縮刷版2000年8月上旬号


【8月10日】 朝っぱらから(昼だけど)香港のネット関連会社がアミューズメント機器とか作ってるジャレコを買収する会見があるってんでパレスホテルへ。飾り付けのがっしり整った会場で、従前決まってた話の癖して急な会見の開催ってことはよほど秘密にしておきたい重大な案件なんだろーかと思って話を聞いていたけれど、飛び出して来たのがアジアとか世界に向かってブロードバンド・ネットワーク時代に対応したコンテンツサービスを行う上での日本における橋頭堡、ってなものにジャレコをしていくって内容で、果たしてジャレコにそれだけのリソースがあったんだろーかとゆー疑念が頭の中をかけめぐる。

 ナムコだったら分かるしカプコンコナミなら言うまでもなくセガでもバンダイタカラの玩具メーカーでもパートナーとして挙がっていたなら「日本のコンテンツをテコに世界へ」ってな意味が分かる。あるいはアトラステクモにもう買収済みだけどSNKでも。それがジャレコ、よりによってジャレコ。ゲーム実はあんまり知らないんです的人間にとって、「ジャレコと言えば何?」と聞かれて出てくる答えは「DVDとか見られる」ってな感じのもので、浅野忠信のラリアットからチョーク、スリーパーホールドと流れて最後は腕ひしぎ逆十字固めへとつながる攻撃をくらっても仕方がないくらいの知識しかない。けど日本の1億2000万人に聞いたらそのうちの1億18000万人は同じ答えをしそーな予感もあって、だとしたら香港のその会社、いったいジャレコの何に魅力を感じたんだろーかってなことになって来る。

 実は会見でもあんまりそこいらあたりへの突っ込みも解答も出ていなくって、あるとしたら270億円ばかりの調達資金でもって次世代ゲーム機とかネットワークコンテンツとかってのをガシガシ作って行くぜ、4兆円もの時価総額がある企業グループの傘下に入れば優秀な人材だって山ほどくるし、ってなどちらかと言えば「将来性」を見越しての先物買的な要素くらい。もしくは「イイ日本キギョウ、なイデスカ?」的な海外企業の探索にコンサルタントの人が「ええもんありまっせ」とばかりに勧めたとか。創業者の人たちは買収に関連して持ち株のほとんどを売却してしまう訳で、仮に将来性が「可能性」でしかなかった場合のことを考えると、実に良いタイミングでの売却だったってことになる。可能性が実現すればそれはそれでもったいなかったってことにもなるけれど、売却した結果だから売らなければそうならなかった訳で仕方がない。

 とは言え270億円。日本のコンテンツを確保するためにそれだけを用意出来るんだったら他にもっと使い道があるよーな気もしないでもない、例えばゲームの開発会社とか、アニメーションの制作会社とか、出版系とかいろいろ。作るためのノウハウと、人脈とこだわりを持ったそーゆー会社はそれゆれに経営の面で汲々としている場合が多そうで、そこに1社10億円でもお金を注ぎ込めば、中にとてつもなく大化けするコンテンツが出来上がって来るかもしれない。海外へのチャネルを使って売り出せば、マーケットだって日本でこしょこしょとやってる時より大きく広がる訳だし。

 もっとも「中央公論」の最新号に掲載された岡田斗司夫さんの文章によれば、発表できる場がネットや同人誌に広がった結果、作り手側に回って一発でっかい花火をあげてみせるぞってなモチベーションが全体に下がって来ていて、日本のコンテンツ産業は結構厳しいところにあるみたいなんで、果たしてそこにお金を突っ込むのが正しいかどうか判断の別れるところ。一方でお金が回るんだったら今時の実利を重んじる性格の若い人が「いっちょやってみっか」と発憤することもある訳で、やっぱり黒船は欲しいって気にもなる。どっちにしたってお金はジャレコに行ってしまったんで、ここは1つジャレコに頑張ってもらって、注ぎ込まれたお金のそうだなら1割でも良いからアニメとかにぶち込んで、21世紀の幕開けを飾るよーな作品を創り出して頂きたい。

 P・K・ディックの翻訳で名前を知って以来10余年、宗教に関連した話ではSF関連の評論の中でも飛び抜けた難解さと奥深さを見せてくれる翻訳家の大瀧啓裕さんが、何故か今更って感じる人も多そうだけど日本のアニメバブルを生み出した歴史的作品「新世紀エヴァンゲリオン」を宗教思想的な部分からつぶさに検証した「エヴァンゲリオンの夢 使徒進化論の幻影」(東京創元社、3400円)を買う。シンプルすぎる表紙は色気もなにもないし、エヴァに特徴的だった極太明朝とかを配するよーなイメージの誘導も行われていなければ、中に図版の1枚も掲載されていないあたりが、アニメの放映から映画の公開へと流れた3年余の間に登場して来た、それこそ星の数あるエヴァンゲリオン関連本と大いに一線を画するところだけど、あれほどまでの大騒ぎの中で何度も繰り返し見た映像が頭の中に擦り込まれていることもあって、シーンの描写なりセリフなりの想起にほとんど苦労しないのが何とゆーか、「やっぱり自分はハマってたんだなー、エヴァに」ってことを改めて感じる。

 あるいは余計な図版を掲載することによって、言葉によるイメージの喚起が限定されてしまう可能性を排除するって意味でも正解だったのかも。それ以上に全26話、劇場版によって補完された「Air」「まごころを、君に」を含めると28話分に「DETH編」も加えた膨大なエピソードを、1話1話つぶさに解読した上に補足まで加えていく緻密で丁寧な作業の結果、全体で400頁を越してしまう大著になってしまったその上に、大きな図版を加えたらいったい何ページになるのか分からなくなってしまうことも、あるいはシンプルな装丁になった背景にあったのかも。個人的には「セフィーロート」への言及の箇所なんかに図版があれば、頭がここんところ著しく衰退気味(後退気味は額で頭じゃない)なこともあって、より内容を理解する手助けになったとは思うけど仕方がない。

 内容については見事の一言。神秘思想に宗教思想への恐ろしいくらいまでに幅広く、かつ深い知識を総動員して本編に限らずオープニングまでも含めた映像の1コマ1コマを丹念に読み込み、そこに示されたキャラクターや図像や背景、テクノロジーまでをも含めて解読していく作業を繰り返し、「エヴァ」を理解する上で萎えた頭にはなかなかに大変だった、登場人物たちの思わせぶりなセリフにもちゃんと決着をつけてあって、読みながら目から鱗がボロボロと落ちていく感覚を味わう。「NEON GENESIS EVANGELION」とゆ横文字のータイトルからして、薄い人なら普通に「新世紀でエヴァなんだなー」と流してしまうし、アニメ好きなら「それっぽいのを集めて来たねー」と分かったフリをしそーなところを、ギリシア語へと源流を辿った上で「新しい福音」と解釈し、全体を通底する「再生」のテーマをそこから抽出して見せる。こんな解題、普通のアニメライターには出来ません。

 よく言われる画面の中への特撮の影響とか、アニメ好きが背筋にピクンと来るよーなガジェットのパッチワークによる一種のパロディといったメタ的な立場での解釈は一切せず、ストレートに真正面からストーリーと、キャラクターと、ダイアローグと、絵と文字とそのほかあらゆる作品として示された情報と向かい合って挑んだ姿勢には、妙にスレてしまって作品をチラ見たくらいで「あれの影響が」とか言っている時もある我が身を振り返りつつ、ただただ驚嘆させらえる。その意味でもアニメなオタクには決して書けない論考だとも言えそー。美少女マニアにはなおのこと。もちろんアニメファンならアニメ史的、美少女マニアには美少女マニア的な視点での作品解釈は可能だしそれ自体にも意味があることなんで、それぞれが専門の立場で解釈していく作業は決して無駄ではない。そーした多層的多面的な解釈を可能にするだけ、「エヴァ」って作品が凄かったとも言えるけど。

 しかし恐るべき読み込み度。病院でシンジに向かって「たぶん3人目」と言った場面から、誰だってレイは零号機もろとも自爆する以前に1度、死んでいると考えるのが普通なのに、大瀧さんは記憶の連続性、零号機に入っている「魂」の正体なんかを勘案した上で、「ばあさんは用済み」と言った時にレイはナオコによって首を絞められはしたものの殺されてはいなかった、ってな解釈を出していて、それがなるほど全体を通して見た時に整合性がとれていて、真実は案外とそっちだったのかもと思わせる説得力で迫って来る。

 三位一体の法則から誰が排除されていくのかを類推したり、すべての使徒が同一の存在の多面的な形態であってつまりは全部カヲルだったと考えてみたり。リョウジから一面的な情報しか与えられていないミサトの直情傾向的な人類補完計画を悪とする行動を指して「錯乱の女王」と呼んだりするあたりは、単なるテーマ全体の宗教的な解釈だけじゃなく、キャラクターの性格付から物語から何から何までを貫ける解釈を構築していこーとする強い意志が感じられる。それにしても、かくも緻密な解釈を受け付けてほころびをほとんど見せず、むしろより深淵なテーマを浮かび上がらせる作品を、決して余裕があった訳ではないスケジュールの中から創り出していった庵野秀明監督をはじめ制作スタッフの面々の、計算とゆーよりは本能に近いスタッフワークには恐れ入る。大瀧さんも凄いけど、その凄さを受け止めるだけの幅と厚みを持った作品だったってことで、しつこいよーだけどやっぱり「エヴァ」は凄かった。


【8月9日】 「アニメージュ」9月号、そーか大森望さんが「日本SF大会」で着ていた黒とオレンジが貴重のド派手なシャツが韓国ならではの前開きアニメ絵プリントシャツだったのか、写真撮っておくんだったとちょっと後悔、コミケとかにも着て来てくれるかなー。センターのリニューアルなった情報ページには「BOOKS」で藤津亮太さんが登場、大森さんの「ムズかしい本を読むとネムくなる」だったか何だったかが終わった後しばらくは無署名で適当に流れていたよーな気がする本の紹介コラムの後を継いだって形になるのかな、しかし当方の「電撃アニメーションマガジン」の紹介本とただの1冊も重なってないってあたりが趣味の違い傾向の差異を現していて面白い、それだけアニメ少年の読書に幅が出るってことだけど。「ニュータイプ」は知らないけれど「AX」は山岸真さんの本格SF紹介コラムだからやっぱりあんまり重ならないんで、同じアニメ雑誌だからと言わないで本のお勉強に皆さん別々にちゃんと買いましょう買って下さい駄目なら少なくとも「電撃」だけは(と裏切る僕)。

