縮刷版2001年10月中旬号


【10月20日】 封筒に「ワタナベ ジュースの素」を入れて「これは『ワタナベ ジュースの素』です」と明記して送るのと「どっちが不謹慎かショー」で今だと負けるかもしれないウサマ・ビン・ラディンTシャツを着込んでいそいそと「東京都現代美術館」へ。例の村上隆さんの個展に関連したイベントのそろそろクライマックス的なトークイベント「戦争と芸術」ってのを見物する。前の奈良美智さんと村上隆さんのトークが1時間前で70人の行列で最終的には400人を越える来場でそのうち9割が女性でその9割が奈良さんファンだった(断定口調)のと比べると10分前で行列はなく1分前に三々五々、集まって来た人の後について13番目の整理券だったとゆー空きようで、前回がいかにとんでもない人気ぶりだったかを今さらながらに実感する。最終的には座席がしつらえられて100人強が入る会場はほぼ満席になって、見込みどおりにはなったみたいだけど女性は半分もいなくって男性も元特攻隊員と名乗った方から下へと年齢層も幅広く、テーマもテーマだけあってなかなかにシリアスなトークライブになった。

 プログラム的には「美術手帳」編集長の楠見清さんに村上隆さんに椹木野衣さんに針生一郎さんとゆー出席者が順繰りに基調講演とゆーか発表をしたあとで、壇上に並んでトークセッションをするとゆーもので、まず登場の楠見さんが94年に編集した、原爆キノコ雲写真集「アトムの時代」を紹介してあーいったものを反戦反核といったメッセージを込めることなく、逆に科学への信奉もフォルムへの美しさも強調することなく、純粋にひとつのイメージとしてどう伝え、そこから何を汲み取ってもらうかを考えて作った話を披露する。

 当時「デジタローグ」が同じ様な原爆キノコ雲の写真と映像を集めたCD−ROMを企画していたものの、なかなか発売されなかったところに写真集が出た記憶を思い出しつつ、20世紀もラスト10年に入って景気にも後退の兆しが本格化し始めていたあの時代、過去に踏ん切りをつけつつ21世紀に真っ当な未来を想像していたことがああいった企画の同時発生につながったのかな、ってことを考える。それが今ではこんな具合に……「アトムの時代」の表紙裏の前は小さな炎を使うサル、後ろは巨大な炎をもてあますサルが描かれているんだけど、当時も今も人間ってつくづく成長しない動物なんだってことなのかも。

 続く村上さんは米国同時多発テロから連想を広げて、あのショッキングな現実が過去のフィクションなりニュース映像なりから「ワールドトレードセンター」の崩壊やアフガニスタンで起こっている戦争なんかに通じるような場面を集めたビデオを上映。「アルマゲドン」あり「ヤッターマン」(ほーらおしおきだベー)あり「AKIRA」あり「宇宙戦艦ヤマト」あり「機動戦士ガンダム」あり「王立宇宙軍 オネアミスの翼」ありゲーリングの演説ありデスラー総統の演説ありギレン・ザビの「ガルマ・ザビは死んだ、なぜだ」演説あり特攻あり他いろいろな映像といった具合で、飛行機がビルに突っ込みビルが崩壊する衝撃的な映像を目にしながらも、それがいかに過去の映像や画像の中で”再現”されていたかが分かる。

 間に突如、フルバージョンではさまったワンダフル版「デ・ジ・キャラット」のオープニングが謎だったけど、後のトークでアップテンポな音楽に合わせてくるくる変わるオープニングのグチャグチャした感じがグチャグチャに見えない感性なんかを引き合いに、現実と虚構との転倒めいた話をしていた、よーな気がしたんでとりあえず了解する。けど流石に「『デ・ジ・キャラット』のオープニングはアート」だと言われるとウググッてなってしまうなあ、いやまあ確かに見て凄く感じて素晴らしいアートなんだけど村上さんが言うとレッテル貼りに聞こえてしまうんだよなあ。BOMEさんファンの気持ちってやっぱこんなんだったのかなあ。

 椹木さんは、戦中の著名な画家による戦争絵画と、最近の会田誠さんやヤノベケンジさんや中ザワ克シゲさんといった人たちが描いたり作ったりする戦争をテーマに折り込んだ作品とをつなぐものに小松崎茂さんのプラモデルのボックスアートや成田亨さんのウルトラシリーズにおけるデザインワークなんかがあることを示しつつ、当時も今も戦争絵画はサブカルチャー的な意味あいでもって描かれていて、決して近代芸術のひとつの帰結なんかじゃなかったんじゃないか、ってな思索を示してた。

 これを敷衍して針生さんは戦争中に戦意高揚を狙ったような戦争絵画が超有名な画家たちによって描かれた背景には、官展から発生した近代絵画が民展の繁栄があったり表現形式の模索もあってどんどんと私的な表現へと突き進んだ挙げ句、民衆からの乖離を招いて作家たちに後ろめたさを感じさせていた所に、戦争という一種パブリックな現象が起こって飛びついたんじゃないか、ってなことを話してくれた。

 「うしろめたさ」は一方で真っ当さの概念があってそれとの対比で出てくるもので、果たして今の多様化した価値基準に思想信条が溢れ返っている時代に、かつてのようなパブリックへのすり寄りとして戦争翼賛めいた芸術が再び続々と生み出されるとは思えないけれど、一方で希薄になった主体性に強大なパワーを持ったメディアの啓蒙と、資本主義的な理由、つまりは食うため遊ぶための金欲しさに根ざすシステムへの同調圧力が働いてそれらに意を唱えるような言葉とか行動は、特高とか官憲とかによる捕縛なんて面倒な手続きを踏まなくっても、「不謹慎」と抹殺されてしまう傾向は残っているし強まっている感じすらあって、戦前と今が地続きになっていると言った発言も踏まえるならば、なおいっそうの難しい状況へと転がって行く可能性だってあるのかも、ってな曖昧模糊とした不安に駆られる。かといって「ワナタベ ジュースの素」入り封筒を送る心意気はないしなあ。

 トークセッションではあと村上さんが、前回の奈良美智さんとの対談でも触れていたよーに、あの事件の後、絵を描くのがゲームではなくなってしまったことを強調して、これからどうするんだろうってことを悩んでいたのが印象に残った。活動的には絵画でハイ・アートを向こうのコンテクストに乗っ取った形で極限まで追究する一方で、日本では「芸術道場」やら「HIROPONファクトリー」といった形で新しいものを生み出す場をプロデュースしていくことでカオスを生み出そうとする、引き裂かれた状況に身を投じていく考えのよう。一体どーなるんだろう。

 会場に来ていたおそらくは松井みどりさんが、村上さんの中でその2つは一緒にならないのですか、会田誠さんがハイアートにはならないと言った真意はなんですか、と質問して村上さんが割マジに答えて「一緒にしたいし、会田さんは西洋的なコンテクストでのハイアートにはならないと言っただけで否定するものじゃない」と言っている、その途中で時間が気になった針生さんがフラリと立ち上がって袖へと消えようとしたのを見て、討論を終わって場はお開きに。相変わらず明確な答えは出せないものの、今の状況に対して何かを始めたいとゆー意気だけは伝わってくる内容に、こちらも「戦争と芸術」についていろいろ考えていこうと思った次第。考えるだけならサルでもできるって? だってサルだもん、火の使い方をろくすっぽ知らない。


【10月19日】 真夜中に再放送の「プロジェクトX」。気怠さと気弱さの中に混じった優しさが脳天にだんだんと染みて来る田口トモロヲさんの催眠効果もバッチリな声に洗脳されて気が付くと近所の「セブンイレブン」に「カップヌードル」を買いに走ってしまってた。けどテレビの中に出てきた「カップヌードル」の大きくてプリプリとしていた海老に比べると本物の海老はやっぱり小粒で卵もあんまりフワフワとしてなくって肉なんかカケラしか見えないでやんの。テレビの料理番組はやっぱり当てにならんなあ、って料理番組じゃないんだけど。最初のロケットとか瀬戸大橋とかいった、文字どおりの巨大プロジェクトを取りあげていた頃に比べると、中国残留孤児から新日鐵釜石から何でもありな感じがする「プロジェクトX」だったけど、ちゃんと”20世紀の発明王”だったんで、モノモノしい話が好きな見には結構楽しめた。公共放送なNHKにあって、具体的な商品名が連想され過ぎるものを取りあげたってことはつまり、「カップヌードル」も21世紀に入ってホッチキスとかキャタピラーみたく”代名詞”になったってことなのかな。

 折角の「セブンイレブン」なんで「サイゾー」11月号で大特集されていたイエローキャブの美女軍団の記事に出ていた徳間書店刊「月刊アサヒ芸能エンタメ!」11月号増刊号「イエローキャブ完全BOX 爆裂アイドル見つけた!」(657円)を買って堪能する。何に? なんて聞くだけ野暮ってもんだけど、あえて挙げるなら「ナジカ電撃作戦」とは上下関係にある部分とくらいは言っておこう。それにしても表紙からして爆乳ぶりで(モロバレじゃん)、目下大売り出し中らしーB94(ボーイング94ではない)のMEGUって娘から小池栄子さん佐藤江梨子さん川村亜紀さんといった現在露出トップの3人に加えて初期のキャブを担った故・堀江しのぶさんに後を次いだかとうれいこさんに細川ふみえさん山田まりやさんといった、並んで走られた日はもういったいどこに目をやったら良いのか分からなくなるくらいにすさまじい人たちがたっぷりと掲載されていて、そのボリューム感に「カップヌードル」でいっぱいになったお腹に続いて心まで満腹にさせられる。しかしホント見てみたい気がするなー、イエローキャブの綺麗所の横一線110メートルハードル競技。

 実のところ紗心的には「サイゾー」11月号に掲載された、マネージャーさんが撮ったとゆーアイドルたちのプライベート写真の方がビチッと胸グイ尻クイで決めた写真集の写真よりも妙にソソるところがあって、見目麗しいよりも人間っぽいところを見せた方が男女を問わず人間の魅力を発揮するのかも、ってなことにふと気付く。かといって地べたにペタンとしゃがみ込んで酒盛りされてたりすると女子高生でも萎えるんで、その辺りはやっぱり微妙な限度があるのかも。個人的には「サイゾー」掲載では両脇がらグイっと中寄せした(何を? とは聞くな)小池栄子さんの仕草と表情がナイス。あと事務所でビキニ姿で威張りんぼポーズ下小池さんとかも。目がギョロっとしている割には鼻とかペチャンとしていて整った美人って訳じゃないんだけど、それがかえってあっけらかんとした仕草にマッチしているのかも。

 それにしても不思議なのはサイゾーとイエローキャブの蜜月ぶり。アイドルとか全然詳しくないんで「イエローキャブ完全BOX」を読んで掲載されている若手の人たちの名前が前に「サイゾー」で紹介されていたことを思い出して、芸能界とはあれやこれやそれやどれやでいろいろありそーな「サイゾー」に舞い降りた天使のブラ、じゃない天使そのものの役割をイエローキャブの女性タレント陣が果たしていたのかな、ってなことを考える。野田義治社長の語録とか読むとマイナーな雑誌にだって断らず露出をさせて少なくっても読者のハートを強烈に掴んで、後の人気につなげていこうって戦略みたいで、「サイゾー」なんかも侮らず認めてタレントを出していたんだろー。お陰でトランジスタ的にキュートなかわい綾さんとか、大人っぽさと子供っぽさが同居して、エキゾチックな部分も見える小野愛さんとかに「サイゾー」の記事でヤられてしまったんだから、作戦は見事に成功だったってことで。日の出が日の入りになりかかってる事務所もあったりするけれど、イエローキャブはまだまだ不滅、でしょー。

 本屋に行ってハードカバーのSFを探す。藤崎慎吾さんの新刊と菅浩江さんの新刊があったけど菅さんのはホラーで藤崎さんのも未読だけどストレートなSFって果たして言えるか微妙な所がありそーで、ホラーな当たりとの区分けがちょっと難しそー。こんなんで果たして……と考えていても拉致はあかないし、別にそれのために読む訳じゃないんで構わずに両冊とも買い、さらに徳間デュアル文庫から5冊まとめて出た書き下ろし中編叢書「デュアルノヴェラ」を買って真っ先に北野勇作さんの「ザリガニマン」(476円)を読む。えっ、そうなの? 子供の頃に田圃で穴に手を突っ込んでつかまえた色の緑黒いザリガニはニホンザリガニじゃなかったの? あれはアメリカザリガニの幼生だったの?

