縮刷版2001年12月下旬号


【12月31日】 上巻はたしかソニー・マガジンズから出ていたのに、途中いろいろあって下巻は幻冬舎から出るとゆー、決して前例がない訳じゃないけど、2巻物ではちょっと珍しいかもしれない事態になってしまった古屋兎丸さんの「marieの奏でる音楽 下」(発行・幻冬舎コミックス、発売・幻冬舎、1200円)。たぶんあれこれあった後、機械仕掛けの巨大な女神が天空をぐるぐる回って治めている、文明が大きく後退してしまったっぽい地上世界を舞台に幕を開けた物語は、海で行方不明になった後、三賢人に助けられて戻って来てからというもの、不思議な音を聞き分けて、鉱山なんかを見つけられるよーになったカイって少年が、女神の正体に気付き自らの運命を知って迷う話が、下巻に入って繰り広げら得ることになる。

 そこで提示される二者択一の命題もさることながら、カイの幼なじみでカイが好きなピピって少女が軸になった、入れ小細工を逆にしたよーな感じにどんどんと世界が広がっていくラストの展開が目にも驚きで、その残酷な、けれども当人にとっては幸福なんだろー、その人生を思って思わずもらい泣きをしてしまう、しくしく。まあ、いささか梯子外し的ともアッと驚くタメゴロー的とも言えそーなラストはそれとして、戻ってカイを主軸にした二者択一のドラマについて言うなら、世界が平和であることと、誰もが自分の意志を持って生きることのなかなかなに相容れがたい状況に対して、これとゆー答えを出してくれていないのが気にかかる部分ではあるけれど、実際問題答えなんか出せないってのも一方にはあって、カイじゃないけどやっぱり判断に迷いそー。かくも難しい主題を選んで、果然と立ち向かって自分なりの答えを出した古屋さんに拍手。「marieの奏でる音楽」が、外から聞こえて来るものなんかじゃなくって、誰しもの心の内で響いている音楽になる日が来る日を願おー。

 「東京ミレナリオ」でごったかえす直前の「東京国際フォーラム」で開催された「インターネット博覧会」の打ち上げっぽいパーティーを見物。「批判されることもあるだろーと予想してました」なんて、批判が出てきた今頃になって後出しジャンケンよろしく言い始めた堺屋太一さんの演説なんかを聞いて、首相官邸で開催された年間表彰式の時に受けたものの今はとりあえず収まっていたダメージが、再びぶり返して来て、ウームと頭を捻りたくなった。なるほどインターネット・コンテンツの普及促進とゆー目的の為には、過剰なまでに自信を露にして、「インパク」の先頭で旗を降らざるを得なかった、だから途中の段階で、批判を甘受するとは堺屋さんの口から言えなかったんだと好意的に解釈するにしても、当の批判が一体どこに、そして誰に向けられているのかをまったく理解しないで、釈明しつつも逆批判として返してしまう、その夜郎自大ぶりにはちょっと参ってしまった。

 今起こっている「インパク」への批判ってのは、堺屋さんがいうよーな、政府が中心となったイベントでコンテンツなんてものにどーして主体を置くのか、なんてコンテンツへの無理解から来るものなんかじゃ決してない。むしろ参加する側、手伝う側の意識として、もっとコンテンツ主体のイベントにしたかったのに、政府の側から押しつけられる規制が余りに多すぎて、気楽なコンテンツが作り出せず、結果アクセス数もたいして伸ばせなかったってことに対するもの。その意味で、単なる行事だったスポーツを、単一素晴らしいのコンテンツとして切り出してオリンピックを創設し、世間の理解がなかなか得られない中を頑張り通して、今日の繁栄へとつなげたクーベルタン男爵の例を上げ、それに自分たちをなぞらえよーとするのは、ちょっと筋が違うよーな気がする。

 ポータルを作ってパビリオンを集めて云々なんて、ウェブが生まれて「リンク集」なんてものが出来た初期も初期からある、別に昨日今日に始まったことでもない仕組みをとてつもない”ビジネスモデル”だなんて言って、再び利用したり海外に輸出したりしよーなんて考えている節があるけれど、だったらせめて批判の矛先、問題の核心くらいはちゃんと理解しておかないと、ますますもって世間の感覚から遊離したものしか作れないと思うんだけど、どーだろー。まあ現場の人たちは皆さんちゃんと気付いているんで、上のお祭り気分はそれとして利用しつつも、クーベルタンを気取ったその実抵抗勢力な人たちの隙を突いて、本当に役立つ良いものを作っていけば良いってことで、懲りずに頑張って頂きたいもの。期待しよー、その日が来るのを。

 それにしても会場のあちらこちらで散見される「CEDバッヂ」をつけた人の多いこと。パッと見20人くらいはいたたのかな、他の同業も含めると結構な数に登ったよーな気もする。なるほどそれだけウェブ構築なり、コンテンツのプロデュースなりにノウハウがあって、だからこそ企業とか自治体とかがパビリオンの中身を相談したか、コーディネートを依頼したか、企画立案も含めて丸投げしたって言えないこともないけれど、誰もが規模とか地域とか属性とかに関係なく参加して、同じ条件で世界に向かって情報を発信できるんだってゆー理念を持って始まったイベントに、どかどかどんどんとプロ中のプロが入って来て、ゴッソリと仕事として持っていき、1年の事業期間を経て更なるノウハウを貯め込んで、一段と成長していってしまい、スポンサーに残るのは名前だけってゆー状況には、どこか矛盾もあるよーな感じがして仕方がない。

 もちろんそれが「CED」な人たちの仕事なんだから、文句なんて言う筋合いのものじゃないし、企業として取り組む将来性の高い事業への積極的な進出って意味で、支持したい部分もあるけれど、一方で、せっかく得られた自らハンドリングできるメディアを持つチャンスを、自治体なり企業なりがみすみす逃すよーなことをするのも勿体ない話。出来る部分は極力まで内製化するなり、個人であっても優れた企画立案を出来る人を使うなりして、ノウハウが必要な部分は借りるといった分業体制にして、安く、けれども面白いコンテンツを数多く作っていった方が、よほどか自分たちの為になると思うんだけどどーだろー。注ぎ込まれたらしー何十億円ものお金(全国規模だと何百億円とかにもなるのかな)の、どのくらいがバッジに吸い込まれていったのかは知らないけれど、だったらその分のいくらかでも、世の中が明るく楽しくなるよーなコンテンツなりへと環流させてやって下さいな。誰も見ないアニメーションとか作ってないで。

 立ちっ放して疲れたんで帰宅。夕食を取って微睡む頭で、夜から「後楽園ゆううえんち」内の「ジオポリス」で開催される鳥肌実さんの演説会なんてどーでもいいや、って思ってウダウダしていたけれど、そこは21世紀に羽ばたかんっと欲する「出没家」、せっかくのイベントを自らの怠惰で棒に振ってはおしまいだと思い直し、一瞬でも安易な温もりに惹かれた我が身を恥じつつ、体にむち打ち気力をふりしぼって電車に乗って「後楽園ゆうえんち」へと向かう。降り立つとそこか少女(&元少女)の波。まさか鳥肌さん、いつの間にやらこんなに少女のファンが付くよーになったの? って思ったらやっぱりまさかで、隣の「東京ドーム」で開催される「Jフレンズ」のカウントダウンイベントに来た人たちでちょっと安心する。

 もっともチケット売場に良くとそこは少女ばかりじゃないけど女性も結構な数交じった長蛇の列。聞くとすでに当日券すら完売の状況で、もしかしたら追加を出すかもしれないけれど、全員に出るとは限らないってことで、それでもいいからと並んでいたら後にもどんどんと行列が出来て、ここ何年かの間に高まった鳥肌さん人気の凄さを改めて実感する。30分くらい待ってよーやく始まった当日券追加販売でどーにかチケットを手に入れ「ジョイポリス」へ。何でもカウントダウンイベントに「ジョイポリス」を開放するのはこれが始めてのことだそーで、その栄えある1回目の企画が「鳥肌実」だって辺りに「ジョイポリス」の心意気を感じる。鳥肌さんがどんな芸風の人か知らなかっただけかもしれないけれど。

 ユンケル連続一気のみ芸だけど迫力はあった「エッヘ」に赤い褌姿で太鼓を叩いたり観客を同じ赤い褌姿にしてしまう「レッドキング」の芸のあと、登場した鉄拳のアニメネタに爆笑。「タイガーマスク」に「サザエさん」に「ルパン三世」に「仮面ライダー」に「ウルトラマン」に「アンパンマン」に「フランダースの犬」にエトセトラetc。例えば「アンパン」をする「アンパンマン」といったイラストの描かれた(結構特徴掴んでて似てる)スケッチブックをめくりながら、ボソボソとした声で訥々をネタを語っていく芸風は個人的には好みの部類で、デーモン小暮がロードウォリーアズしたよーなコスチュームとのギャップも加わって、なかなかにシュールでキッチュな雰囲気を醸し出している。4月だかに「シアターアプル」で単独ライブもあるみたいなんで、機会があったら行こー。

 そして真打ち・鳥肌実さん登場。エスカレーターで降りて来た後、殺到したファンにもみくちゃにされたのには驚いたけれど、なんとか壇上に上がって語り始めたネタはまずまず面白く、1時間半のほとんどを結構楽しみながら立ちっ放しで見物できた。午前零時にやるはずだったカウントダウンはすっとばすし、やったと思ったらすでに午前1時5分だし、へっぴり腰で突いた餅は片栗粉にまぶしてから客席に放り投げるし、5000円札に描かれたフリーメーソンが絡んだ意匠がドーのといった何かで読んだよーな話をするし、途中スーツをぬぎシャツを脱ぎパンツまで脱ぎ捨ててしまう暴走ぶりも披露する、といった具合に数千人が楽に集まるホールとか野外音楽堂でやる、徹頭徹尾な演説会とはちょっと違った鳥肌さんが見られて、個人的には良い年越しを送れた。

 いい歳をしたおっさんがひとり大晦日から元旦にかけての夜を、鳥肌実さんのポークビッツあるいはシシトウを見て過ごすってのは、考えよーによってはなかなかにブキミな光景だけど、米帝から来たネズミ大使の魔法王国とか、聖林映画資本の植民地でカウントダウンするなんてのは、21世紀の世界を不安に陥れている、米帝のグローバリゼーションを支持することにつながりかねないんでやりたくない。むしろ「Jフレンズ」に団扇を振る少女がいて、新聞片手に赤鉛筆を耳にはさんで場外で大井の馬券を買うおっさんがいた後楽園の、同じ地域で真夜中に右翼芸人のすっぽんぽんに見入る若者たちがいる、その多様性その思想的な柔軟性こそが日本を、世界を帝国の魔手から救うことにつながるんだと思えばブキミさも消し飛ぶ。誰もが同じ文化の中でひとつ同じことをして安心する国じゃなかったことを誇りに思いつつ、寒さも増す中を1時間半頑張り抜いた鳥肌さんに拍手を贈ろー。武道館、やれるといーね。


【12月30日】 それにしても不思議なランキングになったものだと見て思わず唸ってしまった「サンケイスポーツ」12月30日付掲載の「プロ野球10大ニュース」。2001年のプロ野球で何が1番のニュースだったかって聞かれて全世界の2億人くらいがパッと思いつくのはやっぱりシアトル・マリナーズに移籍して新人王とMVPの両方を獲得してしまったイチロー選手の活躍ぶりか、さもなくば近鉄ローズの王貞治に並ぶホームラン記録達成。スポーツがスポーツである以上はやっぱり記録なり、さもなくばスポーツで達成した活躍なりを讃えるのが至極真っ当な思考だし、それがスポーツに対する敬意ってものだろー。