 ニュースのページに倉田秀之さんの小説版も先行発売の「R.O.D」のアニメに関する情報が掲載、SPE・ビジュアルワークスから全3巻が11月以降発売されていくみたいだけど、主役の本好き娘、読子・リードマン以外は知らないメンバーで小説版のご町内的展開からは大きく広がった世界規模の壮大なスパイアクションになるみたい。個人的には美少女高校生作家の菫川ねねねの強いんだけどどこか寂しげなキャラクターが好きだったんで、アニメの方でも絡んで欲しいんだけど設定には無いみたいだから関係ないのかなー、代わりに胸の巨大なナンシー・幕張(マタハリ、って読むらしい)ってのが出てくるからそっちで我慢しよー、監督とか誰なんだろ。綴じ込みのポスターの「ガオイガイガー」の命は下に写った影っぽい絵だけがなぜかタテ線の食い込みキツいのはPTA的配慮か何かなんだろーか、まあひっくり返して眺めるからどっちでも良いんだけど。

 8日付の朝日新聞の夕刊に「格闘する者に○」(草思社、1400円)の三浦しをんさんが小さなコラムを書いているのを発見、肩書きが「作家」で格好良いなー。「のろすぎる」とゆータイトルのコラムはなるほど、ネットでやってる「しをんのしおり」も通じる自己暴露的な内容をほんわかとした文体で来るんで見せる「しをん的」な内容で、親譲りかどーかは知らないけれど失敗ばかりしているっぽい本人の雰囲気を短いながらも割とそれなりに伝えている。歌舞伎に行って「いがみの権太」死亡の場面で1幕も見終わらないうちに微睡んで起きたらまだ続いていた同じ場面に、「こんなに私のバイオリズムにぴったりな、のんびりした世界があるんだ」と思ってしまういけしゃあしゃあさが良い、普通は寝ないよね。デビュー作の方は未だに続く就職シーズンに本意かどーかはともかくもうちょっと注目されても良いとは思うんだけど、どーなんだろー、まあそう遠くなくエッセイの方も文庫にまとまるみたいなんで、そっちがブレイクしたら小説の方にもスポットが当たることでしょー、きっと唯一か10指に及ばないだろー直筆サイン本は、その時まで大事に持ってます。

fujiki  どんなサインをもらったかを見せるのは、三浦さんがもっともっと有名になっておおっぴらにサイン会を開くようになって、散々練習した挙げ句に立派な流れるような重厚な威厳たっぷりのサインを書けるよーになった暁に、最初の頃はこんなんでしたーと自慢する時にして、代わりに見せるのは盲目の美形検事が活躍するシリーズとか、都会の伝説を描いた「イツロベ」(講談社、1800円)なんかが評判になった藤木稟さんが、最新刊「スクリーミング・ブルー」の刊行を記念して開いらサイン会でもらったサイン。決して練習の果てに得た芸術的な絵画のよーなサインじゃないけれど、1字1字をしっかりと丁寧に書いてあって好感が持てます、「木」とゆー字が「ホ」に見えないこともないけれど。

 集まっているのは近所のおばさんかサイン会マニアかサラリーマンが池袋って場所柄多かったよーに見えたけど、取り囲んでいる人の中には若い女性が結構いて、作家さん本人とゆーよりは、あるいは朱雀十五のシリーズのファンなんだろーかと想像する、花束とか持ってたし。流石に「九十九十九」ほどの熱烈な女性ファンがついてはいないよーだけど、ジリジリと知名度も上げつつあることだし、夏コミあたりにはきっとそれなりな本も出ているんじゃないでしょーか。これが初対面の藤木さんはなかなかにお綺麗な人でした。C塚さんっぽい人もいたけど人の顔が覚えられない病と人に話しかけられない病が出て遠巻きにして観察、取り囲んでいた人に出版社系の人は結構いても、作家系の人とか評論系の人とか見えなかったのは、ミステリーともホラーともSFとも純文学とも伝奇とも区別のつけにくい藤木さんに積極的にアプローチして来る業界の人がいない現れか。「bk1」じゃーどこに入るんだろ。


【8月8日】 女町田康か、なんて体言止めを多用し饒舌に描写をたたきつけて行く文体に思った工藤キキの「姉妹7センセイション」(河出書房新社、1300円)。活字を見るとトイレに行きたくなる、ときどきの割合で存在する性癖の女が仕事の果てに発明した快便ポスターで北海道を包み込む、なんて話が書かれた冒頭の「リーサルウェポン・フロム道子」から始まる7人の女たちの本能まるだし行動録。ワイドショーやらテレビ番組の小ネタが脈絡もなく飛び込んで来る中身を理解しようとしたら、必要になる無教養な教養はおそらく世界ハウまっち、それともビリオネアー、いやいや「ウルトラ横断アメリカクイズ、ちょっと違うがまあそれくらいに10連覇できる雑な知識が必要かも。いやいや圧倒的に21世紀ブンガクだJ(ジェイ)。椹木野衣に荒木経惟にスチャダラのアニに滝本誠にリリー・フランキーらいかにもなセレクトの人たちががさもありなんな言葉で褒めるだけの内容。ちょっと好み偏ってる感もあるけれど、真面目な文学好きも渦巻く文体と弾ける世界観は要注意です。オヤジだって必読。

 海洋堂に寄って「ワンダーフェスティバル2000夏」の公式ガイドブックを仕込む、なんか分厚い。今回から会場が3館から一気に5館へと増えて同日開催の「東京トイフェスティバル」と会わせてモケイなイベントで東館制覇、でもって手前にあるTFTホール500でもエポック社が「マクファーレンフィギュアショー」と銘打ってトッド・マクファーレン率いるマクファーレントイズの展示会なんかを開いちゃってるみたいで、前週の「コミックマーケット」に引き続いてお台場の夏はオタクな夏にドップリはまる見通し。そのさらに前週が「パシフィコ横浜」での「日本SF大会」で「ワンフェス」の翌週が「幕張メッセ」での「任天堂スペースワールド」と湾岸を西から東へ上る夏のオタク波、って形容も可能かな。そこから先は成田を抜けて海外へと続々輸出されていくんだ。

 いわゆる「ガレージキット」のイベントだっが「ワンフェス」だけど、その総本山でもあった海洋堂から出てくる商品の大半が完成品のアクションフィギュアとか食玩とかコールドキャストの完成品だったりするのも時代の流れか。注目は「トイトライブス」つまりは内藤泰弘さんとこのブランドで出る「トライガン」シリーズ第2弾の「ニコラス・D・ウルフウッド」。去年だかに原型の浅井真紀さんがガチャガチャとやってるのを見た記憶があるけれど、いよいよ完成して会場では2000個がおそらくは1時間で完売してしまいそーな雰囲気で、買う気なら本気でかからないとちょっと辛そう、早起き&行列かぁ。「モデルグラフィックス」によれば厳しくなったプレス&関係者入場とディーラー出展者への対応で、開場前に行列が出来てしまう状況への是正が進むみたいだけど、2000個じゃやっぱり焼け石に目薬だろーなー。頑張ろ。

 「ドードー骨格モデル付きワンダーフェスティバル特別セット百鬼夜行(6個)&レッドデータアニマルズ(6個)セット」が3000円で出るのかあ。あとアクションフィギュアでは「北斗の拳200Xシリーズ」の「ケンシロウ×ラオウ」セットも限定発売ポスター付き。海洋堂の原型師が参加している「ラブひな」のカプセルトイは限定「桃色クリスタル版」があったりと、玩具的ないじくりも入れた内容なんかを見ていると、どこか求道精神にあふれて眉間にタテ筋入ってそーな人が多かったよーに思えたフィギュアの世界が、オタク的なテイストはそのままに外へと開けて手軽になって来たって感じを受ける。「電車で漫画を読んでもいいんだ」的雰囲気が大きく広がって「アニメや漫画やゲームののキャラクターグッズを買っても良いんだ」的雰囲気が日本を覆った結果、普通の人が内在していたオタク的なものへの反応回路がぐるぐると回り始めたところに、そんな温い回路でも容易に受け入れられる完成品とか低価格品がぶつけられて、一気に爆発してる状況なのかも。BOME原型なプリシアのコールドキャスト、買っちいそーだなー。

 アニメ雑誌の早売りあれこれ。とりあえず1冊でもマーケットから消化させねばと「電撃アニメーションマガジン」9月号を購入、表紙はでっかく「うさだ」と「ぴょこ」がブリブリで、「でじこ」と「ぷちこ」は小さくなってて目が線、でも何かいーかんじ。巻頭から6ページも使って「デ・ジ・キャラットサマースペシャル2000」を取りあげてる辺りは流石に「電撃」だけど、読んでも放映されるアニメの内容はほとんどまったく分からない、やっぱ見るしかないのか、平日の朝から「家」で。「あのう夏休み下さい」「何するんだね」「でじこ見るんです」なんて会話がきっと、お盆過ぎにかけて隠れオタクなエリート揃いの霞ヶ関官庁街やら大手町丸の内のオフィス街でこれから繰り広げられることだろー。日本の未来はあっかるい。

 「クラブパンターニ」所属だけあって北久保弘之さんの名刺替わりの劇場作品「BLOOD」はすげえ顔した小夜(SAYA」の日本刀ぶん回しイラストが掲載されてて迫力満点、誰もが自分に嘘をついているよーに情念よりも理念が全体を覆っていて見ながら人間とゆー生き物のやりきれなさを感じた「人狼」とは対称的に、キャラクターの激しいスクリーンを越えて飛び散って来る作品になっているのかどーかは不明、見てないし。新作一覧では石森章太郎の「人造人間キカイダー」ガコミックのテイストそのままにアニメ化みたいで乗ってる図版の顔とかポーズとかが実に石森しているのが漫画読んでた世代にとって何か嬉しい、でも話はすっかり忘れてる。巧妙と言えば「はじめの一歩」も原作のテイストをまんまアニメに入れていて、もとが劇画チックな所があるだけにこっちはちょっと一歩がコワいかも。「犬夜叉」も高橋っぽさ出てるなあ。「トライゼノン」とか「アルジェントソーマ」とかも含めて面白そうな作品が目白押しな秋番組だけど、地上波でどれだけやってくれるのかってのが目下の関心。アニメの衛星へのシフトが進んだ結果、今夏に見ているのが「サクラ大戦」に再放送の「エルガイム」くらいって実状に、心がジリジリとアニメ離れしそーな感じもしているだけに、地上波の頑張りに期待します。

