管理ではなく事故でしょう」(産経新聞から)と続いている。忖度すればいわゆる戦争とか大災害とかいったゆー場面でこそ「危機管理」とゆー言葉は用いられるべきで、今回のよーな場面で使うのは大げさだよとマスコミのセンセーショナリズムをたしなめ、煽った返す刀で森総理を斬ろうとするスタンスを牽制しているとも取れる。

 そんな思考回路に従って考えれば「危機管理ではなく事故でしょう」とゆー森総理のことば別に間違ってはいないし、後に続く「今回は米国が相手であり米国の原潜であったからこうした。遭難したらすべて危機管理ですか。そんな対応はしていません」とゆー言葉も案外と妥当性を持っている。とにかくネガティブな視線でもって事を見よーとするマスコミのスタンス、そーしたスタンスを求める一般の扇情的な感情が「危機管理じゃないく事故」とゆー言葉を傲慢さ間抜けさの証明のよーにフレームアップしている傾向を、まずは一歩下がって冷静になって見直さないといけない。

 その上で考えてもやっぱり浮かび上がって来るのは、誤解を受けるよーなもの言いをしてしまう森総理の脇の甘さで、強がらず結果としてはやっぱりあった自分の非を少しでも小さく見せよーとはせずに殊勝に構えて誤解を解こうとする努力をすれば、ことさらに退陣の声を呼び起こすよーな報道にはならなかったんじゃなかろーか。もちろん扇情的になり過ぎるメディアの癖は癖として疑念が差し挟まれるべきだけど、そーした癖をも理解した上で対応するのがやっぱり1国を率いる人として、素質にやっぱり問題があったと言わざるを得ないんだろー。せめて知恵でも増やしてもらいたいと「バカのための読書術」を勧めてやりたくなったけど、この本っては「無知の知」を知り「あんたバカぁ」でも「バカばっか」でもなく「わたしバカだから」と言える人にやさしくないけど知の道を示す本だから、自分の立ち位置の見えない森総理では役には立たないんだよなあ。結局救いよーがないってことで。

 ロボット好きな大崎の土井さんの所に言って話を聞く。「ガンダム」について聞いてみたらあれが人気になったのは人間の胎内回帰願望みたいなものが働いたからで、中に入って動かすことへの憧れを煽ったからって意見を聞けて面白かった。何でも土井さん子供の頃に同じよーな自分が中へと潜り込んで動かす2足歩行ロボットをスケッチなんかしていたそーで、年齢から考えれば「ガンダム」はもちろん上にパイルダー・オンする「マジンガーZ」だって生まれていない時代に、そーいったことを考える人だからこそのロボット事業への熱中ってことなのかも。けどいったいどーいった感じのロボットだったんだろー、「鉄人28号」みたいにドラム缶型だったんだろーか、それとももしかしてスタイリッシュなカトキさん的ロボットだったとか。見てみたいけど残ってはないんだろーなー、勿体ないもったいない。


【2月13日】 NHKが再放送していた「ドキュメントにっぽん」で生命科学者の柳澤桂子さんが病気から回復していく様を見る。30年も苦しんでいた慢性疼痛がクスリによって劇的に治ってしまう、それも「痛み」と直接関係のある鎮痛剤のよーなものじゃなくって、抗うつ剤とか抗不安剤といったクスリの処方によってっていったことを知るにつけ、進歩したと言っても医学にはまだまだ分からないところが沢山あるし、痛みを感じたり伝えたりする人間の神経系も実に複雑な働きをしてるんだなあってことを思う。

 抗うつとか抗不安とかって聞くと精神に働くクスリなのかなあ、とか考えていたけど精神って別に目に見えるものじゃなく、それに働く薬物ってのもよくよく考えると分からない。柳澤さんの症例なんかを参考にあれやこれや調べてみると、抗うつ剤とかって実際のところは神経伝達物質をどうにかするクスリってことらしい。とゆーことは人間の感情ってのも、実のところはどこーした物質によって左右されているものなんだろーかと、いっそう訳が分からなくなる。なんて深淵な思考を巡らしているふりをしていたところに登場した柳澤さん家の娘さんが、これまたなかなかにスレンダーな美人で思わずときめいてしまった次の瞬間、子供と遊んでいる姿を見てガクリと落ち込む。うーん残念、って何が残念なんだか。