 って疑問はさておき「ザリガニマン」、説明的な記述をせずに物語の展開の中で世界の置かれた状況めいたものをほのめかしていく様は、裏表になるらしー前作「かめくん」とも共通するところだけど、主体としての「かめくん」がいてそこを中心に狭い穴から世界を見ている感じが不思議に心地良かった「かめくん」に比べると、「トーノヒトシ」とゆー主体はあっても「かめくん」よりは若干、下がった位置から世界全体を俯瞰しているっぽい雰囲気があって、「かめくん」にあって読んでいる人たちの心を安心させた虚無感、脱力感めいたものも薄くなってるかな、って気がした。

 のぞき穴から世界を見せるよーな構造自体を解析する楽しさは依然あるけれど、意識が分散され折り重なっていくよーに進んでいく後半からちょい話が難解になって、朴訥な感じが一気にシリアスなものになってワクワクとした感じが後退してしまうんだよなー。それでも「ザリガニィ」が起動し発生していくプロセスでの、背景となった事件と背後にあるとてつもないテクノロジーといった設定面での複雑さ、壮大さは流石なもので、読み終えた時に脳裏に浮かぶ世界の置かれた状況のすさまじさといったら凡百のSFを凌駕して余りある。「ぽちょむきん」に似た変身ヒーロー・パロディを想像させるよーな表紙に帯もどうかと思うけど、そーゆー煽りを気にせず読んでその凄さに驚こー。


【10月18日】 世知辛い話の続きで本屋に行ってハードカバーのSFを探したけど売ってなくって、これはなかなか困ったことになりそーとの心配を胸に抱きつつ、渋谷を東急本店の方へと向かい「クラブエイシア」へ。アスキーがAIIってソニー関連のブロードバンド向けコンテンツ配信会社といっしょになってインターネット向け&劇場公開向けの映画を作るってんでのぞく。あんまり有名じゃない人が出ている作品で、エグゼクティブプロデューサーと死体を務める「週刊アスキー」の福岡俊弘編集長によれば予算はタイタニックの1000分の1とかで、だったら2000万円かなあとか思ったら200万円って言って、それでも「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」より100万円少ないって言ったんで、たぶん200万円当たりが正解なんだろーと納得する。天本英世さんみたいな有名人とかは誰も出てないし、東京芸大の日比野克彦さんとこの生徒が協力したって言ってたんで、まあそれくらいでも妥当か。

 内容については試写を見ずに出てしまったんで不明。最初はインターネットラジオで音声だけ流して、これからインターネット向けの映画を流して謎とかと振りまいて、最後は劇場での公開版ですべてを解決させるって数段構えの企画になっているとか。インターネットで見た人がわざわざ劇場まで足を果たして運ぶのか? って疑問はさておき、アスキーの文字が劇場のスクリーンに映し出される瞬間があったとしたら、感慨深い人なんかも結構いそーな気がして、割と長い期間、外からだけどこの会社を眺めて来た身としてちょっぴりフクザツな気持ちになった。

 会見の中でいみじくも福岡さんが言った「アスキーが映画に手を出すと株価が下がる」とゆー言葉がさてはて、赤いトマトがどーしたとかゆーアスキー映画社の時代の話なのか、それとも「テック」シリーズのCD−ROM付き雑誌に天願大介さんが監督で阿部寛さんだかが出演している短編映画を収録して売ろうとしていた時代の話なのか、はたまた吉野紗香さんを起用したインターネットドラマを作って1日1分、「ドリームキャスト」向けに流そうとしていた時代の話なのかがちょっと分からなかったけど、傾城のコンテンツにかくも度々手を出して、幹部たちを激怒の果てに出奔させ新オーナーを無念のうちに死なせ創業者を断腸の中にリタイアさせてもなお、ちゃんと会社だけは残っているのはちょっと凄いかも。百戦錬磨の会社にこれからも幸あれ。ところでちゃんと面白いんだろーか、「シンクロニシティフェアリーテール」って。

 抜け出して「bunkamura」のミュージアムで開催中の「ジョージ・シーガル展」をのぞく。石膏で型取った人体を配置したインスタレーション作品なんかで知られる人で去年だかに無くなってしまって、今回がその後の大々的な初の回顧展ってことになってしまったけど、大昔にえっとあれは今は無き「セゾン美術館」だかで見た時には記憶に留まらなかった初期と末期の絵画作品が見られたのがひとつの収穫。初期の抽象っぽさがのぞく色彩とフォルムだけの女性像に対して、末期の絵画作品は緻密でリアリスティックなデッサンといった感じで、顔だけじゃなく生肉とかも描いてあって画家の興味の持ち所の変化なんかが想像できて面白かった。若いころは女性に萌えてて歳を取って食欲に興味が移った、とか。まさかねえ。

 けど絵画から彫刻に移ってもなお女性に対する関心の強さは相当に強かったとうかがえて、周囲をくるんで型を作った後で中身を抜いてそこに石膏を流し込んで固めて取り出して作っているらしー、人形(ヒトガタ)の作品の展示してあるほとんどが女性でそれも裸ばっかりで、芸術的な情熱はそれとしてペタペタと触っている間はたぶん楽しかっただろーし、像を作り上げた時にそこにくっきりと映し出された女性に特有の線なり器官の跡には、実物ではないが故の興奮を覚えたんじゃなかろーか、って俗人の感性で言ってしまってはちょっとマズいかな。けどやっぱり、像になってそこに定着させられたボディの胸は尻の丸みなり股間の淡い茂みなりからもよおす劣情は、複雑だけれど結構大きい。人間って困った生き物です。

 もっとも官能、じゃない感銘を覚えたのが「毛布に寝る少女、腕を目にかざして」って作品で、ゴジャラっと盛り上がった毛布のくぼみに少女が裸で上を向き手を顔の上に載せ、足の下とか体の縁とかを毛布の下に入れて横たわっている姿を型取りした作品なんだけど、薄くてそれでも先に乳首を尖らせて、薄いながらも少女と分かる胸を淡く盛り上がらせている少女の姿態は生身以上になめまかしく且つ神々しく、つるりとした腰の線なんかも相まって見る人(趣味に偏りのある人かもしれないけれど)の目を釘付けにして止まない。時間があったら1日でだって見下ろし拝んでいたい気になったし、無理を承知で体に触れ一緒に添い寝をしたくなったけど、そんなことをしたら傍目にはやっぱり”趣味”の人に見えて敬遠されてしまうだろーし、だいいち時間もなかったんで瞼に深く焼き付け刻み込むに止める。

 それはそれとして、真面目に考えるなら人間のパーツが芸術家の探求した美じゃなく生身をそのまま移したものとして固定化され、日常の断片の中に定着させられた作品群から受ける、日常を客観視してハッと我に返る感覚は相変わらず。同じ型取り系でもスーパーリアルにシワから毛から衣装までを実物と同じにしたデュエイン・ハンソンとは決定的に違う、行為としてのアートに加えた思想としてのアートがやっぱりあるってことなんだろー。「世界文化賞」もだからこそ受賞できたのかな。展示スペースは決して広くなく展示作品も山ほどって訳じゃないけど、どこかで見たことのある有名な作品とかもちゃんと来ているよーで、最初は違ったけど図らずもそうなってしまった回顧展としての役割は存分に果たしているみたい。間もなく終了なんで近くに行った人はのぞいて毛布の美少女の尖った乳首に官能し感銘して下さいな、ってそれは僕だけか。


【10月17日】 世知辛い話を聞く、うーん世知辛い。薄利多売じゃ送料とかのコストが出せないんで単価の低い商品に手間暇かけてらんないってゆーけれど、ポップを立てて客の目を引く商品なんてものはそれ自体が売れて悪い訳じゃないものの、中には血を流してでも客をそこに集める一種の看板として機能してたりするものもあったり訳で、そーやって集まった客を相手にこんな商品もありまっせと、高くって利益も大きい商品を見せて買っていかせるってのが商売ってものなんじゃなかろーか。客も集まらない場所に、超高級な高い商品をズラリ並べて懇切丁寧なポップを立てたところで、果たしてどこまで効果があるのかってゆー疑問がやっぱり浮かんで仕方がない。集めた客に他の品物も買ってもらうよーな仕掛けをやろうって雰囲気が見えない中で、高級志向をいきなり打ち出しても「紀伊国屋スーパー」にはなれないと思うんだけどどーだろー。まあこっちも仕事なんで求められた品物に対していくらでもポップは書くけれど、書いたポップがそれ単体の予想範囲におさまる商売にしかつながらないよーな下手はあんまり打たないよー、呼び込みにしても並べ方にしてもセールストークにしても、ちょっとは工夫してるってところを見せて下さいな、店主さん。

 なんて意味不明の妄想をつぶやきつつ読書など。まだ本格的に始動する時期じゃないんでそれほど数はないけれど、本を読む地力だけは今から養っておかないと、責任のある仕事はできないからなー、ホント頑張らないと、将来にも関わる話だし、ってゆーか将来に関わらせたい話だし。さて奥泉光さんは夏目漱石の「坊ちゃん」にタイトル面でのオマージュを捧げたみたいな小説「坊ちゃん忍者幕末見聞録」(中央公論新社、1800円)をパラパラパラパララ……うーんどこが「愛と希望の歴史ファンタジー」なんだろー。東北の田舎で養子先の大叔父から忍術を教わった主人公、同年の知り合いに誘われ医者になるべく江戸に登ろうとしたものの、折からの尊皇攘夷の風に当てられたその知り合いが、京へと上った志士の門弟になるべく自分も京へと上ると言い出してもう大変。金を出してもらっている以上は嫌とはいえず、尊皇攘夷の風吹き荒れる京の都へと連れだって向かうことになる。