 「SF大会」の電撃の部屋に途中から来て途中で帰った「ドッコイダー」の姿も印象的だった「住めば都のコスモス荘」の漫画版が何か妙に良い出来のよーな気がして来た、ってゆーかこれまでほとんど阿智太郎さんを読んでなかったけど「電撃アニマガ」の今号掲載の漫画を読んだら、とても面白い話なんじゃないかと思えて来た、って気づくのが遅い? ごもっとも。けどコスモス荘の畳の部屋でちゃぶ台挟んでご飯を食べるドッコイダーとバイザーも立派なタンポポちゃんの姿が何かいーんすわ。トーンがモワレってた「ブギーポップは笑わない」も今号は気が付くとスミ塗り多用でクールだった雰囲気がちょっぴり柔らかくなっている。へたりこんだ末真和子の妙に太い足とか瓦にすっくと立った凪のどこかすっとぼけた目付きとかはともかく、表紙のどアップな凪はマジで格好良い。しかし本にまとまったら結構目が踊るかなあ、タッチの変化に。680円は某「メージュ」とかに比べてお値段張るけど、付録の「浴衣ラフィール」も含めて人気小説の漫画2本が読めてついでに適当な読書感想文も付いてる「電撃アニマガ」9月号を見かけたら保護しましょう、グラビアの桑島法子さんもナカナカだし。


【8月7日】 正真正銘に人見知りする引っ込み思案な性格であることには間違いがないと本人が自覚していたりするんで、商売に役立つよーな積極的な挨拶はほとんど出来ずネットで見知った人やこっちがファンな作家さんへの挨拶くらいしか出来なかった「日本SF大会」の2日間。夜は夜で帰りがけに見かけた若い人たちからのお声かけも振り切って帰宅して「電撃アニメーションマガジン」向けの原稿書きと表向きには気合いを入れつつ、ネットに繋げてはアイドルの画像を落としてディスクにため込む作業を繰り返すこと2時間半、結局のところ1日目には何も上がらず2日目も周囲に見知った人の姿の見えない中を速攻で帰って書評書きに勤しんだものの、結局下のピンで流す4冊分しか上がらず眠さも増して来たんで上のパートは断念して寝る。小田ひで次さん「クーの世界」や上遠野浩平さん「冥王と獣のダンス」なんかを紹介予定、1冊電撃入ってるから良しとしよー、もらってる訳じゃないし。

 起きて続きをやろーとしたけど頭が痛いのと鼻水が流れ出してるのとでノリが悪いんで断念して会社行って仕事。プレステが欧州で11月だかに発売とか、ゲイ・レズビアンのためのコミュニティ・ポータルサイト「ゲイウォーカー」が出来たってな記事を書いて時間を潰す。弁当を買おうとしたら隣りで建設中の「新サンケイビル」の内装工事が佳境に入っているのか、左官系の職人さんたちが老いも若きもこぞって「サンケイビル」の1階へと弁当の買い出しに来ている関係で廊下は肉体な人たちでごったがえして大賑わい、にわか人気に弁当屋でも在庫を積みましてワゴンも立てての大セールをやっているけど、あと1カ月もしたら工事も終わってどっと人も経るだろーから、落差にきっと悩むだろー。ってゆーか会社がまるごと隣りのビルに移ってしまうんで営業もその時には終わりってことになるのかな、まさに最後の打ち上げ花火、ドドンと開いてパッと散る。

 「日本SF大会」の会場でまだ若くって「ファンダム」の世界に全然足を踏み入れてなさそーな人が「SFファンが払う参加費ってお布施かなあ、100人とかのゲストを見に来るための」とボソリと言っていたのを耳にしていたのを聞きながら、なるほど傍目にはやっぱりそー見えても不思議じゃないんだろーなと考える。あるいは同窓会的な気分とか。少なくともファンダムでの経験が皆無な人間にとって、同窓会的な気分は全然なくって、払うお金はゲストの有名人なり好きな作家なりを見るための対価だけど、2日間でよく見られて8コマ程度の企画に払う対価かどーかとゆーと微妙なところで、もちろん参加者のお金だけでは結構厳しいんだろー状況は勘案しつつも、それでもやっぱりとゆーかそれだからおそなおさら「SF大会」とゆーコミュニティの維持に対して「お布施」的な気持ちでお金を出しているんだと言って言えなくもないからなー。

 思うんだけど、今回でだいだい1500人くらいの人間が集まった訳で、一昨年の名古屋でも1000人程度で最大に膨らんだ大会だって2000人とかだったと記憶しているから、「SF大会」にまで来る人間の数ってのはそれほど爆発的には増えていないんじゃない? 「ワンダーフェスティバル」が今年から部屋数を増やすくらいに大型化していて、「コミックマーケット」に至っては1日当たりの動員数でイベントとしては国内最大を誇ってるんじゃないかと思える位の規模に成長したにも関わらず、「日本SF大会」が1万人を動員するとかってな話は聞かないし、年齢も公式パンフレットに掲載されたレポートを読むと30代半ばを大きな山にして30代が圧倒的な割合を占めている。10代20代もいるにはいるけれど、大学SF研からの流れだったりするケースが多そーだから、外に開かれて様々なレベルのファンを吸収しているって感じはそんなに受けない。

 アニメやコミックの世界では増えている、「大航海」8月号の対談で東浩紀さんを1つの例に宮台真司さんが言っている「社交的」だったり「横断的」だったりする90年代的な「おたく」が、「SF大会」の現場にはそれほど大きな勢力になってなさそーに見えるのも、大会がファンフェス化、コミケ化しない理由なのかもしれない。だったら巨大なイベントになって欲しいかとゆーと、メジャー化を狙いつつもマイナーを愛でる優越感にひたりたいって二律背反的な気持ちもあるから難しいところ。そーゆー選民思想が鼻持ちならないと、ヤングアダルトでSF的な世界に読者をガンガン引っぱり込んでSFに恩返ししたいのにSF界からはあんまり良くは思われずに悩んでいる作家の人から思われる原因になってるんだろーなー。当分はお布施を払ってもらえる身にはなれそーもないけど、払ってこその救いの道って訳で来年の東京とか言って実は千葉も再来年は島根なんで分からないけど再々来年の大阪だか栃木も、頑張って言ってお布施を払って拝んで来よう、皆様を。

 作家のイメージと実物との一致性あるいはギャップを楽しめるのも一般人にとっての「SF大会」の魅力で、「日本SF論争史」の部屋にやって来て、手に持っていた「たれぱんだ」の縫いぐるみを掲げて、先に来ていた人の「ピカチュウ」と挨拶をかわしていた大和真也さんのそれっぽさには大いに納得できたけど、同じ部屋でパネルを務めた野阿梓さんは、萩尾望都さんの表紙絵とかから受ける幻想的で耽美的な文学世界、「野阿梓」なんて筆名から想像していたたおやかで繊細な人物とゆーイメージとも、論争の世界で見せる明晰で論理的な文章から想像できるイメージとも違っていたのがなかなかに印象的だった。永瀬唯さんは何度も見ているから驚かなかったけど、古くから付き合いのある人たちが「チェリオさん」と呼んでいたのがちょっと謎、語源はいったい何なんだろー、「錯乱坊」?

 あと野阿さんで1つ思い出したこと。「日本SF論争史」に収録されている野阿さんの論考では、小松左京さんの「首都消失」が名古屋なんて場所を仮の首都に置くのは奇妙なことだとなっているけど、「首都消失」の連載を名古屋にいて「中日新聞」紙上で読んでいた人間には、別に全然不思議じゃなかったんですよねー、文化的とか政治的とかいった立地条件なんて満たしていなくって平気へいき、それ以上に読者的、名古屋モンロー主義的自尊心を満たしてくれていたから、200万中日読者の自尊心をそれはもうたっぷりと。もちろん「天皇制」への意識がかねてからあったからこそ、中日新聞で受けた仕事で渡りに船とばかりに首都を消失させてしまうテーマを意識的に、あるいは無意識のうちに折り込んだ可能性はある訳だけど、柴野拓美さんのコスプレへの意見じゃないけど真意が案外とあっけらかんとしていたりする場合も皆無じゃないから判断は本人のみぞ知るといったところ。聞いてみたいけど機会もないあっても口ごもりそうだしなあ。「河北新報」連載だと首都は仙台になっていたのかなあ。


【8月6日】 SF大会は2日目がツラいの。ってこともなく適当に起き出しては横浜駅からバスに乗って「パシフィコ横浜」へ。50分ばかり遅刻してとりあえず向かった鶴岡法斎さんの「ガラクタ総決起集会」は18禁なんて健全な青少年が集う(公式見解)「SF大会」にはちょっと不釣り合いなハリ紙がしてあって、何だとのぞくといきなりモニターで「仮面ライダーストロンガー」に出ていたテントウムシのえっと名前忘れた女ライダーにエッチするAVが流されていて、今はいったい午前11時の横浜「MM21」なんかじゃなくって午後11時の新宿歌舞伎町「ロフトプラスワン」なんかじゃないかってな錯覚に陥る、観客も被っていたのかな。結構な人数で朝から立ち見もキツいんで、外に出て柳原望さんの「まるいち的風景」(白泉社、390円)って漫画に出てくるメイド(にも使える)ロボット(非女性形、モップは持ってないけどホウキはオッケー)の「まるいち」を作っちゃいましょう企画をのぞく。

 SF大会に来る活字SFの濃いファンの人たちに、少女漫画誌に連載中で星雲賞なんかとは無縁な「まるいち的風景」が、いったいどれくらい浸透してるんだろうって心配もあったけど余計なお世話だったみたいで、朝1番のイベントだったんも関わらず、会場になった広めの部屋がほとんど満席の大盛況。「AIBO」に「P3」と続いた実物の絵になるロボットの登場が作品のテイストとマッチしてファンを広げていたのか、SF大会に来る人はもともとロボットが好きだったのか、この企画だけを見るためにかくも大勢の人が集まったのかは分からないけど、会場での「まるいち」を巡る質疑応答の濃さ確かさを見る限り、少なくとも会場に集まっている人たちの「まるいち的風景」への思い入れの強さなり、ロボットへの関心の大きさなりは伝わって来る。

 主に「まるいち」には何が出来るのか? といった質問を会場から受ける形で進んだ企画は、「食事を作ってくれるか」とか「布団を干してくれるか」とか「留守番電話で動くか」といった、ものぐさな人間にはついてて嬉しい機能の実現性に関する興味深い質問が冒頭から相次ぎ、それに柳原さんや司会をしていた人やスタッフでロボット関係に詳しい人が、さくさくと解答していく。曰く「布団は干すけど雨を感知するセンサーがないんで雨の日でも干してしまう」といった具合。配っていた「製品パンフレット」によれば、千切りキャベツは凄い勢いで作れるらしーけど、質疑応答によれば魚は種類によってさばけたりさばけなかったりするみたい(ハモとか無理だろーなー)。つまり「まるいち」、持ち主の動きをトレースするだけの行動は、家政婦ロボットとゆーよりはやっぱり「人のフリ見て我が身を直せ」的な活用法を押し広げて、「自分のフリ見て自分に気付け」的な使い方を通じて心を癒すためのロボットと考えるのが、やっぱりベストなんだろー、お話し自体もそんなのが多いし。