 にも関わらず、「サンスポ」が選んだ10大ニュースのトップは「長嶋監督引退」ってんだからこれが驚かずにいられよーか。だいたいが引退って言葉は現役を退く時に使う言葉で監督を辞めるんだったらそれには退任って言葉の方が相応しい。球場のグラウンドから去るって意味で”引退”と言ってそれほど悪い訳ではないけれど、だからといってイチローの世界に通用する活躍を2位に押さえてトップになるとはスポーツ的にはちょっと思えない。加えて3位に入ったのが阪神・野村監督の辞任に星野新監督の就任。プロ野球とゆースポーツの主体である選手の活躍なり記録を差し置いて、監督の動勢を1位と3位に選んでしまえるスポーツ新聞のどこがスポーツ新聞なんだろーかとゆー思いに頭を悩ませる。

 まあ、スポーツ新聞のスポーツ業界新聞ぶりってのは今に始まったことじゃないからここで敢えて目くじらを立てる話でもないんだろーけれど、同じ紙面の時折「プロ野球の危機」だなんってコメントなり記事なりを載せているにも関わらず、当の新聞がスポーツの本質から離れた所で大騒ぎする愚を繰り返して、自ら「プロ野球の危機」を作り出している、この言行不一致ぶりをやっぱり不思議に思わないでいられない。4位はヤクルト優勝で6位が近鉄の優勝と、選手個々の記録じゃないけどチームとしての記録が入っているから、順位はともかくそれはそれで喜ばしいことだけど、一方で9位にプロ野球の選手としては全くもって未知数な(当たり前だよ高校生なんだから)日南学園の寺原選手のダイエー入りを選んでしまう、その甘やかしぶりはやっぱり「プロ野球の危機」につながるよーな気がする。

 これが「2001年スポーツ10大ニュース」になると、サッカー日本代表の「コンフェデレーションカップ」準優勝に高橋尚子選手の女子マラソン2時間19分台達成に小野選手のオランダ移籍、田村亮子選手の柔道世界選手権5連覇といった具合に、”記録”かさもなくば選手の活躍ぶりをちゃんと選んでいるよーに見えるから不思議なもの。もしかすると「プロ野球」ってのはスポーツじゃなく一種の「興行」で、板の上での役者のやりとりのみならず、舞台監督に演出に証明にスキャンダルに客席までもを含めて楽しむべきもので、だからこそ監督の動勢に新入りへの期待もトップ10に選ばれてしまうのかも。それならそれで良いんだけど、だったらどーして「スポーツ」新聞に載るのかが分からなくなる。世のスポーツ新聞はおしなべて、「○○スポーツ業界新聞」とかって風に、題字を代えるべきなのかもね。

 なんて高みに立って天下国家を語って発売からそろそろ1カ月くらい立つ「30独身女、どうよ!?」と「恋愛の取説」の2冊について一切の感想を書かずにいたら、「コミックマーケット61」にブースを出していた岡田斗司夫 さんに「天下国家についてしか語れないヨワムシめ」と小一時間ほど問い詰められる。約5秒、とも言うけどね。釈明するなら、刊行されたのは知っていたけど、夏コミで歴とした”新刊”として売られていた、「恋愛の取説(仮)」と「30独身女、どうよ」の一部を抜粋してコンセプトをチラリと見せた本を買って中身を読んで抱腹絶倒して、すでに読んだ気になっていたってこともあって、ついつい後回しになってしまっていたってのが正直なところ。あと恋愛無縁で30独身男だけど30独身女じゃない身にはなかなか、切実な問題として本のテーマが響いて来てなかったってこともある。だったら「フロン」だって関係ねーじゃんと言われれば確かにそーなんで、やっぱり天下国家にかまけて忘れてしまっていました御免なさいと言っておこー。すいません買います。「リブロ」まで行って買ってもサイン会は行けそーもないんで近所で明日にでも買います。売ってるかな?

 会社でちょっとだけ仕事をした後、午後の3時半なんて閉会も間際に行ったんで岡田さんの”新刊”は当に売り切れで岡田さんも既に撤収してるかな、って思ったら撤収中ではあったけど岡田さんはちゃんと居残って机の向こうに座ってて、寄ると「新刊落ちました」ってゆー「コミケ」に実に相応しくも神々しい響きを持ったコメントを聞かされて頬が緩む。それでも紙切れ1枚張って消えてしまわないところが流石とゆーか。「すまない! と思ってる」とゆーコメントを冒頭に記したA3用紙の裏と表にビッシリと文章をプリントした「ロケット野郎通信」を配布していて1枚押しいただいて拝読する。

 それによると「夏コミ」向けに「BSマンガ”裏”夜話」ってのを用意しているよーで、あの作家が取りあげられないのは何故? ってな辺りも含めたあれやこれやな話が暴露されるらしー。楽しみたのしみ。用紙はほかに「ハリー・ポッター」と「歌舞伎」について考えてたり、「働く意味と意義」について考えてたりと盛りだくさん。とりわけ「歌舞伎」について考えた文章は、坂東玉三郎みたいな血統じゃなく一応は芸(げい)でもってつなぐこともあるんだってゆー指摘も一部には出そーだけど、総体として血縁への世襲が幅を利かした世界に対してどー見るか? ってなことが明解に示唆されていて面白い。もっとも歌舞伎なら世襲でも守れる”伝統”があるけれど、同じよーに世襲が幅を利かし始めた政治で守るべき”伝統”なんてない訳で、「下手なのも仕方がない」なんて言っている余裕はない。この辺りどーゆー考えを持ってるんだろー、岡田さん流な見方があったら夏にでも、似たよーなペーパーを作って語ってやって下さいな。天下国家について語ってるなんて言いませんから。

 30分くらいでバババババッと見て回ったけれど既に大半が撤収して、知っている顔は1人2人見た程度。こっちが人の顔を覚えられないってのもあるからもしかしたら前に会ったことのある人とかいたかもしれない。不愛想な野郎と思われただろーなー。「静岡大学メディア論研究戦隊」にも寄ったけど赤尾晃一助教授が立ち寄った形跡はなし。カタギな家族を向こうに張ってオタクとの両立を図るのは、なかなかに困難ってことなんだろー。午後の4時になったんで適当に拍手しつつ「ゆりかもめ」を20分くらい待ってから捕まえて、新橋から地下鉄で新宿へ。「ロフトプラスワン」で開かれた柳下毅一郎さんのお誕生会に出て皆で「ハッピーバースデー」を唄いたかったけど流石に大人のイベントなんで唄わず。ちょっとガッカリ。

 言い出しっぺのウェイン町山さんが事情で来られなかったのはファンにとっては残念なことこの上なかったみたいだけど、イベント自体は三島賞作家の中原昌也さんをゲストに迎えての巨乳スパイ叩きとか、東映ヤクザ映画が大好きなガイジンが持ってきたどー見ても世紀末救世主伝説なんかには見えない台湾の「北斗の拳」の観賞とか、佐々木浩久監督と中村愛美さんと誰がどう見ても諏訪太郎さんにしか見えない自称三輪ひとみさんを迎えての新作映画「血を吸う宇宙」に関連するトークとか、喜国雅彦さん国樹由香さんを迎えての「浦和レッズ」談義とかあって楽しい楽しい。実はナマを始めて見た中原昌也さんは身長190センチの巨漢を想像していたら案外にトランジスタな感じの人で、韜晦とか修辞とかを弄せず言いたいことをストレートにずばずばと話す話し方が、森山和道さんにちょい近いかな、なんてことを感じたけれどどーだろー、やっぱ違うか。

 中村愛美さんには映画のチケットにサインをしてもらって握手までしてもらってラッキー。家宝にしよーと心に誓う。しかしやっぱり個人的にイチオシだったのが、映画とはちょいはずれるけれど”あの”山形浩生さんが「オルタカルチャー裁判」の地裁判決後、公の(公か?)場に出ていろいろ喋ったってこと。集まった若い女性たちから華やかなプレゼントが柳下さんへと贈られた後、トリを飾って誰のだったか分からなかったけど有名な人のっぽいリトグラフを持って登壇した山形さん。「サウスパーク」のネクタイをして足にはエンジニアリングブーツとゆー出で立ちで、前に裁判所で見たビジネス的に真っ当なスーツ姿ばかりがファッションじゃないってことを見せてくれた。裁判の感想なり今後の対応についてはとりあえず保留。個人としてどーこー出来る問題でもなさそーなんで、追って出る沙汰も含めて年明け以降の動向を関心を持って見ていこー。

 それにしても毒舌悪口で鳴る山形さんが柳下さんに招かれ登壇したと知るや、開口一番「バロウズの翻訳はダメ」と言ってのけた高橋ヨシキさんには吃驚でドッキリ。一応理由は説明して、山形さんもまあ、そーゆー見方があるのも仕方ないかなってな顔を見せていたけれど、そこで留まらず自分は利口なんだとゆーことを見せた後で相手を莫迦と言って相手に反論の余地を与えないところがあるとか、右だか左だかにピアスをするのはサンフランシスコではどーだとか、匿名掲示板へと降りていって実名でとことん相手をするのは如何な物かと言った具合に、柳下さんを間に挟んで高橋ヨシキさんから山形さんへといろいろな意見が飛んでいく、佐々木監督の時にも喜国さんの時にも見られなかった、なかなかにスリリングな展開を見せられ心に興奮の冷や汗がしたたり落ちる。「バロウズは原書で読むべき」とゆーヨシキさんに「バロウズは日本語に訳せる、ってことを証明するため」と言って「バロウズの本」を出すと宣言した山形さんの、さてはてどっちに軍配が上がるのかも含めて、ここに勃発した新たな言説のバトルロイヤルの行く末を2002年は楽しみにしながら見て行こー。


【12月29日】 最終回。来週からいったい何を楽しみにして生きれば良いんだろーかと終わって思わず涙してしまった「ナジカ電撃作戦」だけど、どんどんとシリアスになっていった話は最後に来てさらに深いテーマを打ち出して、人間として生きることについてあれやこれや考えさせられた、ってそれはちょっと大袈裟か。それでも終盤になって描き継がれた、ヒューマリットのマスターへの思慕とその果ての同化さらには排除といった、思考および行動パターンを突き詰めれば、それなりに深い話が描けそーで堂々と「SFアニメだ」と言えそーな気がして、その辺雰囲気だけを描いただけで1クールで終わってしまったのが、ちょっともったいない気がした。

 パンツは快調。ナジカもリラも敵方の姉ちゃんもコマンドも、それはもーたっぷりに見せて見せまくっているんで目に不足はない。ただこっちも慣れて来たのか昔はチラリとでも見えただけで大喜びしてしまったのが、最近はただ見えるだけじゃなくって見え方なり、皺の寄り具合なりふくらみ具合なりにまで目が及んでしまって、動体視力を駆使してその辺を確かめているうちに目が疲れてしまった。それでもしばらく経てばやっぱりどんな小さな三角だろーと見たくなるんだろー、目を皿のよーにして画面に見入り、時にはテレビの下に頬をすりつけて見上げたりもして。もっともただでさえ世の中規制がどーしたこーしたで、三角がどんどんとブラウン管から追い出されてしまっていて、もう2度と見られない可能性だってあるわけで、もしかして最後の見せほーだいアニメになったかもしれない「ナジカ電撃作戦」の名前を、今は深く心に刻んでそこで得られた豊饒の時間を、思いだしつつ噛みしめることにしよー(だったらDVD買えよ)。