 とか益体もない妄想を膨らましていたのは言うなれば逃避であって締切らしきものを当に過ぎてはいるものの、ネット向けってこともあって掲載の前日くらいまでならギリギリ大丈夫なのかもしれない原稿を、それでもせめて今日明日中には入れてあげよーと思ってパソコンのワープロソフトを立ち上げ書き始めたけどうまくない。枕のあたりでジャンル間の相互交流に時として難しさのつきまとうさまざまな”おたく”について書こうと思って、確かミリタリーマニアとアニメファンとの間の緊張関係を肩っていたなあとDVDでも再発なったけどそれより以前に購入してあった今は懐かしいビデオCD版「おたくのビデオCD」を部屋の隅から発掘し、見返すとあまりの面白さにのそまま「1982」「1985」を続けて見てしまって夜は深々と老けていく。

 それでも気合いを入れ直して気持に妥協という名の棚を作ってその上に文字を積み上げること数時間。原稿用紙で10数枚の分量の原稿を適当に作り上げて写真を添えてメールして寝る。起きる。仕事に行く、ああこの仕事に行くさえなければもう少しゆったりと物書き仕事も出来るんだろーと思ったけれど、そーなったらそーなったで原稿書きたくない病に侵食されて「おたくのビデオCD」から「EVA」全巻から見返して逃避に逃避を重ねて行くだけだろーから、どこかに踏ん切りを付けておくのも怠け者には仕方がないのかも。高名なライターの人がカロリーの高い仕事を余裕を持ってできそーに見えてもやっぱり次から次へと仕事を入れるのは、収入への不安もあるけれど一方には書かなきゃいけない状況に追い込んで気持を駆動させているってこともあるのかな。うーん、やっぱり経済的理由だろーね。

 右の眉毛の端が消えてしまっているのはピアスが引きちぎれてしまった名残なんだろーかと、「JN」なんて期待した割にはへなへなだったウィリアム・ギブスン原作のビートたけしも出ていた映画のもどきかよ(「JM」ね)、なんてことは思わなかったけどちょっとやっぱり略し過ぎな気がする元「実業の日本」の3月号に掲載されている、山形浩生さんとマネックス証券の松本大さんとの対談を読んで山形さんの写真を見て確認する。「MR」って大きく書いてある「ミスター・ハイファッション」にもちょっと似てるかな。

 もっとも「IT時代が見えるビジネス誌」に代わってからはそれなりに見かける機会も多くなって来たから分かりやすいのも大切なことなのかも。地味な「実業の日本」がこうまで代わるなら、同じく地味な「東洋経済」も「TK」に買えたら間違えて若い女性が買っちゃうかも、でも音楽雑誌じゃないって怒るからダメか。「日刊工業」と間違えられてばかりな地味以前の「日本工業」は「NK」に、でもってやっぱり「日刊工業」と間違えられるんだ。貧乏って辛いねえ。

 記事の方はまあ「eなんとか」を称揚しまくる雑誌らしーんで松本さんのビジネスに対する見解とかスタンスを中心に途中で山形さんが突っ込むというかボヤいて、そこを山形さんと同期、って書いたら山形さんの略歴の某シンクタンクもへったくれもないと思うんだけど、有吉さんて元N村総合研究所の人で今は消費者のためのサービス評価サイトを運営している有吉昌康さんがユーザー的にフォローしていく形になってて、山形さんの「eなんとか」への冷めた視線も「クズ投資家」への蔑んだ言葉も聞かれずちょっと残念。もっとも個人的な興味は証券業界と担当する記者たちの間でその不思議なキャラクターぶりが伝えられる松本さんとか広報の人とかを果たして山形さんがどう見たか、ってことでもしかして写真に撮られてない場所でいろいろと面白いエピソードを見たのかも。少なくとも記事だと今風なITベンチャーの旗手なんだけどねえ。

 おや岡田斗司夫さん。「JN」のロボット特集の締めは「アニメとロボット開発の奇妙な関係」ってテーマで岡田さんがアニメに出てくるロボットについて話してる。「これ作りたい」から「これ欲しい」へと変わって来ていることを指摘していて、クリエーターよりも評論家ばかりを増やして結果、送り手はどんどんと高齢化していく状況を示唆しているみたいだけど短い文章の中ではそこまで語られていないから真意は不明。ただ「メイドロボット」への憧れが「ロボットの進化という点でポイントになると思う」と言っていることから想像するに、今の若い学生が「僕はマルチほか多数のメイドロボットを作りたい」と言って世の中にこれから出ていく可能性はあるのかも、でもって入社試験で「マルチって何よ」と聞かれて「これです」とパソコンの画面を見せて落とされるんだ。結局「マルチ」は出来そーもないなあ。

