縮刷版2000年2月下旬号


【2月29日】 経緯はしらないけれど突然回って来た九州はRKB毎日放送の朝のラジオ番組「中西一清スタミナラジオ」に電話で出演、通勤途中のサラリーマン向けに現代の話題を喋るコーナーで「プレイステーション2」について適当に喋る、とにかく凄いハードで「ドリームキャスト」も終わった、とか。最初は親機もコードレスの自宅の電話機で話そうとしたらノイズが入ってマズいとかでPHSに切り替えたらとても良いと言われてなるほど「音むちゃくちゃいーじゃんん」を叫ぶトータス松本の気分が解って江口洋介みたく悦にいる、流石だ「H”(エッジ)」。夜の遅いネットな人が朝の7時半にラジオを聞いているとはとても思えないからデスラー総統かイルパラッツォ様かと言ってる(自分で)我が声を聞いたって人がここ読んでる人にいるとも思えないけど、どーですカッコ良かったでしょ?

 空前絶後の早朝に起きて頭フラフラのその足で会社に云ってからトッパンフォームズが木場に持ってるデジタルプリント・オン・デマンドの工場を見せてもらう。無版印刷をやってる工場でデータを1枚1枚可変させながらカラーを刷れるってのが特徴で、1人1人にあわせた内容のチラシとかカレンダーを刷れるってことらしーけどコストがかかるからまだそれほど浸透してなくって、今はもっぱら毎週金利を入れ替えて配布する支店名を変えた金融商品のチラシなんかをいっぱい刷ってるとか、あと卒業証書。まあ最近の「賞状」なるものが印刷だってことは誰でも知ってることだから有難みはないものと諦めていたけど、名前の部分くらいはせめて中国人留学生で書道の達人をアルバイトで雇って1枚1枚手書きしているのかと思ったら、毛筆体フォントか何かを入れて名前と学位を1枚1枚差し替えながらドドドドドッと本文ごと印刷していたとは。卒業シーズンを前に今がピークらしくあちらの学校こちらの大学のバラエティーの富んだ卒業証書をただいま「大量生産中」なんで、社会部な人スポーツ新聞な人雑誌のグラビアな人は「季節物」っぽくショットにしてみるのも面白いかも。

 太陽が中天を超えたあたりで眠さも100倍になったんでオートマティックにワープロを打ってそのまま帰宅して寝る。ときどき夢遊病のように起きて本などもパラパラ、水木楊さんの「砂城」(ダイヤモンド社、1900円)はシンガポールで花形ディーラーとして務める友人をながめつつ自分はディーラーとして失格し今は本店の検査部で同じ行員のあら探しをする毎日、けれどもいずれは支店に出て営業やって企画から取締役への道という銀行員としての出世コースを夢みて、カジノにも似た派手だけれどもリスクの大きいディーリングの世界に遊ぶ友人に対して何とかプライドを保っている。そんな主人公が当の花形ディーラーが絡んでいるらしい不正取引の調査を命じられてシンガポールへと出向くことになった。

 1つ間違えばベアリングス証券みたく会社ごと潰れてしまう可能性もあるディーリングの不正取引を人がいったいどうして起こしてしまうのか? という疑問には例えばキックバックによるお金への誘惑とか弱みを握られてオドされてとかいった理由を挙げて答えることも出来るけど、サラリーマンが10回生きても生涯に得ることの出来ない金を一瞬で動かしサラリーマンの年収を凌駕する億単位の儲けをたたき出す「快感」めいたものがあるのも理由らしく、そんなディーラーの生態を織りまぜながら物語は金融サスペンス調に進んでいく。一介の検査部員が最期はキれて拳銃ふりまわしてゲリラとバトルするなんて展開は、あんまり現実的じゃないけど鬱屈した気持ちを爆発させてくれる1つの願望として読んで気持ちよかったから良いとしよー。

 予想に反して、といゆーかあのメンバーでは予想どおりに「富野訓」のまくし立てになってしまったシンポジウムに不満な人は”ヒゲ”こと「ターンエー」のデザインがいかにして発注されリファインされ確立されていったかを示した「ミード・ガンダム」(画・シド・ミード、編・監修・高橋良平、サンライズ、講談社、2800円)の巻頭にある富野由悠紀さんの序文を読むのが良いかも。僕らだったらやっぱり1歩も2歩も引いて持ち上げ有り難がってしまいそうになるシド・ミードに対して「”年寄り仕事”が見えたら断る、とプレッシャーを」かけ、零戦を頼んだらグラマンが出てきたってな印象を受けた初期「ターンエー」に異論をとなえて大河原邦男さんたちが脈々を築き上げて来たガンダムワールドの「ミード氏への再教育」を行った話に、富野さんが「ターンエー」でやろうとした新しい「ガンダム」を提示するプロセスが見えて来る。

 それにも増して偉いのはシド・ミードのプロ意識で、富野さんの文章には「トウキョウ・サイドのスタッフは、若いくせにもっと偉ぶっているのか、臆病なのか知らないが、要求に対してどう応えるか、という仕事が出来なくなっている」とあって、ミーティングに時間を割き相手の言い分を理解しかつ自分の意見も通すというミードの「偉ぶらない凄さ」が逆に浮かんで来る。「勝手に好きなものを描いて、それが独自性だと信じている」という富野さんのトウキョウ・メカ・デザイナーへの苦言は、もちろん創造性の否定じゃなく”お仕事”としてスタッフの事も考えた上で努力しつつ能力も出すという”プロ”としての仕事をやってよ、ってな訴えだろー。「人間が使うための道具としての昨日は、形にあらわれる」「機能を示すことができた形は美しい」「CGの環境を体感すれば、まさに装飾過多のなかに我々人間が埋没してしまって窒息状況にある」。これを聞いても千手観音のよーな武蔵坊弁慶のよーな「俺ガンダム」をまだ作れるか。「ターンエー・ウイング局地戦使用メガ粒子ランチャー装備ハンマー付き」なんて出しかねないからなー、玩具屋さんは。


【2月28日】 帯に内藤泰弘さんが「ああ、若人よ頭を低くし物陰にカクレ、ぶるぶるしながら読み給え」とまで書いて絶賛している以上は、銃器に詳しく話はハードで絵も極上の漫画家さんかと思って手に取った木村太彦さんの「余の名はズシオ」(角川書店、540円)は、冒頭こそ流麗なファンタジー調の王位奪権物語りを予感させる絵柄物語だったものが、すぐさま転んでひねられて踏みつぶされた果てに粉々に粉砕される気分に浸らされる。まあ「トライガン」のカバーはずした所で内藤さんがやってることを見れば絶賛するのも解るよーな気がするなー。絵は底抜けに崩されストーリーはスラップスティックなギャグの中で雲散し、得体のしれない生命力を誇る謎の生き物「ズシオ」を軸にしたかの如きドタバタが繰り広げられて、誰もが仰天のうちに唖然としつつも厳然としてその漫画が在ることに気付き、日本の平和っぷりに番茶をすすりたくなるであろー。マサルさん珍遊記幕張の歴史が脈打つ「少年ジャンプ」にならあるいは相応する内容だけど、これが角川の雑誌に掲載されてると考えるといよいよ角川も趣味から酔狂へと格を上げて漫画文化を追究していく肝が据わったのかと瞠目する。今後に要注意。

 ハイパーメディアクリエーター、ってのが高城剛さんの肩書きで1番見たような記憶があるけど「文化庁メディア芸術祭」の簡単なチラシには「『AIBO』PVプロデューサーも務める」ってあってPVが何の略かは知らないけれどしっかり食いついてるじゃん感はいっぱい受ける、あのマルチメディア搖籃期を経た後に粟田政憲は消えて高城剛が残った理由を考えると文化と資本の複雑な関係に迫れるかもしれないとか最近ちょっと思って見る、そーいえば2人が出たシンポってのを昔幕張で見た記憶もあるぞー。でも高城さんはパソコン通信に3Dのメタファーを持ち込んだ先駆者っぽさもあるから早すぎた感もあって生き残った意味もなるほどあったりするのかも。かつて青山スパイラルホールで開かれた「フランキー・オンライン」のパーティーで見た勝新太郎の生は未だに目に焼き付いてるからなあー、いーもん見せれもらいました高城さんこれからもいーもん見せて下さい。チバレイはやっぱあれか、「社長アイドル」。

