縮刷版2001年11月中旬号


【11月20日】 どんなに壮大稀有な話でも主軸のテーマにピタリとおさめて読む人を感嘆させる萩尾望都さんには珍しく、どこかとっちらかった印象もあったけどだからと言って決して面白くない訳じゃなく、むしろだからこそどこに連れていかれるか分からない感じが面白かった「あぶない丘の家」(小学館文庫、800円)が最初の発行元だった角川書店じゃなくって萩尾作品の文庫化を続けている小学館から登場。550ページとゆー超大なボリュームの割にはリーズナブルな気がするお値段ってのはそれだけ売れるって見越しての設定か。いやまあそれはともかくとして久々に読んでやっぱりとっちらかってる印象を受けて、それでもやっぱり面白くって流石は萩尾さん何時の時代にも手抜きはしてないなーと感嘆する。ノストラダムスでパソコン通信でタイ米ってのは流石に今読むとあれこれ思うところもあるけれど。

 あぶない丘の上に立てられた家に住む奇妙な兄弟をめぐる不思議な出来事の真相が明らかになる第1エピソードはともかくとして第2エピソードで主人公が突発的に過去へとタイムスリップしてしまってそれも時間は前後せず間をおいて確実に後世へと流れるよーなスリップの仕方をして、源義経と頼朝の兄弟が出会い共闘し仲違いしていく過程に絡んでいく展開が今にして思うとなかなかに唐突。でもって第3エピソードにいたってはピカピカと光る自転車でやってきた不思議な少年が何やら地球の滅亡を予言して主人公とかその少年の従姉妹にあたるらしー兄妹に絡む展開で、最初のどこか伝奇っぽかった雰囲気が微塵もなくなり得体の知れなさで第1エピソードの中心にいたアズ兄もググッと影が薄くなってしまってもう何がなんだか分からない。

 けどそーいった展開も主人公と謎のアズ兄を一種狂言回しにして兄弟の諍いに地球の運命なんかを描いてみせた話をして読めばなるほど面白く、源氏の話のエンディングに見える頼朝の幼少期の実に寂しい心象風景にはちょっと涙もこぼれて来るし、第3エピソードのエンディングも無茶するなあとは思うけど、落ちつくところに落ちついた感じもあってこちらは心温まる。そーゆー意味では個別のエピソードは流石に萩尾さん、キッチリと締めてくる。気持ち的にはだったら同じ狂言回しの兄弟を軸に別の時代の別のキャラクターたちが織りなすドラマも見せて欲しかったって気がするけれど、この後に20世紀を締めて21世紀も拓いた傑作「残酷な神が支配する」が続いたと思えば、「あぶない丘の家」が一種気持ちの息抜きになっていたとも考えられるんで、終わって頂いてやっぱり正解だったんだろー。アズ兄ならぬアズ姉には個人的にはもっと活躍して欲しかったところ。いつか再会、しないかな、しないよな。

 あとがきは森博嗣さん。もう見事なまでの萩尾望都さんへのベタベタぶりを発揮しいていて徹頭徹尾賛辞の言葉に埋め尽くされていて、読む程に気持ちが悪くなるかと言えば全然ならない、だって僕だって書けばきっと同じよーなことを書いただろーから。通常は締切まで2カ月ない仕事は受けない森さんが1カ月程度でも受けたって話が書いてあって、なるほど相当に参ってるなーって印象を持ったけど、だったら例えば他のどんな仕事でも、萩尾望都さんにかこつければ受けてくれるのかなってことを考えてしまった。宗教だったら「百億の昼と千億の夜」に見るブッダやイエスの欺瞞ぶりとか、肥満だったら「フラワーフェスティバル」のタマコのスタイルに見る原初の美への賛歌とか、幼児虐待だったらそれこそ「残酷な神」に描かれた物語が放つ抜きがたい魅力といった感じ。

 まあ多分とゆーより絶対無理だろーけど、だったらいっそ萩尾望都さんリスペクトな話を無制限でどうぞって話にしてもちかければ、あるいはやってくれちゃったりするのかな。ちなみに森さん当人によれば「今も萩尾悪品の真似をしているにすぎない」そーでジャンルは「萩尾望都」とのこと。何でも「第40回日本SF大会」で「萩尾望都はSFですか」と聞いて「そうだ」と答えられた(誰だろ答えたの?)そーで「それなら、SFを書きたい」と口から言葉を思わず出したとゆーくらいの萩尾望都さんリスペクターだけに、本格ミステリィ作家がSF作家になっていったところで目指すはやっぱり「本格萩尾望都作家」ことになるんだろー、っていったいどんな作品が「本格萩尾望都」なんだ? まあそれはそれ、今は「多くの人に気付かれていな」くっても、やがて誰が読んでも「本格萩尾望都」な作品を世に問うて、日本萩尾望都大賞だか萩尾望都文化賞だかを受賞して手に「とってもしあわせモトちゃん」の縫いぐるみを抱えてニッコリと微笑む姿を見せてくれることだろー、期待しよー。

 例えば犀川創平と西之園萌絵のどのへんが萩尾望都さんなんだろーかと考えて、けれども忌野清四郎な創平を浅田寅ヲさん描く「すべてがFになる」(ソニー・マガジンズ、620円)で見せられちまった今となっては容易に信じがたいところだけれど、代わって三浦しをんさんの「白蛇島」(角川書店、1900円)って小説は、登場人物の雰囲気といー設定の幻想的な部分といー、「本格萩尾望都」にどこか重なるよーな風情があって読んでいて絵が目に浮かんで楽しめる。絵で言うなら日本が舞台になっていて海とか結構描かれていた「海のアリア」みたいな感じだったらなおハマりそー。でも今市子さんでもやっぱりハマりそーな感じもあるからなー。つまりはそーいった感じの小説です、耽美と幻想。

 かたや自分の人生に悩む繊細な少年で、こなた細かいことは余り気にせず友情に熱い少年とゆー2人の高校生の若者が、義兄弟みたく仲がよくって以心伝心みたいなところがあってピンチに際して助け合い、そんな2人を繊細な少年の方のやんちゃな妹とか、妹の友人でひそかに繊細な少年に恋心を寄せる美少女とか、氏神さまの跡継ぎながら実直さの割に肝心の才能をあまり持たない兄と圧倒的な才能に溢れながら長子承継の掟もあって潔く身を引こうとしている弟の2人とか、その弟い付き従っている謎の青年とかいったキャラクター設定がなかなか魅せる。加えて舞台となっている古い風習が今も色濃く残る島の民俗学的社会学的な部分も含めた設定も固く決まっていて妙なリアリティがある。

 義兄弟の契りとか、長男しか島にいられないとかいった古い因習に縛られている割には、一部の人を除いてその思考には現代らしくくだけたところもあって、結構ドロドロとした事態が起こる割にはあんまりトーンが暗くならないのも読んでいて気持ちにフィットする。ミステリーともファンタジーともつかずどうちらとも言えそーな展開がジャンルの枠にはめたがる読書の世界でどう捕らえられるか興味があるところだけど、だったらやっぱりいっそのこと、「本格萩尾望都系」とかいって森博嗣さん含む「本格萩尾望都作家」の作品と並べて紹介してしまえばジャンル間で取り合いしなくって楽かも。問題は他にあるかだよなー、「本格萩尾望都」作品が。


【11月19日】 チョコレートの中にフィギュアが入るのは言うに及ばず、キャンディーに妖怪フィギュアがおまけについてペットボトルに得体のしれない深海魚のボトルキャップがついて、ゲーム会社までもがピープロなんて知る人ぞ知る会社が生みだしたヒーローのフィギュアのついた菓子を売り出す昨今、どんなキャラクターがどんな形でどんなところから登場しようとそれほど驚くことはなかったけど、セイカってキャラクターのノートで有名な会社が近く発売するとかゆー商品を見た時にはちょっとばかり驚いた。

 キャラクターのハンドリングに長けた会社でおまけにバンダイの傘下に入った会社だからといって、あの「機動戦士ガンダム」のフィギュアをそれも鉛筆削りにつけてしまうとは、言われればなるほどと思うけれど言われるまではちょっと気付かなかっただけに、世の中にはいろいろと面白いことを考える人がいるもんだと改めて商売の道に凄さ厳しさを思い知らされた。なるほどボトルキャップの下の丸くなった部分は確かに鉛筆削りが入っていたって違和感のない形をしているけれど、そこに気付いただけでなく商品として作ってしまえるところが文房具メーカーだけのことはある。

 加えてバンダイお得意の造形力に企画力が活かされたフィギュア部分の妙。レギュラー20種類にプラス2種類のシークレットが用意されているとかで、パッケージを見ただけでは当然ながら判別できなくって、ガシャポンよろしく買い込んではダブったシークレットだと言って文房具屋さんとかコンビニエンスストアとかで大騒ぎしているガンダムファンの姿が今から目に浮かぶ。フィギュアは一般的なモビルスーツが連邦軍ジオン軍ともに用意されていて、「ガンタンク」なんて砲塔が別パーツになっていたりしてガシャポンの技術も活かされているっぽい。「アムロ」に「シャア」もちゃんとある。「ジョブ・ジョン」はないよ。