 本を持ってなかったんで柳原さんからサインを頂くのは断念して、「SFセミナー」でも演題になっていた「日本SF論争史」(巽孝之編、剄草書房、5000円)を巡るパネルに向かう。本業での記者会見での習い症が出てしまったのか、誰も座らない最前列に堂々と座って待っていたら、係の人が正面に小谷真理さんの名札を貼って顔から血の気がスーッと引き、過去にヤバいこととか書いてなかったかなあ、巽さんからときどき読んでるって聞いていたかなあ、ってな心配が走馬燈のように(死ぬ間際かい)頭をよぎる。巽さんを筆頭に柴野拓美さん、永瀬唯さん、難波弘之さん、野阿梓さん、小谷真理さんを並べたパネルは、時間の関係や人数の塩梅もあってディスカッションとゆーよりはそれぞれが自分の論考を補足していく形で展開で、とりあえずは本に対して出てきた書評への反論なんかをやりはじめて、「電撃アンメーションマガジン」でチラとだけ触れた自分の文章は果たしてホメてたっけどうだったっけと、今度は背中に汗が流れる。読売新聞での東浩紀さんの書評については巽さんも喜んでいた模様、当方についてはホンの数行だったんで見逃してもらえて善哉善哉。

 メンバーの中ではちょっぴり異質に見えた難波さんが、その昔「青少年SFファン活動小史」って文章を「宇宙塵」だったかに発表していた話は、その前の木村一平さんによる「少年SFファンは訴える」が巻き起こした「SFの夜論争」ともつながって、「世代間闘争」がSFにも昔からやっぱりあったってことが分かって面白かったけど、ひるがえってネットが発達して別に達筆のガリ版を切る練習をしなくても、お金を払ってオフセット印刷の立派な本を作らなくても、ネット上で見栄の良いページをファンジンよろしく出せてしまう時代になったにも関わらず、難波さんのように上の世代に向けて論争を挑む動きが若いファンから上がって来ていないように見えるのは、何故なんだろうってな疑問を同時に思い起こさせてくれる。勿論作品への罵倒絶賛を含めた評論は結構あるし、「ネットワークSF者」への疑義に対する反論がネット上に掲示板なり個人のページに意見として掲載されることはあるけれど、雑誌としてまとまるなり商業誌に発表されるなりしないと「論」として固定化したと見なされない、「活字信仰」というと大袈裟だけどフォーマットから受ける印象の違いみたいなものが、まだまだ強く残っているのかもしれない。

 あるいは野阿さんが指摘していた、第一世代が「文学とは」とゆー疑問が常にあったのに対して、第2世代あたりから文学が「制度」として意識されるよーになり、野阿さんも含めた第3世代では「カルチャー」として認識されていったプロセスの中で、ジャンルなりに対する根元的な問いかけをする意味がだんだんと薄れていった結果、さらに下の世代では個々の作品論はあっても「SFとは何ぞや」なんてことはあんまり考えないよーになってしまったとか、根拠は全然ないけれど。とはいえミステリーの世界では、評論に対する賞があったりして、若いミステリー評論の人がどんどんと出てきている状況がある訳で、やっぱりジャンルとしての実体はともかく見かけの勢いの差、みたいなものが評論の世界にも現れているんだと言えなくもない。論争が盛り上がればジャンルが盛り上がって再び論争を盛り上げるってサイクルも考えられる訳で、その意味からも「日本SF論争史」は内容はもちろん存在自体が広く認識される必要があるだろー、けどやっぱり高いなあ。

 「カルチャー」VS「制度」あるいは「文学」との戦いとして分かりやすい例として上がったのが、小谷真理さんあたりが元祖になるコスプレの「SF大会」での反応。関西芸人を生み出した1978年の「ASHINOCON」に始まって79年、80年と続いたコスプレへの厳しい目との戦いが、小谷さんを評論家として鍛え上げるきっかけになったってな話があって、たとえ「コスプレ」とゆー形から入るよーに見えるジャンルへの愛の表明でも、愛である以上は何かしらの意味があるんだって考えていくことの重要性を、生きた例として目の前に見る。「キャラ萌え」がどちらかと言えば邪道なアニメなり漫画の楽しみ方として認識される中で、「どうしてキャラに萌えるのか」を考えることで見えるアニメや漫画の持つ意味ってのもあるのかも。もっとも小谷さんを奮起された柴野さんの「どうしてコスプレなのか」とゆー問いの真意が、20数年を経て柴野さん自身の口から「あれは答えが分かって聞いていたんです。楽しいからでしょ?」と語られて、つまりはそういうことだった小谷さんが、もしも当時その言葉を聞いていたら、果たして「女性状無意識」も「聖母エヴァンゲリオン」もあっただろうか、とゆー”ifの世界”が目の前に開けて、なかなかにSFな気分を味わう。せんすおぶわんだあ。

 びくびくしながらも堂々と真正面に座っていたんでやっぱりバレるわなあ。小谷真理さんから話かけられて挨拶しつつ、ちゃっかり持参していた単独著書ではデビュー作で日本SF大賞も確か受賞していた「女性状無意識」(剄草書房)にサインを頂いた後で、昨日に続いての秋山瑞人フィーチャー企画をのぞく。横に古橋秀之さんを置いてのトークショーは、「猫の地球儀」は結果としてはロバート・J・ソウヤーの「占星師アフサンの遠眼鏡」に近い部分はあっても、秋山さん自身は未読で本人的にはハインラインの世代宇宙船物と猫ファンタジーと「オネアミスの翼」が混ぜ合わさって作られてるってことを説明。最初に地球へ降りるとゆー着想があったんだろーかと思っていたら、もともとは猫の話があって、ロケットを打ち上げるよりは地球に行く話の方が書きやすいってことになったんだとゆー創作プロセスを聞いてこれまた驚く。ロケット話も人がやるならエキスパートなロケットマンから突っ込みもあっただろーところを、機動計算間違ってても推力計算間違ってても「猫のやったことでして」と言い訳できるから猫にしたって話もあったけど、最初に猫ありきだったりする訳だから半分はリップサービスなんだろー、現実に「猫って物理とか苦手なの?」ってな突っ込みがあった訳じゃないし。

 気になっていたららしい「電撃hp」連載中の短編が北海道を舞台にした「ちせ」と「ゆーくん」とのラブラブストーリーに似てるじゃん、ってな意見については「占星師アフサン」同様に読んではいなくって今ももちろん読んではなくって、聞いてやっぱり仰天したとか。森青花さんがベアは読んでなかった話とか、シェーフィールドとクラークの「軌道エレベーター」話にも似たSFに良くあるアイディアの同時多発あるいは隔世遺伝的発生例とも言えるけそー。世界設定そのもので仰天させるのがSFの面白さとゆーことは承知で、そこに挑んだ先人たちに敬意を払うことは当然として、たとえ似ていても、言い切るならば設定そのものを借りていても、その上で展開される物語に新しい解釈なり先人とは違ったドラマがあれば良いんじゃないか、って考えるのがヌルいSF読みな自分的解釈なんで、実際にはまったく無関係だった「イリヤ」についても、気にせず秋山節と貫いて、上下で終わるプロローグ的エピソードにつながる大きな物語へと挑んで下さいな。その前に「ファイナル」な。

 会場に見に来ていた小川一水さんに挨拶して、イベント終了後は秋山さんにも挨拶して「鉄コミ」にサインをもらい、電撃つながりで大集合していた作家さんの中から上遠野浩平さんに「冥王と獣のダンス」(電撃文庫、570円)にサインをもらってマニア気分。古橋秀之さんには「『SFマガジン』で『ブラックロッド』と『光の王』を比べちゃって良かったんですか」と気になっていたことを聞いたら、驚いたことに「実は意識していた」ってな話があって、安心しつつも宗教SFってことで何か無いかを聞いた時に「光の王」があると教えてくれた「SFマガジン」の編集の人に心の中で感謝する。「やおい」の部屋をのぞき伊藤剛さんから寄せられたメッセージにひかわ玲子さんや野阿梓さんが何か言いたそうにしていた所で企画の時間がオーバーとなってエンディングの会場へと向かい、2003年の会場を選ぶ投票をした後でさっさと帰宅。8月のイベントパート1を終える、さあ次は「コミケ」だ、の前に仕事やんなきゃ。


【8月5日】 最果ての国マリネラ、じゃなくって白馬で開かれたため行けなかった去年の「SF大会」を飛ばして2年ぶり2回目とゆー、まるで新興高校の急激に力を付けて来ている野球部の甲子園出場みたいなペースでの参加となる第39回日本SF大会「Zero−Con」へ。最果てよりは近いものの千葉から東京をまるまる抜けて行かなければならない彼方の地、横浜へと向かうために午前の7時に起きて家を出て、総武線快速で横浜まで行ってから鶴見線に乗り換えて桜木町から歩くのも1つの手ではあったけど、それもしんどいなーと不精の虫が頭を持ち上げて横浜駅前のターミナルから「パシフィコ横浜」行のバスへと搭乗、週末の閑散とした道をスイスイと抜けて気持ち受付時間を過ぎる時間に到着するかなあとゆー予想を覆して、15分前には受付を行う展示ホール前へと到着してしまう、がそこは名うてのSFな人たち、しっかりと行列が出来てたのはちょっと凄い。コミケワンフェスなんかと違って壁際サークルも人気ディーラーも限定ガシャポンも出ている訳じゃないのになあ、偉いなあ。

 設営中の開場を見ながら朝寝。スタート直前に大森望さんから野尻抱介さんを紹介してもらい、どこかで出逢うだろーことを想定して1冊だけ持っていった「ピニョルの振り子」(朝日ソノラマ、495円)に早速サインを頂く、とりあえずSF大会の開場で誰かに頂いた最初のサインってことになる、かな「カプリコン1」じゃあ誰にも頂かなかったから。加えて言うならこの時のサインは「星雲賞」を未だ獲得する前の、野球で言うなら米大リーグで新人王に輝く前の野茂であり、または200本安打を達成する前のイチローにも匹敵する、今は偉大な人が未知数だった頃のレアなサインってことに……はあんまりならないか、すでにメジャーだったし。横に大きく「星雲賞作家」と書いて頂くのも手だったかなあ、別の本を持って行くかなあ「月つき」とか。