 会社だったんで音声は聞かずに画面だけで「地球少女アルジュナ」を見物して、相変わらずすげえ”絵”だよなあと感嘆する。教室で次々と生徒が顔を交替交替上げていくあたりの無駄にちゃんと動く絵もそーだけど、電波入ってそーな先生の家の中を冷蔵庫の前からカメラをズッと引いて食堂をなめリビングへと戻って衣装タンスの前を通って1冊1冊の背表紙までもがはっきり正しく描かれた本棚を描き切る、このデジタル技術の半分でも直後に始まる「最遊記」に回ればあちらはあちらで止め絵を前後左右になめてどうにか動いているよーに見せかける高等テクニックを駆使しなくっても良かったのにと、経済でいうところの南北問題にも似た資本の残酷さを1時間の間に実感する。でもあの先生なんで急に「フェルマーの定理」なんか語りだしたんだろう、知りたくないけどちょっと気になるけど知ったら同じ「ぬえ」なのに視聴停止を宣言した高千穂遙さんみたくなるかもしれないから、しばらくは”絵”としての鑑賞を続けていこう。「このアニメは明るい部屋で音を消して見て下さい」。


【2月12日】 「迷彩君」(「ヤングキングアワーズ」連載)だったらきっと発狂しそーなクリスマス島のカニ尽くし。「素敵な宇宙船地球号」によるとクリスマス島は長い年月の間にカニが海から陸上に上がって暮らすようになったけど、繁殖だけは陸上ではダメらしく毎年クリスマスを間近に控えた大潮の時期に、いっせいに森を出て海へと10キロ近い距離を歩いて向かうらしー。その数たるや数千とか数万じゃ効かないくらいの多さで、途中にある街には学校にまで10センチ以上はある結構な大きさのカニが入り込んで校庭を勝手に歩き回り、学校では教室の出入り口にネズミ返しならぬカニ返しの板を挟み込んで、中まで入り込まないようにしている。

 道路も1面がカニ、カニ、カニ。通るクルマは仕方なくベキベキと踏みつぶして進んでいくけれど、流石に数が減るのはまずいのか繁殖期にはレンジャーが通行量(もちろんカニの)の多い道路を封鎖してカニの保護にあたっているとか。閉鎖された道路はびっしりとカニが埋め尽くしていて、見物に来た人たちに驚きもしなければ逃げもせず、一心不乱に海へと向かって突き進んでいる。捕まえ放題だから食べられれば食糧に困ることもないんだろーけれど、食べられるのかどーかは知らないし、あんまり食べたいとも思えない、だってマズそーなんだもん、陸ガニって何か蜘蛛っぽくって。

 パーキンソンさんの「野生の王国」は好きで長年見ていたけれど、クリスマス島がこんな島だったとはこの歳まで知らずちょっと吃驚。イースター島でモアイとにらめっこしたいエアーズロックを登りたいガラパゴス島でイグアナを見たいナスカで地上絵を見たいインカのマチュピチュでヤッホーと言いたいチチカカ湖で「チチカカ湖のなぞ」を唄いたいといった中南米オセアニア地区での野望にまた1つ、クリスマス島で大移動するカニの下敷きになってみたいとゆー野望が加わったけれど、番組によると人間が持ち込んだ巨大で攻撃的な蟻が着々と森を侵略していてカニたちを襲っているとかで、カニの死に絶えた森はカニが下草や種子を食べないよーになったため、草が生えて森の様相までが大きく変化してしまっている。

 人間がいくら蟻を退治しても退治し切れるものじゃなく、バスによって日本湖沼の生態系が変化する以上の事態に遠からずならないとも限らないだけに、あるいは来世紀には同じ光景をもはや2度と見ることかなわなくなっているかもしれない。ちょっとしたことでガラリと変わってしまう生態系。とりわけ繁殖力旺盛で移動も自在な人間の進化と発展がもたらした地球に対する影響は測り知れず、人間が時にガン細胞とも例えられる理由の1つをクリスマス島に見たよーな気がする。いくらエコロジーとか行ったってわずかづつでも地球の資源を使っている訳だし、農業だって自然には存在しない植物を改良とかで作り出して繁殖させている言ってしまえば神の摂理に逆らう行為、決してアルジュナに誉められる筋合いのものじゃない。

 生きているだけで地球を痛めるんならもはや生きている意味もないんじゃないかとすら思えてしまうけど、そーは言っても人間だって地球が生んだ生命な訳で、今さら地球に嫌われるのもかなわない。どうしたものかと頭を巡らす。もっとも今はキングでも1000年後あるいは1万年後、カニにとっての蟻に当たる何かが出てきて人間を駆逐してバランスを取るのかもしれないから、今は成り行きに任せてせいぜいが10年100年の先までどうやって今の状況を意地するかを考えるのが、未来に対する精一杯の責任なのかもしれない。