 モイルスーツだと「ザク2」に「ゲルググ」は量産型と赤い「シャア専用」もあるみたいで、「シャア専用は3倍研げる」とかいって鉛筆を削る人が全国のどこかにきっと出て来そう。「ギャン」で削るときは「この鉛筆はいいものだ」と言うとか、「ビグザム」だったら「削れはせんぞー」と叫ぶとかするのかな。削り滓を指さして「あえて言おう、カスであると」と言えなさそーなのが現時点では残念だけど、その辺もしっかり考えているみたいなんで頑張って揃えよう。

 意外な取り合わせって意味だとナムコが朝霞にあるジャパンエナジーの石油タンクで展開する「ミスタードリラー」屋外広告もちょっと意外。そりゃまあ確かにあの巨大な面を広告に利用しないって手はないけれど、石油に関係のある会社はもちろん生活雑貨や食品といった広く世間に浸透している商品じゃなく、エンターテインメントの世界では名が知れていても一般にはまだまだだったりするナムコが真っ先に手がけたってのが意外性に拍車をかけている。

 まあ前にラーメンのノリに「鉄拳」の文字を入れてラーメン屋で出したこともあった会社だから、意外性だけを狙っていろんな場所を探していたのかもしれない。「ミスタードリラー」だったら「掘る」が石油採掘に結びつかないこともないんで、石油タンクを選んでの広告も意外性は意外性として案外とハマったものになるのかも。個人的には現在は交渉中とかゆーガスタンクの「パックマン」化が見たいところ。後はどこが続くかだけど、さすがに「ボンバーマン」の広告は石油タンクには向かないかも。

 西炯子さんの「三番町萩原屋の美人」の14巻は、物静かな仮面の下でご隠居に激しい敵意を燃やすトモジによって萩原屋がピンチを迎えるエピソードのクライマックス。ご隠居のモノクルの下がどーなっていてどーやってそーなったか、とかいつもニコニコしている禅二郎がその昔いろいろやっていたこととかが明かされていて長いシリーズの中でもターニングポイント的な位置づけになっている。

 ちょい前の洋行のエピソード以来、すっかり影の薄くなった誠一と島田だけどけど、それよりさらに影が薄いタイトルにある「美人」つまりはアンドロイドのいくさんが久々に”活躍”したのもチェックポイント。ひとまずは落ちついたエピソードがさて、次にどーなっていっているのかは知らないけれど、口絵のカラーページの「下は黒フン」「下は赤フン」な島田×誠一もなかなかにアレだったりするし、あるいはいよいよ本領発揮でそーいった方向への展開が……ねえな、「三番町萩原屋の美人」に限っては。「全自動○×」ちょっと欲しい。


【11月18日】 メイドさんてゆーかウェイトレスの女の子がいて美人で実はロボットだったりして、美少女がいて同級生らしい男の子の転落事故に関わっているんじゃないかと疑われていて実は人になかなか話せない能力を持っていて、青年がいて性格はぞんざいながらも観察力と推理力に優れていて、そんな人たちに囲まれての「徳間デュアル文庫」というパッケージで出た三雲岳斗さんの「ワイヤレスハートチャイルド」(徳間書店、505円)の力点を想像するなら、ウェイトレスが美少女で青年なんかも絡んでぐちょぐとでぬとぬとは流石にいかないけれど、優柔不断な主人公を囲むロボットウェイトレスさんに頭脳明晰青年の活躍で薄幸の美少女が救われ最後は立派な所を見せた優柔不断少年とくっつく、なんて話になっていて不思議はないしそうなって当然のよーな気もしてた。

 けど読んで読み終えての感想は「どーしてロボット?」「美少女の特殊な力の意味は?」等々頭に疑問のランプがペカペカ。基本線としては転落事故の真相さがしとゆーミステリー仕立てのストーリーがあるんだけど、ちりばめられた設定にガジェットの類がたとえなかったとしても充分に解決可能だったりする真相のよーに見えなくもなくって、仮に一種のミステリーとしてとらえた場合、余計なデコレーションがいっぱい乗せられ過ぎていて、読んで不思議に思う人とか出て来そーな気がするし、SFとして見ると今度は散りばめられたガジェットなり設定が物語世界の成り立ちにそれほど意味があるよーにも見えなくって、どちらかといえばキャラクターの属性に留まっている気がして、派手な割にはおとなしめの印象を受けた。

 もっとも考えるにロボットのウェイトレスが日常的に働いている世界だったら別にロボットのウエイトレスなら必ず明晰な頭脳かパワフルな腕力でもって事件を解決しなくてはならないとゆーことにもならないし、特殊な能力を持った美少女だって存在するならするで別にその力でもって事件を解決するなり逆に事件の原因になってしまう必要も案外となかったりするのかもしれない。いろいろな人たちがいて進んでいく日常のほんのひとかけらを掬って、そこに繰り広げられた恋とか友情とかいった淡い日常の機微を読んでジンワリとさせられる物語なんだと思ってかかれば、なるほど描かれた展開の中で動くキャラクターたちの言動から、我が身に振り替えて人を信じる気持ちとか、人から好かれる気持ちとかいったものへの対処の仕方を教えられる。

 「青春ミステリー」と裏表紙にあるあらすじ紹介で言っているのもなるほどといった感じの物語。切れる青年の秋水にはまたの活躍を期待したいところで、自意識過剰で優柔不断気味な今時の若者代表を行く主人公の宮城とのコンビに、ほんわかとしたロボットウェイトレスのなつみさんも交えてキャラ萌え要素を打ち出しつつ、青春って何だこれが青春だを感じさせるよーな物語をシリーズで出していって頂けたら嬉しいかも。何が出来て何が出来ないか、ってあたりでのロボットに関する設定とか、トリックとゆーか謎解きの部分で繰り出された理論とかいった部分での凝り様はさすが「日本SF新人賞」をプロも感心させた設定と語り口で取った「M.G.H」の作者らしい感じ。関係ないけどあとがきで三雲さんが言っているなつみさんのモデルになったロボットみたいなウェイトレスさん、通称「レイチェル」にはどこに行ったら会えるんだろー。一角獣の折り紙とかつくって見せてあげたい気分っす。

 「サイゾー」12月号、って何か久々に「サイゾー」のことを話題にしているよーな気も。もちろんちゃんと読んでたんだけど真正面から政治とか経済とか芸能界とかを取りあげ切り倒した話が多くって、バカっぷりに溢れた記事とかが好きだった身にはなにかムズかしくなってしまって取りあげるにちょっち躊躇してました。今回はきっとオタクに違いない人が取材に行った「巨大ザク工場」の記事が載ってたんで嬉しくなって紹介してみた次第。筋彫りとかシェイプとかラインとか雰囲気とかいったものをちゃんとやってとバンダイの、ザクとは何かがちゃんと分かっててきっとグフがザクとは違うことも知ってる人が「ビシっとさせてよ」と「巨大ザク工場」つまりはマリンブルーブローの人に伝えてもなかなか伝わらなかったって話が、実にらしくていい感じ。「このシャンプー容器、ビシッとさせてよ」なんてシャンプー会社の人は言わないからねー。

 工場の写真を全部モノクロで載せたのは向こうの要望なのかそれともデザイン的にそーした方が紙面が閉まると思ったからか単純に「工場」なんでモノクロでキューポラが炭鉱な町っぽい雰囲気を出したかっただけなのか。たぶんカラーで見たらラインからザクザクと出てくる赤かったり緑色だったりするパーツに「工場」ってニュアンスとはちょっと違ったものを感じてしまっただろーから、結果的にはモノクロが奏功したって言えそー。あとたったの12分の1でしかないザクを実物大と呼びそうになる気持ちは分からないでもなく、人間と並んでるとホントついつい等身大ザクとか言ってしまいそーでシャア専用が3倍早いことを知ってる人に突っ込まれかねない恐れがあって実物を前にしてあんまり口とか開きたくない気も。ここは「サイゾー」の記事にならってミニモニ級とか呼ぶことにしよー。