 ちなみに野尻さんが獲得したのは短編賞で受賞作はもちろん「大宇宙の簒奪者」、は違ったインチキスペースオペラのタイトルにこれだとなってしまう。真面目に言えば「SFマガジン」に掲載されてそのスケール感その筆致でもって渋いSFファンをもうならせた、正統派のハードSFにしてファースト・コンタクト物の「太陽の簒奪者」が晴れての受賞ってことで、前年の「沈黙のフライバイ」がSFオンライン掲載ってこともあってどうにも票が伸び悩んだかノミネートされなかったかで涙を飲んだそのリターンマッチを、今回見事に果たしたってことになる。

 長編は神林長平さんの「グッドラック」で順当勝ち、海外は長編が「キリンヤガ」でした、短編は覚えてない。コミックは水樹和佳子さんが「イティハーサ」で「伝説」以来のえっと確か19年ぶりくらいになる受賞で、「SFマガジン」での絵物語の連載とか「イティハーサ」の早川からの文庫化ってのが多分知名度を押し上げたんじゃないかと想像。イイラスト部門も「SFマガジン」の表紙を手がけた鶴田謙二さんって辺りに、やっぱり「SF大会」で「星雲賞」における「早川」「SFマガジン」の圧倒的な強さが垣間見える、それが良いか悪いかは別にして。

 個人的にはSFかどうかは人によっては異論反論オブジェクションがあるらしいヤングアダルトの分野からも、例えば「電撃」のブランドあたりにはSF魂(SFだま、パシフィコに191個落ちてるらしい)が結構あったりするから、雑誌の「電撃hp」とも合わせて「SFマガジン」に互するところまでは行かなくても、認知くらいはされてノミネートには挙がる位になって欲しいって気がしてる。今回の大会の中には実は「電撃の部屋」なる企画が設けられていて、電撃の作家の人たちがズラリ勢揃いしていたんだけど、コアでハードなSFの人たちが「これはSFじゃない」なんて殴り込んで来ることもなく、逆に結構な観客数があったところを見ると、認知度については確実にジリジリと上がって来ていると考えて良いんだろー。

 にしてもすさまじいくらいに豪華なメンバーのそろい踏みで、中里融二さんに秋山瑞人さんに新木伸さんに上遠野浩平さんに高畑京一郎さんに田中哲弥さんに古橋秀之さんに、場内から加わった橋本紡さんと川上稔さんを加えた総勢9人が横一線に並んだ様は、お世辞じゃなくって確実に今の日本のヤングアダルト界SF界の1つの勢力を体現していると言って良い。電撃だとここに三雲岳斗さんが加わって、個人的には栗府二郎さんとかも加わったら勢力としての存在感もググッと増すか、中村恵理加さんも好きですねえ、他にも勿論いっぱいいるけど上げたらホントに切りがないからちょっと省略、しかしやっぱり凄いです、これだけいれば10年で小説界を征服できます、ホントです。

 去年の「電撃3賞」の授賞式に潜り込んだ時に見た中里さんと、同時に映画化、アニメ化が発表された時に見た上遠野さん、イベントなんかで何度も顔を見ている田中哲弥さんを除くと初めて見た他の人たちの実際は、例えば文庫の折り返しに族っぽい顔で写っている秋山さんは本人は坊主頭は坊主頭でも顔立ちは案外とさっぱりしていて明るい感じ。書く文章は結構キツい時もある古橋さんは細身の若いお兄さんだったりして、人は作品とか文章とかによらないものだってことを改めて思う。そういう僕だって「本人は太っているはずだ」と思われているらしいし、書いてる内容が内容だったりするんで。実はやっぱりそれなりに膨らんでます。

 近況では秋山さんは「ファイナル」が今冬ってまるで「プレイステーション2」の発売時期みたいな予定が明らかにされて、PS2なら3月だけど「5月とか」ってな話もあったからちょっと予定は未定で不定、それでも出るなら待ちます何時までも。古橋さんは「タツモリ」を3巻まで。上遠野さんはブギーがあって川上さんは都市シリーズのベルリンが継続中で、皆さんそれぞれにしっかりお仕事されています。来年は一段のパワーアップでもって、次回「第40回SF大会」の開催が決まった「幕張メッセ」の国際会議場あるいはスティーブ・ジョブスが講演を開いた会場に、この面子が勢揃いして、来場者も満場ってな状況を期待してます。

 「Zero−CON」でほかにも日本人でただ1人、冷戦崩壊後のチェコに渡って伝統のある人形アニメの世界に飛び込んでこれまでに2作品を作ったアニメーターの人の「チェコって貧乏なんですよ」的苦労話を織りまぜながらの最近チェコ人形アニメ事情の会場へと潜り込んで唐沢俊一さんに挨拶したりとか、実物はとてもスリムだった椎名誠さんと北上次郎さんの「本の雑誌」コンビに大森望さんが迫るイベントに入り込んで椎名さんの正面に座ってじっくり観察してみたりとか、書評雑誌の編集者を集めてそれぞれのスタンスについて福井健太さんが突っ込んでいくイベントに潜り込んでは壇上の面々以上にプロの世界で活躍しているライターさん翻訳家さん編集者さん雑記者さん作家さんらの間に交じって雰囲気を味わったりとかしてたら夜になったんでとっとと帰って本を読む、締め切りがこんなに近いとは。

 つまり「恋はミラクル」ってことなんですね。と思わず聞いてみたくなったのが上遠野浩平さんの新刊「冥王と獣のダンス」(電撃文庫、570円)。遠い未来に文明が衰退して片や機械のパワー、こなた超能力とゆーか「奇跡」の力で統治された国々が屹立しては争っている世界の中で、そんな争いに終止符を打って新しい世界へと人々を誘う人間の誕生を描こうとしている小説なんだけど、対立する2つの勢力の間でロミジュリよろしく敵と味方として出逢ってしまった青年と少女の間に飛び散ったのが、「ひとめぼれ」とゆー名のどんな機械も超能力でもかなわない「奇跡」だったりしたことが、2人の運命と世界の命運を大きく揺るがすことになる。

 作品の世界観を作り出すために人間が宇宙に出ようとして撃退された状況を想定したことが、巻末のクライマックスのアクシデントにつながるあたりはまずまず。人間を宇宙から撃退したほどの敵を倒すために作られた装置のあっけなさはちょっと謎で、出現の仕方もどこか唐突だったりするけれど、本筋の部分での恋はミラクルに人を惑わし人を導く様の描写に重きがあるよーに思える小説では、結構な厚さがあるにも関わらず急展開で進んで行く、裏切りと覚醒とボーイ・ミーツガールのストーリーにウェートが置かれてラストは一気呵成なのも当然か。それにしても鉄柱とか空気柱とかってのにやられるんならあきらめも付くんだろーけれど、巨大海栗にウニウニやられて死んでいく兵士の気持ちってのはちょっとなかなかに可哀想過ぎるかも。せめてこれが栗だったら、って一緒か。トゲなしの馬糞海栗にバフバフと潰されていくよりマシだと思って受け入れよー。


【8月4日】 「ロフトプラスワン」のイベントで田村信さん直々にサインももらった「できんボーイ」を読み返しつつ、当時はあんまり「できんボーイ」の良い読者じゃなかったなーってなことを思う。もちろん存在は意識してたし、読み続けてはいたんだけど、決して熱中してたって訳じゃなくって、「少年サンデー」をぺらぺらとめくる中で時々読んでたって程度。キャラクターに入れ込んだとかギャグに脳天をひっくり返されたってな思い出がとんとない。それなりに自意識の発達した子供によくある小賢しさで、こーゆーストレートなギャグを斜に構えて見てってことがあったし、直前に大ブレイクした山上たつひこさんと比較したり、当時熱中していたSF的なストーリー漫画にのめり込んでいったこと、直なギャグよりもシュールなコメディが好きだったことなんかがあって、記憶に刷り込まれることなしにすーっと抜けてしまった。

 当時のサンデーだと、田村さんが「できんボーイ」の中でパロっている「サバイバル」「男組」「赤いペガサス」「がんばれ元気」といった超大河漫画が全盛で、そっちの漫画は毎週の展開を楽しみにしながら床屋なんかで貪るように読んだ記憶が残っている、八極拳猛虎硬破山とか練習したなあ、あと蟷螂拳とか(弱かったねえ、殺人機械とかのサングラス野郎)。一方ではコンタロウ、山止たつひこ、江口寿史、ゆでたまご、車田正美らを有する「少年ジャンプ」がホップステップジャンプとばかりに大躍進を遂げていた時期でもあったから、「少年サンデー」が自分的にそれほど重要な雑誌ではなかったってこともある。廃品回収で集められた「ジャンプ」の山は抜き出して読んでも、「できんボーイ」の掲載されていた「サンデー」を熱中したって記憶はない。

 むしろそれから数年経って、「うる星やつら」が始まり「プロレススーパー列伝」が連載されてて「タッチ」がスタートしてラブコメ路線へと突入してからが僕的「サンデー全盛時代」だったりする訳で、そんな意味からも「できんボーイ」の面白さを”理解”(理解して分かるってな類じゃなくって、ギャグにピクつけるって感覚が正しいのかな)できるまでに20年もかかってしまった。ストレートな懐かしさを覚える人に加えて、当時は素直じゃなかったけれど気にはなっていた、例えるならやんちゃ坊主が遊ぶ公園を窓から眺めて「ケッ」とか言ってながら、結局はそれほど大した奴にはなれず、どこにでもいる普通のおじさんになってしまった人たち(自分だ)も、今ならきっと虚心坦懐に面白がれるから読んでみよー。

 心配なのはポジティブネガティブの両方含めたノスタルジーではない部分、が旬な少年少女の漫画読みたちにどーゆー感覚で受け入れてもらえるかってことで、あっけらかんとしたばかばかしいお笑いに世の中なんて楽しいんだろーってな感覚を子供たちが抱いてくれたら、バット振り回すとか家から出ないってなこともせず、脳天気に世の中に立ち向かって行けるんだろうけれど、そーいった層にとこの漫画を持って行って働きかける回路の乏しさってのが一方に厳然としてあったりする訳で、ノスタルジーではなくって、「できんボーイ」が当時対象にしていた人たちと同じ層にどうやって届けるのかてことを、端くれながら本読みとしてあれこれ考えて行きたい。やっぱりアニメ化が1番なんだけどなー、あと子供がちゃんと読む雑誌での再連載とか。