 しまった先を越された。朝方、唐沢俊一さんの「裏モノ日記」12月28日付けを読んで悔しがる。例の「オルタカルチャー裁判」に絡んで28日付けの「読売新聞」夕刊が掲載した記事へのツッコミで、読んで幾つか気になったところがあったんで何か考えようかなって思ったものの、別口のツッコミをやってしまって体力を使い果たして、翌日回しにしたところがやっぱり読んで気になった人がいたみたい、ってゆーかやっぱり思わないではいらねないよなー、あの記事にはいろいろと。

 言いたかったことはほとんど全部、言われてしまっているんで今さらって気もするけれど、備忘録代わりにこっちでも触れておこー。記事を読んで最初にアレ? って思うのは裁判で小谷真理さんが争った相手の名前が出ていなくって男性評論家ってなっている点。事件が起こってしまった背景として、問題の記事を書いたのが山形浩生さんだったって辺りが結構、事情を推理する上で大切な要素だったりする上に、最近の経済関係情報関係社会関係クルーグマン関係での露出ぶりから勘案して、それなりに有名だと考えられる人がいわゆる「テクスチュアル・ハラスメント」的な文章を書いて訴えられて裁判で負けたんだってことを考えるなら、名前を出して別に差し障りがあるよーには思えないしむしろ、記事への関心を呼ぶよーな気がするんだけどどーだろー。

 背景にあった思想信条は別にして、事実として間違ったことを書いてしまい結果、相手を傷つけてしまったんでご免なさいと謝って、一件落着にしたいと考えていた側と、背景にあったかもしれない思想信条からさらに敷衍して、いわゆる「テクスチュアル・ハラスメント」的な事態が時代を越えて横行する状況を、これをきっかけに何とかしたいと考えて意識を張って運動に臨み、それが同好の共感を呼んで力となって勝利へと至った側とでは、同じ判決を聞いても受け止め方が異なっているのは仕方のないことで、その受け止め方のより運動に近い側から見れば当然、相手が今をトキメク評論家であろーと狭い業界の内輪に向けた文言を場所を間違えて書いてしまったレトリックであろーと、関係なしに「テクスチュアル・ハラスメント」とゆー問題の一例として認識されてしまう。あるいは運動そのものを紹介したい記事ならば、そーゆー認識に立たざるを得ないってことになる。

 記事に単なる軽口だったかもしれないってなことは触れてあったよーに記憶しているし、それが結果として人を傷つけることがあるんだってことに注意を払おうって締めてあったりして、背景よりもむしろ対「テクハラ」運動の経緯と結果を主張したかったんだと考えて考えられないこともない。もしかすると、山形さんの名前を書くことで例えば私怨とか、あるいは冗談とかいった個別の背景へと裁判が収斂されてしまい、記事として言いたかった「『女にもの書けぬ』 差別に痛打」ってことがボケてしまいかねないんで、”敢えて”男性評論家と名前を伏せて”敢えて”ニュアンスも無視したんだと、解釈するのは解釈し過ぎかな。だったら別にただの”評論家”も良い訳だし。ともあれ物を書く身として示唆される所多々。気をつけねば。

 「コミケ」へ。お昼過ぎならスンナリ入れるだろーと思って遅く言ったのに、そー思った人が大勢いたのか、あるいは別の要因でもあったのか、12時半の時点で「東京ビッグサイト」前にはまだ長い列が何本も出来ていて、入るまでに30分以上の時間がかかってしまった。周りにいる人もやっぱり驚きだったみたい。とりあえず企業ブースに向かおーと向かった西館の、4階に上がる外の階段前も人の波でごったがえしていて、屋上もいつもだったらぐるりと海側まで回り込んでから企業ブースに入れたのが、今回はそちらへ抜けられないよー柵がしてあって、手前にある狭いガラス戸前が、中に入ろーとする人でちょっぴりおしくら饅頭な雰囲気になっていた。

 西館の1階から4階まで上がる長いエスカレーターが封鎖してあったこともあって、コスプレ広場と企業ブースに向かう人の流れが1点に集中してしまったみたい。あと、企業ブース自体の重みが増しているってこともあるのかも。「東京ゲームショウ秋」からこっち、いわゆる企業物のキャラクターグッズが一堂に会するイベントってのがなくって、冬の「コミケ」の企業ブースは「東京ゲームショウ春」までのつなぎとして、それなりの意味をもっていたんだけど、春の「ゲームショウ」がなくなってしまった今、「冬コミ」の企業ブースの意味はますます拡大したって感じがある。さらに人の集まりそーな明日とか、企業ブースに行くのにはちょっと苦労しそー。でもってたどり着いた時にはすべて売り切れと。冬でも春でもいーからキャラクター関連のイベント、どっかやってくれないかな。

 ガイナックスのブースもブロッコリーのブースも講談社のブースも人気だったけど1番目についたのはエンタブーレインの袋を下げた人たち。何かすげえキャラクターでもあるんだろーか。金もなく掃除したばかりの部屋をまたまた物で埋め尽くすだけの甲斐性もないんで、ザッと見るだけに留めつつ、それでもナインライブスのブースで「ラフィール下敷き」と、「2001赤井孝美お仕事ブック」を購入する。マグカップも欲しかったけど陶器はねえ、家に置いておくといつか踏みつぶしてしまうからパスです。ペラペラとめくると今は亡き「電撃アニメーションマガジン」で赤井さんが川澄綾子さんのコラムにつけていたイラストが何点かあって、そんな雑誌があったなあー、こんなコラムもあったなー、ついでに仕事もしてたよなー、ってな思いに目を潤ませる。ブースの中をのぞくと先月、「SFファン活動を考える会」でゲストに来ていたガイナックスの武田康廣さん見える。避難中? それとも店番?


【12月28日】 おそらくは予想の範囲内だった、廃館の危機にあたってこころ他、「ココロ図書館」の3姉妹が「にこにこりん」も理解不能なイケズ市長にどー立ち向かうのかって展開だったけど、これまでに出てきた人たちのリレーでもってこころ1人が無事、街へとたどり着くまでで既にウルウルとして来た目が、最後のひと押しでもって涙にドッと濡れてしまったのにはちょっと参った。予想できるからこそ先を見越して高まっていた感情が、あまりにハマった展開でもって臨界点を越えてしまったんだろーけれど、いっぽうには裏技搦め手足下掬いな展開にあふれたお話しをこそ、素晴らしーものだと認め理解しほくそ笑むことにちょっと、疲れていたところにあまりにストレートな”カンドー”って奴が襲って来て、呆気にとられてしまったのかもしれない。

 ベランダにちょこんと座ったウサギが喋る絵面のシュールさはなるほど確かにその通り。けどシチュエーションのセンチメンタルさにシュールさが喰われてしまったのか、画面を見てシュールだなあと思いながらも物語の流れの中で必然と見てしまっているから恐ろしい。おまけにウサギの正体がとんでもなくって且つ、とんでもないって分かってもなおウサギはウサギとして女声で喋らせ続ける無理で無茶な展開も、可憐な少女への思いやりだと認めて納得している自分があって振り返って吃驚する。歳をとると人間、経験を積んでスレんじゃなくって、むしろストレートな物語を求めストレートな表現に涙脆くなってしまうものらしー。声が聞こえなくなってからの「にこにこりん」の出し方の何とゆーグッドなタイミング、ベストなシチュエーション。途中とかほとんど見てなかったけどラスト3話で「ココロ図書館」、2002年でも星たくさん上げられる作品になりました。1番はでもやっぱり当然絶対、「ナジカ電撃作戦」なんだけど。じゃあワーストは? それはヒ・ミ・ツ。

 通常の発売日の30日までまだ”2日”もある状況での発売を、仕方なくも余儀なくされた年末の「ヤングキングアワーズ」2002年2月号が、ここに登場となるまでの皆々様の生き血を啜って肉をかじる苦労を思ってひとしきり涙。予告されていたとはいえ「ヘルシング」が載っていないことにもちょっとだけ涙。とは言いつつも2月8日発売の「ヤングキングアワーズ3月増刊号」に何と、あの、死神ウォルターの14歳の頃の活躍を描いた番外編が登場するって予告が掲載されていて、休んでるよーに見えても実際にはちゃんとせっせとお仕事を、平野耕太さんはされていたんだってことを知って歓喜の涙にうち震える。もう描き終わったのかは知らないけれど。でもちゃんと載るとは思うけど……思う、けど。

 加えて2ページながらもルークとヤンの2人組による「穴ウメ宣伝ゆかいまんが」こと「人情紙芝居 バーニングフラッグのコーナー」なんてものも掲載されていて、現在ただいま好評放映中っぽいアニメーション版「ヘルシング」でも人気を本編と二分する予告編をさらに数倍、パワーアップさせたよーな面白さおかしさ楽しさでもって読む人を笑いの海へと叩き込んでくれる。曰く。「あとインスパイアという所からソフビフィギュアがでますよ『原作版』の」「あとガシャポンのフィギュアが海洋堂・ムービック出まーすこちらも原作版」なんて感じに、「原作版」を強調してルークがこれからのお仕事について話している。でもってさらに。「あと宣伝することはないんですか」とヤンが訊ねて「ありません」と即答するルーク。「本当に何も?」「大事なの忘れてません?」とヤンが突っ込んでもきっぱり「ありません」と答えるルークのさてはて、これは何かを意味するものなんだろーかと考えたけれど、子供の僕にはちょっと検討もつかない。前掲の「ヒ・ミ・ツ」とも多分おそらく無関係だろー。

 ちなみに「3月増刊号」では視聴率が占有率で37・2%もある大人気アニメ「ヘルシング」の全13話を大々的に完璧に、特集してくれるとか。ルークには透けてバッシュとナイブスの戦いが見えてしまったらしーけど、「ゆかいまんが」のすぐ前に載ってるアニメ紹介記事「契約の書」にある、「オカルトパワー全開で脚本を仕上げた小中千昭さんに触発され」たらしー飯田馬之介総監督が「ラスト2本の絵コンテは俺が描く!」と叫び「会社つぶれてもかまわん、ラスト2本はクロムウェル発動じゃーっ」と叫んでるって記事に従えば、相当に見てすさまじい作品にになっているらしーんで、2002年1月に放映のアニメ版「ヘルシング」のラスト2話をまずは楽しみに待ち、その後の特集でどんな反響がルークとかから寄せられるかを楽しみにしよー。

 伊藤明弘さん「ジオブリーダーズ」には”黒い流れ星”がいよいよ登場……登場……登場? それはそれとしてちょっと前までの増量ぶりが嘘のよーに今回は楽しく嬉しいカットが全然、1枚足りともなかったのが個人的には激しく無念、しゃちょーにブリブリされてもねえ、見かけはともかく中身はそれなりにイってそーなんであんまり萌えん。かろーじてローラーブレードを足に履こーとしている高見ちゃんの大きく太股を割ったカットがあるけれど、邪魔が入って見えるものが見えなくなっているんでちょっと役に立たない。まあ見えなのもそれはそれで想像力を掻き立てられるものではあるんだけど、ちょっと前までが前までだったんで、頭がインフレになってて想像力が減退してしまってる所があって気分を高めるまでには訓練がいりそー。人間、楽しちゃいけないねー。