 途中知り合った人たちとあれやこれやしながらの膝栗毛。どーにか到着した京に知り合いが目的とした志士はもうおらず、それでも折角だからと勤王の志士然としてあちらこちらに出入りを始めた知り合いを横目に主人公は医師の下へとついて修業を始める。が、新撰組に佐幕派に開国派、土佐に長州に薩摩といった幕末ストーリーにつきものの人物やら団体やらが跳梁する中、どちらかといえば開明的な医師の弟子とゆーこともあって争いに巻き込まれる形となって、襲われたり裏切られたりと大変な目にあう。「坊ちゃん人じゃ」とタイトルにあっても、忍術を教わった忍者といっても別に蝦蟇になる訳でもドロンと消える訳でもなく、忍び込んだり隠れたりといったノウハウを持つくらいの主人公が活躍できるはずもなく、幕末の動乱に重大な役割を果たした男の一代記なんてものじゃなく、驚天動地の幕末に田舎から放り込まれた青年のドタバタ見聞記ってのが、読みおえてのだいたいの感想。正直にいえば圧倒的な冒険話を期待していた身には「だから、何?」って拍子抜けした感慨が浮かんで仕方なかった。

 ファンタジーって部分も主人公の頭に現代日本のビジョンが時折浮かぶあたりを評して言っているっぽい所があるけれど、それが幕末のピリピリと来る緊張感をもって現代を風刺する訳でも、現代の適当さが事をうまく運ぶ状況でもって過去を揶揄する訳でもない、異化効果とゆー割にはちょっとした変奏めいた効果を醸し出す程度の導入で、どーして敢えてそーゆー展開を盛り込んだのかが1読ではちょっと分からず悩む。同じ過去と現代のごった煮によるマジカルな雰囲気づくりだったら高橋源一郎さんの「日本文学盛衰史」(講談社)がカッ飛び過ぎてたんで、奥泉さんの技がちょっと大人しくみえてしまったのかもしれない。キャラクターの造形力はさすがで、主人公の知り合いの寅太郎が見せる卑怯千万ながら憎めない態度とか、朴訥とした性格で兄思いのところがある主人公の妹のお糸の健気さとかは笑えて泣ける。こーした心地よさにまったり感を箸休めににして、次は再び「グランドミステリー」なり「鳥類学者のファンタジア」なりな、圧倒的なエンターテインメントにして圧倒的な文学を奥泉さんには見せてもらえれば有り難い。

 また虐待かPTSDかトラウマか。って思うのも当然なくらい世に虐待とかPTSDとかトラウマとか境界例とかアダルトチルドレンとかいった、精神の分野に関わりを持った事件を軸にした小説があふれていて、正直うんざりさせられているところもあるけれど、先達が山とあっても収まるどころかなおいっそう数を増やして来ているのは、こーした事柄を生み出すくらいに世の中が変わっていて、こーした事柄を厚かった物語を書き手も読み手も欲しがっているからなんだろー。もっともそこは流石に藤木稟さん、幻冬舎から「隔月刊 藤木ワールド」って帯も鮮やかいスタート下文庫書き下ろしの分冊シリーズ「CROOK1」(幻冬舎、457円)は、父親に木っ端微塵にされる女の子とゆー衝撃的なプロローグを経て、寝たきりの父親と女医の母親の下で育った少年が肉体的にも心理的にもいろいろあって、部屋に謎めいた生物「X」を買うよーになったとゆー設定を主軸に、折れ曲がった子供の心を歪みきった母親の心と崩れ去った周囲の人たちの心がもたらす、恐ろしくも悲しい出来事を描いていく。

 誰が物語の本当の主役で誰が物語りの本当の悪役なのかも見えない手探り状態だけど、巻末に鮮やかに登場した、普段は感情を露にすることなく何事に対しても合理的にしか振る舞えないのに、事が児童虐待となると何が何でも関わろうとする女性ケースワーカーの桜木圭子とゆーキャラクターが醸しだす、恐ろしくって眩しくって鳥肌が立ち興奮させられる雰囲気や存在感はなかなかで、謎を持つ少年と秘密を持った母親の対立がとりあえずは基本線になった物語のなかで、どんな立ち居振る舞いをしてくれるのかがちょと楽しみ。圭子自身の謎めいた性格の秘密も含めて、果たしてどんな物語がこれから展開し、どんな解決がなされるのか、2カ月に1回の刊行を期して待とう。同じよーな分冊形式の清涼院流水さん「トップブランド2001 天使エピソード1」(幻冬舎、457円)はとりあえずパス、立ち読みすると相変わらずヒネた内容って感じだけど、今の清涼院さんって一体どんな層が読んでいるんだろー。昔サイン会で見たゴスロリっぽかったりカラスっぽかったりする黒尽くめの女性陣、なんだろーか。

 続編はあるのかな、って読んで思ったものの作者的にはこれが完結だったらしー太田忠司さんの「3LDK要塞山崎家」(幻冬舎、781円)だけど、出版社的に受けたのか作者的にも思う所があったのか、直接的な続編ではないものの一種のシリーズっぽい雰囲気とタイトルを持った「建売秘密基地 中島家」(幻冬舎、600円)を上梓。リストラに合って仕方なく家にいながら「ナンデモサービス」を始めた父親の中島八郎について少年が行った山の上にある城のような豪邸で、出てきた父親の同級生だったとゆー男が持ちかけてきたのが「家を交換しよう」とゆー驚きの提案。明らかに得するよーに見えるその交換を、家族のための毅然として断った父親だったが、そこで引っ込む相手ではなく、2人を監禁しては城を要塞へと変形させて、中島家の建売を奪い向かうのだった。

 いったい中島家には何があるのか。城に済んでいた伊呂波家と中島の家との間にはどんな因縁があったのか、ってなことが次第に明かされていくんだけど、お話し自体はくんずほぐれつの忍術バトルに超能力バトルが展開されて、「こんなこともあろうかとby真田さん」的な秘密兵器の登場も加わってどんどんとエスカレートしていく楽しさを味わえる。冒頭に描かれる海底の恐怖と宇宙の謎と山奥の驚異が本編と一体どんな関係があるのか最初は分からなかったけど、最後まで読んでなるほどと納得、そーかこーゆーオチだったのか。「山崎家」よりもさらに続編の期待できない完結&大団円の物語だけど、「山崎家」から「中島家」とバリエーション的に変奏される不思議な「家」のシリーズが立ち上がったってことは確かなんで、ここは一つとゆーかさらに一つ、奇妙な「家」で繰り広げられる楽しい家族のドタバタを、描いて頂ければとっても嬉しい。期待してます。


【10月16日】 高橋玄さんの新作映画「LADY PLASTIC」で思い出したことあれこれ。西岡徳馬さんが演じている映画監督がまだ若かった頃、小嶺麗奈さん演じる女優のために脚本を書いていたシーンを撮ったアパートが、何とも昔の下宿っぽくってどこで撮ったのか気になった。部屋の中に座って廊下側に開け放たれた窓に向かって机を置いて脚本を書いていたんだけれど、今時のキッチンが入り口にあるアパートではちょっと再現不可能な光景で、昔ながらの下宿屋がどこかに残っているんだなー、ってなことを考えた。実家の近所にあった下宿屋とか、大学の時に先輩たちが住んでいた下宿屋もそーいえばキッチンも風呂もない部屋オンリーの下宿屋で、扉の横の窓が廊下に向かって開いていたっけ。

 予算規模から推測するに、まさかセットってことはないだろーから、30年前の「若者の暮らし」を再現するため、にいろいろロケハンしたんだろー。苦労、報われてます。その若かりし監督と小峯さんが2人で道路を歩くシーンは、走り過ぎて行く車のテールランプに今風のが結構交じってたよーに見えたけど、そこまで見る人もいないんだろーからあんまり関係ないってことで。監督が書き上げた脚本を見る当時の映画プロデューサーの雰囲気なんかは昭和30年代っぽさ(40年代かもしれないけれど)が多分バッチリ。ストーリーだけじゃなく、こーゆー大道具小道具演技その他でのこだわりぶりからも、作った人たちの映画好きってな部分が伺えます。まだしばらく「シネマ・カリテ2」でレイトショー公開中。

 そうそう、「プラモデル・ラジコンショー2001」で京商から出ていた宮武一貫さんデザインの「ガンウォーカー」とかってな二足歩行ロボットなんだけど、日曜日にも行って説明をゆっくりとながめていて実はいろいろ仕掛けがあったことが判明。二足歩行で重要なのは足を上げた時の多分、どーやってバランスを取るかってところなんだろーけれど、この「ガンウォーカー」、実は足の裏に吸盤が付いていて……ってのは嘘で実は重力発生装置が組み込まれていて……ってのは実はちょっぴり当たって、足の裏に仕込まれた電磁石が鉄板になった床にピタリを吸い付いて、片足だけでも体を安定させるよーに働いているんだとか。うーん、ちょっと反則。

 ソニーでもタカラでも北野共生システム研でも、世の中の二足歩行ロボット開発に関わっている人たちがどーやってバランスを取るかで一所懸命になっていろいろ工夫をしているところに、安定しないんだったらくっつけちゃえば良いじゃん、とばかりにこーゆーアイディアをぶつけて来たのには感銘。膝のあたりを軸にしてグルリと体を回して方向転換する時の格好良さはは他のロボットにはないもので、人型ロボットが動く時の重量感とスピード感を同時に表現している感じがして、これこれこーゆー動きが見たかったんだと叫びだしたくなった。このロボットを楽しむために、一面に鉄板を敷き詰めておいた部屋を用意しておきなくなったけど、残念にも我が家はすでに床の1センチ平方メートルすら見らず、鉄板のブロック1枚分すら置けない悲惨な状況。余裕のあるのは中空ばかりなんで、メーカーにはもうちょっと頑張ってもらって、強力な電磁石でもって作り出したパワーの拮抗するポイントを飛ぶロボットでも作って戴きたい。肩こりとか瞬時にとれそうな部屋になりそーだけど。

ロボットと言えばコロ介だって可愛く見えてしまうくらいに不細工なクマの形をした新型「AIBO」が登場して、クールでスタイリッシュな「AIBO」に親しんでいた世代に激しい衝撃を与えているけれど、オムロンが11月20日に発売する「ネコロ」ってペットロボットは別の意味でペットロボットの分野に衝撃を与えそう。っても別に背中から羽が生えているとか手足がミサイルになるとかいった鬼面人を驚かす的な衝撃じゃなくって、見れば分かるけど外見はまるでネコのぬいぐるみで手触りもまるで本物のネコの様。実はこのネコロボット「ネコロ」にはネコの本物の毛皮が使われていて、製造にあたっては1匹づつ、生きているネコを捕まえて来て皮を剥ぎ内蔵を抜き……大嘘です、毛は人工毛でアクリル製。なぜるとカーペットのよーな感じがするだけです。