 会社に行って昼頃テレビを見てたら「東京国際女子マラソン」がやってて確か有森裕子さんが走ってたなー、とりあえず最後のマラソンになりそーなんで見ておきたかったなー、なんてことを考えていたらテレビで紹介されたコースに東京駅ってのが入ってて、もしかすると近所を走るかもとか思って会社を出て歩くこと1分、読売新聞と三和銀行の間を走る大きな道路の沿道に、場所もわきまえずに「朝日新聞」なんて旗を持った人たたくさんいて、なんだここを走るんだとカメラを構えて待つこと10分ほど。次第に増えて来た観衆の中には読売新聞社でハイヤーなんかを頃がしているっぽい人たちがいて、「社旗もってこい社旗」とか笑いながら言っているのが聞こえてきたけど流石ににやらなかったみたい。部数で勝ってる会社がそんなみみっちいことやっちゃ駄目だよね、ついでに部数でボロ負けしている会社の大株主な会社もいじめないで頂けたら有り難いんだけど。あんまり叩くと身びいきにも筋金がはいってしまって株主が似てるんだったら兄弟で兄弟はよけいに頑張って争うから良いんだってな理屈を堂々の1面コラムで展開しては、良識ある人に不思議な思いをさせてしまいかねないから、ってやってるのか、もう。


【11月17日】 「コロッケ5えんのすけ」とか「タンクタンクロー」とかやるとり・みきさんは歓迎できても植木等とかを作品に持ち込む火浦功さんが苦手なのななんでだろーと考えていて、実は結論は出てないんだけど可能性としては多分、漫画とゆー絵のある世界で懐かしいイコンとともにそーした昭和30年代とかの風俗を見せられるのと、言葉でもって当時の風俗を際限されるのとでは受ける印象が違ってしまって、かたや懐かし系の復権と認められ、こなた古すぎるギャグですべりまくりと受け取られてしまう可能性があるからなんだろーか、とゆー気が最近ちょっとしてきてる。あるいは全盛期の懐かしさでもって人の関心を誘うなんて小技を使わなくっても、会話に地の文の間合いでもって読む人をねじ伏せていた作品に馴れ親しんだ身として、そーゆー方向で再びの大活躍を願いたいってゆー気があって懐かし系に走る火浦さんに眉を顰めてしまうからなのかもしれない。

 その意味でいうなら徳間書店のデュアル文庫で出た「俺に撃たせろ」(徳間書店、505円)は、書いた時代が時代だったからかそれとも本人の乗りが最高潮に達していたのか、会話の妙に展開の不条理なまでの突き抜けぶりが読んで過去に何ら耽溺していない人でも楽しめて、久々に天下無敵の火浦節を目の当たりにしたよーな気がして、読んで歓喜に震え感動にむせび泣いた。以前「SFアドベンチャー」に「アルツ・ハマーへ伝言」として連載された小説で、それが堂々の文庫化とゆー事態に、まずは良くやったと編集の人に御礼をいいたくなった。こともあろーに書き下ろしの番外編まで付けられているとゆー大盤振舞。21世紀になって火浦功さんは生きてるんだってことが分かって正直嬉しくなった。

 何事も忘れっぽいアルツ・ハマーって探偵が、真夏であるにも関わらず、サンタクロースの衣装を着てプールに落ちて死んでいた男の事件を捜査するうちに、忘れっぽさがわざわいしてかそれとも幸運に転んでか、より大きな事件へと巻き込まれていって、それでもちゃんと解決してみせるとゆー展開の爆裂ぶりにまず仰天。かつ間あいだに繰り広げられるシチュエーションコメディの数々の味わい深さがなかなかで、ページをめくる度に笑いでお腹を痛くさせられた。ロスアンジェルスにいる”伝説の情報屋”の深さといったら。雰囲気だけでもってそれなりなキャラを無理矢理作り出してしまう強引な主人公を生みだしたキャラ造型の冴えには、ただただ感嘆するより他にない。

 連載された「完結編」のサンタクロースなんてもはやどーだって良いって感じで進む展開の異常なんだけど実にアルツ・ハマーが主人公を張ってる話らしい感じに、主題とストーリーと語り口のハマった時の火浦功の凄みってのを改めて思い知らせる。ただし。ストーリー的にはばっちり決まっていながら肝心な部分で全然落ちてなかったりするからこそ、忘れっぽいアルツ・ハマーを主人公にしたストーリーらしかった「完結編」のラストの驚きと感心が、書き下ろしでつけられた「番外編」でちょっと減殺されてしまいよーな気がするのが、個人的には難点だったりして悩んでしまう。

 なるほど置いてけぼりにされた謎に理屈がつけられているのは良いんだけど、謎を置いてけぼりにして突っ走しって良しとしてしまうのがアルツ・ハマーの良さでもあったりする訳で、説明し過ぎな「番外編」は正直蛇足のよーな印象を持った。同じ不条理なストーリーであっても、連載中の分については思考がブッ飛んでいるって意味での不条理だったとすると、「番外編」の方は現実非現実の垣根を吹き飛ばしてしまう不条理だったりして、そのニュアンスの格差も読んで違和感を抱かせる理由になっている。人によってはそれで良しってことになるから異論は唱えないし、個人としては文庫はもちろん買いで、できれば連載分の腑に落ちない腑に落ちぶりを楽しんで頂ければ、火浦さんの真骨頂を改めて享受できる人を増やして、さらなる復活へとつながる可能性なんかもあって嬉しいかも。

 低血圧な頭を無理矢理起こして渋谷にある「パルコブックセンター」で開催された嶽本野ばらさんのサイン会に行く。新刊の「ツインズ」(小学館、1400円)を購入した人にサインするってことで、よくサイン会で見かけるおそらくは古書店か新刊書店だかたサイン本を集めるために並ぶパターンがあるんだろーかと思ったら、意外ってよりは当然って感じで並んでいる人の100人中99人は女性とゆー集中ぶり。おまけにゴシックロリータな格好に身を固めた筋金入りの野ばらさんファンが結構な数行列に紛れ込んでいて、男1人のそれも結構な歳の人間として、さいしょは流石に行列につくのに躊躇して、このまま帰ろうかと思ったほどだった。

 けどまあ、そこは根っからの有名人好きが高じてかろうじて行列に踏みとどまって、周囲を女性に取り囲まれながらも待つことおよそ30分、いよいよサイン会の時間となって沸き立つ周囲の熱気を感じつつ、ますます肩身の狭い思いをしていたところに全身をあれはヴィヴィアン・ウェストウッドだろーか、いつもながらの野ばらさん風ファッションに身を包んだ当人が登場して、ずらりと並ぶ観客に向かって腰を180度折り曲げて挨拶して手をふる姿を見せてくれて、「乙女のカリスマ」といっても全然高踏な人なんかじゃない、「乙女のカリスマ」とゆー名にふさわしいお客さんを大事にする姿勢を持った人なんだなあ、ってことが分かってますますファンになった、ってつまりはファンだったってことか? まあそうだね。

 写真家のHIROMIXさんがサイン会の撮影はお断りだったのに対して、嶽本野ばらさんはツーショット写真だってオッケーってゆー砕けぶりで、ひとりひとりに要望があればちゃんと席を立ってツーショットをやってしまう腰の軽さに、こーゆー地道な活動が今の激しいまでの人気につながっているんだろーか、ってな印象を持った。もちろん書かれる物の楽しさ面白さ深さが受けてるってこともあるんだろーけど。ともかくも並んでいるうちに男性が4、5人しかいない個人的には極楽だったけど側にいた人には胡散臭かっただろー行列から30分ほどで抜けだし、本にサインを頂いてとにかく会釈。そのまま引き下がろーと思ったけれど、優しい人なのかむさいおっさん相手でもちゃんと手を出して握手をしてくれて、握ってその小さいけれど柔らかい手にこれが乙女を惹き付ける文字どおりの手腕なのかと、さらなる感慨を胸に抱く。こーしたファンへのパフォーマンスはそれとして、小説としての凛として熱っぽい内容に筆致も含めて、ますます話題の主になって行きそーな予感、頂いたサインの価値もきっと、鰻登りに上がっていってくれると信じて、乙女たちの間にひとり、恥ずかしくも並んでサインを頂いた経験が得られたことを喜ぼー。


【11月16日】 油断も隙もありゃしない、といっても別に、万引きをしている子供を見つけて叱ってるんじゃ決してなくって、意外な場所で意外な名前の人が意外なことをやってたりするのを偶然たまたま見つけてしまったことへの驚きで、非難しよーとかいった類のものじゃないからご安心。もっとも読む人によっては天下に鳴る文藝春秋社刊行の「日本の論点2002」(文藝春秋編、文藝春秋、2667円)なんて本の中で、その人にとってとてつもない暴論が載っていて、そんな暴論を吐きまくってる奴がいたってことでもって出版業界、油断も隙もないと思うかもしれない。つまりはそれほどまでに激しくも恐ろしい「論争」だってことです。