 新聞には記事じゃなくって広告局やら営業局やら販売局といった部門なんかが記事っぽく作る企画広告のページがあって、これが暗愚な輩によって率いられ矜持を失った新聞なんかだと公正性・信頼性がある、と思われている記事みたくお金をもらって作った広告なのに見かけはまるで記事原稿って奴を作って載せて知らん顔、記事だと思って問い合わせてきた読者を営業とか販売の担当者に回してしまい、信頼をどんどん失い価値をどんどんと下げていくものだけど、さすがに大手の一般紙と呼ばれる会社では割にちゃんとその辺しっかり分けていて、企画広告には企画広告だってちゃんと紙面に入れて読んで分かるよーにしている。

 けれどもそれでも、やりよーによっては記事に見せかけて広告を載せて記事になったってことで広告先の価値を高めさせよーとする手法とは、また違った手法でもって別の新しい価値を作ることができるものらしー。12月28日付けの「毎日新聞」夕刊の4面、「ブランドが時代を語る。」ってゆータイトルで掲載された全面使った企画広告は、エディターに稲木紫織さんって人を迎えて「ブランドを通して明日のファッションを語る」ってゆー狙でもって作られたもので、紙面の半分から上を左右に割って左にフランスの高級靴「ベルッティ」を紹介し、右に日本が誇る真珠の「ミキモト」を紹介するハイセンスぶり。まさにブランドを通してセレブな暮らしの凄さ楽しさを語っている。

 ところが下の半分を使って紹介されているブランドが何故か「ユニクロ」。そーあの「ユニクロ」。ブランドって言って言えないこともないけれど、「ベルルッティ」に「ミキモト」と並べて語るには顧客層的にも値段的にもちょっと無理があり過ぎるよーに思える。「ユニクロ」的には高級ブランドと並べられたことに大きな意味があるかもしれないけれど、「ベルルッティ」や「ミキモト」にとっては逆にブランドの持つ価値を引っ張り下げられかねない危険性をはらむ。同じページに同じ「ブランドが時代を語る。」ってタイトルで、いっしょに紹介されることに「ベルルッティ」とか「ミキモト」はちゃんと納得したんだろーかって訊ねてみたくなる。

 紙面の中央に罫が入っているのがひとつ曲者でここで陣地が別れていて、「ブランドが時代を語る。」ってゆー企画広告はあくまでも上半分で、下は体裁とか良く似ているけれど上とは無関係な「ユニクロ」の普通の広告が入ってしまっているだけ、ってことだったりするのかな、そーだったらそれはたまたまな話で、別に「ベルルッティ」と「ミキモト」と「ユニクロ」を等しくブランドとして認めてるんじゃないって主張が、通るかどーかは知らないけれど一応は成り立つ。そー思って見ると「ユニクロ」の部分にはでっかく「iモード公式サイト」の案内がやたらに大きく入っていて、いかにも広告っぽい。

 もしかしたらもしかして、お金を出したのは「ユニクロ」だけで、「ベルルッティ」と「ミキモト」は「ユニクロ」の価値を引っ張り上げるために引っぱり出されて並べられたのかな、なんて妄想も浮かんでしまったけど、70年代の経営危機に広告側のお金が欲しいからあの会社の記事を小さくしてくれってゆー要請を「あんた新聞を何だと思ってるんだ」と蹴って報道機関としての矜持を保った「毎日新聞」が、そんな姑息なことをするはずがない。ひとつブランドとゆー概念の多様性を8万9000円の靴、38万5000円のネックレスに並べて1900円のシャツ、2900円のジップアップカーディガンを掲載することで表そーとしたんだろー。同じページに紹介されることを納得した「ベルルッティ」に「ミキモト」のその英断を心から讃えよー。新聞持参でショッピングに行っちゃおーかな。買いはしないけど(買えはしないけど、だろ)。


【12月27日】 自宅の今は懐かしいけど今も使っている94年購入「マッキントッシュLC575」が内蔵確か320MBで、これに外付けの1GBを足した1・32GBがまずあって、2年前に買ったシャープのメビウスが内蔵6GBで計7・32GBが今の今までの我が家の全ハードディスク容量だった訳だけど、今日買ったアイ・オー・データ機器のハードディスクドライブは容量が実に80GB。でもって値段は30000円弱と去年だったら信じられない(去年80GBなんてものが売ってたかどーかは知らないけれど)安さで、世の技術の進歩は早いってゆーかムーアの法則なんて目じゃないくらいに激しい法則が働いているってゆーか、とにかくも凄い時代になったもんだと感嘆する。久夛良木SCEI社長が入れ込む訳だよなー、まったく。

 2年前ならまずまずだった6GBも今じゃーデジタルカメラで撮り溜めた画像が積み重なっていっぱいいっぱいになってたんで、インストールした「USB2.0」とやらを使ってベシベシと移動、させてもさせても円グラフに1本の筋が入ってる程度にしか占有部分が広がらず、80GBってゆー容量の大きさを実感する。これだけあればあのゲームだってそのCDだって全部まとめて入れられちゃいそーだと思ったけれど流石にねえ、会社でエロゲ、やる訳にはいかないんでここは真面目にインタビューのデータをMP3だかに変換して記録して行くことにしよー。故・大川功さんの術後に復活の兆しを見せた大演説とかあったけど、どこに行ったかな、あと去年の方の角川春樹さんのスピーチなんかもあったと思うけど、ってやっているうちに、80GBだって昔の8GBどころか800MBくらいな感じですぐにいっぱいになってしまうんだろーなー。欲求の進歩は技術の進歩にも増して激しいってことで。

 ゾルゲは何十年来の共産党員だと確か「ゾルゲ事件」で特高に捕まって言ったらしーけど、中学生以来、やっぱり何十年余に及ぶ「ヒライスト」である所の当方、そのあまりに紆余曲折な執筆活動ぶりに逃げた人、思い出に代えた人の多々ある中でもやっぱり未だ抜けきらない部分があったみたい。なんで買ってしまったよ「月光魔術團 最終シリーズ」と銘打たれた平井和正さん著の完全限定予約販売品「幻魔DNA」を。ホントいうと「月光魔術團」も完璧に読み切ってはいないんだけど、ここで買っておかなければ多分永遠に紙の本としては手に入らないと思うと、「ヒライスト」の血に加えて限定モノ好きな血も騒いで、全6冊1冊3000円で最終巻のみ3500円、計18500円プラス消費税の合計19425円を郵便局に振り込んでしまいました。あーあ、これだから「ヒライスト」って奴は。

 平井和正さんのサインが1巻には入って平井さんの最新作「ビッグ・プレリュード」の新書版冊子がついて泉谷あゆみさんのポスターとかカレンダーがついて、ってなおまけもまあそれなりに魅力ではあるけれど、多数は存在しえないだろー本を手元に置いて愛でられるって魅力にはやっぱり勝るものではない。本好きな気持ちの結構な部分ガフェティシズムってゆーのもかなり分かる。どんな装丁で届くんだろー、楽しみ楽しみ。ちなみに平井さんのサインについてはこれまた大昔、何かの懸賞で平井さんの「ウルフガイ」か何かの講談社から出た高橋留美子さんが表紙とか描いていたって記憶している英訳版が当たった時、届いた本にサインがしてあったのを見たことがあるんで、もしももらえたら2つ目ってことになる。実家に置いて来てしまったんでどんなサインか思い出せないんで、改めてそのサインを見て生きてるんだ書いてるんだってことを再認識しよー、良い意味として、前向きに。

 「週刊朝日」の最新号でラモスの代わりにサッカーコラムを始めた人が金子達仁さんだったのにちょと驚く、行く所まで行ってしまったなー。相変わらずの中田英寿選手賛、フィリップ・トルシェ監督難って感じの論調はまあ仕方がないとしても、仮にもし、金子さんが「ワールドカップ」の運営状況に舌鋒の矛先を向け始めた時、果たしてオフィシャルスポンサーである所の「朝日新聞社」が出す「週刊朝日」でそれが掲載されるのか、って辺りはちょっと気になる。行く所まで行った人ならでの行った場所に留まりたいとゆー意識がさてはて、勝ってしまうかそれとも崇高な理念を押し切るか。同じ号にはラモスさんも登場していて喋っているけど、前の連載でも主張していたよーにやっぱりキャプテン問題について触れていて、今手元に雑誌が無いから分からないけど確か中田選手だったかな、それとも名波だったっけ、とにかくキャプテンの必要性について説いている、よーに記憶している。

 ところが。舌鋒の矛先になっている当のフィップ・トルシェ監督がジャーナリストのルイ・シュナイユを通して語った話をまとめた「情熱」(訳・松本百合子、NHK出版、1400円)を読むと、別にトルシェ自身がキャプテンとか置かない主義なんじゃなくって、今まではキャプテンに値する選手がいなかったため一頭抜けた存在を育てるためにいろいろな選手にキャプテンを任せていただけで、森岡選手がリーダーとして抜けて来た今は「森岡にはピッチ上でリーダーシップをとれる力があることがはっきりした。彼はまた、キャプテンの条件をすべて満たしている」(178ページ)なんて言っていて、代表選びにチーム作りが終わりにさしかかった中で、キャプテンもまた決まって来たみたい。

 ディフェンスの選手がキャプテンになるべきでフォワードにはフォワードって仕事の性格からキャプテンを任せられないって考え方の是非はあるかもしれないけれど、少なくとも「経験、責任、安定性は、ぼくの考えるキャプテンの3つの条件である」(179ページ)なんて言っているトルシェがキャプテン不要主義者であるはずもない。森岡を選んだことにラモスが満足するかどーかは知らないけれど、少なくともキャプテンを置かない、すなわちピッチ上の選手たちの自主性を信じない不遜さを衝くよーな意見は減って来るんだろー。

 「森岡とキャプテンの座を争う者」として現時点では川口能活選手を挙げていて、楢崎正剛に奪われかかった代表正ゴールキーパーが、ほぼ完全に川口に決まったっぽい印象を覚える。けどそこはトルシェ、「仲間を安心させるという意味でも優秀なキーパーだ。とはいえ、ぼくはまだ彼を安心させるつもりはない。彼にはさらに成長してほしいのだ」なんて言う辺りには、最後の最後まで手綱を緩めないトルシェの飽くことを知らず妥協をすることを許さない、積極的で意欲的なスタンスも読みとれる。一時期は地下鉄の公団だかに務めてそこのサッカー部からプロへと転じたものの大成せず、指導者として努力を重ねた人間だからこその理論と熱意なんだとしたら、華やかな舞台でエリート選手として大活躍した経験だけをバックにハートを語ってはみるものの、果たして大成するものなんだろーか、って疑問も浮かぶ。沖縄でチームを率いるラモスには、自らの活躍でもってそんな疑問を払拭してやってもらおー。


【12月26日】 世間では忘年会とかいろいろあるみたいだけど粗忽な偏屈には無関係な日々。それはさておき、昨日判決のあった「オルタカルチャー裁判」からついてあれこれ思考を巡らせてみると、発売とゆーワードのさてはて実態を見るべきなのかそれとも理想を見るべきなのか迷う所であって例えば、最近のゲーム業界で開発するディベロッパーと営業や流通を受け持つディストリビューターの二極分化が進んでいるよーな感じに出版業界でも、角川書店なんかを中核にして営業とか流通機能なんかをそこに集約して効率化を図ろうって動きが活発化していて、不景気にあえぐ出版業界のとりわけ中堅・中小出版社なんかが、出版社として生き残るために営業面やら流通面を委託するケースが増えている。この場合、「発売」ってゆー言葉が意味するのは取次なんかと大差なく、現にメディアワークスの本の奥付なんかを見ると、発行のメディアワークスの電話の宛先には「編集」って書かれて発売の角川書店には「営業」ってあって、それぞれに機能が別れている。