 じゃあ何が衝撃かと言えばそれは写真を見れば一目瞭然、不細工なんですわ、このネコの顔が。ネコの顔にもタヌキみたいな丸顔とキツネみたいに口が尖った顔があって人によっては好きずきがあるんだろーとは思うんで、実家で長年飼って来たネコがどちらかと言えばタヌキ系でキツネ系の顔を見慣れてないから、どちらかと言えばキツネ系な「ネコロ」を単純に好き嫌いでもって不細工なんだと断じるつもりはない。たとえキツネ系でもシャープに整った顔ってのがある訳で、その点から見るとこの「ネコロ」、どこかバランスが崩れてしまっているよーに見える。

 いくつか挙げればまず目が吊り上がり過ぎで口が大きすぎ。アゴがなさ過ぎでその割に首が長過ぎといった感じで、ネコに特徴的なあのコロコロとしてゴロゴロとした感じがあんまりない。それでも動けば多少は感情も移るものなんだろーけれど、果たしてどこまでネコ特有のあのしなやかさが出せているものかどーか。会見に行かなかったからハッキリしたところは分からないけれど、抱き上げると腕のなかでグニャンとし、尻尾を引っ張るとカチンとするあの自在な変わり様を体験できるのかってのも気になる所で、17日から予約を受け付ける高島屋の店頭にもしかして出てくるんだったら、行って触って抱き上げて紙袋にいれて毬にしてポンと蹴ってニャンと鳴かせてみたい。「ねこじゃねこじゃ」と囃しながら鉄板の上に載せて下から火であぶるってのも(やめなさい)。18万5000円。

 「バビル二世」の70年代テイストが各方面に多大な衝撃を与えているけど同じくおそらく70年前後の原作を土台にしているアニメーション映画の「シャム猫」も、衝撃って意味では「バビル二世」に引けを取らないものを与えてくれるんで、見られる人は公開中に見ておいた方が良い、かもしれない。金は返さないけどね。普段はDJをやっている2人の美女が実は内閣調査室に所属するテロ特殊部隊の凄腕エージェントで、事あらば駆け付けてガンアクションに肉弾戦を繰り広げては事件を鮮やかに解決してまた去っていく、とゆーのが基本設定。まずは冒頭、横須賀だかに置いてある三笠って戦艦をテロリストたちが乗っ取り、今まさに旬中の旬ともいえる炭疸菌入り砲弾をぶっ放そうとしている所に乗り込んだのが「シャム猫」たち。目測でおよそ5メートルくらいの位置に止まっている車を搭載している大砲で撃つとゆー常識ではおよそ考えられない技を見せた後、「宇宙戦艦なんとか」よろしく固められた基底部を破壊して海へと乗りだした三笠へと乗り移り、絶対に当たらない弾をよけながら必ず当たる弾を撃って鮮やかにテロリストたちをせん滅して見せる。

 そして本編。お台場に通じる道をすべてふさいで占拠した僅かに100人程度のテロリスト、そのスタイルも長髪で髭で白い学ランで袖を通さずコートを羽織る二枚目番長風とゆー「アジアの虎」とこ海堂を捉えるべく、「シャム猫」とそして国防軍からも対テロ部隊の精鋭たちが送り込まれるんだけど、有明にある原子力発電所へと乗り込んだ「シャム猫」を待っていたのが電磁ムチ使いの女テロリスト。銃弾を避けふるうムチにさしもの「シャム猫」たちもかなわずあっさりと捕まってしまう。危うし「シャム猫」と思われた次の瞬間、2人の女エージェントが懐から取り出したのは飾りのついた小さなステッキ。「ぴぴるまぴぴるまぷりりんぱ」「ぱぱれほぱぱれほどりみんぱ」とゆー謎めいた呪文を唱えながらステッキを振るとあら不思議、女エージェントは1人が婦警、もう1人はナースとなって女テロリストに反則切符を切り点滴を打ち、倒してしまったのだった……ってのは冗談だけど、見ていた人の多くが(っても5人だけど)そー思っても決して不思議じゃなかっただろー、だって「シャム猫」、ジュンが林原めぐみさん、ナオミが小山茉美さんとゆーペアだったんだもん。「ドラグスレイブ」に「んちゃ」でも勝てたかな、楽々と。

 もちろんムチ使いの女テロリストってのは本当で、このテロリストは後々も出て「シャム猫」たちと激しい戦闘を繰りひろげるんだけど、最後はどうどうと流れる滝の水にのまれて行方不明になってしまう、うーん熱血風。もっとも滝とはいっても実は流れ落ちるダムの水で、最初はしまっていたダムの水門を上げたのが実は「シャム猫」のひとり。とてつもなく巨大な湖を作っているダムの水門を、小さなハンドルを回しただけで開いてしまったそのパワフルさを見るにつけ、女テロリストごときがかなう相手じゃなかったな、ってな思いを強くする。いやすさまじい。すさまじいといえばテロリストがヘリコプターから放つミサイルが民家の前に止まっているパトカーだけをちょっとだけ破壊して、側にある壁も当然ながら民家も破壊しなかった点にも感動感銘、こんな限定した効果が出せる武器があるんなら、アフガニスタンで米国軍が民間人にいっさい傷をつけずにテロリストだけを狙って空爆するのもまんざら不可能じゃないのかも。武器って進歩、してんだなあ。

 進歩といえばテロリストの海堂が狙っていた国防軍の最新型の秘密兵器「アルテミス」のすさまじいばかりの威力にも驚くこと大。普段はまるで背景美術と同じよーな質感でキャラクターたちの後ろに鎮座ましましているだけなのに、動き出すと中空にうかんで重力を無視して漂いはじめる。上空から見おろすと自動車よりやや大きい程度に見えるのに、街中でしたから見上げると10階建てのビルよりも高そーな威容を誇っている、その伸び縮み自在の柔軟性には感動するより他にない。お爺ちゃんを助けたいとテロリストに身を委ねた少年が、その「アルテミス」のキーとなって国会周辺のおよそ直径1キロをクレーターに変えてしまう展開も、弱きと優しさが甚大な被害を招くんだとゆー教訓になっていて勉強になる。これに「ナジカ電撃作戦」並みのパンツが加われば今ミレニアムにおいて最高のアニメ作品になることは間違いない。ほかにも山ほど驚ける場面があるけれど、あんまり驚き過ぎて悩の容量を越えてしまってはっきり覚えてないのがちょっと残念、残りは見た他の人のリポートに任せることにしよー。

 それにしても贅沢キャスト&スタッフたち。「ぴぴるまぴぴるま」な主役の両人といー国防軍の対テロ部隊のリーダーを演じる池田秀一さんといー、郷里大輔さん飛田展男さん島田敏さん堀内賢雄さんといった声優陣の素晴らしさ、松田優作さんの代表作「探偵物語」で印象的なテーマソングを担当していた「SHOGUN」のリーダー、芳野藤丸さんを起用した音楽の素晴らしさは感動もので、さすがは世界に冠たるモンキーパンチさんの原作作品だと言えそー。過去に結構な数見たアニメの中でも、その凄さは「ガンドレス 劇場公開版」にはちょっと劣るけど、「ガンドレス 完全版」ははるかに凌駕しているだろー。高橋ターヤンさんが「あなたの期待を裏切らないと断言」した気持ちもよく分かる。映画評論のプロだろー高橋ターヤンさんが「当然製作されるであろう第二弾、第三弾での再会を楽しみにしようではないか」と言っている以上、当然続編は製作されるものと期待して良いんだろー。「ガンドレス2」よりは早く見られるかな。


【10月15日】 ちょーうつだしのう。って本気に受け取ってもらえるとは思ってないけれど、死にたいかどーかはともかく憂鬱の度合いが一段を濃くなったのは紛れもない事実だったりして、死なないまでも精神的にいかれてしまう可能性は決して全然低くない。例の「ジープ・チェロキー」の広告を問題視する見解の出所が次第に判明して、中間段階なんかをすっ飛ばしたゼウスのいかづち的ともヤーヴェの洪水とも取れそーなレベルでの、角川春樹さんも吃驚な直観(おもいつき)が働いていたと知って、角川春樹さんの当たる確立推定9割な直観だったらいざしらず、過去の経験から想定できる当選確立だったりするその直観を、嬉々として披露する方も方なら諾々として下まで落として来る方も方だったりして、その一糸乱れぬ団結ぶりに心底からの感動を覚えると共に、未来へのぼんやりとした不安が身をジクジクと震わせる。

 留まるところを知らない直観のスタンピードによって連れていかれる場所の、ペンペン草すら生えないサウスダコタの町外れに広がっているよーな砂と岩の平原だったりする可能性に思いをめぐらせると、とてもじゃないけど健康に自信がなく、直観を唯一にして絶対的な正しい道として理解できない頭しかない僕にはちょっと着いていけそーもなく、来るべきレミングも吃驚の大行進を前にここは潔く身を引くべきなんだろーか、なんてことを考えてしまう。たくましい想像力によって存在していない事実を暴き出し、社会的に冷遇され続けて来た訪問販売の洗剤屋とか30数万円するファクシミリの会社とかにも暖かい目を向けるといった具合に、他のメディアが意図して近寄らなかった場所へと深く分け入っていく超前向きなスタンスも、気の弱い身にはちょっと荷が重い。まあ身を引くより以前に一致団結が苦手で体力も知力もない身では、退場させられる可能性もない訳じゃないんで、身の振り方も含めて次を考えながら迫る年の瀬をしのぐための方策を探ることにしよー。

 随分と昔に読んで面白いと思って感想も書いた「麻子先生の首」(古川書房、1300円)とゆーホラー小説の作者で実はホラー系の映画の世界ではずいぶんと映画監督だったらしー高橋玄さんが、間に宮崎学さん原作の「突破者太陽傳」を挟みつつホラーテイストの映画に戻って撮った「LADY PLASTIC」って映画が新宿の「シネマ・カリテ2」でレイトショーとして公開されていると聞いて見に行く。すでに上映がスタートしてから何週間かが経過しているみたいで、おまけにハッピーでもないマンデーだったりしたこともあって、夜の9時10分からの上映に入っていた人は10人程度と少なかったけれど、スクリーンへと映し出された映画は、小嶺麗奈さんとゆー端正な表情を凛とした声に特徴ありまくりな女優さんに、西岡徳馬さん力也さんとゆー2人の超個性的なベテラン俳優を得て、単館のレイト上映がもったいないくらいに楽しめる作品になっていた。

 冒頭こそ声のガサガサとしてセリフも棒読みの女優の目からいかにも作り物って感じの目玉が飛び出して来て、相手をしていた石田純一が常にどこかにインチキ臭さを漂わせている石田純一的な演技でもって仰天するとゆー、どう煮ても食えそーもないフィルムが現れていったいこれはどーしたものかと頭を抱えたくなったけど、直後にそれは単なる映画の1場面だったと判明してひと安心。そこからストーリーは、映画の特殊メイクを専門にやっている主人公の青年が出会った不思議でちょっぴり怖い体験へと進んで行くことになる。この青年の演技も最初はちょっぴりぎこちなかったけど、演じているうちに上手くなったのか見ているうちに慣れたのか、それほど気にならなくなって、繰り広げられる物語に気を向けることができた。デジタルで撮影したのをフィルムにしたってことらしく、そのせいかどーかは不明だけど、映像の輪郭にシャギーが出たり勢い良く動く間弁でノイズが出たりしているよーな印象があって、ちょっぴり気にならないでもなかったけれど、物語の本質には関わらない部分なんで、技術的な発展をここは願うだけにしておこー。