 って訳で「文化庁メディア芸術祭」のタカシロマンは出るのは明日で今日はかの富野由悠紀監督にアーティストの村上隆さんを交え通産郵政に文化庁まで手の内にして霞ヶ関3大デジタルメディア官庁を押さえた浜野保樹さんを進行役にしたシンポジウム「”ロボット・メカニズム”の進化論」を見に行く。つもりが直前にセガ・エンタープライゼスなんぞが業績の下方修正を発表するとかで兜町の記者クラブへと呼び出されて会見、廊下でみかけた入交昭一郎社長に「今週末の『PS2』に向けてマイクロソフトといっしょにやるって言うんじゃないんですかー」と振ったら「松下電器も入れて?」と切り替えされて、まだまだ余裕のあるところを見せてくれたんで一安心、会見自体は赤字幅が膨らんで国内での「ドリームキャスト」の販売が予想を大きく下回る厳しいものだっったけど、天下のお財布「大川功」&「CSK」が巨額の第3者割り当て増資を引き受けて通信事業と懸案だった転換社債の償還資金をこれで確保できたみたいで、後はスケジュールに従って「ネット企業」へのシフトをすすめ関連会社の株式公開でキャピタルゲインも得て万々歳、ってな方向への道筋もついた訳だから、とりあえずは膿だし峠越えを終えたと思ってこれからの上昇の期待したい、期待だけど今んところは。

 えっとシンポジウムだ「”ロボット・メカニズム”の進化論」には時間ギリギリで駆け付けたんで誰が来ていたのかほとんど判明しないまま着席。待つこと数分で不思議な黒と赤のジャケットなのかコートなのか解らない、袖の肘が机にあたる部分に不思議な赤いクッションが付いている不思議な服を着た富野監督が颯爽と登壇、真ん中に座って両脇を浜野さん村上さんが固める布陣でさてはてどんな「ロボット・メカニズム」についてのディスカッションが飛び出すのかと思いきや、最初に断っておくけと徹頭徹尾「富野節」が炸裂して監督のアニメ観なり人生観なり社会観が語られる展開となって、「ロボット・メカニズム」についてはカケラも語られず、これを期待していた人は肩すかしを喰らったかもしれないけれどまーあの布陣で「メカ話」もないと思っていた人が大多数だろーから、むしろ生の富野言葉(とみの・ことば)を長時間に渡って聞けたことを、嬉しく受け止め感謝し拝むのが筋なんだろう、後光も射してたし。

 それにしても「人間は本来強い者で神様なんて必要ないんだけど、自分の中の神を死似ることができないから、行為を外に向けて外に権威を作り出して自分にプレッシャーをかけてようやく動き出すんだ」とかいった話を始めた時にはいよいよ宗教者めいて来たと感じた人も結構いたはずで、トミノコ教でも起こすのかと半ば冗談半ば驚異を感じて聞いていたけれど、その言葉自体が富野さん流な言い回しらしく、結局のところはこれはロボット(厳密にはアトム以外のロボットは乗り物であってロボットなんかじゃないと富野さんは定義づけているけれど)アニメでどうしてこうまでロボットが出て来ざるを得ないのか、といった状況についての解説だったんで安心する。つまりは「巨大ロボットは表現の手段」であって、人間を動かしその内面を浮かび上がらせる道具建てとして圧倒的な存在感を持つロボットは有用だったってことになる、らしい。

 けれどもロボットはあくまでも道具であるとゆーのも富野監督の強い理念で、だからこそ「乗り物」と強調しているんだろーけれど、そうした理念が最近では流行の「サイバースペース」なる物への懸念にもつながていて、「考えるまでもなく人間はサイバースペースだけでは生きていけない。そんなことを信じるのは科学をもてあそんでいる者の世迷い事だ」と強い忌避を示したのが印象に残る。「僕は死ぬし、男女から生まれて来たんだ。肉体や精神を売り渡せるのか。技術を沈めて面白がれる人もいるが、私は組みしない」とまで言い切る理由が何かと知りたくなったけど、勿論実際にネットに触っている人たちがだからといってその上ですべてを完結させよーなんて思っていないことは自覚している訳で、あるいは大人たちの商売っ気がたっぷり入った「何でもネット」スローガンへの胡散臭さを直感として感じて、牽制しているんだろーと思えて来たけどそこまで沈思する人だったというのか! 富野さんって。

 「ザブングル」がバブルの影響下での経済資本万々歳主義への反発じゃないかと言った村上さんい対しては、当然ながら「ザブングル」はバブルより以前、「NTT株騒動」に世間が沸いたり「ブラックマンデー」に世間が沈んだりした果てに到来した「土地神話」の影響なんぞは微塵も感じない、確か82年の作品だったと会場にいた大勢の富野マニアは解ってたはずで、同時代的に「ザブングル」を見ておらず肉感として世相と作品を結びつけられず、受けた印象を頭で考え時代性を後付けしようとしている村上さんの「勉強したいーっ」ってな感じの意志が浮かび上がって興味深かったけど、そういった素朴な疑問によって抽出される要素ってのもある訳で、外の視点からの意見をこれからもいろいろ言ってもらえると楽しくって良いかも。「保守奔流はアニメだということを立証するために外から責める」という村上さんのスタンスも、人によっては「権威筋がお墨付きを与えてやってる」風の反発心を呼びかねない要素はあるけれど、現実に「文化庁メディア芸術祭」というお墨付きの場に富野さんを引っぱり出して2人でトークする機会に結実している訳だし、居丈高ではなく自覚的に使っている分にはやはり得難い人材だとの結論に至る、とりあえず。

 60歳近くにもなってちゃんとアニメを作れる機会を与えてもらってるってことでバンダイに感謝してると富野さんが言っていたことはちゃんと高須武男社長に伝えて差し上げてくださいな。あとこれはあるいは山形浩生さんなんかが「焦り」として感じていることに通じるのかもしれないけれど、富野さんは今の世の中で知を伝えようとする官僚なり大人たちの力が弱まっているのにも関わらずそれを「危機的と意識しているのか」と心配していて、戦後にひいひいと日本を発展させていくなかで大人たちは自分のやっていることを間違っていないと確信していたけれど、「子供たちのことをすっかり忘れてしまった」と指摘して、このままだと米的なもの、欧州的なものになぎたおされてしまうとまで言っている。少なくとも今後のスタンスとして「会場に来ている人じゃなくその子供たちに向かって、厭世観を植えつけるような者は作らない」と言っていたからさてはれ60に手の届こうとしている今、「皆殺しの富野」が転じて一体どんな展望を作品に描いてくれるのかが楽しになって来た。ところで「逆A」ってどーなってるの今?


【2月27日】 まあそのうち誰かが言いだすだろーなとは思っていたけど、「Jブンガク」の本家たる河出書房新社に自ら堂々と「J−フォトグラファー」(KAWADE夢ムック、1143円)なんて言われてしまうと、これはもー確信犯としてやってるんだとしか見えず苦々しさよりも微笑ましさが先に立って、「どうぞどんどんおやりなさい」ってな投げ遣りな気分が沸き起こる。もう徹底的にすべてを「J」で括ってその現代性その独自性その都会性を存分にクローズアップしてやって頂きたい、かつて「若者たちの神々」と銘打って「朝日ジャーナル」が時の知的リーダーたちを持ち上げたよーに、今は「J」の冠を抱いて始めて若者たちに知と美のハイエンドとして認知され賞賛されるのだから。