 判決はつまり、営業機能なり物流機能しか請け負っていなかった所でも中身には責任を持てってことになっていて、今朝の朝刊なんかを見ると主婦の友社の見解もその辺りがひっかかってるみたいで、後にあれこれ尾を引く可能性が残っているよーに見える。発売って言葉から感じる売る商品全般に目を光らるのが当然ってゆー認識と、実体面での機能のどちらをより重要視するかで判決は前者を採って至らない部分があったと判断した訳で、医薬品だったっけ化粧品だったっけ、製造元があって発売元が大手医薬品メーカーになっていたりする場合があって、もしもイケない製品が作られ売られ飲んだ人に支障が出たら、製造元だけじゃなく発売元もやっぱり非難されるのと同様に考えたら、なるほどそーゆー解釈も成り立つんだけど、ただしやっぱり情報を流通させるインフラなり、機能なりにまで責任が及ぶとなった場合の取次とか、書店とかいった部分への波及の可能性なんかを考えてしまうと、やっぱりモヤモヤとしたものが浮かんで消えない。

 不景気のなかで営業なんか置けなくなった出版社が編集に専念して良書でも権力を討つ書でも作ってそれを市場に出そうとした時に、発売元となって取次に本を卸すよー依頼された大手出版社が、大手故の柵なんかもあって後込みしてしまい、挙げ句に本が世に出なくなってしまう可能性にも想像を巡らせた上でなお、内容に問題のある本がちゃんとチェックされ、問題のない本なり世に問う必要のある本がちゃんと市場に出てくるために必要な理念なり、仕組みなりはどーいったものでそれをどー作るのか、発売元ってゆー言葉は単なる取次への口座のあるなしだとゆー認識を固めた上で本は発行元に全責任があるってゆー風にしてしまい、それを世間一般にも周知徹底してしまうのか、って辺りを考えてみないと裁判そのものの目的とは別の思惑から、押し合いへし合いが続きそーな状況の、打開は図られないんだろー。メディアと法律の専門化、出番です。

 「SFオンライン」が2002年の2月でとりあえずの休刊とか。とりあえずの休刊が現実の出版物の場合はほぼ完璧に永久の消滅を意味してたりするのは周知だけれど(その手で失った仕事ちらほら)、ウェブマガジンの場合はさてはて題字の登録とか取次での口座維持とかいった面倒な手続きは必要ないんで、あるいは簡単に復活しちゃったりするのかも。ブロードバンド時代に云々って休刊の辞に書いてあるのはちょっぴり気になるところで、書評に映画評にアニメ評といったものは元来テキスト上等なコンテンツであってブロードバンドにしたからといって別に書評子の朗読でもって評が読み上げられるよーになったりはしないし、仮にそーしてもらって果たして嬉しいかってゆーと微妙な所だったりするんで、ブロードバンド化の暁に復刊するかもしれない第2期「SFオンライン」の姿がなかなか想像できない。

 インタビューだったら映像もありなんだろーけれど、映像で見るインタビューって当たり前だけど飛ばし読みとかプリントアウトしての携帯とかが出来ないんで個人的には不便。映画のトレーラーを流して宣伝に一役買うって使い方はありだろーしアニメも以下同文だけど、それを「SFオンライン」の題字の下でやるべき話かってのもまた微妙なところ。名うてのファンなり関係者の膨大な蔵書なり玩具なりDVDにLDなりが積み上がった「おたく部屋」をVRMLでもって自在にウオークスルーできるよーにして、そのすさまじさをネット上で体験してもらうってのならやってみる意味の無意味の意味はありそーだけど、ゴミ袋とかペットボトルとかまで再現されてたら目にあんまり優しくないんでやっぱり難しいかも。CSのチャンネルっぽく番組的なニュアンスに検索機能も使えるデータベースがついたハイブリッドなコンテンツなんかを志向してるのかな。ともあれちゃんと復活するその日を期して今はさらばと言っておこう、ってまだ休刊までは2カ月あるんだけど。

 「SFオンライン」だとまだ、5年も出し続けるなんてホントよくやったよ、って気にもなるけれけど、こっちは流石にショックもデカい。大阪の夕刊紙でもたぶんそれなりに歴史を持っている「大阪新聞」が4月で休刊とか。公称で44万部って数字はウチくらいで且つ、80年とかの歴史は中核となってる「産経新聞」より古かったりする訳で、資産に至ってはウチなんかよりも段違いに持っているにも関わらず休刊させられるってゆー状況を鑑みるに、伝統とか使命とかいったものよりも重要視される要素が新聞の経営に入り込んで来てるんだってことが見えて背中にひたひたと迫る何かを覚える。ってゆーかどーしてあっちが先になってしまったのかって方が不思議に思えて仕方がない。

 東京は夕刊をなくしても大阪は残すっていった産経の主張は宅配での朝夕刊セットのそれなりな数字がバックにあってのもので、「大阪新聞」に仲間同士で喰われてたって訳でもなさそーだし、「大阪新聞」がなくなったからといって「産経新聞」の夕刊にシフトするかってゆーと内容面に差があるんで微妙なところ。一般紙の場合は夕刊の降版時間に協定があったりして午後3時の株価の終値を入れるのは難しかったりするんで、「大阪新聞」とか「夕刊フジ」にちょっとだけど利があったんだけど、そのあたりどーやって差配するんだろー。”新夕刊”を他の一般紙の夕刊とは違った位置づけにするのかそれとも「夕刊フジ」1本に固めてしまうのか。効率化はそれとして浮かぶマインドのぎくしゃくを吸収して良い方向に行くのかそれとも……ってあたりをちょっと注目して見ていこー、それまでこっちが保つって保証はないんだけど。


【12月25日】 段ボールを積み上げゴミ袋を両手に余るほど運んだ挙げ句に筋肉痛に襲われた、そんな体で真夜中「明石家サンタ」を見ることのさてはて、鐘が鳴るくらいの不幸なんだろーかと迷いながら、今年も1人きりのクリスマスイブを絶対に誰も来ないことを知りながら過ごす。途中コンビニエンストアに行って「カレーヌードル」を買ってメリークリスマス、チキンとかも売っていたけど流石に1パックだけを買って帰るだけの開き直りには至れない。人間まだまだ出来てないなあ。テレビは聞いていて母親の運転していた車にひかれて倒れた女性が個人的にはヒット、喋りが訥々としていながらも突然決定的なことを言う間の良さも聞いていて爆笑した理由か。飼っていた兎に乳首を噛みきられた男性の不幸、聞いていて脳髄に痛み信号が走りました。ウサギは食べちゃったのかなあ、その乳首、美味しかったのかなあ。

 寝て起きて一段と強さを増した筋肉痛の足を引きずりながら東京地方裁判所。ちょっと離婚の調停を……受けるに至る結婚とゆー前段がないんで無理なんでパスして、「オルタカルチャー」の記事を発端とした小谷真理さんと山形浩生さんの名誉毀損裁判の判決を聞きに行く。611号法廷は傍聴席も結構な数ある中くらいの部屋で、それだけの人数が集まるだろーってことを想定しての部屋指定なんだとしたら、裁判所もそれなりに注目してたってことになって、結論はまあ分かっている裁判だったけど、どんなロジックでもって判決を出して来るのかに俄然興味が沸く。到着すると待合い室に既に小谷さんと巽孝之さんが来ていたので挨拶、「SF入門」(早川書房、1500円)について一昨日と昨日、思って書いたことについて小一時間問い詰め、られはしなかったけれどとりあえず感想等について話をする。

 当方が最初に抱いた疑念は、「入門」とゆー言葉から想定された内容と、掲載されていた濃くて詳しくアカデミックだったり批評的だったりする現実の内容との乖離。どーゆー考え方からあーいった内容になったのか、って点ついては「SFマガジン」2002年2月号に掲載された編纂委員たちの対談からある程度分かったんで、その辺り伝えてはおいたけれど、「SF」を知らずどんなものかと手に取った人に対して概説をするのが”入門書”って当方の認識からは、やっぱり離れてるかなって気がしないでもない。「SF」と「入門」の間に「ファンのための文学」とか入ってたら、これほどまでに勉強になる本はないんだけど。佐藤亜紀さんの書いた「歴史改変小説」の項目の、架空戦記にも「高い城の男」とか「パヴァーヌ」とかいった具体的なタイトルにも触れず、歴史を改変する小説を書くことの矜持、みたいなことについて論じた文章は概説にはなってないけど批評としてはなかなか。でもやっぱり玄人受けする文章だよなー。

 さて裁判。主文の読み上げだけで30秒で終わるかと思ったら意外や裁判長が判決の理由を一部語って、やっぱりそれだけ意識した裁判だったのかってことを認識する。終わって小谷さんが言った「これで名前が取り戻せた」とゆー解放感あふれた声から想像するに、問題となった部分に果たして悪意があったかどーか、もしかしてふっと出た軽口だったのかもしれないってことは脇においても、当人にとっては名前を奪われ人格を否定されたに等しい言葉だったってことで、発する言葉が発した当人の思いとは関係なく、相手にどう受け止められるのかまで想像しないと、後でいろいろと起こるんだってことを改めて認識する。言葉って難しい。

 判決についてはすでに伝わっているよーに、名誉毀損が認められて山形さんとメディアワークスに330万円の賠償金が言い渡されたのに加えて、当時メディアワークスの本の発売元になっていた主婦の友社にも、抗議があったにも関わらず処置を怠ったってことで110万円の賠償責任が生じたことが、小谷さん側の弁護士にも意外だった模様。抗議があった、ってことがひとつ条件面で重要だったよーだし、メディアワークスって会社が自前で発売元になれなかった事情も主婦の友に類を及ぼしてしまったけれど、発売ってゆー行為に対して自覚を責任を促すってゆーポジティブな捉え方でするならば、それはそれで理にかなったもののよーな気がする。

 発売とゆー行為の重要性が判決での主婦の友社の敗訴につながったって部分がちゃんと咀嚼され、たとえばパブリッシャーではなくディストリビューターの部分にまで責任の範囲が拡大していって、印刷しない、取り次がない、売らないっていった川下の部分から支障が出て、表現活動にあれやこれやささくれが出てこないよーになってくれれば良いんだけど、プロバイダー法で情報を流通しているだけのプロバイダーにまで責任が及ぶよーになってしまった現状を鑑みるにつけ、今回の裁判では理にかなったロジックでもって出された判例が、規制をしたい側の論理にからめ取られて拡大解釈され、拡大運用されてこないとなかなか言い切れないだけに、今後の影響なんかをちょっと考えてみる必要がありそー。法律の専門化じゃないし出版も詳しくないんで、取次とか書店とかそれこそ所持している個人にまで責任が及ぶなんて、そんなことは絶対にないよー、って言う専門の人もいるかもしれないけれど、専門の人の無理筋とゆー声がかき消されてしまうのも、また今の政治情勢だったりするからなー。ちょっと意識しておきたい。

 慰謝料が330万円になってしまったのは、まー時代の流れか。「噂の眞相」でもちょっと前に特集されていたよーに、裁判官の勉強会があって以降、名誉毀損の慰謝料の額がそれこそ1ケタ上がってしまっているんで、その流れに乗ってひと昔前では吃驚の額になってしまったんだろー。確か清原がストリップに行ってないのに行ったと書かれた裁判では、1000万円の慰謝料が出てたっけ。スポーツ選手はともかく芸能人なんかの場合、有名人なら有名税と我慢するなり、普段は切り売りしているプライバシーと引き替えにするなりしろって意見があるし、また昨今の急激な金額の高騰は、スポーツ選手よりも芸能人よりもむしろ政治家のスキャンダル報道にプレッシャーをかけよーとする政治家のタクラミだって見方もあって、そゆー見方が出るくらいに報道の自由とのすりあわせが問題になっているけれど、こと個人については額が原告側にも被告側にも現実的な効果を与えるくらいならないと意味がないって意見もあるから、これも理にかなったものかなー、ってのが最近の慰謝料高騰状況を知った上での感想っす。4年ひと昔、まさしくドッグイヤーなネット時代ってことで。