 さて映画の方はと言えば、本当は冒頭で石田純一の相手をしていて、次に幻の巨匠と呼ばれている西岡徳馬さん演じる映画監督の幻の作品に主演することになった女優の顔を型取りしたはずなのに、型から抜いて青年が見たものはまったく知らない女性の顔で、不思議に思いつつも青年はその顔にメイクを施し天の声にそそのかされるよーに青い目を入れ、髪もつけて実物と見間違えるよーな”プラスティックの女性”を作り出してしまう。ところがそのダミーの顔は、幻の巨匠にとって因縁浅からぬ女性の顔とそっくりで、驚いた監督は、ダミーを作った青年を映画のスタッフへと招き、彼に事情を隠してダミーを使った映画を撮ろうとしたのだった。ダミーの女性と監督とはいったいどんな関係なのか。監督が撮ろうとしていたのはどんな映画だったのか。すべてが判明した時、30年もの年月を経てなお渦巻く怨念のすさまじさが浮かび上がり、見る人を戦慄の渦へと叩き込む。

 特殊造形はこーして作られる的な勉強もできて、流石は造型家集団の「buildup」が絡んでいるだけの作品だってことを思ったけれど、そーしたお楽しみ要素は要素として、本質的な物語の部分での何とゆーか「映画への愛」めいたニュアンスが全編に漂っている気がして、いろいろと紆余曲折を経ながらも未だに映画を撮り続けている高橋監督のパーソナリティとの関係性なんかにちょっと、思いを馳せてしまった。人形が登場するホラー映画に付き物の、人形による恐怖の行為に吃驚させられたのはそれとして、女優に執心し監督に執心した女優の果てしなく強い想いにいたく感銘を受けたのも事実で、そんな想いが30年の時を越えて成就するかしないかってな展開が身に染みて来るにつれ、恐さを越えて登場人物たちの一途さへの賛意が胸を打つ。

 エンディングのハッピーぶりも見終わった時の心地よさにつながっている感じがあって、こーゆー映画こそ昼間の劇場でアベックなり、映画が好きで好きでたまらない人たちなりに見て欲しいて気がして仕方がなかったけれど、残念なことに高橋玄さんて名前で見に行く人のどれだけ映画ファンの中いるのかちょっと不明で、どんな作品であってもとりあえずは注目され関心を集める大林信彦さんが監督なんかを務めていたとしたら、それこそ「ハウス」の昔に戻って大注目を集めたかもしれないって考えると、例えビッグネームなんかじゃなくっても、凄い才能はゴロゴロしているだろーはずなのに、そんな才能にスポットを当てて大フィーチャーして、業界全体を活性化させるなんてことのあまりない、日本とゆー国のメディアなり業界なりが持つ構造的な不全さを感じて気が滅入る。うーん残念。

 けど映像的な部分とか、音響的な部分とかいった点での見聴きして得られる気持ち良さはなかなかで、シャギーにノイズにちょっぴり長いかな、って思わせるよーな部分の改装さえなされれば、大林さんなんて過去の人にしてしまう位(すでに過去の人なのかもしれないけれど)もっともっと注目を集めそーな作品であり、映画監督だって言えるだろー。いつまで上映されているのか分からないけれど、とりあえずは押さえておくのが吉。しかしホント、小嶺さんとダミー人形ってどこまでちゃんと小嶺さんでどこまでダミーが使われているんだろー。画面で見てもホント、分からないんだよなー。それだけでも造形に当たったチームのテクの凄さが伺えるってものなんだけど。


【10月14日】 うつだしのう。ダイムラー・クライスラーって会社が10月11日付けの読売新聞とかに出した広告が、イスラムと西洋文明の対比っぽいレイアウトになっていて、あまつさえ「二つの世界を制覇する」とか言ったコピーがついてるとかで、文明の対立を煽っている節があるとゆー。会社的には同時多発テロとその後の米英軍によるアフガニスタン攻撃は、絶対悪のテロに対する絶対正義の鉄槌に過ぎないものであって、それを”文明の対立”的なニュアンスで拡大して捉えるのはケシカランとゆーことらしく、ダイムラーー・クライスラーに真意を聞いてみては、ってな電波が電話に飛んで来たって話が前にあった。

 最近になってよーやく実際に当該の広告を確かめてしばし呆然。その突拍子もない想像のスタンピードぶりに、こーゆー発想を持っていなければメディアってのは競争に勝ち残ってはけないのか、でもってその中で上へと地位を登り詰めてはいけないものなのかとゆーことを、つくづく思い知らされて気持ちが沈む。広告が扱っているのはダイムラー・クライスラーでも元クライスラーの方が出している四輪駆動車「ジープ・チェロキー」。それが画面の右手側ではアリゾナだかグランドキャニオンだか垂直に切り立った崖の上に置かれていて、左手側では高いビルの屋上に置かれている構図になっていて、見れば瞭然、オフロードでは当然に強いジープだけど、シティでオンロードで乗っても格好良いんだぜってな主張がそこからくみ取れる、ってゆーかそーゆー主張しか伝わってこない、実にストレートな商品広告になっている。

 日本じゃパジェロにしたってランクルにしたってオフローダーってよりは街で転がしてちょっぴりワイルド(死語)な気分になれるアイティムだって知られているし、実際にそんなセッティングがされているけれど、向こうの車は質実剛健が信条なのか、山は山、街は街ってゆー作りになっていて、街乗りでの需要があんまりなかった。それが新型の「チェロキー」では街乗りにもオッケーな仕上がりになっていて、広告ではそんな山と街の「二つの世界を制覇する」新型車のセールスポイントを、レイアウトとコピーでもって実に端的にアピールしよーとしている。

 こんな広告のどこをどう見れば、オフロード側のチェロキー、とゆーよりその下の岩がイスラムで(イスラムって言ったら元祖は砂漠なんだろーけれど)、オンロード側のチェロキーが乗っているビルが文明で、向かい合って対立しているんだってメッセージを読みとれるのかが分からない。よしんば「野生VS文明」と読みとったところで、それらが共存しているって読むのがまだ普通の思考形態なんだろーけれど、想像力が高い指向性のもとにスタンピードしている頭脳には、前述のよーな反社会的なメッセージが浮かんで、コレハナントカセネバナラヌ、といった使命感を煽るらしー。

 まあひとつ事にとらわれた思考回路にとっては壁の染みでも顔になるし、稚拙な詩だって世界の滅亡を告げる予言になってしまうものだから、それほど突拍子もないことでもないんだけれど、魚の頭の紋様を人面だと騒いで受けを狙ってナンボの新聞とは違って、真面目さが信条の経済系のメディアでこーゆー発想をしても良いんだってな思考回路は今の自分にはなく、変わるメディアの最前線で紙面を作る責任を追っている人たちの発想の超絶的な豊かさの前に、これは向いていない仕事なのかもと鬱になる。

 以下は前のセンテンスとは無関係のユーフォリア的な事態に対する一般的な雑感。世の中が熱に浮かれたよーにお祭り騒ぎになっている時には、熱気とかにあてられて暴走気味になってしまう人が結構出るのは分からないんでもないんだけど、行き過ぎた暴走は周囲を巻き込んで大きな被害を出してしまいがちなもの。岸和田だったら壊れる家の軒先だったり諏訪だったら丸太に踏みつぶされる人だったりを一杯出すんで、山車を引っ張ったり丸太を突き落としたりする人たちには、祭りとは言え冷静さでは失わないで頂きたいところ。熱が冷めて我にかえって冷静になって「どーしてあんなことを」と反省出来るんだったらまだ良い方で、周囲を巻き込んで大被害を出汁まくった挙げ句に業務上過失なんとかで引っ張られてたり、自らも致命傷を食らって昇天してたりしたら反省なんてやっても無意味なものになってしまうんだから。暴走は広くて誰もいないところで1人で寂しくやって頂きたいものです。

 これも熱に浮かされてものなのかなあ、どっちかってゆーと確信犯かなあ。米国で割と深刻な事態になって来ている炭疸菌による報道機関へのテロを思わしき攻撃が、ハリウッドのメジャーの一角、ソニー・ピクチャーズにも及んだって内容の記事なんだけど、1面トップで伝えている読売新聞の見出しが「ソニー子会社にも粉末」ってなっているのには、ちょっとした引っかかりを覚えてしまう。勿論ソニー・ピクチャーズがソニーの子会社であることにはいささかの間違いもないんだけれど、一応ソニーは炭疸菌ではないと否定をしている今回のソニー・ピクチャーズへのアタックは、かつてコロンビア・ピクチャーズと呼ばれたハリウッドのメジャー映画会社の一角を狙ったものであって、ソニー子会社とゆー言い回しから連想される日系企業へのテロといったニュアンスは、それほど濃いとは言えないんじゃなかろーか。

 にも関わらず「米メジャー映画会社にも粉末」とやらず「ソニー子会社」とやったところに、日本の企業も標的にされてるんだってゆー思考を読者に喚起させ、だから日本も対抗すべきだってな空気を醸成しようってな思惑が伺えてしかたがない。まあこれも捉えようによっては「チェロキー」の広告に反社会性を見出す思考形態とはちょっと違った指向性での妄想かもしれないから、あんまり深く考えるのはやめておこー。ズレているとは言えそれなりな妄想力、指向性を修正すれば僕でも編集局長になれるかな。

 「コメットさん」は見ないで「東京ゲームショウ2001秋」へ。残り数カ月はあるとは言え、結局ほんと1度も見ることなく放映が終わってしまいそーだけど、ここに来てじわじわと評判が上がっているらしーだけに、クールの区切りでもない中途半端な時期に枠を降りるってゆーのは、今が旬の玩具を取り扱って、あんなに業績を上向かせている会社だけに、行動的にちょっと解せないものがある。2カ月とかって中途半端な期間をどー埋めるかってのは、後を引き継ぐ会社もきっと大変だろーけれど、手持ちの”お気楽”な材料で乗り切って、期待の新しい番組へと繋げてくれれば、「コメットさん」のファンには申し訳ないけれど、個人的にはそれはそれで有り難い。投げた方にも打ち切られて後、評判になって20年を越える作品へと成長した「ガンダム」の先例もあるんで、夕方枠での再放送とか続編の放映とか、いっそ深夜枠での再挑戦とかでの復活を臥して願っておこー。