 アーティスティックなちょっと暗めの作品が多いのかなあ、なんて先入観で見ていた古屋兎丸さんだったけど、最新刊の「marieの奏でる音楽」(ソニー・マガジンズ、950円)は少年と少女の切ない恋の様相を描いたファンタジー。「クーの世界」の小田ひで次さんとか諸星大二郎さんの作品とかにも通じる不思議な世界を淡いけれども確かなタッチで、1度文明が衰退した未来のようにも見える世界を描き出している。空を飛ぶ巨大な機械人形のような女神マリィに想いを寄せる主人公の少年カイのちょっぴりあからさまな姿に、一般的なファンタジーではオミットされていた成長ならぬ性徴までをも描き込もうとする古屋さんならではのスタンスが見て取れる。もっともちょっぴりデカいけど美人でナイスバディな女神さまを目の当たりにすればカイならずとも欲情するかも。でもってイく時にはやっぱり叫ぶんだ、「ああっ女神さまっ」て。


【2月11日】 いろいろな人がいたらしー新宿での飲み会で相槌魔人をやっていたら近所で宴会中だった大森望さんとカラオケ番長・さいとうよしこさんが登場したけど終了間際でそのまま外へ。ぎょーさんおった(沢山居た)人が半分くらいになって大森さんも豊崎社長が仕切っているとかゆー宴会へと戻って行って、残った番長の先導でかつて知ったるパセラへと潜り込んで3時間ほどカラオケをする、したのは一緒に行った人で僕は相変わらず床の間の掛け軸でサトちゃんコレクターなアニキ魂の魔女が「どろろ」をうなったり番長がシャウトするジャーニーの曲の映像に登場した飯島愛さん@Tバックを眺めたりして過ごす。しかし何故にジャーニーで飯島愛? 映像の一致しないカラオケってこれだから面白い。

 番長が放り込んだ「無限のリヴァイアス」と「宇宙海賊ミトの大冒険」のテーマを重唱などしてから終了。転戦する番長や消えていった魔女を見送りつつ終電も無くなったんで伊勢丹の向かいの丸井「フィールド館」横にあるやたらと豪華なのに人がほとんどいない日本料理屋で4時まで会話、ノンフィクションとかいろいろ。「ルノアール」経由で動き始めた始発に乗って帰宅してから前日「さくらや」で見かけて衝動買いしてしまったマルシンの全部金属で金色に輝いているモデルガン「モーゼル シュネールフォイヤーM712」を取り出して梅崎真紀ちゃんごっこをして遊ぶ、15秒で分解して3時間で組み立てたりとか。

 「さくらや」価格で23840円は安いかと言われれば高いけど、組み立てキットじゃなければ滅多に見かけない「モーゼル M712」をここで逃すと次に見かけるのは10年先になるだろーから仕方がない。2つ残っていたうちの1つだけ買うと後から来る人が1つしか買えず2丁モーゼルが出来なくって可愛そうとかは全然思わず1つを手に取りノータイムでレジへ。流行のエアガンでもないけれど、フォルムを楽しみ重さを味わうのにエアガンである必要は全然ない、いやまあエアガンもあればあったで欲しいけど。セミオートとフルオートを切り替えられる「シュネールフォイヤー」はマガジンタイプだけどちゃんとクリップも付いていて上からジャジャジャッと弾倉に弾を込められるのが嬉しい、これがやれなきゃ馬賊っぽくないからねえ、やっぱ。

 とは言え徹夜は辛いので3時間ほど寝てからむくむくと起き出して「東京ビッグサイト」で開催中の「ワールドホビーフェスティバル」へ。冬恒例の「ワンダーフェスティバル冬」がリセット宣言の関係で開催されない間隙を縫ってのガレージキットイベント、さぞや大がかりな物になっているんだろーと思ったけれど会場は「ボートショー」が開かれている東に6つあるホールの残り1つで夏に5つのホールを使って大々的に開催された「ワンフェス」には規模では比べるべくもない。とは言え到着したのが遅かったからかもしれないけれど、「ワンフェス」では名物な限定品とか有名ディーラーの品物とかを買おうと頑張ってる人たちの殺気めいた空気はあんまりなくって、全体にのんびりした雰囲気の中で出ていたガレージキットを見てまわる、1ホールだけの規模で半分が中古トイってのは何だかなって気もしたけれど。