 ネットと言えば意外だったのが謝罪広告の掲載場所。新しいメディアが山と出てきたとは言えいまだ権威としては機能している一般紙なりの新聞メディアの場でもって、謝罪を行いカタを付けるってゆーのが普通だと思っていただけに、ネットの上でだけ謝罪文を掲載するってゆー判決を、どー判断したものかちょっと迷う。慰謝料の額が上がってしまった上に新聞に謝罪広告を出せばそれこそ山をお金が必要になるってこともあってなのか、単純にネット上で意見交換が続いたんでそこでケリをつけろって判断だったのか、文章を読んでないからあんまり分からないけれど、ネットって場をある程度パブリックなものとして、そこに謝罪文が出ることを裁判所も重要だと認識しているってこともあるんだとしたら、ある意味でこれまたネット時代に相応しい判決ってことになる。どーなんだろ。

 直後の説明会とかで、判決の内容のとりわけ判断に重要だった部分を聞いた限りでは、事実ではないことを書いたとゆー点で間違いは間違いとして、それが名誉毀損になるかとゆー部分で裁判所はなると判断した、その理由がひとつにはフェミニズム批評のフィールドで活動している女性が男性だと言われることから生じる支障の大きさだったって部分がちょっと気になった。これをあくまで性の立場に依ってフェミニズム批評家なり自分の性に立脚して活動している人なりと限定的にとらえて、だからこそ実害があったんだと判断したものと見るのかそれとも、性別にあまり依らない一般的な作家活動をしている人にまで広げて考えても、十分に得られる判決なのかってあたりが分からなかったんで、今後の展開の中で解釈されているのを見守りたい。

 渋谷の円山町なんてピンクでパンクな街であった打ち上げを兼ねたパーティーにもゾロゾロ。SFの人は何となく名前を聞けば誰か分かるけど、編集の人とか大学の人とか批評の人とかにまでなると流石に名前だけではピンと来ない人もいて、裁判の及んだ広さを改めて知る。SF関係ではこれまでいろいろな場所で名前も顔も見ていた永瀬唯さんに挨拶。永瀬さんが作ったってゆー「わたしの句集」なるものを100円で買う。新宿じゃないんで首から下げた箱に入れては売ってなかったよ。

 自分で撮影した写真に俳句ってゆーか川柳ってゆーかどちらとも取れそーな文をつけたもので、句については分からないけど写真は中に何点か綺麗な作品があったんで、どーやって撮ったのかを聞くといわゆるコンパクトカメラでバシャリと撮ったものだとか。たぶん朝方のまだ暗い街と空の際がオレンジに染まって陽も少しのぞいているにも関わらず、そのはるか上の空はどんよりと青い雲の覆った写真の色合いなんか、見て感動しても撮ったら普通撮れないもの。とりわけ空の深いブルーが綺麗に出ていて羨ましく思う。荒川にかかる鉄骨のアーチがかかった橋は高橋玄さんの「レディ・プラスティック」に出てきた橋だな、多分。


【12月24日】 「SFマガジン」2月号がもらえる。ちょっと嬉しい。でも僕が買わなくなったあの店では(いつもバラバラだけど)、確実に1冊の「SFマガジン」が売れ残る訳で返品される訳で次から取り扱われなる訳で配本されなくなる訳で発行部数が減る訳で廃刊される訳……とまでは流石に一足飛びにはいかないけれどそれこそ風が桶屋を儲けさせるの論理、巡りめぐってもらいよーがなくなってしまう事態に至らないとも限らないとも言えないこともない。ので、まあ懐に余裕のあるうちは買おう。でも「あいまいみいストロベリーエッグ」のDVD買わなくっちゃいけないし来月からは「ココロ図書館」も始まるから懐も寂しくなるし。やっぱり有り難く頂いておこー。

 しかしまるで「SFアドベンチャー」、とまでは行かないけれど日本人の良い所がズラリ並んだラインアップは「SFマガジン」で育った大原まり子さん岬兄悟さん神林長平さん火浦功さん水見稜さんといった日本人の作品ばかりを読んで来た身にはちょっと嬉しい1冊かも。けど森岡浩之さん神林長平さん谷甲州さんといったあたりを除きノンフィクションではベテランな唐沢俊一さんも外すと、菅浩江さんも野尻抱介さんも秋山瑞人さんも高野史緒さんも藤崎慎吾さんも谷口裕貴さんも森奈津子さんもひかわ玲子さんも北野勇作さんもどちらかといえばノン・ハヤカワな人たちで、ハヤカワ生まれハヤカワ育ちな人で固めた80年代の「SFマガジン」を知っている身にすると、「SFマガジン」の新人発掘・送り出し機能の陰りはなかなかに寂しいものがある。

 その分ほかに山ほどの新人発掘・育成機能があるから良いって言えば言えるんだけど、月刊で唯一の専門誌を出していて”入門書”なんてものも出して王道だか覇道だか知らないけれど玉砂利踏みしめ「SF」のど真ん中を行く雑誌が何故、その看板のもとに新人にお墨付きを出せないか? って当たりのあるいは会社的に経済的なことなのか、それとも単なる王道覇道を歩む人に不足があるのかどーなんだろー。新人どころかベテランにだって「読者賞」くらいしか出してないし。それにしてもその昔にいろいろあった「日本SF大賞」の受賞第一作と表紙に刷って、北野勇作さんの名前を出しているのはなかなか。まあ直木賞芥川賞だって主体は別に文藝春秋じゃないし「新潮」「群像」に受賞第1作が載ることもあるから気にすることでもないのかも。だったらやっぱりこの際今一度、「太陽風交点」が徳間文庫から、「梅田地下オデッセイ」が早川文庫から出ないものかな、読みてーなー。

 それにしても秋山瑞人さんの名前を「SFマガジン」で見られるよーになるなんて、これが21世紀って奴か。秋山さんが書いてるってことは秋山さんはこの号を読むってことでその号に秋山さんお「イリヤの空、UFOの夏」のレビューとか、書いて読まれるのって書いた人的に嬉しいものかあるいは背中がムズ痒いものなのか。「SF入門」刊行記念の編纂委員による対談。「もっと広くカルチャー全般を咀嚼した上で、SFを創っていくべきだ」「逆説的にいえば、なぜSFに留まっているんだ」「SFとそれ以外の領域とを自由に行き来できたら、これほど面白いことはない」ってことは、もしかすると人をSFファンにする本じゃなく、SFファンを人に、は言い過ぎだけど真っ当な本読みにする入門書ってことなのか。だったら別に良いのか、あの作りで、うーみゅ。

 テレビを掘る。別に暗喩とかじゃなく物理的に崩れ落ちた本とCDとDVDをビデオテープに埋まったテレビを掘り出して何とか両方につなげたオーディオのスピーカーから音が響くよーにする。本は買ってきた段ボール箱に順繰りに詰め込んでいって部屋の隅に山積み、しよーと思ったら隅なんて可愛いもんじ収まらず、一角がどかんととりあえず購入できた13箱の段ボール箱に占領されてしまった。さらに言うなら13箱程度じゃ1割も片づけたことにはなってなくって、テレビ前がかろーじて開けて2年ぶりくらいに床が見えた程度で、ベッドサイドに机の前の尻の下および背中には、床上1メートルが浸水ならぬ浸本状態になっていて、いつ崩れるかの恐怖に怯える日々が依然、続いている。

 近所のロフトで段ボールが品切れになってしまったのと、歳なんで背中が痛くなってしまったので今日はテレビ前を開けて簡単にDVDが見られるよーにしただけで勘弁させて頂いたけれど、このままではエントロピーの法則から開けた床にやがて本が崩れ積み上がり熱死を迎えるのは必至、なんで月末の休みとかを利用してあと20箱は段ボールを積み上げて、とにかく何かの上に載らずにススッと歩いて入り口からベッドまでを行けるくらいにしよー。クリスマスイブにどーして部屋の片づけをしなければいけないか、って疑問はまあ、僕にとっては解答に困らない愚問なんで、頼む、聞くな。勝負パンツ、今年もはかなかったなあ。


【12月23日】 86年ってことは15年前? 登場からは5年くらいは経ってたけどよーやく普及する値段にまで落ちて来てたんで買った、自宅に置いてある今は亡き(まだありますが)「DENON」製のCDプレーヤーに、やっぱり買ってから14年くらい経つ今は亡き(まだあった……と思うけど)「Sansui」のアンプを繋いだセットに火を入れ動作を確認、ちょいCDプレーヤーにトラッキングを読み込めない不具合が発生していたけれど、動かしていると埃がとれたかバネが緩んだかグリスが融けたかして、どーにか可動状態になったんで、名古屋に来てまで何故買うのかと聞かれればそこにそれがあるからだとしか答えよーのない、「高島屋」の中に入ってたCD屋で買った「ココロ図書館」のサウンドトラックを鳴らして、その澄み切った音や魂を洗われるよーな声に心和ませる。東京に居よーと実家にいよーと変わらない暮らしをする、これが平常心って奴だな(違う)。

 のーてんきなこころ・あると・いいな姉妹の踊りが楽しいエンディング曲「月はみてる」が好きだったんだけど、フルバージョンが入ったオープニング曲「ビーグル」を聞いて、どこまでもアニメの世界にマッチしたその雰囲気に、こっちの方も好きになる。詩を読んで、ビーグルって曲のタイトルの理由になってる、となりの部屋の人が内緒で買っていたビーグル犬に5匹の子犬が生まれたってシチュエーションから、状況的にはなかなかにシビアなんだろーけれど(犬どーするんだ)、すやすやと眠りくんくんと鼻ひくつかせて母犬のおっぱいを探す子犬の可愛い姿が頭に浮かんで、詩にあるよーに一緒に見に行きたくなってしまった。良い歌と、良い演出良い作画良い声優良い脚本に恵まれた幸せな作品だったなー。このコラボレーションこのチームワークこのシナジーが○○とか××とかに出ていれば……くそっ。

 名古屋では平針駅で森博嗣さんの日記にときどき出てくる模型屋の「ラディッシュ」を確認(サトちゃんがいたよ)して、いりなか駅で前に「日本SF大会」に来た時にはあった「ペーパームーン」が看板だけ残して姿を消してしまってるよーに見えたのを確かめて、今池が「今池電波聖ゴミマリア」に出てくるほどには猥雑じゃなくなっててむしろこ綺麗になってしまって来ているのに愕然としたのが収穫か。名古屋駅前の「GLAY」のクリスマスツリーとか「高島屋」の中にあった「愛知万博」のピンズを100円で売ってるガシャポンとかもまあ、ネタに出来るかできないってところ。エスカ地下街の奥に味噌カツで有名な「矢場とん」の店が前からあったのかは知らないけれど出来ていて、Tシャツまで売っていたのにはちょっと驚いた。欲しかったけど東京じゃあ着ててもウケないからパス。「高島屋」のある口とは反対側の新幹線口から出て地下に降りた所にあるんで、是非に味噌かつって人は寄ってみてはいかが、味は名古屋的には保証しますが日本人的にはどうだろー。