 「ゲームショウ」で「ワンダースワン」の意外な人気ぶりを確認した後、帰宅して睡眠して午後6時過ぎに復活して、今秋スタートの2大復活アニメの既に崩壊した1角に果たして続くか、それとも孤高を保つかの正念場に早くも立たされた「サイボーグ009」の放映を固唾を呑んで見守る。赤いマフラーをなびかせてもなく、1人だけ白い衣装に身を包んでもない009の姿には別に驚きはせず、オープニングが付けられていなかった点も、かつての名曲「赤いマフラーなびかせて」が耳にしっかり定着していて、「誰がために……」ですらニセモノに聞こえてしまう身にかえって潔く感じられたけど、本編がスタートして手術台から立ち上がった009のプロポーションの、平べったい胴体に棒を伸ばしたよーな手足がついている、あまりに石ノ森章太郎(ノは無しにしたいってのが心情だけど)している様に歓喜する。

 でもって始まった映像の、キャラクターたちが見せる動きのニュアンス、登場するメカの形状、挟み込まれるギャグのストレートなまでの石ノ森ぶりに、藤子作品だったらほぼ満足、手塚作品では逆にほとんど満足出来なかった天才たちの漫画作品のアニメ化で、石ノ森作品についてもよーやく満足出来るものが登場したんだってゆー感慨にうち震える。「バビル二世」の悲惨さを直前に見ての「サイボーグ009」だっただけに、あの石森章太郎の絵が(もうノはいらない)、石森章太郎的な動きで、石森章太郎的な思想も含めて映像になるなんて、ちょっと信じられなかった、いや驚いた。正直ちなみに「キカイダー」はまだ未見。

 突拍子もない状況に置かれた009が001の導きも受けつながら自分の能力を理解していき、最終的に彼らを助けるよーになる展開の知ってはいてもハラハラとさせられてしまう流れといー、見せ場を持たせつつ能力を説明していく、過不足のない他の00ナンバーサイボーグの紹介方法といー、1話目としては過去のあらゆるアニメを上げてもトップクラスに位置しそーな出来で、どーして録画しておかなかったとゆー後悔を瞬間抱いたものの、これはDVDで揃えておく作品だろーと気付いて、これからも録画はせずに毎話をしっかり頭に刻んでいこーと決心する。日曜日はもう、外出しないぞ。

 もっともこれは石森章太郎の漫画を(萬画じゃない)読み続けていたおっさん的な感想であって、今時のキャラクター造形も動きも内容もスタイリッシュなアニメを見慣れている若い人に、あの寸胴な体と棒っきれのよーな腕と脚にビッグフットビッグハンドな漫画的手足がついているプロポーションがどう映るかは微妙な所。メカの古さ、敵キャラクターの珍奇さも以下同文で、あるいは熱血ロボットアニメをパロディとして見るメソッドで、009も見られてしまうんだろーかと心配になってしまう。あの手足にどーしてミサイルが入るの、とか足の裏からジェットを噴射してどーしてマッハ5で飛べるんですか、とか変身して鼠になった時にはやっぱり相当に重くなるんですか、とか奥歯にスイッチなんてあって食事時に間違って噛んじゃわないんですか、とか技術面への疑問も山ほど浮かびそーだし。

 あるいは過去を一切知らない世代には、新しい表現として受け入れられる可能性もあったりするかもしれず、その辺りどーゆー反応が生まれてくるのかによって、これからのアニメ作りにも少なからず影響を与えそー。書かれなかったラストがどーなるか? といった展開も含めて1年後が楽しみ。古いファンの人によっては003の顔が割と後期の石ノ森顔で大人っぽいってゆーか色っぽ過ぎるよーみ映るかもしれないけれど、ウルウルとした目とか泣きそうな口元とか嫌いじゃないんで個人的にはオッケー、もっとアップを増やして下さい。007は曽我町子さんじゃないんだなー。ジョーだって小銭寿司じゃないし。


【10月13日】 食欲の秋、さわやかな朝の目覚めの後は「東京ゲームショウ2001秋」に出ていた「ブロッコリー」のブースで買った、「ぷちこのいっぱいたべておっきくなるにゅ!!」セットでご飯に味噌汁に沢庵の、「でじこ」的には超豪華な朝食を食べて気持ちだけでも「ぷちこ」 になろーかなんて気持ち悪いことを考えてはみたものの、キャラクターグッズを実際に使ってみせるだけの度胸なんぞあるはずもなく、押入に積み上げたまんまにして朝食もとらず電車に飛び乗り信濃町へと向かう。

 もちろん地名からナノ秒単位で想像が浮かぶ集団とは関係なくって、駅前の書店の前に平台で積まれた今回はアナン国連事務総長に持っていかれたけど何時かはゲットと「ノーベル平和賞」のことを思っている人関係の本とか、ファンシーショップっぽい店構えなのに奥をのぞくと周囲は黒檀かなにかで中は金箔が綺麗にはられた観音開きのタンスが売られている店とかを横目で眺めながら、塵ひとつ落ちていない統制のとれた路地を四ッ谷の方向へとちょっとだけ歩いた所にある会館で、今回が初開催とゆー「第0回ティーンズノベルフェスティバル」を見物する。

 まるで読書傾向と重なっていない人たちがゲストとして登場するイベントに、いったいどんな人が来ていてぜんたいどれくらいの人が来ているんだろーとゆー、野次馬的な心理も結構な割合で働いていて、直近までのイベントに関する話題の盛り上がらなさぶりなんかも考えると、あるいは集まっても30人ぐらいのこぢんまりした”集会”になるのかなー、なんて想像も浮かんだけれど、スタートしたオープニングの会場には、ゲストの人たちなんかも含めて50人くらいの人が来ていて、席の埋まり具合はまばらではあったものの、まあそれなりに人が来ているな、ってな印象だけは受ける。

会場で見つけた文字にちょっとドキッ(本文とは関係ありません)  続けてスタートした企画で、秋津透さんと一条理希さんと伊東京一さんが出席して三村美衣さんが司会を務めたパネルだと、場所がホールから会議室に変わった関係もあって、用意されただいたい40席から50席程度の席がだいたいいっぱいになる盛況ぶりで、裏番組の丹野忍さん山本京さんによるイラストレーターパネルにもまあそれなりに人数が来ていたことを考えると、「SFセミナー」ですら1カ所での講義形式であるにも関わらず、これが最初とゆーイベントで複数企画を走らせて大丈夫だったんだろーか、ってな心配はとりあえず回避されたことになる。ペイできているかどーかは知らないけれど。

 もっとも集まっている人たちのどれくらいが、「ティーンズノベル」のファンであり作家のファンであって「SFイベント」のファンではなかったかどーかはちょっと判然とせず、イベントの中で「ティーンいる?」と聞かれて手を挙げた人のヒトケタ程度しかいなかった状況はまあ、若者の活字離れを考えれば仕方がないことと言え、人によってはイベントなんかで結構見知った顔がスタッフ、参加者の共に結構な人数いたってなこともあるよーで、取りようによっては割と”アットホーム”な集まりだった可能性も捨てきれない。まあ例えそーであっても個人的には進められている企画をちゃんと聞ければ別に知り合いの1人もいなかろーと近親者どーしが和気あいあいと交流していちょーとあんまり関係がないんだけど。

 企画の方では、88年だかのデビュー以来、長年「ティーンズノベル」の世界で活動を続けてきた秋津さんの重みと深みのある言葉と、童話を書いていた人が初めて挑戦した長い話で賞を取り以後はまず順調に著作を重ねていっているとゆー一条理希さんの作家人生、さらに「風の谷のナウシカ」とゆー人気、知名度ともに抜群の作品とテーマ的に被りかかっていた内容を出だしで2度、書き直して主人公を正義の見方から悪っぽい人に変えて、よーやく「ファミ通エンタメ大賞」の何かを受賞した「バイオーム 深緑の魔女」(エンターブレイン、640円)を書き上げられたとゆー伊東京一さんの話を聞いて、苦心惨憺して書き上げられた作品を、これはやっぱり有り難く拝読せねばならないなってことを強く思う、その瞬間は。

 似たキャラ似た設定似たパターンの再生産的な状況にややハマりかかってる「ティーンズノベル」の分野で、そーした再生産をひとつの流法(モード)として割と平気に受容しつつそれなりなオリジナリティを付加して作品を突くっていける若い人たちがいて、どーにかして前のを超えよう、これまでにないものを書こうとゆー意識を持って努力するのが当たり前だと思っている秋津さんあたりの世代とでは、考え方に差が出て来ているってな話があって、例の東浩紀さんがしばらく前からモデルの構築に取り組んでいる「データベース的社会」との関係なんかをふと思い出す。

 三村さんによると、上遠野浩平さんあたりもリスペクトとかいった心理や言葉で前例を踏襲することを説明しよーとすること自体がよく分からないそーで、世代的なのか属人的なのかは微妙だけど、老若でやっぱり意識に変化は出て来ているらしー。一方で、ちょっとでも似通った部分があるとそこをあげつらって似ているが利用したのではないかと聞き、そう思い込んでいる人も結構いるんだとか。作り手、送り手、受け手のそれぞれに変わりつつある心境なり意識の変化が今後「ティーンズノベル」とゆー分野にもたらす影響は、いったいどんなものなんだろーか、昔ながらの読み方では見極められない新しい評価軸なんてものが生まれて、そこを基準に良し悪しが判断されるよーになるんだろーか、ってな本を好きで読んでいる身にはなかなかに興味深い思考が浮かんで来る。

 もっとも、そーした意識の変化に歳を重ねていくばっかりの作家が追従していくって保障もなければ義務もないみたいで、秋津さんは好きな中国史を題材にした歴史小説を書きたいとゆー希望を表明。伊東さんは生物好き生態系好きな辺りを広げていきたいってなことを話していて、歳こそ結構離れていてもオリジナリティを求める考え方ではそれほどのギャップはないんだなってことが伺えた。だから伊東さんの作品は読んでおじさん的に読めるし中身も面白いのかも。

 一条さんはその時に書きたい話が書きたい人らしく「いつかはこれを」ってゆー明確なビジョンは示さなかったけど、時代小説には挑戦してみたいよーで歳の変化に伴う嗜好の変化があるみたいで、なるほどだからその時点時点での年配者は当たり前だけど順繰りに鬼籍に入っていっても、その都度したからステップアップした新しい年配者がクリエーターとなりユーザーとなって歴史小説、時代小説は書き継がれていっているんだろー。全体の印象としては、秋津さんとゆー人のポジションを自覚し作品に自意識を持って執筆活動を行っている様を見られたのが収穫。これまでほとんど読んだことがなかったけどどれくらいに神経が行き届いているのかを確かめてみたくなった。仕事的にも必要なよーなんでちょっと頑張って読んでみるか。しかしあれだけの大量な著書、どれから読めば良いんだろー?