 一番ありそーなのが90年代にデビューしたアーティストたちをまとめて括った「J−アート」あたりで、とりあえず当然ながら村上隆さんが入ってヤノベケンジさんも八谷和彦さんも入って、ほかにも小山登美夫レントゲン・クンストラウムミズマタカ・イシイetc……のいわゆる「G9」系ギャラリーが抱える若手(といっても30代にみんななっているけど)を筆頭クラスに、イラストやCGの分野で目をつけられ始めている人も含めてぞろりとピックアップすればほら、もう「KAWADE夢ムック J−アーティスト」の一丁上がりと来たもんだ、別に「BT夢ムック」でも良いけれど。表紙はDOBくんとモモちゃんで座談に椹木野衣さん伊東順二さんほか「BT」で活躍しているライターな人をピックアップすれば体裁も整う、問題は誰が買うかだけどそれこそ「J−フォトグラファー」で大竹昭子さんが喝破しているよーに「編集者があんちょこみたいに読む」んだろー、いやそこまでお見通しな上でいけしゃあしゃあと「Jなんとか」って言ってしまえる河出はやっぱり偉大な確信犯です。

 かつてはキラ星のよーに輝いている、よーに純朴だった10代の目には見えた「新人類」「若者たちの神々」とゆー言葉がやがて陳腐化し、「新人類」で「神々」だった人の凋落ぶり日和ぶりを目の当たりにしたことで嘲笑の看板でしかなくなったよーに、とりあえずは”最先端んーっ!”なイメージが今はある「Jなんとか」も、やがては言葉として消費されて、遠からずニッポンの不思議なブームを半ば自嘲気味に取りあげ括る言葉と位置づけられて行くんだろー。さっきの「J−フォトグラファー」の対談で飯沢耕太郎さんが「でもある種の幻想があるから載る載らないぐらいのことも多少は気になることなんじゃないななあ」と、「Jなんとか」に入れてもらえない人の気持ちの揺れを斟酌してて、なるほど今は確かに入ればカッコ良くって仕事も増えるかもしれないけれど、10年経って「ああJなんとかの人ね」と云われた時に受ける十把一絡げなイメージを考えると、かえって無視されてた方がラッキーな気もしないでもない、まあそのジャンルで食べてない人間の印象でしかない放言なんで、「Jなんとか」に入ってバンバン稼ぎたいって人には大きなお世話とお断りしておきましょう。

 ムックそのものの出来は網羅的で、写真家を紹介する時に必須のサンプルも1人1点から数点とは言え掲載してあるなかなかの労作で、自分が知ってる人はともかく知らない人を探したり見つけるにはとても役に立つ。1枚の写真でどれだけのことが解るのか? というお叱りはごもっともながら雑誌だって本の装丁だってCDのジャケットだって、1枚からせいぜいが数枚の写真のインパクトでもって目を引く訳だから、それが受け手の気分にフィットするかどーかはほとんど出会い頭のゴッツンコに等しい偶然。ムックの巻頭の写真でパパッと目を惹いた今井智己さん百々新さん原美樹子さん東花行さんってな不勉強にして今まで知らなかった人たちの活動には、多分これから名前を覚えていられれば(忘れっぽいんだよ最近)ずっと注目していけるかも、ちょい前に個展を見たその名も吃驚な飯島愛さんもインパクトあるだけに気になります、写真も勿論好きだけど。

 場末感漂う映画館な割には電車で3駅で封切り映画が見られる便利さを買ってついつい出かけてしまう本八幡。今日は4つだかある劇場では初の文化劇場とかゆースクリーンで話題の「スリーピー・ホロウ」を見る、座席のペラペラ感とか薄汚れた緞帳とかスクリーンのすぐ両脇で上映中も輝き続ける「禁煙」のランプとかが懐かしく、今時の甘ったるいポップコーンの匂いが漂い音キンキンで1度しか見られない「マルチプレックスシアター」にはない落ちついた気分を味わわせてくれる、単に田舎者でおっさんだからなのかもしれないけれど。流石に新作なだけあって場内は軽く3分は入った盛況(?)ぶりで、封切りの朝1番で見た某「おじゃまんが」(違う)が10人ほどだったのと比べると、流石はバートン流石はデップ流石はハリウッドとその存在感その市場性を改めて感じさせてくれる。

 ポスターを見ると10歳くらいの子供にしか見えないのに映画だと背格好があるからちゃんとそれなりな年齢に見えるクリスティーナ・リッチが、思っていたよりは真っ当な役柄でちょっと拍子抜け、まあ居るだけで何かやらかしたんじゃなかろーか感の漂う訳者なんで、ブラフとして配置しておけば、誰もがそっちに気をとられてドンデンに驚かされるって算段を期待しての起用なのかもしれない。このリッチも含めた女優陣が、昔のあーいったウエストをギュッと締めたドレスの開いた胸元からのぞかせるバレーボール大(一部バスケットボール大)のバストのたわわさには目を見張るばかりで、それが衣装のせいなのか衣装に合わせてそういう人ばかりを選んだのかは知らないけれど、タニマニアにはとても嬉しい映画に仕上がってました、日本の着物映画じゃこーはいかないもんな。

 とりわけ子供顔のリッチのそれでも立派な胸にはロリ入った大人のヤバい感情を喚起するものがあって、それは例えば安達祐実の写真集を見て18歳なりに発達した胴体についている「具が大きい」と喋っていた時代からさして変わらない顔立ちとの違和感に興奮するのと同じくらいのアブない感情かもしれない。残念なことに安達祐実は公称にあるほどタッパがあるよーに見えず、写真も下から煽ったり足下を隠して手足の短さをフォローしよーとしている節があって大人の胴体に子供の顔を乗せた不思議なクリスティーナ・リッチの和版にはちょっと及ばないけど、濃過ぎる演技を何とかして相方にモっくんくらいの超絶個性的な美形(稲垣悟郎ちゃんだと線が細いからなー)をはめて舞台を中国地方の山村にでも置けばほら、伝奇映画「素璃比保鑞村の首無し武者」の完成です、近日公開願期待。


【2月26日】 「ミュージックステーション」に出ていたのを録画してSMAPの「Let It Be」を3回ほど見直して踊りは流石に無理だけど歌を頭に入れ込みこれでカラオケでもバッチリ、問題は披露する機会がないってことだな。さて「SFマガジン」4月号は水玉螢之丞さん描く「たれさかい」がなかなかな味、某京フェスで初披露されたよーに漏れ伝えは聞いていたけどこれほどまでに立派な「たれさかい」だったとは驚き仰天、顔が大きくって四角くって胴体も固そうで「たれ〜〜〜〜〜」って感じに足りないような気もするけれど、雰囲気は存分に出ています。ジャムの瓶の中にバターを塗って中にアメコミを入れて台所においておくと捕れるんでしょうか、でもどのくらいの大きさのジャムの瓶がいるんでしょうか。「ぶるぶるどっぐ」バージョンも希望、でも「いつも脅えて震えている」らしい「ぶるぶるどっぐ」のキャラとはちょい違うかな、別の誰だとハマるかな、美人の銀行員の奥さんの圧政に腹立てつつも逆らえない「岸田真一」さんなんてどうでしょ。

 たれてない堺三保さんは巻末の広告「SFが世みたい2000年版」にも角のコマに出演中で青筋立ててすぐ上で大森望さんが「にやり」としていて、真ん中のコマで青背を取ってる女子高生に秋波を送るこれは塩澤編集長かな、まんま表紙になっていたら本屋で目立つこと請負。さすがに「このミス」と間違える人はいないとは思うけど、代わりに同じよーなフォーマットの秋葉原おたくスポット探索本を間違えて買って行く人もいるかも、で開いてSFばっかりで驚きつつも、SFっぽいゲームやアニメに浸っている目に映るSFの「ゲームっぽさアニメっぽさ」を「発見」して活字へもどんどんと進んで行く、なんてことがあったらあったで面白いけれどさてはてそーゆー結節点としての役割を中身が果たしてくれているのかどうか。表紙には「モデルグラフィックス」の連載でも水玉さんが萌えっぷりを描いていた「スペースチャンネル5」の「うらら」ちゃんも後ろ向きで登場してるけど「SF」な人にもちゃんと伝わるくらいに「うらら」ちゃんてメジャーなの? 折角の紹介にセガ・エンタープライゼスはイベントにも出ていた生「うらら」を「日本SF大会」に送り込んで宣伝するんだ。