 筆者は池上泳一さん、といえばそう「レキオス」「風車祭」「復活、へび女」といった沖縄を舞台に民俗風土を取り入れた幻想的な作品でもって根強いファンを獲得している作家の人で、1970年生まれと若いにも関わらず、「レキオス」はともかくとして他の本を読む限りではしかめっ面したオヤジを想像してしまいそーな感じがする、話すんだったら沖縄の文化風俗についてとか、せいぜいが米軍基地がもたらす影響とかいった堅めの話題が似合いそーな印象の人なのに、「日本の論点2002」で寄せているのは項目で言うなら「ムカツキ事件」、その中身と言えば「おそるべし、杉並助産婦同盟(仮名)バカ女成敗始末」とゆー、読むにおどろおどろしいタイトルをまんま書き表した迫力たっぷりの論調で、おいおいここまでやってしまって大丈夫なのか論争がいつかの「アグネス論争」に並ぶ大論争に発展して池上さんの作家生命を奪わないまでも大きくスポイルすることに繋がりはしないかと、心配して他人事であるにも関わらず背筋が寒くなってしまった。

 よーするにエコロジー・パーティーなるものに誘われ行ったらカリスマ助産婦なる人が中心にいて、出産タイムリミットの迫った女性たちを集めてシングル出産の会みたいなものを作ってて、そこに知り合いの女性40歳独身が参加しよーとしていて、聞くほどに不思議な雰囲気があってアレレこれはちょっとおかしいぞ、ってな印象を池上さんは抱いたらしー。「シングルマザーという生き方はありだけど、積極的に志願するものなのだろうか。しかも同盟を結んでまでなるような代物なのだろうか」(762ページ)。父親への不信で独身ながらも子供を持とうとする独身女性出産会の「みんなで育てればいいじゃない」的発想に、「人間不信のくせして人間を作ろうなんて思うのが小賢しい」と吠え、「基本的な人間関係が射止めないくせに、子供とだったら上手くいくという根拠がわからん」と叫び、中心にいるカリスマ助産婦に「まず、おまえから梅、そしてそれがどんなにタイヘンか、身を以て周りに教えるの先だろうが」と訴える。

 その言の、なるほどキツいけれども筋は通ってる感じがあって、さてはてカリスマ助産婦どう反論するかと思ったら反論が途中でとまって最後は「みーみーと」(763ページ)泣き出す始末。「しかし泣けば追究が終わると思っているところが甘い」(763ページ)と畳み掛け、果てに友人の40歳独身女どうよ? な弘子さんの憑き物を落としてしまう展開は、どこまでが実話でどこまでが創作なのかはともかくとして、小説で読む池上泳一さんらしくはない、とはいえ今年の「SFセミナー」でその立て板に水な喋りと己が願望を尊ぶその小説作法を目の当たりにした人にとっては実に池上泳一さんらしい内容だって言えそー。さてはてどんな反響を池上さん大好きなファンの間のとりわけ女性に巻き起こすのか。「だいだい女三人集まれば『そうよねー』としか言わないんだから」(762ページ)とゆー断言にもオブジェクションが山と集まりそーで、どう発展していくのかちょっと楽しみ。来年の「SFセミナー」とかにも来てくれれば続きが聞けるのに。夜合宿とかでやってくれないかなー、「池上泳一とヘンな歌謡曲を聴こう」コーナーとか。女三十人に囲まれて「みーみーと泣く」池上さんは多分、見られそーもないけれど。

 乙葉さんの「ウィンドウズXP」祭りは流石に真夜中なんで行かなかったけど、昼間のイベントには未だに続く低血圧で茫洋とする頭でも流石に行かなきゃご飯が食べられないと思い、電車とモノレールを乗り継いで「東京流通センター」で開催されたセガのアミューズメントマシン関連の展示会へと行く。たぶん見に来ているだろー香山哲CO−COOの顔なんか見ながら場内を散策、するヒマもなく正面にしつらえられた一見「ダービーオーナーズクラブ」みたいな正面のスクリーンに向かって8席分のゲーム機が並ぶレイアウトのアミューズメント危機に、依然堅調な「ダービーオーナーズクラブ」で当てたノウハウを活かした新しいサッカーゲームでも作ったのかと思ったらちょっと甘かった。

 なるほど見かけはビデオゲームのサッカーゲーム。けど正面にモニターは付いているものの手元にはスティックとか6つくらい並ぶボタンがなく、あるのは平べったい机の上みたいなスペース。見るとそこに11人分つまりはサッカーの選手のカードが3ー5ー2とか4ー4ー2とか言ったフォーメーションで並べられていて、まるでトレーディングカードゲームのデュエルスペースがゲームセンターのゲーム機の上についたみたいだってな印象を持つ。けれども驚くべきことに、カードには見えないインキでバーコードがプリントされえいるそーで、その面をゲーム機本体のテーブルの上に置くと、スキャナーがカードの選手データを読み込んで、それをCGの選手に反映させることができる。

 もちろんフォーメーションごとデータを読んで、そのフォーメーションが相手との試合に有効かまで読みとって理解した上で、プレイを重ねていくよーになっていて、トレーディングカードゲームのデッキの質がそのままビデオゲームのサッカーゲームの戦績に影響してくるって寸法らしー。戦績みたいなデータは別にICカードに記録していって後の試合に使うみたいで、そのあたりは馬育成シミュレーションの「ダービーオーナーズクラブ」の発想が受け継がれている感じがする。監督になってチームを働かせるって発想は、「バーチャ」シリーズを含めて既存の業務用ポーツゲームにはなかったけど、そこはセガ、「プロサッカーチームをつくろう」シリーズでチームを編成し監督になって指揮したいってニーズが結構あることを知っていたから、こーゆーかつてな内容と技術を持ったゲーム機も登場させることが出来たんだろー。

 バーコードはやっぱり「ゲームボーイアドバンス」に付けたスキャナーでデータを読みとらせて遊ぶ、「ポケモン」の新機軸カードの影響なんだろーけれど、11枚集めなければ試合にならないってあたりがちょっとポイントになりそーで、そのカード自体はスターターキットを買うか、ゲームをプレイして1枚払い戻してもらうかしないと集められない関係で、ゲームセンターに来て何度も何度もプレイする人とか出て来る可能性が高い。さすがはメディアファクトリー時代に全世界規模の大商材へと発展した「ポケモン」カードの開発に関わった人だけのことはあって、カードってゆー商材が持つ意味も使い道もよく知ってるって感じがある。

 興味があると見えて会場には鈴木裕さんも見物に来ていて、面白そうだってな印象を抱いたみたい。同じ開発子会社ながら横の情報面でのやりとりがあまりなくって、競争心を喚起させるよーな施策が取られているっぽい雰囲気が感じられたけど、そのあたりどーなんだろー。ともかくちょっと話題のゲームになりそーで、カードも「セリエA」のライセンスをもらっているイタリアの会社が作るだけあってデザイン性は高く、コレクションって面でもユーザーの関心を集めてセガにとっての結構な商材になりそー。同じ仕組みを使えば野球だってアメフトだってバスケットボールだって開発は可能で、面白いかどーかは分からないけど相撲だってやってやれないことはない。「連邦VSジオン」みたくアニメのウォーシミュレーションだってカードとセットで出来ちゃいそー。バーコード付き「ポケモンカード」の前評判も結構高いし、もしかするとゲーム業界の新しいカテゴリーとして、ゲーム&カードってジャンルは育っていくのかも。


【11月15日】 やあ面白いじゃないかアニメ版「ヘルシング」。最初はマスターことアーカード様へのしっとりとした感情ばかりが前へと出てきて違和感があったセラス嬢が、漫画版と同様にちゃきちゃきしてるんだけどちょっと抜けててあせあせする、ギャグとはいわないまでもコミカルなムードを作る役回りを果たしてくれてて、見ていてそれほどあれれと思わなかったし、何より死神ウォルターの活躍が動き付きで拝めるって大収穫があって、凛とした声で一石ぶつハマーン様、じゃなかったインテグラの格好良さともども、キャラのニュアンスに関しては本編に見慣れた目でもそれなりに楽しめるレンジに入って来たよーな気がした。敵として登場のヴァレンタイン兄弟も雰囲気出てたし。

 ただなあ、やっぱり見せ方の部分でのタメのなさってゆーかケレン味のなさが、盛り上がって来たストーリーを妙に押さえ込んでる気がして、どーにかならないものかと考えてしまったのも事実。アーカードが兄ちゃんに対して限定解除を見せる場面、全身に目が浮かび体の線がくずれて犬みたいな謎生物が飛び出す場面なんて、もっともっとオドロドロしく恐ろしく出来そーなものなのに、1枚の絵でバーンと見せられる漫画と違って動くアニメーションになっているだけに、かえって動きの単調さが目についてしまう。足を吹き飛ばす場面の足を吹き飛ばしてるよーに見えない場面は論外だし、動けなくなった兄ちゃんを犬っぽい謎生物がかじる場面もドバーッと行くか引いてニュアンスを伝える手法でいくかと思ったら、フレームに割とピッタリ収まる距離で見やすいんだけど見やす過ぎて迫力が伝わって来なかった。