 2時間目はおにぎりの買い出しと遅い朝食、そして早朝からの活動で限界に来た神経の安寧のためにロビーで休んでから3時限目の「ティーンズノベル」編集者パネル。「徳間デュアル文庫」の人と「エニックスEXノベルズ」の人に加えて今回は「集英社スーパーダッシュ文庫」の人も来ていて、ジャンルの中では割と後発にレーベルを立ち上げた人たちならではの惰性化しておらず作家と編集者の間に生まれそーななれ合い的な匂いもなく、とにかく良いシリーズを立ち上げるんだってな意識をもってガチンコ勝負で仕事にのぞんでいる雰囲気があって、話を聞いていて勝負所、勘所の指摘なんかも含めて結構為になる。

 「集英社スーパーファンタジー文庫」が横ズレするっぽい形でスタートした「集英社スーパーダッシュ文庫」が、最初は20歳前後の人をターゲットに立ち上げられたものの、「バスタード」だったり「テイルズ・オブ・なんとか」だったりがラインアップに入っているとどーしてもちょっとづつ歳が下がって、結果中身が良くても売れ行き的に苦労する作品があって悩ましいって話は、曖昧模糊として漠然とした「ティーンズノベル」とゆー言葉自体の捉え方の難しさも示していて、あれこれ考えさせられる。

 とりわけその影響を被っているのが、霜越かほるさんの「双色の瞳 ヘルズガルド戦史」(集英社、495円)。個人的にはシリーズでもイチオシで、編集部的にも役員的にもオッケーだったらしーけど、ヤングアダルトの主読者となっている層からはいまひとつの反応で、次への展開がなかなかに厳しく、今はちょっと別の方向で突破口を模索しているらしくって、「E.G.コンバット ファイナル」を待ち続ける秋山瑞人さんファンの心理にも似た気持ちがこみ上げて来て、しばし呆然とする。はるばる遠方から会場に来場していた当の霜越かほるさんに、「続きはでないんですかあ」とお願いしたものの、構想はあってもなかなかにとりかかれるだけの状況にはないみたいで、出版とゆー世界の厳しさを改めて思い知る。寺田克也さんの表紙最高、内容に至ってはさらに最高の小説なのに……。

 とりあえずは田中芳樹さんの「KLAN」の続編を、霜越さんが何故か引き継いだ、田中さん原案で執筆霜越さんでイラストいのまたむつみさんとゆー本がもーすぐ出るとかで、このあたりをひとつ更なるメジャーへの突破口であり、ヤングアダルトな世界へ浸透していく窓口として利用して知名度を高めて、デビュー作でこれまた滅茶苦茶に評価が高かったもののレーベル的にイラストが似合わず、いささか哀しい状況になって編集の人も愕然としたらしー「高天原なリアル」(集英社、533円)も含めて、人気になって重版がかかってブームが起こってあちらこちらから引っ張りだこになるってな状況に、是非ともなって頂きたい。まるで「毒島かれん」のよーに可憐だった霜越さんのためにも、ここは声を大にして「買え、読め、笑え泣け」と訴えよー。

会場ホールにあった落書き。どんな状況で書かれたんだろ?(本文とは関係ありません)  だらだらと始まったエンディングは、田中芳樹さんに野尻抱助さんといった、ファンなら欲しがる作家さんのサインとか、「ティーンズノベル」を出している出版社の販促グッズとかを、舞台と会場とのジャンケン大会で配っていくとゆー内容で、欲しい人には嬉しいイベントだったもしれないけれど、キャラクターグッズへの物欲に高い指向性(「でじこ」とか「モー娘。」とか)のある身には、あんまり食指の動くプレゼント大会じゃなく、周囲で誰がどのグッズに執心なのかを観察するに止める。「スタッフ」でも欲しがりゲットできてしまうグッズがあるんだなー。

 そんなこんなでとりあえずのプレ大会を終わった「ティーンズノベルフェスティバル」は、さまざまなイベントの企画運営に以前から関わっていたっぽい人たちの濃度もそれなりにあったからか、壇上にあがった実行委員関係の人の口調に、街とか学校とかで出会った知り合いに語りかけるよーな感じの”アットホーム”な雰囲気があって、イベントが立ち上がった経緯を知っていたり立ち上げに絡んでいたり、イベントに関わっている人たちと普段から付き合いがあった人たちには、作家さんたち編集者さんたちのと接点もできて、たぶん楽しいイベントだっただろー。アイドルを接待できた学園祭の企画委員の役得、って奴に似てるかな。

 純粋に金蓮花さんが好き宮乃崎桜子さんが好き若木未生さんが好きといった、作家に付くファンの人たちも、1日たっぷり好きな作家さんとの交流ができて最高だったはず。次回に例えば普段から読みつけている「電撃文庫」とか割と最近の「スニーカー文庫」とか新人系とかの人が大挙して参加してくれれば、喜んで聴講に赴くことにしたいもの。今回に限って言うなら、読んでいる幅と作家のセレクトがちょい外れてて、スタッフや来場者に知人のほとんどまるでいない当方にとって、いろいろと新しいことが分かって勉強になったイベントだったとゆーのが、とりあえずの感想ってことになる。

 来ていたプロの作家さんイラストレーターさん編集者さんの数と、見物者の数のバランスはまずまずで悪くなく、肝心要の企画の中で語られた話はどれも為になって、それが運営側的に妥当だったかどーかは知らないけれど、支払った側的には料金分の楽しみは得られた。何より生きている霜越かほるさんを見られたのが超ラッキーで、田中芳樹さんルートなのかもしれないけれど、「集英社スーパーダッシュ文庫」の編集さんを招いたスタッフの人には、ここで厚く御礼を捧げたい。後る課題はあの”アットホーム”な雰囲気にどこまでとけ込めるかってな個人的な課題で、もっともーっとイベントを楽しむために、企画を運営している人たちにお友達にしてもらうとか、企画の運営に携わるとかして”事情通”になって、壇上に上がった人による知人関係をネタにしたボヤキやギャグも、ひとつとして逃さず理解でき、笑えるだけの身になることを是非とも頑張って目指したい。


【10月12日】 真夜中の微睡んだ気持ちにピタリとハマるテンポだなー。と見ている途中で感じたアニメ版「ココロ図書館」は、あんまり詳しく読んでる訳じゃないけどときどきチラっと見る原作のバロックにロココな(意味不明、まあピカピカしてるって意味かな)絵柄がアニメだとシンプルになってて目にはそれほどやかましくなく、それでもフリヒラな感じはちゃんと出ていて眼精疲労に眠気の重なる目にはちょーど良く映った。悪人の1人としてないストーリーの異様だけれど妙な心地よさ、脇役キャラのどーでも良さげな適当な造形に対して主役チーム3人と美少女キャラの崩れずゆるまない造形の目に対する気持ちよさは、これぞ深夜アニメの真骨頂ってところを見せてくれていて、気分をあの「エヴァンゲリオン」直後のアニメバブルな時代の幸せな時へと引き戻してくれる。夢があったんだよあの頃は、アニメが天下を取る、とかってな。とりあえず来週も見よう。沢城みゆき確か出てたしエンディングもラクガキみたいな絵が踊る感じがますなりっぽくって(ますなりこうじさんじゃないけど)楽しいし。

 ほのぼの系ってことでは「ココロ図書館」、「ちっちゃな雪使いシュガー」とタイプ的に双璧を張るのかもしれないんだけど、実は1度もまだ「シュガー」を見たことがなくって「メモル」あたりと或いは近いのかも、なんてことも考えているけど実際のところどーなんだろー。もしかして最新号の「ヤングキングアワーズ増刊」が出て今回もちゃんと収録されてた「ホーリーブラウニー」系だったりするのかな。ああ見えてもシュガーは外道だたっとか。まあ漏れ伝えて来る評判はほのぼのとして子供に受けそーな内容で、にも関わらず子供が絶対に見ない時間帯の放映は一体どーなってんだと不思議に思ってる人も相当数いるみたいだけど、スポンサードしている人あたりの考えだとまずは濃い層で評判をとって話題にしてもらってビデオパッケージなんかもちゃんとフォローしてもらった上で、次にもっと良い時間帯で子供層にアプローチしていくみたい。同じ会社の扱いの「ギャラクシーエンジェル」あたりもそんな戦略に乗っかってる感じがあるし、真夜中しか、あるいは衛星しか最初は枠がとれなかたにしても、そこで客層を絞って見て愛でて買う濃い層だけがターゲットになるよーな作品を作って一発勝負で勝てば官軍、負ければ玉砕をやるよりは、今は無理でも数年後のメジャー化を見越してちゃんと最初からメジャーでの展開に耐えうる内容を持たせた作品にそておこう、って発想はそれでちょっと面白いかも。吉と出るか凶と出るか、2年後あたりが楽しみ、会社の存続も含めて。

味平カレーを食べに来た鼻田香作、みたいなもの?  年に2度だったイベントが来年から年2回になるってことで、次は1年後とゆー事態になってしまった「東京ゲームショウ」をのぞく。年に2回あっても出展している会社はいっしょで内容も目新しいものがなかったりして、前回の春なんか結構ツラかった感じもしていたから、この決断は至極真っ当でかつ妥当かも。次は来年となるとちょっとは真剣に見よーとゆー気にもなって、入場して真っ先に「でじこ屋」へと駆け付ける真似はせず、とりあえず今回の目玉ともいえるマイクロソフトのブースにいってスレンダーなのにスタイルは抜群のコンパニオンに見とれる。同じよーにコンパニオンに見とれていたのかそれとも圧倒的なグラフィックパワーに見とれていたのかは本人じゃないんで不明だけど、白い頭が遠目にも目立つ年輩の人が「Xbox」のブースでデモ画面に見入っている姿もあって、さすがはマイクロソフト、支持する層も幅広いんだなーとゆーことに気付かされる、って嘘です、だってこの白い頭の人○○さんじゃん、「プレステ組」の。シアトル・マフィアの「ゲイツ・ファミリー」にチャカならぬコントローラーすら持たずに単身乗り込むとは良い度胸で、この辺りのフットワークの軽さがなるほど「プレイステーション」なり「プレイステーション2」の世界制覇につながったんだろー。

 「プレステ組」なんて家庭用ゲーム機のシェア争いを東映ヤクザ映画みたく組どうしの抗争めいたものに置き換えて考えようってことかと言われそーだけど、実はそのとーりだったりするのはセガが「ゲームショー」に合わせて開いたコンシューマー向けゲームソフトの戦略発表会で、発表会が始まるまでの30分間にそのものずばり、「仁義ある戦い」だなんてタイトルのすさまじくも素晴らしい映画を見せられたから。「スーファミ組」から「64組」へと切り替えた京都の勢力も新興「プレステ組」の力の前にねじふせられた、そんな抗争つづきのゲーム機業界で新たな覇権を唱えるべく準備を始めていたのが「サターン会」改め「ドリキャス会」なる名前になった羽田の組織。表向きは「プレステ組」との国内抗争よりも海外へと目を向けてネットワークに生き残りを図ろうとしていながらも、若い衆の中には面白く思っていない人もいて、そんな運動における中心人物だった「岡村」なる若頭だったかが、刑務所から出所して来てなあなあになっていた業界に激しいバトルを巻き起こす。