 「カエルブンゲイ」の第3号を頂く、いつもすいません。挟み込まれていた案内状には編集人のテライユキと同じくらいに美人かもしれないしそうでないかもしれないアライユキコさんがマガジンハウスから独立とあって、フリーの編集者って良く聞く割には何をする人なのかあんまり解らなかったりするけれど、てんでばらばらなポイントの活字が、タテヨコもばらばらに使われている小さなコラムでびっしり埋まったまるで縁日のような「カエルブンゲイ」を作り、創刊の時から2000部も増えて今度は7000部も配り切ってしまうパワー、加えて有名無名著名偽名をズラリと並べてコキ使う人脈があれば、きっとどこに行っても何をやらせてもオモシロイ仕事をしてくれるんだろーと確信する。春だし路頭に迷っても凍死はしないか独立も時期的には良いのかも、うーん僕も考えちゃう。

 アスキーが年に1回開いているエンターテインメント系のソフトを募集するコンテストの授賞式があったんで、新宿とは名ばかりに新宿駅から遥か彼方にそびえ立つ「パークハイアット」まで、冷凍庫のよーに寒い中をテコテコと歩いて向かう。開場して中に入って待つことえっと何10分だったっけ、ようやくにしてスタートした授賞式は下から準に表彰していくパターンでトップの人だけ撮影してとっとと逃げ帰る訳にもいかず、2時までかかった授賞式をその間ずーっと立ちっ放しで過ごしたのは年寄りにはちょっとキツかった。徹夜明けだとゆーのに最初から最期まで同席していた選考委員の広井王子さんは体力あるなー。まあこちらは単に取材者であって当の受賞者にとっては晴れの舞台なんで授賞を実感しつつ華やかな気分に浸るにはこれくらいが適当、なんでしょー。

 何と1000万円もの賞金を獲得したのは「RPGツクール」で作った、探偵が部屋で女性からかかって来る電話だけを聞きながら女性の深層心理をときほぐして行き、最期に真相へと至るサイコサスペンス調のゲーム。カウンセリングによって記憶の断片を拾い集めて全体を掴もうとするフォーマットにゲーム版の「lain」を思い出したけど、ダンジョンを掘り進んでいくファンタジー調のゲームにありがちな舞台が、女性が心の奥底に閉じこめている記憶を探す部分へと代わり、アイティムを集める行為が記憶の断片を見つける行為へと変換されているイメージがあって、ファンタジー調のゲームが山と繰り出されてちょっぴりウンザリしているプロな選考委員の人たちに、目のつけどころの良さが受けたのかも。

 2位の「プリンキピア」はニュートンが主人公の科学歴史シミュレーション。知識を得ながらオヤジたちに媚びながら科学アカデミー入りを目指すという内容は、表彰式で「売れない」と本人を前に稲増龍夫・法大教授は言ったけど、科学史のお勉強に役立つエデュテインメントとして行けそー。将棋のコマと動きのルールをまんま使った新しいパズル「新将棋」は完成度高し。「フリーセル」みたくパソコンの常駐させてテコテコと3時間くらい遊び続けてしまいそー。去年だかのコンテストで授賞した「落雀」の商品版も展示されてて見たらこれも麻雀って旧来のゲームの要素を活かしつつ新しいパズルを作り上げたなかなかの秀作。落ちて来るパイを並べて消していくのが主だけど、リーチがかかるとパチンコっぽい絵柄と動きのイベントが繰り広げられてなかなかに興奮する、ホールに通い慣れている人だとついついマウスを握ってしまうかも。2980円と安いんで買ってこれも常駐させておきたいゲームです。


【2月25日】 リップサービスなどではない、と見たことないうちは言っておこー(謎)。それはさておき、昨日布団に入ってから、標準体重から外れた人には全て重税を課す「体系標準課税」とかってのも考えたけど、説明は昨日と大差ないんで省略、あと「長兄標準課税」とか「包茎標準課税」とか「パイ形標準課税」とかとかってのも考えたけれど、中身はやっぱり似てるし話が下品になって来るから、これ以上は考えるのはヤメにする。ちなみにここに掲げたものの3つに見事ハマってしまってるあたしゃ全部が導入された暁にはいったいどれだけの税金を払わなくっちゃいけないんだろー。

 ってなことを考えながら幕張メッセで開幕した「AOUアミューズメント・エキスポ」へとゴー。開会式を待っていたら、持っていた株を売り払ってしまった某アミューズメント関連会社の社長の人が歩いていたけど、ちょっと声をかけられなかったなー。すでにガラリと変わった雰囲気に果たして今までどーりの地味だけどアットホームで明るく穫りやすいゲーセン運営が続くのか、しばらく様子見、まあ所詮は当事者でも何でもないんだし。

 会場ではバンプレストのブースで「おジャ魔女スロット」を何10回となく遊ぶ。コインを投入してスタートボタンを押すとキャラクターが描かれたドラムが音楽に乗ってぐるぐる回転。それから順に1、2、3とボタンを押すと「ド」「レ」「ミ」と声が出て1つづつドラムが止まって、絵が揃えばメダルが戻ってくる単純だけれど奥も浅いけれど「おジャ魔女」が付いてれば全てオッケー。入り口で愛想振りまいていたドレミにあいこにはづきの3人の顔でかいけど雰囲気良く出てた着ぐるみと会わせて「アミューズメント・エキスポ」の1番の見物であることは間違いないとここに断言しておこー、中に乗り込んで遊ぶ巨大「ピカチュウ」も捨てがたいけど。

 それは本気だとしても(本気なんじゃん)従来からのビデオゲームがにこれと目立った商品が出ておらず、一昨年あたりから市場を席巻した「音楽ゲーム」もそろそろ踊り場にさしかかった中でメキメキと台頭して来ているよーに見えたのが、肉体を駆使してゲームを楽しむ「肉体ゲーム」通称”肉ゲー”と今勝手に読んだ一連のゲーム群。たとえば前にも池袋の「ゲームファンタジア」でデモを見たシグマの「ダイナミカ」は、センサーが両手両脚の動きを読みとり画面の中の「鉄拳3」のキャラクターに伝えるよーになっているから、蹴りたければ足を出し殴りたければ手を出さなくっちゃいけない、今は冬だから良いけど夏だとちょっと暑いかも。あとセンサーが読みとってゲームのキャラクターに伝えるまでのタイムラグがちょっとあって、慣れてるデモストレーターはその辺りうまくしのいでいたから良いけど初めてだと戸惑う人も結構出そう、要スピードアップ。

 会場で見た”肉ゲー”第2弾はコナミの「北斗の拳」。手につけたウレタングローブでで光るパッドを順に殴っていくってなゲームとしては昔からあるパンチの威力を競い合うゲームに似ているけれど、キャラクターを取り込みおそらくは簡単な物語を与えて楽しめるよーにした点で、新しい要素と言えるかも。第3弾は「JAMMAショー」でも見たナムコのサッカーボールを蹴ってボールを動かすゲーム。こーしたリアルな部分を少しだけ混ぜ合わせつつ画面はCGのバーチャルな世界で再現するゲーム機は、今後もあれこれとバリエーションが出て来そー。問題があるとしたら力の方向が一方的な点で、殴られれば痛いとか蹴ったら蹴り換えされるとかいった「反応」を得られるよーになれば、さらに新しい次元へと移りそーな気もするけれど、これが1番難しいから簡便で安価な機器が登場して来るまで我慢しよー。全身スーツでネットにダイブした方が早いかもしれないけれど。

 したり顔で書けば「肉体の復権」なんて代理店シンクタンク的キーワードで括れそーな最近の傾向の背景なんかを考えると、昔のゲーム機では腕相撲をするロボットなんてのもあって、ほかにも体を使うゲーム機が幾つかあって、いつしかそれらが廃れて圧倒的なビジュアルを誇るビデオゲームへとマーケットが流れたものの、やがて家庭用ゲーム機で簡単にゲーセンのまんまのビジュアルを再現出来るようになり、家庭ではちょっと難しかった肉体への負荷を必要とするゲームがゲームセンターで喜ばれるようになった、なんてことになるのかな。その先駆けが例えば「DDR」のよーな「音ゲー」だったとも言える訳で、体を動かす楽しさが改めて”肉ゲー”の復権を促したなんて言って言えないこともない、のかな、良く知らないけれど。復権と言えば昔ながらのベルト上のぐにゃぐにゃとしたコースの上に突き出た棒の先についた自動車を、棒の手前のハンドルで右に左に動かしながら進むゲームの「ドラえもん」バージョンをサミーのブースで発見、これがなかなかなに懐かしかったけど今時の子供も楽しそうにプレイしていた姿を見るにつけ、単純でも面白いゲームってのがあるだってことを改めて思い知らされる、それともやっぱり「ドラえもん」だったからかなのかなー。