 ってことで東京へ。途中新幹線では日本SF作家クラブが編纂したって触れ込みの「SF入門」(早川書房、1500円)を読む。以前、それこそ僕が生まれたか生まれてなかったかギリギリの1965年に同じ早川書房からミスターSFこと初代「SFマガジン」編集長、福島正実さん編纂による「SF入門」が出ていて、今回のはそれの”リメイク版”にあたるってことらしーけれど、語り継がれる福島版の栄光を思い起こしつつ、今回の2001年版を手に取りパパッと呼んだ印象を言うとするならば、面白くも興味深い小説が「SF」だと知った少年少女に「SF」の持つ長い歴史とか、「SF」の持つ可能性とかを教え啓蒙しつつ、世界にかくも素晴らしい「SF」があるんだってことを教える”ホワイトホール”的な役割を福島版が果たしたのに対して、2001年版はともすれば「SF」魔界へと人を引きずり込んでしまう”ブラックホール”的な役割を果たしてしまいそーな気がしてちょっと悩む、悩むってことはつまり”ブラックホール”にはポジティブ・ネガティブの両方の意味があるってことです。

 なるほど書いてあることはどれも正しいし為になる、既にSF読みとしてキャリアを積んだ人とか、SF読みのとば口に立って「SFマガジン」を読み始めている人になら。何十年にも及ぶ豊饒の歴史を改めて確認しつつ、そこに積み重なった数々の名作をひとつひとつ追っていくだけで後30年の読書歴はすぐに埋まってしまうだろー。けれども、未だ「SFマガジン」を知らず漫画なり、アニメーションなりヤングアダルトなり映画といったものから「SF」的な”吃驚仰天”で”奇妙奇天烈”な感覚を味わい、その旨さに反応した人を、編纂した人たちのゆー「SF」の世界に引っ張るだけの回路があんまり開かれているよーに、読んで思えないのが気にかかる。

 文章を寄せているおそらくは「SF」界の中核にある人たちの、今現在とゆー時代から「SF」的なものを見つけて「君たちが好きなのは”SF”なんだよ」と言ってあげて、「だったらこんな”SF”も読んでごらんよ」と誘いかける、「入門」以前に必要な電柱へのビラ貼り的活動のあんまりなされていない雰囲気が、挙げられた作品群のリストから感じられてもどかしい。ヤングアダルト系の1冊も入っていない「日本SF作家クラブ員が選んだオールタイム・オールジャンル・ベスト一覧」はつまり、この10数年のヤングアダルト大爆発も、SF作家の関心の範疇には届いていなかったってことなんだろーか。「ジャンル別ベスト結果」にしりあがり寿さんの1冊も挙がっていないのも解せない、って言い出すとキリがないんだけど、近年であってもその作品群は「矢車剣之助」や「日の丸くん」とタメ張れるものだと思うんだけど。あととり・みきさん「山の声」も。

 もっともとり・みきさんの表紙絵は、とり・みきさんとゆー人がどれだけ「SF」に多大な貢献をして「SF」ファンから敬愛されているかってことを知っている人には、目を向けさせるだけの効果を発揮しても、申し訳ないけれど、ジャンルとしての「SF」をそれほど意識していない人にとって、「SF入門」の装丁がどこまで可能性を持った表現としての「SF」の魅力を人に気付かせる入り口として、機能しているかは微妙なところ。メカとか美少女が良いって訳じゃないけれど、せめてスタイリッシュなメカに今時な美少女を廃して若い人を騙してでも「SF入門」に引っぱり込む色気が欲しかった。「SFってそういうものだったのか!」って帯を読んで、「だったら僕には関係ないや」と思ってしまう人がそれなりに、出てしまいそーな気がする。

 もっとも仮に「SF」とゆージャンルに興味を覚えて「SF入門」を手に取り読み込んでいく人がたくさん生まれてとしても、今度は逆にそこから再び外へと目を向けて、多様化するメディアの中で生まれている「SF」的なものを肯定しよーとする方向へと、思考のベクトルが向かわなくなってしまう可能性も考えられて悩ましい。「SF入門」に書かれた過去の名作群へと向かい読んで読み漁って読み込んでいったところで、そこから何かが生まれて来るんだろーか。「SF」により深く、より濃くなっていく人たちを「SF」魔界へと吸い込んだ”ブラックホール”から、果たして出て行けるんだろーか。ただでさえ内輪に閉じてしまっているよーに見られがちな世界が、さらに強固なものになってしまいそーな気がしてちょっと心配。とてつもなマニアばっかり生まれてしまうと、半端な当方の立っている場所がなくなってしまうんで困るなあ、ってのも半ば気持ちにはあるんだけれど。

 内外のオールタイム・オールジャンル・ベストに並んだタイトルの、1960年代生まれ以前な人たちにとってのどーしよーもなくエバーグリーンな様を見るにつけ、その世代に収まるものとして納得しつつも、もっともーっとときめき……じゃなかった「SF」を探そうって好奇心に、あんまり満ちてないなーって思えて仕方がない。もっとも心ある人、才能ある人なら過去に学んだ後でなお、新しいものを求めて道場を出て市井に優れた剣豪を訊ねて歩くだろーし、他流に試合を挑みこれを討ち負かして「SF」へと看板を付け替えるだけのパワーを発揮してくれるだろーから、まずはここで改めて「SF」の位置を確認しておくのも悪いことではないのかも。巻末の「日本SF作家クラブ」のメンバーリストを見ると、SF系の新人賞を取って1冊2冊出したまだ若い人も交じって来ているし、「SF入門」の中にはカケラも振れられていなったけれど、「エイリアン9」なり富沢ひとしさんを強烈にプッシュする東浩紀さんの名前もあるんで、そーゆー人たちが魔のSF”ブラックホール”に吸い込まっ放しにならずに、出て書き発言していってくれることに期待しよー。


【12月22日】 目覚めるとそこは宇宙に自在に行けるようになった未来。長引いたコールドスリープの影響で記憶に一部障害が出ていたため、少女は自分が誰なのかもどうして眠っていたのかも分からないまま、いつの間にやら背負わされていた莫大な借金を踏み倒し、太陽系を股に掛けて男と見れば騙しカジノとあらばかっぱぎ、犯罪者と見れば捕まえる立派な賞金稼ぎになりました……じゃない、それは「カウボーイ・ビバップ」のフェイ・バレンタインだった。桜庭一樹さんの「ルナティック・ドリーマーズ」の主人公の少女もやっぱり、宇宙時代になった50年後の未来にコールドスリープから目覚めるんだけど、とりあえず自分は誰かくらいは覚えていて、他の記憶もだんだんと思い出していく。

 ただし、肝心の記憶がどうにも思い出せなかったために、目覚めてすぐに謎の眼鏡男に襲われたと思ったら、次はやっぱり謎なロック野郎に拉致られるといった具合にとんでもない目のオンパレードに遭遇する。その記憶とは、月面の巨大娯楽ドーム都市「ルナティックベガス」を支配するためのコンピューターのパスワード。「ルナティックベガス」に君臨するボス一派は彼女が敵の手に落ちないように確保しようとし、ボスを倒してのしあがろうとする一派もパスワードを聞き出すために少女をさらおうとする。どうして少女はパスワードを知っていたのか。「ルナティックベガス」のボスと少女の因縁は。夢多き少女と少年の淡い恋が50年の時を経て月面に蘇り、厳然とした現実の重さを突きつけつつ、それでも見続けていたい夢の素晴らしさを教えてくれる。

 なんつってな。大意においてはそんな話なんだけど、少女が最初に助けてもらった表紙にも姿を現しているピンク色の髪の女性の、とりあえずの正体から真実の姿へと進む段取りに、どこか間の抜けた感じがあって読んで突っ込みたくなる、「志村うしろっ!」って感じに。加えて表紙に堂々と姿を現し、本文でも主役然とした登場の仕方をしているにも関わらずの名バイプレーヤーぶりに、意外性を覚えて首をコキコキしたくなる。守れといったその口が、自分を一番に考えてくれてなかったと知るや殺せといってみたりとめまぐるしく変わるのもなかなかダイナミックで、さすがは未来、キャラクターの思考言動を今の時代にあてはめ考えることの難しさを痛感させられる。

 ボスを倒して成り上がろうとする幹部のロケンロールな感じとか、そんな幹部を絶望の淵へと叩き込む少女の語ったメルヘンまみれな思い出の言葉(「これは僕の最初の恋。そして……最後の恋だよ、寿麻。ああ、だから君は僕の恋の母であり、同時に恋の墓標でもあるんだ。寿麻……僕の寿麻」ってな感じが延々)とか、読んで笑えるシーンもそれなりにあって楽しめることは楽しめるんで、未来に目覚めて戸惑う少女になり切った感じで、台に乗せられあちらこちらに運ばれた挙げ句に大団円を迎える展開を、気軽に味わうのが良いのかも。

 「サクラ大戦」の舞台挨拶を見に行く、って帰省してまでそんなことしなくても良いのに、歳も歳だしって思わないこともないけれど、昨日の夕刊に映画の広告が出ていてそこに「東映パラス2で13時半から舞台挨拶」なんて案内があったのを見てしまった以上は、行くのが”道”ってもんだ、ジャーナリストの、オタクの、日記者の、出没家の、名古屋人の。名古屋人は関係ないか。けど10時半の開映まで1時間ちょっとの余裕を見て到着した「東映パラス2」には、すでに長蛇の列が出来ていて、おまけに劇場が定員140人と究極的に狭かった関係で、入るとすでに満席立ち見の状況。アニメ映画は初日に初回を見るんだってゆー、”道”に生きる者には当然の行為において、東京人に優るとも決して劣ってはいない名古屋人の心意気を、目の当たりに出来て嬉しくなった。素晴らしかった。感動した。おかげで待ち時間込みで4時間床で座り見だよ。尻が痛いよ。

 さてまずは「あずまんが大王」。がーん、とかばーん、といった場面転換の間の良さは原作ゆずりで見ていて楽しいし、動く部分での動きっぷりもなかなかで、短い時間ながらもたっぷりの爆笑気分を味わうことができた。「ちよ父」のたぶんムダに3DCG使ってるエンディングとか楽しいたのしい。大人料金1800円のここまでで600円はとった気が。続いて「デ・ジ・キャラット」。はははははははははは。いや可笑しい、もう面白い。リク、カイ、クウの「悪(あく)ですからなー」ぶりも相変わらずなら、でじこの「目からビーム」ぶりは劇場だけあって5割増量って感じ。ぷちこにうさだにゲマにぴよこ暴れん坊にアメリカおたくの登場と、スターたちのスターぶりも楽しめて、これだけで800円は元をとった気になった。藤田和之の「でじこ父」とか上手い下手関係ないんで結構いい感じ。実顔とのギャップ激し過ぎだけど。

 「スレイヤーズ」。うーん「スレイヤーズ」だ。ガウリィは莫迦だしナーガは間抜けだしゼルガディスは役立たずだしアメリアは賑やかしだしゼロスはいるだけ。でもってリナはやっぱりリナってゆー、そんないつもながらのキャラクターたちがおりなすドタバタを短い時間に幕ノ内弁当よろしく詰め込んであって、見ている間は楽しめる。「ムネナシ」って言われて怒るリナだけど画面だとそれなりに膨らんでるよーに見えるんだがなー、冒頭のさらし姿からのぞく微妙な谷間なんてサイコーなのに。もっとも名前忘れたけれどリナたちに協力を求める白魔道士の少女と比べると差は一目瞭然なんだけど。タコの足って切ってもまた生えて来たっけ? 300円分はとったかな。