 最初は引いた立場にいた入交、廣瀬の首脳陣も「岡村」の頑張りを認めて一気にラストへと向かう展開は、途中に登場する「ソニック組」の組長の、背中に鮮やかに「ソニック・ザ・ヘッジホック」のキャラクターが描かれているインパクトなんかも加わって、なかなかの迫力を醸しだし、なかなかの面白さを呼び起こす。「はあーっ」と両手のひらを前へと突き出し目の前にあるものを粉砕する技を見せた「ドリキャス会」会長の入交昭一郎さんの行動の、その実習慣とか趣味とかをゴシップ的に折り込んだ演出のあざとさはそれとして、当時もしこれがちゃんと一般に公開されたとしたら、真面目なものを作り夢を売ろうとしているゲーム業界の人たちにしてはな振る舞いぶりに憤然とした可能性は結構あって、今に至るまで封印されててとりあえず良かったって印象を持つ。

 それが今回、どーゆー経緯で上映許可となったのかとゆーと、中に描かれている「ドリームキャスト」が目指す世界の人たちとつながって、1つのゲームで遊ぶとゆー、当時にしては画期的だったけ発想が、今はごくごく当たり前に湧き出て来ている状況を鑑み、セガの予言は予言じゃなくって予告だったとゆーことを訴え、「ドリキャス」の売り方のコンセプトには間違いがなかったってことを言いたかったのかもしれない。それにしてもこの映像、仮に当時公開されてたらどれくらいの評判を得たんだろー、あるいは批判を。でもってどーして封印されたんだろー。聞いてみたいことはたくさんあるけれど、とにもかくにも幻として封印され続けるはずだっただろー「仁義ある戦い」がいち早く、そして最後にきっとなるんだろー上映を見られたのはラッキーなことこの上ない。生きてて良かった。企画が当時セガを全面的に支配していた秋元康さんだってのはまあ当然だけど、監督が堤幸彦さんだったってのには激しく仰天。こないだの「ブラックジャック」も含めてトンデモな映像作品を取りあげることに長けた堤さんらしー話だと、そんな印象を読み終わって鱈目手受ける。堤さんのフィルモグラフィーに残ってるんだろーか。そーでなくても「堤コーナー」とか作れるくらいの作品が貯まった暁には、そこに収まるよーこの「仁義ある戦い」もDVD化とかして欲しい所。次は香山COO主演の渡り鳥モノかな、フラリと来て叩きなおして去っていく、みたいな。


【10月11日】 そーかそー来たか。と見終わって思った「Hellsing」は、今となっては懐かしい「lain」のエンディング後にチラと出て、世間に「次はいったどんなネタ?」と予想させる楽しみを与えた「お天気壊れてる?」のボード以上の、すさまじい次回予告にひっくり返ったのもひとつの驚きではあるウィリスだけど、そーした半ば飛び道具的なキャッチは別にして、本編におけるアニメ化にあたってのさまざまな展開上の変更が、こんど全編を通じてどーいった影響をアニメの内容なりストーリーなりに与えて来るんだろーとゆー気がして、わくわくする気持ちといっしょにどきどきする気持ちが浮かんでは身を糺す。

 漫画版でいう「Hellsing」の持ち味は、圧倒的な迫力でもって描かれる絵柄と、徹底的に自分を確立させたプロフェッショナルなキャラクターたちの描写が醸し出すパワーに押されまくる気持ちが、時折混ぜられるコミカルだったりアイロニカルだったりする描写によってフッと抜かれ、そこからさらなるパワーへの興奮を呼び起こされる、といった緩急の部分。中心になっているのはハルコンネンの精、とゆーよりはむしろ意図してではなく成り行き上から吸血鬼にさせられマスターのアーカードにつき従っているものの、バンピールになり切れず悩み惑うセラスのキャラクターだと思うんだけど、アニメ版の方はその辺りで若干の修正がなされているよーな印象があってちょっと戸惑う。グールになるケースならないケースでのルールにも変更が加えられているし。

 そもそもセラスがバンピールになる場面でのロジックの組立方から心理的な動きまで、アニメ版と漫画版とではちょっとした、けれども厳然とした差が存在してる。漫画版だとここでの経緯がひとつ、セラスとゆーキャラクターの情けなさとアーカードとゆーキャラクターの優しい非情さを示すポイントになっているよーに見えるけど、アニメ版だとその辺り、セラスとアーカードの経緯にもーちょっと魔術的だったり幻惑的だったりするニュアンスが漂っていて、割と最近になってもモノ扱いされお荷物扱いされつつも、”良い味”を出している漫画版のセラスのよーに果たしてなっていくんだろーか、それともアニメ版の方は2人の関係の方に主軸を置いて展開されるんだろーか、といった想像が沸き起こる。

 経緯の部分での違いが果たして脚本の小中千昭さんのアイディアなのか監督ほか製作チームの意図なのか、放送コード的な問題から設定をスリ変えた結果起こったことなのかは分からないけれど、とりあえずは短期決戦とゆーことになるテレビシリーズにピンとした軸を立てるために2人の関係をクローズアップして見せた、ってこともあるのかな。単なる考えすぎで次回以降は情けなくも麗しいセラス嬢ちゃんのこけつまろびつ頑張って立派なバンピールさんになろーとする姿が毎週夜、繰り返されるのかもしれず、あの衝撃の予告編もその前哨戦ってことかもしれないから、とりあえずは2回目がどーなるかを、わくわくしつつどきどきしつつ待つことにしよーウィリス。

 圧倒的にスタイリッシュで背徳的なアニメの登場に興奮しつつもしっかりと眠って午前中にちゃんと起き出し「幕張メッセ」で始まった「プラモデル・ラジコンショー」へ。このご時世にはたしてどれくらいのモデルガン系だったり戦闘機系の商品が出ていて、それに対してマッチポンプなメディアからどれくらいの突っ込みが入っているんだろーかとゆー下卑た気持ちもちょっとだけあったけど、世間一般のメディアがいくらコーマーシャリズムに毒されているといっても模型は模型と楽しむ人たちの意識はしっかりと理解していた、と見るべきかそれともショーそのものの存在を知らなかったかはともかくとして、騒ぎもなくまずは順調な滑り出しを見せていた。

 まあマッチポンプとゆーのは例えば某社が新聞とかに出した広告が、イスラムと西洋文明の対比っぽいレイアウトになっているとゆーことを取りあげて、同時多発テロはあくまでテロであって、それに関したアメリカによる報復は全面的に正しいし、日本が協力するのも当然だってな自社の主張から鑑みるに、広告が示唆しているかもしれないニュアンスのよーに、”文明の対立”的に今回の同時多発テロを扱い、双方に改善すべき点があるんだとゆー主張は、絶対的に唾棄すべきものであって、どーしてそーゆー広告を出したのか、広告主にその真意を糺して糾弾すべし、ってな前提でもって取材をして、仮に広告主にいっさいの政治的意図がなかったとしても、そーした想像を喚起させる広告を付くってしまったことがすなわち”反社会的”でありいがなものか、ついでにそんな広告を取り扱った代理店もいかがなものか、といったニュアンスの記事を作れなんて指令を、ゼウスよろしく稲妻落としに下して来たりするよーなこと、だったりするんだろー。

 もちろん、社論が絶対とか広告主は間違っているとかいった予断をもってことにあたるとゆー、戦争に沸く欧米のメディアですらジャーナリストの職業倫理上の観点から死んだってやらないことを、同時多発テロとの関係が米国よりは薄い日本のメディアが、まさか出しゃばってまでやるはずはないとは思うから安心はしているけれど、景気が悪いと世の中何が起こるか分からないし、空気が不穏に流れる時はその空気に誰も彼もが引きずられ、真っ当さが真っ当だと思われなくなってしまうのもまた事実。そーなったらそーなったで、下っ端として何がでるかって考えるけど、下っ端なんで身動きがとれなくなりそーで激しく気が滅入る。56年前に終わったあの戦争で、日本の暴走をメディアが止められなかったどころか逆に煽ったことを思い出しつつ、歴史は繰り返すものなのか、人間とはかくも弱く愚劣な生き物なのかと我が身の不甲斐なさも含めて激しい嫌悪感にとらわれて、きっと悶々とするんだろー。仮定の話でちょっと脱線。これとは関係ない気がするけど11日付読売新聞「ダイムラー・クライスラー」の全面広告とやらに(見てないんでデザインとか不明)、ちゃうやんとかいった憤りとか不快感とか感じた人って、ホントにどこかにいるものなの?

 さて「プラモデル・ラジコンショー2001」。東京マルイのブースもそれなりだったけど、目立ったのはやっぱりバンダイのブースに展示されていたパーフェクトグレードの「ガンダムマーク2」。「ガンダム」のスタイルに慣れた目に「ゼータ」的な飛躍がきつく感じられた人でも、「ガンダム」のニュアンスをそこはかとなく残しつつ、それでも格好よくなっていると感じさせるデザインだなー、ってのが個人的な「マーク2」への印象で、実際カタログなんかで比べてみると、同じパーフェクトグレードでもオールドな「ガンダム」にニューな「マーク2」といった雰囲気が、もちろん予断もたっぷりあるけれど感じられて、「ガンダム」のパーフェクトグレードは買わなかったけど、こっちはちょっと欲しくなる。まあ買っても作らないんだろーけれど。だいたい未だにパーフェクトグレードの「エヴァ初号機」作ってないしラッピングすら外してないし。

 フラウ・ボウの格好をした案内嬢のコスプレ故の感情移入のしやすさにちょっとだけ興奮しつつ他に目敏いしなものはないかとうろうろ。とりあえず「マッハ号」のラジコンは格好良くって「モスピーダ」もプラモデルは3種類が再版となって箱を3つあつめて重ねると横側の絵が1枚の絵になる芸が仕込んであって、「ジェットモグラ」には中の見えるスケルトンタイプが出て鉄人28号にもスケルトンタイプが出る、といった感じで懐かし系に相変わらずの強さを感じる。流行りもそろそろ成熟の域に来ているロボット系でも例の「ザク」の2足歩行ラジコンが10万円近い値段で間もなく受注開始になっていたりする一方で、京商の方でもこちらは我らが宮武一貴さんデザインによる二足歩行のラジコンロボットが用意されていて、パトレイバーっぽいけどもうちょっとシャープな感じがするデザインの良さにちょっと物欲が沸く。

 1万6000円くらいでそれなりにお手軽な価格で、出たら買ってしまいそーな気もするけれど、歩き方事態のどこまでリアルな二足歩行なのかもはっきりとは確認できていないんで、明日か明後日か明明後日にでもまた行って、今度はしっかり歩き方まで観察して来よー。しかし相変わらずの仕事幅の広さだなー、宮武さん、大昔から「SFマガジン」で見ている名前が今も第一線で活躍しているのはSFファンとしてちょっと嬉しい。やっぱり「SFマガジン」なんかでよく絵を見ていた横山宏さんが手がけている、パワードスーツっぽいフィギュアが1コ500円で足の向きとか手の向きとかによって数十種類用意されているのも見たし、SFアート系の人の寿命って本人の資質ももちろんもともと高かったんだろーけれど、やっぱりそーとーに長いんだなーと考える。加藤直之さんもファンタジックなアートでは未だに一線級だし、空山基さんなんて「AIBO」だし。阿呆さ加減を愚痴ってないでこっちも精出さなくっちゃ、20年後はのたれ死んでしまう。頑張ろう。予断を持たず、前を向き、良心に従い、ただひたすらに。


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