 セガ・エンタープライゼスのブースで水族館ソフトの横に座ってた本当はレースクイーンとか言う人魚の格好をした女性(時々立って歩くと圧底靴掃いてたのが不思議)のビキニを上から眺めてのぞいた谷間にヘラヘラしつつ、バンプレストのブースのヘソ出しスタイルの横から見たときのビキニとスカートの間の膨らみ(胸じゃないよお腹だよ)に冬は皮下脂肪も厚くなるんだなーと嘆息しつつ場内をうろちょろ。「電脳戦機バーチャロン オラトリオ・タングラム」の新しいバージョンは「ドリームキャスト」の「ビジュアルメモリ」のさし込み口がついていたから、「DC」のデータをゲーセンで反映させられるのかな。ナムコのデコトラ物も迫力はなかなか、あとやっぱり「ゴルゴ13」は誰もが憧れるキャラクターなのかどの台もお兄ちゃんおじちゃんたちがたかって「M16」のグリップを握ってピクリとも動かずスコープに目をあてってちょっとブキミ、後ろに立っても殴られなかったからまだまだ本物の「ゴルゴ」にはほど遠いみたいだけど、やっぱり眉毛描き用マジックはセットにしておいた方が気分だと思うぞ。

 転戦して草月会館で「文化庁メディア芸術祭」の授賞式を見る。「おじゃる丸2」で優秀賞を授賞した大地丙太郎監督が普段のカジュアルな格好でも「風まかせ月影蘭」の試写で見た和服でもなく、まっとうな礼服を着てキリリと銀白黒のネクタイを締めていたのを遠くからみてちょっと驚く、神戸でアニメの賞を受賞した時のナベシンがルパンだったのと比べるとこの違いはやっぱりキャラクターの差なのかな。ちなみの「鉄コン筋クリート」で優秀賞の森本晃司さんはこれまでのチョンマゲ姿が一変してボサボサとした感じの金髪になっていて、見たのは何度目かなのに一瞬誰だか解らなかった。そうこうしているうちにアニメでは重鎮の高畑勲監督が普段どおりの背広姿で来場、受賞者が座る席で開幕を待っていたのに横に座る予定になっていた大地監督はが、会場の後ろの方で立ったり座ったりして時間ギリギリまで決められた席へと向かわなかったのは、畏れおおかったからなのかなー、ちょっと不明。

 マンガ部門の大賞を授賞した石坂啓さんはテレビで見る以上にスラリとスマートでなかなかなビジュアル、壇上の里中満智子さんとタメはってました。今年から対象をギリギリまで広げたってことで、今年のデジタルでインタラクティブな部門はソニーの「AIBO」が授賞。それでも言われるとなかなかに落ちつきが言いのは機械的ではなく文化的な側面を「エンターテインメントロボット」として最初から持たせていたからなんだろーか。あとメディアなのかパフォーマンスなのか不明ながらも選ばれそれでも何だか納得してしまった「明和電機」は、弟さんだけの来場で、いつものよーな鯱張った真面目な表情で頭を下げて文化庁長官から賞状を受け取っていた、でもやっぱりナッパ服。

 去年も授賞したWebデザイナーで昔キノトロープにいた時に取材したことがある伊藤幸治さんが今年も富士写真フィルムのサイトで見られるらしー空から撮影した写真のデータベースっぽいサイトの企画・制作で今年も授賞。メジャーなメディアではまだ登場した姿を見たことがないけれど、去年の「lain」のスタッフも含めて、こーゆー人たちしっかり押さえているあたりが、通産省に郵政省と大手の省がしのぎをけずる「デジタル人材利権争い」の狭間にあって、文化庁の文化を司る省たる所以と言えるのかな、マンガ家を選ぶセンスは僕のあんまり好みじゃないけれど。場内の展示は見ず企画展も時間がなかったんでパス。まあ月曜日の富野監督村上隆にこれまた「デジタル人材利権争い」ではどこにでも顔を出す浜野保樹さんの3人が出席するシンポジウムをのぞくつもりなんで、その前にがーっと見てみよー。行く人あったら声かけて、でも相変わらずステルスしてるけど。


【2月24日】 東京都が「外見標準課税」を導入するって聞いていろいろと考える。なるほど太陽族の親玉として自分のカッコ良さを信じ抜いている石原慎太郎都知事が率先して旗を振り導入しようとしている法律だけあって、「外見」の優れた者や物の税負担を軽くして、「外見」の劣る者や物からはガッポリと税を搾り取ろうとする法律だってことになるんだろー。となるとまず慌てるのがいわゆる「見た目」に不自由な老若男女たちで、とにかく何とかしなくっちゃとばかりに美容整形外科へと通って通いつめ、結果病院は大繁盛し、関連の書籍も軒並み100万部を超える大ベストセラーになるなどして、新しい需要が喚起されて本来の法人事業税部分も大きく上積みされるだろー。

 加えて1980円のトレーナーにケミカルウォッシュのジーンズに「N」ならぬ「Z」の文字が描かれているニューバラもどきなズック靴ってな彼らにとって最高のオシャレが、実は「外見」において著しく風紀を乱していると指摘されるだろーから、秋葉のエンピツビルの狭い階段を平気で上り降りしても、普段は近寄りもしない原宿や表参道や渋谷のファッションビルのブティックに、そそくさと通うその筋の人がいっぱい出て服飾品の売上も大きくアップするはず。「外見標準課税」はなるほど単純な税収アップ策ではなく需要を喚起し消費を促す効果もあるんだなー、流石だ石原都知事。

 もちろん外から都内に入って来る人にも「外見」によって通行税を徴収する施策をも打ち出されるだろーから、そっちの税収も上がりかつ、料金を払いたくない少年少女に老若男女が地元のブティックに通って服装を整えるから、地方でも消費も大きくアップする。人間だけじゃなく醜い建物車レストランで出す食事にまで「外見標準課税」が課せられるとあって、ビルは外装を改装して車は買い換え需要が増してレストランでも高級食材がガンガンと使われるようになる。何から何までが「美観」の元に統制されて大変に住み良い街に東京は様変わりしていくだろ、これは素晴らしい。皆が綺麗になってしまえば税収も下がるだろうって言うけれど、明確な基準がないのが「美」の世界、相対的な評価でもって動くから、人より上を以降と化粧も整形もファッションもすべてがエスカレートして消費を促し法人税もウナギ上りに増えて行くって寸法、いやいや人の飽くなき「美」への探求心はすさまじい……って何か違ってる?

 町口哲生さんとかが誉めてておまけに河出書房新社から出ていると、どーしても付きまとってしまうのが「J−文学ムラでの誉め合いかな」ってな印象だけど、柴崎友香さんって大阪にいる26歳の人が書いた「きょうのできごと」(河出書房新社、1300円)は、どこにでもいる誰にでもあるよーな日常を、1人の視点じゃなく1つの宴会に集まって来て帰っていった人たちの「一日」として様々なシーンから描いていて、人間にはそれぞれに自分の日常があるんだなってことが浮かび上がって来て面白い。1人1人がてんでばらばらな大きさのガラスに絵を描いていて、重ね合わせるとどこか1点だけが重なって、それをスライドに映すと何人かの人たちの日常が立体的に見えて来るって感じかな? あるいは普段はばらばらなウェブ日記が、オフ会の直後だけ重なって後はまたてんでばらばらという雰囲気にも似てるかもしれない。