 ちょい時代は下がるけど、昭和50年代前半にどっぷりとハマっていたたがみよしひさの「軽井沢シンドローム」がメディアファクトリーから文庫で再刊され始めてたんで、書き下ろしとかゆー「あとがき」に惹かれて買ってみたら、案外と短くってちょっと物足りない気分だけど、当時の漫画に出てきたシーンがあらかた存在しなくなっていることなんかが書かれていて、間を隔てる20年もの歳月をあらためてずっしりと実感する。メンバー表を見てちょっと笑い。相沢耕平昭和33年12月12日生まれの23歳。当時はすっげー大人に思えたこーへちゃんの歳を楽々一回り上回っちまってるぜ。同じ歳の久遠寺紀子は今年で42歳かあ、処女ってのが特徴だった津野田絵里は耕平より1歳下だから41歳、いーおばさんになっちゃってる。昭和は遠くなりにけり。

 第1巻の冒頭部分の描き込み度は当時も思ったけれどすさまじくって、特徴となった3等身化も単行本だと3巻、4巻あたりまではそれほどとキツくなくって、ストーリーを読んでいれば自然と目に覚えられる程度のデフォルメになっている。ここから鍛えられた目には今のたがみさんの前後不覚に起こるデフォルメだって平気に見分けられるんだけど、若い人たちってちゃんとついていっ てんるんだろーか。まあ、「軽シン」をアメリカ人が仮に見たら1巻でだってきっと頭が混乱してしまうんだろーけど。斎藤環さんが出演したちょい前の「ロフトプラスワン」のイベントで、竹熊健太郎さんが米国任天堂の依頼でスーパーマリオの漫画家の原作を担当した時に、突然リアルなイタリア人おっさんになるマリオの絵を描いたら、それだけで「同じ人間に見えない」ってリテイクくらった程だから。

matida  夕方になったんで銀座の旭屋書店で開かれた町田康さんの「きれぎれ」(文藝春秋、1143円)のサイン会をのぞく。若い女性が「マッチーどんな格好で来るのかな」なってて言っているのを横で聞くと、芥川賞を受賞した文学者のサイン会じゃなくってパンクの町蔵のライブに来ているよーな錯覚に陥る、まあ大半はおっさんだったりしたのは銀座って場所が場所だったからか、自分だっておっさんじゃんかって? ほっとけ。たどり着いた会場でサインしている筆の運びを見るとなかなかに達筆で、おまけに1人1人に本を返す時に笑いながら「ありがとう」と言う、その表情が普段の憮然とした顔で写っている写真なんかと印象まるで違ってて、瞬間一歩引きそうになたったけどそこはこらえて「ありがとうございます」と受け取って帰途につく。

 朝日新聞の夕刊だかに芥川賞受賞の弁みたいなのが同時受賞の松浦さんといっしょに掲載されていて、文章のキレが相変わらずの町田節だったのはともかくとして、枕に田舎に言った女性リポーターの純朴な村人たちを相手に相づちもうたず居丈高な振る舞いをしている姿に怒り心頭、仮に自分がそうなったのなら丁寧にひとつひとつを聞いていくと立てた誓いを守る時がまもなく到来、町 田そこを1人ひとりに向かってちゃんと丁寧に質問をしては答えを聞いては相づちを打っては話が終わるまでは動かないという振る舞いをして、やがてできあがった番組を見たらこれは驚く。

 テレビの女性リポーターと同じようなぞんざいにして他人を見下したような態度で映っていたそうで、つまりはテレビなんぞは何をやってもぞんざいに偉そうに映ってしまうのだから、ここは逆にぶきらいぼうな態度をとれば、フランクにフレンドリーに写るように見えるのかもと思ってその通りにやったら、やっぱりぞんざいでぶっきらぼうでしかなかったという墜ちがあって、そんなことからサイン会ではやっぱいり丁寧モードに戻したのかと考えたけれど、かえって子供を怖がらせてしまったようで、だったらどうすれば良いんだってことになりそうだけど、町田さんは町田さんなんだからサイン中の「いかん」といって本を引き裂いて捨てて、次の人から本をかっさらってサインをしては前の人に渡して知らん顔、なんてことをやってくれたらそれっぽいけど、人目を気にして町田さんらしくふるまうのもまた町田さんらしくないんで、だからやっぱりどうしたら良いっちゅーねんってことで、頭をばりぼりとかきむしりながら銀座の町をシンギングインザレインするのであった、うくく。


【8月3日】 何かやらなきゃいけない事があるよーな気がしているけれど「SF大会」前なんですべて飛んでしまっているのです。まあそれほど遠くない将来にちゃんと仕上げて送りますから待ってて下さい悪しからず。ってことはさておいて藤木稟さんの「イツロベ」(講談社、1800円)に続く現代物となる「スクリーミング・ブルー」(集英社、1800円)は池上永一さんの「レキオス」(文藝春秋)でも舞台になったしこの間まではサミットも開かれていた沖縄の、基地があってアジアの各国へのアクセスも距離的には容易とゆーエスニックな島である一方で、ユタとかノロとか魂込め(まぶいぐみ)とかいった古くからの伝承伝統が生活のレベルにまで深く色濃く残っているプリミティブな島とゆー特徴を取り入れつつ、サイコサスペンスありポリティカルフィクションありってな感じの、”怪獣映画”だった「レキオス」とはまた違ったイメージのエンターテインメントに仕上がっている。

 恥骨から喉元までをズンバラリンと切り開かれた少女たちの内蔵を取り払って中にハイビスカスを詰め、穴の空いた船に縛り付けて沖に流してそのまま沈めるとゆーシチュエーションの殺人が連続して発生した沖縄に、プロファイラーの女性捜査官とキャリアの刑事の2人組が乗り込んで来て捜査に当たる。沖縄に古くから伝わる神様を鎮める儀式との相似性が取りざたされる中で、2人は不法入国者たちが数万人規模で住む「ボンベイ・シティー」なる場所へと出入りしたり、村人たちの間を聞き込みして回ったりしながら事件の謎へと迫って行く。やがて立ち会われるキャリア刑事の封印された過去が。事件の一方の真相へと絡み始めた時、一方では荒れた沖縄に再び幸運をもたらすための、残酷だけれども美しい儀式がスタートし、現実と非現実が交錯し混交するエンディングへと向かって行く。

 あれやこれやと要素の多い作品で、説明が付けられそうなことと付けられなさそうなことが入り交じっている辺りに、この本をミステリーと呼ぶかファンタジーと呼ぶかホラーと呼ぶかSFと呼ぶかといった難しさがありそー。ジャンル分けなんか無視して純粋にエンターテインメントとして楽しめることは確かだけど、人によってはブレンドの具合にどっちつかずの不安感を覚える可能性もないでもない。ストレートに政治や軍事と深く関わる過去が一種のトラウマとなって起こった事件として解決してしまっても良かったんだろーけれど、やはり神々が降り立つ島々だけあって、単純なご当地サスペンスには収まらなかったのかもしれず、アンフェアと言い出す人とか出そうでちょっと心配。けれどもそーいった場面があればこその感傷と感動と官能の混然としたエンディングを迎えることが出来た訳だから、やっぱりジャンルは無関係に娯楽小説として楽しむのが真っ当なスタンスじゃなかろーか。とにかく読み始めたらラストまで一気、です。帯が新井素子さんってのは謎だなー。

 「人狼 JIN−ROH」のメイキングブックをやっと買う、早速カバーをはずして多分「鉄」ってあるから西尾鉄也さんが描いたんだろー「メイキングえにっき」をつぶさに読む、ジバクちゃん活躍してまーす。ジバクちゃんと言えば秋葉原の海洋堂「ホビーロビー」のショーウィンドーでの「人狼」特集の中にショルダーバッグから出たヒモを引っ張ってるジバクちゃんの色紙だかイラストだかシールだかがあってちょっと、どころじゃなくってとっても欲しい気が。作品の本質とは全く無関係なんだけど、あーゆーキャラクターグッズが1つでもあった方が人気の一段の盛り上げになりそーな気がするんだけど。おっさんばかりの中で圭ちゃんとジバクちゃんがいたからこそ、しんみりと甘い、よーで実はとてつもなく肘鉄砲級に辛辣な男女の騙し合いを堪能出来たんじゃないかってな印象があるだけに。「時かけ」的原田知世頭(テレビ版「セーラー服と服機関銃」は確かロングだったから)にしてダッフル着てショルダー面ってヒモ1本たらしておけば明日から貴女はジバクちゃん、でも夏場は暑くるしいんでコスプレに選ぶのはやめましょう。

 70年代末の「週刊少年サンデー」でひときわ異彩を放っていた印象を持っているギャグ漫画「でじんボーイ」の復刊を記念するトークショーが「ロフトプラスワン」であったんでのぞく、司会進行は解説も書いている鶴岡法斎さん。前の「マンガロン」刊行記念ナイトに続いてのナマ鶴岡さんだけど、「できんボーイ」の田村信さんに生きながら死んでいるとも幻と化しているともワニが白いとも言われている江口寿史さん、でもってアニメ監督の大地丙太郎さんとゆーギャグの重鎮たちを相手に一歩も引かず突っ込むはイジるはついでに客も盛り上げるわと、ゲストいじり客あしらいの巧みさでは前回以上のパフォーマンスを見せてくれて、なるほど文化な世界で活躍するには喋りも旨くなければいかんのかなー、などと取材が本職の身でありながらも喋りが下手で人見知りする自分の性格を勘案しつつ、文化世界で食べていく道はなお険しってな実感を強く抱く、ああ今日も鶴岡さんにご挨拶できませんでした、すぐ真下に座っていたのに。

 イベントでは来なかったのか来られなかった、単行本では巻末で田村さん相手に対談もしている唐沢なをきさんが秘蔵の雑誌から切り取った田村さんの漫画コレクションを披露するコーナーがあって、単行本にきっと入っていない幻の漫画「かすちけけ」をアニメ監督でもともとは撮影会社にいたとゆー大地さんが別に関係はないんだろーけどプロジェクターを操作して見せる豪華なアトラクションがあって、タイトルからして意味不明な「かすちけけ」って漫画の、シチュエーションから見るならシュールなんだけどトーンとして熱いギャグっぷりにただただ驚く。外すとか捻るとかいった笑いじゃなくってストレートに勢いで見せるギャグ、微妙な間、下品なんだけど汚くない絵、そしてこれぞ田村信といった感じのどーゆー言語感覚から生まれて来るのか分からない「ちけけー」「えめめー」ってな感じの擬音の混然となった作品は、来年には21世紀になろーとゆー今であっても時代と無関係に笑えます。