 セラスが弟を押さえ込む場面の押さえ込んでるよーには全然見えず、ただ上に平べったく乗っかっているだけの絵とか、良い場面だけにちょっともったいないかなって印象も。徹底して動かすなり止めた絵でコミカルに行くなりすれば面白いかなって思ったんだけど、やっぱり原作に引きずられた挙げ句、漫画とアニメの間の差に破れ去ってしまったってことなんだろーか。やっぱりセラスが仲間だったヘルシング部隊のゾンビに襲われた挙げ句にドラキュリーナの本性を表す場面のタメのなさも気になった点。戻る時もウォルターのかけた声であっさり戻ってたし、その辺りセラスを演じてる役者にもうちょっと演技をつけてあげた方が良いと思ったけれど、大根なのかなー、セラス役の女優さん(そもそも絵だけどね)。

 アニメ雑誌の予定表なんかを見ると次の7話あたりから本編とはちょい違う設定が見えて来そーで、シナリオの人のどこまで話を作り込んであるかに注目が集まりそー。いろいろといわれているけれど個人的にはシナリオ云々ってよりは出ている役者の演技(だから絵だってば)の問題とそれから撮影しているカメラマンの腕前の問題(つまりは演出絵コンテが云々と言えよ)に大分かかっているっぽい感じがあるから、その辺りの立て直しも含めて中盤での疾走と終盤への畳み込みに期待しよー。願わくばセラス嬢のバストアップなシーンをもっともーっと。あいかわらずハチ切れそーなんだけど、あれだけ激しいバトルをしてもハチ切れないんだよなー、あのヘルシング機関の制服って。アンデルセンとのバトルでも穴とか開いて下がのぞくなんて場面、確かなかったし。それとも中身が強くなると服まで強くなって何回でも使用が効くのかな、だとしたら吸血鬼って環境に優しい生き物かも。

 年齢40歳未満、売上1億円以上の起業家だけが参加できるヤンエグな人たちの集まり「YEOジャパン」ってところが始めて大々的に人を集めて活動をお披露目するパーティーが「明治記念会館」で開催されたんでのぞく。ヤンエグの集まりって聞くと真っ先に思い出すのが今となっては「ジュリアナ東京」クラスに微妙なニュアンスでもって語られがちな「ビットバレー」だけど、もともとは若手経営者の親睦っぽい雰囲気があったものの、折からのネットバブルで金を儲けたい人金を貸したい人がくんずほぐれつ行ったり来たりの集団へと肥大化した挙げ句に、ネットバブル崩壊の波を受けてしまってイメージを損ねてしまったちょっぴり可哀想な「ビットバレー」とは、この「YEOジャパン」は幾つか違った部分があるとゆーことらしー。

 6代目の会長ってゆー、米国公認会計士の資格取得で有名な「ANJOインターナショナル」を経営している安生浩太郎社長が言うには、ITってことに限らずいろんな業種の人たちが集まっていて世代も割と近くって、ビジネスに関しては異業種交流が単なる人脈の話だけじゃない具体的なアライアンスに発展することもあるし、プライベートな部分では家族ぐるみの交流なんかが生まれたりと、それはもう明るく楽しく実になる組織ってことらしー。生まれたのは米国ですれに2000社とかが参加しているよーだけど、ベンチャー不得意な日本で参加しているのはたったの49社。今回のパーティーもだから「YEOジャパン」の存在自体を知ってもらってもっともっと参加者を増やして、より広い交流の場へと発展させていきたい安生さんの思惑が働いてのものだったらしー。

 ちなみに安生さんは名字から想像できるよーにプロレスラーの安生洋二選手のお兄さんで、だからって分じゃないだろーけど会場にはテレビやプロレス雑誌で見慣れたあの安生さんが来ていて、背こそ吃驚するほど高くはなかったけれど分厚い体をぐいぐいと言わせて会場を歩いている姿に、正面から戦いを挑んだらさて勝てるだろーか、なんて妄想が浮かんだけど勝てる分けがないからやめておく。もちろん安生選手は特別で、集まった人はITありコンサルありメーカーありいろいろありの起業家ばかりがおよそ200人。中にはグッドウィルの折口雅博会長とかがいて、安生さんも含めてテレビや雑誌でみかける有名な若手経営者が歩いていて、行って挨拶してサインをして欲しくなった、もちろん出資の承諾書へのサインだけど、僕に1億円づつ投資してってな、それで何をやるかは未定なんだけど。

 向こうに言わせればこっちが何故いるのかってことになるんだろーけどブロッコリーの木谷高明社長も何故か来ていて挨拶、とりあえず「アニメージュ」の「木谷語録」は面白かったと伝えておく。アニメ業界がとあとゴンゾ・ディジメーション・ホールディングスの村濱章司代表取締役もいたんで早速挨拶、「『ヘルシング』面白かったです」と愛想をふりまく、勿論夕べのは個人的に本当に面白かったからおべっかなんかじゃないけれど、実際に数字的にも真夜中な割には異常なまでの視聴率があったそーで、代表取締役の人としてもホッとしてたんじゃなかろーか。けど先はまだまだ、気を抜いたらあきまへんで。


【11月14日】 最初は一種のオカルト的エクソシスト的ぬとぬとぐちょぐちょホラーかと思って読んでいたんだけど、田中啓文さんの書き下ろし長編「ベルゼブブ」(徳間書店、1143円)が後半からクライマックスへと至る展開で見せ絵面的にも展開的にも迫力にして壮絶な描写に、なるほど田中さん、ただでは転ばない人だとゆー印象を受ける、って別に転んでなんかいないけど、陰々滅々とした霊能力バトルみたいなものを想像していると、肩すかしってゆーよりはダンプカーにはねとばされるくらいの衝撃を味わうことになるから、とりあえず心して読みなさいと強調しておこー。

 どっかの遺跡で発掘された壺から復活した存在がもたらす、血と臓物と汚物にまみれた死、死、死の様相。その背後で蠢く悪魔の申し子に対抗するかのように、処女じゃないけど若い少女が夢の中での性交によって赤ん坊を妊娠し、やがて地球を、宇宙を、全存在を2分するよーな戦いへと発展していくってのが端折ってみたストーリー。「蝿の王」ともいわれる悪魔のベルゼブブをタイトルにしているだけあって、うじゃらうじゃらと出てくる虫の描写の気色悪さはすさまじく、虫嫌いの人が読んだら活字であっても全身に蕁麻疹を起こしそー。冬だってのに布団の中とかベッドの下とか、あれやこれやが蠢いていそーな気がして来て背中がカユくなる。

 人のごろごろと殺されていく描写の、躊躇なんていっさいないアッサリ感と、血の臭いや臓物の重みにまみれさせられるコッテリ感を合わせ持った強さも印象的。とはいえやっぱり圧巻はクライマックスのスペクタクルで、そもそもどーしてこーゆースペクタクルになってしまうのか、でもって妙に感動的な場面を作ってしまうのか、不思議に思えて来る。なおかつカタルシスを奪うよーな展開にしてしまい、それでもホッとさせるよーなエピローグをもって来てしまう辺りの、有り体のお作法の範囲をはるかに超える走りまくった筆にも呆然とさせられる。田中さんらしいといえばらしい作品。絵にしたらラストの展開、すさまじくもおぞましいものになるだろーなー、誰か漫画化しないかな。

 女性の権利を著しく侵害し男性の権利もやっぱり侵害する施策でもって国民を統治し、表現の自由を脅かし教育の権利を奪い生活の向上に一切の注意を払わず、背く者あらば旧態依然とした法体系でもってろくな裁判も受けさせずに命を奪う圧政に対し、我らが誇る自由な国の総本山が下した怒りの鉄拳は、遂に圧政の中苦闘していた人たちを立ち上がらせ、国の首都を含む多くの地域を解放へと至らしめ、ここにアフガニスタンは自由を取り戻し、近代文明の恩恵の翼下に入ったのであった、めでたしめでたし。

 って最初からそーゆーシナリオだったら、この数日、新聞テレビにあらゆるメディアが大喜びしてアフガニスタンでの北部同盟によるカブール奪還、およびアフガン各地への攻勢を伝えているのも分からないでもないけれど、そうでなくってこの戦争、もともとの目的はアフガニスタンを実効支配するタリバン政権への内政干渉にも等しい攻撃でもなければ、かつてアフガニスタンを支配下におさめながらも圧政とゆーより暴政によって国民の離反を招いて山岳地域へと追いやられた北部同盟の応援でもなく、当然ながら2つの勢力による長い内戦へと至る導火線に火を付け中央アジアに戦火を起こして、「ブラックゴースト」宜しく武器弾薬の供給でもって稼ごうなんて腹でもない。