 登場する女の子たちの関西弁の会話が何だかポワーンとしてて心地よく響く。「あずまんが大王1」(あずまきよひこ、メディアワークス、680円)に登場する大阪から転校して来た春日歩もチャキチャキってよりはホンワカ系の大阪人でなかなか感じが良く、熱血ともちゃんに「大阪ちゃう」と突っ込まれてたけど実はそーゆー人が大半を占めてて、思っている以上に関西ギャルの会話ってノンビリしてるんだろーか。東京にいるとほら、出てくる関西人の女性ってのは大半がお笑いのキッつい人たちばかりだし、関西弁の藤原紀香もそれはそれで良いなーとは思えるけれどもやっぱりチャキチャキ系なんで、文字で読んだ以上のニュアンスがちょっと解らないんだよね。どーなんやろ。「あずまんが大王」と言えば「SPA!」の3月1日号に掲載の「まんがの森」のベストセラーリストで2月7日−2月13日に堂々のトップを獲得(パンパカパーン!)。売ってないってな声の意外と多かったのが気になったけど、なるほど刷ってなかったんじゃなくってちゃんと売れていたんだね。

 セガ・エンタープライゼスがスイスのスウォッチと提携して新しい商品を売り出すってんでお台場へ。お洒落な場所で大勢の人を集めて派手にやる「余裕」があるのかってな愚問はさておき(言うだけ無駄って意味ね)、「ヴィーナスフォート」をざっと舐めた後で入ったライブハウスで待つこと暫く。いきなり登場した我らが大川功ちゃんとスウォッチの偉い人との握手やスピーチを経て、明らかになった提携から生まれた商品は、時計に仕込まれた非接触型のチップに記録してあるデータを「ドリームキャスト」に接続した装置で読み取って、例えばスイッチに触らずにインターネットの特定のページを探し出したり出来るようになる。だから何なんだとゆーのもここでは愚問、かざしてページが出るのは確かにあんまり嬉しくないけど、使いようによっては実はいろいろ使い道があるんだよね、これ。

 見てキョトンとしていた人も結構いたりしたけれど、印刷会社のICカード戦略なんかを聞いてたりする人はそれほど意外性はなかっかも。簡単に言うならこれって腕時計を一種の非接触型ICカードにしてしまおうってな企画でしょ、入退場の時にかざすだけで誰かを認識して入れてくれる「チケットレスシステム」や、同じくかざすだけで誰かを認識してくれる「IDカード」とかってな役割を、非接触型メモリーを搭載した「スォッチ・アクセス」にやってもらうってことになるのかな。実はひそかにスウォッチに非接触型のICチップが入れられていて偽造か本物かを確認する際に使われてる、ってな噂もあるくらいだし、それをデータ端末として活用するのも至極当然な発想かも。

 ショッピングの時にかざせば誰が買ったかが認識されて金額がバックのサーバーから引き落とされるって使い方にも勿論使用可能、財布に入れて取り出すよりも絶対に腕にはめていて忘れたり落としたりすることも少ない腕時計が「ICカード」代わりに使えれば、美観的にも実際に使用する上でも結構便利になる。家でやっぱゲームのデータのパラメーター部分を「スウォッチ」に移してゲーセンでゲーム機にかざして転送するってことも可能、なーんだ「ビジュアルメモリ」もいらないね。

 データ容量は確かに小さいけれど別にデータをまるごと入れる必要なんてなく、サーバーの個人データにアクセスするための個人キーだと考えれば容量は十分。ネットに接続できる「ドリームキャスト」が家での端末だから、家と外とでデータの同期をとれないってこともなく、どっかにある自分の個人データがガッポリつまったサーバーを、時計かざして「行け鉄人!」、は言わなくっても全然構わず自分のデータを読み出し書き換えられる。そのうちメモリーが安くなれば「ビジュアルメモリ」や「ポケットステーション」並のゲームだって腕時計で出来ちゃうかも。

 しかしやっぱり「ドリキャス」の関連デバイスってことでユーザー数が限られてしまうのが難点で、利用者数が少ないからとチケット販売のよーなサービスを乗せるのに二の足を踏むコンテンツや情報のプロバイダーも出て来るかもしれないけれど、ソニーがやろうとしている非接触型ICカードを使ったチケットレスシステムも、結局は家かあるいはコンビニの店頭なんかに非接ICカードの読みとり書き込み装置を設置して、データの書き込み書き換えサービスなんかをする必要があるから、家でデータを書き込める「ドリームキャスト・アクセス」の方があるいは便利で手軽と使われ普及するかも。

 カード部分になる時計が1万5000円とかして普及のネックになる可能性もあるけれど、実際は時計じゃなくってICカードそのものでも良いんで、技術とアプリケーションを吸収した上で別の展開へと結びつけていけば、なかなか面白い情報流通ネットワークが出来るでしょう。インターネット時間は普及しないと思う、ってゆーか普及させたくない気持ちがアリアリ、たとえ単位がビートじゃなくってネグポンでも。どーしてスイスのスォッチがある場所を起点に世界の時間を統一しなくちゃいけないの? 世界が1つになっても世界が等しく朝って訳じゃなく、相手の時間を尊重する意味がで時差ってのを意識しなくちゃいけないのに、それを1つの時間で統一するのはちょっと強引で傲慢だと思うんだけど。


【2月23日】 「AIBO」に浩生くんと名付けて可愛がっている美人がいるならこっちはバンダイの「カプセラ」で犬でも作って浩紀くんと名付けて可愛がってあげたいよーな気もしたけれど、「電気ブロック」な「カプセラ」ではとても犬は作れそうもないからあきらめよー、「マインドストーム・ロボラボ」買った美人は「MYBO」に浩紀くんと付けてあげよー、いや逆でも別にいいんですけど。それはそうと個人的な記憶からはほとんど欠落している「カプセラ」って玩具は、そーなんですね昔は「三菱鉛筆」から発売されていてたらしく、どーしてバンダイに移っての発売になったのかには興味がある。どーしてなんですか浅草の人たちぃ。

 実は仕事で作んなきゃいけなくって1番大きなセットをこないだの「プレイステーション・フェスティバル2000」の帰りに幕張の玩具やで買って帰って来たんだけど、「カプセラ」たしかに「ノット・デジタル」で頭が「ノット・デジタル」すなわち電子無能な僕には有り難い商品なんだけど、「ノット・フィジカル」すなわち物理学も10点評価の4が最高だった体たらくな僕だから、滑車とかがついた「カプセラ」をどう組めば良いのかに悩みそうなんで、今んところうっちゃってます、すいません。締め切りも近づいて来てる頃だし、そろそろ何とかしなきゃいけないんだけど、部屋がやっぱり狭すぎて、縁日(つまりは箱から出して部品を並べる)出来なかったりするのが大きな懸案事項なんですわ。週末にどっか広い会場へと運んで組み立てるか、ホテルで開催される某社のエンタメソフトの授賞式会場なんて広そうだけど……ダメ?(ダメ!)。

 思い出した本当かどーかは知らないけれど、しばらく前に近年稀にみる傑作霞ヶ関エンターテインメントだった「三本の矢」を書いた人からメールが謎なアドレスから来てて、文庫になるとかってな話を聞いたんだけど自分が最初に「三本の矢」について何と書いたかすっかり忘れてて、いつ頃書いたかも記憶になくってどんなワルクチをしていたか思い出せなかったりするけれど、それが正しい指摘なんだったらいいです文庫化でどんどんと直しちゃった方が読む人は喜びます。しかし刊行から何年も経ってないのに長期信用銀行は3つのうちの2つが潰れて、残る1つも合併で消えてしまう運命にあって政府系金融機関も数が減って、だいたいが当の大蔵省までが分割によって大きく様変わりをしている。激動の時代にはなかなかモノカキも難しいけれど、予想が当たっている部分があればそれはそれでモノカキ冥利にもつきるから、他に何を書いているのか正体も含めて知らないけれど榊さん次も頑張って霞ヶ関をシンカンさせてやって下さいな。

 時代が来れば体制が代わるのも必然で、権益にどっぷりと浸っていた大蔵省から金融監督業務が分離・独立したのを決して悪く言う気はないけれど、時には絶対に守らなければならない体制とういのもあって、例えばマスコミのとりわけ「報道」を看板に背負って人様から「知る権利」を預かり情報にアクセスしてこれを伝える使命を追っている新聞が、集めた情報を己が金儲けの為だけに独り占めして使うなんてことを認めて良いはずがないし、ましてやアクセスして得た情報をメディアによって伝える力を人質のようにして、取材相手に何らかの取引を直接であれ間接であれ働きかけて良いはずがない。もしもそんなことをするような新聞があれば、それはジャーナリズムなどでは決してなく、敢えて呼ぶなら「イエロー・ジャーナリズム」そのものであり、なおいっそうに口を汚く罵るならば「取り屋」と断じるに相応しい。