 前日に無駄に高い買い物をしてしまったんで作れるかどーか怪しいガレージキットを買うのは止めようと決めてはいたものの、種類も多く並んでいた「あずまんが大王」関連のキットの中でも「耳が動くよー」というキャッチフレーズにヤられて「ちよちゃん」の小さいキットを買ってしまう、これだから物欲って奴は。やたらに小さい「あずまんが大王」のメタルフィギュアのセットもあったけどこれはパス、参考出品のよみのお土産「熊カレー」はちょっと欲しかったなあ。「このガレキがすごい2001」とか謎のビデオとかを購入してから「ロシア娘」とかステージで始まった声優のショーとか遠目に見つつ退散、新聞とか小谷野敦さんのバカ向け読書の本とか読みながら帰る、徹夜明けでもこの元気、僕もまだまだ若いなあ。

 しかしああまで阿呆莫迦間抜けだったとは森総理、アメリカ軍とのまさに”戦争”も覚悟しなければならないくらいの大事件が起こった事を聞いてなお、着替えとかも省いてでもゴルフシューズを履いたままゴルフバックを担いだままでも東京にとって帰るなんて殊勝なことはせず、何時間かをゴルフ場で過ごした後であまつさえ近寄って来た記者に向かって「何で入ってくるの、ここはプライベートの場所だよ」と言ってのける神経の、これは果たして生来の図太さから来るものなのか、あるいは神経の皆無さが成せる技なのか。

 それはもちろんゴルフが誘う快楽とか、クラブハウスでの昼食とか風呂とかコースの途中にある茶屋でのコーヒーとかいったゴルフのプレー以外の楽しみとかを捨てて帰るのは気持としてしのびないもの分かるけど、時と場合をどーしてわきまえられないんだろう。当番制で危機管理はやってるからって言って、戦争でもふっかけられたり大災害が発生した時でも官房長官がいる副長官が残っているからとゴルフを続けていそーな人を頂点に仰ぐこの国の、未来どころか明日は果たしてどっちだ。

2時間ほど寝てからしばらくテレビ。大嫌いな番組だけど取り上げられるのが村山聖9段とあっては見ない訳にはいかない。内容自体は「聖の青春」(大崎善生、講談社、1700円)んどなぞったもので、誰もが感動した森信男との公園で手を暖め合うような細かいエピソードは省き1度A級から滑っている話も王将戦に挑戦して4連敗した話も抜いてあるから、病と闘いながらも割と順調に上まで行ったよーな感じになっていたのは、1時間しかない番組だから仕方がないか。一方で村山の実家に残された少女マンガの数々をカメラがさっとなでてくれらのは嬉しかったところ。聞いてはいたけどなかなかの量でかつあの世代ならではのセレクションで、とりわけ内田善美さんの「時計のliddel」が3巻、並んで棚に差してあったのは感じるものがあった。

 外見こそ丸々でぼうぼうだった村山さんのピュアな感性がちょっとだけ垣間見えた感じ。夢の少女が住むビクトリアンハウスを探してすべてを投げ出し旅に出て、最後はどこかへと消えてしまったバイダーベックの姿に長くはないと感じていただろー村山さんは何を思ったんだろー。録画してないからほかには何があったかは不明、冒頭で抜いた映像には「ラブ・シンクロイド」なんかもあったから或いは「ブルーソネット」とかか「パタリロ」とかもあったかも。どこかに村山さんの蔵書一覧ってないんだろーか。あと取り出された将棋の駒のすり減り具合の凄まじさにも感銘、どれだけ触ればあれだけ角が丸くなるんだろう。将棋会館でもどこでも飾って若い人に見せれば村山の凄まじさと真剣さが伝わって後進への刺激になると思うんだけど。

 しかし分かってはいても最後の最後まで将棋の棋譜をそらんじていた姿を再現されると、悔しさと悲しさからやっぱり涙がにじんで来る。だからといって病気じゃなければと思えないのが難しいところで、同じく病の中から奮起して女流でもトップクラスの地位に昇った石橋幸緒さんが「病気だったから将棋と出会って強くなれた」といった事を言っていて、あの瞬間に現れて輝き消えていった彗星のよーな人だったんだと、今は思うより他にない。最後にゲストが泣いてみせるわざとらしさが鼻につく番組だったけど、石橋さんのコメントにも詰まる涙顔の真剣さには一切の白々しさは感じられず、そのストレートな感情の発露に普段だったら涙を煽るよーな言動でもって白々しさを増幅してみせる司会の関口宏さんも混ぜ返しが効かなかったみたいで、落ち着いたトーンで進行していったのが良かった。見ている人にも多分伝わっただろー将棋への想いが、10年先に花開いてくれれば関口さんも役に立ったってことでしょー、それはもー「ほんぱら」のおそらく100万倍は。


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