 そんな漫画を見た後で、「ちゅどーん」が高橋留美子さんの発明と想われている(本当は田村さん)状況にだったら「かすちけけ」と商標登録してネットで「kasutikeke.com」のドメインを取得すべきって突っ込める辺りの鶴岡さんのアドリブが聞いたトークには素直に感心。あと「できんボーイ」や「かすちけけ」、はどーか別にして田村さんの漫画を大地さんが本気でアニメ化したがっているのにもちょっと驚いた。とはいえそこはアニメの人だけあってギャグ漫画を30分に仕立て上げる苦しさは先刻承知で、出来れば「ワンダフル」のよーな5分の枠にギュッと詰め込んで見せたいらしーんだけど、アニメづいてる癖にTBS、傑作を数多く送り出した「ワンダフル」のアニメ枠を捨てちゃっているから役に立たない。かといってゲストの皆さん「世界の車窓から」は好きなんでニュースステーション前の5分を頂く訳にもいかず、さてはてどの枠だったら「かすちけけ」、じゃない「できんボーイ」をアニメに出来るか、「クレヨンしんちゃん」や「ドラえもん」や「サザエさん」の1話分をもらうかってな話で盛り上がる。キャラクターグッズにはなりそーもないけど大地監督に大輪の花を咲かせる意味で、ブロッコリーでもアニメイトでもどーですスポンサーやってみませんアニメ「かすちけけ」(違う)。

 後半に移って漫画本のプレゼントが終わった後で始まったのがスケッチブックに田村さんがその場でサラサラと絵を描いてクイズの正解者にプレゼントするってアトラクションで、例えば「鉄人」と言うと一応は「鉄人」なんだけど横の大地さん江口さんから「どこが鉄人だ」ってなツッコミが入るよーな「鉄人」を描いて来たり、「ピカチュウとピチュウ」と注文を出すと「得意です天才です」と言いながらやっぱり「どこいらへんがピカチュウとピチュウ?」ってな絵が出来上がって来たりで、見ながら観客も他のゲストも一緒になって笑い転げる。ゲストをイジって楽しいかってな怒りを覚える田村さんのファンもいそうだけど、本人も何か楽しそうにやってたところをみると、他を楽しませるってのがギャグの人らしく習い性になっているのかも。突っ込む鶴岡さんも若いのに容赦がないのに反感を買いにくいあたりが巧くキャラクターとして羨ましい。

 リクエストを受けて「エヴァンゲリオン」も描いたけど一応はちゃんと「ロボット物」だったし、「カードキャプターさくら」もカードキャプターなさくらちゃん(女性)が何かしてました。ここに唐沢さんや、本当は来るはずだったらしくイベント中に鶴岡さんが「何故来ないー!」と連呼していたとり・みきさんがいたとしたら、レトロな漫画やアニメに関する異様なまでに分厚い知識と圧倒的な模倣力でもって、真っ当な「鉄人」に「影丸」に「ピカチュウ」「さくら」「ちゃっぷまん」を描いてしまったから田村さんほどには楽しめなかったかも。竹野内豊を描き始めた辺りで遠いんで帰宅。即倍コーナーには来ると言われていたとり・みきさんの新刊じゃなくって再刊になる「しゃりばり」が積み上げられていて、来ていたらサイン欲しかったけど最後には来たんだろーかどーだろーか、まあ「SF大会」にもゲストで小松左京さんとの対談をするみたいなんで、そっちに持って行ってサインもらおう旧版の方に。


DOCOMO 【8月2日】 好きかと聞かれれば現時点では代々木に屹立中のNTTドコモが入るらしー茶色の尖塔ビルは嫌いな部類に入る建物で、なぜかと言えば1つは色がどこか辛気くさくてきらびやかなイメージがなく、2つに窓の少ない上部の意匠に何故か外から見ている人間であるにも関わらず息苦しさを覚えてしまうことがあり、3つに近所を見渡した時に視線を流せるよーな建物がなくってどこか場違いな不安感が漂ってるってことがある。平たい場所じゃなくって新宿と原宿の間にあってどこか窪地的な雰囲気のある場所に建っているってこともあるのかな、陰の気が集まっているってゆーか、浪人生の怨念が渦巻いているってゆーか。「iモード」が嫌いってこともあるのかもしれない、宣伝やってた広末は勿論好きですが。建築にも都市開発にも専門じゃないからこーゆー感覚を抱いてしまうのが自分の属性によるものなのか、はたまた大勢の人に共通の違和感を与える要素に満ちているかは分からないんで専門な人の研究を待ちたいところです。

 若手ってゆーかすでに中堅の建築家、隈研吾さんの評論集「反オブジェクト 建築を溶かし、砕く」(筑摩書房、2200円)なんかを読むと、こーいったどこか独りよがりな建築物は建築そのものがオブジェクトとして独立してしまっていて、周囲との調和とか近隣との連携なんかは考えられていなくても、1個の「作品」として立派に評価されてしまう風潮が建築界にあるらしく、隈さは本でそーいった建築物を批判して、だったらどーゆー建築が良いのかってことを自分の作品なんかを通じて示している。原点にあるのはブルーノ・タウトが熱海の海に望む山腹に設計して作った「日向邸」で、それは別に最初からタウトが設計して作った家じゃなく、最初からあった建物の下に一種の地下室を作ってくれとゆー、当時でも世界的な建築家にとても頼む仕事じゃなかったものを、何故かタウトは嬉々として受けて、見た目は平凡ながらも隈さん的には意味のある建物を建てたらしー。

 それは世界から建築物が切断されていないってこと。眼前の海を、周囲の山を視線の中に収めて調和し連続している建物こそが、オブジェクトとして周囲から浮かび上がって声高に存在を主張するのではなく、タウトの理想とした桂離宮から脈々と受け継がれて来た庭も周辺も空気も空も含めて自然に溶け込んでしまえる反オブジェクトな建築物として、自然だ環境だなんて言われている時代にこそ求められるものなんだってことらしー。隈さんはそんな思想のもとに、タウトの「日向邸」のそばにやはり眼前の海を視野に入れた時に一体化する、水を張ってガラスを立てた「水/ガラス」てゆータイトルのゲストハウスを作り、自然を楽しむための物であるにも関わらず、山頂に威容を見せて眺望を崩してしまう矛盾した存在である展望台の問題を解決するために、山頂の下からスリットへともぐって階段を登ると山頂から小さくテラスのように付きだした展望台にたどり着く「亀老山展望台」を作った。

 その思想には共鳴できる部分もあるんだけど、一方では出来上がった建築物が周囲の環境を変えて新しい眺望を作り出していく場合もあったりするから分からない。あと気持ちの馴れっていうことも。あれだけ鬱陶しいと思っていた東京都庁も慣れれば全然不思議に見えないし、周囲のホテルとかへとも連動して、新宿副都心に新しい景色を作ってしまったよーに見える。それから反オブジェクトとして建築物が視野に入れなくてはならない周囲の環境なんかをどこまで考えれば良いんだろーかってゆー疑問もあって、視野に入る部分だけは落ちついていても、周囲数キロへと範囲を広げて見るとやっぱり浮いてたり、逆にその場では違和感があっても、スケールを広げてみれば立派に環境と調和してたりするって場合も考えられない訳じゃない。NTTドコモのビルだって、宇宙人とかの目が東京ってゆー場所を俯瞰した時に視線をとらえるランドマークとして機能するかもしれない。あるいは東京をつまむ時の取っ手とか。

 反オブジェクトと言ったところで、街ひとつ国まるごとを調和の合った形に作り上げることなんて不可能な訳で、どこかでは必ず周囲と切断されてしまう。その意味では「オブジェクト」を内包する概念でしか「反オブジェクト」もないよーな気がするけれど、どっちにしたって人間なんて目の前の物に納得出来れば良い訳だから、構わないのかも。そういえば確か隈さんって評判の悪かった愛知万博のプロジェクトに関わっていたんだったっけ、環境をテーマにした万博に関わって環境の中にパビリオンやら住宅をぶったてて、反オブジェクト的な自然との調和を見せよーとしたんだろーか、だとしたらどんな形態になったのかを、実際に見てみたい気もして来たけれど、世界的な環境保護ってゆー動きが視野に入っていなかったって意味で、やっぱり「万博プロジェクト」とゆー「オブジェクト」の中から出られず、世界の流れから切断されていたのかも。いろいろと考えさせられる本でした。

 誰のコラムだったっけ、四方田犬彦さんだったかな、大阪の展覧会場で荘厳であるべき展示室から携帯で「今フェルメール見てるんだ、すげえよお」ってな電話をかけてた若い人がいて、それを叱るんじゃなくってそーやって”お芸術”が良い意味で俗化していくってことが書かれてあって、考えて見ればフェルメールだって、別にかしこまって見て欲しいってな気持ちで絵を描いてたんじゃないだろうってな想いも浮かんで、だったらいったいどんな感じで絵を描いていたんだろーってな疑問に、フィクションだけどそれなりにリアルに迫ってくれたのが「真珠の耳飾りの少女」(トレイシー・シュヴァリエ、木下哲夫訳、白水社)って本。題名から分かるよーにフェルメールの傑作中の傑作「真珠の耳飾りの少女」のもしかしたらモデルはこんな少女じゃなかったのか、ってことが作家の想像でもって描かれていて、当時の画家のおかれていた状況や、オランダの街の人たちの暮らしぶり、考え方なんかがリアルに立ち上って来る。

 画家らしく道具を動かされることを嫌っていたため掃除も出来なかった部屋を、観察眼の鋭い娘が奉公にやって来て掃除を担当するようになって、いつしか画家のフェルメールに惹かれたものの、奥さんも子供もあったしもとより身分違いもはなはだしく、そうこうしているうちに事件が持ち上がって大変なことになるって展開は、一方では当時の暮らしぶりを教えてくれる歴史小説としての楽しみがり、一方では当時も今も変わらない多感な少女の傷つきながらも成長していくドラマがあって様々な切り口から楽しめる。もっともそれが事実かどうかは別にして、かくもいろんなドラマが詰まった絵なんだから、とてもじゃないが「綺麗だ」「素敵だ」と言って目の前で騒ぎ立てるなんてことは出来ないと思えて来ることも確かで、画家が絵にかけた情熱と、小説とは違っていてもそこに描かれている以上は存在した人物の生涯なりドラマに思いを馳せつつ、静かに見たいとゆー気になる。確か国立西洋美術館で「レンブラント、フェルメールとその時代」展をやってたなあ、平日の静かな時間に携帯切って見に行こう。


【8月1日】 同時多発的なのは金属バットに関連する事件ばかりじゃなくって、金属バットに関連した考察もやっぱり同じよーに皆さん思いついたみたいで、「週刊プレイボーイ」8月15日号で山崎浩一さんが「なぜなにカルチャー図鑑」の中で金属バットの文化史を年表とか解説とか入れて大々的に紹介中。天下の名コラムニストに発想が通じるものがあるって自慢したくもなったけど、活字になるまでのタイムラグを考えたら思いついて記事にした時期は山崎さんの方がよほどか早いわけで、なるほどそーゆー世間への目配りが山崎さんをして長い間を食べ続けられるだけのコラムニストたらしめているんだろー。ふーんなるほど反発力じゃあ日本製の金属バットが1番なのか、出来ればメーカー名も欲しかった、ミズノ? それともSSK?