 足してここまでで1700円。ってことは「サクラ大戦」は100円分で十分だったりするんだけど、見終わった感想は1800円分、つまりはすべて「サクラ大戦」でも元をとった気にさせられるくらいに良い出来で、キャラクターだけ出してれば良いじゃん的映画に止めず、むしろ映画なんだからサイコーの物をってな意気込みが、作品の端々から感じられて、関わった人たちの「サクラ大戦」にかける想いの強さに胸を打たれる。舞台挨拶に出てきた高乃さんだか横山さんが、初号試写でスタッフの大勢詰めかけている姿に作品への関心の高さを感じたとかって話していたけれど、なるほどこの出来だったら完成したのをいち早くみたいって気になるのも分かる。

 「サクラ大戦3」でも使われてた、3DCGでモデリングした後でその動きを2Dに1枚1枚描き直して回り込む場面なんかを表現する技術が、映画でも冒頭のレビュー場面に使われていて、なるほどこの動きは凄いと感心する。全体に動きが柔らか過ぎて、ダンスのキレめいたものがスポイルされていた気がして戸惑ったのも事実で、バミってある場所から1歩も動かず、大階段で振りをこなし続けるのってヘンじゃんとか思ったけれど、広井王子さんが言う「アイディアは浮かぶけど面倒なんで誰もやらなかった」ことを、クリエーターたちにやらせてしまくらいに可能性を持った魅力のある技術、なのかもしれない。他の場面の2Dと3Dの合成は、暗い場面とか多くしてあった感じもあってなかなかなマッチぶり。スタジオによるのかもしれないけれど、技術ってやっぱり進歩するものなんだってことを目の当たりにして感動する。

ストーリーは見てのお楽しみ。言っておくなら反グローバリゼーションで反テロ・反報復戦争なニュアンスをそこから感じ取る人も多そーで、もちろん9月11日のテロ以前からスタートしている企画なんで無関係だとは思うけど、個人的にはそのあまりの合致ぶりにもしかして広井さんほか制作陣、世界に迫っている危機を予見して警鐘として「サクラ大戦」を作ったのかも、なんてオカルトチックな気持ちが浮かんでしまった。迫力たっぷり感動もいっぱいのバトルが終わってオールスターキャストによる劇中劇のシーンになって、ちょい間延びかな? なんて感じたけれど、見ているうちにむしろこれが本当に言いたかったことなのかも、って思えて来て感動のボルテージがさらに上積みにされて、良い気分のままエンディングを迎えられた。地べたで座り見でも楽しめたけれど、また行って今度はシートでゆったりしながら感動に浸ろー。「あずまんが大王」の笑いにも。

丸いまるい歩道橋。100周走ってから告白すると結ばれるとか(結ばれません)  しかし地べたで4時間くらいでガタガタ言っては広井さん以下舞台挨拶に来名した面々に悪いかも。何でも昨日に大阪でディナーショーをダブルヘッダーでこなした後、打ち上げを午前4時までやってそれから眠ったか起きたまんまだっかは知らないけれど、8時には起きて9時半の大阪での舞台挨拶をこなしてから多分新幹線へと飛び乗って名古屋入り。それから「パラス」と名古屋駅に「グランド」だかをハシゴして舞台挨拶をこなすとゆー強行スケジュールは、たとえ宣伝の為とはいっても並の思いだったら多分体が受け付けない。その辺にも作品への想いの強さが伺える。徹夜明けの寝不足な人にありがちな、妙に明るく饒舌な雰囲気があって良い感じに壊れていて、楽しいトークが聴けたのも吉。広井さんたちほどじゃないけど、帰省の最中に年甲斐もなく初日初回に駆けつけた甲斐があった。これだから”道”は捨てられない。この歳まで残ってるってことはもはや捨てられるものでもないんだろーけどね。

 大須じゃなくって「東映パラス」から歩いて5分の錦3丁目にあった「ゲーマーズ」に寄って繁盛ぶりを確認、名古屋でも「でじこ」、奉られてます。「ヨコイ」でたれスパを食べ地下鉄を乗り継いで原まで戻って「ジオブリーダーズ」に出てきた黒猫とまやが上で話してた円形歩道橋を確認、やっぱり無駄に丸いなあ、道路とかまだ開通してないし。その側にある「キャプテン」ってゆー玩具屋で甥のために玩具を購入してふと見ると、箱に入った新品の「バーチャルボーイ」が9800円って値段で売られてて仰天する。おまけに横には対応ソフトが6本だかセットになって「バーチャルボーイ」の付属品なんかも付いて9800円ってゆーパックもあって、まとめて購入したい衝動が浮かんで激しく迷う。金ないし持って買えるのも思いんだけど、今買っておかないともうお目にかかれる機会も無いだろーし……どーしよー。


【12月21日】 主題歌を端折ってのスタートに、まるで最終回かと思ってしまった「ココロ図書館」。こころ・あると・いいなの姉妹による波動法的衝撃を持った挨拶「にこにこりん」をあっさり且つ無粋に無視して「ココロ図書館」を廃館するなんて悪ダクミをめぐらす市長に対抗すべく、こころちゃんがヒントを見つけようと読んだ父親の日記の内容を、再現映像っぽく流したのが今回の話。とりあえずは現代を軸にそれほど離れていない時代の、どこか架空の街を舞台にしたほのぼの系の物語だとずっと思っていたんだけれど、父親の日記から明らかにされたいろいろあって大変だった過去と、それから現代では考えられないテクノロジーの描写に、単なるほのぼの系じゃない結構奥行きのある世界だったんだってことが見えてちょっと吃驚する。原作とかあんまり読んでなかっったんだけど、これって漫画でもある設定なんだろーか、それともアニメーションにオリジナルの設定なんだろーか。やっぱ読んでみよっと、あの身にまとわりつくまったりさ、あの目に突き刺さるよーな絵柄の眩しさに耐えてでも。

 名古屋行きの新幹線に乗っていよいよこれがシリーズ完結となる「フェアリーランド・クロニクル 母の力」(嬉野秋彦、集英社スーパーダッシュ文庫、571円)を読む。完結編なのに表紙が主人公で美貌の騎士のサイフリートじゃなくって、彼とはライバル関係にあるマザコンながらも剣の腕前には凄まじいものがある魔人のシャリオくんと、同じく魔人の娘で眼鏡っ娘なベルルールなのは何故? っていぶかしく思ったけれど最後まで読んでなるほどと納得、なるほどそーゆー展開にしてしまったかと嬉野さんの筆の滑りに感嘆する。剣の腕は一流で女性にはとことん優しい性格を持った主人公のサイフリートに、ライバルとして斬った斬られたの戦いを繰り広げるシャリオ、サイフリートとシャリオの間でゆれ動くベルルールといったキャラクターの配置と軽薄さを装った文体から、いかにもな展開を見せた果てに大団円を迎えるのが当然と思っていただけに、この結末はやっぱり意外に映る。

 詳しくは読んでもらうとして、慄然とするのは人間でも妖精でも魔人でも、育て方ひとつによっていかようにもなってしまう心の難しさって奴で、そのひとつの”成果”ともいえるサイフリートの、血筋とは案外無関係な性格のとてつもなさにちょっぴり暗澹とした気持ちになる。一応は綺麗なエンディングは迎えるんだけど、そこに漂う閉塞感、虚無感は正直言って身に堪える。もっともそれはサイフリートの物語として読んだ場合で、完結編の表紙で堂々の”主役”を張ったシャリオくんとベルルールの物語として読めば、広がる未来があって希望もちょっとだけ見える。妖精の騎士じゃなく魔人の物語に希望を見出さざるを得ない転倒ぶり、うーん嬉野さんもなかなかに人が悪いなあ。

 サイフリートがあんな奴だった以上はもはや続きは期待できそーもないけれど、シャリオとベルルールが選んだ道を発展させていてけば何か新しい展開も見えそーな気が、ってゆーか表紙や121ページのイラストでとてつもなく素晴らしいヒップラインを見せてくれているベルルールとこれでお別れなんて絶対に認められない。イラストの米村孝一郎さんに再びの健筆をふるってもらうにも、嬉野さんには是非ともベルルールが見かけによらず遙かに年下のシャリオくんの尻を叩いて頑張る話を、書いてやって頂きたいもの、です。歳は相当なのに見かけは幼女な眼鏡っ娘の妖精ギシャールちゃんの活躍でも全然オッケーだけど。

 名古屋行きの新幹線でさらに読書。「星くず英雄伝」で電撃文庫的には知られた新木伸さんがエンターブレインの「ファミ通文庫」に初お目見え。題して「あるある夢堺学園 さすらいの転校生」(エンターブレイン、660円)はヤングアダルトでも漫画でもアニメーションでも”ありがち”な設定をモロ取り入れて増殖させておかしみを狙ったエンターテインメント。何しろ表紙に「学園スーパー<ありがち>コメディ」って書いてあってさらに「『ありがち度』当社比200%以上」てtるんだから、その”ありがち”ぶりは押して知るべしってとこで。けどエンターブレイが比較にした”ありがち”って一体何だろー、まさか「超革命的中学生集団」ってことはないだろーけど。

 いや「超革中」は例えが古すぎるし設定も全然違っているんだけれど、転校して来た学園が実は異能者の集まりで(鉄道マニアやクラシックマニアが超能力者や忍者と同レベルの異能ってのはなかなかに妙だけど)、そんな異能を駆使して学園を乗っ取ろうとたくらむ集団があってそれに対抗する集団があるってな設定に登場する、人心を操ったり爆発的な力を発揮したり(東京ドーム級、とか)する異能者たちのドタバタチックバトルってなると、最初に刷り込まれた「超革中」をやっぱり思い出してしまう。サイフリートじゃないけどやっぱり教育にはとてつもない力があるなー。

 内容はやっぱり”ありがち”で、読んでまあ楽しめることは楽しめる。ただ”ありがち”を全面に出しているからにはそれを逆手に取った展開とか、あるいは暴走とかを見せてくれているのかと思ったら割に普通に”ありがち”だったんで、気勢がそがれてしまったところもなきにしもあらず。直前に朝日ソノラマから出た「真拳勝負」ってゆー、学園を舞台にした格闘モノを読んでこれが意外やとてつもない暴走ぶりをシレッとした筆致で見せてしまっていたこともあって、比べて「あるある夢境学園」がフツーに思えてしまったったのかもしれない。まあ1巻ってことでここから一段の爆裂さを見せていってくれれば良いってことで、期待しつつ心配しつつ次を待とう。イラストはかねこしんやさん、「星くず」じゃないけどやっぱりパンツ、見えてます。

 ってな訳で名古屋着。大晦日には「後楽園ゆうえんち」で鳥肌実さんの餅つきを見ないといけないし、大晦日イブには行ければ「ロフトプラスワン」でガース柳下さんのお誕生会に行ってパイが投げつけられる瞬間を目撃しなくちゃいけないんで、ちょっとだけ前倒しで帰省したって訳で、降り立つとそこに出来上がっていた「高島屋」にまずは吃驚。立派な内装と集まった人の数を見るにつけ、名古屋の中心が栄から今は名古屋駅へと移って来たのかもって思えて来る。もっとも銀座より渋谷より秋葉原が東京の中心とゆー人間には、綺麗になったって「高島屋」があるからって名古屋駅なんて無関係、いわゆるその筋の人がいっぱい集まっていてこその繁華街って訳で、大阪に行った時にやっぱり日本橋へと出向いたよーに、時間があったらのぞいてみよー、大須あたりを。ところで「ゲーマーズ」って大須にあったっけ。


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