 今が流行りの例えば環境? あるいは情報技術? そういったものに関するニーズが増えていることは明白で、ならばとそいういった分野に取材陣をシフトして、より密な情報を集めて記事にしていくことは、別段にジャーナリズムの本文を外れるものではない。あるいはそういった分野が「金になる」と目して事業部門がイベントの企画をたてたり、広告なり協賛金なりをせしめようと何らかの表彰制度を立ち上げるのも決して悪いことではない、だがしかし。イベントの企画が立ち上がったからと出展する企業の話を大きく扱うような真似をしたり、表彰制度に協賛なりをしてくれた企業の話をトップに扱うような真似をした時、「公正中立」を旨として、それを絶対に守らなくてはならないジャーナリズムは死ぬ。

 1人2人のチームが収益部門と報道部門で一体となり行動するならば、あるいは御目こぼしも可能かもしれないが本質として間違っていることは自明だろう。ましてや10数人からなる編集スタッフを特定のチームへと終結させ、そこに事業から、営業から、広告から人を招き入れて一体となって業務に当たらせるなどという愚劣にして愚鈍な真似を、良識ある新聞人だったら、いやむしろ常識ある人間だったらするはずがないだろう。たとえ表向きは違うんだ別々に仕事をしているんだ取材者は取材者として、業務部門は業務部門として行動していると主張しても、同じ看板のもとで一方では拠出を呼びかけ、一方では紙面化を差配するペンの力を見せれば当然ながら相手は萎縮し、あるいは疑念を抱くだろう、公正なのか? 後々に影響はないのかと。「李下に冠を正さず」はなるほどもって至言、別々の組織が別々に動いても信じて貰えないくらいに弱体化しちている商業ジャーナリズムが、ましてや同一の組織体で動いてどうして信じてもらえよう。

 まあ、だからどうしたという訳では決してないような気がしてて、つまりは単なる最近の不景気な情勢を鑑みて、こーした間抜けにしてトンチンカンなことをする新聞社が出てくる可能性なんかをちょっぴり心配なんかしちゃったりしているだけなんで、特定のどこがどーとかなんて考えない方が身のためだったりします。かつて同じようなことをして山ほどの離反者を出して立ち行かなくなりあわてて大量の新入社員を採用しようとしている上にそうしたこをが2度と起きないように幹部陣を刷新してほとんど間もない新聞社が再び同じようなことを今度はより大規模かつ組織的に、刷新によって登壇した新幹部が旗振り役を務めるような感じでもって実行して一段の恐慌を招きそうだ、なんてことも絶対に決してたぶんおそらくありませんです、ハイ。

 「無限のリヴァイアス」はクシャ顔フェチにはたまらない1話。ブリッジにいるギレンもどきな統制主義者のヘイガーはイクミのパンチがリヴァイアスに飛んだ時に失神しそーなくらいのオルガスムスたっぷりな表情を見せてくれたし、昴治にコナをかけて振られても整然と自分を保って仲間を引き連れ歩いているよーに見れるファイナも昴治があおいを気にかけてることを目の前で見て仲間には見えないよーに口をヘの字に歪めて怒りに震える。その昴治もあおいが現実を見ようとせずイヤイヤを繰り返すと最期は自分も崩れて大泣きに泣くし、イクミはこずえの足にすがって恍惚の中に耽溺する。皆が自我丸出しの中で進んでいく先にあるのは果たして快復かそれとも完全なる崩壊か。いよいよ残りもわずかになって先が楽しみ、白いスーツのネーヤもどきの声は一体誰だろー、「歌はいいねえ、コウジくん」なんて喋りやがったら……許す。


【2月22日】 あまりのストレートな感動への働きかけが、時にあざとく思えてちょっぴり眉を顰めながら、それでも泣きながら読んでしまう山本おさむさんが描く将棋の故・村山聖9段(没後に贈)の評伝漫画「聖」もなかなかに素晴らしいけれど、やっぱり漫画だからどこかに誇張があるんじゃないだろーかってな疑問が頭について離れなかったところに、真実ばかりを書いた村山の評伝「聖の青春」(大崎善生、講談社、1700円)が出て、読んだら漫画が実は誇張などではなく、むしろ村山の心情を実に性格にトレースしていることが解り、周囲の子供たちがばたばたと死んでいく厳しい少年時代を経て、自分の生命の決して長くはないことを感じつつ、だからこそせいいっぱいに生き抜いた村山の葛藤と足掻きと熱情を知って、改めて涙がわいて来た。

 とくに最後の数カ月間の、淡々と生きつつも最後はやっぱり棋譜を読み上げながら絶命したというエピソードは、当時の悔しい思いも甦ってもう涙なくしては読めはしない。地下鉄の中で広げてしまったとおもったくらいのせり上げる感情に、思わずサングラスを取り出して眼鏡をかけかえてしまったほどで、不意にこぼれる涙を予想して、「決して人前で読んではいけません」と帯に書いておいて欲しいと思う。村山ファンは当然として将棋ファンであってもなくても読んで頂きたい1冊。詳しい本の感想や村山についての当方の想いについては、別項や「入神」(竹本健治、南雲堂、905円)での言及にまかせるとして、少女漫画に埋もれていたという彼の部屋に、いったいどんな本があったのかを知りたいもの。本読みにとって蔵書ってのは手相よりも詳しい人となりを伝える情報源だからね。

 漫画と言えば漫画から得られたいろいろな哲学をまとめた永井均さんの「マンガは哲学する」(講談社、1400円)も購入、萩尾望都から吉野朔実から諸星大二郎から星野之宣からしりあがり寿から佐々木淳子から手塚石森藤子赤塚永井といった大御所までをも網羅している、そのマンガの読みっぷりに正直驚く。夏目房之介さんの本が漫画の絵としての表現について解説した本だとしたら、永井さんのは漫画の物語が放つ人間とか人生とかにつていの考察を行った、ともに意味のある1冊ってことは言えそー。業田良家松本大洋坂口尚も入ってるのはなかなかな目配りで、割と在り来たりなセレクトだった四方田犬彦さんの「漫画原論」(筑摩書房)よりもこっちの気持ちにはフィットしている感じがする。

 とはいえ難しい部分もあって、それは絵そのものについて語る夏目さんにとっては必然だった漫画そのものの引用を、物語について語る永井さんも同様に行えるのかってな多分あるだろー突っ込みで、なるほど絵もあってこそ語れる物語ってのもあるし、絵を含めての表現技法である漫画から言葉だけを抜き書きする方が不自然だし作品に対して失礼とも言えるから、引用についての異論は実はないんだけど、ことほどさらに巻末のあとがきで永井さん本人が「本書におけるマンガの引用は『報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるもの』であるから、著者および出版社の許諾を得ていない」と明記して、こうした引用に反対する人たちの神経を逆撫でしなくてもと思ってしまう。何も書かなくたって正当ならクレームを憂けても正当を返せば良いだけのこと、あるいはせいぜいが「引用は正当」と書いておけば良いものを、ケンカをふっかけるような物言いは八方美人で気弱な僕にはちょっと厳しく映ってしまう。

 そう言われてしまうとかえってあら探しをしてみたくなるのが人情で、しりあがり寿「真夜中の弥次さん喜多さん」から3枚も引用する必要があったのか、とか「デビルマン」について話す部分で妖獣シレーヌが立ち往生している場面についての直接の言及が本文ではない(悪魔が美しく見えたという漫画の中の言葉が本文で語られる「デビルマン」の相対主義の象徴と見てとれないこともないが……)こととか、あとがきで「哲学的感度がない」と切り捨てた小林よしのりさんから突っ込み返されそうな部分がなきにしもあらず。先人たちが戦った果てに権利として漫画の「引用」が認められたことは変え様のない事実として、だからこそ取り扱いには細心の注意を払って欲しいというのが正直な気持ちで、買ってうれしい花一匁とばかりに相手の陣地へと向かっていって足を振り上げ靴を飛ばすように見えてしまうスタンスが、さてどう理解されるのかをちょっぴり不安交じりで見て行きたい。小形さんはどう思う?