 9月11日に起こった「米国同時多発テロ」の犯人とおぼしきウサマ・ビン・ラディン氏を捕まえて司法の場へと引っぱり出すこが唯一にして最大の目的だったはずで、それさえ果たせればタリバンが実効支配を続けていよーと北部同盟がカブールを奪還しよーと、それを外国の人たちがこぞって大歓迎する筋合いのものではないし、ましてや圧政を敷いていよーと何であろーと、主権を持った国家に対する内政干渉にも等しいことをやって、一方に荷担してパワーバランスを崩した挙げ句に起こった事態を、よくやったと誉め誇るのは筋違いも甚だしい。本来の目的を果たせずにいるにも関わらず、喜んでしまえる心情が何とも不思議に見える。

 もともとの目的が達成困難かもしれないと感じられた結果、本筋につながるかもしれないけれどとりあえず本筋とは違う、分かりやすい目の前の成果を大きく喧伝しては、その正統性を広くアピールしよーとしている感じが、アフガニスタンへの攻撃をやってる勢力にも、その行動を伝えるメディアにも感じられて仕方がない。こーやって世の中は美名のもとにまるめこまれていってしまうのか、”正義”とやらの前には起こるすべてが正当化されるのかとゆー懸念が背中をゾワゾワと走り回って落ちつかない。

 立てこもり犯の逮捕とゆー、たとえ本来の目的は果たされしても、行動の邪魔だとどかされたタンスの中身は散らばり、土足で踏み荒らされた絨毯は破れ、戸棚のカップは割られ壁には大穴が開き飼っていた犬は射殺され、後には人の住めなくなった家が残されて、それでも世界の警察官はよくやったと賞賛される。もしかすると犯人を捕まえられなくっても頑張ったと讃えられる。現に今讃えられまくってる。かけ間違えたボタンのズレを、仕様だファッションだとゆー強弁で格好良いものと思わされている状況、思い込もうとしている状況が招く未来はどんな姿になるんだろー。それほど待たなくっても、遠からずやって来るそんな未来に思いを至らせつつ、今出来ることは何かを考えて行きたい。けどほんと、一体何が出来るんだろー。


【11月13日】 人間に駄目なことが牛にも駄目ってことで、人間を殺して皮を剥いでなめしてベルトとか靴にするのは当然禁止されているってことはつまり、牛を殺して皮を剥いでなめしてベルトとか靴にするのも当然禁止って訳で、だから鳩山由起夫・民主党党首の靴もベルトもきっと豚皮か鳥皮(ちょっとヤダ)ってことになると思うんだけど、本当にそーなのか確かめた訳じゃないから、国会議員の方々とか国会担当の記者の方々には是非にもそこらへんを追究したり質問して頂きたいところ。人間に許されていないことが豚とか鳥とかにも果たして許されるのかって辺りもついでに。

 まあそれはそれとして、どーゆー文脈で出てきた言葉か分からないんでもしかしたら半ば冗談めかした会話の中で出てきた話かもしれないけれど、サラブレッドめかして与党でバリバリやっていたころの颯爽とした雰囲気が、今は泳いでいるのかそれとも見えないものを凝視しているのか判然としない目つきでもって、常人にはおよそ考えもつなかい突拍子もない言動を平気の平座でやってのける辺りを観察するに、あるいは超マジに言ったのかもしれなず、だとしたらおよそ真っ当とは思えない言動を堂々とやらかす人間を、同じ民主党員はもちろん議員仲間もメディアも冗談とか、揚げ足取りのレベルじゃなくって真正面からどうこうしよーと思わないのがちょっと不思議。

 その意味で言うなら、部下を家来みたく扱ったり、大事な会談をすっぽかしたりと一般的な良識の範疇ではちょっと了解できなくても、持って生まれた人間性の結果としてあーいった言動になったとゆーのもとてもよく分かる田中真紀子外務大臣なんかより、よっぽどアブナイよーな気がするんだけど。例の児童ポルノ法案の改訂でも、自民党よりなおトンデモな改訂案を出して来そーな団体だからなー、民主党って。でもってそれが保守に対する対抗馬としてメディアに祭り上げられる。だからといって社会民主党はアレだしなあ……ますますもって暗くなるねえ、21世紀の日本は。

 2号までは記憶にあるけど3号以降をまだ買ってない(買えたっけ?)「アニメスタイル」ってアニメの超硬派雑誌とその「アニメスタイル」がネット上で展開している「ウェブ・アニメスタイル」が天下のアニメスタジオ「マッドハウス」の面々を招いてアニメの歴史を未来を語るっぽいイベントがあったんで「ロフトプラスワン」へ。行列に並ぼーとしない、一般常識の埒外に置かれた婦女子の集団がいたのは、行列にだけはしっかりと並ぶよー、夏冬のイベントで訓練された人の多そーなアニメ系のイベントにしては謎だったけど、司会がアーティストのパルコキノシタさんで、「マッドハウス」自体も最近は「PARTY7」とかいったおしゃれな映画にポップなアニメを提供するおしゃれなアニメ会社みたくなって来たから、あるいはおしゃれちゃんが集まってしまったのかもしれないけれど真相は謎。だいいちおしゃれちゃんだって普通は社会常識くらいはあるからね。

 それにしても妙に綺麗な女性の姿があちらこちらに散見された今日のイベント。スタートし多直後も、タキシードなんか着たパルコキノシタさんが手にキーボードなんか持って壇上で「宝島」のオープニング曲を唄って、普通のおたく系アニメ系のイベントだったらそこで大合唱が起こってしかるべきなのに(そうなのか?)、誰ひとりとして「ただーひとつのーあこーがれだけーわー」と唄わない辺りに、集まっている人のタイプの差が伺えないこともなかったりして、いや単に浸りきったパルコさんを邪魔しちゃ悪いって自省が働いただけなのかもしれないけれど。

 さて本番は「アニメスタイル」編集長の小黒祐一郎さんと「マッドハウス」社長の丸山正雄社長が登壇してまずは「マッドハウス」の近況から。先述の「PARTY7」の冒頭の登場人物紹介アニメを流したり、今後「TUTAYA」でレンタルが始まるビデオマガジンに入っているオリジナルの”連載”アニメを先行して紹介したり、この春に日本で後悔されてストーリー的には毀誉褒貶を巻き起こしつつも、クオリティに関しては誰からの文句もなかった「メトロポリス」がいよいよ1月から全米の14カ所くらいで公開になるってことで、その米国用予告編を紹介したりといった展開で、とりわけ米国版「メトロポリス」予告編は、アクションシーンとかばかりがつままれた内容になっていて、しっとりとして泣ける部分を一切知らずに「攻殻機動隊」もかくやと思って行った人が、ミッチィじゃなくってティマの可愛くも哀しい姿を見てどう思うのか、後で反応を確かめてみたくなった。

 1部の締めは5年くらい前まではまだ日本損害保険協会に存在していたものの、今ではフィルムも廃棄されて「マッドハウス」にしか残っていないとゆー幻の防災活動啓蒙アニメ「ファイヤーGメン」の上映会。出崎統さんならではのタッチで描かれた、「ガンバの大冒険」が「元祖・天才バカボン」で「新あしたのジョー」した内容の、って言っても全然分からないけどとキャラ萌え的な要素のいっさいが存在しなくって、それでもアニメーションとして動きの妙演出の冴え作画の技でもって最後まで見せてしまう「マッドハウス」ならではのすさまじくも素晴らしい作品で、これを見て福島敦子さんがアニメーターを志したってゆーのもよく分かる。絵を動かす面白さに満ちた作品だからね。声も豪華で近石真介さん富田耕生さん永井一郎さん肝付兼太さん杉山佳寿子さんといった錚々たる面々が名前を並べてさらに仰天。見られて良かったと今はイベントに感謝したい。損保協会にはもう知り合いとかいないけど、小黒さんには是非ぜひにDVD化の運動成就を期待して、心よりの応援を贈ります、わっしょい。

 2部ではもっぱら「マッドハウス」の歴史が語られて、虫プロから出て創映新社に東京ムービー新社に東映アニメーションあたりとの付き合いを経て出崎統さん杉野昭夫さんコンビの時代が8年ばかり続いて数々の名作を送り出した第1期から、りんたろうさん川尻義昭さんあたりを中核に数々の映画作品を手がけ「幻魔大戦」「カムイの剣」を経て「迷宮物語」へと至った第2期、そして90年代に入ってテレビシリーズへと戻って来た第3期といった流れが説明されて、付け焼き刃ながらもアニメ業界に詳しくなった気がして来た、けどすでに忘れてたりするんだよね、最近記憶力がぐぐっと落ちてる、困ったもんだ。ちなみにテレビもやり映画もバリバリな最近以降を第4期と位置付けるかどーかの今は境目。「メトロポリス」が全米で成功して「吸血鬼ハンターD」も大受けしてついでに「デ・ジ・キャラット」も賑わえば、そのバラエティ具合から明らかに新時代を引っ張ってるって言って言い切れるだろー。さてどーなるか。