 もっとも貧乏で自立を目指した少年の起こした直近の金属バット事件が考慮い入れられなかったせいか、「金属バット家庭内殺人事件には、どれも独特の哀しさがまとわりついている。一見『恵まれた家庭』の『立派すぎる親』と『反抗期もなかった良い子』の部分の前2つがちょっと合致していない。就寝中だったかどーかは不明だけど、会社に行ってなかったところを見ると、少なくとも家のなかでひっそりこっそりそしてガッチリ、金属バットを頭上にキメたことは想像に難くないだろー。まあ枝葉をつついても山崎さんが持つ本質的な着眼点の冴えが減殺されるものじゃないから、ここは敬意を払って山崎さんの「金属バット図鑑」あるいは「金属バット思考の独習帳」なんかを執筆して頂くことにいたしましょう。

 親とか社会とか学校とか世間とかいった自分の思うに任せない権威を粉砕して進む金属バットを使った事件が、果たして何らかの精神医学的な見地でもって語れる現象なのかどーかは知らないけれど、女性にだって決して持てない重さじゃない金属バットであるにも関わらず、女性に金属バットを振り回す例が少ないのは、金属バットの形状が、抑圧された内面を代替するかのよーな金色に輝き屹立したものだからなんだろーか、ってなことは全然考えず、単純に男子に金属バット所有者が多いってことが理由で、女子に多いテニスじゃラケットで叩いても壊れるのはラケットだし、ラクロスじゃあ網が頭に被って帰って安全だったりするから難しく、せいぜいがホッケーのスティックなんだけど、あれは振っても当たるのは足だから攻撃力がグンと落ちるから、事件化していないだけなんだと思ったりなんかしてるけど、実際のところは精神医学も心理学もかじった訳じゃないから分からない。「金属バット少年の精神分析」なんて本、やっぱり書いて欲しいなあ、斎藤環先生に。

 ってことを告げに言った訳ではやっぱり全然なくって、単純に純粋に「戦闘美少女の精神分析」(太田出版、2000円)って本について喋る、それも錚々たる面々がゲストに来るってことを聞いて、「ロフトプラスワン」で開催された斎藤環ナイトをのぞく。この本については、「金属バット的、粉砕的」な著者では全くない哲学研究者の東浩紀さんが、「戦闘美少女」の著者の斎藤環さんを含めた面々とメールで意見交換を行うプロジェクトを展開中で、そっちはそっちでのっけから「オタクって、何?」ってな根本的部分での議論が白熱して、蝸牛も枝から滑り落ちそうなペースで濃い議論が戦わされているんだけど、開場にもメンバーの全員が登壇しては、やっぱりオタクって何ってな議論になってしまって、個人史的な部分を聞きながら、半ばリアルタイムで経験して来た彼ら彼女たちの「オタク道」に頷きまくる。

 書評のメンバーじゃないけど小谷真里さんのコスプレ一代記は「アシノコン」でのトリトンに始まった経験に、当時はまだ関西芸人だった後のダイコンフィルムでゼネプロでガイナな岡田斗司夫さん武田康廣さんが活躍していた話なんかが交じりつつ、「聖母エヴァンゲリオン」の著者近影でコスプレをしていたのは実はスチルがガイナックスから借りられなかった場合に、すべてのカットをコスプレした自分たちで再現してしまおうってな保険を考えていた名残だそーで、もしもそれがそのまま実行されたとしたら、表紙の確か綾波だかが果たしてどうなっていたのかって部分に深くふかーく興味が及ぶ。それはそれでー、な本になったって気もするなー。

 そんなコスプレ話にまだ東さんが登場していないからぶっちゃけると、ってな前振りで伊藤剛さんが「オタクから遠く離れて」の企画の時に、東さんにアスカのコスプレをしてもらおうかってな話があったらしくて、結局ポシャっちゃったらしーんだけど、やっぱりそれもそれはそれでー、ってな感じは実はしないでもない。ちょっと消極的なのはやっぱり見た目の違いってことになるんでしょーか。その伊藤さんが名古屋にいた時にオタク的なものと接点を持った場所として挙げた、名古屋は昭和区のいりなかにある三洋堂書店って名前が自分にとってはクリティカルヒット。当時はまだ珍しかったアニメーショングッズの店の「アニメック」(「アニメイト」じゃないぞ)も間をおかずに出来た三洋堂書店は、漫画の品揃えが半端じゃなくって、メジャーなコミックは当然として、「作画グループ」や「超人ロック」や新書館「グレープフルーツ」絡みのムックに「漫画ブリッコ」や「かがみあきら」の遺稿集、ほか同人もどきな自費出版系の本まで並んでて、中学高校の頃は平針から週末ごとに4キロちょっとの道を自転車漕いで通い、車に乗るよーになってからもほとんど毎週寄っていた。学校出ても行ってたなあ。

 そんな学生時代をこっちが送っていた頃に、すでに東京で「漫画ブリッコ」とかに登場してた竹熊健太郎さんは漫画の話を延々とし始め独壇場。24年組と呼ばれる少女漫画家との出会いとかを話してて、それはそれで漫画読みとして実に共振させられる部分もあったけど、「私はいかにしてオタクとなったか」的な話ではあっても、会合のテーマであるところの「戦闘美少女」にはなかなかと至らない辺りがなるほど、機関銃的自分語りの得意なオタクたちを壇上に上げてしまったが故の戦術的問題だったかもしれない。とは言えそこは年長組として話をまとめる竹熊さん、パロディ的な気分(永山薫さんが横でパロディと言いつつそれも本質なんだと突っ込んでいた)で始まったメカ美少女の系譜が次第に変遷していった辺りを抑えていたし、自分を登場している美少女に重ね合わせたい男の子の一種の欲望が、ああいった戦闘美少女なる形態を作り出したんじゃないかってな指摘もしたり。なるほど戦闘美少女の送り手側にもファンにも男が多いってな理由もこれで納得がいく。

 もっとも一方で「魔法少女」の系譜があって、こっちはこっちで女の子の「なりたい願望」なんかの受け皿になってたり、「本当の自分」探しの代替物になってたりする可能性も考えられるから、それらが統合された形で「セーラームーン」が男子にも女子にも人気となって、今の「カードキャプターさくら」あたりの性別を問わない人気(性別によって感情のベクトルは違っているのかもしれないけれど)につながっているんだろーかと朧気に考えてみたり。もっとも、今現在この時点で「戦闘美少女」に対してパロディ的な理屈付をしないでストレートな「萌え」を発することのできる若い人たちがいる訳で、その感覚ってのはおじさんには想像は出来ても実感は難しい。「オタクエリート」でも「オタク密教」でもない「普通のオタク」が存在するとして、その人たちが「戦闘美少女」を見た時に働く回路ってのがどうやって出来上がって来たのか、それはこれからどうなって行くのかをオーソリティーでエキスパートな偉い方々には望みたい。しかし何時まで続くのかねえ、メール書評。

 豪華メンバーを交えた第1部も、東さんの衝撃的な「アニメはあと5年はダメだ」発言があったりして沸き立った後で休憩を挟んで今度は一転して真面目な(オタクも真面目だけど真面目に見えないからオタクなんだなこれが)「ひきこもり」に関連したトークへ。斎藤環さんお得意の分野で観客もどちらかと言えばオタク話よりそっちに感心のある人が多かったみたいで、席を立つ人もそれほどおらずむしろ目がマジになって壇上に上がった斎藤さんを見つめている、単純にファンなだけだったりして。壇上にはほかに劇団の主宰で斎藤さんの先輩にもあたるらしい山登敬之さんが前半に引き続いて司会を務め、それからかつてかあるいは今も「ひきこもり」と巷間言われている形態の行動をとっている男性と女性が上がって、自分たちの経験なんかを話してくれた。さすがに夜の歌舞伎街へとやってこれる人たちだけに、よくあるステロタイプな部屋の片隅にうずくまって動かないってなイメージとはかけはなれて、女性はときどきコンサートにも行くしアルバイトだってやっていて、男性も本が好きで図書館に通ったりしてといった具合に、それだけ聞いて「それってひきこもり?」なんて気持ちも浮かんで来る。

 それでも一般的に社会が構成員である個人に期待するような就業であったり結婚であったりといった行為への従属心は希薄で、「であらねば」的な発想をいささか超越した部分に自分を置いて、「どうにかしたいんだけどどうにもならない」自分に不安と憤りを満足の交じった複雑な感情を抱きつつ、毎日をどうにかこうにかやっている姿が見えて来る。面白かったのは男性の方で、実は自分に極めて素直でかつ、人間の存在について思考を究極までめぐらせるだけの知性を持ってしまったが故に、何故生きるのかという部分で「生きる為には食べなければならない。食べるには金がいる」といった結論にたどりつき、「親の1万円も自分で稼いだ1万円も同じ1万円」といった具合に思考を巡らせて、「親に寄生して生きれば良いじゃないか」と訴える。それで生きている意味があるのか、といった部分への言及は本人かはらなかったけど、斎藤さんが言うように「自分が1番」という強いプライドを持っているが故に「ひきこもり」の人には宗教に走る人も自殺する人も少なかったりする訳で、「生きるには食うには金」と考える段階ですでに「生きる」ことは前提としてあったりするから、「死ねばいい」と言ってしまうのはやはり議論の出発点から除いて考えるべきなんだろー。

 「働かなくたって親が食べさせてくれるならそれで良い。親が死んだら家は自分のものになるし遺産だって入る」といった男性の意見は、聞く人によっては突拍子もない巫山戯た意見に聴こえたかもしれないけど、昔だったら親がかりの遺産で食べてた高等遊民なんって人たちがいた訳だし、親戚づきあいが面倒で父母への負い目はあっても愛情となるとなかなかに素直になれない自分の場合、そそられる意見だったりもして前半のオタク絡みトーク以上に結構身が引き締まる。何人も人がいてそれぞれが勝手に自分の意見を講演よろしく延々と語り倒して、それなのに何だか議論が進んでいるよーに見えるオタクの人たちの会話風景を見て「わからない」と言った男性の意見に、なかなか自身を持って自分の意見を言えない身として半分共感。でもてんでばらばらな独演の総体でも分かってしまうからやっぱり僕はココロ系じゃないんだろー。まるでココロがオタクかを判別するリトマス試験紙のよーなイベントでした、来ていた貴方はどっち?


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