【2月21日】 さっさと品切れたレゴの「マインドストーム・ロボラボ」の日本語版が300個追加販売になったんで興味ある人はお早めに。それはさておき、珍しくビデオで録画して見た「ごぞんじ!月光仮面くん」は、先月から主役の声が宮村優子さんが大谷育江さんに代わってたみたいでちょっと吃驚。だって日曜日の朝なんて起きてないんだもん普通。記者発表の時は普段の炸裂した演技ぶりの割には静かな人だなー、ってな印象を受けたけどそれは地なんで無関係として、年末の「アニメ紅白歌合戦」で来場の予定がビデオでのレターになった時に確か体調云々のことを言っていたから(その割にはJACで箒で玄関掃いてたけど)、その影響が出たってことなんだろー。元気の良かった主役の少年の演技が大谷さんだとちょっぴりヌけて朴訥な演技に見えるのもやっぱり持ち味の違いか。でも聴いた印象はそれほど違いがないなー、後がまとして適役だったのかな。宇宙貴族の小百合ちゃんが可愛い割には天然でいい味、次週以降は起きて見よー。

 吉村達也さんが企画から写真撮影までを担当したとゆー京都案内の本「京都瞑想2000」(アミューズブックス、1600円)が課題図書なんで読む、うーん写真が何かうらぶれた観光地で20年前から売ってる絵はがきのよーにカスれてヌけた色合いなのがちょっと不思議で、今時の観光ガイドにしては不思議を思って読んだら、実は吉村さん自身がデジタルカメラで撮影した写真とか。知恩院の夜景や八坂神社の篝火の写真は暗い場所でも抜き取れるデジカメの感度の良さが出たもののよーに思うけど、一方で詩仙堂や退蔵院の植木の毒々しい緑や紅葉のまがまがしい赤といい、清水寺のオーバー気味の露出といい、地蔵院や広隆寺のどこかトんだ色合いといい、何とかならなかったんだろーかと思う写真も結構ある。デジカメってこんなの? と思われたらデジカメ会社が怒るかも。が、まあ「マイ・ガイド」として楽しんで作っている雰囲気も伝わって来るから無茶は言わない。デジカメの性能も上がっていることだし次回があるならデジカメ会社から最新の最高機種を駆り出して、フィルムと遜色のないところを見せてやって下さいな。

 2週にわたって「山崎豊子『沈まぬ太陽』大ベストセラーのカラクリ」と題して特集した記事に、本家「週刊新潮」が反駁したことを受けて「週刊朝日」が3月3日号に掲載した記事の、これまた良識ある人が読めば心のどこかに引っかかるトゲトゲを多分に内包した論旨に、こうした論旨を展開する週刊誌が擁護しようとする権威の、やっぱり愚鈍なことを改めて示したものと言えるのかもしれない、いやご立派ごりっぱ。

 まず「週刊新潮」がコピーを掲載した、長年の朝日新聞ファンが「週刊朝日」編集部宛に送ったいう批判の手紙がまだ届いていないという指摘。なるほど「週刊新潮」側が作戦としてストレートに反論するよりは「朝日ファンだって怒ってるんだ」的雰囲気を醸成しようと「ファンの投書」なるものを取りあげて記事にするって手は考えられる。が、まさか幾ら何でも「週刊新潮」が根も葉もない「投書」をデッチ上げて掲載するとは思えず(だって調べられたら1発だもん)、よしんばやるにしたって一応は「手紙」を作って投書してアリバイくらいは作って置くだろー。してなかったのなら減点、編集部員が「出し忘れてました」ってんならギャグだよな。

 さて手紙の真偽はともかく、「本誌編集部にその投書は届いていない」と書き、「本誌までお便りをもう一度(?)、お願いします」とわざわざ(?)マークを添えて呼びかけている「週刊朝日」は、投書の主がいるかもしれないという可能性に気が付かない「ふり」をしているのだろう。もし本当に投書が存在していたとしたら、そしてたまたま行き違いで編集部に届いていなかったとしたら、あるいは正式な手紙がもう1度本当に届いたとしたら、手紙の人物は実在していたってことになる。

 「週刊新潮」をまったくの無能とでも見くびっているのでなければ、そんな実在の可能性を微塵も考慮に入れないで、「ホントはいないんでしょ?」的な軽いニュアンスの(?)マーク付き文章で呼びかける、なんてことは出来ないはず。当然そうした事を考慮に入れているだろー「週刊朝日」が、それでもなお(?)マークを入れたのは、自らの「鈍感」ぶりを読者に感じさせ、結果としてその鈍感な者が支持している権威をも引きずり下ろそうとする、高級にして玉砕の香気漂う戦術に違いない。

 それから「モデルとされた人の怒りの声を取りあげることが、バッシングなのだろうか」とう指摘。中条省平さんに「これは作者のモラルの問題です。読者と、モデルとされた当事者や被害者に対する、ある種の裏切り行為ではないか」「『沈まぬ太陽』そのものも、このイエロージャーナリズムと同じことになりかねない」と言わせ、佐高信さんに「ゆがんだ企業をゆがんだ作家が書くとこうなるということじゃないか」と言わせておいて「バッシングじゃない」と言えるんだとしたら、これは「週刊朝日」にとって徹底的なバッシングとはこの程度ではなく、壮絶にして苛烈なものであるという強い意思表明だと読み取ることが出来るだろう。

 ちょうど世間じゃ首相の関係者のNTTドコモ株疑惑が出ていることだし、政界浄化のために究極のバッシングって奴を見せてもらいたいもんです。係争中だから記事にできないってことはないでしょう。だって「もし本誌が本当に山崎氏をバッシングするなら、記事で山崎氏が過去に引き起こした『盗作』騒ぎも取り上げただろう」って、「大地の子」に関連したあくまでも「訴訟中」の、どちらに否があるのかまだ不確定なことを書いちゃってるんだから。

 「週刊新潮」の見出しにある「デタラメ」という言葉を批判する記事の見出しに「デタラメ」と付けてしまえる図々しさも、「誹謗中傷の限り」「醜悪の極み」といった「週刊新潮」の記事を「ヒステリック」と言い切る「ヒステリック」な反応ぶりもともに「芸」に違いない。「『批判』には『批判』で返してほしかった」と「週刊新潮」の記事に一切の「批判性」を感じなかったかのように振る舞う愚鈍さもやっぱり「装い」だろう。「週刊新潮」の記事に「そちらがひどい記事を書いたのでしょう」と正義は我にありとのスタンスを示しつつ、一方では巻末の「編集部発」で編集長自らが筆をとって「善玉と悪玉。非常にわかりやすい。善が勝てば拍手喝采、負ければ悲憤慷慨、涙を誘う。小説の世界ならこれでいいのでしょう。ただ、現実はそう簡単に割り切れません」と世の中の割り切れ無さを訴えかける、この錯綜ぶりが韜晦でないはずがない。

 問題はこの高等戦術を理解できない「週刊新潮」が、いっそうの敵愾心を燃やしてかかって来ること、純真な読者が「週刊朝日」の不思議な記事に「拝啓 朝日新聞殿」と投書なんかを山と送ってせっかくの戦術が中止に追い込まれてしまうことだが、乗りかかった船ってことでもあるし、ますます「愚鈍」で「韜晦」な「芸」ある対応を見せて、「真の敵」なる権威をさらに引きずり下ろしてやって頂きたい。田中康夫さんを起用しての「愛知万博」批判記事は、これこそが直球ストレートな批判記事と言えるものだけど、今日日の権威がそんな程度では用意に説を曲げないのが吉野川河口堰でも諌早湾でも三番瀬でも明白。どうせだったら「愛知万博礼賛」と銘打ち「インターネット株推奨」と銘打つ記事をガボンガボンと掲載し、その奇天烈な振る舞いによって結果として対象を批判する戦術を、全誌的に拡大してみたらどうだろう、かつてない新しいジャーナリズムの手法が生まれるよーな気もするなー。


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