 2部の後半はこれまた幻と言われる「まんが世界昔話」の中での松戸完さんすなわち出崎統さん演出で川尻義昭さんがキャラとか担当して、シリーズの中でも異色中の異色と呼ばれたらしー「炎の馬」の上映と、こちらはりんたろうさんが手がけて、その突出した美術センスと演出力でもって傑作の誉れ高いらしー「ドン・キホーテ」の上映で狂喜乱舞。とにかく「炎の馬」が秀逸で、子供が中心に見ているアニメで、エドガー・アラン・ポーの退廃的な物語をやってしまうってのも何だけど、「吸血鬼ハンターD」なんてもんじゃないシャープなキャラ設定、残忍な少年が馬で美女を蹴り殺して顔を石榴のようにしてしまう展開等など、今みても心に震えが走るくらいにシビアでシリアスで、それでも圧倒的な流れの中に見ている人を引きずり込むパワーに溢れていて驚く。

 手抜きの一切無い絵の巧みさ確かさにも感嘆。今に伝わるこの技術が、小黒さんの言う「大地丙太郎さんの”堕落”」すなわちどんな作画でも演出力で押し切ってしまった大地さんのを、絵に頼った演出に走らせるよーになってしまったってことになるんだろーけれど、一方で丸山社長のいう、あの演出力をもっと良い絵でみたかったってのも分からないでもないだけに難しいところ。大地さんついでに言うと丸山さん、「アニメ制作進行くろみちゃん」を作った「夢太カンパニー」にメールを送って作りたかった作品を作らせたことに対する感謝の意を込めた激励を贈ったんだとか、いい話だなあ。

 誰がどこで仕事をしていよーと、本当に作りたい作品を作ってくれれば良しとする、それが丸山社長のポリシーらしく、「マッドハウス」でも仕事をしていたけれど、今は別の場所で「アリーテ姫」の片渕須直監督にも、ゲストとして片渕監督が登場した折に、やっぱり絶賛の言葉を贈っていて、なるほど本当にアニメが好きな人なんだなあ、ってことが分かってとても嬉しくなる。ビジネスとか日本の財産だとかいって過度に持ち上げよーとする役人とかが増えていたりするけれど、良い作品を作ってナンボだと分かっていて、その為なら労を惜しまず名も惜しまず、私利私欲に走らない人がアニメ業界の先頭にいる幸運を、決して手放してはいけない。

 りんたろうさんの「ドン・キホーテ」も片渕さん曰く「銀河鉄道999」でも見られたよーな、いかんともしがたい状況であっても向かっていく展開にりんたろうさんらしさがあったそーで、雀100までじゃないけれど、アニメの演出家が持つ美学はいつまで経とうが貫かれているんだってことが分かって、過去現在未来において作品を見ていく上での参考になった。出崎さんは退廃の美学ってことになるのかな。ただし丸山社長に言わせると、出崎さんの良さは「悟空の大冒険」のよーなコミカルな作品にこそあるそーで、「宝島」の「あしたのジョー」みたいな凛とした雰囲気こそが出崎さん、と思っていた身には意外だったけど、言われてなるほど「ガンバ」だって「元祖・天才バカボン」だって「ファイヤーGメン」だって、コミカルな動きに絵を動かしてこそのアニメーションの真骨頂が出てたりするからそーなのかもしれない。止め絵ばりばりを期待するんじゃなくって、だから劇場版「とっとこハム太郎」には仰天の動きにとてつもない展開を期待することにしよー。とかいってたらリアル系退廃系だったりして。うーんそれも見てみたい。


【11月12日】 いよいよ刊行の始まった岩波書店シリーズ「21世紀文学の創造」の第一回配本「現代世界への問い」(筒井康隆編、2200円)と「男女という制度」(斎藤美奈子編、2200円)を買う。まずは筒井さん編の「現代世界への問い」からペラペラと呼んで、東浩紀さんの「ポスト・モダン以後の文学」とゆー文章が掲載されていなくってガッカリする、って嘘です、すでに「噂の眞相」連載の筒井さんのコラムで、東さんが「ポスト・モダン以後に文学はないという結論になるから書けない」と言って降りたとゆー話を聞いていたから、掲載されていないからといって別に驚きはしなかった。ただ、それと同じ話を今度は真面目な切り口で筒井さんが再び、わざわざ紹介しているのが印象的で、「並の評論家であればこの叢書に相応しいかどうかなどおかまいなしに書いたと思われる『文学の死』について、毅然として書かないという東氏の真面目な態度は経緯に値しよう」(253ページ)と書いている辺りに、筒井さんの東さんに対する並々ならぬ意識が感じられる、と思うけどやっぱり単なる老獪な牽制だったりするのかな。

 それにしても不思議な叢書で、筒井さんのともすれば論文っぽい書き出しの「現代世界と文学の行方」とゆーまとめの文章でも、アカデミックに難解な修辞でもって書かれた文章があれば、途中で筒井さんが「青猫座」とゆー劇団にいてトルストイの「復活」を演じた身辺雑記めいた話も織りまぜられていたりして、さらには過去の事例を上げて差別の問題を指摘するジャーナリスティックな面もあったりするとゆー不思議ぶり。収録されている文章も、小谷真理さんの務めてアカデミックな体裁の「なりすまし文学の現在形」とゆー文章があり、まるで小説のよーなパスティーシュが織りまぜられた清水義範さんの「『弱者』と文学」とゆー文章があり、直裁的な物言いがどちらかといえばエッセーっぽい雰囲気を感じさせる佐藤亜紀さんの「物語のゆくえ」とゆー文章があったりと、微妙な不統一感に彩られていて、「講座」なんてシリーズで堅めな印象ばかりが先行する岩波書店にあって、相当に画期的な叢書のよーな印象を受ける。

 「男女という制度」も同様で、並べられた筆者の斎藤美奈子さんをはじめ川上弘美さんに古典エッセイストとして最近めきめきと名前を広めて来ている大塚ひかりさん、芥川賞作家でトランスな藤野千夜さん、”ネットおかま”として活動した顔はもろオッサンな佐々木由香さんそしてジェンダー・セクシャリティの研究では第一人者の小倉千加子さんといった具合に文学ジャーナリズムアカデミズム等々の、ジャンルを特定せずに最適と思われる人たちをピックアップした、編集上の作為が感じられて流石と感嘆する。

 どうしてこーゆー作りになったのかは編纂に関わった人とかに是非とも聞いてみたいところだけど、思うに主題としている文学が、文学だけではもちろん批評にアカデミズムジャーナリズムといったいろんな角度からでなければ、取り上げ難い存在になっているからなのかもしれない。さすがに文章での表現ばかりでアートとか、絵とかいったもので語られてはいないけど、別巻としてある谷川俊太郎さん編集協力の「日本語を生きる」とかだと、より身近にある「日本語」を挙げて「文学の創造」される様が語られているのかもしれない。筒井さん編「方法の冒険」なんかもどんな方法が紹介されているのか楽しみ。頑張って買い続けよう。

 パッと呼んで強く印象に残ったのは、佐藤亜紀さんが寄せた「物語のゆくえ」とゆー文章。「マーケッターという人種には困惑させられる。どれほど良心的であっても困惑させられる」(49ページ)いう、いかにも佐藤さんらしー挑発的な書き出しに始まって続く主張は、たとえパターンに陥る物語であっても、それを描く書き手の技巧には際限がなく、常に超絶技巧へと誘っているんだとゆー”文学の可能性”へと発展して、どちらかといえば物語それ自体に、たとえそれが繰り返し語られるものだったとしても、等しく感動を覚えてしまう当方の読みの甘さを嘲弄されているようで、冷や汗に背筋が凍ったけれど、それはそれとして、マーケティング的なアプローチでもって、次から次へとヒット作品を送り出す、「元漫画雑誌の編集者で今はゲームと漫画の企画屋というマーケッター氏」への言及の、舌鋒の鋭さにはちょっと身振るいしてしまった。だって誰がどう呼んだって、相手は大塚英志さんだからね。

 なるほどゲームを作って萌えキャラを放り込んでコミケで盛り上げてもらってそこから使えそうな連中を引き抜いて、働かせて萌えキャラを作ってもらってコミケで盛り上げてもらてそこからやっぱり使えそうなのを引き抜いて来るとゆー、繰り返しによって売れるゲーム売れる漫画売れるアニメを続々と生み出して来るって方法を、大塚さんはやっているかもしれないし、そうした振る舞いを佐藤さんに語ったかもしれない。ただ決して得々と語っているんじゃなく、ある種の韜晦めいたニュアンスを込めて語っているよーな気がして仕方がない。それは、大塚さんがかつて漫画編集者時代に送り出した数々の優れた作家陣、例えば藤原カムイさんであったりあるいは岡崎京子さんといった、今なおカリスマ的な位置を決して「萌え」なんかじゃない部分で確保し続ける人たちがいることを知っていたりするからで、そうした実績を踏まえて好意的に理解する限り、語る言葉のマーケティング的なニュアンスも、それが通じてしまう業界への嘲弄と、分かっていてそれをやってしまう我が身への自嘲と取ってとれなくもない。ちょっと買いかぶり過ぎかなあ。

 まあ、あまりに偉大で巨大になり過ぎた感があって、最近の大塚英志さんブランドなサイコ物とか民俗学物とかをほとんど手に取ったことがなくって、描かれている物語の質とかが果たして佐藤さんを唖然とさせるものなのかを確認できないんだけど、たとえ質なんてものがそこになくっても、売れるとゆーことで確固たる立ち位置を得た大塚さんが、その立場を”利用”して送り出してくれる大野安之さんの再刊物とかには喜ばせてもらっている訳で、真正面から「こういう手合いが今の漫画の権威であり、漫画の正史を語る立場に成り上がったことを、私は大層遺憾に思う」(51ページ)とは言い切れない。

 まあこーいった打算を認めてしまう心根こそが、佐藤さんを慄然とさせるものだろーから話は平行線をたどるどころか、むしろ遠ざかってしまうことは必至で、おそらくは永遠に相容れない可能性が高い。それでも例え「皆様御存知のあの話、しか読め」(72ページ)ない手合いでも、当方頑張って佐藤さんの作品を読んでいくつもりなので、今はまだ99%だったものが99・999%を振り落とすよーペースを急に挙げたりしないで、今の市場であらかじめ不発に終わると思われどこからも見向きもされないよーな超絶技巧へと走らずに、マーケティングが幅を利かせる世の中であっても登場できるくらいの易しさをとりあえずは持たせながら、だんだんとペースを上げていって頂ければ有り難い、まあ迷惑だろーけどね、こーゆー読者は。


【11月11日】 好きかって言われるとロッキング・オンから昔出た大判の写真集「光」の方がより好きなんだけど、ところどころに「光」で見せた寂寥とした感じを抱かせる空とか風景の写真も交じっていて、アイドルとかミュージシャンを活写したシリーズよりは好きになれそーな新写真集「Hiromix Paris」(朝日出版社、3300円)へのHIROMIXさんのサイン会が渋谷の「パルコブックセンター」で開かれたんでのぞく。さすがに写真界のアイドルってゆーかカリスマな人だけに、集まって来る人も若くてオシャレな人が多くって、寝ぼけた顔したオヤジがひとり列に並んでいる姿を傍目から想像してちょっと落ち込む。けど来週なんて乙女のカリスマ、嶽本野ばらさんの新刊「ツインズ」(小学館、1400円)サイン会だから並ぶ乙女の数は今日の比じゃなさそーで、果たしてどーゆー格好をして行けば良いのか今から悩みが尽きない、やっぱゴスロリ?

 さて登場のご本尊、伏し目がちにサインをしていく姿を上から見おろしていただけなんで、表情までは伺いしれなかったけど、写真集に掲載のセルフポートレートなんかで見るあの楚々とした顔がそこにあって、ああ本物だよってな感慨にしばし浸る。サインは金色のサインペンでローマ字で(当たり前だね)「HIROMIX」と入れ、下にはウサギに星とハートが並んだマークを入れるもので、それなりの時間をかけての丁寧なサインにますますもってファンになる。しかし何故ウサギ? パリを撮った写真集は撮った時間帯が良いのか使ったカメラが絶妙だったのか、逆光なんてものともしない写真がパリの日差しを見事に切り取り、アレブレなんて気にしないスピーディーな撮影ぶりがくすんだ色といっしょに歴史があってなおかつ今も生きているパリの息遣いを見事に伝えている、よーな気がする。ボケ系でもこれが蜷川実花さんだったら、華やかなパリになっただろーし、長島有里枝さんだったら寂寥感より前に躍動感が出ただろー。当たり前なんだけど、同じ木村伊兵衛賞でもやっぱり3人3様ってことを改めて思い知らされる。で、僕はやっぱりHIROMIXが好き、と。

 あの本田靖春さんが私淑を標榜する以上は歴史に残る大記者だったに違いなんだろー元朝日新聞の記者とゆー門田勲さん。実のところ生来の不勉強が祟って、今日のきょうまでその名前を知らずにいたか、あるいはかどこかで名前を見てもほとんど気付かなかった人で、初めて聞く名前にいったいどれかけ凄い人なんだろーと戸惑ったけれど、何しろ天下の「朝日新聞」が、日曜版で世界のいろんな場所を巡って縁の人となりを紹介していく企画「旅する記者50人」の中で、11月11日付けで堂々の登場されるだけの人。同じ「朝日新聞」だったら例えば入江徳郎さんなり、深代惇郎さんあり疋田圭一郎さんといった「天声人語」の面々なり、本田勝一さん筑紫哲也さんといったスター記者、または長谷川如是閑等々の戦前の大記者たちをも差し置いてでも、取りあげるに値する素晴らしくも偉大な記者だったんだろーなー、なんてことを考える。

 門田さんは今はもちろん故人で、1902年生まれで1928年から仕事を始めたってゆーから、当然あの戦争すなわち日中戦争なり太平洋戦争の言論が厳しかった時代に、軍部の圧政と戦い抜いた逸話も数多くあって、だからこそ戦後の180度価値観が転換した平和万歳な時代の人たちから慕われ敬われたんだろー、なんて想像もしたけれど、現役の「朝日新聞記者」でこの記事を担当した河谷史夫さんが紹介しているのは、戦時中に横浜支局長として作った紙面が「自由主義神奈川版」として非難されたってことくらい。捕まって投獄されたとか反骨精神から言論の不自由さに野へと下ってひとり高らかに自由を唄い上げたとかいった話はなくって、もっぱらその名文ぶりに話の中心が行っている。

 とはいえそこは、天下の「朝日新聞」が「反骨」とゆータイトルでもって、わざわざ取りあげるに値すると考えた門田勲さん。戦前に大阪朝日から東京朝日を経て信濃毎日新聞へと移り、問題の「関東防空大演習を嗤うふ」「AVAN’S INN」所収の「電脳図書館」より)を書き軍部の機嫌を損ねて退社されられてからも、愛知県へと居を移して新聞やミニコミ「他山の石」で言論活動を続け、「2・26事件」の際には「だから言ったではないか」と「5・15事件」勃発時に軍部の突出ぶりを諌めながらもそれが聞き入られなかったことに憤りを示した文章を書いたジャーナリストの桐生悠々さんよりも、戦中の軍部擁護に徹した報道ぶりを反省して終戦と同時に読売新聞記者の職を辞し、青森だかに戻って「たいまつ」を発行し続けたむのたけじさんよりも、きっと素晴らしい「反骨」的な言論活動をした人なんだろー。その仕事、とりわけ記事ではあんまり詳しく紹介されていなかった、門田さんの戦前戦中の活動ぶりについて是非とも知りたいんで、「朝日新聞」にはまとめた本の刊行を是非にと望みたい。

 なんて嫌味ったらしく(嫌味だったのか)書いたけど、実際山といる名記者名文記者たちを差し置いてでも紹介されるべき人なのか? って辺りはやっぱり謎。もちろん本田さんが言う以上は間違いなく名記者だったんだろーけれど、だったら例えば同じ本田さんが「不当逮捕」とゆータイトルで伝記を書いた立松和博さんよりも凄い人だったんだろーか、って疑問も浮かぶし、反骨中の反骨ジャーナリストの鎌田慧さんが「反骨」とゆータイトルでもって生涯を綴った鈴木東民さんよりも紹介すべき人だったんだろーか、って疑問も浮かぶ。

 あるいは伝説として紹介している、社主夫人からかかって来た「車呼んで」とゆー電話に、「車? ここはタクシー会社じゃないぞっ」と言って切ったエピソードとか、サラリーマンのタコぶりを描いた文章を引用することでもて反骨ぶりを示したかったのかもしれないけれど、所属している組織ごときに反骨ぶりを示したところで世の中いったい何が変わる? ってのが正直なところ。権力者であっても撃つべき相手なら躊躇わずに撃ってこその反骨な訳で、だからこそ戦時中の軍部に、国家に対して何を言って来た人なのかを是非知りたい。やっぱり具体的な仕事ぶりを河谷さんには紹介して欲しかった。

 それとも今の組織って、社主とは言わないまでも社長におべっか使って車を呼び寄せて差し上げたり言うことには絶対服従で従ったり、引用されている門田さんの言葉のよーに「恥も外聞もなしに、ちっとでも上へ上がろうともがく蛸、ほかの蛸の足を、一所懸命に引っ張っている蛸」が幅を利かせていたりすることが、常態になっていたりするのかな。だとしたら、門田さんを紹介することにかこつけて、そーした事態に異を唱えよーとしたこの記事は、もうとんでもなく「反骨」だってことなのかも。河谷さんにはだったらなおいっそうの「反骨」ぶりを発揮して、このフラつく日本に鉄槌を下し、いっしょになって迷走する言論にも筆誅を加えて頂きたいものですね。


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